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2017年1月10日火曜日

(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)

題:(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月20日、大日本水産会の水産伝習所が開所した。
 後の東京水産大学。
  歴史・・、
  1888年(明治21年)11月29日、東京府認可
  1889年(明治22年)1月20日、開所式:仮校舎
   京橋区木挽町(大日本水産会)
   大みくに とまさん道をわたつみの
      波の底まで ひらきつくせよ(小松宮親王)
  1889年(明治22年)7月31日、日本橋区箱崎町3丁目1番
   地
   北海道庁建物へ移転
  1890年(明治23年)5月31日、芝区三田四国町に移転
   教場2棟、現業教場1棟、事務所1棟
  1893年(明治26年)11月3日、新築校舎落成式(52,140
   m2)教室2階建、食堂、寄宿舎(2階建)、事務所等
  1894年(明治27年)8月31日、火災により教室、寄宿舎
   各一棟焼失
  1895年(明治28年)5月15日、教室・現業場竣工
  1897年(明治30年)3月、水産講習所開設に伴い廃校?
  (港区立、港郷土資料館ホームページを参考にした)
1889年1月22日、徴兵令が大改正され、公布された。
  徴兵令の抜本的改正(1月23日説あり)
  徴兵猶予の制度廃止、戸主の徴兵猶予を廃止
  官吏、官立学校生徒、戸主、代人料納入者などの兵役
 を免除する広範な免役条項が存在していたが、
  再三の改正によってしだいに制限されて行き、この年
 に、徴兵令の抜本的改正が行われ、
  従来の徴集猶予制が廃止され、国民皆兵の原則が図ら
 れた。
  この後の徴兵制の基本的骨格が確定された。
1889年1月23日、三池鉱山が、三井組に払い下げられた。
1889年1月24日、官吏の政事上・学術上の演説、叙述を解禁
 する。
1889年1月25日、石川島造船所が、会社組織に改組して発足
 した。
  沿革・・、
  1853年(嘉永6年)石川島造船所が創設された。
  1876年(明治9年)石川島平野造船所が設立された。
  1889年(明治22年)有限責任・石川島造船所が設立さ
   れた。
  1907年(明治40年)播磨船渠(株)設立(後に合併) 
  1924年(大正13年)(株)石川島飛行機製作所が設立
   された(後の立飛企業(株)、新立川航空機(株)) 
  1929年(昭和4年) 自動車部門分離、(株)石川島自
   動車製作所設立(後にいくつかの合併を経て、いす
   ゞ自動車(株)に
   播磨船渠(株)が(株)播磨造船所に改称した。
1889年1月27日、中外物価新報が、中外商業新報と改題した。
  『日本経済新聞』の前身。
  1876年12月2日、三井物産の益田孝(たかし)らが週刊
   で創刊したタブロイド4ページの『中外物価新報』が
   起源。
  1882年7月、三井物産の手を離れた(週3回刊。
  1885年7月、日刊となり、
  1889年1月27日、『中外商業新報』と改題した。
    経済、財政を中心に、政治その他内外の情勢の報道
   にあたったが、日清(にっしん)戦争後の企業勃興(
   ぼっこう)期ごろから紙面も充実、
   わが国財界の発展とともに社業も発展した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株式
   会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1942年(昭和17年)11月1日、政府の新聞統合令により
   「日刊工業」「経済時事」両紙と合併。
   「日本産業経済」と改題、後の「日本経済新聞」
1889年1月31日、憲法修正案の再審会議が終了した。
1889年1月、『国民之友』掲載の裸体が、話題を呼ぶ(発禁、
 裸美人を口絵にした最初)
  民友社発行の雑誌。
  1887年2月、創刊、
  『新日本之青年』 (1887年) で一躍評論家の雄となっ
 た徳富蘇峰が始めた進歩的評論誌で、初め月刊であった
 が月2回、3回、週刊となり、時の藩閥政府の干渉政策に
 対抗、自由と平等の実現を期する急進的平民主義の立場
 をとった。
  後に、国家主義に転じ、
  1898年(明治31年)『国民新聞』に併合されて廃刊し
   た(別説:1899年8月、第 372号で廃刊)
1889年2月1日、みやこ新聞を都新聞と改めた。
  演劇・文芸記事に特色があって下町好みの新聞であっ
 たが、
  1942年、新聞事業令 (1941.12.公布) により『国民新
   聞』と合併、
   夕刊地方紙の『東京新聞』となった。
1889年2月1日、国府津~静岡間の鉄道が開通した。
  東海道線の開通で(国府津~沼津間は後の御殿場線)
  開通に伴い、新橋~静岡間に直通列車上下2本が設定
 されたが、運転当時は片道7時間5分を要した。
1889年2月1日、静岡一番町で大火。1200戸焼失。
  東海道線の開通日たるこの日、1889年2月1日、静岡県
 庁所在地に於ける鉄道開業故に、開通式典、及び、開通
 披露式には、駅前に移転新設された西洋式旅館・大東館
 に於いて盛大に開催する為に、
  前日までに東京から次々と政府高官が来静し待機して
 いた。
  開業当日深更、静岡一番町在の焼芋屋の残火不始末が
 原因で同家から出火し、
  折から駿河湾から吹く冬の季節風に煽られた事から火
 は次々と燃拡がり、
  静岡町中心部13町1100世帯が焼失する明治22年静岡大
 火が発生した。
  この大火の影響で、中心部から離れた静岡停車場や大
 東館は被災焼失外地で無事だったが、
  時の初代静岡縣知事・関口隆吉(せきぐち たかよし)
 は、被災民の心情に配慮し、開通式典会場を静岡駅構内
 ホーム上に変更し、且つ、会場たるホームを幕で囲み簡
 素厳に執行させ、披露式典に於いて出席者に配布する為
 に準備されていた、幕の内弁当、餅、紅白饅頭、酒類は、
 全部被災民への見舞供与に活用された。
  また、当日は、該県内御殿場に於いても大火が発生し、
  県将来の為に期待を抱いていた者達にとって、幸先良
 い日ではなかった。
1889年2月1日、東京美術學校が開校した。
  東京・上野公園に移転した東京美術学校(現=東京芸
 術大学美術部)が開校し、
  絵画科、彫刻科、美術工芸科、漆工科の4科で、74人の
 生徒が入学した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本・・かく戦えり・・、
.
1943年5月12日~5月29日、アッツ島の戦い(アッツとうの
 たたかい)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍
 のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍
 との戦闘。
  山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊
 は、上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉
 砕した。
  太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北
 (玉砕)が発表された戦いであり、
  また、第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた
 地上戦であった。
  1943年7月29日~、キスカ島撤退作戦、
  1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部
 太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊
 撤収作戦。
  キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず、日
 本軍は無傷で守備隊全員の撤収に成功した。
  このことから「奇跡の作戦」と呼ばれている。
  1944年6月15日~7月9日、サイパンの戦い(サイパンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月
 15日~7月9日に行われ、
  アメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島におけ
 る戦闘。
  斎藤義次中将が指揮する第43師団を、主力とした日本
 軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮
 のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団
 が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。
  このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖
 海戦(6月19日〜20日)が戦われた。
  1944年7月24日~8月2日、テニアンの戦い(テニアンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年7月
 24日~8月2日に、マリアナ諸島テニアン島において行わ
 れた日本軍とアメリカ軍との戦闘。
  テニアン島では、日本軍守備隊側が、民間人の安全に
 配慮した(角田海軍中将が「軍と共に玉砕する事はない
 のですよ」と説明を行った)
  戦闘開始前に、住民の方々は安全な地へ退避してもら
 い、当然、日本軍人が戦った。
  日本軍:戦死者 約8100名、生存者 313名
  アメリカ軍:戦死者 389名、戦傷者 1816名
  1945年(昭和20年)8月6日の広島、8月9日の長崎への
 原爆投下作戦の B-29 は、ここから発進した。
  1944年9月15日~11月25日、ペリリューの戦い(ペリリ
 ューのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15
 日~11月25日にかけ、ペリリュー島(現在のパラオ共和
 国)で戦われた。
  日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)と、ア
 メリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海
 兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)
 の陸上戦闘。
  アメリカ側の作戦名は、ステールメイトII作戦(「膠
 着」の意味)。
  要塞化した洞窟陣地などを利用し、ゲリラ戦法を用い
 るという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリ
 カ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれた。
  1945年2月19日~1945年3月26日、硫黄島の戦い(いお
 うとうのたたかい、いおうじまのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に、東京
 都小笠原諸島の硫黄島において、日本軍とアメリカ軍と
 の間で行われた戦い。
  アメリカ軍側の作戦名は、デタッチメント作戦。
  1945年3月26日~6月23日、沖縄戦(おきなわせん)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年
 (昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリ
 ス軍を主体とする連合国軍と、日本軍との間で行われた
 戦い。
  連合軍側の作戦名は、アイスバーグ作戦(氷山作戦)。
  アメリカの太平洋の島伝いに北上する飛び石作戦は、
 順調に進んで行ったが、
  アメリカ軍の死傷者の数は、欧州戦線に比べてかなり
 多くなっていた。
  欧州方面での戦死者が13万5000人だったのに対し、太
 平洋方面は17万人を越えていた。
.
  そして、・・
.
1945年(昭和20年)4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦
 艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、駆逐艦
 三隻が、敵(アメリカ)の空襲を受けて沈没した。
  「現場の海面で、浮遊物につかまり、漂流中の無抵抗
 な乗組員に対して、
  空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群が、執拗に来
 襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した」
  (矢矧の原艦長の証言)
  「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍
 機は、何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に、執拗な
 機銃掃射を加え続けた」(著書「伊藤整一」、大和と運
 命を共にした第二艦隊司令長官)
  同様な残虐行為は、ニューギニア近海でもおこなわれ
 た。
  1943年(昭和18年)3月3日、この日に起きたビスマル
 ク海戦(空襲)の結果、
 陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が、敵機の
 攻撃により沈められたが、
  沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物に
 つかまり漂流中の千名の兵士達に対して、
  アメリカとオーストラリア軍の飛行機が、低空から機
 銃掃射をおこない、
  機関銃の弾を撃ち尽くすと、基地に戻り弾を補給し、
 映画撮影のカメラマンまで乗せて、何度も、弾の補給に
 往復しては攻撃を続けた。
  「決して男らしいやり方ではなかった」と、第五爆撃
 隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していた。
  「隊員の中には、気分が悪くなる者もいた」。
  救命ボートや、その周辺を、文字どおり血の海に変え
 たその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが、
 十年ほど前に、オーストラリアのテレビ局から放映され
 て、
  国民に大きなショックを与えた。
  「我々は、フェアーな戦をしたと思っていたのに..
 と」。
  (容赦なき戦い、ジョン・ダワー著)
  ちなみに、ハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨て
 た自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止してい
 る。
  アメリカ海兵隊兵士による蛮行  ルーズベルト大統領
 の息子で、海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加
 わっていたカールソン襲撃隊は、
  戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日
 本兵の口中に詰め込んだ。
  太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、また、
 テレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサ
 ーであるシャーマン・グリンバーグが、
  20年後に、カールソン隊員の一人にその時の模様を(
 テレビで)詳細に語っている。
  その隊員は、戦友たちのやった蛮行を写真に撮ってい
 た。
  (ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」
 から)
  「その二」:マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)
 は、戦場で妙なことに気が付いた。
  どういうものか仰向けになった屍体が15~16あり、し
 かもすべて下腹部を露出している。
  死後一週間経っていたため、原形は完全に崩れていて、
 顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
  どうしてこんな格好をしているのだろう。
  被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたの
 か?。
  アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上
 に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種
 の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった
 誰一人として思いつく者はいなかった。
  戦後50年経って、意外な事実を知り、愕然とした。
  それは、マキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物
 語る、翻訳された出版物を読んだからである。
  (マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英
 夫著)
  「その三」:作家・上坂冬子氏の著書によれば、硫黄
 島の洞窟内から、戦後、米兵により持ち去られた日本兵
 の頭蓋骨は1000個にもなる。
  彼等は、それでロウソク立て、灰皿やペン皿を作った
 といわれ、
  また、硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するもの
 が、ロサンゼルスの骨董店で一個25ドルで売られていた。
  (硫黄島いまだ玉砕せず)
  「その四」:リンドバーグが見たもの、1927年(昭和
 2年)に、チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークか
 らパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功
 したが、
  この偉業は、後に、「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」
 の題名で映画化された。
  彼は、1944年昭和19年)に、ニューギニアの米軍基地
 で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、
  その体験を、日記に記して、後に、「第二次大戦日記
 上巻、下巻」として出版した。
  (この本は、私が読んだ後に、どういう理由からか絶版
 になった)
  それによると、彼は、戦場で見たものにショックをう
 けた。
  それは、兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、
 米兵が、日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、そ
 れに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
  たとえ、敵味方に別れて戦い、軍服に違いがあるとし
 ても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命
 は使命として、認めなければならないにもかかわらず、
 太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラも
 ないことを発見した。
  そこでは、士官も、兵士も、日本人に対する人種差別、
 蔑視から、自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単
 なる動物としか見ていなかった。
  1944年(昭和19年)6月21日、この日の日記には、
  日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後
 ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」という
 のを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将
 軍との会話を要約している。
  残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あ
 われみ」をもって軽くあしらわれた。
  6月26日の彼の日記には・・、
  日本兵捕虜の虐殺、および、パラシュート降下中の日
 本航空兵の射殺について述べている。
  降伏し捕らえられた二千数百人という日本兵捕虜のう
 ち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人
 に過ぎなかった。
  残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告さ
 れた。
  「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたと
 いう話が、日本兵に広がれば、投降しようという者など
 まずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。
  つまり、黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な
 手間や面倒がはぶけるという理由からであった。
  7月13日の日記では、
  「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようと
 する兵士を射殺することをなんとも思わない。
  彼等は、ジャップに対して、動物以下の関心しか示さ
 ない。
  こうした行為が大目にみられているのだ」と記されて
 いた。
  8月30日に、リンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸
 島にあるタラワ環礁を訪ねた。
  そこでは、日米の激戦が行われ、米軍も甚大な死傷者
 が出たのだが、
  日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
 尋問に英語で答えられる者だけを残し、
  あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。
  ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後
 ろ手に縛られた日本人捕虜達を、輸送機に乗せて収容施
 設のある地域に輸送する際に、彼等を、飛行中に突き落
 とす行為がおこなわれた。
  そして、報告書には、捕虜全員が自分から飛び降りた
 と記録された。
  (以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ
 著)
  ニューギニア戦線でのオーストラリア軍や、マッカサ
 ー指揮下の第四十一師団は、
  「捕虜を取らない」、つまり、武器を捨て両手を上に
 挙げて降伏しようとする日本兵や、
  既に、降伏した日本兵を殺するので有名だった。
  軍事歴史家デニス・ウォーナーは、1982年年に出版し
 た日本の特攻隊に関する本の中で、
  ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。
  そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オー
 ストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃
 する。
  「しかし、彼等は、傷つき、おまけに降伏を望んでいま
 す」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦
 場で、部下の大佐が司令官に反論した。
  「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた
 日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)
 は答えた。
  「捕虜はいらない。
  全員射殺してしまえ」。
  そして、彼等は撃たれた。
  日本軍も、負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関
 する情報をつかんでいて、
  戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、
 第四十一師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んで
 いた。
  終戦直後、ある米陸軍大尉が、公表した記事には、第
 四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付け
 られていた。
  この師団が、例外的に、日本兵を捕虜にしたのは、軍
 事情報の収集のために、捕虜が必要な場合だけであった。
  (容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、
 カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著)
  アメリカ軍の日本の病院に対する爆撃  昭和十九年
 (1944年)五月二十四日に、
  ブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、
 米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百
 名が死傷した。
  病院の屋根には、国際法の定めに従い、上空からよく
 見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもか
 かわらず、それを無視して、病院の建物に対して爆撃や
 銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこな
 った。
  日本兵の遺体を損壊する行為  日本兵を自分達と同じ
 人間とは見なさない連合国兵士による、死体や、死にか
 けた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集
 し、
  戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたこと
 も、
  米国民の間で戦時中からよく知られていた。
  日本軍との戦いを前にして、武勇自慢をし合う若い兵
 士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキ
 スが記録している。
  「ジャップは、金歯をたくさん入れているそうだが、
 それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。
  「おれは、奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣
 言する。
  「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年)
  戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)
 七月の記述に、すでに、十七個の金歯を集めた海兵隊員
 がいて、
  その最後の金歯は、サイパンで負傷してまだ手を動か
 している日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出し
 て取ったものだ、と事もなげに述べられている。
  (容赦なき戦争、ジョン・ダワー著)
  太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の
 死体から 手を切り取って、戦果のトロフィーとする、
 金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、
 恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活か
 ら、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員
 の様子を目撃した。
 (E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録)
  「その五」:フィリピンのラグナラ州カランバには、
 日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、
  ここは、フィヒリピンにおける最大規模の収容所であ
 った。
  米軍の発表によれば、収容された捕虜のうち、戦争が
 既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養
 失調で死亡した日本兵捕虜は、一万二千人にものぼった。
  もし、日本側の捕虜収容所が、このような米兵の大量
 死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級
 戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑にな
 ったことは間違いない。
  しかし、ここの米軍責任者は、誰も罪を問われなかっ
 た。
  そこには、「バターンの死の行進」に対する復讐の意
 図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対
 して必要な食糧補給をしなかったからである。
  (孤島の土となるとも、B C 級裁判)
  「その六」:ベトナム戦争においても、かなりの数の
 アメリカ軍兵士が、ベトナム人の頭蓋骨を収集していた
 が、
  アジア人が、アメリカ人兵士の死体に対して、このよ
 うなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるか
 は、考えてみる価値があるだろう。
  (米英にとっての太平洋戦争、下巻)
  太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、
 人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッ
 セル・スーパーは述べています。
  「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮する
 ことに、気がとがめなかった。
  彼らは、太平洋において人種戦争を常に派手に戦って
 きた。
  新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官
 連中は、公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すより
 も悪いことではないと言明した。
  この残虐性は、四ヶ月後に、広島、長崎でその頂点に
 達することになる」
.
  参照:http://soumoukukki.at.webry.info/200802/article_4.html
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年1月9日月曜日

(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年(明治22年)1月1日、日本標準時が開始された。
  1886年(明治19年)7月13日に、日本の標準時に関して
 初めて制定された法令である「本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件(明治19年勅令第51号)」が公布された。
  そして、この日、適用された。
1889年1月1日、東京~熱海間に、公衆市外電話の通話が開
 始された。
  市外電話創始の地の碑がある・・、
  熱海市役所から北へ200メートルの地点にあるレイホー
 ニューフジヤホテルの敷地内に、この碑はある。
  その碑文の概要は・・、
  温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明
 治の頃、多くの政治家や政府高官が、保養や会談のため
 来遊したので、東京との連絡が非常に多く、
  そのため、東京~熱海間に電話回線が敷かれ、明治22
 年1月1日に開通しました。
  東京の電話交換業務が開始されたのが、それから2年後
 の明治23年12月でした。
  それまで、熱海側は、内務省きゅうき館(熱海電信局)、
 東京側は、木挽町にあった東京電信局で、通話料のほか、
 呼出手数料をとって、公衆電話の取扱いを開始したもの
 です。
  これが、わが国最初の市外通話です。
  きゅうき館のあったのが, この場所でしたので、わが
 国市外通話発祥の地を記念して「市外電話創始の地」の
 碑を立てました。(中略)
  東京で、電話交換業務が始まるより前に、東京~熱海
 の市外電話ができていたとは、当時から、大物政治家や
 有名人が、多数熱海に来ていたことが分かる。
1889年1月1日、高島炭坑で、新規募集坑夫らが、募集係の
 約束不履行に反発して紛争を起こした。
1889年1月3日、朝日新聞が、大阪朝日新聞に改題された。
  大阪本社発行の「朝日新聞」が、「大阪朝日新聞」と
 改題された。
  1940年9月1日には、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題
 号を「朝日新聞」に統一した。
1889年1月7日、英・仏・露・墺・伊の各国駐在公使へ、改
 正条約草案を送付し、条約改正交渉再開を開始した。
1889年1月16日、水戸~小山間の鉄道が開通した(今の水戸
 線)。
  水戸鉄道(みとてつどう)は、現在の東日本旅客鉄道
 (JR東日本)水戸線及び常磐線の一部を建設、運営した
 私設鉄道である。
  1889年に開業し、1891年に日本鉄道に事業譲渡され、
 消滅した。
1889年1月16日、枢密院が、憲法修正案につき再審会議を開
 催した(1月17日説あり)。
  この日、枢密院は、憲法草案の第二審会議を開催し、
 当日の内に、ほぼ原案通り可決した。
  これを受け、伊藤は、1月27日、井上、伊東、金子とと
 もに、枢密院第三審会議に提出する憲法草案を協議した。
  その結果、枢密院第三審会議に提出された憲法草案に
 おいて、質問条項について「両議院ニ於テハ文書ヲ以テ
 政府ニ質問ヲ為スコトヲ得」(第50条)と、
  「両議院」が主語から外され、主語を明記していない
 ものの「議員」と読むのが自然なように修正された。
  この修正について、伊藤は、1月29日の第三審会議で
 「両議院ハト云フトキハ必ス議院ノ名ヲ以テスルヲ要ス
 ルカ如シ故ニ之ヲ改メタリ」と説明した 。
  「十月草案」以来の憲法草案が「議院の質問権という
 思考を維持してきた」にもかかわらず、「その観念を放
 棄するという意味をもった」。
  この修正に対しては、同日の審議で議院全体の名で質
 問がなされるべきとの異議が唱えられた。
  審議は、翌日に持ち越され、逆に「議院法ニ明文アル
 ヲ以テ足レリ」として野村靖枢密顧問官から本条削除の
 提案が出された。
  採決の結果、出席者18名の内、10名が削除に賛成し、
 質問権の条文は削除されてしまった 。
  これにより、質問制度は、帝国憲法に位置づけられた
 質問権から、議院法に位置づけられた議事手続へと後退
 することとなった 。
  そして、帝国憲法は、1889年2月11日に発布され、
  1947年に、日本国憲法が施行されるまで、改正されな
 かった。
  1月31日、議了。
  2月11日、大日本帝国憲法発布。
  また・・、
  (新庄勝美氏論文「1889年帝国憲法の公布:立憲主義
 時代の開幕に向けて)には、以下の様な記述がある。
  枢密院第一審会議は、1888年(明治21年)6月18日から
 はじまり、7月13日に議了している。
  議決された憲法草案は、天皇陛下に奉呈され、天皇陛
 下は、これについて内閣での再検討を命じられた。
  再検討とはいうものの、実際は、伊藤博文が中心とな
 って作業が進められ、
  枢密顧問官を除いて閣僚だけの要人たちによる事実上
 の修正審議だった。
  そこでまとめられた24ヵ条の修正条項は、翌・1889年
 (明治22年)1月初め、閣議で了承された。
  枢密院の再審会議に付すべき憲法・議院法等の修正決
 議案の決定をみたのは同・1月12日だった。
  なお、皇室典範は、この時には除外されていた。
  1889年1月16日に開会した第二審会議に報告されたこれ
 らの修正決議案については、内閣による修正条項に限り
 審議し、第一読会を省いて開かれた第二読会で同日に可
 決された。
  この第二審会議後、伊藤議長は、修正条項に関して内
 閣法律顧問・ロエスレルに意見を求めるとともに、井上、
 伊東、金子を招いて議決事項の再検討を行う機会が設け
 られた。
  その後も見直しがなされ、細かい規定ミスに手が加え
 られ、修正箇所が16ヵ条となった憲法修正原案が、同・
 1月29日~1月31日の3日間にわたり開かれた第三審会議(
 1回の読会で議事決了する方式)において決定された。
  そこでの会議の進め方は、第二審会議の例にならい、
 議長による修正諸条の朗読に続いて、意見提出があって
 も議決で賛成を得られなかった諸条と意見未提出の諸条
 については表決せずに可決とするという手順で進められ
 た。
  このように議決されていった憲法草案を最終確認する
 ために、1889年2月5日に、最後の枢密院会議が招集され、
 字句の対校を行った上で「大日本帝国憲法」(7章76条)
 と題して清書され、
  皇室典範や議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令など
 とともに、天皇陛下に上奏された。
  枢密院会議における憲法審議は、天皇陛下臨御のもと
 に厳粛な雰囲気のもとに進められた。
  「三審会三読会」方式の会議は、日数にすると14日間、
 午前と午後をそれぞれ1回の会議として計算すると24回、
 通算時間数は46時間50分にわたった。
  枢密院での審議経過・会議全体はきわめて効率よく、
 淡々と進められた。
  憲法起草者や枢密院顧問官のそれぞれの矜持の火花を
 散らしての激しい応酬も時にはあった。
  帝国憲法原案の起草作業に心血を注いできた憲法起草
 者にしても、「維新以来文勲武勲中より」選ばれた顧問
 官にしても、近代立憲国家体制づくりという国事に共に
 携わっている以上は、激しい質疑応答のやりとりがあっ
 ても不思議ではなかった。
  自説に固執する顧問官に対して質問・討議の打ち切り
 を宣した議長、
  顧問官の質問・提案への果敢な論駁を試みた起草者、
  説得力ある例証によって顧問官の質問に答えた井上毅
 や伊東己代治らの報告員、
  これら「語り手」たる起草者らに対して「聞き手」の
 立場に甘んずることなく論戦を繰り広げた顧問官。
  これらの会議参加者による議論の応酬の末に、重要な
 条項修正も可能になった例が少なからずあった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教教義「シャローム」から来る無条件降伏の要求
.
1942年11月8日、アメリカとフランスが戦う
  北アフリカのカサブランカ上陸で、アメリカとフラン
 スが戦った。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、完全にアメリカの
 『国益を追求』して、第二次世界大戦まで仕掛けたが、
  それらの史実の一端はすでに示したが・・
  色々の史実で・・そのことが・・分かるが、
  そして、その一つが・・以下・・、
  「ルーズベルトは、フランスのドゴールを嫌った」。
  フランスのドゴールは、イギリスへ逃げ・・「自由フ
 ランス」を掲げ・・名乗っていた。
  そして、「フランスの栄光」という言葉もよく使った。
  そして、誇り高き・・また・・気位の高いドゴールの
 「フランスの栄光」という言葉には、
  アフリカやアジアにある『仏領植民地の復活』を意味
 していた。
  しかし、イギリスも含め、英仏の植民地主義は、アメ
 リカの『国益』にそぐわないと、ルーズベルトは嫌った。
  英仏からの解放をも含む大東亜共栄を目的とする日本
 と路線は一致していた。
  実は、アメリカとフランスは、この第二次世界大戦で
 戦っている。
  カサブランカ会談の前に行われた「北アフリカ上陸作
 戦」で、アメリカとフランスの「初めての軍事衝突」が
 なされた。
  1942年11月8日、アメリカ軍の上陸部隊(アイゼンハワ
 ー将軍)は、4つに分かれて、モロッコのカサブランカや、
 アルジェリアのアルジェなどに上陸した。
  大した抵抗はないとしていたが、そこに居た「フラン
 ス植民地軍が抵抗した」。
  フランス植民地軍は、アメリカに植民地が取られると
 見えた。
  フランス植民地を奪いに来た「侵略軍と解釈した」。
  その抵抗は激しかった。
  まだ、これまで本格的な戦闘経験をしていなかったア
 メリカ軍は、大きな犠牲を出した。
  悲惨な状況となった。
  アメリカ軍の上陸用舟艇が浜辺に着くたびに、フラン
 ス軍から猛烈な砲火を浴びた。
  上陸できない状態が続いた。
  アメリカ軍のアイゼンハワー将軍は、やむなく停戦交
 渉をせざるを得なかった。
  フランス植民地軍の発言力があり、また、本国のビシ
 ー政権の要人ジャン・ダルランと停戦交渉をした。
  因みに、ダルランは、フランスがナチス・ドイツに降
 伏する時、ドイツに協力し、その見返りにビシー政権の
 指導者アンリ・ペタン将軍の後継者に指名されていた。
  そして更に、アイゼンハワー将軍との交渉では、フラ
 ンス領北アフリカ全域の高等弁務官という地位を、アメ
 リカとイギリスに保証させ、そして、停戦に応じた。
  ダルランは、この後、1942年12月24日、フランス人青
 年に撃たれ、その銃弾に倒れている。
  また、アイゼンハワーは、アイゼンハワーで、「ダル
 ラン取引」と言われるこの停戦交渉について、アメリカ
 国内で批判を受けた。
  そして、困ったことが生じた。
  それは、ダルランの地位を保証したため、「フランス
 領の北アフリカが、まるで独立をしたかのような格好と
 なった」。
  そして、最高司令官に任命されたダルランに、連合国
 から武器と弾薬あ提供され、ドイツと戦うダルランが作
 り出された。
  ルーズベルトは、このダルランと、ジローを支援した。
  イギリスが、ドゴールを推している姿勢と違った。
  ちなみに、ジローは、1879年生まれ、1940年にドイツ
 軍の捕虜となったが、
  1942年に逃亡し、アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦に
 合わせて連れて来られていた。
  アメリカは、そりの合わないドゴールに代わって、こ
 のアンリ・ジロー将軍を据えようとしていた。
  この様に、複雑なフランスは、1940年6月、ドイツ機甲
 師団の破竹の進撃に、フランスは、あっさり降伏し、
  それ以来、フランスは、アメリカの味方なのか? 
  それとも・・準敵国なのかさえ、分からなくなってい
 た。
  この様に、ドイツに融和的なビシー政権に抵抗するド
 ゴールを、イギリスは拾い上げた。
  アメリカと違った路線だった。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(~1943年1月23日)
 (~26日説あり)
  アメリカのF・ルーズベルト大統領とイギリスのW・
 チャーチル首相が、モロッコのカサブランカで開いた第
 3回連合国戦争指導会議。
  この時の最終日に、無条件降伏をルーズベルトは示し
 た。
  無条件降伏をルーズベルトが口にした時にチャーチル
 は絶句した。
  チャーチルは、「そこまで要求していいのか?」と反
 問した。
  歴史上にもない「異例」な条件だったからだった。
  その様な例は、今まで無かったからだった。
  それまでの通例の「講和会議」に持ち込んで終戦する
 という通常のやり方ではなかったからだった。
  ある条件における終戦を拒否した「それまでにない常
 軌を逸したルーズベルトの異例さ」があった。
  「日本嫌い」のルーズベルトと・・、
  キリスト教に洗脳された「日本人という蔑視さるべき
 有色人種」に対するルーズベルトの完全絶滅の後に来る
 「キリスト教の『シャローム』の平和」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトがあった。
  日本には、このキリスト教教義により突き付けられた
 「条件の一切を認めない」という事から、とことん戦い
 続けるしか道は残されなかった。
  卑劣な条件を、敗けると分かっている日本に突き付け
 たルーズベルトだった。
  戦争を長引かせることと、この異常さにチャーチルは
 反対したが、ルーズベルトはここを押し切って、ルーズ
 ベルトの思い通りに事は進んで行った。
  この様なマル秘の話は、めったに公にされなかった。
  アメリカとイギリスの首脳だけの会談・・と言うより
 密談だった。
  そして、米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について、
 シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決
 めた。
.
1943年1月21日、アメリカ大統領のルーズベルトは、北アフ
 リカの上陸作戦を成功させた約2万人のアメリカ第5軍兵
 士を慰問していた。
  この時のルーズベルトの心境は・・、
  太平洋でのミッドウェー海戦(1942年6月5日)で、日
 本の機動部隊をほぼ壊滅していて、
  日本との戦争の決着がほぼ見え・・、
  そして、今、アフリカ上陸作戦を成功させて、第二次
 世界大戦の決着が見えて来ていて、
  ルーズベルトは、この時、アメリカ兵たちとともに、
 ジャズバンドの演奏する「チャタヌガ、チューチュー」
 の軽やかなメロディーを聞きながら、アメリカ兵たちは
 笑い声でリズムをとる声をを快(こころよ)く聞いてい
 た。
  昼食が並ぶテーブルがあった。
  北アフリカのカサブランカ会談は、1943年1月14日に始
 まっていた。
  ソ連首相のスターリンは欠席していた。
  また、中国の蒋介石は招待されていなかった。
  故に、結局、米英の首脳会談となっていた。
  ソ連は、この時、ドイツの200個師団(約200万人)と
 壮絶な死闘を繰り広げていた。
  このアフリカの米英が、上陸作戦をした地には、30万
 人のドイツ・イタリア軍が居た。
  1941年6月以降、イギリスは、ドイツとの本格的な交戦
 を避けるようになった。
  それに対して、ソ連の方は、ドイツとの戦いが厳しく、
 スターリンが、カサブランカ会談に欠席するくらいだっ
 た。
  これは、すでにこの時、大戦後の姿を見る戦況の状況
 になっているからだった。
  次なる対抗軸上に居るソ連が見え始めていた。
  ソ連軍を消耗させ、
  さらに、ソ連の国力そのものの減退を招かせようとし
 ていた。
  戦後になって、欧州における「そのソ連の脅威」を阻
 止するためだった。
  だからソ連は、ドイツの軍が、ソ連に集中している現
 状を辛(つら)いと思っていた。
  アメリカ・イギリス軍によるフランス上陸を、今か今
 かと待っていた。
  この第二戦線が、早く出来て、ソ連へのドイツ軍の攻
 勢が弱まってもらいたいと思っていた。
  スターリンは、疑惑を持っていた。
  そして、その疑惑が強くなっていた。
  スターリンは・・、
  「あなた方が約束した第二戦線はどうなったか?
  もうこれ以上、時間を浪費すべきで無い」・・という
 電文をルーズベルトへ送りつけた。
  結局、このスターリンが望む第二戦線が出来るのは、
 ソ連の消耗を進ませようと実行を遅れに遅らせた。
  結局、ソ連が、ドイツを破り、ソ連の勝利が確定した
 後の「ノルマンディー上陸(1944年6月6日)」まで第二
 戦線は形成されなかった。
  「スターリングラードだけでなく、ロシア中央でも、
 ドイツとの戦闘が激しくなっている。
  こんな時に、ロシアを離れられる訳はない(カサブラ
 ンカ会談に出席できるわけはない)」のスターリンだっ
 た。
  ルーズベルトは、「ドイツの戦後を話し合おう」とい
 う状況・心境であった。
.
1943年1月24日、ルーズベルトの無条件降伏の要求宣言が出
 た・・、
  カサブランカ会談の最終日だった。
  アメリカ軍幹部を含め、だれ一人も予想しないものだ
 った。
  イギリス首相・チャーチルは怒り、その怒りで顔が青
 ざめていた。
  そして、「これでは、ドイツ軍の決意を強めるだけだ」
 と批判した。
  誰もが・・日本とドイツが、最後の一兵になるまで戦
 う決意を固めたと思った。
  ルーズベルトは言った・・、
  「皆さんに知ってもらいたい、ドイツと日本の戦争能
 力を、完全に破壊するまで、決して平和はやって来ない
 です。
  我々は、ドイツ、イタリア、日本に対し、無条件降伏
 を突き付けたい」・・と、
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトは、キリス
 ト教の「シャローム」の教義・考え方があった。
  「完全破壊をして平和が来る」という教義で、キリス
 ト教の歴史に、有色人種の絶滅が多いのは、この卑劣な
 教義の影響・・、
  アメリカ国務長官コーデル・ハルは、これを聞いて言
 葉を失った。
  ハルは、「ドイツなど枢軸国などは、冷静な判断を無
 くして絶望的な戦いを繰り広げ、
  結果として、破壊されつくした敵国は、自ら復興でき
 なくなり、最終的に、アメリカがその責任を負わなくて
 はならない」・・と。
  ルーズベルトは、反省したのか? 1943年12月に、「
 無条件降伏は、ドイツ、日本の指導者に求めたものだ」
 と訂正した。
  そして、「無条件降伏は、ドイツ、日本の一般市民に
 求めたのでは無い」・・と否定した。
  故に、日本の歴史教科書にある「日本は、無条件降伏
 をした」という記述は、間違い。
  ルーズベルトの後のトルーマン大統領も、一時は、無
 条件降伏を口にしたが、
  沖縄戦で手ひどい反撃を受け、更なるアメリカ兵の死
 を回避したいアメリカ軍指導部は、即座に、条件受け入
 れを了解した。
  だが、アメリカ政府内に、無条件降伏にこだわる意見
 もあった。
  そして、アメリカは、論議の末に、結局、「天皇、及
 び、日本政府は、占領軍最高司令官に従属する」という
 条件で・・日本の国体維持の『有条件』での日本の降伏
 の形となった。
  しかし、この様ないざこざが終戦を遅らせる最大の原
 因になった。
  日本の子供たちの歴史教科書の『無条件降伏の記述を
 訂正せよ!』。
.
1945年8月14日、日本は、『降伏』をアメリカに通達した。
  戦争が終わった。
  戦争を、その身に痛く感じた方々は、開戦の悪さは言
 わなかったが、終戦の遅さは『悪かった』と言われた。
  卑劣なルーズベルトが、日本の国体まで奪おうとして
 いたことが・・終戦が延び延びになった原因だった。
  アメリカとソ連が、停戦を送らせていた・・、
  ソ連には、日本領土が欲しいという理由があった、そ
 して、日本領土を奪い・・
  そして・・
  アメリカは、無条件降伏という前例のない、そして、
 何ら実のない空論の「シャローム」の観念からくる要求
 があった。
  そして、その「シャローム」の完全破壊の原爆投下と、
 その原爆の威力を知る実験がしたかった。
  戦後に来る、ソ連との対抗軸上にある武器のデーター
 を得たくて、卑劣な非人道的な原爆を投下した・・
  そして・・
  「シャロームの観念上の国体まで奪おうという卑劣さ」
 があった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年1月6日金曜日

(増補版)477E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)477E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年、歌・流行・世相:
・「的」の字が大流行
・中村福助人気:薄ねずみ色の襟や、紳士コートが流行。
  中村福助(9代目)は、歌舞伎界を代表する女形として活
 躍した。
・電気時計:アメリカから輸入され正確さが評判
.
1889年、演劇:
・東京・木挽町に歌舞伎座が開場:11月21日、
  歌舞伎の専用劇場を、福地源一郎(桜痴)が、東京市
 京橋区木挽町(今日の東京都中央区銀座)に建設した。
  外観洋風、内部はすべて日本風で、舞台間口 13間(約
 23.63m)、奥行 16間(約 28.96m)、回り舞台直径 9間
 (約 16.29m)と 7間(約 12.67m)の蛇の目回し、本花
 道 5尺(約 1.52m)の機構であった。.
1889年、発明:
・意匠:知的財産権、我が国初の意匠の制度が設けられた。
 この年の出願件数:176件、因みに、1988年(昭和63年)
 は5万1000件。
.
1889年、医・衛生:
・北里柴三郎が、破傷風菌の純粋培養に成功した。
.
1889年、教育:
・水産伝習所(現=東京水産大学)が開所:1月20日、
・東京美術学校開校:2月1日、東京・上野に東京美術学校
 (現=東京芸術大学美術部)が開校。絵画科、彫刻科、
 美術工芸科、漆工科の4科で、74人の生徒が入学した。
・日本法律学校(日本大学)が設立。
・東京仏学校と東京法学校が合併して、和仏法律学校と改
 称(現=法政大学):9月9日、
・東京音楽学校編 「中等唱歌集」(埴生の宿など)
・幻灯機:娯楽から教育教材として利用されるようになる。
.
1889年、災害・防災:
・横浜相生町で大火、焼失1600戸:3月22日
・熊本地震。死者20人(7・28熊本大地震(死傷者94人)。
.
1889年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・「相撲会所」が「東京大角力協会」になる:1月。
 日本相撲協会の前身。
.
1889年、その他:
・ 婦人矯風会:一夫一婦制確立の運動
・公開会議中の野次がきっかけで傍聴規則検討の機運が生
 まれる。
・印刷工同志会結成(氷川清話)
・新聞・雑誌の郵税半額となる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルト大統領が、部下を一喝し・・戦争への道へ・・
.
1939年1月16日、アメリカ大統領のルーズベルトが、部下の
 反対を・・一喝して押さえつけ・・アメリカの法律違反
 のフランスへの爆撃機などを提供する決定を、この日に
 した。
  ルーズベルトは、「戦争をしない」と何回も宣言して
 大統領に当選したが、アメリカ国民の方々の期待を裏切
 る行為を、第二次世界大戦がはじまる前、大分以前から
 行っていた。
  それも、アメリカの法律違反を誤魔化すため、カナダ
 に販売したように装って、その様に見せかける書類を作
 って、フランスへ兵器を提供した。
  この日、ホワイトハウス閣僚室に、ブリット(計画を
 担当させた)、モーゲンソー(財務長官)、ハリー・ウ
 ードリング(陸軍長官)を集めて協議した。
  最新のダグラス爆撃機をそっくりそのまま提供すると、
 ルーズベルトが言い出した時・・、
  「軍の機密が多くある」
  「開発にアメリカ政府の予算が使われている」などの
 反対意見が出た・・しかし・・
  ルーズベルトは、激しい口調で一喝し、悪計の法律違
 反行為が行われることとなった。
  この後、当然、アメリカの議会調査委員会の追及を受
 ける事になったが・・、
  ルーズベルトは、「アメリカ政府の関与はない」と嘘
 を言った。
  また、言い逃れと、言いくるめで、ことは進んだ。
  これの・・どこが・・アメリカの民主主義だと言うの
 か?
  ルーズベルトは、「民主主義のために、全体主義と戦
 う」と言ったが・・? ルーズベルトこそ『総統』とま
 ったく同じだった。
  リンドバーグは激しく抵抗した。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトを信じていた。
  そして、8割以上の方々が戦争反対の世論だった。
  リンドバーグの夫人は、本を出し「民主主義の危機を
 訴えた」「ルーズベルトが良いというが・・果たしてそ
 うなのか?」・・と訴えた。
  この本は、ベストセラーとなった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結された。
.
1939年9月1日早朝 、ポーランド侵攻(中央ヨーロッパ夏
 時間) 、
  ドイツ軍と、その同盟軍であるスロバキア軍とが、ポ
 ーランドへ侵攻した。
.
1939年9月3日、イギリス・フランスが、ドイツに宣戦布告
 をした。
  ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが、
 相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約、ポー
 ランド・フランス相互援助条約)を元に、1939年9月3日に、
 ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
.
1939年9月17日、ソ連が、ポーランドに侵攻した。
  ソビエト連邦軍が、ポーランド領内に侵攻し、ポーラ
 ンド東部を占領した。
  そして、1940年にフィンランドからカレリヤ地方を獲
 得し(ソ連・フィンランド戦争)、バルト3国併合、ルー
 マニアに旧ロシア領ベッサラビアを割譲させた。
  第二次世界大戦の当初は、ポーランドを共に占領して
 いたドイツとソビエト連邦であったが、
  1941年6月22日に、突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、
 戦争状態となった。
  当時のソ連は、国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボ
 ナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼称
 した。
  一方、ドイツ側では、主に東部戦線と表現された。
  アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギ
 ーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の
 戦争であると認識していた。
  1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロ
 ッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。
  日本が関わる「日ソ中立条約」で、1941年、相互の領
 土不可侵を約束した(ソ連は、この後、一方的にこの条
 約を破り、日本に侵入してくる)。
  その様な、この頃の時の流れの中で・・、
  1939年9月1日が、ドイツ軍が、ポーランドへ侵攻し、
 第二次世界大戦の始まりとされている・・が、
  約1週間前の1939年8月23日には・・、
  独ソ不可侵条約が・・秘密条項を持った独ソ不可侵条
 約が締結されていた・・、
  そして、1939年9月1日早朝 (ヨーロッパ時間) ドイツ
 軍がポーランドへ侵攻し、
  1939年9月3日に、イギリス・フランスが、ドイツに宣
 戦布告をした。
  (因みに、独ソ戦は、1941年6月22日から開始された)
  この頃、アメリカ大統領のルーズベルトは、以下の様
 な言葉を言った、
 「ドイツが、第一次世界大戦で負けたにもかかわらず、
 このドイツとイギリスの金融家たちは・・、
  これまで随分と長い間、一緒になって、世界貿易を支
 配し、金もうけをして来た。
  アメリカにとって、これは、非常に宜しくない」と。
  そして、また言った・・、
  「アメリカを、世界貿易から締め出してきたドイツと
 イギリスが戦争を始めた今・・、
  アメリカは、これにどう対応すべきなのか?
  (ドイツの)ナチズムは憎むべきで、アメリカの国益
 も心情も、イギリス側にあるのは間違いない。
  だが、人の良いアメリカとはいえ、いつでも大英帝国
 の救援にかけ付けるとは限らない」・・と。
.
  1939年11月、アメリカは中立法を廃止した。
.
  1940年7月、アメリカが、イギリスへの無制限の援助を
 行なうことを表明した。
.
  1941年2月、アメリカが、「安全水域」をアメリカ沿岸
 部に設定していたが、これを大幅に拡大して、ヨーロッ
 パ近くまで拡張した。
  これは、ドイツ商船の位置を通報するというアメリカ
 の中立精神に反する事でもあり、ドイツに対しての敵対
 的行動を増大させていた。
.
  1941年8月9日~8月12日、大西洋会談
  大西洋上で、ルーズベルトと、イギリス首相のチャー
 チルとの会談(大西洋会談)がなされた。
  その時、イギリス首相チャーチルは、アメリカの参戦
 を促した。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、はっきりしたОKの
 返事は避けた。
  代わりにルーズベルトは言いたい事(異議)があった。
  イギリスのチャーチルには、植民地の権益を守りたい
 という考えがあった。
  そして、ルーズベルトにも、「(大西洋会談による)
 大西洋憲章は、有色人種のためのものではない」という
 発言があり・・、また、次の発言の様に・・
  「ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べ
 たものだ」・・と側近に語っている様に、キリスト教に
 洗脳されたルーズベルトには、有色人種蔑視の精神から、
 公正な、人種差別のない考え方はなされていなかった。
  そして、ルーズベルトには・・、
  「大英帝国に属するインドなど植民地諸国」と、イギ
 リスの間の特恵貿易(オタワ合意)が引っ掛かっていた。
  イギリスは、それまで自由貿易の立場をとって来てい
 たが、
  1931年、一転して特恵貿易の国家となった。
  1932年、カナダのオタワで結ばれたオタワ合意で・・、
  イギリス帝国の植民地とイギリス本国だけの関税特恵
 地域をつくり、外国製品を締め出していた。
  そして、今、大西洋会談となり(カサブランカ会談の
 1年半前の1941年8月3日)、ルーズベルトは、魚釣りと偽
 (いつわ)って、側近と、カナダ・ニューファンドラン
 ド島沖へと出かけた。
  これが、ルーズベルトと、イギリスのチャーチル首相
 との初めての顔合わせの大西洋会談だった。
  ルーズベルトは、この点、植民地を死守して、自分た
 ちだけの利益を得たいという考え方のイギリス・フラン
 ス・オランダとは違っていた、これは、日本と同じ立場
 であった。
  ルーズベルトは、アメリカの参戦によって、戦争に勝
 利して、イギリスやフランスの植民地が復活する事には
 反対だった。
  1943年1月14日~1月23日のカサブランカ会談でも、ル
 ーズベルトは言った、
  「戦争が終われば、植民地諸国は次々と独立する事に
 なるでしょう」・・と。
  カサブランカ会談で、「自由な通商」と「民族自決」
 の2項目が盛り込まれた。
..
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2017年1月3日火曜日

(増補版)476E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)476E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年、報道・新聞:
・秋田魁(さきがけ)新報と改題した:2月15日
  秋田魁新報社が1874年2月2日に創刊されている。
  東北地方で最も長い歴史を持つ日刊の新聞。
  首相となる犬養毅が主筆を務めた。
・大阪の「朝日新聞」が「大阪朝日新聞」と改称した。
  1879年1月25日、『朝日新聞』が大阪で創刊された。
  1888年7月10日に、発行元の朝日新聞社が東京へ進出し、
 『東京朝日新聞』を創刊した。
  大阪で発行される新聞の題号はその後もしばらく『朝
 日新聞』だったが、
  1889年1月3日に、『大阪朝日新聞』と改題した。
・『日本』(にっぽん)は、1889年(明治22年)2月11日~
 1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞。
・「ウォール・ストリート・ジャーナル」が創刊された。
  アメリカの経済新聞であり、発行元はダウ・ジョーン
 ズ社。
.
1889年、通信:
・東京電信局と熱海の間で、日本初の公衆用の市外通話が
 行われた:1月1日、
・電信架設:10月23日(旧9月19日)横浜裁判所構内に電信
 機役所が設置され、東京~横浜間に電柱と電線を張る電
 信架設工事が着工された。  
  電話創業:1890年
.
1889年、論・文学・本:
・ 「復古記」(全15巻)
  『復古記』(ふっこき)は、明治政府の編纂した、戊
 辰戦争を中心とした記録をまとめた編年体の史料集で、
 この年に完成した。
  『復古記』の原史料は、未整理のまま東京大学史料編
 纂所に保管されていたが、宮地正人(みやちまさと、歴
 史家、東京大学名誉教授)らによる整理が進められ、
 1991年(平成3年)4月に、一般公開された。
・ 「史學會雑誌」 創刊 、『史学雑誌』創刊(12月)
  史学会は、1889年に創設された、歴史学の学術団体で、
 1889年12月に機関誌『史学会雑誌』を創刊し、まもなく
 「史学雑誌」と改称した。
  1929年、財団法人となり、
  2012年4月からは、公益財団法人。
  本部は、東京大学文学部内に置かれている。
・ 「満洲地誌」 刊行
  陸軍歩兵中佐の守田利遠の編述による、出版社は丸善。
  歴史・地理・民族の情報が記されている。
  朝鮮・満州を精力的に論じた朝鮮及満州社が手がけた
 朝鮮・満州・シベリアの地誌。
・「壬生浪士始末記」 西村兼文(にしむらかねふみ)
  西村兼文は、幕末の京都西本願寺の侍臣(仕える人)
 で、この著者で、「新選組始末記」とも言う。
 『新選組始末記』(しんせんぐみしまつき)は、子母澤
 寛の小説としても存在する。
・「日本紳士録」 交詢社(こうじゅんしゃ)出版局
  紳士録は、1849年のイギリス:A.& C.ブラック社から
 創刊されたものが最初であるが、
  社会的地位のある人々の氏名、住所、経歴、職業、趣
 味、家族関係などについて記載するのが普通で、
  日本では、本著の1889年の「日本紳士録」第1版(交詢
 社)が最も古い。
  福沢諭吉が設立した社交団体「交詢社」は、本著を80
 版を重ねて来た人名録であり、
  中央省庁の局長級以上、上場企業の役員、作家、弁護
 士、医師など10万人の経歴などが記されているが、
  この80版で休刊された。
  報道に於いて、その理由を、2005年の個人情報保護法
 施行以来、削除依頼が相次いだのが理由という・・、
  そして、1903年の「人事興信録」(人事興信所)がそれ
 に次いで古い。
・ 「文学評論しがらみ草紙」 創刊(1889年10月)
  1894年8月終刊、全59冊(月刊誌)
  森鴎外が、弟の三木竹二 (森篤次郎)、妹の小金井喜美
 子(きみこ)、井上通泰(みちやす)、落合直文(なおぶみ)
 らと、西洋文学に立脚する文学論確立のために始めた日
 本で初めての文学評論誌。
  文壇の流れに柵(しがらみ)をかけるという使命感(流
 れを整える)のもと、文学評論や翻訳に大きな役割を果
 たした。
  特に、鴎外が評論で活躍し、石橋忍月(にんげつ)との
 『舞姫』『うたかたの記』論争があり、また、坪内逍遙
 (しょうよう)との没理想論争がある。
  幸田露伴・落合直文らが執筆し、浪漫主義の拠点とな
 り、文芸評論を文壇に確立した。
  没理想論争は、逍遥の没理想(理想や主観を、直接、
 表わさないで、帰納的批評を説いた)に対して、鴎外は
 理想なくして文学なしと応酬した論争。
  (参考)帰納:きのう、推理・思考の手続きの一つ。
      個々の具体的な事柄から、一般的な命題や法
      則を導き出すこと。
・ 「言海(げんかい)」(編:大槻文彦) :近代国家として認
 められたいために・・、
  国語学者の大槻文彦が、明治期に編纂した国語辞典で、
 日本初の近代的国語辞典とされている。
  1875年(明治8年)に、当時、文部省報告課に勤務して
 いた大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に、国語辞典の編
 纂を命ぜられて、編纂を開始した。
  国の辞書があるということは、その国を近代国家とし
 て認めさせる手段の一つだったため、当時のイギリス、
 アメリカ、フランス、ドイツなどでは、国語辞典作りが
 盛んに行われていて、
  明治政府は、「日本が近代国家の仲間入りをするため
 には、日本語という国語を統一する必要があり、そして、
 我が国にも国語辞典が必要だ」と考えた。
  1882年(明治15年)に、初稿を成立させたが、校閲に
 4年をかけ、完成したのは1886年(明治19年)であった。
  元々は文部省自体から刊行される予定であったが、予
 算が無いため出版が立ち消えそうになり、
  結局、1891年(明治24年)に自費出版することになっ
 た。
  最初は、四六倍判の四分冊として出版され、その後、
 一冊本や上下に分かれた二冊本、判型が異なった小型や
 中型のものが刊行されていった。
  大槻の没後に、大幅に改訂がなされた『大言海』も発
 刊された。
・ 「東洋之婦女」(植木枝盛)
  植木枝盛は『東洋之婦女』を書き、女性の参政権を認
 めて男女が政治的に平等になるべきだと主張。
・「風俗画報」(2月10日)
  日本初のグラフィック雑誌:写真や絵を用いて視覚に
 訴える雑誌。
  版元は、東京日本橋葦屋町の東陽堂で、特別号を含め
 全518冊。
  小林永濯・富岡永洗の子弟など、多くの日本画家を起
 用し、写真や絵などを多用し、江戸時代から大正時代に
 かけての世相、風俗、戦争、文学、歴史、地理など視覚
 的に、当時の社会風俗を解説した。
・憲法注釈書が、多数、出版された。
  1888年6月18日~7月13日に、「大日本帝国憲法」の草
 案が、枢密院の第一審会議で審議され、
  1889年1月16日には、再審会議がなされ、
  1889年1月29日~1月31日には、第三審会議がなされ、
  この年・1889年2月11日に、大日本帝国憲法が公布され、
 た。
  そして、この年、「憲法義解」が出版され、英訳本も
 出された。
  「大日本帝国憲法」とその逐条注釈の本も出されたり
 した。
  大日本帝国憲法衍義、伊藤巳代治遺稿(信山社出版)
  伊藤博文著『憲法義解』など・・、
・「陸軍歴史」勝海舟、編纂成る。30巻(陸軍省出版)
 (氷川清話)
  陸軍省の懇嘱(こんしょく)によって、1840年(天保
 11年)高島四郎(長崎町年寄)による洋砲採用の建議に
 端を発し、
  1868年(慶応4年)に至る30年間の幕府陸軍及び国防に
 関する事項を編集したもので、上巻=陸軍改制・砲銃鋳
 造・砲台築造・沿海警備他がある。
・夏目金之助が、子規の『七艸集(しちそうしゅう)』を
 評して、子規に送った文に、初めて「漱石」と署名した
 という、
  一説には、子規から譲られたともいう:5月、
・漱石房総旅行:8月7日~30日、夏目漱石が房総を旅行。
  この年、漱石が23歳の時、友人らと房総を旅し、漢文
 で旅行記「木屑録」を記した。
   鋸南町の保田で海水浴を楽しみ、鋸山に登った。
  そして、その後、東金、銚子を経て帰京した。
   この木屑録に刺激されて、子規は、1891年に市川、船
 橋、佐倉、成田、大多喜、小湊、鋸山を歩き、
  俳句でまとめた紀行文の「かくれみの」を書いた。
  正岡子規に見せるためにつくった木屑録(ぼくせつろ
 く)は、24日間の長旅から帰ると、10日程で、この紀行
 漢詩文集を書き上げ、9月9日に完成した。
  2人は、紀行作品に対する感想を手紙でやりとりして
 友情を深めていった。
  そして、この木屑録は、すべて漢文で、「おそらくは
 明治時代の漢文としてもっともすぐれたものの一つ」と
 言われている(中国文学者の吉川幸次郎)
・『日本人』(にほんじん)は、1888年(明治21年)4月~
 1901年(明治39年)12月まで発行された、政教社の政治
 評論雑誌。
  1902年から、『日本及日本人』になった。
  政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判して、頻繁に発禁処
 分を受けた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:愚かな第二次世界大戦の戦勝国たち・・、
.
1945年4月12日、アメリカ大統領のルーズベルトが死んだ。
  ルーズベルトが、突然の脳出血で死んで、この突然の
 死で、ソ連のスターリンは、アメリカ大統領ルーズベル
 トとヤルタで結んだ密約が、新しいアメリカ大統領の下
 でも実施されるのか?・・を、心配した。
  スターリンの不安は、少しづつ現実のものになった。
  アメリカとソ連の間が、『完全一致』の状態から、離
 れた状態が生まれて行った。
  新しいアメリカ大統領のトルーマンが、ルーズベルト
 のヤルタ密約が、異常と捉(とら)えて、修正しようと
 したのか?
  または、アメリカ大統領の死によって、より自分に有
 利な形にしたいと考えたのか? 
  何しろ、米ソの食い違いが生まれた。
  合意の解釈を巡って・・米ソは対立した。
  そして、悲惨な事に、このルーズベルトが思い付いて
 スターリンを繰ったが如くに見えたヤルタ密約は・・、
  「悲惨な第二次世界大戦が戦われ、多くの血が流され
 たというのに、その大戦後にも・・禍根を残した」。
  浅はかなキリスト者・ルーズベルトの行動の悲惨な結
 果が出て来た。
  1945年8月14日、日本が、降伏を連合国に伝え、日本は
 この日に降伏し、戦争は終結した。
  そして、翌日の8月15日には、日本は、前日に降伏した
 ので、
  この日に、日本国民へ、天皇陛下が、その事を発表さ
 れ、伝えられた。
  国民などへ、その意味を説かれ、忍び難きを偲ぼうと
 諭された。
  この様な時を経て後も、ルーズベルトの「そそのかし」
 は、その禍根を継続し、戦争が終結しているのに、ソ連
 軍が、日本の北方領土などへ侵攻し続けていた。
  また、中国の内戦は激化して行き・・
  また、ソ連と金日成の軍が、朝鮮半島へ侵攻して来て、
 戦乱状態は続き、危機状態が続いた。
  浅はかなルーズベルトの思惑の禍根が続いた。
  ヨーロッパでは、ポーランドが親ソ派となることで、
 内戦の危機となっていた。
  ソ連が、日ソ中立条約を、ルーズベルトのそそのかし
 で破った様に、アメリカもソ連との約束を破り、
  ソ連もアメリカとのヤルタ密約通りに行動しないとい
 う、裏をかいた者が、裏をかかれるという、「シッチャ
 カメッチャカ」の世界だった。
  『愚かな第二次世界大戦の戦勝国たち』だった。
.
  そして、・・
.
1945年4月17日、ソ連のスターリンが、アメリカに要求した
 武器提供は、「マイルポスト合意(1945年4月17日に署名)」
 として成立した(ルーズベルトの置土産的になった)・・、
  この「マイルポスト合意」によって、アメリカは、ソ
 連軍が、3ヶ月間、日本と戦える武器と弾薬の提供を了解
 し、合意し、提供した。
  これが、本当に、愚かな、馬鹿なことになる・・、
  アメリカは、1945年、日本をだますために、日ソ中立
 条約によって中立国となっていたソ連の船を使って、
  アメリカの武器・弾薬を、日本との中立国・ソ連とい
 う偽りの形をとって運んだ。
  日本海を抜けて、何ら支障なく、ソ連のウラジオスト
 クに、80万トン相当の武器や弾薬を運び込み、陸揚げし
 た。
  (日ソ中立条約を悪用して、この様な卑劣な事をした
 アメリカだった。
  この後、ソ連は、この悪用した日ソ中立条約を破棄し
 て日本へ侵攻して来る。
  まったく、卑劣としか言いようがない)。
  このアメリカが援助した武器・弾薬を使って、ソ連は、
 日本へ侵攻して来る。
  まったくの・・ソ連の日ソ中立条約違反の武器の輸送
 行為などである。
  アメリカは、その悪行為の卑劣な片棒担ぎをしている。
  アメリカは、ソ連をそそのかして、ソ連に武器弾薬を
 提供して、日ソ中立条約を破棄させて・・というハレン
 チ行為をしている。
  アメリカの正義も、何も、アリはしない。
  アメリカのルーズベルト大統領のやったことだった。
  本当に不正義な男だった。
  日本は、一旦条約を締結すると誠実に、その条約を守
 るが、ソ連の、そして、アメリカの正義なんてどこにあ
 るというのか?
  アメリカ大統領という地位にあるルーズベルトは言っ
 ている・・、
  「自分が有利になるなら、嘘だってつく」・・と。
  国の信用や信頼を背負っている男が言う言葉ではない、
 軽蔑すべきルーズベルトであり、アメリカだった。
  また、ルーズベルトの嘘をつく体質が現れているのが、
 中国に関する所だった。
  ルーズベルトは、秘密裏に中国に支援をする命令を出
 している、そして、アメリカの正規軍を中国で日本攻撃
 をさせている。
  日本の真珠湾攻撃以前に、日本を攻撃させている。
  秘密裏にである。
  これこそ、アメリカの日本への奇襲攻撃である。
  真珠湾攻撃の日本の攻撃を『奇襲』だなんていう根拠
 はない。
  また、アメリカは、金や武器を中国に支援するという
 事をしている。
  アメリカの大義名分は、日本が、侵略行為をしている」
 だった。
  アメリカだって侵略行為をしているのにである。
  中国の権益をしゃぶって甘い汁を吸っているのにであ
 る。
  日本が満州を得たのは「侵略ではない」。
  日露戦争で、ロシアから移譲(いじょう、権限や権利、
 財産などを譲り移すこと)されたのである。
  侵略なんかではない。
  また、アメリカ・イギリスは、日本に「シベリアに出
 兵してくれ」と依頼して来ている。
  都合のいい時は出兵してくれと、日本と一緒にアメリ
 カも、イギリスも出兵している。
  これを侵略と言うならアメリカも、イギリスも侵略し
 ている。
  この様に、アメリカは、中国のあちこちの権益を得て
 いながら、日本の事を侵略しているという罪を日本にだ
 けにかぶせる。
  そして、ソ連が、中国領を侵攻し、欲しがったら、許
 可している。
  中国に対しては秘密にしておこうと、ソ連へ言って、
 やっている。
  中国へのソ連の主権侵害に、許可を与えているアメリ
 カなのだ。
  中国の大連を「国際港」というごまかしの言い方で、
 実質は、ソ連の港になることを認めているのである。
  南満州鉄道も、同じ様に、「中国と共同管理で」なん
 て言って、実質はソ連のものとして認めている(ソ連の
 侵略行為のアメリカの許可である)。
  アメリカは、悪知恵を働かせて、秘密裏に、ソ連に中
 国主権を侵害し、領土や鉄道などを渡している。
  実質は、アメリカはソ連のものと認めている。
  ルーズベルトは、「中国に知らせると情報が漏れる」
 からと、アメリカは強く秘密にする事をスターリンへ要
 求して卑劣な事をしている。
  この事について、アメリカの国務長官のステティニア
 スに対しても秘密にするという、大統領ルーズベルトの
 卑劣さだった。
  そして、ルーズベルトは、この一連の会談について「
 欲しいものは、すべて手に入れた」と言ったが、
  すべて嘘と秘密で手に入れただけ・・で、
  自分さえよければ良いと、筋の通らないことをしてい
 た。
  こんな時代の流れの中で、何百万の方々が亡くなった。
  (参考)
  武器貸与法(レンドリース法):アメリカのルーズベ
 ルトは、この法律を作って、世界中に厖大な武器を渡し、
 ばら撒いた。
  法律は、1941年3月11日に成立し、開始された。
  この法律は、1941年4月に中国にも適用された。
  アメリカは武器庫の様になり、アメリカの工場はフル
 回転し、景気は回復した。
.
  そして、何と??・・第二次世界大戦後になれば・・??
.
1945年10月初旬、アメリカが、日本に助力を求めて来た。
  日本は、8月14日に、降伏を通達し、降伏した。
  その様な日本へ、その降伏の約2ヶ月後に、日本に助力
 を求めたとは・・?、嘘の様な話であるが、信用できな
 い様な話と思われるでしょうが、本当の話だった。
  まったく馬鹿々々しい、馬鹿な話である。
  その様な・・アメリカであった。
  日本を殲滅(せんめつ、皆殺しにすること)しようと
 したアメリカが、2ヶ月後に、日本に助力を求めたのであ
 る。
  アメリカは、日本を殲滅しようと、国際法違反の日本
 の一般市民をターゲットにした『原爆投下』や、
  日本の大都市など各地の一般市民を、国際法違反のじ
 ゅうたん爆撃で殲滅・殺戮して来たが、
  日本が、8月14日に降伏しての、その約2ヶ月後には、
 その日本に助力を求めて来たのだった。
  それで、アメリカ軍と日本軍は、共に、一緒になって、
 中国の天津で、中国・毛沢東軍に対峙し、戦った。
  このアメリカ軍は、元々は、日本が破れて終戦となっ
 て、日本軍の武装解除の為に、中国に来た軍だった。
  そのアメリカ軍が、日本に助力を求めて来たのであっ
 た。
  アメリカ大統領のルーズベルトの愚かな「ソ連へのそ
 そのかし」で、
  東アジア地域で、そのスターリンの領土欲に火が付い
 て、
  領土・奪い取りに火の付いたソ連は、手がつけられな
 かった。
  それと共に、悪いことを一杯して、裏切りもやってい
 た。
  その端緒となったアメリカの当事者のルーズベルトは
 死んでいて、
  その後を継いで大統領となったトルーマンは、1945年
 8月11日には、見るに見かねて、『秘密指令』を出した。
  日本攻撃の太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカー
 サーと、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミ
 ッツに宛てた「秘密の指令電文」には、
  「中国の大連港と、朝鮮半島の京城(現在のソウル)
 外港を占領せよ」・・とあった。
  ソ連のスターリンの火の付いた領土欲に、慄(おのの)
 いたアメリカ大統領トルーマンは、秘密指令を出したの
 だった。
  ソ連が、「不凍港が手に入るではないかと、ルーズベ
 ルトがそそのかした大連港」を、ソ連が取りに来る前に、
 アメリカ軍が、先に、その大連港へ行って占領してしま
 えという秘密指令だった。
  しかし、勢いのついたソ連の方が、早く・・、
  大連港や満州全域をあっと言う間に、ソ連によって奪
 われてしまった。
  そして、尚かつ、1945年8月14日には、ソ連は、中国・
 蒋介石・国民政府と、条約を結んでいた(中ソ条約〉・・、
  ソ連へ、大連港と満州鉄道の権益(アメリカが欲しが
 って手に入れつつあった権益)を、蒋介石は認めていた。
  この条約の交換条件は、「ソ連が、中国・共産党政権
 (毛沢東)を支援しない」というものだった。
  そして、前記の1945年10月初旬には、天津(北京の南
 東150キロ)の港を毛沢東の軍によって包囲され、激しい
 銃撃にさらされていた。
  戦っていたのが、アメリカと日本の連合軍だった。
  アメリカの海兵隊(第三海兵師団)の5万3000人は、沖
 縄から出兵して来ていて、ここ中国に上陸し、占領して
 いた。
  そして、日本軍と一緒になって、毛沢東の共産軍と戦
 っていた。
  アメリカと日本の連合軍は、天津~北京間の鉄道を守
 っていた。
  日本が敗戦となるとともに、毛沢東の共産軍の勢いが
 強まって来ていたのだった、ソ連も応援していたし・・、
  抜け目のないソ連のスターリンは、中国・蒋介石との
 条約を破って、裏で、中国・毛沢東を支援していた。
  そして、アメリカは、この様な成り行きから、再び、
 中国・蒋介石国民党軍を重視し、支援する。
  ルーズベルトの思惑は、早くもチリジリに崩れ、戦い
 の火は燃え盛(さか)って行った。
  愚かなるルーズベルトの嘘の外交・偽(いつわ)りの
 外交が露と消えて行った。
  ルーズベルトの撒いた禍根は朝鮮戦争まで尾を引いて
 行く・・、
..
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2016年12月30日金曜日

(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年(明治22年)、出来事:
・憲法発布:2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  天皇陛下が定める欽定憲法。
・内閣総理大臣
 黒田清隆:明治21年4月30日~明治22年10月25日
 三条実美:明治22年10月25日~明治22年12月24日(内大
      臣兼任)
 山県有朋:明治22年12月24日~明治24年5月6日
・森有礼文相暗殺:2月11日、東京・麹町区(現=千代田区)
 永田町の文部大臣官邸で森有礼文相が国粋主義者に刺さ
 れ、2月12日に死亡した。
.
1889年、内閣・行政:
・市の成立:2月、内務省が36の市を告示。
・特別市制:3月23日、東京・京都・大阪を特別市制とする
 ことが公布。
・市制:4月1日、日本に初めて31の市が誕生した。
 江戸御府内を基礎とした15区により東京市が成立。
 年内に計40の市ができた。
・第1次山県有朋内閣(12月24日~)
.
1889年、皇室:
・新宮殿:1月11日、天皇陛下が赤坂の仮皇居から新宮殿に
 移られた。
.
1889年、国際・国際会議:
・エッフェル塔完成:3月31日、[フランス]パリのシャン・
 ド・マルス広場に建設されたエッフェル塔の落成式が行
 われた。
  フランス革命100周年を記念して開催されたパリ万博の
 シンボルとして建てられた。
  高さは312.3mで、当時、世界一高い建造物。  
.
1889年、防衛・軍事:
・徴兵令改正(一年志願兵制度)公布:1月22日。
 1年志願兵の制が始まった。
・憲兵条例を改正公布(憲兵):3月。
・陸軍省 「陸軍歴史」(全30巻)出版
・海軍省 「海軍歴史」(全25巻)出版
.
1889年、経済・金融・貿易:
・日本生命保険会社開業:9月20日、
・ビール工場建設:日本麦酒目黒工場(現恵比寿)完成
  日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)が東京・下
 目黒村(現=渋谷区恵比寿)にビール醸造所を建設。
  煉瓦造りの3階建ての工場を建て、ドイツ人技術者を招
 き、ドイツ産の麦芽を使用してドイツ製醸造機械で生産
 を始めた。  
  1888年、工場地購入
  1890年、恵比寿麦酒発売
  1899年、ビヤホール
・年末、神奈川県、石油貯蔵規則を発布し、石油小売商人
 困難となる。
.
1889年、物価:
・物価:氷、1貫目:8銭。
.
1889年、交通・運輸:
・東海道鉄道全通:
・鉄道一千哩記念祝賀会
・九州鉄道開業
・横須賀線開通
・国府津~静岡間開通:2月1日、東海道線の国府津~静岡
 間が開通。国府津~沼津間は箱根の山の北側を回るルー
 トで現在の御殿場線。
・東海道線の静岡~浜松間が開通し新橋~長浜間が全通し
 た:4月16日。
・中央線開業:4月11日、甲武鉄道の新宿-立川間が開業。
・甲武鉄道の立川~八王子間が開業:8月11日、新宿-八王
 子間は1時間17分。中央線の前身。
・東京乗合馬車会社が開業:5月11日、
・東海道線の車両に便所が設置:5月、
・丸亀~琴平間開通:6月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が
 開通した。
  現在の予讃線・土讃線の一部で、四国の鉄道の始まり。
・横須賀線の大船~横須賀間が全通:6月16日、
・東海道線全通、湖上連絡船廃止:7月1日、馬場(のち=
 大津、現=膳所)~米原~関ヶ原が開通し、新橋~神戸
 間を結ぶ鉄道の東海道本線が全線開通した。
  直通列車は、1日1往復で所要時間は約20時間。
  運賃が改定され、新橋-神戸間は下等で3円73銭。
  長浜~大津間の琵琶湖の湖上連絡船は廃止:初の鉄道連
 絡船(1883年)
・東京湾汽船(現=東海汽船)が開業:11月11日、
・博多~千歳川間開通:12月11日、九州鉄道の博多~千歳
 川(久留米近くの筑後川の右岸にあった)間が開通した。
  現在の鹿児島本線の一部で、九州の鉄道の始まり。
.
1889年、衣:
・警察官・消防官の帯剣が制定された。
・服飾に復古的な傾向強く現れ始め、日本髪用品の売れゆ
 きが良くなる。
.
1889年、食:
・フランスの万国博覧会に上菱ビール出品される。
.
1889年、住:
・凾館水道竣工
・東京石工組合認可
・木挽町に歌舞伎座建つ
・大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、それぞれ開業
・福島県郡山水道会社開業
.
  (今日の言葉)
.
  題:次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様な筋の通
    らない話は変わると考えるが・・
.
1905年、アメリカは、日露戦争によって、アメリカが目指
 した「日本の勝利」「ロシアの敗北」の目標が達成され
 た結果、
  「中国市場を獲得したい」というアメリカの目的や、
  「ロシアの満州支配の強まり除去」(ロシアの市場化
 の動きを除きたい)のアメリカの目的が達成され、そし
 て、そうなると感じた。
  しかし、実際にその様になってみると、そこに、用済
 みとなった日本が居て、今度は、中国(清)のアメリカ
 の市場化の対抗軸に日露戦争に勝利した日本が居た。
  この時点が・・、この日露戦争の後こそが・・、
  「アメリカが、日本を叩きたいとした出発点」だった、
 「日米対立の序曲」だった。
  今までのアメリカの行動の原点には・・「自分たちの
 利益を追求したい」だけがあった・・、
  そこには、常に、戦争を介在していた・・、
  今度は、その日本を除きたいとする・・その様なアメ
 リカが居て・・、
  アメリカは、日本をその様な位置に位置づけた。
  ここに日本の悲劇があった。
  (アメリカは、共に進むかたちを、常に、取ろうとし
 て来なかった)。
  この翌年の1906年、セオドア・ルーズベルト大統領(
 第26代アメリカ大統領、在任期間:1901年9月14日~1909
 年3月4日)は・・、
  「日本との将来の対決を予想した」。
  そして、愚かにも「対日戦争計画(オレンジ計画)」
 の準備を命じた。
  それは、日露戦争における、日本の見事な勝ちっぷり
 にあった。
  日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊に、見事
 な完勝をした。
  それは、「新たなアメリカの脅威」だった。
  アメリカのセオドア・ルーズベルトは、日本の勝利に
 よって満州のアメリカの市場化への道・通商の道が開か
 れると期待した。
  つまり、日本が、ドアボーイの様に演じると思った。
  しかし、日本の一級の軍事力がそこに見えた、見てし
 まった。
  アメリカは、むしろ逆に、「アメリカが、うまい汁と
 吸っているフィリピン」が奪われるという恐怖・脅威を
 感じた。
  そして、さらに日本にとって、日米にとって、悲劇な
 事は、この脅威論を背景に、アメリカ西海岸に広がった
 「黄禍論(黄色人種の日本人が、禍(わざわい)を起こ
 すという論理)」だった。
  (これは、低級なマスメディアによってあおられた)。
  さらにまた、「アメリカ西海岸に、日本が攻めて来る」
 という、まったく根も葉もないことを、アメリカで言い
 ふらされた。
.
  そして、
.
1906年、この年から、卑劣な事だが、アメリカでは、日本
 との『戦争の仮想シミュレーション』が、毎年、なされ
 た。
  セオドア・ルーズベルト大統領(第26代アメリカ大統
 領、在任期間:1901年9月14日~1909年3月4日)が、命じ
 て始められた『対日戦争計画』である。
  「オレンジ計画」と名付けられたこの計画は、具体的
 な戦争シミュレーションで、
  毎年、日本を仮想敵国として実施され、戦争のやり方
 が検討され、見直された。
  もう、日本との「戦争ありき」の、「対日戦はやるの
 だ」の頭しかないアメリカだった。
  戦争回避の話はなされず、回避策が皆無のアメリカだ
 った。
  アメリカ海軍省戦争研究所は、対日戦争に、凝り固ま
 っていた。
  好戦的なアメリカだった。
  真珠湾で日本が攻撃する筋へ持って行かれた。
  真珠湾の日本の奇襲の作り話は、本当に「ちゃんちゃ
 らおかしい作り話」なのだ。
.
  そして、
.
1913年5月19日、排日土地法
  この年に、アメリカのカリフォルニア州は、日本人移
 民の農地所有を禁じる法律を制定した。
  日本政府は、当然、抗議した。
  アメリカは、日本を逆恨みした。
  これを利用した「日本を悪者に貶(おとし)める組織」
 が、ウォー・スケア(戦争騒ぎ)を煽(あお)り、高ま
 らせられた。
  「日本軍が、攻めて来る」のではないかという病的な
 危機感に覆われた。
  海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルト(1933
 年に、第32代アメリカ大統領になる)は、この様なカリ
 フォルニアに、1914年に訪れ、
  元中国軍の顧問だったホーマー・リーが書いた本「サ
 クソンのH」が送られている。
  その本は、「イギリスが、アジア系民族によって亡ぼ
 されそうになる」という予言的に書かれた刺激的内容に
 なっている。
  この様な本を、フランクリン・ルーズベルトは読んで
 いる。
  この元中国軍顧問の男が、中国、もしくは、共産・コ
 ミンテルンの工作員の可能性は否定できない。
  また、今・現在でも、この類の様な工作が、アメリカ
 や日本などの「特に、マスコミや官僚」に、なされてい
 るという可能性が否定が出来ないという。
  それは、マスコミや官僚をターゲットにするのが、「
 効率が良い」からである。
.
  そして、
.
1915年、日本を貶(おとし)める工作がなされた二十一ヵ
 条要求。
  これは、日本がはめられた事件だった。
  今、新事実が、次々に明らかになって来ているが、
 そして、歴史的事項が、あらゆる年代で書き換えられて
 いるが・・、
  この事件でも、新事実がが明らかとなった。
  当時、中華民国大統領の袁世凱(えんせいがい)が、
 中国国民を納得させるために、この二十一ヶ条を、日本
 に書いてくれと、『日本側へ頼んでいた』ということが
 明らかとなった。
  これは、当時の日本の外務大臣である加藤高明の自伝
 にも書かれているが、
  また、東郷茂徳元外相が、巣鴨プリズン(刑務所)に
 入っている時に記した回顧録にも出て来る。
  中国の「引っ掛け外交」だった。
  日本に「エサ」を撒(ま)いて、日本の失策を作ると
 いう作戦だった。
  世界へ、「日本は武力を背景に、不当極まる要求を、
 押し付けて来た」と宣伝された。
  あえて、日本へ「最後通牒」を出してくれと頼んだと
 いうことは、おくびにも出さなかった。
  日本は、完全に嵌(は)められて悪者にされてしまっ
 た。
  これは、中国の狙い通りに展開した。
  以後、日本の立場は急速に悪くなった。
  日本への世界の圧力は、急拡大して行った。
  この様な裏まで知って、そして、判断する国などなか
 った。
  日本は、悪者にされ、「武力で脅されたので無効だ」
 の論理が出てきた。
  正式に交換された条約までが無効という話になった。
  近年も、韓国が、この論調を主張するという臆面ない
 行動をとり、また、不正義な行動をしている。
  信頼などあったもんじゃない状態。
  この頃の話に、「田中上奏文」という日本が、引っ掛
 けにかかった「引っ掛け話」がある。
  これは、日本を引っ掛かけていたという事が、2005年
 に明らかになった。
  「日本の悪玉化」=「ディーモナイゼーション(悪魔
 化論)」で、日本は、どうしようもない「悪玉」にされ
 た。
  今・現代、「靖国神社参拝」が、中国によって「ディ
 ーモナイゼーション」されている。
  そして、アメリカが、中国と同じ論調となっている。
  しかし、次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様
 な筋の通らない話は変わると考えるが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月28日水曜日

(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)

題:(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年、アメリカ合衆国のショエリダン将軍が没した。
  この将軍の有名な言葉に、
  「私がこれまであった中で最も良いインディアンは死
 んだインディアンだ」。
  まったく卑劣な人種差別の言葉である。
  アメリカの将軍たちは、インディアンの方たちに対し
 て、この様な人種差別意識を持っていた・・そして・・、
  『病的なまでの憎悪』を持っていて、強力な武器で、
 あまりにも残忍なやり方で、インディアンの方々を殺戮
 して行った。
  「徹底殲滅の姿勢」、この時に、アメリカ政府の指令・
 取らせていた姿勢が・・この「徹底殲滅の姿勢」だった。
  (参考)
  ショエリダン将軍:(1831年~1888年)両親は、アイ
 ルランドのキャバン州からの移民。
  リンカーンが、シェリダンについて言った・・、
  「褐色のがっしりした小男(身長:165cm)、胴長短足
 で、絞首台に吊るすには不十分な短い首、足首がかゆけ
 れば屈むことなく掻くことができる長い腕」・・と。
  リンカーンの人間性も分かる言葉となっている・・、
  陸軍士官学校の時、級友と喧嘩して、銃剣で突き殺そ
 うとした(そして・・1年間の停学)。
  このショエリダンの言葉である「最も良いインディア
 ンは・・死んだインディアンだ」は、アメリカで流行語
 となり、白人アメリカ人に、度々、使われた。
1888年8月31日、イギリスで、「切り裂きジャック」による
 最初の殺人事件が発生した。
  19世紀末のロンドンの売春婦連続殺人犯「切り裂きジ
 ャック」の犯行だった。
  (参考)
  切り裂きジャックは、1888年にイギリスで連続発生し
 た猟奇殺人事件の犯人の通称。
  未解決事件であり、21世紀の現在でも犯人の正体につ
 いてはいくつもの説が唱えられている。
  解剖学的知識があるとされて、ジャックの職業は、医
 師だという説が有力視されているが、近年、肉屋である
 という説も有力とされている。
  また、被害者に抵抗の後がない事から、同性の女性だ
 という説もある。
  被害者数は、5人から20人とする説がある。
1888年9月3日、帝国イギリス東アフリカ会社
  イギリスのビクトリア女王が、東アフリカ会社の勅許
 をウィリアム・マッキノンに与えた。
  帝国イギリス東アフリカ会社は、イギリス王室勅許状
 を受けた特許会社で、
  スコットランド出身の資本家であるマッキノン(1823年
 ~1893年)が創設したイギリス領インド蒸気船海運会社が、
 東アフリカのザンジバルへの航路を1872年に開設した際、
  さらに、内陸への進出を計画したことが端緒となった。
  1885年に、ドイツ東アフリカ会社が、ザンジバルの対
 岸の本土部へ進出すると、
  イギリスは、ザンジバルの首長を通して、東アフリカ
 沿岸を間接的に確保しようとした「それまでの方針」を
 変え、
  マッキノンが以前から主張していた商事会社による内
 陸統治という考えをとるようになった。
  特許会社は、王室から独占特許状を与えられて、貿易
 や生産の独占をしようとして許された会社で、
  ある範囲の行政権限をもって、植民地経営を行なった
 会社で、植民地統治をした組織であった(実質はイギリ
 ス)。
  1895年には、イギリス政府が自ら統治に乗り出し、東
 アフリカ保護領が形成された(イギリス領東アフリカ)。
 イギリスの植民地である(本性が飛び出した)。
  さらに、1920年には、ザンジバルの首長の権益が残っ
 ていた海岸部を合わせて、ケニア植民地、および、保護
 領とした。
  最初は、モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業
 利権をもとに、
  1888年、勅許会社の帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)
 が設立されて・・経営(統治)が開始され、
  1895年に、現在のケニアに相当する部分が保護領とな
 り・・、この保護領は・・
  1920年に、直轄のケニア植民地となる。
1888年、イギリスが、サラワク王国、ブルネイ、北ボルネ
 オを保護国化(実質の植民地)した。
  1841年、ブルネイのスルタンが、イギリス人探検家ブ
   ルックにサラワクを領地として与え、「白人藩王」
   が誕生した。
  1846年、サラワク王国が、ブルネイから独立した。
  1881年、イギリスの北ボルネオ会社が、サバを租借し
   た。
  1888年、サラワク王国と北ボルネオ会社に、領土を侵
   食されたブルネイが、イギリスの保護領となった(
   乗っ取られた)。
  1890年、サラワク王国が、リンバン川流域を併合した。
   テンブロンは、ブルネイ本土から切り離された。
  1963年、サラワクとサバが、マレーシア連邦に参加し
   た。
   ブルネイは、イギリス領のまま残り、テンブロンは、
   その飛び地となった。
  1984年、ブルネイが、イギリスから独立した。
  ボルネオ島の北側にあるブルネイは、古くから中国の
 文献に交易拠点として記載されて、アジアとヨーロッパ
 を結ぶ「海のシルクロード」の中継地として繁栄してい
 た。
  18世紀に、東側にあるサバが、「海賊の島」として有
 名なスールー諸島のスルタンに取られてしまった。
  そして、19世紀には、内乱が起こり、ブルネイのスル
 タンが、1839年に、やって来たイギリス人の探検家ジェ
 ームズ・ブルックに鎮圧を頼んだ。
  そして、鎮圧に成功したブルックに、スルタンはクチ
 ン(現在サラワク州の州都)を領地として与えてラジャ
 (藩王)に任じた。そうしたら・・、
  ブルックは、白人王(ホワイト・ラジャ)に即位して
 サラワク王国を作った(国を乗っ取った)。
  そして、イギリスの保護の下で、次々とブルネイの領
 土を奪って拡大していった(植民地の拡大)。
  1881年、一方のサバも、イギリスが作った北ボルネオ
 会社が、この年・1881年、スールー島のスルタンから租
 借し、ブルネイの領土を侵食しながら拡大して行った。
  こうして、東西から挟み撃ちにされたブルネイは、残
 った領土を保全しようと、
  1888年に、イギリスの保護領になったが、間もなく内
 陸部からも勢力を拡大していたサラワク王国にリンバン
 川流域を奪われて、テンブロンは飛び地になってしまっ
 た。
1888年11月14日、パストゥール科学研究所が設立された(
 1887年説あり)
  L・パスツールの業績を記念して、1888年、パリに設立
 された医学研究所。
  設立にあたっては、フランス内外・世界からの醵金(き
 ょきん)による多くの寄付金が寄せられた。
  また、11月14日の開所式には、フランス大統領が列席
 するなど、この研究所は、当初からフランスにおける、
 伝染病の研究・治療の中心としての役割が期待された。
  そのため、この研究所には、所長のパスツール以下、
 彼の弟子たちを中心に優秀なスタッフが集められた。
  彼らは、狂犬病など伝染病の予防と治療にあたるほか、
 生物化学や細菌学など基礎的研究に取り組んだ。
  創設時の建物は、現在、パスツール博物館となってお
 り、彼が使用した顕微鏡はじめ、各種実験器具類が、完
 全に保存されているほか、
  自然発生説否定のために創案した「ハクチョウの首型
 フラスコ」や、研究発表のための乳酸菌・酵母などの微
 生物形態図、カイコの図なども保存されている。
1888年6月15日、ドイツのヴィルヘルム2世が即位した。
  (~1918)
  独帝フリードリヒ3世死去し、ヴィルヘルム2世即位。
  年に二回皇帝が代わったことから「三皇帝年」と言わ
 れた。
  プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世)と、
 イギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生ま
 れた。
  1888年に、祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世
 が相次いで死去したことにより、29歳でドイツ皇帝・プ
 ロイセン王に即位した。
  祖父の治世において、長きにわたり宰相を務めたオッ
 トー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始
 し、治世前期には、労働者保護など社会政策に力を入れ、
 社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。
  しかし、その後保守化を強め、社会政策にも消極的に
 なっていった。
  1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は、政治的権
 力を大きく落とした。
  一方外交では、一貫して帝国主義政策を推進し、海軍
 力を増強して、新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリ
 スやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、
 最終的に第一次世界大戦を招いた。
  オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブル
 ガリアと同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相
 手に4年以上にわたって消耗戦・総力戦で戦うこととなっ
 た。
  1916年に、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエ
 ーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が
 成立すると、ほとんど実権を喪失した。
  大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなく
 なった国民の間で不満が高まり、ドイツ革命が発生する
 に至った。
  革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を
 行なったが、革命の機運は収まらず、結局オランダへ亡
 命して退位することになった。
  そのままなし崩し的に、ドイツは、共和制(ヴァイマ
 ル共和政)へ移行し、ホーエンツォレルン家は、ドイツ
 皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
  ヴィルヘルム2世自身は、戦後もオランダのドールンで
 悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支
 援した。
  1925年に、ドイツ大統領となったヒンデンブルクは、
 帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政
 復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラ
 ーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性は
 なくなった。
1888年11月2日、咸宜帝(かんぎてい)が仏官憲に引渡され
 た。
  阮朝(グエンちょう)は、1802年~1945年にかけて存
 在したベトナムの王朝。
  咸宜帝(かんぎてい、1872年7月22日~1943年1月14日)
 は、阮朝の第8代皇帝(在位:1884年~1885年)
  1884年に、13歳で即位したが、
  1885年・翌年に、抗仏勤皇大蜂起の檄を発して王都フ
   エを脱出、地方の在地知識人にフランスへの徹底抗
   戦を訴えた。
   フランスは、ただちに兄の同慶帝を立て、咸宜帝に
   帰順を呼び掛けた。
   咸宜帝はこれに従わず、農村を転々として抵抗を続
   けたが、
  1888年、ついに捕らえられてアルジェリアに配流され
   た。
   やがて、現地でフランス人女性と結婚し、3児をもう
   けた。
  1943年、72歳で死去した。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  (北洋海軍創設)
  中国、清末期の新式海軍・主力艦隊。
  李鴻章によってつくられ、『定遠』『鎮遠』など甲鉄
 砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装甲砲艦1隻を中心とした。
  威海衛に基地を置き清国海軍の主力であった。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問して、中
 国海軍の主力として勢威を誇った。
  海軍の戦備が劣っていた日本に衝撃を与えた。
  中国海軍の主力として勢威を誇ったが、日清戦争で惨
 敗し、壊滅した。
1888年5月13日、ブラジルで摂政イザベル皇女が奴隷制廃止
 法案に署名 (米大陸の奴隷制終焉)
  キリスト教は、キリスト教の神が容認した慣行として
 「奴隷制が認められている」。
  キリスト教聖書にも、キリスト教の神が「奴隷にせよ。
 奴隷にせよ」と叫んでいる。
  この様に、キリスト教という「宗教として容認する」
 という形態であったことで、無くなることなく人類の歴
 史に続いて来て、悲しい歴史を刻んだ。
  また、卑劣な事に、その事がキリスト教の聖書にも書
 かれているからこそ、消えることなく、
  奴隷制は人類の歴史の中で無くなることなく続いた。
  日本においても、キリスト教宣教師がからんだ南蛮貿
 易で、日本女性が奴隷(性奴隷)として売られている。
  1582年、天正遣欧少年使節の少年たちも港々に居る売
 られた日本女性を見ているが、そのことは秘密にされ、
 キリスト教によってプロパガンダ(嘘宣伝)された。
  織田信長は、キリスト教宣教師がその様な悪とは知ら
 なかったが、豊臣秀吉は、その情報を得て、臣下に確認
 を行わせ、その事実を知り、政策を一転させた。
  1587年7月、キリスト教の禁教の施策となった(天正
 遣欧少年使節の5年後)。
  1596年、再び、秀吉が禁教令を出す。
  従った宣教師たちは、長崎出島から、ちゃんと出航し
 て行ったが・・、
  問題なのは、違反して、日本に潜伏した宣教師たちだ
 った。
  秀吉が、ちゃんと法を発令したのにもかかわらず、法
 に従わないキリスト教宣教師たちが居た。
  また、その宣教師たちは、日本の一般民衆を惑わした。
  そのため、再び、禁教令が出された。
  取締り行為もせざるを得ず、行なった・・この事を、
 キリスト教は「殉教だ、殉教だ」と騒いだ。
  法律に従わない「お前たちが悪いのだ」。
  法律違反行為者を取り締まるのは当たり前だ。
  その代表例が、キリスト教が「日本二十六聖人」と美
 化している人たちだ(法律違反者たち)。
  法に従わなかった人々、または、地下に潜ったキリス
 ト教聖職者たちに惑わされて法を破った人たちである。
  秀吉は、マニラのキリスト教本部にも「領土的野心を
 持たぬ事」と通達している(キリスト教宣教師は、日本
 の植民地化への先兵となっていた)
  この様な事は、歴史教科書から一切が隠されている。
1888年10月29日、スエズ運河の自由航行に関する条約締結
  1869年に開通したスエズ運河は、1882年以降、イギリ
 スによって軍事占領された。
  これに対し、ヨーロッパ諸国が、運河の自由通航の保
 障を求めたため、この条約が締結された。
  原締約国は、イギリス、ドイツ、オーストリア=ハン
 ガリー帝国、スペイン、フランス、イタリア、オランダ、
 ロシア、オスマン帝国(日本は加入してない)
  この条約は、運河の自由航行を定めているが、戦時に
 は、しばしば、航行が阻害された。
  第二次世界大戦中に、枢軸国の艦船が通航を拒まれた
 のをはじめ、
  1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)では、一時運
 河が封鎖された。また
  1967年の第三次中東戦争による運河の閉鎖は、1975年
 まで続いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ヤルタ会談・・くせものの会談・・密約のある会談・・
    嘘をつく癖のあるキリスト教に洗脳されたルーズベルトも・・同じだった・・
.
1945年2月3日、ヤルタ会談をするため、アメリカ大統領ル
 ーズベルトが、黒海に突き出たソ連領のクリミア半島の
 突端のヤルタに着いた。
  ソ連のスターリンは、まだ着いてない。
  ルーズベルトとスターリンの会談は、翌日・4日、午後
 4時に、スターリンの表敬訪問の形で始まった。
  1943年11月のテヘラン会談以来の約15か月ぶりだった。
  互いに戦果を褒め合い、打ち解けたムードだった。
  フランスを参加させるか?と、その第二次世界大戦の
 終結が見えている状況のこの中で、フランスの功績につ
 いての話になった。
  「フランスに、参加する資格はあると思いますか?」
 とスターリンは言った。
  二人は、すでに、「フランスの功績は無かった」で合
 意していたが、この言葉が出た。
  ルーズベルトは、「あるとすれば、それは親切心から
 ですな」と言い、同席しているソ連外相のモロトフと共
 に、一同は、大声で笑った。
  日本の「に」の字も出ない。
  「日本は、すでに決着している」という一同の認識だ
 った。
  この会談自体が、第二次世界大戦後の勢力圏をどう配
 分するか?に、思惑を巡らす状況だった。
  日本は、「完全に、負けるから」の認識の中にあった。
  世界の勢力圏の話し合い、駆け引きだった。
  すでに、イギリスとソ連の意見が、合わない状況にあ
 った。
  つまり、日本への原爆投下の必要性は、この時点でさ
 え「まったく、無かった」、必要性はないの認識の中に
 あった。
  死に体の日本、原爆投下の必要性なし・・だった。
  キリスト教の「シャローム」の教義=異教徒の完全抹
 殺の後に、平和が訪れるという迷信に洗脳された、キリ
 スト教徒のルーズベルトは、「無条件降伏を要求」して
 たが・・、イギリス首相も驚くという「無条件降伏を日
 本へ要求」していて・・、
  そして、異教徒の完全破壊の教義に洗脳された頭の中
 から、「原爆投下が出てきた」。
.
1945年2月8日、ヤルタ密約
  千島列島は、日本のものです。
  びっくりなさるかもしれませんが、北方四島はもちろ
 んの事・・千島列島も日本のものです。
  ただ、厳しい言い方だが、『ルーズベルトが、馬鹿だ
 った』。
  1945年2月8日、ヤルタ密約の協議が行われた。
  この協議で「ソ連の対日戦争を始めること」について
 話し合われた。
  この協議に参加したアメリカ大統領のルーズベルトは、
 まったく、この協議に関する基礎知識がない状況だった。
  ここが悲しい事だった。
  「有色人種の日本の事だ」と軽く見ていた。
  この様な人間性のルーズベルトだった。
  本当に、キリスト教の有色人種蔑視観というのは多く
 の有色人種の方々へ悪影響を与えている。
  この場のルーズベルトもそうだった。
  まったく、当事者能力が不足しているのであった。
  この協議に同席したアメリカ国務省のソ連専門家・ボ
 ーレンは、戦後に、この場のルーズベルトの交渉が、ま
 ったくお粗末だった事を、「厳しく批判した」。
  最大の、最高の交渉者であるべき、このアメリカ大統
 領のルーズベルトの認識の無さはゼロに等しかった。
  「樺太や千島列島」が、日本領土になっているのは、
 「日露戦争で日本が得た」・・と、間違って認識してい
 た。
  ボーレンは、このソ連との協議のために、「基礎知識
 が書かれた本」を、ルーズベルトへ渡していた。
  しかし、ルーズベルトには、まったく、この基礎知識
 が頭に入っていないという事に、ボーレンは、この協議
 が始まって気づいた。
  ルーズベルトは、この基礎知識の本に、目を通してい
 なかった。
  読んで居なかった。頭に入れていなかった。
  事実関係を、まったく理解していないで、協議に臨(
 のぞ)んでいた。・・オソマツ・・
  ボーレンは、「千島列島は、ソ連へ渡すべきではなか
 った」・・と言っている。
  しかし、悲しいかな・・と言うべきか? 愚かな者た
 ち・・と言うべきか?  この協議を行なうアメリカ側
 に、ほとんどと言って、一人も・・この極東の常識・基
 礎知識を持つものが居なかった。
  アメリカ国務省のこのソ連専門家のボーレンは、つく
 づく、『あれほど簡単に、ソ連のスターリンへ、千島列
 島を渡すべきではなかった」・・と言った。
  このアメリカの『ミス』は・・、例えば、仮の話であ
 るが、立場を代えて話すと・・、日本の代表が、ソ連と
 話し合って・・「今、アメリカの州となっている『アラ
 スカ州は、元は、ロシアのものだったですよね』・・だ
 から、アラスカはソ連のものです」・・と、ソ連へ渡し
 てしまったら・・どう思うか?・・その様なものだ。
  こんな『決定的なミス』が、アメリカによってなされ
 ていたのだった。
  樺太は、ロシア人が来る前から日本人が住み始めてい
 た。
  日本人の領土だった。
  その後、ロシア人も来て・・住み始めた。
  そして、そのうち、ロシア人がどんどん来るようにな
 って、樺太の担当者が幕府へ日本人も樺太に来て住まな
 いと、樺太はロシアのものの様になると言った。
  しかし、日本人は思った様に増えず、そして、幕府は
 ロシアと協議して共同の地とする。
  しかし、その後、樺太・千島列島の交換条約をロシア
 と締結する。
  そして、日露戦争に勝利した日本は、樺太の半分の所
 有権を復活し、南樺太を以前の状態に戻した。
  南樺太が日本の地になった。
  つまり、千島列島は、ソ連へ簡単に渡すような地では
 なかった。
  しかし、アメリカの協議をする面々は、まったく、そ
 の知識がなく、「日露戦争で日本が得たのだ」という間
 違った・大雑把な思い込み、間違い知識しかなく、日本
 の歴史の過程の中で、堂々と日本の固有の領土となって
 いるという理解は無かった。
  薄っぺらな知識と間違った思い込みしかないというア
 メリカの協議をする面々だった。
  協議の最高責任者であるルーズベルトは、「ロシアが、
 戦争で取られたものを取り返すだけのもとだ」と、びっ
 くりするぐらいの、間違いの、薄っぺらな思い込みの中
 で協議をしていた。
  この間違い知識の中で・・ことの処理がなされた。
  だから先に記した逆の話、「アラスカは、ソ連のもの
 だと言ったら、アラスカは、ソ連のものになるのか?」。
  この協議自体が成立していない、「再審ものだ」。
  このヤルタ密約協議が、間違っていると分かっていた
 人が、もう一人いた。
  しかも、この協議の場に、この現場に・・居た。
  それは、駐ソのアメリカ大使・ハリマンで・・、
  ハリマンも、この千島列島についてのアメリカのルー
 ズベルトと、ソ連スターリンの話の中に居て、
  『この話はおかしい』と分かっていた。
  この密約協議で、スターリンは、卑劣にも・・引っ掛
 け発言をしていた。
  スターリンは、しきりに・・「日露戦争で、日本が奪
 った領土を、単に、取り返したいだけだ」・・と、何度
 も、「この引っ掛け発言を」している。
  何度も・・何度も・・この引っ掛け発言をして・・強
 調した。
  基本的に、ルーズベルトに基本的知識が無かったのが
 悲しい事で・・問題なのだが・・、
  その上に、ルーズベルトには、「日本の島など取るに
 足らぬ」の認識があった。
  悲しい事に・・こんな輩が、世界を「不安定にする」
 のだ。
  薄っぺらな知識で、責任だけが大きい輩が・・?
  しかし・・駐ソ大使のハリマンは「偉かった」。
  しっかり・・この点を・・ルーズベルトに「指摘した」。
  ハリマンは、しっかりした知識で、「千島列島は、(
 樺太・千島交換条約で)日本の領土として正式に認めら
 れてます」という知識で、指摘した。
  また、ハリマンは、はっきり、スターリンが、ルーズ
 ベルトをはめている・・欺(あざむ)いていると見てい
 た。
  そして、ルーズベルトに、はっきりと忠告をした。
  しかし、しかし、愚かなるこの大統領は・・言った、
 「ソ連が、日本と戦ってくれるなら、日本の千島列島な
 ど取るに足らぬ、つまらぬ事だ」・・と。
  馬鹿め!
.
  キリスト教は、この宗教が出来た古代の時代に、また、
 この宗教の出来た地である砂漠の地で・・、
  飢えに襲われ、
  そして、どうしようもない時は、
  ナイルの恵まれた流れの地、そして、実りある地に、
 身分をかなぐり棄てて、なりふり構わずに・・逃げ込ん
 だ。
  また、そして、隣国の富を奪いに行ったりして、飢え
 を凌(しの)いだ。
  この様な、自然の厳しさゆえに取ったやむを得ない行
 動でも・・このうしろめたさを・・民は・・、
  キリスト教の神の義があるから・・と、自らを慰(な
 ぐさ)めた。
  そのキリスト教の神の義によって許してもらえるのだ
 と、免罪符と同じ考え方をした。
  戦いとなって他民族を殺す事になっても・・「(キリ
 スト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」と考え
 た。
  飢えているのだから・・と、許しがあると・・その様
 な苦し紛(まぎ)れの宗教を創った・・神を創った。
  赦しを作った・・、
  天からの恵みの少ない砂漠の地の・・「このような赦
 (ゆる)しの形をとった宗教=キリスト教という宗教」。
  しかし、現代の・・「恵まれた時代に生きている時」
 も、
  また、「恵まれた地に生きている時」で・・あっても、
  このキリスト教の赦(ゆる)しの教理に洗脳されて、
  また、この教理が一人歩きをし・・悪さをし始める・・
  自分の利を求めて殺戮に及(およ)んでいる。
  「(キリスト教の)神の義」があるから「正義なのだ」
 と言って、
  そして「自分が強く」、そして「自分が大きく」、そ
 して「自分が恵まれて」いても・・、
  「義がある、正義なのだ」・・と、
  「小さい者を、そして弱い国を」攻め、そしてキリス
 ト教の教義「シャローム」を求める・「無条件降伏」を
 要求する。
  シャロームのキリスト教教義の「完全絶滅」のキリス
 ト教の教理にマインド・コントロールされて「原爆投下
 を実行する」。
  それらすべてを、「キリスト教の正義」だとする。
  「不正義な行為を・・正義だ」とする。
  キリスト教によって、「不正義を・・正義と錯覚する」。
  キリスト教に強い信仰心を持っていたアメリカ大統領
 ルーズベルトは、その行為を正義だとして、「許されな
 い行為」を、「悪の行為のことごとくを」、アメリカと
 いう強力な国家を利用して行った。
  自分の考えを正義だとして、アメリカという豊かな国
 と、国民の方々を、その命を利用した。
  多くの武器・弾薬を、アメリカ国民の方々の多くが「
 戦争反対を叫ぶのにもかかわらず」、自分の考えに合う
 国だけに正義だとして、その豊かさをもって、言葉に尽
 くせぬほどの大量の武器・弾薬を、世界中にばらまいた。
  戦争の、戦いの・・輸出をした。
  悲惨な戦争が広まるのは・・当たり前だった。
  考えの違う者たちを悪として、その様な行動をした。
  キリスト教の法王が行なう公会議が、「考えが違う者
 たちを・・異端として・・殺戮したように」
  「異教徒は殺せと・・キリスト教の教義の行動をした
 ように」、弱者を殺戮し、虐げた。
  ルーズベルトのニューディール政策でも、回復しなか
 った頑固な世界恐慌の悪い景気の影響は・・、
  (ルーズベルトのニューディール政策で、アメリカ景
 気は回復したと言われているのはプロパガンダ・嘘宣伝)、
  アメリカの景気回復は、このルーズベルトがやった「
 戦争景気で回復した」。
  武器・弾薬を、アメリカ国内でどんどん作り、世界中
 にばらまいた。
  「戦争を作って・・回復した」とは言えないので、こ
 こでも嘘をついた。
  嘘で固められた行動だった。
  命を亡くなされた方々が、言葉を尽くせぬほど多いの
 に、ただただ、唖然として、怒りが湧く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月26日月曜日

(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)

題:(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年12月3日、角藤定憲(すどうさだのり)らが、大阪の
 新町座で、壮士芝居を興業した。
  角藤定憲は、壮士芝居の創始者で、中江兆民の門下、
 また、自由党壮士。
  壮士芝居とは、自由党壮士の芝居の意味で、自由民権
 運動の末期に、政府の言論取締政策のなかで、政治宣伝
 と糊口(ここう、細々と暮らしをたてること)の資を得
 るため演劇改良も兼ねて演じたもの。
  1888年12月、角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民
 の後援を得て大阪で旗揚げしたのが最初。
  そして、1888年12月のこの時、大阪新町座で改良演劇
 として、自作小説を脚色した『耐忍之書生貞操佳人』と
 『勤王美談上野曙』を上演した。
  新演劇の導火線となった。
1888年12月3日、全国を3府43県と改めた(12月4日説あり)
  愛媛県が、香川県から分離して1道3府43県となり、現
 在の47都道府県の区分がほぼ確立した。
1888年、写真印刷業の最初
  アメリカで技術を習得した小川一真が、この年に、日
 本で最初に、写真版印刷業を始めた。
  絵葉書を安価な画像媒体として可能にした背景は、写
 真製版技術の普及である。
  絵葉書で使用されたコロタイプと呼ばれる写真製版技
 術は、1870年代にドイツで開発されたといわれる。
  この方法は、ゼラチンを版面とする写真印刷法で、一
 つの版で、数千枚しか刷れないこと、印刷スピードが遅
 いなどの欠点があるが、高画質なので、書画・水墨画な
 どの美術印刷に適した。
  日本では、アメリカで技術を習得した小川一真が、
 1888年に、写真版印刷業を始めたのが最も早く、
  その後、まもなく、写真版に手彩色をほどこすことも
 行われた。
  横浜では、そうした彩色写真が外国人向けのお土産と
 して作られ、明治20年代にスーベニアル・アートとして
 発達した。
  絵葉書も、その技術と伝統を受け継いでいる。
  横浜の絵葉書作製に携わった会社・個人としては、上
 田写真版合資会社、星野屋、トンボヤ、カール・ルイス
 などがあげられる。
  当時の彩色絵葉書は、写真師が撮影した風景や人物の
 写真を、絵葉書となる紙にコロタイプで墨刷りし、それ
 に一枚一枚手で彩色をほどこすことによって完成した。
  彩色については、まず、プロの画工が絵付けの見本を
 つくり、それにもとづき、内職の女性たちが手彩色の作
 業をおこなった。
  こうした分業により、現在に伝えられる彩色絵葉書が
 つくられた。
  なお、彩色をほどこさないモノクロ絵葉書も多数つく
 られた。
  (横浜開港資料館ホームページを参考にした)
1888年12月6日、第28、第35両国立銀行の合併が許可された。
  1882年、中央銀行である日本銀行が開設され、
  1883年、国立銀行条例の改正、そして、
  1884年、兌換銀行券条例により、紙幣発行は、唯一、
 日本銀行のみが行うようになった。
  そして、この年に、第二十八国立銀行(浜松二十八銀
 行)が、静岡三十五銀行(現在の静岡銀行)に合併した。
1888年12月7日、後藤象二郎が、東海と北陸へ、大同団結
 運動展開のために向かう。
1888年12月8日、牛島謹爾(うすじまきんじ)が、郷里久留
 米を出発、渡米の途に上る(後に、馬鈴薯の栽培に成功
 し「馬鈴薯王」となる)
  牛島謹爾(1864年~1926年) 明治-大正時代の移民。
  1864年(文久4年)1月6日、福岡県久留米で農家の三男
   として生まれた。
  1885年(21歳)上京して、漢学塾二松學舍(現:二松
   學舍大学)に入塾した。
  1888年(明治21年)(24歳)渡米。はじめ、サンフラ
   ンシスコのアメリカ人家庭で働きながら英語を学ぶ。
   のち、カリフォルニア州ストックトンの沼地をひら
   き(苦闘の開拓)、
   良種のジャガイモの大量生産に成功。
   6万エーカーを超す大農園を起こし、「ポテト王」と
   よばれた。
   在米日本人会の初代会長として排日問題の対応にあ
   たった。
  1908年(44歳)結成された在米日本人会の初代会長と
   して、排日運動の緩和につとめるなど、大きな功績
   をあげた。
  1926年(大正15年)3月27日、日本へ帰国する途中、ロ
   サンゼルスで死去。63歳。勲五等双光旭日章。
1888年12月11日、東京美術学校が、上野に設立された。
  東京美術学校が、小石川から上野に移転した。
1888年12月13日、枢密院が、貴族院令の審議を開始する。
1888年12月17日、衆議院議員選挙法と貴族院令の審議が終
 了する。
1888年12月18日、特許条例(明治21年12月18日勅令第84号)
 が公布された。
  1885年(明治18年)4月18日、本格的な特許法である専
   売特許条例(明治18年太政官布告第7号)が公布・施
   行された。
  1888年(明治21年)審査主義を確立した特許条例(明
   治21年12月18日勅令第84号)が公布された。
  第1条
  新規有益ナル工術、機械、製造品及合成物ヲ発明シ又
 ハ工術、機械、製造品及合成物ノ新規有益ナル改良ヲ発
 明シタル者ハ此條例ニ依リ特許ヲ受クルコトヲ得
  特許トハ発明者ニ他人ヲシテ其承諾ヲ経スシテ前項ノ
 発明ヲ製作、使用又ハ販売セシメサル特権ヲ許スコトヲ
 謂フ
1888年12月23日、明石から姫路まで開通。 全通(1901年)
1888年12月27日、陸軍軍医学舎を陸軍軍医学校とあらため
 た。
1888年12月28日、東京府高等女学校(後の東京府立第一高
 等女学校)設置
1888年12月28日、文部省が、学生生徒の健康診断に当たる
 活力検査を開始した。
1888年12月31日、長崎市成立直前の長崎区総町90町、総戸
 数6846戸、人口4万3351人(男2万1517・女2万1843)
 上長崎村・下長崎村の各一部の総戸数1477戸、人口7299
 人
1888年6月23日、フレデリック・ダグラスが、黒人として
 初めてアメリカ大統領候補に指名された。
  フレデリック・ダグラス氏が、『真の黒人奴隷の解放
 者』である。
  この栄誉を、アメリカの白人たちは、黒人の方々の虐
 げ者たちは、リンカーンへ奪うことまでした、そして、
 プロパガンダ(嘘宣伝)までしている。
  そして、フレデリック・ダグラス氏の活躍や歴史を含
 め、
  黒人の方々の解放までの戦いが、アメリカ白人社会に
 よって、封印されて来た。
  卑劣な事である。
  自分たちの汚れた歴史を隠し、蓋(ふた)をしようと
 して来た。
  しかし、最近、黒人の方々の解放運動などの歴史が、
 少しづつ、明らかになって来ている。
1888年11月6日、第26回 アメリカ大統領選挙
.
  (今日の言葉)
.
  題:自由主義陣営と共産主義陣営の・・勢力圏取り合いの話に既に移っていた。
    アメリカの話が、嘘なのだと、作り話なのだと、この様な史実からも・・立証された・・、
.
1944年10月9日、夜9時、イギリス首相のチャーチルは、モ
 スクワのクレムリンで、スターリンに会っていた。
  イギリス外相のイーデンが・・同席していた。
  この頃は、完全に、第二次世界大戦は終わったとして、
 「戦いの後について」の駆け引きが行われていた。
  日本は、完全な「死に体」で、もう「降伏状態」で、
 話題にも上がらなかった。
  そして、戦いの後の有利な形を作りたいとして、ソ連
 は、第二次世界大戦を一緒に戦った仲間という意識から
 完全に違った体制の国・共産圏の国として、違う世界の
 離れた国として存在し、
  大戦の終結後の・・対立する新しい相手として存在し
 ていた。
  日本に・・原爆を投下して、早く戦争を終わらせたい
 と、アメリカは思ったから、広島・長崎に原爆を落とし
 たなどという話は・・その様な感覚はまったく無く・・
 すでに、その様な話は・・通り越し・・そして、終わっ
 た話となっていた。
  つまり、この話は・・アメリカの「後からの作り話だ」
 ということが、この時のイギリスとソ連の話し合いにお
 いても・・はっきりと証明される。
  話は・・自由主義陣営の領土(地域)をいかに広くと
 るか?・・に、あった。
  如何に・・共産圏の占領区域(領土)を狭くするかに
 あった。
  だから、先の話は・・「アメリカの幼稚な嘘」だった。
 「戦争を早く終わらせたかったから、原爆を投下した」
 という話は「嘘で、浮いた話」となっていた。
  この時、チャーチルは、事務的な話し合いの後、頃合
 いを見て、突然、紙と赤鉛筆を取り出した。
  そして、スターリンへ渡した紙には、「ルーマニア:
 ロシア90パーセント、ギリシャ:イギリス90パーセント、
 ロシア10パーセント、ユーゴスラビアとハンガリー:双
 方50パーセントづつ」・・などと、書かれていた。
  スターリンは、すぐに、青鉛筆で、自分の考えを書き、
 突き返した。
  しばらく・・沈黙となった・・、
  そして、反省したのか・・チャーチルが言った・・、
  「数百万人の運命を、こんな風に扱うのは・・いかが
 なものか・・」・・、
  「これは、焼き払う」・・と。
  スターリンは、「いや、保管しておいてくれ」と、平
 然と言った。
  この後も・・当事者を抜いた領土の・・勢力圏の取り
 合いは続いて行った。
  ルーズベルトは、大統領選挙の最中だったので欠席し
 ていた。
  自由主義陣営と共産圏に分断されて行く。
  この様に、武力で勝った者たちには・・、日本が与え
 た「東南アジアの国々の独立の様な事」は、この場には
 無かった。
  勝った者が、「その上に立つという意識」しかなかっ
 た。
  欧州分断だけがあった。
  ルーズベルトがそそのかした東アジアの領土取りで火
 が付けられたスターリンは・・、
  東アジアとともに、東欧の領土欲・制圧・共産圏化に
 向けて圧倒的な行動を起こして行った。
  そして、当のルーズベルトは、東欧の共産圏化に対し
 ても、スターリンの勢いにあっけにとられたのか、気が
 抜けたのか、対抗措置を取らず、取ることをせず、取る
 ことが出来ずにか・・東欧は共産化して行った。
.
  そして、その・・日本は・・、
.
1944年10月24日、戦艦武蔵が撃沈した。
  起工:1938年3月29日
  進水:1940年11月1日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:約3,300名
  兵装:46㎝(45口径)砲3連装3基9門ほか
  搭載機:零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機
      カタパルト2基
  建造所:三菱重工業長崎造船所
  運用者:大日本帝国海軍
  2015年3月2日、シブヤン海海底で発見された。
.
1945年4月7日、戦艦大和が撃沈した。
  起工:1937年11月4日
  進水:1940年8月8日
  就役:1941年12月16日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:3,332名(最終時)
  兵装:45口径46㎝3連装砲塔3基ほか
  搭載機:7機、カタパルト2基
  建造所:日本、呉海軍工廠
  運用者:大日本帝国海軍
  因みに、戦艦武蔵は、大和撃沈にさかのぼること、約
 5ヶ月半前の1944年10月24日に撃沈されていたが・・、
  日本が、真珠湾攻撃をした頃は、航空機・戦闘機で、
 軍艦などの艦船は沈められないと言われていた。
  しかし、日本は、この真珠湾攻撃の時、戦闘機に、魚
 雷を抱かして、海へ投入する攻撃方法を生み出した。
  日本人の叡智が、この攻撃法を生み出した。
  海への投入角度などの研究と訓練を重ね、艦船撃沈の
 効果ある攻撃法だとして確立した。
  それによって、真珠湾攻撃が行なわれ、航空機による
 攻撃が、絶大なる戦果を上げた。
  しかし、戦争末期、不沈艦として戦場に投入された「
 大和」「武蔵」は、
  その建造の秘密情報をすでに知っていたアメリカは、
 その攻撃法を練った。
  結局、やったことは、日本と同じだった(真似)。
  戦闘機に魚雷を抱かせ、訓練を重ね、日本の真珠湾攻
 撃と同じように、戦闘機からの魚雷によって「大和」や
 「武蔵」の戦艦を撃沈した。
..
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2016年12月24日土曜日

(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)

題:(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年11月20日、 「大阪毎日新聞」の発刊
  1876年(明治9年)創刊の「大阪日報」を、1888年(明
 治21年)「大阪毎日新聞」と改題した。
  大阪日報をあらため、大阪毎日新聞が創刊された。
  当初、東海散士主筆のもと、政治色の強い紙面を構成
 したがふるわず、しだいに穏和な論調に。
  1882年、筆禍対策の「身代り紙」として興された「日
 本立憲政党新聞」に事実上受け継がれた。
  1885年、「大阪日報」に題号を戻し、いったん休刊の
 後、
  1888年11月、大阪実業界の支援により「大阪毎日新聞」
 として再発足した。
1888年11月26日、大隈重信(黒田内閣外相)が、大審院外
 国人判事任用の条約改正案を、この日、ドイツ公使に手
 渡し、以後、各国公使にも手渡す。
  大隈は、薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣・黒田清隆に、
 条約改正を任されるという体制にあった。
  大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不
 利であるという認識に立って、
  列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用
 した。
  それにより、1888年11月30日に、駐米公使兼駐メキシ
 コ公使の陸奥宗光が、メキシコとの間に日墨修好通商条
 約を締結することに成功した。
  これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約
 であった。
  これにより、メキシコ合衆国国民は、日本の法権に服
 することを条件に、内地開放の特権が与えられた。
  陸奥は、この後、すぐにアメリカとの交渉に乗り出し
 た。
  この時は、調印に至らなかったが・・、
  以後の流れは・・アメリカと新条約を調印。
  ドイツ・ロシアとも調印(発効せず)
  イギリス誌「タイムズ」が大審院に外国人判事を任用
 する大隈草案を掲載した(1889年)
  この後、日本国内で違憲論が起きた。
  そして、大隈遭難事件が起きる(大隈外相が、玄洋社
 の前社員の爆弾テロで負傷した)
  条約改正交渉は中止となる。
1888年11月26日、枢密院が、衆議院議員選挙法の審議を開
 始した。
  1888年4月に、憲法草案を審議するために枢密院が設け
 られたが、枢密院は、天皇陛下の最高顧問機関だった。
  条約改正交渉で、伊藤首相の退任を要求する声が高く
 なり、伊藤博文は枢密院議長に転出した。
  そして、黒田清隆が首相に就いた。
  そして、この年・1888年6月~翌年・1889年1月まで、
 枢密院での審議が行われて、大日本帝国憲法と、その付
 属法、及び、皇室典範が決められた。
1888年11月26日、東京(築地)に、海軍大学校が開校された。
  日本海軍の上級将校教育機関。
  今・現在、海上自衛隊には、海上自衛隊幹部学校があ
 り、これに相当する。
  1888年7月14日、勅令第55号により海軍大学校官制が
 制定され、
  1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長井上良馨が兼任し、
  1888年11月26日、授業が開始された。
1888年11月30日、日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこう
 つうしょうじょうやく)
  条約改正後、最初の締約である日本・メキシコ間に対
 等条約が成立した。
  はじめての対等の通商条約で、治外法権が無く、関税
 自主権のある、平等条約であり、メキシコにとっては、
 アジアの国と初めて締結した条約であった
  ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ
 公使ロメロとの間で協議された(大隈重信外相)。
  この頃、大隈外相は、大審院に外国人判事を登庸する
 などを骨子とする新通商条約案を各国公使に通告した。
  この頃は、安政の五カ国条約として、アメリカ(日米
 修好通商条約)、オランダ(日蘭修好通商条約)、ロシ
 ア(日露修好通商条約)、イギリス(日英修好通商条約)、
 フランス(日仏修好通商条約)と不平等条約の状態にあ
 り、李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が
 有利)を結んでいて、
  平等条約は、清と結んでいる日清修好条規のみだった。
1888年11月、初の少年雑誌「少年園」が創刊した。
  最初の本格的児童雑誌といわれている。
  文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、
 教育・啓蒙を発刊の主旨とした。
1888年12月2日、東京人造肥料会社が、過燐酸石灰肥料の生
 産を開始した。
  1887年4月 高峰譲吉博士が、イギリス留学中に化学肥
 料製造工場を見学した内容を日本に紹介した。
  これを受けて、渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝
 (当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界の首脳が
 発起人となって前身である東京人造肥料会社を設立した。
  別史料:1887年2月、東京人造肥料会社(のちの東京人
 造肥料株式会社)設立 (日産化学ホームページ)
  別史料:1887年2月、東京人造肥料株式会社の設立準備
 会が発足し、社長に渋沢栄一、技師長兼製造部長に高峰
 譲吉の就任が内定する。
  1887年3月、高峰は、農商務省に在籍したまま人造肥料
 製造機械及び原材料買い付けのため欧米に出張する。
  1887年11月、高峰が帰国し、
  1887年12月、東京人造肥料株式会社が正式に設立され、
  1888年9月から本格的な製造が開始された。
  因みに、同社は、日産化学工業株式会社として現在に
 至っている。
  (参考)に、高峰は、1888年3月、5年間、勤務した農
 商務省を退職し、研究者県起業化としての道を本格的に
 歩むことになる。
  渋沢は、「元来は学者であるけれども、一面において
 事業を処理していく才能を持っている」と、高峰の企業
 家としての能力を高く評価した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:熱烈なキリスト教信徒だった「 ルーズベルトの評価 」
    その行動は、大きくキリスト教的考え方に影響されていた。
.
1945年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった。
  ルーズベルトは、アメリカでも、「戦争を引き起こし
 た張本人」と描く書籍が、今でも、毎年の様に書店に並
 ぶ。
  また、ルーズベルトが、脳出血で倒れ、結局、これが
 原因で亡くなるのだが、
  この時、ルーズベルトの傍らには、ずーっと、愛人が
 いた。
  この事は、20年間、アメリカでは秘密にされた。
  妻への連絡も遅れるという異常な状態だった。
  ルーズベルトは、1945年4月12日、午後1時15分、倒れ、
 その日の午後3時35分に、こと切れた。
  63歳だった。
  約10時間の後、ソ連のアメリカ大使館に伝えられ、
  ソ連のアメリカ大使は、ソ連側へ緊急電話を入れ、そ
 の事情を伝え、スターリンへの会見を申し込んだ。
  その7時間後、クレムリンを訪れたアメリカ大使に会う
 と、スターリンは、自ら出迎える態度を示し、
  わざわざドアまで足を運び、アメリカ大使を驚かせた。
  スターリンは、悲嘆にくれた表情で、アメリカ大使の
 手を30秒以上も握りしめ、お悔やみの言葉も早々にして、
 スターリンは言った・・、
  「新大統領の下でも、アメリカの政策は変わらないの
 でしょうね、私は変わらないと信じる」・・と。
  政策とは・・、ヤルタ合意の事であって・・、
  スターリンが、ルーズベルト大統領から言われている、
 「日ソ中立条約を破棄して、日本へ戦端を開き、日本の
 領土を取る」と促され、そそのかされたことなどの事だ
 った。
  アメリカは、そのソ連の行動を認めるという事だった。
  スターリンは、繰り返し、繰り返し、そのことを確か
 めたのだった。、
1945年4月12日、ルーズベルトは、アメリカのジョージア州
 の静養地で死に至る脳出血に倒れた。
  愛人のラサフォードが付き添っていた。
  妻のエレノアは、大分、時間が経った、その日の深夜
 になって、やっと、そのことを知った。
  エレノアは、従姉妹(いとこ)のローラとは中が悪か
 った。、
  エレノアは、その中の悪い従姉妹のローラに、ルーズ
 ベルトが倒れた時の様子を聞いた。
  ローラは、復讐の意味を込めて、エレノアに、愛人の
 存在を告げた。
  エレノアは表情一つ変えなかった。
  しかし、エレノアの長女・アンナは、父親と愛人の関
 係を、すでに、知っていて、その事もこの時、同時に知
 ったのだが、エレノアは、この長女に裏切られた方に、
 大きなショックを受けた。
  ルーズベルトと言うと「ニューデール政策」が有名だ
 が、この政策の柱になった失業者入植運動「アーサーデ
 ール」は、エレノアの発案だった。
  妻のアイデアを、ルーズベルトは拝借したのだった。
.
  そして、次の話・・
  追い詰められた日本、2ヶ月後に、日本は降伏するが・・
  日本は、その様に追い詰められている日本であったが・・
  アメリカ兵を丁寧に葬るという日本だった。
.
1945年6月12日、静岡空襲、その時の犠牲のアメリカ兵を弔
 う日本人。
  アメリカが、国際法違反の一般市民をターゲットにし
 た。
  静岡市民をターゲットにしての空襲を行なった。
  日本は、真珠湾攻撃の時、一人も、アメリカ国民の
 方々(アメリカ市民)への攻撃や空襲を行っていない。
 殺していない。
  しかし、このアメリカは、本当に、無制限に、日本の
 一般市民を攻撃し、殺戮し続けた。
  この静岡空襲の時、アメリカのB29爆撃機が、静岡上
 空で衝突事故を自軍機同士で起こし、墜落した。
  静岡の優しい日本の国民の方々は、この事故の墜落で
 亡くなったアメリカ兵を賎機山(しずはたやま)に葬り、
 慰霊碑を建立し、1972年(昭和47年)から、毎年、その
 アメリカ兵の霊を慰める慰霊祭を開催している。
  今では、アメリカ軍も参列している。
  また、よく嘘を付くルーズベルトが、「真珠湾攻撃は
 『奇襲』だと嘘を言った」が・・、
  (因みに、ルーズベルトの言葉に、『嘘をついたって
 いいのだ』という言葉がある)
  この事も、おとなしい日本人は、静かにしている。
  奇襲ではない。
  アメリカ国民の方々は、今でも真実が知らされていな
 いで、「真珠湾攻撃は、奇襲だった」と信じている。
  ルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣伝)だと知らない。
  この逆に、日本が、プロパガンダを言うことはない。
  (参考):
  静岡大空襲は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)
 6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29
 爆撃機137機により旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)
 の市街地が受けた空襲。
  マリアナ諸島から飛び発ったアメリカ軍第314航空団の
 空の超要塞と名付けられたB-29大型戦略爆撃機137機は、
 伊豆半島波勝崎付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空
 を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かう
 が、一旦静岡市街上空を通過し、御前崎上空から再び静
 岡市街上空へと向かった。
  3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発、被害
 は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸
 に上った。
  この静岡大空襲を含め、旧静岡市は1944年(昭和19年)
 暮れから終戦迄に合計26回の空襲を受けている。
.
  そして、次の (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、世界を繰る・・
    そして、NHKも「フィクションだ」「作り話だ」「嘘話だ」と言い訳をして、繰る・・
.
1909年、リーという中国系の男に繰られるアメリカ、そし
 て、そのアメリカが、世界を繰る。
  この年、アメリカ社会に恐怖を与える本が出版された。
  この本を書いた男が、ホーマー・リー。
  この男は、アメリカのコロラド州に生まれた作家・冒
 険家・戦略家。
  ロサンゼルスの中国人社会やチャイナタウンで影響を
 受けた。
  ルーズベルト政権支援の中国貿易の代表にもなった。
  (ルーズベルトは、「私の先祖は、中国貿易に従事し
 ていて、私は、中国人に親しみがある」と言い、
  「そんな私が、日本をやっつけようというスティムソ
 ンの提案に同意しないわけがない」と発言していること
 を想起させる)。
  リーは、中国要人が、軍資金が欲しいとアメリカに来
 ると仲介し、便宜を図る事もした。
  中国の孫文の側近として居たこともある人物。
  そして、この男=リーは・・、
  アメリカが、移民した日本人を虐(しいた)げている
 時・・、変な空想小説を書いた。
  (そして、アメリカは、1924年に至り、排日移民法を
 つくり、日本人移民を排除している)
  その本は、「アジア系民族によって滅ぼされるイギリ
 ス」についての空想をデッチアゲた小説をだった。
  日本人へ向けられたアメリカにおける日本人への蔑視
 と虐待があった。
  この様なアメリカの風潮を煽った小説だった。
  しかし、リーは、自分さえ儲かればよいと、書いては
 いけない事まで書いたのが「この本だった」(中国工作
 員だったらしい?)。
  だが、しかし、この男=ホーマー・リーは、この本の
 他にも、1909年にも、日本を貶(おとし)める本を書い
 ていた。
  この本は、ベストセラーとなり、大変、儲けたリーは、
 味を占めた。
  同じことを、第二次世界大戦直前にもした。
  1909年の日露戦争後の時も、アメリカ社会に大きな影
 響を与えていた。
  リーは、第二次世界大戦の直前にも、この様な小説を
 書いた。
  本の題は、「無知の勇気」という。
  結論的に言うと、歴史的事実と何も関係ない作り話の
 本で、
  「日本が、フィリピン、ハワイを占領し、開戦の1ヶ月
 後には、アメリカのロサンゼルスに日本軍は上陸すると
 いう、とてつもなく強い日本軍を描き、
  10ヶ月以内には、ワシントンに向けて進撃して行く」
 という、桁ちがいの嘘話となっている。
  アメリカの方々を、「日本への恐怖に突き落とした」。
  その恐怖からベストセラーとなり、本を売ろうという
 魂胆が見える本だった。
  しかし、これは、こんな個人的な儲け話以上に、問題
 の社会現象を作り上げて行った、日本・・恐ろし。
  この事は、当然、ルーズベルトも知っている事だった。
  これと似た、社会を繰ろうという行為をNHKがやっ
 ている。
  巨大な放送媒体を使って、日本全国の茶の間に入って
 行くNHKが、「日本を、視聴者の方々を繰ろう」とし
 ている。
  気に入らない政権を倒そうとするし、
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の「巧妙な
 る伝道行為」も多くしている。
  今・現在でも、ずーっと、キリスト教に偏するNHK
 は、社会を繰ろうと作り話を放送している。
  例えば1例、(読売新聞、2016年12月15日)でも報じ
 ていた。
  キリスト教に偏するNHKは、視聴率の良い日曜大河
 ドラマで、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」を数多く
 行って来たが、歴史的事実などは無視してやって来たが、
  しかし、NHKは、『歴史的事実は尊重している』と
 言って来た。
  しかし、上記の読売新聞で、それまで言って来たNH
 Kの「論理は崩れた」。
  来年(2017年)放送予定のNHK・日曜大河ドラマ「
 井伊直虎」の、「基本的根拠が崩れる新史料」が見つか
 った・・という、読売新聞の報道だった。
  今まで、時代考証を・・ドラマが、歴史的事実と違っ
 ていないというチェックの考証を・・
  東京大学などの権威ある学者に依頼して、
  「歴史的事実と違わないようにしています」という論
 理だった・・が、崩れてしまった。
  また、視聴者から、NHKに多く寄せられる「史実を
 無視しているではないか」というクレームや、
  「史実と違う」という指摘に対して、
  「時代考証をしっかりしています」と答えて来たNH
 Kだった。
  どうしても違ったという場合は、「ドラマを面白くす
 るために、脚本家が、その様にした」・・と、
  脚本家という「他へ、責任を転嫁」して来たNHKだ
 った。
  しかし、この「井伊直虎」の場合は、これからの・・
 直後の・・放送予定であり・・、
  新史料発見が、放送予定直前というということで、ニ
 ッチモサッチモ行かない時であり、
  しかし、この新史実は、根本的な差異であって、
  ドラマの根底が崩れる去るという大きな問題だった。
  従来、「女性と考えられてきた『井伊直虎』が、男性
 だった」というのである。
  女性と男性という、主人公がまったく違うという根本
 的な重大な差異なのである。
  根本的な違いによって、ドラマ全体の根底が、ひっく
 り返る大問題が、急浮上したのである。
  新しいこのドラマの公開は、1か月未満後に迫っている。
  この時の、NHKの説明は・・、
  「ドラマは、あくまでフィクション(作り話し、嘘話)
 ですから、影響はありません」・・と言った。
  あれほどNHKは、「NHK史観」で、時代を捻じ曲
 げ、キリスト教に有利な話をでっち上げ、
  キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしてきたNHK
 が、「史実ですから」と言ってきたNHKが、
  ここに来て・・「作り話ですから」と言った。
  視聴者の方々は・・今までのNHKの口から出まかせ
 の話に、史実と錯覚して来た。
  事実と錯覚して来た。
  視聴率の高いこのドラマを利用して、この様な事ばか
 りして来た。
  フィクション・作り話・嘘話なら、このドラマの放送
 開始と最後に・・、
  「このドラマはフィクションであり、作り話であり、
 史実に基づいて居りません」とはっきりと視聴者の方々
 へ知らせよ!
  事実ではありません!と、視聴者の方々へ知らせよ!
  NHKは、この他にも多くの問題を抱える問題放送局
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月22日木曜日

(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)

題:(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月31日、議員法の審議が終了する。
1888年10月、勝海舟が、正三位に叙せられる(氷川清話)
1888年10月、コンドル設計の宮内省庁舎と、木子清敬設計
 の皇居正殿・豊明殿が完成した。
1888年10月、長崎にコレラ流行する。
  「長崎くんち」の奉納踊りが中止となる。
1888年10月、勝海舟の「海軍歴史」編纂(へんさん)成っ
 た。
  25巻(明治22年海軍省出版)(氷川清話)
1888年11月1日、山陽鉄道の兵庫駅~明石駅間が開通した。
  同時に開業した。
  旅客と貨物の取り扱いを開始。
1888年11月1日、馬場辰猪(ばばたつい)が、アメリカで死
 去した(1850年6月24日~1888年11月1日) 
  明治期の自由民権家で、土佐藩(高知県)藩士の馬場来
 八虎の次男として生まれた。
  江戸の藩費留学し、福沢諭吉(慶応義塾)に学び、
  1870年(明治3年)20歳、藩命によりイギリスに2回留
 学(1878年まで・・途中、一時帰国)、英国法(法学な
 ど)を修めた。
  滞英中、小野梓らと日本学生会を組織した。
  帰国後、小野らが結成した文化啓蒙団体(共存同衆会)
 に参加して多数の講演を行った。
  これを「共存雑誌」に発表した。
  1881年、31歳、大石正巳、末広重恭らと国友会を組織
 して、長野、山形、新潟などに遊説し、自由主義思想の
 啓蒙につとめ、
  1881年(明治14年)10月、自由党創立とともに常議員
 に選ばれ、同党の理論的支柱として活躍した。
  しかし、1882年(明治15年)板垣自由党総理の外遊に
 反対し常議員を辞任、
  1883年(明治16年)9月、自由党を脱党した。
  1885年(明治18年)11月、爆発物取締罰則違反容疑で
 逮捕されたが、
  1886年(明治19年)6月、無罪放免となり、まもなくア
 メリカに渡った。
  全米各地で、日本の実態を紹介する講演や明治政府の
 専制ぶりを批判する論説を発表するなど精力的な活動を
 続けたが、
  1888年(明治21年)夏以降、体調をくずしペンシルベ
 ニア大学病院に入院、満38歳で客死した。
  遺著『日本政治の状態』の表紙にみえる「頼むところ
 は天下の輿論、めざす仇は暴虐政府」の言葉は、彼の執
 念を示すものとして有名。
  <著作>『馬場辰猪全集』全4巻
  <参考文献>安永梧郎『馬場辰猪』、西田長寿「馬場辰
 猪」(明治史料研究連絡会編『民権論からナショナリズム
 へ』)、萩原延寿『馬場辰猪』
1888年11月1日、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)
 の浅草文楽座での万国第一等手品が評判となり、60日間、
 興業が行われた。
  奇術師・松旭斎天一は、越前福井藩の陪臣・牧野海平
 と妻音羽の長男として生まれた。本名:服部松旭。
  家断絶により、叔父の唯阿が、住職を勤める阿波国(徳
 島県)西光寺へ移住した。
  同寺で孤児となり仏門に入ったが、宗教の奇跡を自作
 自演して破門にされた。
  大道芸の手品師となる。
  1878年(明治11年)イギリス人・ジョネスと共に上海
 へ渡り、西洋奇術を学ぶ。
  大仕掛けな舞台奇術を志し、
  1888年(明治21年)浅草の文楽座で水芸、大砲芸や宗
 教劇奇術で成功した。
  欧米巡業(1901~05)後は、歌舞伎座をはじめ、全国の
 大劇場に出演した。
  大道芸の手品を近代的な舞台奇術にまで発展させた。
  <参考文献>青園謙三郎『松旭斎天一の生涯』
1888年11月5日、日本画家:狩野芳崖が没した(61歳)
  1828年(文政11年)1月13日、長門(ながと)国(山口県)
   長府藩の御用絵師・狩野派の四代董信(ただのぶ)(
   晴皐)の長男として生まれた。幼名:幸太郎。
   家は、代々、毛利家の御用絵師をつとめていた。
   狩野派の絵師の父に手ほどきを受けていた。
   また、同家の菩提寺である覚苑寺の霖竜和尚に参禅、
   大きな精神的感化を受ける。
   後に、「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は
   法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も、
   霖竜から与えられたものという。
  1841年、(13歳)この頃より、松隣,松林と号した。
  1846年(弘化3年)18歳、江戸に出て、木挽町、狩野勝
   川院雅信(ただのぶ)に入門し、たちまち頭角を現
   した。
  1849年(21歳)この頃、勝海雅道(ただみち)の称を
   許された(師の一字を受けて勝海と号した。
  1849年(21歳)芳崖と同日入門の橋本雅邦(がほう)と
   ともに、その英才を謳(うた)われ、竜虎とうたわ
   れた。
   佐久間象山(しょうざん)にも学んで、進取の気性に
   富み、狩野派の粉本主義に疑問を抱いて、従来の狩
   野派の筆法に西洋画の画法を取り入れた。
   新しい日本画の領域を開拓した。
   独創を試み、危うく破門されるということもあった。
  1850年(22歳)この頃、塾頭となる。
  1852年頃(24歳)師の名から一字を得て雅道と号して
   独立、長府藩の御用絵師となる。
  1855年(安政2年)27歳(30歳ころともいわれる)、帰
   郷、雪舟・幸村らの作品に傾倒し、この頃から、芳
   崖と号した。
  1860年、32歳、ふたたび江戸に出て、江戸城本丸再建
   に際し、大広間天井画を描く。やがて江戸払いとな
   って郷里に戻る。
   幕末は、国事に奔走し,馬関海峡の測量図などを描く。
  1871年(明治4年)43歳、廃藩置県で禄(ろく)を失った。
   そのため、生活に困窮し、他業に転じるなど辛酸を
   なめた。
  1877年、49歳、上京、精工社で輸出用陶器や漆器の下
   絵描(か)きなどに従事したが、貧窮を極めた。
  1879年頃(51歳)「犬追物図」制作のため島津家雇と
   なる。
  1882年、54歳、アーネスト・フェノロサの知遇を得た。
  1884年、56歳、第2回内国絵画共進会に出品した『桜下
   勇駒図』『雪山暮渓』が、フェノロサに認められ、
   フェノロサを介して岡倉天心とも親交を結び、
   鑑画会に加わって新しい日本画の創出に力を注ぐこ
   とになった。
   図画調査会雇となる。
  1885年、57歳、第1回鑑画会大会で「伏竜羅漢図」が3
   等賞となった。
   文部省図画取調掛雇となり、フェノロサや天心と力
   をあわせて東京美術学校の創設に努めた。
  1886年(58歳)第2回鑑画会大会で一等賞を受賞した
   『不動明王図』(重要文化財)は、西洋の絵の具を
   用いた色調が鮮やかで、構図の斬新(ざんしん)さと
   ともに、新しい表現を切り開く強い意志をうかがわ
   せる。
   鑑画会の中心作家として、フェノロサと二人三脚で
   日本画の近代化を進めた。
   代表作は、この晩年の数年間に集中しており、ここ
   に至って、狩野派、室町水墨画、維新後の明清画研
   究に、遠近法や西洋的色彩などの西洋絵画研究が加
   えられ、それらが集大成された。
   「不動明王図」「岩石図」「暁霧山水図」(いずれも
   東京芸大蔵)のほか、絶作「悲母観音図」(東京芸大
   蔵)は、日本画近代化の第一段階における記念碑的作
   品ともなっている。
   フェノロサ、ビゲローらとの関係から、アメリカの
   ボストン美術館、フィラデルフィア美術館、フリア
   美術館にも作品が収蔵されている。
   図画取調掛雇となる。
  1888年(60歳)同校の日本画科主任教授に内定したが、
   1889年の翌年の開校を待たず(開校の3ヶ月前)の
   1888年(明治21年)11月5日、60歳で没した。
   死の直前に完成した『悲母観音』(重要文化財)は、
   近代日本画の代表作の一つとして名高い。
   この他の代表作として「大鷲」
   『河北倫明・高階秀爾他編『日本の名画1 狩野芳崖』
1888年11月15日、天竜川に鉄橋架設が竣工した。
  早川橋梁(出山鉄橋)
1888年11月16日、今日新聞と歌舞伎新報を吸収して、都(
 みやこ)新聞が創刊された。
  1884年9月、小西義敬により夕刊紙「今日新聞」として
   東京で創刊された。
   初代主筆は、仮名垣魯文として、夕刊紙『今日新聞』
   が創刊され、
  1888年11月、黒岩涙香主筆の朝刊紙『みやこ新聞』と
   なり
  1889年2月、『都新聞』と改題(朝刊紙となる)
   小説や歌舞伎・花柳界関係、演劇・文芸記事に特色
   があって下町好みの新聞であったが、
  1892年,改進党の楠本正隆の買収後、政治的には改進
   党寄り,後には、政友会系といわれたが、
   党派色は薄く、日露講和反対運動で,マスコミの大
   勢に従った程度にとどまった。
   内容は、歌舞伎、花柳界などの通俗記事と、小説の
   充実を本領とし、黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園
   の探偵実話、劇評などにより、東京下町を中心に読
   者を集めた。
  1942年、新聞事業令 (1941年12月、公布) により『国
   民新聞』と合併、夕刊地方紙の『東京新聞』となっ
   た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦の原因を作ったスティムソン(アメリカの国務長官)
.
1933年1月9日、この日から約2ヶ月の後に、ルーズベルトが
 大統領に就任(1933年3月4日に、第32代大統領となる)
 するのだが、
  この日に、スティムソン(ルーズベルトの前の大統領
 のフーバー大統領の国務長官)が、ルーズベルト宅に訪
 れた。
  ルーズベルトとスティムソンは、これが、最初の出会
 いだった。
  スティムソンは、自分の考えを伝えた。
  ルーズベルトは、スティムソンの話を聞き、スティム
 ソンの考えに全面的に同意した。
  そして、ルーズベルトは、後悔したように言った・・、「
  もっと早く(日本への経済制裁を)実施させるべきだ
 った」・・と。
  さも、「失敗した」というように舌打ちをした。
  そして、「日本は、いずれ屈服するだろう」と言った
 (スティムソン日記)。
  ルーズベルトは、このスティムソンの考えの継承を、
 アメリカ国内、および、世界に発表した。
  しかし、スティムソンと違ったところは、「スティム
 ソンが、日本への経済制裁をしても、戦争につながらな
 い」と考えていたのに対し、
  ルーズベルトは、「必ずしも、戦争につながらない事
 もない、戦争に至ることもありうる」と考えていた。
  そして、側近のタグウェルから、「戦争の危険」を言
 われると・・、
  「戦争になるなら、早い方がよい」と、戦争を避けよ
 うという意思はないという所を見せた。
  ルーズベルトは、完全にアメリカが強い状況にあるか
 ら、早いうちに「力で屈服させよう」という路線の中に
 あった。
  話し合って、とことん話し合って、「卑劣な武力行使
 である戦争」は、避けようという姿勢ではなかった。
  ルーズベルトのこの軍事優先の考え方に対し、抗議の
 手紙が来た。
  この事について、妻のエレノアへ「日本が悪いと責任
 を転嫁した」。
  その様な捉え方で、話し合いではなく、戦争に至るの
 はやむなしと考える、思考停止しているルーズベルトだ
 った。
  「日本が、誇大妄想に取りつかれているから」と、思
 考展開して、ルーズベルトは、日本を捉えていた。
  その日本に対する「固定的捉え方・固定観念」から、
 ルーズベルト自身は、「戦争行為の実施・・やむなし」
 の考えに取りつかれていた。
  妻のエレノアによると、ルーズベルトは、ウッドロー・
 ウィルソン政権(第28代大統領、1913年3月4日~1921年
 3月4日)の海軍次官補だったころから、
  ルーズベルトは、ハワイやグァム島や太平洋の島々に
 ついての日本に対する脅威や安全に不安を持っていた。
  そして、話し合いで解決するという考え方より、「日
 本を仮想敵国と見て叩く」ルーズベルトが、そこに居た。
.
1933年1月9日、ルーズベルトが大統領になってない、約2ヶ
 月前のルーズベルトの前の大統領であるフーバー大統領
 (第31代大統領)の国務長官であるスティムソンは、ル
 ーズベルトの「ある言葉」を聞いて思った・・、
  「(ルーズベルトは)いわゆる侵略による領土の変更
 を認めないという(前政権の)原則を受け継ぐことを明
 らかにした。
  ‶侵略国〟というあいまいな定義だけで、国際紛争にお
 ける中立の立場を捨て、一方の国に制裁を加えるという
 誤った政策を意味している。
  極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じこと
 だ。
  いずれ米英が、日本に対し戦争を仕掛ける事になるか
 もしれない」・・と。
  スティムソンは、アメリカが、イギリスと共に、日本
 との戦争になると感じた。
  ルーズベルトは、この様に大統領になる前から、日本
 との戦争に至る路線にある大統領だと感じさせた。
  日本が、真珠湾攻撃をしたから第二次世界大戦がはじ
 まったのではなかった。
  ルーズベルトには、日本との戦争を、大統領として行
 う行為として、大統領になる前から意識し、存在させて
 いた。
  これまでのアメリカには、分岐点があった。
  日露戦争までは、日本の支援国であった。
  日本が、精一杯、ロシアと戦っている時、絶妙のころ
 合いに仲介してくれた。
  日本は、ロシアとの戦いに「勝利」という結果を得た。
  満州を、ロシアから日本へ移譲(いじょう、権利が移
 ること)された。
  日本の『侵略ではない』。
  アメリカには、判断の分岐点があった。
  このアメリカが仲介して、ロシアから移譲され、権利
 が、ロシアから日本へ移った満州を、アメリカは承知で、
 戦争の仲介しておきながら・・、
  その後、手のひらを返したごとく『侵略だ』と言い出
 した。
  これは、アメリカが、大義名分を作りたかったからだ
 った。
  だから、この様に言い出したのだった。
  一時、日本を理解し、同じ立場を取ったアメリカだっ
 たが・・、
  しかし、東アジアの小さい国・日本が、侮(あなど)
 れない国という意識が芽生えた。
  日英同盟の破棄するように、アメリカは、動いた。
  日本とイギリスを分断する行動をした。
  1902年に結ばれた日英同盟は、1923年に失効とされた。
  アメリカと共に日本は、イギリスとも、袂(たもと)
 が分かたされた。
  アメリカ・イギリスなどと対峙する立場という「好ま
 ざる立場」に立たされた。
  モーリーは、大統領就任前のルーズベルトを、レック
 ス・ダグウェルと共に訪ね・・、
  国務長官の『スティムソン外交の好戦性』を説き、
  このままでは戦争に至ることを説こうと、ルーズベル
 トを訪れた。
  しかし、ルーズベルトは、数時間におよぶ説得を聞い
 たのち、
  日本との戦争は避けられないと言い、
  避けるより、早い時期に戦った方がよい・・と・・平
 然とルーズベルトは答えた。
  驚いたダグウェルが・・、
  「ですが、日本は、人口増と急激な工業化で、新たな
 市場を必要としている。
  日本の行動が、イギリスと比べて酷いとは思えない(
 イギリスの方が酷い)」・・と言った。
  すると、ルーズベルトは・・、
  「私の先祖は、中国貿易に従事したことがある。
  だから、いつも、私は、中国人には親しみがある。
  そんな私が、日本をやっつけようというスティムソン
 に同意しないわけがないではないか」・・と。
  (「FDRのニューヨーク時代」ケネス・デービス著)
  (参考)
  モーリー(レイモンド・モーリー)は、ルーズベルト
 大統領を支援し、ニューディール政策の策定に当たった。
  だが、1933年9月、モーリーは、連邦政府の権限拡大に
 反対し、国務次官補を辞任した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月17日土曜日

臨時ブログ:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、日本に強くありなさいという励ましのメッセージが込められている。

臨時ブログ*:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて
  来た日本独特の精神文化を思い出しなさい。
   そして、日本に強くありなさい・・という励ましの
  メッセージが込められている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 イスラエルのヘブライ大学にベン=アミー・シロ二ー教
授という方が居られる。
 この方は、日本の勲2等瑞宝章を受けている。
 この方は、杉浦千畝の本当の姿を暴露している。
 以下は、この教授の話を要約し、まとめたものである。
 杉浦千畝と言えば、キリスト教が「日本を貶(おとし)
め、そして、キリスト教徒の杉浦千畝が素晴らしいことを
したとデッチアゲタ話」である。
 キリスト教は、杉浦千畝が、キリスト教徒だったからユ
ダヤの方々を助けたのだと、嘘の話をデッチアゲタ。
 その時、日本は、ユダヤの方々にビザを発給してはいけ
ないとして、ユダヤの方々を虐(しいた)げていたという
嘘の話をデッチアゲてまでして、日本を貶(おとし)めた。
 キリスト教は、本当に嘘ばかり言う宗教である。
 しかし、嘘をついて、日本を貶(おとし)めるところま
でやる行為は、「絶対に、許せない」。
 「自分の宗教・キリスト教を美化したいからと、日本を
貶めることまでするという行為は許せない」。
  この様に、キリスト教は、嘘ばかり言う宗教である。
  また、この様な類いの日本を貶める話を、世界に発信
している宗教である・・本当に始末に負えない許せない宗
教である。
 また、キリスト教に偏するNHKは、この嘘のキリスト
教の話を、そのまま、日本全国に放送している。
 そして、日本の貶め放送を世界へ配信している。
 酷いNHKとなっている。
 そしてまた、最近は、腰ぎんちゃくの様に読売新聞まで
が、この嘘話に乗っかって、間違いの嘘話を記事を書いて
いる。
 ベン=アミー・シロ二ー教授も、ナチスドイツの迫害を
受けている方で、
 日本関係の書籍も、多数、書かれている方である。
 世界に名高い日本研究者で、名誉教授になられている。
 東アジア学科教授となって、毎年、500名を超える学生
に、日本の歴史や文化の講義を続けている。
 ヨーロッパやロシアは、宗教はキリスト教で・・そのキ
リスト教において・・「イエス・キリストを殺したのはユ
ダヤ人だ」と、ユダヤの方々を虐(しいた)げている。
 日本には、当然、昔から、その様なユダヤの方々に対す
る差別はない。
 勿論、虐げ行為もしていない。
 ヨーロッパでの1例・・キリスト教徒のシェイクスピアを
例に言うと(古代から、キリスト教は、ユダヤの方々を虐
げて来た))、
 彼の戯曲でも、ユダヤの方々を、金貸しとして悪どく描
き、金が返せなければ、「人肉で返せ」と言うなどと、
ユダヤの方々を卑劣に描いている。
 この例でも分かる様に、キリスト教は、ユダヤの方々を
卑劣に処遇した。
 スペインというキリスト教国は、どこまでもユダヤの方々
を追いかけて、宗教裁判で殺した。
 コロンプスとその船員たちも・・それから逃れた人々だ
った。
 日本は、明治の時代も、ユダヤの方々を『お雇い外国人』
として日本へ招聘し、教師として尊敬し、多くを学んだ。
 当然、差別なく遇した。
 例えば、アルベルト・モッセは、ドイツ系ユダヤ人の方
だったが、伊藤博文は、明治憲法を作る時は、多くのアド
バイスを戴いた。
 また、日本は、本当にユダヤの方々に感謝しなければな
らないのが、日露戦争の時のことである。
 『ポグロム』という卑劣な行為が、ロシアにおいて、ユ
ダヤの方々に対して行われていた。
 反ユダヤのツアー政府でも行われた・・このポグロムは、
ロシア語で『破壊』とか、『破滅』を意味する言葉である
が、
 ユダヤ人の方々に対して行われる集団的な・・あらゆる
種類の迫害で・・「殺戮」「略奪」「破壊」「差別」など
を言う「卑劣な行為のこと」である。
 その様なロシアという大国を・・小国の日本が「打ちの
めした」のが日露戦争だった・・、
 ユダヤの方々は・・たいへん大喜びし、沸き立った。
 それより、日本が・・ユダヤの方々へ感謝しなければな
らないことは、「日露戦争を戦う資金が全くなかった」の
を救って戴いたことだった。
 アメリカも、イギリスも・・貸そうとはしなかった。
 その様な時、ヤコブ・シフという有名なユダヤ人の銀行
家が、日本へお金を貸してくれたのである。
 「日本は負ける」という世界の見方をかえりみず・・お
金を貸してくれたのだった。
 日本が負けたら返って来ないお金を・・貸してくれたの
だった。
 「返金されないリスク」を背負ってくれたのだった。
 しかも、イスラエルの英雄となっているヤコブ・シフは、
友人の銀行家がたへも協力を求め・・軍資金集めをして戴
いたのだった。
 高橋是清が財務大臣として、軍資金集めに、ヨーロッパ
へ行き・・そして、ロンドンへ赴いて・・会議の場で・・
軍資金を必要とすると訴えたことに対し、
 アメリカ・イギリスは無視したのに・・その呼びかけに
応えて戴いたのだった。
 ヤコブ・シフは、それだけでなく日本赤十字社などに対
しても多額の寄付をして戴いている。
 1905年に、ヤコブ・シフは、日本に招かれ、明治天皇陛
下との謁見も果たし、
 日本は、首相をはじめ、全会議、そして、多くの人々が
感謝の意を示した。
 明治天皇陛下から、勲一等旭日大綬章を授けられた。
 また、イスラエル国歌の「ハティクバ(希望)」を作詞
したナフタリ・インベルも、大変な親日家で、日本ファン
だったが、
 日本の勝利を知って、大いに喜び、その詩を、英語・ヘ
ブライ語・イーディッシュ語で発表し、ニューヨークで出
版し・・そして、明治天皇陛下に捧げた。
 ユダヤ人の方々は、「ユダヤ人の報復を、ユダヤ人に代
わって日本が、ロシアへ行なった」と言い、思った。
 この時のユダヤ人の方々の日本への愛は、熱狂的だった。
 日本の連合艦隊司令長官の東郷平八郎(とうごうへいは
ちろう)、
 ロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎の名前を
付けるユダヤの方々も多くいた。
 その一人が、今、エジプトで有名な映画プロデューサー
となっている。
 そして、トーゴー制作所は「今でも活躍している」。
 ロシアは、ユダヤの方々を、兵士として、多くの方々を
徴兵していた。
 いや応なく、ロシア兵として戦い、ユダヤの方々は亡く
なった。
 そして、日本の捕虜になった方々もいた。
 しかし、勿論、日本は、そのユダヤ人の方々を差別する
ことなく対応した。
 ユダヤの捕虜の方々は、日本で温かいあつかいを受けた。
 収容所の中で、シオニスト・グループさえ作ることが出
来た。
 そして、兵士たちにヘブライ語を教える事も出来るよう
に扱われ、また、自由に手紙を書くことさえも許された。
 この捕虜の方々は、世界中のシオニストグループへ、こ
の収容所から手紙を書いて・・活動さえできた。
 そして、戦後、自由の身になっても、ロシアに戻ること
を拒否した。
 ロシアなんか戻りたくないと、長崎などに住みついたの
だった。
 ロシア革命の時、赤軍を、トロツキーというユダヤ人が
率いていた。
 それ故に、「彼らユダヤ人が、革命を始めた」と決め付
けられた。
 「ユダヤ人が、世界を制覇しようとしている」と嘘宣伝
された。
 反ユダヤ主義が語られた。
 「革命の張本人は、ユダヤ人だ」として、アメリカやイ
ギリスは、日本に、シベリアへ出兵をしてくれと頼んだ。
 アメリカ・イギリスは、他に出兵中で、シベリアには出
兵できず、日本へ「赤軍壊滅」を要請した。
 日本は、この要請に応え、出兵し、南シベリアやウラジ
オストクなどを管理下に置いた。
 『侵略』ではない。
 要請に基づく出兵によってであった。
 日本政府は、また、冷静で、偉かった。
 この時、日本は、「この反ユダヤ主義は本当か?」と、
冷静に考えた。
 そして、2つのグループを、その調査と勉強に送り出した。
 その一人が、安江仙弘という日本人で・・、
 彼は、ユダヤ人指導者たちに会い、また、本なども訳し
たりして事実を知り、
 そして、日本に戻ると・・「ユダヤ人はよくやっている」
と報告した。
 その後、この安江仙弘は、ユダヤの方々が満州へ逃れて
来た時に、満州に定住する事を助けた。
 (この地・満州の軍の最高指揮官の東条英機も、定住の
許可を与えた)
 また、内田康哉(やすや)という外務大臣は、戦後、イ
スラエル国の建国を認めるバルフォア宣言を支持した。
 そして、また、日本人は、ユダヤ人のアインシュタイン
を温かく大変な歓迎をもって迎えた、1922年の事だった。
 この年、ノーベル賞をとったアインシュタインは、妻と
ともに日本を訪れた。
 また、1920年から1930年にかけて、多くのユダヤ人音楽
家が日本へ訪れ(虐げから逃れ)、多くの音楽家が、日本
に留まった。
 この後、大戦中に、同盟関係にあるドイツは、これに憤
慨して、「追放しろ」と日本に迫った。
 (1940年9月27日、日本、ドイツ、イタリアの三国同盟)
 しかし、日本は「きっぱり」これを拒絶した。
 「日本は法治国家だ」「日本は法を重んじる国なのだ」
「彼等は日本に留まれるのだ」と言った。
 「何ら悪いことはしていないからだ」と言った。
 多くのユダヤ人の方々が、日本に留まった。
 ナチスドイツは、この様な事を、日本に要求する政府だ
った。
 (しかし、この事実が明白にあるのに、杉原千畝を、キ
リスト教は、千畝がキリスト教徒だということで嘘のデッ
チアゲをした)
 杉原千畝は領事ではなく、副領事なのだが、リトアニア
のカウナスに赴任された。
 千畝が赴任する以前の1930年代には、既に、日本は、「
ナチスのユダヤ人に対する考え方」に対する方針を明確に
決めていた。
 その結果を先に記せば、「何ら他の外国人と同じである、
同等である」という結論だった。
 「差別の『さ』の字もない当然の結論だった」。
 だから、当然、満州に受け入れ、日本に受け入れ、また、
日本の管理下にあった上海にも受け入れた。
 (当時、上海には、イギリス・オランダなどの管理地な
どがあった)。
 ユダヤ人の方々の事は、すでに、1938年に、近衛内閣で
討議され、何ら、ナチスとの同盟とは、当然、関係なく、
その同盟に左右されなく、ユダヤの方々を、他の外国人と
同様に対応すると決定している。
 日露戦争にも応援して戴いたユダヤの方々でもあった。
 公正・公平な日本の当然の帰結だった。
 恩も忘れない日本だった。
 「日本は、昔から人権を大切にする国」だった。
 女性の方々の人権も、同様に差別をする日本ではないこ
とはよく知られている。
 世界で最初の長編小説を書いた紫式部を考えれば分かる。
 紫式部は、差別なく、高い教育を受け、この様な高い芸
術性のある作品を、
 それも、遠い昔に、世界で最初に書いた女性という輝(
かがや)かしい歴史のある日本だった。
 日本が、ユダヤの方々を差別するわけがない。
 逆に、アメリカやイギリスは、ユダヤの方々を差別した。
 アメリカのニューヨークに、船で逃れて来たユダヤの方々
を、「アメリカは、追い返している」のである。
 戦争の世界を、逃げ惑う方々を、救助すべき方々を、可
哀想に、憤りが湧く・・、
 本当に軽蔑すべきアメリカの行為だった。
 この様な事を隠し、嘘のプロパガンダするアメリカや、
イギリスだった。
 現在のトランプ次期アメリカ大統領が、犯罪者の移民は
送り返すと言っている話とは違う・・、
 トランプ氏の場合は、当然であり、当時の日本にも、こ
の様な基準があった。
 しかし、このことを、キリスト教が、過大に、ひん曲げ
て、何も知らない人を誤魔化して、「日本は虐げ行為をし
ていた」というハレンチな嘘発言をしている。
 犯罪者や麻薬中毒者などの移民の排除は、どこの国でも
やっていることを、あえて、取り上げて、国民などへ嘘を
言い続けるキリスト教やNHKの言い方なのである。
 このユダヤの方々の救済と上記をすり替えている。
 そして、美しく杉浦千畝の話を作り上げるキリスト教や
NHKなのである。
 この当時、外交官だった馬淵睦夫氏も・・、
 「当時の、どこの日本の大使館でも、ユダヤの方々へビ
ザを発給していました。杉原千畝だけではありません。日
本の方針が、そうだったのですから」と言われている。
 キリスト教やNHKは嘘を言わない事・・また、特に、
キリスト教に偏するNHKは嘘放送をしない事、そして、
尻馬に乗って嘘記事を書く読売新聞なども・・反省せよ。
  ヒトラーのドイツが、「ユダヤ人が世界を制圧しよう
としている」と言った時・・、
 日本は、「そんなに頭が良い天才ならば、彼等を大切に
して、彼等の優秀さに協力してもらおう」と、半分、バカ
にして、茶化して言うくらいの日本だった。
 千畝の嘘話は、本当に、怒りが湧く嘘話である。
 アメリカやイギリスは、卑劣な事に、ユダヤの方々の通
過ビザでさえ拒否し、そして、「入国を拒否した」。
 ただの「通過ビザ」ですよ・・と、言われるアメリカ・
イギリスだった。
 そこまで拒否し、ユダヤの方々を虐めるアメリカ・イギ
リスだった。
 ユダヤの方々は、それで、已む無く、アメリカ近くのキ
ュラソー島へ行こうと決めた(また、ここは、ビザが無く
ても入国できるという事を発見したからだった、苦労する
ユダヤの方々だった)
  杉原千畝の居た近くのポーランドが、ドイツとソ連に
分けられた事で、特に、千畝のいる地に逃れて来るユダヤ
の方々が多く居た。
 また、近くの国々も、同様な状況から、ユダヤの難民の
方々が多く出た。
 アメリカとイギリスの公館が、ユダヤの方々へ、卑劣な
行為、上記の様にビザを与えることを拒否したから・・ま
た、日本の公館に集中した、
 (この事を、世界の記憶遺産に申請せよ、登録せよ)
 ユダヤの方々は、ヨーロッパには逃れる所がない事に気
付いた。
 そして、満州や日本などへ逃れて来た。
 日本は、ユダヤの方々の救助地となっていた。
 アメリカやイギリスに問題の原点があった。
 因みに、杉原千畝は、怪しまれる人物像だった。
 その怪しさゆえに、その怪しさによって、ソ連は千畝を
拒否した。
 ソ連で、自分の宗教を棄てて、ロシア正教(キリスト教)
になっているのに・・拒否された。
 行動がおかしかった・・、
 また、ソ連女性を妻にもしたが・・拒否された・・
 已む無く、日本政府は、リトアニア赴任とした。
 ソ連で、危険で信用できない人物とされ、日本へ通報さ
れたのだった。
 日本は、杉原を、ソ連から出さざるを得なかった。
 日本は、逆に、リトアニアから情報を送る役目をさせた。
 杉原は、その様な使い道の人間だった。
 杉原は、この地を探り、地下組織を探りあて突き止めた。
 その仲間たちと連絡も取れるようになった。
 そして、彼らと協力する活動をし始めた。
 彼等のイギリス本部との秘密事項の連絡役をした。
 領事館にも、彼らのメンバーを雇い入れた(杉原を監視
する監視役だったのか?)
 こんな怪しい中の、杉原の所へ、多くのポーランド人が
逃れて来た。
 使われた杉原という立場も見える。
 ここを、キリスト教が美しく仕立てたのだった、嘘も使
って・・。
 キリスト教は、千畝が、多い数のビザを出したとしてい
るが・・?
  それでも、ほかの領事館より少し多いくらいだった(
1割~2割くらい多い程度)、
 つまり、他の領事館も同様な事をしていたのだ(アメリ
カ・イギリスはやらないし・・)。
 ユダヤの方々は、ソ連が通過できるので、(ソ連は、ユ
ダヤの方々へビザを拒否していたが、通過は許していた)
そのルートで逃れた。
 ロシア領事館に1億ドルくらいの金を使ったという話も
ある。
 (アメリカなどに居たユダヤの方々のお金が使われた)
 ユダヤの方々は、ロシア領を通り、満州へ入り、また、
ウラジオストクから船で日本に入国した。
 満州に定住し、また、日本へも入国もした。
 ユダヤの方々は、日本に入国する時に、日本はドイツと
同盟を結んでいる国だから、「強制収容所に叩き込まれる」
のではと心配し、思っていた・・しかし・・しかし・・、
 日本に入国で来たユダヤの方々は、日本で優しく温かく
迎えられた。
 しかも・・日本は、ユダヤの方々の船を出迎える「日本
政府の船」まで出していて、ユダヤの方々は出迎えられた。
 日本政府は、この様に、ドイツに全く影響されていない。
 杉原千畝のキリスト教・NHKの話は、まったくのデッ
チアゲの嘘。
 杉原千畝の出身の町まで、このキリスト教・NHKの嘘
に引っ掛かって、町の方々の税金を使って「杉原記念館」
まで作っているから・・悲劇だ。
 しかも、この避難したユダヤの方々は、ユダヤ教団があ
る神戸に迎えられている。
 そして、ミール・イエシバ(ユダヤ教学校)の宗教活動
もできて、そして、活動もした。
 また、通過ビザは2週間だったが、「2週間が経たから出
て行って下さい」とも言われなかった。
 「みなさん、2週間の期限がきましたよ」なんて言われ
なかった。
 日本は、すべての事情を理解していた。
 その様な思いやりのある日本だった。
 キュラソー島への行き方も知らないユダヤの方々の事情
もあったし、理解する日本だった。
 逆に、「行く先が見つかるまで居て良い」と言われて、
ユダヤ人の方々が「驚いたくらい」だった。
 この様な日本政府の対応の裏には、小辻節三と、その友
人の外務大臣・松岡洋右(ようすけ)が居た。
 また、上海に向かった人たちは、上海で成功し、長年、
住みつき、大変、裕福になった人たちもいた。
 シロ二ー教授は、「広島・長崎に投下された原爆の一考
察」という論文で博士号を取得された。
 アインシュタインやオッペンハイマーらのユダヤ人の頭
脳を利用して、アメリカは原爆を開発したが、
 このユダヤの開発者たちは、「原爆は、ナチスドイツに
対して使うために開発した」と、明確に言っている。
 アインシュタインが、ルーズベルトに、この事を言って
(原爆が開発できる、ドイツに使用する)、この考えが受
け入れられて、開発が開始された。
 そして、開発のための巨大なシステムが、アメリカ政府
によってつくられ、多数のユダヤ人研究者が動員された。
 その一人のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーは、
ユダヤ系の人で、ロスアラモス国立研究所の所長で、原爆
開発のマンハッタン計画を主導した。
 「原爆の父」を言われている。
 「ヒトラーの行動を止めるのだ」と、難民でもあったユ
ダヤの方々は、この開発の目標に向かって競って参加した。
 しかし、皮肉にも・・彼らの愛する日本に投下されてし
まった。
 シロ二ー教授は、「頑張って、ここは言いたい」と言っ
て言う・・、
 「原爆は、日本に投下しようとして作らされたものでは
なかったのです」・・と。
 「日本に落す理由はまったく無かった」と、シロ二ー教
授は言う。
 「日本に落とす」という情報が流れた時、ユダヤ人の方々
は、大反対して、ルーズベルト大統領に嘆願書を出した。
 その時、副大統領だったハリー・トルーマンも、この事
は知っていた訳で、
 ルーズベルトの急死で、大統領となったその副大統領だ
ったトルーマンは、当然、「この事を知っていた」。
 「投下する必要性のない日本」「すでに滅びていた日本」
 「1945年には、日本は滅びていると世界中が見ていた日
本に、投下する必要性は、誰の目にもなかった」
 そこに、キリスト教の「目には目を」の教義に洗脳され
た復讐思想があった。
 二言目には、アメリカは、「真珠湾を奇襲をした」と、
アメリカは言った。
 しかし、ここで、嘘を言うな・・と、言いたい。
 奇襲なんて作られた話だ・・、戦端は、「アメリカへ先
行していた日本の潜水艦」への、『アメリカによる攻撃』
で、既に、開かれていたのだ。また、日本の電信をすべて
解読していたアメリカは、刻々と伝わる・・ハワイへ向か
う日本の連合艦隊の電信を傍受している。またまた、中国
では、極秘で、ルーズベルトが命令を下している。日本と
戦え・・と、中国にいるアメリカ軍が、既に、真珠湾攻撃
以前に、日本へ攻撃を加えている。これこそ、日本へのア
メリカの奇襲である。日本潜水艦への攻撃を、「あれは、
クジラだ、クジラだ」と嘘を言ったって、数多い日本の潜
水艦が未帰還になっているのだ。こんな数多い日本の潜水
艦のすべてがクジラだったと、アメリカは言うのか?嘘を
言うな・・、
 さらに、アメリカは、「軽蔑すべき嘘の言葉」を連ねる。
 「早く戦争を終わらせて、兵士を母国へ返したかった」
など、原爆投下についても・・屁理屈のオンパレードを繰
り広げている・・原爆投下の「後ろめたさを披露」してい
る・・、
 そして、最後のナレーションで、次の言葉が流れる・・、
 ベン=アミー・シロニー博士は、誰よりも日本の皇室の
存在を理解しています。
 日本民族の歴史を見つめ、日本人以上に、日本の良さを
理解し、
 日本精神を心から愛しています。
 そして、ユダヤ人として、独自の視点で、日本と、日本
人に勇気を与えてくれています。
 シロニー教授の鋭く、深く、そして、愛情に満ちた言葉
に、戦後、私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来
た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、日本に
強くありなさいという励ましのメッセージが込められてい
る。
..
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