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2014年11月6日木曜日

気になった事柄を集めた年表 [1931年~1940年]

 題:気になった事柄を集めた年表 [1931年~1940年]
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1931年、満州事変が起きた。
 そして、日本は、ドイツと組む道を選ぶ。
 その道へ進まねばならない理由に、アメリカの日本孤立
策があった。
 アメリカは、日本が黄色人種の代表の位置につかせない
ために画策した。
 そして、自らの中国政策を推し進めた。
 日中離間策を強引に進めた。
 蒋介石(しょうかいせき)と日本政府との間の対立を画
策し、軍事物資その他で全力をあげて中国政府をアメリカ
は支えた。
 日本は、アメリカの武器を相手に戦わなければならなか
った。
 膨大な中国兵の人数と、果てしなく供給されるアメリカ
の武器。
 泥沼に入って行く原因だった。→2年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年~1945年)は、
 日本人が凶暴なのは頭蓋骨の形が違うからと本気で信じ
ていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
考えを、
 外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏が言う。
 当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという事をして
いた。
 日本は世界の5つの大きな大国の一つになっていた。
 「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。→4年
1937年、日本は、アメリカの様な人種差別・人種偏見は
無かった。
 アメリカの黒人知識人W・E・B・デュボイスは、
 この年、旅行し、
 「ピッツバーグ・クリア」誌のコラム欄に次の報告文を
書いた:
 「日本の旅行中、東京の帝国ホテルで勘定の支払いをし
ている時、
 『いかにも口うるさそうな、典型的アメリカ白人女性』
が、さも当然であるかのようにデュボイスの前に割り込ん
だ。
 ホテルのフロント係は、女性の方を『振り向きもせずに』、
デュボイスへの対応を続けた。
 勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々
とお辞儀(じぎ)をし、
 それからやっとその厚かましい『アメリカ様』の方を向
いたのだった。
 このフロント係の毅然とした態度は、
 これまでの白人支配の世界とは違った、
 新しい世界の幕開けの予感をさせた」と。→1年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
 た。
 地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→1年
1940年7月、ドイツ占領下のポーランドから、
 リトアニアに逃がれて来た多くのユダヤ系難民などが、
 各国の領事館・大使館からビザの取得をしようとしてい
た。
 各国領事館・大使館はソ連が閉鎖を求めたため(リトア
ニアはソ連が占領していたため)、
 まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先への
通過ビザを求めて殺到した。
 日本は、旅費や滞在費の有する者などの発給条件があっ
たもののビザ発給をしないということではなかった。
  杉浦千畝(ちうね)氏が、ビザ発給を禁止する日本政
府の意思に反してユダヤの方々を救ったというのは正確で
はない。
 当時、日本政府は、ナチスドイツの人種差別政策に賛成
しない強い意志があった。
 当時の日本の外交は独自の政策を取っていた。
 確かに杉浦氏は、ビザ発給をしたが、日本政府の命令を
反してまでしたというのは間違い。
 日本政府は、ビザ発給に反対はしていなかった。
 キリスト教徒の杉浦氏は、キリスト教のプロパガンダ(
嘘宣伝)で作り上げられている。
 日本政府はユダヤの方々にビザ発給をよしとしていた。
..
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矛盾・食い違いのデパート状態に・・、

 題:矛盾・食い違いのデパート状態に・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスが、『愛敵』を説いたという・・が、
 しかし、その精神の現れの言葉の一つといわれている
 「剣を取る者は皆、剣で滅びる」は・・、
 イエスの言葉ではないと・・言われている。
 この言葉は、「マタイによる福音書」にだけに書かれて
いる。
 他の福音書の・・この文の並行する個所には・・、
 この文は『全く出て来ない』、書かれていないのである。
 この言葉が出て来る福音書を、「マタイ」が書こうとし
た頃・・、
 ユダヤの民が、ローマ帝国に対して、「剣」によって解
放戦争を、ちょうど、した頃であった。
 しかし、悲しいかな、ユダヤの民は・・、
 ローマ帝国の「剣」によって・・滅ぼされてしまった。
 つくづく、マタイは悲しみ、そして悲嘆にくれ、「剣」
による結果のむごたらしさを悔いただろう。
 研究者は、この言葉を・・「マタイの言葉だ」と断定し
ている。「マタイの創作だ」・・としている。
 また、マタイが、福音書を書くころ、ユダヤの民のすべ
ての人が、この気持だっただろう。
 それ故に、マタイは、それを書いたのだ。
 「マタイによる福音書」は、ユダヤの民のその心を代弁
し、受け入れられたい意味もあって、書き込まれた。
 その文をマタイが創作し、書いたことによって、ユダヤ
の民から受容されただろう。
 また、イエスの言葉に、有名な「汝の敵を愛せよ」とい
う言葉があるが・・、
 これも、「マタイによる福音書」に書かれている。
 (「マタイによる福音書」5・43~45)参照。
 キリスト教の聖書の「申命記」には、1例であるが・・、
「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」
という教えを説いている。卑劣な教えである。
 キリスト教の聖書の全編が、この教えである。
 多民族が錯綜(さくそう)する狭い地域の、それも砂漠
の地で、民族が生き抜くには、その様な教えで無ければ、
民族は絶滅してしまうだろう。しかし、こんな卑劣な教義
は、現代には、まったく、そぐわない。
 古代の、この地の、この時なら、やむを得なかっただろ
うとも思えるが・・戦争に次ぐ戦争の世界が展開した。
 キリスト教の神が、率先して叫ぶ、「戦え、戦え」「○
○人は皆殺しにせよ」「△△人は、男だけを殺せ」・・、
 「生娘は生かしておけ」「奴隷にせよ、奴隷にせよ」・
・と。まったく、軽蔑すべき教えとなっている。
(しかし、現代でも、キリスト教の聖書に書かれている)
 民族の生き残りのためとはいえ、生きる糧(かて)を戦
い、殺し、奪った。
 キリスト教は、その様な教えの宗教だ。
 生きるために生娘は民族の子孫、生き残りの民族の民が
増えるためのものだ(それこそ性奴隷だ)。
 キリスト教の精神には、この様なモラル・精神が流れ、
キリスト教徒は、知らず・知らずに洗脳されている。
 他民族のすべてを・・しゃぶりつくす卑劣さが洗脳され
る、そして、何とも思わなくなる。恐ろしいことだ。
 キリスト教は、奴隷という家畜的な人の使用の思想を・・
宗教ゆえに消えずに、長い年月、伝えられ・・、
 この、キリスト教によって・・後の時代には、アフリカ
の方々が、あまりにも多くの方々が、奴隷にされて・・、
 そして、そのキリスト教の思想によって、多くのアフリ
カの方々が亡くなった。
 そして、世界中へ、キリスト教徒とキリスト教聖職者た
ちが、出て行って・・、
 インディオスの方々、アボリジニの方々・・を、あたか
も、狩りをする様に、また、ゲームをする如く・・、
 遊び半分で・・インディオスの方々を並べて立たせて、
何人を槍で突き通せるか・・などということなどをする。
 赤ん坊を岩に叩きつけたり・・、
 キリスト教は、「人間ではない」という見解を、出先の
人非人達へ伝えた。
 またこれも、あまりにも多くの方々が、キリスト教によ
って殺された。
 この他にも、ユダヤの方々、アメリカ・インディアンの
方々など・・など・・など・・
 卑劣・悲惨・酷(むご)い事が・・満ち溢れている・・
キリスト教。
 本当に軽蔑し、この宗教を怨(うら)む。
 戦争も、あまりにも多い。
 悲惨な歴史に満ちている。
 私だって、「汝の敵を愛せよ」と、何十回も、何百回も、
永遠に・・・卑劣なキリスト教の教えに対し訴えたい、叫
び続けたい。
 イエスは、この言葉を、もっと、『言い続けなければ』
ならなかった。
 イエスは、「この様な言葉も言いました」的な事しかし
ていない。
 これではダメだ。
 1回だか、2回だか・・これでは少ない。
 この大切な言葉を・・もっともっと言うべきだった。
 イエスは、神の国は、何回も言ったようだが・・、
 戦争を無くす大事な発言、『何回も言い続けよ』とイエ
スへ言いたい。
 それも、山上で1回、言ったきりでは・・駄目だ。
 聞いていた弟子たちだって、これを聞いて、何をしたと
言うのか?
 何もしていない。
 ただ、イエスが言いましたで終わっている。
 そして、そのキリスト教が・・、このイエスの言葉を
「まったく無視」して、肝心なお膝元(ひざもと)のキリ
スト教自体が・・、
 このイエスの言葉を「完全、まったく無視」して、
 人ばかり殺している。バカ垂れと言いたい。
 また、「言った、言った」と、キリスト教が、声高に言
う『愛敵』の言葉は・・、
 「山上の垂訓」というところで、イエスが言ったという
言葉にあるが、
 そして、その言葉が6つあるが、その6つの6番目に言っ
たとされている。
 大切な言葉は、最初に言われるものだが、そうではない。
 最初に言って、大切だから、また、最後に言うという事
でもない。
 本当に、重要なものと思っていたのか?・・と思う。
 それも、「女を見たら、女を犯す事と、同じだ」なんて、
いう言葉の後だ。
 何だ?という言葉の後ろだというのだから疑問だ。
 また、「女に離縁状を出したら姦通と同じだ」なんても
のの後にもなっている。
 キリスト教では、この「山上の垂訓」が、イエスの一番
大切な言葉だとしているが・・?
 キリスト教は、本当に、時代経過の中で、劣化しきって
いる。
 そして、キリスト教を、事実上、作ったというパウロは、
キリスト教は、「律法は捨てる」とした、
 一切合財、キリスト教には、不用だとした。
 イエスの言葉や(愛敵を含め)、イエスの人となりを、
無視した。
 「イエスの十字架状の血」と、「イエスの復活」だけで
良いのだとした。
 今、キリスト教は、この「パウロ・キリスト教」となっ
ている。
 イエスの「山上の垂訓」もあったもんじゃないとなって
いる。
 何しろ、キリスト教は、シッ茶かメッチャカになってい
る。
 あらゆる人が、あらゆることを言い、また、他の宗教か
ら「これはいい」と、あらゆるものを持って来て、天使も
持って来て、『ごった煮』になっている。
 だから、矛盾・食い違いのデパート状態になっている。
..
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2014年11月4日火曜日

野放し状態だった・・、

 題:野放し状態だった・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスと言えば、今でこそ、知って
いる人が多いが・・?、
 しかし、肝心のイエスが生きていた当時・・、
 イエスを知る人は・・狭く・・限られた状態だっ
た。
 イエスが、エルサレムに行ったって、聖書は、大
げさに嘘を書くが・・、
 その後の記述などを見ると・・どうもそれは・・
嘘記述だと・・、信用だけが失墜する記述だと・・
分かる。
 神殿で暴れることができたのも・・、
 イエスがその様な人だと、知れ渡っていれば、官
憲も、事前に、動くだろうし・・、
 人々もそれなりに予防措置をしたりと、対応した
だろう。
 イエスが、その様な人ではなかったからこそ、出
来た。
 あのように暴れれば、今の時代だったら、すぐ逮
捕されるだろうが・・、
 見も知らない人間であったため・・、無事にその
日が過ごせたのだ。
 そして、その次の日の動きも、出来たのだ。
 2日目は、また神殿前に来る。
 また来たのでと、逮捕をされるのかと思えば、そ
の様な動きも無く・・、
 イエスは、神殿前でアジ演説ができた。
 「ローマの税金について」の話だった。
 その様な人騒がせな行動でも、逮捕されるという
状況とはほど遠かった。
 イエスの「初犯的な行為」でもあったのだ。
 好き勝手な動きが続いている。
 一面、無視されている状況とも言える。
 また、当時、予言者がたくさんいるエルサレム、
イエスの様な事をする人間は、多かったと言える。
 祭司や律法学者とのぶつかり合いも、起きて来る。
 でも、最初は見逃されている。
 ぶつかり合いがあったって、逮捕なんて起きない。
 その日も無事に済んでいる。
 3日目になって、やっと、不穏な雰囲気が出て来る。
 イエスは、ここで、家に、ガリラヤに帰れば・・、
刑死なんて事は起きなかった。
 キリスト教は、美化するために必死に嘘宣伝、プ
ロパガンダで、イエスの話を作り上げているが、
 キリスト教の話と、実際は、まったく違うのだ。
 「イエスなんて」という状況だったのだ。
 イエスなんて捕まえて、刑に掛けようなんて、公
権力は、まったく考えていなかったのだ。
 この時点では、まだ、ユダは公権力に密告もして
ないし、密告しようとも思ってもいない。
 イエスが、自ら、この先に踏み込んだから、不幸
な事態が起きてしまったのだ。
 また次の日も、イエスは、やりたいことをやり出
した。
 当時の権力を持っている祭司や律法学者のお偉い
さんの批判をアジ演説した。
 神殿なんか崩れ去ってしまうと、その過激さは増
していった。
 当時、エルサレムの町に充満していた終末論、こ
れを、イエスも話したが、別に目新しさはなく・・、
『そうだね』ぐらいで済んでいた・・、さして問題
には、ならなかっただろうが・・、
 お偉いさん批判は、公権力も「むっと」しただろ
う。
 しかし、この3日目も、無事に何もなかった。
 そして、4日目も、似たような1日で過ぎて行った。
 公権力は、よく我慢していると思う。
 または、無視か? 目にもとまらなかったのか?
そんなものだった。イエスの好きにさせていた。
 しかし、この次の日の5日目に、イエスグループの
内部崩壊が起きる。
 グループの自滅行為である。
 結局、これが事の引き金を引いた。
 黙認・無視していたイエスを・・、「ならば」と、
 公権力が動いたのである。
 この5日目、いつものようにエルサレムの町で、
言いたいことは言えたのだが・・、
 夜になって、「最後の晩餐」と称されている会食
の席で、イエスは、仲間のこれからの行動の予想を
話す、それは批判でもあった。
 だからだろう、この会食後、ユダは、公権力に
「おおそれながら」と訴え出る。
 ユダは、前からイエスを、そうしようとは思って
いなかった。
 ・・が、しかし、この会食のイエスの言葉がきっ
かけにして、公権力に訴え出た。
 口は災いのもと・・イエスは口で失敗した。
 口の良くなかったイエスが、公権力を動かしたと
も言える。
 このグループの会食後、イエスは、ゲッセマネの
園で祈る。
 しかし、イエスと弟子たちとの意見が合わず、
 イエスが、「一緒に祈ってくれ」とたのむのに、
弟子たちは眠っていた。
 イエスは、弟子たちを怒る。
 これは、弟子たちのふて寝だろう、
 イエスと弟子たちの意見が合わなかったのが原因
の・・、
 そして、イエスは、ユダが道案内して、連れて来
た公権力に逮捕された。
 完全に、公権力は、イエスをマークしていなかっ
た。
 ユダが道案内して、『この人です』と言わなけれ
ば、逮捕者が分からない様な状態、野放し状態だっ
た。
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排日移民法のころの・・話

 題:排日移民法のころの・・話
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 1924年7月1日、アメリカで『排日移民法』が成立した。
 この法律で、日本人は、アメリカへ渡航できなくなった
 が・・、
 この時まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初
頭から、同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人
数の1ヶ月分にもおよばないという僅(わず)かな数だった。
 日本人は、2世の方々を入れても、アメリカの総人口の
0.1%という僅かな人数だった。
 しかし、アメリカの排日論者たちは、日本人が、大群と
なってやって来たと騒ぎ、西海岸を支配し、白人を追い出
すと叫んだ。
 新聞は、センセーショナルな日本叩きを行った。
 アメリカ議会の上院では、新聞社主のマクラーチーが、
日本からの移民を禁止しないと、アメリカは、日本のある
一つの州にされてしまうと、大げさな、偏向演説をした。
 また、日系人の「倹約と努力」が批判された。
 キリスト教に偏するNHKが「頑張るな」のキリスト教
徒の鎌田實氏を常に使って、キャンペーン放送をし続けた
が、このアメリカの嫌悪反応と同じ行為・放送をした。
 また、当時、キリスト教徒の新渡戸稲造は、この不法な
アメリカの移民排斥法に対して、アメリカの「肩を持ち」、
 「日本自身が改善しなければならない」と言った。
 日本の・・どこが悪いのだろか?
 新渡戸は、アメリカのウィルソン大統領と同級生だった。
 また、キリスト教国は素晴らしいという先入観の持ち主
でもあった、その様な、洗脳された意識の持ち主だった。
 ウィルソンを人道主義の闘士という理想化したどうしよ
うもない意識と、アメリカは、理想社会なのだの盲信意識
であった。
 また、日本は未発達なのだからの劣等意識でもあった。
 アメリカの文明は素晴らしいの盲信、そして、「悪いの
は日本人自身だ。自己反省すべきだ」と言った。
 識者は、「自虐的で、どうしようもないものの見えなさ
だ」と批判した。
 日本人労働者の労働の質の高さがあった。
 しかし、移民の方々は、「だらしない格好」だとか、「
みっともない姿」をしているから賤民(せんみん)あつか
いされるのだ・・の、自虐的な自国民蔑視だった。
 アメリカ人の排日論者の汚ない発言の口移し(くちうつ
し)でもあった。
 文明の光が、アメリカとヨーロッパにあるという見方だ
った。
 キリスト教に偏するNHKも、「世界遺産」という名前
の番組を良く放送したが、世界遺産なんて名前ばかりで、
ヨーロッパのキリスト教国ばかりを放送した。
 番組名を「キリスト教国遺産」と変えたほうが良いくら
いのキリスト教に偏した放送で、教会の場面が多く、何だ
かんだとキリスト教に偏した放送だった。
 反動の、日本への自己劣等視と無視となっている。
 日本には、1例をあげれば、坂本竜馬を生んだ地には、
 江戸時代に、既に、民主主義が根付いた社会があった。
 この環境が、竜馬を生んでいた。
 日本には、明治維新以前から、既に、民主主義を経験す
る社会が・・存在していた。
 民主主義は、何も、明治維新になって、欧米から学んだ
目新しい思想ではなかった。
 また、東洋には、紀元以前から、とうの昔から、民主主
義社会が存在していた。
 インドのブッダが民主主義国のヴァッジ国が好きだった
という史実もある。
.
 (参考):ヴァッジ国について、「ヴァッジ・サンガ」
  と呼ばれた代表議会の議長を持ち、また、各地方から
  の代表者から成り、国政を取り仕切っていた・・と、
  そして、サンターガーラと呼ばれる集会堂(議事堂)
  を中心とした政治体制は仏教徒の賞賛するところであ
  ったという説明文も見られる。
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2014年11月3日月曜日

気になった事柄を集めた年表 [五]:(2014・11・3 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [五]:(2014・11・3 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリカ
 西海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と
 診断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
 トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。
 ~1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、
 この父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土
 の植民地として手に入れた。→0年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版
 された。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本
 での出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源
 を仏教と神道と儒教に見い出される・・と。そしてまた、
 書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
 は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末~20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
 満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・
 香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の
 勉強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。→0年
1900年、ロシアが、中国(清)で発生した義和団の乱の
 混乱収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは、満州
 を植民地化することを既定事実化しようとした。日英米
 の抗議によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を
 守らず、逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響
 力をロシアは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山
 採掘権や森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取
 得し影響力を増した。日本は、これらを買い戻して回復
 させた。そして、日本は、外交的に衝突を避けようとし
 たが、ロシアは、軍事力で日本への圧力を増していった。
 中国への外国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が
 出兵した。日本も出兵した。ロシアとドイツは、日本の
 3~4倍の賠償金を要求し、取った。ロシアは、兵を撤兵
 させず、朝鮮国境に砲台を建設したり、シベリア鉄道の
 軍の輸送を開始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期
 間1901年~1909年)は、アメリカインディアンの事実
 上の絶滅を指示すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
 は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
 キリスト教は、国家体制への癒着(ゆちゃく)を強めて
 行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
 アメリカは反抗作戦を実施した。→1年
1905年9月5日、日露戦争が終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
 森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
 また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
 音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
 べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
 日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
 わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
 だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
 ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
 行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
 ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
 と思うのは考えすぎであろうか。
1905年9月5日、日露戦争の日本の勝利は、朝鮮のロシア
 化から守った。また、アジアの植民地の方々へ勇気を与
 えた。例えば、インドのガンジーやネルーは、心が揺さ
 ぶられたとの話を吐露している。また、日本に好意を感
 じていたインドネシアの方々は、巨大なロシアのバルチ
 ック艦隊が、狭い海峡を通って行く姿を見て、立ち上が
 って来た日本の終焉を予測し、涙を流して見たそうであ
 る。が、しかし、その後の結果に沸き立ったという。ア
 メリカの黒人の方々も勇気づけられたという。そして、
 考えるきっかけを作ってくれたという。ある公民権運動
 家は、日本が白人優位の人種偏見神話を崩してくれたと、
 全米を演説してまわった。しかし、逆に、白人社会へは
 衝撃とパニックを与えていた。これが深刻な問題につな
 がって行った。その一つが、アメリカの排日運動である。
 また、それまで中国の方々へ向けられていた「黄禍論」
 が、日本へも向けられ、世界に流れて行った。その先に
 は、悲しい第二次世界大戦への影があった・・、
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの
 支配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
 の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
 史によくある人種間の対立のイメージとなった。→0年
1906年、日本人の移民の真実は、日本人移民などわずか
 で、たかがしれた人数だった。その真実は、1日に3000
 人の割合で、アメリカに上陸してくるヨーロッパ系白人
 の移民だった。しかし、その脅威が日本へ向けられたの
 だった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島と南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴルと北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→1年
1908年3月、アメリカの大西洋の大艦隊が太平洋に回航し、
 日本へ来た。これは対日の威嚇行動であった。日本の2
 倍の艦隊規模だった。日本は驚愕した。日露戦争の日本
 の勝利に、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリ
 アも排日の共同戦線を張った。強い日本が、逆に、脅威
 に変わったのである。特に、アメリカは興奮し、日本を
 仮想敵国扱いにした。世界にはいつの間にか日米戦争の
 熱が広がっていた。その日本への威圧行動だった。日本
 は、日露戦争の疲労困憊の時期、何かをする様な余力な
 ど無い状態だったのに。→2年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦にキリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、『再臨待望者』
 や『再臨狂』を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。これは、日本人を狙い撃つ立
 法だった。日本人移民1世は、既に、アメリカ市民権を
 取得できないとの差別を受けていた。がさらに、この法
 律は、土地所有権も奪われるという非人道的な法律だっ
 た。勿論、ヨーロッパ系移民には適用されないという不
 平等なものだった。アメリカ大統領は、ウィルソン大統
 領だった。日本政府は強硬な抗議をした。しかし、日本
 は、戦争を予定しているのでは無いかと言われ、アメリ
 カは、さながら開戦前夜の様な対応の仕方をし、緊張し
 た空気に包まれて行った。海軍作戦部長のブラッド・リ
 ーフィスク少将は、日本がこの法律を絶好の開戦理由と
 して、フィリピンとハワイを奇襲するといい、対日戦争
 は十分に起こる事と言った。そして、軍艦を派遣すべき
 だと言った。この日米危機は最終的には回避されたが・
 ・、日本の人種差別に対する正義の抗議に対し、この様
 な対応がなされるという状況だった。→1年
1914年6月28日、オーストリアの皇太子がサラエボで暗
 殺された。これをきっかけに、7月28日に宣戦布告がな
 され、戦争に参戦する国々が増え、第一次世界大戦へと
 なった。日本は日英同盟の関係から8月15日に最後通牒
 をドイツに勧告し、8月23日に宣戦を布告した。→3年
1917年、ロシア革命が起きる。→1年
1918年11月11日、第一次世界大戦が終戦した。休戦協定
 が結ばれた。→1年
1919年1月18日~、パリ講和会議が開かれた。この会議に
 おいて日本は、人種平等に関する提案を行った。この提
 案の背景には、度重なるアメリカの人種差別・偏見があ
 るからだった。また、この時の日本の視点は、いち日本
 人移民に止(とど)まるものではなかった。有色人種に
 対する差別と闘(たたか)っていた。レジナルド・カー
 ニーは書く(その概要):世界の秩序を取り戻そうとの
 パリ講和会議。この会議で、世界は、日本とアメリカの
 発言に耳を傾ける姿勢になっていた。アメリカ大統領の
 ウィルソンは、パリに乗り込んで14の提案を行った。
 日本は、そのウィルソン大統領が提案できなかった15番
 目の提案を行った。それは『人種平等』の提案だった。
 日本とアメリカの差は、この人種平等の提案ができるか、
 出来ないかの差だった(アメリカで差別を受けていた黒
 人の方々は、日本に人種差別と偏見をなくすように尽力
 してほしいという嘆願書を提出してる状況でもあった。
 国際連盟でなく日本へ提出していた)。日本は、世界で
 最も輝かしい、有色人種の国家の世界の列強入りが熱望
 されていた。全米黒人新聞教会は、次のようなコメント
 をした、「われわれ黒人は、次の会議の席上で、人種問
 題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬
 意を払うものである」「全米1200万の黒人が息をのん
 で、会議のなり行きを見守っている」と。会議の採決で、
 日本の人種差別撤廃の提案は、賛成17、反対11で採択
 された。しかし、委員長を務めていたアメリカのウィル
 ソン代大統領は、「かような重要案件は、全会一致でな
 ければいけない」と言って、採決をひっくり返してしま
 った。そして、不採決宣言を行ってしまった。この会議
 の様子は、如実に、アメリカに生活する黒人の方々の姿、
 迫害・偏見・差別を映し出していた。→5年
1924年、アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大げさな、偏向演説をした。また、日系人の「倹約と努
 力」が批判された。キリスト教に偏するNHKが「頑張
 るな」のキリスト教との鎌田實氏を常に使ってキャンペ
 ーン放送をし続けたが、このアメリカの嫌悪簿反応と同
 じ行為をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締
 結され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年~1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
 考えを、外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏
 が言う。当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという
 事をしていた。日本は世界の5つの大きな大国の一つに
 なっていた。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。
 →4年
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2014年11月2日日曜日

気になった事柄を集めた年表 [4]:(2014・11・2 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [4]:(2014・11・2 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1900年、ロシアが、中国(清)で発生した義和団の乱の
 混乱収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは、満州
 を植民地化することを既定事実化しようとした。日英米
 の抗議によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を
 守らず、逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響
 力をロシアは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山
 採掘権や森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取
 得し影響力を増した。日本は、これらを買い戻して回復
 させた。そして、日本は、外交的に衝突を避けようとし
 たが、ロシアは、軍事力で日本への圧力を増していった。
 中国への外国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が
 出兵した。日本も出兵した。ロシアとドイツは、日本の
 3~4倍の賠償金を要求し、取った。ロシアは、兵を撤兵
 させず、朝鮮国境に砲台を建設したり、シベリア鉄道の
 軍の輸送を開始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期
 間1901年~1909年)は、アメリカインディアンの事実
 上の絶滅を指示すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
 は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
 キリスト教は、国家体制への癒着(ゆちゃく)を強めて
 行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
 アメリカは反抗作戦を実施した。→1年
1905年9月5日、日露戦争が終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
 森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
 また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
 音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
 べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
 日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
 わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
 だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
 ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
 行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
 ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
 と思うのは考えすぎであろうか。
1905年9月5日、日露戦争の日本の勝利は、朝鮮のロシア
 化から守った。また、アジアの植民地の方々へ勇気を与
 えた。例えば、インドのガンジーやネルーは、心が揺さ
 ぶられたとの話を吐露している。また、日本に好意を感
 じていたインドネシアの方々は、巨大なロシアのバルチ
 ック艦隊が、狭い海峡を通って行く姿を見て、立ち上が
 って来た日本の終焉を予測し、涙を流して見たそうであ
 る。が、しかし、その後の結果に沸き立ったという。ア
 メリカの黒人の方々も勇気づけられたという。そして、
 考えるきっかけを作ってくれたという。ある公民権運動
 家は、日本が白人優位の人種偏見神話を崩してくれたと、
 全米を演説してまわった。しかし、逆に、白人社会へは
 衝撃とパニックを与えていた。これが深刻な問題につな
 がって行った。その一つが、アメリカの排日運動である。
 また、それまで中国の方々へ向けられていた「黄禍論」
 が、日本へも向けられ、世界に流れて行った。その先に
 は、悲しい第二次世界大戦への影があった・・、
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの
 支配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
 の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
 史によくある人種間の対立のイメージとなった。→0年
1906年、日本人の移民の真実は、日本人移民などわずか
 で、たかがしれた人数だった。その真実は、1日に3000
 人の割合で、アメリカに上陸してくるヨーロッパ系白人
 の移民だった。しかし、その脅威が日本へ向けられたの
 だった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島と南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴルと北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→1年
1908年3月、アメリカの大西洋の大艦隊が太平洋に回航し、
 日本へ来た。これは対日の威嚇行動であった。日本の2
 倍の艦隊規模だった。日本は驚愕した。日露戦争の日本
 の勝利に、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリ
 アも排日の共同戦線を張った。強い日本が、逆に、脅威
 に変わったのである。特に、アメリカは興奮し、日本を
 仮想敵国扱いにした。世界にはいつの間にか日米戦争の
 熱が広がっていた。その日本への威圧行動だった。日本
 は、日露戦争の疲労困憊の時期、何かをする様な余力な
 ど無い状態だったのに。→2年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦にキリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、『再臨待望者』
 や『再臨狂』を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。→4年
1917年、ロシア革命が起きる。→7年
1924年、アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大げさな、偏向演説をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締
 結され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年~1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
 考えを、外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏
 が言う。当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという
 事をしていた。日本は世界の5つの大きな大国の一つに
 なっていた。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。
 →4年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
 た。地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→2年
1941年8月9日~8月14日、アメリカのルーズベルト大統
 領とイギリスのチャーチル首相が、海に浮かぶ戦艦上で
 会談した。アメリカの参戦への要請と、対日戦争の協議
 が主な議題だった。ルーズベルトは、アメリカの国民世
 論が戦争反対であったため、国民へはイギリスと何も約
 束はしていないと言った。しかし、1942年1月27日に、
 チャーチルは、イギリス下院の演説で、会談内容を暴露
 した。ルーズベルトの嘘が、アメリカ国民の知るところ
 となった。日本の近衛文麿首相が、開戦の危機打開に努
 力していたが、会談がうまく行くはずもなかった。ヨー
 ロッパ戦線でイギリスはドイツに負けそうになっていた
 ので、ルーズベルトは参戦したいと考えていた。→0年
1941年12月8日、日本が、アメリカのハワイ真珠湾を攻撃
 して大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われて
 いるが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行してい
 た潜水艦へ、機雷攻撃をして、すでに戦端は開かれいた。
 また、このアメリカ軍艦は、この交戦事実をアメリカ司
 令部へ送信し、知らせている。日本の真珠湾攻撃は、こ
 の様な確定した事実により奇襲ではなく、すでにアメリ
 カの知るところの交戦中にあった。アメリカは国民の世
 論操作目的から、日本の奇襲をデッチアゲたかった。
 →4年
1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
1945年8月30日、アメリカの最高司令官のマッカーサーが、
 神奈川県厚木の日本海軍飛行場に来た。マッカーサーは、
 靖国神社を焼き払えと言った、また、すべての神社も焼
 き払えと言った。そして、アメリカ占領軍は、日本へ慰
 安所を作れと命令した。→0年
1945年9月27日、昭和天皇とアメリカの最高司令官のマッ
 カーサーの会談が行なわれた。昭和天皇が、敗戦国の国
 家元首として、マッカーサーの滞在するアメリカ大使館
 へ出向き、会談が行なわれた。当時、戦勝国は、天皇を
 「戦犯リスト」の筆頭にしていた。しかし、マッカーサ
 ーは、天皇をもし処刑した場合の方向に進む時の不安定
 な占領統治になることなどの危惧もしていた。マッカー
 サーは、会談で「天皇が、敗戦国の君主がそうするよう
 に、戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではな
 いか」と思っていた。しかし、昭和天皇は、命乞いをす
 るどころか、「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚
 悟しており、私の命のすべてを司令部に委ねる。どうか
 国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べ
 たと語っている。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべ
 きではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態
 度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であ
 ると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだ
 ったが、会談が終わった時には昭和天皇を車まで見送り、
 慌てて戻ったといわれる。後にも「あんな誠実な人間は
 見たことがない」と発言している。→3年
1948年、イスラエルが建国される。新イスラエル国家誕
 生まで流浪の民となっていた。→3年
1951年7月、大東亜戦争(第二次世界大戦)の終戦を知ら
 ぬまま、南海の孤島「アナタハン島」(サイパン島の北、
 北マリアナ諸島)に取り残されていた日本兵の20人が発
 見され、帰国した。この日本兵の一部の人の妻が、日本
 兵の夫が戦死したものと思い、夫の兄弟などと再婚して
 いたなどの悲劇も起きた。この妻の一人が、読売新聞の
 人生案内に相談した。相談を受けた方は羽田空港まで帰
 還兵を出迎え、帰還した夫に「過去を一切水に流して奥
 さんを大切にしてあげて下さい」と励ました。当時の混
 乱した世相について、当時の識者は「日本人女性を連れ
 た米兵への反感」などを述べている。多くの日本女性が、
 無責任な米兵の行為に泣いていた。米兵との間に生まれ、
 孤児となった子供たちを育てる施設なども出来た。それ
 までと違って日本の男女のモラルは大きく破壊されてい
 た。→2年
1953年、GHQ(日本占領軍)最高司令官のマッカーサー
 が、日本をキリスト教化したいと、国際基督教大学を、
 この年に開学する。キリスト教長老派。→20年
1973年4月1日、アメリカ軍のベトナム全面撤退。→3年
1976年、教皇パウルス6世は、サン・ピエトロ大聖堂の墓
 で、ペトロの墓を発見したと発表した。→10年
1986年4月15日、リビア爆撃が行なわれる。→2年
1988年、第二次世界大戦の頃、日本人を『JAP』と呼び、
 帰化不能外国人としたり、土地所有が出来なくしたり、
 「裏から忍び寄るJAPの広告」をしたりの、ひどい人種
 偏見があったことをアメリカは認めた。→1年
1989年、日本の赤崎勇氏と天野浩氏が、青色LEDを開発
 した。LED照明が実現した。照明の大革命。→14年
2003年、核放棄あり得る。アフリカの地・リビアの革命
 指導者カダフィ。2011年に発生したリビア内戦によっ
 て、その独裁政権は崩壊し、反カダフィ派の部隊によっ
 てカダフィは殺害されたが、そのカダフィが、1986年
 4月15日に、アメリカ軍およびイギリス軍によって攻撃
 された。その背景だと言われている事は、テログループ
 支援、複数の空港爆破事件の背後にいる、西ベルリンの
 爆破事件などと言われている。この時、レーザー誘導
 爆弾が使われ、ピンポイント攻撃がなされた。カダフィ
 は不在だったが、カダフィは子供が亡くなったと主張し
 た(カダフィの死後、生存が確認された)。カダフィは、
 2003年に核放棄宣言し、査察団の受け入れもしている。
 →11年
2014年10月24日、この日の読売新聞によると、キリスト
 教の神父が少なくなったという理由で、キリスト教イエ
 ズス会系(カトリック)の上智大学などを運営する「上
 智学院」は、運営する学校を合併するための協議に入っ
 たと発表した。
今・2014年
..
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2014年10月31日金曜日

一国だけが勝つ・・というのは・・幻想・・、

 題:一国だけが勝つ・・というのは・・幻想・・、
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 あり得る・・核放棄・・、
 アフリカの地・リビアの革命指導者カダフィ・・、
 2011年に発生したリビア内戦によって・・、
 その独裁政権は崩壊し・・、
 反カダフィ派の部隊によって、カダフィは、殺害された
が・・、
 そのカダフィが・・、
 1986年4月15日に、アメリカ軍、および、イギリス軍に
よって攻撃された。
 その背景だと言われている事は・・、
 テログループ支援、複数の空港爆破事件の背後にいる事、
西ベルリンの爆破事件などと言われている。
 この時、レーザー誘導爆弾も使われ、ピンポイント攻撃
がなされた。
 カダフィは不在だったが・・、
 カダフィは、カダフィの子供が亡くなったと主張した(
カダフィの死後、生存が確認された)。
 カダフィは、2003年に『核放棄宣言』をし・・、
 査察団の受け入れもしている。
 今、現実社会は・・、
 やろうと思えばこの様な事も含め、できる社会だ。
 この攻撃は、通常兵器(爆弾)を積んでいたが・・、
 核爆弾の場合、悲惨な事が想像される・・が・・、
 レーダーで探知しにくい・・低空飛行で飛行する・・無
人偵察機の技術・・、
 この偵察機を・・爆撃機に変えることは・・簡単なこと。
 核爆弾を積載し、発見しにくい低空で・・
 領土の奥に侵入し・・、
 発見して・・撃墜しても・・、
 その領土内で・・核爆発が起きてしまうという事態・・
となる。
 やろうと思えば・・この様な事ができる・・社会なのだ。
 自分の国だけの論理を・・
 ただただ、主張しているだけでは駄目な時代に・・、
 益々、なっているのだ。
 空を行く無人の偵察機・・、
 この様な事態が、海そして海中で・・、
 不穏な摩擦が発生した時に、狙い定める兵器が・・益々
出来て来る。
 一国が・・自分だけの論理で・・ごり押しする時代は・・
終わったのだ・・、
 去ったのだ・・。
 一旦、始まれば・・「皆が・・負けになる」。
 一国だけが・・勝つというのは・・幻想・・、
..
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2014年10月30日木曜日

気になった事柄を集めた年表 [Ⅰ]:(2014・10・30 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [Ⅰ]:(2014・10・30 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 気になった事柄を、年代順に並べていたら、以下の様な、
年表が出来上がりました。
 第二次世界大戦前の、アメリカの対日感情は、どうなの
かなどなどを・・お読みください。
 [内容]:::
紀元前10000~400年頃、日本の縄文時代。偉大なる日本、
 この様に日本の歴史は遡(さかのぼ)る。→8500年
紀元前1500年~紀元前1000年、縄文時代後期~晩期に、
 環状盛り土遺構が注目されている。埼玉県加須市の長竹
 遺跡が発掘調査が進み、住居や墓が密集した集落跡だっ
 た。関東地方を中心に確認例が続いた。環状は、高さ
 1.8m、幅20mの盛り土が、直径150mのC型の一方が開
 いたドーナツ状に築かれている。→150年
紀元前1350年頃、エジプトのツタンカーメンの黄金のマス
 ク。→70年
紀元前1280年頃、エジプトのルクソール大神殿のラムセス
 2世時代。→30年
紀元前1250年頃、モーゼが居たとされている。歴史家は、
 その存在を否定しているが、そして、この頃、このモー
 ゼによるエジプト脱出があったとされている。→150年
紀元前1100年、この頃から、キリスト教の旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。~紀元前100
 年頃まで。→379年
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。数万のイスラエル
 人が捕えられて、メソポタミアとメディアに連れ去られ
 た。→124年
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。第1回バビロン捕囚である。
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。第
 2回バビロン捕囚である。この時、ソロモンの財宝のす
 べてが奪われた。→7年
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。→44年
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。→23年
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム神
 殿の第2神殿を建てた。→115年
紀元前400~500年頃、旧約聖書の編集が始まる。→70年
紀元前384年~322年、アリストテレス。62歳。
紀元前330年に、ペルシャが、マケドニア・ギリシャのア
 レクサンドロス大王に滅ぼされた。→120年
紀元前250年頃が中国の始皇帝陵の兵馬俑坑(へいばよう
 こう)。→50年
紀元前200年~300年頃(紀元前3世紀頃)、この頃に、ロ
 ウソクが誕生した。→0年
紀元前200年、クムランで発見された「死海文書」に、こ
 の頃の写本が含まれている。→100年
紀元前100年頃、旧約聖書が完成した。紀元前1100年頃か
 ら書き始めたものの完成、旧約聖書39巻が書き終えた。
 それまでは、口伝承であった。→37年
紀元前63年に、ローマの将軍・ポンペイウスによってエル
 サレムは占領された。ローマの傀儡(かいらい)政権の
 下の政治となる。→59年
紀元前4年、イエス、生まれる。→11年
紀元7年、イスラエルの民が、ローマによって滅ぼされる。
 流浪の民となる。→23年
30年頃、イエス、殺される。→20年
50年頃~100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書が書
 かれた。→4年
54年、ネロがローマ皇帝となる。→10年
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。ペテロ
 はイエスの第一の弟子、ネロの迫害による、このペトロ
 の墓の上に、サン・ピエトロ寺院がたてられたが4世紀
 に・・、→2年
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。→1年
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃
 え続けた。その日が放火ではないかという噂が市民の中
 に広がった。ネロ帝はキリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。神殿は焼け落ちた。城壁を
 徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくなるほど市
 街を壊した。→3年
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。ユダヤ国家は滅んだ。ユダヤ民族は離散
 の憂き目にあった。以後、1948年のユダヤ国家建設され
 るまで1875年の月日が流れた。→6年
79年、ポンペイが埋没した。→21年
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。→0年
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物
 語が生まれ、殉教文学として流布された。→100年
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あ
 らゆる階層にキリスト教は浸透して行く。宮廷から貧民
 窟まで、大都市から僻地へと広まり、帝国末期の殺伐な
 人心と荒廃した経済事情の中で拡大した。→30年
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。全長62mの古墳
 時代最初期と見られている墳墓である。→83年
313年、コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出して、
 キリスト教を公認した。→11年
324年、キリスト教がローマ帝国の国教となった。→2年
326年、コンスタンティヌス帝によって、サン・ピエトロ
 聖堂が建てられた。→4年
330年、コンスタンティヌス帝が、ローマを見捨てて、コ
 ンスタンティノーブルに遷都する。度々の火事に見舞わ
 れた。ローマは、すっかり寂(さび)れていった。
 →67年
397年、キリスト教聖書が現在の形の様に整(ととの)え
 られ、決定された。これまでの約400年間は、キリスト
 教は聖典の無い年月を過ごした。イエスは、アラム語を
 話した。そのイエスのアラム語が翻訳されている。翻訳
 による齟齬が発生している。旧約聖書39巻、新約聖書
 27巻、計66巻。仏教経典から見るとささやかな経典と
 なっている。→55年
452年、フン族がイタリア侵入と共に、色々な民族がヨー
 ロッパへ侵入した、匈奴と呼ばれるフン族はインドや中
 国へも侵入した→24年
476年、西ローマ帝国が滅亡した。→116年
592年、佛教興隆の詔(みことのり)が出る、→8年
600年、初めての遣唐使、→4年
604年4月3日、17条の憲法を制定、→1年
605年、斑鳩(いかるが)の宮に移り、法隆寺が建つ、
607年、小野妹子を遣唐使とした、日出ずる天子、日没す
 る天子の言葉→15年
622年、聖徳太子が病に死す、翌日、妻も亡くなる→78年
700年代(8世紀)、ベルベル人のタリクの侵入によって、
 スペイン・ポルトガルの地・イベリア半島が征服された。
 以後、約300年支配する。→12年
712年、古事記712年(上)(中)(下)の三巻、→5年
717年~741年、この年に在位するレオ3世は、コンスタン
 ティノーブルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラ
 ムス)を始めた。首都にあった聖像のほとんどを消滅さ
 せてしまった。多くの教会の装飾や美術品は、オスマン
 =トルコ時代のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に
 破壊された。ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィ
 ア教会においては、イスラム教徒によってモザイクやフ
 レスコ画すべてが漆喰で塗り固められてしまった。→3年
720年、帝紀・・天皇の系譜、稗田阿礼(ひえだのあれ)
 が暗唱していた、720年日本書紀30巻、→109年
829年、9世紀の初頭に使徒のヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が829年に、ヤコブの墓の上に教会
 と修道院を建てた、これが聖地とされているサンティア
 ゴ・デ・コンポステラの始まり。そして、1478年に、教
 皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ・コンポステ
 ラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の価値があると
 言ってから、この地への巡礼が増えた。因みに、ヤコブ
 は「雷の子」と言われるほど気性の激しい人だった。
 →161年
990年代(10世紀末)、キリスト教徒が、イベリア半島の
 スペイン北部を占領した。レコンキスタという国土回復
 運動の戦いを、イスラム教徒に挑(いど)む。→10年
1000年(11世紀)、11世紀から(聖徳)太子信仰が大き
 く広がった、→0年
1000年代(11世紀)、ヴェネティアが独立国になった。
 →0年
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティ
 アゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
 エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険になっ
 たため。→0年
1100年代(12世紀)、遅れていたヨーロッパ。このヨー
 ロッパに、イスラム世界から最先端の科学が、そして、
 ギリシャからは、古代ギリシャの哲学などがもたらされ
 た。ヨーロッパが、それらの恩恵に浴して、この時代、
 ルネサンスと呼ばれる知的高揚があった。→81年
1181年、フランシスコが、アッシジで生まれた。裕福な
 織物商人の家だった。→19年
1200年~1250年、この50年間に、ヨーロッパで、70も
 の大学が設立された。→4年
1204年、キリスト教の十字軍は、コンスタンティノーブ
 ルを占領した。多くの略奪品を奪った。その略奪品は、
 ヴェネティアに運び込まれた。香料・宝石・織物などは
 莫大な利益をヴェネティアにもたらした。略奪品の商売
 の都。→0年
1204年、十字軍が、コンスタンティノーブルを占領した。
 この影響で、コンスタンティノーブルの人々は、西のロ
 ーマカトリックが異端とみなしたことに驚き、敵対関係
 となった。コンスタンティノーブルの目は東に向いた、
 そして、スラブ人の教化となり、キエフ公国のキリスト
 教化、そして、ロシアにおよび、ロシアはギリシャ正教
 を国教とした(1547年)。→1年
1205年、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の礼拝
 堂の十字架像を祈っていたフランシスコへ「わたしの家
 を再建しなさい」というイエスの声が聞こえたという。
1220年、フランシスコが、指導者の立場を退く。→89年
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。ロー
 マは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去った。
1315年~1317年、ヨーロッパが天候異変により深刻な飢
 饉となる。餓死者多数。1315年には150万人もの餓死者
 を記録した。また、疾病による死者も増加した。→6年
1321年、ダンテが死んだ。→7年
1328年、フランス国王のシャルル4世が死ぬと、王子が居
 なかったため、王位継承をめぐって、フランスとイギリ
 スの間で、100年戦争が始まった。フランスは、家系が
 絶えたので別の家系の王を即位させた。これに対し、家
 系が絶えたフランス国王の血筋のイギリス国王が、フラ
 ンスの王位の継承権を主張し、フランスに侵攻し、100
 年戦争がはじまった。→20年
1348年~1350年、ペストが流行するが、特に、この頃の
 流行の猛威は凄(すさ)まじかった。ヨーロッパの3分
 の1の方々が亡くなった。全滅した村もあった。死者を
 埋葬する間もなく、次々と死者が出て、町のいたるとこ
 ろに累々と死体が積まれた。→29年
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
 →35年
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。→4年
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易を
 する。→14年
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクが捕縛された。イギリ
 スとイギリスに味方するフランス軍の一部の策略があっ
 た。また、このジャンヌ・ダルクが活躍したイギリスと
 フランスが戦った百年戦争には「戦地を連れ歩く娼婦
 (従軍慰安婦)」が居た。
  ジャンヌ・ダルクを告発したキリスト教の異端審問所
 に、フランス人のキリスト教司祭(ピエール・コーショ
 ン)だった。このキリスト教司教は非人道的方法でジャ
 ンヌ・ダルクを責めた。また、罠(わな)を仕掛けた糾
 弾の仕方をした。また、ジャンヌ・ダルクを罵(ののし)
 りもした。→1年
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが火刑(焚刑)に処せ
 られた。19歳の若さだった。キリスト教会の異端審問所
 が彼女に下した罪状は「悪魔の喚起(かんき)、様々な
 異端行為、様々な過(あやま)ち、偶像崇拝、その他」
 という、多くの罪状を付けた。卑劣そのものだった。彼
 女は北フランスのルーアンという所の広場で公開で処刑
 されたのだった。処刑される時、彼女は泣いていたとい
 う。キリスト教の聖職者の司祭が取り囲んでいたという。
 また、観衆が大勢の見物人の中だったという。焼かれる
 前に、彼女は「異教徒で、異端で、偶像崇拝者である」
 と書かれた帽子をかぶせられ、また、杭に縛(しば)ら
 れていた。1412年生まれの彼女のはかない一生だった。
 悪の宗教=キリスト教には救いがなかった。城に立て籠
 るフランス軍は積極的に攻めるという姿勢も無く、また、
 取り囲むイギリス軍も積極的に攻めるというわけでなく、
 兵糧攻めの状態だった。そこに、ジャンヌ・ダルクの
 援軍で、フランス軍は活気づき、積極的に攻めて勝ち戦
 となった。この北フランス生まれの彼女の功績は何だっ
 たのか?ジャンヌ・ダルクは、男装をしたのを「異端」
 とされた。キリスト教の聖書に「女は男の服装をしては
 ならない」とあるからである。今は隠しているが・・、
 →21年
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。→1年
1453年、東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、
 オスマン=トルコの攻撃で陥落した。ビザンティン帝国
 の滅亡。これによって、多くの学者やキリスト教聖職者
 が、ローマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の
 勃興に大きな力になった。→7年
1460年代~1499年、一向宗(浄土真宗)の蓮如が活躍す
 る。蓮如は1499年に没した。→18年
1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ
 ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の
 価値があると言ってから、この地への巡礼が増えた。
 →5年
1483年、ルターが生まれた。→1年
1484年、教皇インノケンティウス8世が回勅(指令)で、
 魔女の逮捕と裁判をキリスト教裁判所の異端審問として
 行うことを正当とした。→6年
1490年頃(15世紀末)、魔女によって殺される女性が多
 く、最盛期の様子となる。この状態は18世紀の末まで、
 長く続くことになる。主に、キリスト教カトリックが行
 ったが、プロテスタントも行い、キリスト教のすべてが
 行った大悪行。→1年
1491年頃~1556年、イグナデウス・デ・ロヨラ、初めは
 軍人だった。後にイエズス会を作った。キリスト教枢機
 卿より「ヒツジの皮を着ている狼だ」と迫害された。
 65歳。→1年
1492年、コロンブスがアメリカを発見した。やはり、イン
 ディオスの黄金のありかを血眼(ちまなこ)になって捜
 した。大殺戮時と同じく強欲な人。→5年
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を通過し、新しい
 航路を発見した、→8年
1505年、ルターが、アウグスティノ修道院に入った→1年
1506年、教皇ユリウス2世は、最盛期のルネッサンスの天
 才たちを集めて、サン・ピエトロ大聖堂の再建を始めた。
 建築家ブラマンテ、画家ラファエロ、彫刻家・画家ミケ
 ランジェロ。ラファエロは、彫刻家として入ったミケラ
 ンジェロの足を引っ張るために、彼に絵を描かせるよう
 教会に進言した。芸術家の仕事の奪い合いの世界だった。
 →0年
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルが生まれた。
 ~1552年、46歳。→1年
1507年、ルターが、キリスト教の聖職者の司祭になった。
 彼は、鬱(うつ)気分で、キリスト教内にある序列(ヒ
 エラルキー)や習慣や富の蓄積について批判した。例え
 ば、サン・ピエトロ大聖堂の膨大な建設資金を得るため
 に、ローマ教皇は、免罪符を盛んに売り出した。また、
 地方のキリスト教会も乱れに乱れ、堕落していた。居る
 べき司祭が居ず、名前だけとなっているのに、集められ
 た金は取り上げられた。
  また、キリスト教聖職者が、無気力で無能な身内の者
 を、自分さえよければ良いと、キリスト教会内の役職に
 つかせることが横行した(今・現在でも、この様な事は、
 キリスト教会に限らずあらゆる所で行なわれている)。
  また、裕福で暇なキリスト教聖職者の肉欲に耽(ふけ)
 る姿が、目にあまる状態だった。そしてまた、この様な
 聖職者の美食に耽る姿も多い状態だった。→5年
1512年、教皇ユリウス2世は、ミケランジェロに命じて、
 システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描かせ、こ
 の年に完成した。→0年
1512年~1524年、スペインとフランスが戦争をした。
 →5年
1517年10月31日、ルターは、ウィッテンベルク城内の聖
 堂に免罪符のおかしさ、疑問を述べた95の疑問を掲(か
 か)げた、「95カ条の論題」。これは、キリスト教ロー
 マ教会の免罪符販売への抗議もあった。これへの同感の
 意思表示が2週間で全ドイツに起きた。
  当時の免罪符の売り方は、キリスト教聖職者が、ロー
 マ教皇の免罪符販売奨励を意味した教皇の紋章の付いた
 十字架を先頭にして、免罪符の教皇の勅書(書状)を金
 のビロードの上に載(の)せて行列を作って歩き回り、
 説教した。教皇は偉大なのだ。地獄での刑罰はどんなに
 恐ろしいかなど・・。「お金が箱の中でチャリンと音を
 立てさえすれば、たましいは地獄の焔(ほのお)の中か
 ら救われ、飛び出してくる」と大声で叫んだ。人々は繰
 (く)られ、争って買い求めた。大司教というキリスト
 教の高い地位の聖職者が、「懺悔をしなくても、免罪符
 を買えば、死者も救われた事になる、有効なのだ」と言
 った。→1年
1518年6月、ルターの裁判が始まった。罪状は、「異端の
 流布」だった。→1年
1519年、マゼランが世界一周した、→2年
1521年、ルターが、ローマ教皇のウォルムス勅令によって
 異端者とされた。そして、追放の処分となった。そして
 また、ルターの本は、焚本にして処分せよとされた。
1521年1月3日、キリスト教のローマ教会(バチカン)は、
 ルターに正式な破門状を発布した。絶対権力を持つキリ
 スト教ローマ教会のこの処置によって、ルターの法によ
 る保護はないという状態へと追放された事となった。
1521年4月初旬、マルティン・ルター(1483~1546)は、
 「屋根の瓦ほどたくさんの悪魔がいる」と言った。
 そして、この頃、権力絶大なローマ教会によって、ルタ
 ーに『異端宣告』がなされた。その宣告文は、「ルター
 は自由意志を否定する異教徒であり、彼の考えは、騒乱
 (そうらん)・戦争・殺人・キリスト教界の崩壊につな
 がる。・・誰もルターを匿(かくま)うな。いな、また
 ルターに従う者も罪に定める。ルターの本も庶民の記憶
 から根こそぎ葬(ほうむ)り去らねばならない」。→0年
1521年12月、ルターが、聖書翻訳を始めた。聖書の原典
 とされたギリシャ語からドイツ語への翻訳だった。→4年
1525年、ルターが結婚した。キリスト教の聖職者の司祭で
 あり、キリスト教の戒律を守らなくてはならなかった立
 場だったが無視した。子供を6人つくった。→9年
1534年、ロヨラがイエズス会設立、→1年
1535年~1541年、教皇パウルス3世が、正面祭壇の『最
 後の審判』を描かせた。→5年
1540年9月27日、教皇パウルス3世が、イグナチオ・デ・
 ロヨラにイエズス会を正式に認可した。→2年
1542年5月、ザビエルがインドに赴任し、ゴアに着いた。
 36歳。ゴアは華やかで活気に満ちた町だった。しかし、
 キリスト教司祭たちの生活は乱れ、道徳的にも荒廃して
 いた。そして、人々の救済をするどころか、自分たちの
 懐(ふところ)を肥やすことばかりしていた。商売をし、
 金もうけにうつつを抜かすという状態だった。また、生
 活も怠惰そのものだった。→1年
1543年8月25日、種子島に、ポルトガル船が漂着し、鉄砲
 を伝えた。→1年
1544年1月15日、キリスト教の日本に宣教師として来たザ
 ビエルのこの日の書簡:「・・(キリスト教聖職者にな
 ろうと)大学で勉強している多くの若者達は、教会の高
 い地位や顕職(けんしょく・地位の高い要職)に相応(
 ふさわ)しい学問を身につけたいと思うよりも、高位、
 聖職禄(ろく)、司教の地位を得たいと願って学問をし
 ているのです」と。→2年
1546年、ルターが死んだ。63歳だった。→1年
1547年、オスマン=トルコのコンスタンティノーブル占
 領後、ロシア教会は独立した総大主教座をモスクワに置
 き、この年、ロシア正教とした。→2年
1549年8月15日、ザビエルが、鹿児島の海岸に上陸した。
 同行者は、トルレス神父、フェルナンデス修道士、日本
 人3人、船員として中国人3人、計9人だった。この日本
 人の一人が、アンジローだった。アンジローは、人を殺
 したので日本にいられなくなり、海外へ逃れたのだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2014年10月29日水曜日

気になった事柄を集めた年表 [Ⅱ]:(2014・10・28 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表  [Ⅱ]:(2014・10・28 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1550年7月に、ザビエルが京都へ行った。アンジローは、
 鹿児島に残り伝道をしたが、うまくいかず反感を買い、
 鹿児島に居られなくなり中国へ逃れた。このアンジロー
 は、人を殺して海外に逃れ、ザビエルが京都へ行った後、
 鹿児島に残ったが、いさかいからか、鹿児島に居られな
 くなり、中国に逃れ、その中国でトラブルからか中国で
 もトラブルから殺害されるという、荒れた経歴から、こ
 のアンジローという男の性格や素性のよからぬ姿が見え
 て来る。→1年
1551年1月、ザビエルは、京都に入れたが、天皇の謁見(
 えっけん)も許可されず、また、ザビエルが希望した仏
 教の中心地の延暦寺の訪問もなされなかった。ザビエル
 は、延暦寺の学問所を訪問したかった。
  この様に、ザビエルの京都訪問は散々だった。ザビエ
 ルはあきらめて京都を去った。ザビエルは、いったん、
 平戸に帰り、その後、山口の大内義隆に、2度目の謁見
 をし、布教の許可を得た。1度目は、義隆を怒らせ、布
 教の許可は得られなかった。因みに、ザビエルは日本語
 ができず、説教をする人のそばに、ただ立っているだけ
 だったという。、また、ザビエルは、最初の山口の大名
 の大内義隆と謁見したが、大内義隆を怒らせてしまい、
 追い払われていた。→0年
1551年8月末、ザビエルは、ポルトガル船が豊後に入港し
 たと聞いた。また、豊後の領主の大友宗麟からこのポル
 トガル船入港についての助力を請う書状が来たので・・
1551年9月15日、ザビエルが、山口をたち豊後へ向かった。
 このポルトガル船の船長は、ザビエルと知己だった。こ
 の様子を見ていた大内義孝は、ザビエルを歓待し、布教
 の許可も与えた。この直後の・・→0年
1551年9月28日に、山口で反乱がおこり、ザビエルが数日
 前に布教の許可を貰った大内義隆と嫡子の義尊がともに
 自刃(じじん)して果てた。心労と失望に苦しむザビエ
 ルだった。ポルトガル船の運んで来た本国からの書信の
 内容も、不穏さを増した。→0年
1551年11月15日、ザビエルが日本を去った。→1年
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東の
 上川(さんちゃん)島、享年46歳。→25年
1577年、南蛮寺が京都に建った。→5年
1582年、天正遣欧使節が長崎から出発した、1584年にポ
 ルトガルのリスボンに到着した。→3年
1585年3月23日、天正遣欧少年使節たちが、教皇グレゴリ
 ウス13世に引見し、九州の大名の大友宗麟・有馬晴信・
 大村純忠の書簡を渡した。この少年の使節たちは、旅の
 途中で、日本人の女性たちが、南蛮貿易で売られている
 姿をあちこちで目撃した。キリスト教に偏するNHKや放
 送大学は、この件はまったく放送しない。→2年
1587年6月19日、豊臣秀吉は九州征伐中であったが、宣教
 師のガスパル・コエリョに伴天連(バテレン)追放令を
 突き付けた。キリスト教の禁教である。
1587年7月4日、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布した。
  黒田官兵衛は、高山右近の影響を受けて、天正11年
 (1583年)頃に洗礼を受けたキリシタン大名であった
 が、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令すると、いち早く、
 キリスト教を捨てた(キリスト教の棄教)。→5年
1592年、キリシタン大名の高山右近が、長崎で没した。
1597年2月5日、豊臣秀吉に迫害されたとキリスト教が言
 う「長崎の西坂で殉教の26人」が十字架刑となる。
  これは殉教ではない。
  禁教令で、ほとんどの宣教師が帰国し、若しくは、長
 崎に戻ったが、6人の宣教師は、法を犯して活動していた。
 それだから罰せられたのだ。日本人の信徒は、その宣教
 師にそそのかされて、やはり法違反行為をしていた。そ
 の事により罰せられた。この6人の宣教師は、フランシ
 スコ会の宣教師。日本は、ヨーロッパの様に無実の人を
 残酷に殺すような事はしていない。これを、キリスト教
 は、しきりに「殉教だ」「殉教だ」と嘘宣伝(プロパガ
 ンダ)する。法違反者たちなのだ。ちゃんと法に従って
 いた宣教師たちの安全は保たれている。ここが大切な所。
 ヨーロッパの悪行為とは全く日本の場合は違うのだ。自
 分たちに利があるからと、キリスト教は嘘を言うのは止
 めなさい。嘘付きキリスト教を返上して下さい。長崎の
 聖人像は嘘でできたものです。→3年
1600年代(17世紀)、この頃のヨーロッパでは、黒人や
 インディオの方々が、猿や狒々(ヒヒ)と並んで陳列さ
 れたり、裸の野蛮人として舞台の上を歩きまわらされた。
1600年、イギリスが、東インド会社を設立した、→3年
1603年、オランダが、東インド会社を設立した、→11年
1614年1月28日、家康が、キリスト教禁教令を発布する。
1614年11月7日~8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結
 したキリスト教宣教師と主だった日本人信徒を乗せた船
 が出港した。法に従えば、日本はヨーロッパの様に酷(
 むご)いことはしなかった。しかし、法を無視して、日
 本に残り潜行した宣教師が40人ぐらい居た。責任は、キ
 リスト教側にある。→23年
1637年12月11日~1638年4月12日、島原・天草一揆が起
 こる。これは百姓一揆。これにキリスト教が乗っかった
 だけ。ほとんどが仏教徒。キリスト教はこの戦いの殉教
 を声高に言うが、幕府軍も同じような死者数となってい
 る。これを、おくびにも言わないで、キリスト教は『殉
 教だ』『殉教だ』と嘘宣伝する。キリスト教に偏するN
 HKも同様な間違ったプロパガンダ(嘘宣伝)をする。
 天草四郎は実在したとの証拠がない、キリスト教宣教師
 が言いふらした話。NHKもキリスト教徒が大勢死んだ
 と、殉教だと、あたかもキリスト教の代弁者の様に言う。
 NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし続
 けている。
1638年4月12日にキリスト教徒側の原城が陥落した。
1685年、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた。バッ
 ハは、ルターが勉学に勤(いそ)しんだアイゼナハで生
 まれた。ルターの精神を引き継いだバッハは、その音楽
 には、ルターが糾弾したキリスト教カトリックの堕落へ
 の糾弾の響きがある。~1750年没、65歳。
1689年、英国議会は、信教の自由を認めた最初の「寛容法
 」を採択した。それは、自分とは異なる宗教的、政治的
 な見解の容認を意味した。キリスト教の教義の「異教徒
 は殺せ」の完全な否定であった。相手の意見が相反する
 ものでも、尊重するのは当然なのだ。キリスト教は、こ
 の様な当然が無い宗教。遅れた宗教となっている。
1786年、ゲーテは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ
 教会を見るためにアッシジに来たという。→68年
1789年、アメリカの初代大統領ワシントン(在任期間1789
 年~1797年)は、インディアンの方々を猛獣と言い、狼
 と同じだが形が違うと言った。→57年
1789年、英国の詩人ウィリアム・ワーズワースは、フラン
 ス革命の報を聞くとフランスへ渡った。忌(い)まわし
 い絶対王制が一掃されたと思った。反対者を投獄し、公
 正な裁判も無い、議会の投票制度も無い王制が一掃され
 たのだ。これは素晴らしい出来事と思った。ワーズワー
 スは、それが見たかったのだった。しかし、実際の事態
 は、暴徒が王の様に振る舞い、和平と和解の姿は無く、
 低劣な復讐の世界だった。見せしめの裁判、そして、旧
 官僚や貴族、そして王族の公開処刑が行なわれていた。
 各地でギロチンが使われ、死刑執行人が、恐怖政治さな
 がらに、犠牲者の首を高々と掲(かか)げ、民主主義の
 欠片(かけら)も無い狂気と憎悪、政敵の無差別処刑だ
 った。期待を裏切られ、恐怖におののいたワーズワース
 は、フランスから逃げ出した。(以上、ポール・ケネデ
 ィ氏・英歴史家、読売新聞)。これと似たこと、第二次
 世界大戦後、アメリカは、日本の政治指導者を、裁くべ
 き法律が無いのに、裁判らしい事を行い、日本の政治家
 を死刑にした。分類上は私刑(リンチ)となる。→21年
1810年、ロシアが、ベーリング海峡からアラスカに支配権
 を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政
 策を進めていた。→5年
1815年、ナポレオンが失脚した。ウィーン体制始まる(大
 国の勢力均衡によるヨーロッパの安定をはかる)→8年
1823年、モンロー宣言、アメリカ外交のこの後の基本方針
 となった。アメリカのヨーロッパからの干渉の拒絶。意
 識下に南北アメリカ大陸の支配下にしたいがあった。ア
 メリカの出発点。帝国主義的下心。→23年
1846年、アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・
 ネバダ・アリゾナ・ユタ・ニューメキシコ・コロラドを
 狡猾な手段で手に入れた。→8年
1853年~1856年、クリミア戦争、イギリスとフランスが
 トルコを援助してロシアに宣戦していた。→0年
1853年、アメリカの海軍提督のペリーが浦賀にやって来た。
 日本へ開国要求。当時、世界の大国は英露の2大国であ
 り、この2大国は、かつてのスペインポルトガルのアメ
 リカ大陸分割の様に、ユーラシア大陸の分割をして安定
 していたが、その接点回避は長く続かない緊張の中にあ
 った、日本がその接点の1つになろうとしていた、その
 隙(すき)をついて、アメリカが日本に接近した。→1年
1854年、中国人の証人禁止処置。アメリカで、白人が関係
 する裁判において、中国人は証人になれないという侮辱
 的な法律が決まった。すでに、アメリカ・インディアン
 の方々にこの措置はなされていた。日本ではこの様な人
 種差別の法律が通ったことは微塵もない。アメリカは遅
 れた国だった。人種偏見はキリスト教から来ている。
1856年~1860年、中国でアロー戦争が起きた。4年間。
 第二次アヘン戦争ともいう。外国から言い様にされてい
 た中国(清)が、中国人が、外国人の排斥をし始めた。
 アヘン戦争の不平等な条約に原因の1つがある。貿易独
 占、徴税まで行う行為、軍艦を常時停泊して圧力をかけ
 るなどなど、そして何より、アヘン貿易をし続けた非人
 道的な悪がある。こんな事をするのがキリスト教徒の精
 神なのか?イギリスは中国(清)を屈服させ、そして、
 九竜半島を奪った。→1年
1857年、インドでセポイの大反乱が起きる。セポイはイ
 ギリスの東インド会社のインド人の傭兵のこと。イギリ
 スはこれを押さえつけた。→1年
1858年、日米修好通商条約。この後、アメリカが対日接
 近を控えるようになるのは、英露強国に遠慮したのでは
 なく、アメリカの最大の内乱・南北戦争があったから、
 余裕が無かった。これが無かったら、まだ未熟な日本は、
 中国の様に大国の餌食の場になった。日本の叡智はこれ
 を見ていて、明治維新と共に富国強兵をまず第一とした。
1861年、ロシア軍艦対馬占領事件、ロシアの南下政策の行
 動の中で起きた。日露戦争へ繋がる事件。→0年
1861年、アメリカの南北戦争。~1865年にアメリカの南
 北戦争は終結した。→2年
1867年、アメリカが、ロシアからアラスカを購入した。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェイ
 諸島を新領土の植民地として手に入れた。→6年
1871年~1872年(明治4年~5年)、この頃、何でも、か
 んでも、「西洋に学べ、西洋に遅れを取るな」の風潮が
 世を風靡した。この叫びが日本全土を駆け巡り、野火の
 様に広がって行った。西洋の何も分からない時代、ただ
 ただ、西洋は進んでいる、西洋から学べとなっていた。
 こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト教
 を良きものと盲信した。→2年
1873年、キリシタン禁制高札撤去。キリスト教は、この日
 までキリスト教徒が迫害が続いたというが、これは「真
 っ赤な嘘」。研究者は「17世紀には幕府はすでに黙認し
 ている」と言っている。ほんの一時期の取り締まりだっ
 た。刑場の柵の一部を開けて逃げることもできる様にし
 てもいた「日本の穏健・温厚さ」があった。キリスト教
 が言う「259年も迫害が続いた」と言うのは、よくも言
 うものだの大嘘。嘘付きキリスト教。→0年
1873年(明治6年)、岩倉具視の遣欧使節団がベネチアに
 到着した。→6年
1879年、アメリカのカリフォルニアの州憲法で、中国人の
 参政権を拒否した。精神異常者と同様な処置とした。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。この後、
 日本人が移民をしだすが、この中国人の後に、日本人が
 移民をしたということが不運だった。日本人に対しても、
 インディアンや中国人に対するのと同様に、『非白人』
 に関する劣った種の人間との意識が根強くあった。キリ
 スト教に感化された意識だった。この意識が、アメリカ
 の指導者階級にまで及んでいた。ジョン・ダワーの言葉:
 「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによっ
 て生命は安価だというのだった」。→3年
1885年、内村鑑三は、クリスチャンの女性と巡り合い結婚
 をする。しかし、わずか7か月で離婚した。鑑三はアメリ
 カへ渡る。しかし、キリスト教国という期待のこの渡米
 にも裏切られた。その反キリスト教的、また、反人道的
 なアメリカをまざまざと見たからだった。鑑三は言う、
 「これが宣教師によりキリスト教の他の宗教に勝(まさ)
 る証拠なりとして教えられし文明なりや」と。宣教師が
 言った「キリスト教は他の宗教より勝っている」という
 のは嘘だったと思う鑑三だった。鑑三は、新渡戸稲造か
 ら「高慢」とか、「利己的」とかと批判されていた。ま
 た、ちなみに、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻
 も23歳という若さで亡くなっている。→0年
1885年、ロシアが朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受
 けようとした、朝鮮の李朝はロシアににじり寄った、日
 英中はこの案を潰した。この反動でイギリスは朝鮮の巨
 文島を占領した。ロシアは怒った。そして、ロシアも朝
 鮮を占領すると言った。中国の仲介によってロシアの占
 領がないことを条件にイギリスも占領を止めた。中国は
 朝鮮への勢力圏拡大を意識していた。各国の欲の勢力圏
 争いが展開した。アフリカ分割の大国の欲が展開するこ
 とにもなる。日本はこの頃から、朝鮮半島から中国に手
 を引かせ、朝鮮の独立のための清国との戦争を意識し出
 した。この様な時、朝鮮に農民の反乱が起き、李朝は鎮
 圧できなかったため、清国に出兵を要請した。日本は、
 条約に基づいて、中国の出兵を認めずに朝鮮へ出兵した。
 ここに日清戦争がはじまった。~1894年。→5年
1890年代、アメリカの作家のスチーブンスンは、大陸横断
 鉄道建設の労務者としてアメリカに連れて来られた中国
 の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「見下げ
 た人種」とされて扱(あつか)われていると報告した。
 また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息が
 詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報告
 している。→7年
1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリカ西
 海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と診
 断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
 トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。~
 1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、こ
 の父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土の
 植民地として手に入れた。→1年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版さ
 れた。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本で
 の出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源を
 仏教と神道と儒教に見い出される・・と。そしてまた、
 書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
 は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末~20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
 満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・
 香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の勉
 強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。
1900年、ロシアが中国(清)で発生した義和団の乱の混乱
 収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは満州を植民
 地化することを既定事実化しようとした。日英米の抗議
 によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を守らず、
 逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響力をロシ
 アは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山採掘権や
 森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取得し影響
 力を増した。日本はこれらを買い戻して回復させた。そ
 して、日本は、外交的に衝突を避けようとしたが、ロシ
 アは軍事力で日本への圧力を増していった。中国への外
 国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が出兵した。
  日本も出兵した。ロシアとドイツは日本の3~4倍の賠
 償金を要求し、取った。ロシアは兵を撤兵させず、朝鮮
 国境に砲台建設をしたり、シベリア鉄道の軍の輸送を開
 始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期間
 1901年~1909年)は、アメリカインディアンの事実上
 の絶滅を支持すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
 は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
 キリスト教は、大日本帝国の国家体制への癒着(ゆちゃ
 く)を強めて行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
 アメリカは反抗作戦を実施した。
1905年9月5日、日露戦争が終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
 森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
 また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
 音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
 べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
 日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
 わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
 だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
 ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
 行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
 ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
 と思うのは考えすぎであろうか。
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの支
 配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
 の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
 史によくある人種間の対立のイメージとなった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島と南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴルと北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→3年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦にキリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、再臨待望者や
 再臨狂を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。→4年
1917年、ロシア革命が起きる。→7年
1924年、アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大変、偏向した演説をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締結
 され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年~1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本がアジアの平和に責任を負おうという考えを、
 外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏が言う。
 当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという事をして
 いた。日本は世界の5つの大きな大国の一つになってい
 た。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。→4年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
 た。地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→2年
1941年8月9日~8月14日、アメリカのルーズベルト大統
 領とイギリスのチャーチル首相が、海に浮かぶ戦艦上で
 会談した。アメリカの参戦への要請と、対日戦争の協議
 が議題だった。ルーズベルトは、アメリカ国民の世論が
 戦争反対であったため、国民へはイギリスと何も約束は
 していないと言った。しかし、1942年1月27日に、チャ
 ーチルは、イギリス下院の演説で会談内容を暴露した。
 ルーズベルトの嘘が、アメリカ国民の知るところとなっ
 た。日本の近衛文麿首相が、開戦の危機打開に努力して
 いたが、会談がうまく行くはずもなかった。ヨーロッパ
 戦線でイギリスはドイツに負けそうになっていたので、
 ルーズベルトは参戦したいと考えていた。→0年
1941年12月8日、日本がアメリカのハワイ真珠湾を攻撃し
 て大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われてい
 るが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行していた
 潜水艦へ、機雷攻撃をし、すでに戦端は開かれおり、ま
 た、このアメリカ軍艦は、この交戦事実をアメリカ司令
 部へ送信し知らせている。日本の攻撃は、この様な事実
 により奇襲ではなく、すでにアメリカの知るところの中
 にあった。アメリカは国民世論の操作目的から、日本の
 奇襲をデッチアゲたかった。→4年
1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
1945年8月30日、アメリカの最高司令官のマッカーサーが、
 神奈川県厚木の日本海軍飛行場に来た。マッカーサーは、
 靖国神社を焼き払えと言った、また、すべての神社も焼
 き払えと言った。そして、アメリカ占領軍は、日本へ慰
 安所を作れと命令した。→0年
1945年9月27日、昭和天皇とアメリカの最高司令官のマッ
 カーサーの会談が行なわれた。昭和天皇が、敗戦国の国
 家元首として、マッカーサーの滞在するアメリカ大使館
 へ出向き会談が行なわれた。当時、戦勝国は、天皇を「
 戦犯リスト」の筆頭にしていた。しかし、マッカーサー
 は、天皇をもし処刑した場合の方向に進む時の不安定な
 占領統治になることなどなどの危惧もしていた。マッカ
 ーサーは、会談で「天皇が、敗戦国の君主がそうするよ
 うに戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではな
 いか」と思っていた。しかし、昭和天皇は、命乞いをす
 るどころか、「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚
 悟しており、私の命のすべて司令部に委ねる。どうか国
 民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた
 と語っている。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべき
 ではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度
 に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」である
 と敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだっ
 たが、会談が終わった時には昭和天皇を車まで見送り、
 慌てて戻ったといわれる。後にも「あんな誠実な人間は
 見たことがない」と発言している。→3年
1948年、イスラエルが建国される。新イスラエル国家誕生
 まで流浪の民となっていた。→3年
1951年7月、大東亜戦争(第二次世界大戦)の終戦を知ら
 ぬまま、南海の孤島「アナタハン島」(サイパン島の北、
 北マリアナ諸島)に取り残されていた日本兵の20人が発
 見され帰国した。この日本兵の一部の人の妻が、日本兵
 の夫が戦死したものと思い、夫の兄弟などと再婚してい
 たなどの悲劇も起きた。この一人の妻は、読売新聞の人
 生案内に相談した。相談を受けた方は羽田空港まで帰還
 兵を出迎え、帰還した夫に「過去を一切水に流して奥さ
 んを大切にしてあげて下さい」と励ました。当時の混乱
 した世相について、識者は「日本人女性を連れた米兵へ
 の反感」などを述べている。多くの日本女性が、無責任
 な米兵の行為に泣いていた。米兵との間に生まれ、孤児
 となった子供たちを育てる施設なども出来た。それまで
 と違って日本の男女のモラルは大きく破壊されていた。
 →2年
1953年、GHQ(日本占領軍)最高司令官のマッカーサー
 が、日本をキリスト教化したいと、国際基督教大学を、
 この年に開学する。キリスト教長老派。→23年
1976年、教皇パウルス6世は、サン・ピエトロ大聖堂の墓
 で、ペトロの墓を発見したと発表した。→10年
1986年4月15日、リビア爆撃が行なわれる。→2年
1988年、第二次世界大戦の頃、日本人を『JAP』と呼び、
 帰化不能外国人としたり、土地所有が出来なくしたり、
 「裏から忍び寄るJAPの広告」があったりの人種偏見が
 あったことをアメリカは認めた。→1年
1989年、日本で、赤崎勇氏と天野浩氏が、青色LEDを開
 発した。LED照明が実現した。照明の大革命。→14年
2003年、あり得る核放棄。アフリカの地・リビアの革命
 指導者カダフィ。2011年に発生したリビア内戦によっ
 て、その独裁政権は崩壊し、反カダフィ派の部隊によっ
 てカダフィは殺害されたが、そのカダフィが、1986年
 4月15日に、アメリカ軍およびイギリス軍によって攻撃
 された。その背景だと言われている事は、テログループ
 支援、複数の空港爆破事件の背後にいる事、西ベルリン
 の爆破事件などと言われている。この時、レーザー誘導
 爆弾が使われ、ピンポイント攻撃がなされた。カダフィ
 は不在だったが、カダフィの子供が亡くなったと主張し
 た(カダフィの死後、生存が確認された)。カダフィは、
 2003年に核放棄宣言をし、査察団の受け入れもしてい
 る。→11年
2014年10月24日、この日の読売新聞によると、キリスト
 教の神父が減少したという理由で、キリスト教イエズス
 会系(カトリック)の上智大学などを運営する「上智学
 院」は、運営する学校を合併するための協議に入ったと
 発表した。
今・2014年
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2014年10月28日火曜日

慰安婦・慰安所などのこと・・、

 題:慰安婦・慰安所などのこと・・、
 (真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 日本とアメリカとが戦った大東亜戦争(第二次世界大戦)。
 その戦争が終わったと知らずに、ジャングルの中で、29
年間という気の遠くなるような長い期間、戦闘態勢で頑張
って居られた小野田寛郎氏。
 この小野田氏と、上智大学名誉教授の渡辺昇一氏が対談
をされているYouTubeに、慰安婦の件などが話されていた。
 以下に、この事の概略を記す(主に前半部分)。
 尚、意訳して読みやすくしたところもあります。
 この収録・放送時は、小野田氏が84歳の時である。
 そして、このYouTubeは、小野田氏が91歳で、逝去な
された時の追悼番組である。
 平成18年8月23日に、初回放送されたものである。
.
(追悼番組)渡部昇一&小野田寛郎、大東亜戦争と戦後日本を語る。
 URL: https://www.youtube.com/watch?v=CVOTxN4awg0
 [ 内容 ]::
 ローマ法王は、靖国神社を御参りして良いと言っていま
す。公式に何度も言っています。
 軍人の戦死者を祀っているのだから・・と。
 しかし、戦争が終わって、アメリカ軍の司令長官のマッ
カーサーが日本に来て、靖国神社を焼き払えと言った。
 すべての神社も焼き払えと言った。
 ローマ法王の居るバチカンは、満州を承認していますし、
 ナチスは、ユダヤ人の迫害を国策としていた。
 その点、日本は、ナチスからユダヤ人を迫害せよと言わ
れたが、『しない』と言った。
 日本は、八紘一宇(はっこういちう)だから『やらない』
と言った。
 だから、日本軍が居た上海に、ユダヤ人が逃げて来た。
 日本軍は、国策としてユダヤ人を助けた。
 満州にもユダヤ人が居て、満州に来たユダヤ人は、それ
以上は逃げなかった。
 また、ユダヤ人は、日本にも来て、上陸もしているし。
 その点、イギリスやアメリカは、ユダヤ人が逃げてきた
ら、追い返したですよね。
 日本は、『和をもって貴しとする』という国だから、敵
を作らないということです。
 日本の軍は、悪口を言われていますが、ユダヤ人を守る
ために八紘一宇を言い出したのは、日本の陸軍大臣だった
のです。
 ユダヤ人を追い返したルーズベルト(アメリカ大統領)
より立派なところがあった。
 渡部氏がイギリスへ行った時、家を借りて、その家主
(やぬし)がユダヤ人だったが、その家主が、「戦争の時、
日本はユダヤ人の財産にはまったく手を触れなかったな」
・・と、感心していました。
 日露戦争の時、日本は、ユダヤ人に、たいぶ、助けても
らった。
 だから、ユダヤ人と太いパイプを持っていた高橋是清を
226事件で殺したのは惜しかった。
 あのパイプがあったら、戦争は起きなかったかもしれな
い。
 昔、日本は、24歳まで選挙権が無かった。だから、戦争
に行った人は、ほとんどが選挙権の無かった人だった。
 近代軍隊の一般人に対する徴兵制度を考え出したのは、
フランス革命だった。
 日本は、戦争をするのは武士(戦・いくさを職業とする
人たち)だけだった。
 小野田さんが去年に書いた従軍慰安婦の論文は良かった
ですね。
 小野田さんが、(中国の)街で、偶然、民間人として(
慰安所を)見たことを書いた。
 軍隊に入った後でも見たことがあったが・・。
 ハン江で。武漢三珍、30万人の日本軍が居た。
 お金を持って、日本軍人も慰安所へ行った。
 飛行機の40機分という多くのお金が流れていた。
 その経営者が支那人だった。
 朝鮮の人もね。日本の人もいた。
 中国の人、朝鮮の人、日本人の人が経営していた。
 そこへ兵隊が遊びに行った。
 現地の女性に手を出させないという重要なこともあった。
 また、兵隊が悪い病気にかからないようにするという面
もあった。
 この二つの目的があった。
 そしてまた、そこへ行った時は、日本の兵隊が裸になる
ので(無防備になるので)、その兵を守る兵も必要だった。
 「軍が守る」という意味は、そういう意味です。
 敵から日本の兵を守らなければならないという状況です。
 日本の軍隊が、朝鮮から女性を連れて行ったということ
は無いこと(現地に既にその店があった)。
 日本の兵隊は、その店の女性に騙(だま)されて、多く
のお金を払った。
 問題の慰安婦の事について、調べた政府(内閣)の人が
1件も強制的に連れて行った例はないと言っているのに、
当時の官房長官の河野さんが、調べもしないで、謝っちゃ
った。
 それで、世界中から恥をかいている。
 国民に謝ってもらいたい。
 無いものを認めるなんてね。
 今、日本人が、世界中で一番汚い民族の様に言われたり
している。
 高利貸しと女郎屋のおやじは、畳の上で往生(おうじょ
う)できないという言葉があるくらいの、イカサマな事。
 欧米は、その辺は、大体、承知しているのではないです
か?
 小野田さんの論文は、客観的な観察で(正しいのだから)
英訳して、国連の人権委員会へ配ったりして、日本に来る
恥を注(そそ)がなければならないと思います。
 軍のお金の多くが、慰安所に行く費用に使われたという
結果になっている。
 人間の子孫を残すという欲の一つに、そのお金は使われ
た。人間の三大欲だ。
 拾となん円という給料をもらったら、三つに分けた。
 3分の1は飲食店、饅頭食べたいなど、3分の1は貯金、
そして残りの3分の1で・・慰安所、
 その戦場の慰安婦の店、日本人の様な良心的なのは無か
った。
 アメリカ軍が(日本の占領のために日本に)来た時は、
その慰安所は(日本には)無かった。
 (アメリカ軍は)日本に吉原みたいのを作れと命令した。
 被占領国へ作れと命令した。
 これは(アメリカ軍が)被占領国(日本)に乱暴な事を
したということになる。
 日本政府は、(そのアメリカ占領軍の命令を)それをや
らないで、営業をする人(店を経営する人)がやった。
 (戦地の場合は)戦地での強姦防止があった。
 これをしないで乱れると、恨まれるということを避けた
かった。
 治安維持の面もあった。
 日本に、アメリカの占領軍が来た時にも、その命令があ
った。
 東京も(アメリカ占領軍から)命令された。
 それで東京には店があったが、横須賀には無かった。
 それで、頻々(ひんぴん)と強姦事件が起こった。
 それで、横須賀でも作った方がよいだろうと、やったら、
強姦事件がピタッと止んだ。
 しかし、変な牧師が反対し始めたが、前の(強姦が起き
る)状態に戻ったので、また作った。
 中国での店は、凄く儲かったという、その店で働いてい
た女性が、1000円あれば総二階の家が建った時に、3万
7千円の金を持っていたが、日本が負けたので価値がなく
なったので、郵政省を訴えて、賠償してくれと訴えたので
その持っていた金額を知ったのだが、その様な大金を持っ
ていた。
 その様な金を、僅かな期間で得られた。
 もの凄くもうかる仕事だった(強制連行でしたのではな
い、儲かるので仕事としてやった)。
 大体、1年間ぐらいですね(働く期間は)。
 後半は、靖国神社の話になって行く・・
..
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2014年10月27日月曜日

キリスト教の戒律から疎外されているの状況の中に居る人・・、

 題:キリスト教の戒律から疎外されているの状況の中に居る人・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は律法を無くした、律法や戒などを無くした
というが、さにあらず、たっぷりと律法がある宗教なのだ。
 そして、キリスト教聖書は、男尊女卑の書である。
 イエスは、ただ一人、マグダラのマリアだけは弟子と言
ったが、キリスト教は、今・現在でも、女性を司祭にしな
いなど、男尊女卑の宗教である。
 そして、イエスも、この男尊女卑の精神を持った人であ
った。
 キリスト教聖書も、女性を名前で呼ばない、また、イエ
スも女性を名前で呼ばない。
 仏教は、女性も男性同様に姓名で呼び、そして、多くの
女性を、弟子にもしているが、キリスト教のイエスは、女
性を弟子にもしていない。
 因(ちな)みに、聖書に出て来る女性が、どの様に記さ
れているかを記してみると、「この女」「こういう女」
「ゼベダイの子らの母」「クロバの妻マリア」「ヨセフの
母マリア」「もう一人のマリア」「ヨハネ、ヤコブの母マ
リア」「他の女」「マグダラの女と呼ばれるマリア」など。
 女性を男性の附属物的な存在としている。
 また、ちなみに、イエスが、5000人に食べるものを与え
た話の、その5000人は、女性は除外されている。
 ヨーロッパのキリスト教絵画が、女性を多く描かれてい
るから、キリスト教が男尊女卑宗教の印象が薄いと思われ
ていますが、さにあらず、酷(ひど)い男尊女卑宗教なの
だ。
 「男性信者より数段下の女性信者」という言葉がある。」
 「女性使徒なんて、とんでもない」という宗教。
 そして、イエスが死んだ時、イエスの父ヨセフは、すで
に死んでいると考えられ、イエスの母マリアは、マグダラ
のマリアに引き取られている(「ヨハネによる福音書」19
・25~)
 「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き
取った」とある。
 他のイエスの兄弟姉妹はどうなっているのか?
 母マリアを引き取らないのか?
 つまり、イエスの兄弟姉妹が、イエスの母マリアを引き
取るより、マグダラのマリアが引き取る事で、事がうまく
収(おさ)まるからなのだ。
 だから、イエスが、そう言ったのだ。
 そして、それは、マクダラのマリアが、イエスの家族の
成員(妻)であるからだ。
 そして、また、イエスは、そのマグダラのマリアに、最
初に復活したかった、その姿を見せたかった。
 それ故、マグダラのマリアに、最初にイエスは復活した。
 イエスの復活は無かった事なのだが、イエスを知る人が、
イエスが復活するには、まず最初に復活する人は誰かと、
考えた時「マグダラのマリア」になったのだ。
 「ペトロ」でもなく、「イエスの母マリア」でもないと
いう所に、強い縁のある人なのだ。
 イエスと共に住んでいた家に、イエスの母マリアは引き
取られたのだ。イエスは、マグダラのマリアだけは他の女
性とは違うとみていた。
 このマクダラのマリアの事だけで、キリスト教が男尊女
卑の宗教とは違うとは言えない。
 そして、イエスは妻帯者であり、この点でもキリスト教
の戒律から疎外されているの状況の中に居る人となってい
る。
.
 そして、次の話。
.
 キリスト教のイエスに12使徒が居たというが、キリスト
教の得意な嘘だ。
 4つの福音書に記載事例がほとんどないという、そして、
まったく無視されて名前さえ出て来ない使徒が4人もいる。
 使徒とされる4人を、無視して名前を出さないという福音
書があるのだ。
 使徒ではないから書かなかったのだと言っている。
 そして、1回だけしか出て来ないという「心細い使徒」が、
何と、半数以上居る。
 半数以上の使徒が、この「心細い使徒」となっている。
 作り上げられた「使徒たち」なのだ。空想の使徒。
 イエスの知り合い程度の人、本当は。
 それが、福音書に1回だけ出た、ちょっと出の使徒にされ
た人たちである。
 福音書に出て来て、使徒と言ってもいいかなという使徒
は、「ペトロ」「ヤコブ(ゼベダイの子)」「ヨハネ」「
ユダ」の・・何と・・4人だけなのだ。
 あと8人は・・申し訳ないが、付けたし。
 後の8人は、使徒とは言えない。
 1回しか出ない、または出ないという、福音書で名前を探
すのが大変な人たちなのだ、使徒であるのに。
 イエスの仲間たちは、「ほんの一握り」だったのだ。
 そして、「マタイによる福音書」に、イエスが言ったと
して・・、
 「あなたはペテロ、あなたが地上で解くことは、天上で
も解かれる」と記している。
 これは、はっきり言って・・おかしい。
 名指しで、イエスが、「ペテロは神です」と言っている
事になっている。
 何百年後に、公会議で、やっと神になったイエスが、そ
れより以前に、ペトロを神扱いしている。
 イエスが、その様にペテロに言っている。
 300年も経って、やっと公会議で、もめに揉めた上で、
神になれたイエスが、それよりはるか以前、イエスの生存
中に、ペトロを、「あなたのはなす話しは、説く事は、天
上・天国で解かれる言葉になっています、(あなたの言葉
は神の言葉です)」と言っている。
 その時にはまだ、神では無いイエスが、ペトロに言って
いる。
 まったく、キリスト教は、こんな節操無い言葉が、乱れ
飛んでいる、節操無い宗教の態となっている。
 この様に、使徒というか、弟子というか、12人は、明ら
かに居なかったわずかな人を、ちやほやしないとグループ
が保たれなかった。
 福音書には、あちこちで、イエスと意見のぶつかり合い
がある人たちなのです。
 使徒なのかなー ・・という感じの状態?
..
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2014年10月26日日曜日

心的ダメージが・・恐ろしい・・心配である・・、

 題:心的ダメージが・・恐ろしい・・心配である・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、可哀想な事に・・、
 また、不運な事に・・、
 キリスト教の中心に居るイエスが、刑死という経過をた
どった。
 当時、多く居たイエスの様な、イエスを含む予言者(預
言者)たちを・・、
 公権力が、ことごとく・・刑に掛けていた。
 キリスト教関係だけでも、イエスだけではない。
 多くの刑死者が居る。
 キリスト教の経典である聖書を読んだだけでも・・、
 イエス以外にも多くの刑死者が出て来る。
 キリスト教の中心に居るこのイエスも、刑死という不運
に会ってしまった。
 イエスの弟子たちは、イエスの刑の執行時には、不誠実
な事に、何処かに逃げ、そして、隠れてしまったが・・、
 イエスを知る女性がただけが、イエスの刑に立ち会った。
 その女性がたも、イエスの、予測ができなかった不運に
嘆き、そして、戸惑いの中に居た。
 キリスト教は、予測できなかったこの不運な事態を、
「贖(あがな)い」とした。
 アダムの経緯(いきさつ)で生じた「人間の原罪」を贖
ったとした。
 このイエスの刑死で、人間だけが持つ原罪が、贖われた、
救われたとした。
 キリスト教聖職者は、これを説明する説教で、「キリス
ト教の救いは『下への招き(救い)』である」と意味不明
な説明をする。
 死という形による救い方を言っているのだろう。
 しかし、当然、聖職者は、それが良いと美化の発言をす
る。
 キリスト教のこの聖職者は、キリスト教以外の、一般の
宗教が、良い状態へと導く救いの状態は駄目だと言う。
 この「上への招き(救い)」は駄目なのだと言う。
 苦しい人をより上の状態の、苦しくない状態への救いが、
なぜ駄目で、良くないのかは、キリスト教聖職者は説明し
ない。
 キリスト教聖職者は言う、「十字架の死という最悪の状
態の中に立って我々を招く」のが良いのだと言う。
 何故、良いのかは説明しない。
 ただただ、良いと言う美化の言葉ばかりだ。
 そして言う、「我々よりさらに低い所から招き、低い所
から支える」のが良いと言う。
 何故、下から支えるのが良いのかは説明しない。
 これは、キリスト教に良くある『我田引水論理』だ。
 意味不明の我田引水論理で、煙に巻いて、マインド・コ
ントロールする。
 イエスが、ただ、不運の事態から生じた刑死の事態に、
ただこじつけてできた論理ではないですか?
 キリスト教は、この様な論理、屁理屈と思える様な、ま
た、こじつけと思える様な論理・説教で、話をし、洗脳す
るから注意をしたい。
 人々を救うには・・、
 また、支えるには・・、
 下からも・・また、上からも・・、
 一生懸命に・・支え・・救って・・差し上げねばなりま
せん。
 仏教には・・、
 菩薩が、救いのために、地獄へ降りて行く・・という話
が有りますが・・、降りても・・行かなければなりません。
 また、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」ではありませんが・・、
 佛が衆生を救おうと・・、天から蜘蛛の糸を地獄へ下ろ
し、地獄の人たちが、その蜘蛛の糸を登り、救われようと
する話もあります。
 キリスト教は、本当に偏頗(へんぱ)な話で洗脳し・・、
マインド・コントロールする。
 無意味な美化だけの言葉だけが・・無味乾燥に響きつづ
く宗教だ。
.
 そして、次の話。
.
 若い、大切な時期・・、
 多くの、そして、色々な事を学ばねばならない若い時期
に・・、
 キリスト教系の学校に入ったばっかりに・・、
 キリスト教を本当に求めた訳でも無かったのに・・、
 キリスト教系の学校に入ったばっかりに・・、
 納得の行かない論理展開に・・、
 自分の素直な考えを、より深く求めて行きたい本音(ほ
んね)の自分が居るのに・・、
 その本当の自分を表現すると、期末試験などの試験の場
合には×(ばつ)となり・・、
 やむなく本当の自分を押し殺して・・、
 キリスト教が言う論理に迎合(げいごう)して・・、
 試験を通過している。
 自分に嘘をつく毎日となっている。
 この時間やエネルギーがもったいない・・、
 まことに貴重な若い時期に・・、
 この時間やエネルギーを、他へ向けたら、これからの自
分の人生に大きくプラスになるのにと・・惜(お)しく思
う。
 それよりも、心的ダメージを・・、
 若い心への心的ダメージが・・恐ろしい。
 どのような影響が、これから出て来るかである・・心配
である。
 「週に2時限もあるのですよ」と嘆いていた若者が居た。
..
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2014年10月24日金曜日

『無気力人間』にされるのが・・心配・・、

 題:『無気力人間』にされるのが・・心配・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の根本にあるのは・・性悪説。
 その説によって・・悲惨な事態が、生まれている。
 キリスト教の論理、勝手な説を擁護するために、必死に
キリスト教は、『人間を悪く』言う。
 卑劣な行為をする・・キリスト教の姿となっている。
 例えば・・、
 「人間は、結局、最後は死んでしまう。どうせ死んでし
まうのなら、真面目に一生懸命に生きても意味がない。良
い事をしても、結局は空しさが残るばかり。あくせく汗水
流して働いても、目に見える形で生活は変化する訳でも無
い。年老いて身体の自由が聞かなくなる前に、やりたい事
を存分にやって楽しむべきだ。自分が精一杯努力した所で、
今の世の中が変わる訳では無いし、やるだけ損。難しい事
は考えずに、気の向くままに生きているのが一番良い」と
言い、洗脳をする。
 結局、キリスト教の神に頼れと言いたいだけなのだ。
 こんなキリスト教は、社会から糾弾されねばならない。
 キリスト教は、「努力をするな」のキャンペーンをする
が・・? まったく、反社会的宗教だ!!
 キリスト教は言う、「究極的に人間に価値を与えるのは、
キリスト教の神である。人間ではない。キリスト教の神が
価値の与えるのである」と。人間は無能だと言いつのる。
 そして、「人間は何も成し得ない」と洗脳するキリスト
教なのである。無気力人間製造宗教となっている。
 「人間は努力し、その努力は、当然、報われるのですよ」
と教え、説かなければならないのであるが・・、
 その様な事は、おくびにも説かない。
 「頑張れば、必ず報われ、努力すれば、その努力のしが
いがあるのです」と説かなければならないのに・・、
 キリスト教は、まったく説かず、「社会悪」を作ってい
る宗教となっている。
 努力をする人を讃(たた)え、感謝する社会であり、宗
教であらねばならないのに・・、
 この様なキリスト教の教義、および、説教は、『犯罪』
である。
 (「申命記」8・9)に・・、
 「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から出るす
べての言葉によって生きる」とあるが・・、
 変なキリスト教の神の言葉は、無い方が、世の中のため
になるのだ。
 キリスト教系の学校で、子供たちが、「無気力人間」に
洗脳されているのが、本当に、心配である。
 そして、キリスト教系学校の教科書の、次のページに、
書かれているのが、次の文である。
 「人間の命は、はかなくて、脆(もろ)く、いずれ朽ち
果てて行くものである。そんな人間が存在する価値などあ
るのだろうか。その事を考えて行くと、人間には空しさだ
けが募(つの)って来てしまう」と書き洗脳する。
 そしてまたまた、この教科書は書き、そして、教える、
 「その空しさを無視すると、実はもっと、空しい、とい
う事に気付いて行く必要がある」と、執拗(しつよう)に
洗脳する。
 キリスト教が、子供たちへ、ここまで言って、貶(おと
し)めて、そして、言いたかった事は、賢明な方々は、既
に、御推察でしょうが、『キリスト教の神が救うのだ』の、
当然の一点。
 ここまで、子供たちを、傷つけて、キリスト教の神への
信仰を得ようという破廉恥な魂胆(こんたん)、筋書きと
なっている。
 そこには、何ら、建設的で、ためになる話は・・無い。
 傷つけられた、傷ついた心が、子供たちに残るだけ・・、
 これは・・犯罪である。
 キリスト教系の学校で、子供たちに、この様な犯罪的な
洗脳教育が行われている。
 この様な授業を聞く辛(つら)さを、訴える子供たちが
来る。そして、言う、「週に2時限もある」のだと、辛(
つら)いと訴えて来る。
..
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2014年10月19日日曜日

キリスト教は、すべてを語っていると言いますが・・、

 題:キリスト教は、すべてを語っていると言いますが・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の神は、「光あれ」と言いましたが、この神
の話はクエスチョンなのです。
 何でも知っている神が、正確に言うべきだったならば、
「電磁波あれ」と言うべきだったのです。
 キリスト教は、『人間の認識領域に留(とど)まってい
る』ということなのです。
 この様な知識のない、古代の聖書記述者が、書いたのだ
から仕方ありませんが・・?
 しかし、何でもできる、何でも知っているというキリス
ト教の神が、書いた・・書いたのですと、言うのでしたの
なら、「電磁波あれ」と言わないと・・いけません。
 光は電磁波の一部です。
 光は、人間が認識ができたという領域のものということ
で、狭い部分の話です、ほんの一部分です。
 キリスト教が、『古代の人間の認識領域で書かれている』
ということを如実に表している一つの事例です。狭い部分
の話の展開です。神の記述ではありません。
 キリスト教は、真実を書いたと言いますが、『真実では
ない』のです。部分の認識では全体が見れません。
 人間の『認識領域部分のみの世界を創って』、すべてを
創ったと錯覚しているキリスト教なのです。そして、すべ
てを語っているとしています。
 精神を学べは言いのだと、キリスト教聖職者の方で、こ
の様に言う方が居られますが、部分だけで全体の精神が分
かりますか?
 詭弁(きべん)です。
 多くを知らなければ全体は見えて来ません。
 キリスト教の論理破綻を示している一事例です。
 だから、キリスト教の思考は、人間の認識できる部分の
みを、「ああだ、こうだ」と言って思考を巡らせ・・何だ
かんだと言う・・という図となっています。
 それでは、問題は解決しません・・そして、当然、真実
も掴(つか)めません。
 神が発した言葉でできたと言いますが・・、神が、「す
べてを知ってない」ということを現わしてしまったことに
なってしまったという罪作りな話です。
 この聖書記述者は、神を無能にしてしまった罪を作りま
した。
 人間の認識できる世界は、僅(わず)かに4パーセントな
のです。この4パーセントを、『創った』『創った』と言っ
ているキリスト教となっているのです。
 また、因みに、細胞でできている人間、その細胞は分子
で構成されている。
 分子と言ったって、原子核の周りに電子が回っているが、
スカスカの隙間だらけ。
 我々は隙間だらけの存在。我々全員をその隙間を無くし
てみると、僅か『升の一杯分』しかないという。
 その様な実態。
 その升一杯を、なんだかんだというキリスト教の神とい
う話になっています。
 その他の多くの部分が埒外(らちがい)になっています。
 そのキリスト教の神が認識できる4パーセントをキリスト
教は宗教としています。
 すべてを把握した様な気持ちになって、錯覚しているの
です。真実を掴(つか)め得ないキリスト教の理由の一つ
です。認識が甘い宗教。
..
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2014年10月16日木曜日

聖職者が・・ですよ・・??

 題:聖職者が・・ですよ・・??
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書のイエスの弟子たちは・・、
マッタクしょうがない人たちだと、表面的には思う。
 が・・しかし・・、
 その弟子たちについて、キリスト教は言う・・、
 「イエスの十字架の後の復活を見て、初めて弟子たちは、
分かる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされた時、初めてイエスの言う神の国
が分かる様になった」・・と。
 そして、キリスト教は、さらに、「つまり」という言葉
でつないで説明する・・、
 「つまり、神の国の中に自分を決定的に見い出す様に、
(イエスに)された」から・・と、
 この説明でお分かりになりましたか?
 キリスト教は、何時も、この様な、中途半端な言い方を
します。
 イエスが、神の国が分かるようにしたと言う・・、
 行為者が分かるが、実際、分からせねばならない神の国
は・・一言も説明しない。
 そして、「だから、イエスの弟子たちが分かる様になっ
たのです」の説明に・・なってない。
 「神の国の中に、自分を見い出す事が、出来ている弟子
たちに出来るようになった」・・とは?
 これも、結果だけを言っているだけで・・、肝心な、ど
うして出来るようになって、その結果、どの様だったなど、
肝心な説明は・・何もしていない。
 「出来るようになりました」・・で、終わっている。
 何時も、キリスト教は『この手の言い方』で、分かる気
になった様にしている。
 錯覚のマインド・コントロールをしている。
 それなのに・・、
 このイエスの復活が分からなかった人は、「神の国」に
入れないと・・、この言葉だけは、明確に、はっきりと説
明する。怖(こわ)い、罰がありますと言う。
 イエスの復活は、神の国への招待ですと言うが・・、分
からない人は、その御招待も駄目となっている・・と。
 そして、キリスト教は、「ウルトラ演技」の様な『言い
訳』を言う・・、
 「復活が、明確に証明できないからこそ・・『信じると
か?」とか、『信じないとか?』とかの・・信仰が、生ま
れるのだ」・・と。
 これは詭弁(きべん)だ。
 「復活があったと、はっきり説明できれば、信じる信じ
ないの話も生まれない」・・と、
 キリスト教は、この様な『観念の遊び』を信仰と称して、
貴重な時間を空費している。まったく時間の無駄だ。
 逆でしょう?・・イエスの復活が、はっきりと説明され
れば皆様が信仰するでしょう。
 当時の状況でさえ、既に、イエスの弟子たちが、復活話
をでっち上げると、公的機関に知られていて・・その対策
が講じられているではないですか・・この復活話は、この
様な、古代の当時でさえ、『眉唾話を見透かされた社会情
勢』だったでしょう。
 イエスが亡くなった頃の状況は、復活があったと騒いだ
のも、当時の公(おおやけ)の機関が、既に、見透かして
いた通りの、『イエスの仲間の人たちだけ』でしょう。
 何ら、エルサレムの街が、こうなったとか、ああなった
とかの話は皆無、何も無いのです。
 ほんのイエスの周囲だけの、一部の話に、終始している
だけではないですか?
 イギリスのキリスト教聖職者の方たちでさえ、報道機関
の調査に、聖職者の過半数の、多くの、多数の聖職者の方
々が・・、
「イエスの復活は信じない」「信じることができない」と
答えています。聖職者が・・ですよ・・?
..
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取りとめなく、書いてみたら・・

 題:取りとめなく、書いてみたら・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 本日は、取りとめもなく書いたらどうなるかを、以下に
書きました。
 キリスト教のイエスは、平均寿命が30歳以下という古代
の時代に生きた人である。
 また、この時代は、子供の半分が、15歳になる前に亡く
なってしまうという悲しい時代でもあった。
 この様な時代のイエスが、30歳を過ぎた晩年に、突然、
洗礼者ヨハネの所へ、洗礼を是非して貰いたいと現れた。
 洗礼者ヨハネと言えば、当時、有名な活動家だった。
 ユダヤ教エッセネ派に属し、リーダーとして大きくなっ
て行く人だった。
 より重要な地位に、付くべき人だった。
 しかし、公権力によってその芽は摘まれてしまった。
 彼が所属したユダヤ教のエッセネ派は、弱小集団だった。
 キリスト教とその考え方が似る。
 この様な事があって、キリスト教聖書も、洗礼者ヨハネ
を軽くは扱えず、無視する事も出来ず、しかるべきページ
を割(さ)いて、洗礼者ヨハネを描いている。
 だからと言って、洗礼者ヨハネに信仰のベクトルが向い
ては駄目だと、何かと洗礼者ヨハネが、イエスを立てる演
技をさせる、話をさせる事をしている。
 イエスを奉(たてまつ)る洗礼者ヨハネという図となっ
ている。
 因みに、話はそれるが、イエスを奉るという事で、マタ
イによる福音書の聖書記述者のマタイが、イエスの父親の
ヨセフを、ユダヤ民族の唯一の英雄のダビデまで引っ張り
出して、奉(まつ)り上げた、ダビデのいる救世主の系図
に、イエスと血の繋がっていないイエスの父親ヨセフを、
系図に入れたが?
 これは、マタイの時代は、まだ、「処女受胎のマリア」
の作り話が、まだ、起きていなかったからだ。
 マタイは、イエスが、ヨセフの血の繋(つな)がった息
子だと知っていたのだ。
 ヨセフの実子で、イエスは次男か、3男という本当の視
点で描いたのだ。
 処女受胎の嘘話が頭にあったならば、ややこしくなる父
親ヨセフが、系図に入る話は描かない。
 また、イエスの弟子たちの事ですが・・、イエスに叱ら
れ、イエスの言っている事が、イエスから「まだ、分から
ないのか」とも言われて居た弟子たち。
 この弟子たちが、「イエスの死後、まともになった」と
言われるが、
 この言い方は、一方的に弟子たちに問題があったとして
いるが、これは間違いだ。
 このどうしようもない弟子たちが、師匠が変わったら、
まともになったという事は、イエスに問題があったと言え
る。
 常に、一緒に居たイエスと弟子たち。
 その細かいすべてが分かる間柄になる訳だ、絶対に。
 それがまったく恥ずかしい経過を辿(たど)る。
 イエスの指導に、その問題があったとしか言えない。
 また、指導すべきイエスの言い方や、イエスの性格から
来るその対応に、問題があったのだと言える。
 イエスの性格上の問題があったとも言える。
 そして、奇蹟の話へ・・、古代人は奇蹟の話に驚いて、
言う事をきかすのに都合が良かったのだろう、
 キリスト教は、「奇蹟のオンパレード」「奇蹟の大安売
りの宗教」となっている。
 信仰深い信徒の方でさえ「このすべてが真実だとは信じ
られない」と言う様に、辟易(へきえき)状態となってい
る。
 「人を生き返らせた」「5000人が食べる物を空から降ら
した」「水の上を歩いた」「歩けない人を歩かせた」「盲
人を見えるようにした」「伝道しなくても人に信じさせた」
「風をぴたりと止めた」などなどだ。
 実は、「伝道しなくても人を信じさせた」以外は、聖書
に出て来た奇蹟なのだが・・、
 肝心の「伝道しなくても・・」の奇蹟だけは、出来なか
った奇蹟の様だ。
 この奇跡には、良くも嘘を言うものだと呆れること半分、
怒り半分の状態だ。
 「誠実ではない、この奴め」という思いだ。
 人々を口先三寸で、よくも、詐欺氏まがいに惑わすもの
だと本当に呆れる。
 キリスト教よ! もう、嘘を付くのは止めなさい。
 惑わして、可哀想な方々を作る事は止めなさい。
 キリスト教会の中で「お山の大将になって、好き勝手を
言うのは止めなさい」、正業に付きなさい。
 そして。次の話・・、マグダラのマリアが生まれ育った
マグダラの街と、イエスの生まれ育ったナザレの街は、近
かった。
 因みに、イエスを裏切ったユダの生まれ育ったケリオテ
の街は、イエスやマグダラのマリアの街から遠い南の地に
あった。
 イエスとマグダラのマリアの生まれ育った地は、肥沃な
地で、農作物の恵み豊かな地だった。
 それに引き変えユダのケリオテの街は、死海の際で砂漠
の地・不毛の地であった。
 この風土の違いは大きく精神構成・考え方に大きな違い
を生んだ。
 何かとイエスとマグダラのマリアが気が合ったのも、こ
の同じ気候・風土に生まれ育った事に関係していると考え
られる。
 そこに、過重な税金を弱い民に課税し、ノルマを果たせ
ば私腹を肥やす事の出来た庶民いじめの徴税人(取税人)
が横行した。
 この金持ち取税人の家に上がり込んで、飲み食いするイ
エスだった。
 キリスト教は、こんなイエスを、何だかんだと言って美
化をする。
 信徒獲得のためとはいえ、嘘を付いたり、右のものを左
だと言ったりする事は止めなさい。
..
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2014年10月15日水曜日

大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。

 題:大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の、イエスの家庭は、子沢山な家庭だった。
 イエスの家族は、9人か、または、それ以上と考えられ
る。
 当時、半分の子供が、15歳までに死ぬ・・という、社会
だった。悲惨な社会だった。
 日本でも・・昔はそうだったが・・、その様な社会は、
悲しい事だが・・その対策として、多くの子供を持つもの
だ。
 古代の時代に生きたイエスの家庭も・・その様に・・子
沢山の家庭だった。
 イエスには、7人の兄弟姉妹、または、それ以上の兄弟
姉妹たちがいた。
 イエスが長男ではないという事は、既に、書かせて戴き
ましたが、
 故に、処女マリアは『嘘だ』と、既に、書かせて戴きま
したが・・、(単なる翻訳ミスで処女となっただけで、イ
エスの生誕は処女マリアからではない・・と)、
 イエスは『次男』か、『三男』だと見られている。
 また、子供の死亡率が高い事も、既に、述べたが、平均
寿命は、『30歳未満だった』と言われている。
 イエスの経歴は、あまり詳しく分かっていないが、
 34歳か、36歳の頃の歳に、刑になったと見られている。
 イエスが、実際に居た、存在したという『存在証明』は
出来ない状態となっている。
 イエスは『居なかったかもしれない人』となっている。
 この原因を作ったのは、『キリスト教会』だ。
 イエスに都合の悪い事を書いた書類(当時のキリスト教
会が都合が悪いと、当時のキリスト教会の判断で、焼いて
しまったのだ。焼却処分。馬鹿な事をしたものだ)。
 イエスの存在証明が出来なくなってしまったのだ。
 イエスの生きた時代は、平均寿命が30歳以下だったとい
う。その様な、平均寿命が短い当時なので、イエスは長生
きの部類に入る。
 そのイエスが、活動を始めたのも30歳を過ぎており、
 イエスは、晩年になって・・その活動を始めたと言える。
 活動期間も『1年』か、長くても『2年』と見られている。
 そして、それまで、イエスが活動していたという記録は、
一切ない、書かれていない。
 父・ヨセフの職業の大工を継いでいる事が分かっている
ので、多分、大工仕事だけをしていたのだと考えられる。
 多分、推測だが、父・ヨセフの死が切っ掛けなのだろう、
その大工仕事を止めて、突然、イエスは、洗礼者ヨハネの
所に現れた。
 この洗礼者ヨハネは、イエスの従兄弟であり、つまり、
親戚筋の人なのである。
 洗礼者ヨハネは、当時、有名な活動家だった。
 イエスの親戚筋でも、評判になっていたと考えられる。
 イエスは、この有名な従兄弟の洗礼者ヨハネに、是非、
洗礼して貰いたいと、洗礼者ヨハネの所に現れたのであっ
た。
 そして、イエスは、この従兄弟の所に入門した。
 しかし、謙遜深い洗礼者ヨハネは、イエスを立てた。
 人物的にも、出来た人だったと思われる。
 イエスは、この洗礼者ヨハネに付いて、修業を教えてもら
い、一緒に修行した。
 当時、イスラエルには、多くの預言者が居り・・、
 公的機関は、この預言者たちを処刑していた。
 このことが、洗礼者ヨハネにも訪れた。
 洗礼者ヨハネは、処刑された。
 この時に、イエスではなく、洗礼者ヨハネが処刑された
という事は、まだまだ、イエスの『表立った存在』は無か
ったと言える。
 また、洗礼者ヨハネの活動が、公権力の目ざわりとなり、
処刑の対象にしたと言える。
 イエスは、陰に隠れる存在だった。
 洗礼者ヨハネの居なくなったイエスは、自主的に活動を
始めた。
 その活動は、洗礼者ヨハネとまったく同じだった。
 それ故に、それまでのイエスは、「神の子」という状態
とは、まったく無縁だった。
 また、超能力や奇蹟をおこすという人とは、まったく、
違った、無縁だった。
 当然、イエスが、評判になったなどという話もない。文
献などにも、まったくと言ってない。
 イエスの生まれ育った地元・故郷の人も・・、
 「この人は、この様な事を何処で知ったのだろう」と、
驚いているくらいなのだ。
 「この人は大工では無いか」と(「マタイによる福音書」
6・1~3)参照。
 でも、イエスも、故郷では奇蹟などがやりにくいと、本
音を吐露(とろ)している。
 また、『活動を開始したイエス』と言ったって、大きい
世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかっ
た。
 狭い、ある一時代に、また、ある一地方に、生きた人が、
活動を開始したという活動だった。
 当然、現在では過去のものとされるもの。
 また、イエスに、ある理念に基づいて『立宗をしよう』
などという理念なども、まったくといってなかった。
 当然、また、イエスには、キリスト教の「キの字」も無
かった。
 キリスト教の立宗など、私には『関係ない』という御仁
だった。
 イエスは、ユダヤ教で満足していた。
 ただ、ある『狭いユダヤ教の理念だけ』を主張するという
御仁だった。
 イエスは、ユダヤ教の枠内だけで、思考を展開するという
御仁だった。
 ユダヤ教のある一つの宗派の「エッセネ派」の主張をとな
える御仁なだけだった。
 イエスの多くが、洗礼者ヨハネの影響を受けた枠内にあ
った。
 洗礼者ヨハネは、禁欲的で、ラクダの毛皮を着て、腰に
皮の帯を締めて、荒れ野で修行し、イナゴとか、蜜を食べ、
戒律を守り、沐浴(もくよく)をし、農耕をし、手工芸を
し、財産の私有はせず、菜食の生活という状態だった。
 イエスは、洗礼者ヨハネに影響されたとは言え、エルサレ
ムの人から、「大酒、飲み」とか、「大飯(おおめし)食
(く)らい」と、そのイエスの贅沢の生活を、半分、羨む
意味を含みながら、揶揄(やゆ)されていた。
 結構、イエスは、贅沢をしていたと言える。
 研究者も、十字架像(あの偶像崇拝の十字架に付いてい
る像)のイエス像と違い、実際のイエスは、かなり太って
いたとしている。
 キリスト教の大きな基本・根本としている福音書は、大
きな間違いをしている。
 新しい出現として「イエス」を扱っているが、そのイエ
スが信奉していた「父なる神」をないがしろにしている。
 イエスが、この事を知ったら大いに怒るだろう。
 山から降りて来て、怒りに怒った「モーゼ」の様に、イ
エスも、現在のキリスト教を見て、怒りに怒るであろう。
 信仰が成立していない・・と。
 キリスト教は、その事が分かっていたって、イエスの死
後、何百年も経った後に、人間様たちが集まって、公会議
と称して、イエスも聖霊も、みな、神にしてしまった。
 しかし、神が増えたと言う訳ではなく、「マジック」を
掛けた様に『一神だ』と称した。それで安心している。
 キリスト教は神をいじくり過ぎている。
 節操が無いことを、人間様が、やり過ぎる。
 信じるに足る・・宗教ではない。
..
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2014年10月13日月曜日

結果・・未来がないことを説いている・・、

 題:結果・・未来がないことを説いている・・、
   (ひどい宗教である)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスは、ユダヤ人であり、ユダヤ民族の
中で生き、そして、生活をした。
 そして、イエスは、ユダヤ民族が持つ『終末思想』を、
また、持っていた、一般のユダヤ民族と何ら変わりなく、
当然のごとく、持っていた。
 イエスの生きた・・ユダヤ民族のその地の時代は・・、
 その終末思想が、はなはだしく強く、叫ばれていた時代
だった。
 社会は、戦争が多く・・、
 戦争に・・明け暮れていた・・、
 社会は、乱れ、倫理も、乱れ・・、
 社会だけでなく・・人心(じんしん)も、荒廃していた。
 宗教の中心の神殿には、神殿娼婦が居た。
 また、こともあろうに、一般社会の女性にまで・・その
神殿娼婦をする義務が・・課されていた。
 また、民は、可哀想な事に、重い税金にあえいでいた。
 当然、仲間であるべき一般人のユダヤ人の・・税金取立
人の「取税人」を、ユダヤの方々は恨んでいた。当然の心
である、
 また、この狭い地には・・多くの民族が、錯綜(さくそ
う)していた。
 その多くの民族が・・生きるための、生きる糧の奪い合
いの世の中、世情(せじょう)の中にいた。狭い「るつぼ
の中」でうごめいていた。
 その様な中でできたキリスト教は・・、その陰惨(いん
さん)な世情を、当然のごとくに・・写していた。
 キリスト教は、終末思想を持った宗教となった。
 これは、キリスト教聖職者も認めるところであり、否定
は・・できない。
 そして、キリスト教聖職者は説く・・言う・・、
 「人間の生命に・・終わりがある様に・・、歴史にも、
必ず終わりの瞬間がやって来る・・その様に、キリスト教
は考えている」・・と、
 その終末の時、キリスト教の神が、天国に入れるか?否
か?・・を、裁くと、説いている。
 しかし、キリスト教は、この様なキリスト教の教義を、
最近、訂正し始めている。
 前言取り消しの態度となって来ている。
 そういえば、キリスト教は、最近、『隣人愛』という言
葉を言わなくなった・・が・・、
 標記の件も・・、近代社会には受け入れられないと、キ
リスト教の教義の維持が難しくなったという。
 似たような話が・・話が、また、それるが、キリスト教
が、「婚前の男女の同居を認めていない」が、これを認め
るようにしよう、変えようと、これも、今までの教義を捨
てようという動きをしている。
 そして、同性の愛についても認めようと、同じく教義変
更しようとの話がある。
 キリスト教は悩み、大きく悩みうねっている、のたうっ
ている。
 キリスト教は、それらの「教義の維持」が難しいと悟っ
ている。
 あなたの、今、信じているキリスト教の教義も、何時、
変わるかもしれません?・・
 その様な、中にある信仰となっていることを、見つめ直
してください。
 何ら、キリスト教には「絶対なる信仰」の絶対なんてあ
りません・・、
 その様な確固たる教義のない宗教です。
 そして、その事が露呈している宗教の、昨今なのです。
 変わる宗教教義、信じるに価しない教義であり、その様
な宗教であるという実態が、如実に表れております。
 キリスト教聖職者でも、従来からのキリスト教の教義を
認めがたいという態度の聖職者も少なくありません。
 キリスト教の論理破綻・教理破綻の「波」が、「うねり」
が、あちこちで起きております。
 何しろ、古代の論理では・・無理なのです。
 キリスト教は、現代社会では、現代社会において、その
宗教維持は出来ないのです。その様なレベルなのです。
 古代人のレベルと、はるかに違う現代社会では、その宗
教教義は・・維持できないのです。
 キリスト教聖職者は、苦し紛れに、次の様に言う・・、
 「歴史の終末の有限は、無限なる歴史の中に取り込まれ
るのです」・・と・・、
 お分かりになりますか???
 何を言っているのでしょう・・もう、ここまで来ると笑
い話です。
 この様に言うしかないという言い方です・・、
 キリスト教聖職者は、言い逃れの職業と思えて来ます。
 キリスト教聖職者は、この様な言い逃れ論理を、考え出
さねばならない職業、苦し紛れにこの様に言っているので
す。絞り出しているのです。
 こんなレベルの話を、感受性の鋭い子供たちが、聞いて、
育って、正しい論理思考ができるように育つのでしょうか?
育ちますか???
 ますます、子供たちを惑(まど)わす事態に追い込む結
果になって行きます。
 こんなキリスト教聖職者が、社会に存在する意義はあるの
でしょうか?
 この様な破綻論理を吐く職業の聖職者は、完全に、その
存在意義は無くなっています。むしろ社会悪とさえなって
居ります。
 この様な破綻論理を吐かねばならないキリスト教聖職者
の方々は、反社会的存在であり、反社会的行為を行なって
居ります。
 キリスト教聖職者は、「終末は希望である」と言い出し
ている。
 しかし、何故? 死後の世界の、終末思想を、希望にする
どんなキリスト教論理が? どんなキリスト教の論理で希
望が生まれて来るのかは不明です。神と共に居られるから?
 現代に生きる希望は、古代と同じく捨てるのですか?
 イエスの時代も、この世のうちで希望を叶えよう、実現
させよう、出来るのだとして来た・・、
 しかし、その終末の論理は、とうとう乱れた社会で、現
実社会で、叶(かな)えられなくて、死後の世界で、神が
叶えると、変遷したという経緯のある終末思想、
 今・現代の聖職者が、希望が、どんな論理で生まれて来
るかは不明なのだが・・、
 キリスト教聖職者は、キリスト教の終末思想は、希望を
砕く悪の倫理と知って居て、あの世の天国でしか叶えられ
ない論理だと知っていて、それでは駄目だと知っていて、
希望を砕く悪の論理だと知っていて・・言う。
 「ハルマゲドン」という、キリスト教の訳の分からぬ言
葉を使って、輝く未来が開かれていると・・言葉だけは明
るく言う、
 言葉は明るく使ったが、論理はまったく無く・・、
 未来ある若者の希望を砕く・・、
 この様な、キリスト教の悪思想は、それこそ、今のこの
社会で・・終わりにしたい。
 キリスト教聖書は、特に、若者には読ませてはいけない。
 また、「フランダースの犬」という幼児向けの本も、キ
リスト教は、「第二のバイブル」として宣伝しているが・
・、
 この本の最後は・・、
 イエスの十字架の磔の絵の前で、主人公の子供と愛犬が、
冬の寒さの中で凍死するという場面で、天に昇るのだ・・
という事で、めでたしめでたしとしている。
 幼児にまで、死する事によって希望が叶えられるという
洗脳をする、マインド・コントロールするキリスト教なの
である。悪の宗教である。
 これから、この世で勉強し、世の中の方々のために、そ
の様な人になって行こうという未来ある子供たちに・・、
 この様な思想を・・美しいと美化して・・刷り込もうと
いうキリスト教。
 反社会的な教義、
 反建設的な教義、
 健全な建設的なベクトルと真反対の死の中にあるキリス
ト教・・、
 社会の、建設的な心を砕く・・宗教である。
 この宗教では・・キリスト教では・・、
 人類は救済されません。
 あなた方も、幸せには、絶対、なれません。
.
 (参考)いん‐さん【陰惨】 [名・形動]暗くむごたらし
   い感じ。また、そのさま。「―を極める」、
..
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2014年10月12日日曜日

いたいけな子供たちが・・、

 題:いたいけな子供たちが・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教徒の女子学生の様な、感受性の鋭い心に、配
慮の欠いたキリスト教の話が・・突き刺さる。
 1224年9月14日に、ラ・ヴェルナ山において、フランシ
スコの手足と脇腹に、イエスが受けた傷と同じ傷が現われ
た・・と、キリスト教は言う。何故か? 年月日がはっき
り言えるという。
 それまでの、フランシスコの祈りが通じたのだ・・と、
キリスト教は言う。
 この傷を、聖痕(せいこん、スティーグマーク)という
・・と、キリスト教は言う。
 一生懸命に祈っていたから、この傷が現われた・・と、
キリスト教は言う。
 イエスが受けたという同じ苦痛があった・・と、キリス
ト教は言う。誰が調べたかは知らないが、イエスと同じ苦
痛があったとキリスト教は言う。
 フランシスコは耐え、彼の傍(かたわ)らには、天使が
降りて来て、フランシスコを励(はげ)ました・・と、キ
リスト教は言う。
 そして、イエスが出現した・・と、キリスト教は言う。
 そのイエスが、どうのこうのしたとも、キリスト教は言
わない。
 また、そのイエスが、何か話したとも、キリスト教は言
わない。
 ただ、イエスが現われた、とだけキリスト教は言う。
 また、イエスが出現している間、ラ・ヴェルナ山は、燃
え上がる焔(ほのお)に包まれている様に見えた・・と、
キリスト教は言う。
 その焔は、大地を燃えつくす様に、周りの山々、谷とい
う谷に、焔の光が照らされた・・と、キリスト教は言う。
 フランシスコは、傷の痛みに耐え、その痛みのため包帯
を巻いた・・と、キリスト教は言う。
 傷だらけの体となっているフランシスコだった・・と、
キリスト教は言う。
 その後のフランシスコは、数知れない奇蹟を起こした・・
と、キリスト教は言う。
 この話に、さすがに、信心深いキリスト教徒も、「その
奇蹟のすべてが事実であるとは思えない」・・と、言った
が・・。
 キリスト教には、この様な、嘘話が実に多い。
 キリスト教は、「奇蹟が起こせないなら聖人ではない」
「聖人にしない」・・と、言っている。
 規則がある。
 最近も、ニュースに取り上げられ、報じられた、キリス
ト教の聖人の騒ぎがあった。
 「聖人と言われていた聖職者」が、「わたしは、死んだ
後、腐らない」と言っていたのだが、公(おおやけ)に言
っていたのだが・・、
 実際、死後、腐っていないかの検証をするという騒ぎが
ニュースとなったのだった。
 ニュースのアナウンサーは、コメントで、怪訝(けげん)
な顔で「体、全体に、ワセリンが塗ってありました」と伝
えた。水分蒸発を防ぐためだろう。
 また、このニュースの見るべきところは、特ダネ的なと
ころは、別なところにもあった。
 この聖職者の遺体を、保管場所からの取り出すところを
「隠し撮り」的な映像シーンを報じたのである。
 そのシーンは、その遺体を取り出すために、保管場所の
鉄扉を開けた時、白煙がもうもうとたち上がったのである。
 これは、明らかに、極低温の冷蔵庫から取り出しました
という映像だった。
 冷蔵というより、より極低温の『冷凍レベルに保管して
いました』という事を、このシーンは語っていた。
 この様な、極低温に保管しておけば、キリスト教聖職者
の聖人の遺体は腐る訳がない。
 冷凍マグロが腐らないのと同じ冷凍状態においてあった
のだ。
 これを、キリスト教は、腐らないと言っていたのである。
 この様な、キリスト教の嘘に、従順な感受性の鋭い女子
学生が繰(く)られている、洗脳されている。
 何故、キリスト教は、この様な嘘を、付き続けているの
だろうか?
 いたいけな子供や幼児たちを、騙(だま)し続けるのだ
ろうか?
..
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2014年9月29日月曜日

根性悪(こんじょうわる)が気に入らない・・、

 題:根性悪(こんじょうわる)が気に入らない・・、
  新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の論理は、何とも自分勝手で、『浅はかな論
理』に思える。
 キリスト教聖職者が・・言う・・、
 「キリスト教は、罪からの許しを、もっとも大きなテー
マとしている。そして、その『罪の許し』の最大の特徴は、
そうした罪が、もう既に、許されているという事にある」
・・と、
 そしてまた・・言う・・、
 「人間が、罪に対してあれこれ努力をしても、そして、
功績を積んでも駄目なのだ、そして、それ故に『罪の許し』
があるのではなく、もう既に、我々の罪は、許されている
というのである」・・と言う。
 そして更に言う・・、
 「キリストが、十字架上で犠牲になる事によって、我々
の罪は許されたのである」・・と、
 そして、「その事が、喜びに繋(つな)がるものでなけ
ればならない」・・と、
 そして、「人は、責められるよりも、許されて成長する」
・・と、
 そして、「既に許されているという事は、我々を安心さ
せ、生きる勇気を与える」・・と、
 「否定される自己が回復する事ほど大きな希望はない」
・・と、
 「この様に神がして、神による肯定が存在しているので
ある」・・と、
 そして、「罪だらけで、否定せざるを得ない自分の現実
を、神が『そのままでいいんだ』と受け入れてくれるので
ある」・・と、
 「自分の居場所のない人も、神は受け入れるのだ」・・
と、
 以上が、キリスト教の教義の論理展開である。
 キリスト教の考え方である。
 キリスト教は、勝手に、人には罪があると有罪にし、
 そして、その罪は、既に、許されているとする。
 人間が努力しても無駄で駄目なのだと、『人間の努力を
駄目』と洗脳する。
 キリスト教は人間の努力を駄目と洗脳する、やる気を削
(そ)ぐ宗教。
 そして、その許される状態にしたのは、イエスが十字架
上で死んだからだとし、ありがたく思いなさいと・・、
 そして、人は責められるよりも許されて成長すると、我
田引水的に言う。
 そもそも、『罪がある』と責めているのはキリスト教の、
あなたです・・・?? 
 そもそも、あなたが勝手に、人を有罪にしているのです、
『罪つくりのあなた』になっているのです、
 そこに罪があるのです・・本当の重い罪が・・あなたに
あるのです・・、その事に洗脳されて悩む方々が居るので
す・・
 無益な罪つくりなら止めなさい・・、
 『無実の人間』を勝手な論理で、あり得ない話で、勝手
に有罪にして、既に許されているからと言ったかと思えば、
 人を罪に落とすような責められるという話よりも、
 許されるという話の方が成長すると、
 イエスが既に十字架の犠牲で、あなたは許されています
とは??
 こんな回りくどい話はしないで欲しい、戴きたい。悩む
方々のことも思いなさい・・
 今までの話は何だったのだ??・・と言いたい・・
 結局、恩を売りたかっただけではないか??
 自分で、勝手な話をデッチ上げて、人を罪に落しておい
て・・、
 こう言うやり口は、「語りの詐欺まがい」になっている。
 最初の、事の始めだって、アダムが食べそうな所に木を
置いて・・、
 アダムがうまそうだと食べたら、アダムに罪が発生した
と・・、
 アダムだって、代々の、後々の子供たちまで続くという
罪に落ちると思えば・・食べないです・・
 それをあなた(神)は、ただ、食べるなよと言っただけ
・・、それなら、少しだけならと、アダムだって食べます
・・あなたの言い方が悪かったのです・・
 しっかり食べるな・・と、理由をかみしめて言わなけれ
ば駄目です、そんなに重大な事ならなおさら・・
 だから、その罪が・・、アダムだけに、その罪があるの
かと思ったら、その子供たちへも、代々、その罪があるの
だなんて、古い話だ・・、
 島崎藤村の「破戒」ではないが・・、代々、生まれつい
ただけで・・、
 代々、その重荷を背負って行くというのは、おかしな考
えだ・・論理展開だ・・おかしな風習ではないか?? 
 自分には、何ら落ち度のない罪を背負っていると設定す
るとは・・卑劣な「なすり付け」です・・
 倫理観は極度に低い宗教です・・
 親の罪を被(かぶ)らせるという、キリスト教のこの設
定は・・、古い風習の中で、考え方で、出来た話だ、
 聖書記述者の・・まったく古い考え方からできた筋書き
だ。
 古い、どうしようもない封建的な考えの中にあるキリス
ト教だ。旧習の宗教です・・、
 この逆が・・、逆の考え方が、正しいのだ・・、
 新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
 仏にまでなり得るという「佛性」があるのだ。
 そこへ行くと、このキリスト教の、この「古い風習」そ
のままの話の展開は、最低な話の展開です・・、
 話の初めの禁断の木の実のなる木を、元々、置いた神の
思い遣(や)りの無さが仇(あだ)となった愚(おろ)か
しい話の展開にしても、
 そして、この話を信じる者だけを、この他のこの類いの
話で、じくじくと虐(いじ)めて、程度の悪い話で困らせ
るとは??
 そもそも、こんな窮地(きゅうち)に貶(おとし)めな
いで下さい。可哀想なキリスト教徒の方達。卑劣な宗教よ。
 また、アダムとイブ夫婦に・・幸せな安心の生活を造っ
てやってほしかった。
 こんな落とし穴を作って、罠(わな)にはめる神の根性
悪(こんじょうわる)が気に入らない。
..
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