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2014年10月24日金曜日

『無気力人間』にされるのが・・心配・・、

 題:『無気力人間』にされるのが・・心配・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の根本にあるのは・・性悪説。
 その説によって・・悲惨な事態が、生まれている。
 キリスト教の論理、勝手な説を擁護するために、必死に
キリスト教は、『人間を悪く』言う。
 卑劣な行為をする・・キリスト教の姿となっている。
 例えば・・、
 「人間は、結局、最後は死んでしまう。どうせ死んでし
まうのなら、真面目に一生懸命に生きても意味がない。良
い事をしても、結局は空しさが残るばかり。あくせく汗水
流して働いても、目に見える形で生活は変化する訳でも無
い。年老いて身体の自由が聞かなくなる前に、やりたい事
を存分にやって楽しむべきだ。自分が精一杯努力した所で、
今の世の中が変わる訳では無いし、やるだけ損。難しい事
は考えずに、気の向くままに生きているのが一番良い」と
言い、洗脳をする。
 結局、キリスト教の神に頼れと言いたいだけなのだ。
 こんなキリスト教は、社会から糾弾されねばならない。
 キリスト教は、「努力をするな」のキャンペーンをする
が・・? まったく、反社会的宗教だ!!
 キリスト教は言う、「究極的に人間に価値を与えるのは、
キリスト教の神である。人間ではない。キリスト教の神が
価値の与えるのである」と。人間は無能だと言いつのる。
 そして、「人間は何も成し得ない」と洗脳するキリスト
教なのである。無気力人間製造宗教となっている。
 「人間は努力し、その努力は、当然、報われるのですよ」
と教え、説かなければならないのであるが・・、
 その様な事は、おくびにも説かない。
 「頑張れば、必ず報われ、努力すれば、その努力のしが
いがあるのです」と説かなければならないのに・・、
 キリスト教は、まったく説かず、「社会悪」を作ってい
る宗教となっている。
 努力をする人を讃(たた)え、感謝する社会であり、宗
教であらねばならないのに・・、
 この様なキリスト教の教義、および、説教は、『犯罪』
である。
 (「申命記」8・9)に・・、
 「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から出るす
べての言葉によって生きる」とあるが・・、
 変なキリスト教の神の言葉は、無い方が、世の中のため
になるのだ。
 キリスト教系の学校で、子供たちが、「無気力人間」に
洗脳されているのが、本当に、心配である。
 そして、キリスト教系学校の教科書の、次のページに、
書かれているのが、次の文である。
 「人間の命は、はかなくて、脆(もろ)く、いずれ朽ち
果てて行くものである。そんな人間が存在する価値などあ
るのだろうか。その事を考えて行くと、人間には空しさだ
けが募(つの)って来てしまう」と書き洗脳する。
 そしてまたまた、この教科書は書き、そして、教える、
 「その空しさを無視すると、実はもっと、空しい、とい
う事に気付いて行く必要がある」と、執拗(しつよう)に
洗脳する。
 キリスト教が、子供たちへ、ここまで言って、貶(おと
し)めて、そして、言いたかった事は、賢明な方々は、既
に、御推察でしょうが、『キリスト教の神が救うのだ』の、
当然の一点。
 ここまで、子供たちを、傷つけて、キリスト教の神への
信仰を得ようという破廉恥な魂胆(こんたん)、筋書きと
なっている。
 そこには、何ら、建設的で、ためになる話は・・無い。
 傷つけられた、傷ついた心が、子供たちに残るだけ・・、
 これは・・犯罪である。
 キリスト教系の学校で、子供たちに、この様な犯罪的な
洗脳教育が行われている。
 この様な授業を聞く辛(つら)さを、訴える子供たちが
来る。そして、言う、「週に2時限もある」のだと、辛(
つら)いと訴えて来る。
..
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2014年10月19日日曜日

キリスト教は、すべてを語っていると言いますが・・、

 題:キリスト教は、すべてを語っていると言いますが・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の神は、「光あれ」と言いましたが、この神
の話はクエスチョンなのです。
 何でも知っている神が、正確に言うべきだったならば、
「電磁波あれ」と言うべきだったのです。
 キリスト教は、『人間の認識領域に留(とど)まってい
る』ということなのです。
 この様な知識のない、古代の聖書記述者が、書いたのだ
から仕方ありませんが・・?
 しかし、何でもできる、何でも知っているというキリス
ト教の神が、書いた・・書いたのですと、言うのでしたの
なら、「電磁波あれ」と言わないと・・いけません。
 光は電磁波の一部です。
 光は、人間が認識ができたという領域のものということ
で、狭い部分の話です、ほんの一部分です。
 キリスト教が、『古代の人間の認識領域で書かれている』
ということを如実に表している一つの事例です。狭い部分
の話の展開です。神の記述ではありません。
 キリスト教は、真実を書いたと言いますが、『真実では
ない』のです。部分の認識では全体が見れません。
 人間の『認識領域部分のみの世界を創って』、すべてを
創ったと錯覚しているキリスト教なのです。そして、すべ
てを語っているとしています。
 精神を学べは言いのだと、キリスト教聖職者の方で、こ
の様に言う方が居られますが、部分だけで全体の精神が分
かりますか?
 詭弁(きべん)です。
 多くを知らなければ全体は見えて来ません。
 キリスト教の論理破綻を示している一事例です。
 だから、キリスト教の思考は、人間の認識できる部分の
みを、「ああだ、こうだ」と言って思考を巡らせ・・何だ
かんだと言う・・という図となっています。
 それでは、問題は解決しません・・そして、当然、真実
も掴(つか)めません。
 神が発した言葉でできたと言いますが・・、神が、「す
べてを知ってない」ということを現わしてしまったことに
なってしまったという罪作りな話です。
 この聖書記述者は、神を無能にしてしまった罪を作りま
した。
 人間の認識できる世界は、僅(わず)かに4パーセントな
のです。この4パーセントを、『創った』『創った』と言っ
ているキリスト教となっているのです。
 また、因みに、細胞でできている人間、その細胞は分子
で構成されている。
 分子と言ったって、原子核の周りに電子が回っているが、
スカスカの隙間だらけ。
 我々は隙間だらけの存在。我々全員をその隙間を無くし
てみると、僅か『升の一杯分』しかないという。
 その様な実態。
 その升一杯を、なんだかんだというキリスト教の神とい
う話になっています。
 その他の多くの部分が埒外(らちがい)になっています。
 そのキリスト教の神が認識できる4パーセントをキリスト
教は宗教としています。
 すべてを把握した様な気持ちになって、錯覚しているの
です。真実を掴(つか)め得ないキリスト教の理由の一つ
です。認識が甘い宗教。
..
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2014年10月16日木曜日

聖職者が・・ですよ・・??

 題:聖職者が・・ですよ・・??
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書のイエスの弟子たちは・・、
マッタクしょうがない人たちだと、表面的には思う。
 が・・しかし・・、
 その弟子たちについて、キリスト教は言う・・、
 「イエスの十字架の後の復活を見て、初めて弟子たちは、
分かる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされた時、初めてイエスの言う神の国
が分かる様になった」・・と。
 そして、キリスト教は、さらに、「つまり」という言葉
でつないで説明する・・、
 「つまり、神の国の中に自分を決定的に見い出す様に、
(イエスに)された」から・・と、
 この説明でお分かりになりましたか?
 キリスト教は、何時も、この様な、中途半端な言い方を
します。
 イエスが、神の国が分かるようにしたと言う・・、
 行為者が分かるが、実際、分からせねばならない神の国
は・・一言も説明しない。
 そして、「だから、イエスの弟子たちが分かる様になっ
たのです」の説明に・・なってない。
 「神の国の中に、自分を見い出す事が、出来ている弟子
たちに出来るようになった」・・とは?
 これも、結果だけを言っているだけで・・、肝心な、ど
うして出来るようになって、その結果、どの様だったなど、
肝心な説明は・・何もしていない。
 「出来るようになりました」・・で、終わっている。
 何時も、キリスト教は『この手の言い方』で、分かる気
になった様にしている。
 錯覚のマインド・コントロールをしている。
 それなのに・・、
 このイエスの復活が分からなかった人は、「神の国」に
入れないと・・、この言葉だけは、明確に、はっきりと説
明する。怖(こわ)い、罰がありますと言う。
 イエスの復活は、神の国への招待ですと言うが・・、分
からない人は、その御招待も駄目となっている・・と。
 そして、キリスト教は、「ウルトラ演技」の様な『言い
訳』を言う・・、
 「復活が、明確に証明できないからこそ・・『信じると
か?」とか、『信じないとか?』とかの・・信仰が、生ま
れるのだ」・・と。
 これは詭弁(きべん)だ。
 「復活があったと、はっきり説明できれば、信じる信じ
ないの話も生まれない」・・と、
 キリスト教は、この様な『観念の遊び』を信仰と称して、
貴重な時間を空費している。まったく時間の無駄だ。
 逆でしょう?・・イエスの復活が、はっきりと説明され
れば皆様が信仰するでしょう。
 当時の状況でさえ、既に、イエスの弟子たちが、復活話
をでっち上げると、公的機関に知られていて・・その対策
が講じられているではないですか・・この復活話は、この
様な、古代の当時でさえ、『眉唾話を見透かされた社会情
勢』だったでしょう。
 イエスが亡くなった頃の状況は、復活があったと騒いだ
のも、当時の公(おおやけ)の機関が、既に、見透かして
いた通りの、『イエスの仲間の人たちだけ』でしょう。
 何ら、エルサレムの街が、こうなったとか、ああなった
とかの話は皆無、何も無いのです。
 ほんのイエスの周囲だけの、一部の話に、終始している
だけではないですか?
 イギリスのキリスト教聖職者の方たちでさえ、報道機関
の調査に、聖職者の過半数の、多くの、多数の聖職者の方
々が・・、
「イエスの復活は信じない」「信じることができない」と
答えています。聖職者が・・ですよ・・?
..
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取りとめなく、書いてみたら・・

 題:取りとめなく、書いてみたら・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 本日は、取りとめもなく書いたらどうなるかを、以下に
書きました。
 キリスト教のイエスは、平均寿命が30歳以下という古代
の時代に生きた人である。
 また、この時代は、子供の半分が、15歳になる前に亡く
なってしまうという悲しい時代でもあった。
 この様な時代のイエスが、30歳を過ぎた晩年に、突然、
洗礼者ヨハネの所へ、洗礼を是非して貰いたいと現れた。
 洗礼者ヨハネと言えば、当時、有名な活動家だった。
 ユダヤ教エッセネ派に属し、リーダーとして大きくなっ
て行く人だった。
 より重要な地位に、付くべき人だった。
 しかし、公権力によってその芽は摘まれてしまった。
 彼が所属したユダヤ教のエッセネ派は、弱小集団だった。
 キリスト教とその考え方が似る。
 この様な事があって、キリスト教聖書も、洗礼者ヨハネ
を軽くは扱えず、無視する事も出来ず、しかるべきページ
を割(さ)いて、洗礼者ヨハネを描いている。
 だからと言って、洗礼者ヨハネに信仰のベクトルが向い
ては駄目だと、何かと洗礼者ヨハネが、イエスを立てる演
技をさせる、話をさせる事をしている。
 イエスを奉(たてまつ)る洗礼者ヨハネという図となっ
ている。
 因みに、話はそれるが、イエスを奉るという事で、マタ
イによる福音書の聖書記述者のマタイが、イエスの父親の
ヨセフを、ユダヤ民族の唯一の英雄のダビデまで引っ張り
出して、奉(まつ)り上げた、ダビデのいる救世主の系図
に、イエスと血の繋がっていないイエスの父親ヨセフを、
系図に入れたが?
 これは、マタイの時代は、まだ、「処女受胎のマリア」
の作り話が、まだ、起きていなかったからだ。
 マタイは、イエスが、ヨセフの血の繋(つな)がった息
子だと知っていたのだ。
 ヨセフの実子で、イエスは次男か、3男という本当の視
点で描いたのだ。
 処女受胎の嘘話が頭にあったならば、ややこしくなる父
親ヨセフが、系図に入る話は描かない。
 また、イエスの弟子たちの事ですが・・、イエスに叱ら
れ、イエスの言っている事が、イエスから「まだ、分から
ないのか」とも言われて居た弟子たち。
 この弟子たちが、「イエスの死後、まともになった」と
言われるが、
 この言い方は、一方的に弟子たちに問題があったとして
いるが、これは間違いだ。
 このどうしようもない弟子たちが、師匠が変わったら、
まともになったという事は、イエスに問題があったと言え
る。
 常に、一緒に居たイエスと弟子たち。
 その細かいすべてが分かる間柄になる訳だ、絶対に。
 それがまったく恥ずかしい経過を辿(たど)る。
 イエスの指導に、その問題があったとしか言えない。
 また、指導すべきイエスの言い方や、イエスの性格から
来るその対応に、問題があったのだと言える。
 イエスの性格上の問題があったとも言える。
 そして、奇蹟の話へ・・、古代人は奇蹟の話に驚いて、
言う事をきかすのに都合が良かったのだろう、
 キリスト教は、「奇蹟のオンパレード」「奇蹟の大安売
りの宗教」となっている。
 信仰深い信徒の方でさえ「このすべてが真実だとは信じ
られない」と言う様に、辟易(へきえき)状態となってい
る。
 「人を生き返らせた」「5000人が食べる物を空から降ら
した」「水の上を歩いた」「歩けない人を歩かせた」「盲
人を見えるようにした」「伝道しなくても人に信じさせた」
「風をぴたりと止めた」などなどだ。
 実は、「伝道しなくても人を信じさせた」以外は、聖書
に出て来た奇蹟なのだが・・、
 肝心の「伝道しなくても・・」の奇蹟だけは、出来なか
った奇蹟の様だ。
 この奇跡には、良くも嘘を言うものだと呆れること半分、
怒り半分の状態だ。
 「誠実ではない、この奴め」という思いだ。
 人々を口先三寸で、よくも、詐欺氏まがいに惑わすもの
だと本当に呆れる。
 キリスト教よ! もう、嘘を付くのは止めなさい。
 惑わして、可哀想な方々を作る事は止めなさい。
 キリスト教会の中で「お山の大将になって、好き勝手を
言うのは止めなさい」、正業に付きなさい。
 そして。次の話・・、マグダラのマリアが生まれ育った
マグダラの街と、イエスの生まれ育ったナザレの街は、近
かった。
 因みに、イエスを裏切ったユダの生まれ育ったケリオテ
の街は、イエスやマグダラのマリアの街から遠い南の地に
あった。
 イエスとマグダラのマリアの生まれ育った地は、肥沃な
地で、農作物の恵み豊かな地だった。
 それに引き変えユダのケリオテの街は、死海の際で砂漠
の地・不毛の地であった。
 この風土の違いは大きく精神構成・考え方に大きな違い
を生んだ。
 何かとイエスとマグダラのマリアが気が合ったのも、こ
の同じ気候・風土に生まれ育った事に関係していると考え
られる。
 そこに、過重な税金を弱い民に課税し、ノルマを果たせ
ば私腹を肥やす事の出来た庶民いじめの徴税人(取税人)
が横行した。
 この金持ち取税人の家に上がり込んで、飲み食いするイ
エスだった。
 キリスト教は、こんなイエスを、何だかんだと言って美
化をする。
 信徒獲得のためとはいえ、嘘を付いたり、右のものを左
だと言ったりする事は止めなさい。
..
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2014年10月15日水曜日

大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。

 題:大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の、イエスの家庭は、子沢山な家庭だった。
 イエスの家族は、9人か、または、それ以上と考えられ
る。
 当時、半分の子供が、15歳までに死ぬ・・という、社会
だった。悲惨な社会だった。
 日本でも・・昔はそうだったが・・、その様な社会は、
悲しい事だが・・その対策として、多くの子供を持つもの
だ。
 古代の時代に生きたイエスの家庭も・・その様に・・子
沢山の家庭だった。
 イエスには、7人の兄弟姉妹、または、それ以上の兄弟
姉妹たちがいた。
 イエスが長男ではないという事は、既に、書かせて戴き
ましたが、
 故に、処女マリアは『嘘だ』と、既に、書かせて戴きま
したが・・、(単なる翻訳ミスで処女となっただけで、イ
エスの生誕は処女マリアからではない・・と)、
 イエスは『次男』か、『三男』だと見られている。
 また、子供の死亡率が高い事も、既に、述べたが、平均
寿命は、『30歳未満だった』と言われている。
 イエスの経歴は、あまり詳しく分かっていないが、
 34歳か、36歳の頃の歳に、刑になったと見られている。
 イエスが、実際に居た、存在したという『存在証明』は
出来ない状態となっている。
 イエスは『居なかったかもしれない人』となっている。
 この原因を作ったのは、『キリスト教会』だ。
 イエスに都合の悪い事を書いた書類(当時のキリスト教
会が都合が悪いと、当時のキリスト教会の判断で、焼いて
しまったのだ。焼却処分。馬鹿な事をしたものだ)。
 イエスの存在証明が出来なくなってしまったのだ。
 イエスの生きた時代は、平均寿命が30歳以下だったとい
う。その様な、平均寿命が短い当時なので、イエスは長生
きの部類に入る。
 そのイエスが、活動を始めたのも30歳を過ぎており、
 イエスは、晩年になって・・その活動を始めたと言える。
 活動期間も『1年』か、長くても『2年』と見られている。
 そして、それまで、イエスが活動していたという記録は、
一切ない、書かれていない。
 父・ヨセフの職業の大工を継いでいる事が分かっている
ので、多分、大工仕事だけをしていたのだと考えられる。
 多分、推測だが、父・ヨセフの死が切っ掛けなのだろう、
その大工仕事を止めて、突然、イエスは、洗礼者ヨハネの
所に現れた。
 この洗礼者ヨハネは、イエスの従兄弟であり、つまり、
親戚筋の人なのである。
 洗礼者ヨハネは、当時、有名な活動家だった。
 イエスの親戚筋でも、評判になっていたと考えられる。
 イエスは、この有名な従兄弟の洗礼者ヨハネに、是非、
洗礼して貰いたいと、洗礼者ヨハネの所に現れたのであっ
た。
 そして、イエスは、この従兄弟の所に入門した。
 しかし、謙遜深い洗礼者ヨハネは、イエスを立てた。
 人物的にも、出来た人だったと思われる。
 イエスは、この洗礼者ヨハネに付いて、修業を教えてもら
い、一緒に修行した。
 当時、イスラエルには、多くの預言者が居り・・、
 公的機関は、この預言者たちを処刑していた。
 このことが、洗礼者ヨハネにも訪れた。
 洗礼者ヨハネは、処刑された。
 この時に、イエスではなく、洗礼者ヨハネが処刑された
という事は、まだまだ、イエスの『表立った存在』は無か
ったと言える。
 また、洗礼者ヨハネの活動が、公権力の目ざわりとなり、
処刑の対象にしたと言える。
 イエスは、陰に隠れる存在だった。
 洗礼者ヨハネの居なくなったイエスは、自主的に活動を
始めた。
 その活動は、洗礼者ヨハネとまったく同じだった。
 それ故に、それまでのイエスは、「神の子」という状態
とは、まったく無縁だった。
 また、超能力や奇蹟をおこすという人とは、まったく、
違った、無縁だった。
 当然、イエスが、評判になったなどという話もない。文
献などにも、まったくと言ってない。
 イエスの生まれ育った地元・故郷の人も・・、
 「この人は、この様な事を何処で知ったのだろう」と、
驚いているくらいなのだ。
 「この人は大工では無いか」と(「マタイによる福音書」
6・1~3)参照。
 でも、イエスも、故郷では奇蹟などがやりにくいと、本
音を吐露(とろ)している。
 また、『活動を開始したイエス』と言ったって、大きい
世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかっ
た。
 狭い、ある一時代に、また、ある一地方に、生きた人が、
活動を開始したという活動だった。
 当然、現在では過去のものとされるもの。
 また、イエスに、ある理念に基づいて『立宗をしよう』
などという理念なども、まったくといってなかった。
 当然、また、イエスには、キリスト教の「キの字」も無
かった。
 キリスト教の立宗など、私には『関係ない』という御仁
だった。
 イエスは、ユダヤ教で満足していた。
 ただ、ある『狭いユダヤ教の理念だけ』を主張するという
御仁だった。
 イエスは、ユダヤ教の枠内だけで、思考を展開するという
御仁だった。
 ユダヤ教のある一つの宗派の「エッセネ派」の主張をとな
える御仁なだけだった。
 イエスの多くが、洗礼者ヨハネの影響を受けた枠内にあ
った。
 洗礼者ヨハネは、禁欲的で、ラクダの毛皮を着て、腰に
皮の帯を締めて、荒れ野で修行し、イナゴとか、蜜を食べ、
戒律を守り、沐浴(もくよく)をし、農耕をし、手工芸を
し、財産の私有はせず、菜食の生活という状態だった。
 イエスは、洗礼者ヨハネに影響されたとは言え、エルサレ
ムの人から、「大酒、飲み」とか、「大飯(おおめし)食
(く)らい」と、そのイエスの贅沢の生活を、半分、羨む
意味を含みながら、揶揄(やゆ)されていた。
 結構、イエスは、贅沢をしていたと言える。
 研究者も、十字架像(あの偶像崇拝の十字架に付いてい
る像)のイエス像と違い、実際のイエスは、かなり太って
いたとしている。
 キリスト教の大きな基本・根本としている福音書は、大
きな間違いをしている。
 新しい出現として「イエス」を扱っているが、そのイエ
スが信奉していた「父なる神」をないがしろにしている。
 イエスが、この事を知ったら大いに怒るだろう。
 山から降りて来て、怒りに怒った「モーゼ」の様に、イ
エスも、現在のキリスト教を見て、怒りに怒るであろう。
 信仰が成立していない・・と。
 キリスト教は、その事が分かっていたって、イエスの死
後、何百年も経った後に、人間様たちが集まって、公会議
と称して、イエスも聖霊も、みな、神にしてしまった。
 しかし、神が増えたと言う訳ではなく、「マジック」を
掛けた様に『一神だ』と称した。それで安心している。
 キリスト教は神をいじくり過ぎている。
 節操が無いことを、人間様が、やり過ぎる。
 信じるに足る・・宗教ではない。
..
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2014年10月13日月曜日

結果・・未来がないことを説いている・・、

 題:結果・・未来がないことを説いている・・、
   (ひどい宗教である)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスは、ユダヤ人であり、ユダヤ民族の
中で生き、そして、生活をした。
 そして、イエスは、ユダヤ民族が持つ『終末思想』を、
また、持っていた、一般のユダヤ民族と何ら変わりなく、
当然のごとく、持っていた。
 イエスの生きた・・ユダヤ民族のその地の時代は・・、
 その終末思想が、はなはだしく強く、叫ばれていた時代
だった。
 社会は、戦争が多く・・、
 戦争に・・明け暮れていた・・、
 社会は、乱れ、倫理も、乱れ・・、
 社会だけでなく・・人心(じんしん)も、荒廃していた。
 宗教の中心の神殿には、神殿娼婦が居た。
 また、こともあろうに、一般社会の女性にまで・・その
神殿娼婦をする義務が・・課されていた。
 また、民は、可哀想な事に、重い税金にあえいでいた。
 当然、仲間であるべき一般人のユダヤ人の・・税金取立
人の「取税人」を、ユダヤの方々は恨んでいた。当然の心
である、
 また、この狭い地には・・多くの民族が、錯綜(さくそ
う)していた。
 その多くの民族が・・生きるための、生きる糧の奪い合
いの世の中、世情(せじょう)の中にいた。狭い「るつぼ
の中」でうごめいていた。
 その様な中でできたキリスト教は・・、その陰惨(いん
さん)な世情を、当然のごとくに・・写していた。
 キリスト教は、終末思想を持った宗教となった。
 これは、キリスト教聖職者も認めるところであり、否定
は・・できない。
 そして、キリスト教聖職者は説く・・言う・・、
 「人間の生命に・・終わりがある様に・・、歴史にも、
必ず終わりの瞬間がやって来る・・その様に、キリスト教
は考えている」・・と、
 その終末の時、キリスト教の神が、天国に入れるか?否
か?・・を、裁くと、説いている。
 しかし、キリスト教は、この様なキリスト教の教義を、
最近、訂正し始めている。
 前言取り消しの態度となって来ている。
 そういえば、キリスト教は、最近、『隣人愛』という言
葉を言わなくなった・・が・・、
 標記の件も・・、近代社会には受け入れられないと、キ
リスト教の教義の維持が難しくなったという。
 似たような話が・・話が、また、それるが、キリスト教
が、「婚前の男女の同居を認めていない」が、これを認め
るようにしよう、変えようと、これも、今までの教義を捨
てようという動きをしている。
 そして、同性の愛についても認めようと、同じく教義変
更しようとの話がある。
 キリスト教は悩み、大きく悩みうねっている、のたうっ
ている。
 キリスト教は、それらの「教義の維持」が難しいと悟っ
ている。
 あなたの、今、信じているキリスト教の教義も、何時、
変わるかもしれません?・・
 その様な、中にある信仰となっていることを、見つめ直
してください。
 何ら、キリスト教には「絶対なる信仰」の絶対なんてあ
りません・・、
 その様な確固たる教義のない宗教です。
 そして、その事が露呈している宗教の、昨今なのです。
 変わる宗教教義、信じるに価しない教義であり、その様
な宗教であるという実態が、如実に表れております。
 キリスト教聖職者でも、従来からのキリスト教の教義を
認めがたいという態度の聖職者も少なくありません。
 キリスト教の論理破綻・教理破綻の「波」が、「うねり」
が、あちこちで起きております。
 何しろ、古代の論理では・・無理なのです。
 キリスト教は、現代社会では、現代社会において、その
宗教維持は出来ないのです。その様なレベルなのです。
 古代人のレベルと、はるかに違う現代社会では、その宗
教教義は・・維持できないのです。
 キリスト教聖職者は、苦し紛れに、次の様に言う・・、
 「歴史の終末の有限は、無限なる歴史の中に取り込まれ
るのです」・・と・・、
 お分かりになりますか???
 何を言っているのでしょう・・もう、ここまで来ると笑
い話です。
 この様に言うしかないという言い方です・・、
 キリスト教聖職者は、言い逃れの職業と思えて来ます。
 キリスト教聖職者は、この様な言い逃れ論理を、考え出
さねばならない職業、苦し紛れにこの様に言っているので
す。絞り出しているのです。
 こんなレベルの話を、感受性の鋭い子供たちが、聞いて、
育って、正しい論理思考ができるように育つのでしょうか?
育ちますか???
 ますます、子供たちを惑(まど)わす事態に追い込む結
果になって行きます。
 こんなキリスト教聖職者が、社会に存在する意義はあるの
でしょうか?
 この様な破綻論理を吐く職業の聖職者は、完全に、その
存在意義は無くなっています。むしろ社会悪とさえなって
居ります。
 この様な破綻論理を吐かねばならないキリスト教聖職者
の方々は、反社会的存在であり、反社会的行為を行なって
居ります。
 キリスト教聖職者は、「終末は希望である」と言い出し
ている。
 しかし、何故? 死後の世界の、終末思想を、希望にする
どんなキリスト教論理が? どんなキリスト教の論理で希
望が生まれて来るのかは不明です。神と共に居られるから?
 現代に生きる希望は、古代と同じく捨てるのですか?
 イエスの時代も、この世のうちで希望を叶えよう、実現
させよう、出来るのだとして来た・・、
 しかし、その終末の論理は、とうとう乱れた社会で、現
実社会で、叶(かな)えられなくて、死後の世界で、神が
叶えると、変遷したという経緯のある終末思想、
 今・現代の聖職者が、希望が、どんな論理で生まれて来
るかは不明なのだが・・、
 キリスト教聖職者は、キリスト教の終末思想は、希望を
砕く悪の倫理と知って居て、あの世の天国でしか叶えられ
ない論理だと知っていて、それでは駄目だと知っていて、
希望を砕く悪の論理だと知っていて・・言う。
 「ハルマゲドン」という、キリスト教の訳の分からぬ言
葉を使って、輝く未来が開かれていると・・言葉だけは明
るく言う、
 言葉は明るく使ったが、論理はまったく無く・・、
 未来ある若者の希望を砕く・・、
 この様な、キリスト教の悪思想は、それこそ、今のこの
社会で・・終わりにしたい。
 キリスト教聖書は、特に、若者には読ませてはいけない。
 また、「フランダースの犬」という幼児向けの本も、キ
リスト教は、「第二のバイブル」として宣伝しているが・
・、
 この本の最後は・・、
 イエスの十字架の磔の絵の前で、主人公の子供と愛犬が、
冬の寒さの中で凍死するという場面で、天に昇るのだ・・
という事で、めでたしめでたしとしている。
 幼児にまで、死する事によって希望が叶えられるという
洗脳をする、マインド・コントロールするキリスト教なの
である。悪の宗教である。
 これから、この世で勉強し、世の中の方々のために、そ
の様な人になって行こうという未来ある子供たちに・・、
 この様な思想を・・美しいと美化して・・刷り込もうと
いうキリスト教。
 反社会的な教義、
 反建設的な教義、
 健全な建設的なベクトルと真反対の死の中にあるキリス
ト教・・、
 社会の、建設的な心を砕く・・宗教である。
 この宗教では・・キリスト教では・・、
 人類は救済されません。
 あなた方も、幸せには、絶対、なれません。
.
 (参考)いん‐さん【陰惨】 [名・形動]暗くむごたらし
   い感じ。また、そのさま。「―を極める」、
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2014年10月12日日曜日

いたいけな子供たちが・・、

 題:いたいけな子供たちが・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教徒の女子学生の様な、感受性の鋭い心に、配
慮の欠いたキリスト教の話が・・突き刺さる。
 1224年9月14日に、ラ・ヴェルナ山において、フランシ
スコの手足と脇腹に、イエスが受けた傷と同じ傷が現われ
た・・と、キリスト教は言う。何故か? 年月日がはっき
り言えるという。
 それまでの、フランシスコの祈りが通じたのだ・・と、
キリスト教は言う。
 この傷を、聖痕(せいこん、スティーグマーク)という
・・と、キリスト教は言う。
 一生懸命に祈っていたから、この傷が現われた・・と、
キリスト教は言う。
 イエスが受けたという同じ苦痛があった・・と、キリス
ト教は言う。誰が調べたかは知らないが、イエスと同じ苦
痛があったとキリスト教は言う。
 フランシスコは耐え、彼の傍(かたわ)らには、天使が
降りて来て、フランシスコを励(はげ)ました・・と、キ
リスト教は言う。
 そして、イエスが出現した・・と、キリスト教は言う。
 そのイエスが、どうのこうのしたとも、キリスト教は言
わない。
 また、そのイエスが、何か話したとも、キリスト教は言
わない。
 ただ、イエスが現われた、とだけキリスト教は言う。
 また、イエスが出現している間、ラ・ヴェルナ山は、燃
え上がる焔(ほのお)に包まれている様に見えた・・と、
キリスト教は言う。
 その焔は、大地を燃えつくす様に、周りの山々、谷とい
う谷に、焔の光が照らされた・・と、キリスト教は言う。
 フランシスコは、傷の痛みに耐え、その痛みのため包帯
を巻いた・・と、キリスト教は言う。
 傷だらけの体となっているフランシスコだった・・と、
キリスト教は言う。
 その後のフランシスコは、数知れない奇蹟を起こした・・
と、キリスト教は言う。
 この話に、さすがに、信心深いキリスト教徒も、「その
奇蹟のすべてが事実であるとは思えない」・・と、言った
が・・。
 キリスト教には、この様な、嘘話が実に多い。
 キリスト教は、「奇蹟が起こせないなら聖人ではない」
「聖人にしない」・・と、言っている。
 規則がある。
 最近も、ニュースに取り上げられ、報じられた、キリス
ト教の聖人の騒ぎがあった。
 「聖人と言われていた聖職者」が、「わたしは、死んだ
後、腐らない」と言っていたのだが、公(おおやけ)に言
っていたのだが・・、
 実際、死後、腐っていないかの検証をするという騒ぎが
ニュースとなったのだった。
 ニュースのアナウンサーは、コメントで、怪訝(けげん)
な顔で「体、全体に、ワセリンが塗ってありました」と伝
えた。水分蒸発を防ぐためだろう。
 また、このニュースの見るべきところは、特ダネ的なと
ころは、別なところにもあった。
 この聖職者の遺体を、保管場所からの取り出すところを
「隠し撮り」的な映像シーンを報じたのである。
 そのシーンは、その遺体を取り出すために、保管場所の
鉄扉を開けた時、白煙がもうもうとたち上がったのである。
 これは、明らかに、極低温の冷蔵庫から取り出しました
という映像だった。
 冷蔵というより、より極低温の『冷凍レベルに保管して
いました』という事を、このシーンは語っていた。
 この様な、極低温に保管しておけば、キリスト教聖職者
の聖人の遺体は腐る訳がない。
 冷凍マグロが腐らないのと同じ冷凍状態においてあった
のだ。
 これを、キリスト教は、腐らないと言っていたのである。
 この様な、キリスト教の嘘に、従順な感受性の鋭い女子
学生が繰(く)られている、洗脳されている。
 何故、キリスト教は、この様な嘘を、付き続けているの
だろうか?
 いたいけな子供や幼児たちを、騙(だま)し続けるのだ
ろうか?
..
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2014年9月29日月曜日

根性悪(こんじょうわる)が気に入らない・・、

 題:根性悪(こんじょうわる)が気に入らない・・、
  新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の論理は、何とも自分勝手で、『浅はかな論
理』に思える。
 キリスト教聖職者が・・言う・・、
 「キリスト教は、罪からの許しを、もっとも大きなテー
マとしている。そして、その『罪の許し』の最大の特徴は、
そうした罪が、もう既に、許されているという事にある」
・・と、
 そしてまた・・言う・・、
 「人間が、罪に対してあれこれ努力をしても、そして、
功績を積んでも駄目なのだ、そして、それ故に『罪の許し』
があるのではなく、もう既に、我々の罪は、許されている
というのである」・・と言う。
 そして更に言う・・、
 「キリストが、十字架上で犠牲になる事によって、我々
の罪は許されたのである」・・と、
 そして、「その事が、喜びに繋(つな)がるものでなけ
ればならない」・・と、
 そして、「人は、責められるよりも、許されて成長する」
・・と、
 そして、「既に許されているという事は、我々を安心さ
せ、生きる勇気を与える」・・と、
 「否定される自己が回復する事ほど大きな希望はない」
・・と、
 「この様に神がして、神による肯定が存在しているので
ある」・・と、
 そして、「罪だらけで、否定せざるを得ない自分の現実
を、神が『そのままでいいんだ』と受け入れてくれるので
ある」・・と、
 「自分の居場所のない人も、神は受け入れるのだ」・・
と、
 以上が、キリスト教の教義の論理展開である。
 キリスト教の考え方である。
 キリスト教は、勝手に、人には罪があると有罪にし、
 そして、その罪は、既に、許されているとする。
 人間が努力しても無駄で駄目なのだと、『人間の努力を
駄目』と洗脳する。
 キリスト教は人間の努力を駄目と洗脳する、やる気を削
(そ)ぐ宗教。
 そして、その許される状態にしたのは、イエスが十字架
上で死んだからだとし、ありがたく思いなさいと・・、
 そして、人は責められるよりも許されて成長すると、我
田引水的に言う。
 そもそも、『罪がある』と責めているのはキリスト教の、
あなたです・・・?? 
 そもそも、あなたが勝手に、人を有罪にしているのです、
『罪つくりのあなた』になっているのです、
 そこに罪があるのです・・本当の重い罪が・・あなたに
あるのです・・、その事に洗脳されて悩む方々が居るので
す・・
 無益な罪つくりなら止めなさい・・、
 『無実の人間』を勝手な論理で、あり得ない話で、勝手
に有罪にして、既に許されているからと言ったかと思えば、
 人を罪に落とすような責められるという話よりも、
 許されるという話の方が成長すると、
 イエスが既に十字架の犠牲で、あなたは許されています
とは??
 こんな回りくどい話はしないで欲しい、戴きたい。悩む
方々のことも思いなさい・・
 今までの話は何だったのだ??・・と言いたい・・
 結局、恩を売りたかっただけではないか??
 自分で、勝手な話をデッチ上げて、人を罪に落しておい
て・・、
 こう言うやり口は、「語りの詐欺まがい」になっている。
 最初の、事の始めだって、アダムが食べそうな所に木を
置いて・・、
 アダムがうまそうだと食べたら、アダムに罪が発生した
と・・、
 アダムだって、代々の、後々の子供たちまで続くという
罪に落ちると思えば・・食べないです・・
 それをあなた(神)は、ただ、食べるなよと言っただけ
・・、それなら、少しだけならと、アダムだって食べます
・・あなたの言い方が悪かったのです・・
 しっかり食べるな・・と、理由をかみしめて言わなけれ
ば駄目です、そんなに重大な事ならなおさら・・
 だから、その罪が・・、アダムだけに、その罪があるの
かと思ったら、その子供たちへも、代々、その罪があるの
だなんて、古い話だ・・、
 島崎藤村の「破戒」ではないが・・、代々、生まれつい
ただけで・・、
 代々、その重荷を背負って行くというのは、おかしな考
えだ・・論理展開だ・・おかしな風習ではないか?? 
 自分には、何ら落ち度のない罪を背負っていると設定す
るとは・・卑劣な「なすり付け」です・・
 倫理観は極度に低い宗教です・・
 親の罪を被(かぶ)らせるという、キリスト教のこの設
定は・・、古い風習の中で、考え方で、出来た話だ、
 聖書記述者の・・まったく古い考え方からできた筋書き
だ。
 古い、どうしようもない封建的な考えの中にあるキリス
ト教だ。旧習の宗教です・・、
 この逆が・・、逆の考え方が、正しいのだ・・、
 新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
 仏にまでなり得るという「佛性」があるのだ。
 そこへ行くと、このキリスト教の、この「古い風習」そ
のままの話の展開は、最低な話の展開です・・、
 話の初めの禁断の木の実のなる木を、元々、置いた神の
思い遣(や)りの無さが仇(あだ)となった愚(おろ)か
しい話の展開にしても、
 そして、この話を信じる者だけを、この他のこの類いの
話で、じくじくと虐(いじ)めて、程度の悪い話で困らせ
るとは??
 そもそも、こんな窮地(きゅうち)に貶(おとし)めな
いで下さい。可哀想なキリスト教徒の方達。卑劣な宗教よ。
 また、アダムとイブ夫婦に・・幸せな安心の生活を造っ
てやってほしかった。
 こんな落とし穴を作って、罠(わな)にはめる神の根性
悪(こんじょうわる)が気に入らない。
..
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今後、二度と不幸なことが起きないように・・、

 題:今後、二度と不幸なことが起きないように・・、
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 キリスト教は、いつの時代も、「権威が欲しい」が第一
の目標となっている宗教、そして、それが、性癖となって
いる。
 キリスト教の行動を見ていると、民衆を救うということ
よりも、権威が欲しいと、そして、その権威を得るために
も、金が欲しいとなり、その金を目当てに色々な悪い事を
している。
 その1例が、資産家の女性を魔女とし、自前のキリスト
教裁判所で魔女裁判までして、魔女処刑をし、その魔女の
資産を没収した。
 そして、この『権威が欲しい』は、キリスト教が出来た
頃からであった。
 その初期の頃より以来、その権威が欲しいの気持ちを持
ち続けているキリスト教なのだ。
 キリスト教の歴史は、「権威だ」「権威だ」の権威の歴
史だった。
 それは一時期、『権威を得なければ』としなければ、立
ち行かない立場にもあった、そして、その様な宗教だった
と言える。「権威を得ねばならない様な宗教だった」と言
える。
 初期、キリスト教のできる頃の信徒は、ユダヤ人だけ、
 そのユダヤ人から権威を得るためには・・と、考えれば、「
 キリスト教と何ら関係ないダビデを引き出し、そして、
利用することが一つの方法だった。
 ダビデと言えば、「ユダヤ人の唯一の英雄」。
 キリスト教聖書に記載されて、そのダビデが生きていれ
ば言うだろう、「キリスト教?そんな宗教、全然、知らな
いよ」・・と。「キリスト教なんて何も関係ないよ」と。
 キリスト教は、ただ関係のないダビデを利用した。
 キリスト教以外のユダヤ人の方々は、さぞ怒ったでしょ
う。民族の英雄をよくも利用したな・・と。
 「マタイによる福音書」は、ぬけぬけと書いた・・、
 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムは・・」・・と。
 一般のユダヤ人の方々が信じていた「ダビデはメシア・
救世主だ」という信じる所に、丸々乗っかって、そして、
その中にイエスが居るという構図にして、聖書に書いてし
まったという所。
 そして、ダビデで権威づけた文の中で、イエスを「イエ
ス・キリスト」と言ってしまったという図。
 ユダヤの方々は、「さぞ、カンカンになって怒った事で
しょう」。
 ユダヤ教が、主な宗教であったユダヤの地のユダヤの方
々へ、ユダヤ教を破門された、ごく少数の信徒の集まりに
過ぎない「原始のキリスト教」が、こんな事を言い出し、
ユダヤの方々は、怒ると共に、「このカルト宗教め」と思
った事でしょう。
 信じられないDNAを最初から持つキリスト教は、最初
から権威が欲しい、信じてくれの歴史の中で、イエスを、
ユダヤ民族のスーパースター、ダビデの後裔(こうえい)
としたくて仕方なかった。
 しかし、そのダビデを、聖書に書き込んだという行為は
・・、ユダヤ人が対象ならいざ知らず、この小さな少数の
一民族だけの事ならいざ知らず・・、
 TPOが「まったく、アウト」。
 時代錯誤だし。ユダヤ民族だけの英雄だし。
 キリスト教聖書は、時代の中で、完全に消耗しきってい
る。
 何ら信じて幸せになれるというものではありません、ま
た、宗教ではありません。
 ダビデが、ユダヤに繁栄をもたらした王様だと言ったっ
て、「風呂をのぞき見したダビデ、そこで見た女性を手に
入れたいと、その女性の夫の自分の部下を、卑劣な行為で
殺し、その部下の妻を奪い取るという最低の輩」。
 何ら、信仰するに足る人物では、微塵もありません。
 だから救世主という論理は、疾(と)うの昔に消え去って
います。
 そんな人物の権威に寄り掛かる宗教は、クエスチョンで
す。キリスト教にある、昔からある「その様な心根(ここ
ろね)」が、クエスチョンです。
 皆様を幸せにしたいとか、幸せになって下さいが第一に
来なければならない宗教の目標なのに、自分の事ばかり考
えるキリスト教という宗教。
 昔から、自分の利しか考えない宗教。
 キリスト教は、何しろ、最初から、宗教理念が低い宗教
です。
 特に、「マタイによる福音書」は、「権威が欲しい」「
権威が欲しい」の福音書です。
 信じるのは自由ですが、その所を「どうなのかな」と、
思いながらお読みください。
 この様な聖書をいくら読んでも、天から声は、聞こえて
きません。
 だから、聖書作家としての「マタイの想い」が余計に見
えて来て、逆に、マタイの幼稚さも見えて来ます。
 古いユダヤの家系の権威にすがったマタイなのです。
 今・現代、ダビデなど歴史上の人物、その権威などどう
でもいい社会。
 また、グローバルの時代の今・現代には、歯牙にも掛か
らない霞みの彼方(かなた)の事。
 この様な聖書、何度も読む様なものではありません。
 また、この様な書物で、決して人類は救済されません。
 「マルコによる福音書」から10年から20年、時を失った
頃に、「マタイが、こんな事を考えましたという代物」と
いう図となっている。
 イエスを「デッチ上げたいマタイ」の図。
 虚構で、でっち上げの図。
 しかし、なんと・・、今・現代でも、キリスト教は、こ
の図を、延々とやっている。
 権威を付けたいというマタイ、聖書作家として下手糞な
事をしているのだ。
 『イエスは、ダビデの家系の人だ』と単純に書いていれ
ばいいものを、
 イエスの父・大工さんをしていたイエスの父ヨセフを持
ち出す。ここで話がややこしくなる。
 イエスの父ヨセフを、ダビデの家系の者だと入れてしま
ったのだ。
 マタイは、筆を滑らせ、イエスと血が繋(つな)がって
いないイエスの父ヨセフが、ダビデの末裔(まつえい)な
のだと書いてしまった。書きたい事が書けるにしても、こ
れは失敗だ。
 当然、イエスが救世主になる前に、イエスの父ヨセフが、
救世主になってしまった。
 そうなる事を、マタイは、知ってか? 知らずか? マ
タイは書いてしまった。
 だから、本当は、このヨセフが、「真の救世主だったの
かもしれない」。
 この様なキリスト教聖書の記述、こんな聖書の記述を信
じて、人を殺しに行く事だけはしないで下さい。
 虚構・デッチ上げと共に、矛盾を抱え込むキリスト教な
のだ。
 真実、イエスには、兄弟姉妹が、大勢、居た。
 (「マルコによる福音書」6・3)に書かれている、
 「この人(イエス)は、大工ではないか。マリアの息子
で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹
たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と。
 そして当然、この大勢のこの兄弟姉妹は、「ダビデの家
系のイエスの父ヨセフ」の血を引く「ダビデの家系の子供」
である。
 ここを、キリスト教は、訳では「兄弟姉妹」となるが、
正確には「弟妹」だと、不正確なこと言い、言い訳に努め
る。本当に、聖書は「言い訳が、本当に、あちこち、多い
言い訳だらけの本だ」。
 ならば、キリスト教は、「弟妹」と早くすればいいのに、
一向にしないのは、その基本の底本「マルコによる福音書」
の記述が正しいからである。
 最初の福音書のマルコが記述する頃は、まだ、イエスは、
普通の人間だったのだ。
 イエスの父が「神だ」とは考えられていなかった。
 次の世代のマタイが、イエスの父ヨセフを、救世主の家
系に入れてしまうが・・。
 まだ、マルコの時代には、イエスは、普通に兄弟姉妹が
居る人間だった。
 皆、キリスト教徒でさえ、その様に思っていたのだ。
 イエスは、洗礼者ヨハネに洗礼される必要のある人間だ
った。
 「処女懐妊だ」「ダビデを持ち出し、救世主の後裔(こ
うえい)だ」・・なんて言う作り話なんて・・まだマルコ
には・・、
 まだ、その様な、『夢の様な・・作り話』が、なされる
なんて思ってもいなかったのだ。
 正直者のマルコが、正直に、事実を、書いたのだ。
 最初の福音書だし・・、
 だから、イエスには「兄」や「姉」が居たのが事実。
 だから、イエスに権威が欲しいという欲求が・・、その
後の福音書の「マタイによる福音書」や「ルカによる福音
書」に求められ・・、
 夢の様な嘘話し、作り話が、記述されて行く。
 嘘記述が、ますますエスカレートし、後になればなるほ
ど、酷(ひど)くなる。
 そして、その信頼性は喪失して行く、
 その様になって行く事を知らない、浅はかな記述だった。
 この様な聖書に、キリスト教に、洗脳されて、戦争など
を起こすようなことがないように・・、今後、二度と不幸
なことは起きないように・・。
.
 (参考)疾(と)うの昔 とっくに過ぎ去った昔。ずっと以
   前。「問題は―に解決した」「―から決まっている」
..
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2014年9月27日土曜日

目を覚(さ)まして下さい。

 題:目を覚(さ)まして下さい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
...
 キリスト教の教え:『キリスト教における死について』
の文・・
((これは、死を讃美するという、害ある文です。
また、自死(じし)の勧(すす)め的な文でもあります。
注意してお読みください)):
 「キリスト教聖書は、死を勝利ととらえ、楽観的にとら
える。決定的勝利だと、キリスト教では、死を勝利として
位置づける。すなわち、死は、人間から力を奪い取り、す
べての力を無にしてしまう神の勝利なのだ。そして、すべ
ての事柄は死から始まる。それが聖書の示す死である。キ
リスト教においては、死からすべてが始まる。「死から生
へ」という力が働くという死生観に立つ。クリスチャンは
決して死なない。聖書が告げる死、それは、完全なる死で
あり、全存在的な死である。キリスト教信仰がとらえる死
は、神によって与えられた統合された一人の人格が、肉体
も霊魂も含めて完全に死に絶える事、一切の被造性が破壊
されて、神によってすべてが救い上げられる事なのである。
すべてが神の支配の中に置かれる。我々に命を与える神は、
死をも、暗闇をも支配し、決定的な勝利を告げるのである、
死を支配し、死に勝利される神が、同時に死だけではなく
我々の生をも支配されるのである」・・と。
 上記の文を理解できましたか? 分かりましたか? 
 ただ、ただ、キリスト教は、理由を説明せず、勝手な押
し付けで、上記のような事々を、押し付けるという宗教。
 そして、洗脳され、マインド・コントロールされる。
 マインド・コントロールされたら、分からなくなる、
判断できなくなる。恐ろしいことです。
 江戸時代、徳川幕府は、キリスト教のプロパガンダ(嘘
宣伝)で、大変、酷(ひど)い事をした様に、受け取られ
ていますが、
 本当は、温厚な日本人なのです。
 捕えるにしても、穏便(おんびん)に、穏便(おんびん)
に・・という幕府の思いがあったのです。
 この様な所が伝えられずに、ヨーロッパの様な、酷(む
ご)いやり方の様に、印象付けられ、そして、ヨーロッパ
の様な事々が、日本でも、行なわれたのだろうと思い込ま
され、そして、その先入観と、錯覚で・・、
 そして、キリスト教によるデッチ上げで、作り上げられ
ている。
 悲惨であれば、あるほど、キリスト教にとって都合が良
いのだ。
 幕府は、本人で無くても、家族や知人でも、「止めると
の意思表示さえあれば、許した」のだ。
 また、たとえ捕えられても、刑場の柵の一部は開けてあ
り、逃げたければ逃げられるという、『逃げる事は自由』
となっていた。日本人は、優(やさ)しい民族なのです。
 取り締まりが厳しかったのは、ほんの一時(いっとき)
で、ヨーロッパの様に、何百年も、じわじわと陰湿に、民
衆の方々をいじめ抜くという様な事は、日本はやっていま
せん、やって無い。やっても、上記の様な、穏便なやり方
なのです。
 そして、すぐに幕府は、キリスト教の信仰は、『黙認の
態度』になっています。キリスト教は、嘘ばかりプロパガ
ンダします。キリスト教に偏するNHKも注意を要します。
 江戸時代、その取り締まりをやっていた一時期(いちじ
き)、その様な取り締まりの状況の中で・・、
 キリスト教宣教師たちは、『殉教』を美しいものと洗脳
しました。卑劣な洗脳です。
 日本には、まったく無かった『殉教は美しいのだ』の考
え方を洗脳しました。卑劣なやり方です、宗教です、死を
信徒の方々に強要したのです。
 だから、キリスト教の信徒の方から、子供を連れて出頭
して来る人も居たくらいでした。
 そこに、死を美化するキリスト教の教義があった。
 上記の文が、その一つです、一端です。
 卑劣なキリスト教の教えです。
 「キリスト教は死を勝利ととらえ、楽観的にとらえる」
と言っていますが、これは実体とは、まったく違います。
 ニュース番組で、アメリカの要人(ようじん、要職にあ
る人)の葬儀の模様を見ましたが、報道していましたが、
 墓に棺(かん)を納める時、家族は、皆、泣いていた。
 日本と全く同じ、その要人の死を悼(いた)んで、悲し
みにくれて、泣いていました。
 楽観的などと・・よくも他人事のように言うものだと、
キリスト教の教義を・・軽蔑します。
 この様に、キリスト教国の人々が、悲しみ泣く状況は、
よく目にします。
 「キリスト教は、決定的勝利だと、死を勝利として位置
付ける」は、呆(あき)れるほどの・・嘘(うそ)です、
 よくもこんなウソを公言するものだと、改めてキリスト
教を軽蔑します。
 だから、上記の文は空理空論です。
 読むに価(あたい)しない。信仰するに価しません。
 こんな論理に洗脳されて、マインド・コントロールされ
て、不幸にならないこと、洗脳されない事、しない事。
 愛するお母さんが・・、御両親が・・亡くなられたら・
・、大いに涙を流して・・悲しんで下さい・・、悲しんで
差し上げて・・下さい。
 下手(へた)に・・我慢すると・・きっと、後(あと)
で・・心が・・壊(こわ)れます。
 後で、大きな負担が、心にやってきます。
 キリスト教は、ひどいことを・・悪の教えを・・広めて
います。
 『完全なる死だ』なんて、勝手に言いつのっているだけ
です・・。目を覚(さ)まして下さい。
..
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人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。

 題:人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地・砂漠は・・、
 動物の死体は、骨だけになって残る・・、
 そしてまた、
 僅(わず)かにあっただろう草木は・・枯れ、
 そして、風に吹かれ、
 砂漠の砂と共に・・何処かに・・吹かれ、
 砂漠の砂と共に・・何処かへ・・、
 消えていく・・、
 痕跡もない・・、跡かたもない。
 そこへ行くと・・、
 朽ちて倒れた草木が・・、また、草木に限らず動物も、
 朽ちても土に還(かえ)り・・、
 また、新しい芽吹きを得る。
 新しい命の誕生が、そこここに・・見られる。
 新しい命の芽吹き、新しい命の復活が・・、
 そこここに・・見られる。
 これが宗教観の違いに・・大きく関(かか)わる。
 豊かな・・そこここの・・新しい命の芽吹きに・・、
 新しい命の誕生に・・感謝する。
 豊かな自然の営みに、命の誕生の神秘と・・力に、
 そこここの神や仏のおわします姿に感謝し、礼拝する。
 その様な地に・・生まれ・・そして、育まれたのが仏教・・、
 そして・・、
 佛教の本を読むと、
 本当に・・実に数多くの人々が「釈尊の所へ、教えを乞
おうと、はせ参じ、仏法の教えに接し、そして・・、
 真理を会得して、そのまま釈尊に帰依した」という記述
が・・、
 実に多い・・。
 キリスト教のイエスにおいて、その様な話は、一つもな
い。
.
 そして、次の話。
.
 キリスト教聖職者の司祭の森一弘氏は・・、
 修道会に入って一生懸命努力して居ても、壁の存在を常
に感じていたと言う。
 無味乾燥な感じもし、悶々(もんもん)としていたと言
う。
 キリスト教徒で・・『頑張るな』と言っている鎌田實氏
なら、
 ここで「そんなに頑張るなよ」って言うだろうが・・、
(実は、鎌田實氏は、非常に頑張って『頑張るな』とあち
こちで言っている、テレビやラジオの出演や、雑誌などマ
スコミに頑張って多く関わっている、また、この鎌田氏の
出演活動などを支えているのは、鎌田氏のスタッフの方々
が、鎌田氏が不在でも、頑張って支えて居られるからなの
だ。何しろ、頑張って社会に貢献することが、大切なのだ)
 また、『頑張るな』のキャンペーンをするキリスト教も
「そんなに頑張るな」って、頑張る森氏へ言うだろうが・・、
 そして、森氏は、イエスではなく「マリアの夢」を見て
何かふっ切れたと言う。
 イエスでなくて良いのかどうか? 分からないが、
 また、三位一体の神でなくて、いいのかどうか? 分か
らないが・・、
 森氏は、ここで、神に委(ゆだ)ねて、生きようと思っ
たと言う。
 マザーテレサさんは、正直な人で、死ぬまで、とうとう
『(キリスト教の)神は不存在だった』と悩んだ。
 そして、とうとう、(キリスト教の)神は出て来なかっ
たという人生を送った方。
 キリスト教の神の不存在の悩みの中の人生だった。
 森氏が言うような、神に委(ゆだ)ねて生きると言った
って無責任な生き方だ。誠実な生き方ではない。最後まで
神が出ない場合もあるのだ。
 マザーテレサさんの様に、神は居ないと正直に悩みなが
らも、インドの可哀想な方々を救う仕事を、一生懸命、正
直に、そして、努力し、頑張って努めた方が、美しく見え
る。
 悩まなければならない神なのである。
 居るか? 居ないか? 分からない、そんな、あやふや
な事に委(ゆだ)ねて・・、
 自分は、何ら、アクションを、『しないという人生』『
生き方』。
 しかし、マザーテレサさんが居ないと悩んだ神が、夢の
中か、『幻聴』か、『幻視』かは知らないが、出て来たと
森氏は言い・・そして、決断したというが・・、
 そうだとしても・・、何らかの方向へ行動を起こしたと
しても・・、それを神の示唆だと思うのか?
 自分の意思が、自分の背中を押したと思わないのか?
 深層心理の自分の意思が・・ふわっと浮かび上がったと
思わないのか?
 深く思っていた、深い自分の決断が・・決定した瞬間だ
ったのだ。
 人間は、生活して行くにおいて、びっくりするほど、ま
た、自分で認識できないほど数多くの決断を、自分でして
いるのだ。
 そこに「神が介在していると思っている自分が居る」の
だ。
 その決断を、しっかりしたいと願い、思う、自分も居る
のだ。
 何もしないで「ぼけっと」した人間は、「ぼけっと」終
わってしまうだろうが、それはそれなりに、自分がする決
断の連続の中に存在しているのだ。大きな決断、小さな決
断、決断に見えない決断、などなど・・。
 キリスト教の、ただただ神を待て、神にゆだねろは、『
悪の教え』だ、人間を破滅に導き・・破壊する。
 この無気力さは・・心も破壊する、悪の教えなのだ。
 人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在してい
る。そして、頑張り社会を支えるが正しいのです。
..
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人間が・・神になってしまうのです・・、

 題:人間が・・神になってしまうのです・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教聖職者が・・言う・・、
 「キリスト教聖書で言っている様に、キリスト教の神が、
人間を創ったという創造主と・・被造物という人間との・・、
神と人間との間に『上下関係』がある」・・と。
 また、聖職者が・・言う、
 「キリスト教の神は、人間に、『自然を従えよ』と言っ
た。ここに、人間と自然の間に『上下関係』がある」と。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が・・言う、
 「キリスト教は、神・人間・自然を・・、『上下関係』
として捉(とら)えています」・・と。
 そして、「『創られたもの』としての人間は、決して、
『創ったもの』になることは出来ないのです」・・と。
 ここで、はっきりしたいのが・・「自然」である。
 このキリスト教の神の言う『自然』は・・、「地球の自
然を言っているからである」。
 当然、地球外のものも自然なのだが・・、
 地球以外のものも・・自然だとして捉えると、キリスト
教によくある「矛盾」が生じるのである。
 つまり、『宇宙すべての自然を従える人間』となってし
まう。
 宇宙すべての自然を従える人間となると・・、
 「人間が・・神になってしまう」。
 キリスト教の神は、『人間は神になれない』と言ってい
る。
 ここに・・矛盾が「発生している」。
 キリスト教は、「キリスト教の神が、宇宙を創造した」
と言うが・・、しかし、しかし、なのである。
 そのキリスト教の教義は、地球の中で成り立つ思考の教
義となっている。
 その自然が・・、人間が従えるその自然が・・、
 宇宙のすべてを含んだ自然だと考えると・・、
 その自然たる宇宙を従えた人間は、キリスト教の神と
『同一の神』となってしまう。
 この様な矛盾は、キリスト教には一杯あるが・・、これ
は、『基本中の基本』の大問題である。
 キリスト教の神が言っている事は、この様な事になって
いるのである。
 現代の科学は言う、「太陽は、膨張しています」・・と。
 その時まで、人類は存続できないのだが・・、例え・・、
キリスト教が言うように、人類が・・存続できたとしても
・・、
 人間は・・地球もろとも太陽に飲み込まれ・・吸い込ま
れ・・、
 人間が、『宇宙全体の自然を、従えるような事など、到
底(とうてい)、出来ない』のである。
 明らかに、キリスト教の教義・考え方は、『間違ってい
る』のである。間違った考え方で、正しい判断なんて、で
きないのである。そうだと不幸が訪れてしまいます。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
 「人間は、徹底的に、人間でしかあり得ないのである」
・・と。
 「だから、そこに、キリスト教は、人間の平等を説いて
いる」・・と。
 この言い方は、拡大解釈、極まりない言い方である。
 キリスト教は、序列、極まりない宗教である。
 神の下に・・聖職者を置き、頂点にいる神の意志を、そ
の下の聖職者が聞き、その聖職者の下にいるキリスト教の
信徒へ、上意下達するのだというキリスト教の考え方・教
義、キリスト教のヒエラルキーの序列の世界・・、
 その聖職者だって・・身分、階級が・・細かく上下関係
がなされていて・・、中には足の引っ張り合いをしていて、
エルサレムでは聖職者が乱闘している。
 また、天使だって「大天使だ」、何々天使だと序列だら
け。
 キリスト教は、何処にも、平等や平等観なんて無い宗教。
 序列の宗教、階級の宗教なのだ。有色人種は、劣等だと
年がら年中、言っていた宗教。
 話を捻じ曲げ、作り出して嘘を言う聖職者たち。
 そんな姿の中で・・宗教が成り立っている。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
 「神に支配されているという意識を持つと、人間が、人
間を支配しようという考え・意識はなくなる」・・と。
 これは自分に都合のよい話へ、合理性なく、論理性なく、
引き込んでいる。
 これはまた、キリスト教聖職者の序列の一つを見たって
・・おかしいと思う。
 キリスト教の神を説くキリスト教の聖職者の世界が、何
故、あの様な序列・ヒエラルキーの世界になって居るのか?
 また、神の使いの天使の世界も・・序列だらけだが、こ
んな事は言えたもんではない。
 キリスト教の神は、隣国の富を奪いに攻め込ませて・・、
 「奴隷にせよ」「奴隷にせよ」と叫ぶ、
 キリスト教の神が率先して、人間を、人間以下にする「
奴隷にしろ」と言っているではないか? 差別しているで
はないか?
 キリスト教の神が、率先して、人間を人間以下にする卑
劣な事をしているではないか? 差別観を植え付けている
ではないか?
 キリスト教は言う、「神の人間支配は良いが、人間が人
間を支配すると、危険をまき起こし不幸になる」・・と。
 そして、キリスト教は、この事例として「ヒットラーや
ムッソリーニや日本の戦時体制」を言う。
 これは、第二次大戦の不幸な時代をわざわざ持ち出して、
キリスト教の神を美化しているに過ぎない。
 この様な不幸な人間関係の時もあったろうが・・、キリ
スト教の例にした事例が悪いだけ、不幸な人間関係は一杯
ある。ドイツのヒットラーは、キリスト教に被(かぶ)れ
て、ユダヤの方々に大変酷(むご)いことをした。
 キリスト教の論理展開は、何か素直ではない。
 ひねくれた論理展開だ。
 ただ、キリスト教の神を、美化したい論理へ持ち込みた
いだけだとしか見えない。
 お母さんが、愛情溢れた目で見て、子供を導く姿は、微
笑(ほほえ)ましい姿に見えます。
 導く、そして、導かれるという関係です。
 時には、厳しく言う時もあるでしょう。
 キリスト教の仕方はこれでない、そして、見方は、短絡
的で狭いです。
 キリスト教は、どうしても、論理が正しく正常に組み立
てられない宗教。どうしようもない宗教。
 そして、直しようもない宗教です、関(かか)わってて、
このどうしようもないところに陥(おちい)って、
 解決しない・・どうしようもない・・この事に、あなた
の大切なものが、失われていくことになります。
 あなた方を救い出したいので、この様な事を書かせて戴
きました。
 ..
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2014年9月26日金曜日

本当に聞けるなら・・キリスト教の神から聞いて、知ってて下さい。

 題:本当に聞けるなら・・キリスト教の神から聞いて、知ってて下さい。
 ...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
 .
  キリスト教の神の下に・・キリスト教聖職者が居る・・、
  キリスト教の聖職者は、お手盛りで、その地位を、立場
 を・・作っている。
  そして、キリスト教聖職者の下に置かれた「キリスト教
 の信徒」の方々・・、
  その信徒の方々へ、キリスト教聖職者が、キリスト教の
 神の意思を伝えるという組織・序列・ヒエラルキーが、キ
 リスト教の立場の・・関係図・・、
  そして、キリスト教の神は、何でも知っていて、何でも
 できる・・としている。
  だから逆に・・人間は、何にもできないし、そんな状態
 ではないのだと・・、キリスト教はしている。
  因(ちな)みに、キリスト教聖職者は人間で、半分、神
 だとかではなく、やはり人間で、何にも知らないし、何も
 できないという人間で、その範囲では、信徒と同じ類いと
 している・・
  その様な立場の・・キリスト教聖職者が言う・・何でも
 知っている神の様に・・、
  「人間は、キリスト教の神の様に無から有を生み出すこ
 とはできない」・・と・・、
  そして、キリスト教聖職者は、色々と神の代弁者だとし
 て、話す・・が・・、
  神の代弁者として・・話すが(神の下に居る者だとして)
 ・・、だが・・、
  結局は、人間として知り得たこと・・のみ・・を・・、
  人間として・・感覚で感じたことを・・その人間として
 得たことを材料にして話すという・・人間の類い・・とな
 っている。
  そして、この人間として感じたこと、このキリスト教聖
 職者は、自分の五感で感じられた事が『正しい」として、
 古代にキリスト教が出来た時には無かった、この今・現代
 のキリスト教聖職者の独自の、また、現代に生きている事
 によって知り得た知識も神のものとして、自分で作って出
 来た自分のキリスト教を宣(のたまう)。
  「人間は無から有は創り出せない」・・と・・、
  ならば・・、その「無」なのだが・・、
  まず、「無」の世界は・・存在しないと現代科学は示唆
 する・・のです。
  人間の・・キリスト教聖職者は、その様に感じて、神の
 代弁者だ・・神の意志だ・・として、そう言うが・・、
  1例として、物質を例にすると・・、
  今、最先端の現代科学は・・、人間に認識できる物質は、
 何と・・3割なのだと言う。
  人間の・・キリスト教の聖職者の方々は、その様な事を、
 キリスト教の神から聞いていましたか? 聞いていなかっ
 たでしょう・・、驚かれたでしょうと、言いたい・・です
  実に、7割という多くの物質が、このキリスト教聖職者も
 含めて・・認識できないのです。
  キリスト教聖職者は感覚で思ったことを言いますが、人
 間は、物質に取り囲まれて、その物質のすべてが認識でき
 て居ると思って居るのは・・錯覚なのです。
  「ない」と思っているものが・・「ある」のです。
  無だ、有だ・・というのは、言葉の遊びになっているの
 です・・、
  『認識できない世界』の・・物質だけでもこの始末、
  すべて分かった様な口を聞くキリスト教聖職者という図
 となっています。
  この様な、狭い領域だけでも、分かった様な事を言って、
 キリスト教徒の方々を繰(く)る操(あやつ)るキリスト
 教聖職者・・
  まったく無責任、極(きわ)まる結果になっていると思
 います。
  こんなキリスト教聖職者に繰られていて、幸せになれる
 はずはありません。
  物質だけの「有る」という話と、「ない」という話でも
 この様なことなのです。
  物質以外の話に至ると、神の代弁者のキリスト教聖職者
 の方々は何も知らないと言えてしまうことになります。
  本当に聞けるなら・・キリスト教の神から何でも聞いて、
 知っていて戴きたいと・・思います。
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2014年9月18日木曜日

今、キリスト教は、新たな宗教弾圧者に、なろうとしている。

 題:今、キリスト教は、新たな宗教弾圧者に、なろうとしている。
 (長崎のキリスト教関連の世界遺産登録は、嘘を作ろうとしている)
...(真を求めて 皆様ととともに幸せになりたい)
.
 日本人は、本当に、温厚な民族だ・・、
 その1例・・、
 キリスト教の日本の禁教の歴史の中で・・、
 江戸幕府は、そう厳しい取り締まりをした訳では無かっ
た。
 それが、ヨーロッパ社会と同じ様な取り締まりが、日本
で行なわれたと・・錯覚されている・・錯覚させられてい
る。
 この主な原因者は、キリスト教とNHKである。
 この錯覚があるとキリスト教には都合がいいのである。
 厳しい取り締まりのあった中を、信仰を守ったとしたい
のである。
 キリスト教は、その様な嘘宣伝・プロパガンダを盛んに
している。
 また、キリスト教の偏するNHKも、ひたすら「キリス
ト教は、虐(しいた)げられた」という嘘番組を放送し続
けている。
 キリスト教禁教例以後、1600年代の半ば以降、徳川時代
のごく初期から、事実上、徳川幕府は、キリスト教取り締
まりからノータッチとなった。
 そして、幕府の『信仰の黙認』もなされている。
 研究論文に、「17世紀半ば以降は、信仰が事実上黙認さ
れていた」とある。
 この事実を知らないNHKは、キリスト教が弾圧を受け
続いたと放送し、明治になってキリスト教が自由になった
という歴史観で、間違った歴史観で、キリスト教に偏する
放送をし続けている。
 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録
申請も、この歴史観から申請しようとしている。間違いで
ある。
 その申請主旨の、「弾圧の中、信仰を忘れず、カトリッ
クに復帰した」というのは嘘である。はっきりした嘘であ
り、デッチアゲである。
 2016年の世界遺産登録を目指すと言うが、嘘・デッチ
アゲで登録を目指すというのは恥ずかしくないのか?と言
いたい。
 長崎県平戸市生月島(いきつきしま)の方々が、明治に
信仰が認められた時でも、カトリックにはならなかった。
 それは、信徒の長老の言葉でその理由が分かる・・、
 「(カトリックの人から)一緒にならんかと言われたが、
元は同じでも拝み方が違う。先祖の教えは絶やせない」・・
である。
 もう、今の状態は、キリスト教から程遠い、仏教や神道
などと習合して、キリスト教とは別の、キリスト教と異質
な宗教に・・変容しているのである。
 キリスト教だって、節操無く色々な宗教と習合し、また
集合するという・・習合のごちゃまぜの宗教であるという
ことを忘れないで戴きたい。天使だって、他の宗教からの
拝借品、借り物・・、その他にも、たくさんあります。
 この九州の長崎県平戸市生月島の方々の宗教は、キリス
ト教では、「最早(もはや)、ない」のである。
 このキリスト教と別な宗教に変容した宗教も尊重して差
し上げなければならない。
 それを、キリスト教は必死に戻そうとしているが、新た
な『宗教の改宗の弾圧になる』ということを、キリスト教
は知らねばならない、悟(さと)らねばならない。
 今、キリスト教は、新たな『宗教弾圧者』に、なろうと
している。世界遺産登録は無理である。
..
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魔女による大量殺戮は、ローマ法王の指令で始まった。

 題:魔女による大量殺戮は、ローマ法王の指令で始まった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 1484年、ローマ法王のインノケンティウス8世が・・、
 回勅(指令)で・・、
 魔女の逮捕と裁判を・・、
 異端審問として行うことを・・正当だとした。
 この卑劣なキリスト教の悪行為は、300年にもおよぶ期
間も続いた。
 これまで、キリスト教は、何だかんだと、敵対するもの
を「異端だ」として、この異端審問所で、死刑にして来た
が、この魔女も、ローマ法王・教皇の、この『おふれ』で、
悲惨な歴史が始まった。
 この異端審問所は、魔女裁判所ともなった。
 殺戮の輪転機は、魔女でも回り始めた。
 そして、多くの女性が、魔女として、焚刑で焼き殺され
た。
 この悪行為は、長い魔女殺戮の歴史は、続き、15世紀末
には、最盛期に達し・・、
 教会に行かないというだけで・・焚刑にされた。
 また、植民地の原住民の方々まで・・魔女として焼かれ
た、弾圧である。
 主に、カトリックが行ったが、プロテスタントもやり出
し、キリスト教は・・どの宗派もやった。
 魔女の、財産没収が目当ての・・悪行為だった。
 キリスト教は・・資金を欲しがった。
 この魔女殺戮は・・18世紀の半ばまでの長い期間・・続
く、長い卑劣な殺戮の歴史が・・刻まれた。
 しかし、キリスト教は、今・現在でも・・この悪行為を
どどこ吹く風として言う・・
 「キリスト教会も人間が作ったもの、間違いはある」と、
悪びれず言う始末となっている。
 それでも宗教者なのですか?・・と、怒りがわく。
 あまりにも、多くの女性の方々の命が、亡くなっている
のである。
 この方たちへの思いやりの「ひとかけら」もない。
 キリスト教は、この様な宗教なのだ。
 きれい事は言っているが・・、
 キリスト教が・・家族へ言う、「体の中の悪魔を火によ
って追い出すのだ」・・と、非科学的極まりない・・
 この非科学的なやり方 極まりもないものを、キリスト
教は、逆に、「慈悲深い科学的方法だ」と言う。
 非科学的なところが、次々と出て来る宗教が、何をかい
わんやである。本当に怒りが涌く。
 今・現代でも、キリスト教は、悔い改めていない。
 キリスト教は、処刑を「見せしめ」にもするという非人
道的なやり方をした。
 そして、薪の代金までの一切合財(いっさいがっさい)
を被害者家族に請求した。
 そして、キリスト教は、この非人道的行為を、日本の徳
川幕府もしたと、自分の極悪行為を棚に上げて、徳川幕府
になすりつける事をする。
 日本は焚刑ではないのに、キリスト教は同じだと嘘を言
う。
 また、日本の場合、本人でなくても、本人以外の人、家
族とか知り合いでも・・「止めた」と「ひとこと」言えば
許された。
 徳川幕府は、穏便に事をおさめたかった。
 踏み絵にしても、キリスト教は、ひたすら・・仕切りに
厳しくプロパガンダ(嘘宣伝)するが・・、事実は違った。
 そして、刑場の柵も・・一部が開けてあり・・、逃げた
い者は・・逃げられる様にしていた。
 あまりにも・・キリスト教が、ヨーロッパでやった事が
酷(ひど)いので、
 また、キリスト教の嘘宣伝もあり、同じ様な事が、日本
でもなされたのだと・・錯覚され・・誤解されているが、
 日本人のやった事は・・穏やかだったのだ。
 人数も、ヨーロッパに比較にならないくらいの少人数だ。
 期間も、1650年までの・・ほんの徳川時代の初期だけの
事だった。
 これもキリスト教は嘘ばかり言う・・、
 ヨーロッパ中の空が・・魔女を焼く煙で・・けむったと
・・言われているぐらいであるのに・・、日本は、その様
なひどい事はまったくと言っていいほど・・していない。
 キリスト教は、ひたすら酷(ひど)く・・日本の事を言
う・・、子供まで焼いたと言う。
 これは嘘である・・逆である。
 キリスト教は・・「殉教だ」、「殉教だ」と殉教を美化
して・・キリスト教徒の方々を洗脳した。
 その為、子供連れで出頭して来る人も現れるという状態
だった。
 キリスト教は、本当に嘘ばかり言う。
 キリスト教の魔女裁判での殺戮は、約300年にも及ぶと
いう長い期間・・執拗(しつよう)に、陰湿に行なったが、
 そして、キリスト教は、日本でも、明治になって禁教令
で解かれるまで、日本でも行われたというが・・、これも
真っ赤なウソ、
 ほんの徳川時代初期の・・一時期だけなのである。
 キリスト教は、助産婦の方々もターゲットにした。
 キリスト教の財源であった医療関係の競争相手であった
助産婦の方々を・・この魔女で、殺戮した。
 当時、医療技術が端緒に付いた頃で・・、キリスト教は
財源と権威を求めて、この大学の医療と関係を持った。
 その時、この助産婦の方々が邪魔となった・・、
 当時、ヨーロッパの助産婦の方々は、家庭医の役もして
おり、薬草学にも秀でており、この助産婦の方々が、夜、
薬草を煎じる姿が・・魔女とされた。
 西洋には、東洋の漢方の様な薬草学のノウハウがあった。
 しかし、キリスト教のこの弾圧で、西洋の薬草学は滅び
た。大きな人類の損失である。
 キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の代弁者の如
く、殉教の酷い日本だの嘘放送を、繰り返しした。
 このNHKの放送も、真の姿を捻じ曲げて、日本の方々
に印象付け、NHKが、嘘の原因者となっている。
 公正ではない、キリスト教に偏するNHKである。
.
 (参考)かい‐ちょく【回勅】 ローマ‐カトリック教会で、
   教皇が全教会の司教または信者にあてて、教会全体
   の重要問題について書き送るラテン語の手紙。回章。
..
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「日本にも原人がいた」は、捏造だと判明しました。

 題:「日本にも原人がいた」は、捏造だと判明しました。
.
 昨日(2014・9・17)に、本ブログに記載させていただ
きました「日本にも・・原人がいた」は、捏造だと判明し
ました。
 参考として、下記のURLをご覧ください。
 誠に申し訳ございませんでした。
http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/scramble/scramble2003/20030814.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/kyuusekki.html

2014年9月17日水曜日

日本にも・・原人がいた。

 題:日本にも・・原人がいた。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 日本にも・・原人がいた。
 驚くべき事実・・である。
 「北京原人」や、「ジャワ原人」に、匹敵する原人であ
る。
 いや、それ以上の、歴史を遡(さかのぼ)る原人なので
ある。
 この日本の原人は、「上高森原人」と言う。
 この上高森原人は、1993年(平成5年)の発見にその端
緒(たんちょ)がある。
 1993年に発見された場所は、仙台市の北にある古川市
近くの築舘(つきだて)という町で発見された。
 約50万年前と判定された石器が、45点発見された。
 この遺跡は、「高森遺跡」と言われたが・・、
 それから1年後の1994年に・・、
 同じ築舘町の上高森遺跡から、およそ60万年前と見られ
る地層から、火に焼かれた跡がある石器、10数点が発見さ
れた。
 先の発見より・・さらに10万年さかのぼる発見であった。
 しかし、更に後に、土中から環状に石器を並べた埋納遺
構(まいのういこう)が発見され、やはり60万年前のもの
と判定された。
 そして更に、1998年には、上高森遺跡で、10センチメ
ートル深い所に埋まっていた13個の石器に、年数判定で、
約78万年前まで・・さらに遡(さかのぼ)る事が出来るの
ではないかと言われる遺跡が発見されている。
 時代区分では、「旧石器時代の前期」に相当する。
 因(ちな)みに、日本列島は火山灰地で酸性の為、人骨
は、破片程度でも見つかるのも極めてまれという状況。
 当然、石器の発掘と検証に依存する事になる。
 また因みに、縄文時代の草創期は、今から12000年前の
紀元前1万年である。
 先石器時代が日本にあるとは言われていたが・・その年
代が判明してきた。
 アフリカの東側に南北に連なる山脈のふもとの原に・・、
 樹上で生活をしていた人類の祖先が・・、
 その原に降りた所から・・
 人類の発生の歴史は・・始まったと言われている。
 その山脈が、人類のその祖先を・・外敵から守ったのが、
樹上生活から降りて・・原での生活を可能にしたという。
 人類の祖先は、その原での生活の中で・・立つ生活をす
るようになり、脳の発達が促(うなが)された。
 やがて、人類のその祖先は・・、その地から世界へと広
まって行った。
 かつて、日本には・・原人は居ないと言われていたが、
 この度の発見で、その人類の祖先は、日本にも達してい
たのだ。
 大陸と陸続きであったためであろう。
 日本の原人の最古が、78万年前まで遡(さかのぼ)った
が・・、
 北京原人やジャワ原人は、その日本の原人の後、約20万
年の後となっている。
 人類は生活を求めて、世界を移動していた。
 そして、このアジアの地で発見された原人の最古の原人
が・・日本に居たのだ。
 縄文人が紀元前1万年前であるので、この日本の原人と
の繋(つな)がりは無いとは考えられる。
 それにしても・・日本史は、一気に、78万年前まで遡
(さかのぼ)って語らねばならないという歴史となった。
 また、その歴史を持った民族となった。
 古い歴史を持った民族という・・、
 その重い歴史と共にある日本を・・、
 その地に居るという・・『誇りを持とう』。
 日本は、先住民を殺してできた国ではない、また、原人
がいるという重い歴史がある国なのだ。
..
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2014年9月16日火曜日

それが・・キリスト教の神の知識・・、

 題:それが・・キリスト教の神の知識・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 土星の衛星のタイタンは・・、
 メタンが、液体で存在するという環境にある。
 しかも、そのタイタンの・・その液体の・・
 対流や、流動が・・関係して・・、
 有機体のソリンが・・存在している。
 そのソリンは・・、地球上の常態では・・存在できない
もの。
 そしてまた、そのソリンは・・、地球の実験室の試験管
内では・・存在させることができるもの。存在は確認され
ている・・、
 その様なソリンが・・、タイタン上では・・有機体とし
ての活動をしている。
 ここに・・生物の存在が・・考えられている。
 キリスト教の神にも・・この様なこと・・、
 キリスト教の神にも・・想像できないことが・・起き・・、
 また、キリスト教の神が・・想像できない生物なのだ。
 聖書を読めばわかるが・・
 キリスト教の神は、地球以外の星で、メタンという液体
から有機体が出来ているという事実を・・全く知ってはい
ない。
 これは、最新の・・知り得た人類の・・知識なのだ・・
ボイジャーと言う宇宙探査機の・・成果なのだ。
 当然、キリスト教の聖書には、まったく、書いてない。
 この様な概念の領域に・・キリスト教聖書の概念が、お
よんでいない・・まったく・・、
 悲しいかな・・、宇宙の想像をしたキリスト教の神は、
古代の地球上での肉眼で・・知り得た事しか・・書かれて
いない・・
 その記されている事が、またまた、悲しい事だが・・、
 その記載のほとんどが・・地球上の事ごとしかないのだ。
 地球上で知り得た、ごく限られた知識でしか・・書かれ
ていない・・、それも古代人の想像で・・、
 それが・・キリスト教の神の知識。
 キリスト教の神の存在は、地球上の誇大に作られた想像
概念が、明らかに、今・現代においても、そのまま話され
ていると言う状況になっていて、その様なものを読んで・・
宗教が成り立っているに・・過ぎない。
 それでなくても・・科学的に、まったく駄目と言われて
来た宗教が、科学が進めば進むほど・・その醜態(しゅう
たい)を更に、さらけ出すという宗教。
 人類に悪結果を及ぼさないならば・・そのまま、好きな
様にしていなさいと・・言っていて良いのだが・・、
 人類に及ぼす悪影響が・・非常に大きく、多い宗教。
 その存在は・・否定されなくてはならない。
 「キリスト教の性悪説」・・これで何人の方々が心を病
んだ事だろう・・これも科学的に立証されている。
 また、選民思想によって、何人の人々が殺されて来たの
か・・、
 そして、その害を人類に与えて、
 その人々を・・救済せねばならない。
 また、貴重な人材が、貴重な人々が、貴重な人生が、そ
の多くの価値あるものが、まったく無駄に浪費されてもい
る。
 この莫大な人類の損失を無くさねばならない。
 キリスト教聖書の僅かな記述に何と多くの貴重な優秀な
人材の人生がつぎ込まれたことか・・、
 とうの昔に研究余地が無くなっているものに・・、
 この様な無駄も含めて人類へ及ぼす損失は計り知れない。
.
 そして、次の話。
.
 キリスト教は、「声が聞こえた」とか、「姿が見えた」
とかという話が、あまりにも多い宗教。
 これは、はっきり言って・・『幻聴』と『幻視』だ。
 そして、この話を宗教的に、無理に意味付けし・・、
 美化して、信徒の方たちを操(あやつ)り・・、
 そして、繰(く)っているから・・始末に悪い・・、
 『幻聴』であり、『幻視』であるものを・・、
 この状態は、疲れたときとか、追い込まれたりしたとき
に出る状況、身体や心が、追い込まれたり、疲れたりして
出ているだけなのだ。
 つまり、不健全・不健康な状態なのである。
 これを・・キリスト教は・・逆に、美化し、もてはやす
から、まことに不埒(ふらち)で・・不健康・・、
 そして、この様な状態を悪い状態と見ないから問題も起
きる。
 『幻視』を・・、
 聖霊を見たとか、妖精を見たとか、そして、挙句の果て
は、キリスト教信仰が深いからとか、良くなっているから
とかと・・誉(ほ)めたり、讃(たた)えたりと・・、
 まったく不健康な状態を美化する・・
 『神の声が聞こえた』は、その様なマインド・コントロ
ールされた人々には、神がかり的に聞こえて・・、
 キリスト教のその様な状況は・・その様に受け取られる
のが都合がよいだけなのだ・・信徒の方々にとっては、当
然、良くないことなのだ・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
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2014年9月14日日曜日

さも正しいことを言っている風に装(よそお)って・・

 題:さも正しいことを言っている風に装(よそお)って・・
   現代社会に・・訴えるものはない・・不可能・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 東京大学を卒業し・・東京工業大学の教授をした・・、
 八木誠一氏は・・、
 「キリスト教研究が進み、その研究が細部に至って来れ
ばくるほど・・、
 イエス像の再構成の見通しは(むずかしく)暗くなって
来る」・・と言う。
 今、イエスは本当に居たのか?・と、言われている・・、
 イエスの実在性さえ『立証できない』ことになっている。
 古代の・・、
 歴史のある一時期、キリスト教の組織が・・、
 事もあろうに・・、
 良かれと思ったのだろう・・、
 宗教的に不利になるからと・・、
 キリスト教の文献を廃棄するという馬鹿な、破廉恥な行
動をやった。焼却処分・・、
 結果、イエスの実在性の証明さえ出来ないということに
なってしまった、イエスの存在の立証が出来ないという自
体に、陥(おちい)ってしまった。
 また、氏は、「史的に再建されたイエス像は、たかだか
蓋然(がいぜん)的妥当性の域を出ない」・・と、
 その歴史的な存在・史的なイエスの実在があやふやだと
伝える。
 そして、イエス像の再建は無理なことと言っている。
 また、氏は、「イエスの思想は新約思想の部分であり、
全部では無い」と衝撃的な事を説明する。
 イエスの事を書いたのが新約聖書の福音書などだという
キリスト教の論理は成立しない。
 新約のイエスは作られた。創作(作ったもの)の新約と
・・。
 また、氏は、「イエスの思想を規範とするのなら、原始
キリスト教団の思想(神学)の多くは・・切り捨ててしま
わなくてはならない」と言う。
 つまり、イエスの思想(神学)と、原始キリスト教団と
は対立していると、その多く点が違っている・・という。
 (同一のものだと言う方がおかしい)と言っている。
 また、氏は、「イエスの思想(神学)は、神学的にその
根拠が明白ではない」という。
 ここは大切な点だ。つまり、イエスの思想は、『神学的
に不明確だ』と糾弾された。神学的におかしい?・・と。
 イエスは、神だとされて・・、
 実在したとされて・・、、
 実在したのだから、その言葉があるのだとされて・・、
 しかし、最後に、カウンターパンチの如くの『決定的ダ
メージ』を食らう。
 ノックアウトという状態・・の話に至った。
 肝心の、そのイエスの神学がおかしいと・・、
 イエスが行ったという言葉の・・その思想(神学)が、
神学的に駄目だと・・最終的駄目出しのハンコウを押され
てしまった。
 そして、氏は、「イエスが人々へ訴えかけ、問いかけて
いるとされているが、その古代の人々を越えて現代の人々
にも訴えかけて来なければならないのだが、イエス中心主
義には、その様なことは不可能である」・・と。
 原始キリスト教団の神学に由来する、その教団の流れの
神学を、イエス中心主義は、批判さえした・・と。
 ここがキリスト教の神学的な弱点になっていると・・、
 また、哲学的な弱点になっている・・と。
 このイエスの思想(神学)と、キリスト中心主義的神学
の流れの三位一体神の神学的・哲学的な存在が、対立して
いる結果となっている・・と。
 つまり、イエスの思想(神学)は、今・現代のキリスト
教神学と対立している・・と。
 キリスト教が、新約の世界になった、『イエスなのだ』
となったとしているが・・、
 逆から見て言えば、そのイエスの思想(神学)とキリス
ト教神学(キリスト中心主義的神学)の対立は、その中心
に居ると思われているイエスの存在が逆に、大きな齟齬(
そご・間違い)を与え、足を引っ張っているというのだ。

 (参考)がい‐ぜん【蓋然】 たぶんそうであろうと考え
   られること。ある程度確実であること。⇔必然。
 (参考)そう‐さく【創作】 [名](スル) 1 文学・絵画
   などの芸術をつくり出すこと。また、その作品。「
   物語を―する」「―舞踊」 2 つくりごと。うそ。「
   そん...
.
 そして、次の話・・、
.
 キリスト教の聖書は、神から与えられたもの・・??、
 可哀想な事に・・この言葉に、キリスト教の聖職者の方
々が・・自信が持てなくなって来ている。
 神から与えられて来たので・・無謬(むびゅう)だ、爪
の先ほども間違いはないのだ・・と、言って来た・・が?
 ・・が、さすがに、今は、その様にも言えなくなった。
 その様な状況にある・・現状において・・、
 キリスト教聖職者が言い出した事は・・、
 「精神を理解していればいいのだ」・・と、苦し紛(ま
ぎ)れに言う・・、「その精神を理解して行けばいいのだ」
・・と・・、果たして・・その様な状況で、続ける意味が
ありますか??
 聖職者の方々は、苦し紛れに、その様に言われますが・・、
 それを信じる・・キリスト教徒の方々が・・可哀想・・、
 キリスト教聖職者が・・『信じるべきではない』と思っ
ていることを・・精神を学べばいいのさ・・と言う・・、
 その精神も間違っているのです・・、
 苦し紛れに・・『反面教師としている』と言った人もい
た・・、
 反面教師として・・信じられるのか??・・と、思った
が・・可哀想なので言えなかった・・、
 しかし・・しかし・・その精神を学べばいいと言ってい
る「その精神を学ぶべきものが間違っている」ということ
・・。
 その点を、気付いているのか? 気付いていないのか?
 例えば、間違っている地図を見せられて、精神を学ぶの
だと言ったって、「あれれ!泥沼に填(は)まっちゃった」
では、もう遅いのです。地図が・・??・・なのです・・、
 間違っている宗教において、その精神を学べという言い
方は、論理的におかしいのです。
 精神を学ぶと言って、やっている聖職者は、結局は、勝
手な聖職者の個人的な、勝手な読み方、理解をしていると
いうこと。まともに理解して言うと大変なことになるから
・・と・・
 正しくも無い地図から、個人が勝手に推察して、探し、
漂(ただよ)って、航海している様なもの・・。
 どこへたどり着くか分からない・・未知の世界を漂って
行くだけ・・
 それを、個人が推察して作ったものを、純真な子供や、
青年や、キリスト教徒の方たちへ・・、
 結果的に、惑わすことをする、している。
 キリスト教聖職者の、御自分の宗教を押し付けているこ
とになっている・・、
 さも正しいことを言っている風に装(よそお)って・・
..
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2014年9月12日金曜日

思考停止をしたのを誉められて・・正義とされる・・、

 題:思考停止をしたのを誉められて・・正義とされる・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエスの体に・・、娼婦が・・、
 触れているのを・・、ファリサイ派の人が見て・・、
 イエスに・・言った、
 「あなたが預言者なら・・、自分に触れている人が・・
 誰であるかが・・分かるでしょう」・・と。
 イエスの、この時の、答えは・・、
 「罪深い人であるからこそ、多くの罪を許されるのだ」
・・と。
 つまり、可哀想な人ほど・・また、恵まれない人ほど救
わねばならないという・・我々が常識的に持つ・・
 ごく一般的なことを・・言っているのだが・・、
 このやり取りは・・、キリスト教によくある・・『食い
違い会話』となっている。
 イエスは、相手の質問に・・いつも・・誠実に・・答え
ない。まともに、答えない・・、
 これは、イエスが・・自分のことを・・「予言者だ」「
予言者だ」・・と、言っていることが・・嗜(たしな)め
られている・・という面もある。
 イエスは・・、イエスの生まれ育ちをよく知る・・、
 その人となりをよく知る・・故郷の人に・・、
 「予言者とは・・うまいことをやっているな」・・と、
羨(うらや)ましがられている・・が・・、
 当時、エルサレムには・・、収入のいい預言者業の人が
大勢いた。
 イエスの故郷の人は・・、これを羨(うらや)ましく思
っていた・・、そして、このイエスへの言葉に・・なった
のだ。
 このファリサイ派の人の・・言葉にも・・、この羨まし
く思う心もあったのだろう・・が、イエスは・・、まとも
に答えない・・
 エルサレムの人たちからも・・「大酒のみ」とか、「大
飯(おおめし)食(く)らい」とかと、言われている様に、
 その多い収入からも・・贅沢(ぜいたく)な生活をして、
 (庶民の方々は、色々な重税に苦しめられている中で、
うまいことをして)・・その様な風袋(ふうたい)を・・
曝(さら)していたのであろう、太った体で・・(研究者
に・・イエスは太っていたという研究結果がある)、
 また、ファリサイ派の人には・・、イエスが・・予言者
として・・あまり『ぱっ』としたことをした事がないのに、
 「予言者だ」「予言者だ」と・・言う事だけは一人前と
いうところが見られたので・・、その様な言葉にも・・な
ったと考えられる。
 イエスは、この言葉を無視した。
 答えなかった。
 答えられなかったのだろう。
 そして、ファリサイ派の人が・・、言葉の最後に・・つ
けた・・「罪深い女なのに」という言葉にだけに・・反応
したのだ。
 娼婦の方は・・、戦争ばかりで・・可哀想な時代・・、
 良い宗教が無いから・・人々を・・正しく・・導けない
 それ故にまた・・戦争ばかりの・・時代となっている。
 逆に・・、神の義があれば・・となりの国の富を・・取
る事は・・奪うことは・・正義だと・・、戦争をけしかけ
る様な・・宗教である為・・、
 戦争が・・無くなる・・訳がない。
 この様な・・劣悪宗教からも・・、この様な・・可哀想
な娼婦の方も・・出てしまうという・・状況だった。
 その様な・・劣悪の世の中・・であるが・・、
 でも、多くの女性が・・大変な世情の中・・、
 娼婦以外の・・正業の事をして・・、一生懸命・・真面
目に生きている。
 その様な・・状況から・・差別という意味では無く・・、
 娼婦が・・誉められるような・・立場にあったという事
は言えず・・そしてまた、誉める様な事は出来ないという
ことは・・正論である・・正しい論理である。
 ファリサイ派の方が言う事も・・、その様な意味からも
・・理解を示さなければならない・・ところでもある。
 深い、そして、広い・・その様な思索が・・出来る人な
らば・・、そのところにも、当然、思いがおよび・・、
 一面だけを・・捕えてもいけないし・・捕えてはいけな
い。
 当然、ファリサイ派の人にも・・その一面の正義がある。
 つまり、キリスト教の言う・・娼婦の『一方的な肩を持
つイエス』を・・素晴らしいという話に・・
 すぐ短絡的に・・繋がって行き・・、
 そして、誉める話でもない・・
 その様な話の進め方では・・駄目なのです。
 その様な・・色々な面に・・想いをはせ・・及ばせなが
ら・・事を処して・・行かなければならないところを・・、
 キリスト教は・・宗教的な『縛(しば)り』を受けて・・、
 イエスを誉め讃(たた)えなけらばならないとの縛りも
あって・・、
 本当に・・広い・・正論が・・説く事が出来ないという
宗教に・・成り下がっている。
 思考レベルが・・浅くなっている・・、
 また、イエスに・・この様な・・深い・・広い・・思考
の深さがあったのか?
 また、マグダラのマリアに・・その様な話を・・してい
たのか?
 このイエスの話を・・他愛無く(たわいなく)誉めて・・、
 それを・・キリスト教徒の方々に・・洗脳し・・マイン
ド・コントロールし・・、
 その他の・・色々な考え方を・・握りつぶして・・、
 宗教的にあるだけの・・自分に利のある話だけに・・色
付けして行くキリスト教は・・、
 ある意味・・無理な一つの結論に拘泥(こうでい)し・・
また、ファッショ的行為をしている。
 十字軍にも繋(つな)がる(教皇が謝罪のミサをした十
字軍)・・、
 十字軍を反対した・・『公の正義の人の声』は・・かき
消された・・、キリスト教によって・・。
 この事例のように・・、キリスト教は・・、
 今・現代の社会でも・・、この様な洗脳が行なわれ・・、
 キリスト教の神と言われれば・・自分の思考が・・、
 自分の自由な思考が・・停止する・・マインド・コント
ロールがなされている。
 自己讃美のキリスト教では・・ダメなのだ。
 特に、子供の頃から、マインド・コントロールをされ・・
 続けると・・、
 広い常識を持った人格が・・形成されずに・・、
 欠陥人間が・・出来てしまう。
 何も思考ができずに・・十字軍の様に・・真っ先に、戦
争に行くように仕向けられる人間が・・出来てしまう。
.
(追伸)「国境なき医師団」が、
 最近、エボラ出血熱、緊急事態、皆様のご支援が必要で
す・・と、新聞で公表していた・・
 国連も、今までにない大変な事態になっていると公表し
ていた。
 西アフリカで、エボラ出血熱(ウイルス性の感染症)の
流行が過去に例を見ない規模となっています。
 国境なき医師団は、流行当初から現地で患者の治療にあ
たっている医療援助団体として、現在も、治療と感染拡大
防止に全力を尽くしています・・とあった。
 そして、国境なき医師団(MSF)は、1971年に設立され
た非営利で国際的な民間の医療・人道援助団体です。命の
危機に瀕した人々の緊急医療援助を主な目的とし、世界約
70の国と地域で活動しています・・とあった。
 そして、標語として『一刻も早く、エボラ出血熱に苦し
む人々への治療を拡大するために、緊急援助活動をご支援
ください』・・とあった。
 エボラ出血熱に貢献する「国境なき医師団」。
 この「国境なき医師団」へ、応援を、賜ります様、お願
い申し上げます。
 寄金をするなら・・、
 キリスト教の伝道費用に多くの費用が消えるキリスト教
系組織に寄金するより、『 国境なき医師団 』へ寄付し
てください。ノーベル平和賞も貰っています。
 キリスト教団体は宣教に多くの費用が消えます。
 『命を救うのに、理由なんていらない。国境なき医師団』。
 郵便局口座名義:00190-6-566468 特定
非営利活動法人 国境なき医師団日本・・へ。税優遇措置
の対象となります。
 また、電話は 0120-999-199
 また、食糧が欲しい子供たちに十字架を配るキリスト教
団体は反省してください。
 一粒でも食糧を多く子供達へ、そして、寄付をしてくれ
た方々の善意を大切にして下さい。
 また、宣教師派遣も多すぎます。
 教会建設には『絶対』使用しないでください。
 また、あなたたちキリスト教系の方たちは、テレビ・新
聞・雑誌など、あらゆる所で宣伝し、多額の宣伝費用を使
用し過ぎています。反省してください。 
 長時間のテレビの放送時間を買い切っての宣教放送は、
超高額になるなど、あなた方は宣伝過多です。寄付金は大
切に使って下さい。
 そして、寄付を募(つの)って、恵まれない子供を助け
るという『善行為』が本来の目的なのですから、
 子供たちより、キリスト教の宣伝に精を出す組織から脱
皮して下さい、
 そして、最近は、
 キリスト教を隠しているから注意をしよう。
 また、最近は、『NHKや放送大学』を巧妙に利用して
宣伝しているから注意しよう。
 そして、「国境なき医師団』・・プロの仕事をしている
「国境なき医師団」の足手まとい、足を引っ張る様な事を
する事をお慎みください。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
 URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009