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2015年5月30日土曜日

(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年~1642年)

題:(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年~1642年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1642年、関孝和(せきたかかず)が生まれた(1642年頃~
 1708年)和算家(数学者)、
  経歴の不明部分の多い人、
  上野国(群馬県)の生まれ、徳川家宣が6代将軍になる
 と直参として江戸詰めとなる。
  素晴らしい所は、和算が中国の模倣から超えて、独自
 の西洋を越えるほどの発展をした点。
  世界で最も早い時期に、行列式・終結式の概念を明示
 した。
  また、世界より200年も早く、円周率の高い近似値を求
 めていた。
  また、驚異的な事は、ベルヌーイ数は関孝和の発見で
 あり、数学史を塗り替える業績である。
  その他にも、広い素晴らしい業績が多くある。
1642年、井原西鶴(いはらさいかく)が生まれた(1642年~
 1693年)大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、
  代表作:「好色一代男」「好色一代女」「日本永代蔵」
 「世間胸算用」
1642年、倹約令を発した。
  絹を用いる事が禁止され、木綿を用いる様にした。
1642年、譜代大名の江戸在勤の制を定めた。
  譜代大名70人の江戸の在勤期間を定めた。
1642年、諸国が飢饉となった(寛永の大飢饉)。
  全国的な異常気象により大飢饉となった(大雨、洪水、
 旱魃、霜、虫害)。
  また、蝦夷駒ヶ岳が噴火し、降灰により、陸奥国津軽
 地方が凶作になった、
  また、初夏に畿内、中国、四国地方が日照りによって
 旱魃となった、
  そして、秋には大雨、北陸では長雨、冷風などがあり、
 全国的な異常気象となった。
  百姓の逃散や身売など頻発した。
  家光は、諸大名へ領地へ帰国し、領地の飢饉対策をす
 る様に指示した。
  また、諸国へ対し、倹約のほか、煙草作付けを禁止し
 て米作を奨励した、
  また、身売り禁止、酒造統制、雑穀を用いる製造を禁
 止した。
  また、救民のための「御救小屋」を設置した。
  また、諸国へ米の常食を禁止して、うどん・そば・饅
 頭の商売を禁止した。
  飢饉は、1642年~1643年に最も甚だしい状態に達した。
1642年、農業政策、
  幕府農政が、小農の保護・育成に転換した、
  小家族労働力による集約経営への農村の変貌始まる。
1642年、諸大名へ農民の救済を命じた。
1642年、旗本に知行地の農民の救済を命じた。
1642年、郷村諸法度を公布し、農民に各種の制限を加えた。
  倹約の意味があるが、飢饉対策でもあった。衣類への
 制限、酒・たばこの禁止など
1642年、参勤交代制に改正を加えた。
  譜代大名の交代期は6月に、
  特に、関東の譜代大名は、在府・在国半年に、8月ない
 し2月交代となった。
  他に、対馬の宗(そう)氏は、三年一勤(4か月在府)に、
  水戸藩や老中などの役付大名は、江戸定府(じょうふ)
 となった。
1642年、倉敷が江戸幕府の直轄地「天領」になった。
1642年、番士(ばんし、京都などの警護をする兵)の家督
 を定めた。
1642年、勘定奉行が、制度として成立した。
1642年、伊奈忠次に関東諸代官の支配を命じた。
  幕府は、伊奈忠治に対して関東代官の統轄と、河川の
 改修、築堤の専管を命じた。
  これによって関東郡代が事実上成立した。
1642年、イギリス
  ピューリタン革命(1642年~1649年、1640年~1660年
 とする説もあり)と、名誉革命(1688年~1689年)の二
 つの革命が、この時期に、イギリスにあった。
  シュチュアート朝君主の圧政に対して、議会勢力が抵
 抗し、国王を処刑し、共和制を確立した(ピューリタン
 革命)、
  クロムウェルの議会軍が、ピューリタンを中心勢力と
 したのでその名があるが、
  保守的な長老派と、急進的な水平派などを弾圧し、
  1649年には、アイルランドを征服して植民地とするな
 どした、
  新興の市民階級の利害関係が背後にあった。
  しかし、クロムウェルの厳格な政治は不評判であり、
  1660年に、王政復古となるが、
  フランス亡命から戻った新王が、再び、反動政治を行
 ったため(キリスト教カトリックの復活政策と議会無視
 をした)
  やり方は、さも、正義な様なことを言った、「信仰の
 自由」である、
  そして、この「信仰の自由の宣言」で、実は、カトリ
 ックを復活させようとした(王と教会の戦い)、
  トーリー、ホイッグ両党は協力して、ジェームス2世王
 を廃位にした。結果的に、王は国外へ逃れる。
  王の娘・メアリとその夫・オランダ統領オレンジ公ウ
 ィリアム(キリスト教プロテスタント)を王に迎える。
  (ウィリアムは、1万3000の兵と共に、イギリスに上
 陸した、そして、ロンドンを目指して進軍した、
  イギリス北部には、これに呼応して反乱が起こった、
  そして、貴族が兵と共にはせ参じたり、
  寝返る貴族も現れたり・・の、混乱が起きた。
  ウィリアムがロンドンに入った直後、王は、フランス
 へ逃れた。
  あまりにも支持される様な政治をしていないため、
  臣下や民心の心が離れていたため、
  大きな争いも起きなかった。
  これが無血に近い状態で終わった理由だった)。
  流血をあまり見なかったので、名誉革命と言われてい
 る。
  しかし、議会は、彼ら新王の即位の条件として、権利
 宣言(後に、権利章典)の受諾を求めた、
  新しい王はこれを認め、ここに議会主義の確立を見た。
1642年12月、ニュージーランド発見。
  ヨーロッパ人が、ヨーロッパ人として、初めてこの島
 を発見した。
  以後、この島の歴史には、「ヨーロッパ人の考え方・
 行為が、それのみが正義だ」としての話が展開する。
  今・現在でも、この考え方が、世界中を荒らしまわっ
 ているが・・。
  オランダ人のアベル・タスマンは、二隻の船でこの島
 へやって来た。
  この島には、既に、先住の方たち、『先住民』のマオ
 リの方たちが居た。
  マオリの方たちは、このオランダ人より、遠の昔の「
 800年以上も以前の昔」に、9世紀の頃から、この島に移
 り住んで生活し、幸福に暮らしていた。
  この後、このキリスト教徒のヨーロッパ人は、この主
 権を無視する、牛耳る歴史を刻む。
  このオランダ人は、この時、この先住の方たちと戦い、
 そして、殺戮し、去った。
  マオリの方々は、9世紀頃こそ採集生活をしていたが、
 国を持つ立派な社会だった。
  そして、プライドを持って戦う政府を持っていた。
  そしてまた、立派な国名を持っていた。
  その国名を「アオテアロア」と言った。
  翌年の1643年には、オランダ東インド会社の総督のヘ
 ンドリック・ブラウエルが来た。
  彼は、ラテン語の「新しい海の土地」という意味、英
 語のニュージーランドに当たる名を付けた。
  それから126年の時が流れた、
  1769年になると、イギリス人のジェームズ・クックが
 来た。
  彼は、「ニュージーランド」と呼んだ。(あなたにと
 ってだけが「ニュー」なのだ)。
  彼は、島全体と周辺の調査をし、捕鯨遠征をはじめさ
 せた(あなただって捕鯨やっているでしょう)。
  それからこの島へ、イギリスはじめヨーロッパ各地か
 らのヨーロッパ人の流入が始まった。
  1830年に、ロンドンに、植民地会社が組織されるに及
 び、ヨーロッパ人の流入はさらに増加した。
  これを、ヨーロッパ人は、移民と称した。
  相手の国の承認のない勝手な流入である。
  「侵入・侵略」と言える行為である。
  当然、マオリの先住の方々との間で争いが絶えない状
 態が続くことになった。当然のことだ。
  進んだ武器を持たないマリオの方々は、多くの方々が
 亡くなった。良く戦ったと思う。
  侵入者・侵略者とマリオの先に住んでいた方々との戦
 いである。
  当然、正義はマリオの方々の方にある。
  1840年に、イギリスは、争いを止めたい意味もあり、
 先住民のマオリの方々と条約を結んだ(ワイタンギ条約)。
  その条約の内容は、
  「すべてのマリオ人は、イギリス女王の臣民となり、
 ニュージーランドの主権を王権に譲る」
  「マリオ人の土地の保有権は保証するが、その土地の
 売却先はすべてイギリス政府にする、その他の売却は出
 来ない」
  「マリオ人はイギリス国民としての権利を認める」だ
 った。
  「ていの良い乗っ取り」だった。
  そして、イギリスの植民地とした。
  マリオの方々に、当然、与えられるべき「主権」と言
 う語が無く、そこに問題が発生した。
  この問題は、今・現在でもこの問題が存在している。
  マリオの方々は、「すべての土地は自分たちのもの」
 と考えている、当然だ。
  条約締結の後、3年後の1843年から、30年間も続くマリ
 オの方々の反乱が起こった。
  遅れた武器で良く戦ったと思う。
  弱い者いじめの反乱は武力によって鎮圧された。
  しかし、根本的問題の解決はしてない。
  その問題を放棄し、無視し、100年以上に渡ってそのま
 まにした。
  やっと、1975年に至り、審議が開始され、強奪した土
 地の一部を返還した、
  そして、マリオ語も公用語にした。
  それまでは英語だけだった。
  マリオの方々の主権を認めていなかった。
  もし、あなたの家へ、見ず知らずの人がどんどん入っ
 て来たら、あなたはどうしますか?
  そして、あなたに言います、あなたは私の女王の臣民
 になれと、権利をその女王へ譲れと。
  基本的に、たとえ無人島であっても、良く権利関係を
 確かめなくては、勝手に侵入・侵略してはいけないでし
 ょう。
  家宅侵入罪になります。国際法でもそうです。
  酷いことをしておいて、「悪くはなかった」と、こじ
 つける行為は糾弾されなくてはいけません。
  この様な行為を、キリスト教徒は世界のあちこちでや
 っている。
 ..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年5月29日金曜日

(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年~1641年)

題:(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年~1641年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1637年、江戸城の本丸修築が完成した。
1637年、社会資本整備・釜無川、
  幕府代官の平岡和由、釜無川に四ヶ村堰を築造する。
1637年、北上川に大洪水が起こり、伊達領内の被害が14万
 3000石にのぼった。
1637年、五人組制度を実行した。
1638年11月、初めて大老を置いた。
  徳川家光が、土井利勝・酒井忠勝を大老に格上げした。
  大老に就けるのは井伊・酒井・土井・堀田の4家に限定
 された。
  4家以外の大老は大老格と呼ばれた。
1638年、堀田正盛が、老中の職をとかれた。
1638年、阿部重次が老中となった。
1638年、太田資宗ら若年寄から奏者番(そうじゃばん)に
 移った。
  奏者番は武家の礼式を管理する役職。
1638年、オスマン帝国が、バクダッドを占領してイラクを
 併合した。
1639年4月、大久保彦左衛門忠教(ただたか)が没した。
 (1560年~1639年)旗本。
  家康・秀忠・家光の3代に仕えた。
  関ケ原の戦いでは家康本陣で槍奉行を務め活躍。
  余生は「三河物語」を執筆した。
  死の間際に、家光から、5000石の加増の話があった時、「
 余命いくばくもない自分には有り難いが不要」と固辞し
 た。
  将軍の家光に事あるごとに諫言したという逸話は、後
 世の講談や講釈の創作。「大久保彦左衛門と一心太助」
 も創作。
  多くの浪人たちを養い、その就職活動に奔走したとい
 う。
1639年7月、ポルトガル人の来航禁止。
  布教の裏に、スペインとポルトガルの領土的野心が、
 見え隠れしていることが分かって禁教体制となって行っ
 た。
  イギリス・オランダのプロテスタントの新教国の幕府
 への、旧教のカトリック教国の報告が、常に、流れてい
 た。これが影響している。
  特に、オランダが情報をもたらしていた。
  とは言っても、文化的情報は、かなり豊富に入って来
 ており、また、日本の知識人は、それに鋭敏に反応もし
 ていた。
  オランダと中国以外の貿易の禁止。
  この時の令は、ポルトガル船の来航を禁止し、ポルト
 ガルとの断交をしたに過ぎない。
  徳川幕府は国を閉ざしたのではない。
  日本は、鎖国で、内に閉じこもって居たという事では
 ない。
  勝海舟は、その著の氷川清話で、「出島の蘭館にはオ
 ランダ人が居り、中国人はそれ以上にたくさんいた」と、
 国際感覚を持とうと思えば、長崎に行けばと、その気に
 なれば知識は得られると言っている。
  第一、「鎖国」という言葉が、当時、存在しなかった。
  「寛永10年の令」「寛永16年の令」と言うものがあっ
 て、渡航を禁止したり、蛮族を打ち払うという令がある
 が、鎖国の意思はまったくない。
  例えば、明が滅亡した直後、明の家臣が、日本に助け
 を求めて来た。
  その時、将軍の家光は、鎖国で閉じこもるなんて態度
 では、まったく無かった。
  2万の大軍を大陸に上陸させて、彼等を救おうとした。
  明を再興させようと、本気で考えていた。
  実際は、明の家臣たちの反乱が失敗におよび、駄目だ
 との情報が入って、実施には至らなかったが・・、
  日本の姿勢は、鎖国の様な姿勢ではなかった。
  『いざとなったら出兵するぞ』という体制だった。
  この様な日本を示す事を、多くの明の知識人も知って
 いて、日本に救いを求めて亡命して来た。
  例えば、水戸光圀に庇護された朱舜水(しゅしゅんす
 い)などがよく知られている。
1639年、このポルトガル人が、日本への来航が禁止された
 のは、ポルトガル人が日本の法律に従わないためだった。
  日本の法律を尊重しないため、遵法でなかったために
 追放されたのだった。
1639年、ジャガタラ追放を行う。
  南蛮人の追放に伴って、日本人妻と子供も追放処分と
 なった。
  幕府は、1633年に日本人の海外渡航を禁止し、
  1636年に、ポルトガルと日本女性との間の混血児287人
 もマカオに、
  1639年に、オランダ人などとの混血児32人もジャガタ
 ラ(オランダ領のパタピア・・現在のジャカルタ)に追
 放処分にした。
1639年12月、渋川春海(しぶかわしゅんかい)が生まれた。
 (1639年~1715年)天文暦学者、囲碁棋士、
  幕府より21歳ですでに禄を受けていた。
  御城碁に出仕した。
  初手に天元に打つ碁をした。
  1690年の52歳の時、日本で最初の地球儀を作った。
1639年、宗門改めを行った。
1639年、旗本が窮乏である事の原因調査をした。
1640年1月、贅沢禁止令、おごりを禁止、
  大名・旗本に倹約令を出し、旗本などの「おごり」を
 禁止した。
1640年、宗門改役を設置した。
1640年、切支丹奉行を設置した。
1640年、綿花・煙草の作付けを禁止した。
  幕府は、この頃から繰り返して本田畑への綿花・煙草
 の作付けを禁止した。
1641年1月、江戸大火(桶町火事)、
  京橋桶町より出火、芝・木挽町・御成町・麻布が延焼
 した。
1641年4月、殉死、
  熊本藩主の細川忠利が没し、18人が殉死した。
1641年5月、人返し阻止
  徳川幕府は、この時の布令に・・、
  「他領に年久しくありつき、祭祀を持っているものま
 で召し返すことが、近年あるように聞き及ぶが、領内の
 ものであっても数年他領に住みつき、その上科(とが)
 もないものを呼びかえすことは、 今後あってはならぬ」
 とした。
  幕府は、人返しを止めさせた。
1641年5月21日、オランダ人も長崎の出島に移した。
  オランダ商館を、平戸商館から出島に移し、オランダ
 人も糸割符制下に組み込まれた。
1641年9月、家光の長男・家綱が生まれる
 (1641年~1680年)
  後の江戸幕府の第4代将軍である。
  家光は、生まれた時から家綱を自らの跡継ぎと決めて
 いたという。
  それは、自分が世継ぎ争いの経験があったからという。
 また、やっと生まれた待望の男児だったためともいう。
  9歳の時、1651年4月に、家光が48歳で逝去すると、8月
 に将軍の宣下を受けている。
1641年、利根川水系、物資輸送の大動脈になる。
  江戸川の開削がほぼ完成する。
  一連の利根川水系の川筋付替えにより、利根川・江戸
 川は物資輸送の大動脈になる。
1641年、オランダ人がマラッカを占領した。
  マラッカ海峡を占領したので、江戸幕府の1639年のポ
 ルトガル船来航禁止令がなくても、ポルトガル船は日本
 に来られなくなった。
1641年~1649年、イギリスは、ヨーロッパの片隅の弱小の
  国家だった。
  当時、ヨーロッパは、ハンザ同盟(都市同盟、12世紀
 頃より始まる、1358年に成立、15世紀の最盛期の都市数
 は200を超えた)に100を超える都市が参加するなど、
  また、イタリアの町々を結ぶ商圏が花開き、経済によ
 る豊かさを享受していた。
  この様なイギリスに陽が当たって来るのは、アメリカ
 大陸の発見(1492年、コロンブスが達した)と、インド
 への航路の発見(1497年、バスコ・ダ・ガマが喜望峰を
 回ってインドへ達した)だった。
  大西洋を舞台にし始めたイギリスへと大転換して行き、
 弱貧な国家だったイギリスへ、おいしい収奪した利益が
 流入し始めた。
  それまでのフランスを侵略して得るという利益から、
 濡れ手で粟の利益へと転換した。
  世界の海洋の上に、利益を得て、持ち来たる海洋国家
 となった。
  イギリス本国では、1641年~1649年に、ピューリタン
 革命が起き、キリスト教のイギリス国教会に反対して宗
 教革命をしたキリスト教徒のピューリタンが、議会派を
 形成して、チャールズ1世を処刑して共和国を樹立してい
 た。のち、ピューリタンはイギリスを追い出されてアメ
 リカへ至った。
..
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2015年5月28日木曜日

(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年~1637年)

題:(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年~1637年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1635年、ザクセン(ドイツ、新教公国)の立法家とうたわ
 れたベネディクト・カルプツォフ
 (1595年~1666年、キリスト教ルター派)は、
 裁判官としての長い経歴の間に、2万通を越える『死刑
 宣告書』に署名した。
  この卑劣な男は、1635年に、1書「刑法の実際」を出
 版した。
  その中の魔女に関する部分は、正にプロテスタント版
 の「魔女への鉄槌(てっつい)」であった。
  「魔女への鉄槌」と言えばキリスト教のカトリックの
 殺人の書で、こちらが本家であるが・・、
  プロテスタント以上に卑劣だったキリスト教カトリッ
 クの殺人の書であったが・・、
  この書によっても、多くの女性方が殺された。
  プロテスタントも、愚かにも、これを真似(まね)た。
  このキリスト教プロテスタントのこの本も、相も変わ
 らずカトリックと同じ様に「魔女の空中飛行」「魔女集
 合」「魔女との性交」「魔女マーク」という記述である。
  裁判の方法については、17種類の拷問法を挙げている。
  「指締め」「梯子」「ローソクであぶる法」「爪の間
 に木のクサビを打ち込む法」などなど卑劣な拷問方法が
 並ぶ、卑劣な事を考え、行なう、キリスト教だった。
  プロテスタントも、これまた、カトリックと大同小異
 の残酷さだった。
  その一つを説明すると、「魔女マーク」とは何かとい
 うと、
  キリスト教裁判所で、キリスト教聖職者の裁判官が、
 魔女にされた女性を調べる方法の一つに「魔女にはマー
 クがある」と言った。
  そのマークに針を刺しても痛がらないのだと言った。
  そして、そのマークがある訳だと、女性の体のあちこ
 ちを針で刺した。
  この様な卑劣な拷問をキリスト教聖職者は、教会の中
 の裁判所と称する『実態は卑劣な拷問所』でやっていた。
1635年、イギリス艦隊が、中国・清のマカオに到着した。
  中国貿易でうまい事をしているポルトガルに代わって、
 うまい汁が吸いたいとの行動だった。
  後に、このイギリスは、この地・中国で、「アヘン戦
 争」という、イギリスの不正な行為から起きた戦争を起
 こす。
  因(ちなみ)に、アヘンは、麻薬の一種で、ケシの未
 熟な果実からとれた乳液を、乾燥させた茶褐色の物質で、
 モルヒネを多量に含む、
  一度、使うと中毒となり、廃人への道へと落ちて行く。
  絶対に使ってはならない。
1635年、その後のイギリスは・・、
  イギリスとポルトガルは、中国貿易の覇権を争って、
 小競り合いを繰り返した。
  イギリスは、ポルトガルが拠点としていたマカオを去
 り、広東へ向かった。
  この地・広東で、支那(中国)と戦争となり、イギリ
 スは支那の砲台を占領した。
  イギリス国旗を掲げ、勝利を示した。
  支那は、イギリスに広東を窓口として通商を許した。
  これが後に、大きな傷口を開けて行く。
1635年、ボーナス制度の始まり
  この頃から、参勤交代の折に、諸大名が大奥中の女性
 に祝儀を贈る習慣が始まった。
  これは、春日局がつくったボーナス制度。
  当時、大奥の女中たちの収入は「御切米」と呼ばれる
 給料だけで、身分の低い女中たちは、晴れ着の新調もま
 まならない生活だった。
  ある時、大老の坂井忠勝が、これを禁止するとした(
 倹約の意味)。
  困った春日局は、老中と掛け合い、祝儀の代わりにま
 とめて将軍に献金させ、「それを上様から『御合力金』
 として頂戴する」ことにした。
  これが、今でいうボーナスとして幕府から支給される
 ようになり、大奥女中たちを潤した。
1636年4月、酒井忠世が没した(1572年~1636年)
1636年6月、経済政策:銀座を置き、寛永通宝が鋳造された。
  金・銀・銭の三貨制が確立した(金1両=銀50匁、のち
 60匁=銭4貫文)。
1636年6月、廻船・積荷の規則を出した。
1636年6月、伊達政宗が没し(1567年~1636年)、15人が殉
 死し、さらに、その殉死者に対して5人が殉死した。
1636年8月、箱根の関令が制定された。
1636年、江戸城工事:江戸城の内部、外郭が完成した。
  諸大名に江戸城総構え、天守の改築を課した。
1636年、出島を築きポルトガル人を置いた。
1636年、後金が清と改めた。
1637年1月、家光は病気がちで、しばしば政務を休んだ。
  ことに、この年は正月から健康がすぐれず、政務はも
 とより儀礼の席にも出なかった。
  6月には、朝廷で、将軍病気平癒の祈祷が行われた。
  将軍の病気は、翌1638年3月頃まで続いた。
  幕府は、将軍抜きでこの重大事態に対処せざるを得な
 かった。
  この危機を克服したのは、堀田正盛・松平信綱・阿部
 忠秋ら閣老を中心とする幕臣たちであった。
  この頃、閣老を頂点とする行政組織はほぼ制度を整え
 た。
1637年2月、本阿弥光悦が没した(1558年~1637年)
1637年12月、島原・天草の乱、(~1638年4月)
  島原の乱は、過酷な年貢負担と、飢饉災害が重なった
 窮状の中で百姓一揆として起きた。
  また、大勢いた旧領の浪人が加わり、その浪人・土豪
 の指揮で農民一揆が大きくなっていった。
  また、天草も同様の経緯で起きた。
  この百姓領民に多くの旧領時代の浪人たちも加わる形
 だった。
  当然、戦死者たちはキリシタン殉教者ではない。
  キリシタンは、他の地方より多かった程度で、ほんの
 一部を形成している程度。
  強いて一揆をおこした人たちの宗教を言うのなら、そ
 のほとんどは仏教徒だった。
  宗教戦争では、まったくない。
  キリスト教の迫害に立ち上がったという話はまったく
 の嘘。
  また、この乱に天草四郎が語られるが、実在の人物で
 はない。
  キリスト教宣教師が語った人物像、言いふらした話に
 過ぎない。
  キリスト教は、しきりに天草四郎を実在の人物の様に
 プロパガンダするが、嘘宣伝である。
  (この人が天草四郎だという後付け話はあるが、無理
 筋の話となっている、16歳の少年が、旧領主の小西行長
 の旧領の侍たちに推挙されたという、まったく不明な人
 物の話なのだ)。
  戦死者数も、ひたすら島原・天草側の死者数をひたす
 ら誇大に言うのは、また、嘘で間違い。
  幕府側も、同じ人数の戦死者が居る。
  この戦いで幕府軍の重責を担った板倉重昌も戦死して
 いる。
  幕府軍の総大将は松平伊豆守信綱。
  キリスト教に偏するNHKはまったく罪作りな放送局
 だ。嘘ばかりを放送する。
  NHKは、ひたすらキリスト教徒が大勢死んだと放送
 する、そして、殉教だと放送する、あたかもキリスト教
 の代弁者の様に放送する。
  NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし
 続けている。
  文献に「扇動とは大ウソにならない範囲で事実と異な
 ることを言うこと」とあるが、NHKは、扇動をしてい
 る。大ウソとなっている。扇動以上だ。
  この地方の領主だったキリシタン大名の有馬晴信も、
 キリスト教宣教師からもらえる武器・弾薬が欲しかった
 だけ、
  隣国の龍造寺隆信に滅ぼされそうになっているので、
 家を守るのに必死だった。
  そしてまた、晴信は、武器弾薬以外にも、食糧や金な
 どすべてを貰っていた。
  晴信は、関ケ原の戦いの時、キリシタン大名の小西行
 長を攻撃している。宗教心なんてまったくない。
  また、キリスト教に偏するNHKの放送が、あまりに
 もデタラメだという事が新聞に報道されていた。
  (読売新聞、2015・5・20)に・・、
  NHKは、荒木村重の妻をキリシタンと放送した。
  村重の妻が処刑されるときに「十字を切って」、さら
 に、「イエズス・マリア」と唱える演出をした。
  この村重の妻は、「はっきりした仏教徒」だと分かっ
 ている。
  この村重の妻は、「大坂(本願寺)の川奈部左衛門尉
 (さえもんのじょう)という者の娘」で、れっきとした
 本願寺の門徒だ。
  辞世も、
 「磨くべき、心の月の曇らぬは、光と共に、西へこそ行
 く」という西方浄土への仏教の往生を詠じている。
  どこがキリシタンなのだ?
  イエズス会の宣教師フロイスが、「異教徒として即座
 に幾つかの詩句を作って朗吟し」て処刑されたと書いて
 いる・・と報じている。
  NHKの、歴史も何もあったもんじゃないの放送は、
 まったく呆れる。
  どこまでキリスト教に偏するNHKなのか? 大ウソ
 をついてまでして・・、
..
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2015年5月27日水曜日

(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1635年)

題:(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1635年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1630年代、この年代は卑劣な年代だった。
  ヨーロッパは、絶え間のなく、戦争ばかりをしていた。
  卑劣な年代だった。
  そして、ヨーロッパは、卑劣な事に、ことのほか戦争
 において、鉄砲を多く使った。
  例えば、ドイツの人口が、そのため、半減してしまっ
 た。
  戦争で、人がより多く殺戮される、殺すことが出来る
 鉄砲で人々が殺されてしまった結果だった。
  生活に希望のないヨーロッパ社会は、地下が20分の1に
 なるという状態だった。
  悪事をする輩も横行した。
  成年男子の居なくなった社会だった。
  キリスト教の司祭も結婚し、子供を作った。
  キリスト教の教義は、そっちのけのっ状態だった。
  社会の存続、背に腹は代えられないと、カトリックの
 司祭も人口回復を奨励された。
  また、二人の妻を娶(めと)ることが督励された。
1633年2月、海外渡航者の帰国を制限した。
  奉書船以外の海外渡航を禁じ、また、海外に5年以上
 居留する日本人海外渡航者の帰国を制限した。
1633年2月、改革:地方直し(じかたなおし)が行われる。
  これは、旗本の窮乏対策である。
  旗本へ俸禄(ほうろく、給与)として地方を知行(ち
 ぎょう)として与えた。
  1000石以下の者に一律200石ずつ与えた(20%アップ)。
1633年12月、家光が、弟・忠長の領地没収し高崎に移した。
  翌1634年12月に、忠長は自害した。
1633年、天災:大坂の大和川、石川が氾濫し、2万石余の
 土地が荒れた。
  よく氾濫を起こす地点で、中甚兵衛の治水功労者の銅
 像もある。水害と戦う人多数。
1633年、諸国巡検使(じゅんけんし)の分国を定める。
  巡検使とは、将軍の代替りに五畿七道の幕領・大名領
 の民情政情を視察するために派遣された役人の事で、江
 戸時代に9回の派遣があった。
  大名の治績動静を視察したり、幼少の大名のもとへ赴
 任し、その後見監督に当たり(国目付)、あるいは城の
 受け渡しの時にその場に臨んで監督をするなど、すべて
 幕府の上使を務めた。
1633年、訴訟規則が成文化、
  この年に、軍役制が発布されるとともに公事裁許定と
 いって、主人と家僕、親と子、本寺と末寺、代官と百姓
 など身分に応じた訴訟取扱い方法などの規則が成文化さ
 れた。
1633年、石高制による軍役性、
  石高制と深く関わっているのが軍役制で、制度として
 は3代将軍家光の1633年に完成した。
  それによると、1000石取の旗本は、人数23人、槍2本、
 弓1張、鉄砲1挺を、
  1万石の大名は、騎馬の武士10騎、槍30本、弓10張、
 鉄砲20挺、旗3本を、
  10万石の大名は、騎馬170騎、槍150本、弓60張、鉄砲
 350挺、旗20本を、
  出動命令を受けた時の為に常備する義務があった。
  必ずしも、石高に正比例してはいないが、それぞれの
 俸禄の高に応じて軍備を課せられた。
  江戸時代には、中央政府としての幕府が、直接、持っ
 ている常備軍は比較的少なく、
  主として、諸大名の軍役に期待し、幕府は、その統帥
 権を持っていただけだった。
  軍役は、鎌倉時代の御家人役に淵原する。
  鎌倉将軍家から所領の給与、または、安堵された武士
 は、その御恩に対する奉公として、1年ずつ交替で、大番
 役(京都の警護役、後には鎌倉も加わる)を務めねばな
 らなかった。
  また、戦争には動員を受けた。「いざ鎌倉」である。
  近世は、何石にどれだけという、上からの一方的な割
 り当てで、全国的に徹底した権力であった。
  中世は、全国的でなく、関係ない非御家人も多数存在
 した。
1633年、人事:松平信綱ら6人衆=若年寄に任命された。
  若年寄(わかどしより)は老中に次ぐ重職で、この年
 の任命が始まり。
  旗本、および、老中支配以外の諸役人の統轄した。
1633年、ガリレオが、再度、キリスト教に捕まり、異端審
 問所で取り調べを受けた。
  ローマ法王庁は、ガリレオを終身刑の有罪とした。
  軟禁状態となった。
  家に閉じ込められ、外部との接触が出来なくさせられ、
 この9年後の、1642年に、ガリレオは没した。
1634年5月23日、秀吉の養女の豪姫が没した。
  享年61歳だった。
  秀吉は、自分の子を亡くした時、幼なじみの前田利家
 が4女を養女として秀吉の子とした。
  秀吉とおねの夫婦は寵愛した。
  秀吉は、「もし豪が男であったら関白にしたものを」
 と妻のおねに言っている。
  夫の宇喜多秀家が八丈島に流罪となった後は、米や薬
 などの必需品を八丈島の夫のもとへ送り続けた。
  明治になって、明治天皇陛下より、現在の浦安市に
 19900坪の宅地を賜わり、その苦労を慰めて戴いている。
1634年6月、山王祭(さんのうまつり)が、初めて江戸城
 に入る。
  徳川三代将軍・家光以来、江戸城内に入御した御神輿
 を、将軍が上覧拝礼する天下祭りで、盛大をきわめた。
1634年6月、家光が30万の大軍を率いて上洛し、武威を示し
 た。
  また、この時、上皇御料を一挙に3倍に増やしている。
1634年7月、江戸城の西ノ丸が炎上した。
  酒井忠世、家光の勘気を受けた。
1634年8月、譜代大名の妻子を江戸に移した(大名支配)
  また、琉球の江戸上りが始まった。
  幕府の将軍や琉球の国王が代替わりすると、幕府に挨
 拶に上がった。
  1634年に、京都・二条城に滞在していた将軍に会った
 のを始まりとして、その後は毎回、江戸まで行った。
  1850年に終わるまで合計18回を数えた。
1634年、仇討:
  岡山藩士の渡辺一馬が、荒木又右エ門らと共に伊賀国
 上野西端鍵屋の辻で、弟の仇敵の河合又五郎を討ち取っ
 た(伊賀越の仇討)。
1634年、領主と農民間の階級的矛盾
  幕府と藩という領主内部にあった矛盾が解消して、領
 主と農民との間の階級的矛盾が表に出てきた。
  領主財政の確立と拡充に対する農民の抵抗の激化がそ
 れ。
  ことに、1634年頃から、全国的にかなり大きな飢饉に
 見舞われたことがそれを助長した。
  島原・天草の乱もその飢饉に触発された百姓一揆であ
 った。
1634年、踏絵が盛ん。
1634年、前年の奉書船以外の渡航を禁じるなどの通達を、
 再度、行った。
1634年、社会資本整備・小貝川
  伊奈忠次が、小貝川に岡堰を築造した、また、牛久沼
 にも2000間堤(2000間=約3.6キロメートル)を築いた。
1634年、老中・若年寄の職掌を定めた。
1634年、訴訟審理規則が成文化した。
  3代将軍家光の1634年~1635年に至り、老中・若年寄・
 諸奉行の制、評定所の訴訟審理規則などが成文化され、
 ほぼその全容を整えた。
1635年6月、参勤交代が制度化された。
  参勤交代は、幕府が諸大名の経済力を弱めるため強制
 した策略だという見方が依然としてある。
  しかし、それは結果であって、幕府の目的が、そこに
 あったと言うのは曲解である。
  参勤交代は、軍役発動の一形態である。
  幕府の常備軍は少なかったので、常に、大名を半数ず
 つ江戸に滞在させて、首都防衛に当たらせたのである。
1635年6月、武家諸法度が大改訂され、内容が完備した。
  江戸幕府の支配体制が制度的に固まったと言える。
  官僚組織の整備は、その中核をなした。
  参勤交代の制度化はこの中にある。
1635年10月、老中・若年寄の役が始まる。
  老中・若年寄以下、所有司の職掌を定める。
  土井利隆ら若年寄となる。
1635年11月、評定所(ひょうじょうしょ)の条例を定める。
  法令の成立から、この時期に設置されたとされる(た
 だ、その場所については諸説あり)。
1635年11月、寺社奉行が創設された。
1635年、中国・オランダなどの外国船の入港を長崎のみに
 限定した。
  また、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の
 帰国を禁じた。
1635年、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛、連署の列(老中)
 に加わる。
1635年、諸士法度を改定する。
1635年、この頃の資料がバチカンで発見された。2014・11・
 12の新聞で報じている。
  日本の「宗門改め帳(しゅうもんあらためちょう)」
 である。
  この頃の江戸幕府を、キリスト教は、厳しい取り締ま
 りをしていると言うが嘘だとこの資料から分かる。
  キリスト教のプロパガンダと分かる。
  この宗門改め帖でも、実際は、本人でなくても、家族
 や知人でも、キリスト教を止めたと言えば「お咎(とが)
 めなし」だった。
  キリスト教は、ヨーロッパのキリスト教国の様な卑劣
 な非人道的な事が、取締りが、日本でも行われた如くに
 言うが、まったくの嘘で、デッチアゲである。
  日本は、キリスト教国・ヨーロッパの様な執拗(しつ
 ようないじめ・苦しめはしていない。
  その事が、この宗門改め帖裏付けられる。
  キリシタンではないという事を、印を押してただ庄屋
 に出せばいいことだった。
  庄屋は、まとめて藩に出せば、それで済む事だった。
  ヨーロッパの様に、キリスト教裁判所が何だかんだと
 拷問して苦しめて、罪を着せて、火あぶりにして、財産
 を没収するというキリスト教会の裁判所がやった事とは
 ほど遠い日本だった。
  キリシタンと分かっても「転びキリシタン」と書けば
 許された。
  お咎(とが)めはなしだった。
  その記述があるだけ。殺されていない。
  何しろ幕府は、穏便に穏便にと、事を進めた。
  キリスト教は、厳しい取り締まりに耐えたとか、殉教
 だとしたいから、昔から、この様に嘘を言う。
  今・現代でも、嘘をついてでも、「殉教だ」と言いた
 がるキリスト教となっている。
  江戸幕府は、貿易行為を認めていたオランダから、定
 期的に報告書を提出させ、海外情報を集めていた。
  鎖国政策で、まったく諸外国の事は知りませんでした
 とキリスト教が言うが、これも嘘。
  因みに標記の宗門改め帳は、1953年(昭和28年)に、
 キリスト教神父が、横浜から船でバチカンへ送ったもの。
  約1万点の文書、ほとんどが宗門改め帖だった。
..
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2015年5月26日火曜日

(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1633年)

題:(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1633年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1630年、貝原益軒(かいばらえきけん)が生まれた(1630
 年~1714年)福岡藩の人、本草学者、儒学者、博物学的
 な人、著作に「養生訓」がある。
  膨大な編著を残した。
  長崎で医学を修め、藩医にもなる。
1630年、林道春(林羅山の仏門に入った号)が忍岡に学寮
 を建てる。
  忍岡聖堂(しのぶがおかせいどう)を建てた。
  これは、家光から儒学振興のために江戸城北郊の上野
 忍岡の地に1353坪の土地と200両を拝領して私塾と書庫の
 孔子廟であった。
1630年、この年の1年間に、ベニスでペストにより4万7000
 人が死んだ(1説には15万人という)。
  死骸は街路にあふれ、生き残った者は強盗、略奪をほ
 しいままにした。
  キリスト教が、その教義で「地は汚れている、天のみ
 清浄」と民を洗脳したため、地は本当に汚れた。
  糞尿を道に捨てる様な人々だった。
  衛生状態は劣化し、ネズミは増え、ネズミはペストを
 媒介した。
  可哀想に、民は、劣悪なキリスト教の教義によってペ
 ストに罹り苦しんだ。そして、多くの民が亡くなった。
1631年、加々爪忠澄・堀直之の両名を江戸の町奉行に任命
 され、これより2名の旗本役となり、南北両奉行所に分か
 れる。
1631年、貿易:この年、糸割符法を改正し、新たに江戸・
 大坂を加え、5か所を糸割符制とした。
  中国産の生糸を輸入し、多くの日本の銀が流出してい
 た。
  この貿易を独占していたのがポルトガルだった。
  経済的にもこの貿易を統制した。1604年に、堺・京都・
 長崎の糸割符年寄を任命した。
  TPPと同じ様なもの、日本の商人がまとまってポルトガ
 ルと協議して糸価を決めた。幕府が監理した。
  昔からしっかりした日本だった。しかし、日本の銀は
 大量に流出した。
  18世紀に入ると日本国産の生糸が出回り、生糸輸入
 は衰退した。
1631年、フリードリヒ・フォン・シュペー(1591年~1635
 年)は、
  ドイツで魔女旋風が最も猛烈に荒れ狂った時期に、そ
 の中心地の一つだったヴェルツブルグで、懺悔僧(キリ
 スト教聖職者)として2年足らずの間に200余人の魔女に
 付き添って、刑場に送った聖職者だった。
  魔女裁判の実態をつぶさに観察した結果、ドイツの諸
 侯と(キリスト教聖職者の)裁判官に対する厳しい抗議
 書「裁判官への警告」をこの年に書いた。
  彼を信頼した囚人たちは、彼に援助と助言を求め、真
 相を訴えた・・が・・、
  彼も囚人のためにあらゆる努力とつくしたという・・
 が・・助かる者は居なかった。
  ある死刑囚は拷問に屈せず、「自白」しないのに、キ
 リスト教聖職者の裁判官は有罪を宣告するのだった。
  シュペーは刑場で、もう一度「自白」をすすめた。
  魔女は、あきらめて、ただ一言、「罪をおかしました」
 と答えた。この様なことを言わす聖職者だった。
  シュペーは、大急ぎで裁判官にその自白を伝えた。
  そして、シュペーは言った、「絞殺の上で火刑にされ
 んことを」・・と、願った。
  しかし、願いは聞き入れられなかった。
  魔女は、生きながら焼かれた。
  後に(1642年)、シュペーは司教になった(ヴュルツ
 ブルグ)。ごますりシュペーは出世した。
  フィリップ・フォン・シェーンボルンが、シュペーに
 「どうしてそんなに早く白髪になったのか」と尋ねた時、
 多くの魔女は、無実だった。そのことを知っていたから
 だとシュペーは答えた。
  そして、魔女狩りを扇動する者は誰かと問われて、彼
 は答えた、「静かに思弁を楽しみながら、汚い牢獄も、
 重い鎖も、拷問道具も、哀れな人間の悲嘆も知らない高
 位の(キリスト教)聖職者と神学者だ・・と。
  そして、魔女裁判をもうかる仕事と考えている(キリ
 スト教裁判所の)裁判官だ・・と答えた。
  最後に本当のことを言った。
1632年、徳川家光が諸大名を集めて去就をたしかめた。
1632年12月、体制:大目付を設置した。
  秋山正重、水野守信、柳生宗矩、井上政重の4人を、こ
 の年に、大目付(初期は総目付と言った)に任じたのが
 はじまり、
  当初は、大名・旗本、老中以下諸役人の政務・行状を監
 察し、言上することがおもな任務だった。
1632年、江戸城の拡張工事が着手された。
1632年、社会資本整備・辰巳用水、
  加賀藩が、辰巳用水を開削し、金沢城下の上水に利用
 した。長さ20キロメートル、兼六園に至る。
  防火用水、御城水、殿様用水、御水道上水。
1632年、流通:仙台藩の江戸廻米が始まった。
  『煙霞綺談』に、「今、江戸、三分一は奥州米なり」
 と記述されている。
  武江年表には、三分の二と書かれている。
1632年、諸子法度を公布する。
  諸子法度は、「旗本法度」ともいい、幕府に仕える旗
 本御家人の守るべき規律を制定したもの。
  9ヶ条あった(23ヶ条の説もあり)。
  内容は、忠孝、軍役、兵具、屋作、嫁娶(かしゅ、嫁取
 り)、振舞、音信、喧嘩、火事、反逆殺害盗賊人、知行
 所務、境論(所領などの境界論)、百姓公事、跡目、徒党、
 衣服など。
1632年3月14日、殉死:二代将軍の徳川秀忠が54歳で没し、
 年寄の森川重俊が殉死した。
1632年5月22日、熊本城主の加藤忠弘(肥後熊本、52万石、
 清正の子)が改易された。庄内に流された(大名改易)。
  江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、後に、
  上使・稲葉正勝より改易の沙汰を受け、出羽庄内藩主・
 酒井忠勝にお預けとなった。
  清正は、既に、1611年6月24日に49歳で没していて、三
 男・忠広は、11歳で家督を継いだ。
  (長男・次男は早世していた)。
  清正は、領内の治水事業や利水事業を意欲的に取り組
 み、農業生産量も増やしている名君だったが・・、
  また、築城に長けていたが・・、
  経緯(いきさつ)は、この年の帰国中の忠広に対して
 21ヶ条の詰問状が渡され、速やかに出府して弁明せよと
 の命令が出された。
  忠広は命令を受け、出府するが、
  幕府は、品川宿で忠広を止め、池上本門寺にて待機せ
 よとした。そして・・、
  幕府は、忠広の嫡子・加藤光正(1614年~1633年)の
 不届き、そして、江戸で生まれた子とその母を、無断で
 国許に返したこと、さらに、
  平素の行跡が良くなかったことを理由にして改易した。
  忠広は、庄内の酒井忠勝に預けられ、
  1万石を与えられた。
  嫡子の光正は、飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、
 堪忍料として、月俸百口を給され、天性寺に蟄居となった
 が、1年後に、19歳の若さで病没した。
  しかし、別説がある。
  忠広は、庄内で22年暮らし、1653年、52歳で没した。
  家光と将軍後継者争いをした徳川忠長と、加藤忠弘が
 親しかったからという理由もささやかれている。
  また、豊臣系有力大名の家だからもある。
1632年10月20日、駿府城主の徳川忠長を上野に配した。
  秀忠が亡くなると、家光は、この年、忠長を上野国高
 崎藩に預けた。
  忠長は、秀忠の次男(家光の弟)で、1624年に駿府城
 主になって、駿府藩が再び成立していた(駿河・遠江・
 甲斐など55万石)。
  ただ、忠長は、将軍職を兄・家光と争った経緯から家
 光とは不仲だった。
  忠長は、家臣や侍女や領民を惨殺したりする乱行が目
 立った。
  その事から、1632年のこの日、家光は、高崎藩への蟄
 居とした。
  忠長は、翌年の1633年12月6日に、高崎で自害した。28
 歳だった。この時、家光は29歳。
1632年、タージ・マハル・・インド
  ムガル第5代皇帝のシャー・ジャハーンは、
  寵妃・ムムターズ・マハルの墓廟として、タージ・マ
 ハルの建造に着手した。
  各地から美しい石材を集め、10年の間、常時2万人以
 上の工匠と労働者を駆使して、建造が進められ、
  さらに、付属の庭園や建築物を完成するのに10年を費
 やした。
  壮麗なタージ・マハルは、真正面に満月が昇った時の
 美しさは最高であり、この世のものとは思われない幻想的
 な姿を見せる。
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2015年5月25日月曜日

(増補版)110C3/3:気になった事柄を集めた年表(1624年~1629年)

題:(増補版)110C3/3:気になった事柄を集めた年表(1624年~1629年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1624年、流通:大阪の泉屋平右衛門が、菱垣廻船(ひがき
 かいせん)問屋を開業した。
  江戸~大坂間を日常消費物資を積んで定期的に航行し
 た(木綿・綿・油・酢・醤油・砂糖・鰹節・紙・薬種な
 ど)。
  堺の商人が250石船を賃借して木綿や油、酒などを積ん
 で江戸へ輸送したのが最初と言われている。
  江戸末期には樽廻船に圧倒され衰退した。
  樽廻船(たるかいせん)は主に酒を運んだので樽廻船
 と言われた(伊丹・池田・灘の酒)。明治の中頃まで続
 いた。
1624年、霊厳島が築かれた。
  この地が有名になるのは、河村瑞賢が日本橋川に並行
 して運河(新川)を掘削し、以後、ここが永代橋まで畿
 内からの廻船が入り込むようになり、江戸の港として栄
 えたことによる。
  下り物の問屋として瀬戸物問屋・酒問屋が多く集まっ
 た。
1624年、体制:幕府と藩との関係が安定化した。
  寛永期に入ると幕府と藩との関係が安定して来て、こ
 の頃から、藩は、財政をはじめ、領内支配の体制整備に
 全力を注ぐようになった。
1624年、出版:商品としての書籍刊行が始まった。
  寛永年中(1624年~1643年)から商品としての書籍の
 刊行が始まった。
1624年、秀吉の妻・おねが没した。
  1615年の豊臣氏が滅亡する辛い時を経て9年、秀吉の妻
 は、高台寺に77歳の人生の幕を閉じた。
1625年8月、交通政策:関所・・関所・駅伝の制を定めた。
1625年、江戸寛永寺が上野に創建された。
1625年、交通政策:日光杉並木、
  大沢ー日光間16.5キロメートルに日光杉並木が植
 えられた。
  総延長は35.4キロメートルで、ギネスブックに世界
 最長の並木道として登録されている。
  この杉並木は、明治以降幾度も伐採の危機があった。
  そのたびに官民双方の有識者の努力によって大規模な
 伐採は避けられて来た・・が・・。
  現在、約12500本の杉があるが、街道を通る自動車の排
 気ガスによって、毎年、100本以上の杉が倒木や枯死によ
 って減っている。このままでは100年後には消滅すると言
 われてる。
  日光杉並木保護財団および栃木県文化財課により樹勢
 回復事業が行われている。
  また、事業費捻出のための「日光杉並木オーナー制度」
 が開始されている。
  1952年、国の特別史跡に指定され、1954年には、国の
 特別天然記念物に指定された。
1625年、社会資本整備:鬼怒川、
  伊奈忠治(いなただはる、江戸幕府関東郡代)が、小
 張村(現・茨城県伊奈村)に陣屋を建てて、山田沼堰を
 設け、鬼怒川付替え工事と谷原新田の開発を始めた。
  忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つく
 ばみらい市)にある。
  また、川口市にブロンズ像が建立されている。忠治の
 業績は多い。
  江戸時代初期から、すでに、徳川家康の号令で、氾濫
 する川の治水工事は行われて来ていた。
1625年、農業改革:初めて薩摩に甘藷を移植した。
  別の説:
  サツマイモがフィリピンから中国に伝来したのが1594
 年、それを宮古島の役人がが、1597年に宮古島へ伝え(
 日本最初の伝来)、
  宮古島では主食になるほどに広まった。
  しかし、これは、1618年ではないかとも言われている。
  沖縄本島に、1604年に伝わり(沖縄の人が、やはり中
 国の明から伝えている。この別ルートが本土へのルート
 となる)、1698年に種子島に伝わり、
  領主の第19代当主の種子島久本は、救荒作物として家
 臣に命じて、栽培法の研修をさせている。
  薩摩山川の前田利右衛門が、1705年に、琉球を訪れ、
 甘藷を持ち帰り、薩摩藩で栽培されるようになった。
  この前田利右衛門は神社に祀られている。
  そして、薩摩を訪れた伊予国の人が、持ち出し禁止の
 サツマイモを、1711年に、持ち出し、故郷の伊予国の大
 三島で栽培を開始した。
  1732年の享保の大飢饉時には、深刻な飢饉に見舞われ
 たが、大三島では餓死者が出ず、サツマイモの有用性が
 天下に知らしめられた。
  八代将軍・徳川吉宗の当時、江戸市中でよく知られて
 いた青木昆陽が、町奉行の大岡忠相に推挙されて、幕府
 の書物を閲覧できる身分になった。
  そして、昆陽は、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」
 を著し、吉宗に献上した。
  1734年に、青木昆陽が薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、
 江戸小石川植物園などで試験栽培し、
  翌年、その結果を確認し、
  以後、東日本にも広く普及した。そして、多くの人々
 を救って来た。
1625年、屋敷割り:江戸市中の旗本屋敷の屋敷割を行った。
1626年、社会資本整備:北上川、
  北上川の付替え工事が完成した。
  伊達政宗は、1616年に、家臣の川村重吉に命じて、河
 川を合流させたり、1626年に、北上川などの川筋を一本
 にまとめて舟航路を開いたりした。
  北上川は、川幅が狭く急流だったため、氾濫川だった。
  この工事の完成で、水流も安定し、新田開発も急速に
 進み、北上流域だけで40万国以上の田が開かれた。
1626年、人身売買の禁止、
  社会も安定して来て、戦乱の時代にあった様な人や物
 が掠奪されて使われてしまうという例もなくなったが、
  幕府は、この年、人身売買の禁止の令を出し、経済的
 な理由で不本意に使われる身分に陥(おちい)る事のな
 いように令を出した。
1627年、禁中並公家諸法度の軽視
  発布後、ほどなくして家康が死去したためか、この法
 律が軽視された。
  紫衣事件が起きた。
  位の高い衣の色を幕府が決めたが軽視された。
1627年、江戸城で刃物ざたが起きた。
  小姓組番士が、江戸城の二の丸で同僚二人に切り付け、
 1名が死亡し、小姓組番士は切腹となった。
  また、もう1名は応戦を怠ったとして追放処分となった。
1628年7月、徳川光圀(とくがわみつくに)が生まれた(
 1628年~1700年)常陸水戸藩の第2代藩主。
  水戸黄門として知られる。徳川家康の孫。
  大日本史を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
  徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響
 力を持った。
  同時代から、名君伝説が確立していて、
 また、水戸黄門はフィクションだが、この黄門漫遊譚が
 当時から確立していた。
  大日本史編纂に必要な資料集めのため、家臣を諸国へ
 派遣していた。
  1690年に、幕府より隠居の許可が下り、隠棲したが、
 60余人が伺候(しこう、貴人のそばで奉仕すること)し
 た。
1628年、井上正就(いのうえまさなり、譜代大名)が、暗
 殺された。
  旗本の豊島信満が、正就の嫡子の結婚の仲人を務める
 事が決まっていたが、
  将軍・家光の乳母の春日局が、違う娘と縁組する様に
 持ちかけた。
  正就は、豊島が仲人をする縁組を破談にした。
  仲人としての面目が丸潰れとなった豊島は、江戸城の
 西ノ丸廊下で、「武士に二言は無い」と叫んで、正就に
 斬りかかり、
  番士が取り押さえ、羽交い絞めをしたりしてもみ合っ
 たが、正就・番士が共に絶命し、豊島も自分を刺して絶
 命した。
1628年5月、長崎のキリシタンが処罰された。
1628年6月、朱印船の船長の浜田弥兵衛が、台湾にてオラン
 ダ船とオランダ人を捕らえ、連行して長崎に帰った(将
 軍の下賜品を奪う行為をした。当時、オランダ人が台湾
 の長官をしていた。入国のトラブルから発展した。台湾
 事件)。
1628年、社会資本整備:入鹿池、
  尾張に入鹿池(愛知県犬山市)が築造された。農業な
 どの水がめ。
1628年、令:倹約、衣類に絹類を禁止して、布木綿とした。
  奢侈禁止令(しゃしきんしれい)。
1628年、旗本の従者の員数を定めた。
  贅沢の禁止の精神から、倹約の意味で出された。
1628年、権利の請願(けんりのせいがん)、イギリス
  課税には議会の同意が必要
1629年9月、武家諸法度が改定された。
  趣旨は実権掌握。
  (1635年6月も改定している、この時、参勤交代制度を
 確立させている)
1629年、社会資本整備:鬼怒川、
  鬼怒川の付替え工事が終わった。
1629年、社会資本整備・元荒川、
  元荒川を締め切り、荒川を瀬替えする。
  西に動かし、武蔵水路を通水し、川近くまで水田耕作
 が出来、水田耕作面積が広がった。
1629年、農業:この頃、伊予地方の事情を記す日本最古の
 農業書「清良記」ができた。
1629年、令:歌舞伎を禁止した。
  風俗上での禁止だった。
1629年、踏絵が始められた。
1629年、辻斬防止のため、江戸に辻番が置かれた。
1629年、魔女事件の惨状
  ヴェルツブルグ(ドイツ)の宗教法顧問が、1629年8月
 に、ヴェストファリアの知人に宛てた手紙:
  貴下が、前、もう終わったと言って居られました魔女
 事件が勃発いたしました。
  その惨状、言語に尽くされません。
  何と悲惨な恐ろしい事でございましょう。
  厳しい告発を受けていますので、いつ何時、逮捕され
 るかもわからぬ男女が、当市には、まだ400人ばかりも居
 るのでございます。
  男もあり女もあり、身分高きもあり、低きもあり。
  当初教区の領民で、その職務と才能の別なく処刑され
 ねばならぬ者が多数あることは確実でございます。
  学生も居ります。
  うちの13・4人は魔女だという噂でございます。
  拷問をかけられている者もいます。
  当市民の3分の1が、魔女事件に関係している事は確実
 でございます。
  8日前には、19歳の娘が焼かれました。
  この娘は、市中で一番美しい、まれに見るつつましく
 純潔な娘だったという評判でございます。
  こうして多くの人間が焼かれるのは、彼らが(キリス
 ト教の)神を拒み、悪魔の会合に出席したからであり、
 それ以外には何の罪も侵してはいないのであります。
  この悲しい事件につきましては、これで筆を置くこと
 に致しますが、
  最後に、悪魔と交わりを結んだ3、4歳の幼児が、300
 人もいます。
  私は、7歳の小児と、10歳、12歳、14歳、15歳の勇敢な
 学童が、死刑にされるのを目撃いたしました。
  貴下が、ご存知のもっと高貴な人々もありましょう。
  しかし、これが真実とはとてもお信じになれますまい
 し、・・以下略
..
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2015年5月24日日曜日

(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年~1624年)

題:(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年~1624年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1621年、社会資本整備・新川通・赤堀川
  幕府が、新川通(埼玉県)・赤堀川(茨城県)を開削
 し、利根川の水を常陸川(現在の利根川の関宿・堺町よ
 り下流部)へ流した。
1621年、オランダ商館を平戸に置いた。
1621年、竹斎(ちくさい、仮名草子)
  この頃、「竹斎」が成立した。名所記文学の祖。
  やぶ医者竹斎が、下僕と共に、滑稽を演じながら京の
 名所見物から東海道を江戸に下る物語。
  とんち話もある。
1622年、玉川庄右衛門(しょうえもん)が生まれた(1622
 年~1694年)
  弟を右衛門(せいえもん)と言い、1653年から1654年
 にかけ玉川上水の開削の指揮をとった。
  江戸市民のための給水の川。
1622年7月、支倉常長(はせくらつねなが)が没した。
  仙台藩士、伊達政宗に仕えた、
  メキシコ→マドリードと渡り、通商開設と宣教師派遣
 を求める政宗の書を渡し、命による通商交渉をしたが成
 功せずに帰国した。
  政宗の行為は、キリスト教宣教師から、通商を希望す
 るならキリスト教の布教を認めて、通商を希望を求める
 形にとの話をされていた。
1622年10月、宇都宮の譜代大名・本田正純が改易された。
1623年、徳川家光が、第3代将軍になった(1604年~1651年、
 将軍期間1623年~1651年)
  徳川家光が参内し将軍の宣下を受けた。
  禁裏御料1万石増献(計2万石)
  徳川幕府の基礎を確立したと言われている。
1623年、大名支配・松平忠直(越前福井)が、豊後に改易
 された。
  松平忠直は、家康の孫で、父は秀康。
  家康の次男・秀康は、将軍になった秀忠の兄である。
  忠直は、将軍となるべき父だった秀康の子だった。
  (家康の長男は、家康がまだ不遇の時、家康にまだ力
 がない時に、トラブルで殺してしまっている。家康は、
 大いに嘆いたという)。
  この頃、私的な関係と公的関係への転換は、将軍家と
 徳川氏一門との間にも厳然と表れていた。
  越前松平家は、二代将軍・秀忠の兄・秀康の家で、そ
 の意味で最高の格式があった。
  家康は、何故か、秀康でなく、弟の秀忠を跡継ぎにし
 た。
  しかし、さすがに秀康(1607年に死去)一代は「制外
 の家」、つまり、将軍権力の外にある家と称せられ、
  例えば、江戸出府も気ままで、一般の大名の様に江戸
 に邸ももらわず、江戸に来ると、江戸城玄関に駕篭を乗
 り付け、二の丸に泊まるという行動をとった。
  つまり、秀康は、あくまでも将軍家の兄弟であり、臣
 従するものではないという態度を貫いたのであった。
  しかし、次の忠直の代には、その態度は通らなかった。
  忠直は、自分が将軍家の兄の家であることに強い誇り
 を持っていた。しかし、
  幕府は、その様に取り扱わなかったのが、はなはだ不
 満であった。
  ことに家康の死後、家康の子としてはるか末の第9子・
 義直(尾張)・第10子・頼宜(紀伊)が、いずれも自分
 より高い官位を叙せられたため、彼の不満は爆発した。
  彼は、連日連夜酒色にふけり、家臣の言動がわずかで
 も気に障ると、たちどころに手討ちにするという暴君ぶ
 りを現わした。
  また、参勤を怠り、あるいは突然帰国するなど、幕府
 の権威をないがしろにする態度も、日増しに増長した。
  そこで、秀忠は、1623年、遂に、忠直に隠居を命じ、
 これを豊後荻原(大分県)に配流に処した。
1623年、制度:五人組制度が施行された。
  連帯責任の制度で、相互扶助の面もあった。
  治安維持・法度の順守(キリシタン)・年貢完納など
 を連帯責任の下に置いた。
1623年、イギリスも平戸商館を閉鎖した。
  イギリス人が、損失続きのために、自発的に平戸の商
 館から撤収した。
  日本は、どうも儲からないから止めた・・である。
  インドや中国で、悪どいことをして儲けていたイギリ
 スは、その様なインドや中国の様なうまい仕掛けが出来
 ない国と判断したのだった。
  または、インドや中国で儲けているため重要性が低い
 と判断した。
  メキシコの銀山開発もあった。
1623年、アンボイナ事件が起きる。
  この年に、モルッカ諸島のアンボイナ島にあるイギリ
 ス商館をオランダが襲った。そして、商館員を全員殺害
 した。
  イギリスの香辛料貿易はストップした。
  この島を、オランダは奪い取り独占した。
  イギリスは、東南アジアから撤退し、インドを重点的
 に搾取する体制に変更した(餓鬼の世界の展開)。
  17世紀の初めは、イギリスとオランダの両国は、カト
 リックのスペインやポルトガルの勢力に対して協力的態
 度であった(4国協調)。
  それから、スペイン・ポルトガルを駆逐する。2国の世
 界になった。・・が・・、
  オランダ東インド会社の実力が、イギリス東インド会
 社を上回って来ると・・(会社組織にしているのは卑劣
 な隠れ蓑、やっているのは国・国家の行動)
  この様な欲の世界の中で、奪い取りの世界の中で、
 1623年のアンボイナ事件を契機に、イギリスは、東南ア
 ジアや東アジアから撤退した(軽蔑すべき武力による奪
 い取りの展開)。
  香料貿易を独占したオランダは、アジアに商機のチャ
 ンスが流れ込んだと喜んだ。
  当然、イギリスには、反オランダの感情が高まり、残
 酷・卑劣な第一次英蘭戦争(1652年~1654年)へと発展
 して行く。一回では終わらない。
1624年3月、日本へ、スペインが通商復興を求めたが許され
 なかった。当然だ・・、
  散々、世界で悪いことをして来て(南米だけでも1000
 万人にもおよぶ殺戮をキリスト教宣教師と共にして来た)、
 その経緯(いきさつ)などをすべて知っている日本。
  領土的野心を持つスペインの手先のキリスト教は法を
 守らないし・・、この様な状況で許される訳はなかった。
1624年12月、朝鮮の使節が来朝した。
1624年、江戸城
  江戸城の西ノ丸殿舎(秀忠の隠居所)の改築が完成し、
 秀忠が入居した。
  この時、土井利勝・井上正就・永井尚政らは西ノ丸老
 職となった。
1624年、徳川家光が、本丸に移った。
  酒井忠勝が、本丸老職となった。
1624年、この年、林羅山が徳川家光の侍講となり、幕府政
 治に深く関与して行った。
  林羅山は、徳川家康・秀忠・家光・家綱の4代の将軍に
 仕えた。
  徳川幕府の外交官ともいえる林羅山は、中国政府と正
 式な外交を結ぶ必要はないと見ていた。
  また、信従するに値しないと見ていた。
  明宛ての書簡でも、明の年号を用いなかった。
  「中華の華は今や日本なり」の意識が沸き起こってい
 た。
1624年頃、林羅山のこと。つづき。
  徳川幕府の初期、中国は明の末期だった。
  幕府は、秀吉の時代に乱れた明との関係修復を努める
 が、日本という国体を考え、書簡において、中国・明の
 年号使用は控えた。
  これは、中国皇帝の普遍性を否定する内容形式を、あ
 えて突き付けた形となった。
  その為、関係修復はならなかった。
  外務大臣に当たる林羅山は、日本へ朝貢し始めた国々
 として朝鮮やタイを羅列し、中国の覇権に、事実上の挑
 戦状を突き付けるに等しい行動をとった。
  明との関係修復より、日本の自主性が優先された。
  なんだかんだとアメリカのTPPのグローバリズムに組み
 込まれて行く、現代の日本とは違った。
  朝鮮は、北辺が満州族に脅かされ、日本に接近せざる
 を得なかった。
  そして、日本は、朝鮮に明の年号を使うなと言った。
  そして、明が満州族に滅ぼされ、清朝となって行く。
  明の家臣が、二度にわたり、日本へ救援を求めて来た。
  将軍・家光は、2万の遠征軍を組織し、中国上陸の作戦
 計画を策定した。
  状況が変わったため、実行には至らなかったが・・、
  秀吉を含め、当時の日本の指導者には自負心があった。
  現在、間違って印象付けられている鎖国意識は、日本
 には、まったく、無かった。
  日本は、冷静に、モンゴルと中国をめぐるユーラシア
 の凄絶かつ壮大な闘争のドラマをしっかり見ていた。
  陸続きの朝鮮が、それに翻弄(ほんろう)される姿を
 見ていた。
  海を隔てた日本の地勢的有利さを感じていた。
  韓国が、今・現代でも、秀吉の朝鮮出兵だけを、ひた
 すら悪く言うが、
  朝鮮において、この様な事は、日常茶飯の出来事だっ
 た。
  秀吉の朝鮮出兵は、ちょっと一度の『幕間の寸劇』と
 いう程度だった。
  日本には、鎖国意識なんて、まったくなかった。
1624年、スペイン船の来航を禁止した。
  領土的野心を持つスペインが、キリスト教宣教師の
 活動を統制できなかったため、
  長崎からの『退去命令』を受けた。
  キリスト教が原因者。
..
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2015年5月23日土曜日

(増補版)108C3/3:気になった事柄を集めた年表(1617年~1620年)

題:・:(増補版)108C3/3:気になった事柄を集めた年表(1617年~1620年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1617年、日光東照宮の造営
  日光の東照宮が造営され、家康を久能山より日光へ改
 葬した。
  将軍の日光社参が始まる。
1618年、河村瑞賢(かわむらずいけん、政商)が生まれた
 (1618年~1700年)
  貧農に生まれるが、13歳で江戸に出て、人夫をしなが
 ら資産を増やし、材木商を営み財を成した。
  幕府の公共事業にも関わって行き、廻米の航路開拓も
 やる(年貢米の海運)、そして、港湾改修・治山治水。
  後は、全国的に治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾な
 どの事業をする豪商となった。
  晩年は旗本に加えられた。
  同郷の松尾芭蕉とも交流があった。
  数学的な才もあり、それによる新たな測量法も考案し
 た。
1618年、社会資本整備・箱根の関所。
  この頃、箱根に関所がおかれた。関東防衛の役割。
  封鎖の砦の役もあった。
  良く知られた「入り鉄砲、出女」の監視体制がある。
  江戸の立地から、北方面より西方面への警備方針に重
 きを置いた。
1618年、釜山に和館(日本館)が出来た。
  海外居留地だった。
  元寇の時、朝鮮軍と明軍の日本侵攻は、対馬や壱岐の
 侵攻から始まり、
  島民の男性は虐殺され、女性や子供たちは、手に穴を
 開けられ、革紐や縄を通してつながれ、連れ去られたと、
 史記にあるが(朝鮮に古くからある連行方法)、
  卑劣な事に、連れ去られる船の上で、女性方は、ひど
 いことをされた(韓国はこのことに触れないで、日本だ
 けを責めているが)。
  この日本館は、この様な事が今後起きない様にと、こ
 こを起点に、友好な関係を築こうとした、しかし・・、
  この様な事はNHKはまったく放送しない。
  NHKという放送局は、日本が悪いように、悪いよう
 にと、放送する局です。(NHKの外国を利する行為)
  この様な偏見を持ったNHKに学校放送をする資格は
 ありません。
  因みに、日本の子供たちは、朝鮮王の高麗王への奴隷
 として引き渡された。
1618年、魔女裁判
  魔女裁判は、キリスト教のローマ教会と意見が相違す
 る人々を排除しようという、まったく自分勝手な考えか
 ら始まった。
  意見が相違する人を、「異端者」と呼び、その意見の
 相違する人々を裁くのだと、
  キリスト教会内に、異端審問所を作った。
  そして、キリスト教聖職者が、その異端審問所の異端
 審問官となって、自分に都合のよいように裁いた。
  これはもう、裁判形式ではあるが、見せかけです。
  その様に見せかけた意見の違う人たちへの迫害装置で
 あって、
  形式上のキリスト教会内の裁判形式における罪に落と
 す騙(だま)し施設だった。
  この様な、裁判という、さも正しそうな隠れ蓑で、悪
 事を働く行為をキリスト教はやり、後の世の悪の見本と
 なった。
  この様な、偽善の裁判形式の迫害行為は、近年の、つ
 い先ごろの時代もやっている
  (第二次世界大戦後の法律もない中でやった裁判)
  異端審問官は、意見の違う人たちを「悪魔と結託して
 いる」と呼んだ、そして、そうだ決め付けた。
  初め、キリスト教カトリックが始めた。
  後に、キリスト教プロテスタントが始めた。
  その両者が、お互いを異端だと罵(ののし)り、言い
 合った。
  お互いが「悪魔との結託者」と言い合った。
  まったく軽蔑すべき状況だった。
  この様なキリスト教の考え方で、事が収まる訳はなく
 卑劣なキリスト教の教義のもとに、争いはだんだん熾烈
 になって行った。
  お互いを、双方が、異端者呼ばわりをした。
  その双方に魔女裁判は激化した。
  改革だと称したキリスト教側、劣った教義の中で改革
 だと叫ぶ者と、何が改革だと対抗する強力な対抗組織が、
 特に、南ドイツ(ことにビュルッツブルグやハンブルグ)
 で、熱狂的な魔女狩りも行われ、犠牲になった方々が大
 勢出た。
  犠牲の女性と共に、この時は、改革派のルター派の男
 性が犠牲となって、この時には出た。
  この様な卑劣な宗教の下に戦争も起きた(30年戦争)。
  卑劣な宗教による戦争は、ヨーロッパ中を荒廃させた。
  特に、ドイツは、都市と言わず農村など、ことごとく、
 徹底的に破壊され、荒廃した。
  善良な方々をどん底に突き落とした卑劣な宗教だった。
  ヨーロッパ、特に、ドイツが疲弊し、都市や農村が荒
 廃した。
  魔女の実在を教え、刷り込み、信じさせるキリスト教
 会。
  取りつかれた民が、街中に躍り出る町が、あちこちに
 出現。
  焼かれる女性、その煙が、ヨーロッパの空を曇り空の
 様にした。
  古い観念にとらわれた教会、形骸化した制度、
  その古い教義・組織を、今もって改革できないキリス
 ト教。
  ルターも改革だと言ったって、その言葉の中に何度「
 魔女」という言葉を使ったことか・・、
  ルターは、城の中で魔女を見たと騒ぐ人だった、
  それほど、改革者と言うこの人に、魔女が付きまとっ
 ていた。
  改革だと言いながら、ルターは、魔女と共に悪魔につ
 いての体験をあちこちで語った。
  数多い体験をルターは語るのだった。
  ヴィッテンベルクの僧院に居るときには、悪魔の騒ぐ
 声にいつも悩まされていたと言った。
  ヴァルトブルグ城に居た時は、彼の居室の壁に居た悪
 魔に、彼はインク壺を投げつけたという・・、
  その黒インキのシミは、今でも残っているという。
  キリスト教を改革しようという彼には、魔女に対する
 恐怖と憎悪が満ちていた。
  彼の言葉にそれが現れていた、
  「私は、この様な魔女には何の同情も持たない。皆殺
 しにしたいと思う・・」。
  荒れるドイツは、可哀想なことに国が分裂した。
  卑劣な宗教による卑劣な現実があった。
1619年、流通、堺の船問屋が、菱垣(ひがき)廻船(江戸
 廻船)を開始した。
1619年、大阪城代を設置した。
  大阪を直轄都市とし、大阪城代を置いた。
1619年、徳川頼宣を紀伊に封じた(大名の管理・支配)
  家康の10男の頼信を紀伊に移した(紀伊徳川家の成立)
1619年、大名支配・福島正則
  広島城主の福島正則の領国を没収した。福島正則(安
 芸広島)の改易。
1619年、キリシタンを55人を火刑にした。
  これが日本の最大のキリスト教の処刑。
  ヨーロッパやアメリカのキリスト教国の魔女による殺
 戮の様な非常な多数への酷いことはしてない。
  それにしても、お達しを出して違法ですと通達し、
 長崎へ送って、追放船で追放しても、潜入したり、法律
 を破るキリスト教がそこに居た。
  また、キリスト教は、殉教は美しいのだと刷り込みを
 した。
  だから、子供まで連れて、出頭して来る者がいた。
  その殉教の時は震えてはいけないのだとまでキリスト
 教は卑劣にも信徒を洗脳した。
  刑場の冊(矢来)の一部は開けてあって、逃げられる
 ようにもなっていた。
  キリスト教は、今・現在でも、殉教を美しく言い、そ
 の多数を良しとする、そして、ひたすら多い人が殉教し
 たと嘘を言う。
  しかし、幕府には穏便に済ませたいが心底に流れてい
 た。
  本人以外の家族でも、親類・知人でも、キリスト教を
 止めたと言えば許された。
  ヨーロッパの様に追い掛け回して、捕まえて、焚刑に
 するようなことはしていない。
  ヨーロッパは、国をまたいでまでして卑劣にも追い掛
 け回して殺した。
1619年、本田正純が、この年、加増され下野国宇都宮城(
 宇都宮市)で15万5000石となった。
  しかし、同僚の譜代大名の嫉妬を受け、
  「宇都宮釣天井事件」で将軍暗殺を謀(はか)ったと
 され失脚した。
  出羽国横手(秋田県横手市)に流された。
  正純は、徳川家康の「懐刀(ふところがたな)」と言
 われた本田正信の子で、頭角を現したのは、関ケ原の戦
 い直前だった。
  家康の普段の相談相手の父・正信が徳川秀忠に付いて
 中山道を進軍中であったため、正純が家康の相談相手と
 なり、江戸城で諸将を味方に付けるべく手紙戦略を展開
 した。
  その時から家康は、正純を側近として重視するきっか
 けとなった。
  家康が秀忠に家督を譲り、駿府城に隠居し、そこから
 「駿府大御所政権」を行った時も、正純はブレーンの一
 人として諸政策を決めた。
  父・正信は秀忠の元に居た。
  父・正信は、正純に「権ある者は禄(ろく)少なく」
 と戒(いまし)めていたが、
  父の死とともに加増され、結局、失脚の憂(う)き目
 を見る事となった。
1620年5月16日、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が没
 した(1564年~1620年)イギリス人、航海士・水先案
 内人、
  リーフデ号が豊後の臼杵に漂着し(1600年)、日本上
 陸、家康と会う。
  キリスト教カトリックの野心や、プロテスタントとカ
 トリックとの紛争・軋轢を臆せず説明した。
  家康は、この正直さなど、ここで気に入り誤解を解い
 た。
  キリスト教宣教師が処刑をする様にと執拗に言って来
 たが、
  江戸に招き入れ、通訳や助言を求めた。
  また、航海術や数学の知識を、家康や側近は受けた。
  また、要請を受けて、伊東に造船のドックを設け、80
 トンの帆船を、経験を活かして建造した。
  家康は、より大型船の建造を指示し、1607年に120ト
 ンの船を建造している。
  この船は、房総沖で遭難した前フィリピン総督ロドリ
 ゴ・デ・ビベロに貸し出され、帰国したという。
  日本は優しい国際国家だった、鎖国国家はプロパガン
 ダ(嘘宣伝)だ。
  家康は、三浦按針に帯刀を許し、相模に領地を与え、
 旗本にした。
  帰国の許可が出て、帰国の機会があったが、彼は帰国
 をしなかった。
  息子のジョセフは、相模国の所領を相続した。
1620年、江戸城修築
  東国大名に命じて、江戸城の本丸・北の丸の修築工事
 を行った。
1620年、桂離宮(かつらりきゅう)が創建された。
  敷地面積は、70000平方メートルで、
  庭園部分は、58000平方メートル。
  作庭者は、小堀遠州と言われている。
  世界的に」有名な建築家のブルーノ・タウトは、あま
 り綺麗さに、美しさに、二度も訪れ、そして、「泣きた
 いほど美しい」と言った。この言葉も有名。
  「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、
 すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に
 接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)
1620年、徳川秀忠の娘の和子が、中宮となった。
1620年、米蔵を浅草に建てた(浅草御蔵・あさくさおくら)
  最大の規模の時、67棟あった。
  毎年30万~40万石の米穀を出納した。
1620年、この頃、シャム(タイ)・ルソンに日本人町が栄
 えた。
  最盛期の推定人口、マニラ3000人、アユタヤ(シャム)
 1500人などの7か所の全日本人町で5000人以上、
  その他・ベトナムのフェイフォ(現在のホイアン)・
 トゥーラン(ダナン)、カンボジアのプノンペンとピニ
 ャール、
  伊勢の豪商の角屋七郎兵衛の朱印船貿易で繁栄し、多
 くの日本人が移住して形成した。
1620年、イギリス人の清教徒(ピューリタン)がメイフラ
 ワー号でアメリカに渡った。
  16世紀、イギリスのエリザベス1世が、イングランド
 国教会を確立したが、
  17世紀にかけて、キリスト教会の改革を主張する清教
 徒が勢力を持つようになった。
  特に、国教会からの分離を求めた分離派と呼ばれた清
 教徒は、弾圧を受けた。
  そして、弾圧を避けるためにアメリカへ渡った。
  この後、アメリカへは、続々と、種々の移民が来るが、
 先に入国した移民が、後から来た移民の労働力を搾取し、
 富を増大させるというパターンを繰り返して行くアメリ
 カだった、
  その様な国の形態を今・現在でも続けている。
  1600年代初め、アメリカへ渡るイギリス清教徒たち。
  ピルグリム・ファザーズ(ピルグリムは巡礼者、さす
 らい人の意味)と呼ばれたイギリスのキリスト教徒であ
 る清教徒(ピューリタン)が、1620年に、アメリカに渡
 る。
  この様な初期の人たちは、気候の厳しい冬を越える事
 が厳しかった。
  餓死者が大勢出た。
  2013年5月2日のアメリカの新聞「ワシントンポスト」
 は伝える、
  「1600年代初め、イギリスからアメリカのバージニア
 へやって来た移民(キリスト教徒のピューリタン)たち
 が、酷い天候と食糧不足に苦しめられ、
  食べ物が無くなって、
  生き延びるために、若い女性を食べたことが判明した」
 という記事を載せた。
  これは史実である。
  アメリカは、2015年に、日本人が食人したという映画
 を作って放映した。卑劣である。これは空想で作り話で
 ある。
  これは史実でも何でもないことを、さもあった様にし
 て差別する。
  この様な、日本人への蔑視行為をする。
  人種差別行為をする。
  自分たちの差別行為を隠して・・。
..
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2015年5月22日金曜日

(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年~1620年)

題:(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年~1620年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  以下に、この頃の、日本におけるキリスト教の活動と、
 幕府などの対応を、主にまとめました。
  キリスト教会は、日本に迫害があったとひたすら過激
 に言いますが、日本人の穏やかさがこの面でも出ていま
 す。
  また、キリスト教に偏するNHKも、ひたすら殉教だ・
 殉教だと言い、また、放送しますが、幕府は法を犯した
 キリスト教宣教師を取り締まったというレベルです。
  NHKの事実誤認を惹起させる報道姿勢を糾弾します。
1602年7月3日、島津藩の島津家久は、貿易をしたいため家
 臣を、1601年に、フィリピンのマニラに派遣した。
  そして、その家臣は、貿易と宣教師派遣に関しての返
 書をもって帰国した。
  キリスト教宣教師の派遣が出来る事が貿易の条件だっ
 た。
  藩主・家久は、貿易がしたかったため、1601年8月22日
 付けで、宣教師を派遣して良いという返書を送った。
  そして、1602年7月3日に、第一次と称するキリスト教
 宣教師団の5名が日本に来た。
  藩主・家久にすれば、貿易だけがしたかっただけなの
 に、この様な条件が付いて来たと、1601年8月22日に許可
 したのだった。
  まだ、関ケ原の戦いが終わったばかりで、江戸幕府も
 開設されてないこの時、そして、徳川の政治もこれから
 という時だった。
  この宣教師らは、その様な時代の中を自由に宣教した。
  藩主も許可していたので、まったく自由に動き回るこ
 とができた。
  ここの所の記述において、キリスト教会の記述は、ひ
 たすら迫害されたと過剰に記すが、まったくの嘘の記述
 で、藩主が許可していて迫害など全くなく、自由に動き
 回っている状態だった。
  また、この頃の家康も、キリスト教の真の目的(キリ
 スト教宣教師は、領土獲得の尖兵の使命を受けていた。
 キリスト教本部への宣教師の報告書でも、その事が、記
 述されていて分かる)を知らず、江戸に宣教師を来るよ
 うにとか、京都に教会を建てて良いとかと言っている。
  キリスト教会がいう様な「迫害」などまったくない。
  そして、島津家も、家康へ状況を知らせている、
  そして、徳川家の考えを伺って、その通り行動してい
 る。迫害なんて全くない。
  それをキリスト教会は嘘記述をする。
  村人も、日本人の性格の良さが出ていて、純真で、目
 を患った神父を助けている。迫害なんて全くない。
  キリスト教会は、意地が悪く書く。
  日本は、迫害行為をしているヨーロッパとまったく違
 うのだ。
  キリスト教のバチカン政庁に残っている資料が、その
 日本の誠実さを物語っている。
  まだ、何も知らない薩摩藩主も、キリシタン側へ土地
 を提供し、教会や修道院を建ててやっている。
  また、多くの蝋燭や米の寄進を申し出ている。
  ここの所を、キリスト教会は、「貿易があるから迫害
 が無かった、貿易が無ければ迫害は確実だった」とかと、
 日本を悪い方向へと書く。
1607年7月に佐賀に教会と修道院を建設している。それも、
 あちこちに。
  そして、その10年後・・・
  キリスト教についての状況が分かって来ると・・
1616年7月、キリスト教宣教師が、京都から長崎へ移る。
  キリスト教の真の目的を知った幕府は、1612年に、キ
 リスト教を禁止するが・・、
  そして、キリスト教宣教師たちを乗せた追放船を出航
 させるが、
  キリスト教は、卑劣にも日本へ宣教師たちを潜行させ、
  そして、宣教師たちに活動させた。
  第二代将軍となった徳川秀忠は、その為、キリスト教
 の取締りを強めた。
  このため、京都で活動していたキリスト教宣教師が、
 京都に居られなくなり、長崎に移っただけのことを、キ
 リスト教会は、「迫害だ、迫害だ」と騒ぎ立てる。
  本当は、法を犯して宣教活動をしていたので、捕らえ
 られるところなのだが、捕らえられずに長崎に移れたの
 だ。
1616年12月、キリスト教宣教師の潜伏発覚したので、捜索
 が開始される。
  キリスト教宣教師が、幕府の法律を守らないで、日本
 に潜伏していることを知った幕府は、その捜索のため、
 幕府の役人の明石内記が長崎に行った。
1617年5月22日、日本に潜伏し、法律を破っていたキリスト
 教宣教師が、とうとう、処刑された(2名)。
  それでも2名。ヨーロッパはその何百倍、何千倍だ。
  キリスト教には、贖宥(しょくゆう)と言って教会が
 罪を許す事が出来る教義があるが、1616年2月には、日本
 人のキリスト教徒間に、この贖宥が原因したトラブルで
 争いが起きた。
  キリスト教の派閥の争いである。
  この様な経過の中で、大村藩主はキリスト教を捨てた。
 棄教してキリスト教を止めている。
  そして、その棄教の後の1617年4月に、一人のキリスト
 教宣教師が逮捕されている。
  そしてまた、その翌月の1617年5月に、また、一人の宣
 教師が逮捕された。
  この2名が、この日に処刑された。
  ヨーロッパでは、あちこちの町で、何千人と魔女にさ
 れた女性が焼き殺されていた頃の日本だった。
1617年5月23日、キリスト教宣教師が殉教だとひたすら言い、
 間違った宣教をした。
  捕まっていない2名のキリスト教宣教師は、昨日の処刑
 を美化した。
  日本の信徒に間違った美化した宣教を行った。
  日本の信徒も洗脳され激情した。
  これを、今・現在のキリスト教会も美化して報じてい
 る。
  殉教だと、だから宣教するのだと、洗脳的な言葉を言
 う。
  それで、日本の法律を破る行為をやる。当然の結果で
 捕まり処刑されることとなる(2名)。
1617年7月23日、捕まったキリスト教宣教師1名と日本人信
 徒6名が、牢屋に入れられながら、自由に宗教活動が出来
 たという。日本は優しい国だ。
  獄吏の黙認の下にできたのだという。
  だが、10月に厳しい監視をする者が来て出来なくなっ
 たという。日本は本当に優しい国だ。
  キリスト教宣教師を匿(かく)まったり不法の行為を
 した者、活動を助けた者が処刑された(2名)。
1618年2月7日、キリシタンの長崎代官(末次平蔵)が、
 1617年12月に、幕府の金を不正に使ったとして訴えたこ
 とが元で調べられ、逆に、宣教師を匿ったことがばれて、
 この日に、長崎に追放処分となった。
1618年2月、天草地方のキリスト教を捨てた者を、キリスト
 教宣教師が元に戻らせたという。
1618年8月13日~18日、キリスト教宣教師が、マニラから長
 崎に来た。
  この時、日本の保証人が、お金を出して、朝鮮布教を
 できる様にしていたのが、この時に臨んで、そのお金が
 出なくなったので、朝鮮への宣教師は行けなくなったと
 いう。
1619年3月14日、キリスト教信徒が通報して、キリシタン宣
 教師が捕らわれた。
  「裏切りだ」と、しきりにキリスト教会は言うが・・、
 法律に則った正しい行為だ。
  そして、翌日、捕らえられたキリスト教宣教師。
  そしてまた、その宣教師の下僕が白状して、別のキリ
 スト教宣教師が捕らえられた。
  キリスト教会は拷問があったのだろうと推測して悪く
 言う。
  ヨーロッパのキリスト教会裁判所の魔女の拷問は卑劣
 だったが、それを想像して、日本も同じだと思ったのだ
 ろう。
1619年3月27日、キリスト教宣教師が壱岐島に配流された。
  比較的自由に生活でき、行動できた。
1619年9月、長崎奉行が、一時的に、牢にいるキリスト教宣
 教師を、ポルトガル人やスペイン人が援助する事を許し
 た。
1619年12月1日、徳川秀忠が、キリスト教宣教師の宿主をし
 ていた村山当安を処刑した。
  親類縁者も処刑されたという。
1620年1月、キリスト教関係の施設の取り壊しが始まった。
1620年3月には、キリスト教宣教師がマニラに帰っている。
  日本は厳しい取り締まりはしていない。
1620年8月4日、オランダ船が幕府の法律行為を助けるため
 か、キリスト教宣教師2名を連行して、長崎に連れて来た。
  この船は、イギリスの海賊行為を受けていた。
  これは償金目当てだとキリスト教会は悪く言う。
  そしてまた、助けようとしたが失敗したという。
  この頃の長崎は、役人や庄屋までがキリシタン宣教師
 の味方をしたという。
  そのぐらい、穏やかな取り締まりの日本だった。
  キリスト教会は、ひたすら苛酷だとか、厳しい迫害だ
 とかと言うが、全く違う。
  「自由に司祭は仕事に行くことができました」と言っ
 ている。
..
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2015年5月21日木曜日

(増補版)106C3/3:気になった事柄を集めた年表(1615年~1618年)

題:(増補版)106C3/3:気になった事柄を集めた年表(1615年~1618年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1616年4月、徳川家康が、没した(1543年~1616年、73歳)
  徳川家康が没し、家康が殉死を嫌ったため、殉死者は
 出なかった。
  1月(旧暦)に鷹狩先で倒れ、4月(旧暦)午前10時頃
 駿府城で亡くなった。
  死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説があったが、胃癌
 説が主流となっている。
  それは、「徳川実記」の病状の記述が、その論拠とな
 っている。
  松平家の菩提寺の大樹寺に、位牌があるが、故人の身
 長と同じ大きさに作られているという。
  それによると、身長は159センチメートルとなる。
  当時としては、平均身長に相当する。
1616年4月、家康の遺言
  尾張という流通の盛んな土地で成長した信長や秀吉は、
 商人の原理と機略を持っていたが、
  家康は、そういう所が少しもなく、
  あくまでも、山村の庄屋さんの原理で、その生涯を終
 始した。
  「三河の頃の制度を変えるな」と遺言もした。
  家康の武将としての理想像は、武田信玄であり、政治
 家としての理想は源頼朝であった。
  豊臣政権の直轄領は、わずか二百数十万石に過ぎなか
 った。
  秀吉は、農村を収奪して、米穀をもって財政の基盤に
 するよりも、海外貿易による儲けの方に、より魅力を感
 ずる政治家であった。
  その点、徳川家は、「武士は商人のまねをするな。む
 しろ百姓のまねをせよ」という事が、徳川家の譜代大名
 のいくつかの家の家訓にあり、
  例えそういう家訓のない家でも、倫理として、それが
 厳然として存在していた。
  その為、商人のまねは、武士は一切禁じられていた。
  止むを得ざる場合は、職人としての内職は黙認された。
  傘張り、楊枝(ようじ)削り、扇子の骨作りといった
 下職としての内職である。
  大内氏は、対明・対韓貿易をやって、大いに国富を得
 た。
  単に百姓大名なら、室町期にあって、あれほどの文化
 圏を誇ることは出来なかったであろう。(参考:街道を
 ゆく1)
1616年6月、本田正信(ほんだまさのぶ)が没する(1538年
 ~1616年)、徳川家康の重臣で、老中。
  家康の信任厚く、初期幕政を牛耳じり、大老的になっ
 た。
  家康は、正信を参謀の如くに重用した。
  秀忠の時は、秀忠付の年寄(老中)になった。
  正信は、石田三成の嫡男・重家をどうするかの問題の
 時、死罪を免じる事を家康に進言した。
  家康が、その理由を尋ねると、
  「治部(三成)は、西国大名を糾合して、関ケ原とい
 う無用の戦を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は、す
 べて徳川家に服すことになったのです」と答えた。
  家康は、正信の言う事に一理あると答えて、重家を赦
 免にしたという。
1616年7月、家康の6男・松平忠輝が処罰された。
  松平忠輝(越後高田)が、大坂夏の陣に参加すべく、
 越後から上京の途中、
  近江守山で、将軍の旗本3人が、忠輝の行列の前を、馬
 で横切ろうとしたので、忠輝は、家臣にこれを切り殺さ
 せた。
  将軍の弟に対して無礼だという訳であるが、
  これを聞いた家康は、忠輝が一大名として、将軍の旗
 本を殺したのは、公儀の尊厳性を犯すものだとして、忠
 輝を上州藤岡に居させた。
  さらに、将軍・秀忠は、家康の死後ほどない1616年7月
 に、忠輝の領地を没収し、伊勢朝万熊(あさま)に配流
 した。
1616年10月、令・煙草栽培を禁止
  煙草の栽培を禁止する令を出した。
1616年、令・人身売買を禁止した。
1616年、令・欧船の来航を制限した。
  欧船の来航を平戸・長崎に制限した。
  南蛮貿易(スペイン・ポルトガル)を縮小させた。
1616年、家康が太政大臣に任じられた。
1616年、500石から1万石を対象に、大坂夏の陣と同じ内容
 を持つ軍役規定を明文化した。
1616年、江戸城の外堀が完成
  この頃、駿河台に神田川の流路が開通し、外堀が完成
 した。
1616年、江戸市街の建設を監督
  本田正信は譜代の重臣ではない。
  しかし、家康の側近として絶大な信任を得た。
  また、正信には戦場の武功は無かったが、領国経営に
 は大いに手腕を発揮し、関東の総奉行として代官の領民
 統治を指揮し、江戸市街の建設を監督した。
1616年、出版
  林羅山が、「丙辰紀行」を著わした。
1616年、徳川幕府が、外国人の国内自由通行を禁じた。
1616年、後金が建国された。
  清朝:1616年~1912年。12世紀に金を建てた女真族の
 末裔はヌルハチに指導され後金を建国し、
  その後継者のホンタイジは、1636年に、国号を清と改
 めた。
  李自成の乱によって、明朝は滅亡し、降伏した明の将
 軍・呉三桂の軍に導かれた清軍は、北京を占領し、ここ
 を都とした。
  清朝は、明の政治制度を受け継ぎ、官僚には満州人と
 漢人を併用し、対外的にも支配領域を広げた。
  康煕、擁正、乾隆の3代の世は黄金期であった。
  しかし、強大な中央集権が続いたために、近代化が遅
 れ、帝国主義諸国により半植民地化され、辛亥革命によ
 って滅んだ。
1616年、ガリレオが、地動説を唱えて、キリスト教の迫害
 に会った。
  この年に、キリスト教の異端審問所で審査され、場合
 によっては、当時よくある焚刑で、焼かれる危険のある
 ガリレオだった。
  ローマ法王庁から、以後、地動説は唱えてはならない
 というお達しで決着した。
  「それでも地球は回っている」と言うガリレオの言葉
 は有名。
  キリスト教の権力の傲慢な押し付けの社会だった。
  焚刑を多くして、好き勝手な事をしている。
  だから故に、キリスト教へのごますり学者たちも大勢
 いた。それだけ、キリスト教が怖かった。
  この頃のヨーロッパ中世のキリスト教に影響された学
 者(ごますり学者)たちは、
  「投げられた石が空を飛ぶのは、石に意思があるから
 だ」とか、
  「煙が低い方に漂(ただよ)うのは大地に恋情(れん
 じょう)を抱くからだ」とキリスト教が好む事を言った。
  キリスト教聖職者たちもこの類で、五十歩百歩だった。
  科学の正常な発展の足を引っ張るキリスト教だった。
1618年、三十年戦争が勃発(~1648年)
  この頃、ヨーロッパでは、キリスト教が原因となる宗
 教戦争が頻発し、激化している。
  この期間は、『三十年戦争』が戦われている。
  キリスト教のカトリックと、プロテスタントの争いで、
 この戦争は、誠に悲惨な長い戦争であった。
  ヨーロッパ人の3分の1の人が死んだという。
  この熾烈(しれつ)で、非人道的な酷(むご)い戦い
 は、ドイツを中心に深い傷跡を残した。
  終わることを知らない戦争で、戦いは長く続いた。
  天然資源に恵まれていないヨーロッパの地の戦争で、
 また、痩せた地のヨーロッパで、宗教を原因とし問題と
 した戦争だった。
  領主と農民の奪い合いの修羅の戦いであった。
  キリスト教のカトリックとプロテスタントは、そのど
 ちらもが「自分は神の正義だ」というキリスト教の教義
 を掲げて戦った。戦いは止む訳がなかった。
  そこに、被害者の農村の方々が居た。
  これは、略奪を目的とした戦いであった。
  この戦いの兵士たちは、妻や子供や馭者(ぎょしゃ)
 や召使や売春婦(従軍慰安婦)などの一団を引き連れ、
  さらに酒保(しゅほ)商人をも巻き込んだイナゴの群
 れのような大軍団となって、各地を襲った。
  進軍するにつれて、軍隊はまるで集団移住といった姿
 を呈するほどであった。
  ローラーで踏みつぶすように、後には何一つ残らない
 ほど奪い取り、荒廃した地をあとに残した。
  そこには、祖国愛など無く、
  欲望だけの略奪の望みのみが兵士たちを動かしていた。
  倫理観はまったくゼロ。軽蔑の世界だった。
  キリスト教の聖書が教える姿、「イスラエルの地で、
 困ると隣国の富を奪い取りに行く姿」とまったく同じだ
 った。
  キリスト教は、この行為を「(キリスト教の)神の義」
 があれば、行っても良いと教える。
  正義だと教える。
  キリスト教の歴史には、この様な戦争の歴史が、連綿
 と史実に残されている。
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2015年5月20日水曜日

(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年~1615年)

題:(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年~1615年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1515年5月、かぶき者を取り締まる
  「かぶき者」の風俗が、この年に、幕府の取締り令の
 対象になった。
  その風俗は、髪は大びたい、大なでつけ(総髪)、大
 すりさげ。
  口から下にひげを生やし、刀は長太刀・長脇差を差し、
 朱ざや、大つば、大角つばを帯していた。
  また、ある者は、冬は紺縮緬の大綿を入れて、丈は三
 里つまり膝の下ほどに短く、そこに鉛を入れて、裾がは
 ね返るようにしていた。
  そして、当時、流行の煙草を、長きせるで吸う。
1615年5月、大阪との講和が決裂し、ふたたび戦端が開かれ
 る状況となる。
1615年、大坂の役にあたり、徳川秀忠は軍役規定を定め、
 諸大名に動員令を下した。
1615年、大阪夏の陣
  冬の陣から4か月後に始まる夏の陣の結果は、既に、戦
 う前から分かっていた。
  城を出て戦う術(すべ)しか大阪方には無かった。
  真田幸村は、家康の本陣深く切り込み、家康の旗を崩
 して、家康を蒼くさせたが、遂に、幸村のほか、後藤基
 次、木村重成(しげなり)らの勇士は、多勢の徳川方に
 圧倒されて難波の露と消えた。
  徳川15万5000は、豊臣5万5000の兵を突き崩し、人口20
 万人と言われていた近世都市・大坂の城下町に突入して
 来る。
  淀殿は、千姫を徳川方に送り届けて、最後の助命を願
 ったが、既に、そんな願いは、功名を争い怒涛の如く押
 し寄せる大名連合軍の歓声に消された。
  わずかに、梨子地緋縅(なしじひおどし)の具足に身
 を包み、太平楽(たいへいらく)という黒駒を引き立て
 て、本丸南の桜門まで出たが、城中に寝返りの不穏な空
 気があるとのことで、すぐ引き返した。
  秀頼は、千畳敷御殿に戻ると、夕方、天守に登り、自
 刃を決意したが、側近が押しとどめた。
  淀殿と秀頼の二人は、二の丸の庭を山里に模して造っ
 てある山里輪の蔵に籠った。
  既に、城内は、相手に内応した放火で火の手が上がり、
 一面の火の海であった。
  キリスト教イエズス会の「日本年報」には、「逃げよ
 うとすると敵の刃に出会い、多くの人々が城壁から飛び
 降りて、地面の石にくだかれた」と記されている。
  慶長20年(1615年)5月7日、淀殿は蒸し暑い蔵で、ま
 んじりともせぬ一夜を明かした。
  太閤秀吉の権威をもって、秀頼を守り、何処までも徳
 川の風下に位置する事を嫌って、誇り高く生きた淀殿だ
 った。
1615年5月7日、関ケ原の恨み
  大阪城が最後を迎えている戦いの中にあったが、この
 日に、大阪城以外の場所である河内八尾(かわちやお、
 八尾市)で、一つの戦いがあった。
  大坂方の土佐勢が、東軍の藤堂勢と戦いを起こしてい
 た。
  「関ケ原の恨みぞ」と、死に物狂いで突進して行って
 散々に打ち破っていた。(参考:竜馬がゆく・1)
1615年5月8日、淀殿、秀頼・・自害
  翌8日、城内はすでに徳川方に押さえられ、城内検視の
 井伊直孝(いいなおたか)らの一隊が、隠れ家の蔵に鉄
 砲を撃ちかけて来た。
  千姫に託した助命の望みを砕く砲声と淀殿に聞こえた。
  速水甲斐守(はやみかいのかみ)が介錯に立つ。
  秀頼は、臆すること無く刃を腹に突き立てて、23歳の
 命を絶った。淀殿も秀頼に続いた(1567年~1615年)。
  火が放たれ、大野治長ら二人に最後まで従っていた男
 女30人も、それぞれに白刃を突き交わして、淀殿と秀頼
 に殉じた。
  「日本年報」は、
  「大阪城の巨大な天守は、火事が火薬庫に接すると空
 中に飛び上り、大きな爆音とともに破裂してしまった」
 と記した。
  燃え上がる大阪城の炎は、40キロ離れた京都からも望
 め、京都御所では公卿(くぎょう)らが清涼殿から色々
 な思いをはせて見ていた。
1615年5月9日、おねの嘆き
  翌9日、戦闘を逃れた人々が、京中に押し寄せた。
  京都東山の麓、高台寺(こうだいじ)に居たおねは、
 大阪の空に向かって静かに祈っていたという。
  大阪・夏の陣から京都に帰還した伊達政宗に宛てた「
 おねの手紙」は、
  「大阪の御事は、なにとも申し候はんずることの葉も
 御入候はぬ事にて候」とある。
  大阪の今日の出来事は何と言ってよいのか、申し上げ
 る言葉もございませぬ・・と、政宗に痛い心の内を告げ
 ている。
  夫・秀吉と築き上げて来た色々な事々も思っていただ
 ろう。
  おねは、この後、9年の年月の後、寛永1年(1624年)、
 高台寺に77歳の人生を閉じた。
1615年7月、禁中並公家諸法度・武家諸法度・寺院諸法度
  幕府は、豊臣氏が滅亡した後、「禁中並公家諸法度」
 を発布した(17条ある)。
  朝廷の権威増大を警戒し、抑制する目的があった。
  幕府は、天皇の政治上の行為の制限と、栄誉付与の権
 限も抑制し、幕府の承認を得て初めて有効と規定した。
  そしてまた、幕府は武家諸法度13条、および、順次、
 寺院諸法度も発布した。
1615年8月7日、一国一城令
  幕府は、一国一城令を制定した。
  立案者は、大御所の徳川家康だった。
  内容は、一国(大名の領国、後の藩)に大名が居住あ
 るいは政庁とする一つの城郭を残して、その他の城は、
 すべて廃城とする。
  ただ、大藩もあり、施行は弾力的だった。
  ただ、安土桃山時代に3000近くあった城郭が、約170
 まで激減した。
  そして、家臣団や領民の城下町への集住が進んだ。
  徳川氏の大名統制と支配が強化された。
  法令の目的から、西国の外様大名の地域に徹底された。
1615年9月、[ 貿易 ]、日本は鎖国ではない。
  日本は、金銀が豊富に産出した。
  その金銀で、日本は外国との取引を活発にした。
  大阪での戦いまでは、日本に大きな危機感が存在し、
 輸入品は主に武器などの軍需品であった。
  新興の武家が買い求めた。
  後に、豪商などの絹・毛織物・革製品が主要輸入品と
 なっていく。
  国内の戦争の危機が薄れて、輸入品も豊かな品々へと
 変わって行ったが、金銀産出量の減少も見えて来て、輸
 入品の品も見直されて行った。
1615年、豊臣氏のその後
  大阪城を逃れた人々、
  秀吉の血のつながりは絶えたのか?
  秀頼と千姫との間には子供は無かったが、側室に、国
 松という男の子と、もう一人の女の子が居た。
  7歳の女の子は、千姫の養女となった。
  しかし、8歳の男の子は捕らえられて刑に倒れた。
  その二人の母・松の丸殿は、国松の遺体を引き取り、
 誓願寺に葬った。
1515年、情報伝達手段として、三度飛脚による江戸~大阪
 の通信と、町飛脚が開始された。
1515年、魔女狩りで、ストラスブルグで5000人が焼かれた
 (1615年~1655年)、その他、ヨーロッパにはあちこち
 にある。
1615年、日本の鉄の優秀さ
  イギリスの東インド会社の日本商品に関する期末報告
 書に、日本製の鉄の優秀さが記されている。
  他の国の鉄は、まったく相手にされないと・・、
  日本製の優秀さを知った買い手は、日本製を求めたの
 で、外国製の鉄を買わないので、イギリスの東インド会
 社の成績が落ちたという。
  それほど、日本の鉄が最良のものだという事を示して
 いた。
  日本は、基幹の大切な銅や鉄の重要な原料生産国だっ
 た。
  日本は、その様な基幹の原料だけではない。
  この頃のキリスト教宣教師の記した報告に、日本の紙
 の種類の多さは驚くべき数だと言っている。
  このイエズス会の宣教師は、日本の紙の種類は、ヨー
 ロッパの10倍はあると言っている。
  鼻をかむティッシュの様な柔らかい紙まであると言っ
 て驚いている。
  当時、蛮なヨーロッパ人は、鼻をかむのに、服の袖で
 拭(ぬぐ)っていた。
  アメリカ人が、ティッシュを発明したと悦に入ってい
 るが、日本人は、すでに、300年以上も前に、ティッシュ
 を日常使っていたのだ。
  中国のマカオで、1637年に、別のイギリス人が、日本
 人がティッシュの様な紙を使っていることに驚いている、
 感心している。
  このイギリス人は、日本人が懐(ふところ)から小さ
 くたたんだ紙でスマートに鼻をかむ姿を見て、そして、
 その紙を「使い捨て」で処分した姿を見て、日本の文化
 の高さに感心して、おどろいている。
..
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(増補版)104C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1614年)

題:(増補版)104C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1614年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1610年、新田開発
  将軍の秀忠は、江戸府下の千駄木を遊巡して、農民の
 都築勘助に新田開発事業を担当させた。
1610年、日本で初めて、有田で磁器の焼成に成功した。
1611年9月、南蛮人の通商を許可。
  家康は、日本訪問を終えたスペインの答礼大使の帰国
 船を利用してメキシコとの交易を望んだが、同じ目的を
 持つ奥州の伊達政宗も、この機会を利用して家臣の支倉
 常長をスペイン船に同乗させた。
  家康は、、メキシコが遠く距離的な問題もあり、スペ
 インよりオランダとの関係を深めた。
1611年10月、ルソン人が来る。
1611年、交通政策。
  木賃宿の木賃が人3文、馬6文に定まった。
1611年、社会資本整備、
  徳川幕府により二ヶ領用水が完成した。
  多摩川などを水源とし、神奈川県川崎市を流れる全長
 32キロメートルの神奈川県で最も古い人工の用水路で、
 14年の歳月をかけて完成した。
1611年、角倉了以が、賀茂川に分流し、三条から伏見に至
 る高瀬川を掘り、舟運を開いた。
  これによって、大阪の舟が京都まで通うようになり、
 京都の物価が下がって、京都の町人を喜ばせた。
1611年、家康が、在京の諸大名から三か条の誓書を提出さ
 せた。
1611年、家康が、再度の秀頼の出仕を求めた。
  後陽成天皇が退いて、後水尾(ごみずお)天皇が即位
 し、その即位式に出席のため入洛した家康は、秀頼の出
 仕を求めた。
  秀忠の将軍就任の時、秀忠との対面を、秀頼に拒否さ
 れた家康は、今度は、秀頼の出仕を実現させたいと思っ
 ていた。
  また、天皇が変わったこの時は、上洛すべき強い理由
 があった。
  実現に際し、加藤清正・浅野幸長ら秀吉の旧臣らが、
 秀頼に寄り添っていた。
  家康と秀頼の会見は、二条城で行われたが、会見は思
 ったよりなごやかであった。
  秀頼はしっかり成長していた。
  家康の知っていた子供の秀頼とは、だいぶ違っていた。
  10数年ぶりの対面、秀頼は19歳、すっかり成人し、利
 発そうな面立ちに、70歳の家康に驚きがあったようだ。
  秀頼は、背が高く、学問や風雅など文人の側面でも優
 れていたという。
  また、人柄良く成長していたという。
  この数年後に、家康は、196大名19万4000の兵で、この
 秀頼を大阪城に取り囲むことになる。
1612年10月、キリスト教の禁止(陽暦9月1日説あり)
  幕府が、天領におけるキリスト教を禁止した。
  オランダが、ポルトガルの不穏な動きを告げた(密謀、
 秘密のはかりごとがあると・・)。
  キリスト教に温厚だった幕府は、その行動や実態が分
 かって来ると禁教に踏み切った。
  また、幕藩体制の組織づくりを阻害した。
  家康へ情報を提供していたウィリアム・アダムスとヤ
 ン・ヨーステンは、いずれもプロテスタントのイギリス
 とオランダ人だった。
  そして、家康の外交顧問となっていた。
  カトリックの行って来た事を説明もした。
  家康の禁教は、1612年の「岡本大八事件」が切っ掛け
 だった。
  そして、直轄地の禁教を1612年に発令した。
  そして、その翌年の1613年には、全国的な法令とした。
  家康の居る駿府の組織は、しっかりと組まれていた。
  駿府政権と言ってもいい家康の陣容は、上記の外交顧
 問のアダムスなどの他、
  駿府奉行衆(本田正純・安藤直次・大久保長安など)
 や、学者(林羅山)、京都所司代(板倉勝重)や、豪商
 (角倉了以、茶屋四郎次郎、後藤庄三郎などなど)
  しっかりし、海外事情を聞くとともに、
  ヨーロッパや東南アジア諸国との交流は盛んに行って
 いた。
  国書の交換や、来航許可証など、かなりの事を行って
 いた。
  鎖国で何も知らない、分からないは、プロパガンダで
 嘘の情報である。
1612年、幕府が、かぶき者を取り締まった。
1612年、家康が、鶴を天皇に献じた。
  家康が、鷹狩で獲った鶴を天皇に献じた。
  以後、慣例となった。
1612年、社会資本整備、利根川
  利根川の八町河岸が設置された。
1612年、新田開発、
  幕府の代官頭の伊奈忠次が、武蔵国葛城郡茂田井新田
 の藤右衛門に五ヶ条の新田開発定書を出した。
1613年4月、大久保長安事件・馬場八左衛門の直訴事件が起
 きた。
  江戸幕府内にも、武断派と文治派の派閥が形成され、
 幕府内部における権力をめぐる争いがあった。
  1612年の岡本大八事件で、キリシタン大名の有馬晴信
 は、6000両もの賄賂を贈っていたが、この時は、文治派
 勢力が衰退した。
  そして、1614年に至り、大久保長安が死去したのに乗
 じ、文治派は勢力巻き返しの謀略を実行に移した。
  長安は鉱山奉行を務めていたが、幕府への金銀の納入
 を誤魔化していると虚偽の報告を家康に行った。
  家康は激怒し、長安の腹心を捕らえたり、長安と伊達
 政宗が親しい関係から、謀反をたくらんでいるとかのド
 ロドロした事件が展開した。
1613年6月、公家諸法度が制定された。
1613年9月15日、慶長遣欧使節団が石巻を出帆した。
  伊達政宗の家臣・支倉常長が欧州に行った。
  1609年に、前フィリピン総督の一行が台風に会って、
 千葉県沖に座礁し、地元民が救助した。
  家康は親切にもガレオン船を送って送還した。
  これをきっかけにスペインとの交流が出来、常長の主
 君である伊達政宗はヨーロッパへ使節を送る事にした(
 貿易目的)。
  この話には、伊達政宗がスペインと軍事同盟を結んで
 討幕を行おうとしたという話も存在している。
1613年2月1日、全国的なキリスト教排除の宣言がなされた。
1613年6月、イギリス艦隊が、この時、平戸に到着した。
  そして、司令官のジョン・セーリスは、駿府城にて徳
 川家康に拝謁し、国王ジェームス1世の国書を捧呈した。
  そして、更に、江戸城へも赴き、将軍徳川秀忠にも謁
 見した。
  そして、この年の9月1日に、家康は、イギリスの東イ
 ンド会社へ通商を許可した。
  そして、イギリス商館が平戸に開かれた。
1614年2月、キリシタン大名と言われている有馬晴信は、
 この年の2月に、長崎に入港したボルトガル船ノッサ・
 セニョーラ・ダ・グラッサ号を焼き討ちした。
  そして、キリシタンの岡本大八事件が起きた。
1614年7月、家康は、京都、方広寺大仏殿の開眼供養の延期
 を命じた。
  そして、方広寺鐘銘事件が起きる。
1614年9月、キリシタン追放船が、長崎から出航した(国外
 追放)。
  しかし、法令を順守せず、キリスト教は宣教師を潜伏
 させた。
1614年10月、大阪・冬の陣
  196の大名が、19万4000人の兵が、家康72歳の時に、
 秀吉が没して15年のこの時に、大阪城を囲んだ。
  秀吉に恩義を感じる加藤清正、浅野長政、池田照正、
 前田利長らが、この2,3年の内に没して、大名間に世代
 交替が進んでいた。
  この時に、大坂方にはせ参じた大名は一つもなかった。
  関ケ原で領地を没収された者など、大阪城に入ったの
 は浪人たちに過ぎなかった。
  主だった武将は、真田幸村、長宗我部盛親(ちょうそ
 がべもりちか)、後藤基次(又兵衛、またべえ)、明石
 守重(掃部助、かもんのすけ)らであった。
  淀殿は、甲冑に身を固め、軍議にも参加したという。
  徳川方の陣容が整わないうちに、秀頼にも出馬を願っ
 て、先制攻撃をとるべきだとの意見に、淀殿の側近は反
 対した。
  城をもって徳川方を迎える事となった。
  大阪城方は約10万だった。
  秀頼を思った秀吉の作った堅い城は、二重、三重の深
 い石垣、堀をめぐらした総構えの城郭は、持久戦によく
 耐えた。
  10月に始まった冬の陣は、強固な大阪城に阻まれて、
 徳川軍はお手上げで、長期の露営にも疲れ、寒さに戦意
 も薄らぎ始めた。
  ここで家康は、淀殿の精神をいらだたせる作戦に出た。
  一晩中、大砲を撃って、眠らせない戦法もその一つだ
 った。
  それに加えて、外国から買い入れた飛距離の長い大砲
 で、淀殿の御座所を狙った。
  「徳川実紀(じっき)』には、
  大筒(おおづつ)は、淀殿の居間の櫓(やぐら)を打
 ち崩し、その響きは百千の雷の落ちたようだった。
  淀殿の側にいた女房7,8人がたちまち撃ち殺され、女
 童の泣き叫ぶおびただしい声に包まれた・・と、記して
 いる。
  淀殿は、すっかり気弱になり、和睦に反対する秀頼や
 側近の言う事も耳に入らず、急に和平論者となった。
  講和は、城の外郭である総構えの三の丸の破却を条件
 に成立したが・・、
  徳川方は、総構えをたった2日で叩き潰し、三の丸の堀
 や土塁を壊し、条件にない二の丸までも破却して、あっ
 という間に本丸の内堀だけを残す裸城にしてしまった。
  約束が違うと淀殿がいきり立っても、もう手遅れであ
 った。
1614年11月7日~8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結し
 たキリスト教宣教師と、主だった日本人信徒を乗せた船
 が出港した。
  日本の法律に従えば、日本は、ヨーロッパの様に酷(
 むご)いことはしなかった。
  しかし、日本の法律を無視して、日本に残り、潜行し
 たキリスト教宣教師が40人ぐらい居た。
  このキリスト教宣教師たちは、日本人をそそのかし、
 共に日本の法律を犯し、捕らえられ、罰せられる。
  責任は、キリスト教側にある。
1614年、大久保忠隣が改易された。
  大久保長安事件に連座し、これに便乗する形で浪人の
 馬場八左衛門が、忠隣が大坂の豊臣秀頼に内通している
 と誣告したため、家康の不興を買い、突如、改易を申し
 渡された。
  そして、近江国に配流されて井伊直孝に御預けの身と
 なった。
  大久保忠隣は武断派の総帥だった。
1614年、大久保忠佐が没した(1538年~1614年)
1614年、角倉了以が没した(1554年~1614年)
1614年、八橋検校が生まれた(1614年~1685年)
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2015年5月19日火曜日

(増補版)103C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1610年)

題:(増補版)103C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1610年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1608年1月、主たる大名に「松平」の姓を与えた。
1608年、永楽銭の通用を禁止し、貨幣の交換割合を定めた。
  交換割合は、永楽銭1貫文=銭(びたせん)4貫文=
 金1両を定めた。
1608年、姫路城が出来た。
1608年、新田開発・・、
  伊奈忠次が、武蔵国葛城郡下之村・宇喜新田などに対
 し、新田開発につき諸役を免除し、屋敷地・田畠免除地
 を与えた。
  伊奈忠次(いなただつぐ)は、家康の近習、初代の関
 東郡代。
1609年2月、家康が、西国大名の人質を倹せしむ、江戸に集
 めた。
1609年2月、有馬晴信が、幕府の許可を得て、台湾へ出兵し
 た。
  そして、明との貿易拠点を築こうとしたが、出来なか
 った。
  ところが、マカオで、晴信の朱印船の乗組員が争いを
 起こし、
  晴信の家臣と、乗組員の48人が殺されるという事件が
 起きた。
  晴信は、家康に仇討の許可を求め、事件のマードレー
 デーデウス号が、長崎に入港したため、
  晴信は、船長を捕らえようと多数の軍船で包囲した。
  ところが、船長は、船員を逃して船を爆沈させた。
  マードレーデーデウス号事件が起きた。
  このキリシタン大名の有馬晴信は、この事件が絡んだ
 岡本大八事件の贈賄の罪を問われ、
  甲斐国の初鹿野に追放処分となった。
  そして、死罪となり切腹した。
1609年8月、諸大名に対し、500石積以上の造船(軍船)を
  禁止した(これは、水軍力削減のため)。
  また、軍船だけでなく、外洋の航行可能な船による勝
 手な貿易を防ぐため。
  9月に、西国大名が持つ500石積以上の大船を没収した。
1609年11月16日、家康が、名古屋への遷府命令を正式に号
 令した。
  1609年、名古屋城の築城を命じ、1610年に着工。
1609年、松平正綱が、幕府の財政・会計の任にあたる。
1609年、交換割合を定めた。
  金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=京銭4貫文とし、そ
 の後、ふたたび、永楽銭の通用禁止令を出したが、十分な
 効果が上がらなかった。
  幕府の銅銭対策が軌道に乗るのは、寛永通宝の登場後
 である。
1609年、社会資本整備・木曽川の改修
  木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約50キロメ
 ートルにもわたる大堤防を築いた。
  「御囲堤(おかこいづつみ)」という。
  これは、西国勢力の侵入を防ぐという軍事上の目的も
 持ち、また、尾張の国を洪水から守ろうとの役割もあっ
 た。
1609年、社会資本整備・銚子舟入り、運河の開削。
  利根川の水運を利用した江戸への物資の運搬。
  幕府が、奥羽諸大名の普請役で銚子舟入り普請を行う。
1609年、家康の11男の徳川頼房を水戸に封じた(水戸徳川
 家の成立)。
1609年、オランダに貿易を許した。
  平戸に商館が開設された。
1609年、姫路城は一時、豊臣秀吉も居城としており、豊臣
 の城だった。
  秀吉の後、秀吉の弟・秀長、さらに、秀吉の正室・お
 ねの兄・木下家定が続いた。
  池田輝政は、1601年から城郭の大拡張工事にかかり、
 西国の守りを務めるにふさわしい城を築いた。
  5層の大天守が完成したのは1609年だった。
  輝政は、52万石だったが、一族も所領が与えられ、全
 所領は92万石になる。
  輝政は、『西国将軍』と呼ばれた。
  日本は、キリスト教諸国の様にむやみに殺さない、知
 恵を使って、この様に、戦いが起きないようにしている。
1609年、魔女狩りで、ラブールでは、4か月に600人が焼か
 れた。
1610年、本田忠勝が没した(1548年~1610年)
  本田忠勝は、長篠の戦い終了後、どこか物憂げであり、
 家臣がその訳を尋ねると、
  忠勝は「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思ってい
 る。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚
 痴をこぼしたという。
1610年4月、武家政令3ヶ条を発する。
1610年、幕府にある改易・転封の特権
  幕府と諸大名との相違は量的な問題であって、その権
 力の質的な差はない、
  また、幕府権力に王権としての性格はない。
  この頃、幕府は公儀、将軍は公方様と呼ばれた。
1610年、足尾銅山が発見された。
1610年、社会資本整備・川中島堰
  川中島藩主・松平忠輝が、川中島堰を築造した。
1610年、この年、近畿地方に大風雨の被害。
1610年、幕府、常備軍の多くを諸大名に依存・・、
  普請役も軍役の一種だった。
  普請や土木工事も重要な戦争行為であった。
  江戸幕府の直轄領は、体制確立後は400万石余り、日本
 全体は、ほぼ3000万石なので、その13.3%だった。
  幕府は、財政的に早くから脆弱だった。
  しかし、常備軍の経費負担は少なかった。
  幕府と外様大名との間には、開幕当初と幕末には、た
 しかに危うい状態・関係があったと言えるが・・、
  しかし、幕府の支配体制が確立する頃からは、幕藩関
 係は安定し、融和の状態に入っていた。
  つまり、大名も旗本も、公儀の権力に服属し、それぞ
 れの分限に応じて支配体制の形成に参与し、それによっ
 て近世社会の秩序が保持された。
  こういう状況から、幕府は常備軍の多くを諸大名、特
 に、外様の大半に依存してゆくことができた。
1610年12月、土井利勝が、家康の命令で老中となった。
  家康と瓜二つの顔立ちだったという。
  飛ぶ鳥を落とす勢いで出世したという。
  秀忠の赤ん坊のころからの側近として近侍した。
  故に、秀忠将軍との意思の疎通は抜群だっただろう。
1610年、江戸期は、キリシタン禁制で鎖国だというプロパ
 ガンダがあるが、その見方は間違っている。
  キリスト教の嘘宣伝に洗脳されている。
  家康は、貿易重視で、キリシタンに関しての取締りは
 甘かった。
  キリシタンは、この期に日本に広まっている。
  キリスト教に偏するNHKや放送大学は、ひたすら
 『殉教』だとかの弾圧する日本を大袈裟に放送したりし
 て、史実を間違った印象に伝え、放送ている。
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2015年5月18日月曜日

(増補版)102C3/3:気になった事柄を集めた年表(1605年~1607年)

題:(増補版)102C3/3:気になった事柄を集めた年表(1605年~1607年)
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1605年、家康の参謀
  林羅山が、1605年に、二条城で始めて家康にあった。
  家康は、羅山を信任して側近にした。
  羅山は、学問や文教政策のブレーンとして活躍した。
  羅山は、キリスト教に強く反対した。
  林羅山は、江戸前期の儒者で朱子学者。京都生まれ。
 藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、徳川家康以下四代
 の将軍に仕え、幕府の制度の樹立に尽した。
  上野に開いた私塾弘文館は、昌平坂学問所の起源をな
 した。著作は厖大。(1583年~1657年)
1605年、社会資本整備・築地井出
  加藤清正が、築地井出(熊本県菊池市)を開削し、小
 牟田新田を干拓する。
1605年、社会資本整備・芝原用水
  福井藩家老の本田富正が、芝原用水を開削した。
1605年、煙草が伝来した。
  幕府は、1609年に、その栽培を禁止する(タバコ流行)。
  この時代に流行していた喫煙について「煙草説」に、
  「海のかなたの遠い異国から、もたらされた新種の薬
 草であり、中国古来の医書にも記載がない」・・と。
  そして、当時噂されていた、たばこの効用について
  「病人が喫煙によって健康を回復し、たとえ健康な者
 でも、たばこを吸えば長寿が期待できる」と、
  そしてまた、
  「老若男女、誰でもたばこを楽しまない者はいない」
 と。
1605年以降、大阪城の軍資金の脅威
  徳川打倒の軍資金として使用されることが脅威だった。
  秀吉が貯めた金銀の財宝が、大阪城に大量に存在した。
  家康に味方した諸将に、秀頼の行く末を案じる事も、
 必ずしも、ぬぐえぬに存在していた。
  家康は、豊臣家の家運隆盛などを絡めて、その財宝の
 資金を使うように勧めた。
  淀殿は、秀頼の名をもって、伊勢遷宮を前にした宇治
 橋の架け替え、また、出雲大社・石清水八幡宮・醍醐寺
 など、次々に修造をして行った。
1605年、由井正雪が生まれた(1605年~1653年頃)
  江戸前期の軍学者で、
  江戸へ出て、塾を開き、楠流軍学を講義して門弟多数
 を得た。
  徳川家光の、1651年の死に際し,幕閣への批判と、旗
 本救済を掲げて、幕府転覆を企図した。
  しかし、事前に露見し、駿府で自殺した(1605-1651)
1605年、木内惣五郎が生まれた(1605年頃~1653年頃)
  近世の代表的な義民(正義のために人々のために身を
 ささげる人)。
  佐倉惣五郎(宗五郎)と通称される。
  下総国(千葉県)佐倉藩領公津村の名主。
  藩主の堀田氏の苛政に対して、領民の先頭に立って江
 戸藩邸への門訴(門前に集結して訴えを起こす事)した。
  老中へ駕籠訴などの訴願を行うも容れられず、
  そして、上野の寛永寺に参詣途中の将軍に直訴した。
  要求は認められたが、妻と共に磔,子供は死罪に処され
 た。藩は改易になった。
  全体または部分が創作という説もある。
  ただ、この話は民の意志の発現として民を勇気づけた、
 また、自由民権期には民の行動の元としての支えとなっ
 た。
  惣五郎の墓所がある成田市東勝寺は、宗吾霊堂として
 現在も多くの人々に信仰されている。
1606年9月、江戸城の本格的な工事が始められ、本丸・二の
 丸・三の丸のほか、外郭の石垣がほぼ出来上がり、
  秀忠は、9月に、新装なった本丸に入った。
1606年、慶長通宝を鋳造
  家康は、この年に、慶長通宝を鋳造した。
  1608年には、永楽銭の通用を禁止し、永楽銭1貫文=
 銭(びたせん)4貫文=金1両という貨幣の交換割合を
 定めた。
  家康は、幕府の所在地である関東から、永楽銭を整理
 して、慶長通宝を通用させようとした。
  永年にわたって通用していた永楽銭を整理する事は難
 しかった。
1606年、社会資本整備・保津川の開墾
  京都の豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)は、水
 利土木に優れた技術を持ち、1606年に、保津川の開墾を
 した。
1606年、角倉了以は、山城の大堰川に舟運を開いた。
1606年、江戸に住民が移る。
  江戸城拡張工事によって、この年に、宝田村・千代田
 村の住民は、日本橋・京橋方面に移った。
1606年、鯨漁の始まり
  和歌山県太地町の鯨漁が始まった。
  これは、この地の豪族・和田忠兵衛頼元(ちゅうべえ
 よりもと)が、この年に始めた。
  「古式捕鯨発祥の地」である。
  今も、イルカ追い込み漁が行われている昔からの伝統
 の鯨漁である。。
  オーストラリアの反捕鯨団体が反対するが、
  キリスト教では、鯨は知能があるからステージが高い
 動物だという。
  だから捕鯨はダメだという。
  オーストラリアに来たイギリス人・クックは、1707年
 だった(この鯨漁より100年も後である)。
  つまり、この時より100年以上さかのぼる昔からなのだ、
 太地町の鯨漁は・・。
  それを、自分勝手な宗教上の基準を押し付けて、陰湿
 な、正義に反する行為をする。
  この様な不正義は行為は、当然、するべきではない。
  この様に、古い時代から鯨は日本の食であり、文化な
 のである。
  キリスト教は、「聖職者が、豚肉を食べただろうと、
 魔女にされた可哀想な女性を拷問で責め、焼き殺すとい
 う歴史がある」が、このオーストラリア人は豚肉を食べ
 ている。
  あまりにも、自分勝手な押し付けをし過ぎる。
  オーストラリアは、今でも、カンガルーやコアラを無
 残に殺すことをしている。
  この現実をよく見て戴きたいと思います。
  https://www.youtube.com/watch?v=b7dmXwB8LBA&NR=1&feature=fvwp
1607年5月、朝鮮使節が、江戸に入った。
1607年、家康が駿府に移った(隠退)。
1607年、江戸城の天守閣、および、石垣が修築された。
  東国の外様大名を中心に命じ、ふたたび、江戸城の増
 築工事を続行した。
  この時、高さ10間、広さ20間四方の石垣の上に、五層
 の天守閣ができあがった。
  また、掘割り工事も行った。
1607年、伏見城
  伏見は、京都と大阪をつなぐ水陸の要地で、晩年の秀
 吉は、ここを隠居所としたが、
  家康も、5大老時代にここで政務をとった。
  覇権確立後、京都とともに直轄とし、
  伏見奉行についで、1607年には、伏見城代をもうけ、
 松平定勝をこれに任じた。
  家康の畿内経営は、京都と伏見を拠点として進められ
 た。
1607年、角倉了以が、富士川を開墾して、駿河の岩淵から
 甲府に至る舟行をひらき、
  また、天竜川を開墾して、信濃の諏訪に舟を通わせた。
1607年、徳川幕府が、鉄砲の統制を始めた。
  「仰渡され候御定の覚」には、以下の様に記されてい
 る(抜粋)
  ・鉄砲細工を余人へ相伝申すまじきこと、
  ・鉄砲薬の調合や、薬込、他言他言致すまじきこと、
  ・みだりに他国へ出してはならぬ
  ・諸国から鉄砲多く誂(あつら)えがあったら早速届
 出すべきこと、
  また、新筒を受け取り候はば届すべきこと、
  ・違背の者候はば、早速相届け申し上ぐべきこと・・
 など。
  鉄砲は、1607年から、幕府の許可の者のみの製造可能
 となった。
1607年、家康の9男の徳川義直が、尾張に封じられた(尾張
 徳川家の成立)。
1607年、林羅山が、「本草綱目」を入手し、
  徳川家康に献じた。
  以後、日本での自然観察の学に、大きな影響を及ぼす
 本になった。
1607年、アメリカのバージニア植民地は・・、
  北アメリカに設立された。
  イギリスの植民地であるが、1607年に、バージニア会
 社によって設立された。
  そして、1624年に、バージニア王室領植民地となった
 (1776年まで)。
  そして、1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ
 合衆国の最初の13州(いわゆる「13植民地」)の1つ、
 バージニア州となった。
  そして、アメリカの奴隷制度は、このバージニア植民
 地に、初めて入植したてのすぐ後に始まるという、軽蔑
 すべき奴隷の歴史がある。
  アメリカは、この様にアフリカの方々を虐(しいた)
 げた。そして、その行為で富を蓄積してきた。その様な国
 である。
  そして、その収奪で出来た街並みである。
  キリスト教の神が奴隷にすることを肯定し、「奴隷に
 せよ」と叫んでいる。聖書に記されている。
  その様な聖書で洗脳され、奴隷制度を忌むべき制度と
 感じていないキリスト教徒の行為であった。
..
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2015年5月16日土曜日

(増補版)101C3/3:気になった事柄を集めた年表(1603年~1605年)

題:(増補版)101C3/3:気になった事柄を集めた年表(1603年~1605年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1603年、江戸の建設
  江戸は、家康の覇権確立によって、徳川氏の城下町か
 ら幕府の所在する政権の中心地に発展した。
  これと同時に、諸大名の証人(人質)差出が多くなり、
 大名屋敷が儲けられるようになった。
  こうなると、大規模な城郭と、江戸町の建設が必要と
 なり、
  家康は、将軍宣下の直後から、諸大名を動員して、そ
 の工事に取り掛かった。
  まず、1603年には、諸大名を動員して、神田山(駿河
 台・お茶の水丘陵)を掘り崩し、
  その土で外島(豊島)の洲崎を埋め立て、市街地を拡
 張した。
  今の日本橋浜町から南の新橋辺りに至る下町は、こう
 して作られた。
  日本橋が掛けられたのもこの時で、商工業の中心にな
 って行く。
  こうして、市街地を拡張しておいて、翌1604年には、
 江戸城普請の計画を発表し、
  西国の外様大名を中心に、石船調達の課役を命じて、
 石材を伊豆から運ばせた。
1603年、豊臣家の処遇
  関ケ原から2年半の時が経て、家康が征夷大将軍になり、
 江戸に幕府が開かれた。
  ここに明らかなる主従の逆転が生じて、その状況が画
 定的になった。
  秀頼は、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(い
 ずみ)となり、合わせて65万7000石の一大名となった。
  家康は、豊臣家に配慮して、また、秀吉の遺言でもあ
 った孫娘の千姫を秀頼の正室として大阪城に嫁入りさせ
 た。
  ここに淀殿の、思い入れが生じた。
  「家康は、きっと、秀頼が成人すれば、将軍職を返上
 して、天下の支配権を秀頼に渡すだろう」・・と。
  その思いは、秀忠の長女の千姫が豊臣秀頼に嫁したの
 だからという思いから生まれていた。
1603年、この頃、出雲阿国が、歌舞伎を創始した。
1603年、オランダが、東インド会社を設立した。
1603年、イギリスのエリザベス1世が没した。
1604年、江戸城の普請計画が発表された。
1604年、社会資本整備・諸街道を改修した。
  東海道・中山道・奥羽道・北陸道・東山道の諸街道を
 修理した。
  この五街道を中心に、各所の諸街道を改修し、一里塚
 を置いて交通制度を整えた。
  交通政策としては、馬の駄賃制度を決めた(1里16
 文に定まる)。
1604年、社会資本整備・備前堀。
 利根川から取水する備前堀が開削される。
1604年、利根川から取水する天狗岩堰、越中堀、上野堀が、
  総社藩主・秋元長朝によって行われた。
  総社藩(そうじゃはん)は、上野(現在の群馬県前橋
 市元総社町)に存在した藩。
1604年、長崎に、訳官が置かれた。
1604年、貿易・糸割符の法
  糸割符の法を定めて、輸入生糸について糸割符制を実
 施した。
1604年、貿易・朱印状
  江戸幕府の内外の貿易船について、朱印状が無ければ
 行えないようにした。
1604年、朝鮮使節が入京した。
1604年、徳川秀忠の長男の家光が生まれた。
1604年、フランスの東インド会社が設立された。
  本来は、香料貿易なのであるが、収奪の植民地経営と
 なって行く。
1604年、ガリレオ(イタリア)が、落体の法則を発見した。
1604年、魔女狩りの強化令が、この年に、出された。
  キリスト教会の要望によりジェームズ1世は法律を作っ
 た。
  この頃、清教徒の支配下でピークに達した。
  キリスト教の支配権は強く、あらゆる階級を締め付け
 た。
1605年2月、家康が、大軍を率いて入京した。
  家康は、将軍となった2年後のこの時に、譜代・外様の
 諸大名、及び、旗本からなる十万余の軍勢をひき連れて
 入京し、京都市民を前代未聞と驚かせた。
  これは、実は、将軍職を秀忠に譲るためのデモンスト
 レーションであった。
  家康は、将軍職の辞退を、4月7日に、正式に申し出て
 いる。
  そして、16日には、秀忠が征夷大将軍に補せられてい
 る。
  家康は、60年に及ぶ忍耐と苦闘の結果、勝ち得た将軍
 職を、わずか2年で、秀忠に譲った。
  これは、戦国以来の下剋上の思想に、最後のとどめを
 刺したいとの家康の考えだった。
  そして、徳川氏の永久政権を天下に宣言するためであ
 った。
  特に、豊臣方では、徳川政権は、秀頼が成長するまで
 の一時的なもの・・という考え方が根強く、
  家康が将軍になった時は、秀頼が関白になるという噂
 があったくらいだった。
  こうしたムードの中では、徳川の永久政権の宣言は、
 1日も早い方が良いと、豊臣方に、あり得ない希望と、無
 理な要求の政権回復の期待を完全に断念させたいと考え
 だった。
  家康に将軍宣下がされた時の動揺した豊臣方が、秀忠
 の重ねての将軍宣下にもまた、一大衝撃を受けた。
  家康は、秀吉の高台院(正室のおね)を通じて、秀頼
 の上京を促し、秀忠の将軍宣下を祝賀するように催促し
 た。
  これは、豊臣・徳川の二氏の位置の転倒を、豊臣方が
 認めるかどうかの、確認のためのものだった。
  秀頼の生母・淀殿は、これを認めず断わった。
  家康の率いる十万余の軍勢は、その為のデモンストレ
 ーションであった。
  家康は、6男の忠輝を将軍の名代として大阪に遣わし、
 挨拶をさせ、礼は尽くしている。
1605年4月16日、徳川家康が、将軍職を秀忠にゆずる。
  2代将軍・徳川秀忠が将軍になった(1579年~1631年、
 将軍在任期間1605年~1623年)
  天下は徳川家が治めるというよりしっかりした認知で
 もあった。
  豊臣家に、その支配権が巡って来ることは無くなった
 という状況がしっかり生まれた。
  家康には、勿論、この時に、豊臣家を潰すという考え
 はなかった。
  一大名として格付けし、千姫が嫁した特別の大名とい
 う思いだった。
  それは、秀吉の妻・おね(出家して高台院)の気持ち
 と合致していた・・が、豊臣方は違った。
  秀忠が将軍となった後の家康は、駿府に退いた。
  政治の表舞台から引退し、ご意見番となった。
  秀忠の仕事を見守り、徳川幕府の成熟を見守った。
  秀忠は、家康が遠慮した大名の改易などの仕上げをし、
 よく家康の後の仕事を行っていた。
  「徳川実紀」に、
  「公(秀忠)、篤恭謙遜の御聴備らせ給い、御孝心た
 ぐいなくおわしましければ、御代ゆずらせ給いし後も、
 万の事ども、みな大御所(家康)の御教をうけとわせ給
 い、いささかも御心にまかせ給う事はなかりしとぞ」と
 ある。
1605年5月10日、家康が、秀頼に京都に来るようにと言う。
  秀忠が将軍職を継ぎ、そして、京都にいた時、家康は、
 秀頼が京都に来て秀忠に賀詞を述べる様にと言った。
  それは現状の認知と、その行動を求めたのだった。
  「資料総覧」の5月10日の項に、
  「家康、豊臣秀吉の後室・高台院(こうだいいん、お
 ねの事)をして、豊臣秀頼の状況を促さしむ」とある。
  おねは、家康の思い・願いを受け、秀頼の為でもあり、
 また、豊臣家の為でもあるこの事態を、上洛を促す使者
 に自らたった。
  結果は、家康やおねの思いの様にはならなかった。
  この時、淀殿は怒ったという。
  家康の気持ちは、この時が、転換点だったのだろう。
1605年11月5日、火薬陰謀事件。
  イギリスで、キリスト教のカトリック教徒が弾圧され
 ているという理由で、この日に、議場に出席する国王を
 殺そうとした。
  イングランド国教会だけが優遇される政策で、キリス
 ト教カトリックは弾圧されていると言った。
  イギリスの上院議場の地下に、大量の爆薬を仕掛け、
 国王・ジェームス1世を殺し、未遂に発覚したが政府を転
 覆しようとしていた。
..
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2015年5月15日金曜日

(増補版)100C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年~1603年)

題:(増補版)100C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年~1603年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1600年代(17世紀)、ヨーロッパでは、この頃、黒人の方々
 やインディオの方々が・・、
  猿や狒々(ヒヒ)と一緒にされ、そして、並んで陳列
 された。
  そしてまた、裸の野蛮人として、舞台の上を歩きまわ
 されたりしていた。
1600年1月1日、イギリスが、東インド会社の活動を開始し
 た。
  イギリスが、競争相手国を駆逐し、東インド会社を設
 立した。
  設立は、1日前の1599年12月31日だった。
  資本金は、わずか68万ポンドだった。
  設立された会社は、形の上は小会社だった。
  しかし、エリザベス女王は、強大な権力を与えた。
  エリザベス女王は、この会社へ、「喜望峰よりマゼラ
 ン海峡に至る(アフリカ南端からチリ南端に至る)国々
 島々と、向こう15年間、自由に、かつ、独占的に通商貿
 易を営むことを得る」という特許状を与え、
  また、法律作成や条約締結の決定権という強大な権力
 を与えた。
  これは、イギリス国そのものだった。
  これによって、この後、インド及び東方諸国との植民
 地経営利益と貿易利益とを上げて行く、というより、植
 民地からの搾取・奪い取りだった。
  イギリス王室は、また、徴兵権を与え、士官任命権を
 与え、土候との交戦権まで与え、これ等の権利を使って
 インドのムガル皇帝から徴税権をもぎ取り、裁判権・関
 税免除の特権など好き勝手に権利を奪い取り、綿布貿易
 などで自由に利益を上げ、土地の支配までもやるという、
 やりたい放題状態だった。
  インド征服のプラッシーの戦いを1757年に行うなど、
 赤子の手をひねるようにインドを奪って行った。
  強欲に、その要求する所は、限りなく広がった。
  この小会社は、開設の翌日から始まる1600年から直ち
 に活動を開始し、
  イギリスは、この事によって、莫大な利益を得た。
  故に、インドを「王冠に輝く燦(さん)たる宝玉」と、
 利益供給国を讃えて言った。
  イギリスは、この後、インドを完全に征服しきった。
  この会社は、30年間の間、2割5分という考えられない
 超高配当を出し続けた。
  インドの方々を虐げて搾取した金をイギリスへ流し続
 けた。
  投資の原資は、何と、800倍以上になるという驚くべき
 率であった。
  この会社が、あまりにも莫大な稼ぎ方をして、巨万の
 富が堂々とイギリスへ流れ込んだので、本国・イギリス
 のロンドン市民でさえ、驚きと貪欲と嫉妬に満ちた憎悪
 に、興奮した。
  この荒稼ぎの陰で泣き、命を落とした植民地の方々が、
 インドの方々が、あまた居た。
  何故、イギリス人が紅茶を好むのか?
  それまでは、普通の人のレベルでは見る事も出来なか
 った紅茶。
  やっと得た人は、舐めるように使用したという紅茶が、
 イギリス中の巷にあふれた。
  搾取と、血と涙があった。
  本来は、植民地の方々のものなのに、インドの方々の
 ものなのに。
  そして、この小会社の株は暴騰し、上げに上げた。
  そして、株価が上がれば上がるほど、おかしなことに、
 株主数は減少して行った。
  莫大過ぎるほどの利益が、さらに一部の者の占有する
 株へと、会社へと・・なって行った。一部の者の独占で
 ある。強欲な人々が独占に・・うごめいた。
  庶民の不満が沸騰した。 
  会社の特権を取り消せ・・と、世論が沸いた。
  その攻撃に対し、莫大な賄賂の金が流れ、嵐が吹いた。
  攻撃を消し、避けるために、その効果がありそうなす
 べての者へ現ナマが投じられて行った、不埒な人間ども
 だった。
  大臣、キリスト教聖職者、王家へ金貨の袋が渡された。
  特権期間が1615年で切れるのだが・・それも、その延
 長も・・莫大な金貨の袋の賄賂(わいろ)で延長された。
  イギリス王室は金貨の袋に敗け、許可した。
1601年1月、伝馬制度。
  家康が、大久保長安らの代官頭のグループに命じて、
 東海道諸宿の東海道53次の駅の伝馬制度
 を定めた。
1601年3月、家康が、関東地方を検地した。
1601年、板倉勝重が京都所司代に任命された。
1601年、安南・呂宋が、書を家康に呈した。
1601年5月、「金銀は政務第一の重事」をいう考えから、金
 銀制度を確立して、伏見に銀座を置き、金貨及び銀貨(
 慶長金銀、大判・小判)の鋳造を始めた。
1601年、江戸が大火となり、江戸全町が焼失した。
1601年、秀吉に、1581年に滅ぼされた鳥取城主だった豊国
 が、この年に、家康から但馬国七美郡に6700石を貰った。
1602年、井伊直政が没した。
1602年5月、二条城が築かれた。
1602年、家康が、外様大名の88名を改易した。
  西軍に組した外様大名88名は、改易によって取り潰し、
 その領地416万1084石を没収した。
  これと同時に、毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣ほか2名
 の大名の領地216万3110石を削り取って、
  輝元は安芸広島から長門萩に、景勝は陸奥会津から出
 羽米沢に、義宣は常陸水戸から出羽秋田に移した。
  没収総高は、93名の、632万4194石という膨大な石高と
 なった。
  家康は、これ等の没収地を、東軍に属して功労のあっ
 た外様大名に配分して、転封する一方、直轄領に組み入
 れたり、徳川一門・譜代大名の取立てにあてた。
  関東領国には、すでに万石以上の領地を持つ40名の上
 級家臣が居たが、
  家康は、覇権確立を同時に、彼らを一斉に独立の大名
 とした。
  これとともに、万石以下の譜代家臣の中から、加封に
 よって20名の者を大名に取り立てた。
  彼らも、三河譜代が中心を占めている。
  他に、新しく帰属したり、新規に取り立てた大名が8名
 あり、合わせて28名となった(譜代大名第二群)
  こうして、戦争直後から1602年までに、実に、68名の
 徳川一門=親藩・譜代大名が作り出され、徳川氏の権力
 は飛躍的に強化された。
  豊臣権力(戦後、秀頼は摂河泉65万石の地方大名とな
 った)との隣接地帯に、徳川一門をはじめ、武功派の有
 力譜代大名を配した。
  徳川一門をはじめ、武功派の有力譜代が、外様大名に
 対する第一線に立たされ、征服地の新領地の経営に専念
 するようにした事は、彼らが、次第に、徳川政治の中枢
 から離れていくことを意味した。
  戦争の終結は、武功派の栄光ある舞台に幕を下ろし、
 彼らを無用の長物と化して行った。
1602年、検地。
  この年の常陸検地は、「慶長の苛法」と言われて、か
 なり厳しいものであった。
  1歩1尺の空地も残らず石盛をつけ、ことごとく検地
 を実施した。
  そのため、川に身を投じたりする者も出た。
  多賀郡大窪村の検地は、697石の村高が一躍1038石に増
 加した。
  1604年には、武蔵・相模・遠江・三河・越後などに徳
 川検地を実施したが、これは「辰の御検地」(辰年にあ
 たる)と言われた。
1602年、新田開発
  伊奈忠次、遠江国豊田郡・阿久呂太五郎ら新田百姓へ
 諸役免除の手形を与えた。
  さらに、武蔵国横見郡山下村の松山・上田氏旧臣、山
 崎隼人ら7人の開発人へ9石から32石を与えた。
1603年2月12日、徳川家康に征夷大将軍の宣下があった。
  家康が征夷大将軍となり、江戸城を開き、江戸幕府が
 始まった。
  家康は、全国二百数十家もあった大名から一銭の徴税
 も行わなかった。
  これは、幕府の経営を税金に頼らないで維持できると
 考えたことと、
  徴税が不平不満の元になる事を恐れたためであった。
1603年2月12日、諸大名に江戸市街の拡張工事を命じた。
  関東総奉行・青山忠成と、内藤清成の連署で、関東公
 私領の農民に対し「定書」を公布した。
1603年2月12日、小笠原一庵を長崎奉行に任命した。
1603年12月、京都に十人組の制を敷いた。
1603年、家康が、関東の公私領の農村に対し発布した。
 この法令は、公私領の農民が、代官・旗本の不法によっ
 て、村を立ち退くときは、例え、その主人から届け出が
 あっても、みだりに連れ戻してはならないとの内容であ
 った。
1603年、関ケ原の戦いから3年後に、
  宇喜多家は、家康によって改易されたが・・、
  秀家は、伊吹山中に逃げ込んだ。
  そこで、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、
 哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に匿った(40日間)。
  その後、変装して、薩摩国の島津義弘などを頼って落
 ち延び、今の垂水市辺りに匿われた。
  しかし、これも家康の知るところとなり、
  宇喜多秀家は、島津家の家臣に身の安全を守られなが
 ら、家康の居る駿府へ向かった、関ケ原の戦いから3年の
 後だった。
  島津家は、義を貫いて秀家の助命を嘆願し、秀家の妻・
 豪姫の実家である前田家も強くこれを求めた。
  すでに、社会が落ち着いて秀家を刑死させる理由は無
 くなっていた。
  秀家は、死罪は免れた。
  秀家は、久能山に幽閉後、1606年、江戸から480キロの
 伊豆最南端、八丈島に流された。
  豪姫の願いは叶わなかった。
  豪姫は、実家の金沢へ行く、異母弟の藩主・利常(と
 しつね)は温かく迎えてくれた。
  化粧田1500石と、金沢城下の西町に屋敷を、豪姫らは
 貰った。
  連れて行った二人の姫は、前田家の養女となって縁付
 いた。
  豪姫は、八丈島へ金銀・小袖・薬などを送った。
  豪姫の、夫を思う心情に、藩主・利常は、前田家から
 も生活必需品を八丈島へ送れるように幕府に嘆願を重ね、
 そして、認められた。
  二人は、便りが結んでいた。
  長い年月が流れ、豪姫は、1634年、61歳で没した。
  秀家は豪姫の死後、21年の後、八丈島で、流人として
 84歳で没した。
  江戸から来た代官は、秀家を陣屋に呼んで御馳走をし
 た。
  美味しそうに食べた秀家を見て、この代官は白米一俵
 を贈ったという。
  前田家は、ある時、八丈島に使者を送って、秀家の救
 済を幕府に願い出る件を、秀家へ打診をしたという。
  秀家は、この期に及んでという心境だったのか、この
 打診を断わったという。
  豪姫が亡くなった後も、豪姫の遺志を大事にした前田
 家は、藩主が変わっても、1年おきに白米70俵、金子35両、
 それに衣類、雑具、薬品などを、絶えることなく、秀家
 の御赦免の日までと送り続けたという。
  明治の御一新で大赦となり、明治天皇は、明治6年、東
 京板橋に、宅地19900坪を与え、前田家も金1000両を送っ
 て、一族の労をねぎらった。
  それは、豪姫が、八丈島の夫や一族たちに思いを馳せ、
 金沢で死んでから、実に239年も経ていた。
..
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2015年5月14日木曜日

(増補版)99C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年)

題:(増補版)99C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1600年、関ケ原の戦いの後について・・、
  石田三成・小西行長は刑死となった。
  関ケ原の戦いで敗れ、捕らえられた石田三成、小西行
 長は京都で刑死した。
1600年、そして、薩摩武士の勇猛な姿が関ケ原の戦いの場
 にあったが、
  関ケ原の戦いでの島津氏は、出陣した人数は1000人ほ
 どだった。
  しかし、生還したのは、その70人前後であった。
  この激烈な戦い、93%の兵士が戦死してしまうという
 その勇猛さ。
  この勇猛さで、島津藩士たちは、敵中を突破して行っ
 た。
  家康が、身の危険を感じ、立ち上がり、馬に跨(また
 が)り、刀を抜いたぐらいだった。
  この薩摩兵の勇猛さは、薩摩藩の「郷中教育」に起因
 しているという。
  その郷中教育は、年齢によって「小稚児(こちご)」、
 「長稚児(おせちご)」、「二才(にせ)」というグル
 ープに分け、それぞれを町内単位で組織を形成し、
  グループごとに「頭(かしら)」というリーダーを置
 いて、リーダーの統率のもと、一日の大半を一緒に過ご
 し、それが幼少の時から血肉に染み込む教育となってい
 るという。
  このため薩摩兵の結束力は極めて強く、リーダーの指
 示であれば、死をも厭(いと)わない、戦闘集団が形成
 されて行ったのだという。
  これは、日本人の気質の中に流れている血でもあるが、
  因みに、関ケ原の戦いをしたのは島津義弘で、兵はわ
 ずかだったという。
  薩摩の留守を守っている兄の島津義久は、この弟の義
 弘に援軍を出さなかったという。
  また、この弟の島津義弘は関ケ原で陣をかまえたが、
 積極的に戦わなかったというが・・、
  西軍の中心に居る石田三成が、関ケ原の前の小競り合
 いの時、島津兵を見殺しにしようとしたためだという。
1600年、家康の戦後処理は・・、
  外様大名の大規模な改易を行った。
  家康は、直ちに戦後処理を行い、外様大名の大規模な
 改易・減封・転封を始めた。
1600年、毛利氏へは、厳しい処置が行われた。
  毛利家は、過酷すぎる処置を受けた。
  毛利輝元は、一時は中国の11ヶ国の大領主だった。
  その毛利が改易された。
  毛利輝元の関ヶ原の合戦における形式上の存在を、徳
 川家康から追及され、10ヶ国の版図から防長(山口県)
 2ヶ国に縮小されてしまった。
  石田三成にかつがれ、西軍の形式上の旗頭として大阪
 城に在城したが、兵は動かしていなかった。
  ただ、分家の毛利秀元の隊のみが、関ケ原に出陣した
 が、戦闘には参加しなかった。
  だがしかし、この様な毛利氏でも、戦いの後、家康は、
 毛利家に対して、過酷すぎる処置をとった。
  それまでの毛利氏の版図は、今日の分県で言えば、広
 島県、山口県、島根県、それに岡山県と鳥取県の一部を
 含む、170万石と広大なものであったが・・、
  居城も、それまでの広島城から徹せしめて、日本海岸
 の山口県の一つの荻に押し込められた。
  しかし、この時、諸地方に散在していた主立つ家臣は、
 そのほとんどが輝元について来た。人望のある氏であっ
 たのだろう。
  そのため、藩初から、極端な財政困難に遭遇した。
  輝元にすれば、「自分は微禄になったから、以前の様
 な膨大な家臣団を養う事が出来ない。
  だから身を引いてほしい」・・と、自発的に主家と縁
 を切ることを切望したのだろうが、多くの家臣たちは、
 無禄でも・・と言ってついて来た。
  輝元は微禄に苦渋し、遂に幕府に対し、とてもこの少
 禄(36万9000石)ではやってゆけない、大名であること
 を返上すると、異例の上訴を考えたほどだったという。
  しかし、当初は倹約のみであったが、主従ともに貧に
 耐え、そして、1719年には人材養成制度を創り、改革を
 始め、産業を興し、干拓事業も進めた。
  この毛利家の主従の結束の固さは、この時の「泣きな
 がらでも、主について来た」という辺りから始まるのだ
 ろう。
  幕府の考えは、便利の良い所に府城を置くと、また、
 瀬戸内海を制し、山陽道を制し、京へ手を伸ばすかもし
 れないという事を恐れ、遠い日本海の漁村へやってしま
 ったと考えられる。以後、山口はすたれた(参考:街道
 は行く1)
1600年、小早川秀秋は・・、
  小早川秀秋は狂死したという、関ケ原の合戦で西軍を
 裏切った小早川秀秋は、
  良心の呵責からか乱心し、26歳の生涯を閉じたという。
  秀吉の子・秀勝が死んだ後、秀吉の正室・おねが、実
 兄の木下家定から辰之助、すなわち後の小早川秀秋を貰
 い受けた。
  おねは、秀秋を溺愛したという。
  15歳で、丹波亀山城の城主にもなった。
1600年(慶長5年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置して、
 佐渡金山や石見(いわみ)銀山と並んで、直轄地(天領)
 とした。
  これらの鉱山は、徳川幕府の財政を支えた。
1600年、関ケ原の戦いの直後のこの時、倉敷が天領になっ
 た。
  これは西国大名への監視が目的だった。
  例えば、前年の1599年に宇喜多家の騒動があった。
  これを、当時、筆頭大老だった徳川家康が裁断し、宇
 喜多家に恩を売った。
  これが、関ケ原の戦いで宇喜多家が東軍に味方した因
 がある。東軍勝因の一つがここにもあった。
  倉敷のある備中国(岡山県)の大部分を天領化して、
 備中国総奉行の下に置いた(1617年まで続く)。
  倉敷は、主要港湾を持つので天領として残った。
1600年、社会資本整備、領芳溜池(現在の大和高田市)が
 造られた。
1600年(17世紀初頭)、板倉勝重が「板倉氏新式目」を制
 定し、親の仇討を認めた。
16世紀後半、日本人が合戦に用いていた鉄砲数が、この当
 時、ヨーロッパのどの国が持っていた鉄砲の数よりも多
 かった。
1600年代(17世紀)、日本の技術水準は、この時の当時で
 も、世界が注目していた。
  今・現代でも、日本は、iPS細胞や青色発光ダイオード
 など、世界の人々を救う基本的で、重要な技術を発明す
 る日本人であるが、
  当時も、その様な技術が抜きん出ていた日本だった。
  基幹の資源である銅において・・、
  日本の銅は、優れていた。
  ヨーロッパの銅よりも・・良質であった。
  また、価格も、その技術的に優れていることから安価
 であった。
  遠いヨーロッパに運んでも、また、非効率な帆船によ
 る運搬の時代であっても、
  その運送コストが吸収できるほど安価な基幹の資源で
 あった。
  しかし、その使われ方は、戦争ばかりしているヨーロ
 ッパにおいて、日本の銅は武器に使われた(日本は装飾
 品など)。
  そのためにもまた、武器であるため、良品質が求めら
 れた。
  日本の銅は、銅製の鋳造大砲に使われた。
  また、日本の鉄も、同様に、良質で安価だった。
  当時、大砲の性能が、国の行く末を決定したと言って
 よい時代だった。
  腕力が支配するヨーロッパの野蛮性が求めたのだった。
  国の運命である制海権を制したのは、大砲の性能だっ
 た。その性能向上に求められた。
  スペインの無敵艦隊は、イギリス艦隊の大砲の性能に
 敗けたのだった。
  南米で卑劣な事を仕切った非人間的スペインの終末だ
 った。
  当然、イギリスは、優秀な大砲の輸出禁止をしていた。
  それでも、スペインは、卑劣な方法でイギリスの大砲
 を求めた。
  スペインは必死に購入しようとし、闇取引(やみとり
 ひき)でも何でもしでかした(そこには、自分では作れ
 ないスペインがいた)。
  しかし、時代の流れは、イギリスとなり(スペイン無
 敵艦隊の駆逐、1588年)、これからイギリスの時代とな
 る。
  そして、可哀想な事に、イギリスによるインドの方々
 や、中国の方々が殺され、搾取される時代へと移って行
 く。
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2015年5月13日水曜日

(増補版)98C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年9月)

題:(増補版)98C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
慶長5年(1600年)9月3日、戦機が熟して行く。
  天下を分ける戦いになると予想している家康。
  世の流れを完全に掴んでいた家康。
  この家康が、満を持して9月1日に江戸城を出陣した。
  関ケ原の戦いまで、あと15日。
  江戸城に、26日間、居て、諸大名へ、そして、諸将へ
 書状を出し、今まで、豊臣の世に居た武将たちの気持ち、
 そして、動向を掴んでいた。
  そして、家康の考えを伝えていた。
  家康の世に代わるその必然な動きがあるだろうか、そ
 して、なるだろうか・・と、その動きも見つめて来てい
 た。
  そして、この時、その動静を掴み、ここだという9月1
 日に、江戸城を出陣した。
  岐阜城を陥落させた諸大名・諸将たちが、家康の出陣
 を、今か今かと待っていた。
  ここも家康の読みだった。
  上州の小山会議(1600年8月23日、慶長5年7月24日)で
 打倒三成で結束した面々たちだった。
  福島正則・田中吉政・加藤嘉明・細川忠興・藤堂高虎・
 池田輝政・堀尾忠氏・山内一豊・一柳直盛・浅野幸長・
 京極高知・黒田長政・井伊直政・本田忠勝といった東軍
 34000が、岐阜城をまたたく間に攻略し、
  続けて翌日には、黒田・藤堂・田中の軍勢が大垣城の
 赤坂に陣取っていた。
   一方、西軍も、着々と関ヶ原へと結集して来ていた。
  大谷吉継が、この日・9月3日、関ヶ原西南にあたる山
 中村に到着した。
  宇喜多秀家も、8,000の軍勢を率いて大垣城に入った。
  ついで7日には、毛利秀元、吉川広家、長宗我部盛親、
 長束正家らの率いる約30,000の大軍も、続々と伊勢から
 美濃に入り、南宮山の東麓に陣を敷いた。
慶長5年(1600年)9月8日、三成も、この日・8日に、大垣
 城に入った。
  病気を理由に形勢を見守っていた小早川秀秋も、14日、
 松尾山に着陣した。
慶長5年(1600年)9月11日、家康が、清州城に入った。
慶長5年(1600年)9月14日、岡山本陣、
  岡山本陣は、家康が最初に本陣所としたところである。
   この日(14日)の正午頃、家康は、70000余の東軍の軍
 勢が結集し、大垣城に対面している赤坂陣の高地である
 ここ岡山に本陣を構えた。
  そして、早速、家康は、軍議を開き、
  三成らの拠る大垣城には押さえの兵を置くだけで、東
 軍の主力は佐和山城を攻略し、
  その勢いで大坂城を攻める作戦を確認する。
  この情報は、同じく軍議を開いていた西軍に流れる。
  三成は急きょ軍議を中断し、
  東軍を関ヶ原で食い止めるべく、夜のうちに大軍を関
 ヶ原に移動させることを決意した。
  この時の家康の考えは、豊臣恩顧の武将が多く、機の
 熟した今、即戦即決で行く・・と考えていた。
   こうした動きの裏で謀略が進行していた。
  西軍・吉川広家は、東軍・黒田長政に密使を送り、君
 主・毛利輝元の無罪と、毛利家の領国安堵を条件に戦闘
 の不参加を約束する。
  さらに、松尾山に着陣した小早川秀秋には、東西両軍
 からの勧誘の手が伸びていた。
  東軍側は、黒田長政を通じて工作を進めており、14日
 の時点で、秀秋は内応を約束し、長政のもとに人質まで
 出していた。
  一方、西軍側も、同じ14日付けで安国寺恵瓊、大谷吉
 継、石田三成、長束正家、小西行長の5名連署による誓書
 を届け、懐柔を図っていた。
慶長5年(1600年)9月14日、杭瀬川の戦い
  この頃の大垣城では、岡山に立ち並んだ馬標や白旗を
 見て家康の着陣を知り、士卒の間に動揺が起こっていた。
  三成の臣・島左近勝猛は、ここで一戦して西軍の威勢
 を示して士気を回復すべしとして、蒲生郷舎と共に兵500
 を率いて打って出た。
  杭瀬川を渡った島左近らの一隊は、東軍・中村一栄の
 陣前で稲を刈って挑発した。
  これに対して一栄の部将の一色頼母が一隊を率いて柵
 から出戦し、島隊に襲いかかった。
  島隊は、わざと敗走し、川を渡り中村勢を東岸に誘い
 込んだ、そして、伏兵と共に挟み撃ちにして頼母以下30
 余人を討取った。杭瀬川の戦いである。
   この戦いを岡山から見ていた家康は、はじめは称揚し
 ていたが、次第に不機嫌となって、「大事の前にこの様
 な小戦で兵を損じるとは何事か」と怒り、本多忠勝を派
 して兵を収めさせた。
  家康は、「明夜明けに当所を発して佐和山城を破り、
 大坂城に進む」という情報をわざと三成方に知らせる様
 に間者を放った。
  岡山本陣では家康が、大垣城の動静を見守っていた。
  ついに午後7時頃、降りしきる雨の中を、石田三成隊
 を先頭に西軍勢40000が、兵7500を大垣城に残し、西に向
 かって進発した。
  闇に包まれた雨の中を松明を消し、馬の口を縛り、息
 をひそめて泥道を進んで行った。
  先頭の石田三成が、関ケ原の笹尾山に布陣したのが、
 日にちが変わった15日の午前1時頃と言われている。
  最後尾を進んでいた宇喜多秀家が布陣を終えたのが、
 午前5時頃とされる。
  実は、これは家康の策にかかった行動だった。
  杭瀬川の戦いの後、西軍では、早速、軍議を行ってい
 た。
  そして、意見は二つに割れていた。
  戦慣れした宇喜多秀家は夜襲を主張した。
  「徳川軍はかねてよりの行軍にて、疲れきっている、
 この機を逃さず、夜襲を仕掛けるのがよい」と。
  島津義弘も同調した。
  これに、石田三成と小西行長は反発した。
  「夜襲は危険である。家康がそれほど簡単に夜襲を受
 けるほど、無策とも思えぬ」と。
  もう一つの意見が、大垣城での籠城案だった。そして、
 秀頼公と毛利中納言(輝元)殿の出馬を待とうという案
 だった。
  軍議は紛糾の様相を呈し、長引いた。
  そして、夕刻頃、西軍の軍議の席にもたらされた報が
 あった。それが・・、
  「東軍は、佐和山から大坂に向かう動きあり」と。
  三成は、戦略の変更を余儀なくされた。
  そこで、積極策が取られる事となった。
  西軍は、ただちに大垣城を出撃し、関ケ原で東軍の動
 きを止めるとなった。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、関ケ原の戦い
  徳川家康の総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将と
 して石田三成を中心とする西軍の戦いがはじまった。
  豊臣家の家臣同士の戦いと言ってもいい戦いだった。
  秀頼の出陣を要請した西軍であったが、秀頼は出陣せ
 ず、立場上は静観の立場であった。
  戦闘時間は約6時間、死者は両軍合わせて8000だった。
  この日、関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込めていた。
  家康から先鋒を命じられていた福島正則は、機会をう
 かがっていた。
  濃霧の中、両軍は2時間ほど対峙し続けた。
  霧が晴れて来た頃、その福島隊の前を井伊直政と松平
 忠吉の小隊が出て行った。
  福島正則の家臣の先頭部隊長の可児吉長が呼び止めて
 るが、かまわず井伊は陣形を見るとか言って松平ともど
 も福島隊の前方へ張り出した。
  そして、勝手に、直政の小隊は、西軍の主力である宇
 喜多隊に向けて突然発砲を開始した。
  宇喜多隊も直ちに応射。
  そこへ、井伊隊の抜け駆けに激怒した福島隊の鉄砲隊
 800名が宇喜多隊に突撃した。
  ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。
  この関ケ原の戦いで、最大の激戦と言われているのは
 東軍の福島隊と西軍の宇喜多隊の争いだという。
  双方ともが二、三度も退却した一進一退の激闘と『関
 ヶ原軍記大成』に書かれている。
  石田隊に黒田隊、細川隊が攻めかかり、
  石田隊は、木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎ
 ながら、鉄砲や大筒などを用いて必死に東軍部隊を抑え
 たという。
  そして、やや遅れて大谷隊に、藤堂隊、京極隊が襲い
 掛かり、吉継は巧みな用兵で、三倍近い藤堂隊、京極隊
 を何度も押し返したという。
  また、小西隊には、古田隊、織田隊がそれぞれ攻めか
 かり互角だったという。
  家康本隊3万は、戦闘には参加していなかったという。
  前線に床几を移した位であったという。
  実際に戦を見て書かれた『慶長記』には、
  「笹尾山陣地跡敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの
 声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜
 となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干
 戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う」とある。
  三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦してい
 ない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。
  また、戦いに加わらない島津隊に応援要請の使いを出
 したという。
  西軍は、総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万
 3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に
 は運んでいた。
  兵力数で上回る東軍は、西軍一部隊に対し、複数の軍
 勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、また
 間断無く攻め立てていたという。
  戦局は時間と共に、東軍優位に傾き始め、特に、石田
 隊は猛攻を受け、柵の中に退却していた。
  ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利
 秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親
 隊6,600ら、計4万7,000が、まだ、動かずにいた。
  徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦でき
 ずにいたと書く資料もある。
  結局、毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦しなかった。
  そして、この直後に起きる小早川秀秋の裏切りもあっ
 て、これが西軍の敗因となった。
  小早川秀秋は、松尾山の山奥に布陣し、初めは両軍の
 戦況が落ち着くまで動かない考えであった。
  正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が、
 動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射
 撃を加えるように命じた。
  迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し
 て松尾山を降りた。
  ここに、小早川隊1万5,000の大軍は、東軍に寝返った。
  なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は、「
 盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命
 令を拒否し離反した。
  小早川隊は、山を駆け降りると、大谷隊の右翼を攻撃
 した。
  ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、
 赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に
 呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。
  予測し得なかった四隊の裏切りも加わり戦局は一変し
 た。
  吉継は自刃して果てた。
  大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤
 堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げ
 ている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を
 始めた。
  ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。
  小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の
 家康本隊もようやく動き出し、東軍は、西軍に総攻撃を
 かけた。
  やがて3倍以上の東軍勢の前に、西軍は壊滅して行く。
  宇喜多秀家は、小早川秀秋と刺し違えようとするが、
 家臣に説得され苦渋の思いで敗走した。
  宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊は、早々と壊
 滅し、小西行長も敗走。
  石田隊も、粘りに粘り続けたが重臣が討死していて、
 とうとう壊滅した。
  三成は伊吹山方面へ逃走した。
  こうしたなか、戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲
 された。
  ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「
 島津の退き口」が開始された。
  島津義弘隊1,500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開して
 いた福島隊の中央に突撃を開始する。
  西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの
 反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は
 強行突破に成功した。
  更に、寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・
 井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破した。
  この時点で、島津隊と家康本陣までの間に遮るものは
 無くなってしまった。
  島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立
 ち、馬に跨って刀を抜くほどだったという。
  しかし島津隊は、直前で転進、家康本陣をかすめるよ
 うに通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始し
 た。
  松平・井伊・本多の徳川諸隊は、島津隊を執拗に追撃
 するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みた。
  決死の覚悟を決め、死兵と化した島津隊将兵の抵抗は
 凄まじく、
  追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。
  この際、島津方では島津豊久、阿多盛淳が捨て奸とな
 り玉砕。
  次に追撃した松平忠吉は、申の中刻に狙撃されて後退、
 負傷。
  本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬。
  徳川諸隊は、島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官
 が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決して
 いたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどか
 ら深追いを止めた。
  一方の島津隊は、多数の犠牲者を出しながら、兵も80
 前後に激減しながら辛くも撤退に成功した。
  西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢
 は、何も戦わせずして撤退を開始した。
  浅野幸長・池田輝政らが追撃した。
  毛利は、長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受けて無
 事に戦線を離脱できた。そして、伊勢街道から大坂方面
 へ撤退した。
  殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は、
 少なからざる損害を受けるが辛うじて退却に成功。
  安国寺勢は、毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、
  長宗我部勢と長束勢は、それぞれの領国である土佐と
 水口を目指して逃亡した。
  西軍諸隊の中でまともな形で撤退できたのは彼らだけ
 だった。
..
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2015年5月12日火曜日

(増補版)97C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年6月~1600年9月)

題:(増補版)97C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年6月~1600年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
慶長5年(1600年)7月2日、秀吉が、秀頼が生まれるまでは、
 政権移譲の対象者・次期の者としていたのは秀次(秀吉
 の姉の子)だった。
  その秀次一族が、悲惨な最期を遂げた。
  これは、豊臣家臣団にとって大きなショックだった。
  豊臣家への信頼が一気に崩れて行った。
  各大名は連座を恐れた。
  また、その様な中に、豊臣家と密着する三成らの文治
 派がいた。
  それに対し、朝鮮の役で活躍し、苦労した武断派、
  恩賞もなく、苦労しかなかった武断派と、この面でも
 溝を深めて行った。
  (賞罰をめぐる対立が深刻なものへ)。
  家康は、この豊臣諸将の中の武断派の諸将へ接近した。
  そしてまた、その中で家康は、太閤蔵入地を通じて文
 治派による専制・集権体制の解体を計った。
  蔵入地とは、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与
 える知行地に 対して、代官を派遣して、直接支配を行っ
 て年貢・諸役などの徴収にあたった地を指す(領地への
 内政干渉)。
  それを、家康を糾弾した前田家は、徳川家に屈したし
 ・・、
  これで、豊臣政権内の五大老制度が完全に崩壊し、空
 文と帰した。
  その様な世の中において、会津征伐が起きた。
  直江兼続(上杉家の家老)は、はっきりと返書に書い
 た・・、
  「景勝は、秀頼様を裏切るようなことは致しません。
 誓紙も何通も書きましたし、
  言われている事は、雑言ゆえ、上洛を致しません・・
 と、家康の命令を拒絶している。
  事は、これでおさまらず・・、
  家康は、非常に立腹したという・・
  会津征伐で・・世にまた火が付いた。
  家康は、秀頼の命だとした。
  軍資金を、もらったと・・、
  家康は、この日の旧暦7月2日に、江戸城に入った。
慶長5年(1600年)7月2日、一方、三成は・・、
  家康が江戸へ下るとの報を受け、家康の留守中を狙っ
 て挙兵し、
  西国の大名を糾合して家康を討ち果たす決意を固め、
  そして、動き出した。
  また、上杉景勝にも・・、
  常陸・南陸奥一帯に54万石という大きな領地を持つ強
 力な大名・・鉄砲隊も持つ大大名である佐竹義宣との間
 に秘密同盟を結んでいた。
  白河口から攻め込んで来るだろう家康を、挟撃しよう
 という計画であった。
  その計画は着々と進められていた。
  そして、家康より先に景勝が挙兵して行き、それに応
 じて佐竹家も挙兵して行く。
慶長5年7月2日、三成が、家康討伐を大谷吉継へ打ち明けた。
  吉継は、初め、徳川家康の側だった。
  徳川邸の家康を警固したり、前田年長の時は越前まで
 出兵したりと。
  上杉討伐軍にも参加していた・・
  その時、吉継は、宿陣していた垂井から、三成の居る
 佐和山へ呼び返された。
  そして、三成に打ち明けられたことが、家康征討の意
 図だった。
  吉継は、無謀だと三成に告げた。
  しかし、吉継の再三の説得にも関わらず、三成の意思
 は堅かった。
  説得の目的が達せず、吉継は佐和山を辞し、垂井へ戻
 った。
慶長5年(1600年)7月7日、家康は、東下していた武将を江
 戸城へ招集した。そして、会津出陣の期日を7月21日と定
 めて軍令を下した。
慶長5年7月8日、家康の家臣・榊原康政を先鋒として出陣し
 た。
  また、徳川秀忠も、全軍37500にて、同日、出陣した。
慶長5年7月11日、大谷吉継が、三成に同心した。
  垂井へ戻った大谷吉継は、上杉討伐の東征への出発を
 一日延ばして考えた末に、三成の西軍の一員として行動
 しようと、三成の考えに同心し、佐和山へ入った。
慶長5年7月12日、西軍の最初の軍議が佐和山で開かれた。
  最初は、三成と吉継のみだった挙兵勢力が、安国寺恵
 瓊らの勧誘によって、大阪城の三奉行らも加わり拡大し
 て行った。
  三成は、家康討伐の意思を話し、同調を得た者を佐和
 山へ招き入れ、石田・安国寺・増田・大谷で軍議を開い
 た。
  その内容は・・、
  (1)毛利輝元に西軍の総大将になってもらう。
  (2)三成の兄の正澄を愛知川に派遣し、東征する諸大
 名の引き止めをする。
  (3)織田秀信に、豊臣秀頼の後援を要請する。
  (4)大坂にいる東征している諸大名の妻子の帰国を禁
 じて人質とする。
  そして、この日に、三成と吉継は、前田玄以、増田長
 盛、長束正家の三奉行に連絡を取り、毛利輝元に対して
 出馬を請う連署状を出した。
慶長5年7月16日、書状を受け取った輝元はすぐさま上坂し、
 毛利輝元は、大坂城西の丸に入った。
  西軍の総大将として豊臣家安泰への切り札とも言える
 大大名の毛利家の大坂入りで、西軍の指揮は大いに高ま
 った。
慶長5年7月17日、翌日の17日には、家康の留守居衆を退去
 させ、この日の日付で、前田玄以・増田長盛・長束正家
 の三奉行の名によって「内府ちがひの条々」を公表し、
 諸大名へ交付した。
  これは、家康に対する十三か条に渡る家康の罪状を列
 挙した弾劾状だった。
  西軍の挙兵の宣言で、決起への参加要請だった。
  三成と吉継の思いが、家康に対する豊臣公儀(こうぎ、
 おおやけのこと)の追討となった。
  そして、家康に着いた大名の人質は、加藤清正の妻や、
 黒田如水・長政父子の妻、水谷勝俊の子らは脱出してし
 まった。
  そして、細川忠興の妻・ガラシャは自決してしまった。
  また、輝元の従兄弟で重臣である吉川広家は、家康に
 対抗することに強硬に反対し、
  家康の重臣の榊原康政に釈明の状を出したりしていた。
  しかし、家康弾劾文に同調した諸大名が、続々と大阪
 に参集して来た。
  毛利秀元、小早川秀秋、宇喜多秀家、島津義弘と豊久、
 立花宗成、小西行長らの諸将を集めた総兵力は、95000に
 達していた。
慶長5年7月18日、毛利輝元が、伏見城に開城要求した。
  家康が勝手に私物化して使っていた伏見城の開城を要
 求した。
慶長5年7月19日、伏見城への攻撃が開始された。
  伏見城を守るのは、家康の家臣・鳥居元忠。
  元忠は、開城拒否をした。
  西軍は、その拒否姿勢により、即座に、伏見城攻撃を
 開始した。
  城を守る元忠の兵はわずか1800。
  攻める西軍は、宇喜多、毛利、小早川、島津等4万。
  容易に落城すると思われた伏見城。
  強硬な抵抗にあって、攻城戦は時を要した。
慶長5年7月21日、家康の率いる後軍31800が江戸城を出陣し
 た(上杉討伐へ向かって)。
慶長5年7月22日、西軍が、丹後の田辺城の攻撃を開始した。
慶長5年7月24日、伏見城の鳥居元忠の急使が、小山の家康
 の元に、「三成挙兵」の報を伝えた。
慶長5年7月25日、報が伝えられた翌日、東軍の家康は、陣
 を張っているここ小山で、諸将を集め、軍議を開いた。
  家康は、三成挙兵の事実をありのままに諸将に伝え、
 そして、言った・・、
  「諸将の妻子は、みな大坂にいるため、気がかりで思
 い悩むことは道理だ。
  すぐに、この陣を引き払い、大坂に上り、宇喜多や石
 田に味方しても、決して恨み申さぬ。邪魔立ても致さぬ。
  我らの領内では、宿所や人馬のこと、少しもぬかりな
 く命じてあるから、心置きなく上ってもよい」と。
  そこに集まった諸将は、みな愕然とし、言葉を発するこ
 とはできなかった。
  そこに、福島正則が進み出てこう言った。
  「それがしは、この様な事態に直面した時、妻子の情
 に引かれ、武士の道を踏み外す事があってはならぬと考
 え致す。
  家康殿のため、身命を捨てて、お味方申す」と。
  黒田長政、浅野幸長、細川忠興、池田輝政らはもちろん、
 集まっていた諸将は、次々と、家康に味方することを申
 し出た。
  さらに、遠江掛川城主の山内一豊が、「東海道を攻め
 上るにあたって、城と兵糧が必要になりましょう。
  それがしの城を、家康殿に進上つかまつる」と。
  それが引き金になり、沼津城・中村一栄(なかむらかず
 ひで)、興国寺城・中村一忠(なかむらかずただ)、駿府城・
 中村一忠、横須賀城・有馬豊氏(ありまとようじ)、浜松
 城・堀尾忠氏(ほりおただうじ)、吉田城・池田輝政(いけ
 だてるまさ)、岡崎城・田中吉政(たなかよしまさ)、西尾
 城・田中吉政、刈谷城・水野勝成(みずのかつなり)、清
 州城・福島正則(ふくしままさのり)の諸城が、家康に差
 し出される事となった。
慶長5年7月26日、軍議が終わった諸将が、西上を始める。
  福島、池田を先鋒として東軍諸将が西上した。
慶長5年7月29日、手こずる伏見城に、石田三成も自ら出馬
 した。
慶長5年8月1日、伏見城陥落
  三成が参着した伏見城に総攻撃が加えられた。
  多勢に無勢。持ちこたえていた元忠も力尽き、この日
 に至り、元忠はじめ本丸に居た350人の城兵は、ことごと
 く討死した。
  また、三の丸を守っていた松平家忠と800余の兵も討死
 し、ついに伏見城は落城した。
慶長5年8月5日、家康が、江戸城に帰着した。
  江戸城へと帰還した家康は、26日間もの間、そのまま
 江戸城に留まった。
  そして、各所へ、手紙を出した。
  政治工作を推し進めた。
  家康の戦い方だった。
慶長5年8月14日、東軍の先鋒隊が、この日に、清州城に到
 着した。そして、家康の出馬を待っていた。
  そして、家康から、
  「先鋒諸将、すみやかに美濃に進撃し、家康に対する
 忠誠を見た上で、江戸を出陣する」・・との報を受けて
 奮起した。
慶長5年8月22日、東軍が、岐阜城を陥落させた。
慶長5年9月1日、岐阜城陥落の報を聞いた家康は、それ以上
 の進撃・攻撃を止めるよう指示し、この日の9月1日、江
 戸城を出陣した。
..
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