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2016年8月18日木曜日

(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)

題:(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年12月17日、大隈重信、河野敏鎌が、立憲改進党を離
 党した。
  総理の大隈と副総理の河野が仲間割れで離党した。
  この仲間割れは、大隈の求心力低下が原因だった。
  直接的には、1884年になると、組織改革を巡る紛糾が
 強まって、解党論まで出てくる始末だった。
  首脳部の離党があったが、慶應義塾系と嚶鳴社系を中
 心とする集団指導体制で、辛うじて解党は防がれた。
  しかし、ほとんど活動は、不可能状態となった。
  過激な事件があちこちで起き、政府の取締りも厳しく
 なり、また、自由党も、1884年10月29日に、解散し、
  この後の1884年11月頃より、立憲改進党内に解党論が
 出てきた。
  そして、この総理と副総理や、めぼしいメンバーの離
 党が起きた。
  党内には大きな動揺が走った。
  しかし、規約を改正して集団指導体制を取って、党は
 維持された。
  大隈は、脱党したとはいえ、その後も影響力は強かっ
 た。
1884年12月20日、華族就学規則が制定された。
  華族の方たちの多くは、明治の新政府の新しいポスト
 には就かなかった(就けなかった)が、
  政府は、こうした華族の方たちに、国会開設の際には、
 上院議員として政府の一翼を担っていただこうと期待し
 ていた。
  この事もあり、幕末に志士として活躍した優秀な士族
 の方たちにも爵位を授与していた。
  また、華族の資産が、日本の資本主義経済の成立や、
 発展に、大きくかかわっていたことが、経済史の視点か
 ら、学究の徒により研究され、確認されている。
  華族制度は、過去の事象ではなく、現代社会において
 も大切な意味を持っている。
  失われつつある社会集団の民族史的研究など、研究す
 る意義が深いと言われている。
  庶民文化の研究の必要性と同等に、エリート層文化へ
 の理解を深める必要性はあり、そして、高い重要度があ
 ると指摘されている。
1884年12月23日、院内鉱山が、古河に払下げ許可となる。
  院内鉱山は、院内銀山とも言い、
  秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山で、
 「東洋一」の大銀山とうたわれ、
  年間の銀の産出量は、日本一を何度も記録した。
  明治期に、鉱山王であった古河市兵衛が働いていた小
 野組が経営権を握った。
  そして、その小野組が解散した後の1884年のこの日に、
 工部省から古河市兵衛へ払い下げられた。
  古河は、払い下げられた最新式掘削機器に加え、
  同時に買収した日本国内の他の鉱山から、西洋で学ん
 だ技術者を連れて来て、近代的な鉱山経営を行った。
  これにより、ますます銀の産出量は増え、
  古河は、院内のほか、阿仁鉱山など、東北地方を中心
 に多くの鉱山の経営を行った。
  その利益を元手に、日本最大の鉱山であった足尾銅山
 を買収し、古河財閥を作り上げた。
  明治時代、院内は、日本4位の銀山だった。
1884年12月24日、外務卿・井上馨を朝鮮に遣して談判
  井上は、1884年12月4日に起きた甲申事変で、朝鮮の宗
 主国だと清が介入するため渡海した。
  そして、翌年・1885年1月9日に、李氏朝鮮と漢城条約
 (かんじょうじょうやく/ハンソンチョヤク)を締結し
 て危機を脱した。
  朝鮮側の全権大臣は金弘集であった。
  また、1885年4月には、伊藤が、清と天津条約を締結し
 ている。
  漢城条約締結時に、日本が朝鮮王宮に入ったことが問
 題となったが、
  日本は、朝鮮国王の親筆書があることと、また、朝鮮
 国王の玉璽の捺された詔書があることを示し、要請によ
 って入城したことをはっきり示した。
  このようなやりとりから、解決は平行線を辿った。
  ここで、井上馨は大局的判断をして、両国関係の速や
 かなる修復こそが肝要だとし、
  「朝鮮国内で日本人が害されたこと」「日本公使館が
 焼失したこと」という明白な事実のみを対象に、交渉を
 早期妥結することを提案し、その他の事は棚上げとした。
  この提案は、最終的に朝鮮側の同意を得て、条約への
 進捗を見た。
  この交渉の中、清国が話し合いに介入する一幕があっ
 たが、第三国の容喙(ようかい、横から差し出ぐちをす
 ること)をきっぱり許さず、条約の締結がなされた。
  締結された条約の内容・・、
  第一款:朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪を表明す
    ること。
  第二款:日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する
    見舞金、及び、暴徒に略奪された商人の貨物の補
    填として、朝鮮国より11万円を支給すること。
  第三款:磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正
    しく処罰すること。
  第四款:日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮
    国が代替の土地と建物を交付しそれに充てること。
     また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を
    支給し、工費に充てること。
  (当初は再建費用4万円を要求していたが、朝鮮側が減
   額を望んだので、井上が既存の建物を改修して用い
   るという修正案に改めた)
  第五款:公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応
    しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約
    第五款の通り朝鮮政府が施行すること。
1884年12月25日、海軍省軍事部を廃止した。
  1884年2月に、海軍省達丙第21号により、海軍省軍務局
 を廃して、海軍省の外局組織として軍事部(軍令専掌機
 関)が設置され、初めて軍令をつかさどった。
  (参考)軍令:ぐんれい、明治憲法下で、作戦・用兵
    に関する統帥事務。
1884年12月26日、判事登用規則が定められた(太政官達第
 102号)
  司法官任用のための試験。
  「判事ニ登用スルハ法学士代言人及ヒ試験ヲ行ヒ及第
 シタル者ニ限ル」
  これ以前は、自由任用、または、司法省法学校(正則
 科及び速成科)の卒業生からの任用が行われていた。
  判事登用規則による試験は、1885年から1887年まで、
 計5回行われ、
  合計682名の合格者を出した。
  これには、裁判所内の判事補・検事補・書記を対象と
 した部内試験合格者518名と、
  司法省法学校速成科卒業者101名も含まれており、
  私立法律学校卒業者は63名であった。
1884年12月27日、火薬取締規則が制定された。
  同時に、爆発物取締罰則も布告された(太政官布告第
 32号)
  治安を妨げ、人の身体・財産を侵害する目的による爆
 発物の使用等を処罰することを規定する太政官布告であ
 った。
  施行は、翌年の1885年1月15日。
  この頃の社会情勢において、自由民権運動の急進派に
 よる暴動事件が続発していた時期で、
  警察官に対する爆発物の使用なども行われたという背
 景もあった。
  また、この頃、ヨーロッパでも同種の立法の動きがあ
 った。
1884年12月27日、往復ハガキの発行が始まった(1885年1月
 1日説、1885年3月説あり)
1884年6月、清仏戦争(~1885年6月)
  ベトナムの領有・植民地化を目指すフランスと、
  清国は、ベトナムの宗主権を主張し
  ベトナム藩属国(宗主国の清国に対して、下位の意味
 を込めて藩属という)として、その宗主権があるとし、
  その清(中国) とフランスの戦争(フランスの領土的
 野心の戦争、1840年代からくすぶっている)。
  アジアにおける植民地獲得競争で、イギリスにインド
 から締め出されたフランスは、
  ナポレオン3世(在位:1852年~1870年))の治世以来、
 積極的なインドシナ政策を推し進め、
  その橋頭堡としてベトナムの支配に乗り出した。
  フランスのインドシナ進出は、19世紀後半のナポレオ
 ン3世時代に積極化した。
  1862年以降、フランスは南部ベトナムを占領し、植民
 地化し、第1次サイゴン条約(1862年、ベトナム王朝と締
 結)をした、ついで、
  1874年にベトナム王朝と結んだ第2次サイゴン条約によ
 って、フランスがベトナムを実質上保護領化すると、
  清は宗主権を主張してフランスに抗議した。
  1882年、フランスは、北部利権の確保を目的として、
 H・リビエールを派遣して、ハノイを占領した。
  1883年、清国の劉永福(りゅうえいふく)に率いられた
 黒旗軍はリビエールを倒し、フランス軍を駆逐した(1883
 年5月19日、ハノイ攻防戦にてリビエール戦死)
  フランスの第2次フェリー内閣は、成立後に活発となり、
 強硬政策に転じ、
  フエ(ユエ)に派兵してアルマン条約(1883年8月25日、
 フランスとベトナム間で調印された)を強制し、
  フランス保護権の設定、黒旗軍の否認、駆逐を約束さ
 せ、ベトナムをフランスの保護国とした。
  ベトナムの宗主国の清国(中国)は、これに対し、黒
 旗軍の指導者・劉永福を、越南東京(トンキン)(ベトナ
 ム北部)経略大臣とする一方、大兵を北部に派遣した。
  清・ベトナム国境付近のバクレでの両軍衝突を口実に
 フランスは武力を行使し、
  フランス軍はこれを駆逐して、北部一帯を占拠したた
 め、
  李鴻章(りこうしょう)は、1884年5月、天津(てんしん)
 協定を結んで北部からの撤兵を約束した。
  しかし6月、中越国境に近いバクレで、清軍はフランス
 軍を大敗させた。
  フランスは、これを口実に、8月、クールベ提督をして
 福州の清国南洋艦隊を壊滅させ、さらに台湾を封鎖した。
  清は、宣戦に踏み切り、次第に劣勢をばん回した。
  清軍は、中越国境でフランス軍占拠地を奪回し、善戦
 を繰り返した。
  しかし、清国は、戦いに敗れて行った・・、また、
  1885年3月、クレマンソー内閣の成立とともに和議が進
 み、
  1885年6月9日、李鴻章とパトノートル間に清仏天津条
 約が締結された。
  これにより、清は、ベトナムに対する宗主権を放棄し、
 ベトナムのフランスの保護国化・保護権を認め、ベトナ
 ムはフランスの保護領となった。
  また、雲南を開放した。
  しかし、ベトナムの民族派官人は、これに対し、咸宜
 (かんぎ)帝(ハムギ帝)を擁して、1888年まで、抵抗を
 続けた。
  清仏戦争は、フランス帝国主義政策の端緒をなしたと
 ともに、
  清の無力を暴露、民衆レベルの反帝国主義闘争を活発
 化させる因をつくった。
1884年10月、グリニッジ子午線の設定
  アメリカのワシントンで、国際子午線会議が開催され、
  ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が「経度0度」
 に決められた。  標準時制定(1886年)
  アメリカで、万国子午線会議が開催。
  グリニッジ子午線を国際的な本初子午線に制定する。
  1886年7月13日、東経135度の兵庫県明石市の時刻を、
 日本の標準時とすると、勅令が公布された。
  明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件)
  東経135度の子午線を、太陽が通過する時刻が、正午と
 なり、明石市の正午が日本全国の正午に。
  グリニッジから整数の時間差で、自国の標準時を決定
 する。
  経度が15度毎に、時差は1時間。
  明石市は9時間進む位置に。
  (万国子午線会議)が行われるまでは、本初子午線は
 国によってまちまちであった。
  しかし、遠洋航海が活発化するにつれ、それでは不都
 合が生じることがわかり、本初子午線を統一する事にな
 った。
  25ヶ国の代表が集まり決定した場所が、ロンドンのグ
 リニッジ天文台。
  ここは、イギリスの経線測定の拠点だった。
  この決定の背景には、イギリスが経線測定に力を注ぎ、
 クロノメーターによる測定法を確立したという実績と、
 当時、イギリスが世界の海を制覇していたことがあった。
  しかし、これに反対した国があった。
  それはフランスで、今でもフランスは、この決定に不
 満で、国内図に関しては決定以前のとおり、パリに本初
 子午線を設けている。
  プライドの高い国である。
1884年、イギリス:第三次選挙法改正(農民らに選挙権)
1884年11月15日、アフリカ分割が討議されたベルリン会議
 (~1885年2月26日)
  ヨーロッパ各国は、帝国主義的侵略の国で、アフリカ
 を餌食として、取り合っていた。
  人類史上最悪の欲のある西洋列強の姿だった。
  その調整の場が、1884年から1885年のベルリン会議で
 あった。
  各国は、アフリカ固有の民族、文化などの差異をまっ
 たく無視し、恣意的(しいてき、気ままで自分勝手に)
 に国境線を引き、領土を決めた。
  この帝国主義分割によって、全大陸の9割がヨーロッパ
 列強の支配下に置かれた。
  1884年から1985年にかけて、中央アフリカを分割する
 コンゴ盆地条約が結ばれるが、国境線は直線によって分
 割された。
  この様に、アフリカの国境線は直線が多い。
.
  (今日の言葉)
.
  題:慰安婦のこと・・、今度は韓国が謝罪する番だ。
   まず、ベトナムから・・次は・・、そうそう、自国
   の女性の方々へも・・朝鮮戦争の時もひどかった・・
   ・・アメリカと一緒になって・・
.
1945年、イギリス人記者のH・S・ストークス氏は、戦争
 における慰安婦の歴史は世界のどこにもある・・と言う。
  また、ストークス氏は・・
  日本は、兵士の性処理にあたって秩序を保って対応し
 た。
  現地の女性の人権が蹂躙されることがないように、「
 慰安所」を設置した。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は、女性の人権に、他国よりもはるかに配慮して
 いた・・と書く。
  そう言えば、アメリカが、第二次大戦後に日本に進駐
 した時、アメリカ軍の駐留地の近くの日本女性が、強姦
 される数が、非常にと書くほど非常に多かった。
  アメリカ兵が、集団で強姦をし続けている状況が起き
 た。
  病院が襲われ、そこの看護婦さんたちが被害を受けた
 という事件もあった。
  こんな事件ばかりだった。
  何らこの事で、アメリカは糾弾されることはないが、
 その様な事が起きていた。
  銅像を建てたら・・銅像だらけになる状況だった。
  まったくひどいことが起きていた。
  そして、イギリス人記者H・S・ストークス氏は、以
 下の様に自著に書く・・、
  現代病としての戦争は、ナポレオンから広まり、社会
 全体に塗炭(とたん)の苦しみを与える様になった。
  ナポレオンによって戦争の在り方が変わり、国全体を
 巻き込むようになった。
  この過程で、兵士相手の売春も拡大した。
  かつて戦場に伴われた女性は、トロイ戦争のヘレンの
 様な王族だけだったが・・
  (注):キリスト教十字軍は、一般兵士の為の慰安婦
    を同行させていた・・ストークス氏のこの記述は
    この事例などを見落としている・・ほかにも事例
    は色々ある)
  今日ではシリア、レバノンなどの戦争地帯は、パリ、
 ロンドン、ニューヨークと並んで世界屈指の売春地帯と
 なっている。
  売春はビッグ・ビジネスだ。
  商魂たくましい女衒(ぜげん、女性を遊女屋などに売
 ることを業とする人)は、チャンスを見逃さない。
  売春は世界で最古の商売であり、売春を世の中から根
 絶させる事は、戦争をこの世から消滅させるぐらいに難
 しい。
  女性や子供は、誰よりも保護されるべき存在だが、戦
 争における人権の蹂躙は女性に限らない。
  歴史を振り返れば、日本は兵士の性処理にあたって、
 おおむね秩序を保って対応した。
  戦場のどこであっても、現地の女性の人権が蹂躙され
 ることが無いように、「慰安所」を設置した。
  (日本の事例ではないが・・)性病が蔓延して、軍と
 して機能しなくなった歴史の教訓がある。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は女性の人権に、他国よりもはるかかに配慮して
 いた。
  慰安婦の問題は、今後も戦争のたびに論議されよう。
  私もベトナムでその現実を目にした(韓国やアメリカ
 がひどかった)。
  こんにちのホーチミン市にアラルサイゴンには、売春
 婦がたむろしていた。
  韓国も、他国の事を批判できるような立場にはない。
  アメリカも日本を占領したときに、真っ先に要求した
 のが、アメリカ兵のために売春施設を設ける事だった。
  (中略)
  今日のマカオの賭博場での最高のサービスは、セック
 スだ。
  一般の社会でも、慰安婦が厳然と存在している。
  性サービスが終焉する日が来るだろうか。
  答えはノーだ。
  それどころか拡大している。
  (アメリカの)ペリーは大勢の男たちを引き連れて、
 アフリカから喜望峰(きぼうほう)を回って、日本まで
 やって来た。
  黒船艦隊に乗っていた男たちの夢は、東洋(日本)の
 女性と性交をしまくることだった。
  現代では、売春は違法として取り締まられているが・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月17日水曜日

(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)

題:(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年11月16日、猿若座が、浅草西鳥越町に移り、新築開
 場式を挙行した。
  これは、後の、中村座で、
  1624年(寛永元年)に、猿若座(さるわかざ)という
 名前で作られたのが始まりの、江戸で最も権威のある芝
 居小屋だった。
1884年11月20日、産業教育が始まった。
  JR八高線の児玉駅から 南西に約300メートル。
  児玉公民館の前に 「産業教育 発祥之地」の碑が建つ。
  この地は もと埼玉県立児玉農工高等学校があった場所
 で、さらに、その起源をたどると、
  1884年(明治17)年に、「競進社養蚕伝習所」が開設さ
 れ、養蚕技術の教育が行われた場所であり、
  その歴史によって 産業教育発祥の地とされている。
  副碑には・・、
  明治17年(1884年)、 木村九蔵は この地に競進社養蚕
 伝習所を開設、養蚕技術の研究と普及に務めた。
  これが、本県(埼玉県)における産業教育の始まりと
 されている。
  さらに、この競進社養蚕伝習所は、明治32年(1899年)
 競進社養蚕学校として発足した。
  これは、本県最初の農学校の誕生であった。
  その後、競進社養蚕学校は、競進社実業学校、児玉農
 学校、学校法人児玉農業高等学校と校名を改め、
  昭和47年(1972年)、 県に移管され、埼玉県立児玉農工
 高等学校となり、
  昭和49年(1974年) 児玉町金屋へ移転した。
  同校の創立90周年を機会に、この地を、本県の蚕業教
 育発祥の地として、地域社会、地域住民の誇りをこめ、
 この記念碑を建立するものである・・とある。
1884年11月28日、朝鮮問題対策において乙案を採用した。
  壬午事変(じんごじへん、1882年)にかかわった朝鮮
 の開明派の金玉均は、アメリカ公使フートと、イギリス
 領事アストンと頻繁に接触した。
  情況や意向を伝えたが、フートもアストンも、朝鮮独
 立と改革への意志を評価しながらも、『時期尚早』との
 態度を示した。
  そして、アメリカもイギリスも、自国が直接支援に動
 かないと否定した。
  日本は、1884年11月2日に、朝鮮の竹添公使が、朝鮮王
 の高宗王に謁見し、村田銃16丁などを献納して、壬午軍
 乱の賠償金の残り40万円を日本が放棄することを伝えた。
  この頃、案が2つあった。
  甲案は、金玉均は「日本が支援してくれれば、開明派
 は、すぐ行動を起こす」と言っていた路線で、朝鮮国王
 の依頼から王宮を守衛する案だった。
  乙案は、清国と事を構える事を避け、経過を見て行く
 という案だった。
  そして、この日に、乙案が採用された。
  しかし、1884年12月4日に、甲申政変が発生する。
1184年11月29日、小学校の教科に、はじめて英語が登場し
 た。
  明治期を通じて、小学校から英語教育が排除されたの
 は、1879年(明治12年)の「教育令」から、1884年(明
 治17年)の「小学校教則網領」の間のみであった。
  因みに、明治期の小学校は、1886年(明治19年)より
 尋常科と高等科に分かれ、
  その尋常科、高等科ともに4年間であったが、義務教育
 は尋常科の4年間だけで・・、
  小学校に制度としての「英語科」が設けられたのは、
 高等科(10~14歳)の方で、それも随意科目(選択科目)
 としてだった。
  以上の様に・・、
  1872年(明治5年)学制頒布。
  「小学」の規定に「外国語学ノ一二」とあることから
 外国語は状況によっては教えてもよい科目となった。
  1879年(明治12年)「教育令」によって、小学校の教
 科目から外国語が除外された。
  1884年(明治17年)「小学校教則網領」で、土着の状
 況によって英語を加えることができる・・となった。
  1886年(明治19年)小学校令の改正により、小学校が
 尋常小学校(4年間)と、高等小学校(4年間)に分かれ、
 尋常小学校の4年間が義務教育期間とされ、
  英語は、高等小学校で教えられた。
  1907年(明治40年)尋常小学校が6年間、高等小学校が
 2年間となった。
  英語は、それまでより2年遅れてスタートすることにな
 った。
  1911年(明治44年)小学校の英語は、「商業」の授業
 に含められることとなった。
1884年11月29日、同業組合準則を制定した。
  当時の事業者団体の主目的は、職工争奪の防止などで
 あり、同業者の協調にあった。
  しかし、1892年に、紡績連合会が、生産制限を実施し
 た。
  これは、カルテル(市場支配などの目的の企業連合)
 活動だった。
  法的整備では・・、
  この年の1884年に、同業組合準則、
  1890年に、産業組合法の制定で、これにより、中小企
 業者の組織化が図られ、
  同年・1890年の商業会議所条例、
  1897年の重要輸出品同業組合法の制定によって、大企
 業者の組織化が図られ、
  その後、第一次世界大戦後の恐慌のもとで、生産制限
 の色彩が濃い重要産業統制法が、1931年に制定された。
1884年11月、築地訓盲院を訓盲亞院と拡大した。
  盲人の方だけでなく、聾唖者の教育も行なうという観
 点から聾唖者を受け入れることとなった。
  また、そのため、訓盲唖院と改称した。
1884年11月、フランス人ルルーが来日した。
  シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルーは、フ
 ランス生まれの音楽家、作曲家、フランス陸軍大尉。
  軍楽の指導を通じて、日本への近代音楽の普及発展に
 貢献した。
  その作品『扶桑歌』『抜刀隊』の二つを編曲した『陸
 軍分列行進曲』は、現在も、陸上自衛隊、及び、日本警
 察の観閲式などで行進曲として使用されている。
  勲四等瑞宝章、勲五等旭日章、レジオン・ド=ヌール(
 シュバリエ)勲章を授賞されている。
  この年・1884年に、第3次フランス軍事顧問団の一員と
 して来日し、
  前任のギュスターブ・シャルル・ダグロンの後を受け
 て、草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたった。
1884年12月1日、横浜正金銀行ロンドン支店が開業した。
1884年12月4日、甲申事変(こうしんじへん、甲申政変とも)
  この甲申の年に、朝鮮のソウルで、改革を目的として
 閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に、国政を改革
 しようとした政変が起きた。
  その改革を目ざした派を、「開化派」と言った。
  1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が
 切迫していた。
  その朝鮮の悪い状況を、支配層内部でも、実学の流れ
 をくむ洪英植(こうえいしょく/ホンヨンシク)、金玉均
 (きんぎょくきん/キムオクキュン)、朴泳孝(ぼくえいこ
 う/パクヨンヒョ)らを中心とする開化派は、
  日本の明治維新をモデルに、朝鮮も近代化を図りたい
 とした。
  留学生の派遣や、『漢城旬報』の発刊などに努めてい
 た。
  一方、朝鮮王の高宗(こうそう)とも連絡を密に取り、
 啓蒙(けいもう)にも努力した。
  しかし、当時、清(しん)国と結んだ守旧派が、政権を
 握っていて、この改革を阻んでいた。
  1884年には、中国の清とフランスが、ベトナムの領有
 を巡って戦った。
  その清仏(しんふつ)戦争で、清国が敗れたのを機会に、
 開化派は、日本の援助を得て、守旧派を排除したいとし
 て、打倒の行動をとった。
  12月4日に、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待し、
 隣家に放火し、逃れる閔泳翊(びんえいよく/ミンヨンイ
 ク)らを殺傷した。
  そして、王宮に居る高宗を保護・掌握した(国王は、
 日本へ協力を求めた)。
  この行動は、一時的には成功し、開化派は、新政府を
 樹立した。
  1884年12月6日には、14か条からなる新政綱を発表した。
  内容は、門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特
 権商人の廃止、軍制の改革など、諸制度を近代的に改革
 し、
  冊封されていた中国(清国)に対しては、自主外交を
 実行するという綱領を発布した。
  これは、市民革命の志向を反映していた。
  しかし、6日、清国が軍を介入した。
  そのため、新政権は三日天下に終わった。
  洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は、日本に亡命し
 た。
  日本公使館は焼かれ、日本の公使・竹添進一郎は、仁
 川(じんせん/インチョン)に逃れ、
  ふたたび、守旧派の政権が樹立された。
  北朝鮮では、反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命
 と評価しているが、
  支配層内の政権争奪戦とも言われている。
  (氷川清話)朝鮮の変、日清の駐兵互いに撤す。
1884年12月4日、飯田事件(12月6日説あり)
  名古屋鎮台や監獄襲撃の計画が発覚した。
  愛知県と長野県の自由党員らが、名古屋鎮台襲撃計画
 を立てていることが発覚し、村松愛蔵らが逮捕された。
1884年12月6日、朝鮮王国の閔妃らに要請された清国軍が、
 漢城王宮を奪回した。
  (京城にて、清国・袁世凱の兵2,000と、王宮の内外で
 衝突した)
  日本軍は撤収し、日本公使館なども放火され、開明派
 の行動は失敗に終わった。
  朝鮮の各派は、清国に応援を求めたり、日本へ応援を
 求めたりしている状態だった。
1884年12月12日、司法省法学校正則科を、文部省に移管し、
 東京法学校と改称した。
  1884年(明治17年)7月、第二期生卒業。
  入学生104名中、卒業生は37名(法律学士33名、成業4
 名)だった。
  同年・1884年10月、第四期生75名が入学した。
  同年・1884年12月に、文部省に移管されて東京法学校
 となった。
1884年12月14日、阪堺鉄道会社が設立された。
  阪堺鉄道(はんかいてつどう)は、南海電気鉄道の前
 身となる鉄道事業者。
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業した。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)であるという。
  また、日本鉄道は、政府の関係が強い半官半民会社、
 東京馬車鉄道は名前の通り市街交通としての馬車鉄道を
 運営していた会社であったことから、
  この阪堺鉄道会社を、日本最初の私鉄としているもの
 もある。
1884年12月15日、横須賀に鎮守府の開設を布告した。
  横須賀鎮守府(日本海軍の鎮守府)
  東海鎮守府を横須賀に移転し「横須賀鎮守府」と改称
 した。
  横須賀鎮守府とは、神奈川県横須賀市にあった旧日本
 海軍の鎮守府。
  1884年に、東海鎮守府が、横浜から横須賀に移転され
 るとともに、横須賀鎮守府と改称された。
  また、鎮守府条例が制定された。
  1886年4月22日、「海軍条例」において、全国に5つの
 「海軍区」を定め、横須賀鎮守府は、第一海軍区を所管
 した。
  所管は・・、
  「陸中陸奥国界ヨリ紀伊国南牟婁東牟婁郡界ニ至ノ海
 岸海面及小笠原島ノ海岸海面」とされた。
  また「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として、参
 謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法
 会議・監獄署などを置いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そのすべてが不法だった。
.
1946年5月3日~1948年11月12日、東京裁判が行われた。
  イギリス人記者H・S・ストークス氏は、自著に、以
 下の様に書く・・、
  私は、市ヶ谷の防衛省内にある、かつて東京裁判が行
 われた講堂を、何度も訪れた・・・
  東京裁判の法廷を訪ねた。
  そこで行われた裁判は、悪意(イーヴィル)なものだ
 った。
  犯罪行為だった。
  戦勝国が、一方的に敗戦国を裁くことは、許されない。
  戦勝国が、敗戦国を裁いて、
  一方の将兵のみを、戦争犯罪人として処刑するのは、
 復讐であり、犯罪である。
  東京裁判を覆(おお)った空気について、多くの関係
 者から聞いたことがある。
  法廷の空気は、とても邪悪(イーヴル evil)で、毒気
 (ポイズン・イン・ジ・エアー)が漂っていた。
  残忍(ナスティーネス)さが渦巻き、検察側には悪意
 が感じられた。
  このため法廷には、恐ろしい(ホリファイイング)気
 配が充満していた。
  東京裁判は数年に及んだ。
  そのすべてが不法だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月~1884年11月)

題:(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月~1884年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年10月10日、東京湾要塞・相州観音崎の砲台が成った。
  今、史跡として観音崎砲台跡・北門第二砲台跡
  (第二砲台・通称:だんだん砲台)・・がある。
  1980年(明治13年)起工し、
  1884年(明治17年)竣工し、
  1925年(大正14年)除籍された。
  「北門第二砲台は、6門の砲座からなり、
  24センチ口径のカノン砲が、6門設置され、
  左3砲座は、第三海堡との間の海面を射撃して、敵艦の
 交通を途絶、
  右3砲座は、第1砲台と同じく、海門の通過を企てる敵
 艦に対して、予め、なし得る妨害を与えることを任務と
 していた」
  ・・と、説明されている。
  東京湾要塞は、東京湾周辺の防衛を目的に設置された
 要塞で、
  東京湾の砲台、及び、海堡等の建築物を、東京湾要塞
 司令部が管理していた。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)時は、第12方面軍の東
 京湾兵団に属した。
  明治時代の建設に始まり、逐次、設備を増やしつつ、
 大東亜戦争の終了時まで運用された。
  最初は、清国北洋水師に対しての・・、
  次に、ロシア太平洋艦隊の来攻を想定しての施設だっ
 た。
  1894年に、臨時東京湾守備隊司令部が置かれ、
  翌年・1895年に、東京湾要塞司令部が横須賀市上町に
 置かれた。
1884年10月13日、グリニッジの世界標準時(GMT)が定ま
 った。
  ワシントンD.C.で開催された国際子午線会議で、
  グリニッジ子午線が、本初子午線として採択された。
  そして、陸域でも、ほとんどの国の時刻帯は、
  このGMTを基準とし、それから数時間だけ進んだ(また
 は遅れた)時刻を標準時として採用した。
1884年10月17日、学生ボート競漕、隅田川吾妻橋付近に催
 される(最初のボートレース)(1883年説あり)
  東京大学走舸組が、隅田川で競漕会を開催した。
  しかし、以下の記述もある・・、
  日本で、ボート競技が、はじめて行われたのは、
  1869年に、横浜寄港中のイギリス軍艦乗組員と 在留外
 国人によって開催され、
  その後、1883年に、現在の東京大学と、筑波大学によ
 る対抗レースが 日本人によるボートレースの始まりと言
 われている。
  このレースをきっかけに、関東の大学を中心にボート競
 技は普及した・・と。
  日本ボートの略史
  1869年、横浜でボートレース開催(イギリス軍艦乗組員)
  1883年、東京大学、筑波大学対抗レース開催
  1887年、東京大学、一橋大学対抗レース開催
  1901年、第1回全国中等学校端艇競漕大会開催(滋賀県
     琵琶湖)
  1905年、第1回早慶レガッタ開催
1884年10月22日、東京薬舗学校を東京薬学校と改称する(
 1883年説あり)
  1869年(明治2年)、明治政府は、近代化のため、学問
 をおこし、教育制度を整えることを重要な政策課題とし、
  この年に、プロイセン医学の採用を決定した。
  翌年・1870年に、プロイセンと医学教師派遣の契約を
 交換した。
  1871年(明治4年)に、陸軍軍医レオポルド・ミュルレ
 ルと、海軍軍医テオドール・ホフマンが来日した。
  日本の医学は、ドイツが主流となり、薬学もこの影響
 を受けた。
  日本の衛生行政の祖と言われている長与専斎が、欧州
 の医学・衛生制度の視察を終えて、帰国した。
  医制で、西洋医の重要性を示した。
  西洋医にとって大きな問題は、洋薬をいかに入手する
 かであり、
  商人の中には、西洋薬の流行と、その取扱い(規則)
 が無い事に目を付け、安い薬品を注文する。
  外商は、贋造粗製の廉物を、輸入し納入した。
  とくに、需要が多く、価格の高いキニーネ、ヨーカリ
 などは、品質の悪いものが出回った。
  この真贋良否を鑑定できる人はいなかった。
  1873年(明治6年)、文部省は、ホフマンらの答申を受
 け、28項目よりなる「薬剤取調之方法」の施行を具申し
 た。
  1873年7月25日、文部省令104号「製薬学科設置の件」
 を告示した。
  1875年(明治8年)薬舗主を速成する目的で、製薬学科
 に通学生教場の設置を決定し、
  翌年・1876年より、邦人教師による、2年制の通学生制
 度が付設された。
  1877年(明治10年)第一回生が入学した。
  1879年(明治12年)23人が卒業した。
  1881年(明治14年)より、1887年(明治20年)に廃止
 されるまでに、208人の卒業生を世に送り出した。
  1882年(明治15年)「薬学校通則」を公布し、薬学教
 育・薬剤師養成の普及を目指した。
  修業年限は、甲種3年、乙種2年。
  1883年(明治16年)7月、東京薬舗学校の新校舎が落成・
 移転を期に、東京薬学校と改称した。
  1883年7月23日に、東京薬舗学校の最後の卒業生を送り
 出す卒業式を行い、
  同時に、東京薬学校の開校式を実施した。
  これが、のちの東京薬科大学。
1884年10月26日、秩父困民党が、埼玉県下吉田村粟野山会
 議で、11月1日の蜂起を決定した。
  ある意味、活動の形が変質して来た自由民権派系の人
 たちに、
  生活苦をタネに、騒動を煽られていたところがあった。
1884年10月28日、会計年度を改正し、1886年以降は4月1日
 を決算日と決定した。
  松方正義により、紙幣整理が推し進められた(松方デ
 フレ)。
  政府も「緊縮財政」を実施するが、松方デフレの影響
 で税収は減少した。
  政府は、対策として、煙草税や酒造税や醤油税などの
 増税をし、
  また、官営模範工場の払い下げも行った。
  また、その一方で、1882年(明治15年)に壬午事変が
 あり、
  翌年・1883年から、大日本帝国海軍の拡充計画を進め
 た。
  そのため、財政赤字の穴埋めの必要があり、明治18年
 度(1885年度)の酒造税を、明治17年度(1884年度)に
 繰り入れしてしまった。
  翌年度の税収を繰り入れてしまったこの状況を改善す
 るには、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期(第
 1期が4月)に合わせて年度変更するほかに方法がないこ
 ととなった。
  そして、明治17年(1884年)10月に、「4月~3月制」
 の導入が決定され、
  明治19年(1886年)4月から実施された。
  「4月~3月制」は、明治22年(1889年)の会計法制定
 により法制化され、市制および町村制の施行に合わせて
 同年4月より市町村でも実施され、翌年5月より道府県(
 後に都も)も実施した。
1884年10月29日、自由党が解党
  自由党が、大阪大会で解党を決定した。
1884年10月31日、秩父事件が起こる 。
  国民党が一斉に蜂起、(10月30日説、11月1日説あり)
  埼玉県秩父郡の農民が、政府に対して武装蜂起を起こ
 す。
  蜂起の目的は、暴力行為を行なわず、高利貸や役所の
 帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願すること、、
  下吉田(旧吉田町)の集結地・椋神社において、決起
 集会が行なわれ、蜂起が開始された。
  11月1日に至り、秩父郡内を制圧して、小鹿野村の警察
 分署、高利貸を襲撃し、役所等の書類を破棄した。
  一部には、指導に従わず暴力行為や焼き討ち等を行な
 った者もいた。
  電信で、いち早く蜂起を知った政府は、汽車も利用し、
 警察隊・憲兵隊等を送り込んだ。
  抵抗が激しかったが、最終的に、東京鎮台の鎮台兵を
 送り、取り締まった。
  11月4日になり、秩父困民党指導部は、事実上、崩壊し、
 鎮圧された。
  急進派の一部が、長野県北相木村出身の菊池貫平を筆
 頭に、農民を駆り出して、十石峠経由で信州方面へ進出
 した。
  11月9日に、一隊は、佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受
 け、長野県の野辺山高原で壊滅した。
  この後、主だった指導者と参加者は、各地で、次々と
 捕縛された。
  事件後、約1万4千人が処罰された。
  最大規模の事件だった。
1884年10月、名古屋事件
  名古屋の自由党員が蜂起し、資金調達のための強盗殺
 人容疑で逮捕される。
1884年11月1日、第1回秋期競馬会の開催
  明治天皇陛下が、不忍池畔の競馬場へ臨幸された。
1884年11月3日、鹿鳴館で大規模舞踏會が開催された。
  天長節(11月3日、明治天皇陛下の誕生日)の祝賀会
 行事だった。
1884年11月6日、内村鑑三が離婚をし、アメリカへ向かった。
1884年11月9日、朝鮮政府と済物浦条約による壬午(じんご)
 事変の賠償金一部返還に関する日・朝往復文書が成立し
 た。
  済物浦条約(さいもっぽじょうやく)は、1882年8月30
 日に、日本と李氏朝鮮の間で締結された条約で、
  済物浦は、朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。
  壬午軍乱(壬午事変)での日本公使館焼き討ち事件の
 事後処理の為に結ばれた。
  主な内容は、日本公使館が襲撃された事件の犯人の逮
 捕と処罰、日本の被害者遺族・負傷者への見舞金5万円、
 損害賠償50万円、公使館を護衛するための漢城での軍隊
 駐留、兵営設置費と修理費の負担、謝罪使の派遣などで
 あった。
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)を結ぶ、
  新たな居留地と市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 を自由にできるようにだった。
  当初は、巨済島(きょさいとう)または鬱陵島(うつ
 りょうとう)の割譲を要求していたが、
  軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着す
 る6日前に、既に、清国の介入があり、反乱が鎮圧され、
  清国が、主導権を握っていた。
  そして、アメリカも介入して、軍艦を派遣してきた。
  アメリカも威圧をかけてきた。
  その事から、交渉担当の花房義質李氏朝鮮公使は、方
 針を変更した。
  馬建忠(朝鮮駐在の清国軍の隊長・李鴻章の外交秘書)
 の仲介を得て、上記の内容となった。
  宗主権を主張する清国をけん制する意味と、暴動の再
 発防止のため、軍隊の駐留は必要だった。
  これは、1885年(明治18年)7月18日に、高平臨時代理
 公使の知照(口頭で知らせ、通知すること)によって、
 以降も条約の有効性は確認済。
  賠償金は50万であったが、そのうち40万円は、朝鮮内
 政への配慮から(内政使用を目的)に、返却した。
  その上、日本は、汽艇1漕と山砲2門を朝鮮へ送った。
  以上の様に、日本には、朝鮮侵略の意図はまったく無
 かった。
  条約の名の通りの修好(しゅうこう、親しく交わるこ
 と)で、特に、国家と国家のレベルで親しく交流する事
 であった。
  賠償金を返還したり、無償で武器を提供する日本であ
 った。
1884年11月16日、人類学会の設立
  坪井正五郎や白井光太郎らが、人類学会を設立した。
  日本人類学会が、明治17年(1884年)に、当時、東京大
 学理学部学生であった坪井正五郎ら10名により結成され
 た。
  「じんるいがくのとも」という団体に端を発した。
  明治19年に、機関誌の第1号を出版し、同時に、会の
 名称を「東京人類学会」とした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:欺瞞の東京裁判・・復讐劇の東京裁判
.
1946年5月3日、東京裁判が始まった(開廷)(~1948年11
 月12日)
  尚、極東国際軍事裁判という。
  下記の様に、イギリス人記者は「復讐劇だ」と言う。
  そして、キリスト教の二元論において「正義か?不正
 義か?」の思考の下では・・「日本は、正義ではない」
 としないと、「自分たち・連合国側が不正義となる」と
 いう思考の下に支配されていた・・と言う。
  だから、日本が悪くされた・・という・・、
  イギリス人記者のヘンリー・S・ストークスは、自著
 に書く・・、
  (日本はアジアに植民地など持ってなんかいないし、
 また、日本は、アジアを開放したのだが)、
  (たとえ)日本が、アジア植民地を侵略した(したと
 したって)のは、悪いことだったろうか?
  (この日本の)侵略が悪い事なら、世界史で、アジア、
 アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略して来た
 のは、西洋(ヨーロッパ、アメリカもやっているが)諸
 国だ。
  しかし、今日まで、西洋諸国が、(アメリカが)そう
 した侵略を謝罪したことはない。
  どうして、日本だけが、欧米(アメリカやヨーロッパ
 諸国)の植民地を侵略したことを、謝罪しなければなら
 ないのか?
  東京裁判では、「世界で侵略戦争をしたのは、どちら
 だったか」という事に目をつむって、日本を裁いた。
  それは、侵略戦争が悪いからではなく、『有色人種(
 日本)が、白人様(アメリカ、イギリスなど)の領地を
 侵略した』からだった。
  白人が、有色人種を侵略するのは『文明化(シビライ
 ゼーション)』で、
  劣っている有色人種が、白人を侵略するのは『犯罪(
 クライム)』であり、神の意向(ゴッズ・ウイル)に逆
 らう『罪(シン)』であると、正当化(ジャスティファ
 イ)した。
  日本には『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』と
 いう便利な考え方もあって柔軟だが、
  欧米人は、ディベート(良いか悪いかだけの論理)思
 考で、白か黒か判定を付ける。
  もし日本が正しいなら、間違っているのは欧米側(ア
 メリカとヨーロッパ)となる。
  だから、あらゆる手を使って、正義は自分の側にある
 と、正当化(ジャスティファイ)しようとした。
  東京裁判は復讐劇であり、日本の正当化を認めること
 など、最初からあり得ない事だった。
  認めれば、自分たちの誤りを認める事になってしまう。
  広島、長崎に原爆を投下をし、東京大空襲をはじめ(
 日本中の)全国の主要都市を(アメリカは)空爆して、
 民間人を大量虐殺した「罪」だけでなく、
  もっと言えば、世界で侵略を繰り返してきたその正義
 の「誤謬(ごびゅう、まちがえること)」が、明らかに
 されることがあっては、決して、ならなかった。
  それが、連合国(アメリカ、イギリスなど)の立場だ
 った」・・。
..
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2016年8月15日月曜日

(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)

題:(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年8月25日、中国・四国地方に暴風雨。
  堤防決壊。
1884年8月、儒学者の元田永孚(もとだながさね)が、「
 国教論」を起草した。
  福沢諭吉の「徳育如何(1882年)」から始まった道徳
 教育のあり方をめぐる論争が始まった。
  1890年(明治23年)の「教育勅語」発布に至るまで、
 徳育の混乱時代で、多くの識者の意見が発表された。
  代表的な意見は、12編ある。
  明治維新以降の日本は、制度面では、西洋を手本に、
 それなりの成果をあげることができたが、
  他方、道徳では、古いものに代わる新しいものを見出
 せず、空白状態にあった。
  儒教の復興を説く者もいたが、
  福沢諭吉は、社会の「公議輿論」こそ道徳の基本であ
 ると主張した。
  因みに、
  福沢の「徳育如何」の諸言に・・
  「方今、世に教育論者あり。
  少年子弟の政治論に熱心なるを見て、軽躁不遜(けい
 そうふそん)なりと称し、
  その罪を今の教育法に帰せんと欲するが如し。
  福沢先生、その誣罔(ふもう、作り事を言って人をそ
 しること)を弁じ、大いに論者の蒙を啓ひらかんとて、
  教育論一篇を立案せられ、中上川(なかみがわ)先生
 これを筆記して、
  『時事新報』の社説に載録せられたるが、今、これを
 重刊して一小冊子となし、学者の便覧に供すという。
         明治一五年一一月」
  また、この頃の主な代表的意見は・・、
  加藤弘之は、1887年(明治20年)に「徳育方法案」を
 出版し、
  「道徳の大主・・旨とするは愛他心」であるとして、
 宗教の必要性を説いた。
  小崎弘道は、加藤の意見に賛成し、
  「道徳は到底宗教に依らざれば実行す可らざること」
 を「六合雑誌」に掲載した論文で再三繰り返した。
  杉浦重剛は、「日本教育原論」(1887年)で、
  「理学」こそが道徳の向上に寄与すると説いた。
  さらに、山崎彦八の「日本道徳案」(1889年)は、
  「鍛錬主義」を主張し、慣習の力をもって道徳を教え
 ることが肝要だとした。
  そのほか、道徳教育の方法をめぐってさまざまな意見
 が出され、西村茂樹の「日本道徳論」(1887年)もその
 一つである。
  この論争は「教育勅語」発布によって終焉した。
  近代日本の「内部の開化」をめぐる論争だった。
1884年8月、外務卿・井上馨が、条約改正に関する覚書を、
 各国公使へ送付した。
  「内地開放は、領事裁判権の全廃と同時に行う」とし
 た。
  領事裁判権は、不平等条約によって定められた治外法
 権の一つだった。
  日本での外国人の事件が、日本人が裁くことが出来な
 いという条項だった。
  在留外国人が起こした事件を、本国の領事が本国法に
 則り裁判するという権利で、日本は裁判権を失っていた。
1884年9月1日、1883年10月に発生したマーシャル・ラエ島
 の日本人虐殺事件の調査に、二人を派遣した。
1884年9月5日、宇品港(広島港)の築港に着手した。
  県令・千田貞暁が、県下の良港開削を計画し、土地の
 興行に資するため、どんな大船でも出入出来るようにと、
 築港費18万円の予算を立てた。
  しかし、地元の宇品沿岸一帯の農民は、漁場を奪うも
 のだとして、猛烈に反対した。
  続いて、巨額の築港費に伴う増税を恐れた人達が、こ
 れに相呼応して反対した。
  千田県令は、説明して回り、必要性を説いた。
  築港が、海運業にもたらす大きな良い効果、また、国
 際的発展の門戸として、重要な役目を果たす事などを説
 き、築港の急務を叫んだ。
  そして、工事に着手した。
  しかし、工事が始まると反対論者は、以前に倍加して
 攻撃した。
  特に、築港費が予算を超過したのを理由として、遂に
 県令は、同県を追われた。
  新潟県への転任の止むなきに至った。
  そして、やっと1889年(明治22年)に、築港工事が完
 成した。
  この宇品港は、この後、日本の大切な港として発展し
 て行った。
  千田県令の先見の明が、今更の如く認められ、その功
 に依って勲二等が叙された。
  また、瑞宝章も授けられた。
  また、広島県の代表者が、遠く宮崎県に赴き、当時・
 同県知事たる千田氏へ、感謝の意を述べたという逸話も
 ある。
  築港のため追われた者が、そのため賞せられて、後に
 男爵にさえ列せられた。
  港に面する広場には、長くその遺徳を表彰する銅像が
 建立された。
1884年9月16日、竹久夢二(たけひさゆめじ、画家、詩人)
 が、生誕した。
  岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)
 に、代々酒造業を営む家に、次男として生まれた。
1884年9月22日、星亨(ほしとおる)が、官吏侮辱罪で逮捕
 された。
  新潟県での、専制的な政府を批判する演説会だった。
  演説会に立ち会った新潟県警の警察を言論で侮辱した。
  そのために、「官吏侮辱罪」に問われ、6ヶ月の禁固と
 40円の罰金刑を受けた。
  尚、服役中、自由党解党にあい、獄中から反対した。
  演説内容は・・、
  「ロシアに国会なく、ドイツに国会はないに等しい。
 両国は国民の義務として徴兵をしているが好ましくない。
  宗教、教育に干渉し、人間に等級を設けている。
  私が、政治を行なえばその様なことは行わない」・・
 などだった。
1884年9月23日、加波山事件(かばさんじけん)
  茨城県下で、自由党の加波山事件が起きた。
  河野広躰ら自由党員16人が、茨城県加波山に立て籠も
 り挙兵檄文をまいた後、下妻警察署町屋分署を襲撃した。
  自由民権運動は、激化して来ていた・・
  そして、政府の対抗する圧力に狂暴化して行った。
  1884年9月に、宇都宮で行われる栃木県庁の落成式に
 出席予定の太政大臣・三条実美(さねとみ)以下の顕官暗
 殺を計画し、
  茨城自由党員・富松正安(とまつまさやす)らを同志に
 引き入れた。
  彼らは、落成式が9月15日に行われるという情報を得て、
 計画実行のために、一方では、河野らが東京・神田神保
 (じんぼう)町の質屋に強盗に押し入って、資金を得よう
 として失敗し、
  他方では、鯉沼が、爆裂弾の製造中に誤って重傷を負
 った。
  その上、落成式は延期された。
  官憲は、強盗に押し入った河野、横山信六(しんろく)
 らを追い、下館有為館(しもだてゆういかん)に潜伏して
 いることをつきとめ、事態は急迫して行った。
  栃木・茨城・福島の自由党員16人は、1884年初めには、
 県令・三島通庸(みしまみちつね)らの暗殺を計画してい
 た。
  1883年末には、政府転覆を目指して爆弾の製造を開始
 していた。
  また、政府転覆を企てていた栃木県党員・鯉沼九八郎
 らと結び、大臣顕官の暗殺を計画した、しかし、失敗し
 ていた。
  これら自由党員が、茨城県の加波山に集まって「革命
 挙兵の檄」を発表し、挙兵した。
  警官隊と交戦(衝突)し、数日で鎮圧された。
1884年9月25日、夕刊紙の今日新聞が創刊した。
  小西義敬によって、日本初の本格的夕刊紙として東京
 で創刊された。
  後の都新聞、そして、東京新聞。
  主筆は、仮名垣魯文
1884年9月26日、加波山事件の14人が解散して逃亡するが、
 後、全員逮捕された。
1884年9月、秩父地方の農村で、自由党員・井上伝蔵に指導
 された秩父困民党が結成された。
1884年9月、荻野吟子(おぎのぎんこ)が、試験に合格し、
 女医第1号となる。
  日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術
 開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年~1893
 年)ほか何人かの女性医師が開業していた。
  西洋医学を学んだ女性医師としては、シーボルトの娘・
 楠本イネ(1827年~1903年)がいる。
  荻野吟子は・・、
  1870年(明治3年)に、夫からうつされた淋病がもとで
 離婚した。
  上京し、順天堂医院に入院。婦人科治療をうけるが、
 そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、
  男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験か
 ら、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたい
 という決意により、女医を志した。
  1875年(明治8年)に、東京女子師範学校(お茶の水女
 子大学の前身)の一期生として入学し、
  1879年(明治12年)に、首席で卒業した。
  1884年(明治17年)9月に、医術開業試験前期試験を他
 の女性3人と受験し、
  吟子1人のみが、合格して、資格を得た(翌年の後期
 試験も合格し、開業した。
  新聞や雑誌が「女医第一号」として大きく扱った)
1884年10月1日、帽子商・小山梅吉が、国産の蝶ネクタイ
 第1号を造った。
1884年10月1日、海軍艦隊編成例が、制定された。
  日本海軍における最初の艦隊編成を定めた単独法令で、
 「聯合艦隊」の名称が、初めて登場した。
  「二艦隊以上ヲ集合シテ聯合艦隊ヲ編成スルコトアリ」
  1894年(明治27年)7月19日に、聯合艦隊が、初めて
 実質的に編成された。
  警備艦隊が、沿岸警備充実を目的とし「金剛」「赤城」
 ほかの砲艦で、同年・1894年7月13日に編成された。
  ・・が、西海艦隊へと改称されると共に、常備艦隊と
 西海艦隊によって「艦隊規定例」による最初の聯合艦隊
 が編成され、
  司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が、
 兼務する事になった。
1884年10月1日、古河市兵衛が、本所鎔銅所を開業した。
  古河鉱業本所溶銅所伸銅所(現:東京市麹町区八重洲
 町一丁目)
  同社は、元と古河鉱業事務所と称し、
  明治八年(1875年)古河市兵衛氏の創立に係るものな
 り。
  同氏は、眇たる一行商より身を起して遂に天下の富豪
 となり、
  銅山王の名を天下に轟かしゝもの、蓋し堅忍不撓幾多
 の辛酸を嘗めて其経営に力を致しゝに由らずんばあらず
 ・・と、渋沢栄一記念財団のホームページにあるが、
  以下の記述もある・・、
  日本の銅は、ほとんどが海外に輸出されていたが、産
 出された粗銅は品質が不安定で、
  海外での評価はまだまだ低かった。
  市兵衛は、その解決のために精銅事業への進出を決意、
  1884年、東京の本所に、本所溶銅所を開設した。
  溶銅所の開設には、もうひとつ狙いがあった。
  銅加工品の生産である。
  精銅品質を向上させることで輸出市場を開拓し、銅加
 工品の生産によって国内市場を広げていく。
  これが市兵衛の狙いだった。
  銅を中心とする多角経営への第一歩だった。
  操業2年目の1885年には、本所溶銅所の精銅高は、日本
 の産銅の約3分の1に達し、
  日本を代表する精銅所の地位を確立した。
  しかし、古川市兵衛の経歴には、1883年とある・・、
  1832年、古河市兵衛、京都の没落した庄屋の子として
     生まれる。
  1844年、御手山稼ぎを廃止する。銅山は休山状態にな
     る。
  1868年、足尾銅山は、明治新政府に没収され、真岡県
     が管轄する。
  1869年、管轄が日光県に移り、県営銅山となる。
       古河市兵衛、小野組別家に取立てられ、関東・
     東北の事業を任され、鉱山業にも進出する。
  1872年、栃木県が足尾銅山の資金援助を政府に要請、
     鉱山寮技師長ゴットフリーが調査して民営移管
     を示唆、野田彦蔵に足尾銅山を払下げる。
  1874年、政府の政策変更で小野組瓦解、古河市兵衛は
     裸1貫で再起を図る。
  1875年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て草倉銅山の
     経営を開始、成功を収める。
  1877年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て足尾銅山を
     買収する。半年間妨害のため事業に着手できず、
     木村長七らの間歩調査が行われ再建策まとまる。
  1878年、本口坑などで古河直轄の直営開鑿を決定。
  1880年、渋沢栄一が足尾銅山の経営に参加。
      銅山不振がつづき四代坑長に古河市兵衛の甥・
     木村長兵衛を起用、背水の陣を布く。鷹之巣坑
     開鑿を開始。
       古河は商標をとし、鉱業専業を宣言する。
  1881年、鷹之巣坑で神保の直利を補捉、足尾銅山好転
     に向かう。
  1882年、本口坑開坑で横間歩大直利を補捉、月産銅量
     が前年の年産を突破する。
  1883年、足尾産銅量が発展、日本の首位になる。
     直利橋製錬分局、本山病院、東京・本所熔銅所
     をそれぞれ創設。
     足尾町内の道路大改修を開始する。
.
  (今日の言葉)
.
  題:正確な情報を惑わすもの・・
   特ダネ意識・キリスト教教義による偏見・国の規模によるプロパガンダ
.
1945年2月、第二次世界大戦のヤルタ会談の直後、
  戦後のドイツ・日本を決める会議が開かれた。
  一般市民の方々が知らないこと、また、知らされない
 事々が多い中、
  今、それらの情報が、真実が公開されて来ている。
  その一方・・
  また、「朝日新聞が始めた慰安婦の虚偽報道」のよう
 に、
  特ダネを書きたいと「嘘が書かれた」という事態もあ
 る。
  この朝日新聞の虚偽報道で、日本が、どれほど大きな
 被害を受けたことか、本当に計り知れない大被害を受け
 た。
  (この様な行為で、真実を知るのに大きな回り道を、
 人々は強いられている)
  また、大東亜戦争(第二次世界大戦)の早期終結を妨
 げた、中国による、アメリカに於いてのキャンペーン。
  それによる、早期終結への攻撃の被害による歴史のね
 じ曲げ、
  そして、ルーズベルト大統領のキリスト教教義「シャ
 ローム」から来る「無条件降伏要求(完全破壊思想)」、
  そして、同じキリスト教教義から来る「有色人種蔑視」
 の「ルーズベルトの日本人嫌悪」。
  これら諸々の事から、「原爆投下に至る不幸へ道」を
 伴った経過の中・・、
  そこへ至る1945年2月に・・ヤルタ会談の直後に、
  ルーズベルトは、自分が考える「ドイツの工業力剥奪」
 や、「ドイツに対する賠償」を打ち合わせる会議(連合
 軍委員会)に、
  ルーズベルトは、この自分の考えと同じ考えであるイ
 ザドア・ルービンを、アメリカ代表として任命した。
  ドイツへの厳しい賠償要求後、戦後占領は避けられな
 いと見られていた。
  そして、その頃に出された日本に対する報告書には、
 「日本経済の最低限度を維持するに必要のないものは、
 すべて没収する」・・とあった。
  この最低限度とは、「日本が占領した諸国の生活水準
 以下の生活水準レベル」という意味だと規定されていた。
  「軍需産業関連の機器はすべて破壊する」、
  「賠償取立ての対象となる工場と機械」が指定され、
  「航空機工場はすべて没収」「陸海軍工廠(こうしょ
 う、旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・
 修理した工場)もすべて没収」「年間150万トン以上の鋼
 材を賠償対象として没収」など、
  日本が二度と一級の工業力を持たないようにとされて
 いた。
  ルーズベルトの頭の中は、戦争に至るものを排除した
 後は、平和国家として復興し、元に戻すなどという甘い
 考えはなかった。
  アメリカ大統領のルーズベルトの頭の中は、「永久に
 他のアジアの国々以下の工業力しか与えず、二度と戦争
 に至る様な工業力は持たせない」という考え方にあった。
  主要な重工業は勿論、完全に、すべて持たせないなど
 だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月14日日曜日

(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年8月)

題:(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年7月28日、京都二条城が離宮に定められた。
  宮内省の所管となり、「二条離宮」と改称した。
  「廃城令」とか、「城郭取壊令」とか、または、「存
 城廃城令」とかと略される令・・1873年1月14日に出さ
 れた全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじ
 ょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせ
 んていかた)によって、廃城がいっぱい出た・・、
  二条城が廃城にならなかったのは・・、
  この「二条離宮」への動きがあって、宮内省の所管に
 なる動きのため・・、
1884年7月、文部省に、図画教育調査会が設置された。
  1880年代半ば頃、日本では、「国粋保存」の思潮や、
 日本美術・日本画復興の機運が高まりを見せた。
  その一方で・・、
  1883年(明治16年)、工部美術学校が廃校になるなど、
 西欧風美術教育は後退しつつあった。
  こうした状況を背景に・・、
  1884年(明治17年)に、文部省内に設置された「図画
 教育調査会」の決議に従って、
  1885年、文部省の専門学務局内に、図画取調掛(ずが
 とりしらべがかり)が設置された。
  同掛は、濱尾新を委員長にして、岡倉覚三(天心)・
 フェノロサ・狩野友信を委員に、西欧の図画教育の実態
 調査を委嘱され、
  翌年・1886年に、岡倉とフェノロサは、欧州の調査旅
 行に出発した。
  因みに、図画取調掛は、文部省内に設置された部局で、
 東京美術学校の直接の前身となった。
1884年7月、東洋絵画会の結成を決定した。
  この前身の竜池会は、1879年(明治12年)に設立され
 た美術愛好家の団体だった。
  佐野常民(さのつねたみ、日本赤十字社の創始者)や、
 河瀬秀治、山高信離といった人たちが、東京・上野の不
 忍池にある弁天社の境内に集まって、古書画の展示会を
 開いたのが発端だった。
  これらの人々は、いずれも、明治政府の官僚であった。
  しかし、維新後の極端な欧化政策の中で、わが国の伝
 統美術が衰微していく情況に、危機意識をもった人たち
 だった。
  また、欧米讃美で、国内で顧みられなくなった日本の
 美術品が、海外に大量に流出していた。
  その影響もあって、ヨーロッパでは、その日本美術の
 素晴らしさで『ジャポニズムの風潮』が生まれていた。
  このメンバーのこれら官僚らは、この風潮を利用した
 美術工芸品の輸出、
  すなわち、殖産興業に結びつけようという意図もあっ
 た。
  こうした行動は、政府の施策にも反映した。
  日本画(東洋画)の保護奨励を目的とした政府主催の
 絵画共進会が開催されるに至った。
  この様な中、東洋絵画会は、竜池会からの呼びかけに
 応えて結成された。
  画家サイドの団体であった。
  画家サイドの団体とはいうものの、会長には品川弥二
 郎(当時は農商務大輔、そして、政治家、子爵)が就任
 した。
  1887年(明治20年)、竜池会は拡大・改組され、日本
 美術協会が設立された。 
  この時、東洋絵画会も、この日本美術協会に合流した。 
1884年8月10日、自由党の有一館が設立された。
  自由党が、文武研究所として有一館を開館した。
  群馬事件などの過激な事件の発生は、関東にあって、
  自由党の党勢は、関東において、大いにふるっていた。
  関西は沈滞し、あるいは、脱落傾向のみが強くあらわ
 れていた。
  自由党首脳部は、6月5日に、大阪で関西有志懇親会を
 開き、同志の団結をはかった。
  そして、先に解党した旧立志政党員の自由党への入党
 を呼びかけた。
  また、相輝館を新設して、活動の便宜をはかった。
  この様な、地方懇親会が、いたるところで聞かれた。
  そして、結合の強化がはかられた。
  さらに、6月下旬には、有一館がほぼ竣工し、
  8月10日に至って、開館式が行われた。
  この様に、党首脳部の党維持の努力は、続けられたが・・、
  ついに、9月には、自由党が解散に追い込まれる事件・
 加波山事件がおきた。
1884年8月10日、武州御殿峠に困民党が蜂起した。
  明治10年代後半、特に、1883年(明治16年)~1885年
 (明治18年)にかけて、
  神奈川県は、激しい経済的混乱に陥(おちい)った。
  繭や生糸の値が大暴落し、職人や人力車夫の手間賃も
 急落を続けた。
  1881年(明治14年)と1884年(明治17年)の物価や、
 手間賃の統計をみると、30%~50%のひどい落ち込みが
 見られる。
  松方デフレ下の農村は・・悲惨だった・・、
  対応策が図られていたが、農民たちは、困民党を組織
 して、状況の積極的打開をはかろうとした。
  しかし、その運動が一頓挫(とんざ)をきたし、新たな
 運動を組織しはじめた。
  その様な、時期に、非常に大きな問題をかかえていた。
  松方デフレの影響を、営業・生産活動の停滞や、生活
 の破壊の形で、
  まともに背負うことを余儀なくされた底辺の民衆は、
 困民党を組織し、当面する敵対者であった高利貸資本に
 対し激しい闘いをいどんで行く。
  神奈川県下の底辺の民衆の多くは、地租や地方税負担
 の重さにくらべ、問題にならないほど多くの負債をかか
 えて、呻吟(しんぎん、苦しんでうめくこと)していた。
  神奈川県の民衆は、過重な負債の負担軽減をもとめて
 1884年(明治17年)3月以降、組織的な行動を開始した。
  大衆集会を開いて、債主に対し示威行動を展開すると
 いう形をとった。
  それを最初に行なったのが、神奈川県の南西部地域(
 大住郡・淘綾郡・足柄上郡などで、現在の平塚・大磯・
 秦野の周辺地域)の人々であった。
  1884年7月終わりになると、南西部地域の困民党にかわ
 って、武州と相州の国境付近の民衆が、新たな運動のに
 ない手として登場した。
  相州高座郡上鶴間・下鶴間・磯部・鵜野森村(鶴間組
 困民党)、武州南多摩郡木曽・根岸・高ケ坂・鶴間村(
 木曽・小川組困民党)、同じ南多摩郡の南大沢・松木・
 宇津貫村(柚木組困民党)などで、
  1884年7月31日に、高座郡上鶴間村谷口の鹿島神社に、
 最初の大衆集会を開いた以後、各地で集会・総代会議を
 開いた。
  そして、ついに、1884年8月10日に・・、
  八王子の町を眼下に見おろすことのできる御殿峠に、
 数千人の困民を集結させ、打ちこわし前夜のたかまりを
 見せた。
  そして、1884年8月10日の夕刻から、御殿峠は、高座郡・
 南多摩郡・都筑郡などの村々から集まって来る農民たち
 で喧噪(けんそう)をきわめた。
  彼らは、蓑笠に身をかため、筵(むしろ)や竹槍を用意
 し、太鼓を打ちならして、八王子の町へ押し出ようとし
 ていた。
  掲げた要求は、借金の五年据置き、五十か年賦だった。
  要求が入れられなければ、実力行使も辞さない・・と
 いう激しいものだった。
  この運動は、1884年(明治17年)を中心に、武相の山
 野に一年以上にわたって繰り広げられた。
  負債問題をいかに解決するかをめぐる争いのため、簡
 単には解決に至らなかった。
  多くの人が負債で難儀しているとき、困難打開のため、
 なんらかの配慮がおこなわれて当然、と思っている人と、
  契約どおりに借金を返すのは負債人の当然の義務、と
 考えている人・・、
  その争いは、簡単に解決できるような対立ではなかっ
 た。
  この運動は、民権運動の「旦那衆」に対して、困民党
 の担い手は、「底辺民衆」だった。
  その意味で、民権運動の出来ない領域の、民権運動の
 限界をこえる運動だった。
1884年8月19日、秋田小坂鉱山の払下げ許可が藤田組に下り
 た。
1884年8月24日、森鴎外が、ドイツ留学のため横浜を出発し
 た。
  1862年1月19日、島根県津和野で、御典医の家柄に生ま
 れた(長男)。
  小説家、評論家、翻訳家、軍医で、本名:林太郎とい
 う。
  1869年(7歳)藩校養老館で漢学を学ぶ、また、父に
 ついてオランダ文典も学ぶ。
  1872年(10歳)旧藩主亀井氏に従って、父とともに上
 京。
  親戚の西周(にしあまね)邸に奇遇(きぐう)し、本
 郷の進文学舎に通い、ドイツ語を学ぶ。
  1874年(12歳)東京医学校予科に入学
  1877年(15歳)東京大学医学部本科生となる。
  1881年(19歳)7月、東京大学医学部を卒業。
  しばらく、当時、千住(せんじゅ)で開業していた父
 の医療を手伝う。
  1881年(19歳)12月、陸軍省に入り、陸軍軍医となる。
  1884年(22歳)~1888年(26歳)9月、多年の念願が
 かなって、ドイツへ留学(4年間)、ライプツィヒ大学の
 ホフマン教授、ミュンヘン大学のM・ペッテンコーファ
 ー教授、ベルリン大学のコッホ教授らについて衛生学を
 学んだ。
  その一方、多くの文学書に親しみ、
  また、日本の評価をめぐって、新聞紙上で、日本弁護
 の論陣をはり、地質学者ナウマンと論争するなどの活躍
 をした。
  また、K・ハルトマンの美学に傾倒した。
  1888年9月、帰国後の・・
  1888年(27歳)10月、この頃、鴎外の後を追って、来
 日した「舞姫」のモデルの女性を説得して帰国させた・・
 との甘い話がある。
  1889年(27歳)1月、「東京医事新誌」の主筆に就任
  1889年(27歳)3月、啓蒙誌「衛生新誌」を創刊、
  1889年(27歳)3月、赤松則良(のりよし)男爵の長女・
 登志子と結婚したが、約1年半で離別した。
  1889年(27歳)9月、帰国後、陸軍軍医学舎の教官に任
 じられたが、
  その職務のかたわらジャーナリズム活動を開始した。
  1889年(27歳)10月、「文学評論しがらみ草紙」創刊、
 きわめて闘争的と言われるジャーナリズム活動をした。
  1889年(27歳)11月、ゆえあって「東京医事新誌」を
 去ると、
  1889年12月に「医事新論」を創刊した。
  1890年(28歳)9月、両誌を統合して「衛生寮病志」
  1890年(28歳)「舞姫」を発表し、文壇に登場。
  1891年(29歳)~1892年(30歳)坪内逍遥との「没理
 想論争」が注目された。
  1893年(31歳)~1894年(32歳)医学界中枢と対峙(
 たいじ)した「傍観機関」論争、
  1896年(34歳)「めさまし草」を創刊、
  1897年(35歳)「公衆医事」を創刊、
  1900年(38歳)近衛師団軍医部長兼軍医学校長から、
 小倉の第12師団軍医部長へ転勤(1899年説あり)、
  これは、文学活動が災いしたか?と言われている。
  1902年(40歳)第一師団軍医部長として帰京。
  これまでの間、問題となっていた創作はしなかった。
  フランス語の学習、唯識論の沈潜、クラウゼヴィッツ
 の「戦争論」の訳述など・・勉強の日々を送る(文学活
 動再開は1909年)
  1902年(40歳)荒木志げを妻に向かえる。
  1902年(40歳)3月、第一師団軍医部長に任じられ帰京、
 帰京後、「めさまし草」にかえて、「万年艸(まんねん
 ぐさ)を創刊、
  この頃、新歌舞伎や長詩の詩作が注目された。
  1904年(42歳)日露戦争に第二軍軍医部長として出征、
  軍陣の余暇に詩歌の創作に努め、後に「うた日記」と
 してまとめられた。
  1906年(44歳)山形有朋を囲む歌会常磐会(ときわか
 い)をもつ。
  1907年(45歳)短歌諸派の興隆を企図して、自宅で観
 潮桜歌会を始める。
  1907年(45歳)11月、陸軍省医務局長に就任、
  1907年以降は、陸軍のボス山形有朋の後援を受ける。
  一方、諮問に応じて、インフレ対策論や、国家社会主
 義に近い社会改革論を献策したり、
  行動範囲は広範・・、
  1909年(47歳)~1916年(54歳)、反自然主義文学の
 立場で執筆活動を全面的に再開させ、
  文壇を盛況にした。
  作品:翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「フ
 ァウスト」、
  小説「舞姫」「青年」「雁(がん)」「ヰタ・セク
 スアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎(1916年)」
  ・・「半日」「妄想(もうぞう)」「興津弥五右衛門
 の遺書(1912年)」など多岐にわたり執筆し、大きな業
 績を残す。
  1916年(54歳)軍医総監医務局長を辞任する。
  1917年末(55歳)帝室博物館総長兼図書頭(ずしょの
 かみ)として宮内省に入る。
  1919年(57歳)帝国美術院初代院長に就任、
  1921年(59歳)図書寮の仕事として、「帝諡考(ていし
 こう)」を完成し出版する。
  1922年7月9日、委縮腎と肺結核で没す(60歳)
  墓所:東京・三鷹市の禅林寺
  生家は、津和野町で保存されている。
  1892年以降の住居、文京区千駄木(せんだぎ)の観潮
 桜跡には鴎外記念本郷図書館が建つ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:終わるべき戦争も、終わらない事態が現出していた。
.
1945年5月28日、アメリカの国務長官代行のジョセフ・グル
 ーが、トルーマン大統領を訪れ、
  第二次世界大戦を終わらせるための打ち合わせを行な
 った。
  ルーズベルトの死から1ヶ月半が経っていた。
  また、ナチス・ドイツは崩壊していた。
  日本との戦いは、沖縄戦が展開されていて、最終的な
 局面を迎えていた。
  このグルーは、日米が開戦するまで、日本の大使をし
 ていて、
  日本の事情に良く精通していた。
  グルーは、天皇陛下に戦争責任はないと考えていた。
  そして、天皇制の維持を約束する事が、「早期に、戦
 争を終結する事になる」と考えていた。
  ルーズベルトの「日本人に対する異常な嫌悪感」、そ
 して、「無条件降伏の押し付け」という考えではなかっ
 た。
  トルーマンは、その話を聞き、自分になかった見聞と
 考え方・判断を聞き、感謝し、同意した。
  そして、トルーマン大統領は言った・・、
  「異論はない。ただ、軍の指導層がどう考えるかだ」
 ・・と。
  そして、その翌日、開かれた会談にグルーは出席し、
 協議がなされた。
  陸軍長官のスティムソンは、グルーの考えに賛意を表
 明した。
  しかし、その他のメンバーは、今、沖縄で戦いが展開
 されているからと、理由にならない理由で、協議の決定
 を先延ばしにした、
  決定にはには至らなかった。
  死闘を繰り広げられている中で、今までの条件を緩(
 ゆる)めるのは良くないという、理由にならない理由だ
 った。
  日本としての、日本の皇統が維持されるなら、早期に
 戦争を終結しようという考えには、思いが及ばなかった。
  ここに、中国の異常なプロパガンダがあった。
  「天皇制への攻撃」の中国のプロパガンダが影響して
 いた。
  これは、すでに、アメリカで広く知られ、天皇の戦争
 責任が、「間違って喧伝されていた」。
  今、現在の中国・韓国の慰安婦のプロパガンダの様な
 事が、この時もなされていた。
  終わるべき戦争も、終わらない事態が、現出していた。
  尚、今・最近、中国は、金の力で「アメリカの新聞社」
 を買っている(シカゴの新聞社)。
  急に論調が、中国寄りとなった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年8月12日金曜日

(増補版)398E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年7月)

題:(増補版)398E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年7月21日、横須賀造船所の開渠式
  日本海軍の造船工業に、一つの転機をもたらした横須
 賀造船所。
  その造船所のドック竣工式が行われた。
  北白川宮能久親王殿下(きたしらかわのみやよしひさ
 しんのう、明治天皇陛下の義理の叔父)には、海軍卿・
 川村純義以下の随員を従えて、御臨場いただき、
  儀式は、華麗かつ荘厳を極めたという。
  1880年(明治13年)6月より、伊豆や相模の各地から船
 渠用の石材切出に着手し、
  石の総数約27,800個、使役延人数約272,600人という大
 工事であった。
  新聞報道も、当時としては珍しい電燈が、式当日の夜、
 点火され、不夜城を現出したと報じている。
  1887年(明治20年)正月に、東京市街に電燈が点火さ
 れ始めるより3年も前の事で、
  人々が驚異の眼で見つめたと伝えている。
  現在の米海軍横須賀基地にあった横須賀製鉄所(造船
 所)が、1865年(慶応元年)11月15日に建設が始められ
 て・・という説明もある。
  造船所の計画は、フランスの力を借り、現実化した。
  幕府は、アメリカに協力要請をしたが、
  当時、アメリカは南北戦争中で協力できないと言われ
 た。
  この時、フランスは、主要産業の製糸業の「カイコ」
 が、伝染病によって壊滅した。
  産業が成り行かない状態となり、日本に生糸輸入を頼
 り、また、伝染病に強い「カイコ」を求めた。
  駐日フランス公使・ロッシュは、積極的に幕府への接
 近を図った。
  この時、この幕府とフランスとの仲立ちをしたのが、
 栗本鋤雲(くりもとじょうん、外国奉行)だった。
  栗本鋤雲は、幕閣・小栗忠順(おぐりただまさ、のち
 小栗上野介、勘定奉行、外国奉行)と竹馬の友であり、
  また、関係を作ったフランス人のカションは、栗本が
 函館にいた時に共に過ごした仲だった。
  小栗、ロッシュ、栗本、カションの4人で話が進み、1
 ヶ月もたたないうちに、造船所の設置場所として横須賀
 決定されるというトントン拍子に話が進んだ。
1884年7月22日、横浜正金銀行が「外国人為替取組手続き」
 を定めた。
  厳しいインフレの収束が課題となっていた1880年にな
 ると、
  正貨の吸収と、生糸などの主要物品の直輸出奨励を通
 じた貿易の振興を目的に、
  輸出商と政府が、主要な担い手になる形で、為替専門
 銀行として横浜正金銀行が設立された。
  直輸出奨励金融・・御用外国荷為替制度の成立・・
  正貨吸収を主目的とする御用外国荷為替制度の成立・・
  御用外国荷為替制度の発展・・外国人為替取組制度の
 成立・・
  日本の貿易は、居留地貿易が支配的であり、外国商人
 を相手として、外国為替業務を行ってこそ、同行が外国
 為替業務を拡張することができた。
  これによって、「海外為換の権を占むる」ことができ、
 また、輸出為替手取金として正貨、外貨を獲得すること
 もできた。
  外商との外国為替取組は、これまで外国銀行によって
 独占的に取扱われてきた。
  だが、マーカンタイル銀行が、困難に陥り、正金銀行
 設立の前年の1879年に、一時、横浜支店を閉鎖し、同年
 までに、オリエンタル銀行は前述の要因によって、殆ん
 どの準備金を失って、無能力となっていた。
  セイロンのコーヒー生産が、黄葉病による打撃を受け
 たことも、同行の貸付金回収不能をもたらし、オリエン
 タル銀行の経営危機をもたらした。
  オリエンタル銀行の営業状態が、危険性を孕んでいる
 という噂も、1883年には、その筋の人々の耳に入ってい
 た。
  また、その他の在日外銀も資金が不足していた。
  すなわち、1883年に、「外国各商館並ニ銀行ニ於テ金
 融極メテ逼迫当行〔横浜正金銀行〕ヘ為替ヲ依頼致旨申
 込候申込候者」が少なくなかった。
  原頭取は、「時期こそいたれり」と、1883年8月初旬頃
 から、外国商人に対する荷為替取組開始の計画を練った。
  同年・1883年10月24日に、原頭取は、「外国人為替取
 組ニ付伺」書を、松方大蔵卿宛に提出した。
  この上申書において、「好時機ヲ失ハス彼等〔外国人〕
 ノ依頼ニ応シ候ハゝ往々外国為替拡張ノ基トモ相成可申
 且外国ニ於テ収入スヘキ金額モ増加可致」と主張した。
  1883年10月30日、松方大蔵卿は、この出願を認可し、
 かくして、正金銀行は、外国銀行の力の弱まった機会を
 利用して、外国人為替取組を開始するに致った。
  堅実経営方針をとる正金銀行は、身元確実で信用でき
 る外商だけを相手に、為替を取組み、外国人為替は、支
 払延滞の憂いがなかった。
  しかも、この為替の抵当物が外国に到着すると、ただ
 ちに、この為替手形は外国で割引され、荷物が引取られ、
  正金銀行は、支払期限以前に為替金の支払を受けた。
  かくして、外国人荷為替取組開始後、この取扱高は増
 大した。
  外国人為替取組の前途は、有望であった。
  松方大蔵卿は、正貨の吸収、外国為替権の回復を図ろ
 うと考えていた。
  前者に関しては、松方大蔵卿は、紙幣整理政策を推進
 していたが、このためには、紙幣の正貨(金銀とくに銀)
 との交換消却のために、政府が、正貨を国内で蓄積しな
 ければならなかった。
  政府は、準備金中の紙幣を、正金銀行に預入れ、同行
 に外国荷為替を取組ませ、輸出為替手取金(外貨)で返
 納を受け、これを日本に現送しようとした。
  しかも、正貨の獲得は、外債利払・軍艦代その他の各
 庁経費などの政府対外支払上からも必要であった。
  とくに、1882年以来の、軍備拡充計画に伴って、海軍
 艦艇等の代金の対外的支払が増大したことが、この必要
 性を高めたのであった。
  これについて、松方大蔵卿は、紙幣整理のための財政
 整理を断行したけれども、
  国権の強化・対外的危機(1882年の朝鮮事件)への対
 処のために軍事・警察機構を大蔵卿就任以来強化しよう
 とした。
  軍備拡張は、1882年12月25日に、政府部内で正式に決
 定され、
  軍事費は、1883年度以後、急速に増大した。
  海軍軍備拡張案は、1882年には、出超による正貨不足
 の相対的解消を背景として、
  前年の漸進的整備・国産化重点主義から軍艦の輸入依
 存主義に転換している。
  1883年以降、海軍急速整備・軍艦の組織的輸入を中心
 として海軍軍備が拡張された。
  松方が、軍艦兵器輸入の一時的制限を主張するに至る
 のは、国際収支の赤字が予想される1887年(明治20年)
 に至ってからだった。
  かくして、松方大蔵卿は、直輸出奨励という従来の政
 策を基本的に転換しようとした。
  「外国為換金取扱規程」第11条では、為替取組は、原
 則として本邦商人と取組むべきであるとされ、
  「必要ノ場合ニ於テ外商ト取組ヲナサントスルトキハ
 其事由ヲ大蔵省ヘ開申シテ認可ヲ請クヘシ」と定められ
 ていた。
  正金銀行の為替取組を増加させようとすれば、外国人
 為替取組を制度として定着させる必要があった。
  1884年6月9日、大蔵卿・松方正義は、太政大臣・三条
 実美に対して、正金銀行に外国人為替を取組ませるよう
 上申し、
  翌月・7月22日に、太政大臣がこれを認可した。
  同月・7月に、大蔵省は、「外国人為替取組手続」を定
 めて、これを正金銀行に令達した。
  かくして、1884年(明治17年)7月に、外国人為替取組
 制度が成立した。
  「外国人為替取組手続」の制定は、1880年制定の旧荷
 為替法(後に一部改正)、1882年制定の新荷為替法に続
 く、3度目の基本御用荷為替法の制定であった。
  正金銀行は、「外国為換金取扱規程」と「外国人為替
 取組手続」の2法のもとで、外国為替業務を拡張すること
 となった。
  外国人荷為替(輸出荷為替)取組制度の第1の目的は、
 正貨の獲得であった。
  松方大蔵卿の上申書においては、大蔵省が、正貨を十
 分収得できることが、外国人の為替取組依頼に応じる根
 拠とされている。
  また、この制度は、外国銀行に掌握されていた外国為
 替権を日本に取戻すという目的を持っていた。
  外国人為替取組によって、御用荷為替制度が、正貨獲
 得・蓄積という目的を持つことが、ますますはっきりし
 た一方で、直輸出奨励という目的は、後景に退いたので
 あった。
  この制度の樹立は、農商務省、とりわけ1884年に、『
 興業意見』の編纂主任を勤めた同省大書記官・前田正名
 の直輸出奨励構想と鋭く対立した。
  前田は、外商の貿易支配を激しく批判し、地方在来小
 規模産業の保護を主張し、
  その輸出貿易拡張方策の1つとして、海外直輸出荷為替
 金融を便利にすることを主張した。
  すなわち、『興業意見』では、政府が、海外に払出す
 べき正貨に相当する資金を、海外荷為替資金に充当し、
 輸出品に低利をもって荷為替金を貸与し、その貨物を、
 海外輸出品関係の同業組合が設立した海外大商店その他
 に輸送して売却し、この代金で、荷為替資金を支払い、
 この資金を、その地の銀行に振込み、必要に応じて政府
 が、これを引出して用いるべきであると主張した。
  外国人為替取組の手続きは次のようなものだった。
  横浜正金銀行は、政府から預かる外国為替元金〔紙幣〕
 の中から、銀貨〔銀兌換券を含む〕を買入れる。
  この銀貨をもって、参著後6ヵ月以内〔1888年6月の改
 正では4ヵ月以内〕払いの為替を、外国商人から船荷証券
 をとって買入れる。
  外国人為替手形、および、船荷証券は、駐外領事に発
 送され、これらは、到着後、正金銀行出張員に引渡され
 る。
  同出張員は、荷主に、これら書類を引渡し、受取った
 貨幣を領事へ納入する。
  身元が確実で、十分信用できる荷受主に対しては、為
 替金支払の承諾に対し、時宜により人金前でも船積証書
 を引渡した。
  外国人為替を取組む前に、正金銀行が、当座の資金を
 外国人へ貸出すことも行われた。
  外国人為替取組制度成立後、1886年に至るまで、正金
 銀行の為替取扱高が、顕著な増加を示すに至った。
  1884年には、外商を相手とする為替取組高が、同行の
 為替取組高の半ば以上、1885年には、これがその大半を
 占めるに至った。
  1886年1月に、原頭取は、「先年外国人荷為替ノ取組ミ
 ヲ相開キ候テ以来当行為替取組高頗ル巨額ニ上リ当港輸
 出生絲荷為替ノ如キ其総額凡ソ四分ノ三ガ当銀行ニ帰シ
 候相成……今日ニ於テハ本港為替ノ権ハ殆ント当銀行二
 帰セントスルノ有様」であると述べている。
  それではなぜ、正金銀行が、居留地の外国銀行に対抗
 して、外国人を相手とする輸出荷為替の取組を増大させ
 ることができたのか。
  これはまず、第1に、国家の保護が、正金銀行に与えら
 れて同行の基礎が強化されてきたし、
  また、外国人為替取組後、これが強化されたからだっ
 た。
  すなわち、前述の原の改革は、正金銀行と国家との結
 びつきを強めるものであった。
  また、原は、1883年4月の臨時株主総会で、定款の改正
 を行い、「政府の実質的監督権の強化」を図った。
  従来、定款最後の別段規定の条項に規定されていた、
 大蔵卿が必要と認める場合は、正金銀行頭取を改選・選
 定できるという条文は、第8条の頭取選出の条項で規定さ
 れるようになった。
  また、株主の発言投票権は、所有株式500株以上の場合
 にこれを増加しないという従来の制限は廃止され、政府
 所有株の発言投票権は激増した。
  このような正金銀行の国家機関的性格の強化は、政府
 の資金援助を容易にした。
  正金銀行が、外国人為替取組を開始しようとした当時、
 同行は、居留地で銀貨を支払う必要があったが、1883年
 6月の改革で、同行は、所有銀貨を紙幣と交換していた。
  銀紙の相場の開きは残っていた。
  そこで、同行は、8月7日に、居留地外商が、輸出する
 生糸に対する為替を取組むために、銀貨需要に対する準
 備として、年利2%で銀貨90万円の賃下げを大蔵省に出願
 した。
  同年・1883年10月10日に、松方大蔵卿は、銀貨50万円
 に限り、無利子で正金銀行に預入れることを許可した。
  政府銀貨預金に依存して、正金銀行は、外国人為替取
 組を開始した。
  「外国為換金取扱規定」第2条で、政府が、正金銀行へ
 為替資金として預け入れる紙幣の限度額は、400万円と定
 められていた。
  1884年(明治17)2月に至り、太政官へ稟議の上、政府
 は、正貨獲得のために、時機によりては、多少制限額を
 超過して正金銀行に貸出せることを決定した。
.
  (今日の言葉)
.  
  題:歴史的に見ると、意外とあっけないものなのだ・・、
.
   (民族の安定性・・いつまでも続くと思うな親と国)
    しっかり守ろうという気概を持つことが大切・・
    気概:きがい、困難にくじけない強い意志
.
紀元前37年~668年、高句麗が存在した。
  高句麗(こうくり)は、今の中国東北部の南部から
 朝鮮半島北中部にあったツングース系民族による国家と
 いう。
  最盛期は、満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とし
 た。
  隋、唐を始めとする中国からの侵攻を、度々(たびた
 び)撃退したが、
  最終的には、唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。
  このツングース系民族は、満州からロシア領のシベリ
 ア・極東にかけての北東アジア地域にの広い地域に住み、
 ツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族として
 歴史を刻んで来た。
  今・現在のツングース系民族は、満州民族、シベ族、
 オロチョン族、エヴェンキ(ソロンを含む)、エヴェン、
 ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィル
 タなど諸民族が居るとされている・・が・・、
  これらの民族は、満州民族を除いて人口が少なく、漢
 民族(中国語)や、ロシア民族(ロシア語)の影響が大
 きく、固有の文化や居住権が危機にさらされている・・
 と解説されている。
  日本が手を貸して、1932年に建国させてあげた満州民
 族(女真族)は、「今は居ない」と書く書物もある。
  (ここは漢民族の中国の地ではない、ツングース系民
 族の地なのである)
  高句麗は、日本の教育では、朝鮮民族の国と教えられ
 ている。
  朝鮮でも、当然、朝鮮民族とみていて、「中国の北部
 までその領域を広げた国」として誇りにしている。
  また、この中国の北域は、朝鮮民族の領域なのだとい
 う意見が韓国・朝鮮にある。
  今、半島だけのように見られている朝鮮民族ではある
 けれど・・と・・、
  しかし、中国は、高句麗を、「朝鮮民族の国」ではな
 く、「中国の地方政権だ」としている、言っている。
  「朝鮮民族なんかじゃない」としている。
  今、中国の主張している南シナ海の「九段線」が、国
 際的に否定され、「中国領ではなくなった」が、
  この様に、歴史を見ると、民族の行く末・盛衰は激し
 いのである。
  中国の領土的拡大路線は続く・・、
  そして、台湾を中国領とする行動が続けられている、
  そして、日本を飲み込み、「太平洋を半分づつにしま
 しょう」と、アメリカに言っている中国である、
  因みに、今、中国が領有した国は、「内モンゴル自治
 区」「広西チワン族自治区」「チベット自治区」「新疆
 ウィグル自治区」・・など。
  今、中国は、各地を侵略している。
  日本民族も、『平和の夢を貪(むさぼ)っている』と、
 過去の上記の民族の様になる。
  歴史的には、意外とあっけないものなのだ・・、
.
  (追伸)
  もう一度、満州を改めて考えてみると・・、
  上記の様に・・満州は、朝鮮に言わせれば、高句麗が
 あったように「朝鮮のものだったのだ」と言い、
  中国は、今・現在、漢族の中国が、ツングース系民族
 の地を領有していて、「中国の一地方だ」と言うし、
  当時、ロシアは、この満州を含む広域に南下して来て、
 朝鮮まで奪おうとしていた。
  アメリカも、満州の権益が欲しいと、中国を抱き込ん
 で、日本をターゲットとして、ぶつかって来ていた。
  ここ満州は、ツングース系民族の方々の地なのであっ
 て、この弱小の民族であるがゆえに、この様な状況にな
 っていた。
  日本が侵略したというのは、アメリカを含む日本以外
 の国々の「自分に都合の良い言い方だけのこと」であっ
 て、
  弱小の民族の地を、アメリカや各国も侵略していると
 いう状況であった。
  しかし、日本だけは、それを本来の線に戻そうという
 行動をした。
  満州人の地に、満州国を手助けして樹立した。
.
  (追記)
  イギリスとドイツも中国の侵略国だった。
  特に、イギリスは最大の中国領の占領国だった。
..
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2016年8月10日水曜日

(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)

題:(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年6月中旬、第1回医術開業試験が施行された。
  歴史・・、
  1874年(明治7年)「医制」が公布された。
   (文部省より東京・京都・大阪三府に布達)
    国家の試験による医師の開業許可制を採用した。
  1876年(明治9年) 内務省は「医制」を全国に及ぼす。
    各県は、県規則により医師の開業試験を実施した。
  1879年(明治12年)内務省は「医師試験規則」を各県
   に達し、全国統一の試験を実施した。
  (大学卒業者等に対しては無試験で開業免許を授与し
   た)。
  1883年(明治16年)内務省は「医師免許規則」及び「
   医術開業試験規則」を布達。
  1884年(明治17年)より試験実施。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまでは、医師といえば、漢方医が主流であったが、
 医術開業試験の導入により、新規に開業する医師は、西
 洋医学の知識が必須になった。
  これは、医師の西洋化において画期的な出来事だった。
  医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関
 の卒業者に対しては無試験で与えられた。
1884年6月15日、わが国最初の女性専門誌『女学新誌』が
 刊行した。
  (近藤賢三編集)が修正社から発行した。
  ⇒翌・1885年7月20日に『女学雑誌』になった。
  初代編集人の近藤賢三は、婦人論が活発になった風潮
 をみて、それを1年で廃刊し、新たに「女学雑誌」を創刊
 した。
1884年6月24日、和解調停の勧解略則が制定された。
  勧解(かんかい)は、紛争当事者のどちらか一方の申
 し立てによって、裁判所の裁判官が、民事上の争いを和
 解させる制度で、
  江戸時代にあった内済(ないさい、事を荒立てないで
 調停する制度)をもとにして、フランスのコンシリエイ
 ションの影響を受けて成立した制度であり、
  この年に、勧解規則が制定され、治安裁判所に勧解係
 2名を置いて、勧解事件を取り扱った。
  勧解略則施行心得では、勧解係1名は、その地方の資産
 家で、風俗習慣を熟知する人望ある者を選任することに
 なっていた。
1884年6月25日、日本鉄道が高崎まで延長され、明治天皇陛
 下の御臨席のもとで上野駅で開通式が開かれた。
  この日、陛下は上野~高崎間を往復、御乗車された。
  この年、高崎、前橋まで延長され、全通した。
1884年6月25日、貞明皇后の御生誕
  旧摂家・公爵である九条道孝の四女として御生誕の後、
 大正天皇陛下の皇后となられた。
1884年6月26日、参謀本部に測量局が設置された。
  陸地測量事業が、参謀本部に管轄統一された。
  そして、1888年に、測量局が、陸軍参謀本部陸地測量
 部を経て、
  翌年・1889年に、参謀本部陸地測量部となった。
  陸地測量部によって、本格的な全国の三角測量と水準
 測量が行われ、
  正確な地形図が作成された。
  発足時には、参謀本部測量局など以前の組織による測
 量、また、内務省地理局による全国測量の業績があり経
 験豊富な技術者も配属されていた。
  部内の職制は、三角科、地形科、製図科、修技所が設
 置され、
  三角科は、三角測量を主とした広範囲の大地測量を担
 当、
  地形科は、三角測量後の内部の詳細な地形や地物を測
 量した。
  また、修技所は、第二次大戦中、教育部に改称され、
  陸地測量部は、第二次大戦終結の1945年まで継続した。
  その後、地理調査所をへて国土地理院になり、
  教育部(旧修技所)は、国土交通大学校測量部に引き
 継がれた。
1884年6月26日、フェノロサが、岡倉天心とともに関西を巡
 り、法隆寺夢殿の救世観音像を発見し、公開へ・・、
1884年6月、菊亭香水(きくていこうすい、佐藤蔵太郎)の
 『惨風悲雨 世路日記(さんぷうひう せいろにっき)』
 が刊行した。
  明治末年までに、数十万部のベストセラーとなった。
  内容の一例は・・、
  CがBに何か食べさせて馬にしてしまうのだが、馬にな
 ったBにAがなすびを食べさせると、元のBに戻ることが
 出来たという
1884年7月6日、工部省が、長崎造船局を廃止とし、郵便汽
 船三菱会社に貸し下げ、長崎造船所と改称した。
  郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎が、政府から25年
 間借り受けることになった。
  この時、郵便汽船三菱会社は、政府と共同運輸会社と
 の戦いの真最中であったが、基幹産業として着目した。
  岩崎彌太郎が所有する37隻の修理と、造船所経営の必
 要に迫られて、官から民に移譲した。
   急速な近代化を図りたかった。
  背景には官営事業の失敗もあった。
  1887年(明治20年)4月に至り、岩崎彌之助(岩崎弥太
 郎の弟)が、大蔵大臣伯爵・松方正義に長崎造船局の払
 下げを申請した。
1884年7月7日、華族令を定める。
  華族を5爵に定め、制度化する華族令が制定された。
  公爵11人、侯爵24人、伯爵76人、子爵327人、
 男爵74人。 
  (氷川清話)華族に五爵を置く。
  この日、制度取調局の局長・伊藤博文を中心に制定さ
 れた。
  従前の華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区
 分し、基本的に旧公家の華族は家格により、旧諸侯の華
 族は石高により、それぞれの爵位を授爵した。
  また、国家に勲功ある者を新たに華族に列し、勲功に
 よりそれぞれの爵位を授爵した。
1884年7月14日、群馬県・中小坂鉱山を、坂本弥八へ払下げ
 の許可をした。
  この鉱山は、群馬県下仁田町にあった鉄鉱山で、
  江戸時代末期に発見されたと考えられる。
  幕末には、水戸藩が設立した反射炉で使用される鉄を
 供給したり、
  江戸幕府による、溶鉱炉建設予定地ともなった。
  明治維新後は、1874年(明治7年)に、イギリス人技師
 を雇い入れ、洋式高炉などの近代的な製鉄設備の建設を
 開始した。
  イギリス人技師とスウェーデン人技師の技術指導のも
 とで本格的な近代製鉄を始業した。
  民間経営で、良質な鉄を比較的安価に生産することに
 成功し、日本の製鉄業の草分けとなった。
  その後は、1961年(昭和36年)まで断続的に操業が行
 われた。
  中小坂鉄山が発見され、鉱山開発が開始された幕末期
 は、諸外国との緊張が高まりを見せており、
  1850年代、とりわけ1853年(嘉永3年)のペリー来航以
 降、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組むようになってき
 た。
  すでに、18世紀末の段階で、欧米では、旧来の青銅製
 の大砲ではなく、鉄製の大砲が用いられているようにな
 っていたが、
  1840年代、高島秋帆、そして、江川英龍らが、鉄製の
 大砲の採用を進言した。
  しかし、1850年代以降、各地で反射炉が建設されて鉄
 製の大砲が鋳造されたが、せっかく鋳造された大砲の多
 くが不良品であった。
  鉄製大砲の鋳造が上手く行かない原因は、これまでの
 日本の製鉄原料となっていた砂鉄が、大砲の砲身の材料
 鉄としては不向きで、
  岩鉄、すなわち、鉄鉱石の鉄を用いる必要があると考
 えられた。
  当時、水戸藩の徳川斉昭は、強硬な攘夷思想を持って
 おり、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して
 鉄製の大砲を鋳造することにした(成功せず)。
  万延元年遣米使節の目付として渡米した小栗忠順は、
 ワシントン海軍工廠などの見学を通じて、日本に鉱工業
 を興す必要性を痛感した。
  小栗の進言によって、1865年(慶応元年)横須賀造船
 所の建設が開始され、横須賀造船所で用いる鉄の供給元
 として中小坂鉄山が注目されることとなった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:カイロ会談と天皇陛下のお言葉
    (アメリカ・イギリスへの攻撃禁止)
.
1943年11月22日~27日、カイロ会談が開かれた。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この時、日本の無
 条件降伏を改めて要求した。
  日本の降伏がはっきり自覚されて、この会議が開かれ、
 そして、この発言になっている。
  この時は、広島・長崎に原爆が落とされる1年9ヶ月以
 上も前の事である。
  こんなに早い時期から、アメリカの戦争遂行の最高責
 任者であるアメリカ大統領ルーズベルトは、「アメリカ
 が勝つことは間違いない」という見解にあった。
  であるならば、戦争を早く終わらせるために、広島・
 長崎に原爆を落とすのだ・・というアメリカの論理は、
 成立しない。
  「作られた論理だ」と・・この点からも言える。
  この頃、アメリカの極東専門家らの間でも「降伏後の
 日本をどう扱うか?」が話し合われたりしている。
  このように、日本の敗戦は誰の眼にもはっきりしてい
 た。
  原爆投下の必要性は、「まったくと言ってない」。
  中国の重慶では、国民党の孫文の長男の孫科(立法院
 長・国会議長)が、「日本の戦犯を厳しく処せ」と言う
 ほど、日本の敗戦は誰でも知る、世界的に知られること
 になっていた。
  アメリカ大統領ルーズベルトは・・、
  「日本の自動車や航空機のエンジン製造を禁じる」と
 か、
  「軍工場、軍艦の造船所を取り壊す」とか、
  「日本人ほど憎むべき敵はいない」とか、
  「(日本人を)飢えで死なせるほどではない」とかと、
  日本との戦争に、もう勝つという確信の中に居て・・
 好きな発言をしている。
  この様な戦争が、1年9か月続き、原爆が落とされる。
  必敗の日本に落とす必要性は、明らかにまったくない。
  うっぷん晴らしと言える。
  また、アメリカが手に入れていた次期の兵器・原爆の
 威力確認(性能確認)からの投下だった。
  卑劣な、軽蔑すべき・・人体実験。
  白人種のドイツ人の頭上には落さないとヨーロッパで
 言われているように、
  キリスト教の「有色人種の蔑視」の観念に洗脳され、
 マインド・コントロールされた流れの中で、日本人への
 『安易な原爆投下行為』だった。
  (第一次世界大戦後の会議で、日本はあれほど「有色
 人種への蔑視はするな」と言っていたのに・・である)
  日本の敗戦後が、いろいろ話し合われるこの頃・・、
 アメリカのヘラルド・トリビューン紙は、次の報道をし
 た・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない」と、
  この様な論説記事を掲載した。
  そして、この論説記事の中に・・、
  日本の真珠湾攻撃の約2か月前に、天皇陛下が、日本陸
 軍と海軍に対して、
  「アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じる」という攻撃
 禁止をしていると報じた。
  その裏付けとして、アメリカ国務省の公開文書に、そ
 の証拠があると解説した。
  しかし、アメリカのこの様な動きを中国は牽制した。
  中国は、日本の天皇制を嫌った。
  この時も、中国は、国家主導でキャンペーンをした。
  今も昔も、中国のやることは同じだった。
  この中国のキャンペーンは、びっくりするぐらい幅広
 く行われ、影響があった。
  アメリカの外交誌「フォーリン・アフェアーズ」を動
 かし、反対報道された。
  また、米上院の委員会でも議題となった。
  因みに、このカイロ会談に、蒋介石を出席させたのは
 ルーズベルトであった。
  蒋介石が、日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日
 戦を断念し、連合国の戦線から脱落する恐れがあった。
  その中国を、米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、
  第一次世界大戦で得た日本の領土の返還させ、また、
 台湾などの返還や、常任理事国入りさせて・・などと持
 ち上げて、寝返りしないようにした。
  大戦中、それまでの蒋介石は、英米からの支援が少な
 いことに不満を持っており、日本に寝返るのではないか
 と噂が絶えなかった。
  しかし、素晴らしい支援が得られるからと夫人同伴で
 カイロ会談に出席した。
  そして、日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束さ
 せられ、
  蒋介石が日本と停戦する事を禁じさせられた。
..
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2016年8月9日火曜日

(増補版)396E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年5月~1884年6月)

題:(増補版)396E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年5月~1884年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年5月6日、奈良正倉院を、宮内庁に移管した。
  正倉院は、東大寺の正倉(倉庫)だったが、
  1875年(明治8年)3月10日に、収蔵されていた宝物の
 重要性に鑑み、
  東大寺から内務省の管理下に置かれた。
  そして、1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置
 に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、
  この年・1884年(明治17年)5月に、宮内省所管とな
 った。
1884年5月7日、戸長官選制(明治17年5月7日太政官第41号
 達)
  区町村会法が改正された、戸長官選となる。
  戸長公選制を廃止し、府知事・県令が選任することに
 なった。
1884年5月9日、大阪道頓堀の中座に、舞台用照明としてア
 ーク灯が取り付けられた(5月10日説あり)
  客席証明を行なったもので、評判となる。
  アーク放電を利用した。
  アーク放電は、電極に電位差が生じることにより、電
 極間にある気体に持続的に発生する絶縁破壊(放電)の
 一種。
1884年5月12日、人造絹糸
  フランスの化学者シャルドネにより、人造絹糸が発明
 され、学会に発表・報告された。
  最初の人工繊維のレーヨンの歴史に於いて・・、
  1848年に、クリスチアン・フリードリヒ・シェーンバ
 インは、綿からニトロセルロースを作り、
  それを溶液に溶かして、
  小さな穴から押し出して、繊維を作るのに成功した。
  また、1884年には、シャルドネが、人工の絹に関する
 最初の特許を取得した。
  その後、紡糸機を導入し、布を織って、
  1889年のパリ万博に展示して注目された。
  これが、最初の合成繊維「レーヨン」だった。
  その後に、商業生産を開始するが、高価で、燃えやす
 い性質だった。
  そのため、生産停止に追い込まれた。
  また、生産で作られる排水が、環境に対して有害なこ
 とから、
  1930年代まで、主に電球のフィラメント用としてのみ
 生産されるだけだった。
1884年5月13日、群馬事件が起こる(5月16日説あり)
  群馬県下の自由党員・湯浅理兵(りひょう)、日比遜
 (ゆずる)、清水永三郎らの起した反政府暴動。
  不況下の困窮農民らに、学校廃止、減租請願を説き、
  農民、博徒、猟師らを誘って、高崎で予定された中山
 道鉄道開通式での、政府高官襲撃を企てた。
  また、高崎鎮台を襲撃、政府打倒を企てたが果たせず、
 高利貸し・警察署を襲撃したが、食糧が尽きて解散した。
  首謀者は逮捕された。
  自由民権関係の事件は・・、
  加波山(かばやま)事件(1884年9月)、
  秩父事件(1884年10月31日~11月9日)、
  飯田事件(1884年に起きた挙兵の計画事件)、
  名古屋事件(1884年12月)・・が、起きた。
  (氷川清話):自由党壮士による政府転覆計画の暴力
 事件が各地に起こる。
  (氷川清話):名古屋事件と、自由党壮士による政府
 転覆計画は後を絶たず、国外では京城での甲申事変(竹
 添公使の軍隊出兵)
  また、この日・5月13日、自由党員湯浅理兵らは、農民
 を妙義山に集めていて、
  5月16日には、湯浅理兵らは、警察署などを襲撃した。
1884年5月15日、京都の葵祭が復活した。
  岩倉具視は、公卿出身の政治家であり、
  幕末に、下級公家ながら、孝明天皇の侍従となり、公
 武合体派として尊攘派に攻撃され、辞官・落飾していた。
  王政復古の直前に復活し、復帰後に倒幕に転向し、王
 政復古の行動をした。
  新政府において、首脳陣として重責を務め、
  1871年(明治4年)に右大臣となり、条約改正交渉と米
 欧視察の特命全権大使に任命され活躍した。
  京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)などと「保
 勝会」を組織し、
  京都の内裏や桂離宮、葵祭などを保存・復興する運動を
 起こした。
  1871年から中断していた葵祭の再興に尽力し、
  1884年に、賀茂祭は、官祭(勅祭)となり、5月15日を、
 祭日と定め勅使の行列も復活した。
1884年5月17日、東京帝国大学理学部に、造船学科が新設さ
 れた。
1884年5月24日、学習院の初代院長に谷干城が任命された。
1884年5月20日、租税・関税両局を廃止し、大蔵省に主税局
 (徴税を司る部局)が正式に設置され、
  また、府県に主税長を設置した。
1884年5月25日、長浜~大垣間に鉄道が開通した。
  それに伴い、鉄道連絡船が本格就航した。
1884年5月26日、兌換銀行条例が公布した。
  銀本位制の兌換銀行券条例を導入し、
  これによって、日本銀行を唯一の発券銀行として、銀
 行紙幣を回収した。
1884年5月27日、蒸気起重機を、初めて横浜停車場の荷揚場
 に建設し、運輸に便ならしめた。
1884年6月1日、初の天気予報
  天気予報を巡査交番所に掲示が開始した。
  日本で、最初の天気予報が出された。
  この日の予報は・・、
  「全国一般風ノ向キハ定マリナシ天気ハ変リ易シ但シ
 雨天勝チ」
  ・・以上が全文だった。
1884年6月7日、商標条例が定められる。
  商標条例の公布により、農商務省工務局に、商標登録
 所が設けられた。
  翌年・1885年4月に、専売特許条例が公布され、同局に、
 専売特許所が設けられた。
  さらに、1886年2月に、農商務官制の公布とともに、新
 たに専売特許、および、商標登録の事務を管掌する「専
 売特許局」が設置された。
  因みに、知的財産権とは・・、
  知的財産基本法の第2条に・・、
  この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新
 品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生
 み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現
 象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、
 商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を
 表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技
 術上又は営業上の情報をいう。
  2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案
 権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財
 産に関して法令により定められた権利又は法律上保護さ
 れる利益に係る権利をいう。
  ・・とある。
1884年6月7日、東京数学会社が、東京数学物理学会と改組
 した(日本物理学会の前身)。 
  日本物理学会は、1877年(明治10年)に、数学を含む「
 東京数学会社」として創立された。
  この「会社」とは、societyの意味で、数学から始まっ
 たのは和算の伝統があったからだという。
  因みに、日本物理学会が、1877年の創立に対して・・、
  ドイツ物理学会が、1845年、
  アメリカ物理学会が、1899年、
  日本は、アメリカより早い・・、
1884年6月12日、鹿鳴館で日本初のバザー
  日本最初のバザーが、鹿鳴館で、華族の方々が開いた
 (キリスト教関係者ではない)。
  「婦人慈善会」が、3日間にわたり、東京日比谷の鹿
 鳴館で開いた。
  会場の2階2室に飾りつけられた陳列棚は13だった。
  緑葉で装飾し、日章旗を交叉させ、1棚に30~40種の
 諸品を載せた。
  値段を記した紅白の札を付け、出品総数は3千有余、
  棚ごとに、貴族や政界の夫人総出の受持ち係が配置さ
 れた。
  第1番の松方夫人他、第2番の西郷夫人他、第3番の
 大山夫人他から第13番の長岡夫人他まで
  出品物は、手袋、靴足袋、巾着、人形、扇子、手巾、
 襟巻など多種。
  陳列室のほかに、書画展観席があり、
  客の休憩所には、階下の食堂があてられ、喫煙、茶菓
 の店が設けられた。
  集客は、新聞広告、前例のない斬新な試みとして世の
 耳目を集めた。
  この試みは脚光を浴び、錦絵の題材にもなった。
  3日間の入場者は、実に約1万2千人となり、
  売上は、約8千円(現在の金額で1憶7千万円)に達
 し、大盛況のうちに終了した。
  収益金は、看護婦養成所に寄付された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:全権あるアメリカ大統領の意思でなく、原爆は投下
   された。
    (アメリカ国民の方々は、嘘で、繰られていた)
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカによって、広島に、
 人類で初めての原爆が投下された。
  16万6000人の広島の方々が、2ヶ月~4か月の間に亡く
 なった。
  まったく非人道的な、
  また、国際法に違反する「アメリカの卑怯な行為」だ
 った。
  アメリカのトルーマン大統領は、この悪辣行為を、「
 戦争を早く終わらせ、数万のアメリカ兵士の命を救うた
 めだ」と・・、
  アメリカの国民の方々へ『嘘の説明』を言った。
  不埒(ふらち)な大統領だった。
  さも正しい正義の行為の様に言って、その様にアメリ
 カ国民の方々へ思い込ませた。
  アメリカ国民の方々は、そのことを信じ込まされ、マ
 インド・コントロールされ、
  そして、マインド・コントロールされ続けて来た。
  しかし、最近の研究や未公開の資料から、このアメリ
 カの国民の方々が、信じ込まされて来たという事が嘘だ
 ということが明らかになって来た。
  原爆計画の責任者や、アメリカ政府関係者などの証言
 や、日記の調査などが進むと、原爆投下の真相が分かっ
 て来た。
  アメリカ大統領のトルーマンは、原爆投下に否定的だ
 った。
  しかし、トルーマンは、ルーズベルトの死で、急に大
 統領になった事もあったため、心の準備もなく、また、
 不十分で、指導力も無かった。
  また、自分の考え、意思を主張する「明確な力」もな
 く、
  指導者たる資質にも欠ける大統領だった。
  アメリカ軍の意見に「引きずられた」。
  ここに広島・長崎の原爆投下の悲劇があった。
  このアメリカ大統領は、引きずられる他に、方法はな
 かった。
  この様な、アメリカ政治の状況が明らかになった。
  今まで指摘されて来た事が確認された。
  アメリカの全権を持つ大統領が、腑抜けだったため、
 繰られたアメリカ国民の方々は、真実を知らされること
 はなく、また、真実を知ることなく、
  『国際法違反の原爆投下行為』が行なわれた。
  アメリカは、不正義な汚名を着ることとなった。
  歴史に、『消すことが出来ない汚名』が刻まれる事に
 なった。
  某大学教授が、自著に書く・・、
  「国に嘘がある以上、やはり教育においても、嘘を嘘
 で塗り固めるような努力が続けられことになる。
  その様な嘘で成り立つ思考様式が、若い世代を、延々
 と、長い期間拘束し、
  腐敗させる、
  そして、結果、「冷笑の人間像」を作り出し、
  そして、すべての心を深く蝕んでいく」・・と。
  戦後、アメリカに作られ、アメリカに繰られ、
  そして、マインド・コントロールされた「日本の歴史
 の嘘」・・押し付けられた・・歴史教育の嘘。
  長い期間における、その嘘の歴史教育に、『自虐史観」
 に、多くの日本の子供たちが、蝕(むしば)まれている。
  この様な・・「人間形成の根幹」にある教育において、
 嘘で塗り固められ・・そして、
  成長した青少年が、
  しっかりした人間性も形造られず、不安定な社会だと
 感得して、
  結果・・不埒な、おぞましい事件を起こしている。
  日本人の人間性形成の基底を「繰られた結果」となっ
 ている。
  日本に来た多くの西洋人が、日本人の倫理性の高さを
 賞賛しているが・・、
  過去の歴史から、また、先祖から受け継がれて来た誇
 り高き流れの中に、
  そして、その様な状況に育まれた「誇り高き日本の心」
 をもつ日本人を称賛した。
  その様な状況が、戦後、破壊されて来ている。
  立ち戻ることこそ大切なことなのだ。
  (読売新聞、2016年8月6日)の「試写室」欄も読んで
 下さい。
..
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2016年8月7日日曜日

(増補版)395E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年3月~1884年5月)

題:(増補版)395E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年3月~1884年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年3月10日、芝浜離宮の延陵館に天覧相撲が催され、初
 代梅ケ谷に横綱を許される。
1884年3月13日、自由党大会が開催され、総理への専断決行
 権付与を決議した。
  警察官を侮辱した自由党員が逮捕され、これをきっか
 けに高田事件が勃発した。
  取締り側と、過激な行動に走る自由党員という悪循環
 が繰り返された。
  更に、他党との対立も激化した。
  同じ民権派の立憲改進党との対立が、自由党内の混乱
 に拍車をかけた。
  帰国した板垣は、党の先行きに不安を感じた。
  解党するか? 
  または、党再建のために10万円の政治資金を調達する
 か?
  板垣は、このいずれかの選択を提議した。
  だが、松方デフレで、有力な資金提供者であった豪農
 層の余裕がなくなっていたこともあり、
  資金集めは順調に進まず、失敗に終わった。
  暴力沙汰ばかりに嫌気がはしり、民心も離れつつあっ
 たこともあった。
  そして、この時、1884年3月に、総理権限を強化して
 板垣の下に党員の結集を図った。
  しかし、執行部は、地方の急進派を押さえきれなかっ
 た。
  自壊作用が働き始めていた。
1884年3月15日、地租条例が制定された(太政官第7号布告)
  税率の固定、法定地価の決定。
  従来の地租改正条例を廃して、地租、及び、その税率
 の法的根拠とした。全29条。
  地租改正で紛糾した諸規定の整理を目的に、1885年の
 地価改訂の実施と、地租改正条例第6条以下の廃止(地価
 改訂・地租増徴の制限撤廃)が制定された。
  そして、1889年に、土地台帳制度の見直しに伴って改
 正が行われた。
  これによって地租に関する法的整備は完成した。
1884年3月17日、宮中に制度取調局が設置された。
  参議・伊藤博文が長官に任命された。
  明治憲法体制へ移行するための制度整備をはかるため
 新設された部局(憲法制定取調局)で、
  立憲政治に備える諸制度の改革、および、法案の起草、
 審査を行った。
  憲法、および、諸制度の調査、研究を終えて欧州から
 帰国した伊藤博文の上奏に基づき設置された。
  3月21日に、伊藤は、宮内卿も兼任し、宮中の制度的
 整備も推進することになった。
  太政官に属する重要機関たる参事院(1881年10月21日
 設置)の主要な構成員が、制度取調局御用掛を兼務した。
  伊藤のもとで、のちに、憲法の起草を担当する参事院
 議官の井上毅(こわし)、
  同議官補・伊東巳代治や、太政官権大書記官・金子堅
 太郎(けんたろう)、太政官権少書記官・渡辺廉吉、牧野
 伸顕らが制度取調局御用掛を兼任した、
  井上、伊東らは、憲法問題などの重要事項について調
 査し、渡辺、牧野ら少壮官僚は、その下にあって諸般の
 制度取調べに従事した。
  この制度取調局において、内閣制とそれに伴う諸官制、
 官吏任用制度、地方制度、行政裁判制度および国会、皇
 室、華族の諸制度などの立案・改革作業が行われた。
1884年3月21日、海軍治罪法が制定された(太政官布告第8
 号)
  大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施行された軍法の
 一つ。
  治罪法は、刑事訴訟法典で、
  日本で最初の治罪法は、1882年1月1日に施行され、御
 雇外国人 G.ボアソナード (フランス人) が、フランス治
 罪法を基礎に諸国の法を参照して原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布された。
1884年3月25日、質屋取締条例が制定された。
  この年に、質屋のみに適用される全国統一立法として
 質屋取締条例が制定され、
  取締りの強化が図られた。
  この条例による過酷な取締りによって検挙される質屋
 業者が相次ぎ、
  不況による営業不振から増加しつつあった質屋の廃業
 にいっそうの拍車をかけることになった。
  そのため、同条例の改正運動が活発化し、
  1895年には、同条例の厳しい質受けの禁止や、警官の
 立入検査などの条項を修正し、罰則規定を緩和した質屋
 取締法が制定された。
  同法は、第二次世界大戦後に質屋営業法が制定される
 まで、取締りの基礎とされた。
1884年3月2日、弥生式の土器の発見
  東京大学予備門の学生が、本郷弥生町の向ヶ丘貝塚か
 ら土器を発見。
  いわゆる弥生式土器。
  1884年(明治17年)3月2日、東京府本郷区向ヶ岡弥生
 町(現東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で、
  貝や縄文土器とともに、口縁を除いてほぼ完形の壺が
 出土した。
  発見者は、学士院会員・海軍中将造兵総監・有坂鉊蔵、
 理学博士・坪井正五郎、白井光太郎。
  発見地については、1889年(明治22年)、坪井正五郎
 が『東洋学芸誌』に報告し、
  1923年(大正12)に、発見者の有坂鉊蔵が記録を残し
 ている。
  向ヶ丘貝塚の正確な位置については長い間不明であっ
 たが、
  東京大学文学部考古学研究室が、本郷キャンパスの一
 角、工学部9号館の近くで遺構の一部を確認し、その周辺
 であることがほぼ確定的となった。
1884年4月2日、明治天皇陛下・皇后陛下が、隅田川に海軍
 兵のボート競漕を御観覧された。
1884年4月10日、イギリス公使は、条約改正に関し新覚書を
 外務卿・井上馨に手渡した。
  その内容は・・、
  「関税率改正条約締結12年後に、内地開放を条件とし
 て、関税自主権を認める」だった。
  長い日本の努力は、なかなか実らなかった・・、
  結局、日本が豊かな経済力を示し、強い軍事力を持た
 なければ、頭をたてには振らなかった。
1884年4月12日、海底電信線保護万国連合条約と追加条約に
 加盟した。
  明治17年4月仏蘭西国巴里府ニ於テ別冊海底電信線保護
 万国連合条約ニ加入ス右奉 勅旨布告候事
  第1条:此条約ハ諸政府ノ管領海中ニアルモノヲ除クノ
   外都テ法律ニ依テ布設シ且条約国ノ内1国若クハ数国
   ノ領地殖民地又ハ属地ニ陸揚シタル海底電信線ニ適
   施スルモノトス
  第2条:故意ト疎虞懈怠トヲ問ハス海底電信線ヲ切断又
   ハ破損シ因テ電気通信ノ全部又ハ一部ヲ妨害シ若ク
   ハ不通ニ致シタルトキハ之ヲ罰スヘキモノトス但損
   害要償ノ為メ私訴ヲ起スモ妨ケナカルヘシ
    海底電信線ノ切断又ハ破損ヲ避クル為メ精々注意
   ヲ加フルモ自己ノ生命或ハ船体ノ安寧ヲ保護スル正
   当ノ目的ニテ已ムヲ得ス其切断又ハ破損ヲ為シタル
   トキハ此条款ヲ適施セサルモノトス
1884年4月16日、長浜~敦賀間の鉄道が全線開通した。
  琵琶湖の連絡船を経由して、京都・大阪とつながる。
  長浜~敦賀間の鉄道建設は、日本人だけの手による工
 事だった。
  建設資材は、石材を除くほか、木材に至るまですべて
 京阪神から運ばれ、資材輸送のため、木造外輪蒸気船「
 長浜丸」が造られた。
  平地部の工事は順調に進み、
  1882年3月10日、工事中の柳ヶ瀬トンネルをはさんで、
 長浜~柳ヶ瀬間と柳ヶ瀬トンネル西口~金ヶ崎間が開通
 した。
  当時、わが国最長だった柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)
 は、2年後に完成して、
  長浜~敦賀間は、1884年4月16日に開通した。
  長浜~関ヶ原間の工事は、1882年6月に着工、1883年5
 月に開通するスピード工事だった。
  当時の長浜は、まさに鉄道のまちだった。
  1889年(明治22年)7月、東海道線・新橋~神戸間の全
 通で、長浜の鉄道基地としての時代は去った。
1884年4月17日、学習院
  華族会館が経営している私立学校学習院が、宮内省所
 轄の官立学校となった。
  1877年に、皇族・華族の子弟の教育のために、華族有
 志が結成・創設した華族会館の経営の学校として東京に
 設立されていた。
  学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育
 機関にある。
  18世紀の初め、光格天皇が、朝廷の権威の復活を強く
 意識して、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を
 構想した。
  そして、続く仁孝天皇の時代に、公家のための学問所
 を作る計画が決まり、
  孝明天皇に代わった1847(弘化4年)年3月に、
  京都御所の東側(建春門前)に学問所の設置が実現し
 た。
  そして、講義が開始された。
  翌々年・1849年(嘉永2年)に、「学習院」の額(=勅
 額)が下賜されて、学習院の名称が定まった。
  経書を主とし、国書も講じた。
  その後、生徒の激減にともない、1868年(明治1年)に、
 明治政府は、これを大学寮代と改称して再興をはかった
 が、
  同年・1868年8月には閉鎖された(1867年閉鎖説あり)。
  1877年に至り、華族教育のために、東京神田錦町に華
 族会館運営の学習院として再建・開校され、
  1879年(明治12年)から児童・生徒の制服が定められ、
 これが日本で学校の制服を定めた最初といわれている。
  そして、この年・1884年(明治17年)、宮内省の管轄
 の官立学校へ移管された。
  翌年・1885年(明治18年)には、学習院の女子教科が
 廃止され、宮内省御用掛に任じられた下田歌子が中心と
 なって、華族女学校が設立され、
  1906年(明治39年)、学習院に合併され学習院女学部
 となり、
  さらに、1918年(大正7年)、女子学習院として独立し
 た。
  その後、第二次世界大戦に至るまで、学制は、幾度か
 変更されたが、初等科、中等科、高等科を備え、高等科
 の卒業生は、帝国大学への入学資格を有していた。
  第二次世界大戦後の華族制度の廃止で、廃校さえ論議
 されたが、
  1947年(昭和22年)に、学習院に関する皇室令・宮内
 省令の廃止によって官立としての学習院が終わりを告げ、
  同時に、財団法人・学習院として再発足することにな
 った。
  そして、私立学校となり、
  女子学習院は、学習院女子部として吸収された。
  初代院長は、安倍能成(あべよししげ)であった。
  1997年(平成9年)に、短期大学部を改組し、学習院女
 子大学が設置された。
  2010年(平成22年)に、幼稚園から初等科、中等科、
 高等科までの一貫した教育体制をもつ総合学園となった。
  大学所在地は、東京都豊島(としま)区目白1-5-1
1844年4月17日、神戸又新日報が創刊された。
  神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう、1884年創刊
 ~1939年休刊)は、かつて存在した日本の日刊新聞で、
 兵庫県神戸市の「五州社」が発行した
  1884年5月19日、第1号を発刊し、創刊時の紙名題字は
 尾崎行雄によるとされている。
  立憲改進党系の政論新聞として出発した。
  1890年9月16日夜半、和歌山県串本町沖で遭難したオス
 マン帝国(現在のトルコ)の軍艦「エルトゥールル号」
 の遭難に際し、第一報を報じた「東京日日新聞」を含め
 た全国他紙に先駆けて、翌・1890年10月、義捐金活動を
 行った。
1884年4月、社会教化団体の東京修身学社が、日本講道会と
 改称した。
  〈形而上ノ理ヲ究メ〉〈道徳ノ教ヲ弘ム〉ることを目
 的として、〈講義、演説、著述、翻訳、問答〉をおもな
 事業とした。
  (参考)形而上:けいじじょう、
  1、形をもっていないもの。
  2、哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介
   した経験によっては認識できないもの。超自然的、
   理念的なもの
  (参考)形而上学:けいじじょうがく
  1、アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者た
   らしめている根拠を探究する学問。すなわち第一哲
   学または神学。
  2、現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存
   在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しよう
   とする学問。主要な対象は魂・世界・神など。
1884年5月1日、大阪商船会社が創立され開業する。
  日本の海運を支える創業であった。
  瀬戸内の船主による93隻の船を現物出資して設立され
 た。
  瀬戸内海では、1877年の西南戦争以降、戦後不況に突
 入した。
  たちまち激しい運賃値下げ、貨客の争奪競争が始まっ
 た。
  船主たちは、船体の修理もままならず、海難事故も頻
 発した。
  見かねた大阪府は、取締規則を定めて、船主の協調を
 促したが、協定破りも現れ、なかなかうまくいかった。
  そこで、当時の自主的協調機関であった同盟汽船取扱
 会社頭取・中原昌發(まさはつ)は、
  当時、愛媛県新居浜に居住していた住友家総理人の広
 瀬宰平を訪ね、群小船社を統合し一大船社を創立するこ
 との必要性を説いた。
  当初、老齢・病気を理由に、断っていた広瀬であった
 が、中原の熱心な説得の結果、ついにこれを引き受ける
 に至った。
  しかし、数多くの船主を取りまとめることは容易では
 なかった。
  船価の査定においては、船主のエゴがむき出しとなっ
 たり、
  苦情が噴出したり・・と、
  いったんは、査定中止とせざるを得ぬ事態となった(
 1883年(明治16年)4月)。
  広瀬は、これら船主の納得を得るため、あらゆる調整
 努力に奔走した。
  そのかいもあり、ようやく解決に至ることができた。
  しかし、また、定款の審議でも紛糾した。
  3日間を要したがまとまらず、創立委員側が、反対船主
 の条件に妥協し、障害を克服することができた。
  こうして、1884年(明治17年)5月、有限責任大阪商船
 会社は開業に漕ぎ着けた。
  資本金120万円。
1884年5月3日、英国東洋銀行横浜支店が、支払い停止とな
 った。
  明治期に「英国東洋銀行」と書かれたオリエンタル・
 バンクは、
  19世紀のイギリス植民地のインドにあった植民地銀行
 である。
  1842年、ボンベイで設立され、1893年に、恐慌で倒産
 した。
  独占的地位を占めていたこの銀行から、日本は、金を
 借りたが、
  利率が、15%~18.2%という、現在では考えられない
 くらいの高い利率であった(高利貸しクラス)
  日本も、1880年に、横浜正金銀行などを設立したりし
 た。
  横浜正金銀行は「準備金」をとおした正貨吸収に努め、
 政府も保護政策をし、また、日本銀行も信用供与し、対
 外金融機関としての役目を果たして行くようになった。
  また、わが国の各種金融機関も、金融基盤を固めて来
 て、外国への不合理な資金流出を防ぐ手立てが出来て来
 ていた。
.
  (今日の言葉)
.
  占領と侵略:日本は、正当な占領を満州で行なった。
.
  ロシアと中国(清国)の条約が存在していた。
.
  アメリカは、大東亜戦争(第二次世界大戦)で戦勝し
 た。
  日本に勝って日本を占領した。
  「占領した」と言われている。
  しかし、これは・・「アメリカが侵略した」と言える
 のだ(または、言える可能性が十分ある)。
  日本は、「満州を侵略した」となっている。
  ならば、アメリカも・・「日本を侵略した」となるか
 らだ。
  第二次世界大戦後で、アメリカのプロパガンダで、日
 本は何しろ悪かったと言われている・・が、しかし・・
 ・・?
  日本は、日露戦争で戦勝し、戦争に勝って満州を占領
 した(侵略ではない)。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)で、アメリカが、日本
 を占領したのと同じである。
  あの日露戦争は、ロシアとだけと戦っていたのではな
 い。
  中国とも戦っていた。
  日本は、その中国に戦勝し、その結果、満州を占領し
 たのである。
  第二次世界大戦で、アメリカが、日本を占領したのと
 同じである。
  中国は、ロシアとの条約で、日本とロシアが戦ってい
 るとき、「ぼけーっ」としていられたのではない。
  「ぼけーっと」していられなかった。
  中国は、ロシアとの条約で、『戦う取決め』をしてい
 るからぼけーっとしていられなかった。
  日本は、そのロシアと中国と戦った。
  日本は、「中露同盟軍」と戦った。
  この条約は秘密にされていたので、あまり知られてい
 ないが、
  『中国は、れっきとした対戦国』だった。
  戦勝した日本は、「第二次世界大戦で、アメリカが日
 本を占領した」のと同じに、満州を占領した。
  『侵略でも何でもない』。
  国際法にのっとった占領行為である。
  アメリカの、戦後のプロパガンダで、日本は悪くされ、
 「侵略なのだ」とされてしまった。
  日本は、アメリカが世界を手玉に取り、そして、音頭
 を取った包囲毛に囲まれて、やむを得ず、やむを得ない
 戦争に至ったが・・、
  この戦争の終了後も、アメリカは、そのつじつま合わ
 せの嘘を言い、プロパガンダを言っている。
  日本は、まったく、事実でない事を言われている。
  占領したアメリカ、強い立場のアメリカは、弱者の日
 本をいいように、それをプロパガンダしている。
  アメリカは、西部を、インディアンの方々の、先住民
 の方々の土地を奪った時も、自分たちは正義だと・・勝
 手な、自分勝手な事を言って土地を奪った。
  キリスト教の論理を持ち出した・・、
  そして、メキシコの土地も卑劣な方法で奪った。
  太平洋に至れば、太平洋の島々を奪い、
  フィリピンを奪い、
  そして、中国に至って・・日本とぶち当たった。
  際限を知らないアメリカの欲が、中国で展開された。
  限りないアメリカの帝国主義の侵略とぶち当たった。
  そして、世界を手玉にとって、日本を孤立させる方針
 でやって来た。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
  ロシアまたは中国(清国)のいずれかが、日本と戦争
 になったら、他方が軍事援助をする。
  中国(清国)は、日清戦争の敗戦を非常に悔しい思い
 でいた。
  中国(清国)は、日清戦争終結の翌年・1896年、ロシ
 アとこの条約を結んで、日本への復讐戦をしたいと企図
 (きと、あることをくわだてる)していた。
  そして、日露戦争の時、中露同盟軍となった。
  日本は、その『中露同盟軍』との戦争に勝ち、アメリ
 カの日本占領と同様に、満州を占領した(侵略ではない)
..
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2016年8月5日金曜日

(増補版)394E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年3月)

題:(増補版)394E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年1月26日、哲学会
  井上哲次郎、三宅雪嶺、西周(にしあまね)らが、東
 京大学哲学科の卒業生を中心に、哲学会を結成した。
  哲学会は、日本の学術研究団体のひとつで、
  ドイツ哲学中心の官学アカデミズムの濃い団体だった。
  哲学のみならず、歴史学、文学など幅広い領域を対象
 にしていたが、しだいに、東京大学哲学研究室を基盤と
 した哲学専門誌となった。
1884年1月、江戸町に石油会社が開業した。
  石油ランプの普及が始まった。
  当時の家庭用の石油ランプは、灯油価格が、菜種油に
 比べて半値であった事と、
  明るさも、はるかに明るかったので、急速に普及した。
  1872年には、初めて、横浜の神奈川県庁付近の街灯に
 ガス灯がともった。
  因みに、石油と石油ランプが、商品として輸入されて、
 日本に入って来たのは諸説があるが、1860年頃と言われ
 ている。
  1866年に結ばれた条約で、灯台航路標識の設置がある
 が、
  このため、イギリスより洋式灯台ランプが購入されて
 いる。
  また、石油については、日本書紀にも「燃える土」と
 「燃える水」が、
  天智天皇に献上されたと記されている。
  日本初の石油会社としては、1871年にできた長野石炭
 油会社がある。
  1867年(明治元年)の石油の輸入量は121キロリットル
 で、
  1875年(明治8年)は、10,000キロリットルを越え、
  1894年(明治27年)には、20万キロリットルに達して
 いる。
  因みに、日本石油(株)は、1888年(明治21年)に、
 設立されている。
1884年2月2日、黒田清輝(くろだせいき)が、渡欧して法
 学を学ぶために、横浜を出発した(~1893年)
  のちに、画家に転向した。
  パリで、画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に
 出会い、
  1886年に、画家に転向することを決意し、ラファエル・
 コランに師事した。
1884年2月5日、農商務省が、塩業諮詢会を神戸で開催した。
  因みに、この年に、「興業意見(こうぎょういけん)」
 という意見書が出された。
  農商務省大書記官・前田正名(まさな)編纂(へんさん)
 の農工商業の実情調査報告と、停滞の原因、将来の振興
 策を述べた意見書(殖産興業に関する論策)で・・、
  府県に、地方勧業要務に関する実情データを収集させ、
 本省の資料と合わせて編纂したもので、
  外国の制度文物の輸入よりも、在来産業の保護・整備
 が富国策だと主張した。
  この意見書は、松方財政に批判的だった。
  また、この意見書は、非常に労作で、
  当時の産業計画の根幹となった歴史的文献となってお
 り、
  本書は、農談会、勧業諮問会の開催や農区視察員の派
 遣などを通じて準備が進められたもので、
  秩禄、金禄公債の所有の移動、士族の商法、および、
 帰農開墾の失敗事業、土地売買解禁後の農地移動状況、
 明治前期の物価変動状況、地租改正後の農家の経済状態
 などが、
  松方財政下の不況のなかで、各地の農工商業の実情を
 調べて、貴重なことが述べられている。
1884年2月8日、海軍省軍務局を、軍事部として改組した。
  軍務局(ぐんむきょく)は、日本の陸軍省・海軍省に
 設置されていた軍政担当部局で、
  軍務局は、軍政を管轄するとともに、
  省の政策形成、及び、兵員・予算を獲得することが最
 も重要な役目。
  軍務局長は、大臣・次官に次いで政治折衝の中心的な
 地位にあった。
  ただし、軍の公式な見解としては、軍務局、及び、同
 局長の政治への関与は、国務大臣の一員である軍部大臣
 の補佐を目的とした限定的なものであり、
  局長自身の権限によって行うものではないとされてい
 る。
1884年2月15日、学齢未満の幼児の小学校入学を禁じ、幼稚
 園設立を奨励した。
  小学校に、学齢未満の幼児が多数在籍していたため、
 1884(明治17)年に、学齢未満児の小学校への就学を禁止
 する通達が出された。
  1872年(明治5年)9月4日に、学制(日本の最初の近代
 的学校制度を定めた教育法令)が公布されたが・・、
  それ以後、経済的困窮から就学出来ない子供や、小学
 校に学齢未満の幼児が多数在籍していた。
  1882年に、文部省は、貧困層や労働者子弟を対象とす
 る簡易幼稚園(貧民の方たちのための幼稚園)を奨励し
 た。
  「貧民力役者等ノ児童ニシテ父母養育ヲ顧ミルニ暇ア
 ラサルモノ皆之ニ入ルコトヲ(奨励)」
  しかし、この普及は、あまり進展しなかった。
  学齢未満幼児の就学者対策としての幼稚園の設置が促
 されて行った。
  そして、この年・1884年に、学齢未満児の小学校への
 就学を禁止する通達が出された。
  この通達を契機として、幼稚園数も徐々に増加して行
 った。
1884年2月15日、朝鮮で、初めて電信取扱が開始された。
  日本によって設置され、運営された(日本~釜山間)。
  世界へつながる電信経路の一つとなった。
  1871年には、ロシアのウラジオストク~長崎(海底ケ
 ーブルの敷設)
  シベリア経由でヨーロッパ、さらに、大西洋横断電信
 ケーブルを経てアメリカとも通信可能となった。
  1873年、東京~長崎に回線がひかれ、東京から海外と
 の通信が可能となった。
  1880年には、日本国内の大都市間がつながり、
  1890年頃には、全国の県庁所在地がつながった。
  因みに、1879年には、165万通の電報が打たれている。
1884年2月16日、陸軍卿・大山巌が、川上操六・桂太郎両大
 佐を従え、欧州兵制視察のため横浜を出発した。
  川上操六は、この時、欧州各国の兵制を視察し、
  1887年には、乃木希典と共に、1月から1年半、ドイツ
 に留学し、
  モルトケ、ワルデーゼーから、直接、軍事思想を学ぶ
 機会を得て兵学を学び、
  日本陸軍の兵制を、フランス式からドイツ式に転換す
 る重要な役割を果たした。
1884年2月17日、梅ケ谷藤太郎(初代)が横綱となった。
  1879年1月場所の新大関昇進を挟んで、
  1880年5月場所でも全勝を挙げた。
  この間、1876年~1881年にかけて58連勝を記録し、若
 嶌久三郎に敗れて記録が一度止まるも、
  1884年5月場所まで、35連勝を記録した。
  同年・1884年2月に、横綱免許を授与された。
  1884年3月に行われた明治天皇陛下の天覧相撲では、伊
 藤博文が用意したまわし(自前のまわしが間に合わなか
 ったという)で土俵入りを披露した。
1884年2月24日、第一国立銀行と朝鮮政府の間で、朝鮮開港
 場における海関税取扱に関する条約に調印した。
  第一銀行釜山支店主任の大橋半七郎は、朝鮮総税務司
 パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフと、海関税取
 扱条約を締結した。
  因みに、第一銀行の前身は第一国立銀行で、1884年に
 は、李氏朝鮮(後の大韓帝国)と契約して、関税取扱業
 務を代行した。
  そして、後に、民間銀行でありながら、同国の中央銀
 行の業務を代行した。
1884年2月、フェノロサが、古美術絵画を鑑定する鑑画会を
 興した。
  フェノロサは、この年、政府から宝物調査団に任命さ
 れている。
  そして、文部省職員になっていた岡倉天心と、再び、
 奈良や京都の古社寺の調査をした。
  そして、重大な発見を数々した(国宝:救世観音の発
 見など)
1884年3月2日、旧岡山藩主庭園「後楽園」が公開された。
  この年、池田家から岡山県へ移管されて、一般公開と
 なった。
  総面積:133,000平方メートル
  残念なことに、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲
 によって、延養亭など、江戸期から残されていた園内の
 建造物の多くが焼失した。
1884年3月3日、茶業組合準則が制定された。
  因みに、茶業組合規則は、1890年に制定されている。
  現:公益法人・日本茶業中央会
  目的:
  お茶の振興に関する基本的方策を樹立し、
  安全で良質な茶の需給関係の総合的改良発達を推進す
 るとともに、
  茶文化の振興を図ることにより、
  茶業の健全な発展、及び、国民生活の豊かさの向上実
 現に寄与することを目的とする。
..
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2016年8月4日木曜日

(増補版)393E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)393E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、その他:
・上野~熊谷間の鉄道が開通した。
  そして、この7年後の1891年9月1日に、現在の東北本線
 全線(上野~青森間)が開業した。
  素晴らしい日本の技術力、明治の方々の功績だった。
・佐久間貞一が、活版工組合を設立した。
  この時は、草分け的な、組織化の労働運動の試みであ
 った。
  この様な試みは、1889年、1890年と行われたが、
  この活版工組合(かっぱんこうくみあい)などの職種
 別組合が組織化できたのは・・、
  1899年11月に、約2000名の印刷工を組織したときだっ
 た。
  この時、関東地方から近畿地方にかけて支部が存在し
 た。
  しかし、翌年・1900年(明治33年)に、治安警察法の
 公布の前後から、経営者側の態度が硬化して、組合を離
 脱するものが増え、急速に衰えて行った。
  そして、1900年5月に、活動停止となった。
  鉄工組合、日本鉄道矯正会と並んで、日本における黎
 明(れいめい)期の労働組合組織を代表する事例。
・換券発行(氷川清話)
  この年に、兌換銀行券条例が公布された。
  この条例によって、日本銀行は、銀本位制の下で、銀
 と交換ができる「日本銀行兌換銀券」を発行した。
  1897年(明治30年)に、金本位制を採用し、金兌換券
 (日本銀行兌換券)となった。
  そして、1931年(昭和6年)に、日本銀行券の金兌換は
 停止された。
  そして、1942年(昭和17年)に、日本銀行法が制定さ
 れ、兌換制度が廃止された(管理通貨制度への移行)
・勝海舟、皇居炎上の時、金・300両を献納したため、銀盃
 一個下賜(氷川清話)
・勝海舟が伯爵になる。
  華族に対し、公・侯・伯・子・男の爵位にわけた。
  また、旧公家や旧大名だけでなく、維新やその後の功
 労者にも爵位が与えられた。
  赤坂の氷川神社の近くに住む勝海舟が、伯爵を賜った。
1884年1月4日、官吏の恩給令が公布された。
  恩給局が設置された。
  恩給制度は、1875年(明治8年)の太政官(だじょうか
 ん)や、「陸軍武官傷痍(しょうい)扶助及死亡ノ者祭粢(
 さいし)並其(その)家族扶助概則」、および、「海軍退隠
 令」によって陸海軍人を対象として発足した。
  そして、この1884年に、「官吏恩給令」によって、文
 官にも支給されるようになった。
  この他に、学校教職員、警察官などに対する恩給制度
 も制定された。
1884年1月4日、官吏非職条例が制定された(太政官達3号)
  第一条、官吏判任官以上並ビニ出仕御用係モ之ニ準ズ
   奉職中 各官庁ノ事務張弛其他疾病等ノ事故ニ因リ
   本属長官ハ其僚属ノ官吏ニ非職ヲ命スルコトヲ得但
   勅任官ノ非職ハ上裁ニ依リ奏任官ハ太政大臣ノ認可
   ヲ経テ之ヲ命ス・・
  第五条、(制定当初、非職中ノ俸給ハ現俸三分ノ一ヲ
   支給スと規定したが、明治24年)年勅令23号で削除
   した。
    政費削減の観点から、職務に従事しないにもかか
   わらず俸給を支給するのはおかしいということが問
   題とされた。
    但し、経過措置によって、同年4月1日現在の非
   職者については、俸給の4分の1に限り支給するこ
   ととされた)
1884年1月4日、賭博犯処分規則が制定された(太政官第1号
 布告)
  旧刑法の賭博罪の規定を停止し、博徒に対する徹底取
 締を図った。
  特に、幕末に、諸藩の統制力が弱まって、各地で公然・
 非公然に賭博が行われていて、それを一掃しようとした。
  1880年に制定された刑法(旧刑法)・治罪法(現在の
 刑事訴訟法)は、
  フランスの法制の影響を受けて、最高でも重禁錮1年
 以下・罰金100円と軽微だった。
  また、現行犯のみに適用された(第260条-262条)。
  そして、治罪法は、夜間の家宅捜索を禁止していた。
  賭博は、夜間に行われる事が多かったので、政府の意
 思とは反対に、賭博は事実上の野放し状態だった。
  博徒達は、旧来から武装しているものも少なくなく、
 1882年に、安場保和から太政大臣・三条実美に提出され
 た意見書でも、
  博徒の中には、警察官を殺傷したり、法を巧みに利用
 して、警察官を不法侵入の罪に陥れる者がいると指摘さ
 れている。
  また、当時、高揚していた自由民権運動に反権力感情
 から参加する博徒も少なくは無かった。
  この法令によって、全国で、一斉に博徒の取締りが行
 われ、
  この年だけで、全国で、前年比25%増の約3万3千人が
 逮捕された。
  博徒達は、これを「大刈込」と呼んで恐れた。
  ところが、布告直前の太政官や内務省などの調査では、
 非常に多くの博徒がいる。
  例えば、群馬県は10万人と報告している。
1884年1月9日、大阪市東区の大火(1440戸焼失)
  (詳細説明済、前記を参照ください)
1884年1月23日、近衛兵に軍旗を授与した(1874年説あり)。
  因みに、近衛歩兵第1連隊(東京)は、1874年(明治7
 年1月20日)に編成され、
  同年・1874年1月23日に、軍旗を親授された。
  編成に際して明治天皇陛下より・・、
  「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旒ヲ
 授ク汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保
 護セヨ」との勅語を賜った。
  それに対し、連隊長が・・、
  「敬テ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」
 と奉答した。
  また、1871年(明治4年)に、東北鎮台第20番大隊(弘
 前町)が置かれ、
  1878年(明治11年5月1日)に、連隊が編成され、
  1879年(明治12年1月16日)に、軍旗が授与された。
1884年1月24日、太政官文庫が設置された。
  のちの、国立公文書館。
  内閣文庫の組織的な起源は、1873年に、太政官に図書
 掛が置かれ、
  太政官所管の図書を管理させたのに始まり・・、
  その後、1884年に、太政官は、太政官文庫の設立を政
 府の各官庁に通達し、
  政府が所有する和書や洋書などの図書一切を、太政官
 直轄で収集・管理させることとし、文書局記録課に所管
 させた。
  太政官文庫は、官庁の執務参考用図書を、一元的に管
 理する政府の専門図書館を設立の目的としていたが、
  政府の所有する図書を集中して移管させたために、
  旧幕府引継ぎの紅葉山文庫本をはじめ、和漢洋の貴重
 な図書の一大コレクションとしての性格も帯びた。
  1885年に、内閣制度の発足により、太政官は、内閣に
 移行し、文庫の名称も「内閣文庫」と改称された。
  書庫は、狭隘や、天災による損傷のため転々とした。
.
  (今日の言葉)
.
  『パクス・アメリカーナ』・・、
.
  『パクス・アメリカーナ』の旗を掲げてやって来たと
 いうが・・、
  パクス・アメリカーナという『超大国・アメリカ合衆
 国の覇権が形成する「平和」だというが・・?・・、
  その世界は・・どうなっているのだ・・??
  ローマ帝国の・・パクス・ロマーナ(ローマの平和)
 に由来すると言ったって、
  結局、腕力のある国が・・奴が・・「非情なる暴力」
 をふるってやる形になっている・・
  平和と言ったって、キリスト教の「シャローム」。
  違う考え方をする人たちを・・「異端」として、
  異端という捉え方をして・・異端と軽く捉えて・・
  安易に・・強烈な進んだ兵器で殺戮している・・、
  まさしく・・、
  キリスト教の歴史がこの様であったが、
  キリスト教の最高の会議だという「公会議」が・・
  この公会議というキリスト教の最高の会議でさえ、ロ
 ーマ法王の出席した会議でさえ、
  この会議が率先して・・、すぐに「異端だ」と判決し
 ・・「異端の殺戮をして来た」・・し続けて来た・・
  パクス・アメリカーナも、結局は、この様になった。
  数々の戦争があった・・、悲惨な戦争だった・・
  ベトナム戦争なんて悲惨の極みだった・・、
  パクス・アメリカーナは、このキリスト教の考え方の
 もとにあった。
  世界は、混乱が治まるどころか・・混乱は続き・・、
  何ら平穏な世界は来なかった・・、
  異端を殺戮し尽くして平和が来るというのは『妄想』
 なのだ。
  キリスト教のシャロームの平和は『ないのだ』。
  「平和」を求めたって・・この様な考えの下では平和
 はやって来ない・・、
  「世界の警察官」なんて言ったって、やっている事は
 警察官とはまったく違う行為だった・・、
  弱者を、自分の考えが正しいという基準で判定し、対
 象とした。
  結果は、殺しまくったと言える状態だけが現出した。
  「蛮行だけの結果」と言える結果が残る行為だった。
  イラク戦争の例を考えて見たって・・、
  「現代の十字軍だ」と言って・・近代兵器を使って・・
  戦いと、何ら関係ないイラクの方々が殺されて・・、
  警察行動だなんておくびにも言えない状況の中で・・、
  また、アメリカの若者たちが死んだ。
  言う事も、自分たちを「主人とした発言」で・・
  だから、自分たちの都合の良い事ばかりで・・、
  「大量破壊兵器があるから・・」と侵略し・・、
  その国の長を捕らえ・・、形ばかりの裁判の後の死刑
 (私刑)。
  まったく大東亜戦争(第二次世界大戦)の東京裁判の
 私刑・茶番劇と同じことをしている。
  お粗末な事に・・学者の間では・・東京裁判なんて、
 国際裁判の参考事例にもされない「お粗末さ」なのだ・・
  結局、イラクには大量破壊兵器はなく・・、
  アメリカの蛮行だけの罪が残った。
  そして、さらに、アメリカの罪は、この時に解体され
 たイラク軍隊が・・そして、将校たちが・・ISIL・イス
 ラム過激派組織(自称:イスラム国)となって・・、
  今・現在も、世界を大きく不安に陥れ、
  そして、多くの人々が殺されている・・死んでいる。
  この遠因を作ったのが、この時のアメリカの自分勝手
 な暴力・戦争にあった(警察権行使ではない)
..
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2016年8月3日水曜日

(増補版)392E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)392E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年、流行:
・海水浴場の開設(1885年説など、各説あり)
  海水浴場の発祥地は、大磯という通説がある。
  大磯海水浴場の開設は、陸軍軍医総監の松本順が、か
 ねてから海水浴に注目していた。
  海水浴の適切な海岸を探していた。
  1884年(明治17年)に、大磯の海浜が海水浴に適する
 ことを発見した。
  地元の有力者に、海水浴の効能と、海水浴場の開設が
 大磯の発展に力を添えると説いた。
  翌年・1885年に、開設に至った。
  一方、富岡(横浜市金沢区)、保田(千葉県安房郡鋸
 南町)、二見が浦(三重県度会郡)、鎌倉など、「海水
 浴発祥の地」を標榜している地域は少なくなくない。
  片瀬海岸では、明治初期に、早くも外国人の海水浴が
 行なわれていたことが知られている。
  富岡は、1877年(明治10年)に、慶珊寺にアメリカ人医
 師のヘボンが逗留し、宮の前海岸で海水浴をしたと言わ
 れている。
  ヘボンは、リュウマチの治療に富岡の海水浴に来たと
 されている。
  このヘボンに影響されて、居留地の外国人が富岡に多く
 訪れたという。
  富岡が、外国人の海水浴場や、保養地として利用され、
 横浜の居留地で暮らす外国人の夏を過ごす恰好の地とな
 った。
  そして、1885年~1887年(明治18年~明治20年)頃に、
 湘南海岸の各地に、相次いで海水浴場が開設された。
  海水浴場ではないが、海水浴をしたという記述は、も
 っと時を遡(さかのぼ)る例がある。
  1872年(明治5年)、フランスの法律家ブスケは、カタ
 シエ(片瀬)で、夕食前に海水浴をしたとある。
  1876年(明治9年)には、フランスの東洋学者エミール・
 ギメも、片瀬の海で海水浴をしている。
  また、1877年(明治10年)に、アメリカ人エドワード・
 モースが、江の島で海水浴を行なったとされる。
  また、ドイツ人医師ベルツは、1879年(明治12年)、
 内務省の役人から、海水浴場に適する地について諮問を
 受けたとき、片瀬を適地として推薦している。
  日本最初の海水浴の公式記録は、1880年(明治13年)、
 大阪鎮台の兵士が、脚気治療のため、明石海岸で行った
 とある。
  また、「横浜もののはじめ」という資料には、1882年
 (明治15年)頃、外国人をみならって、日本人も海水浴
 を始めたとある。
  この地は、現在の「新山下町地先」という。
・蝙蝠傘:伊勢参りに不可欠の菅笠(すげがさ、すげの葉
 で編んだ笠)を被る者が少なくなる。
  今・現在、傘を「洋傘」とか「コウモリ傘」という人
 もほとんどいないが・・、
  「和傘」という日本の傘と、イギリスやイタリアから
 輸入された「西洋傘}があった。
  そして、日本には、古く、仏教伝来とともに傘蓋(さ
 んがい)が伝わってきた記録がある。
  欽明天皇13年(552年)に、百済の聖明王の寄進によ
 って、金の仏像、仏教書などとともに蓋(きぬがさ、法
 会のとき、高僧の歩行に際し、その上にかざす笠状のも
 の)が伝えられ、
  以来、布を張った長柄の傘が、きぬがさの名で、貴族
 や僧侶などの上流階級の間に広まった。
  そして、西洋傘が、日本に渡来したのは1804年(文化
 1年)に、長崎に入港した唐船が運んで来たとある。
  唐船の船載品目に「黄とんす傘1本」とある。
  形態は不明だが、記録としては最も古い。
  長崎の歴史のある洋傘店には、「唐傘」「南京傘」と
 いう言葉がある。
・和紙製ハンカチーフ:外科医が傷口を拭うのに衛生的で
 あるとして外国で重宝された。
  「日本人の清潔」というのは外国でも有名だった。
  鼻をかむチリ紙が関心を集めた。
  西洋人は、布製のハンカチで何度も使って不衛生であ
 った。
  不潔なハンカチをポケットに入れて持ち歩く西洋人は、
 日本人から不快のかたまりだった。
  日本は、紙文化が発達した清潔好きな民族だった。
  『シュリーマン旅行記 清国・日本』で、 ハインリッ
 ヒ・シュリーマンは言う・・、
  「日本人は、男性や女性も、服の袖の中にポケットが
 ついていて、
  そこには、はなをかむための和紙[懐紙]を入れている。
  彼らは、この動作をたいそう優雅に行なう。
  彼らは、われわれが、同じハンカチーフを何日も持ち
 歩いていることに、ぞっとしている。
  また、『江戸幕末滞在記』フランス海軍士官スエンソ
 ン(慶応2年、 1866年来日)には・・、
  日本人の清潔好きは、オランダ人よりはるかに発達し
 ていて、
  これは家屋だけでなく、人物一般についてもいえるの
 である。
  仕事が終わってから、公衆浴場に行かないと一日が終
 わらない。
  公衆浴場で何時間も湯を浴び、下着を洗っておしゃべ
 りの要求も満足させる。・・・
  西洋人は、一日中不潔なハンカチをポケットに入れて
 持ち歩く。
  それが(日本人は)どうしてもわからぬというのであ
 る。
・ネクタイが作られる。
  帽子商の小山梅吉の手により、国産の「蝶ネクタイ」
 の第一号が誕生した。
  1884年10月1日の製造開始を記念している。
  小山梅吉は、中古市場で見つけた細長い布に目が引か
 れ、一本買求め、これを見本にして帯地を裁断し、ネク
 タイを作ったという。これが、最初のネクタイ。
・万年筆が売り出された。
  横浜のバンスタイン商会が、初めてアメリカ製の『カ
 ウス・スタイログラフィックペン』を輸入した。
  そして、丸善で販売された。
  そして、翌年・1885年に、丸善の「引き札」ちらしに、
 初めて「万年筆」の文字が出た。
  当時は、カウス・スタイログラフィックペン(針先万
 年筆)とダッシュアウェイ・フォウンテンペン(金ペン
 付き万年筆)の双方を「万年筆」と呼んでいた。
  因みに、この年に、アメリカのウォーターマンが万年
 筆の製品化に成功とある。
・男子に和服用の外套「二重回し」、
 そして、上流婦人に、洋服や西洋風の髪型「夜会巻」が
 流行した。
  二重回しとは、男性用の和装防寒コートで、ケープ風
 の袖がついている。
  また、夜会巻は、着物や浴衣などの和服の時も活用で
 き、上品さと華やかさを演出でき、うなじが見えるので
 色香のある大人っぽい雰囲気にもなると説明されている。
1884年、演劇:
・文樂座:大阪御霊神社境内に移転した。
  文楽座は、御霊神社の境内に移り、「御霊文楽座」と
 して全盛を誇り、
  他の人形浄瑠璃の劇場は次々と潰れていき、唯一の人
 形浄瑠璃の劇場となった。
  ここから、人形浄瑠璃を、以後、「文楽」と呼ぶよう
 になった。
・東京猿若座:浅草鳥越町に移転した。
  新劇場を、浅草西鳥越町(にしとりごえちょう、現在
 の鳥越)に新築し、これを猿若座(さるわかざ)と改称
 した。
1884年、スポーツ:
・1884年3月10日:東京の芝の延遼館の裏庭で、初めての
 天覧相撲が開催され、
  明治天皇陛下が、相撲を熱心に観戦された。
  延遼館(えんりょうかん)は、日本初の西洋風石造建
 築物で、
  幕末に幕府の海軍所施設として建造された建物が基礎
 となっている。
  1869年(明治2年)に、浜離宮内の迎賓館として整備さ
 れ、多くの国賓を迎えた。
  1892年(明治25年)に、解体された。
  そして、2020年の東京オリンピックに合わせて、延遼
 館を、浜離宮内に復元される事が決定した。
・1884年10月:不忍池に競馬場:東京・上野公園の不忍池
 に競馬場ができた。
  1884年11月1日より、農商務省から7年間の借地を認め
 られた共同競馬会社の主催により、
  第一回不忍池競馬(秋季競馬)が開催された
  1884年から1892年まで開催された。
  不忍池を周回するコースで行われてたが、
  馬券は、発売されずギャンブルとしての開催ではなく、
 屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典であった。
  明治天皇陛下をはじめ、華族、政府高官や財界人を含
 む多くの観衆を集め、華やかに開催された。
  不忍池の周囲を、11万7000円の整備費をかけ、
  天皇陛下の玉座、外国公使や政府高官、および、夫人
 たちの観覧席、華族の観覧席、上等客の席、コースの整
 備、馬見場(メインスタンド)、厩舎などを作り、国家
 事業的規模として行われた。
  馬主には、日本人だけでなく、外国人も多くいた。
  騎手は、招魂社競馬や、吹上競馬で活躍していた騎手
 がいたが、旧大名や士族、軍将校などもいた。
  屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で、天皇陛下をはじめ
 華族、政府高官や財界人を含む多くの観衆をあつめ、華
 やかに開催し、ひとえに、不平等条約の改正を目指す明
 治の涙ぐましい行動だった。
1884年、災害:
・1884年1月9日~10日:大阪本町で大火、焼失1500戸。
  「大阪明治17年の大火『本町曲がり焼』
  大阪の東横掘川は、本町橋と農人橋との間で、東西に
 少しずれているが、ここを本町の曲がりと言っていた。
  夜11時ごろ、ここの路地裏から出火した。
  延焼か所は、北は内本町通、南は両替町まで、東は善
 庵筋に及び、翌・10日午前6時に鎮火した。
  3人死亡、家屋焼失935戸、土蔵90棟、神社、寺院各2か
 所が焼失した。
・1884年11月7日~8日:盛岡で大火、焼失1800戸。
  盛岡明治17年の大火、豪商家の自衛消火活動生きる。
  午後2時半、下の橋ぎわの盛岡監獄署(刑務所)内の物置
 より出火した。
  折から西風が烈しく吹きまくり、塀を越えて飛び火し
 馬場小路の二、三の茅葺き屋根に移り、
  さらに、県令(県知事)邸(新渡戸稲造生家)と盛岡学校
 へと飛び火した。
  両建物とも茅葺きだったので、火勢を一気につのらせ、
 炎を市街地へと引き込んだ。
  まず、周辺の阿南地区を総なめにし、
  炎の勢いは、六日町、穀町、馬町、十三日町と次々と
 延焼、寺の下から餌差小路へと延び、
  呉服町の一部、肴町、葦手町の一部、生姜町と灰にし
 ていった。
  その後も、炎の勢いはとどまることを知らず、
  八幡町、同片原、志家の一部、小人町、川原小路など、
 江戸時代からの盛岡の中心部・河南地区のほとんどを、
 焦土として、
  翌・8日午前4時ようやく鎮火した。
  焼失したのは、家屋1432戸、土蔵46棟、学校3校、神社
 6か所、寺院10か所、その他の建物300余棟。
  江戸時代からの豪商、糸治(中村家)と木津屋(池野家)、
 両家の自衛消火活動によって、
  新穀町から惣門通にかけての東側の町並みが火災から
 逃れることができた。
  火災から逃れた建物などは、現在、国指定重要文化財
 や岩手県指定有形文化財に指定されている。
..
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2016年8月2日火曜日

(増補版)391E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)391E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、論・新聞・本・文学・出版:
・ 「國教論」(元田永孚・もとだながざね)
  元田永孚は、明治天皇陛下の御侍講となった。
  そして、教育勅語の草案作成に尽力し、
  1890年に、井上毅と協力して起草した。
・ 「社會學之原理」(著:スペンサー/訳:乗竹孝太郎)
  イギリスの非英国国教会(非国教徒)の家に生まれた
 スペンサーの書いた著。
  生物学において取り入れられつつあった『進化論』を、
  取り込んで作られた社会理論の『社会進化論』の概念
 にある。
  「適者生存」という言葉はダーウィンでなく、スペン
 サーの造語。
  社会だって生物とおんなじだ・・、
  他者と競い合いながら、適者が淘汰を経て、上昇して
 いくのだ・・とした。
  そして、完全社会へ至るのだとした・・
  具体的には、軍事型社会から産業型社会へと進化して
 行くとした。
  「そんな単純な社会ではないですよ」と言いたい。
・ 「富國論」(著:アダム=スミス/訳:石川暎作)
  自由放任主義の経済を説く。
  「見えざる手」や「安価な政府」の観点が展開される。
  「見えざる手」なんて言って、放任していたら、市場
 が大混乱したときがあったなー。
・ 「春窓綺話」(原・湖上の美人)(著:スコット/訳:服部誠一
 (実際は坪内逍遥ら)
  坪内逍遥・高田早苗・天野為之が、服部誠一先生の名
 前を借りて、訳した痛快歴史ロマン。
・「日本人種改良論」(著:高橋義雄)
  西洋への過度の憧れをいだき、英語の習得につとめる
 などという論。
  体格的にも日本人より大きく、だから、日本人は劣っ
 ているなどという論。
  日本と西洋との格差は文明・科学だけでなく、人間個
 々の人の知力にも差があるという論。
  こんな・・何でも西欧讃美から・・キリスト教はいい
 のだと盲目的に追従して行った・・真の実態を知らずに
 追従して行った・・なんでも西欧は素晴らしいの単純論。
・「歌學論」(末松謙澄、すえまつけんちょう)
  末松謙澄は、明治・大正時代のジャーナリスト・政治
 家・歴史家。子爵。帝国学士院会員。
  伊藤博文の意向を受けて、歌舞伎の近代化のため福地
 源一郎・外山正一と共に、演劇改良運動を興し、
  明治天皇陛下の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させ
 た。
  日露戦争が勃発すると、伊藤博文を含めた政府・元老
 達から、ヨーロッパに対する日本の立場を説明し、好意
 的な世論形成、および、日本への悪感情を和らげるため
 黄禍論の拡大防止を含めた広報活動につとめた。
  イギリスとフランスを主として、戦争に対する日本の
 弁護論と、偏見に対する反論演説を展開した。
  この効があって、1905年までに黄禍論は沈静化した。
  そして、このことを政府に打電しつつ、なおも、ヨー
 ロッパに留まり、新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、
  1906年2月に帰国、
  海外での功績が認められ、3月に枢密顧問官、
  翌・1907年に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれ
 た。
  スペイン風邪に罹患し、1920年に死去。享年65歳。
・ 「文明東漸史(ぶんめいとうぜんし)」(著:藤田茂吉)
  記述内容に・・
  長英すでに獄を脱してまた帰らず、幕府骨相を写し、
 人を各地に派して探索すれども、その所在を知ることあ
 たわず、あるいは言う故郷なる水沢を経て蝦夷・・云々
  そして、東京大学の論文「明治維新の史学史」に、以
 下の記述がある・・、
  民間での維新史論は、維新に関する議論という広い意
 味にとると、福澤諭吉の『文明論之概略』(1875年)や、
 田口卯吉『日本開化小史』(1877―82年)に始まる。
  前者に見えるように、「文明」を近代西洋文明と等置
 した上で、人類史を「未開」から「半開」をへて「文明」
 に至る「開化」・「進歩」の歴史と解し、その中に日本
 を置いて、未来のあるべき姿を考えようとした著作であ
 る。
  これらと同じ発想に立ちながら、具体的な歴史上の事
 件や問題を、史料を収集・解読した上で描いた最初の書
 物は、おそらく藤田茂吉『文明東漸史』(1884年)であ
 ろう。
・ 「自由燈」(今日新聞・こんにちしんぶん) 創刊
  9月25日創刊、 東京新聞の起源の夕刊紙。
  1884年9月に、小西義敬により夕刊紙《今日新聞》とし
 て東京で創刊された。
  初代主筆は、仮名垣魯文(かながきろぶん)
  都新聞に改題。国民新聞と合併し「東京新聞」となる。
・坪内逍遥訳『自由太刀余波鋭鋒』(じゆうのたちなごり
 のきれあじ)刊(5月)
  シェークスピアの原題「ジュリアス=シーザー」を坪
 内逍遥が翻訳したもの。
・井上勤訳『狐の裁判』刊(7月)
  『ライネケ・フックス』は、ゲーテによるフランスの
 「狐物語」の翻案作品。
  ゲーテの作品の中で、日本で一番最初に翻訳された。
  『禽獣世界 狐乃裁判』というタイトルで出版された。
  井上は、これを訳す動機として以下を言う・・、
  「狐の裁判を翻訳する動機は、独逸領事が、小生に、
 独逸の有名なる絵入原本狐の裁判を与へられ、
  しきりに、此の狐の裁判は、最も面白き小説にして、
 之を日本語に訳して出版せば、多数の読者を得ること疑
 ひなしと申され、
  領事親友の所持されし絵入小説を与へられしものに有
 之」・・と。
・三遊亭円朝作『怪談牡丹灯籠』刊(速記本の出版)
  牡丹灯籠(ぼたんどうろう)は、中国明代の小説集『
 剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』に着想を得て、
  三遊亭圓朝によって、落語の演目として創作された怪
 談噺。
・ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トゥエン)
  舞台は、アメリカのミシシッピー河。
  ミズリー州のハンニバルという小さな田舎町。
  泥棒の隠した金塊を探しに出るという、河の自然と冒
 険をテーマとした小説。
  逃亡奴隷のジムを自由州に逃がしてやるというテーマ
 もある。
  ヘミングウェイは、「すべてのアメリカ現代文学は、
 『ハックの冒険』の1冊をもって始まった」と言った。
  ハックの父は飲んだくれで、ハックに暴力を振るい、
 ある意味、ハックは奴隷(白人)だった。
  一方、ともに冒険をするジムも、自由のない奴隷(黒
 人)、
  この肌の色の違う、境遇の同じ二人が・・、
  ハックはジムの逃亡を手助けし・・そして、二人は
 自由の自然の世界へと飛び出して行った・・、
.
  (今日の言葉)
.
1941年4月、本当の日米開戦
  (日本へ奇襲をするアメリカ)
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた事実となっ
 ている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲は、こ
 の史実からも『ない』と言える。
  既に、日米は交戦状態にあったからである。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで・・、
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦した。
  れっきとした日米の戦争状態で、
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯な事をするアメリカであるが、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳するが・・、
  真珠湾では・・、日本が攻撃する前に、アメリカ軍が、
 先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃前に、アメリカが日本を攻撃して、
 戦端を開いていたのだ。
  このとき、『あれはクジラだった』と、またまた、ア
 メリカは言い訳したが・・、
  しかし、しかし、この中国のアメリカの日本攻撃を、
  最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与える』と
 いう命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしている
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である。
  アメリカの宣戦布告なしの開戦である。
  奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカが、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いうこと・・、
.
  そして、続きの(今日の言葉)
.
1942年、韓国人の日本軍隊への志願倍率が、この年に、56.5
 倍となった。
  朝鮮出身者で将校になる人も少なくなかった。
  日本人と、まったく同一であった。
  差別など一切なし。
  朝鮮出身の将校の下で日本兵が実際に戦ったのだ・・、
  陸軍大学校を出て、日本人と同じように戦犯の責任を
 問われた朝鮮出身の将校もいたぐらいだ・・、
  山本七平氏の著書『洪思翊(こうしよく)中将の処刑』
 のとおりである。
  イギリス植民地で・・、
  本隊が退却した後の陣地にグルカ兵が、可哀想に、イ
 ギリス兵に鎖で足を縛られ、銃を撃ち続けていた・・と
 いうことがあるが、
  イギリスは、植民地の兵を虐げていた。
  日本には、朝鮮半島出身だからと言って、その様な非
 人道的なことは、一切、無い。
  因みに、この韓国人の日本の軍隊への志願者は、年々、
 倍率が上昇した。
  韓国は嘘を言うが・・?
.
  そして、続きの続きの(今日の言葉)
.
1945年3月26日、沖縄戦が始まる(~6月23日)
  キリスト教の「完全抹殺の後に平和が来る」という
 『シャロームの教義・考え方』に影響されて、
  沖縄戦も始まった。
  これにマインド・コントロールされ、洗脳されたアメ
 リカの大統領・ルーズベルトは、
  大東亜戦争(第二次世界大戦)の1943年1月24日の「カ
 サブランカ演説」の時、
  「ドイツと日本の戦争する力を完全に破壊する」。
  「それまで決して平和はやって来ない」という演説は、
  イギリス首相のチャーチルはじめ、多くの批判を浴び
 た。
  このルーズベルトの非情発言の非情さ故に、反論は相
 次いだ。
  しかし、この考え方に、アメリカは、この後の方向性
 を大きく影響され、この方向性をとって行ったが、
  この『ルーズベルトとの宣言』ともなったこの方針発
 言は、各所から様々な批判を受けた。
  当時の、アメリカ国務長官のコーデル・ハルは、この
 言葉を聞いたときに言葉を失った。
  それはルーズベルトとの気付かぬ点に思いをはせたか
 らだった。
  そして、言った・・、
  「敵は、冷静な判断を無くし、絶望的な戦いを繰り広
 げ、結果として破壊されつくした敵国は、
  自ら復興できなくなり、
  最終的に、アメリカが、その責任を負わなくてはなら
 ない」・・と。
  無条件の降伏までの・・破壊を目ざしたルーズベルト。
  結果的に、その無条件降伏を、日本は、アメリカにさ
 せられた。
  このルーズベルトの考え方・方針は、イギリスやソ連
 から問題点を指摘された。
  しかし、ルーズベルトは、「原則を曲げる訳には行か
 ない」と・・頑固に訂正を拒んだ。
  しかし、このルーズベルトの『とことん、やっつける
 のだ』は、ルーズベルトの周囲を、アメリカを、最後ま
 で悩ませた。
  結局、ルーズベルトを継いだトルーマンも、ルーズベ
 ルトの方針を受け次いだ。
  そして、行きつく所まで行く、
  キリスト教の「シャローム」の考え方にマインド・コ
 ントロールされて、
  日米戦争は続いた。
  しかし、1945年3月26日~6月23日の沖縄戦で・・、
  手ひどい反撃を受けたアメリカは、その方針がぐらつ
 いた。
  アメリカ軍指導部は、無条件降伏にこだわらないとし
 た。
  そして、この方針にこだわらないで、条件の受け入れ
 を「了解する」とした。
  しかし、バーンズ国務長官は、『無条件降伏が原則』
 と激しく反発した。
  この頃、アメリカは、次世代の兵器の「核兵器の実現
 性」を手に入れていた。
  この時も、有色人種としての日本の命が、軽く見られ
 ていた。
  この観念も、キリスト教の教義・考え方にマインド・
 コントロールされていた。
  そしてまた、アメリカは、ドイツに対しても・・、
  傲慢にも、アメリカは、『ドイツは、牧畜農業国家に
 するのだ」と豪語した。
  日本の無条件降伏の『完全破壊よりはましだ』という
 のはおかしいか?
  何しろ、勝てば官軍の傲慢なアメリカだった。
..
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2016年8月1日月曜日

(増補版)390E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)390E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年、衣:
・官吏の服制が定まった。
  侍従職、及び、式部職の勅奏任官大礼服が定められた。
  5爵に区分するなどの「華族令の奉勅(ほうちょく、
 勅命を奉じること)」 、明治17年(1884年)7月7日、宮
 内省達が公布されたのに伴い、
  明治17年(1884年)10月25日の宮内省乙第8号達を以っ
 て有爵者大礼服が制定された。
  続いて、1884年10月29日に、太政官達第91号では、ガ
 ウン型の宮内官大礼服(侍従職・式部職の勅任官・奏任
 官)が定められた。
・鹿鳴館時代がはじまり、上流婦人の洋装がはやった。
  この明治の外交問題解決を目的に作られた鹿鳴館で、
 上層階級の方々は、欧米のバスルスタイルを取り入れた
 洋装化をし、
  これは、一部の市民へ、洋装化の浸透が起こった。
  バスル(バッスル)は、ヒップラインを美しく見せる
 ための腰当で・・、
  このバスルスタイルのドレスは、海外からの輸入に頼
 るだけでなく、
  洋装技術を日本人が習得し、着用された。
  柄においても、日本人に親しみ深い植物がらが多く、
 蔦を図案化した唐草模様を描いたりして、日本独自の、
 日本のものにしていた。
  また、和服の技術、和服地も利用された。
  また、この洋装化の取入れは、軍服などの制服が制定
 されたこともきっかけとなっている。
  また、政府にも、条約改正など、欧米を取り入れる姿
 勢から、和服を廃し、洋服を礼服にする動向があった。
  これ等が市民へも浸透した。
  また、これ等の世の風潮が、浮世絵に多く残されてい
 る。
  必死に伸びようとする健気な明治であった。
・織物不況の時であるが、綿ネル生産のみは高まる。
  松方デフレの関係で大不況・・、
  その影響で、綿ネル業界も大きな打撃を受け、粗製品
 が増加するなど業界は混乱した。
・都市で首巻すたれ、肩掛はやる。
・バリカンが輸入され始める(1883年説あり)
  頭髪早刈り機(バリカン)だという。
  19世紀中期に、セルビア人のニコラ・ビズミックが原
 理を考案。
  理容用バリカンは、米国の自動車会社のリンカーン社
 やキャデラック社を創業したヘンリー・リーランドが発
 明したとされている。
  1873年(明治6年)の徴兵令の公布で、入営した兵士の
 頭髪を、衛生上の理由から丸刈りとしたことが、日本で
 バリカンが広く普及する背景となったという。
  1883年(明治16年)に、フランス駐在の日本公使館書
 記官・長田桂太郎が持ち帰り、
  理髪師の鳥海定吉が、最初に使用して普及したと言わ
 れている。
  1884年(明治17年)12月4日の読売新聞に、バリカンの
 広告が掲載されるほど、日本で広く普及するようになり、
 男子に丸刈りが一般化するようになった。
・経木真田帽子の製作はじまる。
  経木真田(きょうぎさなだ)は、経木を細く切って真
 田ひものように編んだもので・・、
  夏帽子などの材料に用いる。
  経木(きょうぎ)は、薄い木の板のこと。
  材質は、主にスギ、ヒノキが使われる。
・足利・桐生に染色講習所をおく。
  紙製品において、大蔵省印刷局は、明治8年(1875年)
 イタリア、ドイツからの彫刻師・印刷師を招いて伝習生
 に印刷術を伝習させた。
  この伝習生らが、各地に移ってから銅版彫刻術、印刷
 術が急速に広がりをみせ、
  文字や精巧な模様・色彩が大量に印刷されるようにな
 った。
  石版印刷が一般に普及流行するようになるのは明治17
 年(1884年)ごろからであり、
  商品に貼付する商標ラベルにも用いられるようになっ
 た。
  そして、織物において・・、
  桐生・足利は、絹と洋綿の交織技術を確立し、
  明治10年(1877年)に、市川安左衛門、須永由兵衛ら
 による染色研究所が・・、
  明治12年(1879年)に、木村勇三らによる弘業会など
 の設立が相次ぎ・・、
  明治17年(1884年)には、染色講習所を設けて、農商
 務省技師・山岡次郎を招いて、
  機業家子弟に、新しい染色法を授け、
  新規な織物意匠を織り出すことに力を注いだ。
  意匠登録第1号は、織物縞の意匠であったが、意匠登録
 第100号までのうち、43件がこの織物に関するものであり、
  また、明治22年~31年の登録では、物品類別中、「織
 物及他類ニ属セサル織物製品」の意匠が最も多い(年平
 均14件)。
  このことは、我が国の意匠の保護(意匠登録出願)利
 用が、織物産業に端を発したことを物語っている。
1884年、食:
・三ツ矢サイダーの販売開始
  三ツ矢サイダーは、アサヒ飲料の炭酸飲料〈サイダー)
 であるが、
  摂津能勢で、天然炭酸水を利用し平野水の製造を始め
 た。
  三ツ矢サイダーは、明治時代に、宮内省が、兵庫県多
 田村平野(現在の川西市平野3-23-1)の平野鉱泉を用い
 て炭酸水の御料工場を建てたことから始まった。
  その後、工場は、三菱に払い下げられ、明治屋が権利
 を得て、
  1884年に、「三ツ矢平野水(みつやひらのすい)」と
 して販売した。
  平野水は、夏目漱石の『行人』、『思い出す事など』
 にも登場する。
  因みに、「三ツ矢」は、源満仲の故事から。
  1907には、「平野シャンペンサイダー」が、
・大阪師団で、白米病といわれる脚気患者多く、麦飯にあ
 らためた。
  明治期、日本で、脚気の流行が国家的問題となった。
  1950年代の後半になって、やっと、脚気死亡者数が、
 1千人を下回った。
  日本国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、
 1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、
 1965年(昭和40年)92人と減少した。
  脚気は、ビタミンB1の欠乏により起こる病気で、
  倦怠感 (けんたいかん) ・手足のしびれ・むくみなど
 から始まり、末梢神経の麻痺 (まひ) や心臓衰弱を呈す
 る。
  かつて、日本で国民病とされた。
  因みに、脚気衝心(かっけしょうしん)は、脚気に伴
 う心臓機能の不全で、
  呼吸困難となり、苦悶(くもん)して死に至ることが多
 い。
  1975年(昭和50年)に至り、脚気が再燃し、原因には
 砂糖の多い飲食品や、副食の少ないインスタント食品と
 いったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分
 かった。
1884年、住:
・宮城県古川町で、土管により小規模の上水道が竣工した。
  日本の近代的水道としては、1887年(明治20年)10月
 17日に、横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりと
 されている。
  しかし、日本では、16世紀半ば、北条氏康の小田原支
 配時に、早川から水を引き、小田原城下に飲用として供
 した小田原早川上水が、最古の水道と考えられている。
  また、1600年頃の江戸の都市建設のために、
  井之頭池から引いた神田上水をはじめ、その後、玉川
 上水、千川上水などが江戸の町に引かれていった(後に
 青山・亀有(本所)・三田の3つを加えて「六上水」と称
 した)。
  現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問
 題点があったものの、
  当時、世界でもっとも進んだ設備を有していた。
  そして、日本で、最初に、本格的都市型、埋設式上水
 道を敷設したのは、讃岐高松藩と言われている。
  藩主松平頼重は、玉川上水より9年早い寛永21年(1644
 年)、
  矢延平六に命じて、高松城下に、配水枡・配水管を、
 地中に埋設した本格的な上水道を敷設した。
  また、日本で現在も使われている最古の水道は・・、
  熊本県宇土市に在る轟水源を水源とする轟泉水道で、
 宇土藩初代藩主・細川行孝が造り、寛文3年(1663年)に
 完成したもの。
  初めは、丸い土管の水道管で造られていたが・・、
  完成後100年ほどして、6代目藩主・細川興文のときに、
 丈夫で長持ちする石の水道管に改修されて、今日に至っ
 ている。
.
  (今日の言葉)
.
1943年1月24日、ルーズベルトのカサブランカ演説。
  ルーズベルトは、キリスト教の「シャローム」の観念
 に洗脳されていた。
  キリスト教の「シャローム」は、「平和」と説明され
 ているが、
  ただの「平和」を説明しているのではない。
  キリスト教の、その「誤解されている平和」を意味す
 るという「シャローム」には・・、
  完全に異端を抹殺し、駆逐して後に訪れる「シャロー
 ム」だという意味の教義である。
  異端の『完全抹殺』の後の「平和」を求めたのである。
  南米などで、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちが、
 50年にもおよぶ長い長い期間に渡って、
  とことん先住民のインディオの方々を殺戮し、
  1000万人以上の方々を殺戮し尽くした蛮行は・・、
  このキリスト教の教義・考え方から来ている。
  このルーズベルトも、このキリスト教に洗脳され、マ
 インド・コントロールされていた。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)を、途中で休戦しよう
 などという考えは、彼には毛頭なかった。
  ルーズベルトは言う・・、
  「ドイツと日本の戦争の力を完全に破壊する。
   それまで決して平和はやって来ない』・・。
  ルーズベルトのこの考え方は、完全にキリスト教の考
 え方で、キリスト教の教義である。
  このルーズベルトの言葉に影響され・・、
  アメリカは、戦争を、とことん突き進める。
  そして、アメリカは、国際条約違反の非人道的な原爆
 を、広島と長崎に投下する。
  卑劣な事に、人体実験の目的もあったと、後日に判明
 する。
  ルーズベルトのこの卑劣な言葉は・・、
  1943年1月24日に、アフリカのカサブランカ(モロッコ
 の最大の都市)での演説の中に出た。
  米英首脳会議の最終日だった。
  アメリカ・イギリスの軍の首脳陣が並び、
  イギリス首相チャーチルも居た。
  しかし、チャーチルは、この演説の異常さに驚き、怒
 りで顔が青ざめたという。
  また、同席したアメリカ軍の幹部諸士も、同意するど
 ころか、その予想しない違和感の中に居た。
  チャーチルは・・
  「敵(ドイツ軍)の決意を強めるだけだ」と、そのル
 ーズベルトの考え方と違う違和感を吐露し、批判した。
  ルーズベルトも、その周囲の反応に気づいた。
  そして、南北戦争の当時のことが思い出されて無意識
 に、この言葉が出てしまった・・と、そばにいた側近に
 言った。
  しかし、誰も、ルーズベルトのそんな説明を信じなか
 った。
  カサブランカの前線兵士慰問もした中での会談後の演
 説だった。
..
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2016年7月31日日曜日

(増補版)389E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年12月~1884年1月)

題:(増補版)389E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年12月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年、出来事:
・天皇陛下、山陽道行幸(氷川清話)
・明治17年は、城山で死んだ西郷隆盛の7周忌だった。
  11月に、吉井友実、元田永孚(ながさね)、伊地知正
 治、税所篤(ざいしょあつし)らが心配して、逆族とさ
 れた西郷の名誉回復が何とかならぬものかと、海舟の所
 に相談に来た。
  海舟も、実はそれを考えていたという。
  「今度は見送ろうか・・云々」の話の後、「とにかく
 任せなさい」と別れ、海舟は侍従だった山岡鉄舟に話し、
  山岡から有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひ
 としんのう)へ頼んで明治天皇陛下へ奏上してもらった。
  それで、天皇陛下も、西郷のことは気になっておられ
 たらしく、西郷の子供にお手許金で洋行させてやったら、
 という思召しであった。
  それで、西郷寅太郎(長男)を召して、ドイツに留学
 させ、陸軍軍人の修行をさせることにした。
  このことが公表されると、西郷隆盛の名誉回復のみな
 らず、
  その一族も、また、西南の役に賊軍扱いをうけた人々
 や、その遺族も、
  みな、晴天を仰ぐの思いをし、十年の戦争での怨恨は
 消え、和らげられる事になった。(氷川清話)
  勝海舟、西郷南州7回忌につき、遺族のため名誉回復の
 運動をなす(氷川清話)
・官吏恩給令制定
  この年、文官の恩給制度が正式に定められ、太政官に
 恩給局がおかれて、発足した。
  給付財源は全額公費。
  この時はまだ、官吏、軍人、教職員などについて個別
 的に定められていた。
1884年、殖産興業(生産を増やし、産業を盛んにする):
  国の基本の「富国強兵策」の力を入れた要のところ・・、
・小坂・十和田鉱山・赤城炭鉱開掘
  小坂鉱山は、秋田県にある金・銀の鉱山で、この年の
 9月に、藤田財閥(現:DOWAホールディングス)の中核企
 業の藤田組に払下げられた。
  十和田鉱山は、秋田県十和田湖西岸に位置し、金・銀・
 銅・鉛・亜鉛・硫化鉄の鉱脈がある。
・大阪商船会社が開業した。
  商船三井の歴史に、この年の5月に「大阪商船」が開業
 (資本金:120万円)とある。
  ますます活況を呈する瀬戸内海の海上交通の用に給す
 るため・・、
  瀬戸内の船主55名が93隻の船を現物出資して、設立さ
 れた。
  設立までの困難を、強い人間の意思と、情熱で克服し
 たと記されている。
・長崎・静岡・宮城県に紡績所が創立された。
  1872年に、群馬県に富岡製糸場が創業したが、紡績は、
 日本の基幹産業として、日本を支えた。
  生糸は輸出の花形だった。
  殖産興業のため、輸出をさらに盛んにしたかった。
  そこで、紡績工場をはじめ、毛織物工場・製糖工場を
 造り、輸入品とも対抗していった。
  (外国製品に打ち勝って行かねばならない、大きな壁
 を乗り越えて行った)
  生糸生産の輸出拡大で、貿易収支が逆転でき、日本経
 済の自立的発展の基礎がつくられて行った。
  当然、生産性向上も目標の一つだった。
  明治の方々は、紡績工場で深夜操業をスタートさせた
 様に、国づくりを、日本人の勤勉さと供に、国を支えて
 築いて行った。
1884年、交通・運輸:
  運輸・交通関係の整備も、国の発展のかなめだった。
・1月29日:東京の浅草橋が鉄橋になり、渡り初め式が行わ
 れた。
  1874年に、浅草見附の石材を利用して、浅草橋が石橋
 に改架されたが、さらに、鉄橋に替えられた。
・5月1日:(上野~高崎間開通)日本鉄道が路線を延ばし
 て高崎に達した。
  6月25日:明治天皇陛下が高崎まで往復され、上野駅に
 戻って開業式が行われた。開業は(1883年)
  日本初の私鉄である日本鉄道の第1期線として、1883年
 に、上野~熊谷間で仮営業を開始したのが始まりで、
  立案当初は、上野~高崎間の路線には、王子~赤羽~
 大宮~鴻巣~熊谷~高崎という英国人技師ボイルの案と、
  千住~岩槻~忍~熊谷~高崎という米国人技師クロフ
 ォードの案の二案があった。
  当時の鉄道局長官・井上勝が、ボイル案を採用し、現
 在の路線が建設された。
  そして、1884年に、高崎、前橋まで延長され、全通し
 た。
  高崎まで開通した1884年6月25日に、明治天皇陛下の御
 臨席のもとに、上野駅で開通式が行われた。
  この時、明治天皇陛下は、上野~高崎間を往復乗車さ
 れた。
1884年、特許・発明:
・我が国初の商標の制度が設けられた。
  そして、この年、出願されたその商標出願件数は883件。
  ちなみに、昭和63年は17万3000件。
  商標以前に制度が出来た特許は、この年まで0件だった。
  そして、明治18年に、425出されたが、これが最初。
  昭和63年は、33万9000件となっている。
・ヨーロッパ諸国が、フランスを中心に、特許に関する国
 際条約を締結した(パリ条約の発端)。
・カール・ベンツが、ガソリン・エンジン自動車を発明し
 た。
  世界初の実用的なガソリン動力の自動車だった。
  「メルセデス・ベンツ」の基盤を築いた。
  因みに、1879年に、エンジンについての最初の特許を
 取得している。
  1883年に知り合いになった実業家のM.K.ローゼ、技術
 者のF.W.エスリンガーとともに、マンハイムの地に内燃
 機関を製造する「ベンツ・ライン・マンハイム・ガス・
 エンジン製作所」を設立した。
  これが、後のダイムラー・ベンツ社の母体となった。
  ベンツには、かつて夢想した自力走行する車両を設計
 する機会が訪れた。
  自転車好きのベンツは、その知識を応用して自動車を
 作った。
  三輪車であった。
  ガソリンエンジンが備え付けられていた。
  ラジエターは無かった。
  水タンクへの自然対流式冷却の水冷だった。
  1885年に完成した。
  ベンツは、1884年に、オットーの4ストロークエンジ
 ン特許No.532を無効とする告訴が出され、1886年1月30日
 に、オットー特許がオープンとなり・・、
  そして、この前日の1月29日、ベンツの3輪自動車の特
 許が権利化され、世界初の自動車の発明の名誉を手に入
 れたのだった。
  因みに、1884年に、フランスで、ドラマール・ドブッ
 トビュが、ガソリン自動車の特許を得ている。
・マキシムが、マキシム式機関銃を発明した。
  イギリス人発明家マキシムが、大量殺人兵器の機関銃
 を発明した(アメリカ生まれ)。
  第二次ボーア戦争、マフディー戦争、 ダラーウィーシ
 ュ蜂起、義和団の乱、日露戦争、フィンランド内戦 第一
 次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争、ベトナ
 ム戦争などで惨禍をもたらした。
  1886年に、槍と盾が主要装備のアフリカ諸民族の方々
 に対して、その使用は、まったくの悲劇そのものだった。
  その破壊的な効果は、殺人鬼には与えてはならない兵
 器だった。
  これを良い事に、19世紀後半における、アフリカのヨ
 ーロッパ植民地化戦争において、卑劣な役割が演じられ
 た。
  1893年に、イギリス植民地部隊によって、ローデシア
 の第一次マタベレ戦争で使用された。
  ヤリと盾を武器にしたアフリカの方々・マタベレ族の
 戦士たちは、開けた地形での正面戦闘におびき出され、
  100分の1のイギリス兵に殲滅させられた。
  5000人のアフリカの方々が、一瞬に殺戮された。
  マタベレ族の方々の被害は悲惨で、「どれほどの涙を
 流しても、殺された戦士たちを悼むに足りない」と記述
 される大被害となった。
  イギリスは、大戦果に大喜びしたのだろう・・、
1884年、教育:
・私立縫製女学校が設立された。
・3月31日:東京商業学校(現=一橋大学)が開校した。
  沿革
  1875年8月に、森有礼が、東京銀座尾張町に商法講習所
 を私設した。
  そして、9月24日に、同講習所の開業を東京会議所から
 東京府知事に届け出た(この日が、一橋大学の創立記念
 日とされている)
  1875年11月に、商法講習所は東京会議所の管理に委任
 された。
  1876年5月に、木挽町に移転し東京府立となり、矢野二
 郎が所長に任ぜられた。
  1884年3月に、農商務省の直轄となり、東京商業学校と
 改称された。
  1885年5月に、文部省の直轄となった。
・5月17日、海軍の要望により、東京大学理学部に造船学科
 が付設された。
・万年筆:丸善が、万年筆を輸入し、発売した。
  少し前、ニューヨークのウォーターマンという保険業
 の人が発明していた。
・東大前の文房具店が、洋行帰りの教授のすすめで、大学
 ノートを製造し、販売した。
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