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2016年11月12日土曜日

(増補版)453E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年7月~1887年8月)

題:(増補版)453E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年7月~1887年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年7月12日、洋画家・山本芳翠(やまもとほうすい)が、
 フランスから帰国した。
  伊藤博文などの肖像画が著名で、日本洋画の父と呼ば
 れている。
  1850年(嘉永3年)7月、明智町(現在の岐阜県恵那市)
 で生まれた。
  幼少期、絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写し
 たと、後年芳翠は回想している。
  寺子屋である安住寺で、象先和尚に学んだ。
  1865年、15歳の時に、ふと北斎漫画を手に入れ、感銘
 し、絵の道を志した。
  1872年(22歳)横浜に出る、困窮する、ふと町で飾ら
 れていた絵に生きているようだと感銘し、その門に入る、
 洋画に転向する。
  1878年(明治11年)28歳、パリ万国博覧会を機にフラ
 ンスに留学、絵画技法を学んだ。
  1887年(明治20年)(37歳)に帰国し、版画家・合田
 清とともに画塾「生功館」を主宰。
  1894年(明治27年)(44歳)に黒田清輝がフランスか
 ら帰国すると、黒田が結成した白馬会に参加した。
  代表作に「裸婦」(1880年ごろ)、「浦島図」(1895年
 ごろ)がある。
  アカデミックな画風で、フランスで本格的に修得した
 画法を黒田に先だって日本に伝え、多くの洋画家を育て
 た功績は大。
  1906年(明治39年)、56歳で没した。
1887年7月15日、板垣退助、参内して遂に受爵す。
  (7月8日に、天皇陛下の特使が来たときに、天皇陛下
 の御心に感激して、受爵を決意していた)
1887年7月16日、黒磯駅~郡山駅間が開業した。
  日本鉄道の黒磯ー郡山間が開業し、上野駅~郡山駅間が
 7時間45分で結ばれた。
  東北本線の線区上の起点は東京駅であるが、1885年の
 開業以来、東北本線在来線列車の始発駅は上野になって
 いた。
1887年7月18日、第27回 条約改正會議
  外務大臣の井上馨外相が、この条約改正会議で、裁判
 管轄条約案修正のため本会議を、12月まで延期すること
 を発表した。
1887年7月23日、東京火災保険会社が設立された。
  後の安田火災海上保険(現、損害保険ジャパン)
  1887年(明治20年)に、柳川清助らが、有限責任東京
 火災保険会社を設立し、
  1888年の翌年、日本初の火災保険会社として営業を開
 始した。
  その後、大火続発で業績が悪化、
  1893年に、安田善次郎が再建を図り、株式会社となっ
 た。
  他方、同年・1893年、安田善次郎らにより帝国海上保
 険株式会社が設立、海上保険中心に経営基盤を築いてい
 った。
  1944年(昭和19年)東京火災保険、帝国火災海上保険、
 第一汽罐(きかん)保険の3社が合併、安田火災海上保険が
 発足した。
  1950年代の第二次世界大戦後は貿易の進展に伴い、海
 上保険の拡大策を打ち出し、
  1960年代には、モータリゼーションの到来のもと、リ
 スクを伴う反面、大きな成長も期待できる自動車保険の
 積極拡大策を展開した。
  火災保険でも、長期総合保険を戦略的商品として新市
 場を開拓した。
  1971年(昭和46年)に、販売網強化を目ざし、プロ代
 理店養成のための代理店研修生制度も発足した。
  1976年には、新宿の本社ビル内に安田火災東郷青児(と
 うごうせいじ)美術館(現損保ジャパン東郷青児美術館)
 を開館。
  1980年代に入ると、顧客の貯蓄型商品志向のもと、積
 立保険が最大の種目に成長、同社の総合金融機関化が急
 速に進展していった。
  2002年(平成14年)日産火災海上保険と合併し、損害
 保険ジャパンとなる。
  合併前の資本金584億円(2002年)、正味保険料9636億
 円(2002年)。[
1887年7月25日、文官試験試補及見習規則(ぶんかんしけん
 ほおよびみならいきそく)が公布された。
  アメリカも猟官制度(公職の任免を党派的忠誠や情実
 によって決める政治慣行のこと)を改革し、
  公開競争試験を規定した公務員法(ペンドルトン法)が
 1883年に成立した。 
  日本でも、この年・1887年に、「文官試験試補及見習
 規則」が公布され、
  1888年の翌年に、奏任官には高等試験(高等文官試験。
 いわゆる高文)、判任官には普通試験が実施されるように
 なった。
1887年7月26日、谷干城が、農商務相を辞職した。
  裁判管轄条約反対で辞職した。
  7月3日、農商務相・谷干城が、裁判管轄条約案に反対
 し、条約改正は国会開設後に延期せよとの意見書を伊藤
 首相に提出し、7月26日に辞職した。
1887年7月29日、不平等条約の改正交渉を無期延期を政府が
 決定し、井上馨外相が、各国公使へ通告した。
  不平等条約の改正に失敗。
1887年7月30日、官吏服務規律(かんりふくむきりつ)を改
 正した。
  この法律は、一般官吏の義務を規律した勅令で・・、
  1871年、太政官職制設置に伴い、官吏の休暇や勤務時
 間について太政官達が出され、
  1879年には、服務心得が布告された。
  1882年に、次いで、自由民権運動への対応に苦しむ地
 方官統制のため、地方巡察使派遣規定に特色をもつ行政
 官吏服務紀律が制定された。
  1885年には、さらに、内閣制度創設に伴い、
  1887年、これを全文改正され、官吏服務紀律となった。
  軍人、警察官、裁判官などはその対象外にあった。
1887年7月、洋画家・原田直次郎が、ドイツから帰国した。
  東京外国語学校で、山岡成章や高橋由一に洋画の指導
 も受けている。
  ドイツ・ミュンヘンでは、森鴎外と親交し、鴎外の『
 うたかたの記』の主人公・巨勢は、原田がモデルとされ
 ている。
  帰国の翌年1888年、本郷の自宅にに画塾鍾美館(しょう
 びかん)を設けて、後進を指導し、
  1889年、明治美術会創立に参加した。
  翌年1890年の第3回内国勧業博覧会には、大作「騎竜観
 音」を出品した。
  鴎外の『於母影』などの挿絵や、『めさまし草』の表
 紙絵も描いている。
  代表作「靴屋のおやじ」「騎竜観音」など。
1887年8月7日、木曽の三川の治水が行われた。
  木曽三川分流工事(きそさんせんぶんりゅうこうじ)
 は、1887年(明治20年)~1912年(明治45年)の25年間
 にわたって行われた木曽三川完全分流工事。
  オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケが作成した計画
 に基づいて施工された。
  木曽川、長良川、揖斐川が、この工事によって、完全
 に3つの川が分離された。
  三川の流域は、古くから洪水による水害が多く、三川
 も大洪水によって分流・合流を繰り返していた。
  地元の陳情により、明治政府は、10人の御雇い外国人
 を招聘し、この技師のうちヨハニス・デ・レーケが、1877
 年に派遣された。
  翌年・1878年(明治11年)に、三川と周辺の地形を調
 査し、
  1885年(明治18年)に、分流計画書を作成、
  1887年(明治20年)に、着工された。
  木曽三川の完全分流工事の主な目的は、以下の3つだっ
 た。
  (1)洪水対策
  (2)輪中堤防内の排水改良
  (3)堀田の改善
1887年8月8日、気象台測候所条例が公布され、東京には中
 央気象台が設置された。
  この頃、気象事業の効果が認められる至っていたが、
  そして、そのための施設が、全国各地に、測候所など
 が設けられていたが、
  私設であったり、県営であったり、管理運営がまちま
 ちだった。
  このため、1887年に、国営の気象台・測候所、府県立
 の測候所、民営の測候所の設置し、
  および、それぞれの業務に関する規律を、体系的に定
 めた気象台測候所条例を公布した。
  東京気象台は、このとき中央気象台と改称された。
  初代台長は、測地学者で、気象官僚の荒井郁之助(いく
 のすけ)で、当時の定員は25人であった。
  気象観測、測器検査、天気予報、暴風警報のほか、地
 震、地磁気、空中電気(大気電気)の験測を行った。
1887年8月10日、逃亡犯罪人引渡条例が公布された(明治
 二十年勅令第四十二号)
  逃亡犯罪人引渡条例(勅令第42号)は、逃亡犯罪人引
 渡法(昭和28年法律第68号)により廃止された。
1887年8月11日、福陵新報(ふくりょうしんぽう)が創刊さ
 れた。のちの九州日報。
  『福陵新報』は、玄洋社の頭山満を中心に福岡で刊行
 された新聞。
  福沢諭吉の門弟で、『時事新報』で健筆を振るってい
 た川村惇が主筆として迎えられた。
  1898年(明治31年)、『九州日報』に改められた。
1887年8月14日、伊藤博文が、黒田清隆に大隈重信を外相に
 つけるよう大隈と交渉させる。
  大隈は、議会開設後、8年以内の政党内閣制樹立を条件
 に出し、伊藤はこれを拒否し、説得失敗した。
  第1次伊藤内閣(だい1じいとうないかく)が、1885年
 12月22日~1888年4月30日まで続いたが、
  この年、および、この後、自由民権派による三大事件
 建白書(1887年10月)や、大同団結運動(1887年~1889
 年)、保守中正派(天皇親政派)と見られた谷干城農商
 務大臣の辞任を招くなど、政府批判が一気に高まった(
 「明治20年の危機」)
  そこで、伊藤は、やむなく井上を辞任させて、政敵と
 言える大隈重信と黒田清隆をそれぞれ外務大臣・農商務
 大臣として入閣させ、保安条例を制定して自由民権派へ
 の対策に乗り出したが、
  憲法・皇室典範の制定事業に専念するために、
  1888年(明治21年)に、総理大臣を辞して新設の枢密
 院議長に転じた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ダーウィンの進化論
.
1859年11月24日、ダーウィン(50歳)が「種の起源」を出
 版した(11月22日説あり)
  ダーウィンは、エディンバラ大学で良い結果を残せず、
  1827年(18歳)に、父は、ダーウィンをキリスト教の
 牧師とするために、ケンブリッジ大学クライスト・カレッ
 ジに入れた。
  ダーウィンは、、キリスト教聖職者なら多くの研究の時
 間があるからと、父の提案もあって、この考えを受け入れ
 た。
  しかし、この学校でも必修ではない博物学や昆虫採集に
 熱中した。
  そして、音楽や狩猟を趣味とした。
  この大学は、1831年(22歳)、「中の上」の成績で卒業
 した。
  そして、この年・1831年の末、イギリス海軍の測量船ビ
 ーグル号に乗ることとなる。
  ビーグル号では、幾度か、艦長と意見対立をした。
  後に、ダーウィンは言う、「艦の中では、艦長に対し
 て 通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねな
 かった」・・と。
  1832年12月(23歳)には、ダーウィンは、寄航した島か
 ら若い男女を連れ帰るという怪しい行動をしている。
  ダーウィンは、この島の島民は、穴を掘ったような所に
 住み、まるで獣(けだもの)の様だと書いている。
  (この頃のイギリスの探検隊などは、この事例のように、
 まったく簡単に、現地の方々を拉致している。
  まったく有色人種蔑視で、「人間ではない」とキリスト
 教のバチカンは言ったが、この様な行為・対応が普通に行
 われていた)
  当時、囚人流刑地だったガラパゴス島には、1835年9月
 (26歳)に着いた。
  鳥類などを収集した。
  1836年10月2日(27歳)に、ファルマス港に帰着した。
  5年の航海だった。
  1837年6月(28歳)に、航海記を書き終えた。
  翌年・1838年(29歳)、姉が結婚すると、ダーウィンも
 結婚を意識し始め、
  この頃のダーウィンの結婚観がノートに記されている・・、
  「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせ
 よ犬よりまし」・・、
  「本のためのお金が減る、おそろしいほどの時間の無
 駄」・・、
  その翌年・1839年1月(30歳)、結婚する、
  そして、この年に、ビーグル号の艦長の著作と合わせ
 て、航海記録を出版した。
  この頃、ダーウィンは、「種が固定されていない」と
 いう証拠に気付いた。
  (キリスト教の神の創り賜いし種は固定されていない、
  キリスト教の神の創ったものは、その後に変わるとい
 う考え方だった)
  当時、この考えに至る種々の論があり、ダーウィンは、
 この論理に気付いた。
  この考えの細部を洗練する調査をした、10年以上、こ
 の考えはあたためられた。
  ダーウィンの生計は、父や叔父の残した財産を運用し
 て成立していた。
  1849年~1859年(40歳代)、ダーウィンは、この40歳
 代の時に、キリスト教を棄てている。
  1854年(45歳)、再び、種の理論の研究を始めた。
  生物は存続のために争い、これを繰り返すという考え
 を持った(自然選択説)。
  この考えは、当然、その争いに勝つ強いものが残るとい
 う一元的考え方だった。
  また、突然変異について見落としていた。
  また、生存に役立ちそうにないクジャクやゴクラクチ
 ョウの長い尾羽は、鳥に審美眼があるので発達するので
 はないかと考えた。
  新たな種が形成されることを「種分化」と呼んだが、
 この問題は追求する事を避けた。
  (彼の死後、自然選択だけで種分化は起きるのか?と
 いう議論が起こった)
  1858年7月(49歳)、共同論文の形で、学会で代読発表
 された。
  1858年8月(49歳)、学会誌として印刷された。
  翌年・1859年(50歳)、学会長は、演説で、革命的な発
 見は何もなかったと言い、ダーウィンの発見を見落とし
 た。
  また、ダブリン大学の教授は、「新しい考えは、すべて
 誤りだった」とさえ言った。
  1859年11月22日(50歳)、ダーウィンの本が、ジョン・
 マレー社から発売された。
  ダーウィンは、この書の中で、「進化」を意味する「
 変更を伴う由来」という言葉を使った。
  そして、キリスト教に強く影響されたダーウィンは、
 やはり、「キリスト教の教義・考え方」の影響を受け進
 化論を説いた。
  キリスト教は、平和を求めるとしても「シャローム」
 という考え方・教義で、
  「異端の完全撲滅」「異教徒の完全撲滅」の後に平和
 が来る、それを理想としている。
  ダーウィンは、進化論を説くとしても、強者が、強い
 者だけが生き残るのだ、生き延びるのだという「強者生
 存」の考え方を示した。
  キリスト教の考え方・教義に捉(とら)われていた。
  結局、弱者が駆逐される「弱肉強食の進化論」だった。
  強者のみが『適者』『適する者』だとしか見れなかっ
 た。
  ある一面だけの強者に捉われた、狭いキリスト教の考え
 方だった。
  そして、キリスト教は、その強者が(キリスト教の)
 神に選ばれし者との考え方だった。
  故に、その弱者を、「(キリスト教の)神の義によっ
 て、誅するも良し」とした。
  ダーウィンの進化論は、この考え方の中にあった。
  「適合しない者は殺してもよい」「異教徒は殺せ」の
 キリスト教の教義に影響されていた。
  自然に多くある、当たり前にある『共生』の進化論は
 見い出せていなかった・・
  未熟な進化論、未進化の進化論と言える。
  自然に多くある『不善を善にする』『助け合い』の中
 の進化論が、見えなかった。
  例えば1例:落ち葉が落ち、そこにいる微生物によって、
 微生物も生き、それによって腐植土が出来、木も生育し、
 繁茂し、
  繁茂する木々によって、鳥や昆虫などなど、あらゆる
 生物が、生きとし生ける生物が、あらゆる場所において・・
 恵みを受け、輪廻・再生・共生する世界が・・自然が・・
 普通に見られるが・・
  小学校でも、その一部の、「蟻とアリマキ」を習うが・・、
  世界は、「共生だけの世界」が真実だと言ってもよい
 世界なのに・・
  キリスト教の間違った正義の教義に捉われていた。
  不適合者の不適応・抹殺があった。
  弱者だったら、弱者が悪いのだ・・だった。
  殺された側を悪者にして・・平然としている、その様
 な未熟な考え方だった、その様な宗教下あった。
  勝てば何でも正義だった。強ければ正義だった。
  キリスト教は、さらに・・、
  「(キリスト教の)神の創(つく)りたまいし神の創
 造物である人間や動物が、進化したり、変わったりする
 はずがない」と・・言った。
  「(キリスト教の)神が、その神の創ったものが、進
 化したり、変わったりするという『不完全なもの』を創
 るわけがない」と言った。
  進化はここで止まった・・。
  キリスト教の考え方・教義の狭い範囲では・・、
  『共生の社会』を創り上げられ得ない・・
  『助け合いの社会』は出来ない。
  結局、人間を信じてない性悪説のキリスト教は、『人
 類へ害悪を与えている』。
  歴史に、「悪の結果」しかない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月9日水曜日

(増補版)452E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年7月)

題:(増補版)452E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年6月30日、海軍大臣・西郷従道が、欧州視察から帰朝
 した。
  この頃、この西郷従道(1886年7月~1887年6月)の他、
  1882年~1883年の憲法調査の伊藤博文、
  1884年2月~1885年1月の軍事視察団(大山巌、桂太郎、
 三浦梧楼、野津道貫など)
  1886年2月~1887年2月の鳥尾小彌太
  1886年3月~1887年6月の谷干城
  1886年6月~1887年4月の黒田清隆
  1887年9月~1888年10月の樺山資紀
  1888年12月~1889年10月の山形有朋・・など洋行が相
 次いだ。
  西郷従道(さいごうつぐみち)は、外国の勲章を多く
 受賞していた。
  1880年(明治13年)6月15日、フランス共和国、レジオ
 ンドヌール勲章グランドフィシェ 
  1882年(明治15年)2月2日、ロシア帝国、1等聖アンナ
 勲章
  1887年(明治20年)7月5日、ロシア帝国、白鷲勲章
  1887年(明治20年)7月11日、ドイツ帝国、赤鷲第一等
 勲章
  1887年(明治20年)8月30日、イタリア王国、イタリア
 王冠勲章、グラン・クローチェ
  1887年(明治20年)8月30日、ベルギー、レオポルド勲
 章、グランドコルドン
  1887年(明治20年)10月30日、ポルトガル王国、キリ
 スト勲章大十字章
1887年6月、伊藤博文首相、伊東巳代治、金子堅太郎などと
 ともに神奈川県夏島で憲法起草開始した。
1887年6月、小荷物の配送を開始した。
  新橋と横浜の両駅で、小荷物の配送が始まり、内国通
 運に配達事務を委託した。
1887年6月、二葉亭四迷の「浮雲」が、1889年にかけて、発
 表された(長編小説)
  言文一致の文体(ダ体)で書かれた日本の近代小説の
 始まりを告げた作品で、四迷の代表作。
1887年7月1日、日本薬局法が施行された。
  日本の薬事法の歩みは・・、
  1716年、徳川吉宗による享保の改革(1716年~1745年)
   において医療に使われる薬品の品質に対する関心が
   高まり、
    江戸・駿府・京都・堺・大坂の5ヶ所に薬品検査所
   として「和薬改会所」を設置し、検査に合格した薬
   品以外の販売を禁じて品質の確保を図った。
    このことが、日本の政府による薬品取り扱い規制
   の始まり。
    そして、文明開化の影響を受けた西洋医学重視の
   政策によって、
  1870年(明治3年)に、「売薬取締規制」が制定され、
   越中富山の薬売りや漢方薬に代表される従来の薬品
   産業を中心に、大幅な規制が実施された。
  1873年(明治6年)に、続けて、「薬剤取締之法」を施
   行し、現在でいうところの薬局・薬剤師や薬価制度、
   そして、医薬分業の基礎がそれぞれ成立した。
  1877年(明治10年)に、明治政府は、「毒薬劇薬取締
   規則」を施行、そして
  1880年(明治13年)には、これを「薬品取締規則」へ
   改正し施行した。
    この規則では、毒薬劇薬の概念が導入された。
  1880年(明治13年)10月、衛生局長長与専斎の建議に
   も基づいて日本薬局方が制定され
  1886年(明治19年)6月、内務省令をもって初めて日本
   薬局方が発布され、この年の施行に
    日本薬局方編集総裁、および、委員は、
   総裁=元老院幹事・細川潤次郎、
   委員=陸軍軍医総監・松本順、同軍医監・林紀、海
   軍軍医総監・戸塚文海、一等侍医・池田謙斎、内務
   省衛生局長・長与専斎、東京大学医学部教授・三宅
   秀、海軍中医監・高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等
   軍医正・永松東海、柴田承桂、東京司薬場教師オラ
   ンダ人・エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人・
   ゲールツ、東京大学医学部教師ドイツ人・ベルツ、
   および、ランガルト、オランダ人・ブッケマン
  1887年のこの時、「日本薬局方」が施行された。
1887年7月2日、東京~各鎮守府間、各鎮守府~各鎮台間の
 道路を国道に編入する件が公布された。
  明治20年7月2日勅令第28号
  朕鎭守府ニ達スル道路ヲ國道ニ編入ノ件ヲ裁可シ茲ニ
 之ヲ公布セシム
  内閣總理大臣 伯爵伊藤博文、内務大臣 伯爵山縣有朋
   陸軍大臣 伯爵大山巖、海軍大臣 伯爵大山巖
  東京ヨリ鎭守府ニ達スル道路及鎭守府ト鎭臺ト拘聯ス
 ル道路ハ自今國道ニ編入ス
1887年7月3日、谷干城(たにたてき)が、政府批判意見書
 を提出した。
  農商務大臣の谷干城は、裁判管轄条約案に反対し、「
 条約改正は、国会開設後に延期せよ」との意見書を総理
 大臣の伊藤博文に提出し、1887年7月25日に辞職した。
  その内容は、内閣、外交、行政など多岐にわたってい
 る。
  その一例をあげれば・・、
  言論に関しては、「政府官吏は、自ら進んで新聞や、
 演説にて討論すべきであり、
  それによって人心が活発になり、腐敗の世態が回復す
 るであろう」と述べている。
  また、倫理に関しては、「官禄に衣食するものは上 
 陛下の聖意を思い、下は人民の休戚(きゅうせき、喜び
 と悲しみ。幸と不幸)をおもい、戦々兢々(せんせんき
 ょうきょう、おそれて、びくびくするさま)ただその責
 任の尽くせないことを恐れるべし」・・と述べている。
  後・1890年7月10日に、貴族院議員となり、地租増徴に
 反対するなど独自の政治運動を展開した。
  国粋主義、農本主義的立場から、薩長藩閥とも、また、
 板垣退助ら自由民権派とも異なる、保守的な中正主義で、
 土佐派の重鎮として重きをなした。
  地租増徴案は、地租が、2.5%から3.3%に引き上げら
 れた。
  これは、1897年に、松方内閣が六六艦隊計画などに必
 要とされる予算確保のためだった。
  因みに、土佐藩上士の谷は、同じ藩の郷士と呼ばれる
 下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬した。
  また、1867年(慶応3年)に、龍馬が暗殺されたときに
 は、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡
 慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、
  生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったという。
  流山で捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問につ
 いて、薩摩藩と殊更対立したが・・、
  斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼に
 とっては龍馬の敵討ちであった。
  因みに、江戸時代でも、武士の名誉を重んじて、切腹
 が一般的であり、また、獄門(つまり、さらし首)も行
 わなかった。
  1911年(明治44年)2月9日、勲一等旭日桐花大綬章
  1911年4月15日、正二位
  1911年5月13日、死去、享年74歳。
1887年7月7日、横浜正金銀行条例が公布された(7月6日説
 あり)
  この条例が制定されて、同行は、半官半民の特殊銀行
 となり、
  政府の監督保護と、日本銀行による低利融資を受けて、
 外国為替(かわせ)銀行として、国際金融の中心に位置す
 ることとなった。
1887年7月8日、「國道表」に、国道47号「東京より佐世保
 鎮守府に達する路線」が追加された。
  この路線は、国道4号(現1号・2号ほか)を経由し、武
 雄で分岐して佐世保に至るもので、武雄と佐世保とを結
 ぶ国道35号の起源となる。
  これは、1920年(大正9年)旧47号が、そのまま国道33
 号「東京市より佐世保鎮守府所在地に達する路線」とな
 った(施行の旧道路法に基づく路線認定による)
  そして、1952年(昭和27年)12月4日、新道路法に基づ
 く路線指定で、旧33号が一級国道35号(佐賀県杵島郡武
 雄町 - 長崎県佐世保市)に指定され、
  1965年(昭和40年)4月1日、道路法改正によって一級、
 二級の別がなくなり一般国道35号となった。
1887年7月8日、特使が、板垣退助の旅館に臨み、辞爵上表
 を返戻(板垣退助が、天皇陛下の恩に感激して、受爵を
 決意した)
1887年7月11日、横浜駅~国府津駅間が開業した。
  東海道線の初代横浜駅~国府津駅の間の鉄道路線が開
 通した。
  そして、この2年後の1889年に、国府津駅から御殿場駅・
 沼津駅を経て、静岡駅までが開通したが、
  国府津駅から御殿場駅までの区間の勾配がきついため、
 列車を後押しする機関車を連結することとなり、
  国府津駅は、機関車の基地として重要な役割を有する
 こととなった。
  しかし、後に、御殿場回りのルートは、勾配がきつい
 ため、速度向上のネックとなり、
  また、トンネル掘削技術が向上したことによって、熱
 海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まっ
 た。
  そして、1920年に、熱海線として国府津駅~小田原駅
 までが開業した。
  そして、1934年12月になると、丹那トンネルが完成し
 熱海~沼津間が開通した。
  これを機に、新線と熱海線が東海道本線に編入され、
 東海道本線は、御殿場駅経由から熱海駅経由に変更され
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:卑劣なイギリスの「目には目を」の捕虜虐待
.
1945年、日本人捕虜虐待をイギリスが行なった。
  この虐待は巧妙になされた。
  明らかに仕返しの日本人捕虜の全員死亡の虐待だった。
  しかし、この行為は、何ら裁かれずに済まされた。
  「東京裁判」ではないが、「ロンドン裁判」をすべき
 だった。
  日本人捕虜が、食事にもろくに与えられず、イギリス
 軍の捕虜として収容所に入っていた。
  その場所は、潮が満ちて来ると、潮が来て、横になっ
 て寝る事の出来ない最悪な劣悪な場所だった。
  もうこれだけで、捕虜虐待の明らかな状態だった。
  イギリス軍は、この様な劣悪の場所に、わざわざ日本
 人捕虜を収容した。
  これだけでも非人道的な捕虜の取り扱いである。
  湿って、乾燥しない不衛生な場所で、日本人捕虜は、
 大勢が不衛生な故に病気になり死んだ。
  可哀想な状況の中で殺されて行った。
  この様に、真綿で首を占める様に、じわじわとイギリ
 ス軍は、日本人兵捕虜を死に至らしめる扱いをした。
  明らかに、これだけで、完全な捕虜虐待であった。
  日本兵の場合は、多くの兵が、戦争が終わって、「捕
 虜虐待をしたとして死刑にされた」。
  この様にされなければいけないイギリス兵やアメリカ
 兵が居る。
  この時のイギリス兵は、何もなかったかのように平然
 としていた。
  事情が分かっているのに・・、
  完全に死に至る劣悪な環境に置いておきたかったから、
 改善する気もなかった。
  このイギリス軍の卑劣な行為には、復讐の意味があっ
 た。
  この日本兵たちは、「クワイ河で、イギリス兵を使っ
 て鉄道建設をして、イギリス兵が亡くなったことの復讐
 したのだった。
  イギリス兵は、ほんの数パーセントだったのだが、イ
 ギリスだけが、この様な卑劣なクワイ河の仕返しをした。
  キリスト教の「目には目を」である。
  この日本兵は、そのクワイ河の場に所属した兵たちだ
 った。
  この時は、同じ様に日本の工兵や鉄道隊が死んでいる
 のだ。
  イギリス兵捕虜などを虐待した訳ではなかったのにだ。
  本当に、イギリスは、陰湿で執念深い性質だ。
  そして、このイギリスの更に卑劣なことは、この日本
 兵たちを、ひもじい、最低限の状態にした。
  食事の必要量を与えなかった。
  それは、ある目的のためにイギリスはした。
  その、さらに酷(ひど)い目的は・・
  それは、潮が引くと、この捕虜たちが居る湿った地に
 「カニ」が上がって来た。
  しかし、このカニは、食べてはいけなかった。
  イギリスは、それを知っていて、わざわざ日本兵捕虜
 をここに収容したのだった。
  このカニには、赤痢菌が居て、食べると、酷い下痢と
 なり、その下痢に苦しみながら、悶え死ぬのだった。
  その事は、日本兵も知っていた。
  イギリス兵たちも知っていて、それを高みの見物をす
 るイギリスの陰湿な卑劣さだった。
  だから、日本兵捕虜に、ろくに食事も与えなかった。
  イギリス兵は、どうなるかという事も知っていて、日
 本兵をその様な状態に置いた。
  イギリス兵たちは、沖の日本兵たちを見ていた。
  ただただ、毎日、見ていた。
  日本兵を双眼鏡で見ていた。
  日本兵がどうなるかが知っていた、そして、その様に
 なるのをじーっと見ていた。
  食事を不十分な状態にして「ずーっと」苦しませ、
  そして、カニを食べて、日本兵たちが悶え死ぬ姿を見
 ていた。
  復讐は叶った・・日本兵捕虜は、全員、死んだ。
  しかし、『イギリスの名誉は失った』。
  その場の、死に至る場所・アウシュビッツの様な卑劣
 な非人道的な場所に入れられた日本兵たちは、イギリス
 の名誉を消して、全員、死んで行った。
  その様になる道しか残されて無い状況だった。
  その様になる量の食べ物しか与えられなかったから、
 当然、そうなったのだった。
  当然、そうなるようにイギリスは捕虜虐待をしていた。
  また、その様に湿った劣悪な場所は、焼いたり、煮た
 りできない最悪な場所だった。
  焼いて食べれば、イギリスの目的は達せられないので、
 その様な事が出来ないことを承知で、日本兵捕虜を、こ
 こに収容したのだった。
  キリスト教による『魔女虐待』もまったく同じような
 やり方だった。
  魔女にされた女性を、町の広場に連れ出し、周りから
 町の人々が、衆目が見る中で、焼き殺した。
  それも、一気に燃えるような木ではなく、火あぶりに
 した。
  生木でじわじわと焼く、陰湿な殺人行為が、キリスト
 教によって行われた。
  イギリスも同じことをした。
  また、インドでは、並木道の木という木に、インドの
 方々を何日も吊るして、インドの方たちが見ている中で
 殺したが・・こんな事ばかりしている・・、
  (参考):「戦場にかける橋」
  1957年に、アメリカによってつくられた映画「戦場に
 かける橋」は、事実と違う。
  まったく、嘘話が美しく作り上げられている。
  日本は、映画によって悪くプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れている。
  日本は、日本人だけでなく、多くの現地の方々、また、
 イギリス兵を含めた捕虜の方々を、差別することなく、
 慰霊している。
  そして、この映画の嘘は・・、
  (1)橋の構造・材質が全く違う・・、映画は、木の丸
 太である木造橋であるが、
  実際は、コンクリート橋脚の立派なトラス鉄橋である。
  (2)設計者を違えて、日本の素晴らしさを隠し、その
 日本の良さを奪っている・・、
  映画は、イギリス兵捕虜だとしている・・日本が出来
 るという能力は無いように描いている、日本が出来ない
 ので、イギリスに頼むようにしている、まったく卑劣で
 ある・・日本が出来ない様に描いているが、
  実際は、日本軍の鉄道隊で、立派に日本が設計をして
 技術力は十分ある事を示している。
  それも、鉄とコンクリートの立派な構造である。
  だから、イギリス兵捕虜などは、まったく設計に関与
 していない。
  今・現在でも、イギリスとフランスの海底トンネルを
 作ってやったのは日本である・・日本の技術である。
  イギリスが出来ないから、日本に頼んで来たのである。
  建設したひとたちは、映画は、イギリス兵捕虜だけで
 作ったように描がいている・・これは、ひどい嘘だ。。
  こんなことはあり得ない・・常識で分かる・・よくこ
 んな作り方をする程度の悪い映画だと思う・・まったく
 ひどい嘘だ。
  実際は、日本人15000人、ビルマ人90000人、マレー人
 75000人、以上で、全体の74.5%の携わった人たちで、
  この人たちが建設の主体だったのだ、主力だったのだ。
  残りが、お手伝いの白人捕虜である・・、
  イギリス人30000人、アメリカ人700人、オランダ人
 18000人、オーストラリア人13000人である。
  (データー:現地のビルマ・マレーの方々が68.3%、
 白人が25.5%、日本人が6.2%)
  因みに、この映画を作ったアメリカ人は、0.3%弱と
 ほとんど居ない。
  今、ここに、観光客が来るので、この橋の名前を映画
 に近い名に変えたが、映画で名付けた「クワイ河橋」で
 はなく、「メクロン河永久橋」が本当の名前。
  これ等のデーターは、当時、日本陸軍の通訳として、
 この地に勤めていた方のデーターであるから正確である。
  映画は、まったく誇張されているという。
  話が作られているという。
  ノンフィクション的に思われるが、完全な造りものの
 フィクションだという。
  適当な尾ひれがついていて整合性もないという。
  当時から、クワイ河などという名はなく、まったく関
 係ない名がつけられている所からして、この映画のいい
 加減さが分かろうという。
  また、関係なく作られた名前ということで、その映画
 の中味も想像が出来よう・・という。
  しかし、上記のイギリスの日本兵捕虜の虐待の話は、
 真実である。
  イギリスの捕虜収容所に居て、捕虜だった日本兵捕虜
 の作者が書いている事で、真実だからだ。
  そして、映画は、脱走して北へ向かって、海に出たと
 なっているが、まったく現地の地形を無視している。
  これでは、川の水が下流から上流に流れる話になって
 しまうという。
  この様に、事実ではない点が多く、映画は、戦争の事
 実を調べて、そして、作られたというものでない。
  『まったくのフィクション』である。
  面白く描いて映画にしただけのものである。
  名前が「永久橋」と付けられている事からも分かるよ
 うに立派な頑丈な橋で、
  映画の木の橋で、木っ端みじんは「映画の作り過ぎ」。
  そして、死者は、日本兵も、日本の工兵も鉄道隊も死
 に、何しろ%の多い現地の方々の死が一番多いのである。
  そして、日本軍鉄道隊は、立派な大きな慰霊碑を、
 1944年(昭和19年)2月に建てて、働いた方々の死への慰
 霊をしている。
  また、、広大な戦没者墓地も作って、死者を丁寧に弔
 い埋葬している。
  逆に、こんなところまで、イギリスは、したのでしょ
 うか?
  そして、この慰霊碑の裏面には、霊を慰める文字も刻
 まれ、永久に顕彰(橋建設の労苦を世界に示している)。
  映画の影響で白人観光客が多い状況だという。
  しかし、日本が悪者に作り上げられている映画のフィ
 クションは正されず、真実が正しく伝わっていない。
  今、この鉄道橋は、1日に2~3往復の本便が走っている。
  その間に、観光客用のトロッコ列車が往復していると
 いう。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月7日月曜日

(増補版)451E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年6月)

題:(増補版)451E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年6月9日、板垣退助が、爵位を辞した・・?
  板垣退助は、授爵の勅を二度断っていたが、
  1887年(明治20年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬
 にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、
 伯爵位を授爵した。
  その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主に
 は衆院選の被選挙権がない)、
  また、貴族院でも、伯爵議員の互選にも勅選議員の任
 命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかっ
 た。
  1919年(大正8年)7月16日、死去、享年83(満82歳没)
  法名は、邦光院殿賢徳道圓大居士
  なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎
 は家督相続をせず、
  孫の守正が、爵位を返上した。
1887年6月9日、花井お梅事件(6月11日説あり)
  日本橋浜町酔月楼の女将お梅(24歳)が、実父との不
 和(営業にからむ意見対立)にからんで、実父側に立っ
 て、お梅の追い出しにかかった番頭の峰吉を、隅田川河
 畔で刺殺し、父親に告げて自首するという事件があり、
  当時の『東京絵入新聞』が、虚実とり交ぜた読み物の
 『花井於梅酔月奇聞』として連載し評判となった。
  花井お梅は無期徒刑となり、特赦で1903年(明治36年)
 出獄し、芝居で体験を演じた。
  5世富士松加賀太夫(新内節富士松派の演奏家)が脚色
 し、1888年3月に、作曲し、また・・、
  河竹黙阿弥が、歌舞伎の「月梅薫朧夜(つきとうめかお
 るおぼろよ)」とし、
  後に、川口松太郎が、新派の「明治一代女」などの題
 材にして、恋と意地に生きる明治の女を哀切に描き、
  1935年11月明治座で、作者の脚色、花柳章太郎主演に
 より初演し、好評を博し、以後、新派の当り狂言となっ
 た。
1887年6月15日、陸軍幼年学校が設置された。
  陸軍幼年学校は、将来、陸軍の将校を志願する少年に
 対し、初歩的な軍事学や軍事訓練を加味しながら、
  主に、普通学科を教授し、軍人精神の涵養 (かんよう)
 をはかる学校で、
  日本の旧陸軍では、1869年(明治2年)、大阪兵学寮に
 横浜語学所を合して幼年学舎を設け、先進国の軍事知識
 吸収のための教育を始めたのがその始りだった(1870年
 説あり)。
  1872年(明治5年)幼年学舎を陸軍幼年学校と改称し、
 兵学寮から独立した(1875年説あり)、
  修業期間は3年間で、卒業生は陸軍士官学校へ進学した。
  1877年、陸軍士官学校に合併されたが、
  1887年に、再び独立し、また、この年に、幼年学校官
 制が制定され、
  1896年には、中央(東京)と地方の幼年学校が、仙台・
 名古屋・大阪・広島・熊本に設けられた(1897年説あり)
1887年6月15日、博文館(はくぶんかん)が開業した。
  大橋佐平が博文館を創業し、「日本大家論集」を刊行
 した。
  社名は、伊藤博文に由来している。
  大橋佐平の息子・大橋新太郎は、尾崎紅葉の小説『金
 色夜叉』の登場人物、富山唯継のモデルと言われている。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代に富国強兵の時
 代の中で、数々の雑誌を創刊し、また、取次会社(東京
 堂)・広告会社(内外通信社)・印刷所(博文館印刷所)・
 洋紙会社などの関連企業を創業した。
  日本最大の出版社。
  大正昭和モダニズムをリードする役割を果たし、
 また、江戸川乱歩、横溝正史ら数多くの作家を輩出した。
  第二次世界大戦後は、社長・大橋進一の公職追放に伴
 い、日記以外の出版を停止させられた。
  辞書部門や雑誌部門は、1948年に、博友社と文友館と
 好文館の三社として分裂した。
1887年6月16日、陸軍各兵科現役士官補充条例が公布した。
  ヨーロッパ列強の東アジアにおける軍事的圧迫を契機
 にしている。
  特に、フランスによる清仏戦争(1884年6月~1885年6
 月)や、イギリスによる朝鮮の巨文島の占領(1887年1月
 まで占領)などの侵略の気配が濃厚だった。
  日本は、この条例公布のほか、1885年7月2日に、広島
 鎮台管轄下の歩兵を対馬に分遣している。
  また、1885年10月6日には、鎮台条例を改正し、沿海諸
 島の防御として、小笠原諸島、佐渡、隠岐、大島、沖縄、
 五島、対馬を既定した。
  また、1886年11月には、臨時砲台建築部のもとに、1887
 年に対馬の海岸防御砲台築設が着工している(1887年に
 竣工)など軍備強化が進められていた。
  当時、陸軍大学校雇教師のドイツ陸軍少佐のメッケル
 が、種々、意見書を提出していて、
  (1)ドイツの師団は、平時には、歩兵と騎兵をもって
    編成し、戦時には全兵科をもって編成するが、日
    本の師団は平時も全兵科をもって編成し、出師準
    備に際しても、配置計画進行上の師団の戦時兵力
    行使における独立的動作の完結性を強調し、
  (2)日本の2個師団を結合・統轄する監軍部の平時の
    業務は繁多でなく、戦時の戦力聚束は実施できな
    いので軍団・監軍部として編束する必要性はなく
 ・・云々と、日本の方向性に重要な提言をしていた。
1887年6月18日、京橋で外人を含めた相撲興行が行われた。
  (郵便報知新聞、6月15日、6月18日、6月19日)には、
  六月十八日より三十日まで、東京築地南小田原町四丁
 目四番地にて、ウエブスター・剣山の内外合併相撲。
  [広告]和洋大角觝廣告 此大角觝興行タルヤ、従来
 欧米各国ニ行ルヽ「スパラ」「ラスラ」ノ類トハ大ニ異
 ナリ、全ク日本大力士剣山、一ノ矢、大鳴門、西ノ海以
 下数名ト西洋諸国ノ大力士エム、ウエブスター」ビイデ
 イヨング以下数名取組、真見無垢其度力技術ノ優勝劣敗
 ヲ試ントスル者ナレバ、実ニ宇内未曾有ノ珍事ト云フベ
 シ。
  依テ今回江湖諸彦ノ愛顧ニ供セン為メ、東京築地南小
 田原町四丁目四番地ニ於テ、晴天七日間興行相催候間、
 陸続御来観アランコトヲ伏テ奉仰願候。
  (読売新聞、1887・9・6)には、九月八日より晴天七
 日、東京日本橋区中洲にて、ウエブスター・岩城の内外
 合併相撲(第三回目の興行)。
  「浅草田原町一丁目斎藤元吉が願人にて、来る八日よ
 り十四日まで中洲町に於て和洋合併相撲を興行するよし。
  此の外国人力士はマレース、ウエブスター外一名、日
 本力士は岩城松外三十五名なりとぞ」
1887年6月23日、ノットと田中舘愛橘、全国の地磁気測定を
 開始した(~10月まで)
  東京帝国大学のお雇い外国人教師ノットの提案で、こ
 の時から10月にかけて、日本全国地磁気測量が実施され
 た。
  地質調査所では、第一回国際極年観測期間中にナウマ
 ンの指示で、全国の地磁気測量を行い、
  その観測結果をもとに、ナウマンが、フォッサマグナ
 と地磁気分布とが密接に関係すると主張した。
  ノットと田中舘は、ナウマンらの観測結果に疑問を抱
 き、全国の地磁気再測量を行った。
  ノットと長岡半太郎とが、東北日本と北海道の50ヶ所
 でキュー型携帯用磁力計とキュー型伏角計を用いて、
  田中舘愛橘が、南西日本と朝鮮半島の31ヶ所で、田中
 舘式電磁方位計とキュー型伏角計を用いて観測を行った。
  ノットと田中舘によれば、フォッサマグナ付近に、地
 磁気の異常な変化は認められなかったという。
  また、明治24年(1891)10月28日午前6時37分、中部地方
 に強い地震が起こった(濃尾大地震)
  この地震の直後、田中舘愛橘は現地に入り、震源地付
 近の地磁気測量を行った。
  この付近には、1887年(明治20年)の全国地磁気測量の
 際の測定点があったので、同地点で再測量をし、データ
 を比較することが目的だった。
  この現地調査により、地震の前後で、地磁気に変化が
 あったらしいということになった。
  そこで、更に、詳しい調査を行うため、12月から翌年・
 1888年1月にかけて、田中舘愛橘、長岡半太郎らが中部地
 方の磁気再測量を行った。
  これらの調査から、田中舘らは、地震活動にともなっ
 て磁場が変化した可能性が高いと報告した。
1887年6月23日、東京ホテルが開業を諮った。
  外務大臣井上馨、新ホテル建設を渋沢栄一、益田孝、
 大倉喜八郎らに諮(はか)る。
  1887年12月、印鑑届けなどの3通の「御届書」を東京府
 知事に提出、有限責任東京ホテル設立 (資本金26万円)
  後の、帝国ホテル。
  帝国ホテルは、1890年(明治23年)11月3日に落成、
  同・1890年11月7日に開業した。
  隣接する鹿鳴館と密接な関連を持ったホテルとして井
 上馨が、渋沢栄一と大倉喜八郎の2人を説いて、
  1888年(明治21年)有限責任帝国ホテル会社(設立当
 初は有限責任東京ホテル会社)を設立させた。
  初代の帝国ホテルは、渡辺譲 設計、木骨煉瓦造、3階
 建、客室数約60。
  1890年(明治23年)竣工。
  1919年(大正8年)失火から全焼した。
  ・・そして・・
  ライト館は、フランク・ロイド・ライト 設計。
  鉄筋コンクリート、および、煉瓦コンクリート造、地
 上3階(中央棟5階)、地下1階、客室数270。
  1923年(大正12年)竣工。
  1968年(昭和43年)新本館建設のため解体された。
  1917年(大正6年)にライトは来日し、1919年(大正8
 年)9月、着工した。
  ライトは、使用する石材から調度品に使う木材の選定
 に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだ。
  色々な苦難の中、ライトは、施工の総指揮を続けてい
 たが、
  1922年(大正11年)4月、隣接する初代帝国ホテルが、
 失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務と
 なり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は
 避けられなくなった。
  さらに、当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がる
 に至って、林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂注い
 だこのホテルの完成を見ることなく離日した(同年7月)。
  一部完成済みの部分を利用してホテルは営業を再開し
 た。
  ホテルの建設は、ライトの日本における一番弟子だっ
 た遠藤新の指揮のもと、その後も続けられた。
  1年後の1923年(大正12年)7月、着工以来4年の歳月を
 経てライトの本館は完成した。
  9月1日に落成記念披露宴が開かれることになったが、
 関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙
 しの時だった。
  周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりす
 る中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変
 わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ
 人々の目を引いた。
  ライトは、二週間後このことを遠藤からの手紙で知り
 狂喜したという。
  1945年(昭和20年)3月10日~3月11日の東京大空襲で
 は、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多く
 の焼夷弾が落ち、焼失は総床面積の四割強に及ぶ大きな
 被害を受けた。
  終戦ともに、帝国ホテルはGHQに接収され、そこで大規
 模な修復工事が行われ、復旧した。
  震災にも空襲にも耐えたこのホテルの存続を訴える大
 規模な反対運動が起ったが、
  本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがすると
 いった老朽化の問題もさることながら、都心の一等地を
 占有する巨大な建造物の客室数がたったの270では話にな
 らなかった。
  本当にもったいないことだが、この「人類の至宝(し
 ほう、この上なく大切な宝)」は解体された。
  そして、ライト館の玄関部分は、博物館明治村(愛知
 県犬山市)に十数年の歳月をかけて移築再建され、今日
 でも在りし日の面影を偲ぶことができる。
  その一部分でも、いかにライト設計の帝国ホテルが素
 晴らしかったかが分かり想像できる。
  だから、故に、すべてを残して戴きたかった。
  日本は、ライトが精魂を傾けて戴いた宝を失った。
  二度と得られぬ人類の宝を失ってしまった。
  日本に残す気概が欲しかった。
  (色々な事情はあるでしょうが、経済性だけで計れな
 い「大きな価値」があると、そして、それが大切だと思
 って戴きたかった)
.
  (今日の言葉)
.
  題:歴史の落穂ひろい
   書き落した事柄を、以下に拾い書きします。
.
紀元前318万年前、ルシーの死因
  「ルーシー」の愛称で知られる約318万年前の猿人の死
 因は、
  「木から落ちたためだった」とする研究成果を、アメ
 リカのテキサス大学などのチームが発表した。
  地上の生活が増え、木登りの能力が落ちた可能性があ
 るという。
  論文が、29日、イギリス科学誌ネイチャーに掲載され
 た。
  ルーシーは、1974年に、エチオピアで骨が見つかった
 猿人の女性。
  地上と樹上の両方で暮らした初期人類で、それ以前の
 猿人より二足歩行に適応していたと考えられている。
  チームは、骨をコンピューター断層撮影法(CT)で分
 析。
  腕や足首などの折れ方から、12メートル以上の高さか
 ら落ちて骨折した可能性があることが分かった。
  骨折が治った後がなく、チームは木から落ちた直後に
 命を落としたと推定した(読売新聞、2016・8・31)
.
紀元前6000年、ワインの醸造
  ブドウは、数百万年前には存在していて、現生人類よ
 りははるかに古い。
  西アジアには、多くのブドウの野生種が自生しており、
 約8000年前の新石器時代に、ワインを醸造したことを示
 す最古の証拠がある。
  最初は、自家消費のために作られたと考えられている。
  西アジアの中心である古代メソポタミアでは、約5000
 年前には、神への捧げものとして神殿で飲まれるように
 なった。
  都市の発展とともに、支配者階級の祝宴で消費され始
 めた。以下略、(読売新聞、2015年11月17日)
.
 7世紀、随書倭国伝
  隋書は唐の魏徴撰。
  魏徴(ぎちょう)は、唐の政治家(580年~643年)
  唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628年)、学
 者を率い、数年かけて戦乱の間にバラバラになってしま
 った四部書(経、史、子、集)を校訂したとされている
 (旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)
  隋書も、この間に編纂された。
  その書の中に・・日本についての記述・・、
  (日本)人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜
 賊も少なく、
  百済・新羅は、日本(倭)を尊敬して仰ぎ、使いを通
 わせていた。
.
1274年の文永の役の後、総司令官・忻都が、元の世祖フビ
 ライに報告した記録『元韃攻日本敗北歌』
  倭人は、狠ましく死を懼れない。
  たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
  勝たなければみな死ぬまで戦う。
.
1281年、元寇(弘安の役)があった。
  元寇(この弘安の役と1274年の文永の役)の後、日本
 に「神国・日本」の国家観が沸き上がった。
  鎌倉仏教の始祖たちが「日本精神の立て直し」という
 役割を果たし始めていたが、ここに、日本は、蒙古襲来
 期のあれだけの危機を乗り越えることが出来た。
  また、襲来時に、「神風」が吹くという事から、「神
 国・日本」という確固たる自画像が、広く、かつ深く定
 着した。
  日本観、国家観というものが、中世のこの時期に生ま
 れた。
  元寇は、皇室を中心としたまとまりがなければ、日本
 は対外危機に対処できない、という考え方を日本の中に
 深く刻印した。
  そして、後醍醐天皇の「建武の中興」を生み出して行
 く。
.
1500年、ポルトガルが、ブラジルを植民地にした。
  サトウキビ栽培が大成功し、17世紀前半には、ブラジ
 ルは、世界最大の砂糖の産地となった。
.
16世紀、日本では、16世紀の戦国時代から庶民に対しての
 「おふれ」が立て看板で掲示されていた。
  当時、来日した宣教師達が、一様に驚いているのが、
 日本人の教養と、識字率の高さである。
  日本を絶賛した世界の知識人達。
.
1537年、犬山城が、信長の叔父・織田信康によって築かれ
 た。
.
1563年、ルイス・フロイスが来日した。
  ポルトガル人、宣教師、1563年(永禄6年)来日。
  日本製の鉄砲の性能と品質を世界最高と評した。
.
1543年(天文12年)に、ポルトガル人宣教師が、2挺の鉄
 砲を日本人に与えたところ、
  40年後には、その鉄砲を遥かに凌ぐ高性能の物を量産
 する事に成功し、
  1583年(天正11年)に、ポルトガル人が戻って来ると
  既に、ヨーロッパの鉄砲の総数を越える数を所持して
 いた。
.
1617年、犬山城を、家康の重臣・成瀬正成(まさなり)が
 拝領した。
  以来、代々、成瀬家が城主を務め、城下町を築いてい
 った。
.
1776年7月4日、アメリカの13植民地は、大陸会議で「独立
 宣言」を採択した。
  ジョン・ロックの社会契約説の圧政に対する抵抗権を
 根拠として、新国家樹立を宣言した。
  これは、第二次世界大戦に至る石油の禁輸など、アメ
 リカの日本に対する不当な圧力とまったく同じで、
  日本が抵抗権を行使する正当な理由と同一だった。
.
1842年、イギリスが、中国の方々を虐げたアヘン戦争が終
 わった。
.
1859年、イギリス公使オールコックが来日した。
  『大君の都』
  大君:たいくん:徳川将軍のこと
  イギリス公使オールコック (安政6年 1859年 来日)
 には・・、
  一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずに度々か
 らだを洗い、
  身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住
 み、
  その家は広くて風通しの良い街路に面し、そしてまた
 その街路には、不快なものはなく、荷物を置くことを許
 されない、
  というふうにいうことをはばからない。
  すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋
 民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっ
 ている。
  中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている
 人ならだれでも、
  悪寒を感じないわけにはゆかない。
.
1878年、榎本武揚が、シベリアを馬車で横断した。
  この時、彼は、車中で克明な「シベリア日記」を付け
 た。
.
1878年6月~9月、『日本奥地紀行』が、イザベラ・バード
 によって執筆された。
  その中の記述に・・、日本について・・、
  「貧民階級の衣類や母屋がどんなに汚くても、
  料理の仕方と、その料理を供するやり方は極端に清潔
 なのだ・・とある。
..
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2016年11月6日日曜日

(増補版)450E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年6月)

題:(増補版)450E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年5月23日、憲法草案の提出
  井上毅(いのうえこわし)法制局長官が、憲法草案を
 伊藤博文へ提出した。
  憲法についての着手は、1886年(明治19年)5月に、伊
 藤の呼びかけで始まり、
  翌・1887年(明治20年)5月のこの時に、憲法草案に甲
 案・乙案を伊藤へ提出された。
  ロエスレル(お雇い外国人、ドイツ法学者・経済学者)
 も、伊藤に出した草案を参考にして、憲法作成は始動し
 た。
  同年・1887年6月~1887年8月にかけて、夏島(現在の
 神奈川県横須賀市)にあった伊藤の別荘で作業を行い、
 伊東・金子も交えて4人で討論しながら、草案完成に向
 けて全力を尽くした。
  1887年10月に、高輪(現在の東京都港区)の伊藤の屋
 敷に移り、重ねて議論した。
  そして1888年(明治21年)4月27日に、草案が完成した。
  3日後の1888年4月30日に、伊藤は、首相を辞任し、代
 わりに憲法審議機関として枢密院を創設し、自身は、議
 長として引き続き憲法作成に取り掛かった。
  井上ら3名も、枢密院書記官として伊藤の側に仕えて
 憲法審議に参加した。
  (井上のみ、書記官長に就任、法制局長官も兼ねる)、
  顧問官に任命された政治家達と議論を尽くした末に、
  1889年(明治22年)2月11日に、大日本帝国憲法は公布
 された。
  因みに、1887年(明治20年)12月に、山縣有朋の提案
 で、伊藤が保安条例による強権発動におよび、憲法制定
 のため努力したとしても、政府と国会の衝突が不可避で
 あり、憲法が空文化するとして、井上毅は辞表を提出し
 た。
  これは、憲法草案作成中の第1次伊藤内閣を危機にさら
 すこととなったため、伊藤は、井上毅の慰留に努めた。
1887年5月23日、榎本武揚、佐野常民ら16名が、勲功により
 子爵を、高崎正風、井上良馨ら18名が男爵を授けられた。
1887年5月24日、黄綬褒章が制定された。
  黄綬褒章は、業務に精励し、他の人の模範となる者に
 授与される褒章で、日本の褒章の一つ。
  1887年(明治20年)に、初めて、臨時制定のかたちで、
 沿岸防衛事業に私財を献納する人に授与するとされた。
  (明治20年勅令第16号)、「私財ヲ献納シ防海ノ事業
 ヲ賛成スルモノニ授与スル」
  受章第1号は、中井新右衛門。
  これは、数年間続いたが途絶えた。
  そして、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に、
 廃止された。
  その後、1955年に、褒章条例が改正された際、緑綬(
 りょくじゅ)褒章から「実業に精励して模範たるべき人」
 を切り離し、復活新設した黄綬褒章に当てることとなっ
 た。
1887年5月26日、三菱社が、日本初の鋼鉄製汽船の「夕顔丸」
 を竣工した。
  三菱炭坑社高島炭坑向け貨客船206トン、330馬力、
  1962年(昭和3年7)4月1日、船齢75年で廃船され、解
 体された。
1887年5月30日、文部省が、熊本に第5高等中学校(第五高
 等学校 (旧制))を設立を決定した。
  略称は「五高」(ごこう)。
  後進校は熊本大学。
  1887年5月、第五高等中学校設立され、本科・予科を設
 置した。
  1887年8月、長崎に医学部が設置された。
1887年5月、中江兆民 「三酔人経綸問答(さんすいじんけ
 いりんもんどう)」が刊行された。
  3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪
 傑君、南海先生が酒席で議論する物語。
  ヨーロッパ列強を批判して、完全民主制による武装放
 棄や非戦論などの理想論を展開する者に対し、
  反論する者が、中国進出を主張する。
  そして、その両者の論争を、現実主義的立場に立った
 者が調停するという構成。
1887年6月1日、首相の伊藤博文はじめ、井上毅、伊東巳代
 治、金子堅太郎が、憲法草案作成に、金沢海岸・東屋で
 取り組み始めた。
  井上毅は遅れて参加した。
1887年6月1日、司法省の法律顧問ボアソナードが、条約改
 正について意見書を提出した。
  ボアソナードは、条約改正検討案の裁判管轄条約案に
 反対する意見書を提出した。
  井上案は、主権を侵害しているとした。
1887年6月2日、監軍部条例(勅令第18号)が制定された。
  監軍部条例を改正して、監軍部を東京に置いた。
  監軍部条例が制定されて、教育総監部の前身である第
 二次「監軍部」が設置された。
  その任務は、「陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ規画」する陸軍
 の教育を担当した。
  長官は、天皇に直隷する監軍(大将または中将)で、
 以下、参謀長(少将または大佐)、将校学校監(少将)、
 騎兵監(少将または騎兵大佐)、砲兵監(少将または砲
 兵大佐)、工兵監(少将または工兵大佐)、輜重兵監(
 少将または輜重兵大佐)が置かれた。
  監軍は、勅命により検閲使として軍隊を検閲する役割
 も担った。
  騎兵監などの各兵監は、それぞれの本科に関する調査、
 研究、審議、立案を担った。
1887年6月2日、軍事参議官条例が公布された。
  (明治20年勅令第20号)
  第一条:軍事参議官ハ之ヲ帷握ノ中ニ置キ軍事ニ関ス
     ル利害得失ヲ審議セシム
  第二条:軍事参議官ハ左ノ如シ
     陸軍大臣、海軍大臣、参謀本部長、監軍
  第三条:凡ソ事陸軍ニ関スルモノハ陸軍大臣参謀本部
     長監軍之ヲ審議シ海軍ニ関スルモノハ海軍大臣
     参謀本部長之ヲ審議ス
  第四条:凡ソ事陸海両軍ニ関スルモノハ各参議官ニ於
     テ之ヲ審議ス
1887年6月7日、長崎造船所が、郵便汽船三菱に52万7000円
 で払い下げられた。
  長崎造船所は、1857年、オランダ人技師の指導で、江
 戸幕府が建設した長崎鎔鉄所に始まった。
  1875年に、郵便汽船三菱会社(九十九商会が改称)が、
 横浜に三菱製鉄所を建設、船舶の建造・修理を始めた。
  明治政府官営から1884年三菱へ貸与され、官営長崎造
 船局を借用の形で、事業を継承して長崎造船所とし、
  1887年に、正式に払い下げられた。
  1907年、三菱合資会社に造船部がつくられ、造船業務
 を統轄したが
  1917年、独立して三菱造船(株)となった。
  そして、1917年の三菱造船独立後、その主力造船所と
 なり、
  日本の近代造船業の揺籃(ようらん)期から、長く日
 本造船業の造船技術、および、建造能力の首座を占め続
 けた長崎市にある、日本の代表的な造船所として輝かし
 い足跡を残した。
  日本造船業の代名詞的存在であって、現在も、三菱重
 工業の主力造船所として、世界有数の進水実績を誇って
 いる。
  造船技術の粋を集めた巨大戦艦(武蔵)を建造(1942年
 に完成)したのも、ここ(三菱重工業長崎造船所)であった。
  1857年(安政4年)、江戸幕府が長崎鎔鉄所を建設したこ
 とに始まるが、これは修理工場で、欧米の西洋型艦船の
 入港に対処するためだった。
.
   (今日の言葉)
.*
  題:都合よく・・情報は処理された、一触即発の時に・・、
.*
1941年12月7日、真珠湾の攻撃の直前のこと・・
  ハワイのアメリカの索敵機(さくてきき、敵軍の位置・
 状況・兵力などをさくる飛行機)は、日本が真珠湾攻撃
 する頃には、81機もあって、敵の襲撃を警戒していた。
  当然、日本とアメリカの戦端が、今日、開かれるか?
 明日、開かれるか?・・と、ピリピリしていた時は、最
 大の警戒態勢を敷かれていた・・
  ・・一触即発の時は最大の警戒体制が敷かれている「
 はずだった」・・が・・?
  何故か? 日本が、真珠湾攻撃をする時に限って・・
 ・・? 
  何故か? 2機しかが・・任務にあたっていなかった。
  さらに・・おかしなことに・・??
  それも、そのすべてが・・日本が来襲するであろう日
 本側を警戒していたのではなく・・
  日本が攻撃してくるであろう・・日本とは反対の側を
 警戒していた。
  こんなおかしなことが・・重なって起きていた。
  ハワイに、大きな守りの穴をあけていた。
  日本がハワイを攻撃するときに限って・・この様な状
 況がハワイの軍港では起きていた。
  これなら、日本の連合艦隊の大部隊が・・発見される
 わけがない。
  この様なヘンなことが真珠湾では起きていた。
  さらに・・
  「防潜網(ぼうせんもう)」というものがある。
  これは、鋼鉄製の網である。
  これは、潜水艦の侵入を防ぐために港の入り口や海峡
 の水中に敷設されたもので、
  アメリカは、当然、ハワイの大切な軍艦を守るために
 ハワイの軍港の入り口には、防潜網を張り巡らせていた。
  そして、普通に行われる、警報装置や機雷と連動して
 その潜水艦を攻撃する機能も持っていた。
  日本は、連合艦隊に先行して潜水艦を真珠湾に向かわ
 せていた。
  そして、真珠湾に近づいたとき、その潜水艦より、ま
 た、小さな潜水艦をも発進させて、真珠湾内に入って行
 こうとした。
  しかし、日本の潜水艦隊は、この防御網に阻まれた。
  当然、日本の潜水艦が、防御網に引っかかれば、アメ
 リカも知る所になる。
  日本がハワイを攻撃したとき、日本の連合艦隊が到着
 する前に、アメリカの駆逐艦が、日本の潜水艦と交戦し
 たという事件があった。
  これを、アメリカは、ひたすら、日本の潜水艦ではな
 かった、「クジラだ」「クジラだ」とした話がある。
  本当に、無理な不思議な話を、数多くアメリカはデッ
 チ上げている。
  この「クジラ騒ぎ」と、ハワイ真珠湾の最大警戒の神
 経の突先(とっさき)の潜水艦防御網に、潜水艦が引っ
 掛かったということ。
  当然、アメリカの駆逐艦がこの防御網の所に駆け付け
 ている。
  日本の潜水艦は、何隻も未帰還になっている。
  アメリカに駆逐されている訳であるが・・このすべて
 の交戦について、口にチャックが挟まれたようになされ
 た。
  アメリカの大切な航空母艦に限って、そのすべてが、
 真珠湾外に出ていたという偶然。
  日本の攻撃時に、日本の最大の攻撃目標だったアメリ
 カ航空母艦は、そのすべてが、偶然、真珠湾の外に出て
 いて、他のハワイ島の場所にいたという・・偶然の不思
 議・・、
  すでに、アメリカは、秘密裏に、中国と正式に日本と
 交戦状態にあったことも含め・・、
  日本のハワイ攻撃の時には、日本とアメリカは、中国
 を含め、真珠湾の日本の潜水艦とアメリカ軍艦との間で
 も交戦状態にあった。
  アメリカは、宣戦布告なき日本の攻撃と言うが(東京
 裁判では、宣戦布告書については、「単なる、事務上の
 遅れ」と判決している)
  この様なレッキとした交戦状態を、アメリカが、嘘を
 ついたり、秘密にしたりで・・、
  日本の「宣戦布告なき攻撃」が立ち上がって・・そし
 て、はじめて言える訳であって・・言われ得るという筋
 に入って来ているだけなのだ・・、
  まったく、アン・フェアなアメリカと言いたい。
  また、日本の交信のすべてを、暗号を解読していたア
 メリカは、日本の状況を完全に把握していた。
  秘密が最大級にされるべき、アメリカの日本大使館の
 通信も完全にアメリカは知っている、解読されていると
 いう状況の中、
  日本の連合艦隊も交信し発信するわけであるが、この
 動きも完全にアメリカに把握され、知られ、その動きは
 完全にアメリカの知る所となっていた。
  日本だって、ハワイにアメリカの主力艦隊が居ると知
 っていた訳だから、この時に、ハワイへ向かった訳だっ
 た。
  明日にも戦争状態になるだろうという敵の最大の主力
 艦隊の動向は最大の関心事で、ボケーっと見逃すわけが
 ない。
  四六時中、24時間、その動向は掴んでいた。
  日本の連合艦隊が、ハワイに近づきつつある中の交信
 も知る所となっていて、逐一、ハワイに近づいていると
 ころを、その交信の傍受により把握していた。
  そして、アメリカがやりたいことは、このズーット以
 前から、「日本を叩きたい」・・だった・・、
  特に、アメリカ大統領のルーズベルトは、その一点を
 重要課題としていた。
  しかし、アメリカのルーズベルトは、「戦争をしませ
 ん」と選挙公約して当選している大統領だった。
  その当時のアメリカ国民の方々には、第一次世界大戦
 の悲惨さから「戦争はしない」という世論が渦巻いてい
 た。
  その様なアメリカ国民の方々の気持ちに答えたものだ
 った。
  ルーズベルトは、何度も、何度も、「私は、戦争はし
 ない」とアメリカ国民の方々へ訴えた。
  この矛盾を抱えたアメリカ大統領・ルーズベルトだっ
 た。
  手のひらを返したように、大統領になったら「戦争を
 する」にできない大統領だった。
  そして、ルーズベルトの取られた方策が、『日本から
 先に手を出させる』だった。
  中国で、アメリカが先に手を出している事は秘密にさ
 れ(後日に、明白な史料が公開された。
  その史料は、アメリカ公文書館にある)。
  日本の「真珠湾の奇襲攻撃」は作り上げられた。
  アメリカの手中にあった日本は、そのすべてが、完全
 に明らかにされる中で行動していた日本のすべてが知ら
 れる中で、
  逆に、何も知らなかったアメリカが演出され、真珠湾
 は攻撃されたと、日本に攻撃された・・という、「虚空
 の嘘劇」が作られた。
  虚空:こくう、何ものもなく、空(くう)なること、
  アメリカ国民の方々の「正義感は掻き立てられ」、世
 論は、一気に戦争実施論に変えられて行った。
  ルーズベルトの言葉に、「私は戦争を作った」がある。
  すべての、何隻もの、日本の先行した潜水艦が、アメリ
 カによって「クジラ」にされたところから、アメリカの
 嘘が始まった。
  「子供だまし」の様な嘘話から始まった。
  撃沈された日本の潜水艦の、浮上した油や空気の泡も
 見ませんでしたとされ、また、撃沈された潜水艦も見ま
 せんでした・・にされた。
  都合よく・・情報は処理された、一触即発の時に・・、
..
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2016年11月4日金曜日

(増補版)449E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年5月)

題:(増補版)449E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年5月9日、東京慈恵医院が開院した(4月説あり)。
  皇后陛下を総裁に迎え、「慈恵」の名を賜り、有志共
 立東京病院を、東京慈恵医院に改称した。
  1881年(明治14年)5月1日に、東京慈恵会医科大学は、
 高木兼寛によって創立された成医会講習所に始まる。
  高木は、1875年(明治8年)から5年間、海軍生徒とし
 て英国セント・トーマス病院医学校(現: ロンドン大学
 群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)に学び、この
 様に権威のある医学校を日本につくりたいと思った。
  高木は、帰国後、廃止された慶應義塾医学所に関わっ
 ていた松山棟庵とともに、1881年(明治14年)1月、成医
 会なる研究団体を設立し、
  次いで、同・1881年5月に、この成医会講習所を設立し
 た。
  その後、高木は、戸塚文海とともに、1882年(明治15
 年)、有志共立東京病院なる慈善病院を発足させた。
  この病院の設立趣意には・・
  「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施す
 ことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救う
 こと」とした。
  同病院の資金は、有志の拠金によるものであり、有志
 共立という名はそのためであった。
  病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また、大日
 本帝国海軍軍医団の強い支援があった。
  有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに、医
 学教育の場としても重要な役割を果たし、
 成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担った。
  1887年(明治20年)、同病院は、皇后陛下を総裁に迎え、
 その名も東京慈恵医院と改め、
  経費は、皇室資金によることになった。
1887年5月11日、大阪織布会社が設立された。
  イギリス帰りの山辺丈夫を工務支配人とし、蒸気機関
 による1万500錘、労働者300人弱という当時最大の規模
 で開業し、
  電灯を設備しての昼夜二交替制のフル操業で好成績を
 あげた。
  1880年代後半の紡績ブームを呼び起こした。
  1890年、大阪織布を買収して、紡績兼営織布会社とな
 った。
  1897年、豊田佐吉が、木製の力織機を完成した。
  この後、これを鉄製に改良、日本の綿織物業の発展に
 大きく寄与した。
  (大坂紡績会社の説明文を参考にした)
1887年5月12日、『女学雑誌』が、仮装舞踏会における凌辱
 事件を痛論し、発禁となった。
  (4月20日、伊藤博文首相が、首相官邸で仮装舞踏会
 開催、西欧化迎合への非難が高まった)
1887年5月14日、取引所条例が公布された。
  これにより米商会所条例と株式取引所条例は、営業が
 満期になった時点で廃止となる。
  1878年(明治11年)5月4日、株式取引所条例が制定さ
 れ、東京・大阪・横浜の三地に取引所が設立された。
  1887年(明治20年)更に、取引所条例を公布し、
  1893年(明治26年)これを廃して、新たに取引所法を
 制定し、各地に48ヶ所の取引所が設立された。
  取引所は、その組織の上から会員組織、及び、株式会
 社組織の二つとし、
  その取引の目的物によって、有価証券取引所、及び、
 物産取引所の二つに分け、
  前者を、普通株式取引所と称し、
  後者の中で、米穀のみの取引所を米穀取引所、
  その他の物産の取引所を商品取引所と称した。
1887年5月18日、私設鉄道条例(しせつてつどうじょうれい)
 が公布された。
  政府は、1887年に、私設鉄道条例を制定して、認可の
 手続、会社設立の条件などを規定し、
  1892年に、国鉄と私鉄とに分かれて進められてきた鉄
 道建設を軍事上、行政上の観点から、全国的な規模で統
 一するため鉄道敷設法を制定した。
  以後、国鉄として建設すべき路線、私鉄の買収などを
 規定した
1887年5月20日、博愛社から日本赤十字に改称した。
  佐野常民が起こした日本博愛社が、日本赤十字社と改
 称した。
  シーボルトの長男、次男を、ポンペが支援し、万国赤
 十字社に加入した。
  9月29日、ドイツで開催された万国赤十字社大会に、森
 鴎外が日本の代表として出席した。
  ポンペと会談し、日本での赤十字社設立を喜ぶ。
1887年5月21日、最初の学位令(がくいれい)が公布された。
  学位令公布(明治20年5月21日勅令第13号)
  最初の学位は、大博士、博士の2種類だった。
  法は、5カ条からなっていた。
  (1)学位を、博士及び大博士の2等とする。
  (2)博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、
    文学博士、理学博士の5種とする。
  (3)博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣に
    おいて授与する。
     大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授け
    る。
     これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議
    会の議を経てこれを授ける。
  (4)大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議
    に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議
    を経てこれを授ける。
  (5)本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
.
   (今日の言葉)
.
  題:降伏のチャンスを与えよ・・アメリカは本当にそうしたのか?
.
1945年5月3日、アメリカ大統領のトルーマンは、原爆使用
 に関する内務委員会を作った。
  ロシアが、コサック兵を使って、東へ東へとシベリア
 を手に入れて行き・・、
  そして、太平洋にぶつかると、南下政策を取り、
  満州を手に入れ、そして、中国を手に入れ、また、朝
 鮮半島を手に入れた。
  (因みに、この頃、一番広く、中国領土を奪っていた
 のはイギリスだった、
  そして、その次が、ドイツだった。日本ではない)
  ロシア。その様な果てしない「領土の獲得欲」の中に
 あった国と、朝鮮半島で、日本とぶつかった。
  朝鮮半島にソ連が入って来て、日本とぶつかった。
  この朝鮮半島のぶつかり合いで始まったのが、日露戦
 争だった。
  そして、その結果、日本は、この日露戦争に勝利し、
 ロシアの権益だった満州を移譲された。
  満州は、日本が侵略して得たのではない。移譲されたのである。
  そして、大東亜戦争(第二次世界大戦)の時、アメリ
 カ大統領のルーズベルトは、この「元ロシア領の満州」
 を餌にした。
  この満州の旧ロシア権益の復活を餌(エサ)に(それ
 に、旅順と大連という、ロシアが欲しくてたまらない不
 凍港の「おまけ」まで付けて)
  ソ連の対日戦への参戦を、ルーズベルトは、そそのか
 し、煽(あお)った。
  (アメリカよ! 満州は。君の領土ではないだろう!)
  しかし、ハリマン(アメリカの駐ソ連大使)が、「ソ
 連の共産化と、その他の地域が共産化される」という事
 に気付いたところから・・問題は発生した。
  アメリカは悩んだ。
  ルーズベルトは、キリスト教に強く洗脳され、キリス
 ト教のシャローム(キリスト教以外の異教徒の居ない、
 まったくのまっさら地に平和が来る・・という完全破壊
 の地から平和が来るという非人道的考え方・教義)から、
  日本へ無条件降伏をさせるとルーズベルトはしていた。
  (有色人種の日本人というキリスト教の有色人種蔑視
 もルーズベルトにはあった)。
  しかし、この無条件による日本の降伏で、「戦争終結
 が遅くなる」ことが予測された。
  (ルーズベルトの「国の形も維持されない」という無
 条件降伏は、チャーチルも可能か?といぶかったほどの
 異常な要求だった)
  その戦争状態が長期化すると、果たして、ソ連の参戦
 は正しかったのか?・・となる。
  ソ連の東アジアでの対日参戦を切っ掛けとした戦争が、
 長くなることになれば、
  それは、共産化される地域が広く、大きくなることを
 意味していて・・アメリカはそれを恐れた。
  (ルーズベルトの、「ソ連参戦のそそのかし」は逆目・
 反対の目に出ていた・・浅はかなルーズベルトだった)
  アメリカが、日本への降伏を、「無条件」から「条件
 あり」に変わったのは・・この様な所があったからだっ
 た。
  日本が大切にしている国家の状態・『くにがら』を保
 つ要求を容れた(いれた、認め受け入れる)方向へと変
 化した。
  アメリカ首脳にあったジレンマが解消される方向へと
 動いた。
  天皇制擁護論へとなった。
  日本とアメリカとの戦争が長引いたのは、この点があ
 った。
  もっと早く、アメリカは、この条件を容れるべきだっ
 た。
  最初、「日本に無条件降伏を要求する」と、ルーズベ
 ルトが、チャーチルへ口にした時、
  「その様なことがあり得るのか?」と、チャーチルが
 言った様に、
  あまりにも法外(ほうがい、普通に考えられる程度を
 はるかに超えていること)な要求に、チャーチルも驚い
 たという・・その「無条件降伏」ではなくなった。
  日本としても、日本のしっかりした「くにがら」が見
 えない形での戦争終結は・・納得できるわけはなかった。
  この様な方向へ早く動いて、戦争を終結していれば、
 戦争の最末期で亡くなった、特に、多くなった人々の死
 は免れたのだった。
  アメリカは、早く、この卑劣な条件なし・無条件降伏
 を変えるべきだった、返上すべきだった。
  しかし、この様なアメリカの方向性が出ても、アメリ
 カは、原子爆弾を投下した。
  卑劣な限りだった。
  ルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は・・、
 1943年8月と1944年8月の2回、カナダのケベックで会談を
 している。
  第二次ケベック会談の前日の1944年9月19日にも、ルー
 ズベルトとチャーチルは、アメリカのニューヨーク州の
 ルーズベルトの家で密談している。
  ルーズベルトが推進した原爆製造計画は、この頃、3年
 におよぶ研究で、実用化に目途がついていた。
  そして、この二人は、覚書に合意した。
  それは・・、
  「十分な考慮の後、日本に使用し、降伏するまで投下
 すると警告する。
  原子力研究は、日本降伏後も継続する。
  そして、原子爆弾に関する情報は極秘であり、ソ連に
 は伝えない」
  ・・だった。
  この様な経過の中で、ルーズベルトの突然の死で、大
 統領を、トルーマンが引き継いだ。
  日本への原爆を投下するのか? 
  投下すると決断してよいのか?
  ・・が存在していた。
  トルーマンは、1945年5月3日に、原爆使用に関する内
 務委員会を作った。
  1945年7月ごろ、委員会議長の陸軍長官・スティムソン
 は、日記に次のように書いた・・、
  「原爆開発が、戦後に、どのような意味を持つのか。
  さらに、人類最初の原爆投下によって生じる責任問題
 についても、我々は、理解しておかなくてはならない。
  (中略)
  果たして、日本に、原爆は投下されるべきなのか、
  もしそうならばどのような条件で」・・と。
  1945年6月に・・最初の、委員会の勧告が、出されてい
 たが・・、
  その内容は・・、
  「日本に警告を与えず、
   その破壊力を示す事が出来る効果的な目標を選んで
  投下すべきだ」・・と勧告していた・・が・・、
  1945年7月2日に・・、
  内務委員会議長のスティムソンは・・、
  その勧告を無視するかのように・・、
  トルーマンに、次のような提案を行なった・・、
  「日本上陸作戦は、激しい抵抗を伴う事は明らかです。
   問題はこうした力による方法でしか日本を無条件降
  伏に導く手段はないのか・・という事です。
   私は(原爆投下の破壊力について)事前に警告し、
  降伏のチャンスを与えるべきだと・・考えます」・・
  と。
   そして、「日本は(アメリカの)新聞が報じる様に
  狂信者ばかりの国ではありません。
   それどころか、非常に知的な人々が居る事をこの一
  世紀の歴史が示しています。(中略)
   もし、われわれが、現在の天皇家の存在を立憲君主
  制として認めるなら、日本が降伏に応じる可能性は、
  非常に高いと思うのです」・・と。
  ・・しかし・・(続く・・)、
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:国家の厚み
.
  「国家の基本を踏み外せば、子孫がどんな不利益をこ
 うむるか?」・・、
.
  この、長期的な大局的な視点が大切である。
  アメリカは、この視点が欠けている・・欠けていた。
  目先の自国の利益ばかりを追い、不正義も色々とした。
  その様な国だった。
  泣き苦しんだ「民、そして、国」があまた居た。
  アメリカは、利益を優先していた。
  日本は、1872年(明治5年)の新橋~横浜間の鉄道敷設
 資金として、外国から借りた資金をはじめ、国家建設の
 ために種々必要だったあらゆる資金のすべてを、
  「まだまだ弱小だった、小国の日本」が・・、
  それに「弱肉強食の列強諸国の中にあって・・その厳
 しい時代」に・・その借りた資金のすべてを、
  せっせせっせと努力し・・、
  勤勉に努めて・・、
  借りた資金のすべてを・・完済した。
  この歴史も、国際社会の記憶となって・・、
  また、日本の勲章となって・・輝いている。
  「信義(しんぎ、真心をもって約束を守り、相手に対
 するつとめを果たすこと)」・・
  これこそ財産だ・・と、
  日本は、遠い昔から・・その様に考え・・育んで来た・・、
  その日本のこの常識が・・、
  大きな国際的な信頼を得るという・・
  この「真の財産」を・・、
  日本は・・いっぱい持っている。
  それは、その根底には、歴史の長い国の、国家の生き
 方をわきまえた、考える視点があり、
  その基底の考え方から来ている・・その「国家の厚み」
 がその様にさせたのだった。
.
  そして、また、次の(今日の言葉)
.
  題:日本の国家信条は・・『誠』を尽くす。
.
  日本の国家信条(しんじょう、固く信じている事柄)
 の一つは、「国際社会において『誠』を尽くす」だ。
  これに対し、アメリカの歴史を見て来ると、「利の追
 求」。
  それも、正々堂々と利を得るのではなく、まったく、
 ずる賢く、利を得ることのいかに多いかに驚く。
  イソップ物語の「狐の如く」である。
  日本が誇るべきは、日本は、「信義」を重んじた。
  日本は、一旦結んだ国際関係の約束、条約などは守り
 抜いた。
  決して、、イソップ物語のキツネの如くのマネはしな
 かった。
..
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2016年11月1日火曜日

(増補版)448E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年5月)

題:(増補版)448E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年4月1日、「内務省地理局長崎測候所」が、長崎県へ
 移管され、「長崎県立長崎測候所」と改称した。
  この年の1月1日に、東京気象台が中央気象台と改称さ
 れていたが・・、
  1877年(明治10年)1月、内務卿・大久保利通の建議に
 よって、当時、電信線の開通している長崎・兵庫・仙台・
 青森・新潟の5カ所に、内務省直轄の気象測量場を設立す
 ることが決定し、
  1878年(明治11年)7月1日、国費をもって、彼杵郡下
 長崎村十善寺郷361番地[1](海抜57.6m)に、長崎測候所
 が設置された。
  長崎測候所は、日本初の地方測候所として開設された。
  また、「測候所」という名称が用いられたのも、長崎
 測候所が初めてだった。
  そして、毎日、3回の気象観測を行い、内務省地理局測
 量課へ報告がなされた。
  そして、この時、1887年(明治20年)4月1日、長崎測
 候所が、国から長崎県へ移管された。
1887年4月 東京紡績会社が設立された。
  東京紡績は、この時・1887年(明治20年)4月に設立さ
 れ、
  東京深川(当時は東京市深川区東大工町小名木川沿岸)
 に本社工場があったが、
  1908年(明治41年)に、創立20周年を記念して、新たに
 東京荒川の南千住地方(じかた)橋場(現・荒川区南千住8
 丁目)に、橋場工場(敷地16万m2)を建設した。
  橋場工場は、1928年(昭和3年)4月に、東京工場と改
 称し、
  第2次世界大戦時には、東京航空機製作所として軍需に
 転換した・・しかし・・
  戦後に復元したが・・、
  1962年(昭和37年)11月に、閉鎖されるまで、綿紡工場
 として存続した。
  閉鎖後は、経営の多角化を目指して設立されたニチボ
 ー不動産(株)(現・(株)ユニチカエステート)によって、
 跡地に自動車教習所、ゴルフセンターの新規事業が展開
 され、
  その後は、東京都の都市計画により、1971年(昭和46
 年)~1976年(昭和51年)の間に順次、都に売却し、
  現在は、マンション群と汐入公園になっている。
  日本の紡績業は、日米の繊維摩擦で悲惨な状況となっ
 ている。
  日本は、アメリカに強硬に繊維産業が潰された。
  繊維の輸出規制と、沖縄返還を絡めた交渉は、「糸(繊
 維)と縄(沖縄返還)の取引」とも言われた。
  佐藤栄作首相は、1969年の首脳会談で、沖縄返還の約
 束を取り付けるとともに、ニクソン大統領に輸出を規制
 すると伝えた。
  だが、両国の溝は大きく、いったん交渉は決裂した。
  1971年の沖縄返還協定調印後、日本が規制と引き換え
 に繊維業界に補償することを決め、
  1972年1月、合意に至った。
  当然、日本に返還すべき沖縄が材料に使われ、日本の
 毛・化合繊製品の対米輸出規制をめぐる厳しい交渉は、
 1969年~1971年に行なわれたのがピークだった。
  それ以前の綿製品の対米輸出規制をめぐる交渉が、長
 引いても数ヵ月以内に事務レベルで決着していたのに比
 べ、
  この時の毛・化合繊製品をめぐる交渉は、政治問題化し
 て2年半も紛糾し、
  第2次大戦後の日米関係における最悪の危機的状態をも
 たらしたと言いわれた。
  特に、この問題は、1968年のアメリカ共和党の大統領
 候補ニクソンの選挙公約に端を発し、
  1969年春、ニクソン新政権下に出された日本に対する
 厳しい自主規制要求に始まった。
  上記の東京紡績会社も、1962年(昭和37年)11月に、閉
 鎖している。
  そして、日本の紡績業界は、紆余曲折にのたうち回る
 ことになる。
1887年4月、浅野総一郎が、浅野回漕部を設立した。後の東
 洋汽船。
  東洋汽船のルーツは、浅野総一郎が、1886年(明治19
 年)に設立した浅野廻漕店(浅野廻漕部)で、
  浅野廻漕店は、浅野が、渋沢栄一や渋沢喜作らととも
 にロシアから汽船「ベロナ」を購入し、
  「日の出丸」と命名し、石炭を輸送することを生業と
 していた。
  やがて、持ち船を増やし、日本郵船に対抗する意味合
 いをもって、他の小規模船会社とともに、海運同盟会を
 結成した。
  日清戦争直前の、1893年(明治26年)頃には、帆船な
 ども含めると、8万総トンもの船腹を有する規模にまで発
 展し、
  日清戦争では、何隻かの持ち船を日本軍御用船として
 提供した。
  折りしも、日清戦争終結後の1896年(明治29年)に、
 航海奨励法と造船奨励法が施行され、
  日本船が、海外航路に就航する際や、新造船建造の際
 に、一定の補助金を出すという、この二つの法律の施行
 を契機として、
  日本の船会社は、相前後して海外へと打って出る事と
 なった。
  この様に荒波を乗り越えて来たこの会社も、戦後の財
 閥解体に会い、
  安田財閥系に属し、筆頭株主が安田銀行だったこの東
 洋汽船もその波に飲まれた。
  そして、1960年日本油槽船へ吸収合併されて姿を消し
 た。
1887年4月14日、塵芥取締規則が制定され、ゴミ回収事業が
 始まった。
  東京市史稿、市街篇によると・・、
  1887年4月14日に、厠芥溜下水取締規則が創定されて
 いる(官報第1134号明治20年4月14日、官報第1126号明治
 20年7月30日、東京府警視庁公報明治22年、第4版警視庁
 令類纂明治27年3月刊)
  そして、別史料の記述に・・、
  1887年に、警視庁の警察令で「塵芥取締規則」が制定
 され、
  東京市内では、各戸にごみ容器が備えられ、指定搬出
 業者がごみを収集(有料)するようになった・・とある。
1887年5月5日、京都織物会社が設立された。
  京都織物会社(1887年設立)は、ヨーロッパの最新技
 術による日本最大の近代織物工場だった。
  浜岡光哲や田中源太郎など、京都の財界人だけでなく、
 渋沢栄一や益田孝、大倉喜八郎など、当時の日本を代表
 する実業家が発起人に名を連ね、
  経営にも参画していた。
  いわば、中央の財界と京都府とが一体となって創設し
 たモデル工場だった。
  超一流の経営陣、ヨーロッパ帰りの技術スタッフ、最
 先端の設備をもって創業した京都織物会社は、
  明治から大正期にかけて、名実ともに織物・染色業の
 トップメーカーになって行った。
  従業員も、全国各地から選りすぐられ、
  技術者は、蔵前高等工業(現・東京工業大)、
  事務担当は、京都第一商業など商業学校出の成績優秀
 者で占められていた。
  とても尋常小学校出の坂部三次が、簡単に入社できる
 会社ではなかった。
  何軒もの商家を渡り歩いた三次の身元引受人となり、
 温かい眼をそそいだのは郷里の先輩・田中源太郎だった。
  田中は、幕末の亀岡藩にあって、最も年若な家老だっ
 た。
  維新後は、実業界に進んで成功をおさめていた。
  山陰本線の母体となる京都鉄道を設立するなど、三次
 が京都市に出てきたころは、京都経済界のリーダー的存
 在だった。
  坂部本家も田中家もともに、亀岡藩家老の家柄だった。
  そうした縁もあって、三次の兄は、田中の援助を受け
 て、府立京都商業学校に通っていた。
  三次が入社したころの経営陣を見ると、取締役会長の
 渋沢栄一を頂点にして取締役は4人という構成だが、
  そのなかに田中が名を連ねている。
  坂部三次は、郷里の名士・田中源太郎に眼をかけられ、
 「事務見習」として、新しくスタートをきった(後略)
  (日本クロス工業社史を参考にした)
1887年5月6日、叙位条例を公布した(5月4日説あり)
  1887年(明治20年)5月4日には、「叙位条例」(明治
 20年勅令第10号)が制定されて位階制度の再編が行われ
 た。
  これによって、位階は、正一位から従八位までの16階
 とされた。
  そして、叙位対象者に関しては「凡ソ位ハ華族勅奏任
 官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ功績アル者ニ叙ス」
 とされた(叙位条例1条)。
  従四位以上は、勅授(宮内大臣から伝達)、
  正五位以下は奏授(宮内大臣が天皇陛下に奏して叙位)
 とされた。
  また、位は従四位以上は華族に準じた礼遇を享けた。
1887年5月9日、板垣退助、大隈重信、勝海舟、後藤象二郎
 を伯爵に、他13人を子爵に叙した。
  板垣のみ、一旦辞意を表明した後、授爵した。
  (氷川清話)勝海舟、特旨をもって華族に列せられる、
 勲功により伯爵を授けられる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:真実に、人間的に・・悩むアメリカがあった・・
.
1945年5月、この時、悩むアメリカがあった・・
  相手を見るとき、「相手を・・差あるもの」と見る。
  アメリカは、その差あるものを切り捨て排除した。
  アメリカの論理で・・、
  アメリカは、その論理を正しいと、当然、自分の思考
 によって、自分の判断基準によって、その結論に至った。
  その結果ゆえに正しいとし、その正しさを実現する事
 を正義とし、その正義実現のために排除行動を起こし、
 その一連の行為を・・「正義を成した」とした。
  そして、野蛮なこの行為のすべてを、崇高なる行為だ
 と自画自賛した。
  そして、駆逐した相手をプロパガンダ(嘘宣伝)まで
 して、地に落とした。
  その一連の自分の行動が、まったく、公正さに欠け、
 独りよがりになっている事の反省はなかった。
  そして、その行動には、武力も辞さないという一時代
 前の蛮行が行われた思考論理をもって、その行動さえも
 正しいと、正義だとした。
  そのような思考の下に起こされた戦争の結果は、悲惨
 そのものだった。
  「極限の悲惨さ」と言わざるを得ない残酷なやり方を
 アメリカはした。
  アメリカは、アメリカなりにそれに満足し、納得する
 浅はかさの状況にあった。
  自らの行動の行き過ぎに、少しの反省もなかった。
  まったく悲しい事である。
  そこに亡くなった命の大きさに気が付かないアメリカ
 だった。
  自国の子供たちへも正義だったと洗脳した・・今でも、
 洗脳し続けている。
  そこには、後ろめたさが有るから、その様な行動をせ
 ざるを得ないという事は、明々白々、誰の目にも明らか
 であった。
  愚かな事である。
  そんな言い訳を、子供たちにしなければならない行動
 だったのだ、戦争だったのだ・・という事である。
  まだ、思考形態の未熟な子供たちに「原爆投下が正し
 いという屁理屈」を、反駁のしようのない、いたいけな
 子供たちに「刷り込んだ」、そして、「刷り込んでいる」。
  この様な結果に至った初めには、「相手を差あるもの」
 と見て、
  その差を「自らの、自分の」思考で評価し、良否判断
 をするという、自分勝手な思考、そして、行動パターン
 があった。
  そして、キリスト教の「異端排除の正義だという考え
 方・教義・思想」「異教徒は殺せのキリスト教の教義」
 に洗脳され、マインド・コントロールされた思考パター
 ンと、行動パターンであった。
  「正しくないのでは?」と反省する心、「見直しする
 心」は、毛頭、無かった。
  その思考の中に、日本人が当然のように持つ「共生」
 の考え方はなかった。
  差があるものと見ず・・差別せず・・世界の国々を、
 富める国も貧しい国も各々(おのおの)その国の特性を
 生かし、それぞれの役割があるのだ・・という見方は出
 来なかった。
  日本の国際的な援助行政は、まったくこの「共生の考
 え方」で行われている。
  富める国も貧しい国も各々その国の特性を生かし、そ
 れぞれの役割を果たす事によって「共生」するのである。
  そして、そこには、差あると見て、その差を「自分の
 都合の良いものを良し」とし、都合の悪いものを「異端」
 として抹殺し、排除するは、当然、悪としている。
  キリスト教の差別教義「異教徒は殺せ」は、当然、悪
 なのである。
  ・・しかし・・
  隠されたアメリカがあった・・
  新たに明らかになった事々の中に、史料の中に、一部
 ではあるが・・反省し、悩む、アメリカがあった。
  まったく、愚かなるアメリカである・・、
  ハリマン(アメリカの駐ソ連大使)は書き、そして、
 伝えた・・、
  「ソ連の日本への参戦は、果たしてそれほど必要な事
 なのだろうか?
  そもそも、我々の対日戦争の目的は何なのか?
  日本の完全破壊か?
  それとも、日本を残すべきなのか?」・・と、自問自
 答していた(「チャーチル、スターリンへの特使」)
  わずかに残されていたアメリカの『常識』だった。
  しかし、愚かなるアメリカは、ハリマンのこの問い掛
 けに、
  アメリカ指導部は、終戦となるまで答えが見いだせな
 いまま、悩みの中で、原爆は投下され、ソ連は参戦した。
  愚かな戦争を作ったアメリカの史実の中に、この様な
 内容の史実があった。
  1945年5月、グルーが、「新たな戦う相手・ソ連が現れ
 た」と、慄(おのの)いていたのは、このハリマンの心
 の吐露を知り、反映した事々だった。
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2016年10月31日月曜日

(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年4月)

題:(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年4月26日、第26回 條約改正會議で、改正案が成立し
 た。
  第二十六回条約改正会議で、裁判管轄に関するイギリ
 ス・ドイツ案を修正して議定(ぎじょう、合議してこと
 を決めること、また、その評議)した。
  その内容は、領事裁判権を撤廃する・関税自主権の一
 部を回復する(輸入税率を5%から10%に引き上げる)
  代わりに、次のことを実行する。
  (1)批准後2年以内に、日本内地を外国人に開放する。
  ハリスとの条約では、横浜・神戸などの居留地以外で
 は、外国人は、居住・通商・不動産所有は禁止されてい
 た。
  領事裁判権も、居留地のみに適用としていた。
  井上案によると、外国人に内地雑居の地を認める。
  つまり、どこでも居住・通商が出来ることになる。
  (2)そのために、外国人にも通用する西洋主義によ
   る法典を編纂する。
  そのためには、日本の国家主権が制限される。
  (3)内地雑居の地で起きた外国人が関係する事件では、
    すべての裁判所で、外国人判事・検事を半数、任
    用する・・というものだった。
1887年4月26日、九代目市川団十郎、井上馨邸にて「勧進帳」
 を演じ、栄誉に浴した。
  東京.麻布鳥居坂の井上馨邸で、明治天皇陛下が歌舞
 伎を観覧された。
  初めての天皇陛下の演劇観覧だった。
  また、井上の他にも、伊藤博文や松方正義などの元老
 などの国内外の関係者が観劇し、演目は「勧進帳」のほ
 かもあった。
  これによっても、歌舞伎の高尚化が進み、歌舞伎役者
 の社会的地位も良くなり、
  近代歌舞伎が、国劇の地位を確保する大きな転換点と
 なった。
  政府側も、欧米に文明国・日本を印象付けるため、内
 外上流社会の社交場として、外国大使らを招く国際的な
 観光行事として取り組んだ。そして、
  天覧劇への外国要人の招待は、不平等条約改正を図る
 「鹿鳴館外交」の一環とされた。
1887年4月28日、農業の振興に大切な化学肥料・・、
  東京人造肥料会社が設立された(2月説あり)
 後の大日本人造肥料、そして、日産化学工業株式会社へ。
  同社のホームページより、以下その沿革・・、
  1887年(明治20年)高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明
 治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である
 東京人造肥料会社として創業した。
  その後、関東酸曹株式会社、日本化学肥料株式会社等
 を合併し、
  そして、大日本人造肥料株式会社に商号変更、
  1937年(昭和12年)に、日本産業株式会社傘下の日本
 化学工業株式会社に資産等を包括譲渡したのちに、現在
 の社名である日産化学工業株式会社に改称した。
  最初の工場は、現在の江東区大島1丁目に建造され、い
 まも跡地の公園には当時を偲ぶ記念碑がある。
  1887年(明治20年)2月、東京人造肥料会社(のちの東
 京人造肥料株式会社)設立
  1889年(明治22年)7月、日本舎密製造会社(のちの日
 本化学肥料株式会社)設立
  1891年(明治24年)3月、日本舎密製造会社小野田工場
 (現在の当社小野田工場)完成
  1895年(明治28年)12月、合資会社王子製造所(のち
 の関東酸曹株式会社)設立
  1897年(明治30年)11月、関東酸曹株式会社王子工場
 (のちの当社王子工場)完成
  1907年(明治40年)12月、東京人造肥料株式会社小松
 川工場(のちの東京日産化学株式会社)完成
  1910年(明治43年)7月、東京人造肥料株式会社が大日
 本人造肥料株式会社と改称
1887年4月30日、法律顧問ロエスレル「日本帝国憲法草案」
 を提出する。
  政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレルが、法
 制局長官の井上毅に、独文での憲法試案を提出した。
  ロエスレルは、1878年、当時の駐独公使・青木周蔵の
 周旋によって、外務省の公報顧問として招聘された。
  ロエスレルは、1834年、ドイツ・バイエルン地方のラ
 ウルに、弁護士の子として生まれた。
  カール・フリードリヒ・ヘアマン・ロエスレルは、エ
 ルランゲン大学やチューリッヒ大学で、法学や国家学を
 学んだ後、
  ロストック大学の教師となると、
  1861年に、27歳の若さで同大学の国家学教授となった。
  1878年に、訪日するまでその地位にあって、イギリス
 の経済学者アダム・スミスを批判した書や、社会行政法
 に関する書を著し、学界の指導者として知られていた。
  ドイツ公使だった青木周蔵のあっせんにより、外務省
 の法律顧問として訪日したロエスレルは、
  1881年3月ころから、民法の起草をするかたわら、
  岩倉具視の知恵袋といわれ、
  のちに、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者のひとり
 となる井上毅に、ドイツ(プロイセン)流の君主主義的憲
 法の採用をアドバイスした。
  一方、大隈重信は、イギリスにならった開明的憲法を
 つくるように政府に提案したが、
  同年・1881年7月、岩倉によって憲法制定の根本方針は、
 ドイツ的立憲主義とすることが上奏され、
  他の事件とのからみもあって大隈は罷免された(明治
 十四年の政変)。
  その後、ロエスレルは、内閣顧問に抜擢(ばってき)
 されて、伊藤博文の信任を得た。
  1886年秋ごろから、伊藤の私邸で、伊藤、井上、伊東
 巳代治、金子堅太郎を中心に大日本帝国憲法の草案作成
 が極秘のうちに着手された。
  ロエスレルも、私邸近くに宿泊して助言を求められた。
  1887年夏に、「日本帝国憲法草案」ができあがったが、
 その草案の多くは、ロエスエルが、4月に提出した私案の
 大半が採用されたと言われている。
  そして、「日本帝国憲法草案」は、そのまま受け入れ
 られ、
  1889年に発布され、1890年に公布された。
  その後、ロエスレルは、商法を起草したが、民法とと
 もに施行延期となっている。
  1893年に帰国し、翌年・1894年に、妻子の住むオース
 トリアに移り、亡くなった。享年60歳。
1887年4月、「対馬要塞」が建設を開始した。
  温江砲台・芋崎砲台・大平低砲台を起工した。
  そして、この年の9月に、大石浦砲台も着工した。
  翌年の1888年には、この4つの砲台が竣工している。
  対馬の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞。
  対馬中部の浅茅湾を防備するため、1887年4月から工事
 が開始された。
  この工事は、東京湾に次いで日本で二番目のもので、
 1888年10月までに、4砲台が竣工し、日清戦争を迎えた。
1887年4月、長崎海運局の前身となる長崎司検所が開所した。
1887年4月、三菱社社長岩崎彌之助が、大蔵大臣伯爵・松方
 正義に長崎造船局の払下げを申請した。
  1887年6月、代金45万9000円で許可を受け、長崎造船局
 は三菱社の所有となる。
  現在、三菱重工業長崎造船所となっているが、日本を
 支えて来た、そして、これからも支えて行くこの社の流
 れ(沿革)は・・、
  1857年(安政4年)江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設
    着手。
  1860年(万延元年)「長崎製鉄所」と改称。
  1861年(文久元年)完成。
  1868年(明治元年)官営「長崎製鉄所」となる。
  1871年(明治4年)工部省所管「長崎造船局」と改称。
  1879年(明治12年)立神第一ドック完成
  1884年(明治17年)三菱経営となる。
    「長崎造船所」と改称。(三菱重工業は、この年を
    創業年としている。)
  1887年(明治20年)設備の払い下げを受ける。
  長崎県長崎市にある本工場(長崎造船所)、香焼工場、
 幸町工場と、諫早市の諫早工場からなる。
  大型客船や大型タンカー、LPG船等の船舶のほか、発電
 プラント、環境保全設備、海水淡水化プラント等、多岐
 にわたる製品を製造している。
  本工場(長崎造船所)は、1857年(安政4年)に、日本
 初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として誕生し、江戸幕
 府から明治政府に管理が移った後、
  1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後民営の造船所
 として多数の艦船を建造した。
  戦艦「武蔵」を建造したことでも有名。
  戦後、三菱重工は3社に分割されるなど親会社は紆余曲
 折したが、本工場は賠償撤去指定工場を免れ存続する。
   一時期は受注も途絶え小型の漁船を細々と建造する
 有様であったが、
  1950年(昭和25年)の朝鮮戦争前後よりその高い造船
 技術を評価され 、
  以後オイルショック頃まで大型タンカー受注が続いた。
  現在は、民間船舶の他、海上自衛隊の自衛艦も多数建
 造している。
  1950年代には、後甲板の傾斜に特徴的な設計を持つ護
 衛艦を多く建造し、護衛艦における「オランダ坂」の名
 前の由来となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:マッチポンプ・・アメリカ・・
.
1980年9月22日、イラン・イラク戦争(湾岸戦争)が起きた
 (~1988年8月20日)
  アメリカのブッシュ(父)大統領の時に起きた。
  因みに、ブッシュ(子)大統領の時には、イラク戦争
 (2003年3月20日~2010年8月31日にオバマ大統領によっ
 て「戦闘終結宣言」が出された)が起きた。
  このブッシュ(父)大統領の時の「イラン・イラク戦
 争(湾岸戦争)」で、アメリカはイラクを応援した。
  そして、イスラエルは、イランを応援した。
  (アメリカは、なんだかんだとイスラエルを支援する
 という、両国は緊密関係にあるのだが・・?
  この緊密関係にある両国が、まったく敵対する違う国
 を、それぞれ応援するという・・不思議・・??)
  そんなことしたら・・そうしたら・・戦争はいくらで
 も続いてしまう。
  そこで、「これでは戦争は、いつまでも続くではない
 か??」・・と、伊藤貫氏が質問すると・・??、
  「そうだ、それでいいのだ」、
  「それが、我々の目的だ」、
  「それが、我々に都合がよいのだ」という返事が返っ
 て来たという・・??
  YouTube「西部邁ゼミナール、文明の衝突と不介入主義
 外交」の、14分00秒あたりから23分00秒あたりの発言。
  日中戦争(本当は、日・中米戦争)の当時、
  日本と中国の戦いだと思われたこの戦争も、陰でアメ
 リカが、れっきとした戦力(=アメリカ正規軍)で、日
 本と戦っていた。
  (日本とアメリカの戦争は、『真珠湾で始まった』な
 んていう話は真っ赤な作り話・・なのだ。
  この『日・中米戦争』で、既に、日本とアメリカは、
 戦争状態にあった。
  ただ、アメリカが、卑怯な事に、卑劣な事に、秘密に
 して、隠していただけ・・今は、明らかになっている事)
  そこで、日・中(米)戦争と書いたが・・、
  この日・中(米)戦争も、先ほどの伊藤貫氏の発言の
 如くの状況から、日・中(米)戦争が泥沼化して行った。
  アメリカが、汲めども尽きぬ無尽蔵の「金と武器」を
 中国へ注ぎ込み支援していた、隠れて流していた。
  これでは、戦争が終わる訳がない。
  この中国へ支援するルートを、「中国の蒋介石を支援
 するルート」という意味で「援蒋ルート(えんしょうる
 ーと)」と言った・・が・・、
  日本は、この存在を知って、これがあっては戦争は何
 時までも終わらない・・と、
  東南アジアにあったこの地域のこのルートを遮断しよ
 うと上陸した。
  アメリカは、この日本の行為を「侵略だ」と声を大き
 くして国際社会にプロパガンダ(嘘宣伝)し、
  (アメリカ軍だって上陸していて、こんな戦争の物資・
 武器を上陸させているのに・・だ)、日本を悪者に落と
 し、それ(日本)と戦うのが正義だとした。
  マッチポンプという言葉があるが、それは、「自分で
 火をつけておいて、火事だ火事だと騒いで、火事を消す
 行為」のことを言うが、
  アメリカは、まさしく戦争をこの様にして、そして、
 また、戦争を作って、行っていた。
  (注):伊藤貫氏の上記のYouTubeのURLは・・、
https://www.youtube.com/watch?v=529u9sljqXA&index=4&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  表題:文明の衝突と不介入主義外交・西部邁ゼミナール
  (参考)マッチポンプ:《(和)match+pomp(オランダ)》
    自分で問題やもめごとを起こしておいてから収拾
   を持ちかけ、何らかの報酬を受け取ろうとすること。
   また、その人。
    マッチで火を付けてポンプで消火するという二役
   を一人でこなす意。
    自分の利を得るためだけで、こんな卑劣な行為を
   する輩の行為。
    何ら世界や相手への思いやりなど微塵もない。
    理屈は何でもつくから「やりたい放題」だった。
  そして、この年に・・、
1980年代、ソ連は、経済の行き詰まり、官僚制による体制
 の硬直化が明らかになった。
  1985年にソ連共産党書記長になったゴルバチョフは、
 体制の危機を乗り越えるための「ペレストロイカ(改革)」
 に乗り出した。
..
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2016年10月30日日曜日

(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)

題:(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年3月 天満紡績・平野紡績会社が設立された。
  天満紡績(てんまぼうせき)は、大阪近郊に存在した
 紡績会社で、
  1887年3月のこの時に、第三十四国立銀行頭取の岡橋治
 助ら大阪の商工業者が中心となって設立され、
  資本金は60万円で、
  本社工場を、大阪府西成郡川崎村(現在の大阪市北区)
 に置いた。
  翌・1888年に、約7000錘の工場が完成して、操業を開
 始し、
  続いて、約27000錘規模の第2工場の建設も開始した。
  第2工場は、1889年に完成し、資本金も120万円にまで
 増やした。
  これによって創業から2年余りで、当時の日本国内屈指
 の紡績会社となった。
  ところが、その矢先の1889年9月、天満紡績争議が発生
 し、
  その5年後の1894年1月にも大規模な争議が発生した。
  そのためか、増資と減資を繰り返すなど、経営は不安
 定となり、役員を総交替させるなどの措置を取ったもの
 の、状況は回復できず、
  1900年3月、同じ西成郡を拠点とする大阪合同紡績と合
 併した。
  以上の様に日本の産業革命期の紡績業は突出した成長
 をした。
  そして、それを大企業が先導した。
  日本農家の副業的な綿生産は、欧米からの低価格・高
 品質な綿糸に駆逐されるて行く。
  明治10年(1877年)には、わが国の輸入総額の3割~4
 割が、輸入された綿製品の輸入額となる。
  この様な巨額の綿糸輸入額に危機感をいだいた明治政
 府が、近代的な機械紡績を奨励した所以である。
  因みに、日本最初の洋式紡績工場は、1867年に竣工し
 た薩摩藩営の鹿児島紡績所である。
  この様に、近代紡績への日本の試みは早いのである。
  この様な経緯の中、渋沢栄一の慧眼(けいがん、物事
 をはっきりと見抜く力)により、海外製品に対抗しつつ、
 近代紡績業を事業として成功させるために、10000錘規模
 以上の工場を建設する必要を感じていた。
  この構想は、大坂紡績として実現した。
  (下記部分は、法政大学イノベーション・マネジメン
 ト研究センターの論文を参考にした)
  平野紡績の沿革は・・
  1887年3月25日、平野紡績、14代末吉勘四郎・津田六蔵・
    中瀬九兵衛らは、平野紡績の設立手続きを行なう。
  1887年6月7日、平野紡績創立、資本金250,000円、社長
    に14代末吉勘四郎。
  1887年8月2日、菊池恭三が平野紡績に入社。
  1887年10月12日、平野紡績が、技師菊池恭三に紡機購
    入と技術研究のため渡英を命じた。
  1888年4月、平野紡績の本社工場起工、英人トーマス・
    ウォルター・ドランスフイルドを据付けと連転指
    導のため招聘。
  1888年6月、平野紡績社長に金沢仁兵衛就任。
  1889年5月1日、平野紡績操業を開始、11,520錘。
  1889年6月26日、尼崎紡績・平野紡績は技菊池恭三の傭
    聘を発起人会できめる。
  1889年9月6日、尼崎・平野の両紡績会社で菊池恭三傭
    聘契約書を交換。
  1890年5月30日、尼崎・摂津・平野の3紡績会社間で菊
    池恭三の傭聘契約書を交換。
  1893年、第2工場増設。
  1895年(明治28年)10月1日、平野紡績取締役金沢仁作
    が大阪紡績の山辺丈夫と上海に赴く(11月0日帰国)。
  (ニチボー株式会社、75年史を参考にした)
1887年4月18日、文部省が、仙台に旧制高等学校の第二高等
 中学校を、そして、金沢に第四高等中学校を設立を決定
 した。
  この第二高等中学校は、中学校令に基づき、全国で5校
 のナンバースクールの高等中学校の一つとして設立され
 た。
  1886年設立の東京の旧制一高、京都の旧制三高に次ぐ
 ものであるが、
  高等中学校としては山口高等中学校に次ぐ全国第4番目
 の設立となる。
1887年4月20日、鹿鳴館で大仮装舞踏会(4月25日説あり)
  伊藤博文首相主催の仮装舞踏会が開催された。
  日本の識者・庶民の常識が、欧化主義批判をした。
  これに、世論がさらに沸騰した。 
1887年4月21日、富山市の大火(約900戸焼失)
1887年4月22日、条約改正列国会議が終了した。
  条約改正会議で、欧化政策に基づいた法典と外国人も
 参加した司法制度の整備を行うことで、治外法権撤廃を
 決定した。
  そして、この第26回条約改正列国会議は終了するが、
 外国人を登用するなどの条件に、政府部内を中心に反発
 の声が挙がった。
  さかのぼる事、この条約改正会議は、1886年(明治19
 年)7月、関税率改正については、ほぼ日本の原案に近い
 案が合意をみた。
  内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井
 上は、それを認めると法権回復交渉のカードを失うこと
 となるため拒否した。
  また、「泰西主義(西洋、もしくは西洋かぶれ)」に
 基づく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外
 務省内に設置した。
  日本が、制定する法律を各国に「通知」する件を巡っ
 ては、やや交渉が難航した。
  各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に
 合致するかどうかを監査する権利を持つものと理解した
 が、
  それを認めると、日本は、法律制定に外国の介入を認
 めることとなってしまうので、井上は、列国が「泰西主
 義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効
 の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付
 け加えることを提案し、各国もこれに合意した。
  かくして、条約改正会議は、新しい通商条約案と英独
 共同案に修正を施した修好条約案がほぼ合意をみること
 となり、
  1887年(明治20年)4月22日の第26回会議で終了した。
1887年4月25日、紋鼈(もんべつ)製糖所を伊達邦成らに貸
 下げた。
  そして、1890年3月に、払い下げた。
  この製糖所は、日本最初の官営の製糖工場だった。
  現在、日本甜菜製糖、北海道糖業、ホクレンの3社8工
 場で、日本一の生産量を誇っている。
  日本の甜菜業は、1870年(明治3年)東京に官営で始ま
 り、
  同年・1870年、北海道紋鼈(現:伊達市)に製糖所が
 設立された。
  3階建大工場で、機械はフランス式で技術が悪く、1896
 年解散、
  機械は、台湾製糖に譲られた。
  1921年、日甜、北海道糖業で生産再開、戦後合理化し、
 北海道寡占となった。
  北海道糖業道南製糖所入口に台湾返還の日本最古機械
 (三重蒸発効用缶、結晶缶)が残っている。
  (参考)甜菜:てんさい、サトウダイコンの別名。
      甜菜糖は、この大根の根から作った砂糖。
1887年4月25日、木曽川橋梁が完成した。
  1885年(明治18年):着工。
  1887年(明治20年):完成。単線で長さ1,800ft
  1891年(明治24年):濃尾地震により大きな損害を受
   けるが、翌年・1892年に復旧する。
  上り線:618.9メートル、下り線:619.4メートル、
  構造:ワーレントラス橋
  立派な架橋技術が日本に出来上がった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:新たな戦争すべき相手が出現したという・・『アメリカの恐ろしい妄念』
   妄念:誤った、よからぬ考え・・邪念・・妄執・・、
.
1945年5月19日、アメリカの新たな戦う相手が現れる・・と、
 感じたと・・
  第二次世界大戦型たがわれているこの時、早くも、ま
 た、愚かにも、アメリカに、「新たな戦うべき相手」が
 現れた。
  この時は、ドイツが敗れ、まだ、盛んに日本との戦い
 がなされている・・
  その戦いの最中のこの時、早くも、アメリカで、共産
 主義の脅威が囁(ささや)かれ始めた。
  何と愚かなアメリカであろうか?
  日本が脅威だと感じたアメリカが、日本との戦争を作
 り(アメリカ大統領のルーズベルトは、「日本との戦争
 を作った」と白状している)、
  そして、この時、その日本との戦いが終わりが近づい
 ているこの時に、
  今度は、共産主義のソ連に脅威を感じた・・と、「新
 たな倒すべき相手」と言い出した。
  アメリカ国務長官代行のジョセフ・グルーは、眠れぬ
 日々を過ごしたと記録している。
  そして、1945年5月19日の朝早く、5時、グルーは起き、
 次なる文を書いた。
  「このドイツと日本との戦争は、『二度と戦争を起こ
 さないための戦争』とはなり得ず、
  ただ、全体主義独裁を枢軸国(ドイツ・イタリア・日
 本)から単にソ連に移し替えただけの事ではないのか。
  (中略)
  ひとたびソ連が、日本に参戦すれば(これも、ルーズ
 ベルトがソ連のスターリンをそそのかして煽(あお)って対日参戦さ
 せたのに)モンゴル、満州、さらに、朝鮮半島が、ソ連
 の手に落ちるだろう。
  そして、いずれは、中国や日本も同じ(ソ連の手に落
 ちる)運命をたどる」・・と。
  グルーは、このメモを、翌日(1945年5月20日)、アメ
 リカの駐ソ連大使とソ連専門家、そして、ヤルタ会談の
 通訳だった者にに伝えた。
  対ソ連外交の最前線に立つ二人は、グルーの意味する
 ところを理解し、大きくうなずいた。
  際限なく繰り返される、超強大な武力を持つアメリカ
 のミス・失敗・・アメリカはそれに気づいた。
  こんなことは戦争する前から分かっていたこと・・、
  ソ連のシベリアの東への拡大は続き、太平洋にぶち当
 たって、南下政策になって、不凍港が欲しいのなんのと
 言っていたではないか?
  そして、日本とぶち当たっていたではないか・・何を
 今さら言うのだ・・?
  共産主義・ソ連が急に出来たわけでもないし・・、
  そして、この年・・
1945年9月28日、占領軍の軍医総監と公衆衛生福祉局長の
 サムス大佐が、東京都衛生局防疫課長に対し、具体的な
 都内の売春街等の話を出しながら、占領軍用の女性を世
 話をしてくれと要求した。
1945年10月2日、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が、
 東京に総司令部を設置した。
  このGHQの占領政策の基本コンセプトが、「日本を
 改造し、弱体化させる」・・ということも、すでに、歴
 史的に実証済となっている。
..
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2016年10月29日土曜日

(増補版)445E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年2月~1887年3月)

題:(増補版)445E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年2月~1887年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年2月8日:逓信省全般の徽章を「T」字形とすると発
 表した。
  2月19日、「T」は「〒」の誤植と訂正した(2月14日
 説あり)
  逓信省は、2月8日に、郵便マークに「テ」を定めるが、
 外国では料金未払いの意味だと判り、まもなく「〒」と
 改めた。
  この「〒」マークは、日本国独自のものであり、日本
 国外では使用できない。
  因みに、1871年6月7日(明治4年4月20日)に、日本の
 郵便事業が始まった。
  当初は、特に定められた徽章はなかった。
  ただ、「郵便」の文字だけでだった。
  1877年(明治10年)頃から、大きな赤丸(「日の丸」
 的な徽章)に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵
 便マークとして用いられ始めた。
  1884年(明治17年)6月23日、太政官布達第15号により、
 正式に「郵便徽章」と定められた。
  1887年(明治20年)に、「〒」が、逓信省の徽章に定
 められた際、この郵便徽章は自然消滅に属するとされた。
  1885年(明治18年)郵便等の所管官庁として、逓信省
 が創設された。
1887年2月13日、東京綿商社(のちの鐘淵紡績)が開業した。
  この時に、東京府南葛飾郡隅田村の通称:鐘ヶ淵(現:
 東京都墨田区墨田。墨堤通り沿い)に、東京綿商社とし
 て創立され、紡績会社として創業した。
  紡績工場は、1889年に完成した。
  すでに、大阪紡績は、錘数1万0500錘で、動力源として
 蒸気機関を導入するなど大規模で、また、近代的なもの
 であり、当初から好業績を記録し、規模を拡大していた。
  これに刺激されて、1886年に、三重紡績(東洋紡績の前
 身)が設立され、
  1887年に、この東京綿商社(現:鐘紡)の大規模紡績会
 社が相次いで設立された。
  国内生産力は、大幅に増加した。
  しかし、この結果、綿製品は、供給過剰に陥り、
  1890年に、綿紡績業は、初の不況を経験することとな
 った。
  この1890年には、早くも輸入綿糸を上回った。
  また、この頃から、最新式のリング精紡機が、ミュー
 ル精紡機に代わって中心となり、生産性が高まり、また、
 女工比率も上昇した。
1887年2月15日、民友社創業され、『国民之友』が創刊され
 た。
  主宰:徳富蘇峰が、民友社を興し、雑誌「国民の友」
 が創刊された。
1887年2月、彫刻競技会が、東京彫工会と改名した。
  江戸時代には、仏師や宮彫大工、人形師はいたが、彫
 刻家は存在しなかった。
  作られるのは欄間(らんま)であり、木版の版木だっ
 た。
  草分け的な彫刻家として登場したのが、高村光雲だっ
 た。
  東京浅草に生まれた高村光雲(本名:中島光蔵)は、
 奉公に出て働くその時、偶然から大仏師の高村東雲を奉
 公先に決まった。
  めきめき腕を上げた光蔵は、年季が明けた時、師は、
 光蔵に「光雲」の号を贈った。
  才に恵まれた弟子への愛情だった。
  そして、近代彫刻科としての歩みを始めた。
  明治初年の廃仏毀釈は、仏像の需要を減らしたのみな
 らず、貴重な仏像仏具が二束三文で外国人に叩き売られ、
  その上、金銀荘厳だけ剥がされて薪のごとく燃やされ
 るという惨状を生んだ。
  仏師や宮彫大工の仕事も激減し、彫物職人たちは生計
 を輸出工芸品に頼らざるを得なかった。
  この様な時に、生活を求める中、この時代に一世を風
 靡したのが「牙彫(げぼり)」=象牙彫刻であった。
  光雲は、木彫一筋を通した。数えるほどの人だった。
  この様な牙彫家にも、「谷中派」の職人と、彫刻を志
 す「彫刻競技会」の二派があった。・・しかし・・、
  1887年(明治20年)光雲は、後者の彫刻協議会の派と、
 「東京彫工会」を結成した。
  以後、光雲は、この東京彫工会や、日本美術協会に、
 作品を発表した。
1887年3月14日、 明治天皇陛下が、海防の整備のために、
 海防に関する詔勅とともに御手許金30万円を下賜された。
1887年3月20日、伊藤博文、柳原前光、井上毅、伊東巳代治
 ら、皇室典範、皇族条例草案を検討する。
1887年3月23日、所得税法を公布した。
  日本の所得税法は、この時に導入された。
  導入の当初は、所得金額300円以上の高額所得者のみを
 納税義務者としていた。
  そのため、この税を、名誉税と呼んだ。
  税率は最大3%で、税収に占める割合は僅かだった。
  しかし、酒税と地租以外、有力な税収を持たない明治
 政府にとって、将来的には、公平な負担をもたらす有力
 な税収になるとして期待されていた。
  帝国議会制定前に制定されたので、大日本帝国憲法制
 定後は、大日本帝国憲法第63条が適用された。
  1899年、法人所得を第一種所得として課税するように
 なった。
1887年3月23日、海防整備費用の献金を、府県知事に訓示し、
 地方有志から集めた。
1887年3月23日、陸軍で初めて「伝書鳩」を飼育した。
  陸軍が、東京と静岡県久能山の間を使って伝書鳩の実
 験を行い成功した。
1887年3月、清国水兵事件が北京に移された。
  1886年8月に起きた「清国水兵事件」の事件調べが、清
 国の北京に移された。
  後に、東京での、井上外務大臣と徐清国公使との会談
 で和議が成立した。
  「関係者はそれぞれの国の法律で処理する。双方の死
 傷者に対し、互いに弔慰金、見舞い金を送る」
.
  (今日の言葉)
.
  最近の新聞記事から・・「切り抜き」・・
  ディグニティー:威厳。尊厳。また、品位。気品は・・どこにあるのか?
.
  題(その1):アメリカの「核の傘」は・・?
.
2016年10月21日、アメリカの『核の傘』理論
  (読売新聞、2016・10・21)に以下の記事があった。
  それは、アメリカの『核の傘』に疑念を持ったところ
 から発した事柄だった。
  それは、もっともな面もあった。
  アメリカ大統領候補のトランプ氏が言った・・、
  「もう、アメリカは、日本の安全保障の責任はとれな
 い、日本に原爆を持たせてもよいではないか」・・とい
 う主旨の発言しているが、この様な発言も影響している
 とも考えられる。
  ・・以下は、その新聞の内容・・、
  見出し:米韓「核の傘」強化合意
     2プラス2 次官級の「戦略協議」新設
  米韓両政府は19日、ワシントンで外務・防衛閣僚会合
 (2プラス2)を開き、
  在韓米軍へのミサイル防衛システム「最終段階高高度
 地域防衛(THAAD)」配備をできるだけ早期に行う
 方針で一致した。
  「核の傘」などの拡大抑止強化を議論するため、次官
 級による「戦略協議」の新設も決めた。
  会合には、米国のケリー国務長官とカーター国防長官、
 韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と韓民求(ハンミン
 グ)国防相が出席した。
  北朝鮮の核兵器開発が完成に近づいていることを受け、
  韓国は、米国に対し、有事に核兵器の使用も辞さない
 方針を示して、北朝鮮の核兵器使用を自制させる「核の
 傘」を含めた拡大抑止の強化を求めた。
  カーター氏は、会談で、「米国の韓国防衛への関与は
 揺(ゆ)るぎないものだ」と述べた上で、
  「米国の関与は、米軍のすべての兵器体系で保障され
 た拡大抑止の提供を含む」と強調した。
  米韓が、拡大抑止の強化で合意したのは、韓国内で高
 まっている「核武装論」の沈静化を図る意図もある。
  ケリー氏は、会談の後の記者会見で、北朝鮮の核ミサ
 イル開発について、
  「米国の次期大統領に誰がなろうとも、非常に集中し
 て取り組むべき課題となる」と述べ、
  米新政権の重要な外交課題になるとの認識を示した。
.
  題(その2):最近の韓国経済・・、
.
2016年9月23日、韓国の最大の海運会社が倒産
  (読売新聞、2016年9月23日)によると、
  韓国の海運会社が破綻(はたん)し、物流が大混乱し
 ているという。
  コンテナ量で世界7位の韓進海運が・・、
  8月31日、ソウル中央地裁に法定管理(日本の会社更生
 法に相当)を申請した。
  負債総額は、約4500億円。
  各地の港湾当局や荷役業者が、燃料費や荷役料の滞納
 を恐れ、荷降ろしや出入港を拒否した。
  韓国最大の海運会社で、貨物船が立ち往生し、世界的
 な物流の混乱は、少なくとも2ヶ月~3か月間、続く見通
 し。
.
  題(その3):世界中の制海権が欲しい・・、
.
2016年10月1日、(読売新聞、2016年10月1日)に・・、
  「中国『海洋強国』急速に」
  「国産空母、周辺国威圧」
  「アメリカに対抗」・・とあった。
  内容:
  中国軍が、丁寧省大連で建造する国産初の空母は、
  中国の習近平政権が、野心的な「海洋強国」建設を急
 ピッチで進めている事を改めて示した。(中略)、
  この空母の建造は、昨年初め頃に始まった。
  中国国防相は、昨年末に、建造を公式に認めた。
  排水量は、空母としては小型の5万トン級、
  原子力ではなく、通常動力を採用していると説明した。
  (中略)、
  習政権は、「2020年までに、空母戦闘群を3個編成にす
 る」との目標を掲げているとされる。
  中国が、10隻以上の空母を保有して、世界中の「制海
 権」を握るアメリカに対抗し、周辺国を軍事力で威圧す
 る狙いだ。
  公式発表はないが、3隻目の空母も、上海で建造中との
 情報がある。
  軍事関係筋は、「中国軍の初期目標は、南シナ海と東
 シナ海への空母の展開」と見る・・(後略)
.
  余談:「アメリゴ」という言葉の意味に「ウソをつく
     人」という意味がある・・
     また、アメリカの語源は、「嘘吐き」とある・・
.
  題(その4):中国が、人民元の札をどんどん刷り始めるか・・?
   すでにやっているのか・・?
   ならば、やりたいことは何でもできることになる・・?
.
2016年10月2日、(読売新聞、2016年10月2日)に・・、
  中国の人民元が、国際的な主要通貨に加わった。
  今・現在、その「主要5通貨」は・・、
   米ドル (42.5%)、
   ユーロ (30.2%)、
   英ポンド( 7.5%)、
   日本円  ( 3.4%)、
   人民元  ( 1.9%)、
  国際通貨基金(IMF)が特別引き出し権(SDR)
 の構成通貨に人民元を加えたことで、
  中国が目指す「人民元の国際化」に一歩前進した。
  一方、国内総生産(GDP)で、世界2位の経済大国と
 なった中国には、国際金融市場での存在感に見合った責
 任を果たすことも求められる。
  しかし、国際化へ問われる改革・・、中国は2020年を
 めどに人民元相場を自由化する方針を示しているが、
  市場では「今のペースでは難しい」との見方が大勢だ。
  むしろ、「改革が後退している」との声も上がる。
  中国では・・(以下、略)
..
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2016年10月28日金曜日

(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年2月)

題:(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、発明:
・ベルリナー(ドイツ出身)が、大量生産可能な円盤型の
 録音再生用レコードを発明した。
・徳川慶喜と自転車:最後の将軍、徳川慶喜は、静岡にお
 ける自転車の開祖となった。
  この年、紺屋町の邸内で乗り回していた。
  この当時、鉄製だった車輪をゴム輪に改造させていた。
・ゴム印が発明された。
  ただし、高価のため、その普及は日清戦争後だった。
  (1886年説あり)
  日本に海外から、ゴム印が渡って来たのは1886年(明
 治19年)。
  日本は、すぐに彫刻ゴム印を作った。
  外国で使われている鋳造ゴム印より、美しく文字も自
 由に表現できた。
  字体も自由で、好きなように彫れた。
  外国人は、その日本の技術に驚ろいた。
  東京で、ゴム印の材料であるゴム板を最初に作った店
 が、佐々木商店であり、初代、佐々木浜太郎氏。
  佐々木氏は、当初、浅草の雷門で印材商を営んでいた。
  佐々木氏は、日本に伝わってきたゴム印に着目し、家
 にあったゴム製の潜水服の一部分を切り取り、これを板
 に貼り付け、ゴム印の材料とし、販売した。
  当時、とても貴重なものだった。
  星野印版工業という会社の初代社長であった星野福次
 郎氏が、1889年(明治22年)、アメリカ人からゴム印を
 作る方法を習得した。
  これが鋳造ゴム印だった。
  この翌年・1890年には、彫刻ゴム印を製造した。
  これが、日本で初の彫刻ゴム印と言われている。
  星野氏は、1894年(明治27年)、回転ゴム印をアメリ
 カから仕入れた。
  そして、同じ物を日本で作り、これが、日本最初の回
 転ゴム印だった。
・馬にひかせる蒸気ポンプができた。
  1884年(明治17年)6月、日本初の蒸気式消防ポンプ(蒸
 気ポンプ)が、警視庁消防本署(現・東京消防庁)に配置さ
 れた。
  そして、腕こぎポンプの龍吐水が廃止されるようにな
 ったが、
  輸入品のため非常に高価だった。
  1890年2月の浅草の大火で、蒸気ポンプの強力な消火能
 力を体験した消防署部内では、国産化推進の検討がなさ
 れ、
  市原喞筒(ポンプ)製作所に製作を依頼した。
  この日、警視庁消防署では、歴史上初めて、国産蒸気
 式消防ポンプの試作機性能試験を行い、
  有効証明書を発行した。
  価格も、輸入品の半額となる見通しがついて量産化が
 進められた。
  ちなみに、国産蒸気ポンプには手引きのものと、馬引
 きのものとの2種類があった。
  手引きの蒸気ポンプは、ポンプ車の梶に綱をつけて、
 消防隊員が引っ張り、火災現場へ向かった。
  一方、馬引蒸気ポンプは、馬を1~3頭立てにし、ラッ
 パ(後に大鈴)を鳴らしながら、現場に急行した。
  各地への配備は、翌年・1900年(明治33年)、神戸市と
 函館市、
  1908年(明治41年)には、横浜市、
  1910年(明治43年)には、名古屋市などで、消防設備近
 代化の第一歩を記した。
.
1887年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・先住民が、アイヌかコロポックルかの先住民論争が起こ
 る。
.
1887年1月1日、東京気象台が、中央気象台として発足する。
  管轄は内務省。
  1870年(明治3年)、日本は、国土の測量の必要から、
 測量助師のイギリス人ジョイネル(明治3年に京浜間鉄
 道布設のために来日、明治4年に工部省測量司に移る)を
 招いた。
  このジョイネルが、気象観測の必要性を建議した。
  1873年(明治6年)5月、工部省測量司は、気象台を設
 けることを決め、ロンドン気象台長に気象器械のあっせ
 んを依頼した。
  ジョイネルの上司・測量師長・マクビーンは、フラン
 スからイギリスに帰化したシャーボーの日本招へいに成
 功し、
  そのシャーボーに、気象器械の調達を依頼した。
  シャーボーは、15か月間にわたり、イギリスで、各種
 器械の購入にあたり、
  1874年(明治7年)7月、それらの器械を携えて来日し
 た。
  シャーボーは、「日本は地震が多いと聞いたが、測量
 の測点が移動しては困る、日本で測量をするには、まず、
 地震観測が必要だと考えた。
  そして、イタリア製の地震計を、気象器械とともに持
 参した。
  1875年(明治8年)5月、これらの気象観測器械と地震
 計の据付けが完了した。
  場所は、内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門
 2-10ホテルオークラのあたり)だった。
  そして、同年1875年6月から観測が開始した。
  当初は、御雇外人ジョイネルが、一人で担当し、1日
 3回の気象観測を行い、
  地震があれば、土蔵の中の地震計まで飛んで行った。
  間もなく、ジョイネルの要請により、
  同年・1875年9月から、正戸豹之助(地上・山岳観測、
 通信等多方面で事業整備に尽力、のち中央気象台統計課
 長)、
  下野信之(のち大阪測候所長)、
  中條信倫(馬場と改姓、のち商船学校教授)、
  大塚信豊(地震・火山業務を経て、長崎測候所長)、
  武林貞次郎(のち長崎測候所長)らが、ジョイネルの
 伝習生となり、徐々に観測に加わった。
  その後、1877年(明治10年)6月には、ジョイネルの満
 期解雇のあとをうけて、正戸豹之助が観測主任になった。
  1883年(明治16年)3月1日に、東京気象台で、初めて
 天気図を作成し、毎日の印刷配布が、
  さらに、翌・1884年(明治17年)6月1日には、毎日3回
 の全国の天気予報の発表が開始された。
  東京気象台は、1887年(明治20年)1月に、中央気象台
 と改称し、
  1956年(昭和31年)7月に、気象庁となった。
  2001年(平成13年)1月の中央省庁等の再編に伴い、気
 象庁は国土交通省の外局として新たに業務を開始した。
 (気象庁、ホームページを参考にした)
1887年1月9日、ブッセとハウスクネヒトの両人が、帝国大
 学に着任した。
  ハウスクネヒトは、ドイツ人の教育家で、日本に、ヘ
 ルバルト派教育学を導入した功績者。
  1890年まで、東京の帝国大学文科大学で、当時、有能
 な教員を育成するために設けられた教育学科の特約生に
 対してヘルバルト学派(J.F.ヘルバルト)の教育学とドイ
 ツ語を講義した。
  谷本富(とめり)、湯原元一(もといち)らを教え、日本
 にドイツ教育学が入る端緒をつくった。
1887年1月17日、皇后陛下が、婦人の洋装を奨励する思召書
 を出し、華族婦人などに洋装が広まった。
1887年1月22日、東京で営業の電灯が点灯された。
  東京・麹町の鹿鳴館に、東京電灯株式会社が、白熱電
 灯を設置する。
  そして、移動式石油発電機を使って、白熱電灯を点灯
 した。
  これ以降、電灯設置営業が進んだ。
  因みに。初の電灯は、1878年に、虎ノ門の工部大学校
 で、初めて電灯「アーク灯」が点灯している。
1887年1月24日、地方制度編纂委員会が設置された(2月説
 あり)
  地方制度編纂の基本針である『地方制度編纂綱領』は、
 1887年に、閣議決定された。
  委員会は、山縣内務大臣を委員長とし、ほか4名の委員
 からなった。
  山縣は、国家の基礎を強固にするには、町村自治を整
 備すべきとした。
  また、地方の人材と財源を充実させてから自治制を実
 施すへきとし、実施が急務であると述べた。
1887年1月29日、大阪撚糸会社が設立された。
1887年1月30日、登記制度が開始した(2月1日説あり)
  1886年(明治19年)8月13日、登記法(旧登記法)は、
 公文式(明治19年2月26日勅令)によるわが国最初の法律
 (法律第1号)として公布された。
  そして、翌・1887年2月1日から施行された。
  旧登記法の制定の目的は、「第一ニ保護、第二ニ収入」
 で、第一に、国民の権利の保護、第二に、国の税収を目
 的とした。
  しかし、実際は、やはり税収第一だった。
1887年1月、長崎の馬町の西洋料理専門店「自由亭」が廃業
 した。
  後に、長崎地方裁判所が買収、し検事正官舎になった。
1887年2月3日、ルートヴィヒ・リースが、帝国大学史学科
 教師として着任し、ドイツ歴史主義を紹介した。
  約半年後の9月に、史学科が設置された。
  これまで、法学科と哲学科で、ヨーロッパ史と日本史
 に関する授業が行われていた。
  リースは、日本の「史学的地理学」の必要性を説き、
 その影響を受けた国史科の卒業生や在学生らが中心とな
 って、1899年(明治32年)に、日本歴史地理研究会(後
 に、日本歴史地理学会と改称)を設立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:大きな理念を達成するために・・
.
1941年12月8日、日本は、大きな理念達成・成就へ向かって
 立ち上がった。
  世には、『白人絶対思想』『白人絶対思考』があった。
  キリスト教の「有色人種の蔑視の教義」によって、有
 色人種は虐(しいた)げられていた。
  日本だけに関してでも、「排日移民法(1924年)」に
 悩まされ、侮辱を受けていた。
  有色人種は、世界各地で、白人たちに蹂躙(じゅうり
 ん、暴力・強権などをもって他を侵害すること)され続
 けて来ていた。
  キリスト教に洗脳された白人たちは、世界中で有色人
 種を差別し、虐(しいた)げ、殺戮し続けて来た。
  世界中のあちこちで、何千万人規模で、白人によって、
 ジェノサイド(集団殺戮)され、虐殺され、そして、そ
 の行為をされ続けて来た。
  20世紀に至るまで、それは語るに尽きないキリスト教
 に洗脳され、マインド・コントロールされた白人たちに
 よって、有色人種の悲劇は続いていた。
  その『白人絶対の時代』は・・、
  有色人種の誰かが立ち上がって・・、
  その有色人種の誰かの「実力」で、打ち破らない限り・・
 終わらない事態となっていた。
  白人と有色人種の差別のない正義を目ざし・・、
  「人種は平等なのだという、当たり前であるが・・崇
 高なる理念の主張」を・・、
  有色人種の誰かが・・
  「実力」でもって主張し、
  打破しなければならなかった。
  その様な状況の「白人絶対の世界」だった。
  20世紀に至って、その崇高な行為が・・行われた。
  日本は、その以前から国際会議で、「人種は平等であ
 るべきだ」「人種平等を目指すべきだ」と主張して来た。
  (日本は、「人種的差別撤廃法案」を、1919年のパリ
 講和会議で、ぜひ成立させたいと提出していた)
  そして、国際会議で、日本の「各人種は、平等である
 べきだ」の主張は、多数の意見となった。
  しかし、決定される方向にあった日本のその「人種の
 平等の主張」は、会議の議長国・アメリカによって成立
 を止められた、阻止された。
  アメリカは、この時、「多数決では駄目だ」と言って、
 成立を阻止した。
  議長国・アメリカの「議長特権」で、成立を阻(はば)
 まれた。
  この人道的な、当たり前の主張を、成立をさせなかっ
 た。
  アメリカは、「全員一致という条件」を持ち出した。
  このアメリカの主張は、「私・アメリカが、反対だか
 ら全員一致とならない、だから、廃案です、ダメです」
 と言っている様だった。
  これも、大東亜戦争(第二次世界大戦)が起きる要因・
 遠因の一つとなった。
  日本は、遠い昔から、平等の意識を当たり前の様に持
 ち、また、常に、平等を尊んで来た。
  (平等院があるごとく、平等は、古くからの日本の理
 念なのだ)、
  そして、日本は、この理念の元に、已む無くこの不正
 義に対し、行動を起こして行く。
  この様にして、20世紀に、人類にとっての最大な事件
 は起きた。
  1941年12月8日の事だった。
  白人サイドから、白人側から、開眼して、事態が打開
 されるという可能性は、『まったく・・なかった』。
  キリスト教に頑(かたく)なにマインド・コントロー
 ルされ、洗脳された『宗教的理念となって』、『信仰的
 正義となって』、白人絶対・有色人種蔑視となって・・
 その日本の理念は・・阻(はば)まれていた。
  天から、時には駆けつける阿修羅のごとき憤怒でもっ
 て諭(さと)さねば、事態は打破できない所まで至って
 いた。
  改善された次なる事態が開かれない状況となっていた。
  また、人種差別の旧態が打破できない事態だった。
  「白人種が最優秀」という観念が、長い年月に連綿と
 続き、こびりついた「思い込み」は・・、
  我が身を顧みない行動によってのみ打破され、開かれ、
  その行動が無ければ・・諭され得ない状況となってい
 た。
  白人のかたくなな思い込みと、醜悪さの中にあった。
  「白い肌に生まれた人間でなければ・・成し得ない」
 という迷妄(めいもう、道理が分からず、事実でないこ
 とを事実だと思い込むこと)なる迷信に疎(うと・む、
 嫌って遠ざける、うとんずる)まれた社会だった。
  「優秀なる人種=白人」の思いの疑念に、まったく疑
 義(ぎぎ、意味・内容がはっきりしない点)すら持たな
 い迷妄なる状況だった。
  アメリカには・・、
  「白人女性が、有色人種と結婚するのは進化の法則に
 反する犯罪だ」・・という論文があり、また、考え方が
 あり、信じられているというアメリカ社会だった。
..
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2016年10月27日木曜日

(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、論・文学・本:つづき
・「国民の友」発行(2月)
  民友社(徳富蘇峰の設立)が発行した機関誌で、1899
 年(明治32年)8月の第 372号で廃刊した・・、
  「新日本之青年(1887年) 」で一躍評論家の雄となった
 蘇峰が、主筆となって始めた雑誌で、進歩的な社会評論
 誌。
  標榜(ひょうぼう)するところは、「人民全体ノ幸福ト
 利益」を主張すると言う・・平民主義。
  (この後、日清戦争の後に、蘇峰が、国家主義に転換
 して衰退した、「国民新聞」に併合されて廃刊)
  総合雑誌の先駆となった。
  中江兆民・田口卯吉・島田三郎・内村鑑三・坪内逍遥・
 北村透谷らが・・、
  また、二葉亭四迷、山田美妙(びみょう)、森鴎外、山
 路愛山らの文学者も寄稿し、
  政治・経済・社会・文学の各分野で、多彩な論調を展
 開、社会主義の紹介にも努めた。
  初め、月刊であったが、月2回、3回、週刊となり、時
 の藩閥政府の干渉政策に対抗し、自由と平等の実現を期
 する『急進的平民主義』の立場をとった。
・「支那地誌」 刊行
  著者:参謀本部管西局 編 
  1887年から参謀本部によって刊行された『支那地誌』
 『満洲地誌』『蒙古地誌』には、いずれも「物産」の項
 目が含まれていた。
  初歩的な成果を収めたと評価された。
・ 「婦女鑑」(編:西村茂樹)
  「婦女鑑」(明治20年)は、明治天皇陛下の皇后陛下
 の内意を受け、
  宮内省文学御用掛であった西村茂樹によって編纂され
 た。
  そして、天皇陛下の内意を受けて元田永孚が中心とな
 り編纂した『幼学綱要』(1882年)の補遺として作成さ
 れた。
  作成の目的は、華族女学校の教科書に充てるためだっ
 たが、
  実際に、皇后陛下が行啓して、生徒に下賜された。
  この様な、特筆すべき成立事情が有する。
  全6巻、120の例話で126人の掲載は、当時としては他
 書を量的に圧倒した。
.
1887年、歌・流行・世相:
・鹿鳴館仮装舞踏会
  (氷川清話):鹿鳴館時代
  (氷川清話):明治20年には鹿鳴館時代が開始。また、
 保安条例公布による正論家たちの皇城3里外への追放。
  西欧に、形の上でも追い着き、条約改正をしたかった。
  その様な経過の中で生まれた鹿鳴館の舞踏会も、1887
 年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール(fancy
 ball)」に至った。
  この舞踏会は、実際は、鹿鳴館ではなく、総理官邸で
 行われたもので、しかも、外交とは直接関係のない催し
 だった。
  伊藤博文総理・梅子夫人の主催ということで開かれた
 この舞踏会は、
  実際には、時のイギリス公使夫妻が主催したもので、
 伊藤は、好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。
  しかし、当時の常識ある人たちは、行き過ぎた催しと
 指摘し、
  外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえ、これを
 契機に憂国の感を深め、建白書にしたためて政府に意見
 したぐらいだった。
  西洋に媚びる面もあるこの「欧化主義」の臭いのする
 催し、
  鹿鳴館の洋装・洋服も行き着いてしまった末の仮装の
 感があった。・・そして・・
・この年に、女性(婦人)に「吾妻(東)コート」「肩掛
 け(ショール)」が流行した。
  吾妻(東)コートと肩掛け(ショール)のセットのフ
 ァッションだった。
  吾妻(東・あずま)コートは、着物の上に羽織るコー
 トで、ショールカラー(へちま襟)や道行襟(スクウェ
 アーネック)の四分の三丈コートのことで、和装用コー
 トの走り。
  東京から流行し始めたので「東」コートと命名された。
・「国益」という文字が流行した。
  マッチの製造にも、牛肉店にも、この2字がつくぐら
 いだった。
・流行歌:「ノルマントン号沈没の唄」
  一番:岸打つ波の音高く、夜中の嵐に夢さめて
     青海原をながめつつ、わが兄弟は何処ぞと
     木々の影はゆらゆらと、
  二番:呼べど叫べど声はなく、たずねさがせど影はなし
     うわさに聞けば過る月、二十五人の兄弟は
  三番:旅路を急ぐ一筋に、外国船とは知りつつも
     航海術に名も高き、イギリス船ときくからに
  四番:ついうかうかと乗せられて、波路もとおき遠州の
     七十五里もはや過ぎて、今は紀伊なる熊野浦
・日本製の絹ハンカチが、外国で評判になる。
・食の流行:西洋料理
  1876年(明治9年)東京の上野に、日本人のための本格
 的な西洋料理店ができたが、
  明治期は、西洋料理は高級なものであり、フランス料
 理が中心であった。
  当時の厨房は、現在とは比較にならないくらい原始的
 な設備で調理を行っていた。
  そのため、その調理技術は極めて特殊で、熟練が求め
 られた。
  それもあって、職人は、非常に重宝され、腕の良いコ
 ックは、破格の高給の処遇を受けていた。
  この年・1887年(明治20年)の『時事新報』には、西
 洋料理のコックについて、
  「甲が十五円を与うれば、乙は二十円を与えんと言い
 出し、雇い主の間に競争を生じたり」という記事が載っ
 たほどだった。
  この獲得競争の結果、富士屋ホテルの記録によると、
 明治30年頃の給与台帳では、支配人の月給が二十五円で
 あったのに対し、料理長の月給は五十四円五十銭もあっ
 た(支配人の倍以上)。
・生活面の流行:自転車
  この年、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニ
 ーが、前輪にスプリング・フオーク(サスペンション装
 置)を取り付けたビクター号を開発した。
  この翌年・1888年、東京浅草の向山嘉代三郎が、帝国
 自転車製造所を開業した。
  1887年4月、大型の二輪車(自転車)が流行の記録も
 ある。
  また、次の記録もある・・、
  1887年1月13日、1月13日快晴 午後2時散歩の際、徳川
 将軍、及び、公子が、自転車を召されて市中御散歩を相
 見たり(松本亀次郎日記より) 
  1887年2月18日、静岡大務新聞、自転車脱税の取締り。
  1887年3月8日、静岡県令第30号、自今道路ニ於テ夜中
 自転車ノ使用ヲ禁止ス。
  1887年4月29日、めさまし、水曲社の水上自転車 
  1887年5月5日、毎日新聞、曲乗りの水上自転車 浅草公
 園の旧勧工場跡にて興行中なる水曲社の水上自転車は、
 大小二輪車に乗り水面を行く事あたかも平地を走るに異
 ならず、随分珍しきよしにて種々の曲乗りをなすと言う。 
  1887年5月14日、毎日新聞、三輪車は卒業、二輪車の客
 が多い。
・娯楽面の流行:娘義太夫
  大阪では、豊竹呂昇が人気で、
  東京では、1887年には、大阪から上京した竹本綾之助
 が空前の人気となり、
  芸能での人気を歌舞伎と二分するほどになった。
  また、別史料には・・、
  娘義太夫.、明治20年代から40年代にかけ、浄瑠璃の一
 派「義太夫」を若い女性が演じて、東京を中心に大流行
 が起こった・・とある。
  また、別史料には・・、
  絵は、洗耳筆「寄席(娘義太夫)」『東京風俗志下の
 巻』94頁で・・、
  2階席はないものの、電燈が附いている。
  また、書生さんらしき姿は見えないので、本郷や神田
 あたりの寄席ではないと思われる・・とある。
  屋根には、真打の芸名を記した軒行灯を掲げ、木戸口
 の横には一座の芸人名や演芸を連ねて記した大行灯を掲
 げる。
  木戸口を入ると、札場、下足預り場がある。
  芝居小屋に見られるような花道、桝席はない。
  女義太夫で賑わい、メッカの一つだった若竹亭・・と
 ある。
・娯楽の流行:花合わせ、トランプ
  大阪で流行の記述あり、
  また、東京日日新聞の、1887年11月16日に・・、
  拙者、西洋カルタ(トランプ)引取のため横浜商館に
 到り、談話の際、洋人の曰く、日本の花骨牌は盛に流行
 して販路広大なるに反して、
  我西洋カルタは、東京を除くの外、甚尠なし、
  欧米各国の如きは、孰の国を不問、「トランプ」の流
 行、殊に盛に、文明国としてトランプの流行せざる事な
 きはトランプをもつて文明の遊具といふに依ても明なり
 といふ
  尚、高位貴顕の方にもトランプのため、交はりを結ぶ
 等の益あり
  今日、東洋の開明国と称せらるゝ日本にして、此の流
 行なかる可からずと、
  本年本国より取寄たるトランプの着荷は、土蔵の床板
 も下る計りの噸数に及びたり、
  然るに、これを引取る商人なく、幸ひ貴家に於ては、
 日本花骨牌の販売広く、且つ、西洋骨牌も亦狭からずと
 〓けば何とか拡張を謀る方法なきやと、
  我答曰、トランプ流行せざるにあらず、未だ、使用法
 の委しからざると、価の高価なるがため、随て販路狭き
 のみ、
  若し、これを拡張せんとなれば、着荷を従来の半額に
 て、五万個を限り売捌く憤発ありたし、
  上方屋も亦、是に憤発を加へ、トランプ使用法を無代
 価で添るとせば、自然販路を拡張するの道に適せんと、
  洋人、大に賛成なし、愚意に随ひ来る
  十一月十五日より、三十日迄を限り、左の拡張安売仕
 候、元より西洋人の拡張心より安売仕候事に付、同業者
 と雖も左の直段より更に引なし
  又日限後は、通常直段に引直し候ことは無論、
  地方の御注文は、是亦拡張のため、今般限り郵券代用
 不苦安売代価の外に、一個に付逓送税八銭、御添の程願
 上候
.
  (今日の言葉)
.
  題:フィリピンのこと(その1~その3)・・、
    その1:独立を目指して・・、
.
1896年8月23日、フィリピン革命戦争
  「プカット・ラウインの雄叫び」で、フィリピン革命
 戦争が始まった。
.
1896年のフィリピン革命
  モロ戦争の歴史。
  1896年のフィリピン革命は、ミンダナオのムスリムに
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機となった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立が、一時であった
 が解消した。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  アルバレス将軍が、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 した。
  だが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制され詳細が不明で、闇の中に、葬り
 去ろうとした。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:評論家:伊藤貫氏が対談で話す・・
    その2:アメリカのした事・・フィリピンの場合・・
.
1898年、アメリカが、フィリピンを軍事占領した。
  下記は、伊藤貫氏(国際政治・米金融アナリスト、政
 治思想家、評論家)の対談での言葉である。
  下記のURLを御覧ください。
  https://www.youtube.com/watch?v=Kla8vz0fx-U&index=3&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  ・・略・・
  (中国がアメリカの言う通りのことをしたら、アメリ
 カは)皆、拍手したわけね、
  だけど、すごく滑稽なのは、その前の年にね、
  その(中国が)門戸開放宣言をやった前の年にね、
  アメリカは、米西戦争をやっているわけ、
  米西戦争をやって、スペインからキューバとフィリピン
 をもぎ取ったわけよ、
  米西戦争をやる時、アメリカは、フィリピン人に独立さ
 せると約束しておきながら・・、
  一旦、フィリピンを取ったら、独立させるという約束
 を、あっという間に裏切って・・、
  (フィリピン人の)独立派を、20万人か、30万人を殺し
 ている訳ですよ、
  1898年に、フィリピンを軍事占領して、
  独立を願うフィリピン人を、20万人~30万人殺してね、
  要するに、1899年もね、殺している最中な訳です、
  フィリピンを自分たちの植民地にしようと思って、フィ
 リピン人をいっぱい殺している最中に・・、
  日本人とか、ロシア人とか、ヨーロッパ人とかには、
 (理想的な)ジョン・ヘイの三原則とか、領土保全とか
 言っているわけですよ、
  これって、おかしいでしょう?
  フィリピンで、めちゃめちゃな事をやっておきながら、
  アメリカ人って、そういう人たちで・・、
  要するに、フィリピンでめちゃくちゃやってても、他
 の国に対して、ものすごく立派な事を、『我こそ理想主
 義者』という態度でお説教をするわけね ・・略・・、
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んだ・・、
 その3:しかし、マッカーサーだけは違ったと・・
   そして、それは、アメリカ人としては「珍しい」と
  フィリピンの方々は言った。
   そのくらい、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んでいた。
.
1930年9月、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑(さげ
 す)んだ。
  それは、アメリカ人は、最初からフィリピン人を軽蔑
 し、「無知と怠惰の抜け殻」と蔑(さげす)み発言する
 のが常だった。
  だが、1930年9月に、ダグラス・マッカーサーが、フィ
 リピンを去る時、「アメリカ人、フィリピン人双方が、
 互いの欲望、希望、そして、熱望に対して、同情的理解
 を共有する事が必要だ」と語った。
  フィリピンの方々は、ダクラスは、フィリピンを理解
 する珍しいアメリカ高級軍人だと感じた。
..
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2016年10月25日火曜日

(増補版)442E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)442E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、報道:
・この頃から、新聞広告が活発になった。
  また、この頃までの新聞広告の料金は安かった。
  広告もごく少なく、1行8分銭で、社会的な意義が認識
 されていなかった。
・ナショナル・リーダーの海賊版を各社が出した。
  アメリカの出版社より抗議があり、役所は関係者を集
 め版権を話し「この出版社名を削除しろ」と命じた(郵
 便報知新聞)
  (注):ナショナルリーダーは、明治期に最も広く用
    いられたとされる5巻からなる舶来英語教科書。
     1883年~1884年、米国Barnes社から出版された。
     もとは、米国の小学校用教科書。
     日本では、数多くの翻刻版や、独案内(独習書)
    が出版された。
・政府の官報はわかりにくく、地方官も困るし、反対論も
 出やすい。
  そこで説明欄を作って、補足の文をつける(朝野新聞)
.
1887年、論・文学・本:
・チャンブレン「日本小文典」刊(4月)
  西洋人の本格的な日本語研究は、ロドリゲスから始ま
 り、チェンバレンで完成した形になるとされている。
・二葉亭四迷「浮雲」第一編刊(7月)
  主人公の文三とその従姉妹のお勢、友人の本田の3人の
 姿を中心に描かれている。
  しくじった訳でもないのに退職した文三。最初、文三
 に気があったお勢も次第に本田の方へ心が動く。要領の
 よい本田、何もできない文三・・、
  言文一致の文体(ダ体)で書かれた日本の近代小説の
 始まりを告げた作品で、四迷の代表作。長編小説。
・中江兆民「平民のめさまし」刊(8月)
・中江兆民 「三粋人経綸問答」
  3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪
 傑君、南海先生が酒席で議論する物語。
  一度酔えば即ち政治を論じ哲学を論じて止まるところ
 を知らぬ南海先生のもとに、ある日、洋学紳士、豪傑君
 という二人の客が訪れた。
  次第に酔を発した三人は、談論風発、大いに天下の趨
 勢を論じる。
  民権運動の現実に鍛え抜かれた強靱な思想の所産であ
 り、日本における民主主義の可能性を追求した。
・井上円了 「妖怪玄談」 刊行
  一滴の水も一片の雲もみな妖怪。
  天狗、幽霊、コックリさんから、宇宙旅行!?の話まで、
 東洋大学創立者にして元祖妖怪博士の気宇壮大な思想が
 展開される。
・末廣鐡腸 「花間鷺」
  末廣鐡腸(すえひろてっちょう、1849年~1896年)は、
 政治家・新聞記者・小説家。伊予の人。本名:重恭(し
 げやす)。政治活動のかたわら「二十三年未来記」「雪
 中梅」「花間鶯(かかんおう)」などの政治小説を発表
 した。
・徳富蘇峰 「新日本之青年」
  徳富蘇峰の「新日本之青年」(明治二十年)は、同
 時代の若者の間に多くの反響を呼んだ。
  「青年」という新しい存在様式の形成やその散布に大
 きな力となった。
  二葉亭四迷は、近代精神について、また、その広がり
 について、この文章から私たちは、自分が言えなかった
 ことを蘇峰が変わって述べてくれたことへの感謝以上の
 ものを読み取ることが出来た・・とある。
・山田美妙(やまだびみょう)「武蔵野」
 ああ今の東京、昔の武蔵野。
  今は錐も立てられぬほどの賑わしさ、昔は関も立てら
 れぬほどの広さ。
  今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町
 の漁師町でわずかに活計(くらし)を立てていた。
  今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、
 極の素寒貧(すかんぴん)であッた。
  実に今は住む百万の蒼生草(あおひとぐさ)、実に昔
 は生えていた億万の生草(なまくさ)。
  北は荒川から南は玉川まで、嘘もない一面の青舞台で、
 草の楽屋に虫の下方(したかた)、尾花の招引(まねぎ)
 につれられて寄り来る客は狐か、鹿か、または兎か、野
 馬ばかり。
  このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、この
 ころ軍があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情
 ない死骸が数多く散ッているが、戦国の常習(ならい)、
 それを葬ッてやる和尚もなく、ただところどころにばか
 り、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出来
 ていて、それにはわずかに草や土やまたは敝(やぶ)れ
 て血だらけになッている陣幕などが掛かッている。
  そのほかはすべて雨ざらしで鳥や獣に食われるのだろ
 う、手や足がちぎれていたり、また記標(しるし)に取
 られたか、首さえもないのが多い。
  本当にこれらの人々にもなつかしい親もあろう、可愛
 らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を
 任せた主君もあろう、それであッてこのありさま、刃の
 串(くし)につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼
 となッてしまッた口惜くちおしさはどれほどだろうか。
  死んでも誰にも祭られず……故郷では影膳(かげぜん)
 をすえて待ッている人もあろうに……
  「ふる郷に今宵ばかりの命とも知らでや人のわれをま
 つらむ」……
  露の底の松虫もろとも空しく怨みに咽(むせ)んでい
 る。
  それならそれが生きていた内は栄華をしていたか。
  なかなかそうばかりでもない世が戦国だものを。
  武士は例外だが。ただの百姓や商人(あきゅうど)な
 ど鋤鍬や帳面のほかはあまり手に取ッたこともないもの
 が「サア軍だ」と駆り集められては親兄弟には涙の水杯
 で暇乞(いとまご)い。
  「しかたがない。これ、忰(せがれ)。死人の首でも
 取ッてごまかして功名しろ」と腰に弓を張る親父が水鼻
 を垂らして軍略を皆伝すれば、
  「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げる
 がいいよ」と兜の緒を緊(し)めてくれる母親が涙を噛
 み交ぜて忠告する。
  ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まる
 ほどに眤(した)しい顔をば「さようならば」の一言で
 聞き捨て、見捨て、さて陣鉦(じんがね)や太鼓に急(
 せ)き立てられて修羅の街(ちまた)へ出かければ、山
 奥の青苔が褥(しとね)となッたり、河岸の小砂利が襖
 (ふすま)となッたり、その内に……敵が……そら、太
 鼓が……右左に大将の下知が……そこで命がなくなッて、
 跡は野原でこのありさまだ。
  死ぬ時にはさぞもがいたろう、さぞ死ぬまいと歯をく
 いしばッたろう。
  血は流れて草の色を変えている。
  魂もまた身体から居どころを変えている。
  切り裂かれた疵口(きずぐち)からは怨めしそうに臓
 腑(ぞうふ)が這(は)い出して、その上には敵の余類
 か、金(こがね)づくり、薄金(うすがね)の鎧をつけ
 た蝿(はえ)将軍が陣取ッている。
  はや乾いた眼の玉の池の中には蛆(うじ)大将が勢揃(
 せいぞろ)え。
  勢いよく吹くのは野分(のわき)の横風……変則の匂(
 にお)い嚢(ぶくろ)……血腥(ちなまぐさ)い。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ロビイスト
.
21世紀、アメリカのシカゴの事だが、21世紀に入って以来、
 シカゴは、秘密結社的な政治グループによって動かされ
 ていると言われているという。
  だから、大統領に関わる所でも、「オバマ大統領の知
 らない所で閣僚が決められているのではないか?」と言
 われた。
  そして、「オバマが、ワシントンでまずやるのは、ロ
 ビイスト(このような裏の仕事をする)を追放する事だ」
 と言われた。
  ビル・クリントン政権末期に、クリントン大統領の友
 人たちが汚職事件で有罪になる話もある。
  ロビイストは、ロビイストが関連する政治的な利権に
 巣食っている。
  キリスト教に偏するNHKも、膨大な予算、豊富な予
 算を持っているが、
  その予算から、一般の会社の何倍もの給料を支払って
 いる優遇さがあるが、
  また、不必要と言われるくらいの役員を抱えているが、
  この役員が、日本の国会へ押しかけ、「ロビイスト活
 動」をやっているという報道がある。
  当然、NHKに有利になる活動をしている。
  ちなみに、中国は、盛んに、当然にと言ってもいいほ
 どアメリカにロビイストを送っている。
  そして、ヒラリー・クリントンは、「中国寄り」と言
 われている。
  気になるのは、ヒラリー・クリントンは、「日本嫌い」
 と言われることだ。
  日本の作り上げられた話の『慰安婦問題』の時、日本
 を『セックス・スレイブ(性奴隷)』と蔑んだ。
  まったく事実ではない話を作り上げて、口にした。
  事実の話と言えば、アメリカ自体に、アフリカの方々
 を奴隷として虐(しいた)げて、
  このアフリカの女性の方々を、セックス・スレイブと
 して来た卑劣なアメリカだったことについては一言も言
 わない。
  謝罪もしない。
  第二次世界大戦の時には、フランスのパリ市長が、泣
 き付いたほど、フランスの女性の方々の人権を無視した
 行為をしたアメリカ、
  この件も一言も謝罪してない。
  また、沖縄に来れば来たで、沖縄の女性の方々を、
  そして、日本本土に来れば来たで、
  そして、朝鮮戦争のときは、朝鮮で、朝鮮の韓国の女
 性の方々から訴えられ、
  ベトナム戦争のときは、またまた、ベトナム女性方を、
  アメリカは、自分の足元を見よ!
.
  そして、続きの(今日の言葉)
.
  題:中国や韓国を相手にするときは・・一喜一憂しないこと・・、
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に起きたが、中国も、こ
 の戦争に加わっていた。
  日・露中戦争なのだ。
  共産圏の国家が、いかに完璧に「秘密を保つことが出
 来る」かは驚くばかり・・、
  それであるからして、共産圏の外交が、特務工作によ
 って、民主主義国における世論操作を、いかに巧みに展
 開できるかに感嘆すべき凄さ・・、
  中国の政治と外交は、帰結する所は、宣伝謀略工作で
 あると言える。
  今(2016年)も盛んに、シカゴの新聞社を手に入れた
 りして活動している。
  静かに分析すれば、共産主義諸国がする、表(おもて)
 の発言や「報道」と、裏の真意・実態が大きくかけ離れ
 ている事は、日常茶飯事・・、
  場合によっては、180度違う事もよくある・・、
  昨日は土砂降りでも、臆面もなく、次の日は「カラッ
 と晴れる」・・、
  また、当然、その逆もある(韓国もこれ)
  一喜一憂したり、振り回されたりしない事・・、
  中国は、特に、古来から「政治とは謀略の営み」と見
 てきた面があり・・、
  「それに長けている」のが優れているという見方であ
 る。
  中国の歴史の大きな転換点に、この特務工作、情報活
 動、謀略が、常に、決定的役割を果たしてきた。
  日本は、ある意味、誠実であった、あり過ぎた。
  これが、日本の特質であり、国際的に信頼を得る所で
 もあるが、しかし、見方を変えれば未熟であった。
  情報収拾や諜報と言われる範囲まで、そして、工作と
 言われるところまでも習熟して行くべき。
  (日本はスパイ天国とも言われている。スパイが、う
 ようよ、あちこちに居るという)
  憲法も誠実に守り過ぎた、関係するところは変えて行
 くべき・・、
  「平和は本当に、いいなあ」と、戦争を体験なされた
 方々が、嘆息なされておられるが、
  北朝鮮も、生き延びるため、また、生き残るため、「
 核とミサイル」を持った今、
  日本も、生き延びる方策を真剣に問う必要がある。
  日露戦争に参戦していた中国だったのだ。
  秘密条約によって、中国は参戦していた。
  教科書には書かれていない史実だ。
  しかし、この様な歴史の事実を条件を入れて、現実を
 処さなければならない・・のだ。
  (参考)日露戦争:日本の陸軍部隊は韓国領内を北上
 し、5月に、鴨緑江を渡った。
  最初の戦闘で、ロシア軍を敗退させ、
  また、南山の戦でも激戦の末に優位を占めた。
  6月に、満州軍総司令部が編成され、総司令官に大山巌、
 総参謀長に児玉源太郎を任命し、
  その下に、第1軍から第4軍が統轄されることになった。
  8月末~9月初めの遼陽の戦は、日露両軍が、総力を結
 集した戦闘となり、
  双方ともに、2万名以上の損害を出すという激戦となり、
 ここでも、ロシア軍は後退したが、日本軍の被った打撃
 も深刻なものがあった。
  日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日~1905年(明
 治38年)9月5日)大日本帝国とロシア帝国(秘密裏に中
 国も参戦)との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南
 部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。
  両国は、アメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、
 1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和し
 た。
  ロシアの南下政策の下で、日本の安全保障が脅かされ、
 日露の戦端が開かれたのだった。
  ロシアの狙いは、満州の租借権と、関東州の租借権が
 欲しかった。
  また、鉄道施設権などの利権も欲しかった。
  そして、満州にロシア軍を駐留させたかった。
  そして、その利権を朝鮮半島まで拡大したかった。
  この勢いで、まだ弱小とみられていた日本へ圧力をか
 けていた。
  アジア各国、世界も日本が勝つとは思っていなかった。
  この時まで、アメリカは日本寄りにいた。
  因みに、この時、世界の観戦武官が来ていた。
  その国々は、アメリカ、イギリス、ドイツ、オースト
 リア、イタリア、スペイン、スイス、スエーデン、ノル
 ウェー、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国
 の13カ国、70人以上の武官。
  この結果だろう、アメリカの日本を見る目が変わった
 のは・・、?、
..
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2016年10月24日月曜日

(増補版)441E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)441E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、食:
・日本・札幌・大阪の三ビール会社設立
  1869年(明治2年)、ロシアが南下して来て、日本領土
 を脅かしていたころ、
  この年に、北海道に設置された開拓使は、殖産興業に
 燃える新政府の成長株として大いに期待され、
  外国人技師の招へいが行われ、
  そして、「開拓使麦酒醸造所」を含む、30種以上の官
 営工場が開設された。
  輸入品の「舶来ビール」や、横浜の外国人技師が作る
 「居留地ビール」が発信源となって、ビールは、次第に、
 認知度が高まっていた頃だった。
  ビールは、新しい時代を象徴する飲み物であった。
  国内消費や、輸出にも有望なマーケットが期待されて
 いた。
  北海道は適地だった。
  ホップが自生する地で、ビール大麦の栽培にも適し、
 だから、原料の自給自足が可能で、低温で発酵させるた
 めの氷が入手しやすかった。
  また、気候風土が、ビールづくりに適していた。
  政府の勧農・殖産興業政策に合致するビール醸造事業
 が導入された。
  開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは、1876年(明
 治9年)に醸造所の建設から始まり、
  1877年(明治10)年)夏には、日本人として初めて本場
 ドイツで修業した醸造技師・中川清兵衛によって仕込ま
 れた第1号商品冷製「札幌ビール」が、
  サッポロビールのトレードマークである「五稜星」★
 が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって東
 京へと運ばれた。
  そして、開拓使ビールの発売からほぼ10年後、
  多くの困難を乗り越えた先駆者たちの努力によって、
 国産ビールの総生産量は、ついに、舶来ビールの輸入量
 を上回った。
  また、サッポロビールの先駆者たちも、ビール醸造に
 適した大麦の栽培に苦心し、
  品種改良や、栽培方法などの研究を積み重ねて行った。
  なかでも、荒野を開墾し、畑を耕した屯田兵とともに
 取り組んだ原料づくりは、彼らの功績とともに、今日の
 サッポロビール社の「協働契約栽培」のルーツとして輝
 いている。
  その後、開拓使麦酒醸造所は、渋沢栄一らが経営に参
 画し、民間会社の「札幌麦酒会社」として新たなスター
 トを切った。
  1887年(明治20年)前後になると、ビール事業の将来
 性に期待する資本家などが、大小様々なビール会社を設
 立した。
  サッポロビールの前身である「日本麦酒醸造会社」も
 また、中小の資本家によって現在の東京・銀座に設立さ
 れた。
  しかし、大掛かりな設備を要するビール事業には、十
 分な資本が不可欠で、
  日本麦酒醸造も、翌年・1888年、三井物産会社の資本
 参加による増資によって、ようやく醸造所の建設と製造
 にこぎつけることができた。
  1890年(明治23年)に、第1号となる「恵比寿ビール」
 を発売した。
  国産とは言うものの、原料も、設備も、技術者も、本
 場ドイツからそのまま移転させて製品化したような「恵
 比寿ビール」は、まさに、本格的なドイツビールで販売
 直後から評判を呼んだ。
  1893年(明治26年)に、日本麦酒醸造は、「日本麦酒
 株式会社」に社名を変更した。
  翌年・1894年(明治27年)に勃発した日清戦争を契機
 に、ビールの消費量が急激に増大すると、
  日本麦酒は、積極経営に転じて、増資を行い、設備の
 更新と拡張で増産体制を確立した。
  この積極策が実を結び、当時、偽ビールが出回るほど
 になっていた「恵比寿ビール」の人気と相まって、日本
 麦酒は、日本一の製造量を誇るビール会社に成長した。
  急増した製品輸送の便を図るため、1901年(明治34年)
 に、貨物専用の「恵比寿停車場」が設置されると、
  付近の都市化と、人口の増加が急速に進み、やがて、
 旅客も扱う駅となり、
  1928年(昭和3年)には、付近の地名は「恵比寿」とな
 った。
  こうした成長の陰で、手腕をふるったのが、当時の経
 営トップだった馬越恭平だった。
  のちに「東洋のビール王」と呼ばれる馬越は、イベン
 トや広告、口コミによる宣伝など、プロモーションを含
 めた販売戦略の才能にも長けた。
  1899年(明治32年)には、「恵比寿ビールBeer Hall」
 を開業させた。
  この日本初のビヤホールは、新しい物好きの東京人に
 受けて、たちまち大繁盛店となった。
  この間にも、日本麦酒は、設備の新鋭化と先端技術の
 吸収、幹部技術者の育成などに注力して、「恵比寿ビー
 ル」の品質向上に努め、
  1900年(明治33年)には、パリ万博で金賞を、4年後の
 セントルイス万博ではグランプリを受賞するなど、様々
 な金字塔を立て、日本を代表するビール会社となった。
  (サッポロビール、ホームページを参考にした)
.
1887年、住:
・横浜水道が竣工した(9月)
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道として、
  1887年(明治20年)10月17日に、給水が開始された。
  戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口は、
 日増しに増加し、市街は急激に発展した。
  当時、住民は、水を求めて井戸を掘っていたが、横浜
 は、海を埋め立てて拡張してきたので、良質な水に恵ま
 れず、
  ほとんどの井戸水は、塩分を含み、飲み水には適しな
 かった。
  このため、神奈川県知事は、英国人技師H.S.パーマー
 を顧問として、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に完成した。
  (横浜市水道局、ホームページを参考にした)
・東京電燈会社が開業し、市中に点灯した。
  1883年(明治16年)富国強兵の国策には電力が欠かせ
 ないという大局的判断のもとに、
  矢島作郎らの発起人は、国からの会社設立許可を受け
 るべく請願書を提出し、この年、認可された。
  しかし、日本の電源開発と言っても、当初の内容は、
 開発というにはほど遠いものであった。
  1886年に至り、企業活動を開始し、
  1887年に、東京電灯会社は、最初の発電を行ったが、
 それは、30馬力のボイラーと、25kWの直流発電機で発電
 し、
  210Vの電圧で、1~2kmほどの範囲に送電するものであ
 った。
  1880年代末から1890年代末にかけて、電灯会社が、全
 国主要都市に設立されたが、
  それらは、電灯需要に応じた都市における小規模火力、
 市内送配電という共通の内容をもっていた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1991年のこと・・、
   自分のことは、「自分で責任をとれよ」と教えている人類の歴史
.
1991年9月16日、アメリカ上院が、フィリピンの米軍基地
 撤廃を決議した。
  そして、1992年末までに、撤退を完了した。
  この撤退は、戦略的な判断ではなく、アメリカとフィ
 リピンの政治的な事情・問題が反映した決断だった。
  フィリピンは、アメリカに英語化されたが、その問題
 も絡んでいた。
  (フィリピンは、英語を含む、異なる二つの言語を話
 さねばならないという国の事態になっていた・・言語の
 分裂化・・最初は、英語だけを強制されるという『非人
 道的状況』に置かされた・・アメリカ人にとっては都合
 が良かっただろう、そうさせれば・・)
  また、アメリカは、フィリピンを防衛するという『大
 義はどうでもよかった』、
  その大義から判断するという事から離れ、金銭的に判
 断するという態度になっていた。
  結局は、アメリカの在比して防衛するという大義意識
 が崩れ去っていた。
  フィリピンの意見・判断は別にして、そっちのけにし
 て、アメリカだけで、この判断はなされた。
  戦略的判断や、同盟の絆などという話は無かった。
  アメリカだけの都合によって、事態が変わった。
  フィリピン側から言わせれば、アメリカだけの都合に
 よって、フィリピンの防衛態勢が変えられた・・という
 事になった。
.
1991年、ソ連の連邦政府の権限縮小(共和国の権限拡大)
  政策に不満を持つ側近のクーデター失敗事件が起こり、
 ソ連共産党の解散、
  ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)への移行がなされ、
 1922年に誕生したソ連の歴史が終わった。
.
1991年12月、「一超多強」・・ソ連が崩壊し、冷戦が集結
 した・・「アメリカ、一強」の時代の到来。
  1991年12月、ソビエト連邦共産党が、解散した。
  それによって、各連邦の構成共和国の主権国家として
 の独立が消えた、また、
  1991年12月25日に、ソ連大統領のミハイル・ゴルバチ
 ョフが辞任し、ソ連は解体された。
  そして、アメリカが、受動的に一強となった、2-1で
 ある。
  一超大国:アメリカが、この時に出現した。
  しかし、その時は、そのことは、もう、「ひと昔まえ
 に起きたこと」と言った方が適切な今(2016年)となっ
 ている、
  その時から、25年という年月が流れている、経過して
 いる。
  そして、21世紀へ、この先は、長期的に、確実に、多
 極化へ向かって進んで行っている。
  その多極の国々は、そのグループは、確実に力を付け、
 アメリカとの差を縮め、地球のあちこちで、その次なる
 グループが形成され、力を付けて来ている。
  多極化は、確実に進んでいる。
  過去の中心にあった米欧の結束は崩れ、米欧の離反が
 進んでいる。
  ロシアは、プーチン政権の「新ツァーリズム」が進ん
 でいる。
  (参考)ツァーリズム:ツァーリによるモスクワ・ロ
     シア、および、ロシア帝国の絶対君主制体制の
     ことをさす。
  (参考)ツァーリ:ツァーリ、あるいは、ツァールは、
     ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用され
     た君主の称号。
  中国は、経済発展にあり、「アジアの覇権」を目ざし、
 アメリカへの対抗を意識した長期戦略の実行をしている。
  アメリカは、この確実な流れの中で、「グローバルな
 協調の進展」を声高に叫んでいる。
  また、「国際社会の統合」と叫んでいる。
  そして、アメリカは、その統合された社会の頂点に、
 当然の様に、立ちたいという態度で来た。
  勿論、自分の(アメリカの)お好みの社会システムで
 統合され、その頂点に立つ、それが、正義なのだという
 統合である。
  これは、遠い過去から、キリスト教組織がやって来た
 事で、その形を変えてやっている事に過ぎない。
  キリスト教は、そのキリスト教の『最高会議』におい
 ても・・、
  その判断は、統合において、統合に反する異は、「異
 端だ」として・・抹殺を『是』として来た。
  統合の為には、その統合を阻害する『異』は消し去る
 という考え方・教義であった。
  中国の動静において、2016年の現在から見ると、
  南シナ海の中国のサンゴ礁を埋め立て、そして、軍事
 基地化し、
  そして、国際法違反の判決が出ても、その判決に従お
 うともしない。
  逆に、相手のフィリピンは、中国の人民元の金と投資
 が欲しいと、中国参りをし、そして、握手をしている。
  中国は、自国の金・人民元をばらまいて自国の主張を
 押し通そうとしている。
  日本の沖縄県尖閣島を含む東シナ海も、同じ状況とな
 っている。
  今でも、中国は、軍艦を使って日本の沖縄県の一角を
 奪おうと、日本の統治実態はないと言おうとの行動を行
 なっている。
  南シナ海のサンゴ礁の様に、中国の更なる行動が起こ
 される事態にある。
  この様な行動によって、中国の巨額な軍事費の投資の
 見返りを得ようとしている。
  中国は、アメリカに「太平洋を半分づつにしよう」と
 言ったが、それは、日本という国を飛び越えて、世界戦
 略へと進んでいる。
  当面、日本は、日米同盟路線は重要だが、台湾が中国
 の手に落ちるか?否か?
  台湾の方々の民族自決に委(ユダ〉ね、その決定を、
 世界が、尊重する事になるか?否か?
  中国は台湾をのみ込み、そして次に、国境となる沖縄
 県尖閣をのみ込み、沖縄をのみ込み、
  そして、遠い昔から「日出づる国」として、日本が中
 国に従属しなかった国、その日本を、従属させたかった
 様に、『日本を従属させ』、太平洋を半分づつにしたい
 としている。
  その後は、アメリカの西部開拓が、太平洋にぶち当た
 っても止まらなかった様に、「中国だって止まらない』
 と。
  アメリカだって止まらず、中国の行動を咎(とが)め
 られない様に、中国は、よりアメリカと近接するところ
 までその歩みは止まらない。
  アメリカだった止まらず、やって来たではないか・・
 と、中国は言いたげである。
  そして、中国の国内の利権のおいしい汁を吸ったでは
 ないか・・と、言いたげである。
  この様な行動をする輩の国が跋扈(ばっこ)する世界
 である。
  北朝鮮が、核兵器を持った理由がここにあった。
  自分の利のみを追求する大国、この様な輩が跋扈する
 大国の間にあって・・「核を持った」。
  逆に、この様な輩の跋扈する大国の中で「核を持たな
 い国、勇気あるその様な国になれなかった」とも言える。
  ある意味、「弱い国」と言える・・が・・、
  死にたくなかったのだ。
  「弱い民族は滅んで来た」が、人類の歴史なのだ。
  自分の事は、「自分で責任をとれよ」と教えている人
 類の歴史・・なのだ。
  (参考)跋扈:ばっこ、《「後漢書」崔駰伝から。「
    跋」は越える意、「扈」は竹やな》魚がかごを越
    えて跳ねること。転じて、ほしいままに振る舞う
    こと。また、のさばり、はびこること。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive