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2015年4月22日水曜日

(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)

題:(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1573年、小谷城の後日談。
  信長は、小谷城へ、何度も和睦の使者を出していた。
  そして、信長は、自身では小谷城を攻めることは出来
 なかったのか?小谷城攻めはいつも秀吉にさせていた。
  長政は、妻や子供のために和睦しても良いと考えてい
 たようだった。
  だが、父・久政は頑として聞き入れなかった。
  家の筋を通す父だった。
  義景の自刃を知った長政は、悟ったのか?「我らの3人
 の娘と共に生きてくれまいか。そして、我ら亡き後の浅
 井家の菩提を弔って欲しい」とお市を諭した。
  そして、長政自刃まであと1週間という8月25日に、長
 政は、お市の方へ「そなたは城を出て兄・信長の元に戻
 られよ」と妻の命の助かる道を思って言葉にした。
  和睦の勧めにも応じなかった小谷城、お市の方と子供
 たちが去った小谷城に、秀吉による熾烈な攻撃が始まっ
 た。
  秀吉軍は、険しい山を登り、あっという間に京極丸を
 占拠し、久政の居る小丸と、長政の居る本丸を分断した。
  お互いが連絡が取れず、孤立する中で、小谷城は落城
 した。
  また、秀吉の働きが目立った。
  この後、秀吉は城持ちの大名となる。
  秀吉は、山間地の城を嫌った。
  平地に城地を求め、琵琶湖畔の今浜に城を築いた。
  長浜城(別名:今浜城)、長浜と名付けたのは秀吉で
 あった。
  お市の方は、3人の娘と共に兄の信包(のぶかね)に預
 けられ。清州に住んだ。
1573年、秀吉が、信長から長浜をもらう。
  この地は、浅井氏の旧領である。
  お市の方は、秀吉を嫌ったという。仕方ない事である。
  当時、城下町は、敵の侵入を阻むため、カギの手や袋
 小路があったりして、道が入り組んで、分かりづらかっ
 たが、秀吉の長浜の城下町にはそんな複雑な道路はない。
  商業重視の街づくりをした。
  秀吉は、町の賑わいに主眼を置いていた。
  信長にとって、秀吉は良く働く武将であった。
  論功行賞として秀吉が貰った地は、すべて長政の旧領
 で、北近江の3郡を貰った。一国一城の主となった。
1573年、信長が、大船をつくる。(7月3日か?)
  信長が、鍛冶・大工・きこりを集め、長さ33間(約60
 メートル)、幅7間(約13メートル)、ろ100挺、ともに
 矢蔵を備えた大船を造り上げた。
  これは、湖上交通を確保するためのものだった。
1573年7月20日、羽柴藤吉郎と署名した文書の初見。
  この日の日付の、羽柴藤吉郎の初見文書のがある。
  柴田勝家の柴と、丹羽長秀の羽を貰った。
1573年7月23日、信長の望み通り「天正」と改元された。
  (20日説と28日説あり)
1573年9月、秀吉は、小谷城に一旦入ったが、今浜を長浜と
 改め、新しい城作りに着手した。
  その理由は、
  1、小谷城は、軍事的には良いが、領国経営の中心と
 しては好適ではない。
  2、長浜は、商品流通の面を重視していた土地だった。
  3、一向一揆対策のために良い地だった。
  4、国友の鉄砲鍛冶集団を直接傘下に治められた。
1573年9月、信長が、長島の一向一揆に破られた。
1573年12月、信長に、松永久秀が降りた。
1573年12月1日、沢庵が生まれた(1573年~1645年)
  吉田兼好ではないが、うたかたの様に江戸時代の初期
 に活躍する沢庵が生まれた。
1574年、書院造り:玄関・床の間・付け書院・違い棚・唐
 紙障子・欄間(らんま)・縁側などを備えた座敷などは、
 禅宗建築に伴って入ってきた書院造であるが、近世初頭、
 安土桃山時代に宮殿建築に取り入れられた。
1574年、秀吉が、近江長浜の大名になった。
1574年、豪姫が、生まれる。
  前田利家とまつ夫妻の3番目の子だが、子供の出来ない
 秀吉・おね夫妻は、生まれる前から性別を問わず、貰い
 受ける約束をしていた。
  産声を聞くと、秀吉はそのまま懐に抱きかかえて走り
 帰った。
  それだけに、豪姫に抱く秀吉の愛は、誠に真実の親の
 愛情であった。
  秀吉はこの豪姫を、あの岡山城の美しき人、おふくの
 子、宇喜多秀家の妻にした。
1574年1月、信長が、「洛中洛外図」を謙信に贈った。
  この時に、上杉謙信は、武田勢を討つため、上野に出
 陣したが、いくら催促しても信長・家康が、信濃・甲斐
 に進んで、武田を攻めるとの約束を守らないので、わざ
 わざ使いを出して、違約を責めた。
  信長は、それに答え、畿内・近江・越前の情勢が急で、
 約束を守れなかったが、来秋は必ず出兵しよう、本願寺
 には畿内の兵で当たり、東国へは近江・尾張・伊勢・三
 河・遠江の軍勢を差し向けようと言った。
  これは、弁解というようなものではない、謙信を馬鹿
 にしたというより言いようのないものであった。
  信長が、謙信に狩野永徳筆の「洛中洛外図」(上杉家
 に現存)と「源氏物語」の屏風を送ったのは、この間の
 折衝中の事だが、どういうつもりであったのだろうか?
 「洛中洛外」を掌握しているのを誇示したのであろうか?
1574年2月、越前が、一向一揆の領国となった。
1574年3月18日、信長が、公家に列した。
  この日に、信長が、従三位参議に叙任されて公卿に列
 した。
  この後、廷臣との往来がしきりとなる。
1574年4月、本願寺が挙兵した。
1574年7月12日、信長は、慎重に準備を整え、この日、長男・
 信忠、弟・信包以下諸将を率いて岐阜をたち、尾張津島
 に入った。
1574年9月29日、信長が、長島一向一揆を平定。
  追い詰められた門徒は、長島・屋長島・中江の3か所に
 立てこもったが、厳しい包囲と兵糧攻めに餓死する者も
 多く出て、この日、ついに長島の門徒は降伏した。
1574年12月、信長が、領国内の道路修築を始めた。
  信長が、分国中に道普請を指令した。
  川には舟橋をかけ、悪い道は平かに、石を取り除き、
 道幅3間(約6メートル)、両側に松・柳を植え、沿道の
 村民に水撒き掃除をさせた。
1575年、信長が、4人の奉行を使い、諸国の道路を改善した。
  江戸時代以前の主な社会資本整備とされている。
1575年、信長が、堤防の毎年修理を指示した。
  信長は、かねて築造を命じていた中島郡「道根・横野
 堤」の完成を厳命し、各所の堤防を毎年修理する様に指
 示した。
  農業の進歩は、平野のような地形では、特に、治水の
 技術に関わっていた。
1575年、信長と毛利との対立が次第に目立つようになる。
  謙信は、本願寺に接近した。
1575年3月、信長が、今川氏真に会う。
  信長が、上洛して相国寺に泊まった。
  すると、今川氏真が訪ねて来て、信長に香炉などを送
 り、公卿たちと蹴鞠(けまり)をして見せた。
  かつて、信長は、尾張桶狭間で塗り輿(ぬりごし、表
 面を漆塗りにした輿、公方・長老などの乗り物)で逃げ
 る今川義元を討ち果たしたが、その子・氏真が、京都に
 流れ着き、父の敵(かたき)の自分にこんな風にするの
 を、信長はどんな気持ちで眺めたのであろうか?(馬に
 乗り換えて逃げたという話もある)
1575年5月21日、長篠の戦い。
  信長包囲網を打ち破った後、信長や家康は、甲斐の武
 田氏に対しても反抗を強めており、また、武田方からも
 織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。
  4月に、勝頼より離反し、徳川氏の家臣となった奥平貞
 昌を討つため、1万5000の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠
 城に攻め寄せた。
  しかし、奥平勢の善戦により、武田軍は長篠城の攻略
 に手間取った。
  5月12日に至って、信長は、3万の大軍を率いて岐阜か
 ら出陣した。
  そして、5月17日に、徳川軍8000と三河国の野田で合流
 した。
  3万8000に増大した織田・徳川連合軍は、5月18日に、
 設楽原に陣を敷いた。
  そして5月21日に、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが
 始まった(長篠の戦い)
  信長は、5人の奉行に1000挺余りの鉄砲隊による射撃を
 行わせた。武田軍に圧勝した。
1575年8月12日、信長が、越前の一向一揆を平定した。
  信長は、越前を目指して岐阜を発った。
  若狭・丹後の水軍までも加えた大軍は、越前に入って
 敦賀に陣した。
  一揆平定後、越前八郡を柴田勝家に与えた。
1575年10月、信長に、本願寺が降りた。
1575年11月4日、信長が、権大納言兼右近衛大将(征夷大将
 軍に匹敵する官職)となり、その拝賀式で天皇から盃を
 与えられ、信長からも献上物が出され、廷臣にも分けら
 れた。
  これで、朝廷より「天下人」であることを、事実上、
 公認された。
..
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2015年4月21日火曜日

(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月~1573年9月)

題:(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月~1573年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1572年12月、信長が、小谷城の『水攻め』の準備をする。
  信長が、小谷城の水攻め準備をするが、これは必要だ
 ったのか? 信長の本心は・・?
  信長は、小谷城の周りを少しづつ攻略し、そして、各
 地の諸将を、信長側に降ろして来た。
  そして、あちこちに砦を築き、小谷城の『必敗の姿』
 を見せてきた。
  ここに、「小谷城よ!降りよ!」の本心があったと感
 じられる。
  あの比叡山を、一気に駆け上がり、すべてを焼き払っ
 たのは・・、
  小谷城に、この様な姿に、やればできるのだと、見せ
 ていた、知らせていたのだろう。
  妹がいる、そして、甥や姪もいる、幸せな生活をして
 いる小谷城なのだがあった・・、
  信長は、この様に小谷城を見ていたのだろう、感じて
 いたのだろう。
  小谷城・城主・浅井長政の頼りとしている朝倉義景は、
 義景の着陣後、義景の重臣の前波吉継(まえばよしつぐ)
 父子が、そして、その他の将が、次々と信長に降りていた。
  その様な状況から、朝倉義景は、この12月、越前へ引
 き上げてしまった。
  義景に、「信長は一揆で疲弊している、討つなら今だ」
 と書状を送っていた強気の浅井長政、降りればいいのだ
 が・・、
  それでもなお、信長は、なおゆっくりと、慎重に、横
 山と虎姫山の間の八相山・宮部に要害を構え、
  そして、虎姫山と宮部間に、幅三間の道を高く作り、
 それにそって小谷城側に高さ1丈(3メートル強)、延長
 50町(1町が1200メートル、故に、60キロメートル)と
 いう超長い築地(ついじ、土だけを突き固めた土手や土塀)
 を作り、水攻めの準備をした。
  何故?信長が、こんな大変な事をしているのか? 
  手間もかかり、時間もかかることをしているのか?
  待っていたのだろう。
  妹婿・・降りろと、降りてくれと、
1572年12月22日、三方ヶ原の戦い。
  武田信玄は、この時、遠江・三方ヶ原に徳川・織田軍
 を破った。
  徳川・織田軍の敗け方はひどかった。
  武田軍2万7000~4万3000、徳川・織田軍1万1000~2万
 8000、武田軍は1.5倍~2.5倍の軍勢だった。
  信玄の西上作戦の途上の(スタートの)戦い。
  (西上作戦は、1572年9月に、信玄の重臣に三河へ先攻
 させ、信玄は10月に出陣したのがスタートだった。最初は
 出城などを落としていた。そして、三方ヶ原に至った)。
  将軍・義昭は、1571年に、信長討伐令を出し、第二次
 信長包囲網を敷いた。
  信玄は、この翌年の1572年に、この将軍の令に応える形
 で信長側の徳川領国である遠江国・三河国の侵攻を行った
 のであった。
1573年4月12日、武田信玄が没する(1521年~1573年)。
  三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血。
  当然、進撃は、突然、停止する。
  軍が甲斐へ引き返す途上、4月12日に、没した。53歳。
  歴史は、信長に流れていた。
1573年7月18日、義昭、降伏。
  義昭軍が、この日に、信長軍に降伏した。
  そして、この後、信長は、将軍・義昭を追放した。
  信長包囲網を築くこともしたが、追い詰めもしたが、
 この時、京都から追われ、備後の国に逃れた。室町幕府は
 滅んだ。
  晩年、義昭は、豊臣秀吉の時代になって、山城填島1万
 石を与えられ大名として過ごしている。
  この年・1573年に何があったかというと・・、
  この年の正月、信長は、義昭に折れている。
  あの信長が、義昭を将軍として立てた。
  この正月、信長は、自分の子供を人質として義昭に入
 れ、和睦を申し入れている。
  しかし、義昭は、これが信じられなかったのか、この話
 を一蹴した。
  そして、義昭は、近江の今堅田城と石山城に、幕府の軍
 勢を入れ、はっきりと『反信長の旗』を示した。
  義昭は、武田軍が来ることを頼りにしていた。
  しかし、信長軍の攻撃を受けると、この義昭の両城は、
 あっけなく陥落した。
  京に陣を張っていた信長には降りる武将(細川藤孝や
 荒木村重)らがいた。
  状況判断が出来ている武将たちだった。
  しかし、それが出来ず、また、義昭は、信玄の死を知
 らないため抵抗を続けた。
  将軍を立てる信長は、再度の和睦を要請した。
  しかし、義昭は拒否。
  信長は、威嚇の行動をして、義昭に圧力を掛けた。
  そこに、優しさがにじむ信長が居た。
  そして、朝廷に和睦の工作を奏上した。
  天皇の勅命によって、4月5日に、講和は成立した。
  しかし、それから3ヶ月ののちに・・、
  義昭は、7月3日に至って、一方的に講和を破棄した。
  そして、南山城の要害・填島城(山城国)に移って、
 挙兵した。
  この城は、信長軍・7万の軍勢によって包囲され、7月
 18日に信長軍に攻撃を開始されると崩れ、義昭は家臣に
 促(うなが)されて、しぶしぶ降伏した。
  そして、填島城を、義昭は出た。
   この戦いにしたって、温かい信長だった。ヨーロッパ
 の様な卑劣な殺戮はしていない。
  信長は、この戦いの後、足利将軍の後継者として立て
 ると義昭に約束し、足利義尋を手元に置いている。
1573年8月8日、信長と朝倉義景の戦い。
  信長が、3万の兵を率いて近江に侵攻した。
  これに対し、義景も朝倉軍を率いて出陣しようとするが、
 それまで色々な失態をしてきた義景は家臣の信頼を失い
 つつあった。
  出陣命令を拒否する重臣・朝倉景鏡や魚住景固らが出る
 という始末だった。
  それでも、義景は、2万の軍を率いて出陣した。
  激突した結果は、朝倉軍の大敗だった。
  信長軍の追撃は、厳しかった。
  その結果、朝倉軍は壊滅的な状態となった。
  義景は、有力な武将の多くを失った。
  最後は、10人程度の側近が義景を守るという状態とな
 った。
  それでも、義景は、一乗谷に留守を守る兵の所へ帰還
 した。
  ところが、悲しいかな、義景の壊滅を知った留守を守る
 将兵の大半が逃走した後だった。
  総てを失ったと悟った義景は、自害をしようとしたが、
 近臣に止められた。
  8月16日から、義景は逃れる行軍が始まる。
  その道々、援軍の要請をするが応じてくれるものはなか
 った。
  防備に不安ありという事でまた逃れるという状態であ
 った。
  そして、8月18日、織田軍の柴田勝家の先鋒が一乗谷に
 攻め込み、これによって、朝倉家100年の栄華は終わった。
1573年8月20日、そして、8月20日の早朝、朝倉の家臣が、織
 田軍に通じて裏切り、この家臣の襲撃によって、ここに至
 って義景は自害した。41歳だった。
1573年9月1日、小谷城の戦い・・浅井長政が滅びる。
  小谷城の戦いは、8月8日に始まり、この日・9月1日に、
 終結している。信長の辛い決着をつける日だった。
  この8月8日、浅井長政の重臣の山本山城の城主・阿閉
 貞征が織田方へ寝返った。
  これを機に、織田軍の侵攻は開始された。
  朝倉軍は、小谷城の北方近くまで進出して来た。
  しかし、朝倉軍は前哨戦で敗北し、織田軍に追撃され、
 壊滅的敗北を被(こうむ)った。そして、義景自害へ至る。
  こうして越前を制圧した信長は、小谷城へ引き返し、8
 月26日に、虎御前山の本陣に帰還した、そして、時を移
 さず、全軍に小谷城の総攻撃の命令が下した。
  水攻めはなされなかった。
  織田軍の厳しい攻撃が加えられた。
  長政は、嫡男万福丸を家臣を付けて城外に逃がした。
  さらに、お市の方と3人の娘と共に、織田軍に引き渡し
 た。
  そして、9月1日、長政は自害し、小谷城は落城した。
 浅井氏は3代で滅亡した。
  桶狭間の戦いの1560年、この奇襲戦に今川義元を討っ
 た後、天下を治める夢を見た信長は、上洛への道筋にある
 北近江の雄・朝倉氏の懐柔に乗り出した。
  そして、浅井長政とお市の婚約が整ったのだった。
  そして、永禄10年、お市21歳は、2つ年長の長政に岐阜
 から嫁いだ。
  織田家は、美男美女の血筋で、お市も目鼻立ちがきり
 りとしていて美しかった。 
  浅井氏は、南に接する六角氏との戦いでは常に敗れ、
 越前の朝倉氏の援助を受け続けて来た。
  家臣は、六角氏の傘下に甘んじ、軍事的手腕に欠ける
 父・久政を嫌って引退を強要し、長政は、16歳で浅井氏の
 跡目を継いだ。
  この長政とお市の結婚には、父・久政は賛成ではなか
 った。しかし、長政は信長との同盟を選んだ。
  六角氏を共に攻め、希望ならば美濃の国もやろう、また、
 朝倉・浅井両氏は、昔からの深いかかわりもあるから、
 無断で朝倉氏を攻めたりはしないとの誓紙まで信長が入れ
 て来た。
  信長の誠実さを感じた長政は、それで、お市を城に迎
 えたのであった。
  長政とお市の結婚生活は6年間に過ぎない。
  お市には、3人の娘と2人の息子が居る(嫡男の万福丸は
 お市の子ではないという・信長公記)。
  しかし、信長が、悪かった。
  信長と長政の仲がおかしくなったのは、誓紙に背いて
 信長が、浅井の領内を通って、越前の朝倉を攻めに向か
 ったことに始まる。
  お市が嫁いで、3年目の事だった。
  長政は、信長に理解を示していた。信長がこれに甘えた
 のか?
  朝倉氏との同盟を重視する父・久政との間に立った長政。
  長政も、筋の通らない信長をかばい切れなくなったのだ
 ろう。
  次第に、小谷城は、信長との対立を深めて行った。
   そして、浅井氏は、信長が命からがら逃げる様な戦さ
 を信長に行った。
  これは決定的だった。
  この後から、信長の厳しい振る舞いの話が出て来るよう
 になる。
   浅井長政が没した(1545年~1573年)28歳だった。
..
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2015年4月20日月曜日

(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月~1572年11月)

題:(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月~1572年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1571年8月18日、織田信長の、再度の小谷城(おたにじょ
 う、浅井氏の城)進攻への布石。
  妹の嫁いでいる小谷城。
  何故、信長はゆっくりと攻めているのか? 
  妹の存在が・・そこにあったのだろう。
  信長は、小谷城の周りの村々に手を付けた。
  そして、それだけで、横山城に引き上げた。
  そして、小谷城は置いといて、そこから延暦寺を目指
 し、中山道を進んだ。
1571年9月1日、信長は、この日、新崎郡の新村城と小川城
 を降ろした。
  この方面の一揆を掃討した。
  ついで、野洲郡の金ヶ森(一向一揆の中心地)を攻め
 落とした。
  信長が目指すのは、あくまでも延暦寺で、
  一向一揆を攻めたのは坂本への通路を確保したいため
 だった。
1571年9月12日、比叡山の焼き打ち。
  信長は、一挙に坂本へ進み、比叡山に攻め上った。
  延暦寺と、坂本の日吉社を、一屋あまさず焼き払った。
  徹底的さがこの時にはあった。
  1569年10月の寺領還付要求の時や、1570年12月の朝倉
 との和睦の時の信長とは、まったく違っていた。
  何が、信長をこの様にしたのか?
  これで、近江経略(攻めて、支配する事)は一段と進
 んだ。
  滋賀・高島の両郡が、新たに信長の下に降った。
  近江国人の降りるものが、一段と多くなった。
  この頃、浅井の武将で、姉川の北岸の宮部城を守って
 いた宮部継潤(けいじゅん)が秀吉に降っている。
1572年3月、将軍・義昭が、信長の執奏(しっそう、取り次
 いで奏上する事)する改元を妨げた。
  朝廷から、幕府と信長へ改元の命があったが、幕府が
 改元の費用を出さない行為をした。
  改元は、本来、天皇の大権だが、実際上の責任は幕府
 にあった。義昭は、そこをすんなり事を運ばなかった。
  信長への抵抗であった。
1572年4月、信長が、大徳寺に、あらためて徳政で免除した。
1572年7月1日、信長が、近江に攻め入った。
  織田信長が、今度は直接小谷城を攻めるべく、近江(
 滋賀県)へ進み、浅井長政との戦いが起きた(前哨戦)。
  信長は、意を決した。
  しかし、本格討伐はこの後に来る、この時は前哨戦。
  松永久秀と南近江の「国衆中(くにしゅう、領民のこ
 と)」にあて、7月1日に、小谷を攻撃するにつき、老若
 を問わず鋤(すき)や鍬(くわ)を持って砦を作れと言
 った。
  そして、小谷の城下町を攻めた。
  そしてさらに、北近江の各地へ、前も増して徹底した
 攻撃を仕掛けた。本格城攻めはしていない。
  苦しい信長が居たのだろう。
1572年7月29日、信長は、小谷城攻撃の用意を、一層進める
 ため、7月末、虎姫山砦の築造に取り掛かった。
  浅井長政は、朝倉義景に対し、「信長は、尾張・伊勢
 の一揆に弱っている」との書状を出している。
  そして、「今が、信長打倒の時だ」と言っていた。
1572年9月、信長が、将軍・義昭に意見書を呈した。
  信長は、義昭に出した「意見17ヶ条」で、この年の3月
 の事を取り上げて、「天下」の希望と、「禁中(きんち
 ゅう、宮中)」の命令に反するものだとして非難した。
  反信長勢力と結託して、信長に敵対行動をとる将軍・
 足利義昭に対しての信長の耳の痛い話の具申(意見を申
 し述べる)。
  その内容の1部は・・、
  ・「宮中への参内を怠らない様に申し上げたのに近年
 怠っているのは遺憾である」
  ・「幕府へよく奉公し、怠りなく忠節を尽くす者に相
 応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの事をしていない
 ものを厚遇するのはよくない」
  ・「信長に友好的な者に対し、女性方(女房衆)にま
 で不当な扱いをしているが、どういうことなのか」
  ・「よく奉公して、何の落ち度もない者たちが昇給(
 扶持の加給)がないと、信長に泣きついて来たので、将
 軍に取り次いだにもかかわらず、何も聞き入れらないの
 はどういうことか?」・・など
1572年9月~1573年4月、武田信玄が、西上する(甲斐武田
 氏の遠征)
  北条氏政は、1571年末に、上杉謙信の態度がはっきり
 しないのに業を煮やし、武田信玄と和睦した。
  そこで、信玄は、いよいよ本腰を入れた西上を考えた。
  各地の信長に対抗していた派は、この信玄に期待し、
 活気づいた。
  信玄をはじめ、将軍・義昭、石山本願寺、各地の組織
 された一向宗徒、朝倉義景、浅井長政、三好一党、松永
 久秀から六角承禎、
  そして、久秀のもとに居候をしていた土岐頼芸に至る
 までが、互いに呼びかけ会い、直接的に、また、間接的
 に結んだ。
1572年10月3日、信長が、遠江(静岡県西部)に進撃した。
  信長が、本格的に遠江に進撃を開始した。
  ここで、信長は、信玄と絶縁し、謙信との同盟に踏み
 切らざるを得なくなった。
  謙信は、信長に誓紙を送り、また、信長の子を養子(
 実は人質であろう)にしたいと申し入れ、信長も承諾し
 た。
1572年11月20日、信長が、謙信と結ぶ。
  信長が、謙信に長い手紙を書いた。ここで、はっきり
 と信玄と戦うという決意を表明している。
..
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2015年4月19日日曜日

(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月~1571年5月)

題:(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月~1571年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.

1570年、スペインがマニラ(ルソン)を占領した。
  マニラは、既に、国際都市だった。
  中国は誠実な貿易をしていた。
  生糸や絹織物、そして陶磁器などの商品をもたらして
 いた。(イギリスはアヘン・麻薬を運んだ)。
  マニラには中国人居留区もあった。日本人もいた。
  豊かに交易でにぎわう都市・マニラ、この都市にスペ
 イン人は目を付けた。やはり、欲しいという欲からの行
 為だった。
  そして、この年に、スペインは、マルティン・デ・ゴ
 イティ率いる遠征隊を送り込んだ。
  そして、武力で占領し、植民地とした。
  やはり、キリスト教国・スペインは武力で奪い取った。
  スペインは、同じく、武力で奪い取ったメキシコの地
 の銀(レアル銀貨)を使って、この交易の利益を享受し
 た。
  マニラは、中国の利益を得る拠点として絶好だった。
  この時代の後になって、やはり、中国の利益を得たい
 利権を得たいというアメリカは、スペインからこの中国
 への拠点・フィリピンをまったく卑劣な戦争(米西戦争)
 で、勝と分かっている戦争で奪い取っている。
1570年、多くの地図を集めて編集されたオルテリウス(現・
 ベルギーの人))の「地球の舞台」が作られた。
  日本地図が、1595年に追加され、この地図がヨーロッ
 パにおける最初の日本地図とされている。
1571年、レパントの海戦。
  オスマン帝国と、教皇・スペイン・ヴェネツィア連合
 国との戦い。
  戦力:オスマン帝国300隻強、連合国300隻強、ほぼ同
 数。
  双方のガレー船の櫂手は奴隷によって漕がされていた
  (キリスト教の教皇だって奴隷を使った)
  オスマン帝国(テュルク系・・後のトルコ人のオスマ
 ン家出身の皇帝をいただく多民族帝国)の海軍を、
  この年のこの海戦で、スペイン連合艦隊が破り、世界
 最強を誇るに至った。
  この戦いで、スペイン王国は、支配下のジェノバや、
 イタリアの諸都市、教皇(領)、マルタ騎士団などから
 最大限の戦力を集めた。
  この時期、キリスト教は、世俗の王を廃したり、世俗
 の欲に関与する事しきりだった(世俗の欲を貪り、そし
 て紛れるキリスト教だった)。何度も、戦争までしてい
 る。
1571年、有馬晴信が、兄の義純が早世したため、家督を継
 承した(4歳)。肥前日野江藩の初代藩主。
  この頃の有馬氏は、龍造寺隆信や、龍造寺の支援を受けた
 西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受け、大変な状態だっ
 た。
  晴信は、最初はキリシタンと対抗していたが、キリス
 ト教宣教師から武器・弾薬の支援を受け(劣勢だっだの
 で受けざるを得なかった)、また、食糧までも支援を受
 けて、かろうじて国を保っている状態だった。
  そこまでして、龍造寺隆信から必死の防戦をするとい
 う状態だった。
  キリスト教宣教師からの物資が頼みの晴信だった。
  1580年、晴信は、この年に洗礼を受けている(13歳)
 が、晴信にとって、強力な敵対関係にある龍造寺氏から
 の攻撃を防ぐため、キリシタン宣教師からの武器・弾薬
 に頼った。
  また、宣教師の要請で、領内の多数の神社仏閣の破壊
 をさせているが、晴信は、1600年の関ヶ原の戦いの時、
 キリシタン大名の小西行長に攻め込んでいる。
  晴信にとってキリスト教よりお家がすべてだった。
  晴信は、マカオで晴信の貿易船がポルトガル船とトラ
 ブルを起こした事件の復讐している。
  ポルトガル船が長崎に来た時に爆沈させている。
  「目には目を」という事でやったのだろうが、この件
 で、晴信は甲斐に追放され、死罪となっている(まった
 く日本的な形で、切腹した後、首を切り落とされた)。
  晴信もそうだが、キリシタン大名の子や孫の代は、キ
 リシタン大名を止めている。
  また、晴信の貿易において、宣教師が絡んだ南蛮貿易
 で、日本人を奴隷にして拉致して行ったが(特に、女性
 方))、晴信の貿易もこれに手を汚している。
1571年、北条氏康が没した(1515年~1571年)
1571年、毛利元就が没した(1497年~1571年)
1571年、信長が、目標を延暦寺に置いた。
  講和の後、信長は、作戦の目標を延暦寺に置いた。
  その為、まず、浅井氏を押さえておきたいと動き出し
 た。
  湖東の交通路を確保すべく、浅井被官の国人を個々に
 誘降し、浅井を孤立させる方策に出た。
  この年、早々に、まず、佐和山城の磯野員昌を狙った。
  それは、先に員昌がもっとも頑強に抵抗したからでな
 く、佐和山が中山道と北陸道の分岐点に位置する要衝だ
 ったからだった。
  また、秀吉に命じて、越前と大阪間を往来する商人(
 朝倉や一向宗徒と本願寺の連絡に当たっていたのだろう)
 を、姉川と朝妻の間で押えさせた(連絡遮断)。
1571年2月、信長が、浅井の将・磯野員昌を誘降した。
  磯野員昌が降りた。その後に、丹波長秀を入れた。
  ついで、朝妻城の新庄直頼を降伏させ、太尾城を開城
 させた。
  こうして、岐阜路は格段に安全になった。
1571年5月12日、浅井の将・磯野員昌が降り、佐和山城が開
 城して後、信長は岐阜に引き上げた。
  浅井への戦いは急がない信長だった。
  浅井の事は、一応、横山城に居る秀吉に任せた。
  そして、この日(5月12日)、伊勢長島の一揆を討つべ
 く、信長は自ら出陣した。
  しかし、しかし、戦況は思わしくなく退却となった。
 信長が敗れたのである。
  木曽川・長良川と西の丘陵にはさまれた低湿地帯で、
 信長軍の大集団の行動には不利だった。
  作戦行動がままならず、この様な状況に慣れている門
 徒のゲリラに追撃される始末だった。
  柴田勝家が負傷し、氏家卜全は戦死するという始末だ
 った。
..
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2015年4月18日土曜日

(増補版)76C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年7月~1570年11月)

(増補版)76C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年7月~1570年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1570年8月20日、信長が、この日に、岐阜を発った。意を
 決しての出陣だったのだろう。
1570年8月23日、信長が、京都に入った。
1570年8月25日、信長が、河内枚方(ひらかた)に陣を
 張った。
  信長にしては、比較的ゆっくりとしたペースであった。
  そして、天王寺に陣を据えると・・、
  「大阪・堺・兵庫辺りより異国・本朝の珍物を捧げ、
 御礼申さるる仁、御陣取の見物の者、群衆をなす事に候」
 の状態であった。
  信長に感謝し御礼する者があったという。
1570年9月、石山本願寺が挙兵した。
  また、浅井・朝倉が再起した。
  本願寺は、秘かに、三好党や浅井・朝倉に気脈を通じ
 ていたが、9月初めに、門徒に挙兵を呼び掛けた。
  信長は、本願寺の挙兵が近いとみて、自ら指揮して井
 楼(せいろう)から「大鉄砲」で城中にうち入れ、
  住吉・天王寺あたりに陣取った信長方の根来(ねごろ
 )・雑賀(ぞうが)などの紀伊衆2万も、鉄砲3000挺
 で攻撃した。
  「御敵味方の鉄砲、誠に日夜天地も響くばかりに候」。
  根来は、最初の鉄砲生産地で、根来寺の僧兵が義昭に
 加勢したのは、信長にとって非常に有利であり、この点
 でも、義昭は、なお利用価値があった。
  また、大鉄砲を備えた井楼も、義昭が、京都の鍛冶番
 匠を招いて作らせたものであった。
1570年9月12日、三好方は次第に弱って、和を求めたが、
 信長は許さなかった。そして、攻撃をゆるめなかった。
  度々の繰り返しての反抗だったからだろう。
  そこで本願寺光佐は、「野田・福島落居候わば、大阪
 (本願寺)滅亡の儀と存知」と、ついに自らも参戦を決
 意し、9月12日に、門徒はその指令に従って、信長の陣
 を襲った。
  こうして、1580年に至るいわゆる石山戦争が始まった。
1570年9月20日、浅井長政・朝倉義景が、南近江に出兵し
 た。
  そして、滋賀郡宇佐山城を攻めて、織田信治・森可成
 を戦死させた。
  また、勢いに乗じて山城に攻め込み、山科・醍醐に放
 火し、京都の東部・北部に陣を敷き、京都周辺の社寺に
 軍勢の濫妨禁止(らんぼうきんし、乱暴のこと)その他
 の制札(せいさつ、立て札)を立てた。
  知らせを受けると信長は、すぐ義昭と一緒に、帰京し
 た。
  退却にはかなり苦労したようだが、やはり誰も追撃し
 て来なかった。
  信長の進撃を見て、浅井・朝倉は、比叡山中の青山・
 鉢ヶ峰・坪笠山に陣取った。
  信長は、延暦寺の僧を招き、味方になれば領国内の寺
 領を返す、僧侶の身として味方できなければ、中立を守
 れ、承知しなければ、全山を焼き払うと申し渡したが、
 承知しなかった。
  しかし、まだいきなり延暦寺を攻める事はできなかっ
 た。
1570年10月1日、篠原長房一党が、三好・本願寺を助ける
 ため、阿波・讃岐の兵を率いて、摂津中島に着いた。
  翌2日付け、遊佐某宛の手紙で、信長は、秀吉・丹羽
 長秀らが、京都東山一帯に陣を取るべく、三好が淀川を
 越えて攻めて来ても、即時、討ち果たす・・と書いてい
 る。
  信長が、京都東山に防備戦を張らねばならぬような事
 態はかつてなかった。
  信長は、確かに苦境にあった。
1570年10月7日、本願寺が挙兵すると、義昭は、勅命をも
 って本願寺に戦闘を停止させるよう奏請(そうせい、天
 皇に奏上して裁可をもとめること)した。
  その結果、天下静謐(天皇の命令・勅定によって私闘
 禁止を指令する)のために、出陣した将軍と信長に向か
 って一揆を起こすのは不届きとの勅書が出た。
  浅井・朝倉の再挙まじかしと察知した信長が、義昭に
 強制して事を運んだのだろう。
  義昭は、三好を討つため、摂津に出陣したが、決して
 本願寺を敵にしたのでなく、本願寺もまた、信長には敵
 対したが、将軍を相手にするとは夢にも思わず、義昭が
 信長と組んで出陣したことを意外とし、遺憾とした。
  それに乗じて、信長は、義昭を動かしたのであろう。
  ところが、信長の予想通り、浅井・朝倉が再挙したの
 で、勅使は恐れて引き返し、勅書は本願寺に届かず、信
 長もまた軍を引いた。
  それに力を得たか、光佐はさらに10月7日、筑後・讃
 岐・阿波及び近江の門徒に挙兵を呼び掛けた。
1570年10月8日、家康が浜松に移ったその直後、家康は姉
 川の戦に出陣し、信長と結んで、浅井・朝倉を痛めつけ
 たのをきっかけに、家康と信玄は公然と絶縁した。
  そして、家康と謙信は接近して、10月8日に、家康は、
 誓書を謙信に送り、信玄ときっぱり絶縁することや、信
 長・謙信の和睦をはかること・・などを約した。
1570年10月30日、青蓮院門跡の尊朝法親王が、本願寺光
 佐に、信長との講和を勧めた。
1570年10月、10月初めから12月初めにかけ、京都西郊の
 西岡に断続的であるが土一揆がおこり、幕府は徳政を行
 った。
1570年11月21日、伊勢長島の一向一揆が、織田信興を攻
 め殺した。
  伊勢長島の一向宗徒が、尾張海部郡小木江城(今の同
 郡弥富町)を攻めて、信長の弟・信興を自殺に追い詰め
 た。信長は助けられず、見殺しにするよりほかなかった。
1570年11月21日、小木江城の陥落のこの日、信長は、六
 角承禎・同義治・篠原長房と講和した。
1570年11月28日、天皇の命令で和睦が成った。
  この日、将軍・義昭は、関白・二条晴良とともに、三
 井寺に下って講和を斡旋した。
  信長と朝倉義景は承諾した。
  天皇が和睦を命じ、それに従うということで、和睦が
 成立した。
  それぞれが、分国へ引き上げた。
  そして、12月に至って、信長と浅井・朝倉とが和した。
..
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2015年4月17日金曜日

(増補版)75C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年4月~1570年7月)

(増補版)75C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年4月~1570年7月)
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1570年4月20日、信長の朝倉征伐・・そのⅡ:華麗なる出陣
  この日に、信長は華麗な軍装を整えての越前征伐への
 出陣だった。
  何と朝廷の臣の廷臣の鳥居雅敦(まさあつ)や日野輝
 資(てるすけ)までが従軍していた。
  多数の「貴賤男女」が見物し、見送った。
  天皇は、自ら内侍所(ないしどころ、三種の神器の一
 つである神鏡を奉安する所)で、千度祓(せんどばらい、
 神前で大祓・おおはらえの詞を千度唱えること)を修し
 (修する・・整えて正しくする)、次いで数日間、信長
 の戦勝を祈った。
  信長は得意満面、一挙、朝倉の本城一乗谷進撃を思い、
 その成功を信じて疑わなかったように見えた。
  事実、彼は、琵琶湖西岸から若狭へ入り、25日には、
 早くも天筒山(てづつやま、標高171メートル、敦賀市、
 朝倉氏の出城があった)を陥れ、次いで、金ケ崎(敦賀
 市)を降ろした。
  ここまでは良かった。
  ところが、信長にとっては全く意外な事に、妹婿の浅
 井長政が朝倉に応じて挙兵した。
1570年4月30日、信長の帰京。
  浅井長政の挙兵により窮地に陥った信長は、秀吉を金
 ケ崎に残して殿軍(しんがり)を務めさせ、自分は朽木
 越えで、30日夜半に帰京した。
  従う者はわずか10人だったと言うが誇張だろう。
  出陣当時の華麗な面影はまったくなかった。
  この様な経緯(いきさつ)から、これからの三ヵ年に
 およぶ信長の苦闘が始まる。
1570年5月9日、信長が、岐阜に帰る。
  浅井長政の寝返りで窮地に陥り、京都に退いた信長は、
 この日に、京都を発って岐阜に帰った。
  道すがら、近江滋賀郡宇佐山城にも森可成、野洲(や
 す)郡永原城に佐久間信盛、蒲生郡長光寺城に柴田勝家、
 同郡安土城に中川重政を入れた。
  これは、この頃、東南近江の至る所に興っていた一揆
 を押え、岐阜路を守るためでもあった。
  岐阜への帰途も、永原から千種越えでやっと帰ったが、
 途中、再起した六角承禎にそそのかされた杉谷前住房な
 る者に信長は銃撃され、かろうじて難を逃れていた。
  千種越えの伊勢路の危険な様子がうかがわれるが、中
 山道はもっと危険で通れなかったのだろう。
1570年5月25日、信長は、この日に、岐阜に居て、遠藤胤
 俊・同慶隆なるものに出陣を促(うなが)した。
  そして、鉄砲の調達を命じた。
1570年6月、六角は、朝倉を喜ばなかったらしく、6月初
 めに南近江の一揆を寄せ集め、単独で野洲川下流域にう
 って出た。
  佐久間信盛と柴田勝家がこの挙動を押さえた。
1570年6月、家康が、浜松に移った。
  家康は、信長の意向に反して、あえて祖父以来の根拠
 地であった三河岡崎から遠江浜松に移った。
  これは、武田信玄に対抗するためであった。
1570年6月4日、近江にいた秀吉は、この日に、堺の今井
 宗久に、鉄砲薬30斤と、鉛硝30斤の調達と、大阪にある
 兵糧米の輸送を頼んでいる。
  2か月前の思い上がりと迂闊(うかつ)さはもう見られ
 なかった。
1570年6月19日、信長が近江に入いる。
  信長は、この日に、岐阜を出陣し、国境を守る堀次郎・
 樋口直房を誘降して近江に入った。
  そして、今度は慎重に、浅井の本城・小谷城を無理攻
 めせず、周りの村々を焼き払いながら横山城を囲んだ。
1570年6月20日、信長が、小谷城近くに攻め込む。
  そして、この日に、京都で軍体制を整えた信長は、大
 軍を率いて、浅井長政の居城・小谷城近くに攻め込んだ。
  浅井長政は、朝倉義景に援軍を請い、信長も徳川家康
 の援(たす)けを受けていた。
1570年6月28日、姉川の合戦。
  この日に、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍が激
 突した。
  結果は、織田・徳川連合軍の大勝であった。
  信長は、小谷城を攻める事をしなかった。
  秀吉に命じて、落城していた横山城(よこやまじょう、
 山城、滋賀県堀部町、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点
 として築城)を築かせ、小谷城の押さえとし、秀吉をそ
 こに置いた。
  ここから、秀吉の近江での活躍が始まった。
  織田軍は、じりじりと小谷城の包囲の輪を縮め、小谷
 城のすぐ近くの虎御前山(とらごぜ)に要害を構え、そ
 の定番として秀吉を入れた。小谷城は孤立して行った。
1570年6月28日、信長の動きにつられて長政は、朝倉景健
 (あさくらかげたけ、朝倉氏の家臣・景隆の末子)の援
 軍と大寄山に出陣し、6月28日の姉川の合戦で酷い痛手
 を受けていた。
  この戦いで、家康は、強く先鋒を望んで入れられ、ほ
 とんど独力で朝倉郡を打ち破っていた。
  即日、信長は、将軍・義昭に披露させるべく細川藤孝
 に宛てた手紙で「野も田畑も死骸ばかりに候、・・」と
 書いた。
  そして、なお頑強に抵抗している磯野員昌の佐和山城
 に長囲(ちょうい、長い間取り囲む事)の軍を置いて、
 7月4日に、一旦京都に入り、次いで岐阜に帰った。
1570年7月21日、三好が挙兵。
  浅井に対して最後の決戦を挑まず、一旦、岐阜に引き
 上げたのを、三好三人衆は信長の敗退と見たのだろう。
  摂津中島に、7月21日に入り、野田・福島に陣地を築
 いた。
  ついで、石山本願寺が三好党に通じて挙兵し、ここに
 信長の危機が始まった。
  妹のお市や、その子供たちの居る小谷城、兄・信長の
 本心は攻めたくなかったのだろう。
  姉川の合戦で、妹婿の長政に大きな痛手を与えたこと
 で十分としたのだろう。
  故に、一旦岐阜へ引き上げたのだろう。
  そこを見損じていた三好たちだった。
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(増補版)74C2/3:気になった事柄を集めた年表(1569年~1570年)

 題:(増補版)74C2/3:気になった事柄を集めた年表(1569年~1570年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1569年、信長の二女・冬姫(実子)と蒲生氏郷が結婚した。
  信長が、この少年はきっと将来大物になると見込んだ
 のが氏郷だった。
  婿として迎えた。
  氏郷14歳、冬姫12歳だった。
  近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が信長に臣従したとき、
 信長は、賢秀の子・氏郷(当時は鶴千代)を人質として
 取ったが、その時に鶴千代の器量を見抜いた。
  氏郷は、1590年に、陸奥会津に移封されて42万石(後
 に検地・加増により92万石)、
  伊達政宗を抑えるため、奥州の92万石という大きな石
 高を与えられたとされるが、
  氏郷は、「都に近い所でなければ本望を遂げられない」
 と嘆いたという。
  しかし、秀吉は、信長が認めた器量人である氏郷を恐
 れ、会津92万石に移した際、「氏郷を上方に置いておく
 訳にはいかぬ(名将言行録)」と側近に漏らしたという。
1569年2月、信長が、将軍邸を造営する。
  信長が、将軍のために二条新邸の造営を始めた。
  将軍邸造営に事よせて、三好制圧から一気に動員力強
 化を図ったのではないか。
  ついで、信長は、皇居修理に手を付けた。
1569年3月、信長が、廷臣(ていしん、朝廷に仕える臣下)
 の所領安堵をした。
  信長は、廷臣の所領で、久しく彼らの手を離れていた
 ものを回復するため、その記録提出を求め、この時に、
 廷臣は提出している。
  この所領安堵と、将軍邸の造営と、皇居の修理を始め
 た信長を見て、胸をなでおろした。
1569年3月、天皇が、信長に副将軍を任命した。
  天皇の使いが信長のもとに来て、この事を伝えると、
 信長は返事をしなかった。
  また、将軍の義昭が、信長へ、「近江・山城・摂津・
 和泉・河内の5カ国を望み通り知行する」と言ったが、
 これもまた辞退した。
  ただ、信長は、義昭から桐と二引両(ふたつひきりょ
 う)の紋はあっさり貰った。
  これは、武家の棟梁の紋だった。
1569年3月、信長の撰銭令。
  (撰銭、せんせん、えりぜに、劣悪な銭貨を排除した
 こと)
  信長が撰銭令と同追加令を出し、米や悪貨で取引をす
 ることを禁じた。
  そして、信長は廷臣領の回復も行った。
1569年3月、信長が、キリスト教宣教師が京都へ戻ること
 を許した。
  将軍・義輝の暗殺の1565年以来、キリスト教宣教師の
 ルイス・フロイスは堺に潜んでいた。
  この時、信長は京都へ戻ることを許した。
  フロイスは、帽子、金平糖を入れたガラス瓶、砂時計、
 ダチョウの卵、その他、南蛮渡来の珍品を信長へ送って
 いる。
  目覚まし時計は無駄だからと受け取らなかったという。
1569年4月8日、信長が、キリスト教の伝道を許した。
  ルイス・フロイスが、信長から京都の居住と、伝道を
 許された。この日の日付で朱印状を出している。
  また、この頃も、皇居の修理をしている。
1569年8月、信長が、秀吉を但馬国(たじまのくに、兵庫
 県豊岡市)にやり、生野銀山(いくのぎんざん)を直轄
 地とした。
  生野銀山は、平安時代の、807年に、開抗と伝えられ
 るが、詳細は不明。
  1542年に、石見銀山から採掘や精錬の技術を導入し、
 本格的な採掘がはじまっていた。
1569年10月、信長が、伊勢を平定した。
  信長が、兵糧攻めで大河内城の北畠を降ろし、南伊勢
 を平定した。
  そして、国人・土豪の結集を図り統制した。
  大河内城には次子・茶筅丸(信雄・のぶかつ)を入れ
 た。
  そして、信長は、不要と思われた城は破却した。
  そして、関も撤廃した。
1569年10月17日、信長は、伊勢を平定して上京し、義昭
 に北畠降伏を報告すると、それからわずか6日目のこの日、
 突然、岐阜に帰ってしまった。
  将軍と衝突が原因か?
1569年、オランダのメルカトルの世界地図が作られた(メ
 ルカトル図法)
1570年1月、信長が、将軍・義昭の実権を奪った。
  実権を奪われても、義昭は、信長に従おうとしなかっ
 た。
  さらに改元問題(年号の改め)などで信長に対抗した。
  ここは、信長が及ばない特殊なところだった。
  天皇のとりなしで、信長は、五箇条の条書を義昭に送
 った。
  この条書は、信長が、明智光秀・朝山日乗に宛てた形
 式をとっていて、その右端に義昭が捺印して承認の意を
 示す形となっていた。
  つまり、信長の要求を義昭が飲んだ形になった。
  内容は、義昭の内書には必ず信長の添え状を付けると
 か、これまでの義昭の命令はすべて破棄するとか、天下
 の事はすべて信長に任せた以上、将軍の承認を得るに及
 ばず、信長の分別しだい処理するとかで、
  義昭の実権を、ほとんど奪ったといったものだった。
1570年2月、信長が上京し、貴族や奉公衆(ほうこうしゅ
 う、官職の1つ)の出迎えを受けた、
  翌日、参内した。
  以後、度々、皇居の修理の様子を観察し、
  また、廷臣に家領(けりょう、所領や荘園の事)を注
 進(ちゅうしん、報告する事)させたりした。
1570年4月、浅井・朝倉・六角が挙兵した。
  また、近江一向一揆がしきりと起きた。
1570年4月、武田信玄が、信長を非難した。
  北条氏康や上杉謙信が、信玄の侵略を将軍・義昭に訴
 えたのに対抗して、信玄は、彼等の言を入れない様にと
 進言するとともに、
  はっきりと信長とは名指さずに「当出頭之人」(いま
 幕府に出頭している人、つまり信長)の隣国の武士に出
 す手紙は「上意御下知」(将軍の命令)であるかのよう
 な書き方であるから注意されたいと、暗に信長を非難し
 た。
1570年4月、義昭が、年号の改元について、信長の意向に
 反して決めた。
1570年4月、義昭は、4月1日に猿楽を興行し、信長や諸大
 名・廷臣を招いた。
  また、5日には、信長と一緒に調馬(ちょうば、馬を乗
 りならすこと)を見るなど、京都の空気は太平の様に見
 えた。
1570年4月20日、信長が、越前の朝倉征伐に動いたが・・
  この日に、信長は、大軍を率いて越前の朝倉征伐に出
 陣した。
  朝倉義景が、信長の再三の上洛の催促を拒み続けたか
 らだった。
  この時、秀吉は、敦賀に攻め入り、手筒山城を落とし、
  ついで、金ヶ崎城を攻め、秀吉みずから使者となって、
 城主・朝倉景恒(あさくらかげつね、家臣)に開城をす
 すめ、誘降を成功させた。
  この時、浅井長政の謀叛の報が伝わった。
  信長の妹・お市の方が嫁いでおり、信長方は長政謀叛
 は予想はしていなかった。
  それに対する備えもなく、信長軍は退路を断たれる事
 となり、袋の鼠となった。
  信長は、急遽、朽木(くつき)越えで京都に逃げ帰り、
 秀吉は殿軍(しんがり)の大任を引き受けた。
  秀吉は、見事に朝倉勢の追撃を防ぎ止め、
  信長は岐阜に戻った。
  信長は危うい所を助かった。後の、朝倉攻めに続いて
 行く謀叛行為となった。
..
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2015年4月16日木曜日

(増補版)73C2/3:気になった事柄を集めた年表(1568年~1569年)

 題:(増補版)73C2/3:気になった事柄を集めた年表(1568年~1569年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1568年10月、堺が、信長の矢銭(やせん、軍事費)を断わった。
  信長は、1568年に、上京し、摂津・和泉を平定すると、
 各地に矢銭(軍事費)をかけた。
  石山(大阪)本願寺は5000貫、堺は2万貫をかけけら
 れたが、堺は断わり、信長の意に従わなかった。
  そして、能登屋・紅屋などの豪商を大将にし、36人の
 会合衆(えごうしゅう)が中心になって、やぐらを高く
 したり、堀を深くしたり、浪人を集めたりして、防戦の
 準備をした。
  また、摂津の平野郷(今の大阪市東住吉区)へ、共同
 で防戦しようと申し入れた。
  しかし、信長はあえてこれを攻めなかった。
  この話に後日談があり、
  会合衆たちが、三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を
 見せたのだが・・、
  堺の商人・今井宗久(いまいそうきゅう、千利休らと
 共に茶湯の天下三宗匠と言われる)が、この要求を受け
 入れる様に仲介し、無事に話をまとめている。
  かえって、堺にとって、この結論の方がよかった。
  この後、鉄砲鍛冶工を集めて鉄砲や火薬製造の重要地
 になり、また、塩の権益を受けたり(1569年)、生野銀
 山の支配もできたりと(1570年)、堺が栄える事にもな
 った。
1568年10月、信長の検地。
  近江平定早々の1568年10月に、蒲生郡安吉郷(あきご
 う、今の竜王町)に属する村々は、信長の奉行の村井貞
 勝・丹羽長秀に、当郷「指出(さしだし)」に不正なく、
 もし今後、不正があれば、どんな処分でも受けると誓っ
 ている。
  信長や戦国大名の検地は、実は、ほとんどの場合、領
 主から土地台帳の写しを「指出」させるだけのものであ
 った。
1568年10月9日、義昭が仁和寺に所領安堵し、それに信長
 の添え状を付けている。
1568年10月18日、義昭が将軍となったが・・、
  義昭の将軍任命を見て、信長は、いったん帰国しよう
 とすると、
  義昭は、信長を招いて、能楽を張り、酒宴を催した。
  義昭は、信長の恩を感じていた。
  酒宴の席で、義昭は、信長に鼓(つづみ)を望んだ。
  信長は、きっぱり断った。
  また、宴が始まった時、義昭は、副将軍でも、管領で
 もない信長の望みしだいに任命すると言い出し、
  これも信長に断わられた。
  さらに、翌日、義昭は、信長に与えた内書(将軍が、
 いわば非公式に出す文書)3通のうちの一つで、
  性懲りも無く、「今度の忠恩」により、信長を幕府の
 3管領家の筆頭である斯波の家督にすると伝えた。
  もはや陪臣(ばいしん、臣下の臣)扱いではないが、
 あくまで管領、すなわち将軍家の家臣扱いであった。
1568年10月20日、この日に、義昭と信長に、山科言継(
 やましなときつぐ、公家)の旧領を返すようにとの勅命
 があった。
  翌日、幕府は、「上下京中」に皇室領の諸役を勤める
 よう命じた。
  それには、信長と和田惟政の添え状があった。
  以後、幕府の貴族・寺院に対する所領安堵が多し。
  この史実は、政治の実権が、あたかも戻って来た様な
 行動であり、それを、信長の威を借りて行っているとい
 うところとなっている。
  所領安堵を、どんどん勝手にやっている。
1568年、ネーデルランド独立戦争。
  1568年から1648年までの戦争で、八十年戦争とも言
 う。スペインに対してオランダが挑んだ。
  結果、ネーデルランド連邦共和国が独立した(オラン
 ダ独立戦争ともいう)。
  神聖ローマ帝国時代に、キリスト教のプロテスタント
 が伝わり、普及したため、異端審問が行われるようにな
 った。
  暴力と、権力の乱用の時代だった。迫害行為もあった。
  キリスト教の両派は、いがみ合った。
  また、増税や、中央集権強化でさらに締め付けが強ま
 った。
  新たな課税を否定し、スペイン軍の撤退を求める抗議
 の集団との摩擦が強まって行った。
  異端審問の卑劣さが反乱のきっかけだった。
  あるキリスト教が、対抗するキリスト教を異端だと断
 定する行為は卑劣で、蔑むものだった。
  皇帝の統治権を否認する布告を出したりした。
  このドロドロした戦いが長く続くが、一時、インドな
 どの植民地からの甘い利益が流れ込む一時期、停戦が、
 12年間あったが、結局、80年間の殺し合い、戦いが、
 そこにあった。
1568年、キリスト教宣教師のオルガンティノが、京都に南
 蛮寺(永禄寺)が建立した。
1569年1月、信長が、堺を脅す。
  信長が率いる織田軍が、美濃に帰還した隙をついて、
 三好3人衆(三好長逸・三好政康・石成・いわなり友通)
 が、堺を根拠に京都に攻め入った。
  足利義昭の仮御所を攻撃した。
  しかし、信長は、雪の中をわずか2日で戻り、三好・斎
 藤軍を敗退させた。
  1月10日には、三好軍と共同して決起した高槻城を攻
 め、入江春景は降伏したが、再度の離反のため処刑し、
 高槻城に和田惟政を入城させた。
  そして、この日、信長は、堺へ2万貫の矢銭と服属を
 要求した。これに対し、堺の会合衆は抵抗した。
  これに対し信長は、堺が浪人を抱えて三好を助けたこ
 とを攻め、一軒残らず焼き払った。
  そして、皆殺しにすると脅した。
  町衆の動揺は大きく、婦女子を非難させ財産を疎開し
 た。そして、36人衆は、今後、浪人を置かないこと、三
 好に通じないことを誓った。
  そして、矢銭2万貫を出して、やっと許された。
  日本の戦いにはさらっとしたところがある。一度は許
 すという所もある。欧米の陰湿さはない。
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2015年4月15日水曜日

(増補版)72C2/3:気になった事柄を集めた年表(1566年~1568年)

 題:(増補版)72C2/3:気になった事柄を集めた年表(1566年~1568年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1567年、淀君(よどぎみ、よどどの、秀吉の妻)が生まれた
 (1567年?~1615年)(1569年生誕説あり)
  父・浅井長政、母・信長の妹・お市の方、
  本名・浅井茶々(あざいちゃちゃ)、および、浅井菊
 子(あざいきくこ)、
  秀吉の側室となるが、大坂夏の陣(1615年)で、家康
 の作った江戸幕府との戦いで生涯を閉じた(48歳、もし
 くは46歳)
1567年、伊達政宗(だてまさむね、出羽国・陸奥国の戦国
 大名)が生まれた(1567年~1636年)
  独眼竜政宗で有名、幼少時の天然痘によって右目を失
 明した。
  秀吉の命令に従わなかった(秀吉が惣無事令という私
 戦禁止令を伊達向けに出したが、無視して戦争を続けた)。
1567年、織田信長が、小牧山城から井ノ口城に入る。
  信長は、1567年に、美濃を手に入れ、小牧山城から井
 ノ口城に入りその地を岐阜と改めた。
1567年春~8月、信長が、北伊勢に出兵した。
1567年、信長が、斎藤竜興を追い、岐阜に移る。
1567年8月15日、信長が、稲葉山城を攻落する。
  信長は、1567年8月15日に、稲葉山城を攻め落とし、
 斎藤竜興を追う事に成功した。
  そして、信長は、そこを岐阜と命名して居城とした。
  信長に美濃三人衆の稲葉通朝・安藤範俊・氏家卜全が
 通じて来た。
  慎重にと構えてきた信長は、思い切って一挙に稲葉山
 城を攻め、1567年8月15日に、これを落とした。
  竜興は、船で伊勢長嶋に退いた。
  信長はすぐここへ移り、この地を井ノ口と言っていた
 のを改めて岐阜とした。
  これは墨俣築城があったからであり、また、墨俣築城
 が出来たのも土豪や地侍を組織した事が功を奏した。
1567年11月、信長が、皇室領回復などの勅命を受けた。
1567年、ガタルカナル島発見。
  スペイン人のオルテガが発見し、出生地に因んでガタ
 ルカナルと命名した。
  イギリスが、1893年に、保護領とした。
1568年2月、信長が、北伊勢を平定した。
  岐阜攻略の前後3回に渡って北伊勢に出兵したのも、
 「京都への上洛」の為であって、
  ただ、領土拡張を目指したのではない。
  当時、伊勢では、国司・北畠が、南五郡に勢力を張り、
 北伊勢8郡には、関・工藤両氏の一族と、48家にものぼ
 る独立の小大名が割拠していた。
  信長は、まず、1567年春、岐阜攻撃を前にして滝川一
 益をやって、伊勢北境の諸城を攻めさせ、
  次いで8月、翌年2月と、3度出兵し、関一族の惣領・
 神戸友盛を降ろして、3男・信孝をその養子に押し付け、
 工藤一族の惣領・長野に弟・信包(のぶかね)を入れた。
  そして、関一族は信孝に、工藤一族は信包に、他の諸
 氏は滝川一族に支配させ、また、安濃郡安濃津に織田掃
 部を置いて北畠に備えさせた。
1568年7月、信長が、義昭を迎える。
  信長は、その第一歩として、当時、越前朝倉の下に身
 を寄せていた足利義昭を、美濃立政寺(りゅうしょうじ)
 に迎える事が出来た。
  そして、自ら、浅井長政の属領・近江・佐和山城(城
 主・磯野員昌・かずまさ)へ出かけ、六角承禎に、義昭
 擁立について協力を求めた。
  承禎は断った。
  信長や長政など、外部の、それも、本来守護の家臣に
 過ぎない成りあがり者の、干渉すへき筋合いのものでは
 ない、と考えられたのだろう。そこで、信長は、一旦岐
 阜に帰った。
1568年9月、信長が、楽市・楽座を指定する。
  信長は、1567年に、岐阜へ移ると早々の9月に、城下
 の北加納に布告して百姓の保護を計り、
  10月に、加納の市場を「楽市場」として、
  この市場へ来る商人たちは、信長の領国を自由に往来
 できること、
  この市場に代々居住していた者も、それを邪魔にして
 はならないと、その他を布告した。
  1568年9月の布告では、はっきり加納を「楽市楽座」
 と指定した。
1568年9月7日、信長が、近江に攻め入る。
  信長が、尾張・美濃・伊勢の兵と、徳川家康の援軍を
 率いて、1568年9月7日に、岐阜を出て、近江に攻め入っ
 た。
  六角は、本城の観音寺・箕作(みづくり)両城を修築
 する一方、和田山城を築いて、選りすぐりの兵を入れ、
 信長の侵攻に備えていた。
  ところが、信長は、この城には美濃衆を差し向け、子
 飼いの総力を挙げて、箕作城を攻めた。
  本城さえ落とせば、支城は降りると見通したのである。
1568年9月12日、信長が、箕作城を落とした。
1568年9月18日、信長が、観音寺城を落とした。
1568年9月18日、信長が、観音寺城と箕作城の両城を落と
 すと、この日、支城の18が開城した。
  降伏したものは人質を取って、そのまま、その城にい
 る事を許した。
  そして、すぐ義昭を迎え、抜かりなく義昭を奉じて上
 京する旨を上杉謙信に知らせた。
1568年9月22日、信長が、近江を平定。
  信長が、近江を平定し、上京した。
  1568年9月22日に、信長は京都に入り、義昭は清水寺
 に泊まり、信長は東寺に陣を張った。
  信長が近江を平定して、京都に迫ると、朝廷は激しい
 恐怖に襲われていたという。
  信長の「上京」には放火・略奪・暴行は避けられぬと
 感じられていたのだろう。
  しかし、信長は、皇居の警固と、京都内外の治安維持
 にひどく気を使い、事実、織田軍の軍紀はかなり引き締
 まっていたようである。
  これは、織田軍の組織の性格にも関わることだろうが、
 ともかく天皇・貴族は、ひとまず胸をなでおろしただろ
 うし、京都の民衆も同じだったに違いない。
  米欧各国と違い、今・現代でも、日本は、東日本大震
 災ででも、世界中から絶賛されたように、日本人の高い
 倫理性と誠実性・高貴性が昔からあったと言える。
  入洛してからの信長は、義昭を将軍に置いた。
  そして、天下統一の画期をなした(かっき、過去と新
 しい時代とを分ける事)
  この時、秀吉も軍事行動に加わり、近江の六角に対す
 る攻防などに戦功をあげ、上洛後、京都奉行に抜擢され
 た。
  この時の奉行は、複数制で秀吉のほか、佐久間信盛・
 村井貞勝・丹羽長秀・明智光秀・中川重政であった。
  秀吉は、おねとの結婚7年目、その才能を認められる
 軌道に乗ったのだった。
  この際も、6万の信長の大軍と共に行った働きが元だっ
 た。
  この頃、キリスト教宣教師の信長に対する評がある、
 「傲慢」「ほとんど規律に服せず」(従来の習慣・規律
 に捉われないという事)、
  そして、この頃、信長は、将軍にした義昭の邸を建築
 させている。
  そして、その工事現場で、信長は坐するための虎の皮
 を腰につけていたという、そして、「甚だ粗末な衣服を
 着す」と記す。すると、「皆がこれに倣っていて、宮廷
 の服を着して彼の前に出る者なし」とも書いている。
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2015年4月14日火曜日

(増補版)71C2/3:気になった事柄を集めた年表(1563年~1566年)

 題:(増補版)71C2/3:気になった事柄を集めた年表(1563年~1566年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1563年、織田信長は今川義元を倒し、家康と結び、東を顧
 慮することなくひたすら西へ進めるようになった。
  この年・1563年に、小牧山に要害を築いて東美濃攻撃
 の根拠とした。
1563年3月、信長の娘と家康の子・信康の婚約が結ばれた。
  戦国時代には珍しく、最後まで変わる事が無かった織
 田と徳川の同盟が成立した。
  この時、協定したと思われることが、信長は、美濃・
 伊勢へと西へ出ること、そして、家康は、遠江・駿河の
 東を目指すことだった。
  これはずっと守り続けられた。
1563年7月、信長が、小牧に要害を構えた。
1563年7月、信長が美濃への進出を計った。
1563年7月、信長が、居城を小牧山に移した。
  美濃への前身拠点とするため、居城をそれまでの清州
 から小牧山へ移した。
  信長の覚悟のほどがうかがわれる。
1564年、三浦按針=ウィリアム・アダムスが生まれた。
 (1564年~1620年)イギリス人航海士・水先案内人・貿
 易家。
  乗っていたリーフデ号とともに、1600年4月に、豊後
 に漂着した。
  取り調べ中、キリスト教宣教師たちが来て、即刻、処
 刑するように要求した。
  5月になって、家康が、ウィリアム・アダムスと、ヤ
 ン・ヨーステンに引見した。
  彼等は、ポルトガルとスペインのキリスト教のカトリ
 ック国と、イギリス・オランダのプロテスタント国の戦
 争や紛糾を臆せず話した。
  家康は、彼らを気に入って誤解を解いた。
  そして、執拗に処刑を要求するキリスト教宣教師らを
 黙殺した。
  そして、後に、家康は、彼らを江戸に招いた。
1564年、信長が、ほぼ尾張を統一した。
  信長が、木曽川を隔てて美濃に対する犬山城を捕り、
 ほぼ尾張を統一した。
  犬山城の織田信賢(前・岩倉城主)を降ろし、丹羽長
 秀(織田の家臣)を入れて尾張統一を完成した。
1564年、秀吉が、蜂須賀小六と出会う。
  この年に、秀吉が、斎藤方の武将の誘降に成果を上げ
 たことは、蜂須賀小六と出会ったこととつながりがある
 と考えられる。
  秀吉は、放浪時代こうした濃尾国境付近の土豪と何ら
 かのつながりを持っていたであろう。
  そして、その旧知の間柄の蜂須賀小六らに美濃土豪へ
 の橋渡しを依頼し、それが功を奏したと考えられる。
1564年2月、竹中半兵衛重治が、稲葉山城を奪取した。
  美濃・稲葉山城において一つの騒動が持ち上がった。
  斎藤龍興の家臣で菩提山城主だった竹中半兵衛重治が、
 稲葉山城を奪取した。しかし、すぐに城を返している。
1564年3月、信長が、浅井長政と結んだ。
  信長は、近江の浅井長政と結んで、妹のお市と結婚さ
 せた。
1564年8月、信長が、東美濃に進出した。
  この時、斎藤方の内紛に乗じ、信長は秀吉に命じ、斎
 藤方の武将で美濃・松倉城の(岐阜県川島町)の坪内利
 定を寝返らせることに成功している。
  さらに、秀吉は、この坪内利定を東美濃侵入のための
 案内役とし、斎藤方の諸将の誘降を計った。
  秀吉の大活躍により、鵜沼城・猿啄城・兼山城・関城
 などが信長方となり、信長勢による美濃攻略の足場が確
 保された。
1564年9月、信長が、皇室領の回復の勅命を受けた。
  立入宗継(朝廷の倉を預かる御倉の家)が尾張に下っ
 た時に、信長へ、皇室領の回復について、天皇の意思が
 伝えられた。
  これは、織田信長の西上の志を刺激した。
1564年、ミケランジェロが死んだ(1475年~1564年)
  ミケランジェロの死後、
  彼が描いた「最後の審判」のキリストとマリアの裸体
 の描写について、キリスト教の高い位の聖職者(枢機卿)
 が、削除せよのクレームがつけた。
  それによって、修正画家の手によって、局部を隠す修
 正の作業が行われた。
1565年5月、将軍・義輝が殺された。
  三好義継と松永久秀が、将軍・義輝を殺した。
  その弟で、当時、興福寺一乗院にいた覚慶(還俗して
 義秋、次いで義昭と改名)は、近江甲賀の土豪・和田惟
 政(これまさ)のもとに逃れた。
  彼が、亡命先から大名たちに争いを止めて将軍家復興
 に協力するように呼び掛けている様は、まるで将軍の様
 であった。
1565年11月3日、信長の知行安堵状。
  信長は、坪内利定らに知行安堵状を出した。
  この時、副状が出され、差出人が秀吉になっていた。
  これは、織田家中において、秀吉が、足軽大将でなく、
 その存在が認めれれている地位にいたことを示す。
1565年11月、織田信長が、武田信玄と結ぶ。
  信長は、信玄と結んで、信長の養女をその子・勝頼に
 嫁せした。
1565年、フィリピン:スペイン人のレガスピが、1565年に、
 マニラを占領した。
  スペインのキリスト教略奪者は、奪った土地に「イエ
 スの最も聖なる御名の村」と名付けたりした。
  同盟を結ぶふりをしてだましたりの卑劣な行為もし、
 そして、戦いが起これば重装備のキリスト教徒軍の勝ち
 は目に見えていた。
  奥地へフィリピンの方たちを追い、支配に応じないも
 のを拷問したり、処刑したりした。
  そして、税を取立てた(黄金を奪った)。
  マニラは陥落し、以後、スペインの植民地となる(ス
 ペイン人のフィリピン征服)。
1566年4月、朝廷が、義昭を左馬頭に任じ、従五位下に叙
 した。
  さすがの松永久秀もそれは何ともならなかった。
1566年8月、信長が、足利義昭から幕府回復の命を受ける。
1566年8月、信長が、義昭から出兵を求められると、いよ
 いよ斎藤を目の上の瘤と感じ、
  斎藤竜興(義竜の子)は竜興で、信長との和解を命じ
 られたが、信長の出兵を指をくわえてみている訳がなく、
  信長は、すぐ美濃に攻め込んだが、風雨や洪水に悩ま
 され、竜興に反撃されて敗退した。
1566年9月、秀吉が、墨俣城を築く。
  信長が、この時、美濃の墨俣に砦を構えた。
  秀吉は、美濃の斎藤竜興を攻めるため、長良川の西岸
 に一夜城として有名な墨俣城を築き、信長の信頼を得た。
  美濃の足場を得た信長は、次に打った手は墨俣に砦を
 作ることだった。
  この地は、木曽川・長良川・揖斐川(いびがわ)の3本
 の川が接近した低湿地で、斎藤方の妨害もあり、築城は
 困難を極めた。
  はじめ、老臣の佐久間信盛が命じられ、ある程度、完
 成したところを壊され、2番手の柴田勝家も同様に失敗し
 た。
  家臣たちは怖気(おじけ)づき、この後に、この大役
 を買って出るものがいなかった。
  秀吉は、この大役を買って出て、蜂須賀小六ら濃尾国
 境付近の土豪など1000人余を集める事に成功し、組頭を
 定め、櫓・塀などの用材を筏(いかだ)に組んで木曽川
 を通して運び込み、また、現場では築城の関わる人数と、
 斎藤方の攻撃を防ぐ人数に手分けし、分担協業の方式で
 工事を急がせ、見事に完成させた。
  秀吉が、1566年9月に、墨俣に城を築いた。
  7月5日から8月20日の47日間を要したと言われ、長屋
 が10棟・櫓10棟・塀2000間という規模だった。
  しかし、この墨俣城築城は『絵本太閤記』の著者の竹
 内確斎の創作と思われる。
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2015年4月12日日曜日

(増補版)70C2/3:気になった事柄を集めた年表(1560年~1563年)

 題:(増補版)70C2/3:気になった事柄を集めた年表(1560年~1563年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1560年、石田三成(いしだみつなり、豊臣政権を支えた人、
  五奉行の一人、ご意見番は後世の創作)が生まれた
 (1560年~1600年)
1560年、大久保彦左衛門(忠教、おおくぼひこざえもん、
 ただたか、江戸幕府の旗本、)が生まれた(1560年~
 1639年)、彦左衛門に1626年稿の「三河物語」がある。
1561年1月、ベーコン(イギリス人哲学者、)帰納法を主
 張した(1561年~1626年)
1561年春、清州同盟。
  桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれる
 と、それまで今川氏に従属していた松平元康(徳川家康)
 は、切腹を考えていたと伝わっている。その際、寺の住
 職より、太平の世を築く尊さを諭されたという。
  正式に同盟が締結されたのは、桶狭間の戦いから2年後
 の時、この時、家康が信長の居城である清州城を訪れ、
  信長と家康との会見がもたれ、同盟が締結された。
  徳川家康が、従来、ずっと敵対していた織田と和した
 時だった、そして、今川と絶縁した。
1561年5月、信長の隣国・美濃の斎藤義竜が病死した。
  信長は兵を送って攪乱を計った。また、1563年には、
 美濃への進出を計った。
1561年8月3日、秀吉結婚。
  秀吉が、おねと結婚した。
  秀吉とおねが、清州城下の茅葺きの裏長屋で祝言をあ
 げた。
  媒酌人は、友人の前田犬千代(後の利家)で、簀掻藁
 (すがきわら、スノコ代わりのワラ)の薄縁(うすべり、
 布の縁をつけたござ)を敷いた上で盃をかわすだけの、
 簡素なものであった。秀吉25歳、おね14歳だった。
  「平姓杉原氏御系図附言」では、二人は「野合(やご
 う)」によって結ばれたという。野合とは、秘かに結び
 つくこと、つまり、親も認めないうちに結婚すると言う
 事。
  おねの母・朝日は怒った。
  さらに、秀吉の卑賤を嫌って、二人の結婚を許さなか
 った。
  助け舟として朝日の妹・七曲(ななまがり)が七曲夫
 婦の幼女としておねを迎え入れ、秀吉と正式な結婚式を
 挙げさせた。
  秀吉は、七曲の夫・浅野長勝の浅野家へ入婿となった。
  秀吉は、おねとの結婚と同時に木下藤吉郎秀吉を名の
 った。
  おねの実家が木下姓であったためと推測される。
1561年9月、川中島の戦い。
  甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の4回目の川中島の
 大決戦。
1562年6月、加藤清正(かとうきよまさ、肥後熊本藩初代
 藩主)が生まれた(1562年~1611年)
  主君:豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
  朝鮮での文禄・慶長の役の時に活躍した。
  江戸城・名古屋城など数々の築城に携わった。
  熊本領内の治水事業も意欲的にやり、今現在でも多く
 の遺構がある。
  その土木技術は、非常に優れており400年後の現在も
 実用として使われている遺構も少なくない。
  また、その事業の多くを農閑期に行う事によって、そ
 の収入を計り、民百姓の事を思った。
1562年、琉球より三味線が渡来した。
1562年、この頃、堺・平戸・坊津などで鉄砲の鋳造が始
 まった。
1562年1月、信長、家康と同盟(1561年説あり)。
  徳川家康が自ら清州に出向いて信長と会見した。
1562年、ユグノー戦争(1562年~1598年)
  キリスト教のカトリックとプロテスタントが40年近く
 戦った戦争。
  ドイツ人のルターが、キリスト教カトリック批判し、
 ドイツから始まった宗教改革運動は、フランスへ波及し、
 カルヴァンのキリスト教が勢力を持った。
  カトリックがユグノーと呼んだ。
  ユグノーは、カトリック勢力から卑劣な弾圧がなされ
 た。この年には、キリスト教にはお決まりの、虐殺事件
 も起きた(ヴァーシーの虐殺)。
  これを契機に戦乱状態になって行った。
  事を収められないキリスト教だった。
  「異教徒は殺せ」の教義の洗脳は本当に悪である。
  聖書の記述に、戦いを正義と書いてあるのが原因。
  「(キリスト教の)神の義があれは、人を誅してもよ
 い」とある。
  1572年にも、虐殺が起きている(サン・バルテルミの
 虐殺)。卑劣な宗教、極まりない。
  国王の暗殺まで引き起こされ、ドロドロと40年近くも
 争い、民は苦しんだ。
  異端の嫌疑の問題が飛び交った。
  そして、弾圧から逃れまわった。
  そして、「火刑法廷」という言葉が巷に満ちた。
  人々を幸せにできない宗教の姿。教会は熱狂にうなさ
 れ、民だけが迷惑し恐れた。陰謀も渦書いた、そして、
 処刑が待っていた。
1563年、細川ガラシャ(明智光秀の三女、細川忠興の正室、
 キリスト教徒)が生まれた(1563年~1600年)
  キリスト教の本当の情報に接しられなかった中世のキ
 リスト教徒。
  キリスト教に偏するNHKは、この女性を美しく大河ド
 ラマにした。城内の部屋に巨大な十字架を置いて祈るシ
 ーンとか、まったく史実無視の数々のシーンをドラマに
 仕立てあげ、影響力の強いNHKの放送媒体を使って日本
 全国の茶の間へ嘘放送をし続けた。
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2015年4月11日土曜日

(増補版)69C2/3:気になった事柄を集めた年表(1555年~1560年)

 題:(増補版)69C2/3:気になった事柄を集めた年表(1555年~1560年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1555年、アウグスブルグ宗教会議。
  この会議に至るまでに、1546年のシュマルカルデン戦
 争とかの悲惨な戦争を経ている。
  キリスト教カトリックのハプスブルグ家の関与するヨ
 ーロッパ支配の卑劣な妄想が挫折する。
  武力で事を決着するという「地獄界」「畜生界」の人
 間たちであった。
  そして、これは、卑劣にも30年間も続くキリスト教の
 カトリックとプロテスタントの争い・三十年戦争の契機
 となっている。
  この戦争は、ヨーロッパの方々の3人に1人は死んだと
 いう卑劣・悲惨な戦争だった。
1556年4月、斎藤道三が没した(1494年~1556年)
  身を起こした一人の武将、そして、大名となった男が
 散った、62歳だった。父・不明、母・不明の男だった。
1556年8月、信長の弟・信行が反抗(稲生の戦い)。
  父・信秀の急死で信長が相続したからか、家督争いが
 起きた。
  信長は、家中から相続人となった事が相応(ふさわ)
 しいと思われていなかった節がある。
  また、信長は、平手政秀を自殺させているし・・、
  また、義父・道三も嫡子(ちゃくし、家を継ぐ者)の
 義龍との戦いで敗死しているし・・、
  信長周辺は穏やかではない状況であった。
  信長では家内はまとめられないという家臣の思いも漂
 っていた。
  信行もまた林道勝・柴田勝家らに担がれて立ち上がっ
 た・・が、
  失敗。一旦、降伏した。
  信長は何か期するところがあったのであろう、母の願
 いを入れて信行を許した。
1556年、アクバル大帝(インド)が即位した、14歳
 (1542年~1605年)
  中央アジアから流入し、祖父・バーブルの立てたムガ
 ル朝を、帝国と呼ばれるにふさわしい国家にした。
  アショーカ王と共に、インドの最も偉大な王と言われ、
 インドで最も人気が高い。
1557年4月、毛利元就が、大内氏を滅ぼす。
  元就が、この時、大内義長(おおうちよしなが、周防
 大内氏の第32代当主、最後の当主)を自刃させ周防・長
 門を制圧した。
  厳島の戦いで晴賢(陶隆房)が敗死すると、継いだ義
 長が血縁とはいえ養子だったこの義長への求心力は低く、
  晴賢の謀叛で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、
  大内氏は急速に衰退していた。
1557年11月、信長の弟の信行が、再度、反抗した。
  信行は前に許されたのに、また、岩倉城主・織田信安
 と通じて謀反をたくらんだ。
  信行から次第に疎(うと)んじられるようになった柴
 田勝家が、それを信長に告げた。
  信長は、信行を誘殺(ゆうさつ、おびき寄せて殺す)
 した。
  信長には、親族として殺すことをためらっていたとこ
 ろもあるが、(色々、信行が謀叛的な事をしても許して
 いた、家臣の信望もあったからか)、しかし・・、
  信長は、病気になったと偽ると、織田信行は母の土田
 御前と共に様子を見るべく「見舞い」として清州城に来
 た。清州城北櫓天守次の間で、信長の命を受けた河尻秀
 隆らが・・、
1557年、マカオ(キリスト教カトリックの布教拠点)略奪。
  ポルトガルが、中国の香港の少し西にある『マカオ』
 を奪い、居住権(永久居留権)を得た(ポルトガル領マ
 カオ植民地の成立)。
  ここから北京などへ、ポルトガルの支援を受けたキリ
 スト教宣教師を送り込んでいた。
 この様に、少しづつ中国を侵食して行く、領土略奪癖の
 あるキリスト教国だった。
1558年、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ、書家、陶芸家、
 芸術家)が生まれた(1558年~1637年)
  楽焼白片身変茶碗(国宝)、舟橋蒔絵硯箱(国宝)
1558年、イギリス女王のエリザベス1世の即位(1533年
 ~1603年)
  父の政策を踏襲して「国王至上法」を発令した。
  これは、キリスト教カトリックへの離縁状である。
  何しろイギリスは、キリスト教カトリックに悩まされ
 て来たのだった。
1559年、近江半国(北部)守護・京極高吉(きょうごく
 たかよし、高佳、武将)が、実権を握る被官(下級官吏)
 浅井久政・長政討伐に失敗した。没落し支配権をすべて
 失う。
  後に、キリスト教の洗礼を受けたが、その数日後に死
 去した。罰だと噂(うわさ)されたという。
1559年、上杉謙信が、再度、上洛した。
  再度、上洛し、天皇に謁して盃・剣を与えられ、また、
  将軍・義輝に絶対の忠節を誓って、必要あれば本国越
 後がどうであろうと在京して命に従うと誓った。
1559年、秀吉が、日輪受胎伝説を口にする。
  この年の時点で、日輪受胎伝説を口にしていたことが
 伺える。
1559年春、信長が、ほぼ同族を制す。
  信安の長子・信賢(のぶかた)も斎藤義竜と計って信
 長を討とうとした。
  信長は、1558年に、丹波郡浮野に破り、さらに岩倉城
 を囲み、1559年春、ついにこれを陥れた。
  この1559年の信長の岩倉城をとることで、ほぼ同族を
 制した。
1559年2月、信長が、100名ほどの軍勢とともに上洛し、
 将軍・義輝に謁した。
1560年5月19日、桶狭間(おけはざま)の戦い。
  今川義元が、2万5000の大軍とともに上洛を計ったの
 も、三好・松永らと同じく幕府内部の権力を狙ったのに
 過ぎない。
  この年の5月、織田信長は、駿河・遠江守護・今川義元
 を尾張桶狭間に捨て身の切込み奇襲戦で倒した。
  信長の軍は3000~5000で、奇襲をしたのは、その内
 の2000。今川義元、41歳だった(1519年~1560年)
  この戦いは、信長の起死回生の戦いだった。
  国境地域の今川との戦いでも負けが込んでいた、また、
 今川方に寝返る者もあり、また、同族の争いなどもあっ
 て、この頃の信長は、最悪状態だった。
  5月12日、今川義元は大軍を率いて駿府を発った。東
 海道を西へ進んだ。
  この戦いに今川軍として松平元康(徳川家康)も参戦
 し先行していた。
  織田陣では清州城に籠城するか、出撃するかで軍議は
 紛糾していた。
  19日、朝3時、先行していた松平元康は織田軍の砦を
 攻撃開始する。
  信長は、前日、今川軍が接近している事を聞いていた。
 しかし、動かなかった。
   しかし、この早朝の攻撃の報を聞いた信長は飛び起
 き、出陣の身支度を整え、朝4時頃、居城の清州城を出た。
  信長に続いたのは、小姓衆の5騎のみだった。
  8時、熱田神宮に軍勢を終結させた信長は、神宮に戦勝
 を祈願し、10時、鳴海城を囲む砦の一つ善照寺砦に入っ
 た。
  ここで、2000から3000の軍勢を整えた。
  その頃、今川軍の先鋒の松平軍の猛攻を受けていた丸
 根砦の織田軍500は、城外に討って出て、白兵戦を展開
 していた。
  織田側の大将の佐久間守重は討死した。
  織田軍の鷲津砦でも討死多数。
  今川軍は、織田側の大高城周辺の制圧は完了していた。
  義元率いる本隊は、沓掛城を出発し、制圧した大高城
 へ向かって進んだ。
  11時から12時頃、織田軍は、善照寺砦に500の兵を置
 き、2000の兵で出撃した。
  正午頃、信長出陣の報に中嶋砦の織田軍は意気が上が
 った。意気が上がったこの織田軍は、単独で今川軍と交
 戦した。
  これは、勇み足となり重臣が討取られてしまった。
  義元は、この報に気を良くした。
  13時頃、視界が妨げられるほどの豪雨となった。
  しかし、織田軍は兵は進め続けた。
  そして、雨た止んだ直後の14時頃、織田軍は、義元の
 本隊に向かって奇襲をかけた。
  今川軍2万の兵は、その時、義元を守る兵力は5000か
 ら6000だった。
  義元周辺の状態は、戦力が拮抗した状態に近く、乱戦
 となった。
  義元は輿を捨てて、300騎の親衛隊に守らせながら騎馬
 で退却しようとした。
  波状的な織田軍の攻撃で、義元を守る兵の数も減って
 行く。
  逃げる義元は、信長側近の馬廻(うままわり、騎馬の
 武士)に追い着かれる。
  義元は、織田の服部一忠は討つが、毛利新介良勝に組
 み伏せられた。
  そして、ついに討取られた。
  毛利は、左指を義元に食い千切られていた。
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2015年4月10日金曜日

(増補版)68C2/3:気になった事柄を集めた年表(1553年~1555年)

 題:(増補版)68C2/3:気になった事柄を集めた年表(1553年~1555年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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16世紀後半、ポルトガルから鉄砲が1543年に伝えられた
 日本だったが、たちまち、16世紀後半には、世界最大の
 鉄砲生産国になっていた。
  この凄さをよく考えてみて下さい。
  日本の知識、および、知識だけではなく、それを理解
 し、嚥下咀嚼(えんげそしゃく)し、技術をも伴ってな
 す、この優れた結果は誇るべき日本である。
  そして、さらに・・
  アメリカのダートマス大学教授の本・「鉄砲を捨てた
 日本人」という本に、以下のように書かれている・・、
  「16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量
 生産に成功し、西欧のいかなる国にもまさる鉄砲使用国
 となった。
  にもかかわらず、江戸時代を通じて日本人は、鉄砲を
 捨てて刀剣の世界に舞い戻った。
  武器の歴史において起こるべからざることが起こった
 のである。
  同時代の西欧では、鉄砲の使用・拡大によって戦争に
 明け暮れていたことから考えると、この日本の奇蹟が示
 唆するところは大きい」・・と。
  この本の副題が、「日本史に学ぶ軍縮」
16世紀後半~17世紀、『魔女熱狂』と言われた時代、また、
 『大迫害時代』とも呼ばれる『魔女裁判の最盛期』。
  岩波新書「魔女狩り」をお読みください。
1554年、角倉了以(すみのくらりょうい、京都の商人)が
 生まれた(1554年~1614年)
  京都では、商人と言うより琵琶湖疎水を世に贈った「
 水運の父」と言われている。
1554年、秀吉、松下屋敷を出奔(しゅっぽん、逃げ出して
 行方をくらます事)。
  18歳の秀吉は、松下屋敷を出奔して尾張に帰った。
  天文23年のこの年、信長は21歳、尾張統一へと着実に
 一歩を踏み出したとはいえ、まだ、海のものとも、山の
 ものともつかない段階であった。
  とにかく、父・信秀の家督を継いでまだ4年目、尾張国
 内は動揺を続けており、しかも、大大名の今川義元が尾
 張に勢力を伸ばしつつある時であった。
1554年、柴田勝家が、信長の命で清州に坂井大膳を攻めた
 時、長い槍で、短い槍の相手を打ち負かした。やっぱり。
1555年頃、この頃、ヨーロッパより毛織物が輸入された。
  来航したポルトガル船がラシャ(羅沙、毛織物の一種、
 羅も沙も絹織物に関連するがウール製品のこと)を伝え
 た。
  その後、最高級品の猩々緋(しょうじょうひ)が渡来
 し、陣羽織に用いられた。
1555年、また、この頃、堺・平戸などが隆盛になった。
1555年、倭寇が明を侵し、南京安定門を焼いた。
1555年10月、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)。
  陶隆房(晴賢、周防の戦国大名)は、1551年に、主君・
 大内義隆を討ち、大友晴英(後の大内義長)を当主に据
 え、実権を握っていた。
  対立する毛利元就(もうりもとなり、安芸・広島県の
 戦国大名、知将)は、1554年に厳島を占領し、宮尾城を
 接収した。
  そこへ、1555年10月6日に、陶軍が、2万から3万の大
 軍を率いて、宮尾城に襲来して来た。
  しかし、知将の毛利軍は、陶軍の本陣を奇襲し、これ
 を撃退し、また毛利に味方する村上水軍によって退路を
 断たれ、陶隆房は、逃走の途中で自害した。
  この様に、日本の戦国時代、争いが多いと言ってもバ
 トルレベル。ヨーロッパの悲惨な殺戮戦争レベルではな
 い。
1555年3月~、川中島の戦い(第二次)。
  武田信玄が上杉謙信と信濃川の川中島で戦った。
  「犀川の戦い」というこの戦いは、長期戦・200日と
 なった。
  信玄は、関係改善が図られていた後北条と今川氏との
 間で、この前の年、甲相駿三国同盟を結んでいた。
  また、あちこちでは、寝返りもあったりという状況で、
 味方する者が現れたりという状況であった。
  この戦いも地域争奪戦で、前進拠点を築いたり、奪わ
 れたり。
  大決戦は、民百姓が困らない場所・川中島へ出陣。
  決着が付かなければ、部下の死を少なくする意味もあ
 って、大将同士の一騎打ち。
  これが、日本の戦いだった。
  この戦いは、10月に、今川義元の仲介で和睦が成立し、
 撤兵した。
  今現在、この戦いの感状(部下の働きを褒め称える状)
 が武田側、上杉側の双方に複数現存している。
  そして、その状にも、両者は、戦いの場所は「川中島」
 と認識している事が記されている。
1555年4月、信長の叔父・守山城の織田信光(信秀の弟)
 が、主人の織田信友(織田大和守家、実父不明)を陥(
 おとしい)れた(織田一族は乱戦状態の中にあった)。
  「信長公記」によると、
  織田信光は、信長と敵対する織田大和守家当主・織田
 信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをし、
  清州城に、1555年4月に、入城した。
  翌日、信友を誅殺して清州城を奪い、大膳は今川義元
 の下に逃れた。
  信光は信長に清州城を渡すと、自身は信長より譲られ
 た那古屋城に入ったが、1556年1月不慮の死を遂げた(
 殺害?)
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(増補版)67C2/3:気になった事柄を集めた年表(1551年~1553年)

 題:(増補版)67C2/3:気になった事柄を集めた年表(1551年~1553年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1551年、秀吉が、信長の前の主人・松下之綱に武家奉公す
 る。
  秀吉は、15歳から18歳まで、遠江(とおとうみ)国の
 頭蛇寺(ずだいじ)城主の松下之綱のもとに武家奉公し
 ていた。
  之綱は、富士川の合戦に、秀吉がきわたっだ働きをし
 たので、いよいよ重く用いた。
  之綱は、草履取りにとりたて、納戸役までに出世させ
 てくれた。
  武家奉公の恩人であった。
  かつての主人を、秀吉は、遠江国の久能城に迎えて3万
 1千石の大名に取り立て、その恩を返した。
1552年1月、六角義賢(承禎、ろっかくよしたか、しょう
 てい、南近江の守護大名)が家を継いだ。
  この大名は、1568年に、信長が、足利義昭を奉じて上
 洛を開始すると、三好三人衆を通じて信長の従軍要請を
 拒絶し、織田軍と戦った。また、1570年には、朝倉義景
 や浅井長政と同盟して織田軍を圧迫した。
1552年4月、鳴海城主の山口教継が信長に背いた(赤塚の
 戦い、信長が当主となっての最初の戦いで、山口教継は
 今川に寝返った)。
  鳴海城主・山口教継・教吉父子が、今川に通じて、信
 長に背いた。
  信長は、800の兵で那古野城を出陣している。
  寝返ったので、元は味方という戦いで、顔見知りの間
 柄の戦いで、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返しあった
 という、また、生け捕りになった者も交換して帰陣した
 という。勝敗は付かず。信長軍の損害は30騎。
1552年8月、清州の坂井大膳(さかいだいぜん、清州城主
 であった尾張守護代・織田大和守家織田信友の重臣)が、
 信長に背き、挙兵した。
  信長は、叔父の織田信光の支援を得て清州へ進軍し、
 信長は撃破した(萱津の戦い)。
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東
 の上川(さんちゃん)島、享年46歳。
1553年、武田信玄は、信濃の小笠原長時(信濃守護)・村
 上義清らを越後に追った。
  越後の上杉謙信を頼って逃げる。
1553年、上杉謙信が上洛した。
  謙信は上洛参内し、越後や隣国の敵を討てとの勅命を
 受け、1559年に、再度、上洛し、天皇に謁し、盃・剣を
 与えられ、また、将軍・義輝に絶対の忠節を誓って、必
 要あれば本国・越後がどうであろうと在京して命に従う
 と誓った。
  この年、信長も、やはり上洛し、義輝に会った。
  室町幕府の権威は、まだ一応、健在だった。信長は「
 会いに来い」と言われたらしい。その様な関係だった。
  しきりに、この頃、室町幕府の将軍は、各地の守護大
 名を呼び寄せた様だ。
  上杉謙信なんかは、年に2回も上洛して律儀な性格を
 表している。
  信長は上洛した時に、将軍に金を送っているから、経
 済的援助を請う状況だったのだと思われる。
  将軍は、信長に尾張支配のお墨付きを与えている。
1553年1月、信長の教育係りの平手政秀が、自殺した。
  「信長公記」によると、「信長公を守り立ててきた甲
 斐がないので、生きていても仕方がない」と理由が記し
 てある。
  19歳の信長は、まだ、いっこうに改まらない「うつけ
 振り」に落胆し、自分の役としての力不足を感じ、死を
 もって諌めようとしたと言われている。
  信長にとって父の様な大切な人を失ったのだった。
  しかし・・この後、斎藤道三と会った信長は・・
1553年4月、信長が、斎藤道三と尾張の聖徳寺で会見した。
  道三の娘と結婚して5年が経っていた。
  信長は、「気違いじみた」と表現していい風体で、伴
 のもの70~800、3間半の長柄の朱槍500本、弓・鉄砲
 500挺という行列であった。
  信長は、半袴をはき、火打袋などをぶら下げ、髪は茶
 せんに紅(くれない)・萌黄の糸でまきたて、朱さやの
 太刀を腰に、町を歩きながら栗・柿・瓜をかぶり、餅を
 ほおばり、
  世間では、彼を、「大うつけ」としか呼びようのない
 状態だった。
  ところが・・、
  聖徳寺に着くと、信長は、屏風を引き回し、その中で
 髪かたち・服装をととのえ、威儀を正して道三と対面し
 た。
  見送る時に、道三は、信長に美濃衆の槍は短く、織田
 方のは長く、見劣りがしたので不快になり、黙って引き
 返した、というが・・、
  これはただ、見栄えの悪いのを恥じただけの事ではな
 く、
  長柄の朱槍500本と、弓・鉄砲500挺に、道三は、織
 田方の武力のほどを見て取ったのだった。
  三間半の長槍に『新しい戦法』を感じ取ったのだった。
  さらに道三は、信長が突然威儀を正して屏風の陰から
 現れたとき、どう感じたのだろうか。
  父・信秀の葬儀の時でさえ、相変わらず袴もはかず、
 長束(つか)の太刀・脇差をしめなわでまき、抹香を手
 づかみにして仏前に投げかけた信長だったのだ。
  舅(しゅうと)の斎藤道三と、尾張中島郡富田(今の
 尾西市)の聖徳寺で面会した時の異様さは、一層ひどか
 ったようだ・・が、
  その変わり身が・・、「信長公記」に、
  「寄宿の寺へ御着き候て、屏風引き廻らし、髪を折曲
 にいっせのせに結わせられ、いつ染め置かれ候を知る人
 無き褐色の長袴を召し・・云々」・・とある。
..
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2015年4月9日木曜日

(増補版)66C2/3:気になった事柄を集めた年表(1546年~1551年)

 題:(増補版)66C2/3:気になった事柄を集めた年表(1546年~1551年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1547年、お市の方が生まれた(1547年~1583年)
  あまりにも政略的に結婚をさせられた可哀想な女性。
  最後は、子供だけを助け、そして、自分は、夫・柴田
 勝家と城と共に散った美しい女性だった。
  二度と城が焼け落ちる光景を、城の外から見る事に・・、
  その焼ける光景の中にいる夫を・・思う辛さに耐えられ
 ないと・・、
  そしてその後の・・夫の居ない自分だけが・・生き延び
 た辛さを味わいたくないと・・思ったのだろう。
  そして、未来ある子供だけは・・助けたのだろう・・、
1547年、武田信玄が「信玄家法」55ヶ条を制定した。
  武田晴信(信玄)が、「甲州法度之次第」を制定し、
 喧嘩両成敗とした。そして、キリスト教は「目には目を」
1547年、オスマン=トルコのコンスタンティノーブル占領
 後、ロシア教会は、独立した総大主教座をモスクワに置
 き、この年、ロシア正教とした。(1448年、ロシア正教
 会が独立を宣言の説があり)
1548年、本田忠勝(ほんだただかつ、徳川家康の家臣)が
 生まれた(1548年~1610年)
  処々の戦いで武者振りを示す。
  戦いぶりが、敵味方を問わず賞賛されるという様な人。
  家康が、「まことに我が家の良将なり」と激賞した。
  蜻蛉切(とんぼきり)という槍を愛用して戦場に出た
 ので川柳に、
  「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり」。
  「手に蜻蛉、頭の角のすさまじき」。
  「鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」・・と詠まれた。
1548年、秀吉の妻・おねが生まれる。おねが、尾張国愛知
 郡朝日村に生まれた。
1548年、信長が、斎藤道三の娘と結婚した。
  平手政秀(ひらてまさひで、織田信秀、信長の二代に
 仕える)の才覚で隣国・美濃の大名・斎藤道三の娘と結
 婚した。
  信長が、一時、戦いを講和し、娘を迎えた。
  だから、信長は寝首をかかれるかと心配したという話は
 講談だけなのか? 気の荒い道三の娘だし・・、
1548年12月、上杉謙信が、家を継ぐ。
  越後の長尾景虎(上杉謙信)が、19歳で、兄・晴景に
 かわって家を継いだ。
1549年、徳川家康・8歳が、今川の人質になった。
1549年8月15日、ザビエルが、鹿児島の海岸に上陸した。
  キリスト教を伝えた。
  同行者は、トルレス神父、フェルナンデス修道士、日
 本人3人、船員として中国人3人、計9人だった。
  この日本人の一人が、アンジローだった。
  アンジローは、人を殺したので日本にいられなくなり、
 海外へ逃れたのだった。
1549年、ザビエルは、初めて日本に来て、当然、キリスト
 教宣教師であるので宣教をした。
  彼は、聴衆の日本人の善男善女に「今、ここで、お前
 たちは、初めて救われたのだ」と言った。
  民衆は、「それなら、私の亡くなったおじいさんやお
 父さんは、もはや救われないのか」と聞いた。
  彼は、「その通りだ、救われないのだ」と言った。
  キリスト教には、この様な矛盾点がある。
  キリスト教の神でも、今、聞いている民の以前の人た
 ちには救いを及ぼすことで出来ないと。
  しかし、これはおかしいと、キリスト教の最高の会議
 であるヴァチカン公会議で「救える」という事にした、
 そう決めた。
1549年、キリスト教に絵画が多いのは、ヨーロッパに文盲
 が多かったから、絵画でキリスト教を理解させなければ
 ならなかったから。
  ザビエルが、日本来て驚いたことは、日本の民衆の多
 くが文字を読み、そして、書くことができるという事実
 を見たからだった。
  ザビエル達・キリスト教宣教師たちは、自分たち・自
 国の教育レベルと比較して、大変に驚いたのだった。
1550年4月、北条氏康が「公事赦免令」と発令した。
  これは、全領土規模で行った初めての徳政であった。
  直轄領・給人領の別なく、それまで雑多な徴収をして
 いた税を、手順や対象や課税率などを単純化し、軽減化
 して税制改革するとともに、
  特定の賦役の廃止や免除、そして、過去に設定されて
 いた諸税を撤廃したり、債務を破棄するものだった。
1550年頃、この頃、堺・平戸が栄えている。
1550年7月に、ザビエルが京都へ行った。
  ザビエルと一緒に付いて来たアンジローは、鹿児島に
 残って伝道をしていたが、うまくいかず、反感を買った。
  そして、鹿児島に居られない状態になったため中国へ
 逃れた。
  キリスト教系出版社で、子供の偉人伝の本にもされて
 いるこのアンジローは、人を殺して海外に逃れ、ザビエ
 ルが京都へ行った後、鹿児島に残っていたが、いさかい
 からか、鹿児島に居られなくなり、中国に逃れたのだった。
  しかしまた、このアンジローは、この中国でもトラブ
 ルをおこし、この中国でも、トラブルから殺害されると
 いう事態となっている。
  アンジローの荒れたこの様な経歴から、アンジローと
 いう男の性格や素性の良からぬ姿が見えて来る。
1551年1月、ザビエルは、京都に入れたが、天皇の謁見(
 えっけん)も許可されず、また、ザビエルが希望した仏
 教の中心地の延暦寺の訪問もなされなかった。
  ザビエルは、延暦寺の学問所を訪問したかった。
  この様に、ザビエルの京都訪問は散々だった。
  ザビエルは、あきらめて京都を去った。
  ザビエルは、いったん、平戸に帰り、その後、山口の
 大内義隆に、2度目の謁見をし、布教の許可を得た。
  1度目は、義隆を怒らせ、追い払われ、布教の許可は
 得られなかった。
  因みに、ザビエルは日本語ができず、説教をする人の
 そばに、ただ立っているだけだったという。
1551年3月、信長の父・信秀が亡くなる。
  信秀の死で、信長は18歳で家を継いだ。
  この尾張の信長は、「大うつけ」とか「たわけ」など
 という噂のある信長だった。
  以後、同族との戦いしきりmp信長だった。
1551年8月末、ザビエルは、ポルトガル船が豊後に入港し
 たと聞いた。
  また、豊後の領主の大友宗麟からこのポルトガル船入
 港についての助力を請う書状が来たので・・
1551年9月15日、ザビエルが、山口をたち、豊後へ向かっ
 た。
  このポルトガル船の船長は、ザビエルと知己だった。
  この様子を見ていた大内義孝は、ザビエルを歓待し、
 布教の許可も与えた。この直後の・・
1551年9月28日に、山口で反乱がおこり、ザビエルが数日
 前に布教の許可を貰った大内義隆と嫡子の義尊がともに
 自刃(じじん)して果てた。
  家臣の陶(すえ)隆房に襲われての自殺だった。
  心労と失望に苦しむザビエルだった。
  ポルトガル船の運んで来た本国からの書信の内容も、
 不穏さを増した。
1551年11月15日、ザビエルが日本を去った。
  翌年(1552年)に、ザビエルは、中国で死ぬ。
1551年、マカオで日本人の奴隷が増えていると、キリスト
 教宣教師カルネイロが記録している。この人たちは、日
 本人に対して、こんな事をしていたのだ。
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2015年4月8日水曜日

(増補版)65C1/3:気になった事柄を集めた年表(1543年~1546年)

 題:(増補版)65C1/3:気になった事柄を集めた年表(1543年~1546年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1543年、コペルニクス(ポーランド)が地動説を提唱した。
  コペルニクスが、25年以上も発表する事をためらって
 いたこの説・・
  世の中を好き勝手に牛耳っているキリスト教の迫害を
 恐れたためだった、その様な時代のコペルニクスだった。
  それ故、発表は、彼の最晩年になってしまった。
  彼の行為の後の、1600年に、地動説の擁護行為をした
 ブルーノは、卑劣にも、キリスト教裁判に掛けられ、異
 端審問で「異端だ」と言われ、火あぶりの刑にされてし
 まった。
  そしてまた、ローマ法王は、1616年に地動説を禁じた。
  発表するコペルニクスにも、その様な事が予測でき、
 分かっていたから、発表には勇気が要った。
  それまで、キリスト教によって形づけられて来た「地
 球の周りに太陽が回っている」という「大間違いの天動
 説」。
  彼がくつがえしたこの説=地動説を唱えたことで、
  キリスト教は、天地が引っくり返る様な大騒ぎとなっ
 た。
  キリスト教の教義の中心にある「聖書の解釈」に大き
 くかかわるからだった。
  その聖書解釈から、地球が動いてはまずいのである。
  特に、「ガリレオ裁判」は有名で、卑劣な歴史を刻ん
 だ。
  キリスト教裁判所で、正しい事・正論を説明する科学
 者は断罪された。科学の進歩の足を引っ張るキリスト教
 だった。
  科学者の正しい論理を、撤回しろと迫った、そして、
 命令した。さもなくば命を取るという論理展開だった。
  ローマ法王も感情的になり、怒りをあらわに激怒した。
  科学者の命を懸けた説明も通らなかった。
  キリスト教から異端だと断定され、強圧的に説を曲げ
 させられたガリレオが、最後に言った言葉が有名、
  「それでも、地球は回っている」・・。ガリレオは悔
 しかったと思う。
  そして、迫害されたガリレオの晩年が、寂しかったと
 いうところにも心が痛む。
  ローマ法王によって、この正しい科学の書は禁書にさ
 れた。
  キリスト教が好きに世の中を牛耳っていた世の中、正
 論が通らなかった時代だった。
  今・現代でも卑劣な屁理屈を言っているキリスト教だ
 が、さすがに、この事態に耐えられず、ローマ法王はこ
 の間違ったキリスト教の概念によったことを謝罪した、
 ガリレオの死から400年も経た後だった。
  しかし、キリスト教の聖書には、相変わらずキリスト
 教の神のお蔭で大地は動かなくなったと記述されている、
 その他いろいろと、聖書は改訂しなくてはならない。聖
 書を使わないキリスト教の派があるくらい・・、
  また、聖書にこんな記述で、キリスト教の神の偉大さ
 を示そうとすること自体がおかしい。浅薄な話だ。
1544年、この頃から木綿の衣服が一般に普及し始まった。
1544年、織田信秀(おだのぶひで、信長の父)の稲葉山城
 攻め(いなばやまじょう、岐阜県にある斎藤氏の居城)。
  信秀は撃退されたが、斎藤の本拠地稲葉山城まで攻め
 込み、ついで大垣城をとって織田播磨守(信秀の家臣)
 を入れた。
  その後、信長が三河へ初陣の1437年頃、斎藤の重臣、
 いわゆる美濃3人衆(稲葉通朝・安藤範俊・氏家卜全)が
 相次いで信秀に通じ、寝返って、斎藤方が、ようやく不
 利になって、一時和議成立、信長と道三の娘が結婚した
 のはそのためであったのだろう。
1544年、秀吉が光明寺の門弟となる(寺預けとなる)。
  秀吉が8歳の頃、尾張国の光明寺の門弟となった。
  秀吉を寺に入れたのは母の大政所と考えられる。
  結局、秀吉は光明寺を追い出され、家に戻される事に
 なる、勉強もせず、やんちゃだったという。
1544年1月15日、キリスト教の日本に宣教師として来たザ
 ビエルのこの日の日記:
  「(キリスト教聖職者になろうと)大学で勉強してい
 る多くの若者達は、教会の高い地位や顕職(けんしょく・
 地位の高い要職)に相応(ふさわ)しい学問を身につけた
 いと思うよりも、高位、聖職禄(ろく)、司教の地位を
 得たいと願って学問をしている」・・と。
1545年、浅井長政(あさいながまさ、北近江の戦国大名)
 が生まれた(1545年~1573年)
  継室が織田信長の妹のお市の方(後に、柴田勝家の妻
 にもなる)
  そして、織田信長と同盟を結んだ時が全盛期、だが、
 後に、この同盟も決裂し、織田軍と戦い、そして破れ、
 自害、浅井氏滅亡(1573年、小谷城の戦い)。
  この時、浅井長政は、朝倉義景に援軍を要請した、
  約束を違(たが)わず、朝倉義景は、2万の軍と共に
 駆け付けるが、織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし
 ていて、やむなく朝倉義景は越前に撤退を始める。
  信長は、逃げる朝倉軍を追撃し、滅亡させる(一乗谷
 城の戦い、1573年8月15日~20日)、
  そして、軍を浅井氏へ向ける。
  信長の大軍で城の陥落は確実な状態となる。
  お市の方(信長の妹)が居たため降伏を勧めたが、浅
 井長政は断り続け、最終勧告も決裂した。
  お市の方が信長の陣営に帰還するとき、浅井・織田の
 両軍ともに一切の攻撃はしなかったという。
  8月27日に父の浅井久政が自害、
  翌28日にお市の方の夫・浅井長政が自害(29歳)。
1546年、武田勝頼(たけだかつより、甲斐国の甲斐武田家
 第20代当主、父は武田信玄)が生まれた(1546年~
 1582年)
  信玄の死により家督を相続、27歳のとき。
  相続して2年後(1575年)に、長篠の戦において織田
 軍に大敗し、虎の子の武田の騎馬隊を消滅させる。
  勝頼の強硬策が裏目となった、その様な性分だった。
  そののち信長との和睦の交渉をするが、完全な和睦に
 至らず、結局、織田・徳川連合軍の甲斐への本格侵攻の
 開始となり、武田氏は滅亡した(1582年、天目山で自害、
 勝頼36歳)。
1546年、元服し、信長を名のる。
1546年7月、シュマルカルデン戦争。
  キリスト教のカトリックと、プロテスタントとの間で
 争われた。年がら年中こ、の両派は戦争している。
  キリスト教両派の溝はますます深まっていた。
  乱れたカトリックの宗教改革をしようとしたプロテス
 タント、そして、その教皇権を否定したプロテスタント、
 そして、その低下した教皇権を復興しよとするカトリッ
 ク。
  教皇の意をくんだドイツ皇帝は、プロテスタントの弾
 圧を始めた。
  戦いとなった(~1547年)。
  皇帝も自分の権力を強化したいと考えていた。
  しかし、この後、1552年に、ドイツ諸侯の反撃にあっ
 ていて、皇帝の望みは潰(つい)えた。
  このドロドロ宗教戦争に、皇帝権力が絡み、さらにド
 ロドロのヨーロッパ中世だった。民は嘆いていた。
1546年、ルターが死んだ。63歳だった。
  あまりにも乱れていたそれまでのキリスト教を見かね
 て改革を始めた人。
  堪忍袋の緒が切れたという感じ、
  キリスト教修道院に入るもしっくり行かなかった。
  修道生活で心の平安は与えられなかったとつくづくと
 思う。
  大学への転身を勧められて行ったが、ここにも真実は
 無かった。
  善業も空虚だった。「嘘だからだ」に行き着く。
  そして、カトリックを否定した、抗議した(プロテス
 タント)。
  95ヶ条もの問題点を最初に指摘し、教会の門に打ち付
 けた。
..
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2015年4月7日火曜日

(増補版)64C1/3:気になった事柄を集めた年表(1541年~1543年)

 題:(増補版)64C1/3:気になった事柄を集めた年表(1541年~1543年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1542年、南米で、50年間も、インディオの方たちを殺し
 まくったキリスト教徒とキリスト教聖職者たち。
  そのキリスト教聖職者のラス・カサスが、「このまま
 では天に召されない」という気持ちに、50年も経って、
 やっとなって、本国・スペイン王や関係者の前で、南米
 などの卑劣きわまりない、悲惨な自分たちの行為を報告
 する。
  王は、すべてを聞くことが出来ず、簡潔に報告書にし
 なさいと言えるだけだった。
  それが、岩波文庫から出版されている本、「インディ
 アスの破壊についての簡潔な報告」である。是非、お読
 みを・・。
  欲に絡んだキリスト教聖職者が、黄金を探そうと、探
 しやすいようにインディオスの家を焼き、その焼跡に行
 ったりしている。
  赤ん坊を岩にたたきつけて殺したり、インディオスの
 方たちを何人も立たせておいて、槍で何人を突き通せる
 かなどという遊びで人を殺し、色々蔑んだ行為で人殺し
 をしている。宗教で洗脳され、殺人鬼と化している。
  卑劣な筆舌に尽くせぬ悪行為をしている。
1542年5月、ザビエルがインドに赴任し、ゴアに着いた。
 36歳。ゴアは華やかで活気に満ちた町だった。
  しかし、キリスト教司祭たちの生活は乱れ、道徳的に
 も荒廃し、人々の救済をするどころか、自分たちの懐(
 ふところ)を肥やすことばかり考え、行動していた。
  商売をし、金もうけにうつつを抜かすという状態だっ
 た。また、生活も怠惰そのものだった。
1542年8月、美濃で斎藤道三が、守護の土岐頼芸(よりな
 り)を追放した。頼芸は信秀に頼った。
  これ以後、織田と斎藤は戦うことしきり。
1542年12月、徳川家康が生まれた(1542年~1616年)。
  江戸幕府の初代将軍。
  家康は、幼少期に、今川氏へ人質として差し出された
 が、これは、逆から見ると、命を狙われる状況から逃れ
 て、ある意味、『安全領域に行った』とも言える。
  それは、家康の祖父の松平清康は、松平家を中興し、
 松平家もしっかりして来たが、この清康が作った松平家
 を狙った家臣に暗殺されている。
  また、この他にも、松平家の跡目を奪おうとした一門
 衆により、この清康の嫡男・広忠(家康の父)も、命を
 狙われている。広忠は伊勢に逃れている。
  そして、その家康の父の広忠が、伊勢から帰って来て
 家康を今川へ人質に出すとした。
  この時の父の気持ちは、家康の安全を考えたのだろう。
  しかし、この家康も、すっきりと、今川氏へ行けた訳
 ではなかった。
  家康が、人質として今川氏へ送られる途中で、祖父の
 清康に従属していた部下の戸田康光が、家康を奪い、家
 康を織田氏へ送ってしまっている。
  家康は、そのまま、織田の元で数年を過ごしている。
  後に、織田氏と今川氏の交渉による『人質交換』で、
 家康は、今川氏へ送られるが、織田氏より今川氏の方が
 大きな大名だし、人質としては安全度が増している。
  この今川氏での、家康の人質期間は長かった。
1542年~1543年、北条氏康が、相模で大仕掛けな検地を
 始めた。
1542年、武田信玄が釜無川の「霞堤」を築いた。江戸時代
 以前の主な社会資本整備。信玄堤(しんげんづつみ)と
 も言う。
  川の流れの自然をよく知った、知恵のある洪水防止策
 である。今現代でも役に立っている。
1543年、狩野永徳(かのうえいとく、絵師)が生まれた
  (1543年~1590年)
  洛中洛外図屏風(国宝)、聚光院障壁画(国宝)
1543年1月、秀吉の父・木下弥右衛門が亡くなった。
  弥右衛門は、戦場で受けた傷がもとで亡くなった。
  秀吉が7歳のとき。
1543年2月、信長の父・信秀が皇居修理費を献じた。
1543年8月25日、種子島の西村の浦に、明船(中国船)が
 漂着し、鉄砲を伝えた。
  この中国船にポルトガル人のフランシスコ・ゼイモト
 が便乗していた。
  彼の持っていた鉄砲に着目した島主の種子島時尭(た
 ねがしまときたか)は、2000両で、この鉄砲2挺を譲り
 受け、使用法も教わった。
  明船であったため、漢字の筆談で意思の疎通ができた
 という。火薬も伝来した?(一説・1542年)
  32年後の長篠の戦(1575年)では、既に、織田信長
 は、3000挺の鉄砲を使用して、強敵・武田軍の騎馬隊を
 倒している。
  しかし、その5年前の1570年に、石山本願寺の軍が、
 8000挺の銃を用いて、織田信長と戦っている。信長は、
 この時、鉄砲の威力を、嫌と言うほど知ったのだろう。
  種子島に伝来した時、種子島時尭は、家臣に命じて、
 外国人に火薬調合の方法も学ばせてもいる。
  また、時尭は、銃筒を模造させたが、銃尾が塞がれて
 いて作り方が分からなかったという。
  翌年、来航した外国人から、矢板金兵衛が、その製法
 を学び、伝来から一年後には、数十挺の鉄砲を製造する
 事が出来たという。
  その後、種子島を訪れた紀州根来(ねごろ)の杉坊(
 すぎのぼう)や、堺の商人・橘屋又三郎が、鉄砲製造法
 を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まっ
 たという。
  米国のダートマス大学教授(ノエル・ペリン)の本・
 「鉄砲を捨てた日本人」には・・、
  「アラビア人・インド人・中国人、いずれも、鉄砲の
 使用では、日本人よりずっと先んじたのであるが、
  日本人だけが、鉄砲の大量生産に成功した。
  そればかりか、思うままに使える武器とした」・・と
 ある。
  そして、また、
  「今日でもそうだが、日本は、当時も優れた工業国で
 あった。・・日本で、最も大量に製造されていた物が何
 かというと、それは武器であって、二百年間ぐらいは、
 世界有数の武器輸出国であった。
  日本製の武器は、東アジア一帯で使われていた」・と。
  また、「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の
 日本は、間違いなく世界のどの国よりも大量に持ってい
 た」・・と。
  そして、イギリス軍の全体の鉄砲所有数は、日本の大
 名の6名分より少ないとも言っている。
  また、フランスは、1569年に、6000挺の銃を所持し
 ていたが、
  日本の戦国大名の龍造寺隆信が、1584年に、島原方面
 で有馬晴信・島津家久と戦ったが、率いていた軍勢に、
 9000挺の鉄砲を持つの鉄砲隊が居た・・と。
  全フランスより、日本の1大名の鉄砲数の方が多いと
 記述している。
  「1大名が持つ鉄砲の数が5割も多い」とびっくりして
 いる。
  しかも、日本は、独自の工夫によって、銃の性能を高
 めているという、
  「螺旋状の主動バネと、引き金調整装置を発達させて
 いる」・・とか、
  「雨中でも、火縄銃を撃てる、雨よけ付属装置を考案
 している」・・とか、
  日本の方が先行していた・・と言っている。昔から、
 日本人は優秀だったのだ。
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(増補版)63C1/3:気になった事柄を集めた年表(1536年~1541年)

 題:(増補版)63C1/3:気になった事柄を集めた年表(1536年~1541年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1536年、伊達稙宗(だてたねむね)が家法の「塵芥集」を
 定めた。
  稙宗が書かせたという事ではなく、代々伝えられてき
 た家法をまとめ、制定させたという事である。
  条文は171条におよび、戦国家法で最大の法典。
  分国統治の裁判規範としての性格が濃い。
  この「塵芥集」には、馬・牛が他人の耕地を荒らした
 時の規定や、鷹の餌に犬を捕ることなどの条項もある。
  塵芥(じんかい)は「ちり・あくた」の意味であるが、
 家法を定める時、色々と「ちり・あくた」の様に色々と
 いやになるほど条項にすべき事があったというのだ。人
 間とはその様なもの。
1536年4月、今川義元(いまがわよしもと、駿河国・遠江
 国の巨大な守護大名)が、家を継ぐ。
  武田信玄や北条氏康とは義兄弟と、血が濃い関係。甲
 駿同盟、駿相同盟がある。
  桶狭間の戦いで、その巨大な大名を弱小の織田信長が、
 地の利を考えて、奇想天外な作戦で討ち取る話は有名。
  弱小大名から人質を取るほどの力があった(幼少の家
 康は、長い間、今川の人質だった。この桶狭間の戦いで、
 義元が討たれ、その混乱に乗じて、家康は岡崎城へ戻っ
 ている。信長のお蔭)
1537年、足利義昭(あしかがよしあき、室町幕府第15代
 将軍)が生まれた(1537年~1597年)
  織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する(
 第13代将軍の足利義輝は松永久秀らに暗殺されていた)。
  しかし、この恩ある信長と対立する。
  武田信玄や朝倉義景らに呼ぶ掛けて、信長包囲網を築
 き上げた。そして、信長を追い詰めもしたが・・、
  義昭自身が京都から追われ、備後国(広島県の東半分)
 へと下向した。これを以って室町幕府滅亡という説があ
 る。
  将軍職は続けたが、秀吉の代になった時、将軍職を辞
 し、秀吉から山城填島(京都府南部)1万石を貰い、大名
 として認められた。
  貴人と遇される時を送った。
1538年、本田正信(ほんだまさのぶ、武将、徳川家康の重
 臣)が生まれた(1538年~1616年)
  主君:徳川家康→松永久秀→徳川家康、
  はじめ鷹匠として家康に仕える。三河一向一揆が起き
 ると一揆方を応援し家康に敵対する。
  そして、家康のもとを出奔。大和の松永久秀に仕える。
  久秀に重く用いられたが去る。諸国を流浪する。
  苦労をして後、家康へ帰参を大久保忠世を通じて嘆願
 する。
1538年、北条氏政(ほうじょううじまさ、武将、後北条の
 第4代当主)が生まれた(1538年~1590年)
  父・氏康から、1559年に、家督を譲られても、父と共
 に、父存命中はずーっと氏康と氏政の両頭体制を続ける
 親孝行な息子だった。民意を重視し、徳政も行った。
  最後は、豊臣秀吉の小田原征伐により、数か月の籠城
 に耐えたが、降伏して、切腹した。後北条氏は滅亡した。
1538年、大久保忠佐(おおくぼただすけ、駿河沼津藩主、
 徳川氏の家臣)が生まれた(1537年説あり)(1538年
 ~1614年)
  父(忠世)や兄(松平広忠)とともに、家康に仕えた。
 武勇に優れ、戦い功あって2万石の大名になったが、嫡
 男は早世していた。
  その為、幕府の旗本でもあった弟の忠教を養子にして
 家を継がせようとした。しかし、忠教は「自分の勲功で
 はない」と固辞した。
  そして、当然の結果が、世継ぎが無いので沼津藩は改
 易(かいえき、所領没収)となり、御家は断絶した。
1538年、前田利家(まえだとしいえ、戦国大名、加賀藩主
 前田氏の祖)が生まれた(1538年~1599年)
  主君:織田信長→秀信→豊臣秀吉→秀頼
  小姓として、はじめ織田信長に仕えた。
  槍の名手で「槍の又左」と言われた。柴田勝家の与力
 (よりき、大名や有力武将に従う下級武士)として各地
 で活躍。能登の23万石を拝領する大名となった。
  本能寺の変後に勝家に付くが、秀吉に臣従した。豊臣
 家の家老となる。秀吉の日本平定へ従軍、そして、加賀
 国と越中国を与えられて加賀藩百万石となる。
  後、五大老の一人となり秀頼の後見人に任じられた。
  秀吉の死後、仲裁役として働くが、秀吉の死の8ヶ月後
 に病死。
1539年、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか、土佐国・
 高知県の戦国大名)が生まれた(1539年~1599年)
  主君:彫塑影国親(父)→豊臣秀吉→秀頼
  土佐の国人(くにうど、その土地に住む人)から戦国
 大名となり、阿波・讃岐(三好氏)・伊予(西園寺氏・
 河野氏)らと戦い四国を手に入れる、そして、四国の覇
 者となる。
  しかし、織田信長の手がおよび、秀吉に敗れて土佐一
 国の減地となった。
  その後の戦いで最愛の息子を戦死させると、気が荒く
 なり、家中を混乱させたまま世を去った。
  国盗りの野望が成ったと思ったら、元の木阿弥となり、
 愛する子も失った元親だった。
1540年、諸国に疫病が流行した。
1540年、天皇真筆心経を諸国一宮に奉納した。
  優しい天皇陛下の心づかいだった。
  疫病流行を憂(うれ)え、般若心経を写経されて奉納
 された。
1540年、カリブ海のインディオが絶滅した。キリスト教徒
 のスペインの蛮行。
  欲の皮が突っ張ったこの輩の黄金や銀の積み出しルー
 トとして非常に重要な役割を持った地だった。
  ここから、本国スペインへの黄金が積み出されて行っ
 た。
1540年6月、織田信秀が、伊勢外宮の造営費を寄進した。
1540年9月27日、教皇パウルス3世が、イグナチオ・デ・
 ロヨラにイエズス会を正式に認可した。
1541年、北条早雲の子・氏綱が死んで孫・氏康が後を継い
 だ。
1541年6月、甲斐の武田信晴(信玄)が、父・信虎を追い、
 自立する。
  父・信虎もびっくりしただろう、信虎が信濃の国から
 戦いに勝って凱旋し、娘婿の今川義元を会おうと、駿州
 往還(すんしゅうおうかん、甲斐と駿河を結ぶ街道)を
 駿河に赴いたところ、
  晴信は、甲駿国境を閉鎖して、信虎を強制的に駿河で
 隠居させてしまった。
  信虎は、今川義元の元に身を置がざるを得なくなって
 しまった。
1541年、カルビン(カルヴァン)が宗教改革を唱えた。
  パリで、1534年に、事件が起きるとプロテスタントへ
 の弾圧が烈しくなり、一時、彼はスイスのバーゼルへ亡
 命した。
  キリスト教聖職者が、世俗にあるべき政治権力を奪う
 神権政治を行った。
  市民の日常生活においても、キリスト教会の規律を厳
 格に求めた。
  また、カルヴァンは、異端者だと言って告発した旅行
 者や神学者らを、生きながら火刑に処した。
  それが、キリスト教の改革だと称した。
  当然、カトリック陣営とも熾烈に争った。
  「神中心主義」などとも言った。
..
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2015年4月6日月曜日

(増補版)62C1/3:気になった事柄を集めた年表(1530年~1536年)

 題:(増補版)62C1/3:気になった事柄を集めた年表(1530年~1536年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1530年、上杉謙信(うえすぎけんしん、越後国の戦国大名)
 が生まれた(1530年~1578年)
  幼名:虎千代、家督は兄の晴景が継いだ。
  春日山城下の林泉寺に入り青年期を過ごす。
  深い学識と厚い仏心は、この時代に培われた。
  元服して長尾景虎と名乗る。
  病弱の兄に代わって家督を継いだ。
  武田信玄との戦いが有名だが、その戦いは欲ではなく
 義による出兵と言われる。
  領地を奪われたものを助ける出陣であったという。
  敵の武田晴信が、今川氏真によって塩を断たれた際、
 今川の行為を批判し、武田に塩を送った。
  「敵に塩を送る」という話で有名。そのような人。
  「毘」の旗印は、厚く信仰していた毘沙門天からとっ
 たもの。
  内政や外交にもその才を発揮し、青芋(衣類の原料と
 なる植物)の栽培を奨励し、日本海を通じて全国へ広め、
 それによって経済的な安定を得ることなどもした。
  生涯、妻を持たなかった。
1530年、大友宗麟(おおともそうりん、豊後国・現在の大
 分県のキリシタン大名)が生まれた(1530年~1587年)
  結局、南蛮人が運んでくる硝石(弾薬の原料)に関心
 があってキリシタンになっている。
  「私はキリスト教を保護する者であり、敵の毛利は、
 キリスト教を弾圧する者であるから、硝石を渡さない様
 に」という意味の書状をキリスト教宣教師に出している。
  家臣団に宗教で争いが起きているが、その様な「火中
 の栗を拾う」にはそれなりの理由があった。
  それは、他のキリシタン大名と同じく、武器・弾薬が
 欲しかった、また、食料の援助まで受けている。
  キリシタン大名の子や孫の代では、キリシタンではな
 くなっている。
1531年、越前の朝倉教景(のりかげ、越前国の戦国大名)
 が一向一揆に敗れた(享禄・天文の乱、大小一揆)。
1532年、この頃の天文年間に(1541年頃の説あり)、カ
 ボチャが渡来し、全国に広まった。
  カボチャの原産地は中央アメリカ。
  ポルトガル船が豊後に漂着して伝えたという。
  シャム(タイ)の東のカンボチャ国で産したものだっ
 たのが名の由来という。
1533年、インカ帝国滅亡。
  インディオの方たちが、スペイン人のキリスト教徒、
 および、キリスト教聖職者たちに滅ぼされた。
  スペインは、このインカの南米各国のみでなく、中米
 各国や北米・メキシコや、それら各国の離島などに居た
 インディオの方々を、50年に渡って殺しまくった。
  殺されたインディオの方々は、1000万人という、とて
 つもない多数の方々の命が奪われた。
  それと同時に、このキリスト教の人非人たちは、これ
 等の国々から黄金を奪った。
  そして、当然、その黄金は本国へ持って帰った。この
 黄金はヨーロッパを潤した。
  きれいなヨーロッパはこの黄金で綺麗になっている。
  また、卑劣な事に、奪い取った黄金のすべてを本国に
 渡さず、自分のものとして私腹を肥やしていた。
  キリスト教徒のスペイン兵は、インディオの家を焼き、
 黄金を奪った。
  黄金は焼けずに残るので探しやすかった。無慈悲に命
 を奪い、また、家も焼いた。
  また、卑劣な事にキリスト教聖職者たちが一緒になっ
 て、兵と一緒に焼け跡の黄金漁り(あさり)をした。
  また、海賊国・イギリスは、この黄金を大西洋上でス
 ペインから奪い取った。
1533年、この年にペルーのインカが滅ぼされたが、スペ
 イン人キリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、長い年
 月、南米・中米・北米メキシコ・及びそれらの離島で、
 筆舌に尽くせぬ卑劣な殺戮をしたが、この極悪の地の一
 つ・ペルーにおいて、ペルーのスペイン人によるインカ
 の末裔のインディオの方々への虐(しいた)げは続いた。
  インディオの方たちは、打ちのめされてしまっていて、
 怖くて声も出せない状態だった。
  強烈なスペイン支配が続いた。
  スペインによる植民地支配は徹底して行われた。
  インディオの方たちの間には寂(せき)として声がな
 く、残酷さと手厳しい習慣的な抑圧のスタイルへの恐怖
 だけがあった。
  徹底的な侮辱と弾圧に、インディオの現地人の方たち
 は肝(きも)を冷やして手足が出せなかった。
  ただただ、すくんでいた。
  過酷な恐怖政治は、インディオの方たちから生きる勇
 気を奪った。
  そうする事が統治に便利なのだという事で、スペイン
 人はやった。
  キリスト教の教義の「有色人種への蔑視」に始まった
 非人道的な現地の方々への殺戮は、その後の、この統治
 の時代になっても変わらず続いた。
  このスペイン人に限らず、欧米列強のアジア統治も、
 異民族に対して残酷無比な扱いを堂々としてやってのけ
 た、その、したたかさを持ってやった。
  彼らは異民族を犬や猫を扱う様にしか扱わなかった。
  現地人との間に子供が生まれても、その子供は家の上
 に上がることは出来るが、産まされた母親は家の中に入
 れない。
  外の小屋に寝かされた。
  こういう差別が、公然と行われていた。
1534年5月、織田信長が生まれた(1534年~1582年)
  信長は、尾張郡古野城で生まれた。
  父は織田信秀。父の居城・古渡城で元服、三郎信長と
 名のる。
  信長の生まれたのは、尾張守護代織田の家老の家であ
 るともいう。
  主君は、幕府管領家の斯波。
  斯波は、応仁の乱をきっかけに急激に衰え、尾張の実
 権は守護代の織田のものになった。
  その織田もやがて分裂して勢力を争う。
  天文初年の頃、尾張上4郡(丹羽・羽栗・中島・春日井
 郡)は、丹羽郡岩倉の織田伊勢守が支配し、
  下4郡(海東・海西・愛知・知多郡)は、守護・斯波
 義統(よしむね)をかついで西春日井郡清洲城による織
 田大和守が支配していた。
  この清州織田家の3奉行のひとり織田弾正忠が、信長の
 父・信秀である。 
1534年、イギリスが首長令を発布した。
  これは、ローマ教会への明確な離縁状。
  イギリス国教会が唯一で、そのイギリス国王が最高の
 首長と定めた法律。
  イギリス国王のみが異端・悪弊を改革し、矯正する権
 限を持つというもの。
  この意味するところは、ローマ教皇権の破棄を示すと
 ともに、国教教会における国王の至上権を確立を示すも
 のだった。
1534年、ロヨラがイエズス会設立した(1540年に公認)、
  日本の地を踏んだフランシスコ・ザビエルらのイエズ
 ス会のキリスト教宣教師たちは、長崎を軍事要塞化する
 計画をした。
  そして、貿易で資金を稼ぎ、その実現へ向け行動した。
  国王の領土的野心の尖兵としての役目をも持っていた。
  そして、「異教の地をことごとく征服する」が目的に
 あった。
  日本人の奴隷がマカオに急に増えたと報告した宣教師
 もいた。
  この様な貿易によっても利益を得ていた。
1535年~1541年、教皇パウルス3世が、正面祭壇の『最後
 の審判』を描かせた。
1536年、豊臣秀吉が生まれた(1537年説もある)。
  父・木下弥衛門は足軽、あるいは農民と言われる。
  秀吉自身が書かせた自伝である「惟任退治記」にでさ
 え「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と書かれているく
 らい。
  しかし、当然、「関白任官記」の様に、恐れ多くも、
 秀吉が天皇の御落胤だと匂わすものもある。
  秀吉の出生を色々に語るものが色々ある。
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2015年4月5日日曜日

(増補版)61C1/3:気になった事柄を集めた年表(1521年~1530年)

 題:(増補版)61C1/3:気になった事柄を集めた年表(1521年~1530年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1522年、柴田勝家(しばたかついえ、武将、大名)が生ま
 れた(1522年~1583年)
  主君:織田信秀→信勝→信長→秀信
  本能寺の変後の清州会議で、勝家と秀吉の立場は逆転
 した。そして、秀吉と勝家などの他の重臣との権力争い
 が始まる。
  後に、秀吉は勝家の不満の抑えもあって、「主筋の者
 との結婚」という事で、信長の妹の「お市の方」と勝家
 は結婚している。
  しかし、その後、勝家は、滝川一益や織田信孝と手を
 結んで秀吉に対抗する。
  秀吉は、勝家の養子の柴田勝豊を圧迫し懐柔、そし
 て、織田信孝を攻めて屈服させ、1583年正月に、滝川一
 益を7万の大軍で攻め、1583年3月に、勝家も北近江に
 出兵し、秀吉と対峙。
  4月に賤ヶ岳の戦いとなり、4月24日に、勝家は、北の
 庄城において、お市とともに自害した。
  辞世の句:
  「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ
  山ほととぎす」
1524年、江戸城主の上杉朝興が、北条氏綱に敗れた。
  江戸城は後北条氏のものとなった。
1524年、ヴァスコ・ダ・ガマが没した(1469年頃~
 1524年)
1525年、ルターが結婚した。
  キリスト教の聖職者の司祭であり、キリスト教の戒律
 を守らなくてはならない立場だったが無視した。
  子供も6人つくった。
1526年、今川氏親が、「今川仮名目録」(家法33条)を
 制定し、喧嘩両成敗とした。
1526年、インドにムガール帝国が出来た(1526年~
 1858年)。
  建国者・バーバムは、トルコ人の血を引く。
  最初、アフガニスタンに侵入し、征服し、次に、イン
 ドに入って来た。
  そして、北インドを統一して、ムガール帝国を創った。
  インド史上最大のイスラム政権で、マウリヤ王朝以来
 の大帝国。
  創始者は、中央アジア出身で、モンゴル帝室の血を引
 くと称するバーバムで、ムガル(モンゴル)の名はこれ
 に由来する。
  帝国は、第3代アクバル帝から第6代アウラングゼーブ
 帝にかけて栄え、アグラ、デリーを中心として中央集権
 体制を維持したが、以後は解体の道をたどった。
  外来少数勢力であったムガル政権は、ペルシア系の官
 僚・知識人・技術者を盛んに登用して、ヒンドゥー世界
 における自らの優位を示し、また、言語・宗教・習慣・
 芸術各方面にペルシア文化の刻印を残した。
1526年4月、パーニーパットの戦い(インド)。
  三次にわたって行われたインドの運命を決めた重要な
 戦い。
  第一次パーニーパットの戦い、1,526年4月21日、ム
 ガル帝国の創始者のバーブルとローディー朝との間に行
 われた戦い。ムガル帝国の建国の戦い。
  第二次パーニーパットの戦い、1556年11月5日、ム
 ガル帝国の皇帝アクバル、及び、スール朝の残党との間
 に行われた戦い。
  苦戦だったが、また、軍勢も圧倒的に劣勢であったが
 ムガル帝国が勝利し、黄金期を迎える端緒となった。
  第三次パーニーパットの戦い、1761年1月14日、ム
 ガル帝国に代わって強大となったマラーター同盟と、ア
 フガニスタンとの戦い。
  ムガル帝国の衰退期に台頭したマラーター同盟と、北
 インドに度々進行していたアフガン勢力との戦い。
  結果は、アフガン勢力側の勝利となった。
  追撃戦も徹底して行われた。
  しかし、本国・アフガニスタンで反乱が起きたため、
 引き返さなくてはならなくなった。講和を成立させた。
  しかし、敗戦はマラーター同盟の結束を崩し、5つの
 勢力に分裂された。
  この戦いで、一番利益を得たのは、本当の侵略者のイ
 ギリスだった。
  イギリスのインドの植民化の最大の敵のマラーター同
 盟が無くなったのである。
  この後、イギリスのインドの植民地化は、加速度的に
 進んだ。陰でイギリスが仕組んだ可能性も否定できない。
1528年、明智光秀(あけちみつひで、武将)が生まれた
 (1528年~1582年)
  主君:斎藤道三→朝倉義景→足利義昭→織田信長
  氏族:源姓土岐氏流明智氏
  履歴に不明が多い、美濃国の守護土岐氏の一族だが、
 土岐氏に代わって美濃の国主になった斎藤道三に、青年
 期に仕えた。
  しかし、この道三も父子の争いなどあり、明智一族は
 離散、朝倉義景を頼り、10年間を仕えた。
  戦乱に巻き込まれた室町幕府の将軍の弟・義昭が、逃
 げまどい、信長など各地武将に、上洛と将軍擁立を促し、
 義昭は、織田・斎藤家の間に和睦を結ばせたが、後に、
 信長が破る。
  義昭は、朝倉義景を頼る、光秀は、ここで義昭と接触
 を持つ。
  義昭は、義景に上洛を頼むが動かず、そこで、斎藤氏
 から美濃を奪取した織田信長に、上洛して征夷大将軍に
 つける様に、光秀を通じて要請した。
  光秀の叔母が道三の夫人で、信長の正室も道三の娘で、
 光秀の従兄妹という関係があるので、義昭は、光秀のこ
 の縁を頼ったのだろう。
  ここで信長との縁が出来る。
  最初、義昭と信長の両属の家臣であった。
  そのうち、信長と義昭の意見の食い違いがあって、信
 長が怒ったりしているうち、光秀は、信長の武将として
 戦いに参加するようになる。
1529年、スペインとポルトガルが「サラゴサ条約」を結ん
 だ。
  世界をこの二国で分けようという勝手な条約。
  そして、この2国の勝手な欲がぶつかり合う条約でも
 あった。
  東南アジアのボルネオ近くのモルッカ諸島が、どちら
 の国に所属するかの条約だが、
  スペインの半分ペテンの様な条約で、時が経つととも
 に、スペインのものになるという条約だった。
  その結果、引かれたサラゴサ条約の境界線によれば、
 日本は『スペインのもの』となっている。
  そして、因みに、このモルッカ諸島は胡椒の産地だっ
 た。
  胡椒は、恐るべき疫病のペストの唯一の薬とされてい
 た。
  また、肉食のヨーロッパ人にとって、食肉保存剤(防
 腐剤)であり、また、脱臭剤だった。
  いくら高くても売れる、高価な貴重品だった。
  話は、やはり、欲得の話に行きついたが、高瀬弘一郎
 氏の『キリシタン時代の研究』という学問的名著がある。
  この本は、従来のキリスト教会版のキリシタン史を排
 した学問的名著である。
  この名著の研究結果にも、明らかにスペインやポルト
 ガルの宣教師は、日本の武力征服の企てに加担していた。
  そして、キリスト教宣教師たちは、中国征服が日本よ
 り容易だと、しきりに本国政府に中国征服を先にやった
 方が容易と説いた。
1530年、白人優越。有色人種蔑視論理。
  この頃までのローマ教皇の勅書に流れる思想を支える
 論拠。
  キリスト教の白人優越、有色人種蔑視の論理、ローマ
 教皇の勅書などには、
  「キリスト教の神の名において、別の地域の人類を支
 配することは許されている事である」
  「キリスト教の神の名において、別の地域の人(異教
 徒)を奴隷にすることは許されている」
  「そこには、キリスト教の神の審判があり、正当であ
 る」
  「異教の彼らは自然法に反する。そして、重大な罪を
 犯している。また、野蛮な悪習を守り、止めようともし
 ない、この様な者の土地を占拠しても、神は許したもう、
 また、武力で彼らを服従させる戦争も正当である」
  「正しい宗教を宣教する者は、布教地で、当然、優遇
 されるべきであり、優遇を受ける権利がある。それ故、
 キリスト教宣教師の言に耳を傾けない彼らを服従させる
 戦争は正当である」
  この考え方は、このキリスト教教皇のみならず、米欧
 キリスト教徒に根付いており、歴史の経過の中で、色々
 な面で、陰惨な陰を、落として行く。卑劣な宗教。
..
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(増補版)60C1/3:気になった事柄を集めた年表(1512年~1521年)

 題:(増補版)60C1/3:気になった事柄を集めた年表(1512年~1521年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1515年、北条氏康(ほうじょううじやす、後北条氏の第3
 代当主)が生まれた(1515年~1571年)
  武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで、上
 杉謙信を退けた。
  また、公事赦免令という全領国規模で行った初めての
 徳政を行うなど、民生を充実させ、政治的手腕も発揮し
 ていた。
1517年10月31日、ルターが宗教改革を唱え、宗教改革が
 始まった。
  キリスト教カトリック教会の教義や制度を否定した改
 革運動だった。
  ルターのこの年の免罪符批判がきっかけに、大規模な
 展開がして行った。
  プロテスタンティズムを生んだ。
  ルターは、ウィッテンベルク城内の聖堂に、金を出し
 た者だけが救われるという「免罪符」のおかしさ、疑問
 などを述べた95の疑問を掲(かか)げた、「95カ条の論
 題」。
  これは、キリスト教ローマ教会の免罪符販売への抗議
 もあった。
  これへの同感の意思表示が2週間で全ドイツに起きた。
  当時の免罪符の売り方は、キリスト教聖職者が、ロー
 マ法王の免罪符販売奨励を意味した『法王の紋章』の付
 いた十字架を先頭にして、免罪符についての法王の勅書
 (書状)を金のビロードの上に載(の)せて行列を作っ
 て町中を練り歩き回り、説教をした。
  ローマ法王は偉大なのだ。
  地獄での刑罰はどんなに恐ろしいかなど・・。
  「お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、た
 ましいは地獄の焔(ほのお)の中から救われ、飛び出し
 てくる」と大声で叫んだ。
  人々は繰(く)られ、争って買い求めた。
  大司教というキリスト教の高い地位の聖職者が、「懺
 悔(ざんげ)をしなくても、免罪符さえ買えば、死者も
 救われた事になる、有効なのだ」と言った。
1518年6月、ルターに対するキリスト教カトリックの裁判
 が始まった(欠席裁判)。罪状は、「異端の流布」だっ
 た。
1519年、マゼラン(ポルトガル人)の世界一周航海(~
 1522年)
  そのマゼランが、世界一周の航海に出た。
  この年に、ポルトガルのセビリアを出港した。
  翌1520年11月28日に、南米のマゼラン海峡を通過し、
 彼自ら命名した「太平洋」に出た。
  太平洋横断・マリアナ諸島発見。
  グァム・サイパンまで来た。
  1521年に、フィリピンで原住民との戦いで戦死した。
  マゼラン隊は乗組員265人であったが、スペインに戻
 れたのは5隻の内1隻のみで、18人にすぎなかった。
 ~1521年(1522年説あり?)。
1519年、北条早雲が没した(1432年~1519年)
1519年、今川義元が生まれた(1519年~1560年)
1520年、この頃、山口・小田原などの城下町が繁栄した。
  大内氏は、銀鉱山を開発したり、貿易によって富み、
 そして、強くなった。
  また、京都より公家や職人などが来て繁盛した。
1520年、徳政令が出た。
1521年、千利休(せんのりきゅう、商人、茶人)が、堺で
 生まれた(1521年~1591年)、1522年説あり?
  号の由来は、「利心、休せよ」:才能に溺れずに「老
 古錐(使い古した先の丸くなった錐)」の境地を目指せ。
  若年より茶の湯に親しみ、堺の南宋寺に参禅した。
  織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ
 た。豊臣秀吉にも仕えた。
  宮中参内するため居士号「利休」が勅賜された。
  晩年、秀吉から切腹を命じられたとき、前田利家や古
 田織部、細川忠興らの大名の弟子たちが奔走したがかな
 わなかった。
1521年、武田信玄(たけだしんげん、甲斐の守護大名)が
 生まれた(1521年~1573年)
  越後の上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いをした。
  政略上、信長の養女(遠山夫人、母が織田信長の妹)
 を勝頼の正室に迎えている。
  しかし、後に、織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)に
 より、1582年3月、勝頼は天目山で自害し、平安時代か
 ら続く由緒ある甲斐武田氏は、滅亡した。
1521年、フィリピン:マゼランが来航したのが1521年、
 当時のスペイン王子・フェリペにちなんで、フィリピン
 と名付けられた。
1521年、ルターが、ローマ法王のウォルムス勅令によって
 異端者とされた(異端者は、キリスト教会内の異端審問
 所で焚刑になる運命にあった)。
  そして、追放の処分となった。そして
  また、ルターの本は、焚本にして処分せよとされた。
1521年1月3日、キリスト教のローマ教会(バチカン)は、
 ルターに正式な破門状を発布した。
  絶対権力を持つキリスト教ローマ教会のこの処置によ
 って、ルターの法による保護はないという状態へと追放
 された事となった。
1521年4月初旬、マルティン・ルター(1483~1546)は、
 「屋根の瓦ほどたくさんの悪魔がいる」と言った。
  そして、この頃、権力絶大なローマ教会は、ルターに
 『異端宣告』をした。
  その宣告文は、「ルターは自由意志を否定する異教徒
 であり、彼の考えは、騒乱(そうらん)・戦争・殺人・
 キリスト教界の崩壊につながる。
  誰もルターを匿(かくま)うな。いな、またルターに
 従う者も罪に定める。ルターの本も、庶民の記憶から根
 こそぎ葬(ほうむ)り去らねばならない」とキリスト教
 カトリックは怒りまくった。
1521年6月、アステカ帝国滅亡。
  スペインキリスト教徒とキリスト教聖職者たちの蛮行。
  詳細は何も分からない。
1521年12月、ルターが、聖書翻訳を始めた。
  聖書の原典とされたギリシャ語からドイツ語への翻訳
 だった(翻訳でニュアンスが変わる問題がある)。
  イエスは、アラム語で話したので、ラテン語を勉強す
 るよりアラム語を勉強しなければならない。
  ラテン語を重視するキリスト教の語学勉強は間違って
 いる。侵入民族のゲルマン民族のラテン語採用の慣例に
 ならっているだけ。
..
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2015年4月4日土曜日

(増補版)59C1/3:気になった事柄を集めた年表(1499年~1512年)

 題:(増補版)59C1/3:気になった事柄を集めた年表(1499年~1512年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
16世紀、フィリピン:1500年頃まで、小部族が数千の島
 々に居住しているのみで、国家は無かった。
  因みに、フィリピンの名前のある島は約4600、その内、
 人の住む島は2000ほど。約5000の島が無人島。
  ルソン島では、16世紀に、部族を越える組織が出来つ
 つあったが、スペイン人の来襲で挫折する。
  同じく、マゼラン(ポルトガル人)が、この地へ来て、
 フィリピン・マクタン島で戦い、1521年(16世紀)に、
 戦死している。
  スペイン・ポルトガルが、進んだ兵器を持って、世界
 中を荒らしまわり、黄金・宝石などを奪っていた。
  また、インド洋の覇権をイスラムから奪おうと争って
 いた。
16世紀、インカ帝国がスペインによって滅ぼされた。
  インカ帝国:16世紀初頭に、コロンビア・エクアドル
 国境からチリ中部までを領域とする大国家に発展、全国
 を貫通する公道が作られていた進んだ国家だった。首都
 はクスコ。
  経済基盤は、トウモロコシやジャガイモの栽培とラマ、
 アルパカの飼育で、支配地からの徴税品は都や各地の倉
 庫に貯えられた。
  国家宗教の太陽崇拝の他、祖先崇拝も盛んで、代々の
 皇帝のミイラを祀る神殿が建てられた。
  第13代アタワルパが、スペイン人ピサロに殺され、帝
 国は事実上滅んだ。
16世紀、マヤ文明:メキシコ南東部の栄えた文明。
  紀元前3000年からの歴史がある。
  16世紀に、マヤ族は、スペイン人の侵入を受け、
  1697年に、独立を保っていた最後の国・タヤサルが
 陥落した。マヤ圏全域がスぺインの支配下に置かれた。
16世紀初め、マレーシア:16世紀初めに、ポルトガルが
 侵攻した。
16世紀、この頃、朝廷が衰え、公家・帰属が地方へ下った。
1501年、アメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア)が、ポルト
 ガルの要請の第三回航海(第四回とも言われる)で、南
 米大陸の東海岸を、ブラジルから南下し、
  それが、大陸であることを、初めて認めた。
  彼は、「4回の航海」というパンフレットを発表して、
 新大陸だと言った。
  そして、1507年に、ドイツの地理学者・ヴァルトゼー
 ミューラーが、彼の名を冠して、新大陸を「アメリカ大
 陸」と呼んでから、その名が新大陸名として用いられる
 ようになった。
1502年、中国の明から、和泉堺に金魚がもたらされた。
1504年、京都の公家が多く諸国に赴いた。
1505年、ルターが、アウグスティノ修道院に入った。しか
 し、彼は罪悪感に苛(さいな)まれる。
1506年、教皇ユリウス2世は、最盛期のルネッサンスの天
 才たちを集めて、サン・ピエトロ大聖堂の再建を始めた。
  建築家ブラマンテ、画家ラファエロ、彫刻家・画家ミ
 ケランジェロ。
  ラファエロは、彫刻家として入ったミケラ ンジェロの
 足を引っ張るために、彼に絵を描かせるよう教会に進言
 した。
  芸術家の仕事の奪い合いの世界だった(仕事場は資金
 を持つ教会ぐらいしかなかった)。
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルが生まれた。
 ~1552年、46歳。
1506年、雪舟が没した(1420年~1506年)
1507年、ルターが、キリスト教の聖職者の司祭になった。
  彼は、鬱(うつ)傾向にあった・・で、彼は、キリス
 ト教内にある序列(ヒエラルキー)や習慣や富の蓄積に
 ついて批判した。
  例えば、サン・ピエトロ大聖堂の膨大な建設資金を得
 るために、ローマ教皇は、免罪符を盛んに売り出した。
  また、地方のキリスト教会も乱れに乱れ、堕落してい
 た。
  居るべき司祭が居ず、名前だけとなっているのに、集
 められた金を取り上げた。
  また、キリスト教聖職者が、無気力で無能な身内の者
 を、自分さえよければ良いと、キリスト教会内の役職に
 つかせることが横行した(今・現在でも、この様な事は、
 キリスト教内で行なわれている)。
  また、裕福で暇なキリスト教聖職者の肉欲に耽(ふけ)
 る姿が、目にあまる状態だった。
  そしてまた、この様な聖職者の美食に耽る姿も多い状
 態だった。
1507年、新大陸が初めて現わされたヴァルトゼーミュー
 ラー(ドイツの地理学者)の「世界誌入門」が作られた。
  「アメリカ」という名を初めて用いた。
1510年頃、松永久秀(まつながひさひで、武将)が生まれ
 た(1510年頃~1577年)
  後世に(特に、江戸時代に)、人物像が悪く作られて
 いる、例えば、「謀叛癖のある人物」とかと、
  彼は、謀叛を起こしたことはない。
  そういう意味で可哀想な人物。茶人である。
1510年、この頃、小田原など城下町が栄える。
1510年4月、三浦の乱(サンポのらん)。
  朝鮮国慶尚道三浦で起きた。
  対馬守護宗氏と朝鮮に居留している日本人が、反乱を
 起こした。交戦相手は李氏朝鮮。
  日本人居留地の三浦の邦人が、通交していた。
  この通交に対して、次第に制限が加えられていった。
  そして、強硬な姿勢で臨まれ、乱となった。
  対馬の宗盛弘の応援を得て釜山を攻めたが、鎮圧され
 た。
  その結果、三浦の居留地は廃止となり、通交の大幅な
 制限を受けるようになった。
  これは、倭寇に対する、朝鮮側の防備の状況が漏れる
 のを恐れたことと、
  通交が、朝鮮側の利益を産み出していなかったことが
 あった(通交者の滞在費や、交易品の輸送が、朝鮮側の
 負担となっていた。そして、日本の経済発展に伴い交易
 量が増大し、その負担が増となっていた)。
1512年、教皇ユリウス2世は、ミケランジェロに命じて、
 システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描かせ、こ
 の年に完成した(1508年~1512年)。
  ミケランジェロは、天井画制作を命じられたものの、
 自分の本職は画家ではなく、彫刻家であると自認してい
 たので、この仕事には気乗りがしなかった。
  それに加え、当時のミケランジェロは、教皇の墓碑制
 作の仕事に忙しく、数多くの彫像で飾られた彫像制作の
 仕事に追われていた。
  教皇も譲らず、ミケランジェロは、仕事を引き受ける
 以外の選択肢しかなかった。
  この頃、ローマ教皇は、教会の事だけでなく、軍事面
 にも関わっていたので、フランスとの紛争が発生すると、
 天井画よりも戦争の方に向かったので、その隙に、ミケ
 ランジェロはシスティーナのローマから逃亡した。
  その後、戻って来たローマ教皇に、再び、呼び出され
 天井画を命じられ、ミケランジェロは制作を始めた。
1512年~1524年、スペインとフランスが戦争をした。
  この頃、ヨーロッパは、節操なく、同盟したり、手を
 切ったり、ぐちゃぐちゃした戦争を、色々な国を巻き込
 み、戦争ばかりしていた。
  例えば、1508年から1510年に戦った戦争は、教皇領・
 フランス王国・神聖ローマ帝国・スペイン・フェーラ公
 国。相手はヴェネツィア共和国。
  1510年から1511年の戦争は、教皇領・ヴェネツィア
 共和国。相手はフランス王国・フェラーラ公国。
  1511年から1513年の戦争は、教皇領・ヴェネツィア
 共和国・スペイン・神聖ローマ帝国・イングランド王国。
 相手はフランス王国・フェラーラ公国。
  1513年から1516年の戦争は、教皇領・スペイン・神
 聖ローマ帝国・イングランド王国・ミラノ公国。相手は
 ヴェネツィア共和国・フランス王国・フェラーラ公国・
 スコットランド王国。
  軽蔑するような戦争が、入り乱れて、続いていた。
..
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2015年4月3日金曜日

(増補版)58C1/3:気になった事柄を集めた年表(1494年~1499年)

 題:(増補版)58C1/3:気になった事柄を集めた年表(1494年~1499年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1494年、イタリア戦争が起きた。
  ハプスブルグ家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロ
 ワ家(フランス)がイタリアを巡って行った戦争。
  戦争の期間は、1494年から1559年としているが諸説が
 ある。
  イタリアの領土の取り合いが、愚かにも、65年も続いた。
1494年、斎藤道三(さいとうどうさん、美濃の戦国大名)
 が生まれた(1494年~1556年)、
  北条早雲と並ぶ下剋上大名の典型。
  正室は、明智光秀の叔母・小見の方。
  「美濃の蝮」の異名を持つ。
  新資料の発見により、従来の道三の一代の「国盗り物語」
 ではなくて、新左衛門尉と道三の二代に渡る可能性が高い
 とされている。
1495年2月、北条早雲(ほうじょうそううん)が小田原城
 を落とした。
  前領主(茶々丸)の悪政に苦しんでいた小領主や領民が、
 早雲に従ったのも味方した。
  重かった税を四公六民にしたら、民は歓喜して喜んだと
 いう。
  優れた民政で領民たちの英雄となって行くと解説する記
 事もある。
  この小田原城攻めの時に、早雲は、千頭の牛の角に松明
 を灯して大軍に見せたという。
1496年、日野富子(ひのとみこ)が没した(1440年~
 1496年)
1497年、毛利元就(もうりもとなり、安芸・現在の広島県
 の戦国大名)が生まれた(1497年~1571年)
  中国地方の覇者、子孫は長州藩の藩主となる。
  安倍晋三首相が言われる三本の矢の話は、この元就の話
 ・・死ぬ間際の元就が、3人の息子を枕元に呼び寄せて教
 訓を教えたという逸話・・
  元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次
 は、さらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も
 3本の矢束を折ることが出来なかったことから、1本では
 脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を
 強く訴えかけたという。
1497年7月8日、ポルトガルとスペインが、トルデシリャス
 条約で決めた事で、地球の東回りと西回りで奪い合いを始
 めた。
  その一つの行動であるのがこれで、この年に、ヴァス
 コ・ダ・ガマが、ポルトガルのリスボンから出港した。
1497年11月22日、ヴァスコ・ダ・ガマが、この日に、喜望
 峰を通過した。
  そして、新しい航路を発見した、そして、インド洋を
 渡り、インドへ向かった。
1498年5月21日、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに達し、イ
 ンドの地のカレクト王国へ使者を派遣した。
  ヴァスコ・ダ・ガマは、5月28日に、13人の部下を連れ
 て上陸した。
  出迎えと共に、一行は宮殿に向かった。
  そして、途中ヒンズー寺院に立ち寄っている。
  そして、宮殿で謁見したヴァスコ・ダ・ガマは、カレク
 ト国王に親書を渡し、目的の一つを達成した。
  この様にして、インド西南のカリカット(現コージコー
 ド)に到達した。
  カリカットの豊かさに驚嘆し、豊かな商業活動をしてい
 るのがイスラム教徒という事に強い印象を受けた。
  キリスト教徒である彼らは、ローマ法王の認可だと称し
 て、異国に住む人々の文化も富も領土も海域も、全部が
 自分のものだと勝手に決めていた。(ローマ教皇がその
 様に言っているから悪いのだが)、キリスト教の教義・
 教えからくる迷妄を信じていた。
  これがトラブルの元となった。
  そして、この拠点から東海域の諸国を我がものだと、
 手に入れて行った。
  この様な中、キリスト教の宣教師・ザビエルが、先兵
 の役も帯びて、1549年に日本に来た。
1499年、イタリアのアメリゴ・ヴェスプッチが、南米海岸
 ベネズエラを探検した、ブラジル北岸までの探検を行なっ
 た(第二回航海)。
1499年7月10日、ヴァスコ・ダ・ガマが、インドへの航路
 を発見して、この日、ポルトガルのリスボンへ帰着した。
  このインドへの航路発見以来、莫大に利益ある東方貿
 易は、100年の間、ポルトガルの独占であった。
  また、ポルトガルは、キリスト教カトリックの精神的
 君主のローマ法王から、東洋に対する政治的・経済的・
 宗教的な絶対優位権を与えられていた。
  また、ポルトガルは、他国がこの独占権を脅かす場合は、
 武力を以ってこれを排除し、倒すだけの海軍力を持ってい
 た。
  ここに立ちふさがったのが・・イギリスだった。
  イギリスは、エリザベス女王の時代にカトリック教を
 捨てた。
  新教(プロテスタント、イギリス国教会)となっていた。
  ローマ法王の頸木(くびき、自由を束縛するもの)から
 自由になっていた。
  ローマ法王に遠慮する必要がなくなった上に、海軍力も
 強大になっていた。
  ポルトガルに対抗する力がついていたのである。
16世紀、イギリスの海賊行為が盛んに行われた。
  イギリスのエリザベス女王が誇らしげに、「イギリスは
 ヴァイキング(海賊)の国だ」と言った。
  イギリスのヴァイキング(海賊)は、15世紀頃から、
 その悪行為の話は音に聞こえ、16世紀には、ますます盛
 んになった。
  その略奪の相手は、ポルトガルやスペインの船であった。
  その為、「海賊行為は愛国行為だ」と言われた。
  イギリスの海賊船は、数門の大砲を持ち、東洋貿易の
 貨物を満載したポルトガル船や、アメリカ大陸からインデ
 ィオを騙(だま)し、殺戮して手に入れた金銀を満載した
 スペイン船を略奪する事を公然と商売とした。
  イギリスはほくほくだった。
  実際、ジョン・ホーキンスと言うイギリスのプリマス
 生まれの航海士は、アメリカへの第一回の航海だけで、
 一躍、プリマス一の第一の大富豪となった。
  二回目の航海で、イギリス第一の大富豪と言われるくら
 いだった。
  フランシス・ドレークも、1577年に、イギリスを出港
 したが、世界を一周して、1580年に、イギリスに帰った
 時に、約2億フランの価の貨物を手に入れていたという。
  エリザベス女王も、ドレークから分け前をもらって、
 大いに喜んでいたという。
  この話が、スペインに伝わると、スペイン王は非常に
 憤慨して、ロンドンの駐在スペイン公使に厳重なる抗議
 をさせた。
  すると、エリザベス女王は、スペイン公使をドレークの
 船の甲板に連れて行って、厳然としてドレークに向かい、
 「スペイン人は汝を海賊だと申すぞ」と叱りつけ、それ
 から甲板の上に彼をひざまずかせ、悠然とナイトの爵位
 を賜るときの接吻を彼に与えて、「いざ立て、サー・フ
 ランシスコよ」と言った。
  エリザベス女王は、海賊である平民フランシスをサー・
 フランシスコに取り立てた。
16世紀、奴隷貿易:大航海時代以降、アフリカの黒人の方々
 を、アメリカ新大陸の植民地経営用に奴隷として売却した
 貿易。
  16世紀から19世紀まで続いた。
  16世紀より本格化し、ヨーロッパから銃器や織物など
 をアフリカ西岸に運び、交換して黒人奴隷を奴隷船で新
 大陸へ送り込み、砂糖や綿花を持ち帰るという三角貿易
 の一辺をなした。
  これにより、蓄積された富は、ヨーロッパの産業革命
 を推し進める原動力となった。
  また、街を潤した。
  他方、アフリカは、航海途上の死者も含め、青年層や
 壮年層の約6000万人の損失により、正常な社会経済発展
 が阻害された。
  この略奪的な奴隷貿易は、国際世論の反発があったが、
 経済的要因などもからみ、非人道的な遅れた意識の本行
 為を、19世紀まで延々と行った。
..
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2015年4月2日木曜日

(増補版)57C1/3:気になった事柄を集めた年表(1486年~1494年)

 題:(増補版)57C1/3:気になった事柄を集めた年表(1486年~1494年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1488年、一向一揆が加賀・能登・越中に起こり、守護の富
 樫政親(とがしまさちか)を滅ぼした。
  富樫正親は、加賀を追われ、越前国へ逃れ、そして、
 北陸で布教をされていた蓮如の下に身を隠している(
 1472年)。
  朝倉敏景も、富樫正親を擁護するようになった(1471
 年頃)、この頃、朝倉俊景は浄土宗本願寺派との結びつ
 きがあった。
  蓮如は、戦いが起きないように動いていた(蓮如の吉
 崎退却など)。
  加賀は、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。
  1580年に、織田信長が支配するまでの、90年間続いた。
1488年5月、バーソロミュー・ディアス(ポルトガル、航
 海者)が喜望峰を発見した。
  ポルトガル国王は、1486年に、アジアへの交易路を確
 立するため、アフリカ周回航路の遠征隊長に、ディアス
 を任命し、リスボンを、1487年に、出航していた。
  「喜望峰」と名付けたのは、ディアスが帰国した時、
 喜んだ国王が名付けた。
  ディアスは、苦難の航程から「嵐の岬」と報告してい
 たが・・。
  ヴァスコ・ダ・ガマの、1497年の航海の時は、彼は
 水先案内人として同乗している。
  海難事故で、1500年に、死す。
1489年、近江今堀地下掟(おうみいまぼりじげおきて、
 20ヶ条の村掟)に、犬を飼う事の禁止条項がある。
  その他に、森林伐採の禁止、家を他領に売ることの禁
 止、身請け人の居ない他村人の滞留の禁止などがある。
1489年、足利義政が銀閣寺を建てた(下層は書院造り、上
 層は唐様)、1483年か?この頃、東山文化が栄えた。
1490年、足利義政が没した(1436年~1490年)
1490年、レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア)が湿度計・
 風力計を発明し、空の色について論じた。
1490年頃(15世紀末)、魔女によって殺される女性が多く、
 この頃、最盛期の様子となる。
  この状態は、18世紀の末まで(300年以上)、長く続
 くことになる。陰湿なキリスト教。
  主に、キリスト教のカトリックが行ったが、プロテス
 タントも行い、キリスト教のすべてが行った大悪行の一つ。
1491年、キリスト教徒のイグナデウス・デ・ロヨラが、
 生まれた(1491年~1556年)、スペイン、バスク地方。
  初めは軍人だった。後に、イエズス会を作った。
  イエズス会は、非常に戦闘的な会で、国王の尖兵とし
 て世界のあちこちで、原住民の方々の殺戮を繰り返した。
  インカ帝国を全滅し、滅亡させたのもこの会。
  日本に来たキリスト教宣教師・ザビエルらもこの会。
  本部へ、日本の領土を奪う事は困難だと報告している。
  秀吉は、領土的野心は持たない様にと書状を送ってい
 る。
  ロヨラは、キリスト教枢機卿より「ヒツジの皮を着て
 いる狼だ」と迫害された。
1491年、伊勢長氏(北条早雲)が伊豆を占領した。
  早雲が、小田原城を攻略して、関東進出の第一歩を印
 したのは1495年9月だった。
1492年、最古の地球儀、マルティン・べハイム(ポルトガ
 ル王に仕えたドイツ人の天地学者、地理学者)の地球儀
 が作られた。
  この地球儀での日本は、地形があやふやで、位置も、
 現在のメキシコあたりの置かれていた。
  しかし、アメリカ大陸発見前に作られたというところ
 に意義がある。
  ポルトガル王は、これによって地球は丸いことを教え
 られている。
1492年、キリスト教徒が、イスラム教徒と戦い、イベリア
 半島(スペインの地)を再び奪った。
1492年、コロンブスがアメリカを発見した(西インド諸島・
 サンサルバドル・キューバ)
  やはり、インディオスの黄金のありかを血眼(ちまな
 こ)になって捜した。
  後の大殺戮時と同じく強欲な人だった。
  また、このコロンブスの航海は、初めて大西洋を渡っ
 たように言われているが、間違いである。
  すでに、10世紀の頃、ヴァイキングが、大西洋を横切
 って北米大陸に到達していた。
  因みに、コロンブスは、奴隷の売り買いをする奴隷商
 人だった。
  また、彼は、ユダヤ人であるが、当時、キリスト教が
 ユダヤ人を弾圧し、ユダヤ人を探し回っては捕まえ、キ
 リスト教裁判所・異端審問所で有罪判決をして、盛んに
 ユダヤ人の方々を焚刑で殺していた。
  その為に、ユダヤ人の方々は、世界中を逃げ回った。
  このコロンブスの船にも、そのキリスト教からの追手
 を逃れるために乗り込んだユダヤ人の方々が多く居た。
  因みに、コロンブスもユダヤの血の流れている人。
1493年、この年に、コロンブス一行も本性を現わす。
  コロンブスは、この年に、ジャマイカ・オリノコ河口・
 ホンジュラス・トリニダッドなどを発見している、~
 1504年、第二・第三・第四航海。
  最初は、上陸した島で、現地のインディアスの方々か
 ら歓待を受けていたコロンブスたちだったが、
  コロンブスたちも、水や食料を贈って貰ったりしたが、
  コロンブスの興味は、やはり、黄金にしかなかった。
  また、コロンブスは、インディアスの方々を見て、「
 素晴らしい身体だ、彼らは素晴らしい奴隷になるだろう」
 とも書き残している。
  そしてまた、「50人の男たちと共に、私は彼らすべて
 を征服し、思うままに何でもさせる事が出来た」とも書
 いている。
  コロンブスは、この島で略奪し、
  翌年にも、コロンブスは、インディアスから強奪を働
 き、金銀宝石、真珠などを手に入れ、
  陸地を見つけたと王に言っては賞金をせしめている。
  そして、2回目の航海をし、前回、作った植民地に行
 くと、インディアスが破壊しており、インディアスへの
 怒りが湧く、
  そして、インディアスの方々に対して徹底的な虐殺を
 行った。
  やはり、インカを全滅させたスペインのキリスト教徒
 とキリスト教聖職者たちと、同じことをやった。
  これから、コロンブスたちは、行く先々で無差別の殺
 戮を繰り返した。
  そして、さらに狂暴性が増し、窃盗、殺人、強姦、放
 火、拷問とやりたい放題をした。
  そして、やはり黄金の在処(ありか)を白状させよう
 とした。
  コロンブスは軍隊と共に、やりたい放題の大虐殺を続
 けた。
  コロンブスは、最少でも、5万人のインディアスの方々
 を殺していると報告されている。
  コロンブスの仕事は、彼の軍隊と組織的に略奪する事
 だった・・と。
  コロンブスは、1495年3月、数百人の装甲兵と騎兵隊、
 そして、訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。
  再び、殺戮の船旅に出たコロンブスは、インディアス
 の方々の村々を徹底的に、またまた、攻撃し、虐殺した。
  コロンブスの襲撃は、以後、10年間続いた。
  これは、1000万人ものインディアスの方々を虐殺した
 スペイン・キリスト教徒とキリスト教聖職者たちの殺戮
 のモデルとなった。
  コロンブスのやり方が、以下の様に記述されている・・、
  「見つけたら追いまくり、柵囲いの中のヒツジの様に
 情け容赦なく彼らを虐殺した」・・と、
  そして、キリスト教聖職者は書く、「インディアスに
 対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金
 輪際思わせないよう、それを防ぐ方法になるでしょう」
 ・・と。
  まったく、血も涙もないキリスト教聖職者だった。
  まだまだ、悲惨な記述は続くが・・略す。
  子供たちの本に「コロンブスは偉人だ」として、偉人
 伝として出版されているが、偉人でも全くない。
  また、特に、キリスト教系出版社の美しく嘘記述した
 本があるが、まったく嘘のデッチアゲだ。
  コロンブスは、捕らえたインディアスの方々を、奴隷
 として本国へ送った。
  (キリスト教の聖書に、「奴隷にせよ」「奴隷にせよ」
 とキリスト教の神が叫ぶが、その通りの行動だった)。
  大西洋上で、スペイン人殺戮者が、インディアスから
 奪った、獲った黄金を横取りしたのがイギリス人。
  この黄金で、ヨーロッパは潤って、宮殿や、キリスト
 教会などが絢爛豪華になった。
  コロンブスを葬ったキリスト教会は、墓碑に「輝く、
 有名な紳士」と刻んだ。
  馬鹿めと言いたい。
  発見者がコロンブスではなく、「アメリゴ・ヴェスプ
 ッチ」の名が地図に書かれたのもここに理由があった。
  また、キリスト教聖書が『地球は平らだ』と思わせた
 罪は大きくここに存在している。
  地球は丸いと思ったという功績より、キリスト教にあ
 る「悪いマインドコントロール」に大罪がある。
  すべてが、このキリスト教の遅れた認識にあり、始ま
 っている。
  アメリカに、800万人いたインディアンの方たちも、
 今、200万人強に激減している。
  アメリカ人もインディアンの方々を殺しまくったが、
 アメリカはコロンブス・デーとして祝っている。卑劣な
 事である。
1494年6月7日、ポルトガルとスペインとの間で、キリス
 ト教ローマ法王が介在して『トルデシリャス条約」が結
 ばれた。
  大西洋を東西に分け、領有するという条約。
  キリスト教が絡む、まことに勝手な条約。
  何でもかんでも見つけたら俺のものという記述がある。
  実は、この南北の勝手に決められたラインは、グリー
 ンランドを越えて、地球の裏側まで伸び、日本の北海道
 の東あたりを越えて伸びている、当時の地図は、不正確
 であるが・・。
  そして、目指したインドが我々の領有するインドだと
 「東インド」と称した。
  「西インド」ならスペインのものという事。
..
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2015年4月1日水曜日

(増補版)56B:気になった事柄を集めた年表(1456年~1486年)

 題:(増補版)56B:気になった事柄を集めた年表(1456年~1486年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1460年代~1499年、一向宗(浄土真宗)の蓮如(れんにょ
 )が活躍する。蓮如は1499年に没した。
1467年、応仁の乱が起こった。~1477年まで続いた。
  足利義政の時、細川勝元と山名宗全らの守護大名が、
 東西に分かれて京都で戦ったが、後に、全国へ広まった。
  西軍:山名宗全、畠山義就、斯波義兼、足利義尚、総
 勢12万人。
  東軍:細川勝元、畠山政長、斯波義敏、足利義視、総
 勢16万人。
  足利義視は、伊勢へ逃れ、翌年、叡山に走った。また、
 公家や僧侶が戦乱を逃れて地方へ下って行った。
  室町時代には、農民は、荘園の枠を超えて、地縁的に
 結合していった。
  有力名主は、作人・下人を使役して力を蓄え、作人・
 下人も、名主へ成長する者が現れるなど、階層分化が進
 んだ。
  百姓請も行われるようになり、惣的結合が進んだ。
  地頭・荘官は、守護の被官となって、領地の安堵を受
 け、守護との間に主従関係が生じ、地頭請に代わって守
 護請が盛んとなった。
  この様にして、公領も荘園も守護に併呑され、守護は、
 その領国のすべての土地・人民に領主権を及ぼすように
 なった。
  やがて、守護は、大名化し、守護大名となって行った。
  この様にして、荘園は弱まり、その後の太閤検地によ
 り、大名知行制の基礎が確立するにともない、荘園は名
 実ともに消滅した。
1469年頃、ヴァスコ・ダ・ガマが生まれた(1469年頃~
 1524年)
  ポルトガルの航海者。インドのゴアにて没する。
  インドへの航路をヨーロッパ人として初めて発見した。
1470年頃、この頃、日明貿易により、明より銅銭が多く輸
 入された。
  倭寇と区別するため、正式な遣明使船であることが確
 認できるよう勘合(勘合符)を使用した。
  博多や堺などの有力商人も同乗し、明政府によっての
 買い上げや、明政府が許可した商人との間で私貿易が行
 われた。
  室町幕府の将軍が、明の皇帝から日本国王として冊封
 を受ける形であったため、
  足利義満は、名分を捨て実利と取ったが、
  後に、この点が問題となり、義満の死後、4代将軍・足
 利義持の時は、貿易を一時停止した。
  義教の時に復活する。
  その後に、倭寇による密貿易が中心となった。
1473年、細川勝元が没した(1430年~1473年)
1474年、特許制度が始まった(世界最古の成文特許法が公
 布された)。
  東西貿易の拠点にあったヴェネチアの特許制度が始ま
 った。
  技術・工芸の創作者に、10年間の独占権を与え厚く保
 護した。
  10年間は、当時の徒弟制度における技術取得の為の年
 限と一致する。
  ヴェネチアは、オリエント諸国に伝わる技術の粋が特
 許制度によって吸い寄せられ、驚異的な発展を成し遂げた。
1477年、応仁の乱が終わった。
  数十万の武士が都に集結し、11年間、戦いを続けたが、
 勝敗がつかない和睦で決着した。
  悲惨な戦闘が繰り返されたという訳でもなかった。
  戦いが広がったのも、し烈な戦いという意味ではなく、
 後方攪乱的な広がりだった。
  将軍の権威は失墜し、公家が没落した。
  荘園制度の崩壊が加速した。京都を去る公家も現れた。
  京都の町の大半が消失したが、疎開先は、京都周辺及
 び周辺都市の山科、宇治、大津、奈良、堺であった。
  この乱の後、疫病が発生した。
  諸将の多くが国に帰った。
  戦国時代が始まった。
1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ・
 コンポステラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の価
 値があると言ってから、この地への巡礼が増えた。
1479年、スペインとポルトガルの間で、アルカソヴァス条
 約が結ばれた。
  ポルトガルに遅れたスペインは、アフリカ西岸の島々
 の奪取を画策し、ポルトガルと戦争となった。
  そして、この年、条約を結んだ。
  カナリア諸島だけが、スペインのものとなった。
  そして、それ以外の広大なアフリカの地域・海域の特
 権は、ポルトガルのものだという改めての確認(境界画
 定・デマルカシオン)がなされた。
  愚かな事に、今・現代でも、この状態となっている。
  また、このコロンブス登場以前のポルトガルの関心は、
 アフリカ西海岸に向けられていた。
1480年、タタールのダヤン・ハーン(~1524年)、モン
 ゴルの再統一。
  トゴン・テムルが、1368年に、中国・大都(今の北京)
 から、モンゴル高原に撤退して、後のモンゴル帝国(北
 元・ほくげん)となったが、この国について、漢文資料
 では韃靼(だったん)と呼び、日本ではタタールという
 名称も用いられている。
  そして、この撤退後、クビライの血を受け継ぐ皇帝が
 殺害され、皇統は断絶したが・・、
  そして、皇帝の後継を名乗る大ハーンが立った。
  チンギス・カンの末裔として、ハーンなる資格を唯一
 有する家系とみなされるボルジギン氏にバト・モンケは
 生まれた。
  チンギス・カンの子孫の生き残りとして、1480年に、
 バト・モンケは結婚し、
  1487年に、バト・モンケは、ダヤン・ハーンと称し、
 これは元朝再興を目指す意思を表すとされ、
  1488年に、大軍を率いて中国北辺を侵した。
  1510年に、オイラトを屈服させ、モンゴル繁栄となっ
 た(モンゴル再統一)。
  1524年に、ダヤン・ハーンは死去する。
1481年、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、僧)が没した
 (1394年~1481年)
  天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われた。
  墓は、宮内庁が、御廟所として管理している陵墓とな
 っている。一般の立ち入りは出来ない。
1483年、東山山荘(銀閣、慈照寺)が、第8代将軍・足利
 義政によって、京都郊外に建てられた。
  能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が
 花開いた東山文化。
  この文化は、次第に庶民にも浸透し、日本的な文化と
 心を生み出した。
  地方へ帰る、また、地方へ逃れる人たちによって、地
 方へ伝播した。
  幽玄、わび・さびの美意識の世界。
1483年11月10日、ルター(マルティン・ルター)が生ま
 れた。
  キリスト教のカトリックの堕落に抗議し、目を覚まさ
 せた人。
  「異議を申し立てる事」や、「抗議」の語意のあるプ
 ロテストの言葉から、プロテスタント(反抗する者、抗
 議者)の意味を持つ組織が生まれた。
  この宗教改革を行った人。
  それまでのキリスト教の悪どい財政的収奪や聖職売買
 に抗議した。
1484年、ローマ法皇のインノケンティウス8世が、回勅(
 指令)で、魔女の逮捕と裁判をキリスト教裁判所の異端
 審問として行うことを正当だとした。
1485年12月、山城の国一揆が起こり、自治を行った(~
 1492年)
  映画の「7人の侍」の様に、地侍(じざむらい)・名
 主(みょうしゅ)を中心に、農民や国衆(15歳から60歳
 の人々)が、一致団結して起こした一揆。
  土地を荒らす戦争をする武士たちへ、抗議し、交渉す
 る事を集会で決議し、毅然たる態度で交渉を行い、軍を
 退陣させ、結果は成功した。
  8年間に渡り、守護による支配を排除し、自治を打ち立
 てた。
  まったく民主的な、民の声を聞く耳を持った誇るべき
 歴史的事実。
1485年、この頃の室町幕府の規定、声聞師・河原者に棟別
 銭(家屋の棟数別に課された税)を免除した。
1485年、ポルトガル人が西アフリカのギニア湾にあるガボ
 ン共和国のガボン川を発見した(ポルトガルの版図拡大
 行動)。
1486年冬、江戸城の乱、江戸城は上杉氏の所有となる。
  太田道灌が死んだ。詳細は不明の事件。
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2015年3月30日月曜日

(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年~1456年)

 題:(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年~1456年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1432年、太田道灌(おおたどうかん、武将、武蔵守護代の
 家老的重職の人)が生まれた(1432年~1486年)、
  主君のために武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、
 埼玉郡の岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区、新資料発見
 で?になる)を築き、
  また、有名な江戸城も築城した(1456年頃)
1432年、北条早雲(ほうじょうそううん、武将、戦国大名
 の後北条の祖)が生まれた(1432年または1456年~
 1519年)、生まれ育ちに不明な部分が多い人。
  名前も多く持っている。
  主君は、足利義政→義尚→義澄→今川氏親。
  日本の氏族で桓武平氏の平惟衡(らいらのこれひら)
 の氏族である伊勢氏(政所執事を世襲した家柄)から、
 後北条の祖となった。
  小説には、「伊勢の素浪人が、妹が守護の妾となって
 いたのを頼りに駿河へ下って身を興した」と記されてい
 るが、出自に関する論は多くある。
  「氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名
 門の出であった」という論もある。
1435年2月、悲田院で処刑が行われた。
  衆徒を統制する役目を持つ山門使節(さんもんしせつ)
 が、将軍の命によって3名が処刑された。
  日本は、ヨーロッパと違って処刑はほとんどなかった。
  空が曇るほどの焚刑をしたヨーロッパ。
  全滅する村もあったほどというヨーロッパ。
  キリスト教の扇動で、好きに人を殺していた国々と違
 い、日本は3名の処刑が記録に残る国、
  昔から、人の命を大切に思って来た国。
1436年1月2日、足利義政(あしかがよしまさ、第8代将軍)
 が生まれた(1436年~1490年)、
  正室が日野富子。
  東山文化を築いた。
  将軍在位(1449年~1473年)、
  将軍になった当初、義政は、3代将軍の祖父の義満の政
 治を理想として、その復活を積極的に試みた。
  国内の紛争に対しても、追討令を発し、積極介入し、
 事を収めようとしたり、
  将軍の持つ組織の充実を計ったり、
  守護大名の勢力にも対抗して、政治をしっかり確立し
 ようとした。
  だが・・?
  正室を含む義政の周りの人たちが・・関わりを持って
 来る。
  その様な事件も、何度も起きる。
  1例で・・、配下であるべき守護大名の家督相続の紛糾
 も、義政の意が通らなくなって来た、
  また、威が通らなくなって来た。
  守護大名の力がついて来たとも言える。
  足利の時代から戦国の時代への過渡期の中に、義政は
 居た。・・(中略)・・、
  そして、義政は・・、
  東山文化の中に住む、数寄の人となって行った。
  政治は、正室・富子と側近が行なった。
1440年、義政の正室となる、日野富子が生まれた(1440年
 ~1496年)
1441年、嘉吉(かきつ)の乱が起きた。
  室町幕府の第6代将軍・足利義教が、播磨・備前・美作
 の守護大名である赤松満祐に暗殺された事件。
  そして、幕府の討伐軍は領国の播磨で討ち果たした。
 ついで満祐らは自殺した。
  将軍と守護大名の軋轢があり、その中で、満祐は、四
 職家の一つとして幕府政治の重きをなしていた・・が、
  将軍の地位の強化を企画し、強化したい義教は、その
 成行きの中で、一色義貫・世保持頼の重臣を殺した。
  そして、満祐をも圧迫した。
  また、彼の一族である赤松貞村を重く見て、満祐の所
 領を、貞村に与えたりした。
  この様な事から、満祐は、他の守護大名の様に、守護
 大名の勢力を割くために、自分もまた殺されると疑った。
  そして、この年・1441年に、「結城合戦・戦勝祝賀」
 のためと称して、義教を京都の自邸に招いた。そして、
 暗殺を実行した。
  満祐は、本領の播磨に逃れたが、彼と対立していた山
 名持豊以下の幕軍に攻められて、敗死した。
  赤松氏は一旦滅亡となった。
  また、この事件は、永享の乱と共に、室町幕府の没落
 を早める契機となった。
1442年5月、朝鮮において、雨量計による雨量観測が開始
 された。
  都・ソウルと各道の郡県に配置し観測した。
  朝鮮第4代王の世宗王が、1441年に雨量計を開発して
 いた。
1443年、世阿弥(ぜあみ、大和猿楽結崎座の猿楽師)が没
 した(1363年?~1443年?)、
  父も大和猿楽の有力な役者だった。
  当時、寺が猿楽を保護していた。
  京都へも進出して行った。
  父の観阿弥が、1374年頃、今熊野で、12歳の世阿弥と
 共に、猿楽能を演じていた時、
  将軍の義満の目にとまった。
  以後、義満は、保護するようになった。
  義満の催す祇園会などに出る事にもなる。
  当時の貴族・武家社会には、この様な気風を貴ぶ気心
 があった。
  世阿弥は、能力を発揮し、観客の機微を悟り、処々を
 改善し、大成させて行った。
  教養のある品格も付け、厚みも増して行った。
  人脈も広がり、摂政の二条良基には連歌を習い、世阿
 弥の能や能芸論にも反映されて行った。
  深みも増して行った。
  しかし、一転して、弾圧が加えられる。
  世阿弥は、1434年に、佐渡へ流刑にされている。
  そして、どこで没したかは、本当は不明。
1449年、足利義政が第8代将軍となった。
1450年、ハングル:朝鮮文字。
  15世紀中葉、李朝第4代の国王・世宗の時代に創案さ
 れ、「訓民正音」の名で交付された。
  アルファベットと同じ音素文字で、子音字と母音字を
 組み合わせて音節文字をつくり、これを並べて単語を表
 記する。
  当時の音声学の知識を総動員して作った極めて合理的
 な文字と言われている。
  正字である漢字に対し、諺文と卑称して、一般の民衆
 や女性の間でしか用いられていなかった。
  19世紀末に国字として公文書に使われるようになり、
 日本の日韓併合期に、文盲率を改善する目的で教育改革
 策に採用し、埋もれていたハングルを奨励して、「大い
 なる文字」を意味するハングルという呼称も生まれた。
1450年、キリスト教のローマ法王の思い上がり行為。
  世界がさも自分のもののような「思い上がりの悪の行
 為」をした。
  この年、キリスト教ローマ法王は、ポルトガル(国王)
 に、アフリカ西海岸の国・ギニアを越えて、アフリカの
 南端に至る陸地の『征服する権利』を与えた。
  そして、それは「永久だ」とまで言った。
  また、後に、「インドに至るまでを与える」とまで言
 った。
  「ローマ教皇の大勅書」というもので権威を付けて与
 えた。
  これを『デマルカシオン(境界画定)』と言った。
  『他人の土地を征服してよい』と、宗教をかさに着て
 言う極悪行為だった。
1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチが、フローレ
 ンス共和国の小さな村(ヴィンチ)に生まれた(1452・
 4・15~1519・5・2)、
  多能の人:絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工
 学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など、
  はじめ、幼少の時、画家の所へ弟子入りしている、モ
 ナ・リザは有名、
  しかし、現存する彼の絵画は15点という。
  完全主義の彼は、気に入らない自分の作品を破棄した
 という事と、
  長い間に渡って作品を完成させる、その間に、何度も
 手を加えるという手法であったから・・。
  また、彼の絵画以外の能力の発露の、科学的創造性は、
 重要な発見などがあったが、公表されなかったため、後
 世の科学技術の発展に、直接の影響は与えなかった・・
 と言われている。
  フランス王に保護され、晩年は、下賜されたフランス
 の邸宅で過ごした。
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。
  植民地収奪で潤った金が入った。
1453年、ビザンチン帝国の滅亡。
  東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、オ
 スマン=トルコの攻撃で陥落した。
  ビザンティン帝国の滅亡である。
  これによって、多くの学者やキリスト教聖職者が、ロ
 ーマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の勃興に
 大きな力になった。
1456年、東京が開都した。
  太田道灌が、この年に、江戸築城を開始し、1457年に
 完成したとされている。
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