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2016年9月11日日曜日

(増補版)416E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年9月~1885年11月)

題:(増補版)416E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年9月~1885年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
(追記)1885年1月9日、漢城條約(甲申事變善後約定)締
 結。
  この条約は、京城条約ともいう。
  1885年1月9日、特派全権大使の井上馨は、朝鮮全権・
 金宏集と漢城条約(甲申事変善後処理の条約)に調印し
 た。
  前年の1884年12月4日の甲申の変 (京城事変) に関して、
 日本と李氏朝鮮との間で取りかわされた条約で・・、
  甲申の変の事態収拾のため、日本は、全権大使として
 外務卿・井上馨を派遣し、
  事変の翌・1885年1月7日から、朝鮮の全権大臣・金弘
 集と交渉した。
  日本の全権大使・井上馨は、大局的見地に立ち、早期
 締結へ向けた提案をし、早期締結が実現した。
  そして、1885年1月9日に、条約は締結された。
  なお、1885年4月18日に、朝鮮問題に関し、日本と中国
 の清との間で取り決めた天津条約もある。
  朝鮮の甲申政変の結果、日朝間で漢城条約を1885年1月
 に結んだのに対し・・、
  天津において、伊藤博文と李鴻章のあいだで締結され
 た天津条約は・・、
  朝鮮からの『日清両国軍隊の撤兵』、『両国軍事教官
 派遣の停止』、『朝鮮出兵の際の相互事前通告』などを
 取り決めた。
  これによって朝鮮出兵に関して日清両国の立場は対等
 となった。
  第二次世界大戦の時、アメリカは、日本に秘密にして、
 この天津条約で禁止されている様な「軍事教官の派遣」
 を中国に対して行っていた。
  また、アメリカは、さらに踏み込んで、攻撃部隊(武
 器と兵員)まで、中国・国民政府軍へ、日本に秘密裏に
 送り込み、日本攻撃して戦闘状態に入っていた。
  卑劣なアメリカの『秘密の参戦である』。
  日本の真珠湾攻撃を『どうのこうのと言う資格は、ア
 メリカにはない』(アメリカの卑劣なプロパガンダ)
(追記)1885年6月28日、上野駅が開業した。
  1882年(明治15年)11月に、寛永寺の寺院跡約29,800
 坪(約98,512m²)を東京府より借り受け、上野駅の用地
 とした。
  上野駅の敷地は、寛永寺の僧坊があった場所で、
  維新後は、政府が官営地として所有していたものを借
 り受けた。 
  他の駅とは違って、初めから多くの線路、施設があっ
 た。
  1883年(明治16年)7月28日、上野~熊谷間の仮開業・
 開通に伴い、上野駅を開設し、駅は仮開業で荷物扱い所
 を充てた。
  1883年8月、貨物の取扱いを始める。
  1883年10月、郵便物の取扱いも始める。
  1884年5月、上野~高崎が開通。
  1884年6月28日、天皇陛下をお迎えして、正式な開業式
 が行われた。
  但し、駅舎は仮駅舎であった。
  1885年(明治18年)7月、煉瓦造2階建て、237坪(約783
 m²)の本駅舎が竣工した。
  これが、初代駅舎で、三村周が設計、毛利重輔が監督
 した。
  当時の汐留駅や横浜駅を踏襲した形だった。
  また、1885年に、大宮駅~宇都宮駅の区間(利根川渡
 河区間を除く)が開通すると、上野駅は、東京側のター
 ミナルとして繁盛するようになった。
1885年9月29日、郵便汽船三菱と共同運輸が合併し、日本郵
 船が設立された。
  支店が梅ケ崎町に開設され、
  長崎と中国、フィリピン、北南アメリカとの航路が結
 ばれ、九州唯一の外国航路の港となった。
1885年9月29日、東京法学校が、東京大学法学部と合併した。
1885年9月、東京師範学校が、女子部生徒の制服を洋服と
 した。
1885年9月、坪内逍遙が、「小説神髄」を発表する。
  坪内逍遥の文学理論書(上巻:小説の原理論、下巻:
 その技法論)
  著者名を坪内雄蔵とし、東京大学時代からの小説探求
 をイギリスの諸文献、『ブリタニカ』などから得た知識
 をもとに組織した日本最初の体系的小説論。
  人知と文化の発達とともに発達してきた文学の頂点に
 たつのは小説だとの基点に立ち・・、
  「人情」の模写を通して人生の因果の理法と、人間界
 の構造を照出し、
  小説における心理的写実主義を唱え・・、
  心理観察と客観的態度の尊重を説き・・、
  その中の芸術性を重んじた。
   そして、日本の小説は、改良されなければならないと
 提唱した。
  その結果、戯作や勧善懲悪の文学の衰退を招き、
  尾崎紅葉らの写実派の台頭に影響を与え、
  また、自然主義の作家たちにまで大きな影響を与えた。
  日本近代文学の黎明期における、最初の理論書として
 の役割を果した。
1885年10月1日、日本郵船が営業を開始(創業)した。
  日本郵船株式会社の発足。
  郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により、9月29
 日 日本郵船会社を設立、10月1日創業、資本金1,100万
 円、所有汽船58隻。
  (日本郵船ホームページより)
  当社グループは、海・陸・空にまたがるグローバルな
 総合物流企業グループとして、安全・確実な「モノ運び」
 を通じ、人々の生活を支えることを基本理念として、日
 々の企業活動を行っております。
  世界の人々の豊かで、安心できる暮らしに貢献するこ
 とを誇りに思うと同時に、その社会的責任を深く感じて
 います。
  (代表取締役社長・内藤忠顕氏挨拶より抜書き)
1885年10月1日、東京瓦斯会社が開業した。
  渋沢栄一、大倉喜八郎ら、東京瓦斯会社を設立。
  後の東京ガス。
  当社本月(10月)一日創立す、東京瓦斯局の払下を受
 け、資本金二十七万円を以て組織し、社名を東京瓦斯会
 社と称し、本社を芝区浜崎町に置く。
  瓦斯料金は一千立方呎に付金三円とす。
  (東京瓦斯(株)データベースより)
  東京ガスグループは、1885年の創立以来、130年にわた
 り首都圏を中心とした地域への都市ガス供給を通じて、
 お客さまの豊かな暮らしや社会の発展を支えてまいりま
 した。
  1969年には、日本で初めて、LNG(液化天然ガス)を導
 入し、
  その後、半世紀近く「LNGのパイオニア、天然ガスのト
 ップランナー」として、LNGバリューチェーンの確立・強
 化と天然ガスの普及・拡大に努め、国内外からも大きな
 評価を得ています。
  東日本大震災を経て、2011年11月に策定・発表した「
 チャレンジ2020ビジョン」では、このLNGバリューチェー
 ンの一層の高度化を図り、日本の「エネルギーセキュリ
 ティーの向上、エネルギーコストの低減、エネルギーシ
 ステムの革新」に貢献するとともに、東京ガスグループ
 の持続的な成長・発展を目指すこととしています。
  (代表取締役社長・広瀬道明氏挨拶より抜書き)
1885年10月5日、フリーメーソン長崎支部奉献式が行なわれ
 た。
  支部は、下り松50番地に創設。
  フリーメイソンは、16世紀後半から17世紀初頭に、判
 然としない起源から起きた友愛結社。
  起源とフリーメイソンリーに関して、対外的な資料が
 少ないため、諸説存在する。
  因みに、関係すると言われる、オリンピックを提唱し
 たというクーベルタン男爵は・・、
  女性の参加は、男性にとって良からぬことであると考
 えていた。
1885年10月7日、高瀬真卿(たかせしんけい)が、本郷に、
 私立予備感化院を開設した。
  1886年に、東京感化院と改称した。
  高瀬真卿によって、日本最初の組織的な少年感化院が
 設立された。
   高瀬真卿は、明治~大正時代のジャーナリスト、社会
  事業家で、
   仙台で「東北毎日新聞」を発刊し、自由民権論をとな
 えた(茨城新聞や仙台日日新聞なども主宰)
   東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
  化が行なわれた。
  1882年(明治15年)の福島事件で、交友が処罰され、ま
 た、自身も獄中生活を経験し、感化事業に従事するよう
 になった。
  1884年(明治17年)東京集治監の教誨師となり、
  1885年(明治18年)私立予備感化院(のちの東京感化院
 錦華学院)を湯島(東京)に創設した。
1885年10月12日、事業主で作られた東京活版組合が、解雇
 職工の無断再雇用禁止を申し合わせた。
1885年10月15日、高崎~横川間が開業する。
  鉄道局の高崎~横川間の鉄道が開業。
  日本鉄道とあわせて東京と横川が結ばれた。
  関連事項:東京と大阪を結ぶ幹線は中山道経由とする
 ことが決定していた。  
  東海道経由に変更(1886年)  
  横川~軽井沢間開通(1893年)
1885年10月17日、東京・浅草公園六区に水族館が開館した。
  (10月11日説あり)
  浅草公園六区(あさくさこうえん ろっく)は、東京都
 台東区浅草にある日本の歓楽街。
  通称:浅草六区という。
  因みに、近くにある浅草花やしき(あさくさはなやし
 き)は、東京都台東区浅草二丁目28番1号にある遊園地で、
  1853年(嘉永6年)に、千駄木の植木商、森田六三郎に
 より牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園し
 た。
  当時の敷地面積は、約80,000m2(24,200坪)だった。
  江戸期は、茶人、俳人らの集会の場や、
  大奥の女中らの憩いの場として利用され、
  ブランコが唯一の遊具だった。
  明治に入り、浅草寺一帯を浅草公園地とした際、
  花屋敷は、奥山一帯と共に、第五区に指定された。
  しかし、敷地は縮小し、
  1885年(明治18年)に、木場の材木商・山本徳治郎(
 長谷川如是閑の父)と、
  その長男・松之助が、経営を引き継いだ。
  翌年・1886年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板と
 して掲示した。
  この頃でも、利用者は主に上流階級者であり、
  園内は、和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。
  しかし、徐々に、庶民にも親しまれるようトラ、クマ
 など動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマ
 ーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示した
 りした。
  浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、
 動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸な
 ど)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。
1885年10月20日、メートル法条約に加入した。
  日本は、1885年のこの時に加盟手続を終わっていたが、
 公布されたのは、翌年・1886年4月16日であった。
  因みに、2013年8月時点の加盟国数は55、準加盟国数は
 38である。
  1795年に、フランスは、メートル法を制定し、
  1799年に、標準器を完成したが、その国内での普及は
 強い抵抗にあい、一時的に後退を余儀なくされた。
  1840年に至って、ようやく強制使用の段階に達した。
 その間、メートル法は1816年に、イタリア内の州により、
  1821年に、ベルギーを含むオランダ王国により採用さ
 れ、
  また、1832年には、K.F.ガウスにより地磁気の測定に
 応用されるなど、その使用は、徐々にではあるが確実に
 広まっていた。
  そして、メートル法による度量衡標準の国際的統一、
 および、その完成を目指して、1875年5月20日、パリで締
 結された条約。
  14ヵ条の本文と、22ヵ条の付則と、6ヵ条の過渡規定か
 ら成る。
  パリに、度量衡万国中央局を設置すること、国際度量
 衡委員会、国際度量衡総会その他を規定したもの。
1885年10月、神田に貸本屋が開業した。
  この年に、東京神田に開業した貸本屋の「いろは屋」
 の蔵書は、その9割が学術書であり、
  顧客の大半は学生で、
  1ヶ月の貸し出し冊数は、8000冊~9000冊に及んだと
 いう。
  また、貸本屋の中には、閲覧室まで備えていたものも
 あり、
  居付き(いつき、その場所に住みつく)の貸本屋がこ、
 の様に繁盛したのは、公共の図書館が、まだ、ほとんど
 無かったため。
  因みに、明治20年頃までに、本屋の企業形態が変化し
 ている。
  それまで、書物問屋・地本問屋・絵草子屋・貸本屋か
 ら、活版印刷による洋本屋・輸入翻訳本屋・新聞雑誌ジ
 ャーナリズムへと主役が交代して行った。
  そして、この変化と共に、日本橋から神田神保町への
 移動が対応している。
  江戸時代の本屋仲間は日本橋・京橋だったが、
  1906年(明治39年)の組合員構成をみると、急激に神
 田の書店が増加している。
  また、1902年(明治35年)に、組合の正式な業務とし
 て、新古書籍の交換が始まり、これが、古書市場の始ま
 りとなっている。
   (参考:慶応技術大学、大内田鶴子氏論文より)
1885年11月3日、東京帝国大学の学生と横浜の外国人の間
 でボートレースが行なわれた。
  日本初の国際ボートレースとなる。
  別の史料に・・ボートレースの最初は・・
  1863年(文久3年)10月5日~6日に、開催されたグラン
 ド・ヨコハマ・インターナショナル・レガッタが最初。
  最初は、軍人が主体だった。
  1871年(明治4年)頃から、居留民による競技団体が組
 織され、
  最終的には、横浜アマチュア・ローウィング・クラブ
 に統合された。
  因みに・・ヨット・レースの最初は・・
  ヨット・レースは、最初ボート・レースに付属して行
 われていたが・・、
  1886年(明治19年)10月、横浜セイリング・クラブが結
 成され、これ以降盛んになり、
  1927年には、横浜ヨット・クラブと改称、この年には
 モスキート・ヨット・クラブもできた。
1885年11月9日、種痘規則が制定された。
  1798年、エドワード・ジェンナー、天然痘予防のため
 牛痘種痘法を発表した。
  1849年、長崎に痘苗到着した。そして、日本の種痘が
 始まった。
  1876年、天然痘予防規則ができた。
  1885年、種痘施術心得書
  そして、この年・1885年に制定された種痘規則では、
 1歳未満と、5歳~7歳の間に合計3回の実施が義務付けら
 れた。
  そして、1909年(明治42年)に種痘法が改正され・・、
  第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ、但シ痘瘡ヲ
   経過シタル者 ( 天然痘に罹ったことがある者 )ニ
   付テハ此ノ限ニ在ラス
  (1)第一期 出生ヨリ翌年6月ニ至ル間、但シ 不善感
   (種痘後、傷口にオデキができない場合 )ナルトキ
    ハ、翌年6月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
  (2)第二期 数ヘ歳10歳、但シ不善感ナルトキハ、翌
    年12月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
  定期前2年以内ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看
  做ス・・ということで
  全感した場合、つまり種痘を植え付けた傷口に、「オ
 デキ」ができて成功した場合には、合計2回で済むことに
 なった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ大統領が、真珠湾攻撃前に、開戦の決定をしていた。
    アメリカ大統領のルーズベルトは、日本が攻撃す
   る前に、『日本を攻撃せよ』との指令を出していた。
   事実上の宣戦布告である。
   真珠湾攻撃前に、開戦決定をしていた、そして、攻撃した。。
    奇襲されたから戦争したなどは嘘の話だ。
    アメリカよ! 嘘をついてまでして、日本を貶(
   おとし)めるは、いい加減にしてくれ!
    嘘つき国家が、恥ずかしくないのか!!
.
1941年7月23日、ルーズベルト大統領を含む、米国首脳が
 フライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に、この
 日に署名し、事実上の宣戦布告をした。
  日本の真珠湾攻撃の前であり、
  日本が真珠湾攻撃をしてきたから、参戦したのだなん
 て『真っ赤な嘘』である。
  (この以前に、アメリカは、既に、中国で秘密裏に、
 日本攻撃をしている)
  日本を虐(いじ)めて、いじめて、いじめ抜いて、先
 に攻撃させる様にしよう(日本が先に戦争を始めたと見
 せかけよう)というアメリカ首脳陣の考えだった。
  先に、銃を抜かさせて、正当防衛が成立するという狡
 猾(こうかつな、狡(ずる)いキリスト教の考え方に洗
 脳されている。
  以上の様に・・、日本が、アメリカと戦端を開こうと
 開くまいと・・、
  アメリカは、先に、日本との開戦の方針を決定し、
 事実上の開戦の意思を公式のアメリカの意思とした。
  そして、アメリカの日本締め付けのより卑劣な行為が
 始められ、そして、続けられる・・
  その締め付けは・・立て続けに行われた・・、
  1941年7月25日、在米日本資産を凍結
  1941年8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止
  1941年11月26日、ハルノート提示
  そして、日本はやむを得なく・・12月7日、真珠湾攻撃
 をする。
  どこの識者も、政治家も言う・・、
 「石油を絶たれたら、最悪であり、我が国も戦争に至る」
 ・・と。
  そして、このフライング・タイガー(アメリカ戦闘機
 部隊)こそが、
  アメリカが、真珠湾攻撃以前から対日戦争に参戦して
 いた何よりの証拠だった。
  真珠湾攻撃よりも4ヶ月以上前に、アメリカによって
 日米戦争は始まっていた。
  (読売新聞、1991年7月8日)の記事で、アメリカの嘘
 の一部がバレているが、
  ビルマで、既に、日本機と戦って、撃墜したなどと書
 かれている、
  また、この戦闘部隊はアメリカの正規軍だと分かった
 などが書かれている・・
  しかし、読売は一部でアメリカを庇(かば)う・・、
  その記事の内容・・、
  大戦中の義勇軍「フライングタイガーズ」 
  正規の空軍部隊だった 米紙が報道
  【ロサンゼルス七日=桝井成夫】
  第二次大戦で、蒋介石総統の中国国民党軍に協力、中
 国南部とビルマ戦線で日本軍機を大量撃墜したことで知
 られる「フライングタイガーズ」は、
  日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認の
 もとに、空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百
 五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった、と
 六日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。
  同部隊は、これまで、民間義勇軍とされ、国防総省自
 体、陸軍省や大統領とのつながりをいっさい否定してき
 たが、
  約百人の生存者が、国防総省に史実を認めるよう請願、
 このほど退役軍人として認められたという。
  同紙によると、「フライングタイガーズ」のパイロッ
 トは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によっ
 て、
  当時の新米パイロットの五倍相当に当たる月給六百ド
 ルと、日本軍機一機撃墜ごとに五百ドルという破格の報
 酬で、全米各基地から集められた。
  全員は、農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビル
 マに集結。
  蒋介石政権が、米国に借金する形で資金を負担、弱体
 の中国航空部隊を裏で支えた。
  現地で飛行訓練を積んだ後、十二月の真珠湾攻撃直後
 から、国民党軍のマークが入ったP40戦闘機に搭乗、
 中国南部とラングーン周辺で日本軍機と交戦し、日本陸
 軍航空隊の戦闘機など日本軍機二百九十六機を撃墜した
 とされている。
  同紙は「フライングタイガーズ」研究家デービッド・
 フォード氏の証言として、
  当時のモーゲンソー米財務長官が取り決めた国民党へ
 の一億ドルの融資が役に立ち、
  ルーズベルト米大統領経済顧問のロークリン・カーリ
 ン氏が、計画全体の調整役を務めたとの見方を示してい
 る。
  さらに同紙は、「フライングタイガーズは、大統領と
 米軍中枢の承認を受けている」との米陸軍航空隊ヘンリ
 ー・アーノルド将軍のメモ(一九四二年)も見つかった
 としている。
  真珠湾奇襲の半年前に米側が軍事行動をスタートさせ
 ていたことを示すものとして議論を呼びそうだ。
.
  また、別史料の(読売新聞、1991年11月24日)による
 と・・、
.
  「真珠湾攻撃」の5か月前 米が日本爆撃計画 「大
 統領も承認」/ABCテレビ''
  米・ABCテレビが「米の責任」を論評
  【ニューヨーク二十二日=藤本直道】
  米ABCテレビは、二十二日夜の報道番組「20/20」
 で、日本軍の真珠湾攻撃の五か月も前に、
  フランクリン・ルーズベルト米大統領は、中国本土か
 ら日本への長距離爆撃計画を承認していたと伝え、
  同大統領は、日本を意図的に開戦へ追い込んだと論評
 した。
  真珠湾五十周年を前に、日本の奇襲を改めて強調する
 報道が多い中で、
  米国の開戦責任を米国側からまじめに論じたものとし
 て異色の番組。
  この爆撃計画そのものは、一九七〇年に公開された公
 文書の中にあったが、
  その後歴史家に検証されることなくやみに埋もれてい
 たという。
  同テレビは、当時のパイロットや大統領補佐官などの
 生々しい証言を伝え、
  米政府が日本への石油禁輸を決めた時期と、対日爆撃
 計画承認がほぼ同時期であり、
  大統領補佐官の証言からも、ルーズベルト大統領が、
 日本を開戦に追い込む意図であったと論評している。
  この計画は、JB355と名付けられ、一九四一年七
 月二十三日に、大統領だけでなく、当時の戦争長官、海
 軍長官なども署名。
  ビルマから中国への物資補給路を援護するため中国に
 雇われた米人パイロット・グループ、フライング・タイ
 ガースを率いるクレア・シェンノート氏がこのJB355
 計画にもからんでいた。
  米政府は、日本の弾薬工場や重要な産業施設を爆撃す
 るため、長距離爆撃機六十六機を供与するほか、
  数百万ドルにのぼる経費や兵員も負担することを承認
 していたが、
  これは当時の米国の『中立法に反する』という。
  シェンノート氏は、この爆撃により「日本の紙とマッ
 チの軸で出来たような建物を灰に出来る」と報告してい
 たが、作戦実施に手間取っているうちに真珠湾攻撃が始
 まった。
  (ここまでhttp://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18552735.htmlから転載)
  (評)アメリカも、当時の、アメリカ大統領のルーズ
 ベルトが、日本を戦争に追い込んでいたということが分
 かったと・・、
  そして、真珠湾攻撃の5ヶ月とか、6ヶ月以前に、既に、
 行動を起こしていたという事実が明らかになった・・と。
  なんだかんだと遅れて真珠湾の後になったという読売
 新聞の記事は「作り話記事」となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月9日金曜日

(増補版)415E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年7月~1885年9月)

題:(増補版)415E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年7月~1885年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年7月、長崎区内でコレラが流行した。
  夏の時期で、患者833人、うち、死亡617人となった。
  長崎新聞に・・、
  再発見!近代化遺産 長崎市編・ししとき川
  児童の元気な声が響く長崎市立諏訪小(諏訪町)のす
 ぐそばに、
  銅座川の方向に延びる幅2メートルほどの「ししとき
 川」がある。
  明治中期に改修された当時の下水溝で、底と両脇に板
 石が敷かれている。
  長崎大の岡林隆敏名誉教授によると・・、
  改修の背景にはコレラの流行があった。
  検疫体制が確立していなかった幕末から明治初期にか
 け、
  コレラなどの疫病が、外国人居留地から爆発的に全国
 に広がった。
  コレラは、下水路から地中に浸透した汚染水が、井戸
 水に混じることで拡散する。
  長崎では、1885年の大流行を受け、第8代県令(県知事)
 の日下義雄が、下水溝改修を指示した。
  「ししとき川」は、1886年に整備された、総延長4.2
 キロに及ぶ6本の下水溝の一つだ。
  溝の内側の3方向に敷かれた板石の間を、石灰や砂な
 どを混ぜた「あまかわ」でふさぐことで、汚染水の地中
 への浸透を防いだ。
  現在は、下水は流れていない。
  岡林氏は、「近代的な公衆衛生を確立した貴重な構造」
 と強調。
  さらに「横浜や神戸などと違い、長崎は、居留地が都
 市部に隣接していたため、
  下水溝が、都市全体に整備されたことが画期的だった」
 と評価している。
1885年8月1日、 郵便汽船三菱と共同運輸の過当競争に、政
 府が勧告を行い、
  この日、三菱は両社合併の方針を表明した。
  そして、8月15日に、合併を決定した。
1885年8月12日、教育令が改正され、地方教育費の節減が進
 められる。
  教育令は、1879年9月に公布された総合的教育基本法令
 だった。
  1880年12月と、1885年8月に、2回にわたって改正され
 たが・・、
  1886年に、諸学校令の制定により廃止された。
  そのたび重なる改廃は、明治維新期の社会的激動の下
 での教育制度政策の不安定さが現れていた。
  1879年に、「学制」を廃して公布された第1次教育令は、
 自由民権運動の台頭を前に、画一的強制的な小学校制度
 建設方針だったのを改めて、
  地域の条件に即した教育の普及を図り、
  教育課程の編成を公選の学務委員にゆだね、
  また、地方行政単位である区町村を学校設置単位とし
 た。
1885年8月14日、初の特許7件が下りた。
  最初の専売特許が免許された。第1号は「錆止め塗料及
 び塗り法」。
1885年8月15日、土地賦課の区長村費は、明治19年以降地租
 の1/7以内とする(8月12日説あり)
  「土地ニ課スル区町村費ハ地租七分ノ一ヲ超過スルヲ
 得ス」
  1885年8月12日に改正された教育令(以下、第3次教育
 令という)は、
  研究史上、しばしば町村教育費節減を目的とするもの
 として把握され、
  普通教育政策史上の位置づけが十分明確にされてこな
 かった。
  もちろん、第2次教育令改正は、内務・大蔵両省の文
 部省にたいする町村教育費節減要求を直接の契機とする
 ものであったが、
  そのことと第3次教育令の意図とは同義ではない。
  文部省は、一方では、内務・大蔵両省の要求を「経済」
 面において受けいれつつも、
  他方では、「教育」面においてこれまでの教育政策、
 とりわけ、普通教育政策実現の好機とするという「一挙
 両全」の方策を打ち出した。
  第3次教育令は、森御用掛が主導する諸学校への転換
 準備という状況のもとで、事実上、実効を見るに至らな
 かったが、
  普通教育(政策)史という文脈のなかで見たとき、
  第3次教育令の制定はその後の普通教育政策上におい
 ても重要な方向を提示するものであった。
  (World of Common education 武田晃二のページより)
1885年8月19日、文部省が、府県町村立の学校の授業料徴収
 を通達した。
  文部省において、1885年は、教育令期から学校令期へ
 の移行時期である。
  この年、太政官布告第23号をもって、教育令は、再改
 正される。
  教育令再改正は、未曾有の経済不況のなかで、町村人
 民の教育費負担軽減を目的として実施されたものである。
  ・・、1885年になると、内務省や大蔵省から地方教育
 費の削減圧力が、文部省にかかることになる。
  こうしたなかで、教育令が2度目の改正を余儀なくさ
 れる。
  ・・、再改正教育令は、1886年に公布された文部大臣
 森有礼による諸学校令に、僅か約半年で、席を譲ること
 になる。
  しかし、この短い再改正教育令期に、授業料徴収原則
 の確立(達第7号「府県立学校ニ於テ授業料徴収ノ事」、
 達第8号「町村立学校ニ於テ授業料徴収ノ事」)、
  半年進級制から1年進級制への変更(達第16号「公立小
 学校修業期限一箇年ヲ以テ一学級トナスノ事」)、
  授業料を納めない簡易な小学校の設置(達第12号「小
 学教場及其設置ニ関スルノ事」)、
  尋常・高等の2階梯小学校構想への変更(大木喬任説
 示)、
  戸長管轄区域を学区とする学区改定(「学区校数指示
 方心得」)、
  自然科学教科の理科への統合(「小学科課程表」)な
 ど
  小学校令(勅令第14号))の時期に引き継がれる重要
 な改革が実施された。
  これらの改革は、ほとんどが1885年において、実施さ
 れたものである。
  (論文:初等教育施策を中心としてみた1885年の文部
 省、伊藤稔明氏より)
1885年8月27日、東京女子師範学校を東京師範学校と合併し、
 同校女子部とする。
1885年8月、尖閣諸島などの調査
  内務卿であった山県有朋は、この時に、沖縄県に対し
 て、魚釣島、大正島、久場島の尖閣諸島の三島への調査
 を命じた。
  1887年6月、軍艦「金剛」は水路部測量班長・加藤海軍
 大尉を乗船させ,那覇から先島群島(尖閣諸島方面)に
 向かい、魚釣島等の調査を行った。
  日本政府はそれ以降も、1890年に沖縄県属の塙忠雄に
 よる漁業状況聞取調査、
  1893年に、沖縄県八重山島取調書(野田正以下の提出
 資料他尖閣諸島に関する聞き取り調査)を行い、尖閣諸
 島における漁業者(糸満人)の活動実態を確認している。
  その後日本人が入植し、アホウドリの羽毛の採取や海
 鳥の剥製の製作、そして鰹節の製造などが行われた。
  特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期、同島
 には99戸、248人もの日本人が暮らしていた。
1885年8月、ローマ教皇レオ13世の親書、オズーフ司教の手
 で天皇陛下に奉呈される。
  「明治天皇紀」第六は、1885年(明治18年)9月12日、
 「羅馬法王施設アルシノエ僧正ピー・エム・オスーフ参
 内、法王レオ十三世の親書を捧呈す」と記述する。
  これは法王が日本との交誼(親しい交わり)を求めて
 実現したもの。
  1885年8月22日に、横浜着し、
  1885年9月19日に、横浜を出帆した。
1885年8月、医師・松本良順が、大磯に海水浴場を開く。
  松本良順は、軍医・政治家で、大日本帝国陸軍の初代
 軍医総監を務めた。
  松本良順は、1857年、幕府の命を受け、長崎伝習所へ
 行く。
  長崎で、オランダ軍の軍医ポンペと出会い、助手とな
 り医学や蘭学を学ぶ、
  ポンペは、医療行為としての海水浴の効用に注目して
 いて、その助手となった松本は、ポンペから海水浴療法
 についても学んでいた。
1885年9月5日、学習院女子教科を廃止した。
1885年9月6日、束髪の大流行の騒ぎ
  この日の、東京日々新聞(後の毎日新聞、東京での最
 初の日刊紙)の記事、 明治18年9月6日号に・・、
  束髪について・・、
  「この節は、奥方連中までも束髪を採用せられ、一日
 も早く我が国婦人の結髪を改良せんとの奮発にて、
  女子師範学校は、率先して束髪となり、
  又、束髪会が起こり、追々、蔓延流行して、各小学女
 教師は、勿論、
  裏店の山の神も、束髪するに至りたるは、何より結構
 とは存ずれども、
  独り迷惑を受けたるは、小間物屋 まで同商人等は、転
 業せねばならぬと言ひ居るよしなり」・・とある。
1885年9月10日、英吉利法律学校が開校した。
  東京・神田に、英吉利法学校(現=中央大学)が開校
 した。
1885年9月17日、日本郵船が創立された(9月29日説あり)
  政府の仲介で、郵便汽船三菱会社と三井系国策会社で
 ある共同運輸会社が合併し、日本郵船会社を設立、競争
 を避けた。
1885年9月22日、東京外国語学校、同校高等商業学校、東京
 商業学校の3校を合併し、東京商業学校を新たに設立さ
 れた、後の、一橋大学。
  東京外国語学校と合併し、神田一ツ橋に移り、東京商
 業学校と称する。
  明治18(1885)年2月、語学部を廃止する。
    (一橋大学ホームページより)
1885年9月24日、違警罪即決令が制定された。
  違警罪(いけいざい)は、旧刑法で、拘留・科料にあ
 たる軽い罪の総称で、
  違警罪即決令(いけいざいそっけつれい)は、明治18
 年太政官布告31号。
  違警罪について、正式の裁判によらず警察署長などの
 官吏が、即決処分によって処罰することを認めた法令。
  被告人を呼出さず言い渡し書を送達するだけでよい場
 合が認められており、その場合は5日以内に被告人または
 その法定代理人、配偶者などから正式裁判の申立てがな
 いと、裁判は確定した。
1885年9月25日、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が没
 した。
  (1836年2月12日~1885年9月25日)満45歳没。
  薩摩(鹿児島)藩の儒者・五代直左衛門秀尭と、母・や
 すの次男として生まれる。
  幼名徳助、または、才助。
  少年時代には、藩の聖堂造士館で文武を学ぶ。
  1854年(18歳)父の死後、藩に出仕して郡方書役とな
 るが、
  1857年(21歳)藩命により、幕府の長崎海軍伝習所に
 遊学、
  以後、1868年(32歳)まで、主として長崎に居をかま
 え、勝海舟・榎本武揚・寺島宗則・本木昌造・佐野常民・
 高杉晋作らと交遊し、
  トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、開明的知識を
 養う。
  1862年(26歳)、2度にわたって上海に渡り、薩摩藩の
 ために、汽船、武器を購入。
  1863年(27歳)薩英戦争が起こると寺島宗則(当時:松
 木弘安)と共に、英艦隊と交渉に当たるが、捕虜となり、
 横浜に拉致される。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(29歳)薩摩藩留学生の引率者としてイギリス
 に渡り、紡績機械、武器を購入し、
  また、ベルギー、フランスでは、貿易商社設立契約や
 万国博への出品委託を行った。
  渡欧中、薩摩藩主に、富国強兵に関する18カ条の建言
 書を送り、
  1866年(30歳)帰国後は、御用人席外国掛に任ぜられ
 て、
  外国貿易、鹿児島紡績所の建設、長崎小菅修船場の建
 設、薩長合弁商社設立の計画を行うなど、
  薩摩藩の殖産興業政策を推進するとともに、諸藩の志
 士と交わる。
  明治政府成立後、参与となり、外国事務掛、外国官権
 判事、大阪府判事を歴任、
  大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の建設にか
 かわるとともに、
  通商・為替会社設立などを契機に、大阪経済界とも接
 触した。
  1869年(33歳)官を辞し、金銀分析所、弘成館(鉱山経
 営)、朝陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社を設
 立。
  さらに、阪堺鉄道、大阪商船、神戸桟橋会社の設立に
 関係するなど実業界に入った。
  また、旧来からの大阪商人の力を結集して、堂島米会
 所の再興、大阪株式取引所の創設、大阪商法会議所(現在
 の商工会議所)の設立、
  大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設置にリーダ
 ーシップをとり、
  商法会議所の初代会頭となるなど大阪財界の指導者と
 なった。
  「財政救治意見書」を建白するなど大久保利通の経済
 政策ブレーンとしても知られ、
  1875年(39歳)の大阪会議では根回し役を務めた。
  政界との関係深く、政府から多額の補助金を得、
  1881年(45歳)には、関西貿易会社を設立して、北海
 道開拓使官有物払い下げ事件、いわゆる、明治14年の政
 変を引き起こすなど、政商のイメージが刻印されている
 実業家であるが、
  沈滞気味であった明治初期の大阪経済界をリストラク
 チャリングさせた功績は大きい。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、中国支援を早い時期から始めていた。
    これが、日中戦争の泥沼化の大きな原因。
    だから、これは、日中戦争ではなく・・、
   影に隠れたアメリカが入っている『日・中米戦争』。
   第二次世界大戦は、既に、この時、開始されていた。
.
1937年、アメリカ大統領のルーズベルトは・・、
  日中戦争に、1937年に、大量の軍事物資を援蒋ルート
 を通じて、蒋介石が率いる国民党政権へ送り続けた。
  援蒋ルートとは、日中戦争(日・中米戦争)で、アメ
 リカが、中国の蒋介石軍を支援するために、軍事物資を
 輸送したルート。
  イギリス・ソ連も一部支援していた。
  ソ連は、日ソ中立条約があったため、すぐ取り止めた。
  イギリスは、1942年に、ビルマで日本に負けた後は、
 ほとんどできない状況となった。
  余談だが、イギリスは、インドから中国を侵略したと
 き、こんな広大な領土を持っている『中国は罪だ』と言
 い、自分の侵略を正当化した。
  何とでも言って、自分を正当化する論理だった。
  このアメリカなどの支援の目的は、徹底的に支援して、
 日本に対する『抗戦をさせるため』だった。
  日本と中国とアメリカの消耗戦であった。
  このルートは、第二次世界大戦まで続き、このルート
 と援助行為が続く限り、戦争は拡大こそすれ、終わるこ
 とはなかった。
  また、日本を潰したかったアメリカにとって、一種の
 代理戦争となっていて、「都合がよかった」。
  そしてまた、ちょっと、脇道にそれるが・・、
  日本は、この蒋介石の国民党軍と戦った訳で・・、
  今・現代、なんだかんだと言う共産党政権の中国と戦
 ったわけではない。
  つまり、共産党の中国政権が、日本と戦って勝ったと
 いう『戦勝国ではない』。
  さも、戦勝国の様に言うのは・・おかしな発言だ。
  そして、話を戻して・・、
  その約2年の後の1939年になって・・、
  アメリカは、日本の中国侵略に抗議するとして、1939
 年7月に、日米通商航海条約の廃棄を通告した。
  通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に、同条約
 は失効した。
  そして、日米関係は無条約時代に入った。
  また、アメリカ軍人のクレア・リー・シェンノートが、
 中国・国民党に雇用されていて(実際はアメリカの派遣)、
  シェンノートの指揮のもとに組織されたアメリカの退
 役軍人(?)を中心としする義勇軍(?)「フライング・
 タイガース」を、1941年に、中華民国(国民党軍)へ派
 遣させるなどをした・・と言われているが(?)、
  これは、アメリカに配慮した「ごますり記述」である。
  クレア・リー・シェンノートは、中国名を持つ(れっ
 きとした)アメリカの正規の軍人で、
  アメリカ軍の中将までの階級を得た正規の軍人だった。
  生半可な軍人ではない。
  そして、れっきとしてアメリカが支援して、設立され
 た中華民国空軍の顧問として従事した。
  そして、ルーズベルトの(正式な)指示によってでき
 た「ワシントン中国援助グループ(オフィス)」の支援
 を受け、アメリカ合衆国軍(「義勇軍だ」とアメリカは
 言いたい)を設立し、
  アメリカ大統領が、正規に指示して、それが、例え、
 「義勇軍をつくれ」と、アメリカの正規の軍人と、正規
 の軍備を持って赴(おもむ)いたら、それは義勇軍か?
  違うだろう・・それは、義勇軍という名の「アメリカ
 の正規軍」だ。
  れっきとした、アメリカの介入で、真珠湾攻撃前に、
 アメリカと日本は、中国で戦端を開いていた。
  第二次世界大戦は、中国で、既に、開始されていた。
  アメリカは隠れて、日本を攻撃していた、奇襲である。
  アメリカの最新鋭の戦闘機100機と共に、
  また、精鋭のアメリカ人パイロットと、そして、、
  地上要員200名までそろえた『れっきとしたアメリカの
 正規軍部隊』を介入させた。
  アメリカのごますりマスコミが、日本の真珠湾攻撃の
 後だった等と、アメリカの顔を立てているが、れっきと
 した、早々と中国に介入して、日本と戦闘していた。
  なお、蒋介石は、1928年から、ドイツ軍事顧問団によ
 る指導を受けていた。
  中独合作、1910年~1940年との史料もある。
  中国は、日清戦争の敗北による反省から、ドイツを招
 聘したが・・、
  1938年に、ドイツの軍事顧問団は引き上げている。
  また、蒋介石の顧問に任命されていたオーウェン・ラ
 ティモアは・・
  この人は、アメリカのハーバード大学に学んだ太平洋
 問題調査会の中心的メンバーを長く務めた人で、
  アメリカの対中国政策の形成に関与し、影響を与えた
 人・・、
  日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対するよう
 蒋介石に助言した。
  このラティモアの考えは、ルーズベルトの考えと一緒。
  アメリカの目的は、徹底的に日本を潰すだった・・、
  また、このラティモアは、日本の天皇制の廃止を主張
 した男だった。
  天皇陛下と、天皇位継承の資格のあるすべての男子を
 中国に流して、抑留しろと主張した男だった。
  この様にはっきりした史料があるのに、日本のマスコ
 ミは、アメリカへの「ごますり報道」をよくする。
  例えば、読売新聞は、「中国に関与したのは、真珠湾
 攻撃の後だ」と、わざわざ取って付けた様な言葉を付け
 て記事とした。
  これは「嘘記述をしている記事だ」。
  朝日新聞の問題となった『慰安婦記事』の様な「嘘記
 事」だ。
  何故、読売新聞は、読者=日本国民=日本を貶(おと
 し)めるのだろうか?
  何で、アメリカを庇(かば)い、媚(こび)を売り、
 日本人読者に嘘記事を刷り込もうとするのか?
  今後、ニュースがもらえなくなるという、自分の利益
 を阻害する何かがあるのだろうか?
  この件について、アメリカは、最初、「アメリカが中
 国を支援していること」も否定していた。
  その後、その事、嘘がばれると・・、
  アメリカは「ボランティアだ」と、また、嘘を言った。
  「嘘の屋上屋を重ねた」。
  つまり、読売新聞の「真珠湾攻撃の後だ」などとの言
 い訳は、アメリカは、最初からズーット、一度も言って
 ない。
  読売新聞のこの様な記事は、読売新聞のつけたしの、
 作り物の記事だと言える。
  放送大学も、よくアメリカを庇(かば)った放送を、
 大学講義で正しいのだと思わせて、錯覚させた放送をよ
 くする。 
  嘘講義を、『よくする』。
  何度、抗議しても反省はしない、再発防止策は取られ
 ていない。
  相手が、アメリカだと、話はいつも美しくしている。、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月8日木曜日

臨時ブログ:アメリカは、黒人の方々を棄民した。

臨時ブログ:アメリカは、黒人の方々を棄民した。
  また、アメリカは、黒人の方々を奴隷として捕縛した。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1847年7月26日、アフリカ最初の独立国・リベリアが独立
 した。
  アフリカのリベリア共和国が独立した。
  この年、ヨーロッパの植民地支配を受けていたアフリ
 カの国々のうち、
  いち早くリベリア共和国が独立した。
  アフリカで、次に独立するガーナは、110年後の1957年
 で、イギリスから独立した。
  この1957年のガーナの独立が、アフリカの国の初めて
 の独立などとされているが、最初に、リベリア共和国の
 独立があった。
  そして、その経緯(いきさつ)は・・、
  リベリアの独立のきっかけは、アメリカで起こった奴
 隷解放に関係していた。
  ジョージ・ワシントンの甥を会長とする「アメリカ植
 民協会」が、アフリカの土地の一部を購入し、そこに解
 放奴隷をアメリカから連れて行き町を作ろうとした。
 そして、作った。
  その後、同協会が、リベリア援助を続けられず、縮小
 する方針を打ち出したため、
  1847年に、独立という形にした。
  独立を宣言し、共和国憲法を採択した。
  アフリカ最初の共和国として誕生した。
  ・・と、美しく・・歴史には書かれているが・・?
  アメリカ大統領のリンカーンも、この件に関係した。
  実は、アメリカに居る黒人の方々の棄民だった。
  ブログの『子供たちの「リンカーンの伝記』は間違っ
 ています」にも書きましたが・・、
  リンカーン大統領は、「黒人奴隷を解放した」と言わ
 れていますが、間違いです。
  彼には、黒人奴隷を解放したいという意思や希望は、
 まったく有りませんでした。
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 から持った」という受け身的な奴隷解放の行動でした。
  逆に、奴隷解放どころか、その逆の言葉も多くリンカ
 ーンにはあります。
  その様な、リンカーンに都合の悪い言葉は隠され・・、
  美しく「奴隷解放の父」が作られています。
  奴隷解放の流れをつくったのは・・その様な方向へ仕
 向けたのは・・、
  黒人の黒人奴隷解放戦士『フレデリック・ダグラス』
 でした。
  本当に、この真の奴隷解放者は隠されています。
  黒人ゆえだからでしょうか?
  この様な事まで、白人は奪うのでしょうか?
  また、黒人の方々の・・その組織の働きかけがあった
 から、奴隷解放の方向に流れて行ったのです。
  そして、その流れの中に、リンカーンが居ただけなの
 です。
  これが、真実なのです。
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  正しい内容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には「黒人は人ではない」として来た歴史
 が、古くからズーッとあります。
  この様な流れや、見方に影響された人々が、したこと
 は、黒人の奴隷解放に一旦ちょっぴり至っても、
  直ぐに、自分たちの利にとらわれて、元に戻ってしま
 うという状態だった。
  悲しいかな、黒人の方たちは・・、
  「人間ではない、奴隷という原罪」がある・・と、理
 由づけられた見方・考え方をされていました。
  特に、アメリカ南部は、現在も「バイブル・ベルト」
 と言われている様に「キリスト教徒が多い地帯」。
  ここの地に、黒人奴隷の悲しい歴史が刻まれました。
  奴隷制は、疑問なく容認する考え方の地でありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、
  アメリカ南部の人達は、当然のごとく、奴隷制を容認
 し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
  そして、この南部の奴隷制寡頭勢力は、(かとうせい、
 寡頭制:少数者が権力を握って行う独裁的な形態)、
  自分たちの利が脅(おびや)かされるに及んで、剣を
 引き抜き、南北戦争を起こした。
  自分の意に合わない者は、相手は、殺すという教義・・
 「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義のままに、
  「考え方の違うものは滅ぼせ」の教義どおりの行動と
 なってしまった。
  その様なアメリカの中でも・・共和党は、アメリカ全
 土の奴隷制反対勢力が応援し、育て、そして、強固にし
 た党だった。
  (ちなみに、民主党は、奴隷制を容認した党でした)。
  くすぶりの中にあったアメリカで、この年に、南北戦
 争(1861年4月12日~1865年5月9日)が起き、
  リンカーンは、この年に大統領に就任した(任期:1861
 年3月4日~1865年4月15日)
  後代の歴史家が「南北戦争は奴隷解放戦争」と位置付
 けしていますが・・、
  リンカーンの大統領就任演説は、何と・・
  「奴隷財産を擁護する論理展開をするという演説」で
 した。
  リンカーン大統領は、「奴隷財産は守ります」という
 就任演説でした。
  何と愚かな演説でしょう。
  奴隷制について・・、
  「反対するか賛成するかわからない州が存在したから」
 と言い訳する人たち、リンカーンを擁護する人たちもい
 ますが・・?、
  リンカーンのその後の行動からみても・・??
  彼は、「奴隷解放の大統領とは言えません」。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思が
 なく、不決断もあって、
  また、軍の首脳部の腐敗もあって北部軍は、「敗北が
 続いた」。
  北部のシンボルである『首都=ワシントンが、陥落す
 る』危険にさらされる緊急事態にまでもなった。
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士の『
 フレデリック・ダグラス』でした。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認していません』でした。
  フレデリックは、ここで働いて、この戦争で働きを見
 せて、黒人の解放を勝ち取りたいとしていました。
  「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を軍務につかせよ」
 ・・と、訴えました。
  「奴隷に対する自由が、今こそ国会議事堂から全戦場
 の砲焔の空高く宣言されなければならない」・・と、叫
 びました。
  「黒人を軍務につかせよ、そして、黒人解放軍を組織
 せよ・・と、
  彼らは、南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚
 げるであろう」・・と、世論に訴えました。
  リンカーン大統領は、愚かにも、首都ワシントンが陥
 落の事態になっても、
  「黒人奴隷は漸進的に解放したい、一気に解放という
 事はしたくない」の言うのでした。
  また、リンカーンは、卑劣な事に・・
  「解放された黒人は、アフリカかどこかに植民させた
 い」と考えていた・・これが、リベリアです。
  黒人の方たちを捨てるということです。
  「棄民」の考えです。
  当然、黒人の方たちからは、強い反対の声が沸き起こ
 りました。
.
  そして、次の話・・後編・・、
.
1847年7月26日、アフリカ最初の国・リベリアが独立した。
  この国は、アメリカ大統領が思っていた『黒人の方々
 の棄民の国』だった。
  アメリカ合衆国の人種差別行為の行なわれた国だった。
  アメリカの北部から、リンカーン大統領を輩出した。
  南北戦争当時の北部出身の大統領のリンカーンだった。
  アメリカの北部軍が、この戦争に勝って・・、
  そして、今のアメリカ合衆国の政権は、この延長線の
 上にあり、
  リンカーンが始まりで、そして、その流れが続いてい
 ると言える。
  だからこそ、それ以後の北部系のアメリカ政権が、そ
 の始祖のリンカーン大統領を大切にするのは、そこに理
 由がある。
  リンカーンに記念堂があるのは、そこが理由だ。
  これに対し南部の人たちが、苦虫をかみ殺して居るの
 はこれが理由。
  南部にはリー将軍の記念日がある、誕生日を記念日に
 している。。
  だから、リンカーンと言えば「奴隷解放」と来るが、
 これが、クエスチョン(疑問)なのだ。
  これは、作られた話で、プロパガンダ(嘘宣伝)なの
 だ。
  アメリカの南部人に言わせれば、「北部でも、実際は、
 卑劣な黒人差別が行われていた」・・と言う。
  「北部人が、人種差別、人種偏見を非難するのは、政
 治上の駆け引きに過ぎない」・・と言う。
  アメリカの白人が、黒人の方々に対して、ある差異を
 感じているのは、北部も、南部も変わりがない。
  そして、アフリカの、リベリアという国の話し・・、
  この国は、1847年に独立した。
  アフリカで独立した一番最初の国。
  この国の独立の次にアフリカで独立する国は、長い期
 間、とぎれて、このリベリアの次ぎに独立する国は、ズ
 ーット後になる。
  だから、この国が最初のアフリカの独立国ではないと
 史実が消される本もある。
  アメリカへの「ごますり」で、史実を正しく書かない
 本さえあるから注意したい。
  では、何故、この国が、こんなに飛びぬけて早くアフ
 リカで独立できたかと言うと、既に述べた様に、リンカ
 ーンが関係している、
  そして、アメリカ合衆国が関係している。
  この国は、アメリカが土地を買って、アメリカにいる
 黒人の方々をここに住まわせようとした。
  つまり、「棄民」だ。
  リンカーンは、黒人奴隷の時代が終わりに近づいてい
 るので、連れて来たアフリカに返そうとした。
  黒人の方々の意思が優先された話ではない。
  リンカーン大統領は、『奴隷解放の大統領ではない』。
  「奴隷解放の父」と言う話はプロパガンダ(嘘話)。
  リベリアの歴史は・・、
  1816年 、アメリカ合衆国で設立されたアメリカ植民協
    会が、黒人解放奴隷のアフリカへの「帰還」を計
    画。
   (アメリカ合衆国の国内に居てもらいたくないとい
    う意思から、この行動が起こされた)。
  1820年1月、アメリカ植民協会、黒人のための「祖国
    再建運動」としてリベリア建国運動を開始。
     解放奴隷の88人を乗せた「エリザベス号」が、
    ニューヨーク港を出港し、西アフリカのシエラレ
    オネに向かう。
     「自由の女神像」も泣いていたであろう。
    利用されるだけ利用された黒人の方々が、アメリ
    カ社会で『自由な生活』を得ることが出来なくて、
    体(てい)のいい「棄民」をされた。
  1822年、初のグループがリベリアに上陸。
    再移住区を建設する。
  1824年、メスラド岬植民地が、リベリア植民地に改名
    される。
     同時に、アメリカが拿捕(だほ、捕らえること)
    したコンゴ系奴隷がニュージョージアに入植した。
     アメリカ自身が奴隷狩りをした。
     当初は「クリストポリス(キリストの都市)」
    と呼ばれていた首都の名前を、アメリカ合衆国の
    第5代大統領のジェームズ・モンローからとった
    モンロビア(現在、リベリア共和国の首都)に
    改名。
  1832年、ニューヨークで設立されたペンシルベニア州
    植民地社会がエディナ植民地 (Edina) と、
     12月には、ポートクレソン植民地 (Port Cresson)
    として入植した。
  1833年、再移住区をLiberty(自由)からとった「リベ
    リア連邦」と命名した。
  1834年、メリーランド州の植民地社会によりメリーラ
    ンド・アフリカ植民地 (Maryland-in-Africa) と
    して入植。
  1835年、ルイジアナ州の植民地社会がミシシッピ・ア
    フリカ植民地(Mississippi-in-Africa)として
    入植。
     6月、先住民部族バッサ族の攻撃により、ポート
     クレソンの植民地が破壊され、
     7月に、新たにバッサケーブ植民地 (Bassa Cove)
    を設立。
  1837年に、バッサケーブ植民地がエディナ植民地を統
    合する。
  1839年4月1日、ニュージョージア植民地とバッサケー
    ブ植民地がリベリア連邦に統合。
  1842年、ミシシッピ・アフリカ植民地もリベリア連邦
    に統合。
  1847年7月26日、アメリカ合衆国憲法を基本にした憲法
    を制定して独立を宣言した。
     初代リベリア大統領に、ジョセフ・ジェンキン
    ス・ロバーツ(任期1848年 - 1856年)が就任。
  1854年5月29日、メリーランド・アフリカ植民地がメリ
    ーランド共和国として独立を宣言するが、
  1857年3月18日、リベリア共和国に併合。
  1870年に、エドワード・J・ロイが大統領に就任するが
  1871年に、暗殺され、
  1872年~1876年の間は、初代のロバーツが第6代大統領
    を務める。
  1878年に、アンソニー・W・ガーディナーが大統領に
    就任。
  1896年には、ウィリアム・D・コールマンが1900年
    まで大統領に就任した。
  1903年には、アーサー・バークレーが大統領に選ばれ、
  1904年も、大統領に再選される。
  1915年、アメリコ・ライベリアンのリベリア政府に対
    して、先住民のクル族とグレボ族の反乱を起こす。
..
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2016年9月7日水曜日

(増補版)414E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年6月~1885年7月)

題:(増補版)414E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年6月~1885年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年6月3日、旅団条例制定
1885年6月6日、松方正義大蔵卿が、翌年からの兌換紙幣銀
 本位制を建議した。 
1885年6月、町村法取調委員会が、山県有朋へ町村法草案を
 提出する。
  内務卿・山田顕義(あきよし)の命を受けた内務省大
 書記官・村田保が、1884年(明治17年)5月に、町村法草
 案を作成したことに始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月に、内務省内に町村
 法調査委員会が設置され、
  1885年(明治18年)6月に、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、
  1886年(明治19年)7月に提出された御雇外国人アルベ
 ルト・モッセの意見書を契機として、
  町村合併による改革が図られることとなった。
  そして、1887年(明治20年)2月に、内閣に設置された
 地方制度編纂員会が、地方制度編纂綱領を策定し、
  同年・1887年9月17日に、市制・町村制法案を提出、
  最終的には、1888年(明治21年)4月1日に、市制・町村
 制が公布され、
  1889年(明治22年)4月1日に、施行された。
1885年6月、内村鑑三が、クリスチャンの女性と巡り合い
 結婚をする。
  しかし、わずか7か月で離婚し、
  6月のこの時に、鑑三はアメリカへ渡った。
  しかし、キリスト教国という期待のこのアメリカにも
 裏切られた。
  そのキリスト教国にあらざる状態、また、反人道的な
 人種差別のアメリカを、まざまざと見せられたからだっ
 た。
  鑑三は言う、
  「これがキリスト教宣教師により、キリスト教の他の
 宗教に勝(まさ)る証拠なりとして教えられし文明なり
 や」・・と。
  宣教師が言った「キリスト教は他の宗教より勝ってい
 る」というのは『嘘だった』と、実感し思う鑑三だった。
  鑑三は、新渡戸稲造から「高慢」とか、「利己的」と
 かと批判された。
  また、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻も23歳
 という若さで亡くなっている。
1885年7月1日、醤油税・菓子税が実施。
  日本には、菓子を課税対象とした菓子税があった。
  これは、「菓子税則」という法律で定められていて、
  この時に、「醤油税則」とともに公布された。
  「菓子税則」では、菓子業者は、免許鑑札料、営業税、
 及び、製造税を納付することと定められていた。
  実は、「菓子税則」の以前にも、菓子に対しては、各
 地で、「菓子屋税」、「菓子種商税」、「饅頭屋税」、
 「餡物商税」などの税が、課税されていた。
  この他にも、各地には、様々な税(雑税)があったが、
 1875年(明治8年)に行われた雑税整理の際に、整理され
 た。
  この時、菓子に対しては、府県が適宜、地方税として
 課税することができるとされたが、
  この10年後のこの時に、菓子税が国税として復活する
 ことになった。
  菓子税や醤油税が導入された背景には、前年に起きた
 甲申事変により、陸海軍の拡張が急務となり、
  それを賄う新税創設が必要となったことによる。
  菓子税創設の理由について、政府は、保護関税がかか
 らない外国からの輸入砂糖が大量に流通し、国内の砂糖
 産業が大きく圧迫されていた状況の打破にあると説明し
 たが、
  実際には、外国産と同様に、国内産の砂糖も課税対象
 であり、国内産砂糖の保護には結びつかなかった。
  菓子税則法案の審議を行った元老院でも、同様の指摘
 がされた。
  元老院は、むしろ、砂糖を多量に消費する菓子を一種
 の「奢侈品」と位置付け、課税の根拠の一つとした。
  実際、元老院での審議では、醤油税については、元老
 院議官から導入反対の声が多くあがっているが、
  菓子税については、奢侈品とされ、若干、声は小さか
 った。
  このような経緯で、導入された菓子税だが、すぐに、
 廃止、もしくは、改正を求める運動が全国で起こった。
  運動の過程で、さまざまなパンフレット類が作成・配
 付された。
  その一つが、京都市にあった全国菓子商協議会が発行
 した『菓子税則廃止懇望意見書』で、
  この史料には・・、
  (1)租税とは、国民の所得額の多寡に応じて賦課する
 べきであり、
  多額の所得がある諸商業には課税せずに菓子業に課税
 するのは不当であること、
  (2)菓子商は、経営規模が小さい業者が多く高利を
 得られる業態でもないため、国税を負担させるべきでは
 ないこと、
  (3)そもそも菓子の定義があいまいであること、
  (4)菓子税の税収は、当時の内国税全体に占める割合
 が1%前後と低く、徴収コストと見合っていないこと等
 の理由をあげた。
  そして、廃止を求める内容となっていた。
  この史料の特徴として・・、
  『時事新報』や『東京経済雑誌』など、国内の新聞雑
 誌の掲載記事を引用するだけではなく・・、
  アダム・スミスや、ロッシ、ガルニエなど、海外の経
 済学者の租税論も引き合いに出すなど、
  さまざまな角度から菓子税廃止論を述べている。
  また、この史料は、非売品で、一般に頒布されたもの
 ではなく、
  その内容からも、ある程度の知識を持った人たちに向
 けて配ったものと考えられる。
      (参考:国税庁ホームページより)
1885年7月1日、特許法が実施された。
  (第1号特許は堀田瑞松届けの錆止め塗料で1885年8月
 14日に特許権が成立した)
1885年7月2日、明治十八年の淀川洪水
  関西地方に、豪雨が続き大洪水(特に、大阪市内の橋
 梁悉く流失し、死傷者多数)
  明治十八年の淀川洪水は、1885年(明治18年)6月中旬
 から7月にかけて続いた淀川の洪水のことで、
  「明治大洪水」とも言う。
  1885年(明治18年)6月は、上旬から二つの低気圧の影
 響により雨が降り続けた。
  6月17日、淀川左岸にある支流の天野川の堤防が決壊、
 次いで、枚方の三矢、伊加賀で、淀川本流の堤防が三十
 間(約182m)にも渡って決壊したのを皮切りに、
  以後、淀川左岸の堤防は、各所で決壊した。
  25日から始まった新たな暴風雨によって、水は、寝屋
 川に達し、
  その他の河川も、水が溢れ出した結果、
  江戸時代の干拓で消滅したはずの深野池と新開池以上
 の大きな湖、
  かつての河内湖が、地上に現れ出す始末であった。
  これにより、大阪府下の北河内郡・中河内郡、東成郡
 及び大阪市街(現代の地名では、北は枚方市から南は東
 大阪市と大阪市のうち住之江区、東住吉区、住吉区、平
 野区以外の淀川以南の区)の、約15269町歩(15142ha)、
  当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71000戸が
 最大で約4mも浸水し、
  家屋流失約1600戸、同損壊約15000戸という甚大な被害
 が発生した。
  大阪市内では、大阪城~天王寺間の上町台地一帯を除
 くほとんどの低地部が、水害を受け、
  被災人口は約27万人。
  天満橋・天神橋・難波橋の浪華三大橋も流され、
  安治川橋に至っては、漂流物が橋に引っ掛かって川を
 堰き止める様子を見せたので急いで爆破した。
  こうして、八百八橋とうたわれた大阪の橋は30余りが
 次々に流失し、
  市内の交通のほぼ全てが寸断された。
1885年7月3日、朝鮮の事を思う日本
  駐清公使・榎本武揚が、井上馨外務卿の士道により、
 天津に李鴻章を訪問し、
  日清共同による朝鮮内政改革と、大院君の帰国を提議
 した。
1885年7月8日、500石以上の大型和船の建造を、1887年1月
 以降禁止する。
  明治政府は、国内海運の近代化を意図して、大型和船
 のかわりに、洋式帆船を主用しようとしたが、成功しな
 かった。
  そこで、1887年(明治20)以後は、500石積み以上の和
 船の建造禁止に踏み切った。
  しかし、現実には、和船に洋式帆船の技術を取り入れ
 た折衷式の合の子船の全盛時代を現出し、
  これが、昭和初期の機帆船時代へと移行した。
  他方、小型和船は、制約外のため沿岸漁船として近年
 まで全国的に使用され、
  どうにか和船の姿をとどめていたが、
  これも、主流は、合成樹脂使用のFRP船(プラスチック
 船)にとってかわられ、
  今日では、ほぼ滅亡に近い状況となっている。
1885年7月13日、大阪中学校を大学分校に改称された。
1885年7月16日、日本鉄道の大宮~宇都宮間が開通、営業
 をはじめる。
  同時に、宇都宮市伝馬町で、日本鉄道の嘱託を受けた
 旅館「白木屋」(旧脇本)を経営する斉藤嘉平が、
  鉄道会社の依頼で、「日本初の駅弁」を宇都宮駅ホー
 ムで売り出した。
  弁当の内容は、黒ゴマをまぶした梅干し入りのおにぎ
 り2個と、たくあん2切れを、竹の皮で包んだ質素なも
 のだった。
  駅弁1個5銭という高額であったため、不評だった。
  この日本鉄道東北線の内、大宮~宇都宮が、利根川橋
 梁を除いて開通して、
  これにともなって、旧街道宿場の店が、宇都宮駅で駅
 弁販売を開始したという事だった。
  上野~宇都宮間の開通に伴って上野駅が完成し、
  日本鉄道の路線が、大宮から宇都宮まで延び、上野~
 宇都宮間の開通となった。
  利根川の橋梁は未完成ため、渡し船で渡った(完成は
 1886年)。
  完成した上野駅は、煉瓦造り駅舎だった。
1885年7月17日、海底電信万国条約に加盟する。
  参考:1884年4月12日、海底電信線保護万国連合条約に
 加入した。
  仏蘭西共和政府大統領閣下普魯西兼独逸皇帝陛下亜爾
 惹丁連邦大統領閣下澳地利兼洪牙利皇帝陛下白耳義皇帝
 陛下伯西爾皇帝陛下哥斯太利加共和政府大統領閣下丁抹
 皇帝陛下度美尼哥共和政府大統領閣下西班牙皇帝陛下北
 米合衆国大統領閣下哥倫比亜合衆国大統領閣下大不列顛
 愛爾蘭兼印度皇帝陛下牙徳麻刺共和政府大統領閣下希臘
 皇帝陛下伊太利皇帝陛下土耳其皇帝陛下荷蘭兼盧森堡皇
 帝陛下波斯皇帝陛下葡萄牙亜爾珈揮皇帝陛下羅瑪尼皇帝
 陛下全露西亜皇帝陛下薩爾波度児共和政府大統領閣下摂
 児比亜皇帝陛下瑞典兼諾威皇帝陛下烏拉芸東部共和政府
 大統領閣下ハ海底線ヲ経過スル電気通信ヲ保護スルコト
 ヲ冀望シ夫レカ為メニ条約ヲ締結セント欲シ各其全権委
 員トシテ左ノ人々ヲ任命ス
  参考:万国電信条約(ばんこくでんしんじょうやく):
  1865年、電信料金・取扱方法等を国際的に統一するため、
 パリで結成された万国電信連合の加盟国が締結した国際
 条約で、
  1879年に、日本は加盟し、電信において国際社会の一
 員となった。
  1932年に、万国電信連合は、国際電気通信連合(略称ITU)
 となり、1947年に、国連の専門機関となった。
  因みに、この年(1885年)に、政府は、国内の全ての
 主要都市を結ぶ電信網の建設を決定し、国内均一料金制
 度を導入した。
1885年7月20日、「女学雑誌」が創刊した。
  近藤賢三が編集し、万春堂が発行した。
  女性の「めざめ」と、社会的地位の向上をめざした雑
 誌として登場した。
  後の文学界に、大きな影響を与えた。
  この雑誌から、1893年1月に『文学界』が誕生した。
1885年7月、岩本善治(いわもとよしはる)が「婦人大学」
 を創刊した。
  巌本 善治は、女性教育家で、評論家、事業家だった。
1885年7月26日、明治天皇陛下が、山陽巡幸御発輦
1885年7月31日、農商務省が、郵便線路規定を定め、3線路
 段階を決定した。
  日本の郵便制度は、1880年(明治13年)から1885年(
 明治18年)にかけて大きな転換点を迎える。
  日本全国を網羅する郵便ネットワークが完成した明治
 16年(1883年)には、通常郵便物の引き受け数が1億通
 を突破し、郵便局数も5,651局とピークに達した。
  1883年(明治16年)の「郵便条例の制定」は画期的な
 ことだった。
  「特別地方郵便制度」の契約によって、駅逓局は、各
 府県の公用通信網を郵便に取り込むことに成功していた。
  これによって、郵便の政府専掌を完全なものとした。
  そして、全国を網羅する郵便逓送ルートと、郵便集配
 網を完成させた駅逓局は、
  さらに、「均一料金制」の完全実施を目指して、郵便
 条例の制定に力を注いだ。
  これは、前島郵便の集大成の行動だった。
  すでに、1882年(明治15年)4月に、農商務省伺は、郵
 便条例制定の経緯と、主な、改正内容が記し、
  上記改正を実行するためには・・、
  「均一料金としての通常郵便物の料金を2銭5厘とし、
 郵便はがきを1銭5厘とする料金値上げを行わなくては
 ならない」として、
  1880年(明治13年)の郵便物数に基づいた詳細な積算
 により説明を行なっていた。
  (参考:日本郵政株式会社郵政資料館 資料専門員・
 井上卓朗氏の論文)
1885年7月、渡辺鼎・石川映作が、婦人束髪会を設立した。
  女性の髪型「束髪(そくはつ)」 が流行した。
  束髪は、髪を束 (たば) ねて結ぶ事こと・結んだ状
 態になる。
  この時、婦人束髪会と云う組織を作り、和風結い髪か
 ら西洋風結い髪がファションとなった。
  和風結い髪に比べて、簡便なため、急に流行となった。
  髪型デザインは、揚げ巻 ・下げ巻 ・イギリス(英吉
 利)巻など、後には色々なバリエーションが作られた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:戦争についての罪悪感を、日本人の心に植えつけ
   るための宣伝計画
    アメリカ主導による、連合国軍最高司令官総司令部
  (GHQ)による、日本占領政策として行われた。
.
1948年2月6日、アメリカ主導のGHQの『日本の教育』や、
 『日本のマスコミ』に対する方針は・・、
  「日本人の再教育」と称して行われることと並行して
 ・・
  「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
 (WGIP)」という計画に基づいて行なわれた。
  この計画は・・、
  日本人に、『自虐史観を植え付けよう』という目的を
 持っていた。
  そして、結果的に・・、
  日本人に『自虐史観』の植え付ける結果となった。
  「日本が行なったことは悪い事だった」という洗脳、
 罪悪観念を植え付けることが目的とされた。
  その結果・・、
  日本人が、日本を悪く言うようになった。
  (今でも、NHKの「日本の貶(おとし)め行為など、
 ひどいものだ・・
  その他・朝日新聞や、日本のマスコミなどなど・・)
  この様な結果となったのは・・、
  アメリカを主導とするGHQの一連の政策を遂行する
 事によってだった。
  GHQは、NHKに、「真相はこうだ」というラジオ
 番組を企画させ、放送させた。
  このNHKの放送は・・、
  「日本国民は軍に騙されていた」
  「日本軍は大陸で残虐なことをした」・・と、主張し
 続ける放送内容だった。
  結果的に・・、
  日本人は洗脳され、刷り込まれ、
  新聞紙上でも、『日本軍の蛮行』という『捏造記事(
 ねつぞうきじ、事実でないことを事実の様にこしらえた
 記事)が連載された。
  そして、世は、国際法にもない法規によって東京裁判
 が行われていた。
  (酷いことだ・・国際法にない法規を作ってまでして
 日本を裁いた・・)
  二度と日本が戦争する事が無いような『弱体化した国
 家としたい』とした。
  そして、日本人の精神面に於いても、『日本の国民精
 神を衰退させたい』としていた。
  日本が、主権を回復した後も・・、
  革命思想を持った人たちが、教育界やマスコミに入り
 込み、
  日本を破壊して、共産主義革命を起こすためにもと、
 続けて洗脳した。
  そして、近年は、中国や韓国などの日本崩壊を目論む
 国が、
  それを利用して、日本をプロパガンダ攻撃している。
  そして、この洗脳行為であるGHQの歴史教育による
 影響は、外交にも及んでいる。
  (頭の柔らかいうちにと・・自虐史観で書かれた教科
 書によって教育されたり・・盛んに洗脳された・・
  今・現代でも、その傾向は多く残されている・・)
  その教育の刷り込みの影響から・・、世界を相手にす
 る現役のある外務省幹部は・・、
  「相手国の外交官と議論をする時、日本は、お互いの
 歴史認識がテーマになると、決まって負けてしまう」と
 述べている。
  外交交渉上も、無用な譲歩や謝罪をさせられ、この歴
 史認識問題は、大きな外交敗北の原因となっている。
  そして、ウォー・ギルト・インフォメーション・プロ
 グラム(略称:WGIP)について・・、
  これは、文芸評論家の江藤淳氏が、その存在を証明し
 た。
  太平洋戦争(大東亜戦争)終結後の・・、
  アメリカ主導による連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
 による、日本占領政策の一環として行われた「戦争につ
 いての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」
 だった。
  江藤氏は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・
 プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植
 え付けるための宣伝計画)という名称が・・、
  GHQの内部文書に基づくものであると説明し・・、
  高橋史朗氏、藤岡信勝氏、小林よしのり氏、櫻井よし
 こ氏、保阪正康氏、西尾幹二氏、勝岡寛次氏、『産経新
 聞』などが同じ行動をとっている。
  1979年より、ウィルソン・センターで、米軍占領下の
 検閲事情を調査していた江藤氏は・・、
  アマースト大学の史学教授レイ・ムーア氏より、
  「Draft of c/n, Subject : War Guilt Information
 Program,From : CIE, To : G-2 (CIS), :Date : 6 February
 1948」・・と、表題された文書のコピーを提供された。
  江藤氏は、この文書について・・、
  1948年(昭和23年)2月6日付で・・、
  CI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間
 諜報局)宛てに発せられたGHQの内部文書であると説
 明されている。
  そして、「コピーには特段のスタンプは無いが・・、
  The National Record Center, Suitland, Marylandで、
  ムーア教授が、GHQ文書を閲覧中に発見したものと
 考えられている。
..
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2016年9月6日火曜日

臨時ブログ:国を売るNHK

臨時ブログ:国を売るNHK
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  題:国を売るNHK
.
  拝 啓 
  御公務、ありがとうございます。
  NHKの日本を売る売国行為は酷いです。
  何とかならないのでしょうか?
  海外放送局にまで、日本を貶(おとし)める番組を送
 っているという事です。
  この事をネットで知り、大変、驚いております。
  この様な売国行為は何とかならないのでしょうか。
  よろしくお願い申し上げます。
           敬 具
.
  以下は、その事を記したものです。
..
2012年9月8日、売国するNHK
  酷いNHKの売国行為・・、
  日本を売る行為を、日本の方々が知らない所で、日本
 のマスコミが日本を売っているという。
  以下の例は、NHKであるが、あまりにもひどい。
  何とかならないのだろうか・・?
  敦子カローさんは、フランスに住まわれているが、
  日本の公共放送NHKが、海外放送局に貸し出した映
 像が、偽造された映像で、嘘の映像で、「売国行為をす
 るNHK」となっていると言われる。
  日本を売ることを良くやるNHKであったが、海外放
 送局に日本を売る行為までしているのかと思い、驚いた。
  それも、悪意に満ちた映像を、わざわざ作ってまでし
 て番組を作っているという。
  以下そのブログ・・、
  http://blog.goo.ne.jp/mao777cocoro/e/a72f53628cc695515951cb6475a0d520
  NHKが関与した恐るべき「黙示録」
  正論12月号より引用
  http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0912/ronbun3-1.html
  【略歴】敦子カローさん
  昭和32(1957)年、大阪市生まれ。金蘭短期大学英語
 科卒。
  青年海外協力隊の任地で知り合ったフランス人男性と
 知り合い結婚、
  パリ郊外のムードンで暮らす。
  日本の公共放送が海外のテレビ局に 貸し出した映像は
 どう“利用”されているのか。
  フランス在住邦人 敦子カロー
  ■黙って見過ごせない内容
  その番組のタイトルは「Apocalypse(黙示録)」とい
 う。
  FRANCE2というテレビ局が、近現代史をテーマ
 に制作した全六回のシリーズで、
  私が暮らすフランスにおいて、大好評を博したドキュ
 メンタリー番組である。
  息子(高校生)の学校の先生が「いい番組だ」と推薦
 したこともあって、
  わが家では九月十五日に放映された四回目を観ること
 になった。
  その回のテーマは「第二次世界大戦勃発の真相」。
  冒頭のテロップにさり気なく映った「NHK」の三文
 字に、
  「こんなところでわが国の公共放送局が一役かってい
 るのか」と感心した。
  ところが、その内容は、なんと言ったらいいか、
  私は自分が軽い神経症になるのではないかと心配する
 ほど惨いものであった。
  フランス人の亭主も一緒に観ていたが、
  私が番組を観ながら殺気だってゆくのを悟ったのか、
 いきなり立ち上がり、テレビの脇にあるCDプレイヤー
 をティッシュで ガサツに音を立てて拭きはじめた。
  亭主は「あー、埃だらけ。汚いなあ。こんなに汚れて
 る」とぼやきながら、
  中腰になってテレビの画面を遮ったのだ。
  私の気をテレビから逸らすつもりだったのだろうが、
  逆にイラつきが更に募ってしまった。
  「こんなもの、まともに観れるかいな」と思う半面、
  「これは証言者にならなければいけない」という義務
 感が沸いてきて、
  静かに注意深く観たいと思ったからだ。
  日本人である私はフランス語を聞くときは、通常のフ
 ランス人ほどは聞き取れない。
  「何をやってるの? うるさいんだけど!」と注意し
 て、 テレビのナレーションに耳を集中させた。
  番組が終わるや、「これは黙って見過ごせない」と、
  感情がホットなうちに話を聞いてくれそうな人三、四
 人にメールを送った。
  その中には昭和史研究の権威である中村粲先生も含ま
 れていた。
  私がこうして原稿を書いているのは、 中村先生の「N
 HKウオッチング」を担当する「正論」の 編集者から執
 筆依頼があったからだ。
  そこで私は執筆の準備のために、番組のHPを読み、
  番組終了直後に出たDVDを入手し、
  番組のチーフプロデューサーにメールで質問状を送っ
 たのである。
  ■残忍非道に描かれた日本人
  さて、問題の番組の内容を紹介したい。
  観ていて一番ショックを受けた箇所は、中国大陸で、
 日本の軍人が住民と思われる女子供を縛って、生きたま
 ま土に埋めてゆく場面である。
  それも再現フィルムとは思えない古い白黒の ドキュメ
 ントフィルム仕立てであった。
  「仕立て」とあえて言うのは、役者の質のせいか、ど
 ことなく臨場感が薄かったからだ。
  私は冷や汗をかきながら、ご近所や知り合いのフラン
 ス人がこの番組を観ていないことを強く願った。
  他にも惨い描写が満載。
  フィリピンのバターン半島で捕虜を飢餓状態のまま 百
 キロ行進させたと言われる「バターン死の行進」の再現
 映像では、倒れた捕虜を日本兵が刀で脅す描写があった。
  日本兵の形相は、安直な映画に出てくる未開の人食い
 人種さながらであった。
  この番組では、欧州やロシアを扱うときには基本的に
 記録映像を使うのだが、
  記録映像が少ないためだろうか、
  日本を扱うときは再現フィルムという作り物が多く混
 ぜられていた。
  近所に住むフランス人女性は
  「自分の父親は、かつての仏領インドシナで日本軍の
 捕虜になったけれども、
  辱めを受けることなくまっとうに扱われたと話してい
 た」 と私に語ってくれた。
  連合国側に住んでいながら、
  人種的に卑屈になることなく暮らしてゆけるのは、
  昔の日本の兵隊さんが真面目に任務を遂行してくれた
 おかげなのだ。
  それなのに、なんだ、この番組は!
  レイシズムではないか!と血が逆流する思いであった
 が、
  日本を貶めるこれらの映像がNHKから提供されたと
 いうことは、
  その時点ではまだ確認できていなかった。
  ナレーションにもあきれ果てた。
  「パプアニューギニアでは苦戦を強いられた。
  蚊、赤蟻、蛇、日本人(日本軍ではなくて、日本人で
 すよ!)が厄介だった」
 と蚊や蛇と日本人を同列に並べる。
  日本の子供たちが無邪気にチャンバラをしている場面
 を映して、
  「ガキの頃から殺し殺される遊びを通じ、
 命を賭して戦うブシドーの精神を学んでゆく」とくる。
  さらには、軍人が畏まって整列しているところに、
 昭和天皇が騎乗で現れる映像や、皇居の前で土下座する
 日本人の映像に
  「当時は現人神であったエンペラーに、
  日本国民は自らの命を投げ出すのも厭わなかった」と
 いうナレーションを重ねる。
  パリ近郊のムードンという日本人が自分しかいない地
 域に暮らす私にとって、
  テレビでこんな場面を次々と流されては穏やかでいら
 れるはずもなかった。
  番組の冒頭もひどいものだった。
  旭日旗が画面いっぱいにはためき、「予告なしの真珠
 湾攻撃」が始まる。
  ここで紹介されるのは、
  日本人パイロット三十人とアメリカ人二千五百人が、
 死亡したという捏造された数字。
  さばを読んで上増ししている数字にも一言もの申した
 いのだが、
  何よりもアメリカの一般市民が犠牲者となったような、
 つまり日本が無差別爆撃をしたような印象を与えるのは
 断じて不当である。
  さらに奇襲攻撃のフィルムを見せた後で、
 「米国は日本の石油供給源を止めました」とナレーター
 が言う。
  これでは時系列が逆ではないか。
  『日本悪玉論』は、こうして作られてゆくのである。
  そうそう、日本の戦闘機がアメリカに追撃されて
 何機も海に沈む映像のバックに尺八の音楽が流れるのも、
 どこか日本を侮蔑している印象を受けた。
  この音楽の担当者は誰かと、
 DVDのクレジットを見ると「Kenji Kawai」とあった。
 カワイさん、
  これ、あなたの嗜好ですか?一つ一つあげていけば本
 当にきりがない。
  冒頭にも書いたが、
  そもそもは、愚息の学校の先生から推薦されたから観
 たわけだが、
  何人のよい子がこれで「教養」を身につけるのだろう。
  卑劣な日本人の残虐非道な映像を、
  先生のお墨付きで観せられたのだからたまったもので
 はない。
  高校を転入してまもない愚息は
  まだクラスメートとも馴染んでないだろうに、大丈夫
 だろうか。
  翌日は、登校するわが子の心細げな後ろ姿を、
  ため息交じりに見送るしかなかった。
  ■資料映像はNHKから
  冒頭に目にした「NHK」の三文字は見間違いだった
 のか、
  最初は思い直したりもしてみた。
  なにしろ、膨大なアルファベットが川のせせらぎの如
 く
  画面の上から下に流れていたので、勘違いということ
 も大いにありえる。
  あるいは、別の組織の頭文字が偶然「NHK」であっ
 たのかもしれない、と。
  ただし、Kはおおよそフランス語では使われないから
 英語圏である。
  するとN=National? Native? H=Human?
  Huge? K=Knife? King? Kingkong?。
  ともあれ、このような「教養番組」を
  ゴールデンタイムに地上波で流されてしまったことへ
 の
  心のダメージは大きく、思い切って日本大使館にも手
 紙を書いた。
  今年六月には、飯村豊大使に代わって斉藤泰雄大使が
 着任している。
  斉藤大使は、鈴木宗男氏が辻元清美氏に
  「疑惑の総合商社」と因縁を付けられた頃、ロシア大
 使の席にあり、
  国会証人喚問で巷にデビューした人物である。
  私は全国放映されたその映像を見ていないが、
  フランススクールなのにロシア大使になって大変だっ
 たということを、
  確か佐藤優氏の書かれた文章で読んだ記憶があった。
  つまり、ここフランスでは水を得た魚のように
  大活躍してくださるであろう期待の大使であったわけ
 だ。
  ところが、「残念」と頭を垂れざるを得ない。
  私の「何とかしてメール」への返信はいまだにない。
  今年の七月には、独仏中の共同で製作された
  南京虐殺映画「リーベの日記」に対して、
  「事実と異なるから検証して抗議してほしい」
 と手紙を書いて大使館に届けたが、このときも無反応で
 あった。
  生来、粘着質の私は、愚息に頼んで番組に関するサイ
 トを検索させたら、
 「Apocalypse」のサイトが存在した。
http://programmes.france2.fr/apocalypse-seconde-guerre-mondiale/
  最初に登場する世界地図の画面の日本の所をクリック
 すると動画が出てくる。
  その下の説明文に、
  《皇軍は、北京入場前に南京で三十万人虐殺…》と書
 かれてある。
  別の画面に入ると、共同制作者が列挙され、NHKも
 その名を連ねている。
  以下
  http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-521.html
  日本のマスコミは日本人の知らないところで、
  世界に捏造をばら撒き、さらに
  本当のことは日本人に何も伝えてこなかった。
  いつまでも、お人よしではいられない。。。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年9月4日日曜日

(増補版)413E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年5月~1885年6月)

題:(増補版)413E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年5月~1885年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年5月16日、シェークスピア『ヴェニスの商人』、大阪
 の戎座(えびすざ)で本邦初演。
  大阪戎座での中村宗十郎一座による《ベニスの商人》
 の宇田川文海による翻案《何桜彼桜銭世中(さくらどき
 ぜにのよのなか)》が最初。
  その後いくつかのシェークスピア作品が、
  いずれも部分的に、翻案によって上演された。
  1883年のC.ラム《シェークスピア物語》に依拠した井
 上勤の翻訳《人肉質入裁判》がある。
  因みに、日本の法律では、「肉は切り取っても良いが、
 契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産
 を没収する」という理屈は成立しない。
  人間(肉)に血液が付随する事は必然であるため、民
 法第87条の1の規定によって血液は肉の従物とみなされ、
 2の規定によって、肉を切り取るという契約がなされた以
 上は当然ながら血が流れるから。
  また、「借りた金を返すことが出来なければ、肉1ポン
 ドを与えなければいけない」という契約は、民法第90条
 の「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする
 法律行為は、無効とする」との規定に基づいて、成立し
 ない。
1885年5月18日、監軍部条例(東部、中部、西部とする)
 鎮台条例を改正する。
  監軍本部条例を廃止し、監軍部条例を制定する。
  監軍部(かんぐんぶ)は、日本陸軍の組織。
  二つの同名称の組織があり、第一次は師団司令部の前
 身といえるもの、
  第二次は教育総監部の前身。
1885年5月19日、品川硝子製作所を貸下げていた稲葉正邦、
 西村勝三へ払下げる(2月21日説あり)
1885年5月20日、各鎮台の歩兵連隊を旅団に編成する。
  歩兵連隊(ほへいれんたい)とは、歩兵を主とする連
 隊。
  1882年の軍備拡張方針が決定すると、軍隊編制の改編
 が進められて、旅団・師団の常備兵備化と編成が目指さ
 れた。
  そして、1885年の監軍本部条例と鎮台条例、および、
 参謀本部条例の改正における出師準備・出師計画の職務・
 業務を中心に改正された。
  そして、さらに、1884年の夏以降の出師準備管理体制
 の萌芽を経て、
  また、以上の監軍・鎮台・参謀本部の三つの官衙の整
 備をふまえて、
  1886年の鎮台出師準備書関係の仮制定や陸軍召集条例
 の制定などによって、最初の第一次的な出師準備管理体
 制が成立して行った。
  (参考)官衙:かんが、役所、官庁。
      出師:すいし、軍隊を繰り出すこと。出兵。
      兵備:へいび、万一の大切な防衛などの戦い
       に備えて兵員・兵器などを備えておくこと。
1885年5月21日、東京・浅草公園内に花屋敷が開園した。
  東京都台東区の浅草公園にある遊園地。
  江戸後期に植木屋森田六三郎が開いた草花の陳列場に
 始まり、明治中期から遊園地となった。
1885年5月23日、内務省達で、政府は、新聞が、他の新聞
 (欧文を除く)に掲載されている論説を、10日以内に転
 載する時は、必ず原新聞の持主、または、社主の承認を
 要する旨を通達した。
1885年5月30日、 預金規則を制定
  大蔵省に初めて預金局を設置する(国家経済の運用と
 利殖を計る)
  1869年(明治2年)に、大蔵省において、紙幣、及び、
 公債証書の回収準備のために、
  不用品売却代金・その他雑収入による一種の積立金が
 創設された。
  1872年、「準備金規則」を定め、準備金と改称され、
  1876年、大蔵省国債局は、官庁その他からの受け入れ
 現金を、預金として整理した。
  郵便貯金は、当初、民間銀行に預託されていたが、郵
 便預金が預金部の中心的な資金であった。
  1878年から、郵便貯金は、大蔵省国債局に預けられ、
 運用されることになり、
  これによって、預金部が事実上創設された。
  駅逓局預金の他、社寺積立金、印刷局積立金、米国政
 府返還下関金、シーボルト恩賜金の特殊預金もあったが、
 いずれも特別の根拠法規はなかった。
  預金利率については、駅逓局預金では、預金利率より
 低い利率だった。
  その他の預金では、個別に規定された。
  一方、運用については、当初は、公債、金銀銅地金、
 官庁銀行などへの貸付けなどであったが、
  1882年以降、原則として公債のみであった。
  1885年、預金規則の制定により、預金の根拠を与え、
 範囲を明確化し、
  駅逓局預金、特別会計の余裕金、積立金を預金部に集
 中させた。
  預金部の原資について、郵便貯金が低調であった1890
 年頃を除き、6割~8割は郵便貯金であった。
  (高橋洋一氏、財投改革の経済学より)
1885年5月31日、富山市の大火(ほとんど全滅)
  6000戸が焼失(600戸説あり)
  富山市街大火、5,900 戸余焼失の記述もあり。
1885年5月、伊藤博文が、官制改革を主張し、三条実美太政
 大臣らと協議する。
  この頃、この年の12月に予定されている内閣制度への
 移行が意識の中にあった。
  そして、初代内閣総理大臣としては、三条実美と伊藤
 博文が有力だった。
  大久保の死後、伊藤博文は、事実上の宰相(さいしょ
 う、総理大臣)として明治政府を切り回し、内閣制度を
 作り上げていた。
1885年5月、佐賀県で奇病が流行した。
  後に、肝臓ジストマと判明した。
  肝臓ジストマは古い呼び名で、肝吸虫(かんきゅうち
 ゅう)という。
  この肝吸虫が、人を含む、幅広い哺乳類を終宿主とし
 て、肝臓内の胆管に寄生する(吸虫の1種)。
  肝臓内の胆管に寄生している成虫は、平たい柳の葉の
 ような形をしており、
  体長10〜20mm、体幅3〜5mmで、雌雄同体。
  糞便とともに外界に出た卵は、水中に流出しても孵化
 せず、
  湖沼や低湿地に生息する微小な巻貝の1種・マメタニシ
 に摂食され(第一中間宿主)、
  ここで、体内で変態し、幼生となり成長する。
  幼生は、体外に出て、水中に泳ぎだす。
  そして、第二中間宿主の淡水魚に達し、鱗の間から体
 内に入る。
  淡水魚は、コイ科を中心にモツゴ、ホンモロコなど80
 種。
  コイ科以外のワカサギの報告もある。
  こうした魚を、人、犬、猫、ねずみなどが生で摂食す
 ると、小腸で幼虫となる。
  そして、胆管に入り、肝臓内の胆管枝に定着する。
  23日~26日かけて成虫となり、産卵を開始する。
  成虫の寿命は、20年以上に達する。
  症状としては、肝吸虫の成虫が、寄生する胆管枝を塞
 栓してしまうため、
  多数個体が寄生すると、胆汁の鬱滞と、虫体の刺激に
 よって胆管壁と周囲に慢性炎症をきたす。
  さらに、肝組織の間質の増殖、肝細胞の変性、萎縮、
 壊死が進行し、肝硬変へと至る。
  そのため、食欲不振、全身倦怠、下痢、腹部膨満、肝
 腫大をきたし、
  やがて、腹水、浮腫、黄疸、貧血を起こすようになる。
  ただし、少数個体のみの寄生では無症状に近い。
  診断・検査は、胆管の拡張、肥厚が起こるため、逆行
 性膵胆管造影、CT、エコーなどで診断すると、肝内胆管
 の拡張像、異常が認められる。
  確実な診断には、虫卵の確認が必要であるため、糞便
 検査(ホルマリン・エーテル法やAMSIII法などの沈澱集
 卵法を利用)や十二指腸ゾンデ検査が行われる。
  芸術家にして美食家の北大路魯山人の死因はこれと言
 う説がある。
  タニシを食べるときは十分火を通して食べるべき・・、
1885年6月2日、京都で、琵琶湖疎水の起工式
  琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏
 水)、国の史跡。
  日本の伝統が脈々と流れる、大事な京の町を守る水の
 流れである。
  第一疎水は、1890年に完成し、
  第二疎水は、1912年(明治45年)に完成している。
  水道水(54.8%)、その他(水力発電、灌漑、工業用
 水)
  水力発電の電気で、京都電気鉄道(京都市電)が走っ
 た。
  そして、この水は、伏見・宇治川へと結ばれている。
  インクラインなどを駆使して、日本の明治の技術者は、
 運輸・運行の役も果たさせた。
  インクラインで、船が線路の上の台車に載せられ運ば
 れた。
  優秀な技術で成就したこの水は、京都の貴重な文化遺
 産の防火用水となり、
  また、名園・庭園の池にも引き入れられた。
  禁門の変において、京の町の大半が焼け落ち、また、
 東京遷都もあって、京都は衰退した。
  第三代京都府知事の北垣国道氏が、多目的に利便性の
 ある疎水を計画した。
  そして、若き技術者、工部大学校を卒業したばかりの
 田辺朔郎に任じて、設計計画させ、
  そして、工事における監督にもあたらせた。
  第一疎水が完成し、1890年4月9日に、明治天皇陛下、
 昭憲皇太后陛下の御臨幸を仰ぎ、竣工式が挙行された。
  水力発電は、当初なかったが、田辺らのアイデアだっ
 た。
  日本初の営業用水力発電となった。
  取水量は、23.65立法メートル/秒
  現在、この琵琶湖疎水を通して年間・2億トンの湖水を
 得ている。
  この感謝金が、京都市から「疎水感謝金」として、年
 間2億2000万円が、滋賀県へ支払われている。
  滋賀県は、この感謝金を、「山の植林・間伐・林道整
 備など、水源地となる山の保護事業」に支出している。
  この美しい貴重な京都・人類の遺産であるの町へ、ア
 メリカは原爆を投下しようとしていた。
1885年6月2日、文部省東京図書館、東京教育博物館と合併
 し上野へ移る。
  東京書籍館は、蔵書は文部省から交付された約1万冊を
 基礎として、
  日本で初めての納本図書館として、すべての国内出版
 物を蔵書に受け入れた。
  閲覧は、再発足時から無料となるが、西南戦争の影響
 による財政難から1877年に廃止が決定され、
  東京府に移管されて、学務課が管轄する東京府書籍館
 となった。
  しかし、東京府も財政難で運営困難となり、
  1880年7月には、文部省に再度復帰し、名称を東京図書
 館に変更した。
  そして、東京図書館は、1885年6月に、東京教育博物館
 (国立科学博物館の前身)と合併して、上野に移転した。「
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、「戦争不拡大」が方針だった。
.
1932年(昭和7年)1月28日、第一次上海事変(だいいちじ
 シャンハイじへん)が起きた。
  中華民国の上海の共同租界周辺で、日本と中国の両軍
 が衝突した。(~1932年3月3日)
  当時、中国は国民政府の中華民国で、
  この国(政府)は、1971年まで、国際連合安全保障理
 事官常任理事国であった。
  そして、この上海共同租界の旗には、数カ国が描かれ
 (イギリス、アメリカ、オランダ、ドイツ、ロシア、デ
 ンマーク、イタリア、ポルトガル、スエーデン、オース
 トリア、スペイン、フランス)ている。
  そして、ラテン語で「全て(の国)が一つの仲間に」
 と記されている。
  しかしこの国際共同租界には日本も居た。
  旗の様に、日本は「つまはじき」されていた・・、
  (アメリカが主導する、日本をなんだかんだと潰そう
 としていた)
  第二次世界大戦のころ、日本は「ABCD包囲網」でバッ
 シングを受けたが(A:アメリカ、B:イギリス、C:中国、
 D:オランダ)、
  すでに、この頃から日本包囲網は出来ていた。
  この中華民国へ、アメリカは、武器支援をしている、
 資金援助もしている。
  因みに、この共同租界は、1842年の南京条約にもとづ
 いて出来ていた。
  また、この地域周辺には、約2万7000人の日本人が在住
 していた。
  各国は、居留民の警護を目的として軍を駐留させてい
 て、
  日本も、1000人を駐留させていた(そして、その後、
 険悪状況によって人数は増えて行く)
  日本と各国との関係は「すこぶる良好にして・・」と、
 表現される様に平穏であった・・が・・、
  そして、「各国人も、支那側の横暴なることを熟知し、
 日本に対し同情セリ」という情報もある様に・・、
  そして、この様な状況の中で、1932年になって、上海
 市郊外に、十九路軍(国民党軍)が表れた(アメリカの
 支援を受けていた軍だ)。
  十九路軍は、3個師団で3万の兵力だった。
  共同租界の市参事会は、5年前の上海クーデターの国民
 党軍の強暴なる状況を思い起こさせた。
  前年の満州事変(1931年9月)以後、反日感情があった。
  租界には、抗日ポスターが貼られていた。
  その抗日行動が、だんだんと大きくなって行った。
  排日貨運動も起きた。
  これ等は、すべて国民党のプロパガンダだった。
  この国民党の背後にはアメリカが居た。
  軍事顧問のアメリカ司令官も居た。
  日本への抗日攻撃に対し、日本政府は、国民政府に抗
 議をしたが事態は改善されなかった。
  日本政府は、居留民に引き上げを勧告し、女性や子供
 たちが一時帰国し、帰国人数も増加した。
  マスメディアが使われ、加わって、日本への攻撃に激
 しさが加わった。
  中国の人々も、プロパガンダに煽(あお)られた。
  托鉢していた日本人僧侶や、日本人が襲撃されたりし
 た事件も起き出した。
  日本人が経営するタオル工場が、50人~60人の中国人
 に襲撃されたりし出した。
  つい最近も、煽られた中国の人が、中国にある日本の
 百貨店などを襲ったが・・その様なことが起きた。
  この様に、民間人レベルの事件が拡大して行った。
  そして、軍事衝突へと行き着いて行く、発展する。
  1932年1月28日、小競り合い的な、日本と中国との間
 で、軍事摩擦・軍事衝突が起きる。
  そして、この共同租界周辺で、この事変は起きた。
  日本は受け身だった、自衛だった。
  白川義則大将は租界にいた日本の上海派遣軍で守った。
  中国の国民党軍(十九路軍)が攻撃して来たが、白川
 大将は、撃退した。
  しかし、深追いはしなかった。
  そして、停戦した。
  この行動は、国際連盟でも評価された(国際的評価の
 下の行動)。
  これは、平和主義の昭和天皇陛下が、白川大将へ事件
 の不拡大を言われており、
  また、「国際連盟との衝突にならない様に」と伝えら
 れていた戒めを守ったからだった・・(これが後に明ら
 かとなった)。
  しかし、この後、国民政府軍(蒋介石軍)は、1936年
 12月の西安事件の後に、第二次国共合作によって、一丸
 となって、大々的に、日本攻撃を準備し、
  この時、日本は、条約を順守して、わずかな兵士しか
 上海にいなかった。
  しかし、中国軍は、このわずかな2500人の日本の上海
 駐留軍へ、十数万の大軍で、先制攻撃を仕掛けて来た。
  この為、日本も対応し、自衛し、上海の戦闘は泥沼と
 なった。
  最終的に、4万もの日本兵が死傷するという大きな死傷
 者を出した。
  これによって、戦争は拡大方向へ進むようになった。
  南京へも拡大して行く、南京進撃の因となった。
  陰で、アメリカが中国へ兵器の供給をしていた。
  条約で決められたとおりにしているこの日本の租界へ、
 アメリカに支援されて、恵まれた準備を整えた大軍・12
 万の兵で、圧倒的兵力差で攻めて来た。
  上海の日本は、自衛の戦いを、苦しい戦いを強いられ
 た。
  なお、この中国の大軍の背後には、さらに、アメリカ
 に支援された30万の兵の包囲網が形成されていた。
  中国の泥沼的に続く戦いは、この無限に続くアメリカ
 の武器支援により形成された。
  ルーズベルトが、「第二次世界大戦を作った」と言っ
 たが、
  アメリカは、それより以前から、この上海の戦いの様
 に、武器支援をしたりして、戦争へ行く方向へ行動を行
 なっていた。
  アメリカは、日本人のアメリカへの移民も不法だとい
 う法律を作って、日本を、そして、日本人を差別してい
 た。
  この様な人種差別の行為も、戦争の大きな原因だった。
  当然、日本は、その逆で、その様な法律は作っていな
 い。
  その様な卑劣な事はしていない。
  本当に卑劣な事を、色々やるアメリカだった。
  アメリカが、背後で武器支援して始められた、この支
 那事変が、日中全面戦争となり、
  そして、第二次世界大戦へとつながって行った。
  当時、日本には、戦争を拡大しようという考えは、毛
 頭なかった。
  西欧諸国も租界に兵を置いたが、この上海の日本の租
 界が、アメリカの支援を受けた中国軍が攻めて来た事か
 ら始まった。
  国際連盟でも評価された様に、日本は戦争が始まった
 としても「戦争不拡大」が方針だった。
  ニューヨークタイムズの記者が・・、
  「(日本の悪口のルーズベルトの)隔離声明以来、
  ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ
 追いやるために、あらゆる手段を駆使している」・・の、
 報道の通りの行動だった。
..
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2016年9月3日土曜日

(増補版)412E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年4月~1885年5月)

題:(増補版)412E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年4月~1885年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
(追記)1885年1月、北里柴三郎が、ドイツへ留学した。
  (~1891年まで)
  ここで、水素ガスを用いてウシの嫌気性菌・気腫疽菌
 (きしゅそきん)の純培養に成功し、
  ついで、破傷風菌の純培養に成功、破傷風毒素・破傷
 風免疫の研究に進んだ。
  北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日
 ~1931年6月13日)は、日本の医学者・細菌学者。
  従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。
(追記)1885年1月25日、北原白秋が福岡県に生まれた(~
 1942年11月2日)詩人、童謡作家、歌人。
  日本を代表する詩人。
  熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ、まも
 なく福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)にある家に帰る。
  父・長太郎、母・シケ。
  北原家は、江戸時代以来栄えた商家で(油屋また古問
 屋と号し、海産物問屋であった)、
  当時は、主に、酒造を業としていた。
  1901年(明治34年)(16歳)、大火によって北原家の
 酒蔵が全焼し、以降、家産が傾き始めた。
  白秋自身は、依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲
 載していた。
  この年、初めて「白秋」の号を用い・・、
  1904年(明治37年)(19歳)、長詩『林下の黙想』が、
 『文庫』四月号に掲載された。
  感激した白秋は、父に無断で中学を退学し、早稲田大
 学英文科予科に入学した。
  上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるよ
 うになり・・、
  1906年(明治39年)(21歳)、新詩社に参加し、与謝
 野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合
 った。
  『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣
 菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友が、さらに広
 がった。
  1909年(明治42年)、『スバル』創刊に参加した。
  処女詩集『邪宗門』を上梓し・・、
  官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるが、年末に、
 実家が破産し、一時帰郷を余儀なくなった・・しかし・・、
  1910年(明治43年)、『屋上庭園』二号に掲載した白
 秋の詩『おかる勘平』が、風俗紊乱にあたるとされ、発
 禁処分を受けた(同誌は、年内に廃刊された)。
  1912年(明治45年 / 大正元年)、母と弟妹を東京に呼
 び寄せ・・、
  年末には、一人故郷に残っていた父も上京した。
  そして、白秋は、隣家にいた松下俊子と恋に落ちた。
  しかし、俊子は夫と別居中の人妻だった。
  2人は、夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置さ
 れた。
  1913年、春、俊子と結婚する。
  三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗・・・、
  白秋夫婦を残して、一家は東京に引き揚げる。
  『城ヶ島の雨』は、この頃の作品。
  1914年(大正3年)(29歳)、肺結核に罹患した俊子の
 ために、小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。
  父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。
  1916年(大正5年)(31歳)、詩人の江口章子と結婚。
  そして、東京・小岩町の紫烟草舎に転居した。
  筆勢・・いよいよ盛ん。
  1917年(大正6年)(32歳)、阿蘭陀書房を手放し、再
 び、弟・鉄雄と出版社アルスを創立した。
  この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病
 んだ。
  1918年(大正7年)(33歳)、小田原に転居。
  『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当する。
  優れた童謡作品を次々と発表・・
  この翌年・1919年あたりから、生活ようやく安定。
  1920年(大正9年)(35歳)、『白秋詩集』刊行開始。
  伝肇寺境内の住宅の隣に、山荘を新築した際の祝宴は、
 小田原の芸者総出という派手なものだった。
  それに、白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発
 し、章子を非難する。
  着物のほとんどを質入れしたと言う章子は、非難され
 るいわれもなく、反発した。
  章子は、その晩・・行方をくらました。白秋は不貞を
 疑い章子と離婚。
  1921年(大正10年)(36歳)、佐藤菊子(国柱会会員)
 と結婚。
  信州滞在中、想を得て、『落葉松』を発表する。
  1922年(大正11年)(37歳)、長男・隆太郎が誕生。
  1925年(大正14年)(40歳)、長女・篁子が誕生。
  1937年(昭和12年)(52歳)、糖尿病、および、腎臓
 病の合併症のために、眼底出血を引き起こし、入院した。
  視力のほとんどが失われたが、さらに、歌作に没頭す
 る。
  1941年(昭和16年)(56歳)春、数十年ぶりに、生ま
 れた地の柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、
  さらに、宮崎、奈良を巡遊。
  また、この年、芸術院会員に就任するも、年末にかけ
 て病状が悪化する。
  1942年(昭和17年)(57歳)、小康を得て、病床に執
 筆や編集を続けるも、11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で逝去し
 た。享年57歳。
(追記)1885年2月10日、ハワイ王国のホノルルに領事館を設
 置した。
  1868年6月20日には、153名の日本人が移民第1号として
 ホノルルに到着した。
  明治元年の渡航なので、「元年者」と呼ばれた。
  別史料には以下の様に記す・・、
  1885年(明治18年)2月8日、最初の「官約移民」943名が
 渡った。
  この時、中村治郎初代日本国領事と、官吏2名が着任し
 た。
  ハワイ王国において、アメリカ合衆国に続いて、外交
 使節の第2号であった。
  翌々日の1885年(明治18年)2月10日に、「日本領事事務
 所」を開設し、旧ロイヤル・ハワイアン・ホテル内(ダ
 ウンタウンにあった)にオフィスを構えた。
(追記)1885年2月21日、品川硝子製造所を、稲葉正邦、西
 村勝三へ貸下げ、民営化を図った。
  近代ガラス工業の礎となった「品川硝子製造所」。
  スタートは、1873年(明治6年)、品川興業社・硝子製
 造所の開設だった。
  太政大臣・三条実美の家令だった村井三四之助は、三
 条実美の支援によって、イギリスから設備を輸入すると
 共に、トーマス・ウォルトンを招聘し、国内のガラス職
 人を採用した。
  しかし、ガラス器の製造は困難で、1876年(明治9年)、
 政府に買い上げを願い出た。
  工部省が買上げ、
  1879年には、イギリス人技術者のジェームス・スピー
 ドを雇い入れ、板ガラスの製造を目指した、しかし、製
 造はできなかった。
  因みに、板ガラスは、1920年(大正9年)に、日本板硝子
 が、コルバーン法を導入して、生産開始した。
  そして、コルバーン法は、溶解窯(ようかいがま)か
 ら板のままガラスを、一度、垂直に引き上げ、やわらか
 いうちに曲げ水平にして徐冷すると・・説明されている。
1884年4月、隅田川の一銭蒸気が始まった。
  一銭蒸気とは、東京の隅田(すみだ)川を定期航行して
 いた小型客船のことで、
  この時、隅田川汽船株式会社が営業を開始した。
  吾妻(あづま)橋~永代(えいたい)橋間を7区間に分け、
 乗船料が1区間1銭だったための愛称で、
  料金改定後もこの名でよばれた。
  焼玉エンジンの音からポンポン蒸気ともいった。
  最盛期には、年間200万人近くを運んだが、
  1942年(昭和17年)燃料不足で姿を消した。
  錦絵があり・・、東京両国通運会社 川蒸気往復繁栄
 真景図 重清 東京都公文書館蔵 (36.6×24.7センチ)
 三枚構成で、
  右に建物が描かれ、両国橋付近に立つ東京両国通運会
 社で、会社の旗も翻っている。
  明治から大正にかけて東京の川には、約68の「渡し場」
 があった。
  明治政府が、1871年(明治4年)より、橋梁・渡船の整
 備を奨励し、
  私設の橋や渡船に免税の措置を取ったため、盛んにな
 った。
  道路は、ほとんど変化せず江戸時代のままだった。
  また、武士の無賃も廃止された。
  渡し賃を取ることも認められ、1人あたり、一厘から
 五厘~七厘ぐらいであった。
  江戸時代よりも明治の方が渡しは盛んになった。
  特に、下町の人口が増えるに従い、隅田川や大川に渡
 しが増えた。
1885年4月、横浜の衛生改善のため、上水道の建設が始まっ
 た。
  (因みに、下水道は1869年に始まっていて、1871年に
 は完成していた)。
  上水道について、神奈川県知事は、英国人技師H.S.パ
 ーマーを顧問として、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に、完成した。
  この時を遡ること8年の1877年(明治10年)に、
 コレラが大流行(明治12年、15年、19年も同様)して、
 衛生的な近代水道の必要性が高まっていた。
  また、横浜の下水道について・・、
  1859年(安政6年)、横浜が開港されると、小漁村にす
 ぎなかった横浜の様相は一変した。
  波止場の建設、居留地整備をはじめとして、開港地と
 してのまちづくりがはじめられた。
  横浜は、外国の窓口としての性格から、当時の最先端
 とも言える様々な技術や文物がもたらされた。
  横浜の近代的な下水道の発祥も、外国人居留地の整備
 からはじまった。
  日本を含む世界で、コレラが流行していたため、居留
 地の外国人たちは、排水と下水道の整備を切望した。
  当時の横浜の主要道路には、掘割が布設され、下水道
 の役割を担っていたが、十分な機能を果たすものではな
 かった。
  1864年(元治元年)11月、幕府と各国領事との間で「
 横浜居留地覚書」が取り交わされていて、
  居留地の下水道整備も書かれていたが、実際に整備を
 進めたのは、明治になったからの御雇い外国人のイギリ
 ス人ブライトンの指導の下で進められた。
  居留地の下水道整備計画は、1869年(明治2年)に着手
 され、1871年(明治4年)に完成した。
  この下水道は、瓦製陶管による下水管を埋設するもの
 だった。
1885年5月2日、最初の文芸同人誌となる「我楽多文庫」が
 硯友社から創刊された。
  わが国最初の純文芸雑誌『我楽多文庫』、尾崎紅葉・
 山田美妙らにより創刊さる。
1885年5月5日、札幌、函館、根室3県に於いて、徴兵令施
 行までの間、屯田兵を置いておく屯田兵条例が制定され
 た。
  それまでの屯田兵例則(とんでんへいれいそく、明治7
 年10月30日太政官達)は、屯田兵の根拠となる太政官達は、
 廃止された。
  「屯田兵は、徒歩憲兵に編制し、有事に際して速かに
 戦列兵に転ずるを要す」この条文に憲兵とあるように、
 屯田兵は、平時に警備などの警察的任務を担うこともあ
 った。
  しかし、本務は、農業による自活(政府にとっては経
 費節減)と、戦時の兵備にあった。
  屯田兵条令:
  第一条:屯田兵ハ屯田歩兵屯田騎兵屯田砲兵屯田工兵
     ヲ以テ編成シ北海道枢要ノ地ニ配置シテ其警備
     ニ充ツ
  第二条:屯田兵ハ兵農相兼ヌルノ制トス、平素ハ給与
     ノ兵屋ニ居住シ軍事上ノ訓練及開墾耕稼ニ従事
     セシム
  第三条:屯田兵ハ府県ヨリ志願者ヲ召集シ本籍ヲ北海
     道ニ移シ家族ト共ニ移住セシム
  第四条:屯田兵ノ服務期限ハ二十ヶ年ニシテ現役八ヶ
     年後備十二ヶ年トス、後備役服務中ハ戦時若ク
     ハ事變ニ際シ召集ス、平時ニ在テハ勤務演習ノ
     為メ召集シ及簡閲點呼ヲ為ス服役期限中満四十
     歳ニ至リ又ハ死亡若クハ事故ニヨリ免役シタル
     トキハ其家族中適当ノ男子ヲシテ兵役ノ残期ヲ
     相続セシム、若シ適当ノ男子ナキトキハ兵役ヲ
     免ス、屯田兵ニシテ召集ノ条件ニ違背シ其他正
     当ノ理由ナクシテ兵役ノ義務ヲ履行セザル者ハ
     兵役ヲ免ズ(以下略)
1885年5月7日、電信条例が改正され、電信取扱規則が制定
 された。
  和文モールス符号改正。
  1885年6月23日、電信条例電信取扱規則局内心得書制定
 の記述もある。
1885年5月7日、千葉重太郎、死去
  江戸時代末期の剣客、鳥取藩藩士。
  北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の長男。
  幼少より父・定吉から北辰一刀流剣術を学び、
  1853年(嘉永6年)に、父が鳥取藩の剣術師範に就任し
 たため道場を任された。
  剣士としての力量については説が定まらないが、本家
 筋にあたる玄武館道場が千葉道三郎の代になって衰退し
 た一方で、
  重太郎が、道場を任された後も桶町道場の人気は衰え
 ず、幕末期は師範の実力が道場の盛衰に直結する時代で
 あったと推測され、この観点からも重太郎の実力の程が
 分る。
1885年5月8日、九州改進党が解党した(5月10日説あり)
  九州改進党(きゅうしゅうかいしんとう)は、
  明治時代前期に、九州地方の民権派が合同して作った
 地方政党で、
  政治的には改進党ではなく、自由党系である。
  中央の自由党と連携しつつ、九州地方を舞台に独自の
 民権運動進めてきたものの、
  政府の弾圧や自由党解党の影響を受けて3年余りで解散
 した。
1885年5月9日、日本銀行が、初めて兌換銀行券を発行した。
  日本銀行から、兌換銀行券の発行が始まる。
  翌年より銀本位制に → 銀本位制度確立へ
  この銀行券は、銀貨兌換券であるから、券表面に、「
 此券引かへに銀貨拾圓相渡可申候也」と記されている。
  日本で最も古い紙幣は、安土桃山時代末期、1600年頃
 に、伊勢山田地方(現在の三重県伊勢市)で流通し始め
 た「山田羽書」であると言われている。
  「山田羽書」は、伊勢神宮の神官であった山田御師(
 祈祷奉賽を行う神官で商人も兼ねていた)によって秤量
 ( 銀貨の釣り銭の代わりに発行された、端数銀貨の預か
 り証・端書)だった。
  当時、銀貨は額面を持たず、重さを量って使う秤量貨
 幣だったので、
  端数を調整するために切遣い(必要な目方だけ切って
 使用)する習慣があった。
  しかし、元和年間(1615年~1624年)に、幕府が、銀
 貨の切遣いを禁止したため、羽書は、端数処理の簡便化
 に役立った。
  後に、一定の額面を持つようになり、伊勢神宮信仰に
 も支えられた山田羽書は、人々の非常に高い信用を得て、
 単なる預かり証から次第に人々の間で流通する紙幣とし
 ての役割を果たすようになった。
  また、「山田羽書」の影響を受けて、周辺地域でも有
 力商人による羽書の発行が見られるようになり、
  これらの私札は、後の藩札の元になったと言われる。
  わが国で最初に発行された日本銀行券は、1885年5月9
 日に発行された「旧十円券」で、
  この銀行券は、銀貨兌換券で、券表面には「此券引か
 へに銀貨拾圓相渡可申候也」と記されていた。
1885年5月15日、イギリス海軍が、朝鮮の巨文島を占領した。
1885年5月16日、外交暗号
  外務卿の井上馨は、暗号の重要性を痛感し、
  1883年に、外務省内に電信符号編纂掛を設け、権少書
 記官・栗野慎一郎を責任者に指名して研究させた。
  1885年5月16日、この日に起草の井上外務卿から在外各
 公使領事宛の通達(電信課長・佐藤愛麿の印あり)では、
  暗号で伝えられた内容を、任地の政府などに知らせる
 ような場合には、適宜パラフレーズすることによって暗
 号についての手がかりを与えにくくすることを指示する
 とともに、
  目下、使用中の暗号電信簿に代わる符号を編纂中であ
 ると伝えた。
  そして、この年・1885年3月には、「暗号電信符号取調
 費」の裁可も得ている。
  英文用の5桁数字コードが、1904年に制定した仮名符
 号の使用心得書によれば、
  1885年に、英文用のコード(明治18年符号)が制定さ
 れていた(当時、外交官が電文を英語で書くのは普通の
 ことだった)。
  これは次のように、英語の語句に5桁数字を割り当てる
 ものだった。
  平文の配列は、アルファベット順で、その後に数字に
 対する符号を集めたセクションがある。
  15768 and  15314 are  22534 by
  24443 characterized  52115 Japanese Gov't
  57941 moderation  66719 The proposals of
  68448 reasonableness  93657 8
  「使用心得書」によればp.863に数字のセクションがあ
 るということなので、00001から99999までのコードをほ
 ぼフルに使った大部のコードブックであった。
  ABCコードなど当時の欧米の主だった商用暗号をも上回
 る規模だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:哲学者が言う・・ツキジデスの罠
    覇権を持った国が、新興する国を排除する。
.
1941年12月8日、ルーズベルトは、第二次世界大戦を以下の
 様に言った。
  『植民地の争奪が、今回の戦争の実相だ』・・と、
  つまり、「アメリカも植民地が欲しかったのだ」・・
 と、白状したようなもの・・、
  「植民地が欲しくて、アメリカも戦争したのだ」と白
 状したようなもの・・
  日本は、江戸時代の遠い昔から・・、
  米欧列強の『力を誇示したやり方』に苦しめられて来
 た。
  その列強の横暴に、『多大な賠償金を支払わされたり』
 して・・、
  弱小国家の悲哀(ひあい、悲しくあわれ)を味わわさ
 れて来た。
  また、日本は、インドや中国などにおける、列強各国
 の非人道的な酷(むご)いむしりを見て来た・・
  どぎついやり方などを見て来ており・・、
  明治新政府は、その様な事態からの脱却を目指し、
 「富国強兵索を目指す」ことを国是として来た。
  即時に、豊かな国と・・強い国を作りたいと・・、
  そして、このような様々な歴史の流れの中に、欧米列
 強の『傲慢さ』があった。
  第二次世界大戦の遠因の一つとして言われるのが・・、
  力を付けて来た日本が、第一次世界大戦の時、戦勝国
 としてパリ講和会議に出席し・・、
  ここで日本は、「人種平等であるべきだ」と主張した。、
  第一の・・主要な・・重要な・・日本の主張のポイント
 だった。
  『人種は・・平等で・・あるべきだ』
  日本の主張の第一重要ポイントとして主張した。
  今・現代では、当然すぎるほど当然な『正論』である
 が・・、
  有色人種の・・新興の国が・・なんだと・・見られて
 いた・・残念ながら・・、
  当時は、まだまだ、欧米列強のキリスト教の教義に洗
 脳され、マインド・コントロールされた『有色人種蔑視
 感は強く』・・、
  アメリカ本土では、黒人の方々が酷い人種差別を受け
 ていた・・(今でもそうだが・・?)
  アメリカが主導する会議の列強各国は、黄白の差別感
 は依然と強く・・残存し・・、
  有色人種の日本の主張は、微塵も理解されなく・・打
 ち砕かれてしまった。
  アメリカのカルフォルニア州では、日本人の移民を拒
 否し・・、新聞にあおられた人々は、黄色い日本人を合
 唱していた・・、
  この様なアメリカの行為は、日本中を大憤慨させてい
 た。
  日本は、また、青島(中国のチンタオ、1922年に返還)
 は還付を、『強引』に迫られ、
  1924年には、「排日移民法」が作られ、決定とされた。
  これらは、完全に哲学者が言う「ツキジデスの罠」で
 あった。
  『覇権国が・・新興国を・・排除する』・・古来から
 あった歴史の事実だった・・
  「覇権を持った国(アメリカやヨーロッパ列強各国)
 が、新興する国(日本)を排除する」という状況だった。
  これは、何度も歴史に現れる・・古来からの・・数々
 の・・繰り返されて来た事だった。
  ある意味・・人類の愚かさが繰り返されて来た・・、
  動物的性向がなされて来た・・、
  覇権を持ったアメリカは、新興して来た日本を排除し
 たかった。
  そして・・排除した・・。
  アメリカが筆頭になって、グルとなって排除した・・、
  アメリカは、新興する日本へのパワーシフト、「中心
 勢力の移動」を快く思っていなかった。
  日本を、ことあるごとに潰そうとした。
  潰そうとして来た。
  これは、日本がロシアに戦勝したとき、日露戦争の日
 本戦勝後に・・、
  『手のひらを返したように』・・、
  ・・アメリカの態度は・・変わった。
  この「ツキジデスの罠」現象は、深刻な現象で・・、
  歴史において、そのほとんどが『戦争に至る』という
 深刻な対立だった。
  今、南シナ海において、中国の力の誇示による強行策
 が取られ、
  この中国と、アメリカをはじめとする諸国の対立が、
 この度の仲裁裁判によって、完全に中国の主張が退けら
 れ、
  また、その決定を受け入れないと、否定する中国との
 間で、「ツキジデスの罠」状態になって・・行っている。
  かつての日本が、第一次大戦後の日本が、人種差別の
 撤廃を主張し、
  米欧列強の植民地政策に対抗した新しく起きた新興国
 として存在していた。
  アメリカは、これまで、西部のインディアンの方々の
 地を奪い、メキシコの地を奪い、太平洋の諸国の島々を
 奪い、フィリピンを植民とし・・、
  そして、中国の地に至り・・日本とぶつかった。
  そこに、黄白の差別感払拭の日本の意見は、通らなか
 った。
  これが、第二次世界大戦の遠因の一つとなった。
  だから、アメリカ大統領のルーズベルトが・・、
  この大統領が言うとおりの、貴方の国・アメリカを含
 む米欧列強諸国の植民地政策に起因した戦争だったので
 す。
  有色人種の地を植民地とする欧米列強と・・、
  その有色人種蔑視の黄白差別を無くせと、有色人種の
 地を植民地とする事を否定する・・主張する新興国・日本
 との対立の実相だったのです。
  そして、まだ、アメリカは、南米などを、アメリカの
 準植民地の様に考えていたというアメリカだった。
  その様な帝国主義そのもののアメリカだった・・、
  植民地にあぐらをかく帝国主義国家だった。
  その覇権を・・その一部であっても・・崩されたくな
 かった・・であった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月1日木曜日

(増補版)411E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年3月~1885年4月)

題:(増補版)411E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年3月~1885年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年3月16日、日本鉄道の品川線の新駅として目黒駅と目
 白駅が開業した。
  2週間遅れたという説と、当初の予定通りの3月1日の開
 業だという説がある。
1885年3月17日、全権大使・伊藤博文が、西郷従道と、天津
 にて李鴻章と会見(天津条約の談判)
  日本は、交渉の全権を伊藤博文に委ね、北京へ派遣し、
  清国も、交渉の場を天津に設け、全権を北洋通商大臣・
 李鴻章とした。
1885年3月18日、プロシア参謀少佐・メッケルが、軍制改革
 指導のため、来日した。
  そして、陸軍大学校教官として着任した。
  メッケルは、ドイツ(プロシア)の陸軍軍人で、大モ
 ルトケのもとで養成された軍人だった。
  1883年に、日本陸軍が、ドイツの兵制を採用した際、
 陸軍卿・大山巌が、桂太郎大佐と共にドイツに渡り、
  普仏戦争で勲功をたてたメッケル参謀少佐を、
  モルトケ参謀総長の推薦も受け、
  この年・1885年に、陸軍大学校教官として来日した、
 月俸500ドルだった。
  当時は、参謀少佐で、3年間、高等兵学の軍制学、戦略
 戦術を講じ、
  陸軍の最高顧問として陸軍大学校長・児玉源太郎らに
 助言をした。
  また、学識経験に富み、学生達を懇切に指導した。
  先制を説き、緒戦に勝たねばならぬと教え、
  精鋭なる軍の最大要素は軍人精神だとする持論を説き、
 陸軍に大きな影響を与えた。
  そして、陸軍兵術、師団編制を中心とする陸軍の編制、
 高等司令機関の完備、一般兵役義務制度の確立など、
  あらゆる分野において、
  日本陸軍の近代化を実現させ、
  その後の日清・日露戦争のための基礎を築いた。
  教え子達の多くは、日清・日露の戦争で、参謀将校を
 務め、陸軍の戦勝は、メッケルに負うと高く評価された。
  1888年(明治21年)に、帰国した。
  1904年(明治37年)、日本政府は、勲1等瑞宝章を贈っ
 た。
  また、第2次世界大戦終戦まで、日本陸軍の兵術思想に
 大きな影響を及ぼした。
1885年3月21日、万国郵便為替約定に加入した。
1885年3月31日、大阪商業講習所を、府立大阪商業学校と
 した。
  大阪商業講習所(おおさかしょうぎょうこうしゅうじ
 ょ)は、1880年(明治13年)11月、五代友厚らによって
 大阪府に開設された商業教育機関で、
  この年・1885年3月に、府立大阪商業学校に改組された。
  現在の大阪市立大学などの源流。
  開校のきっかけとなったのは、福沢諭吉門下で、慶應
 義塾に学んだ加藤政之助による新聞論説だった。
  加藤は、1879年8月に、編集主幹を務める『大坂新報』
 紙上に、社説「商法学校ヲ設ケサル可ラス」を掲載した。
  全国の商業の中心として栄える大阪に、なぜ、商法学
 校がないのかという問題提起を行った。
1885年3月、女医第1号の荻野吟子さんが、上野で開業した。
  日本で最初の女医となった。
1885年4月3日、特派全権大使・伊藤博文、西郷従道ら、天
 津において、李鴻章全権と談判を開始した。
  日本は、交渉の全権を伊藤博文に委ね、北京へ派遣し、
 清国も、交渉の場を天津に設け、全権を北洋通商大臣・李
 鴻章とした。
  日本の主張は、「朝鮮国王の要請」によって王宮内に
 詰めていた竹添進一郎公使と、日本公使館護衛隊が、
  袁世凱率いる清国漢城駐留軍の攻撃に晒された。
  これは、まったくの遺憾であり、
  また、政変の混乱が広がる漢城市街で、清国軍人によ
 り、在留日本人が多数殺害・略奪されたと厳しく主張し
 た。
  そして、朝鮮からの日清両国の即時撤兵と、日本商民
 殺傷事件に関係する清国軍指揮官の処罰を求めた。
  清国は、朝鮮王宮における戦闘は、日本側が戦端を開
 いたと反論した。
  また、甲申政変を引き起こした朝鮮開化派勢力に、協
 力した疑いもある。
  軍を出動させた竹添公使の行動を強く非難した。
  漢城における日本商民殺傷事件は、政変によって暴徒
 化した朝鮮の軍民によって引き起こされた・・と、清国
 軍の関与を否定した。
  撤兵問題については、日清両軍の朝鮮半島からの退去
 が早々に合意を見た。
  しかし、以後の朝鮮半島への両国の軍隊派遣に関して、
 主張は食い違った。
  伊藤は、第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清
 共に出兵するべきではないと主張した。
  李は、朝鮮が軍の派遣を要請すれば、清国は宗主国と
 して軍を派遣しないわけにはいかないとした。
  だから、壬午事変・甲申政変のような内乱であっても出
 兵はあり得ると主張した。
  結局、出兵に関する相互通知のみを取り決め、
  伊藤の主張する両国の永久撤兵案は退けられた。
  日本商民殺傷事件に関する清国軍の関与も、清国側は、
 決して認めず、
  瑣末事(さまつごと、些細で取るに足らないこと)で
 あるとして取り合おうともしなかった。
  しかし、伊藤の執拗な追及に折れて、清国軍内部で再
 調査を行い、事実であれば将官等を処罰するとの照会文
 を取り交わした。
1885年4月6日、府県に、小作慣行調査を指示した。 
  農商務省が、小作条例案を起草するため、全国の小作
 慣行調査を府県に指示した。
  『明治十八年小作慣行調査抄』農商務省
  因みに、1898年の調査による統計では・・、
  全国の農家の27.2%が小作農で、45.5%が小作地だっ
 た。
  調査項目(1921年の場合)
   (1)小作契約の締結、
   (2)小作契約の期間、
   (3)小作料、
   (4)小作料の納入、
   (5)小作料の滞納、
   (6)耕地整理が小作慣行に及ぼす影響、
   (7)米穀検査と小作慣行との関係、
   (8)小作契約の登記および小作地に対する制限、
   (9)地主または小作の賠償、
  (10)小作地修繕改良およびその負担、
  (11)小作契約当事者の変更、
  (12)契約の解除および消滅、
  (13)土地管理人、支配人、世話人等、
  (14)その他小作に関する重要事項、
  (15)永小作、
  (16)刈分小作その他特殊の小作、
  (17)小作に関する慣行の改善を要する諸点、理由、そ
    の方策、
1885年4月10日、国防会議条例を制定した。
1885年4月18日、専売特許条例が公布された。
  専売特許条例が制定され、公布された。
  特許法の前身。
  特許制度整備の必要性が再認識される一方で、近代化
 の実を示す必要があったため、
  高橋是清・初代専売特許所長の尽力により、1885年(
 明治18年)「専売特許条例」が公布された。
  特許第1号は、明治18年7月1日、東京府・堀田瑞松によ
 り出願された「堀田式錆止塗料とその塗法」だった。
  なお、1905年(明治38年)に、特許制度を補完するため、
 実用新案法が制定された。
1885年4月18日、天津条約が調印(締結)された。
  朝鮮問題に関し、全権・伊藤博文は、清国代表・李鴻
 章と天津条約を調印した。
  清国と甲申事変の処理として調印した内容:
  (1)日清両国は、朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇
    月以内に撤兵を完了する。
  (2)日清両国は、朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。
    朝鮮には、日清両国以外の外国から一名または数
    名の軍人を招致する。
  (3)将来、朝鮮に出兵する場合は、相互通知行文知照
    を必要と定める。
     派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
  ・照会文によって、日本商民殺傷事件の再調査と事実
   であった場合の処罰が約束された。
1885年4月20日、イギリス公使が、イギリス海軍による巨文
 島(こむんとう、朝鮮半島の南部沿岸沖にある小群島)
 の一時占領を通告し、占領された。
  巨文島は、イギリス海軍本部の命により、イギリス海
 軍の3隻の軍艦によって占領された。
  これは、アフガニスタンでのパンジェ紛争に直面して、
 ロシアの伸張の機先を制するためのものだった。
  当時、ロシアは、朝鮮半島北東部の永興湾(現在の元
 山市付近)を、軍港としての利用を模索しており、イギ
 リスはこれに対抗する必要があった。
  イギリスは、清国と日本に、巨文島の占拠を通告し、
 住民を動員して兵舎や防御施設を建て、
  また、上海との間に電信線を敷設した。
  清国は、当初、ロシアへの対抗策として、および、朝
 鮮に対する自国の優先権を国際的に確認するために、イ
 ギリスによる巨文島占拠をある程度は認めるつもりだっ
 た。
  しかし、朝鮮問題に発言力を持つ李鴻章の強い反対に
 より態度を変え、イギリスに退去を求めるとともに、朝
 鮮政府の支援へ転じた。
  朝鮮政府は、現地調査のために、政府有司堂上・厳世
 永と外務協辦(外交顧問)を務めていたメレンドルフを
 派遣し、
  巨文島のイギリス海軍の指揮官や、長崎に滞在してい
 たイギリス東洋艦隊司令官と交渉を行ったが、決定的な
 対応を得ることはできなかった。
  この様にイギリスは、巨文島を「第2の香港」とするべ
 く、既成事実化を進めたが、各国の反対は強硬だった。
  ロシア公使・ヴェーバーは、ロシアがイギリスに対抗
 して朝鮮の適当な土地を占領することを公言し、積極的
 な反対運動を行った。
  (イギリス・ロシアをはじめとする列強各国の領土を
 奪う帝国主義が跋扈・ばっこしていた。
  この時、当然の様に、イギリスに朝鮮は奪われた)
  アフガニスタンにおけるロシアの脅威が縮小した後、
 イギリスと清国の間で交渉が行われ、最終的に、イギリ
 ス艦隊は巨文島の基地を放棄することを決めた。
  イギリス人は、1887年2月27日に、基地を破壊して立ち
 去ったが、その後も彼らは島を訪問し続けた。
  若い水兵をそこに埋葬することもあった。
  島々が、日本との併合に入った1910年以後、訪問は頻
 繁ではなくなった。
  島には、10人のイギリス人水兵と海兵が埋葬されてい
 る。
1885年4月25日、井上馨外務卿が、条約改正草案を各国大使
 に送り、条約改正会議の予備交渉を開始した。
  寺島宗則・第4代外務卿の後を受けて参議兼外務卿とな
 った井上馨は、
  最難関のイギリス公使には、上野景範に代えて、省内
 きっての親英派で強硬派でもある森有礼を起用した。
  そして、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案
 を作って、
  1879年(明治12年)9月19日、森駐英公使に基本方針を
 訓令した。
  同年・1879年11月には、在欧各国の公使に対し、海関
 税則改正と開港場における外国人の不当な慣習・『日本
 人を未開人扱いすること』など
  (まったく卑劣な不当なこの習慣は、キリスト教に端
 を発する「有色人種蔑視」思想、これを無くしなさいと
 日本はずーっと言って来ている。
  これは、単に、日本の為だけではないという見地に立
 っていた。
  人種差別意識から行われる、他国の領土の奪取の行為
 を日本はずーっと見て来ていた。
  これ等の日本だけでない行為を無くしたいとしていた。
  ここが日本の偉い所だった。
  有名なのは、第一次世界大戦の戦勝国として会議に出
 席した日本は、条約に「有色人種蔑視の廃止条項」を入
 れる様に主張した。
  しかし、アメリカなどの欧米各国の列強の反対により
 否決された)
  ・・この是正、日本の行政規則における軽微な罰則・
 制裁条項をもつ規則についての外国人への適用などを骨
 子とした条約改正方針を、各国に通知するよう訓令を発
 した。
  1880年(明治13年)3月の官制改革においては、参議と
 卿は分離されたが、井上外務卿のみは、条約改正に携わ
 る関係から、その例外とされた。
  なお、井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は、前
 駐露公使・榎本武揚であり、
  外務少輔には、上野景範が任じられ、
  榎本が海軍卿に転出すると、上野が外務大輔に昇格し
 た。
  また、1880年5月以降は、横浜のアメリカ副領事であっ
 たヘンリー・デニソンが、外務省顧問に採用された。
  1880年6月、井上案の骨子を基に、修好条約改正案、お
 よび、通商航海条約改正案が準備され、
  同年・1880年7月6日、条約改正会議を日本で開催する
 ことをアメリカ・清国を除く各国に通知した。
  この改正案の内容は、駐日オランダ公使からリークさ
 れ、7月16日付ジャパン・ヘラルド紙に掲載された。
  翌年・1881年(明治14年)2月、井上は、条約改正案を
 関係各国に回付した。
  当初の列国の態度は、日本案は要求のみ多く、それに
 対する報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を
 求める姿勢が強かった。
  その後、森有礼駐英公使は、イギリス側の対応を探り、
 双方で交渉の課題と進め方について協議したが、
  イギリスは、関税規則改正に関わる交渉にのみ応じる
 方針であることが判明した。
  1881年7月23日、イギリス外相グランヴィル伯は、森駐
 英公使に対し、日本提出の条約改正案による交渉に反対
 の意を表明、東京での予備会議開催を提案した。
  これに対し、ドイツは、法権回復の交渉にも応じる構
 えがあるとの意向を示し、
  イギリスの方針とは異なる感触を得たが、
  東京での予備会議開催に対しては、イギリスと同意見
 であり、他の各国もこれに追随した。
  井上は、各国の要求を容れて、改正の基礎案を審議す
 るための予備会議(条約改正予議会)を開くこととした。
  12月28日の御前会議での諒承を経て、予備会議は、翌
 年・1882年(明治15年)1月25日に、東京の外務省で、第
 1回がひらかれ、
  フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した。
  この後、アメリカ合衆国・ベルギーなども加わり、同
 年・1882年7月27日まで、計21回開催された。
  なお、この年・1882年3月3日、伊藤博文は、明治天皇
 陛下に憲法調査のための渡欧を命じられ、
  1882年3月14日には、ヨーロッパに向け出発している。
  井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬うる所なか
 るべからず」という方針に立ち、
  日本が関税を引き揚げて税収増加を図ること、日本の
 行政規則を条件づきで外国人に及ぼすこと、12年後に対
 等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わり
 に、
  外国人には、土地所有権、営業権、内地雑居権を与え
 ようというものであり、
  中には、宮城県の野蒜築港後に同港を開き、区域を設
 けて外国人の雑居を許すという案もあった。
  これについては、政府部内でも佐々木高行、大木喬任、
 山田顕義の参議3名が、日本人は失うもの多く、得るとこ
 ろは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂
 した。
  そのため、井上は、一時は辞任の意向を示すほどであ
 ったが、寺島前外務卿が慰留、岩倉具視や山縣有朋らが
 3参議を取りなして、結局、ひきつづき井上の方針が採用
 されることとなった。
  なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭
 にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国
 共同の圧力を受けることにほかならないとして、共同会
 議を開くべきではないと強く主張した。
  井上の改正案は、諸外国からも法権・税権のいずれに
 対しても批判が相次いだ。
  これに対し、井上は、日本は、法典の整備に鋭意取り
 組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する
 用意があると回答、
  1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では、日本の
 法律に服する外国人には、内地開放(内地雑居)を行う
 旨宣言した。
  内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤
 廃することであり、
  外国人の土地所有や、企業活動の自由を認めることで
 あったが、これは、法権の束縛された当時の日本にとっ
 て唯一最大の切り札であり、
  列国が、明治初年から繰り返し主張してきたことでも
 あった。
  この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を
 示されながらも歓迎された。
  1883年6月1日の第13回予議会で、井上は、新条約批准
 5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、そ
 の裁判は、外交官ではなく、外国の法律の専門家による
 ものとし、
  また、法律は、日本の国内法を適用するという案を提
 示した。
  税率の改正に関しては、日本の要求が、自由貿易の理
 念に反するとの批判をかわすべく、
  大蔵省で進めていた紙幣整理の償却費400万円の確保が
 目的であるとして、従来5パーセントであった税率を、奢
 侈品25パーセント、他の物品15パーセントに引き上げる
 案を示した。
  イギリスはこれに反対、増収総額300万円程度となる税
 率案を提示した。
  それに対し、ドイツは日本に対して好意的で、結果的
 には、総額360万円の増収額となる税率に定められた。
  なお、新条約の施行期間としては、裁判については12
 年、税率については8年と定められた。
  以上、予備会議での交渉は、新条約の方針の協議に止
 まるものではあったが、
  井上の内地開放宣言が功を奏し、日本は一貫して協議
 の主導者たる立場に立つことができた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:新事実が次々に明らかになり、従来の論拠は崩れている・・、
.
1933年3月4日、アメリカ合衆国の第32代大統領に、フラン
 クリン・ルーズベルトがなった(~1945年4月12日)
  ルーズベルトは、第二次世界大戦の「戦争を作った」
 という言葉を残した。
  アメリカ合衆国経済を、世界恐慌に影響されたどん底
 から回復させたいとの意味もあった。
  1941年12月の第二次世界大戦への参戦による史上最大
 の軍拡、軍需経済、戦時経済の著しい増大によって
 アメリカ経済は、完全に回復し、失業者も激減した。
  また、多額の戦債をつぎ込んだイギリスが負けること
 は避けたかった。
  アメリカ国民の方々は、そして、アメリカ国民の世論
 は、第一次世界大戦の参戦の苦い経験から戦争にかかわ
 るのを避けたいと考えていた。
  そして、ルーズベルトは、選挙で、『戦争にはかかわ
 らない』、『参戦しない』と訴え、大統領選挙に当選し
 た大統領だった。
  そして、自身も、何度も、『戦争に介入しない』と宣
 言していた。
  戦争に参戦するとは、口が裂けても言えない状況だっ
 た。
  チャーチルからは、「ドイツが、イギリス本土上陸寸
 前だ」と、参戦を頼まれていたが、動けない状況だった。
  ここで仕組んだルーズベルトの仕掛けが、真珠湾攻撃
 の仕掛けだった。
  ニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは、
 「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を
 煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使し
 た」と報じた。
  また、日本を病人になぞらえ、ルーズベルトの発言「
 日本を隔離するのだ」・・という事から『隔離演説』と
 言われた、この演説は・・、
  アメリカ国民の方々を、戦争に順応させるレトリック
 的キャンペーン(巧みな言い回しの、国民を惑わすキャ
 ンペーン)の始まりを告げる「国民だまし」のものであ
 ったと言われている。
  ルーズベルトは、反省をしたのか、ブリュッセル会議
 (九ヶ国条約会議)が開催されたとき・・、
  アメリカは、隔離演説で見せたような『挑発的な言明』
 は避け、
  会議で、ウェルズ国務次官は「日本を侵略者呼ばわり
 するのは、我々の考えではない」と発言したり・・、
  「日本を懲罰するのではなく、単に、意見を交換する
 だけだ」などと述べた。
  また、ルーズベルトは、大粛清をしたソ連のスターリ
 ンの共産主義を受け入れた。
  ルーズベルトの「その容共的な姿勢」と・・、
  そして、そのスターリンの「侵略行為を黙認」したこ
 とは、当然として、アメリカ国民の方々から批判された。
  また、ルーズベルトは、日中戦争の、中国の蒋介石を
 支援するために『莫大な軍事費をつぎ込んだ』(これが、
 日中戦争の泥沼化への原因)、
  そして、日系人にだけの厳しい対応をした、強制収容
 を実施した有色人種への差別観の強い大統領だった。
  この様な、この大統領の行為が、アメリカにおける人
 種差別の解消の遅れの原因の1つとなった。
  ルーズベルト大統領は、アメリカ国民へ明らかにすべ
 きことを秘密にした大統領だった。
  大切な事でも秘密にし、隠した。
  「ルーズベルト秘録(産経新聞社刊)」の本には、そ
 のことが書かれている。
  この本で明らかになったこと、その事によって・・
  東京裁判についても秘密が明らかになり、この本で少
 なくとも『東京裁判」の訴因のいくつかは明確に崩れた。
  「東京裁判」なんて、その様な裁判で・・、
  そもそも、この『東京裁判」については、既に、海外
 での諸研究によって、国際法の上では・・『不法・不当
 の欠陥裁判』であり、
  現在の国際戦争裁判の前例には「なり得ない」という
 国際的なコンセンサスが出来ている。
  ・・中国は、相変わらずこの東京裁判史観で物を言っ
 ている。
.
  そして、次の話・・、
.
1933年3月4日、この時、アメリカのルーズベルトが、アメ
 リカ大統領になったが・・、
  このルーズベルトが起こした戦争の結果、日本は敗戦
 となり、占領政策がなされ・・
  日本の歴史は、外国(アメリカ)の占領軍・GHQが、
 その強大な権力によって、戦後の一時期のこの時期に、
 急遽、作り上げ・・、
  そして、被占領国の日本へ押し付けた。
  この急場づくりの、押し付けの歴史観は・・、
  「日本断罪のための歴史観」に縛られた歴史に過ぎな
 かった。
  この様な歴史が、学校で、正しいとして、子供たちに
 教えられ、
  刷り込まれた、日本の子供たちは・・、その歴史観を
 信じて来た。
  終戦直後の巨大な権力が、GHQが、日本統治の成否
 がかかっている中で、急遽、必死に押し付けたその歴史
 観は・・当然、正確であろうはずはない。
  正しい歴史観を感得するには、ある程度の時の経過が
  必要なのである(60年程度以上)・・、
  そして、戦後の時を経て・・例えば、今・現在、我々
 は、共産主義の終焉を見つつある時代の中に居る。
  そしてまた、戦勝国で秘匿されて来た真資料が・・公
 開され、真実を知る状況にもなっている。
  新資料・真資料の中には・・、
  既に、従来の判断を180度転換するという『驚愕の真実・
 事実』が明らかになっている。
  例えば、アメリカの「ルーズベルト政権」では、200名
 を超える大量のソ連の工作員がいた・・、
  アメリカの各省の次官クラスなどの要職に居て、
  対日政策に・・決定的影響を与えていた。
  また、ロシアの公開資料からは・・、
  1938年の『張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)』や、
  1939年の『ノモンハン事件』は、ソ連に責任があるこ
 とが明らかになりつつある。
  今まで歴史の事実と思われていたことが、変わりつつ
 ある。
  そして、この新事実によって、東京裁判のいくつかが
 裁判されるべきでは無かったという事になっている。
  今・現在、東京裁判は、それでなくても、国際法では
 「不法の裁判だとされている」、
  また、「不当の裁判とされている」。
  これが、国際的コンセンサスとなっている。
  東京裁判を論拠として、靖国参拝が、とやかく言われ
 ているが、その論拠は崩れている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月29日月曜日

(増補版)410E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年3月)

題:(増補版)410E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年2月2日、静岡県下85ヶ村の借金等農民1500人が、伊
 豆銀行や金貸業者を襲撃した。
  1884年に、繭価暴落などで、借金に悩んだ秩父の農民
 が、困民党を結成などして、金貸し業者などを襲撃した
 が、その様な流れの中に、この騒動もあった。
  松方財政に端を発する事件があった。
  しかし、詳細は調べ得ない。
1885年2月7日、軍隊と行きあった場合は右側通行となる(
 右肩の鉄砲との衝突を避けるため)
  因みに、日本の沖縄県が、第二次世界大戦後にアメリ
 カ軍の統治下に置かれた時、車の左側通行を変更させら
 れていた(対面交通の向きを変えさせられていた)。
1885年2月7日、岩崎弥太郎が没した。
  郵便汽船三菱の創設者の岩崎彌太郎が52歳で死去し、
  後に、弟の彌之助が、第2代社長に就任し、三菱社を
 設立した。
1885年2月7日、閣議で、対清交渉方針を決定した。
  これまで積極的に関与することを留めていた日本は、
 この年より方針を変えた。
  日本と連絡を取り合う安駉壽(あんけいじゅ)の言葉、
  「改革希望派の人には、三々五々相集りて相談を為せ
 ども、之を発する勇気の乏きと、之を引率する統領なき
 に苦めり」
  「何卒此上は、外兵の余威を借りて内部の改革を行う
 より外に手段なきに付、貴国は今暫く其兵を駐留せしめ
 られんこと内心希望せり」
1885年2月9日、日本鉱業会が設立された。
  「鉱業ノ進歩改良ヲ謀リ併セテ鉱業上ノ知識ヲ交換ス
 ル」(創立時の規約第1条)
  この学会は、日本最初の学会で、鉱山業に関する科学・
 技術上の問題のほかに、製鉄・製鋼技術の問題も扱った。
  規約にも、「事業ノ改良発達ヲ期スル」とあった。
  後に、1914年、日本鉄鋼協会が設立された。
1885年2月20日、朝鮮国正使・徐相雨らが来日し、天皇陛下
 に国書を奉呈した。
  朝鮮は、1876年~1885年まで、6回の使節団/視察団を
 日本に送っていた。
  それは、公式であり、また、非公式であり、
  修信使、および、朝士として、多彩な人物が、明治維
 新後の日本の変化を探索しようとした。
  その朝鮮の使節は、日本の近代的文物や制度、そして、
 開港後の姿を使行録に詳しく記録した。
  近代化の受容を強いられた朝鮮事情、朝鮮のの対応を
 現していた。
  そして、この時の使行は、1885年2月5日~1885年4月3
 日までの旅程で、
  日本に留まった期間は1ヶ月と20日だった。
  第5次修信使という、この使節団の目的は、外交的交渉
 ではなく、漢城條約の条項であった「国書を持って日本
 に謝意を表明するため」新しく派遣されるという形で、
 全権大使の徐相雨に、欽差大臣という肩書きをもって出
 発させた。
  徐相雨、穆麟徳、朴戴陽以外にも、日本語通事、中国
 語通事、従人3名が同行し、
  正使と副使、そして、従事官の3使体裁を揃えた使節だ
 った。
  この正使と副使が、それぞれ 從二品の高官に任命され
 て国王の国書を奉呈するためだったという点では、
  修信使という名称を使わなかったとしても、以前の修
 信使行のような威容を誇っていたと言える。
  何よりも、彼らは、刻々と新しく生まれ変りつつある
 日本の現実を、実際に目にしたのだった。
  いわゆる文明開化であり、西洋化であり、機械化であ
 って、
  当時の修信使たちは、その社会と制度の変化一つ一つ
 に対し、目を見張った。
  (李孝庭氏の論文より抜書き構成した)
1885年2月20日、農商務省水産局を設置した。
  農商務省(のうしょうむしょう)は、1881年4月に設置
 された農林、商工行政を司った中央官庁だった。
  農林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を
 担当した。
  明治政府は、日本産業の資本主義化を達成するため、
 殖産興業政策をその課題に掲げ、
  農商工の各分野で行政指導を進めた。
  欧米の機械制工場制度の移植や鉄道、電信の導入など
 を促進した工部省(1870設立)、
  農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代に、めまぐるしい機構の
 改廃、統合を重ねる過程で、相互に補完しあいながら、
 資本主義育成策の重要な部分をなした。
  1885年の内閣制成立とともに、工部省が廃止されて、
 農商務省が、唯一の産業主務官庁となり、
  駅逓(えきてい)事業は、逓信省に分離した。
1885年2月24日、伊藤博文を、対清交渉全権大使に任命した。
  参議・伊藤博文を、特派全権大使として清国へ差遣(
 さけん、公の使者として派遣すること)する。
  西郷従道と井上馨が、これに従った。
  朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され
 た。
1885年2月24日、内務省が、国道表を告示した。
  本年一月太政官第壹號ヲ以テ國道之儀布達相成候ニ付
 該線路別表之通相定候條此旨告示候事
              内 務 卿伯爵・山縣有朋
  路線中前號路線ト相通用スヘキ者(例ヘハ第貳號東京
 ヨリ大坂港ニ達スル路線中其神奈川驛迄ハ第壹號東京ヨ
 リ橫濱港ニ達スル路線ト同線ナル如キ類)ハ之ヲ略シ其
 番號ヲ記ス(以下略)
  國道表  
  壹號:東京ヨリ橫濱ニ達スル路線  
  驛名:日本橋、管轄名:東京府、國名:武藏、
  驛名:品川、 管轄名:東京府、國名:武藏、(以下略)
  貳號:東京ヨリ大坂港ニ達スル路線
  驛名:神奈川、管轄名:神奈川縣、國名:武藏、
  驛名:保土ケ谷、管轄名:神奈川縣、國名:武藏、
                      (以下略)
  三號:東京ヨリ神戸港ニ達スル路線 (以下略)
  四號:東京ヨリ長崎港ニ達スル路線 (以下略)
  五號:東京ヨリ新潟港ニ達スル路線 (以下略)
  六號:東京ヨリ函館港ニ達スル路線 (以下略)
  二十六號:大坂府ト廣島鎭臺トヲ拘聯スル路線  
  驛名:大坂、管轄名:大坂府、國名:攝津、
  驛名:尼崎、管轄名:兵庫縣、國名  攝津(以下略)
  四十四號:東京ヨリ沖繩縣ニ達スル路線
  驛名:山家、管轄名:福岡縣、國名:筑前、
  驛名:鹿兒島、管轄名:鹿兒島縣、國名:薩摩
  驛名:那覇、管轄名:沖繩縣、國名:琉球(以上)
1885年2月、硯友社(けんゆうしゃ)の結成
  大学予備門 (のちの第一高等学校) の学生・尾崎紅葉、
 山田美妙、石橋思案と、高等商業学校の丸山九華らの4人
 が、文学結社の「硯友社」を結成した。
  当時流行の政治小説に対し、芸術主義を標榜(ひょうぼ
 う、主義・主張などをはっきりと掲げ示すこと)した。
  そして、1885年5月に、機関誌『我楽多 (がらくた) 文
 庫』を発行した。
  巌谷小波(いわやさざなみ)、広津柳浪、川上眉山、泉
 鏡花、小栗風葉らが、前後して加わり、
  たちまち明治文壇の一大結社となり、明治20年代の文
 壇の主流となった。
1885年2月、麻疹が大流行する。
  麻疹(はしか)は、小児に多い発疹性(ほっしんせい)
 の急性感染症で、学校感染症の一つである。
  感染症予防法の5類感染症の一つ。
  厚生労働省のホームページには(抜書き構成した)・・、
  麻しんは、麻しんウイルスによって引き起こされる急
 性の全身感染症で、
  麻しんウイルスの感染経路は、空気感染、飛沫感染、
 接触感染で、その感染力は非常に強く・・、
  免疫を持っていない人が感染すると、ほぼ100%発症し、
 一度感染して発症すると、一生免疫が持続すると言われ
 ている。
  また、麻しんウイルスは、ヒトからヒトへ感染すると
 言われ・・、
  感染すると、約10日後に、発熱や咳、鼻水といった風
 邪のような症状が現れる。
  2~3日、熱が続いた後、39℃以上の高熱と発疹が出現
 して、肺炎、中耳炎を合併しやすく、患者1000人に1人の
 割合で脳炎が発症すると言われている。
  死亡割合も、先進国でも、1000人に1人と言われている。
  近年は、ワクチンの2回接種が行われ、麻しんに感染す
 る人数は減っている。
1885年3月1日、赤羽~品川間の鉄道開通(官私営鉄道の最
 初)
  品川線開通:日本鉄道の品川線(品川~新宿~赤羽間)
 が開通し、新橋~赤羽間直通旅客列車の運転を開始した。
  現在の山手線の前身。
  板橋駅、内藤新宿駅(現=新宿駅)、渋谷駅が開業。
  1887年に新宿駅に改称。
1885年3月9日、初めて電話機・電燈が輸入された(エジソ
 ンが電話機と白熱電燈26個を工部大学に寄贈)
1885年3月16日、福沢諭吉が、時事新報に「脱亜論」を発表
 した。
  初出:『時事新報』1885年3月16日
  内容:(前略)・・近代西洋文明がわが日本に入った
 のは、嘉永の開国を発端とする。
  国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだ
 いに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老
 害の幕府というものがあり、これはいかんともできなか
 った。 
  幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくる
 ことができない。
  なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するも
 のではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡し
 てしまうからである。
  だからといって、文明をふせいてその侵入を止めよう
 とすれば、日本国の独立は維持できなかった。
  なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の
 眠りを許すものではなかったからだ。 
  ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を
 軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室
 の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立
 てた。
  政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近
 代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではな
 い。
  アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主
 義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。
  わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、
 国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移
 っている。
  しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那
 といい、一を朝鮮という。
  この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗
 に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないので
 ある。
  だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗
 教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものが
 あるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べ
 れば支那・韓国はよほど似ているのである。
  この二国の者たちは、自分の身の上についても、また
 自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。
  交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞き
 しないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすこと
 にならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、
 百千年の昔とおなじである。
  現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じ
 れば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智とい
 い、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際に
 おいては真理や原則をわきまえることがない。
  そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて
 残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たな
 い者のようだ。
  筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中
 にあっては、とても独立を維持する道はない。
  幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、
 われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を
 改めるとともに人心を一新するような活動があれば、そ
 れはまた別である。
  もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡
 国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されること
 は、一点の疑いもない。
  なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、
 支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれ
 を避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断
 して、窒息しているからだ。
  「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えである
 が、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役に
 も立たない。
  のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理
 的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・
 韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえ
 るのだ。
  例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は
 信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国
 かと疑うだろう。
  支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなけれ
 ば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違
 いない。
  支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もそ
 の影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もま
 た無情と推量されるのだ。
  事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
  喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、
 愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその
 町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、
 他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。
  その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害
 となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大
 不幸というべきである。
  そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣
 国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないの
 である。
  むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退を
 ともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だから
 と特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接
 するように処置すべきである。
  悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。
  筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものであ
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教の大罪が、後々までも続いて行く事が
    悔しい。
.
2016年8月3日、リオ・オリンピック(ブラジルのリオデジ
 ャネイロ・オリンピック、~2016年8月21日)を見ている
 と、気になることがある。
  色々な方たちが頑張っている。
  日本の選手の方々も本当によく頑張った。
  選手の方々の一人一人に血のにじむ努力があり、ドラ
 マがあり・・、
  メダルをとれた人、残念だったがもう少しで手に届い
 た人、頑張ったが残念だった人などと・・、
  悔しくもある人、喜びの中にある人・・、
  そこにある色々な一人一人のドラマに涙した。
  色々な国々の若い選手たちが、頑張っている姿を見せ
 ている。
  色々な国々、色々な民族の方々、そのそれぞれに、美
 しいドラマが、やはり、あるのだろう。
  感動と涙があるのだろう。
  しかし、何か気になることがある。
  どうしても変だなと感じる事がある。
  あの民族の祭典と言われるオリンピックに、インディ
 オの方々が、また、インディアンの方々が・・、
  オリンピックという民族の祭典に・・、
  このインディオの方々や、インディアンの方々の姿が
 見かけられないのだ。
  スペイン・ポルトガル・イギリス・アメリカ合衆国・
 カナダ・オーストラリアに殺戮された民族・・、
  インディオの方々や、インディアンの方々などの民族
 の方々の姿が見られないのだ。
  イギリス・オーストラリアに殺戮されたアボリジニの
 方々の姿が見かけられないのだ。
  殺戮されなかったら、インディオの方々も、また、ア
 メリカ・インディアンの方々も、
  そして、アボリジニの方々も・・、
  このリオ・オリンピックに、他の民族の方々に交じっ
 て、感動のドラマを演じて居られただろう。
  そこにも感動のドラマや、感動の涙があったのだろう
 と思う。
  殺され、そして、少なくされた民族の、残された方々
 が・・、
  悔しさの中で、この民族の祭典・リオ・オリンピック
 を見ているのだろうと思う。
  キリスト教の教義に繰られ、洗脳され、マインド・コ
 ントロールされた「悪辣な者ども」によって、抹殺され
 た民族の、リオ・オリンピックに出場していただろう人々、
 出場していただろうなという影の姿・負の姿の民族の方々
 が、影の形で、負の形で見えて来る。
  また、残された民族の方々も、この様に見ているのだ
 ろうなという・・残され少数になってしまった民族の方々
 の姿も見えてくる。
  悔しさを噛みしめながら、無念の気持ちの中で、見て
 いる方々が居られる姿が見えて来る。
  今、残されて、少数になったインディオの方々や、イ
 ンディアンの方々などで・・、
  特に、若い方たちに、自殺が多い状態となっているこ
 とが悲しい。
  民族の行く末に、希望が持てなくなっているのだとい
 う。
  キリスト教の大罪が、後々までも続いて行く事が悔し
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月28日日曜日

(増補版)409E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)409E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年1月17日、羅馬字会(ろーまじかい)創立、第一回
 例会を開催した。
  矢田部良吉、外山正一らが、羅馬字会を創立した。
  漢字・仮名を廃して、ローマ字を国字に、との主張を
 かかげた。
  そして、この年に、ローマ字による日本語のつづり方
 「羅馬字にて日本語の書き方」を発表した。
1885年1月20日、秋田院内鉱山が、古河一兵衛へ払い下げ
 られた(詳細は前記を参照ください)
1885年1月25日、千葉医学校が開校した(現在の千葉大学)
  医学校(いがっこう)は、医師になるための学校、医
 師養成学校で、
  1883年の文部省の医学校通則では、公立医学校には甲
 種と、乙種の別が定められた。
  甲種には、宮城、秋田、千葉、新潟、石川県金沢、愛
 知、三重県甲種、京都府、大阪、神戸、岡山県、徳島、
 福岡、長崎、熊本の各医学校が認定された。
1885年1月25日、大山巌が、欧州の兵制視察を終えて帰朝し
 た。
  大山巌とともに、川上操六、桂太郎も帰国。
  この頃の、日本の軍制(ぐんせい、軍の維持・管理・
 運用などに関する諸制度の総称)を見ると・・、
  日本にドイツの軍制をもたらしたのはドイツ人だった。
  中でも、ドイツ陸軍参謀将校のヤーコプ・メッケル少
 佐だった。
  メッケルは、1885年3月~1888年まで、陸軍大学校の
 「お雇い教師」として中央政府に雇用された。
  そのため、その活動も当初、陸大での軍事教育が中心
 であった。
  メッケルの軍事教育は・・、
  陸大のような高等教育機関では、本来おこなわないは
 ずの「日本の操典(日本陸軍が作成した、各兵種の教育、
 および、戦闘についてのしっかりした拠り所となる書)
 の研究からはじめる」点で斬新であった。
  また、参謀旅行や図上戦術などを特徴とする点で実践
 的なものでもあった。
  しかし、1886年12月に、ドイツ陸軍師団参謀ブランケ
 ンブルクが来日した。
  このことで、時間の余裕ができた状況となったメッケ
 ルは、日本陸軍の軍制改革そのものについても、多様な
 提案を行なった。
  メッケルの提案によって、改正・改革された日本の軍
 制の例には・・、工兵隊の編成についてや、徴兵制度が
 ある。
  メッケルの提案の結果、「工兵隊編成改正」や、徴兵
 制度の条例改正(1889年の徴兵事務条例改正)が行なわ
 れた。
  そして、メッケルの提案によって、1873年以来の鎮台
 制度も改革された。
  (京都大学へ提出した布施将夫氏の論文を参考にした)
1885年1月26日、南条文雄が、はじめて東京大学で梵語を教
 えた。
  日本で、初めて、本格的にサンスクリットを教えたの
 は、
  1991年に、「博言学」の「お雇い教師」となったフロ
 ーレンツだった。
  そして、空海に限らず、サンスクリットを学習した日
 本人は、19世紀末以前にはいなかった。
  初めてサンスクリットに接した日本人は、1879年に、
 オックスフォードに学んだ南条文雄と笠原研寿だった。
  フローレンツは、ヴェーダ文献を始め、広くサンスク
 リット文献に通じていて、
  サンスクリット研究の導入者として、最も適任だった。
  それより数年前に(1885年/1887年)、南条文雄は、
 非常勤講師として東京大学でサンスクリットを教えたこ
 とがあるものの、扱うことができたのは仏教文献に限ら
 れていた。
  (桃山学院大学の報告で、小林信彦氏が、1989年、関
 西外国語大学の公開講演で配布されたものの抜書き)
1885年1月27日、ハワイへの第1回移民
  ハワイへ、第1回の約官移民団(927人)が、横浜港か
 ら出発した。
  日本からハワイへの移民は、1868年から行われていて、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が、日本人移民で
 占められるほどであった。
  1924年のアメリカ本土で成立する「排日移民法」成立
 まで、約22万人の日本人がハワイへ渡った。
  因みに・・、
  1881年3月、ハワイ王国の王様であるカラカウア1世が
 来日して、赤坂離宮で明治天皇陛下と会談をした。
  これは、結局は、ハワイの窮状を、日本に助けて戴き
 たいというものだった。
  カラカウア王の提案は・・
  (1)カラカウア王の姪で、王位継承者のカイウラニ王
    女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)
    との縁組をいたしたい。
  (2)日本・ハワイの合邦(日本とハワイが連邦状態に
    なりたい)。
  (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設をし
    たい。
  (4)日本主導による「アジア連邦」の実現・・だった。
  このハワイ王国の危急存亡を救っていただきたいとい
 う提案は・・、
  アメリカ合衆国によるハワイ侵略が目に見えた形にあ
 ったからだった。
  そして、このハワイ王の提案は、よくヨーロッパでも
 行われていた王家存続の方法だった。
  そして、ハワイ人の人口も何故か急激に減少した。
  ハワイの方たちの減少をもくろんで、ハワイの方々(
 ハワイ人)には抵抗力のない病原菌が持ち込まれたとい
 う話もあった。
  その人口減の関連で、ハワイへの日本人移民策が推し
 進められる。
  1890年には、ハワイ総人口の40パーセントが日本移民
 という状態となっていた。
  1894年7月4日、ハワイ共和国が成立した。
  1895年1月、最後の王党派による大規模な武力蜂起が起
 きた。
  しかし、武力鎮圧された。
  1895年1月16日、リリウオカラニ(ハワイ王国の最後と
 なってしまった女王)は逮捕され、廃位された。
  この後、アメリカ移民の白人のサンフォード・ドール
 は、ハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、こ
 の条約が成立したときハワイ準州の初代知事に任命され
 た。
  1898年8月12日、アメリカ大統領ウィリアム・マッキン
 リーは、ハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言した。
  そして、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国の
 国旗は降ろされた。
  そして、星条旗が掲げられた。
  この時、古来のハワイ住民らは、悲しみの声を上げた。
  1899年、そして、その翌年、ハワイ王国の後継者であ
 るカイウラニ王女は、24歳という若さで病気で逝去され
 た。
1885年1月28日、発火しやすい黄リンマッチを禁止した。
1885年1月、広目屋(広告業)が、楽隊を雇って宣伝に用い
 ることを始めた(別の説もある)
  チンドン屋は、披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西
 屋(とうざいや)などと呼んだ。
  1878年(明治11年)12月11日の『郵便報知新聞』見出
 しに「チンドン屋よろしく大道飴売」とあり、
  また、1889年(明治22年)10月6日の『東京日日新聞』
 見出しに、「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」など
 に見られるように、
  チンドン屋は、明治の初期から存在した。
  しかし、用例が少なく確かではない。
1885年1月、田中智学(たなかちがく)が、立正安国会を設
 立した。
  田中智学は、宗教家で、東京に生まれた。
  町医者多田玄龍の3男。
  東京江戸川一之江妙覚寺で得度し、後に、僧籍を返還
 し、
  日蓮宗を脱して日蓮主義による宗教活動を提唱した。
  1880年、横浜で、蓮華会を結成し、在家仏教運動を開
 始した。
  1885年、東京に移って、立正安国会を創立した。
  日刊新聞『天業民報』を発行し、
  1914年に、門下の信仰団体を統一して、国柱会を設立
 した。
  名称は、日蓮の著『開目抄』にある「われ日本(にほん)
 の柱とならん」に由来する。
  法華経と国体との一体化を説いた。
  『法華経(ほけきょう)』を信行(しんぎょう)し、日
 本国体を開顕(かいけん)し、立正安国の真世界を目ざす
 ことにあり・・、
  在家仏教の立場から、仏教改革を提唱、実践した。
  その独自の日蓮主義は、高山樗牛(ちょぎゅう)らに影
 響をあたえ・・、
  伊勢丹(いせたん)創業者の初代小菅丹治(こすげたんじ)
 らも内外から教勢の発展に努めた。
  著名な会員に、石原莞爾(いしはらかんじ)、宮沢賢治
 らがいる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:人類救済のためにも・・無くさなければならない
   宗教となっている。
.
  キリスト教は、『有色人種の蔑視教義』で、長い歴史
 に渡って、有色人種を殺戮して来た。
  キリスト教聖書で、神が叫ぶ、「奴隷にせよ」・・と、
  奴隷に関するキリスト教の卑劣な教義も、キリスト教
 の聖書に書かれているが故に・・、
  記されたところが聖書ゆえに、人類の歴史にその奴隷
 制が、消えることなく続き、卑劣な行為が行われて来た。
  特に、アフリカの黒人の方々が、酷(ひど)い扱いを
 受けた。
  可哀想な人々であった・・、
  行為者は白人・・、
  キリスト教が洗脳した『肌の色の違い』で、悪行為が
 さも、正義の行為のように錯覚されて・・行われた・・
 そして・・
  アメリカに連れて行かれるその船倉で、その船底で、
  船倉が、赤道を越えて行く長旅である為・・、
  人間の生きていられる様な状況でないため・・環境で
 はないため・・、
  その様な劣悪な環境の中で、多くの黒人の方々は亡く
 なって行った。
  そして、生き残って・・行き着いたアメリカ合衆国で、
 長い長い期間、反省が行われるわけではなく・・家畜同
 然の扱いを受ける・・卑劣な扱いを受けた。
  また、キリスト教の卑劣な考え方・・、
  「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」
 という・・、
  キリスト教のこの考え方・教義で・・、
  何人の方々が。。正義だと言って殺され・・亡くなっ
 たというのであろうか?
  南米・中米・北米で・・、
  また、その離島で・・、
  多くのインディオの方々が・・、
  そして、インディアンの方々が・・、
  スペインのキリスト教徒、および、キリスト教の聖職
 者たちに・・、
  50年間にも渡る、また、長い期間に渡る殺戮で・・、
  1000万人もの方々が・・殺戮された。
  また、アメリカ合衆国で、インディアンの方々が・・、
  そして、カナダの地でも、インディアンの方々が・・、
  殺戮された。
  卑劣な有色人種の蔑視のキリスト教の教義・考え方・・
  この教義・考え方かから、この様な卑劣な行為がなさ
 れて来た。
  今・現在、キリスト教を説明する書物は・・、
  キリスト教が破たんに満ちていることを記している・・
  それらの、教義の崩壊の声に満ち満ちている。
  すべての書籍が、キリスト教が最終段階であるのを指
 摘している。
  そして、弱弱しく言う、「自分たちの肯定する歴史的
 な事実に基づこう」・・と・・、
  したがって、その歴史的な事実が覆(くつがえ)され
 れば・・、キリスト教のそのすべてが成り立たなくなる。
  キリスト教学者は、涙ぐましい努力をしている・・が、
  その努力は・・覆される結果となっている。
  そして、言う・・、
  「キリスト教徒は、自身の信仰の墓穴を掘る様な事が
 あるかもしれないが、客観的かつ冷静に行なおう」と・・、
  そして、また、言う・・、
  「過去にキリスト教研究者は、勇気を奮(ふる)い起
 こし、大胆に、(キリスト教を守る)防衛努力をした・・と、
  崩されたキリスト教の過去の栄光の歴史の立て直しの
 『防衛的努力』がなされた」・・と、
  崩される例が多いが、防衛努力をしたと、それをしよ
 うと言う・・、
  しかし、そのほとんどが、むなしい結果に終わった。
  19世紀のイギリスの神学者で枢機卿だったジョン・ヘ
 ンリー・ニューマンは、
  自分の研究結果が、あまりに無残なため、自分の研究
 結果である「理性の時代」を、
  神学校の学生を守るため(読ませられないため)(見
 せられないため)、その研究結果の書類を、金庫にしま
 って、鍵をかけてしまった・・という・・、
  今、キリスト教の史家や研究者は、そうする限界を認
 めている・・、
  (研究しても良い結果は得られない・・と)。
  そして、それは、同時に、それは、信じている宗教の
 破壊につながることも理解している・・と言っている・・、
.
  そして、次の話・・、
  イエスには弟たちが居たが、その一人・ヤコブが・・、
  原始キリスト教の信徒の中で揉(も)めていた事で、
 解決の為の意見を言った。
  これが、初めての教会会議だったと言う・・が、
  それは、『ユダヤ教の食事と性行為に関するいくつか
 は認めよう』となった、
  そして、『それを守ろう』となった。
  この事は、満場一致で皆の総意となった。
  この決定に、特に、アンティオキア派の信徒は、喜ん
 だ。
  パウロも認めた。
  これが、キリスト教の教会会議の『総意』の最初の記
 録となっている。
  この後の、キリスト教の最高会議であるローマ法王も
 出る公会議では・・、
  異論は「異端だ」とレッテルが張られ、死刑に処せら
 れ、そして、追放された。
  全教会一致の会議、整合一体化の神秘体の宗教と、意
 味不明な自画自讃がなされた。
  そして、説明ができなくなると「精霊」が出て来た。
  そして、「精霊が命ずる」となる。
  この様な決定の経過が辿られて「全教会一致の会議」
 の宗教となっている。
  こんな事だから、腹の底では納得していない。
  パウロでさえ『違う事』を伝えている。
  パウロも、腹の底では違う事を考えていたのだ・・、
  キリスト教の宗教の構造が、この様なものだから、あ
 ちこちで不一致にあふれるた・・、
  「全教会一致の強引な決定の美」がなされた・・、
  その「おまじない」の様な決定は、あちこちで、その
 ため逆に、不一致を生み出していた。
  パウロの行なった例の様に・・。
  今・現代になって、その不一致の結果が、修復できな
 い、収拾できない、混乱を収めることが出来ない事態と
 なって表れている。
  研究者や史家も、お手上げの状態となっている。
  そして、崩壊へ向かっていると研究者たちから言われ
 ている。
.
  そして、次の話・・、
  キリスト教徒で学者の田川健三氏は言う・・、
  「2000年の間、これだけ広まれば、悪い所もあるだろ
 う」・・と、尻をまくった言い方をする・・、
  その説明のはじめから・・完全に信じてはいない。
  「数多くの害悪も流してきた」・・と、胡散臭い(う
 さんくさい)所もある・・と言う。
  そして、「くだらない部分も大量にある」・・と、田
 川氏は言う。
  そして、氏は言う、「だが、せっかくだから、何か汲
 (く)み取りたいところを見つけたい」・・と、
  キリスト教は、この様な状態になっている。
  最後のあがき的な宗教となっている。
  キリスト教から、離れなさい・・、
  そして・・、
  人類救済のためにも、キリスト教は無くさなければ・・
 ならない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年8月26日金曜日

(増補版)408E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)408E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、その他:
・往復ハガキ発売(1月)
・電信料金、全国均一制
  1870年(明治3年)6月、前島密によって建議され、
  1871年4月20日(明治4年3月1日)スタートし、
  当初、この事業部署は「駅逓司」といい、本拠は、現
 在の日本橋郵便局の位置で、搬送に郵便馬車が活躍した。
  業務の多角化、取扱量の増大、国際化の進展によって、
 郵便事業の重要性は、年ごとに高まって行った。
  1885年(明治18年)12月、電信電話事業も包含する「
 逓信省」が創設された。
  郵便局のシンボルマーク「〒」は、1887年(明治20年)
 に、逓信省全般の記章として制定した。
  〒は、逓信の頭文字のTとテをロゴ化したもの。
・国産の石盤ができる。
  石盤(せきばん)は、粘板岩などを薄い板に加工して
 木の枠をつけたもので、
  蠟石(ろうせき)、白墨などを用いて文字や絵をかき、
 学用品として用いられていた。
  ペン筆記用加工紙の、普及前の欧米で用いられていた
 石盤slateが、明治初年、日本に導入され、
  和紙が、手工芸品として比較的高価であったことと、
 唯一の筆記具であった毛筆が、低年齢児には取り扱いに
 くいことのために、
  小学校、幼稚園での初学用具として、広く用いられる
 ようになった。
・除虫菊栽培はじまる。
  この年、玉利喜造が、アメリカから除虫菊の種子を持
 ち帰り、それを東京・駒場の東京農林学校農場で栽培し
 たのが最初。
  アメリカでは、19世紀後半から大規模に栽培されるよ
 うになっていた。
  ピレトリンを抽出し、粉剤や液剤にして、農業害虫に
 たいしても使用した。
  (参照:農薬工業会ホームページより抜書き)
・東京感化院創立
  この年に、高瀬真卿(たかせしんけい)によって、日
 本最初の組織的な少年感化院が設立された。
  高瀬真卿は、明治~大正時代のジャーナリスト、社会
 事業家で、
  仙台で「東北毎日新聞」を発刊し、自由民権論をとな
 えた。
  東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
 化が行なわれた。
1885年1月1日、往復はがき、初めて発行される。
  往復ハガキの通用が始まる。
1885年1月1日、東京日日新聞が、勢力挽回のため、我が国
 ではじめて、朝夕刊発行をはじめた。
  しかし、1年間、試みたが形勢は変わらなかった。
  無休刊制も導入した。
  この新聞は、毎日新聞(東京)の前身で、1872年2月21
 日に、創刊された日刊紙。
  江藤新平らが後援した。
  1874年末に入社した福地桜痴(おうち)が、社説欄を
 創設し、政府御用新聞としての立場を鮮明に打ち出し、
  自由民権派の政論新聞に対抗して健筆をふるった。
  1911年(明治44年)に、大阪毎日新聞に買収された。
1885年1月6日、国道の等級を廃止し、幅7間以上を国道と
 定めた。
  以下は、明治18年(1885年)の国道と現在の国道の例
 (路線名)1号、(明治18年当時の区間)日本橋~横浜港
        (現在の起終点)東京都中央区~大阪市
 (路線名)2号     日本橋~大阪港(横浜までは1号)
        (現在の起終点)大阪市~北九州市
 (路線名)3号     日本橋~神戸港(大阪までは2号)
        (現在の起終点)北九州市~鹿児島市
 (路線名)9号     日本橋~伊勢皇太神宮
        (現在の起終点)京都市~下関市
 (路線名)11号     日本橋~熊本鎮台
        (現在の起終点)徳島市~松山市
 (路線名)44号     日本橋~沖縄県(那覇)
        (現在の起終点)釧路市~根室市
         (参照:国土交通省ホームページ)
1885年1月6日、東京の万世橋際に駅逓局東京貯金預所が新
 設された。
  この年の郵便の特記すべき事柄は・・、
  ・電信為替・郵便小為替が創設される。
  ・日本郵船会社に郵便物の逓送が委託される。
  ・汽車郵便逓送規則が制定される。  
  ・逓信省が創設され,初代逓信大臣として榎本武揚が
   選ばれる。 
  そして・・、
  この年・1875年(明治8年)5月、日本の郵便貯金制度
 が始まった。
  前島密が、イギリス滞在中に、郵便貯金が国民の生活
 や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、
  日本でも取り入れることにした。
  創業時は、「郵便貯金」ではなく、単に「貯金」と呼
 ばれた。
  1880年(明治13年)、民間銀行との混乱を避けるため
 「駅逓局貯金」という名称に改め、
  1887年(明治20年)以降に、「郵便貯金」になった。
   郵便貯金制度の開始に当たり、最初の郵便貯金通帳が
 作られ、
  当時の名称は、「貯金預渡通帳」だったが、
  1885年(明治18年)に、「駅逓貯金通帳」に改めた。
  そして、1889年(明治22年)、「郵便貯金通帳」とい
 う名称になった。
  (郵政博物館ホームページより抜書き)
1885年1月9日、甲申事變善後約定(1月7日説あり)
  井上馨・全権公使、甲申事変に関する漢城条約締結。
  特命全権大使・井上馨、韓国全権大臣・金宏集と談判、
 朝鮮王国と甲申事変に関する漢城条約に調印。
  我要求五事を約す。
  交渉は、互いの主張があり、平行線を辿った、全権大
 使の井上馨は、すみやかに両国関係を修復する事が、第
 一義(だいいちぎ、最も大切な根本的な意義)で大切だ
 として、打開すべく、明らかな被害・日本側の被害に関
 する事のみにして(他を棚上げして)解決を見た。
  第一款:朝鮮国は、国書をもって日本国に謝罪を表明
     すること。
  第二款:日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する
     見舞金、及び暴徒に略奪された商人の貨物の補
     填として、朝鮮国より11万円を支給すること。
  第三款:磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正
     しく処罰すること。
  第四款:日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮
     国が代替の土地と建物を交付しそれに充てるこ
     と。
     また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を
     支給し、工費に充てること。
  (朝鮮側が減額を望んだので、井上馨は、その意を汲
  んで、既存の建物を改修して用いるという修正案に改
  めた)。
  第五款:公使館護衛兵用の兵営は、新しい公使館に相
     応しい場所に移動し、その建設と修繕は、済物
     浦条約第五款の通り朝鮮政府が施行すること。
1885年1月10日、朝鮮国との交渉を行っていた井上馨帰国。
  金宏集朝鮮全権が、井上馨に、亡命した金玉均らの引
 き渡しを要求した。
  金玉均は、日本の明治維新を模範としたいとして、
  また、清朝(中国)からの独立をしたいとした。
  そして、朝鮮の近代化を目指したいとした。
  1883年には、借款交渉のため日本へ渡り、
  翌年・1884年4月に、帰国。
  清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始した
 のを好機と見て、
  1884年12月に、日本公使・竹添進一郎の協力も得て、
 閔氏政権打倒の甲申事変を起こした。
  しかし、清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終わ
 った。
  井上角五郎らが助けて、日本に亡命した。
  日本亡命中には、岩田秋作と名乗っていた。
1885年1月11日、井上馨が、金玉均らの朝鮮引き渡しを拒否
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHK・・ひたすら日本を悪く言い続ける
    (国を売る放送局)
.
  キリスト教に偏するNHKの元職員・池上彰は・・、
  アメリカの原爆投下について、今ではアメリカのプロパ
 ガンダの嘘話とはっきりなっていることを、今・現時点
 でも、その嘘を言い続けている。
  「日本を売る話」を、そして、「日本を悪く言う嘘の
 話」を、
  さも、テレビ解説だと・・真実そうにみえるやり方で
 言っている。
  その様な行為は・・NHKも、同じやり方で「日本を
 売り」「日本を悪く言っている」。
  NHKの元職員・池上彰は、このNHKの行動に洗脳
 され、マインド・コントロールされている。
  NHKの、最も悪い所は、「嘘と、屁理屈で、ひたす
 ら日本だけの悪い所を言い続けること」だ、
  ひねくれた言い方で、公平な言い方はしていない。
  公正で、公平であるべき放送局が、そうではない。
  日本の公共放送で、日本の放送局の模範となるべき放
 送局なのに・・そうではない。
  NHKは、あまりに大きな放送媒体であるので・・、
 「自制が効かない」、
  また、その大きさから、自分の身を顧(かえり)みる
 事ができない。
  そして、「これでいいのだという・・増上慢に陥(お
 ちい)っている」。
  NHKは、競争状態に置くべきだ。
  無競争の状態で、のほほんと、また、高給を貪(むさ
 ぼ)っている・・、
  そのため・・甘い職場になっている。
  例えば、東地区と西地区に分割し、「東NHK(HN
 HK)」と「西NHK(NNHK)」とに分割すべきだ。
  切磋琢磨する形態に・・分離すべきだ。
  NHKの酷い事例の1例・・、
  その言い方があまりにも屁理屈で、酷い・・
  広島や、長崎に原爆が落ちたのは『自業自得だ』的に
 言う。
  元NHK職員の池上彰は・・「ハワイの真珠湾攻撃を
 したからだ」と言ったが・・、
  NHKは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたから
 だ」と言った。
  NHKという放送局は、よく「中国へのごますり放送」
 をするが・・、
  この時、NHKは、原爆が投下されたのは、中国の爆
 撃をしたからだと・・放送で言った。
  NHKは、さも、アメリカによる「東京大空襲の無差
 別爆撃」も・・、
  「大阪の無差別爆撃」も・・、
  「日本の各地の都市の無差別爆撃」も・・、
  皆、この中国のこの爆撃行為が原因だ・・のような言
 い方である。
  まず、規模が格段に違うではないか?
  日本の爆撃は、些細な爆撃であったのだ・・、
  NHKの言い方は・・例えば・・さも、グレタあんち
 ゃんが、「お前が、先に手を出した」「俺につっかかっ
 た」から、「刺したんだ」と言うがごときである。
  些細なことを、言いがかりにして、大罪の言い訳にす
 るという不合理さをである。
  大のNHKが、常識がありそうなNHKが、この様な
 屁理屈論理で・・放送をしている。
  まったく、馬鹿々々しい公共放送である。
  こんな言い方が、世の中で通るのなら、世の中が、ま
 ったく恐ろしい世の中になってしまう。
  些細なことで、簡単に人が傷つけられてしまう。
  NHKは、世の中に、『こんな風潮をばらまいている』。
  こんな簡単な論理が解らないで、NHKは、マスメデ
 ィアを繰り・・、
  そして、大きな放送媒体を利用する、利用できるとい
 う立場にいる。
  常識が、まったく無い輩に、分からない輩に、大きな
 影響力を持たせているという状態になっている。
  無分別(むふんべつ、思慮がなく軽率なこと)な輩に、
 人類の文明の利器を与えていると・・言える。
  NHKも、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送をしているという自制心、自制の念を持て。
  軽薄な、今のNHKは、些細なことで人を殺すような
 論理と同じ論理を振り撒いている。
  NHKは、この様な放送をする前に、爆撃というもの
 を少しは勉強したのだろうか?
  既に、スペイン戦争で、空爆で、嫌と言うほど爆弾投
 下したのが、1936年~1939年・・NHK、知っていまし
 たか?。
  NHKが言う、日本の『重慶爆撃』は、1938年12月4日~
 1943年8月23日で、そのスペイン戦争の8年も後の事であ
 る・・知っていましたか? NHK!。
  完全に、スペイン戦争の方が早い。
  中国に落とした僅かな爆弾が・・どういう理由で、原
 爆になり、アメリカが、日本に落とす事になるのだ・・
 NHKよ!はっきり説明して戴きたい。
  何故?このスペインに落とさなかったのだ・・NHK
 よ!説明しなさい。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で
 も、既に、行なわれていた・・知っていたか?、NHK!。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  これには、原爆を落とす罪ではないのですか? NH
 K!
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している・・どうです? NHK!
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手り
 ゅう弾を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したなんて言えないくらい。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙ったという。
  くだらない論理を言って、屁理屈を言って、NHKは、
 日本国民へ下らない放送をして、日本の国を貶(おとし)
 めている。
..
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