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2013年7月7日日曜日

キリスト教の本(もと)について・・・。

 題:キリスト教の本(もと)について・・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書の原本は、『無い』という状態です。
 腐食しやすいパピルスであったので腐ってしまい、無いとい
う状態になってしまったのです。
 あるのは写本ばかりです。
 それも、キリスト教が当分ほったらかし状態であったので、
紀元400年~500年の物です。
 その間は空白なのです。
 この長い空白期間は、捨て去っていたと言える期間です。
 連綿と続いて来たという訳ではありません。
 途切れています。
 この放置状態だった期間に、本(もと)が無くなってしまっ
たのです。
 だから、では、その写本が信頼が置けるかというとそうでは
ないのです。
 まったく、写本の統一性は無いのです。
 どれが本物か?、どの部分が本物か?なのです。
 同一の文の写本ではないのです。
 現代までの、今まで、『どの言葉が真の言葉なのだろうかと
いう』、悩み、さ迷う、歴史だったと言えます。
 例えば、ほんのわずかなことでもまったく違う意味となりま
す。
 この問題もあります。ピリオドの位置とか・・・。
 その位置が分からないと真意が不明となってしまう問題とか
・・・。
 この類いの不明が『非常に多い』状態なのです。
 聖書の翻訳には「釈義」という『類推』・『謎解き』的行為
を要する状況です。クイズ的状況です。
 『えいっ、やっ』と解釈するという、翻訳者の『意思』が入
って来てしまいます。
 結局、翻訳者の宗教観からの解釈が入ってしまう宗教なので
す。『神』ではないのです。
 本物へ、神へ、辿(たど)れない宗教の状態なのです。
 結局、写本の領域でふらふらしている宗教と言えます。
 宗教の根本(聖書)がこの状態で、実体がない状態です。
 世界宗教になり得ない宗教です。
 (参考)しゃく‐ぎ【釈義】 文章・語句や教えなどの意義を
解釈し、説明すること。また、その内容。
 (参考)実体:本質、本体

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