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2015年4月4日土曜日

(増補版)59C1/3:気になった事柄を集めた年表(1499年~1512年)

 題:(増補版)59C1/3:気になった事柄を集めた年表(1499年~1512年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
16世紀、フィリピン:1500年頃まで、小部族が数千の島
 々に居住しているのみで、国家は無かった。
  因みに、フィリピンの名前のある島は約4600、その内、
 人の住む島は2000ほど。約5000の島が無人島。
  ルソン島では、16世紀に、部族を越える組織が出来つ
 つあったが、スペイン人の来襲で挫折する。
  同じく、マゼラン(ポルトガル人)が、この地へ来て、
 フィリピン・マクタン島で戦い、1521年(16世紀)に、
 戦死している。
  スペイン・ポルトガルが、進んだ兵器を持って、世界
 中を荒らしまわり、黄金・宝石などを奪っていた。
  また、インド洋の覇権をイスラムから奪おうと争って
 いた。
16世紀、インカ帝国がスペインによって滅ぼされた。
  インカ帝国:16世紀初頭に、コロンビア・エクアドル
 国境からチリ中部までを領域とする大国家に発展、全国
 を貫通する公道が作られていた進んだ国家だった。首都
 はクスコ。
  経済基盤は、トウモロコシやジャガイモの栽培とラマ、
 アルパカの飼育で、支配地からの徴税品は都や各地の倉
 庫に貯えられた。
  国家宗教の太陽崇拝の他、祖先崇拝も盛んで、代々の
 皇帝のミイラを祀る神殿が建てられた。
  第13代アタワルパが、スペイン人ピサロに殺され、帝
 国は事実上滅んだ。
16世紀、マヤ文明:メキシコ南東部の栄えた文明。
  紀元前3000年からの歴史がある。
  16世紀に、マヤ族は、スペイン人の侵入を受け、
  1697年に、独立を保っていた最後の国・タヤサルが
 陥落した。マヤ圏全域がスぺインの支配下に置かれた。
16世紀初め、マレーシア:16世紀初めに、ポルトガルが
 侵攻した。
16世紀、この頃、朝廷が衰え、公家・帰属が地方へ下った。
1501年、アメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア)が、ポルト
 ガルの要請の第三回航海(第四回とも言われる)で、南
 米大陸の東海岸を、ブラジルから南下し、
  それが、大陸であることを、初めて認めた。
  彼は、「4回の航海」というパンフレットを発表して、
 新大陸だと言った。
  そして、1507年に、ドイツの地理学者・ヴァルトゼー
 ミューラーが、彼の名を冠して、新大陸を「アメリカ大
 陸」と呼んでから、その名が新大陸名として用いられる
 ようになった。
1502年、中国の明から、和泉堺に金魚がもたらされた。
1504年、京都の公家が多く諸国に赴いた。
1505年、ルターが、アウグスティノ修道院に入った。しか
 し、彼は罪悪感に苛(さいな)まれる。
1506年、教皇ユリウス2世は、最盛期のルネッサンスの天
 才たちを集めて、サン・ピエトロ大聖堂の再建を始めた。
  建築家ブラマンテ、画家ラファエロ、彫刻家・画家ミ
 ケランジェロ。
  ラファエロは、彫刻家として入ったミケラ ンジェロの
 足を引っ張るために、彼に絵を描かせるよう教会に進言
 した。
  芸術家の仕事の奪い合いの世界だった(仕事場は資金
 を持つ教会ぐらいしかなかった)。
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルが生まれた。
 ~1552年、46歳。
1506年、雪舟が没した(1420年~1506年)
1507年、ルターが、キリスト教の聖職者の司祭になった。
  彼は、鬱(うつ)傾向にあった・・で、彼は、キリス
 ト教内にある序列(ヒエラルキー)や習慣や富の蓄積に
 ついて批判した。
  例えば、サン・ピエトロ大聖堂の膨大な建設資金を得
 るために、ローマ教皇は、免罪符を盛んに売り出した。
  また、地方のキリスト教会も乱れに乱れ、堕落してい
 た。
  居るべき司祭が居ず、名前だけとなっているのに、集
 められた金を取り上げた。
  また、キリスト教聖職者が、無気力で無能な身内の者
 を、自分さえよければ良いと、キリスト教会内の役職に
 つかせることが横行した(今・現在でも、この様な事は、
 キリスト教内で行なわれている)。
  また、裕福で暇なキリスト教聖職者の肉欲に耽(ふけ)
 る姿が、目にあまる状態だった。
  そしてまた、この様な聖職者の美食に耽る姿も多い状
 態だった。
1507年、新大陸が初めて現わされたヴァルトゼーミュー
 ラー(ドイツの地理学者)の「世界誌入門」が作られた。
  「アメリカ」という名を初めて用いた。
1510年頃、松永久秀(まつながひさひで、武将)が生まれ
 た(1510年頃~1577年)
  後世に(特に、江戸時代に)、人物像が悪く作られて
 いる、例えば、「謀叛癖のある人物」とかと、
  彼は、謀叛を起こしたことはない。
  そういう意味で可哀想な人物。茶人である。
1510年、この頃、小田原など城下町が栄える。
1510年4月、三浦の乱(サンポのらん)。
  朝鮮国慶尚道三浦で起きた。
  対馬守護宗氏と朝鮮に居留している日本人が、反乱を
 起こした。交戦相手は李氏朝鮮。
  日本人居留地の三浦の邦人が、通交していた。
  この通交に対して、次第に制限が加えられていった。
  そして、強硬な姿勢で臨まれ、乱となった。
  対馬の宗盛弘の応援を得て釜山を攻めたが、鎮圧され
 た。
  その結果、三浦の居留地は廃止となり、通交の大幅な
 制限を受けるようになった。
  これは、倭寇に対する、朝鮮側の防備の状況が漏れる
 のを恐れたことと、
  通交が、朝鮮側の利益を産み出していなかったことが
 あった(通交者の滞在費や、交易品の輸送が、朝鮮側の
 負担となっていた。そして、日本の経済発展に伴い交易
 量が増大し、その負担が増となっていた)。
1512年、教皇ユリウス2世は、ミケランジェロに命じて、
 システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描かせ、こ
 の年に完成した(1508年~1512年)。
  ミケランジェロは、天井画制作を命じられたものの、
 自分の本職は画家ではなく、彫刻家であると自認してい
 たので、この仕事には気乗りがしなかった。
  それに加え、当時のミケランジェロは、教皇の墓碑制
 作の仕事に忙しく、数多くの彫像で飾られた彫像制作の
 仕事に追われていた。
  教皇も譲らず、ミケランジェロは、仕事を引き受ける
 以外の選択肢しかなかった。
  この頃、ローマ教皇は、教会の事だけでなく、軍事面
 にも関わっていたので、フランスとの紛争が発生すると、
 天井画よりも戦争の方に向かったので、その隙に、ミケ
 ランジェロはシスティーナのローマから逃亡した。
  その後、戻って来たローマ教皇に、再び、呼び出され
 天井画を命じられ、ミケランジェロは制作を始めた。
1512年~1524年、スペインとフランスが戦争をした。
  この頃、ヨーロッパは、節操なく、同盟したり、手を
 切ったり、ぐちゃぐちゃした戦争を、色々な国を巻き込
 み、戦争ばかりしていた。
  例えば、1508年から1510年に戦った戦争は、教皇領・
 フランス王国・神聖ローマ帝国・スペイン・フェーラ公
 国。相手はヴェネツィア共和国。
  1510年から1511年の戦争は、教皇領・ヴェネツィア
 共和国。相手はフランス王国・フェラーラ公国。
  1511年から1513年の戦争は、教皇領・ヴェネツィア
 共和国・スペイン・神聖ローマ帝国・イングランド王国。
 相手はフランス王国・フェラーラ公国。
  1513年から1516年の戦争は、教皇領・スペイン・神
 聖ローマ帝国・イングランド王国・ミラノ公国。相手は
 ヴェネツィア共和国・フランス王国・フェラーラ公国・
 スコットランド王国。
  軽蔑するような戦争が、入り乱れて、続いていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

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