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2016年8月23日火曜日

(増補版)407E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)407E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、演劇:
・黙阿弥 「水天宮利生深川」千歳座で初演 (2月)
  水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)歌
 舞伎狂言が、1885年2月、東京の千歳座で、5世尾上菊五
 郎が初演した。
  明治維新による幕藩体制の瓦解を背景に、気が狂うほ
 どに生活に窮する士族・船津幸兵衛の悲劇を描いたもの。
  千歳座が開場するのに際して・・、
  近くにある水天宮の利益(りやく)を利かせ、
  作者・河竹黙阿弥が、実際に見た明治維新後の社会的
 悲劇を取り込んで、書き下ろした。
  旧幕臣の士族が、扶持(ふち)を失い、生活に窮し、
 妻に死に別れ、残された盲目の娘を頭に、赤子もいる子
 供たち3人を抱え、苦労しながら生計をたてる・・が、
  金貸しにも責められ、錯乱して川に身を投じる・・が
 ・・、
  作者の実見の光景を描写したので、世相を良く映し出
 し、評判となった。
1885年、発明:
・ベンツ(ドイツ)が、ガソリン自動車を発明した。
  ベンツと言ってもメルセデス・ベンツ社ではなく、ダ
 イムラー社のこと。
  困難な課題をすべてクリアし、ベンツは、ガソリンエ
 ンジンで走る三輪自動車「パテント・モートルヴァーゲ
 ン」を作り上げた。
  1885年に、試運転に成功し、
  1886年に、特許が認められ、
  これによって、ベンツは、世界初のガソリン自動車を
 造ったエンジニアとなった。
・丸善、万年筆を輸入、和製もできる(1884年説あり)
  丸善雄松堂株式会社のホームページに・・
  万年筆は、明治17年(1884年)、丸善が初めて輸入
 販売を開始。
  「カウスのスタイログラフィックペン」というもので、
 軸先に針が少しのぞいていて、
  紙に軸先をつけると針が引っ込み、周りからインキが
 流れ出るというものだった。
  当時の売り場担当者だった金沢井吉が、それに惚れ込
 み、彼の通称が「万吉」であったことから、
  スタイログラフィックペンのことを「万吉筆」、また
 は「万さんの筆」と呼ぶようになり、
  いつしか「万年筆」になったという説があるという。
  ちなみに、現在のような「Fountain pen(泉式)」を
 輸入したのは、1895年(明治28年)、米国製ウォーター
 マン万年筆でした・・とある。
・浅草でゴム印を作るのに成功。
  新聞に、浅草で製造されていたゴム印の紹介記事が載
 った。
  それまでは、ツゲ(黄楊)印や石印に印肉をつけて捺
 印していた。
  そして、その新聞の広告記事は・・
  「軽くていいと、有名な書家、画家から注文あり」(
 京浜毎日新聞)
・筆の軸にインキを入れる、字を書く道具を作った者あり。
 売れるかな(京浜毎日新聞)
1885年、医・衛生:
・パスツールが、狂犬病ワクチンを完成した。
  パスツールは、ワクチン療法の創始者だった。
  病原体を弱毒化する方法を開発し、ワクチンの製法を
 確立した。
  しかし、その結果を得るまでに、パスツールには研究
 の蓄積があった。
  1848年(26歳)結晶に関する論文を発表。
      酒石酸塩で立体異性体を発見。
  1856年(34歳)アルコール製造業者の依頼で、発酵の
     研究を始めた。
      アルコールを作らず、すっぱくなる液に微生
     物=乳酸菌がいることを発見した。
      さらに、細菌の培養法を開発した。
      低温殺菌法(1865年)を考案した。
  1860年(38歳)自然発生説を否定する実験結果を発表
     した。
  1870年(48歳)カイコの病気についての研究する。
  1876年(54歳)ビールに関する研究。
      ローベルト・コッホが炭そ病の病原菌を発見。  
  1879年(57歳)ニワトリコレラ菌の研究から弱毒性の
     病原体で免疫ができることを発見した。
  1880年(58歳)狂犬病の研究を始めた。
  1885年(63歳)7月6日、狂犬病にかまれたメイステル
     少年が来た。
      パスツールは初めて人間に狂犬病のワクチン
     を注射した。
      メイステルは回復した。
      世界中から狂犬病の患者が押し寄せた。
・長崎に於いて、1885年、コレラ流行後、下水道の大溝を
 改築し、中小溝・下水路の改修が行なわれた。
  また、大阪に於いて・・、
  大阪市の井戸の水質は、上町台地周辺を除き全体に悪
 く、
  1893年~1894年(明治26年~27年)に、元大阪市飲水
 試験所が調査した全市の井戸38707 の内飲料適は、僅か、
 1838にすぎず、
  多くの市民は、天満橋上流で採取した水を、簡単な濾
 過器を備えた濾水船で処理し、市内で販売された水を利
 用した。
  1879年(明治12年)頃のコレラの流行後、河川の飲用
 が禁止され、天満橋上流の河川水のみが許可され、
  1887年(明治20年)頃には、濾過河川のみが許可され
 た。
・萩野吟子(ぎんこ)が、女医となる(3月)
  1885年(明治18年)3月、後期試験を受験し合格。
  同年・1885年5月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」
 を開業。
  34歳にして、近代日本初の公許女医となる。
・全国的に麻疹(はしか)が流行し、東京では、芝居の子
 役不足となる。
  1885年3月に出版された「脱亜論」の一節に、以下の文
 がある・・、
  文明ハ猶麻疹ノ流行ノ如シ目下東京ノ麻疹ハ西國長崎
 ノ地方ヨリ東漸シテ春暖ト共ニ次第ニ蔓延スル者ノ如シ
 此時ニ當リ此流行病ノ害ヲ惡テ之ヲ防カントスルモ果シ
 テ其手段アル可キヤ我輩斷ジテ其術ナキヲ證ス
  (目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、
 春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。
  この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするに
 しても、果してその手段はあるだろうか? 
  筆者はその手段は断じてないことを保証する)
  因みに、脱亜論は、新聞『時事新報』紙上に、1885年
 (明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説。
  福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。
・南北戦争で負傷したペンバートンがモルヒネ中毒になる。
  ジョン・ペンバートンは、南部連合国軍人で、アメリ
 カ合衆国の薬剤師、コカ・コーラの発明者として有名。
・西道仙が長崎医会を創設(1884年10月31日説あり)。
  医会会長に長崎医学校の吉田健康、副会長に漢方医の
 西道仙。
1885年、科学:
・ウインクラーが、新元素を発見した。
 母国ドイツ(ゲルマン)にちなんでゲルマニウムと命名
 した。
  ゲルマニウムは、アルジロダイトから化学的に分離さ
 れた成分で、
  1885年、「新鉱物」として注目されていたアルジロダ
 イトだった。
  化学分析の結果が「銀:73~75%」「硫黄が17~18%」
 と、 成分の合計がどうしても100%にならなかった。
  ウインクラーは、「揮発して無くなってしまうような
 未知の元素があるはずだ」と考えた。
  アルジロダイトを熱して、空気中に揮発してくる物質
 を集め、そして、新元素を分離することに成功した。
  ゲルマニウムは、その性質から、エレクトロニクスの
 発展には、無くてはならない元素だった。
1885年、災害・防災:
・横浜市で日本で最初の消火栓を設置した。
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道で・・、
  横浜のような港湾都市にとっては、船舶への給水とい
 う機能の上で不可欠なものであった。
  海に接し、真水が得られる井戸の少ない横浜に、
  開港場を整備しようとすれば、水の確保は重要な課題
 だった。
  最初の配水地域は、市中心部のみで、街頭に設置した
 十数軒が共用する獅子頭を持つイギリス製共用栓を用い
 て配水した。
  給水開始時の共用栓数は143基、
  他に、消火栓を629基設置した。
  共用栓は、最盛期には、600基が、横浜市内各所に設置
 された。
  当時の日本では、日常の水には、井戸水を利用する場
 合が多く、
  水道を引くという考えは一般的ではなく、
  また、屋内に蛇口を引くという習慣もなかった。
  そのため、水道の水は、路頭の共用栓(獅子頭共用栓)
 から供給を行っていた。
  日本最初の近代水道となった横浜水道は、1885年~1887
 年(明治18年~20年)が創設期だった。
  創設期の600基は、イギリス・グレンフィールド社から
 輸入された。
  (タイムスリップよこはま)より抜書き
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカが、日本に先制攻撃した・・などを、
   もう一度、その概略を説明すると・・、
.
  キリスト教に偏するNHKの元職員・池上彰は、オバ
 マ大統領が広島に来て謝罪したとき、
  その翌日に、「緊急テレビ解説だ」と称して、テレビ
 に出て、、解説風に発言をした。
  「広島・長崎に原爆が投下されたのは、真珠湾の奇襲
 攻撃をしたからだ」・・と、
  卑劣にも、これは、アメリカがデッチ上げた嘘の話を
 そのまま鵜呑みにしている。
  何も知らない日本の方々へ「嘘発言している」。
  さも正しいように、池上彰は、解説と称して、この様
 に発言した。
  さも正しいように錯覚させて、発言した。
  池上彰は、まだ、今になっても、アメリカのデッチ上
 げの嘘話を、既にそうではないとはっきりしていること
 を、自分の勉強不足を・・、時代遅れの事を、わざわざ
 テレビに出て、言った。
  アメリカの代弁者の様に・・、
  ゴマすり代弁を、国民の電波を使って、オバマ大統領
 の広島訪問の翌日に、緊急だと称して言った。
  このアメリカのデッチアゲ話が、嘘話だという事は、
 数々の歴史の検証から、日本の奇襲ではないと、
  日本の奇襲とは認められないとされている。
  東京裁判でさえ、『奇襲だとしていない』。
  奇襲ではなく、「単なる事務上の遅れだ」と判決して
 いる。
  デーブ・スペクター氏の発言、「知識のある人、深い
 本を読むアメリカ人は分かっている」と言っている。
  また、氏は、「アメリカは、(嘘の話をし続けて)神
 話を作ろうとしている」と言っている。
  また、この時、日本の潜水艦は、日本の連合艦隊より
 先行して、真珠湾に侵入して行った。
  その日本の先行していた潜水艦を、アメリカの駆逐艦
 が発見して、そのアメリカの駆逐艦は、日本の潜水艦を
 攻撃している、先制攻撃をしている。
  日本の潜水艦は、数隻、先行していたが、そのすべて
 が、未帰還になっている。
  その日本の数隻の潜水艦を、アメリカは先に攻撃して
 いる。
  このアメリカの駆逐艦に攻撃された日本の潜水艦は、
 当然、この時にやられて、未帰還となった。
  そして、油などが海上に浮き上がり、判別可能状態に
 なった。
  また、このアメリカ駆逐艦の様な戦闘艦は、ただ攻撃
 して「はい、終わりました」と去る訳ではない。
  戦闘終了したと、終わったと、子供の喧嘩の様に直ぐ
 に去る事はしない。
  攻撃は、「効を奏したのか?」「その攻撃効果はどの
 程度相手にダメージを与えたか?」などを、留まって確
 認する。
  だから、この様に、戦雲極まる時には、特に、日本と
 の一戦が触発されそうな時は、特に、
  その様なときに、「ぼけっ」となんかしている訳は絶
 対にない。
  警戒して航行し、臨戦態勢をとっている。
  アメリカのその任務にあたる駆逐艦が、戦闘艦が、攻
 撃効果を確かめようとしているとき、今、攻撃したのは
 日本以外の船と思うか? 思う訳がない。
  また、めったやたらに、花火を打ち上げる様に、攻撃
 をする訳もない。
  ちゃんと、攻撃対象を認知し、計測し、攻撃対象物の
 位置、種類を認知して、効果のある攻撃をする。
  攻撃後の確認もする。
  そして、それらの結果を基地へ連絡・報告する。
  「こちら○○、△△の位置にて、日本の潜水艦を攻撃
 せり、
  油などの浮上から、攻撃効果、大なるものと判断され
 る」・・と。
  基地は、当然、ペンタゴンへ連絡・報告し、ペンタゴ
 ンは、アメリカ政府機関へ連絡・報告し、
  そして、当然、アメリカの最高機関・大統領ルーズベ
 ルトへも連絡・報告される。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この時、日本と戦
 争する事を画策していた。
  この事は、新たな資料から明らかとなっているが、そ
 して、日本の奇襲をデッチアゲテ、アメリカ国民の方々
 の世論を変えたいと思っていた。
  「戦争をしない」というアメリカ世論を変えたいと思
 っていた、その為にも、「日本の奇襲をでっちあげたい」
 と思っていたところだった・・、
  この日本の先行した潜水艦は、アメリカの駆逐艦が攻
 撃し、アメリカのこの攻撃によって、日米が開戦状態に
 なった事にはしたくなかった・・当然、
  そのため、このアメリカ駆逐艦の攻撃は、「クジラだ
 った」となった。
  まったく、馬鹿々々しい話である。
  未帰還の『すべて』の日本の潜水艦は、クジラだった
 とされた・・?・・呆(あき)れた話となった・・、
  バカも休み休み言えと言いたい。
  鋼鉄の潜水艦が、肉と脂肪のクジラと間違う訳がない。
  事前に探索し、探査し、攻撃の必要を判断する。
  それを、クジラだとした。
  日本の漁師の魚群探知機だって、魚の種類まで分かる
 のだ・・船とクジラの見分けがつかない訳がない。
  それも、玄人(くろうと)の軍人が乗艦している軍艦
 が・・?
  日本の潜水艦は、何隻もが未帰還なのだが、交戦状態
 もあった訳だが、アメリカはクジラにした。
  そして、秘密にした。
  この時、アメリカは、日本の領土だった千島列島から、
 日本の連合艦隊が、ハワイへ向けて発進していたことを
 検知していた。
  一戦触発の時に、敵となろう相手の最大戦力に無関心
 である訳はなく。
  アメリカは、日本の最大戦力の連合艦隊の行動に、最
 大の関心を示していた、当然に・・、
  そして、把握していた。
  日本の艦隊の通信を完全に傍受し、その艦隊の位置を、
 逐一、その変わる位置を掴んでいた。
  奇襲だなんて、でっち上げるのは赤子の手をひねるが
 如くの嘘の話だ。
  日本だって、アメリアの最大の戦力の動向を掴んでい
 た。
  だから、ハワイへ向かったのだ。
  今、ハワイに集結している・・と。
  また、アメリカは、日本がハワイに攻めて来ることを
 事前に予想して、事前に、対策・対抗の演習をしている。
  だから、日本は、ハワイにおびき出されたとも言える。
  肝心の空母のすべてを、アメリカは隠していた。
  日本の戦果の中に空母は一隻もない。
  だから・・、ただ、ぼけっと、攻められた・・奇襲だ
 った・・などとなる訳はない。
  奇襲だなんて話は・・まったく、ばかげた話なのであ
 る。
  日本は、ハワイにおびき出された。
  また、アメリカは、中国で飛行機で日本を攻撃してい
 る。
  中国で、アメリカは、日本を先制攻撃をしている。
  これこそ、アメリカの奇襲攻撃である。
  日本が、「アメリカに奇襲攻撃された」と言えるのだ。
  そして、これが日米開戦となったのだった。
  あまり、知られてないが。
  まだまだ、日米開戦の初めは、真珠湾ではないという
 史実がまだまだある。
  アメリカは、アメリカ国民の方々が、戦争をしてはな
 らないという意見だった、世論だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦争を作った」
 と自分の思惑を吐露し、しゃべったように、
  このアメリカ国民の方々のこの世論を、変えなければ
 と、卑劣にも変えたいと考えた。
  そして、日本が悪者にされた。
  ヨーロッパは、ドイツがほぼ制圧し、イギリスに上陸
 する気配があった。
  そんな時でも、アメリカ国民の方々は、戦争はいけな
 い、戦争をしてはいけないとなっていた。
  そこで、日本を悪者にして、アメリカ国民の方々の正
 義感を使おうと、悪の計略(けいりゃく、相手をだまそ
 うとするたくらみ)を、ルーズベルトは巡らせた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月22日月曜日

(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年、報道:
・アングロ・ジャパニーズ・エヴィユ(9月27日)
 日本人が編集した最初の英字新聞。
 大阪で発行された。
1885年、論・文学・本:
・福澤諭吉 「日本婦人論.後編」
  封建的観念からの人民の解放は、福沢生涯の宿願であ
 った・・が、
  日本の家庭に於ける、婦人の地位は、旧態依然たるも
 のがあったので、
  これが、解放のために立論したものが「日本婦人論」
 であった。
  明治十八年六月四日から十二日まで、八回にわたり時
 事新報社説として発表せられた。
  われわれは、この論説の単行本を未だ目挙したことは
 ない。
  明治三十一年、福沢生前に刊行された五巻本「福沢全
 集」の第五巻には、「日本婦人論後編」の前に収められ、
 大正十五年版「福沢全集」第六巻にも、後編と併せて収
 められ、
  そのときには、「明治十八年七月発免」と記されてい
 るが、これは果して何に拠って斯く記したものか明らか
 でない。
  当時の時事新報広告などによって、われわれの探索し
 た限りでは、「日本婦人論」が、単行本として刊行され
 た証跡は見当らない。
  しかし、福沢の残後、年月を経るに従って、次第に福
 沢の婦人解放論の代表的著作と目され、
  いろいろの形で、他の婦人解放論と併せて複刻出版さ
 れるに至った。
  「日本婦人論後編」は、明治十八年七月七日から十七日
 まで十回にわたって時事新報社説として発表せられた。
  この頃の社説は、すべて漢字片仮名まじりのやや固い
 文章で綴られるのが常であったが、
  この後編に限り、平仮名まじりの平易な文体で婦人に
 読み易いようにと配慮が加えられた。
  この後編は、その翌月に、四六版洋紙活字版の小冊子
 として刊行せられた。
  紅洋紙の薄い表紙で、「福沢諭吉立案/中上川彦次郎筆
 記/ 日本婦人論後編全一冊/明治十八年八月出版」の文
 字を飾り枠で囲ってある。
  序言二頁、本文六十三頁、奥附一頁、巻末に広告四頁
 を附けている。
  奥附には「明治十八年七月十五日出版/同年同月出版/
 定価金十七銭/抜萃兼出版人大分県士族石川半次郎東京
 日本橋区通三丁目十一番地寄留」と記し、その左側に売
 捌所書店名が列記してある。
  奥附の署名人石川半次郎は当時の時事新報発行名義人
 で、その寄留先は時事新報社の所在地である。
  巻末の広告頁は黄色の紙を用い、第一頁が時事新報の
 広告、二頁以下が発免書目録で、慶応義塾出版社および
 時事新報社の出版書目を掲げ、発売所として時事新報社
 と中近堂との名を併記してある。
  (日本婦人論. 後編 - Keio Universityより)
・田口卯吉 「日本開化之性質」 (9月)
  田口卯吉は、明治の経世家(けいせいか、経世の論を
 説いた知識人)。
  福沢諭吉と並び称せられた啓蒙思想家。
  号は鼎軒。黄東山樵・畠山機知・田口十内・牛嶺逸士
 のペンネームをもつ。
  経済学者・歴史家であるほか雑誌主宰者・史料編纂者・
 政治家・実業家でもあり、その活動領域は多彩である。
  学者であると同時に実践家でもあり、森鴎外からは、
 西洋と東洋に通じた「二本足の学者」と敬称された。
  江戸生れ。佐藤一斎の曾孫。下級幕臣の子で、しかも
 幼年で母子家庭となり、
  明治以降、ひどい困苦流浪生活の中で英学・医学を学
 んだ。
  1872年(明治5年)大蔵省翻訳局上等生徒となり、
  1874年、同省紙幣寮に出仕、
  1878年、退官する。
  在職中は、英書翻訳のかたわら経済学や開化史を修得
 しつつ、著述や新聞投書で保護貿易政策を批判した。
  1878年、「自由交易日本経済論」を刊行し、経済自由
 主義を唱えた。
  この主張は、1879年創刊の「東京経済雑誌」上で精力
 的に展開された。
  1877年~1882年に、「日本開化小史」を出版し、一躍
 文名を顕す」(日本思想史辞典[2009:624])
・有賀長雄 「文學論」
  有賀長雄(あるがながお)は、明治・大正期の国際法
 学者、外交政治史家、社会学者、陸軍大学校教授、早稲
 田大学教授。
  1913年(大正2年)、袁世凱に招かれて渡中、大総統法
 律顧問として清国憲法制定に尽力した。
・坪内逍遥著『当世書生気質』分冊刊行(6月)
  坪内逍遥は、かねて『遊学八少年』という戯作の構想
 を抱いていた。
  勧善懲悪を否定し、写実主義を主張した文学論『小説
 神髄』の執筆に続いて、
  1885年(明治18年)4月に書き始め、6月に『一読三歎
 当世書生気質』第1巻を刊行。
  好評のため翌年・1886年1月までに第17巻を刊行した。
  明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼
 として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ
 様子も描く。
  日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開
 された理論の具体化であるとされる。
  ただし、文体は、戯作の影響が強く、芸妓が筋の中心
 には上野戦争(彰義隊のたたかい)で生き別れになった
 兄妹の再会など、通俗的な側面もあったので、作者は晩
 年『逍遙選集』を編集したときに、この作品などの小説
 類をすべて〈別冊〉にくくりこんだ。
  この小説は、当時から世評が高く、長く読み継がれた
 ため、作中の〈野々口精作〉なる人物のモデルと誤解さ
 れるのを苦にした野口英世が、清作という本名を英世に
 変えたという。
・坪内逍遥著『小説神髄』第一冊刊(9月)
  明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを
 汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するため
 の政治小説が中心だったが、
  『小説神髄』は、道徳や功利主義的な面を文学から排
 して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義
 を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与し
 た。
・坪内逍遥 「妹と背鏡(いもとせかがみ)」
  「妹と背(いもとせ)」は夫婦、「かがみ」は映し出
 す意味。
  つまり夫婦の生活を描写するという意味。
  この小説は、「自由恋愛」で結婚した夫婦と、親の都
 合で結婚させられた夫婦のいずれもが、不幸な結婚生活
 を送る様子を、逍遥自身の小説論に忠実に写実主義で再
 現しようとしている。
・東海散士『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』刊(10月)
  佳人(かじん)は、美しい女性の意味で、
  会津の遺臣である東海散士が、アメリカにわたり、フ
 ィラデルフィアの独立閣でアイルランドの美女紅蓮、ス
 ペインの貴女幽蘭にめぐりあうのが発端で、
  後に、中国の明朝の遺臣も加わる。
  いずれも、亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進も
 うとするかれらの交情が描かれる。
  なお、この話の中でハンガリーのコシュートが亡国の
 代表として各編に登場する。
  東アジア経営にかんする意見、世界の地誌、世界史へ
 の注釈などが加わり、前半では、小国が大国に依存した
 状態では民族的解放ができないこと、
  小国の国民は、国を守る気力を持たなければならない
 こと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説か
 れている。
  後半になると、作者自身が、谷干城に随行してヨーロ
 ッパを視察したときの体験が混ざり、また、金玉均との
 交友から朝鮮半島をめぐる議論や、日清戦争後の三国干
 渉をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになり、佳人
 の面影は作品からは遠ざかっていく。
・近藤瓶城編『史籍集覧』正編刊了
  岡崎藩の儒者近藤瓶城が、編纂した江戸時代までの日
 本の国史の叢書。
  1881年~1885年刊。1900年~1903年の改定版では、全
 465種1135巻。
  群書類従に漏れた諸書を通記、纂録、別記、雑類に分
 けて収録した。
・三遊亭円朝 「塩原多助一代記」
  創作された落語・人情噺。
  実在の塩原太助をモデルにした立身出世物語。
・植木枝盛 「貧民論」
  植木は、青年時代から独自のアジア主義(小国主義、
 アジア連合論)を説き、
  興亜会(日本、支那、朝鮮等東洋の団結」を目的とす
 る)の会報をよく読み、
  アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と言った。
  アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
  改革アジア同士の連携を志向し、具体的には通商貿易
 という手段でのアジアの独立振興を志向した。
  新聞で、キリスト教を痛烈に批判した。
・硯友社創立、『我楽多文庫』創刊(2月)
  近代日本文学で初の文芸雑誌。
  同人雑誌の先駆。
  硯友社の機関誌。
  硯友社(けんゆうしゃ)は、1885年、尾崎紅葉、山田
 美妙、石橋思案、丸岡九華によって発足した文学結社。
  「我楽多文庫」を発刊した。
  川上眉山、巖谷小波らが参加し、当時の文壇で大きな
 影響を与えた。
  1903年(明治36年)10月の紅葉の死によって解体した。
  近代文体の確立など、その意義は大きい。
・『女学雑誌』創刊(7月)
  1885年7月20日、創刊された日本初の本格的女性誌。
  1885年(明治18年)7月~1904年(明治37年)2月まで、
 526号、計548冊刊行された。
  巌本善治が長く編集人を勤めた。
  『日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを
 希図す』と創刊号の『発行の主旨』にある。
  『女学』とは、『女性の地位向上・権利伸張・幸福増
 進のための学問』とされる。
  (参考)希図:きと、希望して計画すること。
1885年、歌・流行・世相:
・歌 :琵琶歌 「南洲追憶」(作:勝海舟)
・髪:束髪(そくはつ)
  日本髪と並んで普及した女性の結髪の一つ。
  この束髪は、当時の鹿鳴館(ろくめいかん)時代の影響
 もあって女学生の間に人気を博した。
  その束髪は、洗い髪を香油を用いて整え、それから額
 中央から髪を左右に分け、後頭部で一度束ねてから三つ
 編みとし、それから髷をつくり、「西洋下げ髪」「西洋
 上げ髪」「マーガレイト」「伊太利(イタリア)結び」な
 どにまとめあげた。
  「夜会(やかい)巻き」もこれから出た髪形の一つ。
・生活:麦藁帽子値上り
・生活:馬の飼育奨励
  この年の記録から・・、
  獣医開業試験規則制定。
  戦時病馬厩服務規則制定。
  陸軍の馬医部馬医を獣医部獣医に改称。
  馬医生を看馬長へ改称。       
  民有種牡馬、牛取締に関する規則公布。
  宮内省が、藤波言忠子爵と新山荘輔子爵をヨーロッパ
 牧畜視察に派遣。      
  下総種畜場、宮内省への移管により下総御料牧場に改
 称。
  大日本獣医会発足。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
・産業:大麦作盛ん
  北海道の事例・・、
  農業経営を安定させる施設については、逆に積極的な
 方策がとられた。
  すなわち、共立商社の設立、備荒貯蓄制度の実施、輪
 作・牧畜の奨励などが主なもので、特に、輪作補助規程
 を設けて、大麦・大豆・あわなどの輪作を奨励し、
  地力の維持増進、略奪農業の防止に努めた。
  このように、直接的な援助の廃止にかかわらず、この
 地に残った移住者たちは、自立経営の意欲も盛んになり、
 それ以後、作付反別および収穫高は飛躍的に増加し、殊
 に、産馬の振興によって牧草・えん麦などの飼料作物は
 急激に増え、
  1902年(明治35年)には、総作付面積の4割強を占め
 るに至る。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
.
  (今日の言葉)
.
題:アメリカの非人道的攻撃の一例:無実の一般市民殺戮
.
1944年11月14日、アメリカの非人道的なじゅうたん爆撃
  この日、東京が、初めて、アメリカによる爆撃を受け
 た。
  無実の一般市民に対する無差別爆撃の国際法違反行為
 だった。
  アメリカは、国際法違反の無実の一般市民を殺戮をす
 る。
  日本は、ハワイの攻撃の時は、一人も一般市民の殺戮
 はしていない。
  アメリカの方々の殺戮はしていない。
  この時、アメリカ軍が、誤射で、自国民のアメリカ市
 民を殺戮しているが・・。
  この東京の様な卑劣なアメリカの市民ターゲット行為
 は、日本全国の都市で、この国際法違反の無差別爆撃を
 行なった。
  東京だけに関しても、以下の様な事が行なわれた・・、
  東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回もの
 爆撃・空襲を受けたが、
  106回もの回数、無実の一般市民をターゲットにした殺
 戮行為がなされた。
  特に、1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、
 5月24日未明、5月25日~26日の5回は大規模だった。
  その中でも、「東京大空襲」と言った場合、死者数が
 この1回の攻撃で、10万人以上と著しく多い1945年3月10
 日の空襲(下町空襲)を指すことが多い。
  この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた。
  そして、この空襲の体験をした・・、
  芸人の毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)氏は、
 (読売新聞、2016年8月13日)で、以下の様な事を言う。
  第二次世界大戦時の空襲のことを言う・・、
  「警報が鳴ったと思ったら、焼夷弾がバラバラ落ちて
 きた。
  『もうだめだ、逃げよう』って、おふくろと逃げ始め
 た。
  火が強い風にあおられるのでとにかく熱くてね。
  『こんなに苦しいんなら死んだ方がいい』と俺が言っ
 たら、
  『死ぬために逃げてんじゃないよ。生きるために逃げ
 るんだから、そんなこと言うもんじゃないよ』って
 お袋に叱咤(しった、大声を張り上げてしかりつけるこ
 と)された」。
  「逃げる途中で、革の靴が落ちていて拾ったんだけど、
 片方が重いなと思ったら、足首が入っていた。
  無我夢中でその足首を抜いて、靴を履いた覚えがある。
  東京の空は真っ赤だった」・・・。
  「翌日は、一面焼け野原だから、どこが自分の家かな
 んてわからない。
  防空壕を見つけて、ふたを開けた。
  5人ほどが俺をにらみ付けているから、『空襲は終わっ
 たよ』と声をかけたよ。
  でも、動かない。
  よく見ると、息をしていなかった。
  肌がロウ細工のように白く、眼だけがぎょろっとして
 いた」・・・。
  「空襲の最中には、『俺たちは兵隊じゃない』。
  『何で焼夷弾が落ちて来るんだ』って気持ちが、何度
 も湧いた」・・・。
  (世界で一番悪いことをしたのはアメリカ、無実の一
 般市民の大量虐殺・殺戮)
  キリスト教に偏するNHKの元職員の池上彰は・・、
  これも、日本が真珠湾攻撃をしたからと言うのか?
  池上彰は、原爆投下は真珠湾攻撃をしたからと言った。
  真珠湾攻撃は、このブログでも、色々と、数おおく、
 奇襲攻撃ではないとはっきりした証拠で説明しているが
 ・・、
  また、日本の先制攻撃ではないと証明もした。
  この卑怯な言い方をする池上彰は、何でもかんでも、
 日本が真珠湾攻撃をしたからと、テレビで「解説だと誤
 魔化す番組で」言っている。
  アメリカが、先に先制攻撃していたことも、色々な資
 料から、明らかになっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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2016年8月21日日曜日

(増補版)405E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)405E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、食:
・三田育種場『再植馬鈴薯の記』を刊行した。
  11代将軍・家斉(いえなり、在位:1787年~1837年)
 の頃、
  蝦夷地の探索中の最上徳内が、ロシア人からジャガイ
 モをもらう。
  家斉の治世、最後の頃、大飢饉(1833年~1839年、天
 保の大飢饉)となる。
  蘭学者の高野長英は、1832年、飢饉対策として作られ
 た研究会に入り、中心的役割を果たした。
  救荒作物として、蕎麦と馬鈴薯(じゃがいも)の栽培
 を奨励した「勧農二物考」という書物は、この成果だっ
 た。
  1871年(明治4年)、北海道で、今度はアメリカから
 もたらされたジャガイモの試作が始まった。
  1885年(明治18年)には、ジャガイモの作付けに拍車
 がかかり、全国に普及した。
  そして、この年、東京の三田育種場が『再植馬鈴薯の
 記』のパンフレットを作って配布した。
  これには、栽培の仕方はもちろん、調理法まで記述し
 てあった。
・大阪の屠牛数12,676頭に達し、同年の日本全屠牛中数の
 約80%を占めた。
・グラバーの息子の倉場富三郎が、長崎に製氷会社を設立
 した。
  1859年、横浜開港以来、幕末横浜の外人居留地に、米
 国ボストンの天然氷が、アフリカの喜望峰を大迂回して
 半年がかりで、1万5千海里の海原を渡って、日本に輸入
 された。
  主として、外人の医療用等に使われた。
  当時、横浜に到着したボストン氷は、ビール箱の大き
 さで黄金3両(30万円)した。
  日本には、中川喜兵衛という天然氷事業を興した人物
 がいた。
  中川喜兵衛は、1817年(文化14年)、愛知県三河に生ま
 れた。
  中川喜兵衛は、京都に学び、40歳で、江戸で英公使館
 のコックとなった。
  医師ヘボンから、氷が、医療用・食品保存にきわめて
 有益であると教わり、
  天然氷の事業化に執念を燃やした。
  まず、横浜で、牛乳販売所を開業して資金を蓄積した。
  そして、1861年(文久元年)、氷事業を始めた。
  1861年の最初の試みは、富士山麓鰍沢に、165㎡の製氷
 池を造り、100㌧2千個の氷塊を得て、採氷し搬出した。
  木箱に、オガ屑をつめ、氷を包んで馬の背で運び、静
 岡・江尻港より、日本の帆船2隻で、横浜へ輸送した。
  しかし、 途中難航し、横浜に到着した時は、僅か8㌧
 となり、1715両(約5億円)の損失となった。
  2度目の試みは、2年後の1863年、信州の諏訪湖で、湖
 水氷の採氷、輸送を試みたが、再び、失敗した。
  3度目の試みは、1864年(元治元年)「日光赤城」の名
 で、56里を馬で運び、高瀬川を下り、横浜に運んだが、
 製造、輸送費を回収できずに失敗した。
  4度目の試みは、翌年・1865年(慶応元年)陸中釜石で
 300㌧採取し、帆船で横浜へ送ったが、約1割の30㌧しか
 残らず、採算とれず、失敗した。
  5度目の試みは、翌年・1866年(慶応2年)青森県で採
 氷したが、運搬船が外国船しかなく、その費用捻出不能
 で空しく氷を溶解してしまった。
  6度目の試みは、今までの失敗が、すべて輸送の不備に
 よることを反省し、ヘボンの強い激励によって、他の業
 務をなげ打って、 用意周到に計画を練り、米国技師を
 招聘し、函館の榎本武揚の援助を得て、
  北海道開拓使(今の北海道開発長官)黒田清隆より、五
 稜郭における7年間の採氷専取権を得て、全財産を投入し、
  1867年(慶応3年)北海道函館にわたり、6回目の挑戦を
 したが、
  暖冬のため薄い氷しかできず、250㌧の氷を横浜に回送
 して大損失、 窮乏のどん底に陥入った。
  そして、第7回の挑戦を試みた。
  1869年(明治2年)ついに、純良な500㌧の氷の採氷に成
 功した。
  氷の厚さ40センチ(1尺3寸)、これを外国船を仕立てて
 京浜地区に輸送し販売した。
  大成功だった。
  五稜郭の外濠は水質が良く、運搬の便も良かったこと
 が幸いした。
  ボストン氷と競争状態になったが、わずか1年で、外国
 氷を駆逐した。
  翌年・1870年(明治3年)600㌧、1882年(明治15年)
 3,400㌧を採氷するまでになった。
  当時の氷は、1㎏約7銭、米1㎏3.5銭、
  氷は、米の約2倍の価格だった。
  その後、台湾、清国、韓国、シンガポール、南洋、イ
 ンドまで輸出した。
  中川は、米国から氷採取機械を輸入し、完全な氷製品
 を出荷し、内国博らん会の大賞を受賞した。
  また、宮内庁ご用達に採用され、五稜郭氷の名声を高
 めた。
  この中川の成功を聞き、全国的に採氷池が続出し、天
 然氷事業の普及・発展がもたらされた。
  日本の機械製氷は・・、
  有名な話として・・、1870年(明治3年)夏、福沢諭吉
 は熱病でかなり苦しんだ。
  たまたま、福井藩主・松平春獄公が、外国製の小型製
 氷機を所有していた。
  それが、遊休していることを、慶応義塾の塾生が知り、
 これを借りて少量の氷を造り、
  諭吉の解熱に使ったのが日本の機械製氷の始まりであ
 った。
  1879年(明治12年)オランダ人のストネーブリングが、
 横浜に、最初の機械式製氷工場(日産能力3㌧)を設立し
 た。
  1887年(明治16年)日本人による日本最初の製氷会社
 が、東京京橋新富町に建設された。
  東京製氷会社(日産能力6㌧)だった。
  以後、天然氷と機械氷の激しい競争が始まった。
  1889年(明治22年)当時の氷価は、12貫匁(45㎏当り)
 五稜郭天然氷80銭、日光天然氷70銭、神奈川天然氷65銭、
 機械氷60銭・・だった。
  この年・1889年(明治22年)五稜郭の貸与規則の変更
 により、天然氷の採取も中止となり、
  中川氏は、機械製氷時代への移行を看破し、
  自ら、東京機械製氷会社を設立計画し、
  1898年(明治31年)東京業平橋に、事業を開始したが、
  中川氏本人は、前年の1897年(明治30年)1月4日、東
 京越前堀の自宅で、80才で他界された。
・経営破綻したビール会社スプリング・バレー・ブルワリ
 ーをグラバーらが買取る。
  スプリングバレー・ブルワリーは、キリンビールが展
 開するオリジナルのクラフトビールを提供する店舗だが
 ・・、
  1870年(明治3年)ウィリアム・コープランドが、横浜・
 山手に日本初のビール醸造所として設立した。
  だが、その後、スプリングバレー・ブルワリーは破産
 する。
  1885年(明治18年)に、「ジャパン・ブルワリー・カンパ
 ニー」へと経営が移った。
  1888年(明治21年)に、「キリンビール」というブラン
 ド名のビールを発売した。
  そのジャパン・ブルワリーから経営を引き継いで、
  1907年(明治40年)2月23日に、現在の麒麟麦酒が創業
 した。
  スプリングバレーブルワリーは、キリンビールの起源。
 そして、コープランドは、その生みの親。
  スプリングバレーブルワリーのあった場所は、横浜・山
 手の外人墓地や、港の見える丘公園の近くで、
  当時、山手居留地123番地と呼ばれていたところ。
  ここに、ビール工場が建設された理由は、美味しい天
 然水が湧き出る場所だった。
  小高い丘の上にある港の見える丘公園付近から海側は
 急な斜面になっているが、
  ビール工場があった所は、ちょうど谷間(バレー)に
 なっていて、湧水(スプリング)が湧き出していた。
  そして、スプリングバレー・ブルワリーと名付けた。
1885年、住:
・摺附木(マッチのすりつけぎ)に黄燐使用を禁止した。
  黄麟は、湿った空気中では自然に燃えだし、猛毒。
  摂氏55度(55℃)で発火し、五酸化二リンの白煙をあ
 げながら激しく燃える。
  1830年に、フランスのソーリアが黄燐マッチを発明し
 た。
  これは、頭薬をどんなものにこすりつけても発火する
 ため普及したが、その分、自然発火が起こりやすく、
  また、黄燐がもつ毒性が問題となって、
  製造者の健康被害も、社会問題化した。
  そのため、19世紀後半に、黄燐マッチは禁止されてゆ
 き、
  1906年、スイスのベルンで、黄燐の使用禁止に関する
 国際会議が開かれて、黄燐使用禁止の条約が採択された。
  欧米各国は批准した。
  しかし、マッチが有力輸出商品だった日本は、加盟し
 なかった。
  結局、1921年(大正10年)になって、ようやく、日本
 は、黄燐マッチの製造が禁止した。
  その後、赤燐を頭薬に使用し、マッチ箱側面にヤスリ
 状の摩擦面をつけた赤燐マッチが登場した。
  19世紀半ばに、側面に赤燐を使用し、発火部の頭薬に
 塩素酸カリウムを用い、頭薬を側薬(横薬とも)にこす
 りつけないと発火しない安全マッチが登場した。
・東京瓦斯株式会社が設立された。
  沿革・・、
  1872年(明治5年)横浜で、日本初のガス事業が始まる。
     高島嘉右衛門により、馬車道通りに街灯として
    ガス燈が灯ったことに始まる。
  1874年(明治7年)東京府芝区浜崎町(現港区海岸、現
    本社所在地、当時金杉橋)で、ガス製造工場が稼
    働し、銀座通りにガス灯が点灯。
  1876年(明治9年)東京府瓦斯局が開設された。
  1885年(明治18年)10月、当時の東京府から、東京府
    瓦斯局の払い下げを受け、渋沢栄一、浅野総一郎
    らによって、東京瓦斯会社として創立された。
・横浜市初めて鉄管使用の上水道を設ける。
  横浜は、今の、特区的な地域だった。
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道として存在し
 た。
  神奈川県知事は、英国人技師H.S.パーマー氏を顧問と
 して、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に完成した。
  1887年(明治20年)10月17日に、給水が開始した。
  戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口は、
 日増しに増加し、市街は急激に発展した。
  当時、住民は、水を求めて井戸を掘ったが、
  横浜は、海を埋め立てて拡張してきたので、良質な水
 に恵まれず、ほとんどの井戸水は、塩分を含み、飲み水
 には適さなかった。
  1890年(明治23年)の水道条例制定に伴い、水道事業
 は、市町村が経営することとなり、
  同年・1890年4月から、横浜市に移管され、市営として
 運営されるようになった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:国を売る・・金の力で、だんだんと牛耳られて行く・・
.
19世紀、ヨーロッパで、金の力を使って、国を乗っ取るこ
 とが行われた。
  それが、20世紀になると世界中で行われ出した。
  かつては、アメリカが、ヨーロッパ資本によって、乗
 っ取られていた。
  それが、今では、アメリカが、盛んにやっている。
  そして、今、中国が、その手をやり出している。
  最近、アメリカのシカゴの新聞社の資本が中国になり
 (乗っ取られて)、中国に都合の良い記事が書かれ出し
 ている。
  日本の朝日新聞は、日本を売る、国を売る様な事をし
 ているが、
  嘘の記事まで書いてやったが、
  それも、何年も経って、やっと作り話だったと白状す
 る、認めるという卑怯な、卑劣な始末となったが、
  この様に、謝罪をしたって、海外版では、今でも、そ
 の謝罪はなんのその、日本を売るような記事を、今だに
 出しているという状態。
  何か?その様にする理由があるのか?
  金の力が働いているのか・・?
  中国は、金の力で、あちこちに手を伸ばしているが、
 沖縄が、この洗礼を受けている。
  この金の力に負けた輩が増えている。
  今、アメリカは、やられていた時代もあったが、やっ
 ている方になっている。
  やられている時は、ヨーロッパ資本に、企業が、どん
 どん買い取られて、アメリカ議員まで、連邦議会の議員
 たちまで買収された。
  色々な手段で、色々、金の力の影響を与え、その国の
 経済や、政治を牛耳って行く状況が現れている。
..
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2016年8月20日土曜日

(増補版)404E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1885年1月)

題:(増補版)404E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、出来事:
・明治天皇陛下が、山陽道を御訪問された。
  明治天皇陛下は、山陽道巡幸で・・、
  1885年(明治18年)8月3日、広島国泰寺高校の前身で
 ある広島中学校へ立ち寄られた。また・・、
  1885年(明治18年)8月7日、明治天皇陛下は、山陽道
 御巡幸の折、吉井川磧にて休憩され田植えの様子を御覧
 になられた。また・・、
  1885年(明治18年)8月8日、明治天皇陛下は、山陽道
 巡幸の途中、船坂村梨ヶ原の瀧川武平宅にて休憩された。
  因みに、明治天皇陛下の地方巡幸は、すべてで97件(
 うち、即日還幸37件)に達する。
  6大巡幸が・・、
  (1)1872年(明治5)5月23日~7月12日、近畿・中国・
      九州地方、
  (2)1876年6月2日~7月21日、東北地方(函館を含む)、
  (3)1878年8月30日~11月9日、北陸・東海道地方、
  (4)1880年6月16日~7月23日、中央道地方、
  (5)1881年7月30日~10月11日、東北・北海道地方、
  (6)1885年7月26日~8月12日、山陽道地方・・
・初代内閣総理大臣、伊藤博文、第1次伊藤内閣:1885年
 (明治18年)12月22日~1888年(明治21年)4月30日
1885年、経済・金融・貿易:
・日本銀行券(兌換銀行券)の発行が開始された。
・この年、綿布の国内生産額が、輸入額を上回った。
1885年、産業:
・秋田の阿仁鉱山が開業した。
  阿仁鉱山(あにこうざん)は、秋田県北秋田市にあっ
 た鉱山で、金、銀、銅が採掘され、
  特に、銀鉱、銅鉱の産出が多く、
  1716年(享保元年)には、産銅日本一となり、長崎輸
 出銅の主要部分を占めた。
  明治初年に、官営鉱山となったのち、
  1885年(明治18年)に、古河市兵衛に払い下げられた。
・日本郵船会社が設立された。
  日本郵船株式会社(にっぽんゆうせん)は、1885年(
 明治18年)9月29日に、創立された。
  三菱商事とともに、三菱財閥(現・三菱グループ)の
 源流企業で、
  1893年(明治26年)12月15日に、株式会社になる。
  日本の3大海運会社の一つ。
・三菱社で鉄製の浚渫船が竣工した。
  幕府直営の長崎製鉄所は、明治維新で、官営の長崎製
 鉄所となり、
  1871年(明治4年)に、工部省所管の長崎造船所と名称
 を改称した。
  この頃、三菱社は、自家造船所経営の必要に迫られ、
  政府が、民間に経営を委ねる方針を出した時、機を逸
 せず長崎造船所の貸与を願い出た。
  1884年(明治17年)7月に、三菱経営となり、積極的な
 経営で、本格的な造船所として発展した。
  1885年(明治18年)には、早くも鉄製の浚渫船を竣工
 させ、
  続いて、長崎造船所で建造した最初の鉄製汽船「夕顔
 丸」を竣工させた。
1885年、交通:
・山手線(品川~赤羽間)が開通した(2月)
  山手線は、もともと日本鉄道が、現在の東北本線、及
 び、東海道本線を連絡するために、品川駅~赤羽駅間の
 山の手に敷設した線路。
  そして、東京市街地の拡大に伴い、市街を巡る大都市
 の基幹交通路線に性格を変えていく。
  電車が、運行を開始したのは1909年。
  そして、1925年に、現在のように、環状運転が実施さ
 れるようになった。
  日本鉄道品川線と呼ばれたこの路線は、港があった品
 川・横浜方面と、東京の北側を結ぶ日本鉄道第一区線の
 一部として計画された。
  しかし、起伏地の山の手に、線路を敷くには、技術的
 にも資金的にも困難であったことから、
  まずは、日本鉄道第一区線の開業を優先し、
  1883年(明治16年)7月28日に、江戸下町の北部にあた
 る現在の上野駅の地を起点として開業した。
  そして、その後の1885年(明治18年)3月1日に、当初
 の計画に準じ、日本鉄道第一区線と、官設鉄道(現在の
 東海道本線)とを連絡する品川駅~赤羽駅間(現在の山
 手線品川駅~池袋駅間と赤羽線池袋駅~赤羽駅間)が開
 業した。
・阪堺鉄道が開通した。
  阪堺鉄道(はんかいてつどう)は、南海電気鉄道の前
 身となる鉄道事業者で、
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業させた。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)である。
  そして、1885年(明治18年)12月27日に、開業式を挙
 行し、
  同年・1885年12月29日に、難波駅を起点にして、天下
 茶屋、住吉を経て、大和川北岸(大和川駅)に至る区間
 の営業を開始した。
1885年、衣:
・東京女子師範制服を洋服とした(10月)
  東京女子師範学校(とうきょうじょししはんがっこう)
 は、1874年に設立された官立師範学校で、
  1885年の東京師範学校への統合を経て、
  1890年に、「女子高等師範学校」として分離・改組し、
  1908年、東京女子高等師範学校に改称された。
  現在のお茶の水女子大学の旧制前身校。
・婦人束髪会発会し、束髪多くなり、リボンが流行し始め
  た。
  水油には、ツバキ油、クルミ油、ナタネ油、サザンカ
 油、ゴマ油などの不乾性ないし半乾性植物油で、酸価の
 低いものが使われた。
  しかし、1885年に結成された婦人束髪会は、それまで
 の髪油を多用した髪形は、不便、不潔、不経済であると
 宣伝したこともあって、日本髪に代わって束髪が流行し
 た。
・兵営にバリカン献納を出願するものあり。
・東京神田に、セルロイドで、櫛の製造をなすものあり。
  セルロイドは、世界最初の人工プラスチック(合成樹脂)。
  1865年、イギリス人のA・パークスが、硝酸セルロー
 スと、樟脳の固溶体について特許を取得した。
  その後、1868年に、アメリカ人のJ・W・ハイヤット
 がセルロイドを発明し、
  自らのセルロイド製造会社において企業化した。
  当時、欧米で大流行していたビリヤードの象牙球が、
 高価だったので、ビリヤードボール製造業者が、安価な
 代替品の開発を懸賞金付きで募集した。
  これに応募したことがきっかけだった。
  日本では、1877年(明治10年)に、ドイツから神戸の
 外国人居留地22番のフランス商館に、赤色板状の一片の
 セルロイド生地見本が初めて輸入され、
  大阪の西川伊兵衛が買い取った。
  これが、日本におけるセルロイド史の最初となった。
  1885年(明治18年)に、横浜ドイツ商館に、ドイツ製
 セルロイド「擬珊瑚珠」が入荷し、
  この擬珊瑚珠は、「ゴム球」または「あずま球」と称
 され、櫛(くし)、簪(かんざし)、根掛(ねがけ)な
 どとしての需要を喚起した。
  因みに、根掛は、日本髪の髷の根元に巻きつけて用い
 る紐状の飾り物。
・婦人用洋式日傘流行する。
・インド産天然藍の輸入が盛んになる。
  インドの今までの状況・・イギリスの経済的繁栄を築
 きあげた基盤である「産業革命」は、
  インドの富が流入することによってのみ可能であった。
  このことは、色々と指摘され明らとなっている。
  この借り入れではなく、無利子で持ち去られた流入資
 本がなければ、支配的な立場にあって、大量生産に必要
 な蒸気機関や機械設備は、利用されていないままだった。
  イギリスの利得は、インドの損失であった。
  この損失は、インド工業の欠乏と、農業発展の遅滞の
 大きな原因となった。
  どれだけ富や資源を持っていようとも、この様な流出
 にインドは耐えた。
  インドの富は広範囲に搾取された。
  イギリスは、輸入税、関税、消費税など、税関系から
 も利益を搾取した。
  インドの藍生産は、18世紀の末に始まった。
  そして、50年間において、藍産業は急速に成長し、そ
 の生産は増大した。
  重要な輸出品となった。
  ドイツの科学者が、合成染料の試みに成功していたが、
 このインドの藍生産と発展は止められなかった。
  そのインドから、天然の藍が盛んに輸入された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:本当に、腹だたしい事である・・
.
  以下の文献は一例である。
  この様な事が誠に多かった。
  占領軍の事である。
.
1946年、特殊慰安施設協会
  特殊慰安施設協会という施設がある。
  これは、アメリカ軍兵士を相手にする慰安婦(売春婦)
 が居た慰安所である。
  「浦安ハウスに集まる米国将兵たち}との説明文が付
 いた写真があるが、存在は事実である。
  英語では Recreation and Amusement Association と
 言い、RAA の頭字語で知られた。
  直訳は「余暇・娯楽協会」であり、
 日本語の名称との間で意味が大きく異なる。
  このRAAとは別に、米軍の女性兵士用の「慰安夫」の施
 設も存在した。
  (これまで用意せよとアメリカから言われた)
  この設立の背景には、ヨーロッパの戦場で、アメリカ
 軍によるレイプの被害者が14,000人(内、ドイツ人女性
 が11,040人)いた事である。
  フランスにおいて、アメリカ軍のフランス女性に対す
 るレイプが多発したため、
  また、アメリカ兵のみだらな行為(町中での性交)を
 行っている姿を見ないで街を歩くことが出来なほどの乱
 れた酷い状態に、ル・アーヴル市長が、慰安所の設置を
 アメリカ軍に懇願したぐらいだった。
  日本の場合の沖縄においても、アメリカ軍上陸後、強
 姦が多発した(どこでも酷いアメリカだった)。
  アメリカ軍兵士により強姦された女性数は、10,000人
 との見解がある。
  アメリカ軍の日本に進駐した際にも・・、
  最初の10日間だけで、また、神奈川県だけで、1,336件
 の強姦事件が発生している。
  アメリカ軍上陸後1ヶ月で、3,500人以上の女性が被害
 を受けたという調査結果もある。
  また、横須賀の慰安所を閉鎖した後、強姦がまた多発
 したので、再度、慰安所を開いたという話もある。
  あまりにひどい状況に、日本の女性を守るため、アメ
 リカ軍基地が集中する神奈川地域の大森海岸の「小町園」
 を慰安所第一号にした。
  この後、日本各地につくられたが、熱海の旅館は、そ
 れ用として「日本人お断り」となっていた。
  作家の高見順が、その事を公言している。
  1945年12月時点で、アメリカ軍主体の在日連合軍は、
 43万287人が駐屯していた。
  問題を何とかしなければならない人数であった。
  それでなくても多くの問題が『多発』した。
  アメリカ軍側からの積極的な『要請』もあった。
  1945年9月28日、占領軍の軍医総監と、公衆衛生福祉
 局長・サムス大佐が、
  東京都衛生局防疫課長に対し、
  具体的な都内の売春街等の話を出しながら、占領軍用
 の女性を世話をしてくれと要求した。
  そして、『将校用』『白人兵士用』『黒人兵士用』に
 仕分けしてくれとの要求もあったので、その要求に応ぜ
 ざるを得なかった。
  戦後、都政が発令した条例の第一号が、この占領軍相
 手の女性に関係するの条例であった。
  性病予防規則など。
  RAA廃止後に、赤線経営を残したが、占領軍による強姦
 が急増した。
  RAAがある時の強姦・婦女暴行が、1日平均40件であっ
 たのが、
  RAAが無くなった1946年前半の強姦・婦女暴行数は、
 1日平均330件と、8倍以上に急増した。
  進駐軍による横須賀や、横浜をはじめ、民家に侵入し
 日本人女性を強姦する事件が『多発』した。
  1945年8月28日には、マシンガンで武装したアメリカ軍
 兵士たちが乗り込み、すべての慰安婦たちを強姦した事
 件などが多発した。
  横浜の慰安所では、100名を超える武装したアメリカ兵
 が、開業前日の慰安所に乗り込み、慰安婦14名を強姦し
 た。
  さらに翌日、抵抗した慰安婦を、アメリカ兵が絞殺す
 るという事件も起きた、
  精神を患う慰安婦や、自殺する慰安婦も少なくなかっ
 た・・などなど。
  あまりに多い事件に、占領軍は、『新聞報道をするな』
 と口封じ命令を出した。
  武蔵野市では、小学生が集団強姦され、
  大森では、病院に200人~300人の米兵が侵入し、妊婦
 や看護婦らが強姦され・・、
  あまりに多いので・・以下を略す。
  まったく悲惨だ、そのすべてをユネスコの世界記憶遺
 産に登録すべきだ。
  日本政府のこの進駐軍の不法行為の調査資料も米軍は
 没収した。
  30年近くも経てから(1973年)この資料は返されたが、
 何ら役に立たない頃の返還だった。
  世界で、アメリカが一番ひどい。
  韓国は、中国の冊封(さくふう)によって従属状態と
 なり、頭を下げていた国だ、アメリカや中国には何も言
 えない。
  自分の国の酷さを棚に上げて、おとなしく対応してく
 れる日本ばかりを「うっぷん晴らし」の対象にする。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年8月18日木曜日

(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)

題:(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年12月17日、大隈重信、河野敏鎌が、立憲改進党を離
 党した。
  総理の大隈と副総理の河野が仲間割れで離党した。
  この仲間割れは、大隈の求心力低下が原因だった。
  直接的には、1884年になると、組織改革を巡る紛糾が
 強まって、解党論まで出てくる始末だった。
  首脳部の離党があったが、慶應義塾系と嚶鳴社系を中
 心とする集団指導体制で、辛うじて解党は防がれた。
  しかし、ほとんど活動は、不可能状態となった。
  過激な事件があちこちで起き、政府の取締りも厳しく
 なり、また、自由党も、1884年10月29日に、解散し、
  この後の1884年11月頃より、立憲改進党内に解党論が
 出てきた。
  そして、この総理と副総理や、めぼしいメンバーの離
 党が起きた。
  党内には大きな動揺が走った。
  しかし、規約を改正して集団指導体制を取って、党は
 維持された。
  大隈は、脱党したとはいえ、その後も影響力は強かっ
 た。
1884年12月20日、華族就学規則が制定された。
  華族の方たちの多くは、明治の新政府の新しいポスト
 には就かなかった(就けなかった)が、
  政府は、こうした華族の方たちに、国会開設の際には、
 上院議員として政府の一翼を担っていただこうと期待し
 ていた。
  この事もあり、幕末に志士として活躍した優秀な士族
 の方たちにも爵位を授与していた。
  また、華族の資産が、日本の資本主義経済の成立や、
 発展に、大きくかかわっていたことが、経済史の視点か
 ら、学究の徒により研究され、確認されている。
  華族制度は、過去の事象ではなく、現代社会において
 も大切な意味を持っている。
  失われつつある社会集団の民族史的研究など、研究す
 る意義が深いと言われている。
  庶民文化の研究の必要性と同等に、エリート層文化へ
 の理解を深める必要性はあり、そして、高い重要度があ
 ると指摘されている。
1884年12月23日、院内鉱山が、古河に払下げ許可となる。
  院内鉱山は、院内銀山とも言い、
  秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山で、
 「東洋一」の大銀山とうたわれ、
  年間の銀の産出量は、日本一を何度も記録した。
  明治期に、鉱山王であった古河市兵衛が働いていた小
 野組が経営権を握った。
  そして、その小野組が解散した後の1884年のこの日に、
 工部省から古河市兵衛へ払い下げられた。
  古河は、払い下げられた最新式掘削機器に加え、
  同時に買収した日本国内の他の鉱山から、西洋で学ん
 だ技術者を連れて来て、近代的な鉱山経営を行った。
  これにより、ますます銀の産出量は増え、
  古河は、院内のほか、阿仁鉱山など、東北地方を中心
 に多くの鉱山の経営を行った。
  その利益を元手に、日本最大の鉱山であった足尾銅山
 を買収し、古河財閥を作り上げた。
  明治時代、院内は、日本4位の銀山だった。
1884年12月24日、外務卿・井上馨を朝鮮に遣して談判
  井上は、1884年12月4日に起きた甲申事変で、朝鮮の宗
 主国だと清が介入するため渡海した。
  そして、翌年・1885年1月9日に、李氏朝鮮と漢城条約
 (かんじょうじょうやく/ハンソンチョヤク)を締結し
 て危機を脱した。
  朝鮮側の全権大臣は金弘集であった。
  また、1885年4月には、伊藤が、清と天津条約を締結し
 ている。
  漢城条約締結時に、日本が朝鮮王宮に入ったことが問
 題となったが、
  日本は、朝鮮国王の親筆書があることと、また、朝鮮
 国王の玉璽の捺された詔書があることを示し、要請によ
 って入城したことをはっきり示した。
  このようなやりとりから、解決は平行線を辿った。
  ここで、井上馨は大局的判断をして、両国関係の速や
 かなる修復こそが肝要だとし、
  「朝鮮国内で日本人が害されたこと」「日本公使館が
 焼失したこと」という明白な事実のみを対象に、交渉を
 早期妥結することを提案し、その他の事は棚上げとした。
  この提案は、最終的に朝鮮側の同意を得て、条約への
 進捗を見た。
  この交渉の中、清国が話し合いに介入する一幕があっ
 たが、第三国の容喙(ようかい、横から差し出ぐちをす
 ること)をきっぱり許さず、条約の締結がなされた。
  締結された条約の内容・・、
  第一款:朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪を表明す
    ること。
  第二款:日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する
    見舞金、及び、暴徒に略奪された商人の貨物の補
    填として、朝鮮国より11万円を支給すること。
  第三款:磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正
    しく処罰すること。
  第四款:日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮
    国が代替の土地と建物を交付しそれに充てること。
     また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を
    支給し、工費に充てること。
  (当初は再建費用4万円を要求していたが、朝鮮側が減
   額を望んだので、井上が既存の建物を改修して用い
   るという修正案に改めた)
  第五款:公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応
    しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約
    第五款の通り朝鮮政府が施行すること。
1884年12月25日、海軍省軍事部を廃止した。
  1884年2月に、海軍省達丙第21号により、海軍省軍務局
 を廃して、海軍省の外局組織として軍事部(軍令専掌機
 関)が設置され、初めて軍令をつかさどった。
  (参考)軍令:ぐんれい、明治憲法下で、作戦・用兵
    に関する統帥事務。
1884年12月26日、判事登用規則が定められた(太政官達第
 102号)
  司法官任用のための試験。
  「判事ニ登用スルハ法学士代言人及ヒ試験ヲ行ヒ及第
 シタル者ニ限ル」
  これ以前は、自由任用、または、司法省法学校(正則
 科及び速成科)の卒業生からの任用が行われていた。
  判事登用規則による試験は、1885年から1887年まで、
 計5回行われ、
  合計682名の合格者を出した。
  これには、裁判所内の判事補・検事補・書記を対象と
 した部内試験合格者518名と、
  司法省法学校速成科卒業者101名も含まれており、
  私立法律学校卒業者は63名であった。
1884年12月27日、火薬取締規則が制定された。
  同時に、爆発物取締罰則も布告された(太政官布告第
 32号)
  治安を妨げ、人の身体・財産を侵害する目的による爆
 発物の使用等を処罰することを規定する太政官布告であ
 った。
  施行は、翌年の1885年1月15日。
  この頃の社会情勢において、自由民権運動の急進派に
 よる暴動事件が続発していた時期で、
  警察官に対する爆発物の使用なども行われたという背
 景もあった。
  また、この頃、ヨーロッパでも同種の立法の動きがあ
 った。
1884年12月27日、往復ハガキの発行が始まった(1885年1月
 1日説、1885年3月説あり)
1884年6月、清仏戦争(~1885年6月)
  ベトナムの領有・植民地化を目指すフランスと、
  清国は、ベトナムの宗主権を主張し
  ベトナム藩属国(宗主国の清国に対して、下位の意味
 を込めて藩属という)として、その宗主権があるとし、
  その清(中国) とフランスの戦争(フランスの領土的
 野心の戦争、1840年代からくすぶっている)。
  アジアにおける植民地獲得競争で、イギリスにインド
 から締め出されたフランスは、
  ナポレオン3世(在位:1852年~1870年))の治世以来、
 積極的なインドシナ政策を推し進め、
  その橋頭堡としてベトナムの支配に乗り出した。
  フランスのインドシナ進出は、19世紀後半のナポレオ
 ン3世時代に積極化した。
  1862年以降、フランスは南部ベトナムを占領し、植民
 地化し、第1次サイゴン条約(1862年、ベトナム王朝と締
 結)をした、ついで、
  1874年にベトナム王朝と結んだ第2次サイゴン条約によ
 って、フランスがベトナムを実質上保護領化すると、
  清は宗主権を主張してフランスに抗議した。
  1882年、フランスは、北部利権の確保を目的として、
 H・リビエールを派遣して、ハノイを占領した。
  1883年、清国の劉永福(りゅうえいふく)に率いられた
 黒旗軍はリビエールを倒し、フランス軍を駆逐した(1883
 年5月19日、ハノイ攻防戦にてリビエール戦死)
  フランスの第2次フェリー内閣は、成立後に活発となり、
 強硬政策に転じ、
  フエ(ユエ)に派兵してアルマン条約(1883年8月25日、
 フランスとベトナム間で調印された)を強制し、
  フランス保護権の設定、黒旗軍の否認、駆逐を約束さ
 せ、ベトナムをフランスの保護国とした。
  ベトナムの宗主国の清国(中国)は、これに対し、黒
 旗軍の指導者・劉永福を、越南東京(トンキン)(ベトナ
 ム北部)経略大臣とする一方、大兵を北部に派遣した。
  清・ベトナム国境付近のバクレでの両軍衝突を口実に
 フランスは武力を行使し、
  フランス軍はこれを駆逐して、北部一帯を占拠したた
 め、
  李鴻章(りこうしょう)は、1884年5月、天津(てんしん)
 協定を結んで北部からの撤兵を約束した。
  しかし6月、中越国境に近いバクレで、清軍はフランス
 軍を大敗させた。
  フランスは、これを口実に、8月、クールベ提督をして
 福州の清国南洋艦隊を壊滅させ、さらに台湾を封鎖した。
  清は、宣戦に踏み切り、次第に劣勢をばん回した。
  清軍は、中越国境でフランス軍占拠地を奪回し、善戦
 を繰り返した。
  しかし、清国は、戦いに敗れて行った・・、また、
  1885年3月、クレマンソー内閣の成立とともに和議が進
 み、
  1885年6月9日、李鴻章とパトノートル間に清仏天津条
 約が締結された。
  これにより、清は、ベトナムに対する宗主権を放棄し、
 ベトナムのフランスの保護国化・保護権を認め、ベトナ
 ムはフランスの保護領となった。
  また、雲南を開放した。
  しかし、ベトナムの民族派官人は、これに対し、咸宜
 (かんぎ)帝(ハムギ帝)を擁して、1888年まで、抵抗を
 続けた。
  清仏戦争は、フランス帝国主義政策の端緒をなしたと
 ともに、
  清の無力を暴露、民衆レベルの反帝国主義闘争を活発
 化させる因をつくった。
1884年10月、グリニッジ子午線の設定
  アメリカのワシントンで、国際子午線会議が開催され、
  ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が「経度0度」
 に決められた。  標準時制定(1886年)
  アメリカで、万国子午線会議が開催。
  グリニッジ子午線を国際的な本初子午線に制定する。
  1886年7月13日、東経135度の兵庫県明石市の時刻を、
 日本の標準時とすると、勅令が公布された。
  明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件)
  東経135度の子午線を、太陽が通過する時刻が、正午と
 なり、明石市の正午が日本全国の正午に。
  グリニッジから整数の時間差で、自国の標準時を決定
 する。
  経度が15度毎に、時差は1時間。
  明石市は9時間進む位置に。
  (万国子午線会議)が行われるまでは、本初子午線は
 国によってまちまちであった。
  しかし、遠洋航海が活発化するにつれ、それでは不都
 合が生じることがわかり、本初子午線を統一する事にな
 った。
  25ヶ国の代表が集まり決定した場所が、ロンドンのグ
 リニッジ天文台。
  ここは、イギリスの経線測定の拠点だった。
  この決定の背景には、イギリスが経線測定に力を注ぎ、
 クロノメーターによる測定法を確立したという実績と、
 当時、イギリスが世界の海を制覇していたことがあった。
  しかし、これに反対した国があった。
  それはフランスで、今でもフランスは、この決定に不
 満で、国内図に関しては決定以前のとおり、パリに本初
 子午線を設けている。
  プライドの高い国である。
1884年、イギリス:第三次選挙法改正(農民らに選挙権)
1884年11月15日、アフリカ分割が討議されたベルリン会議
 (~1885年2月26日)
  ヨーロッパ各国は、帝国主義的侵略の国で、アフリカ
 を餌食として、取り合っていた。
  人類史上最悪の欲のある西洋列強の姿だった。
  その調整の場が、1884年から1885年のベルリン会議で
 あった。
  各国は、アフリカ固有の民族、文化などの差異をまっ
 たく無視し、恣意的(しいてき、気ままで自分勝手に)
 に国境線を引き、領土を決めた。
  この帝国主義分割によって、全大陸の9割がヨーロッパ
 列強の支配下に置かれた。
  1884年から1985年にかけて、中央アフリカを分割する
 コンゴ盆地条約が結ばれるが、国境線は直線によって分
 割された。
  この様に、アフリカの国境線は直線が多い。
.
  (今日の言葉)
.
  題:慰安婦のこと・・、今度は韓国が謝罪する番だ。
   まず、ベトナムから・・次は・・、そうそう、自国
   の女性の方々へも・・朝鮮戦争の時もひどかった・・
   ・・アメリカと一緒になって・・
.
1945年、イギリス人記者のH・S・ストークス氏は、戦争
 における慰安婦の歴史は世界のどこにもある・・と言う。
  また、ストークス氏は・・
  日本は、兵士の性処理にあたって秩序を保って対応し
 た。
  現地の女性の人権が蹂躙されることがないように、「
 慰安所」を設置した。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は、女性の人権に、他国よりもはるかに配慮して
 いた・・と書く。
  そう言えば、アメリカが、第二次大戦後に日本に進駐
 した時、アメリカ軍の駐留地の近くの日本女性が、強姦
 される数が、非常にと書くほど非常に多かった。
  アメリカ兵が、集団で強姦をし続けている状況が起き
 た。
  病院が襲われ、そこの看護婦さんたちが被害を受けた
 という事件もあった。
  こんな事件ばかりだった。
  何らこの事で、アメリカは糾弾されることはないが、
 その様な事が起きていた。
  銅像を建てたら・・銅像だらけになる状況だった。
  まったくひどいことが起きていた。
  そして、イギリス人記者H・S・ストークス氏は、以
 下の様に自著に書く・・、
  現代病としての戦争は、ナポレオンから広まり、社会
 全体に塗炭(とたん)の苦しみを与える様になった。
  ナポレオンによって戦争の在り方が変わり、国全体を
 巻き込むようになった。
  この過程で、兵士相手の売春も拡大した。
  かつて戦場に伴われた女性は、トロイ戦争のヘレンの
 様な王族だけだったが・・
  (注):キリスト教十字軍は、一般兵士の為の慰安婦
    を同行させていた・・ストークス氏のこの記述は
    この事例などを見落としている・・ほかにも事例
    は色々ある)
  今日ではシリア、レバノンなどの戦争地帯は、パリ、
 ロンドン、ニューヨークと並んで世界屈指の売春地帯と
 なっている。
  売春はビッグ・ビジネスだ。
  商魂たくましい女衒(ぜげん、女性を遊女屋などに売
 ることを業とする人)は、チャンスを見逃さない。
  売春は世界で最古の商売であり、売春を世の中から根
 絶させる事は、戦争をこの世から消滅させるぐらいに難
 しい。
  女性や子供は、誰よりも保護されるべき存在だが、戦
 争における人権の蹂躙は女性に限らない。
  歴史を振り返れば、日本は兵士の性処理にあたって、
 おおむね秩序を保って対応した。
  戦場のどこであっても、現地の女性の人権が蹂躙され
 ることが無いように、「慰安所」を設置した。
  (日本の事例ではないが・・)性病が蔓延して、軍と
 して機能しなくなった歴史の教訓がある。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は女性の人権に、他国よりもはるかかに配慮して
 いた。
  慰安婦の問題は、今後も戦争のたびに論議されよう。
  私もベトナムでその現実を目にした(韓国やアメリカ
 がひどかった)。
  こんにちのホーチミン市にアラルサイゴンには、売春
 婦がたむろしていた。
  韓国も、他国の事を批判できるような立場にはない。
  アメリカも日本を占領したときに、真っ先に要求した
 のが、アメリカ兵のために売春施設を設ける事だった。
  (中略)
  今日のマカオの賭博場での最高のサービスは、セック
 スだ。
  一般の社会でも、慰安婦が厳然と存在している。
  性サービスが終焉する日が来るだろうか。
  答えはノーだ。
  それどころか拡大している。
  (アメリカの)ペリーは大勢の男たちを引き連れて、
 アフリカから喜望峰(きぼうほう)を回って、日本まで
 やって来た。
  黒船艦隊に乗っていた男たちの夢は、東洋(日本)の
 女性と性交をしまくることだった。
  現代では、売春は違法として取り締まられているが・・、
..
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2016年8月17日水曜日

(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)

題:(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年11月16日、猿若座が、浅草西鳥越町に移り、新築開
 場式を挙行した。
  これは、後の、中村座で、
  1624年(寛永元年)に、猿若座(さるわかざ)という
 名前で作られたのが始まりの、江戸で最も権威のある芝
 居小屋だった。
1884年11月20日、産業教育が始まった。
  JR八高線の児玉駅から 南西に約300メートル。
  児玉公民館の前に 「産業教育 発祥之地」の碑が建つ。
  この地は もと埼玉県立児玉農工高等学校があった場所
 で、さらに、その起源をたどると、
  1884年(明治17)年に、「競進社養蚕伝習所」が開設さ
 れ、養蚕技術の教育が行われた場所であり、
  その歴史によって 産業教育発祥の地とされている。
  副碑には・・、
  明治17年(1884年)、 木村九蔵は この地に競進社養蚕
 伝習所を開設、養蚕技術の研究と普及に務めた。
  これが、本県(埼玉県)における産業教育の始まりと
 されている。
  さらに、この競進社養蚕伝習所は、明治32年(1899年)
 競進社養蚕学校として発足した。
  これは、本県最初の農学校の誕生であった。
  その後、競進社養蚕学校は、競進社実業学校、児玉農
 学校、学校法人児玉農業高等学校と校名を改め、
  昭和47年(1972年)、 県に移管され、埼玉県立児玉農工
 高等学校となり、
  昭和49年(1974年) 児玉町金屋へ移転した。
  同校の創立90周年を機会に、この地を、本県の蚕業教
 育発祥の地として、地域社会、地域住民の誇りをこめ、
 この記念碑を建立するものである・・とある。
1884年11月28日、朝鮮問題対策において乙案を採用した。
  壬午事変(じんごじへん、1882年)にかかわった朝鮮
 の開明派の金玉均は、アメリカ公使フートと、イギリス
 領事アストンと頻繁に接触した。
  情況や意向を伝えたが、フートもアストンも、朝鮮独
 立と改革への意志を評価しながらも、『時期尚早』との
 態度を示した。
  そして、アメリカもイギリスも、自国が直接支援に動
 かないと否定した。
  日本は、1884年11月2日に、朝鮮の竹添公使が、朝鮮王
 の高宗王に謁見し、村田銃16丁などを献納して、壬午軍
 乱の賠償金の残り40万円を日本が放棄することを伝えた。
  この頃、案が2つあった。
  甲案は、金玉均は「日本が支援してくれれば、開明派
 は、すぐ行動を起こす」と言っていた路線で、朝鮮国王
 の依頼から王宮を守衛する案だった。
  乙案は、清国と事を構える事を避け、経過を見て行く
 という案だった。
  そして、この日に、乙案が採用された。
  しかし、1884年12月4日に、甲申政変が発生する。
1184年11月29日、小学校の教科に、はじめて英語が登場し
 た。
  明治期を通じて、小学校から英語教育が排除されたの
 は、1879年(明治12年)の「教育令」から、1884年(明
 治17年)の「小学校教則網領」の間のみであった。
  因みに、明治期の小学校は、1886年(明治19年)より
 尋常科と高等科に分かれ、
  その尋常科、高等科ともに4年間であったが、義務教育
 は尋常科の4年間だけで・・、
  小学校に制度としての「英語科」が設けられたのは、
 高等科(10~14歳)の方で、それも随意科目(選択科目)
 としてだった。
  以上の様に・・、
  1872年(明治5年)学制頒布。
  「小学」の規定に「外国語学ノ一二」とあることから
 外国語は状況によっては教えてもよい科目となった。
  1879年(明治12年)「教育令」によって、小学校の教
 科目から外国語が除外された。
  1884年(明治17年)「小学校教則網領」で、土着の状
 況によって英語を加えることができる・・となった。
  1886年(明治19年)小学校令の改正により、小学校が
 尋常小学校(4年間)と、高等小学校(4年間)に分かれ、
 尋常小学校の4年間が義務教育期間とされ、
  英語は、高等小学校で教えられた。
  1907年(明治40年)尋常小学校が6年間、高等小学校が
 2年間となった。
  英語は、それまでより2年遅れてスタートすることにな
 った。
  1911年(明治44年)小学校の英語は、「商業」の授業
 に含められることとなった。
1884年11月29日、同業組合準則を制定した。
  当時の事業者団体の主目的は、職工争奪の防止などで
 あり、同業者の協調にあった。
  しかし、1892年に、紡績連合会が、生産制限を実施し
 た。
  これは、カルテル(市場支配などの目的の企業連合)
 活動だった。
  法的整備では・・、
  この年の1884年に、同業組合準則、
  1890年に、産業組合法の制定で、これにより、中小企
 業者の組織化が図られ、
  同年・1890年の商業会議所条例、
  1897年の重要輸出品同業組合法の制定によって、大企
 業者の組織化が図られ、
  その後、第一次世界大戦後の恐慌のもとで、生産制限
 の色彩が濃い重要産業統制法が、1931年に制定された。
1884年11月、築地訓盲院を訓盲亞院と拡大した。
  盲人の方だけでなく、聾唖者の教育も行なうという観
 点から聾唖者を受け入れることとなった。
  また、そのため、訓盲唖院と改称した。
1884年11月、フランス人ルルーが来日した。
  シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルーは、フ
 ランス生まれの音楽家、作曲家、フランス陸軍大尉。
  軍楽の指導を通じて、日本への近代音楽の普及発展に
 貢献した。
  その作品『扶桑歌』『抜刀隊』の二つを編曲した『陸
 軍分列行進曲』は、現在も、陸上自衛隊、及び、日本警
 察の観閲式などで行進曲として使用されている。
  勲四等瑞宝章、勲五等旭日章、レジオン・ド=ヌール(
 シュバリエ)勲章を授賞されている。
  この年・1884年に、第3次フランス軍事顧問団の一員と
 して来日し、
  前任のギュスターブ・シャルル・ダグロンの後を受け
 て、草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたった。
1884年12月1日、横浜正金銀行ロンドン支店が開業した。
1884年12月4日、甲申事変(こうしんじへん、甲申政変とも)
  この甲申の年に、朝鮮のソウルで、改革を目的として
 閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に、国政を改革
 しようとした政変が起きた。
  その改革を目ざした派を、「開化派」と言った。
  1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が
 切迫していた。
  その朝鮮の悪い状況を、支配層内部でも、実学の流れ
 をくむ洪英植(こうえいしょく/ホンヨンシク)、金玉均
 (きんぎょくきん/キムオクキュン)、朴泳孝(ぼくえいこ
 う/パクヨンヒョ)らを中心とする開化派は、
  日本の明治維新をモデルに、朝鮮も近代化を図りたい
 とした。
  留学生の派遣や、『漢城旬報』の発刊などに努めてい
 た。
  一方、朝鮮王の高宗(こうそう)とも連絡を密に取り、
 啓蒙(けいもう)にも努力した。
  しかし、当時、清(しん)国と結んだ守旧派が、政権を
 握っていて、この改革を阻んでいた。
  1884年には、中国の清とフランスが、ベトナムの領有
 を巡って戦った。
  その清仏(しんふつ)戦争で、清国が敗れたのを機会に、
 開化派は、日本の援助を得て、守旧派を排除したいとし
 て、打倒の行動をとった。
  12月4日に、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待し、
 隣家に放火し、逃れる閔泳翊(びんえいよく/ミンヨンイ
 ク)らを殺傷した。
  そして、王宮に居る高宗を保護・掌握した(国王は、
 日本へ協力を求めた)。
  この行動は、一時的には成功し、開化派は、新政府を
 樹立した。
  1884年12月6日には、14か条からなる新政綱を発表した。
  内容は、門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特
 権商人の廃止、軍制の改革など、諸制度を近代的に改革
 し、
  冊封されていた中国(清国)に対しては、自主外交を
 実行するという綱領を発布した。
  これは、市民革命の志向を反映していた。
  しかし、6日、清国が軍を介入した。
  そのため、新政権は三日天下に終わった。
  洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は、日本に亡命し
 た。
  日本公使館は焼かれ、日本の公使・竹添進一郎は、仁
 川(じんせん/インチョン)に逃れ、
  ふたたび、守旧派の政権が樹立された。
  北朝鮮では、反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命
 と評価しているが、
  支配層内の政権争奪戦とも言われている。
  (氷川清話)朝鮮の変、日清の駐兵互いに撤す。
1884年12月4日、飯田事件(12月6日説あり)
  名古屋鎮台や監獄襲撃の計画が発覚した。
  愛知県と長野県の自由党員らが、名古屋鎮台襲撃計画
 を立てていることが発覚し、村松愛蔵らが逮捕された。
1884年12月6日、朝鮮王国の閔妃らに要請された清国軍が、
 漢城王宮を奪回した。
  (京城にて、清国・袁世凱の兵2,000と、王宮の内外で
 衝突した)
  日本軍は撤収し、日本公使館なども放火され、開明派
 の行動は失敗に終わった。
  朝鮮の各派は、清国に応援を求めたり、日本へ応援を
 求めたりしている状態だった。
1884年12月12日、司法省法学校正則科を、文部省に移管し、
 東京法学校と改称した。
  1884年(明治17年)7月、第二期生卒業。
  入学生104名中、卒業生は37名(法律学士33名、成業4
 名)だった。
  同年・1884年10月、第四期生75名が入学した。
  同年・1884年12月に、文部省に移管されて東京法学校
 となった。
1884年12月14日、阪堺鉄道会社が設立された。
  阪堺鉄道(はんかいてつどう)は、南海電気鉄道の前
 身となる鉄道事業者。
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業した。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)であるという。
  また、日本鉄道は、政府の関係が強い半官半民会社、
 東京馬車鉄道は名前の通り市街交通としての馬車鉄道を
 運営していた会社であったことから、
  この阪堺鉄道会社を、日本最初の私鉄としているもの
 もある。
1884年12月15日、横須賀に鎮守府の開設を布告した。
  横須賀鎮守府(日本海軍の鎮守府)
  東海鎮守府を横須賀に移転し「横須賀鎮守府」と改称
 した。
  横須賀鎮守府とは、神奈川県横須賀市にあった旧日本
 海軍の鎮守府。
  1884年に、東海鎮守府が、横浜から横須賀に移転され
 るとともに、横須賀鎮守府と改称された。
  また、鎮守府条例が制定された。
  1886年4月22日、「海軍条例」において、全国に5つの
 「海軍区」を定め、横須賀鎮守府は、第一海軍区を所管
 した。
  所管は・・、
  「陸中陸奥国界ヨリ紀伊国南牟婁東牟婁郡界ニ至ノ海
 岸海面及小笠原島ノ海岸海面」とされた。
  また「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として、参
 謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法
 会議・監獄署などを置いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そのすべてが不法だった。
.
1946年5月3日~1948年11月12日、東京裁判が行われた。
  イギリス人記者H・S・ストークス氏は、自著に、以
 下の様に書く・・、
  私は、市ヶ谷の防衛省内にある、かつて東京裁判が行
 われた講堂を、何度も訪れた・・・
  東京裁判の法廷を訪ねた。
  そこで行われた裁判は、悪意(イーヴィル)なものだ
 った。
  犯罪行為だった。
  戦勝国が、一方的に敗戦国を裁くことは、許されない。
  戦勝国が、敗戦国を裁いて、
  一方の将兵のみを、戦争犯罪人として処刑するのは、
 復讐であり、犯罪である。
  東京裁判を覆(おお)った空気について、多くの関係
 者から聞いたことがある。
  法廷の空気は、とても邪悪(イーヴル evil)で、毒気
 (ポイズン・イン・ジ・エアー)が漂っていた。
  残忍(ナスティーネス)さが渦巻き、検察側には悪意
 が感じられた。
  このため法廷には、恐ろしい(ホリファイイング)気
 配が充満していた。
  東京裁判は数年に及んだ。
  そのすべてが不法だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月~1884年11月)

題:(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月~1884年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年10月10日、東京湾要塞・相州観音崎の砲台が成った。
  今、史跡として観音崎砲台跡・北門第二砲台跡
  (第二砲台・通称:だんだん砲台)・・がある。
  1980年(明治13年)起工し、
  1884年(明治17年)竣工し、
  1925年(大正14年)除籍された。
  「北門第二砲台は、6門の砲座からなり、
  24センチ口径のカノン砲が、6門設置され、
  左3砲座は、第三海堡との間の海面を射撃して、敵艦の
 交通を途絶、
  右3砲座は、第1砲台と同じく、海門の通過を企てる敵
 艦に対して、予め、なし得る妨害を与えることを任務と
 していた」
  ・・と、説明されている。
  東京湾要塞は、東京湾周辺の防衛を目的に設置された
 要塞で、
  東京湾の砲台、及び、海堡等の建築物を、東京湾要塞
 司令部が管理していた。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)時は、第12方面軍の東
 京湾兵団に属した。
  明治時代の建設に始まり、逐次、設備を増やしつつ、
 大東亜戦争の終了時まで運用された。
  最初は、清国北洋水師に対しての・・、
  次に、ロシア太平洋艦隊の来攻を想定しての施設だっ
 た。
  1894年に、臨時東京湾守備隊司令部が置かれ、
  翌年・1895年に、東京湾要塞司令部が横須賀市上町に
 置かれた。
1884年10月13日、グリニッジの世界標準時(GMT)が定ま
 った。
  ワシントンD.C.で開催された国際子午線会議で、
  グリニッジ子午線が、本初子午線として採択された。
  そして、陸域でも、ほとんどの国の時刻帯は、
  このGMTを基準とし、それから数時間だけ進んだ(また
 は遅れた)時刻を標準時として採用した。
1884年10月17日、学生ボート競漕、隅田川吾妻橋付近に催
 される(最初のボートレース)(1883年説あり)
  東京大学走舸組が、隅田川で競漕会を開催した。
  しかし、以下の記述もある・・、
  日本で、ボート競技が、はじめて行われたのは、
  1869年に、横浜寄港中のイギリス軍艦乗組員と 在留外
 国人によって開催され、
  その後、1883年に、現在の東京大学と、筑波大学によ
 る対抗レースが 日本人によるボートレースの始まりと言
 われている。
  このレースをきっかけに、関東の大学を中心にボート競
 技は普及した・・と。
  日本ボートの略史
  1869年、横浜でボートレース開催(イギリス軍艦乗組員)
  1883年、東京大学、筑波大学対抗レース開催
  1887年、東京大学、一橋大学対抗レース開催
  1901年、第1回全国中等学校端艇競漕大会開催(滋賀県
     琵琶湖)
  1905年、第1回早慶レガッタ開催
1884年10月22日、東京薬舗学校を東京薬学校と改称する(
 1883年説あり)
  1869年(明治2年)、明治政府は、近代化のため、学問
 をおこし、教育制度を整えることを重要な政策課題とし、
  この年に、プロイセン医学の採用を決定した。
  翌年・1870年に、プロイセンと医学教師派遣の契約を
 交換した。
  1871年(明治4年)に、陸軍軍医レオポルド・ミュルレ
 ルと、海軍軍医テオドール・ホフマンが来日した。
  日本の医学は、ドイツが主流となり、薬学もこの影響
 を受けた。
  日本の衛生行政の祖と言われている長与専斎が、欧州
 の医学・衛生制度の視察を終えて、帰国した。
  医制で、西洋医の重要性を示した。
  西洋医にとって大きな問題は、洋薬をいかに入手する
 かであり、
  商人の中には、西洋薬の流行と、その取扱い(規則)
 が無い事に目を付け、安い薬品を注文する。
  外商は、贋造粗製の廉物を、輸入し納入した。
  とくに、需要が多く、価格の高いキニーネ、ヨーカリ
 などは、品質の悪いものが出回った。
  この真贋良否を鑑定できる人はいなかった。
  1873年(明治6年)、文部省は、ホフマンらの答申を受
 け、28項目よりなる「薬剤取調之方法」の施行を具申し
 た。
  1873年7月25日、文部省令104号「製薬学科設置の件」
 を告示した。
  1875年(明治8年)薬舗主を速成する目的で、製薬学科
 に通学生教場の設置を決定し、
  翌年・1876年より、邦人教師による、2年制の通学生制
 度が付設された。
  1877年(明治10年)第一回生が入学した。
  1879年(明治12年)23人が卒業した。
  1881年(明治14年)より、1887年(明治20年)に廃止
 されるまでに、208人の卒業生を世に送り出した。
  1882年(明治15年)「薬学校通則」を公布し、薬学教
 育・薬剤師養成の普及を目指した。
  修業年限は、甲種3年、乙種2年。
  1883年(明治16年)7月、東京薬舗学校の新校舎が落成・
 移転を期に、東京薬学校と改称した。
  1883年7月23日に、東京薬舗学校の最後の卒業生を送り
 出す卒業式を行い、
  同時に、東京薬学校の開校式を実施した。
  これが、のちの東京薬科大学。
1884年10月26日、秩父困民党が、埼玉県下吉田村粟野山会
 議で、11月1日の蜂起を決定した。
  ある意味、活動の形が変質して来た自由民権派系の人
 たちに、
  生活苦をタネに、騒動を煽られていたところがあった。
1884年10月28日、会計年度を改正し、1886年以降は4月1日
 を決算日と決定した。
  松方正義により、紙幣整理が推し進められた(松方デ
 フレ)。
  政府も「緊縮財政」を実施するが、松方デフレの影響
 で税収は減少した。
  政府は、対策として、煙草税や酒造税や醤油税などの
 増税をし、
  また、官営模範工場の払い下げも行った。
  また、その一方で、1882年(明治15年)に壬午事変が
 あり、
  翌年・1883年から、大日本帝国海軍の拡充計画を進め
 た。
  そのため、財政赤字の穴埋めの必要があり、明治18年
 度(1885年度)の酒造税を、明治17年度(1884年度)に
 繰り入れしてしまった。
  翌年度の税収を繰り入れてしまったこの状況を改善す
 るには、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期(第
 1期が4月)に合わせて年度変更するほかに方法がないこ
 ととなった。
  そして、明治17年(1884年)10月に、「4月~3月制」
 の導入が決定され、
  明治19年(1886年)4月から実施された。
  「4月~3月制」は、明治22年(1889年)の会計法制定
 により法制化され、市制および町村制の施行に合わせて
 同年4月より市町村でも実施され、翌年5月より道府県(
 後に都も)も実施した。
1884年10月29日、自由党が解党
  自由党が、大阪大会で解党を決定した。
1884年10月31日、秩父事件が起こる 。
  国民党が一斉に蜂起、(10月30日説、11月1日説あり)
  埼玉県秩父郡の農民が、政府に対して武装蜂起を起こ
 す。
  蜂起の目的は、暴力行為を行なわず、高利貸や役所の
 帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願すること、、
  下吉田(旧吉田町)の集結地・椋神社において、決起
 集会が行なわれ、蜂起が開始された。
  11月1日に至り、秩父郡内を制圧して、小鹿野村の警察
 分署、高利貸を襲撃し、役所等の書類を破棄した。
  一部には、指導に従わず暴力行為や焼き討ち等を行な
 った者もいた。
  電信で、いち早く蜂起を知った政府は、汽車も利用し、
 警察隊・憲兵隊等を送り込んだ。
  抵抗が激しかったが、最終的に、東京鎮台の鎮台兵を
 送り、取り締まった。
  11月4日になり、秩父困民党指導部は、事実上、崩壊し、
 鎮圧された。
  急進派の一部が、長野県北相木村出身の菊池貫平を筆
 頭に、農民を駆り出して、十石峠経由で信州方面へ進出
 した。
  11月9日に、一隊は、佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受
 け、長野県の野辺山高原で壊滅した。
  この後、主だった指導者と参加者は、各地で、次々と
 捕縛された。
  事件後、約1万4千人が処罰された。
  最大規模の事件だった。
1884年10月、名古屋事件
  名古屋の自由党員が蜂起し、資金調達のための強盗殺
 人容疑で逮捕される。
1884年11月1日、第1回秋期競馬会の開催
  明治天皇陛下が、不忍池畔の競馬場へ臨幸された。
1884年11月3日、鹿鳴館で大規模舞踏會が開催された。
  天長節(11月3日、明治天皇陛下の誕生日)の祝賀会
 行事だった。
1884年11月6日、内村鑑三が離婚をし、アメリカへ向かった。
1884年11月9日、朝鮮政府と済物浦条約による壬午(じんご)
 事変の賠償金一部返還に関する日・朝往復文書が成立し
 た。
  済物浦条約(さいもっぽじょうやく)は、1882年8月30
 日に、日本と李氏朝鮮の間で締結された条約で、
  済物浦は、朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。
  壬午軍乱(壬午事変)での日本公使館焼き討ち事件の
 事後処理の為に結ばれた。
  主な内容は、日本公使館が襲撃された事件の犯人の逮
 捕と処罰、日本の被害者遺族・負傷者への見舞金5万円、
 損害賠償50万円、公使館を護衛するための漢城での軍隊
 駐留、兵営設置費と修理費の負担、謝罪使の派遣などで
 あった。
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)を結ぶ、
  新たな居留地と市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 を自由にできるようにだった。
  当初は、巨済島(きょさいとう)または鬱陵島(うつ
 りょうとう)の割譲を要求していたが、
  軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着す
 る6日前に、既に、清国の介入があり、反乱が鎮圧され、
  清国が、主導権を握っていた。
  そして、アメリカも介入して、軍艦を派遣してきた。
  アメリカも威圧をかけてきた。
  その事から、交渉担当の花房義質李氏朝鮮公使は、方
 針を変更した。
  馬建忠(朝鮮駐在の清国軍の隊長・李鴻章の外交秘書)
 の仲介を得て、上記の内容となった。
  宗主権を主張する清国をけん制する意味と、暴動の再
 発防止のため、軍隊の駐留は必要だった。
  これは、1885年(明治18年)7月18日に、高平臨時代理
 公使の知照(口頭で知らせ、通知すること)によって、
 以降も条約の有効性は確認済。
  賠償金は50万であったが、そのうち40万円は、朝鮮内
 政への配慮から(内政使用を目的)に、返却した。
  その上、日本は、汽艇1漕と山砲2門を朝鮮へ送った。
  以上の様に、日本には、朝鮮侵略の意図はまったく無
 かった。
  条約の名の通りの修好(しゅうこう、親しく交わるこ
 と)で、特に、国家と国家のレベルで親しく交流する事
 であった。
  賠償金を返還したり、無償で武器を提供する日本であ
 った。
1884年11月16日、人類学会の設立
  坪井正五郎や白井光太郎らが、人類学会を設立した。
  日本人類学会が、明治17年(1884年)に、当時、東京大
 学理学部学生であった坪井正五郎ら10名により結成され
 た。
  「じんるいがくのとも」という団体に端を発した。
  明治19年に、機関誌の第1号を出版し、同時に、会の
 名称を「東京人類学会」とした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:欺瞞の東京裁判・・復讐劇の東京裁判
.
1946年5月3日、東京裁判が始まった(開廷)(~1948年11
 月12日)
  尚、極東国際軍事裁判という。
  下記の様に、イギリス人記者は「復讐劇だ」と言う。
  そして、キリスト教の二元論において「正義か?不正
 義か?」の思考の下では・・「日本は、正義ではない」
 としないと、「自分たち・連合国側が不正義となる」と
 いう思考の下に支配されていた・・と言う。
  だから、日本が悪くされた・・という・・、
  イギリス人記者のヘンリー・S・ストークスは、自著
 に書く・・、
  (日本はアジアに植民地など持ってなんかいないし、
 また、日本は、アジアを開放したのだが)、
  (たとえ)日本が、アジア植民地を侵略した(したと
 したって)のは、悪いことだったろうか?
  (この日本の)侵略が悪い事なら、世界史で、アジア、
 アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略して来た
 のは、西洋(ヨーロッパ、アメリカもやっているが)諸
 国だ。
  しかし、今日まで、西洋諸国が、(アメリカが)そう
 した侵略を謝罪したことはない。
  どうして、日本だけが、欧米(アメリカやヨーロッパ
 諸国)の植民地を侵略したことを、謝罪しなければなら
 ないのか?
  東京裁判では、「世界で侵略戦争をしたのは、どちら
 だったか」という事に目をつむって、日本を裁いた。
  それは、侵略戦争が悪いからではなく、『有色人種(
 日本)が、白人様(アメリカ、イギリスなど)の領地を
 侵略した』からだった。
  白人が、有色人種を侵略するのは『文明化(シビライ
 ゼーション)』で、
  劣っている有色人種が、白人を侵略するのは『犯罪(
 クライム)』であり、神の意向(ゴッズ・ウイル)に逆
 らう『罪(シン)』であると、正当化(ジャスティファ
 イ)した。
  日本には『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』と
 いう便利な考え方もあって柔軟だが、
  欧米人は、ディベート(良いか悪いかだけの論理)思
 考で、白か黒か判定を付ける。
  もし日本が正しいなら、間違っているのは欧米側(ア
 メリカとヨーロッパ)となる。
  だから、あらゆる手を使って、正義は自分の側にある
 と、正当化(ジャスティファイ)しようとした。
  東京裁判は復讐劇であり、日本の正当化を認めること
 など、最初からあり得ない事だった。
  認めれば、自分たちの誤りを認める事になってしまう。
  広島、長崎に原爆を投下をし、東京大空襲をはじめ(
 日本中の)全国の主要都市を(アメリカは)空爆して、
 民間人を大量虐殺した「罪」だけでなく、
  もっと言えば、世界で侵略を繰り返してきたその正義
 の「誤謬(ごびゅう、まちがえること)」が、明らかに
 されることがあっては、決して、ならなかった。
  それが、連合国(アメリカ、イギリスなど)の立場だ
 った」・・。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年8月15日月曜日

(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)

題:(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年8月25日、中国・四国地方に暴風雨。
  堤防決壊。
1884年8月、儒学者の元田永孚(もとだながさね)が、「
 国教論」を起草した。
  福沢諭吉の「徳育如何(1882年)」から始まった道徳
 教育のあり方をめぐる論争が始まった。
  1890年(明治23年)の「教育勅語」発布に至るまで、
 徳育の混乱時代で、多くの識者の意見が発表された。
  代表的な意見は、12編ある。
  明治維新以降の日本は、制度面では、西洋を手本に、
 それなりの成果をあげることができたが、
  他方、道徳では、古いものに代わる新しいものを見出
 せず、空白状態にあった。
  儒教の復興を説く者もいたが、
  福沢諭吉は、社会の「公議輿論」こそ道徳の基本であ
 ると主張した。
  因みに、
  福沢の「徳育如何」の諸言に・・
  「方今、世に教育論者あり。
  少年子弟の政治論に熱心なるを見て、軽躁不遜(けい
 そうふそん)なりと称し、
  その罪を今の教育法に帰せんと欲するが如し。
  福沢先生、その誣罔(ふもう、作り事を言って人をそ
 しること)を弁じ、大いに論者の蒙を啓ひらかんとて、
  教育論一篇を立案せられ、中上川(なかみがわ)先生
 これを筆記して、
  『時事新報』の社説に載録せられたるが、今、これを
 重刊して一小冊子となし、学者の便覧に供すという。
         明治一五年一一月」
  また、この頃の主な代表的意見は・・、
  加藤弘之は、1887年(明治20年)に「徳育方法案」を
 出版し、
  「道徳の大主・・旨とするは愛他心」であるとして、
 宗教の必要性を説いた。
  小崎弘道は、加藤の意見に賛成し、
  「道徳は到底宗教に依らざれば実行す可らざること」
 を「六合雑誌」に掲載した論文で再三繰り返した。
  杉浦重剛は、「日本教育原論」(1887年)で、
  「理学」こそが道徳の向上に寄与すると説いた。
  さらに、山崎彦八の「日本道徳案」(1889年)は、
  「鍛錬主義」を主張し、慣習の力をもって道徳を教え
 ることが肝要だとした。
  そのほか、道徳教育の方法をめぐってさまざまな意見
 が出され、西村茂樹の「日本道徳論」(1887年)もその
 一つである。
  この論争は「教育勅語」発布によって終焉した。
  近代日本の「内部の開化」をめぐる論争だった。
1884年8月、外務卿・井上馨が、条約改正に関する覚書を、
 各国公使へ送付した。
  「内地開放は、領事裁判権の全廃と同時に行う」とし
 た。
  領事裁判権は、不平等条約によって定められた治外法
 権の一つだった。
  日本での外国人の事件が、日本人が裁くことが出来な
 いという条項だった。
  在留外国人が起こした事件を、本国の領事が本国法に
 則り裁判するという権利で、日本は裁判権を失っていた。
1884年9月1日、1883年10月に発生したマーシャル・ラエ島
 の日本人虐殺事件の調査に、二人を派遣した。
1884年9月5日、宇品港(広島港)の築港に着手した。
  県令・千田貞暁が、県下の良港開削を計画し、土地の
 興行に資するため、どんな大船でも出入出来るようにと、
 築港費18万円の予算を立てた。
  しかし、地元の宇品沿岸一帯の農民は、漁場を奪うも
 のだとして、猛烈に反対した。
  続いて、巨額の築港費に伴う増税を恐れた人達が、こ
 れに相呼応して反対した。
  千田県令は、説明して回り、必要性を説いた。
  築港が、海運業にもたらす大きな良い効果、また、国
 際的発展の門戸として、重要な役目を果たす事などを説
 き、築港の急務を叫んだ。
  そして、工事に着手した。
  しかし、工事が始まると反対論者は、以前に倍加して
 攻撃した。
  特に、築港費が予算を超過したのを理由として、遂に
 県令は、同県を追われた。
  新潟県への転任の止むなきに至った。
  そして、やっと1889年(明治22年)に、築港工事が完
 成した。
  この宇品港は、この後、日本の大切な港として発展し
 て行った。
  千田県令の先見の明が、今更の如く認められ、その功
 に依って勲二等が叙された。
  また、瑞宝章も授けられた。
  また、広島県の代表者が、遠く宮崎県に赴き、当時・
 同県知事たる千田氏へ、感謝の意を述べたという逸話も
 ある。
  築港のため追われた者が、そのため賞せられて、後に
 男爵にさえ列せられた。
  港に面する広場には、長くその遺徳を表彰する銅像が
 建立された。
1884年9月16日、竹久夢二(たけひさゆめじ、画家、詩人)
 が、生誕した。
  岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)
 に、代々酒造業を営む家に、次男として生まれた。
1884年9月22日、星亨(ほしとおる)が、官吏侮辱罪で逮捕
 された。
  新潟県での、専制的な政府を批判する演説会だった。
  演説会に立ち会った新潟県警の警察を言論で侮辱した。
  そのために、「官吏侮辱罪」に問われ、6ヶ月の禁固と
 40円の罰金刑を受けた。
  尚、服役中、自由党解党にあい、獄中から反対した。
  演説内容は・・、
  「ロシアに国会なく、ドイツに国会はないに等しい。
 両国は国民の義務として徴兵をしているが好ましくない。
  宗教、教育に干渉し、人間に等級を設けている。
  私が、政治を行なえばその様なことは行わない」・・
 などだった。
1884年9月23日、加波山事件(かばさんじけん)
  茨城県下で、自由党の加波山事件が起きた。
  河野広躰ら自由党員16人が、茨城県加波山に立て籠も
 り挙兵檄文をまいた後、下妻警察署町屋分署を襲撃した。
  自由民権運動は、激化して来ていた・・
  そして、政府の対抗する圧力に狂暴化して行った。
  1884年9月に、宇都宮で行われる栃木県庁の落成式に
 出席予定の太政大臣・三条実美(さねとみ)以下の顕官暗
 殺を計画し、
  茨城自由党員・富松正安(とまつまさやす)らを同志に
 引き入れた。
  彼らは、落成式が9月15日に行われるという情報を得て、
 計画実行のために、一方では、河野らが東京・神田神保
 (じんぼう)町の質屋に強盗に押し入って、資金を得よう
 として失敗し、
  他方では、鯉沼が、爆裂弾の製造中に誤って重傷を負
 った。
  その上、落成式は延期された。
  官憲は、強盗に押し入った河野、横山信六(しんろく)
 らを追い、下館有為館(しもだてゆういかん)に潜伏して
 いることをつきとめ、事態は急迫して行った。
  栃木・茨城・福島の自由党員16人は、1884年初めには、
 県令・三島通庸(みしまみちつね)らの暗殺を計画してい
 た。
  1883年末には、政府転覆を目指して爆弾の製造を開始
 していた。
  また、政府転覆を企てていた栃木県党員・鯉沼九八郎
 らと結び、大臣顕官の暗殺を計画した、しかし、失敗し
 ていた。
  これら自由党員が、茨城県の加波山に集まって「革命
 挙兵の檄」を発表し、挙兵した。
  警官隊と交戦(衝突)し、数日で鎮圧された。
1884年9月25日、夕刊紙の今日新聞が創刊した。
  小西義敬によって、日本初の本格的夕刊紙として東京
 で創刊された。
  後の都新聞、そして、東京新聞。
  主筆は、仮名垣魯文
1884年9月26日、加波山事件の14人が解散して逃亡するが、
 後、全員逮捕された。
1884年9月、秩父地方の農村で、自由党員・井上伝蔵に指導
 された秩父困民党が結成された。
1884年9月、荻野吟子(おぎのぎんこ)が、試験に合格し、
 女医第1号となる。
  日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術
 開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年~1893
 年)ほか何人かの女性医師が開業していた。
  西洋医学を学んだ女性医師としては、シーボルトの娘・
 楠本イネ(1827年~1903年)がいる。
  荻野吟子は・・、
  1870年(明治3年)に、夫からうつされた淋病がもとで
 離婚した。
  上京し、順天堂医院に入院。婦人科治療をうけるが、
 そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、
  男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験か
 ら、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたい
 という決意により、女医を志した。
  1875年(明治8年)に、東京女子師範学校(お茶の水女
 子大学の前身)の一期生として入学し、
  1879年(明治12年)に、首席で卒業した。
  1884年(明治17年)9月に、医術開業試験前期試験を他
 の女性3人と受験し、
  吟子1人のみが、合格して、資格を得た(翌年の後期
 試験も合格し、開業した。
  新聞や雑誌が「女医第一号」として大きく扱った)
1884年10月1日、帽子商・小山梅吉が、国産の蝶ネクタイ
 第1号を造った。
1884年10月1日、海軍艦隊編成例が、制定された。
  日本海軍における最初の艦隊編成を定めた単独法令で、
 「聯合艦隊」の名称が、初めて登場した。
  「二艦隊以上ヲ集合シテ聯合艦隊ヲ編成スルコトアリ」
  1894年(明治27年)7月19日に、聯合艦隊が、初めて
 実質的に編成された。
  警備艦隊が、沿岸警備充実を目的とし「金剛」「赤城」
 ほかの砲艦で、同年・1894年7月13日に編成された。
  ・・が、西海艦隊へと改称されると共に、常備艦隊と
 西海艦隊によって「艦隊規定例」による最初の聯合艦隊
 が編成され、
  司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が、
 兼務する事になった。
1884年10月1日、古河市兵衛が、本所鎔銅所を開業した。
  古河鉱業本所溶銅所伸銅所(現:東京市麹町区八重洲
 町一丁目)
  同社は、元と古河鉱業事務所と称し、
  明治八年(1875年)古河市兵衛氏の創立に係るものな
 り。
  同氏は、眇たる一行商より身を起して遂に天下の富豪
 となり、
  銅山王の名を天下に轟かしゝもの、蓋し堅忍不撓幾多
 の辛酸を嘗めて其経営に力を致しゝに由らずんばあらず
 ・・と、渋沢栄一記念財団のホームページにあるが、
  以下の記述もある・・、
  日本の銅は、ほとんどが海外に輸出されていたが、産
 出された粗銅は品質が不安定で、
  海外での評価はまだまだ低かった。
  市兵衛は、その解決のために精銅事業への進出を決意、
  1884年、東京の本所に、本所溶銅所を開設した。
  溶銅所の開設には、もうひとつ狙いがあった。
  銅加工品の生産である。
  精銅品質を向上させることで輸出市場を開拓し、銅加
 工品の生産によって国内市場を広げていく。
  これが市兵衛の狙いだった。
  銅を中心とする多角経営への第一歩だった。
  操業2年目の1885年には、本所溶銅所の精銅高は、日本
 の産銅の約3分の1に達し、
  日本を代表する精銅所の地位を確立した。
  しかし、古川市兵衛の経歴には、1883年とある・・、
  1832年、古河市兵衛、京都の没落した庄屋の子として
     生まれる。
  1844年、御手山稼ぎを廃止する。銅山は休山状態にな
     る。
  1868年、足尾銅山は、明治新政府に没収され、真岡県
     が管轄する。
  1869年、管轄が日光県に移り、県営銅山となる。
       古河市兵衛、小野組別家に取立てられ、関東・
     東北の事業を任され、鉱山業にも進出する。
  1872年、栃木県が足尾銅山の資金援助を政府に要請、
     鉱山寮技師長ゴットフリーが調査して民営移管
     を示唆、野田彦蔵に足尾銅山を払下げる。
  1874年、政府の政策変更で小野組瓦解、古河市兵衛は
     裸1貫で再起を図る。
  1875年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て草倉銅山の
     経営を開始、成功を収める。
  1877年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て足尾銅山を
     買収する。半年間妨害のため事業に着手できず、
     木村長七らの間歩調査が行われ再建策まとまる。
  1878年、本口坑などで古河直轄の直営開鑿を決定。
  1880年、渋沢栄一が足尾銅山の経営に参加。
      銅山不振がつづき四代坑長に古河市兵衛の甥・
     木村長兵衛を起用、背水の陣を布く。鷹之巣坑
     開鑿を開始。
       古河は商標をとし、鉱業専業を宣言する。
  1881年、鷹之巣坑で神保の直利を補捉、足尾銅山好転
     に向かう。
  1882年、本口坑開坑で横間歩大直利を補捉、月産銅量
     が前年の年産を突破する。
  1883年、足尾産銅量が発展、日本の首位になる。
     直利橋製錬分局、本山病院、東京・本所熔銅所
     をそれぞれ創設。
     足尾町内の道路大改修を開始する。
.
  (今日の言葉)
.
  題:正確な情報を惑わすもの・・
   特ダネ意識・キリスト教教義による偏見・国の規模によるプロパガンダ
.
1945年2月、第二次世界大戦のヤルタ会談の直後、
  戦後のドイツ・日本を決める会議が開かれた。
  一般市民の方々が知らないこと、また、知らされない
 事々が多い中、
  今、それらの情報が、真実が公開されて来ている。
  その一方・・
  また、「朝日新聞が始めた慰安婦の虚偽報道」のよう
 に、
  特ダネを書きたいと「嘘が書かれた」という事態もあ
 る。
  この朝日新聞の虚偽報道で、日本が、どれほど大きな
 被害を受けたことか、本当に計り知れない大被害を受け
 た。
  (この様な行為で、真実を知るのに大きな回り道を、
 人々は強いられている)
  また、大東亜戦争(第二次世界大戦)の早期終結を妨
 げた、中国による、アメリカに於いてのキャンペーン。
  それによる、早期終結への攻撃の被害による歴史のね
 じ曲げ、
  そして、ルーズベルト大統領のキリスト教教義「シャ
 ローム」から来る「無条件降伏要求(完全破壊思想)」、
  そして、同じキリスト教教義から来る「有色人種蔑視」
 の「ルーズベルトの日本人嫌悪」。
  これら諸々の事から、「原爆投下に至る不幸へ道」を
 伴った経過の中・・、
  そこへ至る1945年2月に・・ヤルタ会談の直後に、
  ルーズベルトは、自分が考える「ドイツの工業力剥奪」
 や、「ドイツに対する賠償」を打ち合わせる会議(連合
 軍委員会)に、
  ルーズベルトは、この自分の考えと同じ考えであるイ
 ザドア・ルービンを、アメリカ代表として任命した。
  ドイツへの厳しい賠償要求後、戦後占領は避けられな
 いと見られていた。
  そして、その頃に出された日本に対する報告書には、
 「日本経済の最低限度を維持するに必要のないものは、
 すべて没収する」・・とあった。
  この最低限度とは、「日本が占領した諸国の生活水準
 以下の生活水準レベル」という意味だと規定されていた。
  「軍需産業関連の機器はすべて破壊する」、
  「賠償取立ての対象となる工場と機械」が指定され、
  「航空機工場はすべて没収」「陸海軍工廠(こうしょ
 う、旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・
 修理した工場)もすべて没収」「年間150万トン以上の鋼
 材を賠償対象として没収」など、
  日本が二度と一級の工業力を持たないようにとされて
 いた。
  ルーズベルトの頭の中は、戦争に至るものを排除した
 後は、平和国家として復興し、元に戻すなどという甘い
 考えはなかった。
  アメリカ大統領のルーズベルトの頭の中は、「永久に
 他のアジアの国々以下の工業力しか与えず、二度と戦争
 に至る様な工業力は持たせない」という考え方にあった。
  主要な重工業は勿論、完全に、すべて持たせないなど
 だった。
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2016年8月14日日曜日

(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年8月)

題:(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年7月28日、京都二条城が離宮に定められた。
  宮内省の所管となり、「二条離宮」と改称した。
  「廃城令」とか、「城郭取壊令」とか、または、「存
 城廃城令」とかと略される令・・1873年1月14日に出さ
 れた全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじ
 ょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせ
 んていかた)によって、廃城がいっぱい出た・・、
  二条城が廃城にならなかったのは・・、
  この「二条離宮」への動きがあって、宮内省の所管に
 なる動きのため・・、
1884年7月、文部省に、図画教育調査会が設置された。
  1880年代半ば頃、日本では、「国粋保存」の思潮や、
 日本美術・日本画復興の機運が高まりを見せた。
  その一方で・・、
  1883年(明治16年)、工部美術学校が廃校になるなど、
 西欧風美術教育は後退しつつあった。
  こうした状況を背景に・・、
  1884年(明治17年)に、文部省内に設置された「図画
 教育調査会」の決議に従って、
  1885年、文部省の専門学務局内に、図画取調掛(ずが
 とりしらべがかり)が設置された。
  同掛は、濱尾新を委員長にして、岡倉覚三(天心)・
 フェノロサ・狩野友信を委員に、西欧の図画教育の実態
 調査を委嘱され、
  翌年・1886年に、岡倉とフェノロサは、欧州の調査旅
 行に出発した。
  因みに、図画取調掛は、文部省内に設置された部局で、
 東京美術学校の直接の前身となった。
1884年7月、東洋絵画会の結成を決定した。
  この前身の竜池会は、1879年(明治12年)に設立され
 た美術愛好家の団体だった。
  佐野常民(さのつねたみ、日本赤十字社の創始者)や、
 河瀬秀治、山高信離といった人たちが、東京・上野の不
 忍池にある弁天社の境内に集まって、古書画の展示会を
 開いたのが発端だった。
  これらの人々は、いずれも、明治政府の官僚であった。
  しかし、維新後の極端な欧化政策の中で、わが国の伝
 統美術が衰微していく情況に、危機意識をもった人たち
 だった。
  また、欧米讃美で、国内で顧みられなくなった日本の
 美術品が、海外に大量に流出していた。
  その影響もあって、ヨーロッパでは、その日本美術の
 素晴らしさで『ジャポニズムの風潮』が生まれていた。
  このメンバーのこれら官僚らは、この風潮を利用した
 美術工芸品の輸出、
  すなわち、殖産興業に結びつけようという意図もあっ
 た。
  こうした行動は、政府の施策にも反映した。
  日本画(東洋画)の保護奨励を目的とした政府主催の
 絵画共進会が開催されるに至った。
  この様な中、東洋絵画会は、竜池会からの呼びかけに
 応えて結成された。
  画家サイドの団体であった。
  画家サイドの団体とはいうものの、会長には品川弥二
 郎(当時は農商務大輔、そして、政治家、子爵)が就任
 した。
  1887年(明治20年)、竜池会は拡大・改組され、日本
 美術協会が設立された。 
  この時、東洋絵画会も、この日本美術協会に合流した。 
1884年8月10日、自由党の有一館が設立された。
  自由党が、文武研究所として有一館を開館した。
  群馬事件などの過激な事件の発生は、関東にあって、
  自由党の党勢は、関東において、大いにふるっていた。
  関西は沈滞し、あるいは、脱落傾向のみが強くあらわ
 れていた。
  自由党首脳部は、6月5日に、大阪で関西有志懇親会を
 開き、同志の団結をはかった。
  そして、先に解党した旧立志政党員の自由党への入党
 を呼びかけた。
  また、相輝館を新設して、活動の便宜をはかった。
  この様な、地方懇親会が、いたるところで聞かれた。
  そして、結合の強化がはかられた。
  さらに、6月下旬には、有一館がほぼ竣工し、
  8月10日に至って、開館式が行われた。
  この様に、党首脳部の党維持の努力は、続けられたが・・、
  ついに、9月には、自由党が解散に追い込まれる事件・
 加波山事件がおきた。
1884年8月10日、武州御殿峠に困民党が蜂起した。
  明治10年代後半、特に、1883年(明治16年)~1885年
 (明治18年)にかけて、
  神奈川県は、激しい経済的混乱に陥(おちい)った。
  繭や生糸の値が大暴落し、職人や人力車夫の手間賃も
 急落を続けた。
  1881年(明治14年)と1884年(明治17年)の物価や、
 手間賃の統計をみると、30%~50%のひどい落ち込みが
 見られる。
  松方デフレ下の農村は・・悲惨だった・・、
  対応策が図られていたが、農民たちは、困民党を組織
 して、状況の積極的打開をはかろうとした。
  しかし、その運動が一頓挫(とんざ)をきたし、新たな
 運動を組織しはじめた。
  その様な、時期に、非常に大きな問題をかかえていた。
  松方デフレの影響を、営業・生産活動の停滞や、生活
 の破壊の形で、
  まともに背負うことを余儀なくされた底辺の民衆は、
 困民党を組織し、当面する敵対者であった高利貸資本に
 対し激しい闘いをいどんで行く。
  神奈川県下の底辺の民衆の多くは、地租や地方税負担
 の重さにくらべ、問題にならないほど多くの負債をかか
 えて、呻吟(しんぎん、苦しんでうめくこと)していた。
  神奈川県の民衆は、過重な負債の負担軽減をもとめて
 1884年(明治17年)3月以降、組織的な行動を開始した。
  大衆集会を開いて、債主に対し示威行動を展開すると
 いう形をとった。
  それを最初に行なったのが、神奈川県の南西部地域(
 大住郡・淘綾郡・足柄上郡などで、現在の平塚・大磯・
 秦野の周辺地域)の人々であった。
  1884年7月終わりになると、南西部地域の困民党にかわ
 って、武州と相州の国境付近の民衆が、新たな運動のに
 ない手として登場した。
  相州高座郡上鶴間・下鶴間・磯部・鵜野森村(鶴間組
 困民党)、武州南多摩郡木曽・根岸・高ケ坂・鶴間村(
 木曽・小川組困民党)、同じ南多摩郡の南大沢・松木・
 宇津貫村(柚木組困民党)などで、
  1884年7月31日に、高座郡上鶴間村谷口の鹿島神社に、
 最初の大衆集会を開いた以後、各地で集会・総代会議を
 開いた。
  そして、ついに、1884年8月10日に・・、
  八王子の町を眼下に見おろすことのできる御殿峠に、
 数千人の困民を集結させ、打ちこわし前夜のたかまりを
 見せた。
  そして、1884年8月10日の夕刻から、御殿峠は、高座郡・
 南多摩郡・都筑郡などの村々から集まって来る農民たち
 で喧噪(けんそう)をきわめた。
  彼らは、蓑笠に身をかため、筵(むしろ)や竹槍を用意
 し、太鼓を打ちならして、八王子の町へ押し出ようとし
 ていた。
  掲げた要求は、借金の五年据置き、五十か年賦だった。
  要求が入れられなければ、実力行使も辞さない・・と
 いう激しいものだった。
  この運動は、1884年(明治17年)を中心に、武相の山
 野に一年以上にわたって繰り広げられた。
  負債問題をいかに解決するかをめぐる争いのため、簡
 単には解決に至らなかった。
  多くの人が負債で難儀しているとき、困難打開のため、
 なんらかの配慮がおこなわれて当然、と思っている人と、
  契約どおりに借金を返すのは負債人の当然の義務、と
 考えている人・・、
  その争いは、簡単に解決できるような対立ではなかっ
 た。
  この運動は、民権運動の「旦那衆」に対して、困民党
 の担い手は、「底辺民衆」だった。
  その意味で、民権運動の出来ない領域の、民権運動の
 限界をこえる運動だった。
1884年8月19日、秋田小坂鉱山の払下げ許可が藤田組に下り
 た。
1884年8月24日、森鴎外が、ドイツ留学のため横浜を出発し
 た。
  1862年1月19日、島根県津和野で、御典医の家柄に生ま
 れた(長男)。
  小説家、評論家、翻訳家、軍医で、本名:林太郎とい
 う。
  1869年(7歳)藩校養老館で漢学を学ぶ、また、父に
 ついてオランダ文典も学ぶ。
  1872年(10歳)旧藩主亀井氏に従って、父とともに上
 京。
  親戚の西周(にしあまね)邸に奇遇(きぐう)し、本
 郷の進文学舎に通い、ドイツ語を学ぶ。
  1874年(12歳)東京医学校予科に入学
  1877年(15歳)東京大学医学部本科生となる。
  1881年(19歳)7月、東京大学医学部を卒業。
  しばらく、当時、千住(せんじゅ)で開業していた父
 の医療を手伝う。
  1881年(19歳)12月、陸軍省に入り、陸軍軍医となる。
  1884年(22歳)~1888年(26歳)9月、多年の念願が
 かなって、ドイツへ留学(4年間)、ライプツィヒ大学の
 ホフマン教授、ミュンヘン大学のM・ペッテンコーファ
 ー教授、ベルリン大学のコッホ教授らについて衛生学を
 学んだ。
  その一方、多くの文学書に親しみ、
  また、日本の評価をめぐって、新聞紙上で、日本弁護
 の論陣をはり、地質学者ナウマンと論争するなどの活躍
 をした。
  また、K・ハルトマンの美学に傾倒した。
  1888年9月、帰国後の・・
  1888年(27歳)10月、この頃、鴎外の後を追って、来
 日した「舞姫」のモデルの女性を説得して帰国させた・・
 との甘い話がある。
  1889年(27歳)1月、「東京医事新誌」の主筆に就任
  1889年(27歳)3月、啓蒙誌「衛生新誌」を創刊、
  1889年(27歳)3月、赤松則良(のりよし)男爵の長女・
 登志子と結婚したが、約1年半で離別した。
  1889年(27歳)9月、帰国後、陸軍軍医学舎の教官に任
 じられたが、
  その職務のかたわらジャーナリズム活動を開始した。
  1889年(27歳)10月、「文学評論しがらみ草紙」創刊、
 きわめて闘争的と言われるジャーナリズム活動をした。
  1889年(27歳)11月、ゆえあって「東京医事新誌」を
 去ると、
  1889年12月に「医事新論」を創刊した。
  1890年(28歳)9月、両誌を統合して「衛生寮病志」
  1890年(28歳)「舞姫」を発表し、文壇に登場。
  1891年(29歳)~1892年(30歳)坪内逍遥との「没理
 想論争」が注目された。
  1893年(31歳)~1894年(32歳)医学界中枢と対峙(
 たいじ)した「傍観機関」論争、
  1896年(34歳)「めさまし草」を創刊、
  1897年(35歳)「公衆医事」を創刊、
  1900年(38歳)近衛師団軍医部長兼軍医学校長から、
 小倉の第12師団軍医部長へ転勤(1899年説あり)、
  これは、文学活動が災いしたか?と言われている。
  1902年(40歳)第一師団軍医部長として帰京。
  これまでの間、問題となっていた創作はしなかった。
  フランス語の学習、唯識論の沈潜、クラウゼヴィッツ
 の「戦争論」の訳述など・・勉強の日々を送る(文学活
 動再開は1909年)
  1902年(40歳)荒木志げを妻に向かえる。
  1902年(40歳)3月、第一師団軍医部長に任じられ帰京、
 帰京後、「めさまし草」にかえて、「万年艸(まんねん
 ぐさ)を創刊、
  この頃、新歌舞伎や長詩の詩作が注目された。
  1904年(42歳)日露戦争に第二軍軍医部長として出征、
  軍陣の余暇に詩歌の創作に努め、後に「うた日記」と
 してまとめられた。
  1906年(44歳)山形有朋を囲む歌会常磐会(ときわか
 い)をもつ。
  1907年(45歳)短歌諸派の興隆を企図して、自宅で観
 潮桜歌会を始める。
  1907年(45歳)11月、陸軍省医務局長に就任、
  1907年以降は、陸軍のボス山形有朋の後援を受ける。
  一方、諮問に応じて、インフレ対策論や、国家社会主
 義に近い社会改革論を献策したり、
  行動範囲は広範・・、
  1909年(47歳)~1916年(54歳)、反自然主義文学の
 立場で執筆活動を全面的に再開させ、
  文壇を盛況にした。
  作品:翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「フ
 ァウスト」、
  小説「舞姫」「青年」「雁(がん)」「ヰタ・セク
 スアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎(1916年)」
  ・・「半日」「妄想(もうぞう)」「興津弥五右衛門
 の遺書(1912年)」など多岐にわたり執筆し、大きな業
 績を残す。
  1916年(54歳)軍医総監医務局長を辞任する。
  1917年末(55歳)帝室博物館総長兼図書頭(ずしょの
 かみ)として宮内省に入る。
  1919年(57歳)帝国美術院初代院長に就任、
  1921年(59歳)図書寮の仕事として、「帝諡考(ていし
 こう)」を完成し出版する。
  1922年7月9日、委縮腎と肺結核で没す(60歳)
  墓所:東京・三鷹市の禅林寺
  生家は、津和野町で保存されている。
  1892年以降の住居、文京区千駄木(せんだぎ)の観潮
 桜跡には鴎外記念本郷図書館が建つ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:終わるべき戦争も、終わらない事態が現出していた。
.
1945年5月28日、アメリカの国務長官代行のジョセフ・グル
 ーが、トルーマン大統領を訪れ、
  第二次世界大戦を終わらせるための打ち合わせを行な
 った。
  ルーズベルトの死から1ヶ月半が経っていた。
  また、ナチス・ドイツは崩壊していた。
  日本との戦いは、沖縄戦が展開されていて、最終的な
 局面を迎えていた。
  このグルーは、日米が開戦するまで、日本の大使をし
 ていて、
  日本の事情に良く精通していた。
  グルーは、天皇陛下に戦争責任はないと考えていた。
  そして、天皇制の維持を約束する事が、「早期に、戦
 争を終結する事になる」と考えていた。
  ルーズベルトの「日本人に対する異常な嫌悪感」、そ
 して、「無条件降伏の押し付け」という考えではなかっ
 た。
  トルーマンは、その話を聞き、自分になかった見聞と
 考え方・判断を聞き、感謝し、同意した。
  そして、トルーマン大統領は言った・・、
  「異論はない。ただ、軍の指導層がどう考えるかだ」
 ・・と。
  そして、その翌日、開かれた会談にグルーは出席し、
 協議がなされた。
  陸軍長官のスティムソンは、グルーの考えに賛意を表
 明した。
  しかし、その他のメンバーは、今、沖縄で戦いが展開
 されているからと、理由にならない理由で、協議の決定
 を先延ばしにした、
  決定にはには至らなかった。
  死闘を繰り広げられている中で、今までの条件を緩(
 ゆる)めるのは良くないという、理由にならない理由だ
 った。
  日本としての、日本の皇統が維持されるなら、早期に
 戦争を終結しようという考えには、思いが及ばなかった。
  ここに、中国の異常なプロパガンダがあった。
  「天皇制への攻撃」の中国のプロパガンダが影響して
 いた。
  これは、すでに、アメリカで広く知られ、天皇の戦争
 責任が、「間違って喧伝されていた」。
  今、現在の中国・韓国の慰安婦のプロパガンダの様な
 事が、この時もなされていた。
  終わるべき戦争も、終わらない事態が、現出していた。
  尚、今・最近、中国は、金の力で「アメリカの新聞社」
 を買っている(シカゴの新聞社)。
  急に論調が、中国寄りとなった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月12日金曜日

(増補版)398E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年7月)

題:(増補版)398E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年7月21日、横須賀造船所の開渠式
  日本海軍の造船工業に、一つの転機をもたらした横須
 賀造船所。
  その造船所のドック竣工式が行われた。
  北白川宮能久親王殿下(きたしらかわのみやよしひさ
 しんのう、明治天皇陛下の義理の叔父)には、海軍卿・
 川村純義以下の随員を従えて、御臨場いただき、
  儀式は、華麗かつ荘厳を極めたという。
  1880年(明治13年)6月より、伊豆や相模の各地から船
 渠用の石材切出に着手し、
  石の総数約27,800個、使役延人数約272,600人という大
 工事であった。
  新聞報道も、当時としては珍しい電燈が、式当日の夜、
 点火され、不夜城を現出したと報じている。
  1887年(明治20年)正月に、東京市街に電燈が点火さ
 れ始めるより3年も前の事で、
  人々が驚異の眼で見つめたと伝えている。
  現在の米海軍横須賀基地にあった横須賀製鉄所(造船
 所)が、1865年(慶応元年)11月15日に建設が始められ
 て・・という説明もある。
  造船所の計画は、フランスの力を借り、現実化した。
  幕府は、アメリカに協力要請をしたが、
  当時、アメリカは南北戦争中で協力できないと言われ
 た。
  この時、フランスは、主要産業の製糸業の「カイコ」
 が、伝染病によって壊滅した。
  産業が成り行かない状態となり、日本に生糸輸入を頼
 り、また、伝染病に強い「カイコ」を求めた。
  駐日フランス公使・ロッシュは、積極的に幕府への接
 近を図った。
  この時、この幕府とフランスとの仲立ちをしたのが、
 栗本鋤雲(くりもとじょうん、外国奉行)だった。
  栗本鋤雲は、幕閣・小栗忠順(おぐりただまさ、のち
 小栗上野介、勘定奉行、外国奉行)と竹馬の友であり、
  また、関係を作ったフランス人のカションは、栗本が
 函館にいた時に共に過ごした仲だった。
  小栗、ロッシュ、栗本、カションの4人で話が進み、1
 ヶ月もたたないうちに、造船所の設置場所として横須賀
 決定されるというトントン拍子に話が進んだ。
1884年7月22日、横浜正金銀行が「外国人為替取組手続き」
 を定めた。
  厳しいインフレの収束が課題となっていた1880年にな
 ると、
  正貨の吸収と、生糸などの主要物品の直輸出奨励を通
 じた貿易の振興を目的に、
  輸出商と政府が、主要な担い手になる形で、為替専門
 銀行として横浜正金銀行が設立された。
  直輸出奨励金融・・御用外国荷為替制度の成立・・
  正貨吸収を主目的とする御用外国荷為替制度の成立・・
  御用外国荷為替制度の発展・・外国人為替取組制度の
 成立・・
  日本の貿易は、居留地貿易が支配的であり、外国商人
 を相手として、外国為替業務を行ってこそ、同行が外国
 為替業務を拡張することができた。
  これによって、「海外為換の権を占むる」ことができ、
 また、輸出為替手取金として正貨、外貨を獲得すること
 もできた。
  外商との外国為替取組は、これまで外国銀行によって
 独占的に取扱われてきた。
  だが、マーカンタイル銀行が、困難に陥り、正金銀行
 設立の前年の1879年に、一時、横浜支店を閉鎖し、同年
 までに、オリエンタル銀行は前述の要因によって、殆ん
 どの準備金を失って、無能力となっていた。
  セイロンのコーヒー生産が、黄葉病による打撃を受け
 たことも、同行の貸付金回収不能をもたらし、オリエン
 タル銀行の経営危機をもたらした。
  オリエンタル銀行の営業状態が、危険性を孕んでいる
 という噂も、1883年には、その筋の人々の耳に入ってい
 た。
  また、その他の在日外銀も資金が不足していた。
  すなわち、1883年に、「外国各商館並ニ銀行ニ於テ金
 融極メテ逼迫当行〔横浜正金銀行〕ヘ為替ヲ依頼致旨申
 込候申込候者」が少なくなかった。
  原頭取は、「時期こそいたれり」と、1883年8月初旬頃
 から、外国商人に対する荷為替取組開始の計画を練った。
  同年・1883年10月24日に、原頭取は、「外国人為替取
 組ニ付伺」書を、松方大蔵卿宛に提出した。
  この上申書において、「好時機ヲ失ハス彼等〔外国人〕
 ノ依頼ニ応シ候ハゝ往々外国為替拡張ノ基トモ相成可申
 且外国ニ於テ収入スヘキ金額モ増加可致」と主張した。
  1883年10月30日、松方大蔵卿は、この出願を認可し、
 かくして、正金銀行は、外国銀行の力の弱まった機会を
 利用して、外国人為替取組を開始するに致った。
  堅実経営方針をとる正金銀行は、身元確実で信用でき
 る外商だけを相手に、為替を取組み、外国人為替は、支
 払延滞の憂いがなかった。
  しかも、この為替の抵当物が外国に到着すると、ただ
 ちに、この為替手形は外国で割引され、荷物が引取られ、
  正金銀行は、支払期限以前に為替金の支払を受けた。
  かくして、外国人荷為替取組開始後、この取扱高は増
 大した。
  外国人為替取組の前途は、有望であった。
  松方大蔵卿は、正貨の吸収、外国為替権の回復を図ろ
 うと考えていた。
  前者に関しては、松方大蔵卿は、紙幣整理政策を推進
 していたが、このためには、紙幣の正貨(金銀とくに銀)
 との交換消却のために、政府が、正貨を国内で蓄積しな
 ければならなかった。
  政府は、準備金中の紙幣を、正金銀行に預入れ、同行
 に外国荷為替を取組ませ、輸出為替手取金(外貨)で返
 納を受け、これを日本に現送しようとした。
  しかも、正貨の獲得は、外債利払・軍艦代その他の各
 庁経費などの政府対外支払上からも必要であった。
  とくに、1882年以来の、軍備拡充計画に伴って、海軍
 艦艇等の代金の対外的支払が増大したことが、この必要
 性を高めたのであった。
  これについて、松方大蔵卿は、紙幣整理のための財政
 整理を断行したけれども、
  国権の強化・対外的危機(1882年の朝鮮事件)への対
 処のために軍事・警察機構を大蔵卿就任以来強化しよう
 とした。
  軍備拡張は、1882年12月25日に、政府部内で正式に決
 定され、
  軍事費は、1883年度以後、急速に増大した。
  海軍軍備拡張案は、1882年には、出超による正貨不足
 の相対的解消を背景として、
  前年の漸進的整備・国産化重点主義から軍艦の輸入依
 存主義に転換している。
  1883年以降、海軍急速整備・軍艦の組織的輸入を中心
 として海軍軍備が拡張された。
  松方が、軍艦兵器輸入の一時的制限を主張するに至る
 のは、国際収支の赤字が予想される1887年(明治20年)
 に至ってからだった。
  かくして、松方大蔵卿は、直輸出奨励という従来の政
 策を基本的に転換しようとした。
  「外国為換金取扱規程」第11条では、為替取組は、原
 則として本邦商人と取組むべきであるとされ、
  「必要ノ場合ニ於テ外商ト取組ヲナサントスルトキハ
 其事由ヲ大蔵省ヘ開申シテ認可ヲ請クヘシ」と定められ
 ていた。
  正金銀行の為替取組を増加させようとすれば、外国人
 為替取組を制度として定着させる必要があった。
  1884年6月9日、大蔵卿・松方正義は、太政大臣・三条
 実美に対して、正金銀行に外国人為替を取組ませるよう
 上申し、
  翌月・7月22日に、太政大臣がこれを認可した。
  同月・7月に、大蔵省は、「外国人為替取組手続」を定
 めて、これを正金銀行に令達した。
  かくして、1884年(明治17年)7月に、外国人為替取組
 制度が成立した。
  「外国人為替取組手続」の制定は、1880年制定の旧荷
 為替法(後に一部改正)、1882年制定の新荷為替法に続
 く、3度目の基本御用荷為替法の制定であった。
  正金銀行は、「外国為換金取扱規程」と「外国人為替
 取組手続」の2法のもとで、外国為替業務を拡張すること
 となった。
  外国人荷為替(輸出荷為替)取組制度の第1の目的は、
 正貨の獲得であった。
  松方大蔵卿の上申書においては、大蔵省が、正貨を十
 分収得できることが、外国人の為替取組依頼に応じる根
 拠とされている。
  また、この制度は、外国銀行に掌握されていた外国為
 替権を日本に取戻すという目的を持っていた。
  外国人為替取組によって、御用荷為替制度が、正貨獲
 得・蓄積という目的を持つことが、ますますはっきりし
 た一方で、直輸出奨励という目的は、後景に退いたので
 あった。
  この制度の樹立は、農商務省、とりわけ1884年に、『
 興業意見』の編纂主任を勤めた同省大書記官・前田正名
 の直輸出奨励構想と鋭く対立した。
  前田は、外商の貿易支配を激しく批判し、地方在来小
 規模産業の保護を主張し、
  その輸出貿易拡張方策の1つとして、海外直輸出荷為替
 金融を便利にすることを主張した。
  すなわち、『興業意見』では、政府が、海外に払出す
 べき正貨に相当する資金を、海外荷為替資金に充当し、
 輸出品に低利をもって荷為替金を貸与し、その貨物を、
 海外輸出品関係の同業組合が設立した海外大商店その他
 に輸送して売却し、この代金で、荷為替資金を支払い、
 この資金を、その地の銀行に振込み、必要に応じて政府
 が、これを引出して用いるべきであると主張した。
  外国人為替取組の手続きは次のようなものだった。
  横浜正金銀行は、政府から預かる外国為替元金〔紙幣〕
 の中から、銀貨〔銀兌換券を含む〕を買入れる。
  この銀貨をもって、参著後6ヵ月以内〔1888年6月の改
 正では4ヵ月以内〕払いの為替を、外国商人から船荷証券
 をとって買入れる。
  外国人為替手形、および、船荷証券は、駐外領事に発
 送され、これらは、到着後、正金銀行出張員に引渡され
 る。
  同出張員は、荷主に、これら書類を引渡し、受取った
 貨幣を領事へ納入する。
  身元が確実で、十分信用できる荷受主に対しては、為
 替金支払の承諾に対し、時宜により人金前でも船積証書
 を引渡した。
  外国人為替を取組む前に、正金銀行が、当座の資金を
 外国人へ貸出すことも行われた。
  外国人為替取組制度成立後、1886年に至るまで、正金
 銀行の為替取扱高が、顕著な増加を示すに至った。
  1884年には、外商を相手とする為替取組高が、同行の
 為替取組高の半ば以上、1885年には、これがその大半を
 占めるに至った。
  1886年1月に、原頭取は、「先年外国人荷為替ノ取組ミ
 ヲ相開キ候テ以来当行為替取組高頗ル巨額ニ上リ当港輸
 出生絲荷為替ノ如キ其総額凡ソ四分ノ三ガ当銀行ニ帰シ
 候相成……今日ニ於テハ本港為替ノ権ハ殆ント当銀行二
 帰セントスルノ有様」であると述べている。
  それではなぜ、正金銀行が、居留地の外国銀行に対抗
 して、外国人を相手とする輸出荷為替の取組を増大させ
 ることができたのか。
  これはまず、第1に、国家の保護が、正金銀行に与えら
 れて同行の基礎が強化されてきたし、
  また、外国人為替取組後、これが強化されたからだっ
 た。
  すなわち、前述の原の改革は、正金銀行と国家との結
 びつきを強めるものであった。
  また、原は、1883年4月の臨時株主総会で、定款の改正
 を行い、「政府の実質的監督権の強化」を図った。
  従来、定款最後の別段規定の条項に規定されていた、
 大蔵卿が必要と認める場合は、正金銀行頭取を改選・選
 定できるという条文は、第8条の頭取選出の条項で規定さ
 れるようになった。
  また、株主の発言投票権は、所有株式500株以上の場合
 にこれを増加しないという従来の制限は廃止され、政府
 所有株の発言投票権は激増した。
  このような正金銀行の国家機関的性格の強化は、政府
 の資金援助を容易にした。
  正金銀行が、外国人為替取組を開始しようとした当時、
 同行は、居留地で銀貨を支払う必要があったが、1883年
 6月の改革で、同行は、所有銀貨を紙幣と交換していた。
  銀紙の相場の開きは残っていた。
  そこで、同行は、8月7日に、居留地外商が、輸出する
 生糸に対する為替を取組むために、銀貨需要に対する準
 備として、年利2%で銀貨90万円の賃下げを大蔵省に出願
 した。
  同年・1883年10月10日に、松方大蔵卿は、銀貨50万円
 に限り、無利子で正金銀行に預入れることを許可した。
  政府銀貨預金に依存して、正金銀行は、外国人為替取
 組を開始した。
  「外国為換金取扱規定」第2条で、政府が、正金銀行へ
 為替資金として預け入れる紙幣の限度額は、400万円と定
 められていた。
  1884年(明治17)2月に至り、太政官へ稟議の上、政府
 は、正貨獲得のために、時機によりては、多少制限額を
 超過して正金銀行に貸出せることを決定した。
.
  (今日の言葉)
.  
  題:歴史的に見ると、意外とあっけないものなのだ・・、
.
   (民族の安定性・・いつまでも続くと思うな親と国)
    しっかり守ろうという気概を持つことが大切・・
    気概:きがい、困難にくじけない強い意志
.
紀元前37年~668年、高句麗が存在した。
  高句麗(こうくり)は、今の中国東北部の南部から
 朝鮮半島北中部にあったツングース系民族による国家と
 いう。
  最盛期は、満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とし
 た。
  隋、唐を始めとする中国からの侵攻を、度々(たびた
 び)撃退したが、
  最終的には、唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。
  このツングース系民族は、満州からロシア領のシベリ
 ア・極東にかけての北東アジア地域にの広い地域に住み、
 ツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族として
 歴史を刻んで来た。
  今・現在のツングース系民族は、満州民族、シベ族、
 オロチョン族、エヴェンキ(ソロンを含む)、エヴェン、
 ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィル
 タなど諸民族が居るとされている・・が・・、
  これらの民族は、満州民族を除いて人口が少なく、漢
 民族(中国語)や、ロシア民族(ロシア語)の影響が大
 きく、固有の文化や居住権が危機にさらされている・・
 と解説されている。
  日本が手を貸して、1932年に建国させてあげた満州民
 族(女真族)は、「今は居ない」と書く書物もある。
  (ここは漢民族の中国の地ではない、ツングース系民
 族の地なのである)
  高句麗は、日本の教育では、朝鮮民族の国と教えられ
 ている。
  朝鮮でも、当然、朝鮮民族とみていて、「中国の北部
 までその領域を広げた国」として誇りにしている。
  また、この中国の北域は、朝鮮民族の領域なのだとい
 う意見が韓国・朝鮮にある。
  今、半島だけのように見られている朝鮮民族ではある
 けれど・・と・・、
  しかし、中国は、高句麗を、「朝鮮民族の国」ではな
 く、「中国の地方政権だ」としている、言っている。
  「朝鮮民族なんかじゃない」としている。
  今、中国の主張している南シナ海の「九段線」が、国
 際的に否定され、「中国領ではなくなった」が、
  この様に、歴史を見ると、民族の行く末・盛衰は激し
 いのである。
  中国の領土的拡大路線は続く・・、
  そして、台湾を中国領とする行動が続けられている、
  そして、日本を飲み込み、「太平洋を半分づつにしま
 しょう」と、アメリカに言っている中国である、
  因みに、今、中国が領有した国は、「内モンゴル自治
 区」「広西チワン族自治区」「チベット自治区」「新疆
 ウィグル自治区」・・など。
  今、中国は、各地を侵略している。
  日本民族も、『平和の夢を貪(むさぼ)っている』と、
 過去の上記の民族の様になる。
  歴史的には、意外とあっけないものなのだ・・、
.
  (追伸)
  もう一度、満州を改めて考えてみると・・、
  上記の様に・・満州は、朝鮮に言わせれば、高句麗が
 あったように「朝鮮のものだったのだ」と言い、
  中国は、今・現在、漢族の中国が、ツングース系民族
 の地を領有していて、「中国の一地方だ」と言うし、
  当時、ロシアは、この満州を含む広域に南下して来て、
 朝鮮まで奪おうとしていた。
  アメリカも、満州の権益が欲しいと、中国を抱き込ん
 で、日本をターゲットとして、ぶつかって来ていた。
  ここ満州は、ツングース系民族の方々の地なのであっ
 て、この弱小の民族であるがゆえに、この様な状況にな
 っていた。
  日本が侵略したというのは、アメリカを含む日本以外
 の国々の「自分に都合の良い言い方だけのこと」であっ
 て、
  弱小の民族の地を、アメリカや各国も侵略していると
 いう状況であった。
  しかし、日本だけは、それを本来の線に戻そうという
 行動をした。
  満州人の地に、満州国を手助けして樹立した。
.
  (追記)
  イギリスとドイツも中国の侵略国だった。
  特に、イギリスは最大の中国領の占領国だった。
..
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2016年8月10日水曜日

(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)

題:(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年6月中旬、第1回医術開業試験が施行された。
  歴史・・、
  1874年(明治7年)「医制」が公布された。
   (文部省より東京・京都・大阪三府に布達)
    国家の試験による医師の開業許可制を採用した。
  1876年(明治9年) 内務省は「医制」を全国に及ぼす。
    各県は、県規則により医師の開業試験を実施した。
  1879年(明治12年)内務省は「医師試験規則」を各県
   に達し、全国統一の試験を実施した。
  (大学卒業者等に対しては無試験で開業免許を授与し
   た)。
  1883年(明治16年)内務省は「医師免許規則」及び「
   医術開業試験規則」を布達。
  1884年(明治17年)より試験実施。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまでは、医師といえば、漢方医が主流であったが、
 医術開業試験の導入により、新規に開業する医師は、西
 洋医学の知識が必須になった。
  これは、医師の西洋化において画期的な出来事だった。
  医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関
 の卒業者に対しては無試験で与えられた。
1884年6月15日、わが国最初の女性専門誌『女学新誌』が
 刊行した。
  (近藤賢三編集)が修正社から発行した。
  ⇒翌・1885年7月20日に『女学雑誌』になった。
  初代編集人の近藤賢三は、婦人論が活発になった風潮
 をみて、それを1年で廃刊し、新たに「女学雑誌」を創刊
 した。
1884年6月24日、和解調停の勧解略則が制定された。
  勧解(かんかい)は、紛争当事者のどちらか一方の申
 し立てによって、裁判所の裁判官が、民事上の争いを和
 解させる制度で、
  江戸時代にあった内済(ないさい、事を荒立てないで
 調停する制度)をもとにして、フランスのコンシリエイ
 ションの影響を受けて成立した制度であり、
  この年に、勧解規則が制定され、治安裁判所に勧解係
 2名を置いて、勧解事件を取り扱った。
  勧解略則施行心得では、勧解係1名は、その地方の資産
 家で、風俗習慣を熟知する人望ある者を選任することに
 なっていた。
1884年6月25日、日本鉄道が高崎まで延長され、明治天皇陛
 下の御臨席のもとで上野駅で開通式が開かれた。
  この日、陛下は上野~高崎間を往復、御乗車された。
  この年、高崎、前橋まで延長され、全通した。
1884年6月25日、貞明皇后の御生誕
  旧摂家・公爵である九条道孝の四女として御生誕の後、
 大正天皇陛下の皇后となられた。
1884年6月26日、参謀本部に測量局が設置された。
  陸地測量事業が、参謀本部に管轄統一された。
  そして、1888年に、測量局が、陸軍参謀本部陸地測量
 部を経て、
  翌年・1889年に、参謀本部陸地測量部となった。
  陸地測量部によって、本格的な全国の三角測量と水準
 測量が行われ、
  正確な地形図が作成された。
  発足時には、参謀本部測量局など以前の組織による測
 量、また、内務省地理局による全国測量の業績があり経
 験豊富な技術者も配属されていた。
  部内の職制は、三角科、地形科、製図科、修技所が設
 置され、
  三角科は、三角測量を主とした広範囲の大地測量を担
 当、
  地形科は、三角測量後の内部の詳細な地形や地物を測
 量した。
  また、修技所は、第二次大戦中、教育部に改称され、
  陸地測量部は、第二次大戦終結の1945年まで継続した。
  その後、地理調査所をへて国土地理院になり、
  教育部(旧修技所)は、国土交通大学校測量部に引き
 継がれた。
1884年6月26日、フェノロサが、岡倉天心とともに関西を巡
 り、法隆寺夢殿の救世観音像を発見し、公開へ・・、
1884年6月、菊亭香水(きくていこうすい、佐藤蔵太郎)の
 『惨風悲雨 世路日記(さんぷうひう せいろにっき)』
 が刊行した。
  明治末年までに、数十万部のベストセラーとなった。
  内容の一例は・・、
  CがBに何か食べさせて馬にしてしまうのだが、馬にな
 ったBにAがなすびを食べさせると、元のBに戻ることが
 出来たという
1884年7月6日、工部省が、長崎造船局を廃止とし、郵便汽
 船三菱会社に貸し下げ、長崎造船所と改称した。
  郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎が、政府から25年
 間借り受けることになった。
  この時、郵便汽船三菱会社は、政府と共同運輸会社と
 の戦いの真最中であったが、基幹産業として着目した。
  岩崎彌太郎が所有する37隻の修理と、造船所経営の必
 要に迫られて、官から民に移譲した。
   急速な近代化を図りたかった。
  背景には官営事業の失敗もあった。
  1887年(明治20年)4月に至り、岩崎彌之助(岩崎弥太
 郎の弟)が、大蔵大臣伯爵・松方正義に長崎造船局の払
 下げを申請した。
1884年7月7日、華族令を定める。
  華族を5爵に定め、制度化する華族令が制定された。
  公爵11人、侯爵24人、伯爵76人、子爵327人、
 男爵74人。 
  (氷川清話)華族に五爵を置く。
  この日、制度取調局の局長・伊藤博文を中心に制定さ
 れた。
  従前の華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区
 分し、基本的に旧公家の華族は家格により、旧諸侯の華
 族は石高により、それぞれの爵位を授爵した。
  また、国家に勲功ある者を新たに華族に列し、勲功に
 よりそれぞれの爵位を授爵した。
1884年7月14日、群馬県・中小坂鉱山を、坂本弥八へ払下げ
 の許可をした。
  この鉱山は、群馬県下仁田町にあった鉄鉱山で、
  江戸時代末期に発見されたと考えられる。
  幕末には、水戸藩が設立した反射炉で使用される鉄を
 供給したり、
  江戸幕府による、溶鉱炉建設予定地ともなった。
  明治維新後は、1874年(明治7年)に、イギリス人技師
 を雇い入れ、洋式高炉などの近代的な製鉄設備の建設を
 開始した。
  イギリス人技師とスウェーデン人技師の技術指導のも
 とで本格的な近代製鉄を始業した。
  民間経営で、良質な鉄を比較的安価に生産することに
 成功し、日本の製鉄業の草分けとなった。
  その後は、1961年(昭和36年)まで断続的に操業が行
 われた。
  中小坂鉄山が発見され、鉱山開発が開始された幕末期
 は、諸外国との緊張が高まりを見せており、
  1850年代、とりわけ1853年(嘉永3年)のペリー来航以
 降、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組むようになってき
 た。
  すでに、18世紀末の段階で、欧米では、旧来の青銅製
 の大砲ではなく、鉄製の大砲が用いられているようにな
 っていたが、
  1840年代、高島秋帆、そして、江川英龍らが、鉄製の
 大砲の採用を進言した。
  しかし、1850年代以降、各地で反射炉が建設されて鉄
 製の大砲が鋳造されたが、せっかく鋳造された大砲の多
 くが不良品であった。
  鉄製大砲の鋳造が上手く行かない原因は、これまでの
 日本の製鉄原料となっていた砂鉄が、大砲の砲身の材料
 鉄としては不向きで、
  岩鉄、すなわち、鉄鉱石の鉄を用いる必要があると考
 えられた。
  当時、水戸藩の徳川斉昭は、強硬な攘夷思想を持って
 おり、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して
 鉄製の大砲を鋳造することにした(成功せず)。
  万延元年遣米使節の目付として渡米した小栗忠順は、
 ワシントン海軍工廠などの見学を通じて、日本に鉱工業
 を興す必要性を痛感した。
  小栗の進言によって、1865年(慶応元年)横須賀造船
 所の建設が開始され、横須賀造船所で用いる鉄の供給元
 として中小坂鉄山が注目されることとなった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:カイロ会談と天皇陛下のお言葉
    (アメリカ・イギリスへの攻撃禁止)
.
1943年11月22日~27日、カイロ会談が開かれた。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この時、日本の無
 条件降伏を改めて要求した。
  日本の降伏がはっきり自覚されて、この会議が開かれ、
 そして、この発言になっている。
  この時は、広島・長崎に原爆が落とされる1年9ヶ月以
 上も前の事である。
  こんなに早い時期から、アメリカの戦争遂行の最高責
 任者であるアメリカ大統領ルーズベルトは、「アメリカ
 が勝つことは間違いない」という見解にあった。
  であるならば、戦争を早く終わらせるために、広島・
 長崎に原爆を落とすのだ・・というアメリカの論理は、
 成立しない。
  「作られた論理だ」と・・この点からも言える。
  この頃、アメリカの極東専門家らの間でも「降伏後の
 日本をどう扱うか?」が話し合われたりしている。
  このように、日本の敗戦は誰の眼にもはっきりしてい
 た。
  原爆投下の必要性は、「まったくと言ってない」。
  中国の重慶では、国民党の孫文の長男の孫科(立法院
 長・国会議長)が、「日本の戦犯を厳しく処せ」と言う
 ほど、日本の敗戦は誰でも知る、世界的に知られること
 になっていた。
  アメリカ大統領ルーズベルトは・・、
  「日本の自動車や航空機のエンジン製造を禁じる」と
 か、
  「軍工場、軍艦の造船所を取り壊す」とか、
  「日本人ほど憎むべき敵はいない」とか、
  「(日本人を)飢えで死なせるほどではない」とかと、
  日本との戦争に、もう勝つという確信の中に居て・・
 好きな発言をしている。
  この様な戦争が、1年9か月続き、原爆が落とされる。
  必敗の日本に落とす必要性は、明らかにまったくない。
  うっぷん晴らしと言える。
  また、アメリカが手に入れていた次期の兵器・原爆の
 威力確認(性能確認)からの投下だった。
  卑劣な、軽蔑すべき・・人体実験。
  白人種のドイツ人の頭上には落さないとヨーロッパで
 言われているように、
  キリスト教の「有色人種の蔑視」の観念に洗脳され、
 マインド・コントロールされた流れの中で、日本人への
 『安易な原爆投下行為』だった。
  (第一次世界大戦後の会議で、日本はあれほど「有色
 人種への蔑視はするな」と言っていたのに・・である)
  日本の敗戦後が、いろいろ話し合われるこの頃・・、
 アメリカのヘラルド・トリビューン紙は、次の報道をし
 た・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない」と、
  この様な論説記事を掲載した。
  そして、この論説記事の中に・・、
  日本の真珠湾攻撃の約2か月前に、天皇陛下が、日本陸
 軍と海軍に対して、
  「アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じる」という攻撃
 禁止をしていると報じた。
  その裏付けとして、アメリカ国務省の公開文書に、そ
 の証拠があると解説した。
  しかし、アメリカのこの様な動きを中国は牽制した。
  中国は、日本の天皇制を嫌った。
  この時も、中国は、国家主導でキャンペーンをした。
  今も昔も、中国のやることは同じだった。
  この中国のキャンペーンは、びっくりするぐらい幅広
 く行われ、影響があった。
  アメリカの外交誌「フォーリン・アフェアーズ」を動
 かし、反対報道された。
  また、米上院の委員会でも議題となった。
  因みに、このカイロ会談に、蒋介石を出席させたのは
 ルーズベルトであった。
  蒋介石が、日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日
 戦を断念し、連合国の戦線から脱落する恐れがあった。
  その中国を、米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、
  第一次世界大戦で得た日本の領土の返還させ、また、
 台湾などの返還や、常任理事国入りさせて・・などと持
 ち上げて、寝返りしないようにした。
  大戦中、それまでの蒋介石は、英米からの支援が少な
 いことに不満を持っており、日本に寝返るのではないか
 と噂が絶えなかった。
  しかし、素晴らしい支援が得られるからと夫人同伴で
 カイロ会談に出席した。
  そして、日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束さ
 せられ、
  蒋介石が日本と停戦する事を禁じさせられた。
..
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2016年8月9日火曜日

(増補版)396E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年5月~1884年6月)

題:(増補版)396E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年5月~1884年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年5月6日、奈良正倉院を、宮内庁に移管した。
  正倉院は、東大寺の正倉(倉庫)だったが、
  1875年(明治8年)3月10日に、収蔵されていた宝物の
 重要性に鑑み、
  東大寺から内務省の管理下に置かれた。
  そして、1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置
 に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、
  この年・1884年(明治17年)5月に、宮内省所管とな
 った。
1884年5月7日、戸長官選制(明治17年5月7日太政官第41号
 達)
  区町村会法が改正された、戸長官選となる。
  戸長公選制を廃止し、府知事・県令が選任することに
 なった。
1884年5月9日、大阪道頓堀の中座に、舞台用照明としてア
 ーク灯が取り付けられた(5月10日説あり)
  客席証明を行なったもので、評判となる。
  アーク放電を利用した。
  アーク放電は、電極に電位差が生じることにより、電
 極間にある気体に持続的に発生する絶縁破壊(放電)の
 一種。
1884年5月12日、人造絹糸
  フランスの化学者シャルドネにより、人造絹糸が発明
 され、学会に発表・報告された。
  最初の人工繊維のレーヨンの歴史に於いて・・、
  1848年に、クリスチアン・フリードリヒ・シェーンバ
 インは、綿からニトロセルロースを作り、
  それを溶液に溶かして、
  小さな穴から押し出して、繊維を作るのに成功した。
  また、1884年には、シャルドネが、人工の絹に関する
 最初の特許を取得した。
  その後、紡糸機を導入し、布を織って、
  1889年のパリ万博に展示して注目された。
  これが、最初の合成繊維「レーヨン」だった。
  その後に、商業生産を開始するが、高価で、燃えやす
 い性質だった。
  そのため、生産停止に追い込まれた。
  また、生産で作られる排水が、環境に対して有害なこ
 とから、
  1930年代まで、主に電球のフィラメント用としてのみ
 生産されるだけだった。
1884年5月13日、群馬事件が起こる(5月16日説あり)
  群馬県下の自由党員・湯浅理兵(りひょう)、日比遜
 (ゆずる)、清水永三郎らの起した反政府暴動。
  不況下の困窮農民らに、学校廃止、減租請願を説き、
  農民、博徒、猟師らを誘って、高崎で予定された中山
 道鉄道開通式での、政府高官襲撃を企てた。
  また、高崎鎮台を襲撃、政府打倒を企てたが果たせず、
 高利貸し・警察署を襲撃したが、食糧が尽きて解散した。
  首謀者は逮捕された。
  自由民権関係の事件は・・、
  加波山(かばやま)事件(1884年9月)、
  秩父事件(1884年10月31日~11月9日)、
  飯田事件(1884年に起きた挙兵の計画事件)、
  名古屋事件(1884年12月)・・が、起きた。
  (氷川清話):自由党壮士による政府転覆計画の暴力
 事件が各地に起こる。
  (氷川清話):名古屋事件と、自由党壮士による政府
 転覆計画は後を絶たず、国外では京城での甲申事変(竹
 添公使の軍隊出兵)
  また、この日・5月13日、自由党員湯浅理兵らは、農民
 を妙義山に集めていて、
  5月16日には、湯浅理兵らは、警察署などを襲撃した。
1884年5月15日、京都の葵祭が復活した。
  岩倉具視は、公卿出身の政治家であり、
  幕末に、下級公家ながら、孝明天皇の侍従となり、公
 武合体派として尊攘派に攻撃され、辞官・落飾していた。
  王政復古の直前に復活し、復帰後に倒幕に転向し、王
 政復古の行動をした。
  新政府において、首脳陣として重責を務め、
  1871年(明治4年)に右大臣となり、条約改正交渉と米
 欧視察の特命全権大使に任命され活躍した。
  京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)などと「保
 勝会」を組織し、
  京都の内裏や桂離宮、葵祭などを保存・復興する運動を
 起こした。
  1871年から中断していた葵祭の再興に尽力し、
  1884年に、賀茂祭は、官祭(勅祭)となり、5月15日を、
 祭日と定め勅使の行列も復活した。
1884年5月17日、東京帝国大学理学部に、造船学科が新設さ
 れた。
1884年5月24日、学習院の初代院長に谷干城が任命された。
1884年5月20日、租税・関税両局を廃止し、大蔵省に主税局
 (徴税を司る部局)が正式に設置され、
  また、府県に主税長を設置した。
1884年5月25日、長浜~大垣間に鉄道が開通した。
  それに伴い、鉄道連絡船が本格就航した。
1884年5月26日、兌換銀行条例が公布した。
  銀本位制の兌換銀行券条例を導入し、
  これによって、日本銀行を唯一の発券銀行として、銀
 行紙幣を回収した。
1884年5月27日、蒸気起重機を、初めて横浜停車場の荷揚場
 に建設し、運輸に便ならしめた。
1884年6月1日、初の天気予報
  天気予報を巡査交番所に掲示が開始した。
  日本で、最初の天気予報が出された。
  この日の予報は・・、
  「全国一般風ノ向キハ定マリナシ天気ハ変リ易シ但シ
 雨天勝チ」
  ・・以上が全文だった。
1884年6月7日、商標条例が定められる。
  商標条例の公布により、農商務省工務局に、商標登録
 所が設けられた。
  翌年・1885年4月に、専売特許条例が公布され、同局に、
 専売特許所が設けられた。
  さらに、1886年2月に、農商務官制の公布とともに、新
 たに専売特許、および、商標登録の事務を管掌する「専
 売特許局」が設置された。
  因みに、知的財産権とは・・、
  知的財産基本法の第2条に・・、
  この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新
 品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生
 み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現
 象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、
 商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を
 表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技
 術上又は営業上の情報をいう。
  2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案
 権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財
 産に関して法令により定められた権利又は法律上保護さ
 れる利益に係る権利をいう。
  ・・とある。
1884年6月7日、東京数学会社が、東京数学物理学会と改組
 した(日本物理学会の前身)。 
  日本物理学会は、1877年(明治10年)に、数学を含む「
 東京数学会社」として創立された。
  この「会社」とは、societyの意味で、数学から始まっ
 たのは和算の伝統があったからだという。
  因みに、日本物理学会が、1877年の創立に対して・・、
  ドイツ物理学会が、1845年、
  アメリカ物理学会が、1899年、
  日本は、アメリカより早い・・、
1884年6月12日、鹿鳴館で日本初のバザー
  日本最初のバザーが、鹿鳴館で、華族の方々が開いた
 (キリスト教関係者ではない)。
  「婦人慈善会」が、3日間にわたり、東京日比谷の鹿
 鳴館で開いた。
  会場の2階2室に飾りつけられた陳列棚は13だった。
  緑葉で装飾し、日章旗を交叉させ、1棚に30~40種の
 諸品を載せた。
  値段を記した紅白の札を付け、出品総数は3千有余、
  棚ごとに、貴族や政界の夫人総出の受持ち係が配置さ
 れた。
  第1番の松方夫人他、第2番の西郷夫人他、第3番の
 大山夫人他から第13番の長岡夫人他まで
  出品物は、手袋、靴足袋、巾着、人形、扇子、手巾、
 襟巻など多種。
  陳列室のほかに、書画展観席があり、
  客の休憩所には、階下の食堂があてられ、喫煙、茶菓
 の店が設けられた。
  集客は、新聞広告、前例のない斬新な試みとして世の
 耳目を集めた。
  この試みは脚光を浴び、錦絵の題材にもなった。
  3日間の入場者は、実に約1万2千人となり、
  売上は、約8千円(現在の金額で1憶7千万円)に達
 し、大盛況のうちに終了した。
  収益金は、看護婦養成所に寄付された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:全権あるアメリカ大統領の意思でなく、原爆は投下
   された。
    (アメリカ国民の方々は、嘘で、繰られていた)
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカによって、広島に、
 人類で初めての原爆が投下された。
  16万6000人の広島の方々が、2ヶ月~4か月の間に亡く
 なった。
  まったく非人道的な、
  また、国際法に違反する「アメリカの卑怯な行為」だ
 った。
  アメリカのトルーマン大統領は、この悪辣行為を、「
 戦争を早く終わらせ、数万のアメリカ兵士の命を救うた
 めだ」と・・、
  アメリカの国民の方々へ『嘘の説明』を言った。
  不埒(ふらち)な大統領だった。
  さも正しい正義の行為の様に言って、その様にアメリ
 カ国民の方々へ思い込ませた。
  アメリカ国民の方々は、そのことを信じ込まされ、マ
 インド・コントロールされ、
  そして、マインド・コントロールされ続けて来た。
  しかし、最近の研究や未公開の資料から、このアメリ
 カの国民の方々が、信じ込まされて来たという事が嘘だ
 ということが明らかになって来た。
  原爆計画の責任者や、アメリカ政府関係者などの証言
 や、日記の調査などが進むと、原爆投下の真相が分かっ
 て来た。
  アメリカ大統領のトルーマンは、原爆投下に否定的だ
 った。
  しかし、トルーマンは、ルーズベルトの死で、急に大
 統領になった事もあったため、心の準備もなく、また、
 不十分で、指導力も無かった。
  また、自分の考え、意思を主張する「明確な力」もな
 く、
  指導者たる資質にも欠ける大統領だった。
  アメリカ軍の意見に「引きずられた」。
  ここに広島・長崎の原爆投下の悲劇があった。
  このアメリカ大統領は、引きずられる他に、方法はな
 かった。
  この様な、アメリカ政治の状況が明らかになった。
  今まで指摘されて来た事が確認された。
  アメリカの全権を持つ大統領が、腑抜けだったため、
 繰られたアメリカ国民の方々は、真実を知らされること
 はなく、また、真実を知ることなく、
  『国際法違反の原爆投下行為』が行なわれた。
  アメリカは、不正義な汚名を着ることとなった。
  歴史に、『消すことが出来ない汚名』が刻まれる事に
 なった。
  某大学教授が、自著に書く・・、
  「国に嘘がある以上、やはり教育においても、嘘を嘘
 で塗り固めるような努力が続けられことになる。
  その様な嘘で成り立つ思考様式が、若い世代を、延々
 と、長い期間拘束し、
  腐敗させる、
  そして、結果、「冷笑の人間像」を作り出し、
  そして、すべての心を深く蝕んでいく」・・と。
  戦後、アメリカに作られ、アメリカに繰られ、
  そして、マインド・コントロールされた「日本の歴史
 の嘘」・・押し付けられた・・歴史教育の嘘。
  長い期間における、その嘘の歴史教育に、『自虐史観」
 に、多くの日本の子供たちが、蝕(むしば)まれている。
  この様な・・「人間形成の根幹」にある教育において、
 嘘で塗り固められ・・そして、
  成長した青少年が、
  しっかりした人間性も形造られず、不安定な社会だと
 感得して、
  結果・・不埒な、おぞましい事件を起こしている。
  日本人の人間性形成の基底を「繰られた結果」となっ
 ている。
  日本に来た多くの西洋人が、日本人の倫理性の高さを
 賞賛しているが・・、
  過去の歴史から、また、先祖から受け継がれて来た誇
 り高き流れの中に、
  そして、その様な状況に育まれた「誇り高き日本の心」
 をもつ日本人を称賛した。
  その様な状況が、戦後、破壊されて来ている。
  立ち戻ることこそ大切なことなのだ。
  (読売新聞、2016年8月6日)の「試写室」欄も読んで
 下さい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年8月7日日曜日

(増補版)395E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年3月~1884年5月)

題:(増補版)395E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年3月~1884年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年3月10日、芝浜離宮の延陵館に天覧相撲が催され、初
 代梅ケ谷に横綱を許される。
1884年3月13日、自由党大会が開催され、総理への専断決行
 権付与を決議した。
  警察官を侮辱した自由党員が逮捕され、これをきっか
 けに高田事件が勃発した。
  取締り側と、過激な行動に走る自由党員という悪循環
 が繰り返された。
  更に、他党との対立も激化した。
  同じ民権派の立憲改進党との対立が、自由党内の混乱
 に拍車をかけた。
  帰国した板垣は、党の先行きに不安を感じた。
  解党するか? 
  または、党再建のために10万円の政治資金を調達する
 か?
  板垣は、このいずれかの選択を提議した。
  だが、松方デフレで、有力な資金提供者であった豪農
 層の余裕がなくなっていたこともあり、
  資金集めは順調に進まず、失敗に終わった。
  暴力沙汰ばかりに嫌気がはしり、民心も離れつつあっ
 たこともあった。
  そして、この時、1884年3月に、総理権限を強化して
 板垣の下に党員の結集を図った。
  しかし、執行部は、地方の急進派を押さえきれなかっ
 た。
  自壊作用が働き始めていた。
1884年3月15日、地租条例が制定された(太政官第7号布告)
  税率の固定、法定地価の決定。
  従来の地租改正条例を廃して、地租、及び、その税率
 の法的根拠とした。全29条。
  地租改正で紛糾した諸規定の整理を目的に、1885年の
 地価改訂の実施と、地租改正条例第6条以下の廃止(地価
 改訂・地租増徴の制限撤廃)が制定された。
  そして、1889年に、土地台帳制度の見直しに伴って改
 正が行われた。
  これによって地租に関する法的整備は完成した。
1884年3月17日、宮中に制度取調局が設置された。
  参議・伊藤博文が長官に任命された。
  明治憲法体制へ移行するための制度整備をはかるため
 新設された部局(憲法制定取調局)で、
  立憲政治に備える諸制度の改革、および、法案の起草、
 審査を行った。
  憲法、および、諸制度の調査、研究を終えて欧州から
 帰国した伊藤博文の上奏に基づき設置された。
  3月21日に、伊藤は、宮内卿も兼任し、宮中の制度的
 整備も推進することになった。
  太政官に属する重要機関たる参事院(1881年10月21日
 設置)の主要な構成員が、制度取調局御用掛を兼務した。
  伊藤のもとで、のちに、憲法の起草を担当する参事院
 議官の井上毅(こわし)、
  同議官補・伊東巳代治や、太政官権大書記官・金子堅
 太郎(けんたろう)、太政官権少書記官・渡辺廉吉、牧野
 伸顕らが制度取調局御用掛を兼任した、
  井上、伊東らは、憲法問題などの重要事項について調
 査し、渡辺、牧野ら少壮官僚は、その下にあって諸般の
 制度取調べに従事した。
  この制度取調局において、内閣制とそれに伴う諸官制、
 官吏任用制度、地方制度、行政裁判制度および国会、皇
 室、華族の諸制度などの立案・改革作業が行われた。
1884年3月21日、海軍治罪法が制定された(太政官布告第8
 号)
  大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施行された軍法の
 一つ。
  治罪法は、刑事訴訟法典で、
  日本で最初の治罪法は、1882年1月1日に施行され、御
 雇外国人 G.ボアソナード (フランス人) が、フランス治
 罪法を基礎に諸国の法を参照して原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布された。
1884年3月25日、質屋取締条例が制定された。
  この年に、質屋のみに適用される全国統一立法として
 質屋取締条例が制定され、
  取締りの強化が図られた。
  この条例による過酷な取締りによって検挙される質屋
 業者が相次ぎ、
  不況による営業不振から増加しつつあった質屋の廃業
 にいっそうの拍車をかけることになった。
  そのため、同条例の改正運動が活発化し、
  1895年には、同条例の厳しい質受けの禁止や、警官の
 立入検査などの条項を修正し、罰則規定を緩和した質屋
 取締法が制定された。
  同法は、第二次世界大戦後に質屋営業法が制定される
 まで、取締りの基礎とされた。
1884年3月2日、弥生式の土器の発見
  東京大学予備門の学生が、本郷弥生町の向ヶ丘貝塚か
 ら土器を発見。
  いわゆる弥生式土器。
  1884年(明治17年)3月2日、東京府本郷区向ヶ岡弥生
 町(現東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で、
  貝や縄文土器とともに、口縁を除いてほぼ完形の壺が
 出土した。
  発見者は、学士院会員・海軍中将造兵総監・有坂鉊蔵、
 理学博士・坪井正五郎、白井光太郎。
  発見地については、1889年(明治22年)、坪井正五郎
 が『東洋学芸誌』に報告し、
  1923年(大正12)に、発見者の有坂鉊蔵が記録を残し
 ている。
  向ヶ丘貝塚の正確な位置については長い間不明であっ
 たが、
  東京大学文学部考古学研究室が、本郷キャンパスの一
 角、工学部9号館の近くで遺構の一部を確認し、その周辺
 であることがほぼ確定的となった。
1884年4月2日、明治天皇陛下・皇后陛下が、隅田川に海軍
 兵のボート競漕を御観覧された。
1884年4月10日、イギリス公使は、条約改正に関し新覚書を
 外務卿・井上馨に手渡した。
  その内容は・・、
  「関税率改正条約締結12年後に、内地開放を条件とし
 て、関税自主権を認める」だった。
  長い日本の努力は、なかなか実らなかった・・、
  結局、日本が豊かな経済力を示し、強い軍事力を持た
 なければ、頭をたてには振らなかった。
1884年4月12日、海底電信線保護万国連合条約と追加条約に
 加盟した。
  明治17年4月仏蘭西国巴里府ニ於テ別冊海底電信線保護
 万国連合条約ニ加入ス右奉 勅旨布告候事
  第1条:此条約ハ諸政府ノ管領海中ニアルモノヲ除クノ
   外都テ法律ニ依テ布設シ且条約国ノ内1国若クハ数国
   ノ領地殖民地又ハ属地ニ陸揚シタル海底電信線ニ適
   施スルモノトス
  第2条:故意ト疎虞懈怠トヲ問ハス海底電信線ヲ切断又
   ハ破損シ因テ電気通信ノ全部又ハ一部ヲ妨害シ若ク
   ハ不通ニ致シタルトキハ之ヲ罰スヘキモノトス但損
   害要償ノ為メ私訴ヲ起スモ妨ケナカルヘシ
    海底電信線ノ切断又ハ破損ヲ避クル為メ精々注意
   ヲ加フルモ自己ノ生命或ハ船体ノ安寧ヲ保護スル正
   当ノ目的ニテ已ムヲ得ス其切断又ハ破損ヲ為シタル
   トキハ此条款ヲ適施セサルモノトス
1884年4月16日、長浜~敦賀間の鉄道が全線開通した。
  琵琶湖の連絡船を経由して、京都・大阪とつながる。
  長浜~敦賀間の鉄道建設は、日本人だけの手による工
 事だった。
  建設資材は、石材を除くほか、木材に至るまですべて
 京阪神から運ばれ、資材輸送のため、木造外輪蒸気船「
 長浜丸」が造られた。
  平地部の工事は順調に進み、
  1882年3月10日、工事中の柳ヶ瀬トンネルをはさんで、
 長浜~柳ヶ瀬間と柳ヶ瀬トンネル西口~金ヶ崎間が開通
 した。
  当時、わが国最長だった柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)
 は、2年後に完成して、
  長浜~敦賀間は、1884年4月16日に開通した。
  長浜~関ヶ原間の工事は、1882年6月に着工、1883年5
 月に開通するスピード工事だった。
  当時の長浜は、まさに鉄道のまちだった。
  1889年(明治22年)7月、東海道線・新橋~神戸間の全
 通で、長浜の鉄道基地としての時代は去った。
1884年4月17日、学習院
  華族会館が経営している私立学校学習院が、宮内省所
 轄の官立学校となった。
  1877年に、皇族・華族の子弟の教育のために、華族有
 志が結成・創設した華族会館の経営の学校として東京に
 設立されていた。
  学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育
 機関にある。
  18世紀の初め、光格天皇が、朝廷の権威の復活を強く
 意識して、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を
 構想した。
  そして、続く仁孝天皇の時代に、公家のための学問所
 を作る計画が決まり、
  孝明天皇に代わった1847(弘化4年)年3月に、
  京都御所の東側(建春門前)に学問所の設置が実現し
 た。
  そして、講義が開始された。
  翌々年・1849年(嘉永2年)に、「学習院」の額(=勅
 額)が下賜されて、学習院の名称が定まった。
  経書を主とし、国書も講じた。
  その後、生徒の激減にともない、1868年(明治1年)に、
 明治政府は、これを大学寮代と改称して再興をはかった
 が、
  同年・1868年8月には閉鎖された(1867年閉鎖説あり)。
  1877年に至り、華族教育のために、東京神田錦町に華
 族会館運営の学習院として再建・開校され、
  1879年(明治12年)から児童・生徒の制服が定められ、
 これが日本で学校の制服を定めた最初といわれている。
  そして、この年・1884年(明治17年)、宮内省の管轄
 の官立学校へ移管された。
  翌年・1885年(明治18年)には、学習院の女子教科が
 廃止され、宮内省御用掛に任じられた下田歌子が中心と
 なって、華族女学校が設立され、
  1906年(明治39年)、学習院に合併され学習院女学部
 となり、
  さらに、1918年(大正7年)、女子学習院として独立し
 た。
  その後、第二次世界大戦に至るまで、学制は、幾度か
 変更されたが、初等科、中等科、高等科を備え、高等科
 の卒業生は、帝国大学への入学資格を有していた。
  第二次世界大戦後の華族制度の廃止で、廃校さえ論議
 されたが、
  1947年(昭和22年)に、学習院に関する皇室令・宮内
 省令の廃止によって官立としての学習院が終わりを告げ、
  同時に、財団法人・学習院として再発足することにな
 った。
  そして、私立学校となり、
  女子学習院は、学習院女子部として吸収された。
  初代院長は、安倍能成(あべよししげ)であった。
  1997年(平成9年)に、短期大学部を改組し、学習院女
 子大学が設置された。
  2010年(平成22年)に、幼稚園から初等科、中等科、
 高等科までの一貫した教育体制をもつ総合学園となった。
  大学所在地は、東京都豊島(としま)区目白1-5-1
1844年4月17日、神戸又新日報が創刊された。
  神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう、1884年創刊
 ~1939年休刊)は、かつて存在した日本の日刊新聞で、
 兵庫県神戸市の「五州社」が発行した
  1884年5月19日、第1号を発刊し、創刊時の紙名題字は
 尾崎行雄によるとされている。
  立憲改進党系の政論新聞として出発した。
  1890年9月16日夜半、和歌山県串本町沖で遭難したオス
 マン帝国(現在のトルコ)の軍艦「エルトゥールル号」
 の遭難に際し、第一報を報じた「東京日日新聞」を含め
 た全国他紙に先駆けて、翌・1890年10月、義捐金活動を
 行った。
1884年4月、社会教化団体の東京修身学社が、日本講道会と
 改称した。
  〈形而上ノ理ヲ究メ〉〈道徳ノ教ヲ弘ム〉ることを目
 的として、〈講義、演説、著述、翻訳、問答〉をおもな
 事業とした。
  (参考)形而上:けいじじょう、
  1、形をもっていないもの。
  2、哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介
   した経験によっては認識できないもの。超自然的、
   理念的なもの
  (参考)形而上学:けいじじょうがく
  1、アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者た
   らしめている根拠を探究する学問。すなわち第一哲
   学または神学。
  2、現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存
   在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しよう
   とする学問。主要な対象は魂・世界・神など。
1884年5月1日、大阪商船会社が創立され開業する。
  日本の海運を支える創業であった。
  瀬戸内の船主による93隻の船を現物出資して設立され
 た。
  瀬戸内海では、1877年の西南戦争以降、戦後不況に突
 入した。
  たちまち激しい運賃値下げ、貨客の争奪競争が始まっ
 た。
  船主たちは、船体の修理もままならず、海難事故も頻
 発した。
  見かねた大阪府は、取締規則を定めて、船主の協調を
 促したが、協定破りも現れ、なかなかうまくいかった。
  そこで、当時の自主的協調機関であった同盟汽船取扱
 会社頭取・中原昌發(まさはつ)は、
  当時、愛媛県新居浜に居住していた住友家総理人の広
 瀬宰平を訪ね、群小船社を統合し一大船社を創立するこ
 との必要性を説いた。
  当初、老齢・病気を理由に、断っていた広瀬であった
 が、中原の熱心な説得の結果、ついにこれを引き受ける
 に至った。
  しかし、数多くの船主を取りまとめることは容易では
 なかった。
  船価の査定においては、船主のエゴがむき出しとなっ
 たり、
  苦情が噴出したり・・と、
  いったんは、査定中止とせざるを得ぬ事態となった(
 1883年(明治16年)4月)。
  広瀬は、これら船主の納得を得るため、あらゆる調整
 努力に奔走した。
  そのかいもあり、ようやく解決に至ることができた。
  しかし、また、定款の審議でも紛糾した。
  3日間を要したがまとまらず、創立委員側が、反対船主
 の条件に妥協し、障害を克服することができた。
  こうして、1884年(明治17年)5月、有限責任大阪商船
 会社は開業に漕ぎ着けた。
  資本金120万円。
1884年5月3日、英国東洋銀行横浜支店が、支払い停止とな
 った。
  明治期に「英国東洋銀行」と書かれたオリエンタル・
 バンクは、
  19世紀のイギリス植民地のインドにあった植民地銀行
 である。
  1842年、ボンベイで設立され、1893年に、恐慌で倒産
 した。
  独占的地位を占めていたこの銀行から、日本は、金を
 借りたが、
  利率が、15%~18.2%という、現在では考えられない
 くらいの高い利率であった(高利貸しクラス)
  日本も、1880年に、横浜正金銀行などを設立したりし
 た。
  横浜正金銀行は「準備金」をとおした正貨吸収に努め、
 政府も保護政策をし、また、日本銀行も信用供与し、対
 外金融機関としての役目を果たして行くようになった。
  また、わが国の各種金融機関も、金融基盤を固めて来
 て、外国への不合理な資金流出を防ぐ手立てが出来て来
 ていた。
.
  (今日の言葉)
.
  占領と侵略:日本は、正当な占領を満州で行なった。
.
  ロシアと中国(清国)の条約が存在していた。
.
  アメリカは、大東亜戦争(第二次世界大戦)で戦勝し
 た。
  日本に勝って日本を占領した。
  「占領した」と言われている。
  しかし、これは・・「アメリカが侵略した」と言える
 のだ(または、言える可能性が十分ある)。
  日本は、「満州を侵略した」となっている。
  ならば、アメリカも・・「日本を侵略した」となるか
 らだ。
  第二次世界大戦後で、アメリカのプロパガンダで、日
 本は何しろ悪かったと言われている・・が、しかし・・
 ・・?
  日本は、日露戦争で戦勝し、戦争に勝って満州を占領
 した(侵略ではない)。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)で、アメリカが、日本
 を占領したのと同じである。
  あの日露戦争は、ロシアとだけと戦っていたのではな
 い。
  中国とも戦っていた。
  日本は、その中国に戦勝し、その結果、満州を占領し
 たのである。
  第二次世界大戦で、アメリカが、日本を占領したのと
 同じである。
  中国は、ロシアとの条約で、日本とロシアが戦ってい
 るとき、「ぼけーっ」としていられたのではない。
  「ぼけーっと」していられなかった。
  中国は、ロシアとの条約で、『戦う取決め』をしてい
 るからぼけーっとしていられなかった。
  日本は、そのロシアと中国と戦った。
  日本は、「中露同盟軍」と戦った。
  この条約は秘密にされていたので、あまり知られてい
 ないが、
  『中国は、れっきとした対戦国』だった。
  戦勝した日本は、「第二次世界大戦で、アメリカが日
 本を占領した」のと同じに、満州を占領した。
  『侵略でも何でもない』。
  国際法にのっとった占領行為である。
  アメリカの、戦後のプロパガンダで、日本は悪くされ、
 「侵略なのだ」とされてしまった。
  日本は、アメリカが世界を手玉に取り、そして、音頭
 を取った包囲毛に囲まれて、やむを得ず、やむを得ない
 戦争に至ったが・・、
  この戦争の終了後も、アメリカは、そのつじつま合わ
 せの嘘を言い、プロパガンダを言っている。
  日本は、まったく、事実でない事を言われている。
  占領したアメリカ、強い立場のアメリカは、弱者の日
 本をいいように、それをプロパガンダしている。
  アメリカは、西部を、インディアンの方々の、先住民
 の方々の土地を奪った時も、自分たちは正義だと・・勝
 手な、自分勝手な事を言って土地を奪った。
  キリスト教の論理を持ち出した・・、
  そして、メキシコの土地も卑劣な方法で奪った。
  太平洋に至れば、太平洋の島々を奪い、
  フィリピンを奪い、
  そして、中国に至って・・日本とぶち当たった。
  際限を知らないアメリカの欲が、中国で展開された。
  限りないアメリカの帝国主義の侵略とぶち当たった。
  そして、世界を手玉にとって、日本を孤立させる方針
 でやって来た。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
  ロシアまたは中国(清国)のいずれかが、日本と戦争
 になったら、他方が軍事援助をする。
  中国(清国)は、日清戦争の敗戦を非常に悔しい思い
 でいた。
  中国(清国)は、日清戦争終結の翌年・1896年、ロシ
 アとこの条約を結んで、日本への復讐戦をしたいと企図
 (きと、あることをくわだてる)していた。
  そして、日露戦争の時、中露同盟軍となった。
  日本は、その『中露同盟軍』との戦争に勝ち、アメリ
 カの日本占領と同様に、満州を占領した(侵略ではない)
..
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