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2016年12月14日水曜日

(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月13日、帝国大学文科大学哲学科に精神物理学(
 実験心理学)科目が新設された。
  この年、元良、日本人心理学者として初の博士号取得。
  元良帰国。
  帝国大学文科大学哲学科で「精神物理学」を担当した。
  東京大学文学部心理学研究室、初代教授・元良勇次郎
 先生(在任期間:1890年~1912年、在任中に没する)
  また、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部のホ
 ームページには、以下の興味を引く記述がある。
  心理学は、実に多くの領域と境を接している。
  心理学は、人間の心的、知的な機能を探求するそれ自
 体独立した基礎的な学問である。
  また、一方で「こころ」とは何かということを考える
 と哲学と関わらなければならない。
  生物学的な諸領域、医学とも密接に関連している。
  さらに、電子工学、情報工学など人間の使う機械を作
 り、また、人間の機能を代行する機械を作ろうとする領
 域とも関わっている。
  本研究室では、こうした幅広い領域に関わる心理学と
 いう学問を実験という実証的な手法で取り組む学風を持
 っており、知覚・注意・記憶・思考などの心理現象を精
 神物理学的手法・神経科学的手法・認知科学的手法によ
 って研究している。
  また、文化認識や科学方法論などについても研究を行
 っている。
  したがって本研究室出身の研究者は心理学のみならず、
 幅広い隣接分野において活躍しているものも少なくない。
1888年10月14日、自由民権運動の大同団結民権派の385人が、
 大阪で懇談会を開催した。
  1888年、後藤は、大同団結を唱えて地方遊説を行い、
 雑誌『政論』を発行し、地方名望家層の政党への組織化
 を図った。
  しかし、改進党系の多くは、この動きに加わらず、独
 自の組織化に着手したため、旧自由党系中心の運動に転
 化した。
  1889年3月、しかも、後藤自身が逓(てい)相に就任し、
 運動から退くと、直前の恩赦で多くの有力民権家が出獄
 し指導者に迎えられたこともあって、運動は分裂し、
  大同倶楽部と大同協和会が発足した。
  ここに、大同団結運動は完全に終焉した。
  民党連合の基礎をつくった意義はあった。[
  (1886年末~1889年に、民権派による反政府統一運動)
  1889年、後藤象二郎の黒田内閣入閣で挫折した。
1888年10月14日、皇城二重橋の架替が竣工した。
  二ヵ年を要し、鉄橋として架け替えられ竣工した。
  但し、二重橋と名付けられた経緯には、諸説があるの
 で注意を要す。
  因みに、鉄橋の手前に、1887年に完工した石橋(西ノ
 丸大手橋)があり、
  郵政省は切手のデザインにおいて「二重橋(石橋・鉄
 橋)」と記している。
1888年10月21日、井上毅(いのうえこわし)が、憲法にお
 ける軍隊編成権や議会予算議定権の問題をモッセとロエ
 スレルに質問する。
  1881年、明治政府がプロイセン流立憲主義に転換し(
 明治十四年の政変)、
  井上毅が、憲法の草案を作成したが、その草案は、多
 くロエスレルの討議、指導によるものだったとされる。
  彼の提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが受け
 入れられ、大日本帝国憲法となった。
  カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル(1834
 年12月18日~1894年12月2日)は、ドイツの法学者・経済
 学者で、
  明治の日本でお雇い外国人の一人として活動した。
  アルベルト・モッセ(1846年10月1日~1925年5月31日)
 も、ドイツの法律家で、お雇い外国人として日本に招か
 れた一人。
  伊藤博文ら、日本から調査に訪れた代表たちに、1882
 年~1883年にかけて、師のルドルフ・フォン・グナイス
 トと共に講義を行った。
  1886年(明治19年)に訪日し、モッセ以前にヘルマン・
 レースラーが既に招聘されていたが、モッセの憲法制定
 や地方制度の創設への貢献の方がより実質的な影響を与
 え、それ故に、「明治憲法の父」と言われている。
1888年10月27日、皇城を「宮城」と改称した。
  皇城西の丸に、新宮殿全体が落成し、
  「宮城〔きゅうじょう〕」と呼ぶ告示が出された。
  (明治宮殿落成し皇城を宮城と改称)
1888年10月27日、深川骸炭所が操業を開始した。
  古河鉱業会社の深川骸炭所が竣工して、操業を開始し
 た。
  コークスの製造とその品質向上、そして、それに対応
 する優れた高炉に努力した技術者が、技師・福岡健良氏
 (深川骸炭所、コークス製造)と、野呂景義氏(釜石・
 八幡のコークス高炉に成功)だった。
  国が豊かになり、強くなる、富国強兵の元にある鉄・・
 その鉄の品質を左右するのが、還元剤だった。
  木炭に代わって、石炭を乾留したコークスが、高炉に
 おける還元剤として、英国で誕生して約300年が経過し、
  その間にも、高炉も目覚ましい発展を遂げた。
  そして、その発展を支えたのは・・スムースな炉内の
 ガス流れを可能とするコークスの品質であった。
  そして、その大切なポジションを占めていたのが・・
 官営製鉄所の「釜石」「八幡」だった。
  そこを支えたのが、望ましいコークスの生産だった。
  これが無ければ、建物も、工場も、艦船もできない。
  しかし、涙ぐましい失敗と汗があった・・、
  日本人の真面目さと優秀さと『頑張り』があった・・、
  国の基本は、すべてここからスタートした・・、
  公共放送・NHKは、『頑張らない』をキャンペーン
 放送した・・本当に、国を堕落させる放送を、長い期間
 に渡って行なった・・頑張ることを否定した・・
1888年10月28日、四国初の鉄道の伊予鉄道の松山~三津ヵ浜
 間開通 
  1887年9月14日に、民営としては日本で2番目の伊予鉄
 道会社が創立された。
  そして、この日・1888年10月28日に、松山(後の外側、
 再び松山)~三津間で、鉄道が開業された。
  因みに、2001年(平成13年) 10月12日から、松山市内
 線で「坊っちゃん列車」レプリカ運行が開始されている。
1888年10月28日、東京音楽学校(旧制)が、5線譜表記の箏
 曲集を出した。
  1887年10月4日、東京音楽学校が、東京府下谷区(現在
 の台東区の西部)に設立され、官立(唯一)の音楽専門
 学校だった。
  (参考:下谷区と浅草区が台東区になった)。
  文部省大臣官房直属の機関であった音楽取調掛の掛長
 であった伊沢修二の他、菊池大麓・外山正一・穂積陳重
 ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ
 付建議」に基づいて、同掛を改称し設置された。
  伊沢が、事実上の初代校長に就任した。
  その後、奏楽堂を含む校舎が新築され(現在は上野公
 園内に移設)、
  1890年5月12日に、開校された。
  日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関
 で、当初、西洋音楽の教育を中心とした。
  修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科、および、
 3年制の専修科)から構成された。
  しかし、翌年・1891年には、早くも、国費節減と関連
 して帝国議会で存廃論議が起こり・・、
  1893年6月、高等師範学校に移管され、附属学校に格下
 げされたが、
  1899年には、伊沢らを中心に再び独立し、
  1900年には、学科を再編成して5科とし、以後、新制
 移行までこの体制が基本的に存続した
  1949年5月、学制改革にともない発足した新制の東京
 芸術大学音楽学部の構成母体となった。
  因みに、奏楽堂は、上記のように東京音楽学校の校舎
 として、1890年(明治23年)に建造され、
  日本における音楽教育の中心的な役割を担って来た。
  2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、
 山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペ
 ラ公演でデビューを飾った。
  創建から80年近く経過した昭和40年代(1965~)に入る
 と、建物の老朽化が目立つようになり、
  校舎を都外へ移設する構想が持ち上がったが、1983年(
 昭和58年)に、台東区が東京藝術大学から譲り受けること
 となった。
  そして、1987年(昭和62年)現在の地(上野公園内)へ
 校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として
 一般への公開を開始した。
  さらに、1988年(昭和63年)には、日本最古の洋式音楽
 ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けた。
ました。
  尚、現在、保存工事のため休館中、再開は平成30年度の
 予定。
1888年10月28日、清国が、日清条約改正交渉の一時中止と
 将来の再開を了承(りょうしょう、承知すること)した。
1888年10月30日、帝国大学(後の東京大学)に、臨時編年
 史編纂掛(史料編纂係)が設置された。
  1793年(寛政5年)、国学者の塙保己一は、幕府の援助
   をうけて和学講談所を開設した。
    そして、明治となり、政府の修史事業は、この事
   業を引き継ぐかたちで始められた。
  1869年(明治2年)3月、和学講談所跡(現:千代田区
   六番町)に史料編輯国史校正局が開設された。
  1869年4月、明治天皇陛下は、三条実美に宸筆の勅書を
   下し、同局の総裁に任じた。
  1872年(明治5年)、太政官正院に歴史課が設けられた。
    ついで、修史局として内務省地誌課を合併し、修
   史館となった。
    内閣制度の成立とともに臨時修史局となった。
  1888年(明治21年)10月、帝国大学に国史科を創設す
   るに際して、修史事業は帝国大学に移管された。
    当初は、臨時編年史編纂掛と呼ばれた。
  1893年(明治26年)、編年史の形の編纂事業は停止さ
   れた。
    代わって、外国人教師ルートヴィヒ・リースの意
   見をいれて、蒐集した史料自体を編纂刊行すること
   となった。
  1895年(明治28年)、帝国大学文科大学に史料編纂掛
   が設置された。
  1901年(明治34年)最初の成果である『大日本史料』
   『大日本古文書』が発刊された。
  1906 年(明治39年)外務省から『幕末外国関係文書』
   編纂の事業を引き継いだ。
  1929年(昭和4年)現在の史料編纂所という名称になっ
   た。
  1949年(昭和24年)文部省から維新史料編纂事業を引
   き継いだ。。
  (東京大学史料編纂所・ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年の話・・、
    TPPについて・・他
   『アジアの成長を取り込む』・・これは『嘘』
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が
 署名された。
  この協定が論議された時、「グローバリズム」の議論
 が花盛りだった。
  これは、結局、大きな国が有利になる論理で、小さな
 国が大きな国に飲み込まれるという大国主義なのである。
  また、超巨大なアメリカの多国籍企業(ポンと大金を
 政治献金する企業)に都合の良い考え方である。
  因みに、巷(ちまた)の話的であるが・・、200億円を
 『好きに使いなさい』と選挙の時にポンと出す、つまり、
 アメリカの政治が、200億円で買える的な話も・・ある。
  国力の大きさに依拠して、その意思を対外的に押し通
 そうとする大国の行動様式なのである。
  その問題点に気付いたアメリカの方々が増えている。
  「拝金的な金の亡者」だけにはなりたくない・・と、
 また、「グローバリズム一点張り」ではないのだ・・と
 気付いたのだった。
  「アイデンティティが破壊されるではないか」・・と
 気付いたのだった。
  アメリカだって、その固有の国民性が崩壊する事に対
 し、当然、そうなって欲しくないと思っているのだと、
  家族を愛し、家族を大切にし、郷土を愛し、郷土を大
 切にし、愛国心を大切に思い、この様なアイデンティテ
 ィを大切にする、本来のナショナリズムを大切にする・
 ・その様な国でもあるのだ・・と、本来のナショナリズ
 ムを大切にする国なのだ・・と、その大切さが語られる
 国なのだ・・と・・、
  極限状態なら、特に、国を思う人たちの国なのだ・・
 と・・、
  日本の真珠湾攻撃を・・「奇襲だ」と嘘の話をでっち
 上げられて・・、
  参戦する事に、国論が急に沸き上がったアメリカのご
 とくだった・・、
  攻められたアメリカを思うアメリカ国民の方々だった。
  グローバリズムは、今までの歴史では・・、
  サイクル的に・・、
  湧きあがったり、低調になったりを・・繰り返して来
 た。
  ・・が、今、グローバリズムは、下り坂を・・下り始
 めている。
  郷土を愛し、国を愛し、家族を愛し、本来のナショナ
 リズムを大切にして行く方向へと・・流れは変わり・・
 流れている・・、
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が、
 署名された。
  日本でよく言われているTPPに加盟した場合、「ア
 ジアの成長を取り込める」というのは・・嘘である。
  参加国は・・、
  (1)アメリカ合衆国(14兆2646億ドル)(58.8%)、
  (2)日本(5兆4589億ドル)(22.5%)、
  (3)カナダ(1兆5109億ドル)(6.2%)、
  (4)メキシコ(1兆881億ドル)(4.5%)、
  (5)オーストラリア(1兆106億ドル)(4.2%)、
  (6)マレーシア(2222億ドル)(0.9%)、
  (7)シンガポール(1819億ドル)(0.7%)、
  (8)チリ(1695億ドル)(0.7%)、
  (9)ニュージーランド(1284億ドル)(0.5%)、
  (10)ペルー(1275億ドル)(0.5%)、
  (11)ベトナム(898億ドル)(0.4%)、
  (12)ブルネイ(145億ドル)(0.1%)、 
    計 24兆2669億ドル(100%)
  ()はGDPで大きい順に記した、単位:億ドル、
  TPPに加盟した場合、TPPがもたらす各国の経済成長率
 への影響には『ばらつきがある』。
  10年間で、経済成長率をどれだけ底上げするかについ
 ては、ラテンアメリカ諸国や東南アジア諸国では、10年
 間で2%以上の押し上げになる。
  (それでも単年度で見れば0.2~0.3%程度の押し上げで
 しかない)
  一方、日本やアメリカでは、何と・・TPPは、経済成長
 にマイナスに作用してしまうと予測されている。
  TPPに加盟してアジアの成長を取り込むという主張があ
 るが、日本やアメリカは、取り込むどころか取り込まれ
 てしまう。
  アメリカは独裁的だ。
  「民主主義を植え付けるのだ」と、戦争を始めた。
  「まったく、民主主義的ではない論理」を掲げて、民
 主主義と見せかけ、誤解させて、戦争を始めた・・、
  民主主義ではない民主主義の陰に隠れて、戦争を始め
 た・・、
  そして、強大な軍事力で、何も罪のない人々を殺戮し
 て行った。
  やっている事は、独裁的だった。
  独裁国家の行為だった。
  「関税が無いことが、良いのだ」という自分の都合の
 良い規則を、さも正しい様に言う(トランプ氏になって
 変わったが・・)
  「関税は、誰もが自由に決められる」という国際規約
 を間違いだという。
  「関税は、自由に決めてはいけないのだ」・・と、「0
 パーセントが良いのだ」と、関税を固定しようと主張し
 ている。
  そして、それを、他国に押し付けている。
  俺が言うのが正しいのだ・・と・・、
  「関税自主権を認めないアメリカ」となっている。
  独裁国家となっている。
  さらに、この独裁国家は、国際的に公表しなければな
 らない事を公表するなと言った。
  だから、国際社会に公表されたTPP資料は、「墨を
 塗りまくった真っ黒の史料だった」。
  結局、秘密だらけで、TPPは決めてしまおうという。
  アメリカという国は、今・現在でも、言いたい放題の
 国、やりたい放題の国・・自国の論理で・・、
  そして、結局、自分の言う事を聞かない国は敵国だと
 来る。
  キリスト教の最高の会議である公会議が、ローマ法王
 の出る公会議が、
  自分の言う事を反対したら「異端だ」と決めつけ、殺
 したり、追放したりしたが・・、
  その迫害と同じことをしている。
  今・現在、アメリカ大統領の二人の候補者の方々は、
 どちらも、「TPPに反対」だという。
  このことからも、甘利さんの頑張りが見えて来る。
  甘利さんの人材を失うは・・惜しい・・、
.
2016年11月20日、オバマ外交、寂しい最後。
  「リマ発」、オバマ米大統領は20日、アジア太平洋経
 済協力会議(APEC)首脳会議の一連の日程を終え、
 任期最後の外遊を締めくくった。(中略)
  「次期大統領に最も伝えたい事は、米国は世界秩序に
 欠くことの出来ない国家であるということだ」・・
  米国が超大国として担う特別な役割を強調した。
  ・・「力の行使」ではなく、「力の抑制」に重点を置
 いたところに特徴がある。
  「世界唯一の超大国が、進んでその力を抑制し、国際
 的に合意された行動規範に従ってこそ、これは従う価値
 のある規則なのだというメッセージを発する事が出来る」
  (中略)
  前任のブッシュ政権が、国際法上の正当性を曖昧にし
 たままイラクで軍事介入に踏み切り、それが国際秩序の
 混乱をもたらしたとの万感が根底にあった。
  (中略)
  トランプ氏の下で外交が内向きになるとの懸念が広が
 る。
  記者会見でオバマ大統領は、「世界の指導者と関われ
 ば国家の厳粛な責任に気付き、考え方の修正を迫られる」
 と願望の入り混じった思いを語った。
  (読売新聞、2016・11・22を参考にした)
.
2016年12月9日、この日の新聞、2題、アメリカ次期大統領
 トランプ氏が、フィリピンのドゥテルテ大統領に理解を
 示した、・・と、イギリス「EU離脱」を下院が動議可
 決した。
  前のトランプ氏の記事は、「麻薬対策を良くやってい
 る。今後も進めるべきだ」と、トランプ氏が、ドゥテル
 テ大統領を褒めた話。
  ドゥテルテ大統領は、「聖人になった気持ちだ」と喜
 んだという。
  そして、トランプ氏は、「関係を修復しよう」とドゥ
 テルテ大統領へ言った(電話会談)。
  後の記事のイギリスの件は、448対75の賛成多数でEU
 離脱を可決した。
  グローバリズムが、アメリカやNHK、キリスト教に
 よって意味なく美化されているが、
  キリスト教国・イタリアも、ポピュリズム(大衆迎合
 主義)の広がりで、経済が破綻(はたん)状況であると
 いう。
  不良債権を処理しないで放置で、根深い悪弊がはびこ
 っている状態だという。
  甘い話ばかりしないで、正業に就いて真面目に働きな
 さい。
  人を繰(く)って、甘い汁を吸おうという行為は止め
 よ。(読売新聞、2016.12.9を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月12日月曜日

(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年10月7日、新皇居(明治宮殿)が完成した。
  1868年(明治元年)から1869年(明治2年)に行われた
 東京奠都によって、旧江戸城西の丸御殿が皇居となった
 が、1873年に失火により西の丸御殿は焼失した。
  直ちに、新宮殿造営が政府により上奏されたものの、
 西南戦争の戦費等の財政負担も大きく、国内整備が先決
 との明治天皇陛下の御意向により、新宮殿造営は見送ら
 れた。
  このため、旧紀州藩江戸藩邸であった青山御所が仮皇
 居となった。
  しかし、青山御所では、儀式典礼に支障をきたすよう
 になったため、ようやく宮殿造営が勅許された。
  新しい宮殿(明治宮殿)は、旧江戸城西の丸に建設さ
 れることとなり、1888年(明治21年)10月7日に落成した。
  この明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(
 現皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大
 戦末期まで、皇室の中心的施設であった。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  北洋艦隊(ほくようかんたい)は、清国の海軍の主力
 艦隊で、李鴻章によって新式海軍が編制された。
  威海衛に基地を置き、
  『定遠』『鎮遠』など甲鉄砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装
 甲砲艦1隻を中心とした。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問し、海軍
 の戦備が劣っていた日本は衝撃を受けた。
  日清戦争において、大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(
 黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊
 滅した。
1888年10月9日、登記印紙規則が公布された。
  登記印紙は、この時・1888年に、発行されたのが最初
 であったが、
  1898年に、収入印紙に統合され、廃止された。
  しかし、登記に関する手数料の歳入が、登記特別会計
 として、1985年に独立したことに伴い、復活した。
  ただし、登記特別会計が、2010年度をもって廃止され、
 一般会計に組み込まれたため、
  2011年4月1日以降は、再び、収入印紙に統合され、新
 規の発行は中止された。
  既に発行された登記印紙は当面有効で、収入印紙と組
 み合わせての使用も可能である。
  登記法:戸長役場の公証は無料であったが、管理が不
 十分な場合があったため、明治政府は、全国的機関であ
 る裁判所が、不動産の公示を担当するのが適切であると
 して、
  1886年(明治19年)に「登記法」(明治19年8月13日法
 律1号)を制定した。
  「登記法」は、ドイツの登記制度を参考にして、物的
 編成主義を採用した。
  即ち、地券台帳に基づき、あらかじめ各筆ごとに用紙
 を準備し、所有権の移転や、担保権の設定がある都度、
 登記簿に記載することとした。
  また、登記をすることによって、直接利益を受ける者
 (登記権利者)と、登記をすることによって不利益を受
 ける者(登記義務者)とが共同してすることを要するも
 のとする共同申請主義を規定した。
  印紙税は、商取引等の背後に担税力(たんぜいりょく、
 課税対象となる個人や法人などが、実際に税負担を受け
 持つことができる能力の事を言う)があると想定し、
  これに関連して作成される文書に印紙を貼らせて課税
 するものであり、流通税(取引税)の一種。
  1873年(明治6年)「受取諸証文印紙貼用心得方規則」
 (明治6年太政官布告56号)により導入された。
  当初の内容は、証書類を金銭その他諸受取の第1類と、
 田地屋敷建屋売渡証文、借用金証文等の第2類に分け、
  後者は、10円以上に対しその金額に応じた段階的な税
 率(概ね1%)を賦課した。
  その後、数次にわたる改正を経て、
  1899年(明治32年)に「印紙税法」(明治32年法律54
 号)が制定され、現行の「印紙税法」(昭和42年5月31日
 法律23号)により全部改正されるまで施行された。
  登録免許税は、登記のための手数料的性格のものでは
 なく、不動産の権利の移転等の背後に担税力があると推
 定して課税する流通税(取引税)の一種。
  1871(明治2)年の地券交付以来、1889(明治22)年に
 廃止されるまで、地券の新規交付、売買による交付、書
 換ごとに地券証印税を課していた。
  1886年、「登記法」(明治19年法律1号)が制定され、
 登記に際して登記税が課せられるようになった。
  その後、日清戦争後の国費膨張に対処するため、同法
 は1896年(明治29年)に「登録税法」(明治29年法律27
 号)に改められ、
  「民法」が、1898年(明治31年)に施行されたのを受
 けて、翌年・1899年に「不動産登記法」(明治32年2月24
 日法律24号)が制定された。
  (明海大学・周藤利一教授の論文などを参考にした)
1888年10月9日、紫溟新報を改題し、九州日日新聞が創刊
 された。
  1882年に、紫溟新報が創刊され、
  1888年に、紫溟新報が、九州日日新聞と改題し、
  1942年(昭和17年)4月1日、第二次世界大戦による政
 府と軍部の「一県一紙令」により、熊本の2大紙「九州
 日日新聞」と「九州新聞」(政友会系)の2紙が合併して
 「熊本日日新聞」が朝夕刊セットで創刊された。
  1954年(昭和29年)8月1日、「猫てんかんで死滅、ネ
 ズミの激増で悲鳴」の見出しで水俣病を初めて報道した。
1888年10月10日、国会議事堂(仮議事堂)の起工式。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下の勅諭に
 よる国会開設の決定以来、議事堂の建築が建議されて来
 た。
  1885年(明治18年)に、内閣制度が発足すると議事堂
 建設の取り組みが始まった。
  1886年に、議事堂本建築の計画は、内閣に臨時建築局
 が設置され、ドイツ帝国から建築家を招聘し、
  官庁集中計画と議事堂の設計が成された(議事堂、お
 よび、中央官衙(かんが)建築に関する準備調査に着手)
  当初、ドイツのエンデ・ベックマン事務所により、本格
 的なネオ・バロック様式で計画されたが、
  1887年に、建築予定敷地を、現在位置(当時の麹町(こ
 うじまち)区永田町1丁目)とすることが閣議により決定
 されたが、
  官庁集中計画には多額の経費が必要であり、帝国議会
 の開設も切迫していたため、この計画による議事堂建築
 は中止された。
  具体的計画の立案は、この財政事情などの理由から大
 幅遅延となった。
  井上馨の失脚(1887年9月)も影響し、実現に至らなか
 った。
  しかし、1890年を期して「國會」(議会)を開く事が
 表明されていて、この第1帝国議会に間に合わせるため、
  1888年10月に、起工された。
  こうして、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が関
 一丁目、現在の経済産業省敷地)に仮議事堂が建設され
 た。
  ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー、および、
 臨時建築局技師・吉井茂則の設計による第一次仮議事堂
 は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24
 日に竣工した。
  1891年(明治24年)年1月20日、竣工の翌年の会期中の
 未明に、漏電により出火し、仮議事堂は全焼した。
  このため、貴族院仮議場として山下町の帝国ホテル食
 堂(当初は華族会館内・旧鹿鳴館)を、
  衆議院仮議場として、虎ノ門(とらのもん)の東京女学
 館(旧工部大学校)を使用し、急場をしのいだ。
  その後、吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェ
 の設計による第二次仮議事堂が、昼夜兼行の作業で再建
 され、
  同年・1891年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は
 11月21日召集)。
  しかしまた、1925年(大正14年)に、二度目の火災に
 遭う、そして、木造の仮議事堂を再建した。
  1894年8月、日清(にっしん)戦争が勃発に際し、広島
 市内に臨時の仮議事堂が突貫工事で建築され、
  同年・1894年10月14日に竣工し、
  翌年・1895年10月15日に召集された第7回(臨時)帝国
 議会が開かれた(東京以外の開会の唯一の事例)
  1897年、本建築化が浮上したが、財政事情などで頓挫
 した。
  1899年、議院建築調査会の設置をはじめ、敷地の調査、
 地盤調査、材料調査等も実施された。
  官民各界における、建築様式、設計方法などの議論も
 活発に行われながらも、
  数次にわたる計画の休止、延伸を繰り返した。
  1906年~1907年、日露戦争後には、仮議事堂の改修、
 および、本格的な議事堂の建設が浮上し、決まったが、
 財政事情と大正政変により、実施は延期された。
  1917年(大正6年)現議事堂への動きが始まった。
  当時の大蔵省に設置された議院建築調査会の発足と、
 それによる18年度からの予算計上により、ようやく設計
 着手の運びとなった。
  設計者については、朝野の多くの議論ののち、「建築
 意匠設計はこれを国内一般の懸賞競技に付する」ことが
 決定された。
  また、第一次、第二次仮議事堂の設計や、当初の本建
 築計画の際は、当時の日本の技術水準、不平等条約改正
 の政略面などから、外国人建築家の協力を受けていたが、
  技術力の充実、国威と国産の充実を図ることなどによ
 り、応募者は日本人のみとし、また、
  材料も、やむをえぬもの以外は国産品に限ることとし
 た。
  このような経過を経て・・、
  1918年(大正7年)9月になって、新議事堂の意匠が一
 般公募されることになった。
  翌年・1919年(大正8年)2月、設計競技による応募作
 品118通中、一次選考・二次選考の二段階方式の競技設計
 を通過した4図案が決定した。
  そして、その中から、宮内省技手の渡辺福三案(実際
 には、宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた。
  当選案の様式が、新旧各層の反発を呼び、
  とくに、下田菊太郎は議会に働きかけて〈帝冠併合式〉
 (欧風の壁体に和風屋根を載せる)の採用を請願し賛意を
 得た。
  結局、その設計案は参考とするにとどめ、
  大蔵省営繕(えいぜん)管財局(当初、臨時議院建築局。
 技師長・矢橋賢吉)の手により実施設計がまとめられ、
 デザインは大幅に変更された。
  1920年1月30日、着工、
  原敬内閣総理大臣などが参列して、現在地である永田
 町の高台において、地鎮祭を挙行、
  新議事堂の建設が始まった。
  1923年(大正12年)に、関東大震災に見舞われたが、
 建設中の新議事堂、および、第二次仮議事堂は無事だっ
 た。
  しかし、1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は、
 改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こし、焼
 失した。
  このため、政府は、第三次仮議事堂設置を決め、新議
 事堂の建設は、さらに遅延することになった。
  同年・1925年12月の開会の通常帝国議会に間に合うよ
 うに、仮議事堂が、9月29日に建設着手し、
  昼夜兼行の突貫工事で、わずか3か月で建設され、
  同年・1925年12月22日に完成した。
  1936年(昭和11年)、新議事堂の完成が近づいた2月26
 日には、二・二六事件が発生、
  陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。
  2月29日早朝に、武力による鎮圧が決定されると、東京
 湾御台場沖に、海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射
 撃の照準を合わせ、反乱軍を威嚇した。
  こうした苦難を経て、新議事堂が、広田弘毅内閣総理
 大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など
 約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、
  着工から実に17年を経た、1936年のことだった。
  1936年(昭和11年)11月7日、帝国議会議事堂として竣
 工し、完成した。
  敷地面積:10万3000平方メートル、建物平面積:1万3358
 平方メートル。
  第二次世界大戦を経て、1955年代・昭和30年代に入り、
 周辺の国有地が衆議院、および、参議院への移管される
 とともに、パレスハイツ(現最高裁判所庁舎)・ジェフ
 ァーソンハイツ(現衆参議長公邸)・リンカーンセンタ
 ー(現国土交通省庁舎)等の米軍接収地も返還が決まっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:冷戦に勝利したアメリカは、その後、本当に勝利したアメリカの道を歩んでいるのか?
.
1991年12月、ソ連が崩壊した。
  この時、ソビエト連邦共産党の解散を受けた各連邦構
 成共和国の主権国家としての独立と、
  ならびに、同年・1991年12月25日のソビエト連邦(ソ
 連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビ
 エト連邦が解体した。
  冷戦が終結した。
  冷戦に勝利したアメリカ。
  アメリカと競り合ったソ連は敗北した。
  しかし、アメリカは、冷戦に勝利しても軍事費を削減
 しなかった。
  他の国々が軍事費を削減している中でも、アメリカだ
 けは軍事費を削減しなかった。
  逆に、新しい兵器の開発をどんどん続けていた。
  ミサイルも、戦闘機も、駆逐艦も、宇宙兵器も、新し
 い世代の兵器を開発していた。
  アメリカの思惑は、『他の国に絶対にアメリカにチャ
 レンジできない国際環境を作ろう』・・という思惑だっ
 た。
  アメリカは、「アメリカだけが、アメリカという一極
 だけが、覇権を握る」だった、
  そして、「アメリカだけが、一極で・・覇権を握って
 いたい」だった。
  しかし、歴史はそう甘いもんじゃなかった・・「そう
 は問屋が卸(おろ)さなかった」。
  他のグループは、その様なアメリカへ・・金をかけて
 開発している兵器が使いずらい方法によって、「アメリ
 カへのチェレンジ」をして来た。
  アメリカの開発した最新兵器も無力化した。
  アメリカへのチャレンジは、「ゲリラ」や「テロ」で
 チャレンジされた。
  そして、また、その様なアメリカの国力は・・、アメ
 リカは、逆に、愚かなことに・・「そのアメリカの高額
 な・・そして、金を食う最新兵器開発費用」によって、
 アメリカ経済は疲弊した。
  この様な歴史は、「繰り返されていた」のである。
  アメリカの「軍事的な支配権を拡(ひろ)げたい」が、
 逆に、「国力消耗」を来たしていた。
  ハプスブルク王朝が、そうだった・・また、オスマン・
 トルコ帝国が、そうだった・・ナポレオンが、そうだっ
 た・・そして、19世紀のイギリスが、そうだった・・
  そして、20世紀後半のソ連が、前記の様にそうだった・・、
  そして、21世紀の今・現在、進行中の中国共産党政権・・
  1980年代後半から、アメリカは、世界一の借金国とな
 った。
  アメリカの紙幣・ドルが、世界の基軸通貨を良い事に、
  アメリカは、ドル紙幣の「紙っぴら」を刷り続けてい
 る。輪転機を廻し続けている。
  こんな事が、いつまでも・・続く訳がない。
  アメリカの真似ばかりをしている中国共産党政権もま
 た、このアメリカと同じことをし続けている。
  アメリカのレーガン大統領の時は、平均貯蓄率は12パ
 ーセントだった、
  しかし、ブッシュ(息子)大統領の時は、マイナス2パ
 ーセントと、マイナス域に入ってしまった。
  金がないのである。
  日本は、貢(みつ)がされているのである。
  日本企業が、ペテンの様な言い掛かりで、金をむしり
 取られているのである。
  アメリカの実質経済規模は世界経済の2割なのに、アメ
 リカの軍事費は、世界全体の軍事支出の5割~6割なので
 ある。
  異常なのである。
  アメリカの次期大統領のトランプ氏は、日本へもっと
 金を出せと言い、「軍事費を負担せよ」と言っている。
  日本が最高に協力しているのにである。
  日本の防衛予算(軍事費)は、今の倍にしないとだめ
 だと言われている。
  国の安全保障は大切だから、しっかり予算化して行か
 なければならない危険な状況にある今なのである。
  甘いことは言っていられない今なのである。
  理想論はその後にしなければならない今なのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月11日日曜日

(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)

題:(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年9月12日、地方制度編纂委員会が、府県制、郡制の法
 案を提出した(9月17日説あり)
  1884年(明治17年)、区町村会法の改正などにより数町
 村を単位とする連合戸長役場制が導入された。
  村々の連合による行政単位の広域化が図られた。
  しかし、連合村は、過剰な行政負担に相当する財政基
 盤を有しなかった。
  このため、明治政府内部において、新たな地方制度が
 模索された。
  1888年(明治21年)、この市制・町村制の公布に至るこ
 ととなった。
  この法案は、内務卿・山田顕義の命を受けた内務省大
 書記官・村田保が、
  1884年(明治17年)5月、町村法草案を作成したことに
 始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月、内務省内に町村法
 調査委員会が設置された。
  1885年(明治18年)6月、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、1886年(明治19年)7月に提出され、
  御雇外国人・アルベルト・モッセの意見書を契機とし
 て、町村合併による改革が図られることになった。
  1887年(明治20年)2月、地方制度編纂委員会(内閣に設
 置)が、地方制度編纂綱領を策定し、
  翌・1888年3月、地方長官会議の席上において、政府は、
 府県知事に対して「町村合併標準」を提示した。
  この「町村合併標準」では、原則300戸をもって一町村
 とすることや、なるべく、連合戸長役場管轄区域内の町
 村を合併して一町村とすることなどが示された。
  同年・1888年9月17日、市制・町村制法案が、地方制度
 編纂委員会より内閣に提出され、
  最終的には、1888年(明治21年)4月25日、市制・町村
 制が公布された翌年・1889年4月1日、施行されることが
 決定した。
  公布された後の同年・1889年6月に、内務大臣訓令第352
 号により、
  300~500戸を標準として合併すること、
  合併に際しては、連合戸長役場の管轄区域をそのまま
 合併して差し支えのないものはそのまま合併することが、
 府県知事に指示されている。
  市制・町村制により、市町村は、地方自治体としての地
 位を確立したが、内務省や府県知事などの監督権が強く、
 自治権は限定されたものだった。
1888年9月12日、駐清公使・塩田三郎が、日清条約改正難航
 のため、一時中止と将来の交渉再開を清国に通告した。
  1886年3月31日に、井上馨外相が 、日清修好条規改正
 を清国政府へ提議するよう、公使・塩田三郎に指示して
 いた。
  日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は・・、
 1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と清
 の間で初めて結ばれた対等条約で・・
  内容には・・、
   ・両国は、互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1
   条)
   ・外交使節の交換、および、双方に領事を駐在させる
   (第4条、第8条)
   ・・など、といった内容であった。
  1886年8月、北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」な
 ど)の長崎来航時の長崎事件、清との交戦の可能性のあ
 った清国海軍兵士による乱暴。
  海軍力で優位にある大国の清が侵攻するかもしれない
 という想定も考えられた。
  清の「定遠」や「鎮遠」は、当時の世界最大級の砲を
 4門そなえ、装甲も厚い東洋一の堅艦で、日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった。
  それに威圧されたのだった・・海軍力増強へ向かう。
  日本の海軍力は、軍艦総トン数、1876年:14300トン
 1893年:50861トンに増加している。
  軍事費(一般会計の歳出決算額に占める軍事費)1876
 年・17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)、1893年:27.0%
 (陸軍17.4%、海軍9.6%)
1888年9月13日、伊藤博文が、西郷従道ら釜山、元山、ウラ
 ジオストクの視察のため出発した。
1888年9月15日、尋常師範学校教員に執務中に制服着用を命
 じた。
   1886年(明治19年)8月、文部大臣・森有禮の西欧的な
 教育政策から、
  東京女子師範学校の生徒が、洋服を制服として着用し
 たことから、
  各師範学校に、この影響が及んで行った。
  同年・1886年、秋田師範学校女子部が、制服を洋服化
 し、
  1888年(明治21年)には、福島の師範学校でも、洋服
 の制服を制定した。
  師範学校の女子教師についてみると・・、
  1888年(明治21年)10月1日の「官報」第1578 号に、
 「埼玉県尋常師範学校、〈中略〉女教員ハ洋服又ハ裳袴
 ヲ着シ」とあり、
  教師には洋服以外に裳袴を認めた例であり、学生より
 は服装規定がゆるやかだった。
1888年9月17日、枢密院が、議員法の審議を開始した。
1888年9月25日、宮内省に臨時全国宝物取調局を設置した。
  宮内省のこの局によって、全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年に、宮内省の所管と
 した。
  日本における博物館の創設は、1867年(慶応3年)に
 フランスのパリで開催された万国博覧会を契機として、
  1871年( 明治4年)に、文部省内に博物局が設けられ、
 湯島聖堂を博物館としたことで、その第一歩が踏み出さ
 れた。
  奈良においては、1874年(明治7年)に、官民合同によ
 る奈良博覧会社が設立され、
  東大寺大仏殿廻廊を会場として、正倉院宝物をはじめ
 貴重な寺宝類が陳列された。
  この博覧会は、1890年(明治23年)まで続けられ、明
 治維新後の廃仏毀釈によって 荒廃・散逸の恐れのあった
 多くの文化財は、この博覧会によって人々に貴重な遺産
 として認識されるようになった。
  ことに奈良は、廃仏毀釈の影響を受けることが著しか
 ったが、
  こうした文化財の保存に対する関心の高まりのなかで、
 政府は、1888年(明治21年)に、宮内省の臨時全国宝物
 取調局を設けて全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年(明治19年)に、宮
 内省の所管とし、
  ついで、1889年(明治22年)、帝国博物館(東京)、
 帝国京都博物館とともに帝国奈良博物館の設置を決定し
 た。
  1895年(明治28年)4月、帝国奈良博物館の開館が実現
 した。
  その後、1900年(明治33年)、宮内省は、官制改正に
 伴い 帝国博物館を帝室博物館に改名し、帝国奈良博物館
 も奈良帝室博物館となった。
 (奈良国立博物館ホームページを参考にした)
1888年9月26日、守田勘弥が、新設予定の歌舞伎座創立に対
 抗して、新富、市村、中村、千歳の4座同盟を結成して、
 興業の調整をしようと提案した。
  この後、新富座は、歌舞伎座と歩調を合わせながら明
 治の歌舞伎黄金時代を築いて行った。
  しかし、新富座は、1910年(明治43年)松竹が買収し
 て、松竹の経営下に移った。
  新富座は、日本の近代劇場化の端緒となったが・・、
 1923年の関東大震災で被災すると、そのまま再建されず
 劇場は廃座となった。
  現在、京橋税務署が建っている。
1888年10月1日、伊藤博文、西郷従道ら帰国した。
1888年10月1日、日本初の火災保険会社の東京火災保険会
 社(現=安田火災)が営業を開始した。
  日本で保険制度が始まったのは、江戸時代の末期と考
 えられている。
  江戸幕府は、1858年(安政5年)、アメリカ、オラン
 ダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで修好通商条
 約を締結し、外国貿易の門戸を開いたが・・、
  これに伴って、外国の保険会社がわが国に進出した。
  この商館を代理店として、主に、海上保険の営業が開
 始された。
  損害保険等の保険制度は、外国で考えられた制度であ
 るが、
  この保険の考え方を紹介したのが福沢諭吉だった。
  1866年(慶応2年)に発刊した『西洋事情』の中で「
 火災請負ひ(火災保険)」、「海上請負ひ(海上損害保
 険)」のことについて解説した。
  また、翌年の1867年(慶応3年)に刊行した『西洋旅案
 内』の中では、
  保険の仕組みを「災難請合の事(イシュアランス)」
 という表現で、次のように述べている。
  「災難請合とは、商人の組合ありて、平生無事の時に
 人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば、組合よ
 り大金出して其損亡を救う仕法なり。
  其趣旨は、一人の災難を大勢に分ち、僅の金を棄て大
 難を遁るる訳にて・・」・・と、
  生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上
 請合(損害保険)の三種の災難請合について説いている。
 (注・イシュアランスは、insuranceの誤読と思われる)
  その後、1869年(明治2年)山東一郎編の『新塾月志』
 の2月号には、「インシュランス」を支那語に訳すと、
 「保険、又は、担保」という文字を当てるという記述が
 ある。
  訳語には、ウケアイというふりがながついていて、他
 にも請負、受合、担保という文字も使われている。
  「保険」という文字が使われるようになったのは、1977
 年・明治10年代に入ってからだった。
  火災保険は、イギリスで、1710年に、「サンフワヤオ
 ヒス」という保険会社が、創設されたのに始まると言わ
 れている。
  日本では、この年・1888年(明治21年)10月1日、東
 京火災保険会社(現・安田火災)が業務を開始したのが
 はじまり。
  日本で火災保険が誕生するまでには、いくつかの経緯
 を経た。
  明治初期に、日本は、外国の新しい制度や技術を導入
 するため、御雇い外国人を招聘し、それぞれの基礎を築
 いた。
  火災保険制度もドイツ人のパウル・マイエット博士に
 よって生まれた。
  マイエットは、1878年(明治11年)4月、「日本家屋保
 険論」という講演を行っている。
  その中で、「火災保険は国民生活の安定、財産の保護、
 産業の発達に多大の効果があり、
  日本には、水火災の被害が、毎年、膨大な額に達する
 にもかかわらず、保険制度が存在しないことは遺憾であ
 り、国営火災保険を早急に実施すべきである」と提言し
 た。
  これは、マイエットの母国・ドイツの「公営強制火災
 保険制度」の影響を強く受けたものだった。
  当時、参議兼大蔵卿であった大隈重信は、この提言に
 共鳴し、
  1879年(明治12年)4月、マイエットを大蔵省顧問に迎
 え、
  同年・1879年5月7日、大蔵省内に火災保険取調掛を新
 設して、各種の家屋の価格や現存する家屋数等の調査を
 開始した。
  1881年7月、調査結果に基づいて作成された「家屋保険
 法案」が太政大臣に提出されたが、
  この法案に対し、当時、イギリス自由主義の旗頭であ
 った田口卯吉は、「火災保険の趣旨には賛成するが、国
 が強制するのは自由の精神に背くもの」と反対意見を述
 べた。
  また、内務卿・松方正義も、「明治10(1877)年の西
 南の役によって、政府の財政は疲弊しており、人民にも
 地方税、備荒儲蓄法等の新たな税負担が相次いでいる時
 に、家屋保険を強制することは受け入れがたい」と反対
 した。
  1882年(明治15年)このことから、参事院は、太政大
 臣に対して、財政難と市民の負担増を理由に「火災保険
 は民営とし、これを保護することが良策である」と上申
 した。
  これを受けて太政大臣は、「家屋保険法案」の廃案を
 決定し、国営保険制度は頓挫した。
  そして、数年が経て後、関連した官立保険局設立計画
 書を参考として、
  有限責任東京火災保険会社(安田火災の前身)が、わ
 が国初の民営火災保険の創設を計画し、この年、1888年
 (明治21年)10月1日、火災保険業務を開始した。
  1891年(明治24年)引き続き、明治火災、
  1892年(明治25年)日本火災が創業した。
  現在、火災保険料は、建物の所在地や建築状態、用途、
 環境などによって、料率の算定が行われているが、スプ
 リンクラーや消火栓設備などの消防用設備を備えること
 によって、保険料が割り引かれている。
  (東京消防庁、ホームページを参考にした)
1888年10月1日、小田原馬車鉄道(後の箱根登山鉄道)の国府
 津~小田原間が開通した。
  東海道本線の開通に先立って、1888年(明治21年)の
 この時、、国府津より小田原を経て、箱根湯本へと、馬
 車鉄道が開業した。
  そして、『鉄道唱歌』に・・、
  「國府津降りれば馬車ありて酒匂小田原遠からじ」と
 歌われた。
  交通の動脈を外れた小田原宿が衰退した。
  110軒もあった旅籠が次々と廃業した。
  小田原は、必死に鉄道誘致を行なった。
  そして、1920年(大正9年)國府津~熱海間に熱海線が
 開業した。
  これによって、東京~横浜~小田原へ列車が通った。
  そして、箱根観光や湯治の拠点として、小田原は回復
 した。
  鉄道開業は、町を挙げて祝った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKの屁理屈論理の放送(広島・長崎に原爆を落とされたのは、
    日本が、中国の重慶の爆撃をしたからだ・・と放送した。
    まったく、根拠のない、嘘の、日本人を洗脳する卑劣な放送だった。
    そして、アメリカは、真珠湾攻撃前に、中国で、隠密裏に、日本を
   奇襲攻撃をしていた。
    アメリカよ!・・謝罪せよ!!
.
1938年12月4日~1943年8月23日、重慶爆撃
  1937年に起きた第二次上海事変の結果、日本軍は、中
 華民国の首都・南京を攻略し占領した。
  これに対して、中国・国民政府は、首都機能を南京か
 ら漢口に移転した。
  しかし、漢口も陥落したため、さらに、内陸である四
 川の重慶への首都の移転をした。
  アメリカは、この年・1937年から、この中国の国民政
 府・蒋介石へ、大量の武器などの軍事物資を「援蒋ルー
 ト」を通じて送り続けた。
  後に、正規のアメリカ軍人(例えば、クレア・リー・
 シェンノートら)を参加させ、
  また、退役軍人だと称したり、義勇軍だと称したりし
 てアメリカ軍をも、秘密裏に対日戦に参戦させた。
  れっきとした大統領のルーズベルトの命令であった。
  日本の真珠湾攻撃以前に、アメリカは、この様な事を
 していた。
  日米の戦端は、日本の真珠湾攻撃以前に開かれていた。
  日本が、「真珠湾攻撃の奇襲をした」何て言われる筋
 合いはない。
  逆に、『アメリカが、隠密裏に、中国で、日本を奇襲
 攻撃をしていた』のだ。
  アメリカよ!・・謝罪せよ!!
  日中戦争が収束しないで、拡大の一方だったのは、日
 本を叩きたいアメリカの思惑だった、方針だった。
  この様な経緯の中で、真珠湾攻撃へ至ることは、アメ
 リカが承知し、れっきとした方針だった。
  この様な、これからの経緯をたどる中で、日本は、こ
 の時、中国の重慶を爆撃した。
  (因みに、第二次上海事変も、「起こされた事変」だ
 った。
  この頃の日本の方針は、穏便に収めたいという方針だ
 った)
  この様な中、中国軍も、ここ重慶へ撤退し、逃げた。
  それ故、日本は重慶を爆撃した。
  しかし、NHKは、日本の公共放送NHKは・・、
  この爆撃が、広島・長崎の原爆投下をした原因になっ
 たのだという論理をNHKは言い出した。
  まったくの言い掛かりである。
  卑劣な、そして、真実を知らない言い掛かりである。
  朝日新聞が、慰安婦問題で、嘘記事・捏造記事を書き
 謝罪をしたが、
  NHKも、この論理・言い掛かりも、この様なもの。
  また、毎日新聞も、朝日新聞と同じ様なことをしよう
 としているから注意を要する。
  ひたすら日本だけの悪い所を言い続け、公平な言い方
 をしていない。
  NHKも同じ事をした。
  その言い方の卑劣な所は、「広島や、長崎に原爆が落
 ちたのは『自業自得だ』的な言い方」のところである。
  NHKは、たちが悪い。
  それは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたからだ」
 の言い方である。
  東京大空襲の無差別爆撃も、大阪の無差別爆撃も、日
 本の各地の都市の無差別爆撃も、皆、この中国のこの爆
 撃行為が原因だのような言い方である。
  そして、アメリカが原爆を投下したのは、だから、正
 しいのだの言い方である。
  正しい訳がない。
  さも、低劣な論理の『町のあんちゃん』が、「お前が、
 先に手を出した」、「俺につっかけたから、刺したんだ」
 という言い掛かりがごとくである。
  こんな言い方が、世の中に通るなら、世の中が、まっ
 たく恐ろしい世の中になってしまう。
  世の中に、常識が通らないこの様な放送を、公共放送
 であるNHKが、全国放送をするから・・恐ろしい。
  NHKは、時々、この様な国民をだまし、そして、洗
 脳する嘘放送をするから恐ろしい、始末が悪い。
  こんな簡単な論理が解らないで、マスメディアを繰り、
 そして、利用できるという立場にNHKは居る。
  常識が、まったく無いと言える。
  NHKは、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送媒体を、我が物の様に使って、まったく自制
 心なく、この様なプロパガンダ(嘘宣伝)放送をしてい
 る。
  スペインは、日本より早く空爆をしている。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教国・スペイ
 ンには、この様な偏見放送はしない。
  スペインが、空爆で、嫌と言うほど爆弾を投下したの
 が、1936年~1939年のスペイン戦争時・・、
  日本の重慶爆撃が、1938年12月4日~1943年8月23日で、
 8年も後の事である。
  完全に、スペインの方が早い。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で、
 既に、行なわれていた。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している。
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手榴
 弾手を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したと言えないくらいだった。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙った。
  NHKよ! 重慶爆撃以前に、こんなに空爆の事例が
 あるのに・・、
  何故?? 重慶爆撃だけが、「原爆投下につながった
 のか?」「広島・長崎の原爆投下につながったのか??」
 ・・説明せよ!!
  説明できなければ、謝罪せよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月9日金曜日

(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)

題:(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年8月20日、三池鉱山が三井組へ払い下げられた。
  1876年(明治9年)この年に、旧三井物産が設立された。
  そして、この頃、三池炭鉱は、工部省の直営事業であ
 った。
  幸いなことに、出炭量が増えて、販路の開拓に苦慮し
 ていた。
  1877年(明治10年)工部卿であった伊藤博文は、その
 輸出がひらめいた、そして・・、
  旧三井物産社長の益田孝に、三池炭の輸出を持ちかけ
 た。
  益田は大牟田まで赴き、その石炭の質を確かめるため、
 実際に、七輪で焚いてみた。
  硫黄分が多く、着火しやすい良質な三池炭に感心した
 益田は輸出契約を締結した。
  そして、翌年の1878年には、三池炭輸出の委託販売権
 を獲得した。
  三池炭は、旧三井物産を通して、上海、香港、シンガ
 ポールなどの海外各地へ輸出された、そして同時に、
  旧三井物産も外国に支店を増やした。
  海外展開を大きく拡張して行った。
  明治政府は、官営事業の民間への払下げを打ち出して
 いた。
  民間企業の充実・・そして、拡充・・、
  ・・が、しかし、三池炭鉱は、優良事業として民間払
 下げをせず・・官営を続けていた。
  1888年(明治21年)、しかし、ようやく・・三池炭鉱
 の払下げが決定した、そして、入札が行なわれた。
  政府の指値は、400万円という高額だった・・当時とし
 ては破天荒な金額であった。
  たとえば、三菱に払い下げられた長崎造船所は9万円だ
 った。
  価格に関わらず三池炭鉱を落札しなければならないと
 した益田は、三井銀行を説得し、100万円の融資を取り付
 けた。
  三菱と熾烈な競争が展開された・・、
  その結果、455万5000円で、三井組が三池炭鉱を落札し
 た。
  この時、三池炭鉱と共に三井が手に入れたかったのは
 人材としての鉱山技師・團琢磨(だんたくま)だった。
  黒田藩勘定奉行の養子であった團琢磨は、1871年、岩
 倉使節団とともに渡米し、マサチューセッツ工科大学で
 鉱山学を学んでいた。
  1878年に帰朝し、東京大学助教授などを経て、
  1884年、工部省に採用され、三池鉱山局に勤めていた。
  三井組の三池炭鉱落札の時、團は、三池炭鉱の湧水対
 策を学ぶため、欧米各国の炭鉱を視察中であった。
  ニューヨークで、民間に払い下げられた「その事実」
 を知った。
  職場の払下げにより、失職した。
  行き場を無くした團は、義兄に相談し、義兄のの斡旋
 で、福岡県庁への入庁が内定していた。
  しかし、益田は、これを聞いて驚いた。
  益田は、以前から團の才能を買っていた。
  「三池の落札価格に、團の価値も入っている」と、益
 田は、主張した。
  そして、福岡県庁の2倍の給金で、團を招聘した。
  1889年、旧三井物産は、「三井炭鉱社」を組織した。
  團は、事務長に就任した。
  1893年には、三井鉱山合名会社が設立された。
  専務理事となった團は、最新の排水ポンプによる湧水
 問題の解決をした。
  また、三池築港など鉱山事業などをして・・その手腕
 を発揮した。
  後に、三井合名理事長まで上り詰めた。
  三井の雄となった。
  三井鉱山は、三井のドル箱として・・、
  三井銀行、旧三井物産とともに・・戦後、石炭産業が
 斜陽化するまで「三井の御三家」の一角を担い、三井を
 支えた。、
  三井財閥の発展を支える大切な中核事業として存在し
 た。
  そして、日本を支えた。
  (三井広報委員会のホームページを参考にした)
1888年8月21日、尋常師範学校設備準則を制定した。
  この法律で、我が国初めての『修学旅行』という言葉
 が使われた。
  1886年(明治19年)に、師範学校令が公布され、わが
 国の師範教育制度は、ここにはじめて整備への第一歩を
 踏み出した。
  これ以前から、理知的に進んでいた日本は・・師範教
 育も、すでに、発展して来ていた・・が・・、
  全国的に整備された教員養成制度は、まだ、確立され
 ていなかった。
  この師範教育制度の改革を進めたのが、文部大臣・森
 有礼であった。
  森は、国民教育の根本は「師範教育にあり」とした。
  そして、その重要性を認め、
  師範教育の理念を制度の上において・・実現しようと
 努めた。
  1886年(明治19年)4月10日、「師範学校令」が公布さ
 れた。
  そして、この師範学校令、ならびに、その後、これに
 関連して設けた諸規程によって・・、
  小学校・中学校・帝国大学とは全く別個に、独立させ
 て・・「教員養成のための師範学校制度を確立しよう」
 とした。
  師範学校令・第一条:
  「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但
 生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシムルコトニ注目
 スヘキモノトス」。
  師範学校令に続いて・・、
  1886年(明治19年)5月26日、「尋常師範学校ノ学科
 及其程度」(女生徒については、明治22年10月)、
  1886年5月28日、生徒募集規則、および、卒業生服務規
 則、
  1886年6月4日、尋常師範学校男生徒の学資支給に関す
 る件、
  1888年8月21日、尋常師範学校設備準則・・を定めた。
  高等師範学校については・・、
  1886年(明治19年)10月14日、「高等師範学校ノ学科
 及其程度」、高等師範学校生徒募集規則、および、高等
 師範学校卒業生服務規則・・を定めた。
  尋常師範学校の入学資格は、高等小学校卒業以上の学
 力を有し、年齢17年以上20年以下の者、修業年限は4年と
 した。
  高等師範学校には、男子師範学科と女子師範学科とを
 置き、
  男子師範学科の入学資格は、尋常師範学校を卒業した
 者とし、その修業年限を3年と定め、
  女子師範学科は、尋常師範学校第2学年修了者を入学さ
 せ、修業年限を4年とした。
  1890年(明治23年)3月25日、女子部を分離して、女子
 高等師範学校を創設した。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1888年9月1日、東海道線の浜松駅~大府駅間が開通した。
  愛知県大府市にある大府駅(おおぶえき)が、この時
 のこの開通による官設鉄道線開業により、2線の分岐駅と
 なった。
1888年9月8日、森鴎外が、ドイツから帰国した。
  明治の文豪・森鴎外のこのドイツ留学には、美しいロ
 マンスがあった。
  鴎外の代表作の「舞姫」にもなっているが・・、
  鴎外のドイツの恋人(舞姫ではエリス)は、実際の話
 だった。
  エリスは、鴎外を追って日本へ来た。
  鴎外のこのドイツからの帰国から一週間もたたない頃、
 横浜港に入港した客船のゲネラル・ベーター号から、ひ
 とりのドイツ人女性が降り立った。
  女性の名をエリーゼと言った。
  エリーゼは、現在の銀座五丁目にあった築地精養軒に
 宿泊し、鴎外への気持ちを実現したいとした。
  鴎外と会えることを心待ちにした。
  しかし、このエリーゼの来訪は、海軍中将の娘である
 登志子との縁談が整いつつあった鴎外の周囲を動揺させ
 た。
  鴎外の親戚や友人が、帰国を説得するために精養軒に
 連日通った。
  鴎外自身も数回精養軒を訪れた。
  結局、エリーゼの恋は実現を果たせずに・・来日から
 約1ヶ月後・・ドイツに帰国した。
  しかし、鴎外の心には、生涯エリーゼを忘れることは
 無かった・・と・・言われている。
  鴎外の次女の小堀杏奴の著作に・・、
  「この女性とは、その後、長い間、文通だけは絶えず
 にいて、
  父は、女性の写真と手紙を、全部一纏めにして死ぬ前、
 自分の眼前で、母に焼却させた」・・と、記されている。
  (小堀杏奴「晩年の父」より)
1888年9月11日、高等師範学校附属学校に尋常中学科(現・
 筑波大学附属中学校・高等学校)が設置された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:色々な・・はなし・・
.
紀元前3万年、北アメリカ大陸に最初に住んだ人々は、アジ
 ア系のモンゴロイドであった。
  この人々・インディアンの方々は・・、
  氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、
 凍結したベーリング海などを渡って、
  シベリアからアラスカを経由し、
  広大な南北アメリカ大陸各地入り、そして、分散して
 行った。
  こうした人々・インディアンの方々は、母系社会によ
 る独自の文化を育んだ。
  今、アメリカ合衆国には、そのずーと後に来た白人が
 我が国土の様な顔をして住んでいるが・・、
  この白人たちの論理は・・、
  「この先住の民であるインディアンの方々が国家を形
 成していなかったから」・・なんて、屁理屈を言う、
  「だから、土地を奪ってもよかったのだ」・・という
 筋の通らない屁理屈論理を展開している。
  「部族は形成していたが、国家は形成していなかった」
 という理屈・論理である。
  もし・・ある家が、家庭崩壊していたら・・、
  家庭という状況が崩壊し、家庭が形成されていなかっ
 たら・・第三者は、その家を「乗っ取っても良い」とい
 う論理である。
  その様な論理が、「正義であるわけはない」。
  そして・・、
  近世まで、北米には、中南米に匹敵するインディアン
 文明が存在しないとされていたが、
  近年発掘が進み・・、
  8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化
 の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によ
 って確認された。
  そのうちもっとも大規模なものは・・イリノイ州セン
 トルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、
  最盛期で1万人に達したとされている。
  この超巨大遺跡は・・、
  1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界
 遺産に登録された。
  イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブ
 スは、スペイン女王の承諾を受け、
  大西洋周りによるアジア発見を志したが、
  1492年に、西インド諸島に到達した。
  これに引き続き、1498年、英国人・ジョン・カボット
 が、
  北米大陸の東海岸を探検し、英国がこれを領有(ニュ
 ーイングランド植民地)、
  1534年、フランス人ジャック・カルティエが、セント
 ローレンス川を遡って、これをフランスが領有化(カナ
 ダ植民地)するなどがあった。
  これらのヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の探検
 と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺がはじま
 った。
  16世紀に、ヨーロッパで、キリスト教の宗教改革がな
 され、プロテスタント(新教徒)が生まれた。
  その様な中で、イギリスでは、宗教的な迫害(はくが
 い、弱い立場の人々を追い詰めて、苦しめること)を受
 けたピューリタン(清教徒)が、1620年のメイフラワー
 号で、アメリカへ渡った。
  これをきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次
 いで入植した。
  現在のアメリカ合衆国を作ったと言われるこの人々は、
 アメリカ大陸に渡った最初、厳しい冬期・厳寒期が越え
 られず、餓死者が多く出る・・大変出るという状況だっ
 た。
  餓死者が出るくらいと言うより、ほとんどが死んでし
 まうかという酷(ひど)さだった。
  元のイギリスへ、再び、帰ろうかという状況だった。
  この窮地(きゅうち、追い詰められて逃げ場のない苦
 しい状態や立ち場)を救ってくれたのが、アメリカ・イ
 ンディアンの方々だった。
  アメリカ・インディアンの方々に助けられ、耕作物の
 種類を教えてもらい、
  また、その生育方法なども教えを受けたりと、
  越冬方法なども教えてもらい。
  やっと、力を付け、安住できるようになった。
  すると、今度は、安住ができるようになると・・、
  今度は、アメリカ・インディアンの方々と混住できな
 いと、人種差別の行動に出た。
  キリスト教の「有色人種蔑視の考え方」に洗脳された
 頭に影響され、
  有色人種であるアメリカ・インディアンの方々の追い
 出しに出た。
  恩も義理もないキリスト教の宗教の世界に住む人々の、
 耕作地を拡大したいという欲に敗けた姿も出た。
  そこには、仏教の教える「共生の姿」はなかった。
  アメリカ合衆国は、イギリスとの戦争に勝つと、ミシ
 シッピー河以東の地は、「我が領土だ」と、勝手に奪っ
 た。
  そしてさらに、卑劣なことに、そこに住む本当のその
 地の持ち主であるインディアンの方々の追い出しにかか
 った。
  アメリカ・インディアンの方々は、昔から居て、幸せ
 に暮らしていた、
  当然の生活をしているのに関わらず、
  アメリカは、その手に入れた地から、奪い取った地か
 ら、先に住んでいたアメリカ・インディアンの方々の追
 い出しにかかった。
  ただ、イギリスとの戦争に勝っただけなのに・・であ
 る。
  アメリカ・インディアンの方々に、何ら関係がない事
 なのに・・である。
  まったく関係のないアメリカ・インディアンの方々に、
 初めの恩も何も棄てて、自分だけの利益だけに執着し、
 卑劣な行為をし始めた。
  アメリカ・インディアンの方々は、力で、武力で殺戮
 され、
  そして、ミシシッピー川以東に居る人々のすべてを、
 河の西へ行けとされた。
  生活が出来なくなったインディアンの方々は、ミシシ
 ッピー川以西に追われた。
  殺戮を伴う追い出しに、やむを得ず、逃げて行った。
  この際限ない欲に敗けた者どもの追い出しは、また際
 限なく繰り返された。
  アメリカ合衆国は、その後、追い出したその地から、
 また、さらに、インディアンの方々を追い出し・・、
  その様な卑劣な行為を繰り返し、アメリカ合衆国は出
 来て行った。
  インディアンの方々の土地を奪って行く、西へ西へと
 奪って行く、その地を奪って行く。
  今、アメリカ・インディアンの方々は、人口が激減し、
 絶滅に瀕している。
  そして、キリスト教は、その弱いインディアンの方々
 を殺戮し、土地を奪った行為を賞賛している。
  そして、1620年の移民は、アメリカのプロテスタント
 の間で『偉業として称えられている』。
  「マニフェスト・デスティニー」だと・・???
  当然、インディアンの方々からは、民族虐殺の始まり
 として、『罪なる行為の始まり』として
  「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模
 な抗議が行われている。当然である・・、
.
  そして、次の話・・、
.
1644年、江戸時代の初期のころ、中国では、明朝が滅び
 (1644年)、清朝が成立したばかりだった(1644年)
  明朝の生き残りの勢力の鄭芝龍・鄭成功親子は、台湾
 へ逃れた、
  そして、鄭政権を作った。
  鄭成功は、日本人を母として、日本とも関係の深い政
 権だった。
  この時、清朝の台湾侵略の脅威に脅(おびや)かされ
 ていた。
  その脅威が生じるたびに、鄭成功は、江戸幕府に援軍
 を要請して来た。
  この時、江戸幕府は、鎖国体制だったが、台湾を守ろ
 うと「出兵を決定」した。
  この時の清朝は、「韃靼(だったん)人」による政権
 で(モンゴル)と同じ政権だった。
  鎌倉時代のモンゴル来襲も意識下にあって、出兵の必
 要を感じ、意識し、決意していた。
  老中は、「台湾の安全が、日本の安全に直結する」と
 意識していた。
  今・現代、中国共産党政権が、覇権の拡大路線をとる
 とき、この史実は、よく心しておく必要がある。
  今、完全に北朝鮮は「ロシア離れ」を起こし、中国共
 産党政権の息のかかった中にいる。
  「六か国協議」にしたって、北朝鮮の「核爆弾開発」
 と、「ミサイル開発」の最も大切な「詰めの時期」に、
  北朝鮮が安全に、それなりに、過ごす『時間稼ぎ』に
 使われ、
  結局、北朝鮮の目的が達せられつつある。
  この開発を、裏から応援していたのが、中国共産党政
 権であった。
  中国は、覇権拡大とともに、当然、対抗勢力の分断行
 為をする。
  韓国が、北朝鮮の核開発の進展とともに揺れ出し、38
 度線が、対馬海峡に移ってくる気配も感じられる。
  中国共産党政権の狙いの中に、当然、「日米分断」が
 あり、「太平洋を半分づつ」と、アメリカに言った意識
 もある。
  分断には、まず、「日本を封じ込める」という戦略も
 取る。
  過去に、「ABCD包囲網」で、日本を包囲した記憶
 が消えないのだろう。
  アメリカの覇権に、とって代わりたい中国共産党政権
 がある。
  長期的にも、それを達成したいがある。
  その達成のため、中国共産党政権は、「国際的合意」
 という手を使うだろう。
  簡単に言えば、「クラスのいじめられっ子」状態に、
 そして、「国際的合意だからやれ」と、日本の不利な事
 を押し付けて来るのだろう。
  その発言力を高めるため、「二桁の軍事費」を投入し、
 増大し続けている。
  今までの人類の歴史にない規模の異常な軍事費の急拡
 大を続けている。
  アメリカは、「世界の警察官」の立場はとれないと、
 止めたと、放棄の公言をした。
.
  そして、次の話・・、
.
  題:文明開化の地でパンが作られ始めた・・、
.
1860年、パンの発祥(横浜)
  パンの発祥地という事で、横浜に石碑が建った(2016
 年11月9日報道)
  石碑が建った場所は、横浜の日本大通りで、1860年に
 開業したという。
  記事:
  最初にパン店が出来たとされる横浜市中区日本大通り
 に8日、「近代のパン発祥の地」と書かれた石碑がお目見
 えした。
  パン食文化発祥の説明とともに、開港直後から親しま
 れてきた「イギリス流山型食パン」と丸形の「フランス
 パン」の写真が焼き付けられており、早速、観光客らが
 見入っていた。
  同市総合パン協同組合などによると、最初のパン店が
 開業したとされるのは1860年。
  外国人の日用食品街「お貸し長屋」の一角で、内海兵
 吉という人物が、フランス人にパン製法を習って始めた。
  当初は、良い発酵方法がなく、「焼きまんじゅう」の
 様だったという。
  イギリス流の山型食パンは、イギリス人のパン店で修
 業をした打木彦太郎氏が庶民に広め、今も元町にある「
 ウチキパン」が当時の製法を引き継ぐ。
  こうした伝統を多くの市民に知ってもらおうと、パン
 業者が加盟する同組合などが碑の設置を進めて来た。
                 (読売新聞より)
.
  そして、次の話・・
.
1922年11月17日、アインシュタイン氏が来日した(~12月
 29日までの43日間)
  フランスなどを訪れ、そして、日本への訪問を目的に
 夫婦で客船「北野丸」に乗船し、そして、11月17日に訪
 日した。
  アインシュタイン氏は、大正天皇陛下に謁見ている。
  アインシュタイン氏は、ラフカディオ・ハーンが記し
 た美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、
  科学の世界的連携によって、国際関係を一層親善に導
 くことが訪日の目的である・・と語った。
  そして、アインシュタイン氏は、2人の息子にあてた手
 紙に、
  「私が会った全ての人々の中で、日本人が一番好きだ。
  謙虚で、物分かりや察しがよく、
  技術に対する勘があるから」・・と、訪日した際の感
 想を述べている。
  広島では、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行
 為を行ってしまったと悔やみ、そして、謝罪した。
  また、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏と面会
 した際にも、同様の理由で、涙ながらに謝罪したという。
.
  アインシュタインには、その言葉に、多くある日本を
 賛美する言葉がある。
  以下の文は、1922年に、アインシュタインが日本を訪
 れた時に、
  日本に託した言葉だと云われている。
  アインシュタインは、日本と日本人に対して、敬愛の
 念を持っていた。
  彼が残した色々な文面には、日本を賛美する言葉が数
 多く残されている。
  アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建
 築をはじめとする・・、
  日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であったと
 言われている。
  日本の良い歴史や、日本人の素晴らしい精神性を学び、
 アインシュタインがこよなく愛した、よき日本人となり、
  世界平和の発信リーダーとなれる国にしましょう。
.
  アインシュタインの言葉・・
.
  近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
.
  その驚異的発展には、他の国と違ったなにものかがな
 くてはならない。
.
  果たせるかなこの国の歴史がそれである。
.
  この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという
 国体を持っていることが、
.
  それこそ、今日の日本をあらしめたのである。
.
  私はいつもこの広い世界のどこかに、
.
  一ヶ所ぐらいは、このように尊い国がなくてはならな
 いと考えてきた。
.
  なぜならば、世界は進むだけ進んで、その間、幾度も
 戦争を繰り返してきたが、
.
  最後には闘争に疲れる時が来るだろう。
.
  このとき人類は必ず真の平和を求めて
.
  世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いな
 い。
.
  その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、
.
  あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊
 い家柄でなくてはならない。
.
  世界の文化は、アジアに始まってアジアに帰る。
.
  それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。
.
  我々は神に感謝する。
.
  神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたこ
 とである。
  (日本を知る会のホームページを参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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2016年12月5日月曜日

(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月~1888年8月)

題:(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月~1888年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年7月21日、枢密院議長の伊藤博文が、書記官長の井上
 毅に憲法草案の内、枢密院で問題になった点についての
 再検討を指示した。
1888年7月29日、朝鮮の志士・金玉均が、小笠原から札幌へ
 移された。
1888年7月30日、辰野金吾(たつのきんご)設計の工科大学
 本館が落成した。
  この建物の敷地は、本郷における工学部発祥の地と言
 える。
  1888年(明治21)年、ここに学部最初の校舎、旧工科
 大学本館が建った。
  建物には時計台のある大きな中庭があり、一種の広場
 のように使われていた。
  設計は、東京駅や日本銀行な設計で有名な辰野金吾教
 授。
  震災後完成した現在の1号館は、1996(平成8)年、建
 築学科の香山壽夫教授によって増改修が行われ、光庭が
 屋内化され「広場」が復活した。
  学生たちの生活の中心であり、卒業式などを行うハレ
 の場にもなっている。
  (東京大学創立130周年記念事業 知のプロムナード 
 ナビゲーション・ブック)より
1888年7月31日、大久保一翁(おおくぼいちおう)が没した。
  幕末~明治時代の武士(幕臣、幕府閣僚)、政治家(
 維新政府の官僚)
  当初の実名は忠寛。名ははじめ忠正、のち忠寛(ただひ
 ろ)。
  通称は金之助、三市郎。号は石泉。
  1818年(文化14年)11月29日、旗本・大久保忠向の子
   に生まれ。 江戸出身。
  1842年(天保13年)24歳、家督相続。
  1854年(安政1年)5月、36歳、(ペリー来航後)目付
   に登用され、海防掛を担当、軍制改正用掛、蕃書調
   所頭取、外国貿易取調掛を兼ねる。
   駿河町奉行を経て、
  1858年(安政5年)5月、40歳、禁裏付を命ぜられ京に
   赴任、
  1859年(安政6年)、41歳、京都町奉行となる。
   安政の大獄で志士捕縛に当たった配下の専横に対し
   て粛正を図り、かえって西ノ丸留守居に左遷され、
   次いで罷免された。
  1861年(文久1年)10月、43歳、復帰して外国奉行、
  1862年、44歳、大目付、次いで側御用取次。
   この頃、大政奉還を前提とした諸侯会議・公議政体
   論を唱え松平慶永、勝海舟らに影響を与えたものの、
   幕府有司の反発を受け罷免、
  1862年11月、44歳、差控に処せられる。
  1864年(元治1年)7月、46歳、勘定奉行に任ぜられた
   が4日後に免職、
  1865年2月、47歳、隠居し一翁と改名。
   この様に、老中・阿部正弘に重用され、大老・井伊
   直弼(なおすけ)にうとまれた。
   井伊没後、外国奉行、大目付などとなり、松平慶永
   (よしなが)らと大政奉還を説いた。
  1868年(明治1年)50歳、鳥羽・伏見の戦で徳川軍が敗
   北してのちの
  1868年1月、会計総裁、次いで若年寄として海舟と共に
   江戸を開城に導き、新当主徳川家達に従い静岡に移
   住した。
  1872年(明治5年)5月、54歳、命により東京府知事と
   なり東京会議所の民会組織への改革を図り挫折、以
   来、教部少輔,元老院議官を歴任したが、新政府とは
   隔たったところに身を置く。
  1887年(明治20年)69歳、子爵。
   「なにひとつ世のためはせでまうつしに のこす姿の
   はずかしきかな」。
   晩年、写真を撮ったときの感慨。
   維新後は、東京府知事、元老院議官。
  1888年(明治21年)7月31日死去。72歳。
  (氷川清話)7月、山岡鉄太郎、大久保一翁逝去
1888年8月1日、東京築地の海軍兵学校が、広島県江田島に
 移った(開校は8月13日)
  海軍兵学校は、大日本帝国海軍の将校たる士官の養成
 を目的とした教育機関。
  そして、海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校
 とともに海軍三校と呼ばれた。
  その規模では、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカ
 の合衆国海軍兵学校とともに、世界三大士官学校の一つ
 に数えられている。 
  英語教育を重視し、総計、1万2433名の卒業生を輩出し
 ている。
  戦後、各界のリーダーとして活躍する卒業生も多い。
  沿革として、1869年に出来た海軍操練所がある。
  因みに、山本五十六元帥は32期の卒業生。
  南雲忠一大将は36期。
  (参考)
  1886年(明治19年)1月に、海軍兵学校次長兼教務総理
 に補せられた伊地知弘一中佐は、英国留学の経験から「
 兵学校を僻地に移転するの理由」なる一文を草して、江
 田島への移転を強く訴えた。
  その理由とするところは・・、
  第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を
   堅実ならしむるに在り。
  第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精
   神勉励の一途に赴かしむるに在り。
  第三、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都
   会を避くるを良策とす」というのであった。
  1886年(明治19年)5月、呉に鎮守府が設置された関係
 もあって、江田.島移転が本決まりとなり、
  1886年6月には、東京から派遣された視察団が、建設用
 地の測量を開始した。
  1886年(明治19年)11月、新校舎建設工事に着工、
  1888年(明治21年)4月、物理、水雷、運用の3講堂と
 重砲台、官舎、文庫等落成。
  1888年同年8月1日をもって、海軍兵学校は、江田島本
 浦の新校舎に移され、東京から回航して江田内に面した
 表桟橋に繋留された東京丸を生徒学習船として・・、
  1888年8月13日から開校された。
1888年8月1日、兌換銀行券条例を改正し、発行限度7000万
 円とする保証準備発行を定め、
  特別の場合は、政府の許可で制限外発行とする保証準
 備屈伸制度が布かれた。
1888年8月1日、内国通運が、貨物早達便を開始した。
1888年8月7日、読売新聞が磐梯山の写真を掲載した。
  新聞の写真掲載の初めとされる。
  福島県の会津磐梯山の大噴火を銅版画で掲載。
  報道写真の元祖とも言える試みだった。
1888年8月16日、東京市区改正条例が公布された。
1888年8月20日、家茂、27年忌、
  家茂の27年忌に、勝海舟が読んだ弔辞
  「旧臣勝安房、昭徳公霊前に口演」という文章は、熱
 のこもった感動的なものだった。
  家茂将軍夫人の皇妹和宮は、未亡人となってからは、
 髪を下して静寛院と称された。
  結婚生活はわずか4年だった、
  しかも、江戸城総攻撃の時は、宮は徳川家と生死を共
 にする覚悟を表明された。
  この宮を救うためにも、勝海舟は、その当時、奔走し
 たのであったが、
  亡き将軍・家茂への恩は、いつまでも勝海舟の胸に消
 えなかったのであろう(氷川清話より)
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人の優秀さを示す、また、一つの事例がある・・、
.
1987年(昭和62年)世界初のエイズ治療薬AZT(アジド
 チミジン)が、日本人の満屋裕明氏が発見・発明し、
  この年に、アメリカで承認され、
  患者の方々は、治療の恩恵を受ける事が出来る様にな
 った。
  満屋裕明氏は、エイズに効果があるという薬の用途を
 立派に発明し、「栄光の発明者」となった。
  しかし、問題が起きた。
  アメリカという、卑劣な地の発明に原因があった。
  この薬の値段を、満屋祐亮氏は聞いて驚いた。
  1年間で、治療費が、約1万ドル(当時のレートで約150
 万円〉と、前例のない様な高額だった。
  まず、アメリカは、日本のような医療保険制度がない
 遅れた国だった。
  アメリカの所得の低い方々には、その薬価の為、その
 薬の恩恵が受けられず、
  次々と、エイズで命を落として行った。
  折角、良い薬が出来たというのに・・、
  薬の開発者の満屋裕明氏は、その姿を見て、胸が痛ん
 だ。
  良い薬を開発したというのに、その恩恵に浴せないア
 メリカの方々が多く居た。
  その状況を解決できない遅れたアメリカ合衆国だった。
  そして、満屋氏が怒りが湧いたところは、その高価な
 薬になる理由だった。
  満屋氏は思った・・「なぜ、こんなに高いのだ、この
 薬は、政府の研究機関で、アメリカの国民の方々の税金
 を使って開発された薬ではないか?」・・と感じた。
  エイズ問題の活動家たちも、抗議行動を起こした。
  濡れ手で粟の利益を享受しているのは製薬会社だけだ
 った。
  この薬が出来た貢献度は、まったくない製薬会社だっ
 た。
  この製薬会社は、この薬が、エイズ治療になるとか、
 ならないとか、まったく分かっておらず・・不明な薬を、
 ただ、エイズへの効果を発見した満屋氏へ、「送っただ
 け」のことしかしなかった会社だった。
  実験なども、この会社は、まったく行わなかった。
  実験などは、製薬会社と、まったく関係ない所で確か
 められたのだった。
  つまり、満屋裕明氏は、特許で認められている「薬の
 有効な用途を、最初に発見・発明した人」だった。
  その特許の「用途発明」をした発明者として、れっき
 と認められる人だった。
  また、実験などは、製薬会社はまったくせず、
  製薬会社と、まったく関係ない所でその薬の効果は確
 かめられた。
  (発明性の確認が製薬会社とまったく別の所で確認さ
 れた)。
  逆に、この製薬会社は、当時、治療薬がなく、そして、
 治療法もなく、危険とされていた「エイズ・ウイルス」
 から遠ざかり(逃げ)・・、
  この製薬会社は、まったく、エイズウイルスを取り扱
 おうともしなかった。
  危険性の高い患者の血液検査も拒んで、研究協力もし
 なかった。
  研究の足を引っ張っていた。
  しかし、しかし、この会社は、発見者・発明者に知ら
 せずに、隠密に、特許を申請し、独占するというハレン
 チな事をした。
  権利は、会社だけが独占した。
  (だから・・発明者の方々は、まず、論文発表などの
 公表をする前に、最速で、特許を申請すること、
  そして、共同で研究している輩たちが、誠実に行動せ
 ず、真の発明者から「大切な特許権」を盗む事例が多い
 ので、注意を要する。
  この事例の場合には、共同研究者でもないのに盗んだ
 という最悪の破廉恥さがある)
  この製薬会社の不正義は、アメリカのメディアも取り
 上げた。
  ニューヨーク・タイムズは、「薬を開発し、リスクの
 多くを負ったのは、(満屋裕明氏らが居る)アメリカ政
 府だ」との論説記事を載せた。
  製薬会社は、別の企業や消費者団体から「特許は無効」
 などの訴訟が起こされた(発明者でもない人を発明者と
 した・・など)。
  満屋氏も、法廷の場に立って発明状況などを証言した。
  製薬会社側の弁護士から、威嚇の様な詰問を、連日、
 受けた。
  莫大な金がからむ、大発明の権利訴訟、満屋氏は、命
 の危険の恐怖に襲われた。
  その様な話もあるアメリカという国の中、「僕も殺さ
 れるのではないか?」と思った。
  暗い駐車場など、怖い思いを多くした。
  医学論文の発表は、勿論、発明者の満屋裕明氏が、世
 界初の発明者として発表しているので(この「初」とい
 う所に特許性がある)、
  世界は、満屋裕明氏を、『エイズ治療薬の初の発明者・
 開発者』として認めている。
  しかし、アメリカの訴訟の不正義が、ここでも起きた。
  満屋氏などの訴えは認められず、敗訴した。
  製薬会社側の勝訴となった。
  製薬会社は、満屋氏へは1円の報酬も支払っていなかっ
 た。
  この訴訟で、アメリカの法律の不備が明らかになった。
  連邦政府管轄の研究所で開発された薬の権利関係を定
 めた技術移転法が整備された。
  満屋氏の次なる研究目標=「安価なエイズ治療薬の開
 発」の意義がここに生まれた。
  人類のために、安価なエイズ治療薬の開発の大きな意
 義が生まれた(人類の皆様が、安心して安価な薬の享受
 が出来なくて、何の意味があるのか・・?)
  もっと安価な治療薬の開発の必要性を感じが満屋氏は、
 その薬の開発に乗り出した。
  満屋氏の本当に凄い所は、その大きな意義を達成して
 しまったところにあった。
  第二・第三のエイズ治療薬を開発してしまったところ
 にあった。
  人類が絶滅するのではと恐れられた「恐怖の病気・エ
 イズ」を克服して戴けたのだった。
  しかし、アメリカは、この例の様な「特許権を奪う行
 為が多発している」。
  アメリカだけのへ理屈理論の「先発明主義」などがあ
 って、日本の大発明は、いくつも盗まれている。
  満屋氏には、「ノーベル賞の授賞資格が、立派にある」
 が、
  このノーベル賞の査定委員会が、また、曲者で、
  この様ないきさつの満屋氏は、有色人種の日本人とい
 うこともあり、特に、不利に働いている。
  残念だが・・。
  (読売新聞、2016年11月22日を参考にした)
.
  そして、次・・、
.
1987年、世界で、初めて、。エイズに効く治療薬が開発さ
 れた。
  開発したのは『日本人』である。
  本当に、人類を滅ぼすと言われたエイズ治療薬を、初
 めて開発した日本人は、本当に、本当に素晴らしい。
  この薬は、日本やアメリカで承認され・・、
  それまで・・「死の病(やまい)と恐れられていた病
 気が克服された」。
  「薬を待ち望んでいた患者の方々へ、恩恵がもたらさ
 れた」。
  薬の名は「AZT]。
  エイズは、それまで、「人類を滅亡させる病(やまい)」
 とまで言われ、そして、恐れられていた。
  この薬を作った人は、開発者ではないが、ジェローム・
 ホーウィック博士。
  アメリカ・ミシガンがん研究所(1919年~2012年)。
  しかし、この薬は、エイズの薬として開発されたので
 はなかったので、世に、この点で埋もれていた。
  エイズに聞くとは分かっていない薬だった。
  つまり、エイズ治療薬としての発明に至っていなかった。
  ジェローム・ホーウィック博士は、だから、エイズ治
 療薬の発明者ではない。
  この薬が、エイズに効くではないかと「偉大な発見を
 したのが、日本人の満屋裕明(みつやひろあき)氏」だ
 った。
  エイズウィルス(HIV)薬の発見者・発明者だ。
  ジェローム博士も満屋裕明氏も、ノーベル賞クラスの
 業績を作ったのである。
  ジェローム博士が、出身大学からAZT合成の功績で
 表彰された時、満屋氏は、博士に会いに行った。
  そして、博士を讃え、お礼を言った。
  博士にとても喜んで戴き、博士は、受賞記念講演で、
 アメリカ詩人・エマーソンの詩を朗読した。
  「成功とは何か。しばしば、そして沢山笑うこと。聡
 明な人々の称賛と、子供たちの愛を勝ち取ること。偽り
 の友の裏切りを許すこと。世界を少しだけ良くして去る
 こと・・」、
  博士は、その詩を書いた紙を「進呈する」と言って手
 渡してくれました。
  うれしかった。
  今でも大切にしています・・と満屋氏は書く。
  ジェローム博士にしてみれば、埋もれた物質(薬)を、
 エイズ治療薬として発明してくれた満屋氏が居られたか
 らこそ、世に注目され・・そして、浮かび上がることが
 できたのだった。
  そういう意味で、ジェローム博士は、満屋氏へ感謝の
 心・感謝の意思を表したのだった。
            (読売新聞を参考にした)
.
  (追伸)
  ☆アメリカの「先発明主義(せんはつめいしゅぎ)」
 の卑劣な所:
  この主義でアメリカは、他国の特許を奪うことをよく
 するのだが、
  アメリカの研究者が、先に発明していたと認定されれ
 ば、例えば、日本人の特許権が奪われるのである。
  例えば、研究者のノートか何かにそれが書いてあって、
 先に発明していると認定されると、特許権を奪えるので
 ある。
  日本の特許は、「先願主義(せんがんしゅぎ)」であ
 って、
  日本の考え方は、先に発明したと気が付いたなら、特
 許庁へ「特許申請の願書」を提出しなさい・・という考
 え方である。
  例え、発明しても、特許庁のその願書と同じことをし
 ていたとしても、それが発明をしたと気が付かなければ、
 「発明したことにはならないのですよ」という考え方で
 ある。
  例えば、風車をいくら作ったとしても、そして、それ
 を大きくして発電機を付けたとしても、『風力発電』を
 発明したと気が付かなければ、
  そして、それを、山や野原に設置して風力で発電する
 のだと、その発明をしたのだと・・気が付かなければ、
 発明したことにはならないのですよ・・という考え方で
 ある。
  「先願発明」を発明としている国が多いが、アメリカ
 だけが「先発明主義」をしているという異常さがある。
  ☆アメリカの特許法の異常さの二つ目は・・、
  サブマリン特許:潜水艦の様に潜っているのである。
  「特許が出願されました」と公開されずに、秘密にさ
 れていて、
  特許権があるとは知らずに、その特許と同じことをし
 ていたら、
  急に、こんな特許が出願されていて特許権を持ってい
 たのだと、急に公開されて、特許権侵害で多額のお金を
 取られるのである。
  アメリカは汚く、この手で、日本の企業から何回も多
 額の金を奪った。
  さも、水面下に隠れていて、急に浮上するからサブマ
 リン特許と言うのである。
  何しろ、アメリカは不正義な国である。
  アン・フェアな国である。
  盗人(ぬすっと)みたいなことばかりしている。
..
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2016年12月4日日曜日

臨時ブログ:雑感(2016・12・4)

臨時ブログ:雑感(2016・12・4)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1935年以降、ABCD包囲網が形成された。
  Aはアメリカ合衆国、Bはイギリス、Cは中華民国、
 Dはオランダ・・日本が、これ等の国々に、包囲網を形
 成されて、本来自由に行われるべき貿易が、制限され、
 貿易面で苦しめられた。
  そして、今・現代の・・日本の安全保障は・・、
  日本という国をを守るのは、日本の考えによって、日
 本が守る行動する・・当然である・・自国の防衛である。
  しかし、当然のこの話も・・、
  ひん曲がった話が・・展開する今なのである。
  そして、この話が関係するジャンルにおいて、前記し
 た「かつての様な」、「日本包囲網」が出来つつある。
  それは・・、
  日本以外の諸国の合意が無ければ、日本の主権によっ
 て自主的にやる「この防衛という行動」も・・できない
 という、筋の通らない話が・・存在するのである。
  日本を守るのは、当然、「日本以外の国から守る」の
 である。
  どこの国でもそうである。
  しかし、その行動をしようとすると、「その諸国の合
 意を得よ」という話なのである。
  例えば、アメリカを例に言うと・・、
  アメリカが、アメリカという自分の国を守る行動をし
 ようとすると、「カナダやメキシコの同意を得よ」とい
 う話に置き換えるようなものである。
  この様な例にすれば、「それはおかしい」とすぐに分
 かるわけなのだが・・?
  こと、日本の話になるとそうではないのである。
  かつて、アメリカの元国務長官のキッシンジャーが、
 日本に対して言った。
  その逆は・・ない。
  日本だけに課せられる。
  クラスの「いじめっ子」状態である。
  まったくおかしい話である。
  その様な事が、「国際的」という中で行われようとし
 ている。
  そして、「グローバルな規約が良い」のであるという
 言い方をする。
  「グローバルが良い」という言葉が、その言葉だけが
 良いという雰囲気の中で『踊る』のである。
  その言葉が踊る中で行われるのである。
  この言葉は、キリスト教に偏するNHKがよく使う。
  キリスト教に偏するNHKは、この「グローバルが良
 い」を良く言う、そして、放送する。
  この言葉をプロパガンダ(嘘宣伝)する。
  「刷り込み行為」を、よくする放送局となっている・・
  だから・・注意を要する。
  また、NHK出身の千葉商科大学教授の宮崎緑も、二
 言目には「グローバルが良い」を言うから・・また、注
 意を要する。
  「日本は、主権を持った国である」・・当然。
  国際だからという・・グローバルだからという・・話
 を紛れ込ませて、「日本の権利をはく奪する行為」が、
 なされようとしている。
  かつて、この様な虐(いじ)め方が、ヨーロッパで行
 われた。
  その結果、とうとうその国は、それらの圧迫をはねの
 けようと、「ヒトラー」という人物を生み出した。
  ヒトラーは良くないことを行なったとはいえ・・それ
 を生み出させた責任は、それらの『その他の国』にあっ
 た。
  その責任は・・逃れられない。
  しかし・・この話は封印されている・・国際社会から
 隠されている。
  それは良くない。
  ヒトラーの出現の陰には、この様な国際社会という虐
 め集団のヨーロッパ社会の『圧迫と虐め』があった。
  この様な国際という社会が、グローバルというひん曲
 がった社会理念・観念が、「悲惨なヒトラーの罪悪行為」
 を生んだ。
.
  そして、次・・、
.
2016年11月9日、アメリカ大統領選挙が、11月8日に投開票
 され、共和党候補のドナルド・トランプ(70歳)が、
  民主党候補のヒラリー・クリントン(69歳)を破り、
  当選した。
  このトランプ当選で、アメリカだけでなく世界に激震
 が走った。
  クリントンなら「今まで通り」で未来予測もでき、大
 変化もなく、「安泰だ」だった。
  だが?・・トランプは予測不可能、予測が出来ない?
  そんなところに、今、世界はいる。
  超大国アメリカのトップだからだ。
  アメリカは、共和党の「赤」と、民主党の「青」が拮
 抗(きっこう、勢力がほぼ同等のものどうしが、互いに
 張り合って優劣のないこと)した。
  別の言い方をすれば、「ほぼ二分された」「真っ二つ
 の分断・分裂状態」・・である。
  アメリカの世界戦略が変わるのか?
  今、アメリカの戦略上の退潮は明らかな状況にあり、
 アジアにおいてもアメリカの退潮があり・・、
  縄張りに囲い込もうとする中国と、今までの覇権を維
 持しようとするアメリカが、つばぜり合いをする状況。
  アメリカが、退潮だといって、そんなにすんなり、手
 を引いて行くことはない・・、
  しかし、横須賀の原子力空母や、沖縄の嘉手納の戦闘
 機は、より中国から遠い後方へ移動がなされる方向へ。
  そのような状況の中で、アメリカと中国による、囲い
 込みがなされていく。
  アメリカの対中融和姿勢は、オバマ政権でも行き詰り、
 対中強硬路線へ転じた。
  2030年頃には、米中の国防予算が、逆転するという。
  そして、中国は、日米分離を精力的に行う、当然に。
  また、そのために、中国は、対日融和政策をとる、日
 本囲い込みのために・・。
.
  そして、次・・、
.
1973年9月22日、アメリカの国務長官に、ヘンリー・キッシ
 ンジャーがなった。
  この第56代アメリカ合衆国国務長官は、リチャード・
 ニクソン大統領と、ジェラルド・フォード大統領に仕え、
 1977年1月20日まで務めた。
  アメリカが望むことで・・、キッシンジャー(アメリ
 カの元国務長官)は、過去のこの任務にある時に・・、
  「日本が、今後も核保有しないこと」や、
  「日本が、再軍備(つまり、憲法改正)して軍事能力
 を高める事はしない」・・と、国際公約させようとした。
  この日本に対する要求に対し、日本が、「その要求を
 受け入れる事によって失われる点の補完(ほかん、不十
 分な部分を補って、完全なものにすること)に対して、
 何ら配慮されていない、日本だけが失われる」という片
 務(へんむ、契約当事者の一方だけが義務を負うこと)
 の状況の要求が行われた。
  逆に、日本からアメリカへ、同じ要求がなされたら、
 アメリカは応じられるというのか?
  例えば、「アメリカは、今後、核保有をしない」や、
 「アメリカを軍備のない状態にして、軍事能力を高める
 ことはしない」・・である。
  これを、アメリカは受け入れられる訳がない。
  この様に、自国のことに置き換えて言われてみれば、
 如何に、自分たち・アメリカは、過大な要求を日本にし
 ていたかが分かるだろう。
  アメリカは、卑劣な要求をしたのである。
  一方的に、日本にばかりに要求を出す国なのである。
  そこには、対等な国対国の公正さ・公平さはない。
  アメリカは、この様な時・・第三国の話を持ち出す。
  日本が、その様な条項を受け入れられないなら、「北
 朝鮮が核放棄できるわけがない」・・と来る。
  何故、日本だけが負担を追わねばならないのだ?
  例えば、北朝鮮に核放棄できないのは、アメリカの核
 攻撃の心配があるからであって・・、
  だから、北朝鮮のその心配を除くのが第一なのだ、
  故に、アメリカは、北朝鮮に核放棄させるために、ア
 メリカは核放棄するか、または、北朝鮮へ核攻撃はしな
 いと約束するのが必須なのだ。
  「アメリカは、北朝鮮へ核攻撃はしない」という条約
 を結ぶべきだ。
  「アメリカが信用されるか?」が問題なのだが、
  アメリカは、自国が不利になる事は、一切、逃げる。
  それを、臆面もなく、日本へすり替えて要求する。
  日本は、中国以上に、アメリカでのロビイストを増や
 し、日本を理解してもらうように努める必要がある。
.
  そして、次・・、
.
2016年11月時点の新聞に、次の本の広告があった。
  本の名は:「カエルの楽園が地獄と化す日」
  百田尚樹氏と石平氏の本である。
  そして、その広告記事に書かれていたことは・・、
.
  ☆中国の軍事冒険主義は、今後、さらにエスカレート
   する
  ☆軍艦、戦闘機の次は何が来るのか?
  ☆ベストセラー作家・百田尚樹と、中国人の本心を知
   る石平が、最悪の日本侵略シナリオを警告
  ☆軍事衝突、巨額の損害賠償請求、政権転覆、粛正・・
  ☆戦慄シュミレーション・不気味な予言は、すでに半
   分的中した。
  ☆戦わずして尖閣を奪われるシナリオ
  ☆中国は、なぜ日本侵略を企(たくら)むのか
  ☆チベット、ウイグルで見た恐ろしい支配の実態・沖
   縄「独立」を足掛かりにした侵略
  ☆日本が、中国に占領されるとき
..
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2016年12月3日土曜日

(増補版)465E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年7月)

題:(増補版)465E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年7月4日、千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)官
 制公布(農商務省から陸軍省へ移管) 
  千作製絨所官制を公布し、農商務省から陸軍へ移管し
 て、軍用絨品の生産に切り替えた。
  東京都荒川区南千住にあったこの官営の工場は、明治
 新政府によって設立され、被服生地を製造していた。
  それまでの、明治維新から暫(しばら)くの間は、新
 政府の軍服・制服は輸入により賄われていたが、
  外貨減少を抑えるため、その国産化が必要であると、
 1875年(明治8年)9月、千葉県に牧羊場が設けられ、羊
 毛の生産が開始された。
  同年・1875年中に、被服製造技術を学ぶためドイツに
 派遣されていた旧長州藩士・井上省三の帰朝をもって、
  1879年(明治12年)9月27日、東京・南千住にあった、
 ただ葦が茂り人家がぽつりとあるだけの広い荒地(現・
 荒川区南千住6丁目)に千住製絨所が完成させ、操業を開
 始した。
  1883年、火災で主要設備を失ったが・・、
  この年・1888年(明治21年)、陸軍省の管轄となって
 工場を拡張し、
  陸軍所要の布地類、毛糸等を生産・管理した。
  他官庁や民間から製造、研究の依頼、さらに、技術指
 導や技術者養成の依頼があったときは、陸軍大臣の認可
 をもってこれらに応ずることとされていたため、
  国内繊維・被服産業の発展に大いに貢献した。
1888年7月5日、後藤象二郎が、信越と東北での大同団結運
 動展開のため出発した。
1888年7月10日、 「東京朝日新聞」 が創刊された。
  自由党の星亨の「めさ(ざ)まし新聞」を村山龍平が
 買収し、改名されて発刊した。
  それまでは、大阪から1日遅れで配られていた。
  因みに、朝日新聞の創刊は、1879年1月25日で、大阪で
 創刊第1号が出された。
  紙面は小型4ページ、総ふりがな・絵入りで定価1銭、
 1日平均部数は約1,000部。
1888年7月13日、大蔵省が、市町村制における直接税と間接
 税を分類区別し告示する。
  日本は、富国強兵の実現のために、1887年に、所得税
 法を導入した。
  当初、政府は酒税や煙草税などの間接税の増税によっ
 捻出しようとしたが、増税策は失敗した。
  一方、松方デフレの影響は深刻化していた。
  農村は疲弊していた。
  各省も予算が拡大傾向にあった。
  1881年(明治19年)の土木費の国庫補助廃止して以降、
 地方税の改革が模索されてきていた。
  予算も拡大化して来ていた。
  所得税の立案方針が模索され、賦課方式がイギリス型
 からプロシア型へ転換し、明治20年(1887年)度におけ
 る新税導入による予算拡大を不可避とした。
  1887年1月、プロシア型の所得税法案が成立した。
  成立した所得税は、収入見積もりを下回る税収に終わ
 った。
  大蔵省の内部では、所得税の修正や資本税の導入、地
 租軽減の代替財源としての増税など、所得税に関わる改
 正の動きが出た。
  日本の優しい所は、この様な議論の中で、所得の少な
 い民の税負担の軽減を真剣に議論しているところである。
  どこかの国の様に、弱者であるがゆえに、弱者をいい
 ことに、その方々の土地を奪うなどという様な考え方は
 毛頭ない。
  この様な議論の中で、税の改善がなされて行った。
1888年7月13日、枢密院が、憲法草案審議を終了した。
1888年7月14日、海軍大学校官制が公布された。
  海軍大臣の直轄と定めた。
  海軍大学校(かいぐんだいがっこう)は、日本海軍の
 上級将校教育機関。
  1888年(明治21年)7月14日、勅令第55号により海軍大
 学校官制制定。
  同年・1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館
 に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長・井上良馨が兼任した。
  同年・1888年11月26日、授業開始。
1888年7月15日、磐梯山が大爆発した。
  会津磐梯山が、千年ぶりに噴火し、山体が崩壊した。
  発生した泥流などによって、461名(477名の説あり)
 が犠牲となった。
  午前7時に雷鳴が始まり、
  45分後に、大爆発が起った。
  磐梯山系の小磐梯山が爆発して消滅した。
  (発生した爆風と、岩屑なだれにより北麓の集落が埋
 没するなどの被害を受け、477人の死者が出た)
  山の上半分を噴き飛ばしていた、あとに大きな火口を
 残した。
  爆発物で長瀬川が埋没し、檜原湖などの湖沼群ができ
 た。
  大量の泥流が、麓の3か村を襲い一帯は全滅した。
  (噴火時に小磐梯が麓から湧き出していた温泉によっ
 て風化したのが原因で山体崩壊を起こしたという)
  下流の河川をせき止めた所に、100以上の湖沼が生まれ
 た(後に、長瀬川とその支流がせき止められ、桧原湖、
 小野川湖、秋元湖、五色沼など・・大小さまざまな湖沼
 が形成された)
  同日、皇室は、罹災金3000円の下賜を決定した他、新
 聞社15社が義捐金を募った。
1888年7月18日、海水浴場での混永が禁止された。
  神奈川県の海水浴場の男女混泳が区分けされた。
1888年7月19日、山岡鐡舟が死去した(53歳)
  山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)、幕臣・幕末の三舟
 の一人、幕末・明治前期の剣客、政治家、子爵、高橋泥
 舟の義弟(1836年7月23日~1888年7月19日)
  1836年、600石の旗本・小野朝右衛門の長男として、江
   戸本所大河端に生まれた。
  1846歳、10歳のとき飛騨の郡代となった父とともに飛
   騨高山に行き、17歳まで、ここに過ごす。この間、
   儒学、書、剣を学び成長した。
   鉄舟は、若くして両親を亡くした。
   苦労しながら、幼弟5人を養育した。
  1855年(安政2年)19歳、槍(やり)の師(刃心流山岡
   静山)に学び、山岡家を継ぐ、静山の妹・英子(ふ
   さこ)と結婚、妻に向かえる。
   また、千葉周作に剣(北辰一刀流)を学び、
   のち、一刀正伝無刀流を案出し、春風館を設立し、
   門弟を教えた。
  1856年(安政3年)20歳、幕府講武所で剣術世話心得と
   なる、
  1862年(文久2年)26歳、清川八郎らと浪士組(新選組
   の前身)取締役を拝命、隊士を率いて上洛、
  1868年(明治1年)32歳、精鋭隊頭となり徳川慶喜の警
   護に当たる。
  同年・1868年3月、直々の命(勝海舟の使者))により、
   東征軍参謀・西郷隆盛を、駿府の大総督府に訪い、
   勝海舟との会談を周旋、
    徳川家救済と、江戸城の無血開城に力を尽くした。
    彰義隊にも新政府への恭順を説いたが容れられな
   かった。
    維新後は、静岡藩権大参事、伊万里県知事などを
   歴任。
  1869年(明治2年)9月、33歳、静岡藩権大参事(ごん
   だいさんじ)
  1871年(明治4年)35歳、茨城県参事を経て、
  1872年(明治5年)6月、36歳、明治天皇陛下の侍従に
   就任、ついで、宮内少丞(しょうじょう)・大丞と
   進み、、
  1881年(明治14年)45歳、宮内少輔(しょうゆう)に
   進む。
  1888年、53歳で病没、東京谷中に自ら創建した禅寺全
   生庵に眠る。
   剣客との名がある通り武骨ではあるが、将軍慶喜、
   明治天皇のいずれに対しても、意気に感じて誠実を
   もって応えた人。
    勝、高橋と共に幕末三舟と称される。
    <著作>『鉄舟随筆』(安部正人編)
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルトは、『人種差別をする大統領』だった・・、
.
1935年9月27日、アメリカ大統領のルーズベルトと、黒人の
 地位向上運動家の代表が会談した。
  ルーズベルト大統領は、人種差別をする大統領だった。
  リンカーンも、「奴隷解放した」という事から、人種
 差別をしない大統領だと言われているが・・?
  これは、プロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  リンカーンは、はっきりと黒人の方々を差別する発言
 を何度も演説で言っている。
  リンカーン擁護派は、政治家として「奴隷解放反対者
 に説明するためだ」とかと擁護するが、それは嘘だ。
  政治家なら、いかなる状況においても、自分の主義・
 主張と相容れない発言をしてはならない。
  また、当然、自分の主義・主張と「違う発言」をして
 はならない。
  このルーズベルトの場合も、はっきりした黒人の方々
 を虐げる大統領だった。
  ルーズベルトは、1935年春以来、第二期のニューディ
 ール政策を進めていたが、黒人の方々の地位向上は行わ
 なかった。
  1935年9月27日、黒人の「黒人の地位向上に取組む黒人
 運動家」が、この日、ルーズベルトに会い、
  「黒人の地位向上」を訴えた。
  レコードの録音盤が残っている。
  「戦争の危機が高まる今こそ、愛国的な黒人にも平等
 の地位を・・」と、訴える。
  当時、アメリカ陸軍は、人種分離政策をとっていて、
 黒人の方々の部隊は、分離され、白人と分けさせられて
 いた。
  そして、アメリカ海軍の場合・・、
  艦船上の分離が不可能という事から、黒人の方々は排
 除されていた。
  「奴隷解放したから黒人の方々を差別してない」と嘘
 宣伝(プロパガンダ)されているリンカーンも、黒人の
 方々を排除した。
  何度も、何度も、黒人のリーダーが、リンカーンへ訴
 えたが、黒人の方々の参戦を許可しなかった。
  やむを得ず、黒人の方々は、自主的に南北戦争に参戦
 し、忠誠を示した。
  ルーズベルトも、このリンカーンと同じだった。
  この会見の12日後、ルーズベルト(ホワイトハウス)
 は発表した・・、
  「大統領と黒人指導者は、アメリカ軍の(人種隔離)
 政策を、今後も継続する事で合意した」・・と、
  これは、まったく酷(ひど)い嘘だった。
  こんな合意はまったくしていない。
  この黒人指導者の名は、「ランドルフ」と言ったが・・、
  ランドルフは、これを知って、びっくりした。
  ルーズベルトは、ランドルフの訴えた差別の存在を認
 識し、意識し、
  ルーズベルトは、その改善の道の具体的1例を口にした。
  例えば、艦船の食事担当などの可能性を言っていた。
  このルーズベルト(ホワイトハウス)の発表は、その
 会談の論調は、まったく消えている。
  リンカーンと同じく、まったく黒人の方々への理解を
 示さないルーズベルトだった。
  ランドルフは、抗議の手紙を、ルーズベルトへ出した。
  しかし、ルーズベルト(ホワイトハウス)からは、何
 の説明も、返事もなかった。
  ルーズベルト時代も、リンカーン時代と同じ「黒人の
 方々を差別する時代・考え方」だった。
  ルーズベルトが尊敬した、理想の大統領としていたウ
 ッドロー・ウィルソンもまた、人種差別の「がちがちの
 大統領」だった。
  第一次世界大戦の後、ウィルソンは、十四カ条の要求
 を示して進歩的だったが・・?
  「黒人の地位向上は、させるべきではない」とはっき
 り発言し、主張していた。
  強く黒人の方々を差別する政策をとる人種隔離政策の
 大統領だった。
  ルーズベルトは、このウィルソン政権のアメリカ海軍
 次官補として・・、
  アメリカ海軍の黒人差別の規則「人種隔離規則」を明
 文化することを担当し、働いていた。
  お粗末の話である。
  まったく憤りが湧く。
  アメリカは、日本の内政干渉をする前に、自国のこの
 様な『時代遅れの酷(ひど)い差別』を無くすことをし
 なさい。
  また、これを、ユネスコの世界記憶遺産に登録しなさ
 い!
..
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2016年11月30日水曜日

(増補版)464E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年6月)

題:(増補版)464E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年6月6日、御歌所設置(所長に高崎正風)
  宮内省御歌掛を廃止し、御歌所を設置した。
  御歌所(おうたどころ)は、天皇陛下や、皇族方の御
 歌や御歌会に関する事務を扱った所で、明治21年(1888
 年)創設され、昭和21年(1946年)廃止されている。
1888年6月7日、2回目の博士号が25人に授与された。
1888年6月10日、乃木希典が、ドイツ留学より帰朝した。
  乃木希典(のぎまれすけ)が、約1年半のドイツ留学を
 終え帰国した。
  しかし、帰国してからというものは、昔の磊落(らい
 らく、度量が広く、小事にこだわらないこと)な振る舞
 いが一転し、
  古武士の風格を尊ぶような謹厳そのものに変貌し、乃
 木を知る人々を驚かせた。
  性格一変して、謹厳そのものとなったという。
  その性格が一転して変ったの理由には、一つは、ドイ
 ツ留学中に、ドイツ国の偉大な所が、軍人が節制を守り、
 規律に服し、軍人の面目は死を以て守るにあると観て、
  さらには、ウィルヘルム二世の崩御に際し、国民挙げ
 て謹慎哀悼の状を表するを見て、痛くこれに感じ入り、
 顧みて近年の日本人は、一身の利を求めて国家を忘れる
 者多きことを嘆き、乃木は、山鹿素行を私淑し、常に、
 武士道の振る舞いをすることで、その模範を広く示そう
 とした。
18886月13日、市町村統合が始まった。
1888年6月15日、皇室典範草案の審議が終了する。
1888年6月18日、枢密院会議が開かれた。
  枢密院が、大日本帝国憲法草案の審議を開始した。
  明治天皇陛下が御臨席なされ、また、伊藤博文を議長
 として憲法議事の第一回が開かれた。
  枢密院は、明治憲法のもとの天皇陛下の最高諮問機関
 で、
  この年に、大日本帝国憲法草案審議のために設置され、
 議長・副議長・顧問官により組織した、内閣から独立さ
 れた機関だった。
  1947年(昭和22年)日本国憲法施行によって廃止とな
 った。
1888年6月18日、雑誌『日本人』が、高島炭鉱の批判報道を
 開始する。
  坑夫になりすました記者の記事が掲載された。
  長崎の高島炭鉱の、厳しい労働が記事となり、社会が
 沸騰した。
  当時の女性方も男性と同等に頑張っていた。
  今・現在、当時のことを、女性方は明るく思い出して
 話すが・・
  当時の日本人は、皆、列強諸国の圧迫に抗すことの出
 来る日本を作ろうと頑張っていた。
  NHKは、恵まれた今・現在から見ると、落差の大き
 い当時のことを、悲惨な当時の事を、状態を、何でも「
 ことさらに大きく、酷(ひど)く」「日本を貶(おとし)
 めて」放送する放送局だが・・、
  ある意味、正しい・正確な報道をしていない放送局と
 なっている。
  そして、日本の国民の方々をプロパガンダ(嘘宣伝)
 し、偏頗(へんぱ、かたよっていて不公平なこと)な方
 向へ導こうとする放送局となっている。
1888年6月18日、整理公債条例が追加公布された。
  紙幣整理による物価安定を図り、
  また、幣制(へいせい、貨幣の発行や流通などについ
 ての制度)を統一して、
  新しい国家体制を確立していきたいという意図の中だ
 った。
  富国強兵の国家の方針の中で、伊藤博文内閣は、税収
 不足で立ち遅れた海軍の造船計画を実施するために、海軍公債
 を起債した。
  1886年(明治19年)6月に、海軍公債証書条例を公布した。
  応募は3倍を突破するという状況だった。
  これから、毎年、起債された。
  不換紙幣のせいろを終えた松方正義大蔵大臣は、国債
 整理への取り組みを積極化させ、
  1886年9月に、整理公債条例を公布した。
  目的は、発行済みの高金利の国債を、市中金利の低下
 に合わせて低利借り換えし、利払い費の節約を図りたい
 とした。
  また、国債法規の統一を図ることにあった。
  日本銀行に整理公債事務を命じ、繰り上げ償還などを
 行なって行った。
  整理公債は、交換発行、普通募集、特別発行という3つ
 の方法で発行した。
  交換発行は、満期を迎えた国債の償還元金の代わりに
 整理公債を公布するなどして発行された。
  普通募集は、中山道鉄道公債の発行以降採用された価
 格競争入札によって行われた。
  1892年までに、5回の募集が行われ、入札はすべて成功
 した。
  特別発行は、1888年のこの年に、整理公債条例6条に
 「市場の時価に準し整理公債証書の価格を定め臨時之を
 発行して日本銀行に公布する事を得」との一項を追加す
 ることによって、始まった。
  大蔵省預金局向けに、この年の1888年から1897年まで
 に8回、発行された。
1888年6月19日、日本赤十字社に資金が下賜された。
  1877年2月、日本赤十字社の前身の博愛社が、元老院
 議員である佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅ
 うゆずる)によって設立された。
  1887年、日本赤十字社と改称された、昭憲皇太后陛下
 が積極的に活動されていた。
  正式紋章は、昭憲皇太后陛下の王冠のデザインを似て
 使わせて戴いている。
  家族の方々が指導的立場に就いていた。
  昭憲皇太后陛下は、1888年7月15日に、会津磐梯山の
 噴火で甚大な被害が出た福島での被災者救護に当るよう
 に、日本赤十字社に対して命じられている(日本赤十字
 社の初の災害救護活動)。
  以後、日本赤十字社は天災救護活動を本格化させた。
1888年6月21日、皇城内に初めて電燈が点火した。
  東京電燈は、1883年(明治16年)2月に、設立が認可さ
 れ、
  矢嶋作郎が初代社長に、大倉喜八郎が取締役に就任し
 た。
  資本金は20万円だった。
  1887年(明治20年)から電気の供給を開始した。
  エジソンが世界で始めて、ニューヨークのパール街に
 火力発電所をつくり、付近の需要家に白熱電灯で電気を
 供給し始めてから、5年後だった。
  麹町区麹町と日本橋区南茅場町、京橋区新肴町、神田
 区錦町、北豊島郡千束村(後の浅草区千束)の5カ所に火
 力発電所を建設して、その周辺へ電気を供給した。
  当初、電気料金は、16燭光の半夜灯で1ヶ月1円50銭だ
 った。
  当時、盛りソバが8厘から1銭、牛メシが1銭だった。
  今、駅の立ち食いモリソバが400円とすると、1ヶ月の
 電気代が6万円に相当する。
  庶民の手の届くものではなかった。
  それでも東京電燈の電灯契約数は、開業時の138から、
 4年後には1万を超えた。
  そして、10年後には3万7千以上にもなった。
  電灯は、東京市内に爆発的に広がった。
  東京電燈株式会社による電気供給事業が、1887年(明
 治20年)に始まったのに続き、
  翌年・1888年に、神戸電燈、
  翌々年・1889年に、大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈
 が開業し、
  1890年(明治23年)には、横浜共同電燈と深川電燈が、
  1891年(明治24年)には、熊本電燈、北海道電燈など
 が開業し、
  電燈の電気を供給する事業が全国に広がっていった。
  1897年(明治30年)末には、全国で電気を供給する会
 社は39社にも達した。
  東京電燈の設立を計画し、初代社長に就任し、
  神戸電燈、京都電燈の設立にも参画したのが、
  幕末時では、長州藩の志士だった矢嶋作郎であり、
  矢嶋作郎は、わが国の電気事業の創始者といえる。
  (電気事業起業家と九電力体制、志村嘉一郎氏の論文
 を参考にした)
1888年6月27日、九州鉄道会社が設立された。
  九州鉄道(きゅうしゅうてつどう)は、九州の私設鉄
 道会社で、九州初の鉄道路線を開通した会社。
  1887年(明治20年)松田和七郎、藤金作、伊丹文右エ
 門、渋谷清六、白木為直、嘉悦氏房の6名が、会社設立発
 起者総代となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけ
 て創立した。
  この年・1888年、政府に設立認可され、初代社長に高
 橋新吉が就任し、
  初の路線は、1889年に、開通した博多駅~千歳川仮停
 車場間であり、後に鹿児島本線の一部となった。
  北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003年から
 九州鉄道記念館として利用されている。
.
2012年、  (今日の言葉)
.
  題:日本は、近隣諸国の方々から、『本当に好きだ』と言われている国である・・、
.
  武田邦彦教授が、下記のことをYouTubeで発表されて
 いる。
  題:武田邦彦:意外?世界の反日国家一覧
  https://www.youtube.com/watch?v=AbRqzQxHk4o
  以下は、その調査結果である。
  日本が「大好き+好き」が、韓国・中国は60%ぐらい
 であるが、
  他のアジアの国々の方々は、90%から100%近い方々が、
 日本を、「大好き」もしくは「好き」と言われている。
.
...........大好き・好き・嫌い・大嫌い・大好き+好き
韓国:........11%、47%、22%、20%、....(58%)
中国:........21、..45、..16、..18、......(66)
台湾:........44、..45、...2、...9、......(89)
香港:........31、..51、...8、..10、......(82)
タイ:........55、..42、...2、...1、......(97)
マレーシア:..51、..43、...5、...1、......(94)
シンガポール:59、..36、...4、...1、......(95)
インドネシア:45、..49、...5、...1、......(94)
ベトナム:....64、..33、...1、...2、......(97)
フィリピン:..50、..45、...1、...4、......(95)
.
  また、『日本が一番頼りになる国だ』と言われている。
.
§頼りになる国(2012年)
  世界に良い影響を与えると思う
1、日本.....58%
2、ドイツ...56%
3、カナダ...53%
4、イギリス.51%
5、中国.....50%
6、フランス.48%
6、EU.......48%
8、アメリカ.47%
9、ロシア...31%
.
  そして、「やはり」と言うのか、「そうだろうな」と
 言うのか、
  『ロシアが、一番、世界に悪い影響を与えている国だ』
 と言っている。
  因みに、『アメリカ合衆国が、二番目に、世界に悪い
 影響を与える国』になっている。
  アメリカも、ロシアと一緒に反省しなさい。
.
  世界に悪い影響を与えると思う(2012年)
9、ロシア...36%
8、アメリカ.33%
7、中国.....31%
6、EU.......25%
5、フランス.22%
4、日本.....21%
3、イギリス.20%
2、ドイツ...16%
1、カナダ...14%
..
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2016年11月27日日曜日

(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年6月)

題:(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年(明治22年)5月21日、鐘淵紡績所の設立が許可さ
 れた。
  東京の繰綿(くりわた、綿繰り車にかけ、種の部分を
 取り去っただけの、まだ精製していない綿)問屋5店は、
  1886年、東京綿商社の設立を決議した。
  翌・1887年、認可され隅田川の鐘淵に紡績所(工場)
 を建設した、
  資本金100万円、錘(すい)数3万錘で出発。
  しかし経営不振で、
  1888年に、綿売買を廃止し、鐘淵紡績会社と改称した
 (渋沢栄一は顧問)。
  1892年の苦境期に、三井銀行が再建・支援に乗り出し、
  1894年、兵庫工場を建設し、続いて・・
  1899年に、上海紡績など7社を合併、
  1905年には、織布部門、
  1908年には、絹糸部門、
  1922年には、絹布、絹製品、
  1934年には、毛糸、化学繊維、麻製品に進出、多くの
   紡績会社を吸収し、
   さらに鉱業、化学、農牧畜を兼業し、
  1938年には、これ等を分離して鐘淵実業を設立、
   その後、鐘淵実業は、製鉄、航空機製造などに事業
   拡張、また、中国各地に直営事業を経営し、また、
   投資し、重化学工業へも進出した。
  1944年の第二次大戦中に、鐘淵紡績と、繊維以外の事
   業を行なっていた鐘淵実業が合併して鐘淵工業(株)
   が発足した。
  1946年の第二次大戦後は、繊維事業中心に転換し、鐘
   淵紡績(株)と社名復帰し、化粧品・食品等の事業に
   も次々進出、
   また、持ち株会社に指定され、
  1948年に、過度経済力集中排除法が適用され、
  1949年に、非繊維部門を鐘淵化学工業(現:カネカ)
   として分離した。
   朝鮮戦争による特需景気で繊維部門を再建した。
  1971年、鐘紡(株)となる。
  2004年に、債務超過などの理由から、産業再生機構に
   支援を申請、支援が決定した。
  2004年の同年に、化粧品部門をカネボウ化粧品として
   分離。
  2005年の翌年6月に、有価証券報告書の虚偽記載を行っ
   ていたことにより『上場廃止』となった。
  2006年に、産業再生機構による支援が終了し、
   投資会社3社に主要事業を譲渡。
   カネボウは、その他事業の運営、清算業務等を行っ
   たのち、
  2007年に、解散、社名を海岸ベルマネジメントに変更
   し、清算業務だけを行った。
  2008年に、海岸ベルマネジメントは、投資会社3社出資
   の買収受取会社であるトリニティ・インベストメン
   トに吸収合併された。
   なお、カネボウが譲渡した主要事業会社は、2006年
   に、カネボウ・トリニティ・ホールディングス(現:
   クラシエホールディングス)を統括会社として再出
   発、2007年には、社名、商標名を「Kanebo」から「
   Kracie(クラシエ)」に変更した。
  アメリカとの「繊維摩擦」で、この会社も、苦労し、
 虐げられた。
  (鐘紡百年史、及び、その他史料などを参考にした)
1888年5月25日、憲法草案会が開かれた。
1888年5月29日、麒麟(キリン)ビール発売
  日本麦酒醸造会社が、麒麟ビールを発売した。
1888年5月、米津風月堂が、アイスクリームと、アイスキャ
 ンディーを発売した。
1888年5月、電気学会が創立された。
  一般社団法人・電気学会(いっぱんしゃだんほうじん
 でんきがっかい)は、電気学術の調査・研究と広報・普
 及を目的に創立された学会で、
  初代会長は榎本武揚(52歳)が就任し、会員数は約二
 万四千人、元文部科学省所管・・と説明がある。
1888年6月1日、東京天文台が、麻布に新設された。
  帝国大学付属として、東京天文台が東京港区麻布飯倉
 に設立され、
  帝国大学理科大学天象台(学生用観象台)と、海軍省
 海軍水路部観象台と、内務省地理局が統合された。
  初めは、1878年に創設された東京大学付属の天文台で、
 創設当初は、観象台と称して文京区の東大構内にあった
 が、
  この年に、港区麻布に移って東京天文台と改称 し、
  1924年(大正13年)に、都下三鷹市に移った。
   日本は、第二次世界大戦後、各種の観測を進めてい
   くために各地に観測所を設立してきた。
  1949年(昭和24年)に、乗鞍(のりくら)コロナ観測所
   (岐阜・長野県境乗鞍岳)、
  1960年(昭和35年)に、岡山天体物理観測所(岡山県
   鴨方(かもがた)町)、
  1962年(昭和37年)に、埼玉県都幾川(ときがわ)村(
   現ときがわ町)に堂平(どうだいら)観測所(2000年
   3月、観測環境の悪化等により閉所)、
  1969年(昭和44年)に、野辺山(のべやま)太陽電波観
   測所(長野県南牧(みなみまき)村)、
  1974年(昭和49年)に、長野県三岳(みたけ)村(現:
   木曽町)に木曽(きそ)観測所、
  1978年(昭和53年)に、野辺山宇宙電波観測所が建設
   され、
  主な観測器械としては・・、
   188センチメートル反射望遠鏡(岡山)、
   105センチメートルシュミット・カメラ(木曽)、
   65センチメートル屈折望遠鏡(三鷹)、
   25センチメートルコロナグラフ(乗鞍)、
   45メートル電波望遠鏡(野辺山)・・など世界の水
  準に匹敵する装置を保有し、
   位置天文学から天体物理学までの広い範囲の研究と
  ともに、
   宇宙科学研究所(現:宇宙航空研究開発機構)の研
  究にも参加し、
   また、時刻の測定・保持、暦の編纂(へんさん)など
  も行った。
  1988年(昭和63年)に、東京天文台は、東京大学から
   独立して、
   文部省水沢(みずさわ)緯度観測所(現:国立天文台
   水沢観測センター)、名古屋大学空電研究所の一部
   と統合し、
   文部省(現文部科学省)直轄の研究機関「国立天文
   台」になった。
1888年6月1日、後藤象二郎が、機関紙「政論」を創刊した。
  主宰・後藤象二郎が、大同団結運動の機関紙「政論」
 を発行した。
  後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、
  1838年(天保9年)3月19日生まれの土佐高知藩士。
   土佐藩政の最高責任者・参政を務め、そして、明治
   期の政治家。
   公武合体運動に活躍し、また、
  1867年(慶応3年)1月(29歳)、脱藩者の坂本龍馬と、
   長崎の清風亭で会談したことが、
   土佐藩が、大政奉還に向けて動き出す契機となった。
   坂本龍馬は、姉の乙女らへの手紙で、後藤について、
   「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外
   ニハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」・・と評し
   ている。
   公議政体論を唱え、前藩主・山内豊信に大政奉還を
   建白させ、
   江戸幕府末期の徳川慶喜の大政奉還運動に活躍した。
   明治維新後は、新政府に参与、参議を歴任して仕え
   たが、
  1873年(明治6年)(35歳)征韓論に敗れ、西郷隆盛、
   板垣退助とともに下野した(明治六年の政変)
  1874年(明治7年)1月12日(36歳)に、板垣・江藤新
   平・副島種臣らと愛国公党を組織し、民撰議院設立
   建白書の提出に参画した。
  1874年(36歳)に、実業界へ転身して商社「蓬菜社」
   を設立。
   政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営するが、
   2年後に放漫経営のために破たんした。
   三菱の岩崎弥太郎へ売却している。
  1881年(43歳)に、自由党の結成に際し、板垣に次ぐ
   副党首格で参加した。
   自由民権運動末期の大同団結運動を提唱し、大きな
   役割を果したが、後に、政府への協力に転じる。
  1887年(49歳)、進歩党の結成に尽力し、黒田内閣や、
   第1次松方内閣で逓信大臣(1889年~1892年)、
   第2次伊藤内閣では農商務大臣(1892年~1894年)を
   歴任した。
  1894年5月(56歳)、商取引所の開設にまつわる収賄事
   件の責任をとって大臣を辞任した。
  1896年夏頃(58歳)、心臓病となり、箱根で療養につ
   とめたが、
  1897年8月4日(59歳)没した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:弱小の民族を助ける・・日本
   勿論、日本は、ユダヤの方々を助けていました。
   嘘つき新聞となった・・読売新聞・・
.
1938年、日本は、世界の会議で、「民族の平等」を訴えて
 来ていた、
  そして、この年、日本は、ユダヤ人難民を救出するた
 め、当時、日本と関係のあった満州国の住民とする河豚
 計画(ふぐけいかく)が進められた。
  だから、勿論、日本は、ユダヤ人の方々の入国拒否は
 しておりません。
  逆に、日本は、ユダヤ人の方々を助けていました。
  河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に、日本で
 進められた、ユダヤ難民を助けるための移住計画のこと。
  日本には、立派に、ユダヤの方々を助ける運動を続け
 て来ていた。
  日本は、欧米列強(アメリやかヨーロッパの武力にも
 のを言わす「しいたげ行」為)のアジアの方々を苦しめ、
 そして、虐(しいた)げる状況を、江戸時代から、「常
 に、苦々(にがにが)しく」思って来ました。
  明治という時代になって、早く、「豊かになろう」、
 そして「強くなろう」と努めたのは、その表(あら)れ
 でした。
  だから、ユダヤの方々を、日本が差別するようなこと
 が、絶対に、あるわけがありません。
  なのに??
  読売新聞に・・何のかかわりがあるのか?
  読売新聞が、杉原千畝の『嘘のデッチアゲ話し』の片
 棒を担(かつ)いでいる。
  本当に、新聞という『真実を伝えない媒体』として、
 信用を落す行為をしている。
  バカじゃないか?・・と言いたい。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲの映画の後援をしている。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲ話の宣伝をしている。
  読売新聞の社歴を『汚す行為』をしている。
  読売新聞の歴史に『汚点を残そうと』している。
  立派な読売新聞の社歴が『台無しになる』。
  日本は、ユダヤ人の方々を差別していなかった。
  ドイツのナチスから言われても、頭を縦に振らずに、
 ドイツのナチスに、その点は「同調できない」ときっぱ
 り断っていた。
  日本人は、ユダヤ人の方々を決して差別してはいない。
  ユダヤの方々の入国を、「ずーっと」認めていた。
  こんなはっきりした事を、読売新聞は「日本がユダヤ
 人の入国を拒否していたという嘘の記述をした」。
  杉原千畝の嘘話の筋書きに乗っかってしまっていた。
  そして、その筋書きの映画の後援までし始め、
  そして、その嘘話の記事を読売新聞に掲載することま
 で始めた。
  ユダヤの方々が、満州に逃げて来た時、満州にいた軍
 のトップだった東条英機は、当然、日本の方針通り、「
  ユダヤ人の方々の満州国への入国を認めて、満州国へ
 ユダヤ人の方々は入国できている」。
  勿論、船で、日本に逃れて来たユダヤ人の方々も、日
 本に入国できている。
  こんな、杉原千畝の嘘のデッチアゲを、読売新聞は、
 何故(なぜ)に?乗る様な事をするのか?
  この杉原千畝の嘘話は、キリスト教がデッチアゲタ。
  杉原千畝がキリスト教だという事で、キリスト教がデ
 ッチアゲタ。
  逃げて来たユダヤ人の方々へ、日本の方針を無視して
 ビザを出したと・・美しく仕立てた嘘の話をデッチアゲ
 タ。
  この当時、外国の日本国大使をされていた馬淵睦夫氏
 らも、呆(あき)れられている。
  馬淵大使らは、「日本は、ユダヤの方々の入国を認め
 ていたから、どこの大使館でも、ユダヤの方々へビザを
 発給していました」とはっきりと言われている。
  そして、杉原千畝の話は呆れた話で嘘の話だと言われ
 ている。
  何故?こんなはっきりした話に・・日本を貶めるキリ
 スト教の活動方針の話に、読売新聞は乗っかっているの
 か?
  因みに、杉原千畝だけを、キリスト教徒だという事で、
 キリスト教が大きくでっち上げるが、
  杉原千畝以前に、日本は、『日本という国として、ユ
 ダヤの方々を助ける計画を進めていた』、
  そして、また・・、
  1939年6月には、駐ベルリン満州国公使館書記官・王替
 夫氏が、難民にビザ発給し、杉原千畝の倍以上のユダヤ
 人の方々へビザの発給をしてもいた。
  (1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)
  杉原千畝だけを、キリスト教が行なう美化行為は、で
 っち上げのプロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  (参考)史料:
  関東軍のハルピン特務機関長であった樋口季一郎少将
 は、部下とともに、ナチスドイツの激しい反発を受けな
 がらも、東条英機関東軍参謀(後の首相)の許可の下に、
 なんと1万人ものユダヤの方々を、この年(1938年)に救
 っていたという事実がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月25日金曜日

(増補版)462E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年5月)

題:(増補版)462E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年5月5日、札幌製糖会社が設立された。
  甜菜(てんさい・サトウダイコン)は、今、北海道が
 100%の生産。
  寒さに強い作物で、適温は25℃。
  1870年(明治3年)日本の甜菜業が東京に官営で始まり、
 同時に、この年、北海道紋鼈(もんべつ)に製糖所が設
 立された。
  1871年(明治4年)に、現在の函館市で試作され、また、
  1878年(明治11年)に、札幌農学校でも試作された。
  そして、1879年に、現在の伊達市(旧西紋鼈村)に、官
 営甜菜製糖所を建設・操業し、
  1887年(明治20年)に、紋鼈製糖株式会社設立し払い
 下げした後1896年廃止。一方・・、
  1888年に 現在の札幌市(旧苗穂村)に、同じく製糖工場
 (札幌製糖株式会社)を建設・操業した。
  台湾製糖の影響により、1901年に、両社は廃止された。
  (注)1896年に、紋鼈製糖所は、3階建大工場であった
    が、機械がフランス式で技術が悪く1896年に解散
    し、機械は台湾製糖に譲られた・・の、記述もあ
    る。
     そして、1921年に、日甜が、北海道糖業で生産
    を再開した・・とある。
1888年5月5日、特別認可学校規則が制定された。
  法令番号: 明治21年文部省令第3号
  明治二十年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規
 則第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法
 律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学校ニ関シ特別認
 可学校規則ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十一年五月五日 文部大臣子爵 森有礼
  特別認可学校規則
  第一条:本令ニ於テ特別認可学校ト称スルハ明治二十
     年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規則
     第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ
     依リ法律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学
     校ヲ謂フ
  第二条:特別認可学校ハ修業年限三箇年以上ニシテ法
     理学法学通論憲法行政法民法訴訟法刑法治罪法
     商法国際法財政学理財学統計学史学論理学等ノ
     諸学科中七科目以上ヲ学修スル為メ一定ノ課程
     ヲ設クルモノタルヘシ但法律学ヲ主トスル学校
     ニ於テハ擬律擬判ノ課ヲ設クルヲ要ス(以下略)
1888年5月7日、初の博士誕生
  前年・1887年5月に制定された学位令の規定に依り、最
 初の「博士号」が25人に授与された。
  学位は、初めは、1879年(明治12年)に、東京大学の
 学部卒業者を対象に「学位授与ノ規則」が制定され、
  学士称号を学位とみなした。
  そして、1887年(明治20年)に、博士学位制度が導入
 され、
  この年・1888年に、文部省が、学位令によって、加藤
 弘之・箕作麟祥・池田謙斎・菊池大麓・古市公威・鳩山
 和夫・高木兼寛ら25名に、博士号を授与した(日本初の
 博士号)
  因みに、夏目漱石は、1911年(明治44年)に博士号に
 選ばれたが、返上した。
1888年5月8日、枢密院の開院式が行われた。
  天皇陛下の諮問機関。
  この日、5月8日、枢密院開院式が行われ、臨席された
 天皇陛下が、皇室典範と憲法草案諮詢の勅語を下された。
  (参考)諮詢:しじゅん、参考として機関などに意見
     を問い求めること、
  枢密会議において初めて皇室典範を議せ、
  皇室典範、憲法諮詢の勅諭渙発された。
  (参考)渙発:かんぱつ、詔勅(しょうちょく)を広
     く国の内外に発布すること、
1888年5月8日、東京洋紙会社が開業した。
  1888年5月、岩崎家が経営に参画しKobe Paper Mill Co.
 (神戸製紙所、後の三菱製紙)となる。
  日本の製紙業黎明期の6社の一つである。
  1889年12月、製紙会社気田工場が、わが国初の亜硫酸
 パルプの生産を開始した。
  因みに、日本で最初の製紙会社は、有恒社、および、
 抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、パピール・
 ファブリック、神戸製紙所。
  また、この6社に加えて、大蔵省印刷局も製紙機械を導
 入して紙を抄いている。
  (三菱製紙株式会社、百年史などを参考にした)
1888年5月10日、日本石油会社が創立した。
  有限責任・日本石油会社が、新潟県刈羽郡石地村に設
 立された。
  現:新日本石油株式会社
  新潟県にあった尼瀬油田の石油開発ブームを受けて創
 立された有限責任日本石油会社が前身。
  現在、石油・石油化学以外のエネルギー事業で・・、
  液化天然ガスや、石炭の輸入販売や、燃料電池・エネ
 ファームの開発を進めるほか、
  製油所・製造所併設の発電所や、油槽所に設置した風
 力発電設備などを使用した電力卸供給事業 (IPP) や、
 電力小売事業 (PPS) を展開している。
1888年5月12日、陸軍各条令大改正が公布された。
  鎮台制は廃止となり、新たに師団制が採用された。
  (1886年1月28日説あり)
  最初、鎮台制は、有力諸藩の兵士を天皇の親兵として
 結集した(近衛兵の前身)。
  そして、軍備の強化が必要と考えられ、旧武士を編成
 した。
  そして、さらに、徴兵制が制定されて国民皆兵となり、
 国内の重要拠点に置いた。
  国内の内乱対策や治安を意識したのが主眼だった(当
 該地方の警護)。
  1877年の西南戦争のとき、軍の近代化と兵制の改良の
 必要を痛感した明治政府は、富国強兵策をとり、諸外国
 の兵制を取り入れ、師団制をとるようになった。
  因みに、鎮台の歴史は・・
  1871年(明治4年)4月、御親兵が設置され、
  1871年6月、東山 (石巻) 、西海 (小倉) の2鎮台が設
 けられ
  1871年7月の廃藩置県に伴い、1871年8月、これまでの
 鎮台を廃止し、新たに東京、大阪、鎮西 (熊本) 、東北
  (仙台) の4鎮台が設けられた。
  1873年1月に、名古屋,広島に新設された。
  そして・・、
  師団は、独立して行動出来るような編成に拡張された
 集団で、各種の兵種も備えていた(歩兵、騎兵、砲兵の
 全てを有していた)。
  そして、独自の作戦行動をとる事も可能だった。
  日清、日露戦争の時は、これが威力を発揮した。
  海軍は、主要な軍港に、鎮守府を置いて、連合艦隊制
 だった。
  鎮台は国内向けで、師団は外国まで視野にいれた編成
 だった。
  (参考)
  1885年5月、鎮台の下に旅団が常設され、
  1888年5月12日、鎮台を廃止してこれを師団に改編した。
1888年5月14日、陸海軍参謀本部条例改正
  この年の鎮台が廃止され師団が創設されると、それま
 での鎮台の衛戍地域を大隊区に分けた。
  同年・1888年5月の「大隊区司令部条例」(明治21年勅
 令第29号)による。
  管轄区域は、1888年5月14日に公布された「陸軍管区表」
 (明治21年勅令第32号)によって定められ、
  所属する師管、旅管が指定された。
  必要に応じて、警備隊区が設置された。
1888年5月14日、「鎮台條例」 廃止
   「陸軍参謀本部條例」、「海軍参謀本部條例」、「師団司令
 部條例」、「旅団司令部條例」
  この日、鎮台条例を廃止し、師団司令部条例、旅団司
 令部条例を公布した。
  これにより、鎮台は廃止となり、新たに師団が編成さ
 れた。
1888年5月14日、陸地測量部条例が公布した。
   (明治21年5月勅令第25号)
  この年に、陸地測量部が発足するまで、業務は輻輳(
 ふくそう、物事がひとところに集中すること)していた。
  陸地測量部(りくちそくりょうぶ)は、日本陸軍参謀
 本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等に
 あたった、現在の国土地理院の前身の一つで国家機関。
  参謀本部の一局であった位置付けから、本部長直属の
 独立官庁として設置された。
  日本水準原点は、当時の庁舎敷地内(東京三宅坂国会
 前庭付近)に設置されたもの。
.
  (今日の言葉) 中国に関係する話・・
.
  題:中国の『化けの皮』が剥(は)がされて来ている・・
.
1937年、「中国の赤い星」という本が出版された。
  これが曲者(くせもの)の本だった・・、
  共産圏の北朝鮮は、国家ぐるみで麻薬、偽札、マネー
 ロンダリング、他国民の拉致という犯罪行為を堂々とし
 ている。
  また、諜報活動に血道(ちみち)を上げている。
  また、国民監視の密告システムがある、また、国民抑
 制システムがある。
  そして、中国も同じ体質にある・・、
  しかし、中国は、それを分かりにくくしている点、注
 意を要する。
  2005年春の中国の「反日デモ」は、中国政府の指令に
 よる「やらせのデモ」だった。
  しかし、インターネットや携帯電話で集まった自然発
 生的なものだと思わせた。
  また、自然発生だと強く言うという工作まで行った。
  嘘の操作をするという「屋上屋を重ねる」バレバレ行
 為までした。
  巧妙に行なう所は、北朝鮮よりも始末が悪い。
  第二次世界大戦で中国の「撫順戦犯収容所」に捕虜に
 なって収容された日本兵を、徹底的に洗脳した・・、
  そのすさまじさの為、完全にその日本兵の生涯、中国
 の主張通りの事を言い続けるということが起きた。
  あらゆる洗脳がなされ、脅迫もなされ、延々とすさま
 じい洗脳の結果、
  帰国後も、中国を讃美し続け、嘘のデッチアゲまでし
 て、してもいない戦争犯罪まで自(みずか)らやったと
 告白して、懺悔して、日本を貶(おとし)め、中国を讃
 美し続けた。
  人間性を踏みにじられ、中国国家体制維持に利用され
 た元日本兵の哀れな姿があった。
  1937年に出版されたアメリカ人のエドガー・スノーの
 本「中国の赤い星」は、
  毛沢東の半生記が書かれた本であるが、一面、これも、
 日本兵の例の様だった。
  この本は、後で判明した事であるが・・、中国関係機
 関にコントロールされて書かれていた。
  つまり、中国の体質が、逆から解る本ともなった。
  何と! この本は、毛沢東の検閲も受けていた。
  また、エドガー・スノーは、中国共産党が、探し出し
 た共産主義シンパのジャーナリストという事も分かった。
  中国共産党の情報部とも連絡を取り、
  コミンテルンとも気脈を通じている人物だった。
  中国共産党の本拠地の延安にも行くという人だった。
  そして、毛沢東から聞いた話をそのまま描いたという。
  確かめることもなく・・、
  中国共産党政治局も大いに関わっているという「デッ
 チアゲ本」だった。
  この本が出版された時、世界で大反響が起き、そして、
 信じられた。
  長い間、世界を欺(あざむ)き続けた。
  この化けの皮を剥(は)がしたのが、2005年に出版さ
 れた本「マオ」(ユン・チアンとジョンハリデイの共著)
 だった。
  「中国の赤い星」は、共産中国の政治目的を持って、
 世界を繰ろうとする巧妙な嘘の宣伝本だった。
  嘘の「毛沢東像」、嘘の「中国共産党政権像」が、世
 界中に、あたかも強烈に洗脳した状態にした・・
  いや、今も、世界は、その洗脳された状態にいる。
  中国共産党の本当の実態が隠されている。
  また、本当の毛沢東像が隠されている。
  多くの虐殺が隠されている。
  ちなみに、この嘘本「中国の赤い星」を書いたエドガ
 ー・スノーは、死ぬ間際の1972年に・・、
  「自分は騙された(そして、本を書いた)」と、
  そして、後悔しているということを言った。
  今や、世界は、「中国の文化大革命」で、多くの人々
 が殺戮されたことを知っている。
  本の嘘が世界に知れ渡って、やっと、この著者・スノ
 ーは、「自分は騙された」「あの本は欺瞞だ」と言い残
 した、口にした。
  しかし、この明確な嘘の事が、洗脳の恐ろしさからか?
 あまり一般化されていない。
  逆に、その洗脳の恐ろしさが分かる事例となっている。
  そして、中国では、この「スノー」を、大成功の対外
 宣伝作戦の模範だとされている。
  日本の某大学の中国専門課程では、このスノーの本を、
 今だに「推薦図書」としているから、注意したい。
  また、中国は、この逆もしている。
  日本の次期総理候補が・・中国にとって不都合となる
 と、失墜情報を工作する。
  中国工作が、日本のマスコミを利用し、また、日本の
 マスコミが利用されて、日本を繰っている・・繰られて
 いる。
.
1989年、中国、天安門事件が起きた。
.
2004年11月、中国の原子力潜水艦が、日本領海を侵犯した。
.
  続きの(今日の言葉)
.
  題:日本国内に1000人の活動家がいると・・中国外交官が・・、
.
2005年、中国の外交官が亡命した。
  これが、ただの亡命なら何も問題なかったが、
  この中国の外交官は、「日本の国内には、1000人をは
 るかに超える中国のスパイがいて、盛んに活動している」
 と言った。
  2005年、この中国外交官は、オーストラリアのシドニ
 ー総領事館にいた一等書記官で、オーストラリアに亡命
 した。
  また、彼は、中国国内で、中国の民主化の活動をした
 活動家が、身の安全が危うくなり、海外へ逃れても、中
 国は、その活動家を拉致して、中国・本国へ連れ帰る事
 もしていると暴露した。
  約100年前、ロンドンにいた孫文が、当時の中国清朝政
 府に拉致され。
  北京に連れ戻されそうになったが、その血が、今だに
 中国共産党政権にも流れている。
.
  そして、また、続きの(今日の言葉)
.
  題:完全に・・コントロール下にあった。
.
2005年4月9日、中国の中国政府による「官製の反日デモ」
  北京で、日本に対する大規模なデモの一部が暴徒化し
 た。
  4月16日には、上海でも、日本に対するデモの一部が暴
 徒化した。
  これは、中国政府の『ガス抜き行為』が正しい見方。
  2005年4月16日の共同通信社電でも、「ガス抜き狙いが
 裏目」と記している。
  ただ、「中国政府のコントロールがきかなくて、大き
 くなり過ぎた」と言うのは嘘。
  中国政府は、完全にコントロールできる状態にいる。
  このジャンルは、中国政府の『宣伝』と、『工作』が
 酷いジャンルだ。
  完全に乗せられている。
  中国の国民の方々は、酷い格差に、そして、社会に大
 きな矛盾を感じている。
  こうなるのは・・当然の帰結だった。
  中国が、改革開放路線に踏み出した時に、「先に、豊
 かに成る者は、先に、豊かになって貰おう」という路線
 だった。
  格差は、当然、生まれるという、公認のやり方だった。
  貧富の差は、さらに拡がった。
  内陸部の農民の方がたは、相変わらず貧しく、喘(あ
 え)いでいた。
  その恩恵に浴せない不満は鬱積(うっせき)していた。
  そして、失業者層の不満も高まっていた。
  暴動が頻発した。
  また、デモも頻発した。
  そして、中国語で「革命」を意味する「起義」という
 言葉が飛び出る状況、飛び交う状況だった。
  この状況は、中国政府にとっても脅威であった。
  ここで、「反日」「愛国」のデモをやらせて、下手に
 抑え込まないという手に出た。
  反日デモは、中国全土に広がった。
  しかし、政府のコントロールよろしく、どの都市でも
 警察の対応は、初めから「見てみぬふり」だった。
  しかし、政府のコントロール下にあるという事を証明
 する事があった・・、
  2005年5月4日の「五・四運動」の日だった。
  この歴史的抗日記念日には、気が抜けたような静穏の
 日の始末だった。
  まったく何も起こらず、静穏な時間が過ぎていた。
  これは、約1ヶ月前の反日デモが、国際社会から強い批
 判を浴びたからだった。
  中国は、『国際批判に弱かった』。
  中国政府も、「デモをするな」と公言した。
  だから、「ピタッとでもが止まった」、
  大事な記念日なのに、デモは起きなかった。
  中国政府の『完全なコントロール下』にあった。
  天安門のあのデモを強権で抑え込んだ中国。
  国民を弾圧した姿。
  この時の中国の品位のママが示された。
  いつでもどこでも、デモを抑えることなど簡単な事だ
 った。
  演技。
  そして、ガス抜き、
  そして、その使い分け、
  完全に・・コントロールしている状態。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年11月24日木曜日

(増補版)461E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年3月~1888年5月)

題:(増補版)461E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年3月~1888年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年4月3日、雑誌「日本人」が創刊された。
  志賀重昂、杉浦重剛、三宅雪嶺らが、政教社を結成し、
 雑誌「日本人」を創刊した。
  創刊早々、高島炭坑の坑夫虐待問題でキャンペーンを
 組み、国会の大臣弾劾権問題を特集した。
  また、政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判し、頻繁に発
 禁処分を受けた。
  雑誌は、紆余曲折、変転したが・・
  1906年(明治39年)、日本新聞の社長交代を不服とし
 て多くの社員が政教社へ移り、
  三宅雪嶺は、『日本人』誌と『日本』紙との伝統を受
 け継ぐとして、雑誌を『日本及日本人』と改名して主宰
 し、『日本人』誌は通巻449号で発展的に終刊した。
1888年4月9日、陸羯南が、日刊紙「東京電報」を創刊した。
  東京電報は、1889年2月9日に終刊し、
  1889年2月11日から、日本(新聞)となった(~1914年
 12月31日まで)
  事業者:日本新聞社。
1888年4月13日、初の喫茶店
  東京・下谷上野西黒門町(現=台東区上野1丁目1)に、
 日本初の珈琲喫茶店「可否茶館(かひいさかん)」が開
 店した。
  創始者・鄭永慶が、上野ではじめての本格的なコーヒ
 ーショップを開いた。
  1階がビリヤード場、2階が喫茶室の2階建て洋館で、
 コーヒー1杯が1銭5厘、牛乳入れ5厘、席料1銭5厘。
  1杯2銭の牛乳よりは安い。
  開店広告には「珈琲の美味なる思わず腮を置き忘れん
 こと疑いなし」(意味:美味すぎてあごが外れるどころ
 か、 美味過ぎてあごを置き忘れてしまう)
  国内外の新聞や雑誌をそろえ、知的で自由な談論風発
 の場を提供したいとした。
  しかし、3年後に潰れた。
  もりそば1杯1銭の時代に高すぎたという・・、
1888年4月17日、市制、町村制案を内閣で修正後裁可された。
1888年4月18日、仙台に二高、金沢に四高を設置した。
  第二高等学校は、後身の新制大学は東北大学で、
  第四高等学校の後身は金沢大学。
1888年4月21日、三池鉱山払下規則が告示された。
  1889年に、三井財閥に明治政府から払下げられた。
  払い下げられた三池炭鉱は、地下水との戦いから始ま
 った。
  炭鉱は官営で操業がなされ、採炭されていたが、深く
 まで掘り進んだことから湧き水が多く、対策が必要だっ
 た。
  排水を主目的とした『宮原坑』が掘削される計画だっ
 たが、
  三井の責任者となった團琢磨が、宮原坑第一竪坑を、
 1895年(明治28年)2月に着工した。
  当初は地下水との戦いが続き・・、
  3年後の1898年(明治31年)に、排水・揚炭のための坑
 外設備が完成した。
  その後は順調に揚炭・入気・排水・人員昇降その他を
 兼ねる主力坑として・・年間40~50万トンの出炭を維持
 できるように大きく改善して行った。
  1898年第一竪坑の成功の後、更に、1901年に、第二竪
 坑を完成させた。
  次々に難題を克服して、竪坑を完成に導いていった團
 琢磨は、工部省三池鉱山局勤務だった1888年(30歳)の
 時に、三井に炭鉱が払い下げられたため一旦失職した。
  旧三井物産社長の益田孝の招聘で、三井三池炭鉱に入
 社した。
  翌年1889年、三池炭鉱社を組織し、團は総責任者の事
 務長に就任した。
  MIT(マサチューセッツ工科大学)で修めていた鉱山学・治金学
 (MITを1878年・明治11年卒業)、
  更には、湧き水対策を学ぶために、欧米各国の炭鉱施
 設を視察した経験などを活かし、
  的確に三池炭鉱の総合開発・近代化・合理化を進めて
 行った。
  明治日本の産業革命は、何といっても「石炭エネルギ
 ー」が必須であった。
  團琢磨は、1891年(明治24年)蒸気機関車による三池
 炭鉱専用鉄道を開通させて、炭鉱開発に着手した。
  1898年の三池炭鉱宮原坑を皮切りに、万田坑、三池港
 築港と次々に近代化も進めた。
  海外の日本侵略の恐怖から、早急な富国強兵策が必要
 な日本だった。
   金属を溶かす溶鉱炉・反射炉から始まり蒸気で動く機
 関車、汽車、蒸気で進む軍艦、輸送船、電力を作るター
 ビンなどが必要な日本だった。
  この燃料の大半を石炭が担っていた。
  この三池炭鉱の成功を機に、全国各地で炭鉱ブームが
 起きた。
  そして、国民の努力の結集の結果・・わずか50年余で
 日本は、国を護る力を得る事が出来た。
  (九州観光推進機構、ホームページを参考にした)
1888年4月25日、市制及び町村制を公布した(市町村制)
1888年4月30日、枢密院が設置された。
  「枢密院官制」 の公布で、
  憲法審議の天皇諮問機関とする枢密院が設置され、
  伊藤博文が首相を辞任し、初代枢密院議長に任命され、
 就任した。
  内閣の後継として黒田清隆が組閣した。
  枢密院置く(氷川清話)
  勝海舟、枢密顧問官と成る(氷川清話)
1888年4月30日、黒田清隆内閣が成立し、発足した。
  農商務大臣の黒田清隆が、第2代内閣総理大臣に任命さ
 れた(1888年(明治21年)4月30日~1889年(明治22年)
 10月25日)
  伊藤博文は、大日本帝国憲法の制定に専念するため総
 理を辞し、
  初代枢密院議長に転じることになり、
  後任には、薩摩閥の中心的存在のひとりで農商務大臣
 として閣内にあった黒田清隆を推奏した。
  黒田は、自分が務めていた農商務大臣を逓信大臣の榎
 本武揚に兼務させた。
  そのほかは、全閣僚を留任させ、新内閣を発足させた
  (農商務大臣には後に井上馨を専任)
  黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃
 が予想された自由民権運動に対する取締り、そして、欧
 米列強との間に交わされたままとなっていた不平等条約
 の改正実現だった。
  黒田内閣(氷川清話)
1888年5月1日、東京・品川硝子会社が開業した。
  主にビール瓶を製造した。
  1885年(明治18年)政府は、品川硝子製造所を西村勝
 三、稲葉正邦に払い下げ、民営化を図った。
  1888年(明治21年)西村らは、「有限責任・品川硝子
 会社」を設立し、業務を拡張した。
  食卓用の各種ガラス器を製造した。
  また、ドイツ人技術者を雇用し、日本で始めての大量
 生産によるビール瓶製造に乗り出した。
  これは丁度、この年、横浜のビール会社「ジャパン・
 ブルワリー(現:キリンビール:麒麟麦酒株式会社)」
 が、麒麟を商標にしてビールを販売開始したのだった。
  品川硝子会社は、キリンビール用にビール瓶納入を成
 功し、
  1889年(明治22年)には、最高の150名の職工がいたと
 いう。(出典:品川歴史館。講演記録)
  キリン歴史ミュージアムHPには、1888年の重役会議事
 録(英文)がある。
  そして、10月の項には、品川硝子会社との契約に関す
 る議事録がある。
  尚、この時、製造されたビール瓶が、明治村に1本、品
 川歴史館に1本、所蔵されている。
  興味を引くところは、重さ840gと、現代物(約600g)よ
 りかなり重く、
  比重は、現在のものと同じなので、鉛ガラスではなく
 てソーダガラス製で、
  ガラスが4割も厚く、底が2cm位凹んで、ガス圧に耐え
 る設計になっている。
  当時のビール瓶はコルク栓だった。
  王冠で蓋をするのは1900年(明治33年)から・・、
  (ウランガラス同好会、ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:権力者であるのに・・弱い者いじめをする陰湿な権力者・ルーズベルト大統領・・
.
1944年初夏のころ、リンドバーグは、やっと、民間パイロ
 ットの肩書きで戦争に赴くことができた。
  ルーズベルトの「戦争をしたい」という隠されていた
 真実を暴露し・・、
  そして、「戦争の道を回避したい」とする個人のリン
 ドバーグに対して・・、
  権力を持っているアメリカ大統領のルーズベルトは、
 卑劣にも・・追い落とし行為をした。
  ルーズベルト大統領のスピーチライターのロバート・
 シャーウッドさえ・・婉曲に、遠回しに・・リンドバー
 グに味方したくらいだった。
  シャーウッドは言った、「リンドバーグは激しく、そ
 して、雄弁な孤立主義者(戦争反対者)だった。
  ラジオ演説において、ルーズベルト最大のライバルだ
 った」・・と、
  リンドバーグは、明らかに戦争反対を言っていたので、
 この言葉を言ったルーズベルトのスピーチライターの頭
 の中には・・
  「ルーズベルトを、リンドバーグのライバル=戦争論
 者」と表現した・・
  この様に、戦争が始まる前から、このスピーチライタ
 ーの頭の中には、ルーズベルトを、「戦争推進論者」と
 いう見方になっていた。
  戦争が始まると・・リンドバーグは軍務に復帰するこ
 とを拒否された。
  ルーズベルト政権の厳しい追い詰め策の結果だった。
  ルーズベルトは陰湿だった。
  軍務復帰の道は閉ざされた。
  陸軍長官はリンドバーグへ言った、「数々のスピーチ
 で示された(君の)考え方を考慮し、受け入れることは
 出来ない」・・と、
  また、リンドバーグは、ルーズベルト政権の手が回っ
 ていたのか・・民間企業への就職もままならず・・、
  リンドバークは言った、「民主主義は、色々な意見を
 抱擁するはずなのだが、この国の大統領(ルーズベルト)
 は、自分の意見にそぐわないものは排除する様だ」・・
 と・・、
  後になって、1944年初夏のころ、リンドバーグは、民
 間パイロットの肩書きで戦線に赴いている。
  国に忠誠を尽くすためにである。
  戦争の肯定ではない。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:アメリカが行った『日本兵への虐殺と拷問』
.
1944年7月13日、アメリカの卑劣な日本兵虐殺が行われた。
  リンドバーグは書いた・・
  「アメリカ兵の一部が(日本兵)捕虜を残虐に拷問し
 ていることは誰もが知っていた。
  (日本兵)捕虜を射殺りたり、手を上げて降伏する日
 本兵を即座に、まるで、動物の様に殺すことに何の躊躇
 もない。
  降伏してもどうせ殺されるのだから(日本軍には)玉
 砕しか残された道はなかった。
  この点においてアメリカ合衆国が日本よりもモラルの
 点で高いとはどうしても思えない」と。
  (リンドバーグ、第二次大戦日記)
  (感想〉このアメリカ合衆国兵は、東京裁判で裁かれ
 るべきだった・・捕虜虐待で・・、アメリカは卑怯にも
 この事実を隠した。
.
  そして・・
.
1944年9月15日、ペリリューの戦い(~1944年11月25日)
  ペリリューかく戦えり。
  アメリカの提督が、日本兵の勇敢さを讃えた。
  讃えられた日本兵も素晴らしいが、讃えたアメリカ提
 督も素晴らしかった。
  ペリリューの戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19
 年)9月15日から11月25日にかけペリリュー島(現在のパ
 ラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊(守備隊長:中
 川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリ
 アム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・
 ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘。
  アメリカ側の作戦名はステールメイトII作戦は(「膠
 着」の意味)
  要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いる
 という日本軍が見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄
 島の戦いへと引き継がれていくことになった。
..
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2016年11月23日水曜日

(増補版)460E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年3月)

題:(増補版)460E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年1月、日本セメント会社が創業した。
  官営の深川工作分局セメント工場を起源とする。
  (旧)日本セメントを系列化した鈴木商店は、大正末
 期には、大蔵省から台湾銀行を経て鈴木商店理事に迎え
 られた長崎英造を役員に送り込んだ。
  1939年(昭和14年)日本セメントは、浅野セメントに
 吸収合併され、
  1947年(昭和22年)浅野セメントは、新生・日本セメ
 ントに商号変更された後、
  1998年(平成10年)秩父小野田と合併し、太平洋セメ
 ントとなり業界最大手のセメント会社が誕生した。
1888年1月、一字名の雑誌が流行(はや)る(「文」「学」
 「友」「情」「法」など)
1888年2月1日、大隈重信が、外相に就任した。
1888年2月1日、元老院が、町村制修正案を上奏した(2月8
 日説あり) 
  内閣は、市制町村制法案を元老院に付議したが、
  その元老院は、1875 年に設置されたものの、
  後年の国会と違い、公選の議員よりなるものではなく、
 政治家、学者、知事、軍人などがメンバーとなっている
 ものであった。
  また、その権限も不完全なものであり、
  内閣から交付された議案を修正できるが、その修正は
 必ずしも拘束力を持たないといったものであった。
  このように、元老院の審議を経た後、地方長官を招集
 してその意見を聞いた。
  地方長官側より、準備期間を置くことを要望したので、
 府県知事の具申を待って、順次、施行することとされた。
  市制町村制法案は、1888年2月1日に上奏され、
  1888年3月21日に、閣議に提出されたが、
  そこでさらに、市長の公選制(市会が推薦した候補者
 3名の内から、内務大臣が選任し、天皇が任命する)、
  その時点の案では適用外とされていた東京、京都及び
 大阪への市制の適用という変更が行われた。
  このような経緯を経て、市制町村制は・・
  1888 年4月17日に公布された。
  (財団法人・自治体国際化協会、政策研究大学院大学・
 比較地方自治研究センター、立命館大学政策化学部・上
 子秋生教授より)
1888年2月3日、 文部省が、「紀元節歌」を学校唱歌と定め
 た。
  高崎正風詞・伊沢修二曲の「紀元節歌」を学校唱歌と
 して府県・直轄学校に送付した。
1888年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  日刊新聞で、日刊紙『東京電報』の後身として、『日
 本新聞社』から発行された。
  フランスの輪転機を輸入し発刊したが、発行部数が伸
 びず、その稼働率は低かった。
  過度な欧化主義を嫌い、国権の伸張を唱える国民主義
 で、同紙は『新聞停止法』により頻繁に咎められた。
  1888年(明治21年)から 1897年までに22回、延べ131
 日間の発行停止処分を受けた。
  1892年(明治25年)入社の正岡子規(常規)は、最初
 は短歌、後に俳句も手掛けた。
  また、高浜虚子(高浜清)らも投句していた。
  1898年(明治31年)には、正岡が『歌よみに与ふる書』
 を連載した。
  そして、根岸短歌会を経て、短歌のアララギ系や俳句
 のホトトギス派が隆盛となる基礎を作った。
  伊藤欽亮(実業家)が社長に就任すると、新聞『日本』
 は性格を変え、立憲政友会からの支援を受けた保守系新
 聞となった。
  そして、社屋が火事となり、事業継続が不可能となり、
 1914年(大正3年)12月31日廃刊となった。
1888年2月25日、大阪・名古屋・広島・熊本の各師団に、騎
 兵大隊を設置した。
  1888年(明治21年)、大日本帝国陸軍が、鎮台から師
 団に組織変更をした際、
  騎兵の兵力は、1個師団あたり1個騎兵大隊というもの
 であり、この時点では騎兵連隊は存在しなかった。
  騎兵連隊の前身である騎兵大隊は、1888年から1896年
 (明治29年)にかけて存在した。
  1894年(明治24年)~1895年(明治25年)の日清戦争
 時点では・・、
  騎兵第1大隊(東京、第1師団)
  騎兵第2大隊(仙台、第2師団)
  騎兵第3大隊(名古屋、第3師団)
  騎兵第4大隊(大阪、第4師団)
  騎兵第5大隊(広島、第5師団)
  騎兵第6大隊(熊本、第6師団)
1888年2月、皇城(東京城、江戸城)の正殿が完成した。
  中庭に対して南面し、木造平屋建て、外観は和風で入
 母屋造り。
  内部は二重格天井。
  シャンデリア、絨毯などを取り入れた折衷様であり、
 外国使臣に東洋屈指の大美術と賞賛された。
  1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典
 が挙行された。
  1945年(昭和20年)の東京大空襲により他の宮殿殿舎
 とともに焼失した。
1888年2月、鈴木政吉が、バイオリン製造をはじめた(1887
 年説あり)。
  鈴木政吉は、1859年(安政6年)、現在の名古屋市東区
 宮出町に生まれた。
  父・正春は尾張藩士だったが、乏しい家禄で、生計を
 たてるのが困難だった。
  そこで、細工好きの腕を琴・三味線づくりの内職に役
 立てた。
  長兄は夭死し、次男・政吉は奔放に育った。
  8歳から3年間は、漢学を習った。
  その後、様々な勉学に励むが、時代の流れとともに維
 新の政変と貧乏にさいなまれた。
  地代が変わったことで、家禄も奪われ、内職を家業に
 くら替えした。
  政吉は、武士の商法に打って出た父の手助けをした。
  この家業手伝いの2年が過ぎた14歳の時、
  政吉は、従姉の嫁ぎ先である東京浅草の塗物商・飛騨
 屋の奉公人として上京した。
  この奉公生活は、主人夫婦が揃って亡くなるまでの約
 3年間だった。
  この期間の試練は貴重な体験となった。
  深夜には、読売仮名付新聞で文字を覚えた。
  また、記帳や発信の基本を自習したりした。
  この日毎夜毎に養い鍛えた知識が、かけがえのない財
 産となり将来のバイオリン製作に活かされたと、後に語
 った。
  3年後に帰郷し、家業の三味線づくりの下職に従事する
 ようになる。
  政吉は、飛騨屋仕込みの早起遅寝で奮闘し、翌年には
 父から一家をまかされるようになった。
  しかし、大工の半分くらいしか稼げぬ苦境が続く。
  唯一、仕事に対する面白さだけを糧に、苦境に耐えた。
  そして、明治17年に、父が病死する。
  その後の不況は、政吉に、格別な試練となる。
  また、鹿鳴館の鼓動が容赦なく和楽器の需要難に拍車
 をかけた。
  そんな苦境の中、政吉は、高給が望める音楽教師にな
 ることを考えた。
  父の奨めで長年稽古していた長唄の素養を活かせば教
 師になることが可能だと聞いたからだった。
  稽古仲間のつてで、愛知県師範学校音楽教師恒川鐐之
 助の門を叩いた。
  入門後程なくして、運命の出会いとなる。
  政吉は、同門の甘利鉄吉から和製バイオリンを見せら
 れ、たちまちそれに魅了された。
  徹夜でそれを模写た。
  1週間で仕上げ、苦心のバイオリン初作を恒川に見せた。
  そして、その嘉賞と激励を励みに手掛けた第二作が売
 れ、注文も舞い込んで来る。
  助手を数名を雇うようになった。
  1887年(明治20年)初頭のことだった。
  数ヶ月後、岐阜県師範学校に本物の舶来品があると知
 り、政吉は自作を携行してこれに一騎打ちの比較を挑ん
 だ。
  結果は、見事な惨敗だった。
  しかし、その舶来品のバイオリンは、日本の梅雨の湿
 気にやられて板がはがれた。
  何と!その修理が政吉にまかされたのだった。
  この時、この舶来バイオリンを、政吉は、とことん模
 写した。
  これが、製品的にも、また、精神的にも飛躍のチャン
 スだった。
  1890年(明治23年)、生家から東門前町の借家に仕事
 場を移した。
  そして、さらにその翌年に、大枚300円を投じ、向かい
 の住宅を買入、これを工場にして生産・研究を続けた。
  その結果、第3回内国勧業博の有功賞(1890年・明治23
 年)を皮切りに、
  北米コロンブス世界博の賞牌(1893年・明治26年)、
  第4回内国勧業博の進歩賞(1895年・明治28年)を受賞
 し結実していった。
  政吉は、これらの表彰によって自信を得ながらも、用
 材の選定から乾燥の具合、塗装の配合等といった製作上
 のあらゆる難問にぶつかり、経験を積んだのだった。
  しかし、長唄の稽古で養った自慢の耳と、口癖にいう
 “二つのぼう”で、彼はそれらの難問と戦いながらバイ
 オリン製作に没頭して行った。
  二つのぼうとは、辛抱(しんぼう)と貧乏(びんぼう)
 のことだった。
  その様な精神のもと、政吉は、その後に訪れる経済恐
 慌を凌いで行った。
  (鈴木バイオリン、ホームページを参考にした)
1888年3月1日、帝国生命保険会社が開業した。
  後の朝日生命保険相互会社で、古河グループに属する。
  近代的生命保険会社では2番目に設立。
  因みに、タモリは、福岡時代に、同社の保険外交員と
 して3年近く勤務していた時期がある。
1888年3月19日、勝海舟、孫女伊予子誕生(氷川清話)
1888年3月、荏原郡三田村(恵比寿)にビール工場地を購入
  日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)が、東京・
 荏原郡三田村(現=渋谷区恵比寿)に、
  工場地として9000坪を購入した。  
  工場建設(1889年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:正義の人・・リンドバーグ・・
   アメリカよ、歴史に恥ずかしくない行動をせよ!
   目先の利に捉われて・・ずる賢いことはするな! 恥ずかしいことはするな!
.
1939年、リンドバーグが、アメリカに帰国した。
  リンドバーグは、大西洋の単独横断飛行を成功させた
 英雄で・・、
  彼は、アメリカ大統領のルーズベルトが、アメリカ国
 民の方々の意思に反して、戦争へ向かっている事を知っ
 た・・その時・・、
  リンドバーグは、その戦争への道を回避しようと行動
 を開始した。
  ラジオなどで訴えた。
  ルーズベルトの下で、ルーズベルトの意を受けて働く
 内務長官のイッキーズは、
  そのリンドバーグの行動に対抗し、抵抗した。
  リンドバーグ批判を繰り広げた。
  リンドバーグは、ルーズベルトへ、手紙も書いて訴え
 た。
  リンドバーグは、1939年に、アメリカに帰国して以来、
 戦争回避の活動をつつけていた。
  ルーズベルト政権の内務長官・イッキーズは、リンド
 バーグを激しく攻撃した。
  リンドバーグを「ナチの回し者」となじった。
  また、「敗北者」と言った。
  また、「ドイツの荒鷲の騎士」とドイツの回し者を印
 象付けようとして言った。
  リンドバーグは、「大西洋横断の偉業」を、各国から
 表彰されていた。
  アメリカ大使館は、ドイツとの関係を改善したいと、
 ドイツへ、リンドバーグ表彰を強く要請していた。
  ドイツは、その要請を受け・・、
  「大西洋横断単独飛行など航空産業への貢献をした」
 として、ドイツの最高の名誉勲章である「ドイツ鷲十字
 章」をリンドバーグへ与え、表彰した。
  リンドバーグも、各国から与えられる表彰一つと考え
 て、その勲章を受けていた。
  しかし、卑劣にも、ルーズベルトの内務長官イッキー
 ズは、この事を攻撃した。
  リンドバーグは、「アメリカを戦争へ導く」三つのグ
 ループがあると分析していた、
  一つが、イギリスで、戦争が窮地に陥っていた、ドイ
 ツの占領域が拡大の一途だった。
  二つ目が、ユダヤ人、ドイツのユダヤ人の方々への苦
 難から当然だった。
  そして、三つ目が、ルーズベルト政府・・、
  そして、リンドバーグは、戦争への最大の先導者は、
 このルーズベルトなのだと分かっていた。
       (エール大学「リンドバーグ文庫」)
.
  リンドバーグの絡(から)む・・次の話・・
.
1944年6月、太平洋のニューギニアの日米の戦いについて、
 リンドバーグは訴えた・・、
  「アメリカは、残酷な戦いをしている」・・と・・、
  リンドバーグは書いた・・、
  「アメリカ兵は、死者への尊厳を、いっさい、持たな
 くなったようだ。
  敵兵(日本兵)の勇気についても考慮しない。
  遺体の歯を足で蹴(け)って金歯を取り出し、土産に
 する。
  武器も食糧もなく、降伏しようとする日本兵を容赦な
 く射殺する。
  われわれは、果たして本当に文明国家を代表している
 のだろうか」・・(リンドバーグ第二次大戦日記)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年11月22日火曜日

(増補版)459E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年1月)

題:(増補版)459E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年1月1日、日本標準時が実施された。
  制定(1886年)
  1886年(明治19年)に、日本の標準時に関して初め
 て制定された法令が、本初子午線経度計算方及標準時ノ
 件(明治19年勅令第51号)だった、
  1886年(明治19年)7月13日に公布された。
1888年1月4日、日本初の新聞通信社・時事通信社が創立
 された(1888年11月4日説あり)
  三井物産創業者の益田孝により「時事通信社」(現在
 の時事通信社とは無関係)が創立された。
  同社は、当時の内務省警保局長・清浦奎吾(のち首相)
 の肝煎りで設立された御用機関であったが、
  激しい内紛に見舞われ、3年足らずで事実上の休業に陥
 った。
1888年1月4日、山陽鉄道会社が設立され・・、
  1888年4月の株主総会で、中上川彦次郎が、社長に選出
 された
  山陽本線は、山陽鉄道会社により神戸側から建設が開
 始され、
  1888年11月1日に、兵庫駅~明石駅間が開通し、
  1888年12月23日に、神戸駅~姫路駅間が開業し、
  1889年9月1日に、神戸駅~兵庫駅間が開通し、
  そして、順次延長開業し、
  下関までの全通は・・1901年5月27日であった。
  社長の中上川は、線路勾配を「100分の1以下」にする
 用に指示したことから、東海道本線などの他の主要幹線
 と比較しても、ほとんどが平坦な路線となった。
  この事により、勾配緩和のための大規模な線路移設も
 行わないで済む路線となった。
  1906年、鉄道国有法により国が買収し、山陽本線とな
 り、
  1942年7月に、関門トンネルが開通して、終点駅も門司
 となった。
1888年1月8日、東京・日本橋の呉服店越後屋が、洋服店を
 開業した。
  1886年(明治19年)に、洋服部を新設し、
  1888年に、駿河町に洋館建物「三越洋服店」を開店さ
 せた。
    この頃、1883年に完成した鹿鳴館が、華族と在日外
 国人の社交場として洋装の発信地となっていた。
  また、越後屋と競争関係にあった白木屋が、先んじて
 1886年(明治19年)に洋装店を開いていた。
  しかし、洋服は、中々、一般庶民まで浸透しなかった。
  三越洋装店は、早期の閉鎖(1895年末)に追い込まれ
 た・・、
1888年1月10日、三田(農具)製作所が、岩崎由次郎ら3人
 に入札払下げられた。
  1874年(明治7年)前身の内務省勧農局工場(内藤新宿
 農事試験場付農機具工場)が東京新宿に誕生し、農機具
 等の製造を開始した。 
  1879年(明治12年)芝の三田四国町(現在の東京都港
 区芝五丁目)へ移転、三田製作所と改称した。 
  1888年(明治21年)東京機械製造株式会社と改称し、
 各種農機具、煙草製造機、輸入印刷機用部品等を製作。
  1906年(明治39年)国内メーカーとして初の輪転機を
 完成した。
  1911年(明治44年)社名を株式会社東京機械製作所と
 改称した。
1888年1月11日、大日本帝国水産会社(帝國水産会社)が設
 立された(1887年12月11日説あり)
  明治のこの頃、日本の漁業資源の産業化は、日本国内
 における重要な課題の一つであり、
  西川貞二郎(明治期の企業家、近江商人、カニ缶を初
 めて商品化した)は、政府の要請に応じて、大規模漁業
 の事業化に着手した。
  ただし、莫大な資本を必要とするため海産物問屋等へ
 出資を勧誘すると共に、政府にも出資者募集を依頼した。
  三井家がこれに応じ、1888年(明治21年)帝国水産株
 式会社が設立された。
  しかし、直後に、三井家は事業から撤退した。
  そのため、貞二郎が全面的に資金支援を行った。
  当初、社長には政府からの申し出もあり、薩摩出身の
 河野圭一郎が就任したが、会社経営に不慣れであったこ
 とから、三井家撤退後は、北海道庁水産課長の伊藤一隆
 を迎え入れ、貞二郎の盟友である高田義甫を補佐役とし
 た。
  当初は、政府要請もあり千島樺太方面の海獣密漁防止
 のため海獣猟を中心に行っていた。
  しかし、国内の海獣毛皮の需要は乏しく、横浜のイギ
 リス商人を介して、足元を見られた取引に終始した。
  千島・樺太は、古来からの日本の行動地域内で範囲内
 である。
  何故、ロシアが奪おうとするのか・・?
1888年1月26日、国産初の自転車製造会社の帝国自転車製造
 所が創業した。
  東京浅草の向山嘉代三郎が開業した。
  明治21年1月26日付けの郵便報知新聞によると・・、
  帝国自転車製造所で製造販売開始
  従来、内地にて、自転車を製造するものあらざりしが、
 過日の広告に見えしごとく、
  今度、浅草北三筋町なる帝国自転車製造所にて製造を
 始めしに、
  既に、続々、諸方の注文を受ける由。
  また、同製造所にて、両三日前、小松宮より修繕を命
 ぜられたる自転車は、同宮が、先般欧州へ赴かれる節、
 かの地にて買い求められたるものにて、
  総体にニッケルを用い、大小四輪にて、前後二人を乗
 する装置なりと云う。
  明治23年4月1日~7月31日 第3回内国勧業博覧会に出品 
 向山嘉代三郎
   明治27年4月11日付け東京朝日新聞には・・、
  新形安全自転車製造広告、帝国自転車諸機械製造所 向
 山嘉代三郎・・などとある。
1888年1月27日、大隈重信が、外相就任の条件を撤回して入
 閣を了承した。
  大隈の外交手腕を評価する伊藤博文は、不平等条約改
 正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、
  1888年(明治21年)2月より、大隈は外務大臣に就任し
 た。
  同年・1888年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任する
 が、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗
 に遭い、
  1889年(明治22年)10月18日には、国家主義組織玄洋
 社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭
 難事件)を受け、右脚を切断するとともに、辞職した。
  右脚の切断手術は、ベルリン大学医学部で日本人初の
 ドクトルを取得した順天堂医院院長の佐藤進や大隈夫妻
 の主治医であるドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベ
 ルツらによって行われた(「ベルツの日記」)。
.
  (今日の言葉)
.
  題:人種差別の国・・アメリカ・・そして、傲慢な圧力・・
.
1807年1月19日、この日に、アメリカ南部連合の軍司令官の
 リー将軍が生まれた。
  アメリカ史上屈指の名将と評価が高い。
  しかし、南北戦争の発端と言われる1861年4月12日に始
 まった戦いの『サムター要塞の戦い』の後、
  アメリカ連邦軍を辞職し、故郷のバージニアに帰った。
  そして、南部軍の陸軍総司令官にまでなった人。
  リー将軍の戦いは、常に北部軍より劣勢の軍を指揮し、
 補給も乏しい中・・、
  機知に富んだ敵の意表を突く攻撃などによって、北部
 軍と堂々と戦い、戦果を挙げた。
  アメリカ南部の英雄となっている・・だから・・、
  アメリカ南部では・・、
  「リー将軍の誕生日は祝日だ。リンカーンは敵だ」
  アメリカの南部人はこの様に言う・・
  そしてまた、言う・・、
  「南部には、黒人問題なんてもんは無い、勝手に北部
 の連中が作った作り話さ」・・と、
  これは、ある程度まで真実、その様なことがある・・
  しかし、だれが何と言っても、アメリカ人は・・
  「北部人も、南部人も、黒人の方たちを、自分たちと
 同じ人間だとは考えていない」・・(キリスト教の劣悪
 教義の影響が大きい)
  こういうアメリカが・・厳然と・・存在している。
  アメリカに、「ファースト・シティズン」という言葉
 がある。
  「どこにでも入って行ける人間」という意味の言葉だ・・、
  つまり、キリスト教会でも・・とある・・
  ・・という事は、ある人たちに対しては、「入場御断
 りをするキリスト教会がある」ということ・・である。
  また、悲しい事で・・愚かなことだが・・
  「セカンド・シティズン」や、「サード・シティズン」
 や・・、そして・・、
  「それ以下シティズン」が居ることも意味している。
  キリスト教の有色人種蔑視意識が根強くある。
  キリスト教ヒエラルキーの序列が・・厳然とアメリカ
 社会にある・・そして、差別が・・
  そして、このファースト・シティズンは、「最上等の
 白人」をさす事は、『暗黙の了解事項』となっている。
  そして・・、
  2000年代、21世紀に入ったというのに、アメリカは、
 相変わらず黒人の方々たちを人種差別している・・、
  アメリカ合衆国は、アフリカ大陸で生活していた黒人
 の方々を連れて来て、1800年代から家畜同然に使うの奴
 隷状態にして虐(しいた)げて来た。
  自国のプランテーションの安い労働力を得たいと、儲
 けたいと、一番に、受け入れて、また、長く受け入れた
 国・アメリカだった。
  そのアフリカの黒人の方々を、このアメリカに連れて
 行ったのが・・「悪の片棒担ぎのイギリス」だった。
  この『アメリカとイギリスの悪コンビ』が人類最悪の
 行為を行なった。
  そして、この・・あまりにも汚辱にまみれた歴史を払
 拭(ふっしょく)したいと・・
  「この奴隷を解放したアメリカの大統領はリンカーン
 だ」・・と言った・・が・・、
  これも悪の行為の『屋上屋を重ねる不名誉なプロパガ
 ンダ(嘘宣伝)』であった。
  本当に、悪いことを重ねて次々とやる国だ。
  リンカーンは、奴隷解放どころか奴隷を容認する大統
 領だった。
  アメリカ南部が奴隷の悪い行為をしていたという擦(
 なす)り付けも・・「北部人たち」がしている。
  しかし、どうしてどうして・・北部人たちも黒人の方々
 を虐(しいた)げていた。
  アフリカのリベリアという国は、1847年(リンカーン
 が38歳の時)に独立しているが、
  アメリカがこの国を作り、ここへアメリカの黒人の方々
 を棄民しようとして建国した。
  奴隷として使えなくなったら、自由民となったら・・
 棄民という行動に出た。
  リンカーンもこの棄民活動に加担した。
  http://blog.livedoor.jp/kokyo2054/archives/8681199.html
  (リンカーンは、奴隷だった黒人の方々を、そのまま
 アメリカ市民に組み入れようとせず、アフリカへ送還す
 る考えを持った大統領だった)
  アメリカの黒人の方々を、本当に奴隷から解放したの
 は、黒人の方で、アメリカ副大統領候補にもなった・・
  「フレデリック・ダグラス」という方・黒人解放運動
 家だった。
  この様に、アメリカは、「黒人の方の名誉」まで奪う
 行為をしている。
  リンカーンが、奴隷解放者ではないという史実は「た
 くさんある」が、
  その一つは、何と!! 
  リンカーンの大統領就任演説が・・
 「奴隷財産を擁護する論理展開をするという演説」だっ
 た。
  まったく愚かな大統領だったと感じる。
  南北戦争で北部が勝ち、その北部からアメリカ政治が
 始まっているので、
  その時のリンカーンの・・その大統領の「リンカーン
 記念堂」までも建てて、美しく政治の歴史を始めたいの
 でしょうが・・クエスチョンです・・?
  事実と違うプロパガンダ(嘘宣伝)をしている。
  そして、卑劣な事に、今・現代もアメリカは、この黒
 人の方々の差別を続けている。
  アメリカ南部のジャズバンドも、黒人のバンドと、白
 人のバンドは分かれている。
  そして、白人が「黒人のバンドを褒める」にも意味が
 あった。
  ジャズが黒人の方々のもの、天性のもので誉める場合
 と、
  キリスト教宣教師夫人は、明らかに「私は、人種の差
 別はしていません」とあからさまに表現していた。
  この様に、逆をわざわざ言う気づかいを・・言葉で気
 遣わねばならない人種差別国のアメリカなのだった。
  他人の国にはいろいろと口出しし、内政干渉するが・・
 自分の足元を見よ!・・と、強く言いたい・・、
  また、アメリカは、大変優秀である黒人の1人の大学生
 を 卒業させるか? させないか? をひどくもめる国
 なのだ。
  こんな国ってあるのか・・??
  結局、「黒人の卒業生の方々」を、大学が名誉に思っ
 ていない。
  この優秀な黒人の方が、揉めた所は、成績はずば抜け
 ていた成績なので・・問題なのではなく、
  やはり、問題は・・彼が黒人であるという事だった。
  付随的につけられたのが・・在学中に黒人運動をして
 いたという事だった。
  結局、彼は、可哀想に・・卒業を見送られた。
  そして、さらに、彼に押し付けられた差別行為は、北
 部の大学へ転校処置にさせられた。
  彼の運動は、レストランの座り込み行為だった。
  黒人差別をするレストランの前に、みんなと一緒に座
 り込んだだけだった。
  大学は黒人排斥だった。
  黒人運動を応援するこの行為だけの事によって、一人
 の青年の人生が狂ってしまった。
  彼のこれまでの努力も無になってしまった。
  彼の親としても、人間的形成のために、黒人運動に反
 対して、子供(息子)とも対立できない。
  そして、前記した、このキリスト教宣教師夫人は、別
 の所では、別の場所では、年がら年中、南部に対する不
 満と、黒人の方々に対する偏見・差別を言うという状態・・、
  そして、「蔭へ回ると、すぐ私のことを『ヤンキー』
 だ何て言う」「小学校へ行っている末娘が『汚い南部な
 まり』を覚えて来て困る」などなどと言う宣教師夫人レ
 ベルの多くいるアメリカ社会・・、
  立派な大学での教員免状も持っている婦人なのだが?
  アメリカは、人種のるつぼと言われる・・が・・
  その人種のるつぼの陰で、「人種間の偏見のるつぼ」
 と化している。
  だから、アメリカ人が、「人種差別・偏見」を持って
 いないと思うのならば・・そういう風に思い込むのなら
 ば・・それは大いに危険なことである。
  顔には、出ていなくても、人種のるつぼ的な環境の内
 で、至極当然なその心の落ちどころで偏見行為が行われ
 ている・・、
  白人の優越感は、キリスト教が植え付けている・・、
  陰では・・日本人は『名誉白人だ』というレッテルを
 貼られて・・日本人はほっとして喜んでいる・・が・・、
  ほぼ単一民族の中で、その様なことにまったく思いが
 及ばない日本とは、ここが大きく違うところ・・、
  日本人の想像できないところ・・、
  人種偏見の対抗軸に「同族」とか「同族意識」が強く
 アメリカにはある・・、
  黒人の方々は、地方議会であろうと、アメリカでは傍
 聴できない・・、
  だから・・当然と言ってもよいくらい、国政の場も傍
 聴できない・・、
  黒人の方々が、座り込みの『差別撤廃活動』をしてい
 るが、
  涙ぐましいこの活動で、すこしづつ黒人方の入れるカ
 フェテリアなどを開かせることに成功したりしている・・
 が・・、
  また、入れる映画館を作るということもしている・・、
  やり方は、映画館は黒人の方たちに切符を売らない・・、
  だから、切符を売らなかったら、引き下がるが、直ぐ
 に、次が、切符売り場の前に立つ・・、
  これを、延々と繰り返す。
  これで、白人が入れないので、黒人方も、入れざるを
 得なくなるだろう・・として活動している。
  この様なことが、
  アメリカでの、白人の「黒人方への偏見・差別」が、
 200年以上も行われている。
  また、アメリカの圧力で・・、
  日本も英語化されるというが、「いつも、お天気の話
 のレベル」では、国も劣化する。
  また、英語を社内語に採用している会社も、この様な
 道をたどるだろう。
  複雑な理論展開が出来る訳がない。
  また、会社発展の高レベルの微妙な施策が、理路整然
 と、皆に一致して合議、実施されていくわけがない。
  フィリピンの方々が、どれほど苦労したか??
  フィリピンの方々は、アメリカに殺されたり、虐待さ
 れたが、この言葉の上での虐(しいた)げも、酷(ひど)
 い影響を与えた。
  フィリピンでも、アメリカは罪なことをした・・
  そして、日系人の今・・、
  日系アメリカ人は、今・現在、長い歴史の中にあるが、
 彼ら日系人の内で完全にアメリカに同化し、アメリカ人
 になり切っているものでも、
  アメリカ社会で、完全に平等な待遇を受けるところま
 では行ってない。
  その1例を示すと・・、
  初め、アメリカに来て、最初の1年間は、自分が黄色人
 種として差別されているとは、全然、思わなかった。
  しかし、アメリカ人との接触が、濃くなって行くと、
 アルバイトとか、求職の際、電話では何でもなかったが、
 出掛けて顔を見ると必ず断られた。
  白人の友人が付いて来てくれても、結局、どうにもな
 らなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視。
  (参考)フレデリック・ダグラス:1818年~1895年2月
 20日、アメリカ合衆国メリーランド州出身の元奴隷。
  奴隷解放運動家。政治家。新聞社主宰。
  奴隷の家族に生を受け、奴隷としての人生を運命づけ
 られた・・アメリカに根付く考え方で、可哀想に奴隷と
 して生まれてしまった。
  自由の民とはなれなかった。
  奴隷は、文字を習う事も違法とする差別の極の劣悪状
 態のアメリカだった。
  この様な中、彼は勉強に努力し・・そして・・
  逃亡奴隷となり自由を得る。
  23歳の時、マサチューセッツで反奴隷制の演説をした、
 「皮膚の色・性別を問わず、人は皆平等の権利を与えら
 れるべきだ」・・と、そして、新聞も発行した。
  アイルランド・イギリスなどの国外でも奴隷解放の講
 演をする。
  リンカーン大統領などとも奴隷解放の協議をする。
  そして、解放奴隷救済銀行の総裁も務める。
  奴隷解放運動を幅広く展開した・・、
  1872年、大統領選挙では、副大統領候補に指名された。
..
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