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2015年3月20日金曜日

(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)

 題:(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1299年、オスマン帝国(オスマン・トルコ、イスラム国家)
 が建国された。
  15世紀には、東ローマ帝国を滅ぼして、その首都であ
 ったコンスタンティノーブルを征服した。
  最大領土に、1683年になったが、カナンの地(イスラ
 エル)も完全にこの帝国に殲滅されている。
  この国の出現は、西欧キリスト教国にとって「オスマン
 の衝撃」であった。
  また、西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を
 挫折させた。
  この国の歴史は、1922年のトルコ革命による滅亡まで
 の620年以上の長期間、続いた。
13世紀~15世紀、インカ帝国:1200年頃に興り、13世紀
 ~15世紀に繁栄を極めたインカ帝国は、大量の黄金を使
 った工芸品を所有していた。
  これらは、1533年に、スペインによって滅ぼされた時
 (最後の王アタワルパは莫大な身代金を積んだにもかかわ
 らず殺された)、王族がチチカカ湖に投じたという。
  この伝説は、1988年の日本とボリビアの共同調査で証
 明された。
  エクアドルからチリに及ぶ大帝国だった。
  巨大な石造建築・土木灌漑(かんがい)・織物などの
 高度な文明を有していた。
13世紀、タイ(スコータイ朝とアユタヤ朝):13世紀中頃
 に、中国の雲南地方から南下したタイ族が、スコータイ朝
 を建設したが、短命に終わる。
  タイ人による最初のタイ王朝(1257年~1350年、年代
 は諸説ある)。
  14世紀中葉に勃興したアユタヤ朝(1351年~1767年)
 が417年間続いた。
  ビルマのアラウンパヤ朝の攻撃により、1767年に滅亡。
  山田長政はこの王朝のもとで活躍。
  中国や琉球と盛んに貿易を行った。
13世紀、外国では、13世紀に既に特許(慣習法)が付与さ
 れていたと言われている。
  日本は明治4年になってから。
13世紀、マレーシア:13世紀にジャワ島にあった王朝の勢
 力下にはいって、振るわなかった。
13世紀、彫刻:明月院上杉重房像(神奈川)
13世紀、絵画:禅林寺山越来迎図(京都)
13世紀、絵画:西本願寺親鸞上人像(京都、専阿弥筆)
1300年頃、中世の頃、鎌倉街道筋が発展した。
  「いざ、鎌倉」、幕府は、有力御家人や豪族を諸国の
 守護や郷の地頭に任命し、一旦鎌倉に異変が起こると、
 これら諸国の部者たちは手勢と共に武装して駆け付けた。
  京・駿河・遠江戸~鎌倉、下総・常陸~鎌倉、武蔵東
 部・下野~鎌倉、奥州~鎌倉、武蔵西部・上州~鎌倉、
 信濃・越後~鎌倉などのルートがある。
1300年、最古のポルトラノ型海図ピサ図が作られた。
  羅針盤の発明が、航海図を画期的に変え、実用的にした。
  ポルトラノは、イタリア語で沿岸航海図?の意味からと
 言われている。
14世紀初、絵画:14世紀初。愛染明王像(東京根津美術館)
13世紀~14世紀、絵画:13~14世紀。聖衆来迎寺六道絵
 入道(滋賀)
14世紀、工芸:14世紀。大鎧・兜・大袖、櫛引八幡宮赤糸
 威(青森)
14世紀、チベット:14世紀には、ツォンカバが出て宗教改
 革を唱え、黄帽派が成立し、次第に勢力を伸ばし、ダラ
 イ・ラマの政権が樹立する。
  清朝以後は、清、英、露の勢力争いの目標になった。
  現在は、中華人民共和国西蔵自治区になっている。
14世紀、アステカ王国:アステカ族が、メキシコ中央高原
 に築いた王国(14世紀~1521年)。
  アステカ族は、伝承によると、1300年頃にメキシコ盆
 地に到達し、先住民から農耕技術や文化を学び、勇猛さと
 団結力、また、婚姻に基づく同盟関係で勢力を伸ばした。
  首都のテノチティトランを、14世紀中頃に建設し、15
 世紀にアステカ王国を建設した。
  スペイン人キリスト教徒とキリスト教聖職者たちによっ
 て、1521年に滅ぼされた。
1300年、ルネッサンス/文芸復興:14世紀、イタリアに始
 まり、17世紀まで各国に波及した。
  古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動。
  中世のキリスト教に抑え付けられた人間性や、戦争が
 多発する社会の暗黒時代から、人間本来の姿を取り戻し
 たいの「再生・復活」の動き。
  19世紀の中葉ころに、歴史家のミシュレンやブルクハ
 ルトの用いた考え方で、原意は「再生」である。
  市民階級の繁栄を背景に、古典文化を模範とし、ヒュー
 マニズム(人文主義・人間中心主義)によって、あるが
 ままに人間や自然を見ようとしたものであり、近代文化
 の形成に貢献した。
  しかし、なお多くの中世的要素が存在したので、ルネッ
 サンスを近代の始まりとする考えには疑問が呈されている。
  また、ルネッサンスが、ビザンチン文化・イスラム文化
 の影響を受けたことも知られている。
  なお、古典文化の継承をカロリング=ルネッサンス、
 12世紀ルネッサンスなどによってとらえる事もできる。
1301年、新田義貞が生まれた(1301年~1338年)
1301年8月22日、第10代執権・北条師政(1301・8・22~
 1311・9・22)
1303年、北条高時が生まれた(1303年~1333年)
1304年、元と日本の関係に、逆の現象が現れた。
  日本の武装商船が、元(中国)の江南に度重なって襲
 来するようになった。
  元は、海防を強化させた。
  また、元の商人に海外へ出る事を禁じる『禁海令』を
 発布した。
  元が、倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉鎖主義へと
 態度を変化させ、日本との通交を回避するようになった。
  また、高麗においても、二度に及ぶ日本への侵攻で、
 および、第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が
 殆ど尽き、海軍力が弱体した。
  この事が、相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる原因
 となった。
  日本への2度の侵攻の敗戦と、その後の日本武装商船の
 活動によって、中国における対日本観は大きく変化し、
 狂暴で勇猛な日本人像、および、日本脅威論が形成された。
  例えば、南宋遺臣の鄭思肖は・・、
  「倭人は狼、死をおそれない。たとえ十人が百人に遇
 っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで
 戦う。戦士しなければ、帰ってもまた倭王の手によって
 殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべか
 らず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして
 入りがたく、戦守の計を為すべし」・・と述べている。
  この様な、日本恐るべしの資料は複数ある。
  なにしろ、クビライの日本侵攻が成功しなかったとい
 う事が国内で議論されて日本征討を思い止まったという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

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