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2015年8月6日木曜日

(増補版)173D2/3:気になった事柄を集めた年表(1756年~1759年)

題:(増補版)173D2/3:気になった事柄を集めた年表(1756年~1759年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1757年、大槻玄沢(おおつきげんたく、蘭方医、蘭学者)が
 生まれた(1757年~1827年)
  江戸蘭学の興隆を導いた功労者の一人。
  岩手県の一関藩の出身。
  初め一関藩医の建部清安に学び、清安と杉田玄白との
 間に交友関係が生まれた事から、1778年の22歳の時に、
 江戸に出て、
  玄白や前野良沢について蘭学(オランダ医学とオラン
 ダ語)を学び、長崎に遊学した。
  両師の名の1字をもらって玄沢と称した。
  その長崎には、日本は一筋縄ではいかない、遠い国で
 もありと、去り、濡れ手で粟のインドで楽に儲けようと
 いうイギリスは居なかった。
  インドは、イギリスに虐められる。
1757年、良寛(りょうかん、仏教の僧侶、歌人)が生まれ
 た(1757年~1831年)、
  越後の人、生涯の托鉢僧であった。
  無一物であながら、震えている乞食に着物を脱いで与
 え、そして、行脚した。
  そして、正直で無邪気な人である良寛は、手毬(てま
 り)とおはじきをつねに持ち、子供とも遊んだ。
  また、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。
  人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを
 正直に平易に詠み、個性を赤裸々に表現した。
  良寛の書は古典を尊重する正確な結果と評されている。
1757年、杉田玄白が、西洋医学の大切さを説いた。
1757年、周煌(しゅうこう、中国の人)、「琉球国志略(
 りゅうきゅうこくしりゃく)」を著す。
  周煌は、1756年に、琉球王国へ冊封のため正使の全魁
 (ぜんかい)とともに副使として訪れた。
  230日に及ぶ滞在をして、その見聞と諸書を参考にして、
 16巻におよぶ書物にまとめ、皇帝に復命(ふくめい、命
 令を受けたものが、その経過や結果を報告すること)し
 た。
  この書は、琉球の自然、人文、諸事百般を客観的に記
 述して史料的価値が高い。
1757年6月23日、プラッシーの戦い
  イギリスとインドとの戦い。
  イギリスのロバート・クライブが指揮するイギリス軍
 が、インドのベンガル地域でインド藩王の軍を撃滅した。
  プラッシーの戦いは、イギリスという国が、インドの
 一つの藩を撃滅するという弱い者いじめの戦争だった。
  そして、同時にフランスを駆逐して行った。
  イギリスは、1765年に至り、インドの「ベンガル」
 「オリッサ」「ビハール」の三国をイギリスの領土に
 した。
  この地域は、何とフランスより広大な地域だった。
  そして、イギリスのやりたい放題の状態になって行っ
 た。
  イギリスのインド統治は過酷であり、卑劣だった。
  そのため、あらゆるところで、インドの方々の反抗行
 動が沸き起こった。
  イギリスは、その都度、これを強烈な武力で鎮圧した。
  そして、その武力で鎮圧したその地域を、イギリスの
 領土だとした。
  そのようなやり方で、イギリスは、領土を拡大して行
 った。
  弱い者いじめの領土略奪者だった。
  これが、領土拡大のイギリスのやり方で、戦略だった。
 卑劣な行為は繰り返された。
  領土拡大の野心を持つイギリス帝国主義の国家の姿で、
 やる事だった。
  イギリスのインド総督は、色々と変わったが、イギリ
 スという国家は、おいしい汁を吸い続けた。
  悪漢総督となったウォレン・へスティングは、1750年
 に、イギリス東インド会社へ入社しインドへ赴任した。
  そして、イギリスの手先のインド総督となり、1774年
 のロヒラ戦争などを起こして行った。
1757年、中国の清が、
  一度だけ、滅びそうになった事がある。
  それは、中央アジアのジュンガルという国から攻めら
 れた時だった。
  ジュンガルが勝利すれば、朝鮮も攻略されただろうし、
  また、日本もまた、
  蒙古襲来の様にもなったと考えられている。
  その時、徳川幕府は、中国大陸の情勢を固唾(かたず)
 をのんで見ていた。
  鎖国状態で、「ぼけっ」としていたなんてとんでもな
 かった。
  鎖国のイメージは、近年になって、作られた間違った
 イメージ。
  ジュンガルは、この年に、清によって滅ぼされた。
1758年、この頃、各藩(熊本・松代藩など)で藩政改革が
 行われた。
  幕府の改革をはじめとして、各藩でも社会の進展状況
 を顧慮(こりょ、ある事をしっかり考えに入れて、心を
 くばること)し、適応体制を整える必要があった。
  幕藩の基本は、その経済的基盤にある貢租の増大を目
 指した。
  自営農民の増大もそうであり(本百姓経営の創出)、
  新田の開発もそうであり、そして、治水などを補強し
 て支援し、体制を維持していた・・しかし、
  経済体制の発展変革の中で、
  生産物地代原則は崩れて行った・・
  商品経済の展開と発展があった・・
  本百姓経営が崩れて行った(農民的商品経済の展開と
 なった)・・一方、
  藩財政における貨幣支出の増大があった・・
  都市商人は資本を蓄積し、経済活動に介在して来た・・
  幕藩層は、その経済的実権を握る層との繋がりが、成
 り立ち上、必要となって行く・・殖産興業や専売制など
 の改革の施策も取られたりして行った。
  経済的・社会的発展に対応して行った。
1758年、宝暦事件(ほうれきじけん)
  竹内式部(たけのうちしきぶ、国学者)を重追放に処
 す事件が起きた。
  竹内式部は、越後国の町医者の家に生まれ、
  16歳頃に、上洛し、徳大寺家に仕え、儒学を学び、後
 に、垂加神道を学んだ。
  京都に塾を開くと、門下に700~800人が集まり、
  中に堂上(どうじょう、朝廷を形作る人々)や、地下
 (じげ、清涼殿・殿上〈てんじょう〉の間に升殿するこ
 とを許されていない官人の総称)がおり、
  式部の説く講義に大きな影響を受けた。
  式部の講義の内容・主張が、近習(きんじゅ、きんじ
 ゅう、側近くに仕える役)の公卿を通じて、天皇陛下に
 進講されると、これを案じた前関白・一条道香(みちか)
 は、公家(くげ)らを処罰した(宝暦事件)。
  そして、式部を、翌年の5月に、追放処分にした。
  次いで、1767年に、明和(めいわ)事件が起きると、
 八丈島に流した(式部は関係ないとされた)。
1758年、松平定信(まつだいらさだのぶ、老中)が生まれ
 た(1758年~1829年)
  第8代将軍・徳川吉宗の孫、
  1783年に、陸奥白河藩(福島県)の家督を継ぎ、
  1782年~1787年の天明の飢饉により、領民が困窮して
 いたのを、上方から食料を緊急に輸送させ、これを救っ
 た。
  また、この緊急支出などで崩壊に瀕していた藩財政を
 立て直し、名君と称された。
  また、1787年に、老中首座となり、寛政の改革を断行
 した。
1759年、竹内式部を追放した(宝暦事件の追放)
1759年、出版:山県大弐(やまがただいに、儒学者、思想
 家)が「柳子新論(りゅうししんろん)」を著す(1725
 年~1767年)
  この著は、柳子という架空人物に託して、朱子学的大
 義名分論の立場から幕府を批判し、勤王思想を主張した。
  宝暦事件を契機にして、幕府の存在そのものへの批判
 を込めていて、この年に成立したとされている。
  この著は、先人が記したとされている。
  大弐の父が、20余年前に、旧宅跡から掘り出した古書
 で、織田時代を摸して書かれたとしている。
  明和(めいわ)事件の原因という。
..
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2015年8月5日水曜日

(増補版)172D2/3:気になった事柄を集めた年表(1753年~1756年)

題:(増補版)172D2/3:気になった事柄を集めた年表(1753年~1756年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1754年2月、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)らが
 京都で屍体を解剖する。
  山脇東洋(1706年~1762年)は、日本で初めて官許を
 得て人体解剖を行った・・が、(京都の刑場で解剖に立
 ち会い、執刀したのは、牛馬の屠者によった)。
  そして、日本最初の解剖記録「蔵志」を刊行した。
  「蔵志」には、「右肺は壁二つ、左肺は壁一つ。管を
 以て気道を吹けば、則ち両肺は皆怒張し、鮮沢なること
 蝉翼に似たり」・・とある。
  実父は、山脇玄修の門で医学を修め、東洋はその才を
 買われ、1726年に、玄修の養子となっていた。
  また、太宰春台らと交わり、徂徠学の感化を受けた。
  東洋は、それまで中国古典にいう五臓六腑説に疑問を
 もち、動物解剖を試みたが満足できなかった。
  そして、年月が経過するばかりだった。
  徂徠学の感化から実証精神を深めたのだった。
1754年11月、この頃の、南米において・・、
  スペインとポルトガルの連合軍は、インディオの村々
 を攻撃した。
  反撃されて、初めは撤退していた。
  そして、不利になった途端、連合軍は、休戦協定を結
 んだ。
  そして、時を稼いだ。
  そして、自分たちに都合が良くなると、翌年の1755年
 に、3万人の重装備のスペイン・ポルトガル連合軍を結成
 し、また、インディオの方々に襲い掛かった。
  強力な兵器を持たないインディオの方々は、敗走した。
  キリスト教徒の殺戮者の白人たちは、奪った土地を占
 領した。
  そして、広大な占領地が手に入って来ると、この様な
 段階になると、この白人たちは・・、
  スペインとポルトガルの連合状態が崩れて行った。
  そして、占領した土地の問題が元で、いざこざが発生
 した。
  インディオの方々も、それに乗じて、追われた土地に
 戻れた。
  しかし、その戻れた人数は、初めの半数以下だった(
 半分の人々は殺されてしまっていた)。
  初期は、この様な状況だったが、後の時代になると・・、
  その悪行為は、だんだん熾烈(しれつ)で悪どくなっ
 た。
  迫害で、攻撃で、殺戮で、減ってしまった可哀想なイ
 ンディオの方々は、この時は、戻れた。
  そしてまだ、
  この時は、森が深かったため、
  そして、この時は、奴隷狩りからも免れられたが・・、
  これから、次の様な、更なる非人道的な形で、インディ
 オの方々の数は減って行く。
  そして、奴隷狩りに伴う虐殺も起きて来る。
  近年になって、このインディオの方々を題材にした映
 画が作られたが、
  この様な悲劇をまったく伝えなかった。
  ただただ、美しくキリスト教の行為と共につくられた
 映画だった。
  嘘のプロパガンダ映画だった。
  繰られている人がそこに居た。
18世紀、この18世紀という世紀に、インディオのグアラニ
 ー族の中で、ブラジル最南部にいたトゥピナンバ族が、
 絶滅させられた。
  他の種族も、急速に追い詰められて行った。
  スペイン人は、攻めて、奴隷にするという非人道的な
 好き勝手な悪行為をした。
  その中で、カディベウ族は、戦闘の中で、スペイン軍
 の乗馬を真っ先にマスターして、スペインと戦った。
  スペイン軍を悩ませた。
  これは、日本に鉄砲が伝えられて、いち早く鉄砲の技
 術をマスターし、
  かつ、国内での生産を難なく行って、
  領土的野心を持つキリスト教宣教師や、南蛮諸国に、
 手出しをさせなかった日本に似ている。
1755年、宝暦の大飢饉:奥羽地方が大飢饉になった。
   この飢饉は、被害が大きいが、実態があまり知られて
 いない。
  冷害による凶作に起因。
  5月中旬から異常な低温に襲われ、8月末まで雨が降り
 続いた。
  例年なら最も暑い頃も、木綿の綿入れを重ね着するほ
 どで、こごえるほどの冷たさだったから、稲は、田植え
 をした時のままで生育せず、
  ようやく穂が出たものの実らずに、枯れた・・と一関
 藩の記録がある。
  この一関藩よりさらに被害のひどい南部藩から、骨と
 皮だけにやせた流民が押し寄せ、
  路上のいたるところに倒れ伏し、
  その惨状を目にした医師(藩医)の清安は、
  「今、医者としての私にできることは何か」と考えて、
 「民間備考録」と「備荒草木図」の二書を著した。
  飢饉に備える民間のための書という意味である。
  また、、飢饉のときに山野で食べられる草木について、
 民間の一般の人が解り易い様に絵で描いている。
1756年、日本の総人口:26,071,000人
1756年1月、初代・沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1685年~1756年)。
  人気抜群であった2世・市川団十郎と並んで「両輪の
 名花」とたたえられた。
1756年、米価騰貴により、米穀の貯積を禁じる。
1756年~1763年、英仏植民地七年戦争が起きた。
  インド・カナダの海外植民地で、イギリスがフランス
 を破り、イギリスの世界的優位が確立した。
  これから、世界中で、イギリスの悪さが始まる。
  この戦争は、第二次百年戦争ともいわれ、卑劣な、そ
 して、軽蔑すべき戦争ばかりをしている状況だった。
   そして、アメリカでは、先住民であるアメリカ・イン
 ディアンの方々の駆逐による土地の奪取、そして、労働
 力を補おうと黒人の方々の奴隷としての輸入行為が行わ
 れていく。
  18世紀後半の七年戦争(北アメリカにおけるフランス
 のインディアンに対する戦争、フレンチ・インディアン
 戦争)の結果、イギリスが、北アメリカに広大な旧フラ
 ンス領土を獲得する。
  イギリスは、帝国主義的に植民地統治を強化していく。
  フランスの居なくなったイギリスは、好き勝手に領土
 を奪い、また、利益を奪取し、1775年のアメリカ独立戦
 争に至る。
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2015年8月4日火曜日

(増補版)171D2/3:気になった事柄を集めた年表(1750年~1753年)

題:(増補版)171D2/3:気になった事柄を集めた年表(1750年~1753年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1751年2月3日、大岡忠相(おおおかただすけ、江戸町奉行
 など)が没する(1677年~1752年)、74歳
  吉宗に認められ、抜擢され、功績を残した。
  有名な江戸町奉行以外にも、小石川養生所など、温か
 い数々の功績を残し、活躍した。
  新田開発・育成や治水事業など、庶民の生活の安定化
 に努め、幸せづくりに尽力した。
  必ずしも地方御用掛としての勘定所や代官らに、必ず
 しも組せず、
  だから、庶民は、様々な思いを、忠相に託した。
  武蔵野新田開発を中心に、関東各地の農政展開は著名。
  これで、享保の改革末期の体制はかなり強化された。
1751年7月12日、徳川吉宗(とくがわよしむね、第8代将軍)
 が没した(1684年~1751年)67歳、
  幕府中興の英主(えいしゅ、優れた君主)と称えられ、
 武芸・学問、特に実学を奨励した。
  和歌山藩の5代藩主の時にも、藩財政の立て直しに実績
 をあげ、藩主としても声望(せいぼう、世間の名声と人
 望)が高かった。
  法制の整備と相まった行政官僚制の充実と発展は、吉
 宗の功績は大きい。
  また、視点が、国富、国益という大きなものに、大き
 な関心において行われていた。
  産業の開発に役立つ科学技術的な知識を得ようと、漢
 訳洋書に止まらず、さらに、ヨーロッパ原書の知識を直
 接吸収すべく、その外国語とともに、学ばせ、取り組ま
 せた先見性など、先駆者としての推進・行動は、また、
 その一連の政策は、我が国の近代化にとって重要な役割
 を果たしている。
1751年12月20日、清船が、わが漂流民を送還する。この日
 に、長崎港に入港した。
  和船によって、日本沿岸は、活発に物流が行われてい
 たが、その一方、海難事故も決して少なくなかった。
  その海難船の多くが、中国大陸に漂着していた。
  中国大陸に漂着した多くの日本人たちは、漂着地に近
 い中国の港から、日本の長崎港に来航する貿易船で帰国
 していた。
  江戸時代中後期以降になると、日本に来航する貿易船
 は、乍浦(さほ、じゃほ)に限定されたため、
  中国へ漂着した日本人の多くは、漂着地から沿海の帆
 船に乗せられて、乍浦に送られ、
  乍浦で、日本への貿易船の出航まで安置されて、帰国
 した。
  1751年12月20日に、長崎に入港した11番寧波船で帰国
 した奥州南部の人々。
  この人たちは、福建の北部沿海に漂着した。
  そして、中国各地を経由して寧波に送られて、ここか
 ら帰国した。
  この様な例は、1754年にもあり(奥州仙台の30人)、
 また、1756年2月には、筑前の人・4名など、
  舟の構造からか、比較的難破して、中国から帰国する
 人が多かった。
1751年、信濃松代の農民一揆(田村騒動)
  一揆の原因は、そのほとんどが増税であった。
  信濃松代藩の第5代藩主・真田信安(さなだのぶやす)
 が、藩を継いだ1735年頃は、
  家老や家臣たちが、不正を働いていて、財政は極度に
 悪化していた。
  信安は、田村半右衛門を登用し、藩財政の改革に取り
 掛かった。
  田村は、まず、それまで不正を行なっていた家老や役
 人に対して、その行為の代償として、御用金を何年かけ
 ても支払わせるようにした。
  次に、百姓に対し増税策を行なった。
  不正を行った者に対して、御用金のみが課せられ、そ
 して、それ以上の罰はなく、
  罪のない百姓に、重い負担が課せられた。
  松代藩に、4700両の貯えもできたが・・、
  ここで、百姓たちは一揆を起こした。
  信安は、田村を罷免して対応した。
  そして、1752年に、長男・幸弘に家督を譲った。信安
 は、この年に、没している(39歳)
1752年、出版:『江戸切絵図・番町』が初刊された。
  吉文字屋が「番町之絵図」を刊行、江戸切り絵図の始
 まりをされている。
  切絵図は切図とも言い、江戸時代から明治にかけて作
 られた区分地図。
  土地利用を示す切絵図が、村役人によって作成された
 例が少なくない。
  地域別または地目(田畑・山林など)別に区切って作
 った。
1752年、フランクリン(アメリカ)が、「凧(たこ)」の
 実験によって稲妻が電気放電であることを明らかにした。
  また、フランクリンは、1776年のアメリカの「独立宣
 言」の起草委員でもある。
1752年、ビルマ(ミャンマー):アラウンパヤー朝が成立
 した。
  アラウンパヤーが開いたビルマ最後の王朝(1752年~
 1885年)
  三度にわたるイギリスとの戦争に敗れ、イギリス領イ
 ンドに、朝鮮併合の様に、併合された。
18世紀、タイ:18世紀に、チャクリー朝が成立し、
  19世紀以後、西欧列強のアジア侵略の中で、巧妙な政
 策を取り、植民地化を免れた。
1753年、喜多川歌麿(きたがわうたまろ、浮世絵師)が生
 まれた(1753年?~1806年)
  錦絵「鷹島おひさ」大英博物館所蔵
  錦絵「歌撰恋之部 稀二逢恋」大英博物館所蔵
1753年、災害対策:貯穀
  囲米・囲籾(かこいまい・かこいもみ)
  諸大名に、1万石につき籾(もみ)千俵の貯穀を命じた。
  幕府は当初、おもに軍事上の目的で、幕府直轄地はも
 ちろん譜代大名に対しても貯米(城詰米)を奨励した。
  しかし、泰平が続くうちに、これら囲米は、軍事用よ
 りはむしろ備荒用としての性格が濃厚になった。
  幕府は、一般の諸大名に対しても、1683年の令を初見
 として、しばしば備荒のための囲米令を発した。
  この年・1753年にも、1万石につき籾1000俵の割合で
 貯蔵する様に諸大名に命じた。
  後に、旗本まで奨励したり、貯穀の率が高くなってい
 る。
1753年、出版:安藤昌益(あんどうしょうえき、医師、思
 想家、哲学家)が、「自然真営道(しぜんしんえいどう)」
 を著し、刊行して、封建社会を批判した。
  安東昌益(1703年~1762年)は、伝記はあまり明らか
 ではないが、
  秋田藩の上層農民の家に生まれ、八戸に移住し、町医
 者として生活、
  晩年は、長崎に行き、海外事情を研究した。
  自然真営道は、「人は自然の全体也(なり)。故(ゆえ)
 に自然を知らざる則(とき)は吾(わ)が身神の生死を知ら
 ず」とある。
  この立場から、気一元論や陰陽五行説によって、天文、
 地理、人体を論じた。
  天照大神や天皇制の尊重も説いている。
  また、平等社会への変革を説き、封建的身分制を否定
 している。
  原本が関東大震災で多くが焼失した。
1753年、J・P・プラッシーが生まれた。
  キリスト教の宗教性を、学問的に究めるための聖書学
 という事を始めたJ・P・プラッシーが、この年に生まれ
 た(1753年~1826年)。
  そして、この学問は、時代が進むほど、研究が進めば
 進むほど、
  キリスト教の悲劇が極まって行ったという経過をたど
 った。
  そのキリスト教の悲劇は、新約聖書学という近代の学
 問で、厳密に、精緻に、研究をすればするほど、万人を
 説得できるような、確実不動のイエス像の再構成の見通
 しが、暗くなって来ることであった。
  研究によって再建されたイエス像は、たかだか蓋然性・
 妥当性の域を出なかった。
  例えまた、再建されたとしても、イエスの思想は、新
 約思想の部分にしかならず、全体になり得ないというも
 のだという事が判明した。
  また、この部分的なイエスの思想を使って、新約思想
 の本質を探ろうとしたら、原始キリスト教団の多くは、
 切り捨てられてしまうという結果となった。
  また、そのイエスの思想は、その肝心な神学的根拠が
 明白ではない。
  つまり、
  『キリスト教は、基礎からしっかり積み上げられるよ
 うな宗教ではない』と、分析された結果となった。
  砂上の楼閣的な宗教だとの研究結果になって行った。
  キリスト教は、研究が進めば進むほど、宗教として成
 り立ちえない事が明白になって行った・・その様な、研
 究の歴史となった。
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2015年8月3日月曜日

(増補版)170D1/3:気になった事柄を集めた年表(1745年~1750年)

題:(増補版)170D1/3:気になった事柄を集めた年表(1745年~1750年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1746年、塙保己一(はなわほきいち、国学者)が生まれた
 (1746年~1821年)、
  7歳で失明し、15歳で江戸に出て、
  国学を賀茂真淵(かものまぶち)・山岡明阿弥(やま
 おかみょうあみ)に学んだ。
  抜群の記憶力により、和漢の学に通暁(つうぎょう、
 精通、物事に通じていること)し、
  幕府の保護もとに、和学講談所を建て、「群書類従(
 ぐんしょるいじゅう、古書を集大成した)」などの編纂
 事業に携わった(40年を費やして完成したとのこと、続
 編にも着手した)。
1746年、吾妻三八(あづまさんぱち、歌舞伎役者、作者)
 が「扇矢数47本」を大阪で上演した。
1746年、経済:荷物の保険と金銀為替を開く
  嶋屋佐右衛門が、陸奥福島と京都間を往復、荷物の保
 険と金銀為替を開く。
  大友大江丸(おおともおおえまる、晩年の号)の江戸
 店での屋号が嶋屋佐右衛門。
  俳人でも有名。飛脚問屋を営む。
  三度飛脚と称して、毎月3度、江戸、京都、大阪間を
 往復するようになった。
1746年、人事:小姓番組頭格の大岡忠光(おおおかただみ
 つ)が、将軍・家重の側用人となる。
  御側御用取次側衆に異動し、石高1200石加増。
1746年、処罰:大盗の浜嶋庄兵衛(日本左衛門、にほんざ
 えもん)が指名手配され、翌年に捕まり、斬首となる。
  東海道筋で手下をひきいて強盗をかさね、お尋ね者と
 なる。
  1747年に、京都町奉行に自首し、1747年3月21日に、江
 戸で処刑された。
  歌舞伎の「白浪(しらなみ)五人男」の日本駄右衛門
 (にっぽんだえもん)のモデル。
1747年5月、太宰春台(だざいしゅんだい、儒学者)が没す
 る(1680年~1747年)、
  荻生徂徠に師事した。
  仕官したが自分の居場所ではないと悟ったか、退官し
 て以後、官途につかず、私塾を経営し、弟子を育てた。
  春台は、徂徠の農業を中心とした自給自足的な自然経
 済機構に立脚した経世論を認めながら、富国強兵を積極
 的に図るべきとし、その理論的裏付けをした。
  言葉:
  「位(くらい)高き人に、ものの上手はなきものにて、
  上手はいつも 賤しき者に出来(いでく)るなり」
1747年、三角測量によるカッシニのフランス地形図が作ら
 れた(開始された)(1747年~1818年)
  カッシニ家は、何代にもわたって、三角測量によって
 カッシニ図を作り、
  これは、フランス全土の8万6400分の1という縮尺図で、
 全てで182葉あり、1793年に、完成させた。
1747年、ナーディル・シャー暗殺され、イラン混乱する。
1748年10月、大岡忠相(おおおかただすけ)が大名に列す
 る。
  これまでの功績により、4000石の加増を受け、三河1万
 石の大名となった。
  公正な判断を下す名奉行と言われた。
1748年、演芸:竹田出雲(たけだいずも、浄瑠璃作者)・
 並木千柳(なみきせんりゅう、並木宗輔のこと、浄瑠璃
 作者)らの合作の「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅう
 しんぐら」が、大坂・竹本座で上演(初演)され、好評
 を博した。
  人々が喜んで話題とした赤穂義士の討入りを材料とし
 て、時代を「太平記」の南北朝時代の世界にし、吉良
 上野(きらこうずけ)を高師直(こうのもろなお)、
 浅野長矩(ながのり)を塩谷判官(えんやはんがん)、
 大石良雄を大星由良之介とした。
1748年10月18日、アーヘンの和約(オーストリア継承戦争
 の終結条約)
  オーストリアは、列国からマリア・テレジアの帝位相
 続権の承認を取り付けた代償として、プロイセンその他
 に領土を割譲した。
  1668年に、ルイ14世のフランスが侵略を始め、スペイ
 ンのネーデルランド(オランダ・ベルギー・ルクセンブ
 ルグ辺りの国)の相続を要求した。
  イギリス・オランダは反撃した。
  相続問題は解決せず、
  イギリスは、スペインから、西インド諸島や北アメリ
 カの領土要求権を得た。
  17世紀以来、戦争を繰り返すイギリスとフランスが介
 入して、いざこざが拡大し、展開した戦争だったが、
  1748年に、オーストリア承継戦争の和約をした。
  あちこちで領土だ、相続だの戦争に明け暮れた。
1748年、モンテスキュー(フランス、思想家)が、「法の
 精神(ほうのせいしん、法律論)」を刊行した。
   20年を要した。
  立法・行政・司法の三権分立を主張した。
1749年10月、幕府が、足利学校(日本最古の学校)に修理
 費を下す。
  足利学校の創建には、奈良時代創建説、
  平安時代初期の小野篁(おののたかむら)創建説、
  鎌倉時代初期の足利義兼の創建説、
  室町時代中期の関東管領・上杉憲実(のりざね)創建
 説がある。
  存続の窮地を、家康が救ったという話もある。
  江戸期に入ると、所領も寄進され、また、足利の領主
 たちによっても保護を受け、
  足利近郷の人々が学ぶ郷学(ごうがく、村里の学校)
 として大切にされた。
  江戸期の学者たちは、貴重な古典籍を所蔵する図書館
 として注目していた。
  足利藩は藩校とした。
  明治になって多くの建物が壊された(変な西洋讃美の
 思想のため、日本古来からのものの軽視があった。
  明治期は、古来からの善きものが安易に壊された時代
 であった)。
1749年、年貢:定免制を全面施行した。
  定免制の、「免」は、年貢の賦課率のことで、
  過去の5年間や、10年間や、20年間などの田租額を平均
 して租額を定め、
  一定の期間内は、その年の豊凶に関係なく、一定額を
 徴収した。
  風水害などで損害が著しい時は、破免という処置をと
 って減税した。
1749年8月28日、ゲーテが生まれた(1749年~1832年)
  ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、
 法律家。
  キリスト教が原因の卑劣な長い戦いであった30年戦争
 で、ヨーロッパの方々の3分の1が亡くなるという荒廃か
 らようやく立ち直り、市民階級が台頭して来る人間中心
 主義の時代の中に生きた。
1750年、上杉鷹山(うえすぎようざん、上杉治憲、出羽国
 米沢藩の第9代藩主)が生まれた(1750年~1822年)
  江戸時代屈指の名君。
  上杉鷹山公と、「公」を付けて呼ぶべき人。
  アメリカのJ・F・ケネディ元大統領や、ビル・クリン
 トン元大統領が、
  「もっとも尊敬する日本人」と言った人。
  キャロライン・ケネディ駐日大使(ケネディ元大統領
 の御令嬢)も、この事を明らかにされている。
  鷹山は、九州の日向(宮崎県)高鍋藩の藩主の子であ
 ったが、10歳の時、米沢藩の養子となる。
  17歳で家督を継いだが、
  この頃、米沢藩には多くの借財があった。
  深刻な財政難は、江戸の町人にも知られるくらいだっ
 た。
  町人は言った
  「新品の金物の金気(かなけ)を抜くには『上杉』と
 書いた紙を貼ったらいい」・・と、
  金のない上杉が、その金気を吸い取ってくれる・・と。
  鷹山は、苦労して、藩内を励まし、農民を励まし、
 治水を一生懸命し、商品作物を奨励し、
  特産物を作って、私工業を興し、
 社会システムを改善し、意識改革をし、
  倹約もてし、旧弊(きゅうへい、古い習慣・制度など
 の弊害、古い考えに捉われるなど)と戦い、
  飢饉とも戦い、非常食の普及に努め、
  学問所も再興して、身分の差なく学ばせ、
  騒動の辛い時期を乗り越え、
  破産寸前の藩財政を、立ち直りさせて行った。
  そして、借債を返して行った。
  紅花(べにばな)もこの頃からのもの、
  垣根の生垣も、役に立つ樹木に替えさせたりした。
  池に鯉を飼い、細かい改善にも意を配り、積み重ねた。
  「なせば成る、なさねばならぬ、何事も」は、鷹山の
 言葉。
  人間性のある、深さもある人だった。
  そして、「成らぬのは人の なさぬなりけり」・・と。
1750年1月、幕府、「強訴・徒党・逃散仕置」を再び禁止
  厳しい時代だった。
  この中、百姓の強訴の禁令をしく。
1750年、世界人口が:7億5000万人に。
1750年、日本の総人口、25,913,000人
1750年頃以降、日本のこの江戸時代を、欧米の書籍では「
 early modern age(アーリイ・モダーン・エイジ)」と
 呼び、そして、書く。
  「初期近代」だと見られている。
  この時代の日本には、近代資本主義社会を準備する要
 素が数多くあった、内包されていた。
  進んだ社会だったと・・知られている。
  世界に誇る日本であった・・と。
  この江戸時代の成熟があったればこそ、奇跡の明治維
 新へバトンタッチされて行った・・と言えるものがあっ
 たと言える。
  明治の革新は、何ら奇跡でも何でもなかった。
  その発展の布石は、江戸時代に築かれていた。
  これらの事は、いまでは自明な歴史常識となっている。
..
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2015年7月30日木曜日

(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)

題:(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1745年、伊能忠敬(いのうただたか、測量家、商人)が生
 まれた(1745年~1818年)
  蝦夷(えぞ)、後に、日本全国の実地測量を行い、日
 本最初の実測地図を作製した。
  1795年の隠居(50歳)の翌年に、江戸へ出て、幕府天
 文方の高橋至時(たかはしよしとき)に師事した。
  1800年に、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地の
 東南沿岸の測量を任される。
  その後、1816年まで、日本全国の測量を行なった。
  そして、この17年間の実測をもとに「大日本沿海輿地
 (よち)全図」(伊能図)を作成中、1818年4月18日に、
 没した。
  高橋至時は、天文暦学者で、大阪の定番同心(じょう
 ばん、城番ともいい、大阪城に在勤して警備した人の下
 の同心)の家職を継ぎ、1781年~1788年頃に、麻田剛立
 に天文暦学を学んだ。
  1795年に、幕府天文方に登用された。
1745年9月、徳川吉宗が引退し、子(長男)の徳川家重(い
 えしげ)が、9代将軍になった(1712年~1761年、将軍
 期間:1745年~1760年)
  生来虚弱なため吉宗が後見したが、後に、大岡忠光が
 側用人として活躍した。
  幕政は、表面的には安定した時期であった。
  父・吉宗が、紀州家から将軍家を継ぐのに伴い江戸城
 に移り、世嗣(せいし、よつぎ、跡目を相続すること)
 となり、室鳩巣らの教育を受けた。
  大岡忠光(おおおかただみつ)は、1724年に、12歳の
 家重の小姓となり、病弱で言語不明瞭な家重の意思を理
 解する唯一の側近だった。
  性格が恭謙(きょうけん、慎み深く、へりくだること)
 だったので、驕る(おごる、思い上がる)ことはなかっ
 たという。
1745年、江戸大火(六道火事)
  千駄ヶ谷出火、青山・麻布・白金・高輪・品川へ延焼。
  死者数:1323人、焼失:28678軒
1745年、世論:年貢増徴政策への反省
  農民からの年貢の増徴政策への反対が強まった。
  享保の改革は、目安箱を設置したりして、下層民の言
 葉を聞いたりして、貧民・病人の救済策を行なったり(
 小石川養生所)していたが、また、それを諸藩も行うよ
 うに指導したりしていたが、
  そして、私娼や賭け事、心中などの風紀の健全化にも
 努めていたが、また、さつまいもなど飢饉対策にも努め
 てもいたが、また、朝鮮人参などの薬草栽培の奨励、菜
 種油・桃・サクラの商品作物も奨励し、植林もして、収
 入の多面化をしたり、環境整備をしたり、新田も一生懸
 命に開発していたが、そして、治水も一生懸命したりし
 ていたが、また、孝行者や善行者を褒章したり、日本の
 測量をして絵図を作成したり、人口調査して国の実態把
 握に努めたりして、外国からの書の輸入に努め、国民教
 育に努めたりしていたが、そして、倹約をするように指
 導したり、また、農政の安定化をしたいと年貢の強化を
 した。
  この最後の政策に、庶民は不満を持った。
1745年、人事:松平乗邑(のりむら、のりさと)が、家重
 が将軍に就任すると、直後に老中を罷免され、加増され
 た1万石を没収され、蟄居(ちっきょ、家の中に閉じこ
 もって外出しないこと)を命ぜられた。
  将軍に家重以外を推挙したため。
1745年、施策:江戸市中の寺社門前地を町奉行支配下へ組
 み込まれた。
  江戸の市中の治安を、一括して町奉行が統轄するため
 だった。
1745年、事件:加賀騒動
  加賀騒動は、悪役の代表となっている大槻伝蔵が、藩
 主・前田吉徳(六代藩主)の寵を得て、
  1716年に、10俵3人扶持の下っ端(したっぱ)から近習
 に取り立てられた。
  そして、1743年には、3800石の重臣にまで栄達した。
  そこで、前田家譜代の重臣たちの反感を買って、
  藩内は、2派に分かれて対立した
  大槻一派は、家老・前田直躬と対立した。
  吉徳の側室が、大槻一派と結んで、我が子を世継にし
 ようとした・・が、
  やがて1745年に、藩主・吉徳が死しんで・・後に、権
 勢を失って没落した。
  吉徳の前代、前田綱紀(加賀藩五代藩主)の改革でか
 なり豊かであった加賀藩財政も、この騒動ですっかり崩
 れた。その後の回復はなかった。
1745年、イギリスで、ジャコバイトの反乱が起きた。
  翌年の1746年頃まで、乱れた社会は続いた。
  ジャコバイトとは、名誉革命で亡命した国王・ジェー
 ムズ2世と、その子孫を、「正統のイギリス君主だ」とし
 て支持した人々の事を言い、キリスト教カトリックであ
 った(また、保守的性向の強い層のイギリス国教会)。
  そして、アイルランドや、スコットランド地方に根強
 かった。
  ジェームス2世は、悪事も極まっていたので、名誉革命
 の時は、君主側に立つ人もなく、退位を強制されたくら
 いで、味方する者なく、やむなくフランスに亡命した。
  そのくらいの状態で、だから血も流れずに、ジェーム
 ズ2世はイギリスを逃げ出した。
  その無血をもって、無血だから名誉革命だと言うのは
 おかしい(まったく逆の不名誉な話なのに・・)。
  そしてまた、この君主の不名誉なところは、何度も、
 なんだかんだとフランスの応援を得て、恨みを張らす的
 な行動をする。
  この後に、この元君主・ジェームズ2世は、フランスの
 後押しで、イギリスの地の、北の遠い地に、借りた軍を
 上陸させて、汚名を晴らそうとする。
  この様なふがいない君主だった。
  そして、この時もまた、フランス国王のルイ14世の助
 けを、またまた借りて、イギリス国王・ウィリアム3世
 の暗殺計画を立てたり、そして、1745年まで、しばしば
 反乱も起こした。
18世紀~19世紀、オーストラリアの占有(せんゆう、自分
 の所有にすること)
  イギリス人が、オーストラリアを占有(入植)し、
  この地で、原住民のアボリジニの方々へ酷(ひど)い
 ことをする。
  何と、『絶滅するに、何ら躊躇はいらない』という方
 針だった。
  そんな方針のため、アボリジニの方々を、あたかも動
 物の狩りをする様に殺戮した。
  今、アボリジニの方々は、可哀想な事に、絶滅に瀕(
 ひん)している。
  この有色人種を軽んじ、そして、蔑視することは、キ
 リスト教の教義・教えから来ている。
  18世紀末、オーストラリアは、この頃まで、イギリス
 の囚人の捨て場となっていた。
  そして、本国のイギリスの経済的束縛を強いられてい
 た。
  オーストラリア人は、現在でも、テーブルスピーチの
 時に、「自分は1800年以降の移民の子孫だ」と、一々
 断るという。
  「囚人の子孫ではない」という事を言いたいのだ。
  本人たちも、不名誉な、非人道的な、やってはいけな
 い事だと思っている。
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2015年7月29日水曜日

(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年~1744年)

題:(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年~1744年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
18世紀、卑劣な、細菌などによる殲滅
  この頃の、18世紀のカナダでは、イギリスやフランス
 が、先住民のインディアンの方々を、
  先にカナダに来て、既に、住んでいた方々を、
  安上がりに殲滅する方法だとして、細菌などによる殲
 滅行為を行った。
  はしかの患者の衣服を買い集めたり、その他の病気の
 菌が付着したものなどを(毛布など)、
  インディアンの方々へ配った。
  この様な悪行為を行った記録が、残されている。
  その複数の部族の方々は、現在では、完全に絶滅させ
 られて、
  まったく『痕跡すら留めていない状態』となっている。
  エール大学のディビット・オブライエン教授は、
  「人類史上、最大のもっとも忌(い)まわしい大量殺
 戮だ」と言って居られる。
  キリスト教の『有色人種蔑視』に洗脳された者たちの
 行為である。
  キリスト教聖職者が『人間ではない』と言った記録も
 あるが・・、
  この宗教にマインド・コントロールされた者たちが、
 この言葉にならない程の極悪な行為を為させた。
1743年、農政:サツマイモの栽培を、徳川吉宗がすすめた。
1743年、清の貿易船数を減じた。
1743年、貿易:海外貿易による致富を説いた(本多利明)
  本多利明(ほんだとしあき、数学者、経済思想家)(
 1743年~1821年)は、
  「西域物語」「経世秘策」を著して、
  積極的な海外貿易による致富を説いた。
  越後の人。
  江戸に出て、数学・天文学・蘭学を学び、
  23歳の時に算学、天文の私塾を開いた。
  重商主義的立場から、貿易振興による富国策を説いた。
  「経世秘策(けいせいひさく)」は:
  1801年に成り、
  開国交易・属島開発による富国政策を論じた。
  国を経営し、
  そして、富ますのが良いのだ、
  その秘策となる政策は・・を、論じた。
  この書は、著者の思想、政策が体系的に示されていて、
 著者の代表作の一つ。
  富国策の基本には、
  爆薬、国土開発の手段や、金銀銅鉄鉛山の開発や、
  船舶(海外貿易用の大きなもので、官営のものを)や、
  属島(北海道や樺太を主にして、科学的な開発)が急
 務だと説いた。
  「西域物語(せいいきものがたり)」は:
  当時、良く知られていなかった西洋を説き、
  激動していた当時の内外情勢をよく把握して説明して
 おり、
  それを反映した現在起きている事象の記述は、具体的
 であった。
  開国の思想を説いた。
  また、物理学の大切さを説き、
  学問の基本だと強調した。
  そして、天文、地理、渡海の学をもっと極めよとした。
  飢饉救済論にも触れ、
  物価の操作の有害も述べ、
  官営貿易の実施を説いた。
  北方王国の建設なども説いた。
  また、アルファベットの導入なども説き、カムチャッ 
 カ半島への遷都も説いた。
  因みに、ドナルド・キーンの修士論文は、本多利明に
 ついてのもの。
1743年、トルコ・イラン戦争が起きた(~1746年)
  対オスマン・トルコとの戦いを再開するが、目立った
 戦果はあがらなかった。
  ナーディル・シャー(イランのシャー)は、ナジャフ
 (イラク中南部の都市)を割譲させたのみであった。
1744年、日本の総人口、26,153,000人
1744年10月、甘藷の栽培を奨励する。
1744年、科学:天文学
  徳川吉宗が、神田佐久間町に天文台を造った。
  数年後、西川如見の息子・正休が天体観測をする。
  因みに、如見は、1724年に没している。
  正休は、如見の次男で、長崎に生まれ、父に従って家
 学を受け、その学に精通した。
  才長けていて、吉宗に天学の才を認められ、幕府御家
 人に取り立てられ、暦術測量御用を勤めた。
  1747年に、天文方に任ぜられた。
1744年、出版:御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゅ
 うせい)が成った。
  吉宗が、評定所に命じて集成させた法令集。
  1615年~1743年までの御触書を集めたもの。
1744年、ジョージ王戦争(英仏植民地戦争、~1748年)
  オーストリア継承戦争に対する、北アメリカ東部の新
 大陸における植民地争奪戦争。
  ヨーロッパで、マリア・テレジアが、君主の座を継承
 したために起きた戦争が、北米大陸に波及して戦った。
  イギリス側のニューイングランド知事が組織したカナ
 ダ遠征軍が、
  セントローレンス湾の岬にあったフランス側の要塞を
 包囲し、6週間後に陥落させた。
  インディアンの方々も戦争に巻き込まれ、犠牲者の出
 る迷惑な戦争の波及事態だった。
1744年、「続大典」成る。
  「経国大典」を基本として、増補などを行なったもの。
  統治の骨格を形成するものとして、重要な位置を占め
 ている。
  「経国大典」は、朝鮮の李朝の基本法典、1484年に完
 成し、翌年、施行されていた。
1744年、第一次カルナータカ戦争(~1748年)
  カルナータ戦争は、1744年~1763年の間に、イギリス
 とフランスの間で、三次に渡って戦われた戦争。
  戦地は、インドのカルナータカ地方で、迷惑な話だっ
 た。
  イギリスは、フランスから南インドの派遣を奪った。
  フランスは、インドからインドシナへ重点を移した。
  いずれにしても、他人の土地で、好き勝手をやってい
 たイギリスとフランスだった。
  植民地貿易で、えげつない利益を上げて、それをさら
 に増やしたいと、
  今度は武力を行使して、他人の土地で戦争をするとい
 う暴力的な両国だった。
  また、イギリスとフランスのヨーロッパの戦争が、イ
 ンドに飛び火するという形だった。
  スペインの王位継承を端緒にして、イギリスとフラン
 スが戦争をするが、
  1744年以来、インドへ飛び火して、それが、インドの
 欲の争奪戦争へとなって行った。
  貿易の目的で始まった東インド会社から、国と国の欲
 の塊(かたまり)の奪い合い戦争になった。卑劣な事だ。
  1744年、インドにおける、フランスのえげつない植民
 地収奪活動は、
  同じくえげつない収奪活動をしているイギリスとぶつ
 かるようになっていたのだった。
  イギリスとフランスの両国は、スペイン王位相続問題
 でヨーロッパで戦争を始め、
  それが、インドへもおよび、植民地覇権争奪も加わっ
 て、インドも戦争の舞台となってしまった。
  金が欲しい、旨いものが欲しいの餓鬼の争いであった。
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(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年~1742年)

題:(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年~1742年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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18世紀、長年、キリスト教と戦ってきたフランスだった。
  そのフランスの知識人・ギイ・シボン氏の言葉:
  「18世紀の市民たちの革命は、『王権神授説』を支え
 たキリスト教会の権威を倒すための行動だった」・・
 ・・と言った。
  キリスト教は、権威が得たいと、あらゆる手を使った。
  俗の世界のものにまで、手を出した。
  そこで、俗の世界の最高位にある王権が、(キリスト
 教の)神から国王に授けられたものだという破廉恥な考
 えを押し付けた。
  その様な行為でもって、キリスト教は、権威を得て行
 った。また、権力を得て行った。
  智のある人たちは、その不本意な行為と戦った。キリ
 スト教と戦った。
  しかし、キリスト教は、その俗の王を凌(しの)ぐ力
 (ちから)を持った。
  俗の王が、キリスト教権力に、破門の解除を願い、許
 しを乞うた話が、過去にもある、「カノッサの屈辱」と
 いう歴史的事実だ。
  この話は、キリスト教が、強権を使って、俗の王を謝
 らせてしまったという話である・・が、
  この歴史的事実は、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣
 伝)で、キリスト教が美しく話を仕立てて話されている、
  が、しかし、話は、まったく逆である、
  キリスト教が、キリスト教の権威で、腕力で、俗の王
 を謝らせた・・という権力闘争に打ち勝ったという話で
 ある。
  王権神授説(おうけんしんじゅせつ):王の統治権は
 人民の委託によらず、(キリスト教の)神の特別な恩寵
 おんちょう)に基づく・・とする。
  人民の総意ではない、人民の意思ではないというから
 恐れ入ってしまう。
  恩寵(おんちょう):(キリスト教の)神から受ける
   恵み。
  この話を、キリスト教に偏するNHKは、学校放送の
 番組として、キリスト教と同じ言い方で高校生たちに説
 明した。
  まったくキリスト教会の手先の様な放送をした。
1741年、ロシアのヴィトゥス・ベーリングが、第二次探検
 でアラスカ沿岸に達した。
  この第2回カムチャッカ探検は、1733年~1743年にかけ
 て行われた。
  ロシアは、1733年に、探検隊を編成した。
  そして、1741年7月4日に、第二次調査隊が、ペトロバ
 ブロフスを、アメリカ大陸を目ざして出発した。
  そして、1741年7月16日に、アラスカの陸影を視認した。
  そして、数日後、アラスカのカヤック島に上陸した(
 7月17日説あり)
  その後、カムチャッカに向かい、発見した陸地を海図
 に記入しながら航海を続けた。
  そして、1741年8月末に、アリューシャン列島の島々を
 発見し、シュマージン諸島の島の一つに上陸した。
  そこで一週間をすごし、土地の住民のアレウト人と初
 めて遭遇した
  (だから、ロシア人が最初の発見者ではない。アレウ
 ト人が最初である)
  その後、病気で死んだ乗組員を葬ったり、大嵐に見舞
 われたりして、1741年11月4日に、コマンドルスキー諸島
 の無人島の海岸線を視認後に漂着した。
  壊れた乗船と、多くの病人を抱え、ベーリング船長自
 身も重い病のなか、その島に上陸した。
  そして、その島に居た巨大なジュゴンを獲って、飢え
 をしのぎながら、越冬した。
  しかし、1741年12月8日に、ベーリング船長は、60歳で
 没した。そして、この島に葬られた。
  ベーリング隊の生き延びた乗組員は、船医で博物学者
 であるステラー博士と、ワクセル中尉に率いられて、カ
 ムチャッカに戻った。
  この途中で、ステラー博士も亡くなった。
  この後、この乗組員たちを救ったジュゴンは、乱獲さ
 れ絶滅したという。
1742年11月、銅の輸出額を制限した。
  幕府は、長崎を天領とし、奉行をおいて、貿易を監督
 した。
  おもな輸入品は、生糸・薬品・書籍だった。
  そして、輸出品は、銀・銅・海産物だった。
  日本の銅は品質が良かった。
  遠い日本の地であっても国際的な競争力があり、大量
 に流出していた。
  また、生糸などの輸入価格が引き上げられ、大量流出
 の原因にもなっていた。
   幕府も貿易統制を行なったり(市法売買)努力した。
  日本の貨幣改鋳による金銀の質の低下が起きると、銅
 の輸出額(量)が急激に増加して行った。
  銅の集荷などを幕府はさせたが、
  また、海産物の輸出の増加をはかって、銅などの流出
 量を減らそうとした・・が、
  銅の需要の急激な増加は、各地の銅山をたちまち枯渇
 させた。
  その様な中、金銀の流出も防止せざるを得なく防止し
 たため、銅へ集中する状況においてコントロールが行わ
 れた。
1742年、経済:幕領年貢
  この頃の幕領年貢は、近世後期最大の180万石となる。
1742年、令:公事方御定書(くじがたおさだめがき)
  御定書百箇条(刑法関係成文法規)を作った。
  この「公事方御定書」は、吉宗の命によって、老中の
 松平乗邑、および、三奉行が中心になって作成した(幕
 府の内規集という形)。
  法律に関心の深かった吉宗自身の意見も、随所に反映
 されているという。
  そして、この作成者ら以外には秘密にされた。
  判例・取り決めなど103条が収めてある。
  1742年に、一応、出来上がったが、奥書(おくがき、
 著作や写本などの巻末の、著者名・書写年月日・来歴な
 どについての書き入れ)も書かれたので、一般に、この
 年を成立時期としているが、
  編集は、続行されていて、実質的に完成したのは、翌
 年の1743年だった。
  そして、その後も1754年まで書き加えが行われている。
1742年、フランソワ・デュプレクス(フランス人)が、ポ
 ンディシェリ(インド南東部の港湾都市、フランス領イ
 ンドの首府)の総督となる。
  この都市は、イギリス領インドの中でフランス領とし
 て存続し続けた。
  この2年後の1744年に始まったオーストリア継承戦争
 では、対抗関係にあるイギリス東インド会社に対して優
 勢の内に戦いを進めた(実質的にはイギリスとフランス
 の植民地における戦争、会社が絡んでいるだけ)。
  インドでは、卑劣な事に、このイギリスとフランスは、
 何度も戦争をしている。
  南インドの東海岸の貿易拠点を巡る戦争や、荷物の集
 散地をめぐる争いや・・
  インドの方たちが迷惑なだけだった・・
..
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2015年7月28日火曜日

(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年~1740年)

題:(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年~1740年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1739年1月、但馬(たじま、兵庫県の北部)の百姓一揆。
  また、1738年の長雨によって鳥取藩内も凶作となり、
 飢饉も発生した。
  しかし、藩は、救済策を施すどころか増税を課し、年
 貢を厳しく取り立てた。
  この事から、1739年2月には、因幡(いんば、鳥取県東
 部)から始まり、
  後に、伯耆(ほうき、鳥取県の中西部)まで広がると
 いう、鳥取藩政史上最大の惣百姓一揆(元文一揆、勘右
 衛門騒動)が起こった。
  一揆の参加者は、5万人に上ったと言われ、当時の鳥取
 藩の人口は約30万人なので、実に、総人口の6分の1が
 参加した。
1739年6月、ロシア船出没
  陸奥(牡鹿半島)・安房(房総半島)・伊豆下田など
 の沿海に、ロシア船が出没した。
  アメリカの黒船の来航(1853年)に先立つこと114年で
 あった。
  幕府は、ロシア船の去った後、現地住民が船員から入
 手した銀貨・紙札(トランプのカード)を、長崎の出島
 のオランダ商館長に照会し、
  ロシアのものであることを確認した。
  これが、幕府のロシア確認の初の事例となった。
  尚、住民は、銀貨と野菜や魚、煙草などと交換したの
 だった。
  ロシアの日本への艦隊の日誌によると、
  シュパンベルグ船隊の航海日誌
 「1739年7月24日、日本の陸地を発見、
  松前島で多くの日本人に出会うも、乗組員は疲労し、
 病人20人余発生で帰途に着く」とある。
  ワルトン中尉の航海日誌
 「1739年6月19日、18人乗り小舟が接近、カジミロフ航海
 士と、チェルカシェニン給食員と、兵6人で上陸、飲料
 水1樽半分を持ち帰り、酒食で歓待されたと報告、
  150艘以上もの小舟が取巻いたので、出帆して帰路に着
 く」とある。また、
 「1739年6月22日、37度30分で、海岸の沖合に投錨、
  岸から日本人が、小船で来船、物々交換で交流
  10~12人乗りの小船79艘が、船を取巻いたので、上陸
 は中止して帰路に着く」とある。また、
 「1739年6月23日、北緯33度28分付近で、小島に上陸、薬
 学生が薬草を採取」とある。
  ロシア艦隊は、この後、紀伊半島の潮岬付近まで行っ
 ている。
  日本側の資料として、「元文世説雑録」がある。
1739年、人事:青木昆陽を、幕府が登用。
  野呂元丈とともに蘭学研究などにあたる。
1739年、イギリスとスペインとの間で「ジェンキンスの耳
 の戦争」が始まる。
  海上権争覇(そうは、覇権を争うこと)の戦争。
  イギリスの船長のジェンキンスが、耳を切り落とされ
 たのが名の由来。
  オーストリア継承戦争へも拡大して行く、
 そして、卑劣な事に、ヨーロッパ中が関わって、大戦争
 へと発展して行く。
  戦争が複数へと拡大したこれ等の戦争は、1748年のア
 ーヘンの和約まで続く(9年間)、
  そして、それでもおさまらず、1756年からは、七年戦
 争へと続いて行く。
  日本は江戸時代、本当に平和な時代が続いている。戦
 争一つ無し。天候の関係で一揆はあったが・・、
  戦争のデパートと言ってもよいヨーロッパには、「第
 2次百年戦争」という戦争もやっている。
  1689年~1815年の間、ヨーロッパ内の国境紛争や、王
 位継承がからみ、
  主に、北アメリカ大陸を舞台として、アフリカや南ア
 ジアも含む、海外植民地の争奪戦。
  イギリスとフランスの間て繰り広げられた戦争もある。
1739年、ナーディル・シャーが、デリー略奪(ムガル帝国
 衰退へ)
  ナーディル・シャーは、イラン(ペルシャ)のアフシ
 ャール朝の初代シャー(王の称号)。
  在位:1736年~1747年と、きわめて短い期間だが、ア
 ジア大陸最西部のアナトリアから、イラン、中央アジア、
 インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れた。
1740年11月、天文学者・西川正休(にしかわまさよし)が
 幕府に召し抱えられた。
  幕府に出仕して寺社奉行配下に属し、後に、江戸城吹
 上御苑において、暦術測量御用をつとめる。
  長崎の文化人として著名な西川如見の子で、西洋天文
 学を、我が国に広めるのに、大いに貢献した。
1740年、一橋家(ひとつばしけ)の創始(1741年説あり)
  政宗の子・宗尹(むねただ、家斉の祖父)、一橋(御
 三卿の一つ)を創始した。
  1735年に、宗尹は徳川の家号を許され、
  そして、1740年に、江戸城一橋門内に、屋敷を与えら
 れた。
  御三家に次いで、田安、清水両家と共に、高い家柄と
 なった。
1740年、科学:クリスタン(フランス)が、氷点0の温度
 目盛りを用いた(現在の℃と同じ)
1740年10月、オーストリア継承戦争始まる(~1748年)
  これも、イギリスが絡(から)んだ戦争。
  1740年に、神聖ローマ帝国の皇帝が死に、イギリスや
 オランダやドイツ諸侯などの承認を得た勅書に従い、皇
 帝の長女マリア・テレジアがハプスブルグ領を継承した。
  そのオーストリア王女マリア・テレジアの即位に反対
 するフランス、スペイン、ザクセンなどが対抗した。
  古い恨みや怨念も噴出するドロドロした戦争ばかりの
 地であった。
  欲と怨念の地獄界の世界。植民地の色々の事も絡んだ。
  苦戦のマリア・テレジアは、イギリスの助けで戦いに
 優位に立つ。
  和平しても、その後に、また、各地で戦争が続くという
 世界だった。
1740年、シレジア戦争が起きた。
  シュレージエン戦争ともいう。
  第一次シュレージエン戦争、第二次とつづき、七年戦
 争(第三次ともいう)と続く・・、
  オーストリア継承戦争と七年戦争の内、オーストリア
 と、プロイセンがシュレージエン地方の帰属を巡って戦
 った戦争をいう。
  講和をしたり、戦ったりというのを繰り返した。
  オーストリアはシュレージエンを取られて、敗北を認
 めたにもかかわらず、また、奪還を目指して戦うという
 領有を巡ってのあくなき戦いが続いているヨーロッパだ
 った。
1740年、清朝の法典の「大清律令」が成る。
1740年、湖南で苗族(ミャオ族)の反乱(1735年~1738年
 の説あり)
  苗族は、三次に渡って反乱を起こしている。
  三度目の反乱(1854年~1873年)は、最後で、大規模
 な反乱で、苗族の人口の3分の2の方々は亡くなったとい
 う。
  生き残ったのは、3分の1だったという。
  漢族の商人が現地に入って、林業などを中心にして商
 業網を確立して、苗族の方々を抑圧したという。
  焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返す人
 々や、棚田を巧妙に作って水稲稲作を行なって定着した
 人々が平和に暮らして居たが・・反乱を起こすに至った。、
  苗族(ミャオ族)は、中国国内に多く居住する民族集
 団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、
 ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。今現在
 の総人口は1100万人となっている。
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2015年7月27日月曜日

(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年~1738年)

題:(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年~1738年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1737年、人事:松平乗邑(まつだいらのりむら)が、勝手
 掛老中に就任した。
  農財政の最高責任者である(詳細は既述)。
1737年8月、オスマン・トルコが、オーストリアと戦う(
 ~1739年にベオグラード条約が結ばれた)。
  オスマン帝国は、パッサロヴィッツの和約(1718年)
 でオーストリアに割譲されたセルビア地方を回復し、失
 地回復した。
1738年、林子平(はやししへい、経世家)が生まれた
 (1738年~1793年)
  幕臣の子として生まれ、陸奥(むつ)仙台藩士となる。
  藩に富国策の大切さを説き、提出した。
  1767年に、江戸に遊学し、大槻玄沢らの蘭学者と交わ
 り、
  また、1778年に、長崎遊学し、オランダ商館長アーレ
 ント・フェイトと交わり、海外事情の収集に努めた。
  その詳しい海外事情から、著作「三国通覧図説」を、
 1785年に書き、
  その著に、ロシアへの防備策、および、その為の蝦夷
 地開発の必要性などを説いた。
  その他・著書に、「海国兵談」がある(1786年)。
  この著では、江戸湾の防備が、特に大切と説いた。
  ただ、これらの著は、幕府の痛いところに触れたため、
 板木は没収され(1792年)、蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)
 となった。
  その時の句:「親も無し 妻無し子無し 板木無し、
 金も無ければ死にたくも無し」
  この子平の蟄居の時に、ロシアのラクスマンが根室に
 来航した。
  そして、幕府に通商を求めた。
1738年4月、経済:幕府が、長崎への廻銅が減少したため、
 大坂に銅座を再置して、
  諸国の産銅を管理させた(銅の統制機関とした)。
  翌年の1739年に、銅輸出の制限をした。
1738年10月、生野銀山元文一揆(いくのぎんざんげんぶん
 いっき)(12月説あり)
  但馬(たじま)国(兵庫県)の生野銀山の鉱夫が、扶
 持米増加などを要求して、町役人の赤井治左衛門宅を打
 毀し、
  代官所へ強訴(ごうそ、強硬な態度で相手に訴える行
 動)した。
  参加人員は700~800人。
  一揆の直接の原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買
 上げ計画にあるが、
  遠因(えんいん、遠い原因)には、幕府の政策がある。
  この年の4月の、幕府の長崎への廻銅確保のための、大
 阪の銅座設置は、
  全国の銅の廻送を命じたので、銅値段が急激に下落し
 た、そのためだった。
  この一揆は、銀や米の救済のための支給を行なうこと
 を約束をし、鎮まった。
  また、周辺の幕領農民も一揆を起こした。
  これは、生野銀山の鉱夫たちの一揆の成功に刺激され、
 12月に起きた。
  村々からの1万人が、年貢減免などを求めて強訴する
 という行動を起こした。
1738年、産業:絹織物生産技術を導入
  桐生が、京都西陣の高級絹織物生産技術を導入した。
  養蚕地帯を背景として発展した。
  職工(西陣の織物師・弥兵衛と吉兵衛)を招き、雇い
 入れ、また、西陣の技術である「高機(たかはた)」を
 導入し、
  本格的な大量生産による高級絹織物の生産が始めた。
  生産量は、それまでの何倍にも膨れ上がり、
  技術面も向上し、
  流通面も西陣の機構から脱し、独自の市場を開拓した。
  また、流行も先取りする新しい織物(桐生織)を作っ
 た。
  市(いち)も賑わい、莫大な利益向上となり潤った。
1738年、産業:新たな機業地発達
  丹後・近江などにも新たな機業地発達し、西陣の地位
 が低下した。
  丹後は、丹後縮緬(ちりめん)として有名であるが、
 18世紀前半に、西陣から技法を導入した。
  そして、盛んにちりめん生産がなされた。
  (1説では、丹後地方では、1719年と1722年に、西陣
 の縮緬製織の技術を習得した者たちが、丹後縮緬を作り
 始めたとある。
  そして、この技術が、1752年に、近江長浜へ伝えられ
 長浜縮緬の生産が開始された・・とある)。
  ちりめんは、株仲間を組織する京問屋へ飛脚によって
 送られ、染色・加工のうえ委託販売された。
  18世紀に入ると、西陣技術は各地へ伝えられ、地方の
 機業が発展した。
1738年、産業・経済圏の形成、(関東を中心とした市場圏
 の形成)
  関東各地に、手工業地が現れ、江戸地廻り経済圏(え
 どじまわりけいざいけん)の形成が始まった。
  江戸に入荷する商品は、京都・大坂方面からの下り荷
 と、江戸に近い近国から送られてくる地廻り荷に2大別
 でき、
  江戸地廻り経済圏は、この地廻り荷のもの。
  幕府は、初め、比較的高い技術を持つ京・大阪圏の生
 産品に対する市場政策を取り、
  また、依存する度合いが強かった・・が、
  江戸の中期になると、大阪と結合して、江戸の市場を
 統制することが試みられて来た。
  江戸中期になると、関東やその周辺地域の、江戸を市
 場とし、目あてとする生産も高まった。
  幕府も、商品生産を奨(すす)め、江戸市場への流入
 を図る政策をとった。
  江戸後期になると、ますます、江戸地廻り経済圏は発
 展して行く。
1738年、伊勢(三重県)万古焼(ばんこやき)が始まる。
  三重郡朝日村小向(おぶけ)に開窯して、
  オランダ風の赤絵付けを施した陶器を焼いたことに始
 まった。
  元文年間(げんぶん、1736年~1741年)に開窯との記
 述もある。
1738年、出版:林子平(1738年~1793年)は、「海国兵談」
 「三国通覧図説」を著して、外国の脅威を説いた。
1738年、ダニエル・ベルヌーイ(スイス)が、ベルヌーイ
 の定理を発見した。
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2015年7月26日日曜日

(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年~1736年)

題:(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年~1736年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1736年5月、貨幣の改鋳:元文(げんぶん)の改鋳
  吉宗は、米価の引き上げ策を講じて、財政に困窮する
 武士、および、農民を救済したいとした。
  しかし、種々の策を講じるが、思うような効果を挙げ
 ることはできなかった。
  そこで、取られたのが、この貨幣改鋳策だった。
  1736年5月12日に、金銀改鋳の町触(惣触)が発せら
 れた。
 (1)世情金銀不足の為通用不自由と聞こえるので改鋳を
 行う。
 (2)吹改金銀の交換比率は、慶長金、正徳享保の新金は
 100両に付き100両、乾字金200両に付き100両、慶長銀・
 正徳銀新銀10貫目につき10貫目とし、この比率で差別無
 く通用させる事。
 (3)但し、引替金100両に付き65両、銀10貫目に付き5貫
 目の「増歩」を附けて従来の金銀と交換する。
 (4)引き替えは町人に委任して行うから、武家を始めと
 し、各人相対にて交換する事。
 (5)従来の金銀の数量は判明しているから、貯蔵せずに
 引替える事、退蔵者は処罰され、退蔵銀は従来通り潰銀
 として扱う事。
  これまで、経済が発展している状況下において、貨幣
 の増鋳(貨幣を多く流通させる)が必要とされていた。
  そして、そのために、ある程度の貨幣の質の低下は不
 可避なのであった。
  しかし、とられた政策は、あえての貨幣良鋳の経済収
 縮政策が取られていた。
  そして、良貨による貨幣流通量の減少となり、景気は
 停滞する傾向となった。
  この吉宗のとった貨幣の悪鋳策、より質を落とした元
 文金銀の発行によって、インフレにし、米価を引き上げ
 ようと図ったのだった。
  結果的に、物価調整は行なわれ、景気は持ち直した。
  米価は、1736年~1818年の間、横ばいないし若干の低
 落気味におさまった。
  ある程度の効果があったため、この後、元文金銀は80
 年以上に渡って通用した。
  また、3年後の1739年には、鉄銭の寛永通宝も発行され
 た(銅貨の交換レート跳ね上がり防止策)。
  今までの社会は、正徳金銀や享保金銀などの良質貨幣
 の流通によって通用金銀が不足し、米価および諸物価が
 暴落していた。
  通用金銀の不足改善のため、改鋳して質を落し、その
 流通量を増やし、経済の安定をしたいとした。
  この改鋳金銀には、裏面に「文」の字の極印があり、
 文字(ぶんじ)金銀ともいう。
  また、真文字(しんもじ)金銀とも、古文字金銀とも
 いう。
  また、元文小判、同一分金、同丁銀、同豆板銀をいう。
1736年5月、経済:米価最低価格制を廃止(6月説あり)。
  米価下落防止のため、1735年に、最低価格を公定(こ
 うてい、政府や公共団体などが公式に定めること、この
 場合、幕府)とした(米価の統制価格とした)・・が、
 この制度を吉宗は、改鋳による効果があったとして(米
 価は倍に跳ね上がった)、制度廃止とした。
  武家は大いに潤ったという記録がある。
  しかし、改鋳によって、新旧の金銀がオーバーラップ
 して流通したり、相場の変動などで、町民の生活に混乱
 が生じた。
1736年7月、荷田春満(かだのあずままろ、国学者、歌人)
 が没した(1669年~1736年)(没年に8月説あり)
  国学の四大人と言われる。
  吉宗から書物奉行の命を受け、幕府所蔵の和書の鑑定
 に従事し、吉宗の下問に答えた。
  弟子に賀茂真淵(かものまぶち)らがいる。
  赤穂浪士の大高源吾と交友があり、春満は、吉良邸に
 出入りする便宜があったため、邸の図を大高に与えたと
 いう。
1736年7月、伊藤東涯(いとうとうがい、儒学者)が没した
 (1670年~1736年)(没年に8月説あり)
  父の家塾・古義堂をまもり、青木昆陽らの多数の人材・
 門人らを教え、輩出した。
  紀伊候の招きを辞して幼弟の養育にあたり、父同様、
 生涯、町(まち)学者として、父・仁斎の学問を忠実に
 守った。
  湯浅常山は、「東涯の学問は仁斎に倍せり」と評した。
1736年、令:江戸城中での落書・浮説などの政治批判の禁
 止。
1736年、人事:大岡忠相(おおおかただすけ)が、町奉行
 から寺社奉行に転じた。
  大岡一族は、徳川氏三河以来の譜代。
  忠相は、旗本・大岡忠高の4男で、1700年に1920石を継
 ぎ、1712年に伊勢国に置かれた幕府の遠国奉行のひとつ
 の山田奉行になった。
  1716年に普請奉行。
  1717年に吉宗により町奉行に登用され越前守となり、
 様々な施策を行なった。
  1722年に関東地方御用掛を兼務し、治水事業までした。
 また、武蔵野新田の農政も展開した。
  そして、1736年に寺社奉行となった。
  たびたびの加増で1万石の大名にもなった。
1736年、イランのナーディル・シャー(在位:1736年~
 1747年)がアフシャール朝(1736年~1796年)を創建
 した。
  アフガン人を、イラン全土から駆逐し支配した。
  また、アフガニスタンを支配した。
  インドに侵攻して、ムガル帝国の首都のデリーを占領
 した。
  また、中央アジア、メソポタミア、トルコなどに侵入
 した。
  1747年に、部下に暗殺された。
1736年、オスマン・トルコが、ロシアと戦う(1739年、ア
 ゾフを喪失)
  ロシア・トルコ戦争は、16世紀後半から19世紀にかけ
 て、ロシア、オスマン・トルコ帝国間で、黒海およびそ
 の沿岸地方の支配をめぐって、11回争われた・・が、
   ロシアのアンナ・イワーノブナ女帝が、オーストリア
 の支援を受けて、オスマン・トルコと戦端を開いた。
  そして、アゾフを領有してようなく黒海への進出の橋
 頭保(きょうとうほ)を得た。
  この後、まだ、この両国は、6回、戦争をする、1878年
 まで。
  1878年に、サン・ステファノ条約で講和する。
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2015年7月25日土曜日

(増補版)163D1/3:気になった事柄を集めた年表(1733年~1735年)

題:(増補版)163D1/3:気になった事柄を集めた年表(1733年~1735年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1733年、北米植民地に関する糖蜜法(とうみつほう)が、
 イギリス議会で成立した。
  糖蜜や砂糖に関し、フランス領の西インドの商品に、
 イギリス領の植民地の西インドの商品が敗れた。
  この為、イギリスは、フランス領の商品に高率の関税
 をかけた。
  糖蜜法は、イギリス議会が北アメリカ植民地に対して
 外国領産糖蜜・砂糖の輸入に課した高率な関税法。
  奴隷主プランターの言いなりに禁止的な高い関税の法
 律を作った。
1733年、ポーランド継承戦争(けいしょうせんそう)が起
 きた(~1735年)
  元はポーランド王位の継承をめぐる内戦だが、
  それに呼応したフランスとスペインの連合と、そして、
 それに対する、オーストリアとロシア諸国との戦争。
  お互いが推す王を巡っての争いだが、卑劣な事に、こ
 の問題によって、ヨーロッパ中が戦争になった。
  ヨーロッパの国々が、恨み・つらみなどの一物を抱え
 る(いちもつをかかえる、表面上は平静を装っているが、
 実は隠れたところに不満などが溜まっている)状態の
 国々だった。
  王位と領土を巡って争っていた。
1733年、大清会典(だいしんかいてん):基本法典の一つ
  中国、清代に編纂された行政上の大綱の総合法典。
1733年、ジョン・ケイ、飛杼を発明、高速織機の発明。
  ジョン・ケイは、イギリスの機械工で、自動織機発明
 への重要な一歩となる飛杼(とびひ)を発明した。
  素晴らしい発明だったので、この高能率のこの装置の
 普及につれて、失業を恐れた職工が暴動を起こした。
  この様な素晴らしい発明をしたケイは、特許を申請し
 たが、
  資本家が、特許使用料を払わなったこともあり、フラ
 ンスに渡り、不遇のうちに死んだ。
1734年4月、紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)
 が没する(1669年?~1734年)
  一代で巨万の富を築いた。
  そして、一代で使い果たした豪商。
  紀州のミカンを江戸に運び、そして、江戸から塩鮭を
 上方へもたらすという商売で巨利を得た。
  後に、材木商として、江戸に進出し、
  江戸・京橋本八丁堀に居を構え、
  一町(約109メートル)四方の屋敷に材木問屋を開き、
  また、材木置き場を、深川木場に置いて、木材の買占
 めでも巨富を築いたという。
  江戸は火事が多く、その都度、繁盛を極めた。
  老中の柳沢吉保に取り入り、幕府の御用達商人となっ
 て全盛を極め、紀文大尽と呼ばれた。
  吉原で大尽遊びを競った。
  柳沢吉保が失脚すると廃業となり、失望・落胆の生活
 を深川で送ったという。
  柳沢吉保らと結託し、御用達商人として利権を得て、
 巨利を得たという。
  また、御用達商人として、長崎貿易にも関係し、亜鉛
 を原価で仕入れ、
  亜鉛はリスクが多かったが、材木と共に利益の大きな
 商品だったという。
  取り巻きに、俳人の榎本其角らの一流の文化人がつい
 ていたという。
  しかし、不明な点が多い。
1734年8月、室鳩巣(むろみゅうそう、儒学者)が没する
 (1658年~1734年、77歳)
  新井白石の失脚後も、将軍・徳川吉宗の信任が厚く、
 1722年に侍講(じこう)となった。
  しばしば諮問を受けて、幕政にも関与していた。
  没するまで、西丸(にしのまる)奥儒者の地位に居た。
1734年、農業:諸国産物の調査
  幕府が、「庶物類纂(しょぶつるいさん)」の増訂を
 企て、諸国産物を調べた。
  庶物類纂は、本草学者で加賀金沢藩の儒医であった稲
 生若水、および、その弟子であった丹羽正伯らが編纂し
 た博物書。
  古今の漢籍などから、植物・動物・鉱物・薬物などの
 記事を調査し、
  その3590種の記事を、それぞれの種類・分類を精査し、
 分類検討を加え、また、再編集を加え、登載した書。
  1734年より、未完成的であったものを、編纂開始し、
 4年後の1738年に、未完部分であった638巻を完成させ、
  後援していた加賀藩に提出し、
  加賀藩は、それを幕府に提出した。
1734年、農業:甘藷の栽培、
  この頃、甘藷を小石川薬園、江戸城吹上苑に試植、諸
 国に栽培を奨励した。
1735年10月、経済:最低価格を公定
  米価の下落を防止し、更に、米価引き上げのため、最
 低価格を公定した。
1735年、アイヌ交易:松前藩、
  この頃、アイヌ交易を内地商人に委託する。
  「場所請負(ばしょうけおいせい)」制を採用した。
  場所請負制は、松前藩特有の、蝦夷地特有の流通制度
 であるが、
  この藩は、米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与
 える俸禄は、石高に基づく地方知行ではなく、
  給地に相当するものとして、漁場、および、アイヌと
 の交易地域である商場を設け、
  そこでの交易権を知行として家臣に分与した。
1735年、出版:蕃薯考(ばんしょこう)
  青木昆陽の「蕃薯考」が出版された。
  農書である。救荒作物として有用な甘藷(かんしょ)
 の性質、栽培法などが記してある。
1735年、発明:コークス高炉法が発明され、実用化された。
  木炭による高炉製鉄の方法は、15世紀頃に、ドイツの
 ライン川流域で生まれ、イギリスなど西ヨーロッパ全域
 に広がっていた。
  しかし、木炭が枯渇し始めていた(山がはげ山になる)
  コークスが、1709年に、イギリスで熱源としての試み
 に使用して成功した。
  1735年に至って、ダービー二世(イギリス)が、燃料
 のコークスを用いる高炉で、鍛鉄用銑鉄生産をした。
  硫黄の少ない銑鉄が製造可能となり、銑鉄の生産量が
 急速に増大した。
1735年、ハドレー(イギリス)が貿易風の原因を論じた。
  この年に書いた「一般貿易風の原因について」は、大
 気大循環論のはしりというべき論文だった。
  大循環の原因を、「赤道地方と極地方の気温差」「地
 球自転の影響」の2点であるとしている。
  現代でも通用する論理である。
1735年、清朝六代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)が即位
 した(生没:1711年~1799年)
  (在位:1735年~1796年)廟号:高宗、
  清帝国の版図とともに、政治・文化・芸術が最高潮に
 達した。
  幼少時から帝王学を授けられ、生まれながらの皇帝と
 して存在した。
..
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2015年7月24日金曜日

(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年~1733年)

題:(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年~1733年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1732年、イギリスのアメリカのジョージア植民地が成立し、
 北米のイギリス植民地が13州(最初は「邦」と言ってい
 た)となった。
  北米におけるイギリスの植民地は、1607年のヴァージ
 ニアに始まり、
  この1732年のジョージアに至って、北アメリカ大陸の
 東海岸に13の植民地が形成された。
  このイギリスからの移住者(植民地人)は、フランス
 からの移住者と違い、先住民のインディアンの方々の土
 地を奪って、定住して行ったため、
  インディアンの方々と衝突することも多く、殺戮し、
 土地を奪って行った。
  ニューイングランド植民地(北部植民地)は、ピュー
 リタン(キリスト教清教徒、イギリスの新興宗教のキリ
 スト教でイギリスで迫害を受けたため、アメリカの新天
 地を求めて移住して来た)が多かった。
  後に、奴隷貿易を始めて、アフリカから非人道的行為
 である黒人の方々を連れて来る(輸入すると称した)。
  この黒人の方々を使ったプランテーション経営層は、
 キリスト教のカトリックが多かった。
1732年、中国、清朝、雍正帝が、軍機処(ぐんきしょ)を設
 置した。
  軍事機密を保持するため。
  軍事・行政上の最高機関。
  1929年に、紫禁城内に臨時に設けられ、1732年に独立
 し、正式に軍機処と呼ばれることになった。
  雍正帝の時は、北方遊牧民族に対する軍事力行使のた
 めに臨時に設けられたが・・、
  乾隆朝になると、内閣の実権を奪って、重要政務全般
 をつかさどる最高機関になった。
1733年、杉田玄白(すぎたげんぱく、蘭方医、蘭学者)が、
 江戸で生まれた(1733年~1817年)
  前野良沢らと「ターヘル・アナトミア」を訳出し「解
 体新書」として刊行した。
  西洋医学を広く紹介した。
  著書に「蘭学事始」などがある。
1733年、円山応挙(まるやまおうきょ、絵師)が生まれた
 (1733年~1795年)
  「雪松図屏風」(国宝)
1733年1月、米価騰貴し、初めて江戸で打ち壊し(打毀・う
 ちこわし)起こる。
  また、各地で米価高騰のため、打ち壊しが相次いだ。
  前年の1732年に、享保の大飢饉が起きている。
  打毀は、百姓一揆と違い、おもに都市において見られ
 た暴動で、暴動の主体勢力が都市の下民層で、原因が、
 米価高騰にあった。
  打毀の対象となったのは、米屋、酒屋、質屋、問屋な
 どの富裕な商人たちだった。
  この人々の意識に、米価の吊上げを謀った(はかった、
 計略に掛ける)ことから、その影響を受けたという意識
 があった。
  打潰(うちつぶし)とも言い、打壊とも書き、
  百姓の場合は、大庄屋・庄屋層、地主・在方商人(ざ
 いかたしょうにん、農民身分のまま商業活動を手広く営
 むようになった商人層)・都市富商などの豪農・豪商の
 家屋・家財・生産用具類を破壊し、被害を与えた。
1733年、江戸日本橋で高間騒動。
  この江戸での打ち壊しに、高間騒動というのがある。
  高間伝兵衛は、豊かな米商人だった。
  幕府は、1730年9月12日に、この打ち壊しから3年前に、
 豊年が続いて米価が下落し、武士などの財政が困窮して
 いたのを救うため、
  幕府は、伝兵衛など8人の米穀商に、上方の米(かみが
 たまい)の独占取引権を与え、買い入れさせていた。
  1731年には、幕府は、米穀商へ安売りを禁じた。
  そしてまた、1731年7月には、米方役の伝兵衛を、大阪
 に派遣して買米(かいまい、幕府の買い上げ)をさせた。
  1732年に、享保の大飢饉が起きる。
  1733年まで餓死者が相次いだ酷い飢饉だった。
  幕府は、この飢饉の時、昨年に買入れた米や、東国の
 米までもを加えて、西国に送り出し、救援した。
  その為、江戸でも、米不足が起きて来て、米価が上が
 った。
  そして、庶民は困窮した。
  1733年1月23日に、伝兵衛は、高騰した米価を下げるた
 め、幕府に安価で、備蓄していた米の2万石を売りに出す
 ことを願い出た。
  幕府は許可した。
  しかし、江戸の町民は、「米価が高騰したのは、幕府
 と癒着した米商人の、この高間伝兵衛が、米を大量に買
 い占めて、貯えているせいだ」と噂を立てた。
  その時、流行った狂歌が・・、
  「米高間 壱升弐合で粥にたき 大岡食はぬ たった
 越前」・・と詠った。
  これは、米が高く(高間)て、銭百文では一升二合し
 か買えないので、お粥にしたが、多く(大岡)食べられ
 ず、たった一膳(越前)だけだ。
  実際は、伝兵衛の備蓄は、米価調整の為であり、私欲
 で貯め込んでいた訳ではなかったが、
  米方役として米価を左右し、江戸吉原を3日間貸切ると
 いう豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対し、
  庶民は「私欲で、米穀を買占め、高値で売っている」
 と疑った。
  そして、26日の夜、町民たちが1700人余り(4000人と
 もあり)が集まり、
  伝兵衛の本船町の店(たな)の打ち壊しを決行した。
  家財は砕かれ、前の川に捨てられた。
  町奉行は、捕り手を出動させ、騒動を収めた。
  そして、打ち壊しを扇動した首謀者を捕らえた。
  首謀者4人の内、1人を重遠島、3人を重追放とした。
  伝兵衛は、打ち壊しは会ったが、翌月には、米2万石を
 安価に売却する事を、幕府に願い出て、上申した。
  歌舞伎・講談などでは、町人の受けを狙って伝兵衛を
 悪徳商人として描いていることが多い。
  伝兵衛は、1735年7月に、病死した。
  そして、次の代の同じ名の伝兵衛が引継ぎ、11月に、
 米方役に任命された。
1733年、狂犬病の流行(日本における最初の流行)
  西日本に狂犬病が流行し、以後、東日本にも波及した。
  この狂犬病の発端は長崎だった(外国からの流入)。
  この年に、長崎から狂犬病の大流行が始まった。
  「両郡古談」に、
  「(1733年の享保)18年5、 6月頃より犬夥しく麻疹
 に而多くくるい人に喰付く、 はれ候者は疵口甚痛、 病
 犬の熱毒皮肉臓腑に通り多く死す。 尤去子年、 長崎辺
 りより流行、 牛馬等へも喰付候段、 打殺川にも入る也」
 とある。
  翌年の1734年には、長崎から大分へ伝播した。
  また、別の史料によると、
  「享保17(1732年) 壬子年、今年西国筋は不気候に之
 あり、備前、備中、広島、備後辺之犬迄も病につき、人
 民に噛付き、多く人損しも有之、播州辺迄も同様之由也」
 という記載がある。
  長崎での発生と同時に、中国地方を山陽道に沿って一
 気に東走して、4年後の1736年に、東海道を経由し、江
 戸まで到達したという。
1733年、農業:藍専売制、阿波藩(徳島藩)が、藍の専売
 制を開始した。
  吉野川流域に産する阿波藍(あい)は、藩最大の国産
 品で全国に市場を持っていた。
  1804年のピーク時には27万俵を算出し、藩の経済を大
 きく支えていた。
  しかし、順調に来たわけではなかった。
  藍作人は、藍作の展開に伴って、逆に、商品経済の好
 餌となり、経営が破綻し、困窮化の様相を強めた。
  藩は、阿波藍の利潤に着目して、1733年に、藍方御用
 場を新設し、葉藍取引税など葉藍専売制の政策に着手し
 た。
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2015年7月23日木曜日

(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年~1732年)

題:(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年~1732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1730年6月、再度、藩札発行を許した。
  領国の石高が、20万石以上であれば、通用期間25年、
 20万石以下であれば通用期間15年・・などの条件付きで、
 藩札の発行が再解禁された。
  この背景には、 下落した米の価格があり、諸藩の財政
 窮乏救済の目的があった。
  発行は、幕府の許可を必要とし、領国内のみの流通と
 し、また、幕府の貨幣と兌換(だかん、幕府の正貨と引
 き換えること)ができる事を原則とした。
1730年、経済:相場公認される
  大阪堂島の米市場が設立され、米仲買人の相場が公認
 された。
1730年、人事:水野忠之が、老中を罷免される。
  享保の改革の大きな転換点を迎えた。
  忠之のこの辞任の後、松平乗邑(まつだいらのりさと)
 が老中首座となり、後期の享保の改革をリードして行く
 こととなった。
  松平乗邑は、1737年に、勝手掛老中となる。
  幕府にとって痛かったことは、米の増産が収入増に、
 当初はなっていたが、
  その増産が、米価下落を起こすようになると、肝心の
 収入増につながらなくなって来た事だった。
  当初の「米の増産と倹約」の政策の見直しが必要とな
 った。
  乗邑のとった政策は、何と言っても「米価安諸色高」
 をどうするかだった。
  災害対策や、災害からの復旧も一生懸命やって、功を
 奏してもいた。
  そして、米の収穫量の増大で、幕府財政も好転したが、
 物価の不安定は収まっていなかった。
  1733年には、突然、米価が高騰した。
  これは、前年の1732年に、西国全域を襲った未曾有の
 蝗害(こうがい、イナゴが稲などを食う害)が原因だっ
 た。
  この蝗害は、199万人余りといわれる被害者を生み出す
 大飢饉となった。
  米は、不足した上に、商人の買占めもあって、一時的
 に米価は急騰した。
  この様な、時の流れの中で、結局、乗邑の取った政策
 は、年貢の引き上げによる年貢増徴策だった。
  その策によって、毎年、黒字が計上され、
  乗邑は、町奉行の大岡忠相が「その才知は舌を巻くば
 かり」と評したほどだった。
  乗邑は、1745年に、その功績を認められて1万石が加
 増された。
  一方、当然、乗邑の強引な増徴策は、百姓らの不満を
 募らせた。
  幕府への不信感も醸成され、社会全体にひびが入った
 状況となった。
  また、厳格すぎる緊縮策は、幕臣や大奥までもの不興
 を買った。
  1745年、吉宗は、約30年の将軍職を、嫡男の家重に譲
 位し、人心刷新をはかった。
  1745年に、乗邑は、家重が9代将軍に就任すると直後に
 老中を解任された。
  加増された1万石も没収され、隠居を命じられた。
1730年、吉宗の次男の徳川宗武(とくがわむねたけ、松平
 定信の実父)が、田安家(御三卿の初め)を創始した。
  兄が、第9代将軍の家重。
  聡明であったため、身体的な障害のあった兄・家重に
 代わり将軍後継者に推す者もあった。
  しかし、吉宗は長幼の序を重視した。
  しかし、この将軍後継者問題は、その後も尾を引き、
 家重が将軍となった後、宗武の登城は、3年間の停止処分
 を受けた。
  乗邑は、宗武を推したので罷免された。
1730年、江戸町火消しの規則を改め、47組を10組に再編成
 された。
1730年9月28日、パトロナ・ハリルの反乱
  オスマン帝国の首都イスタンブールで、パトロナ・ハ
 リルに率いられた下層市民、下級軍人が民衆蜂起した。
  トルコ・イスラム文化の爛熟期を謳歌する「チューリ
 ップ時代」の上流支配層の政治的腐敗と、奢侈(しゃし、
 度を過ぎてぜいたくなこと)、
  そして、インフレによる生活不安に対する人々の不満
 が爆発した。
  反乱は、大宰相を処刑し、スルタン(君主)を退位さ
 せて、イスタンブールを支配して、一時期、反乱は成功
 したが、
  改革のための具体的プランを持たなかったため、
  ハリルが、宮廷のはかりごとによって殺害されると、
 反乱は、短期間で鎮圧された。
1731年、米価低迷のため、米を買い占める(幕府は、懸命
 なる策を講ずる)。
  幕府が、市場の米を買い上げ貯蔵し、米価の引き上げ
 を図った。
  米価下落によって、年貢収入の換金に支障をきたした
 旗本・御家人の武士階級を救済した。
  1722年に、米の取引を活発化させるため、それまで禁
 止していた米の空米取引(名目的な先物買い取引)を一
 部解禁し、
  1728年には、これを全面的に公認とした。
  そして、1725には、江戸の富商3人に、買米を命じた。
  また、1729年から1731年にかけては、幕府自身が、毎
 年、買米を行った。
  さらに、諸藩に対しても、米の貯蔵を命じ、
  江戸と大坂への廻米を制限し、
  こうして、米の供給量を減らして、取引を活発にし、
 米価を引き上げようとした。
  しかし、市場経済に、幕府が介入しようとしても、効
 果は少なかった。
  米価は、傾向として下がり続けた。
  1730年・1731年には、通常の半額にまで下がった。
  武士の収入は半減してしまった。
  しかたなく幕府は、1735年に、公定価格を設けた。
  江戸では金1両で米1石4斗以下に、大坂では米1石
 について銀42匁以下という公定価格だった。
  この布告の徹底を、米商人・蔵宿・札差を残らず奉行
 所に集め、命じた。
  だが、これでも米価は傾向として下がり続けた。
1731年、米価調整のため、米会所を認めた。
1731年、幕府が、三ヵ年の倹約令を出した。
  米価下落のために出した(出・いずるを制した)。
1731年、中国、清代の画家・沈南蘋(しんなんぴん)が、
 来朝して画法を伝えた。
   日本の花鳥画に影響を与えた。南蘋派。
1732年、日本の総人口:26,922,000人
1732年、享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)
  西日本(近畿・中国・四国および九州地方一帯)を襲
 った大飢饉(江戸時代の三大飢饉の一つ)、死者多数。
  近畿以西の山陽・南海・西海・畿内に、暖冬に次ぐ冷
 夏で、虫害を伴い、米の大凶作が起こった。
  蝗虫(こうちゅう)(イナゴ説もあるが、ウンカ説が
 有力)の大量発生であった。
  草間伊助筆記に、
  「七八月ニ到り、西国・九州・四国・中国筋都テ稲虫一チ
 時ニ生シ、次第次第ニ五畿内マデも移り、此虫後ニハ大
 キニ相成りこがね虫之如クニテ悉ク稲ヲ喰ヒ枯シ申候、
  (中略)、其虫形チ甲冑ヲ帯シたるやうニありて、一夜
 之内ニ数万石之稲ヲ喰ヒ、田畑夥敷損毛有之、土民飢渇
 ニ及ヒ、西国筋、五畿内大坂辺マデ道路ニ倒レ候もの数
 しれす、米価古銀ニテ五六月頃、七月中旬マデハ壱石六
 拾四五匁、追々高直ニ相成り、九十月之頃百弐三十匁ニ
 成候」
1732年、農業:甘藷の栽培が広まる。
1732年、吉宗が、尾張・徳川宗春の言動を糺す(ただす、
 物事の理非を明らかにする)。
  徳川宗春は、1730年に、死亡した兄に代わり、第七代
 尾張藩主となった。
  江戸では、将軍・吉宗が、享保の改革で倹約政策を実
 施していた。
  宗春の著書「温知政要(おんちせいよう、1731年に脱
 稿、1732年に刷られた)」には、
  「倹約は大事だけれども、度が過ぎると民の不自由に
 なる」と書かれていた。
  そして、宗春は、初代藩主の墓参りの際には,真っ赤
 な着物に亀の甲の笠をかぶり、白い牛に乗って出かけた。
  また、宗春は、尾張(名古屋)に無かった遊郭を3ヶ
 所作った。
  また、当時、倹約のために禁止されていた武士の芝居
 見物を許した。
  倹約ムードの日本の中で、名古屋だけは江戸の令を無
 視した行動が行われていた。
  しかし、活気は満ちていた。
  この状況について、吉宗は、宗春の言動を糺しても変
 わらなかった。
  将軍・吉宗は、1739年に、宗春に蟄居謹慎を命じた。
  宗春は、これ以外でも、江戸の幕府が改鋳で金融緩和
 をしている時に、尾張藩では、逆に引き締め政策を行な
 ったりしていた。
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2015年7月21日火曜日

(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年~1930年)

題:(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年~1930年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1728年、関東一円が飢饉に見舞われた。
  三河などの中部地域は大日照りで雨乞いが行われた。
1728年3月、朝鮮で、戊申(李麟佐)の乱が湖西(忠清道)
 で起きた。
  全国的な規模の反乱だった。
  反乱組織は広く結成され、準備されていた。
  各地の反乱指導部は、連携をとり大きな組織を作るのに
 成功した。
  中心に居たのが李麟佐だった。
  景宗が毒殺された事への復讐戦でもあった。
  兵力は7万に膨れ上がった。
  王権交代を掲げての反乱であったが、結局、失敗に終
 わった。
1728年、ジェームズ・クック(イギリス、探検家)が、生
 まれた(1728年~1779年)
1729年、平賀源内(ひらがげんない、本草学者、地質学者、
 蘭学者、医者、殖産事業家、偽作者、浄瑠璃作者、俳人、
 蘭画家、発明家)が生まれた(1729年~1779年)
  「平賀源内のエレキテル」という言葉が有名。
  1776年に、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生
 機)を修理して復元したという天才である。
1729年、石田梅岩(いしだばいがん、思想家、倫理学者)
 が、京都で心学の講義を始める。
  松下幸之助は、この人の心学の教えを引き継いだと言
 われている。
  梅岩は、既に、この時代に、企業の社会的責任を説いて
 おり、現在、脚光を浴びている。
  その思想は、企業の営利活動を否定せず、倫理という
 よりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業
 の中で社会的責任を果たして行くという事を説いている。
  欧米にない、梅岩の視点、特徴が見直されている。
1729年8月、農業:ナタネ栽培を奨励
  幕府が、関八州(関東地方)の諸代官に命じて、農民
 のナタネ栽培を奨励した。
  幕府は、飢饉対策のサツマイモもそうだが、朝鮮人参
 などの薬草栽培も奨励し、
  菜種油は、食用以外に灯火などにも使い道の広い作物
 だった。
  幕府は、この他にも、桜や桃の植林も奨励した。
1729年3月、陸奥の信夫(しのぶ、福島県陸奥のしのぶ地
 方)と伊達の両郡の幕府領の農民が、夫食米(ふじきまい
 )などを要求して一揆した。
  夫食とは、農民の食糧一般をさす。
  夫食は、米以外の雑穀が中心で、芋やこんにゃくを主
 食とした地方もある。
  幕府や諸藩は、凶作に供えて貯穀を奨励し、
  凶作や飢饉の時には、救済のために貸付(夫食貸)も
 行った。
  しかし、貸付けや返済を巡って、農民の闘争原因にな
 る事が多かった。
1729年4月、源氏坊改行事件
  大岡政談で有名な「天一坊事件」の首謀者・天一坊の
 モデルもなった、修験者・源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処
 刑された(天一坊事件のモデル)
1729年、天一坊事件
  天一坊改行(てんいちぼうかいぎょう、山伏)が、
 「吉宗の落胤」と主張して処刑された。
  1728年に南品川宿で、「近々、大名に取り立てになる」
 と称して浪人を集めたりした。
  不審に思った関東郡代が引き立てて取り調べ、翌1729
 年に、捕らえられ死罪となった。
1729年、出版:太宰春台の「経済録」
  荻生徂徠の門人・太宰春台の「経済録」なる。
  経済録は10巻からなる。
  経済すなわち経世済民という広義の政治・経済・社会・
 制度・法令などについて論じている。
  経済総論をはじめとして、地理、天文、食貨、礼楽、
 官職など、経済のみではなく広く政治論も含んだ経済書
 となっていて、広く読まれた。
  「天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。
      世ヲ経シテ民ヲ済(すく)フト云義也」
1729年、朝鮮の英祖が、蕩平策(とうへいさく)をとり、
 党争融和を図る。
  朝鮮王朝(李朝)第21代の王・英祖が党争をなくすた
 め、党派間の政治勢力の均衡をはかった政策をとった。
  即位当初から、臣下間の党争がひどく、その調停に心
 をくだいていた。
  老論派と少論派に分裂していた。
  1721年に、少論派が権力を握った。一時期だった。
  その後は、老論派が長く支配していた。
1730年3月、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、文献
 学者、医師)が、松坂に生まれた(1730年~1801年)
1730年4月、初代・松本幸四郎(まつもとこうしろう、歌舞
 伎役者)が没した。
1730年4月、経済:上米の制(あげまいのせい)を廃止し、
 参勤交代制を復旧する。
  幕府は、財政破綻(はたん)するほどだったが、一生懸
 命、社会資本整備はやっていた。
  1例では、初期は「川通奉行」、後には「四川奉行」が
 任命され、四川は、関東地方の幕府直轄領を貫流している
 江戸川、鬼怒川、小貝川、下利根川の4つの河川の土木
 工事をしている。
  吉宗は、紀州藩から、技術を持った者を、何人も引き
 抜いて工事を進捗した。
  紀州は、地形から険しい河川が多かったので、有能な
 技術を持った者が多く育っていた。
  そして、この様な工事金が必要な時に、幕府は、上米
 の制を廃止した。
  何故、廃止したのかは、幕府の体制維持があったと考
 えられる。
  幕府としては、藩から、米が得られるというところだ
 ったが・・。
  文献に、「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」とあり、
 幕府には、御金蔵の金も底をついてやったことという気
 持ちの重さがあった。
..
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2015年7月20日月曜日

(増補版)159D1/3:気になった事柄を集めた年表(1727年~1728年)

題:(増補版)159D1/3:気になった事柄を集めた年表(1727年~1728年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1727年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒学者、思想
 家、文献学者)が、将軍吉宗に拝謁した。
  この頃、「政談」を著して、献上していた。
  徂徠は、1696年に、将軍・綱吉の側近の幕府側用人の
 柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支
 給されて仕えていた。
  のちに500石取りに加増されて、柳沢邸デ講学、ならび
 に政治上の諮問に応えた。
  1709年に、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を
 出て、日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾を
 開いた。やがて、徂徠はという学派が形成される。
  1721に、幕府から「六諭衍義(りくゆえんぎ)」に訓点
 をつけることを命ぜられ、
  まもなく、1722年に、吉宗の信任を得て、間接に政治
 上の諮問を受ける様になった。
 この諮問に応え、幕府政治の改革案を述べた著書が「政
 談」である。
1727年、カンボジア使節が長崎に来航。
  幕府より、信牌(長崎港の入港許可証というべきもの)
 を与えられる。
1727年、キャフタ条約が締結された。
  ロシアと清の間で、それまで未確定だった外モンゴル
 における支配領域を画定した(シベリアの境界画定)。
  この両国は、1689年に、ネルチンスク条約を締結し、
 スタノヴォイ山脈とアルグン川を境として支配領域を確
 認していた。
  その後、雍正帝の時代に、外モンゴルにまで勢力を伸
 張させたことで、再び、条約締結の必要が生じていた。
1728年1月、荻生徂徠が没した。
1728年、経済:先物信用取引を許可(黙認)
  米価引き下げのため、米の延売買取引(先物信用取引)
 を許可した。
  幕府は、1727年3月に、江戸の中川清三郎・川口茂右衛
 門・久保田孫兵衛の3名に堂島永来町御用会所の開設を
 公認した。
  この会所は、堂島永来町(北区堂島1丁目)の町年寄であ
 った塩谷庄次郎の屋敷に設けられた。
  この処置に対し、翌1728年6月、大坂の米仲買604人は、
 河内屋儀兵衛・福島屋久右衛門・田辺善左衛門・境屋善
 衛門・加島屋清兵衛の5名を惣代に選び、
  江戸に派遣して、御用会所の廃止と延売買の公認を勘
 定奉行に願い出た。
  こうした動きに対し、勘定奉行から大坂町奉行に問い
 合わせた結果、御用会所が開設されても、米仲買は悪影
 響を受けていないという報告があって、出願は却下され
 た・・が、
  その後も、米仲買惣代は、執拗に運動を続け、老中・
 水野忠之に直訴するなど、御用会所設立後における大坂
 米仲買および米小売商の窮状を説いたので、幕府当局も
 その実状を認め、江戸町奉行大岡忠相の裁断により、
  1728年2月1日をもって御用会所は廃止となった。
  この時、延売買の公認については取り上げず、それま
 で大坂米商人仲間が非合法におこなってきた延売買の商
 習慣をそばらく黙認するかたちとなった。
1728年、徳川吉宗が、日光東照宮へ社参した。
  幕府の権威を象徴する行為である日光への社参をした。
1728年6月13日、世相:象(2頭、牡と牝)が長崎に渡来し、
  翌年、江戸までの道中を通交し、江戸で飼育される。
  これは、吉宗が中国商人に注文して、輸入されたもの。
  この象は、ベトナムのホイアンあたりのものという。
  二人のベトナム人の象使いが付き添っていた。
  また、このベトナム人象使いのための通訳が、中国人
 で二人来た。
  牝象(5歳)は、長崎到着後、3ヶ月後の1728年9月11日
 に死亡した(舌にはれものが出来た)。
  残った牡象(7歳)は、1729年3月13日に、江戸ヘ向け
 出発した。
  3月22日下関通過、4月18日兵庫泊、4月18日尼崎泊、4
 月20日大阪着、4月25日伏見着、4月26日京都入り、
  途中のこの京都では、この象に位が与えられた。
  1729年4月28日には、中御門天皇陛下がご覧になった。
  象は、うやうやしく前足を折り曲げ、最敬礼の所作を
 演じた。
  発注をした時、発注を1727年に受けた中国人の呉子明
 の返事は、「中国の諸省には象は居ません。シャムの地
 より出るものとか、象の小屋や飼い方はシャムで訪ねる
 など・・」と。
  そして、5月25日に、江戸に着いた象は、江戸っ子から
 熱狂的な歓迎を受け、その熱狂の江戸市中を練り歩き、
 浜御殿に収容された。大ブームとなった。
  出版界は大賑わいだった。
  書物、漢詩集、瓦版、錦絵など、象、象、象となった。
  また、歌舞伎も象をあしらった関連グッズなどを販売
 した。
  象は、その後10年以上に渡って浜御殿(浜離宮恩賜庭
 園)で幕府が飼育にあたった。
  吉宗は、到着後の5月27日に、象と対面しているが、象
 を見るのを楽しみの一つとして、何度も江戸城に召し出
 したという。
  その後、この象は、1741年4月に、民間に払い下げられ
 た。
  掛茶屋を営んでいた中野村(現・東京都中野区)の農
 民・源助が引き取った。
  源助は、見物料を取って象を見せ、また、幕府の許可
 を得て、象の糞を乾燥させ薬として売り出したという。
  象は、1742年12月に病死した(21歳)。
  因みに、象は室町期に日本に来ている。
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2015年7月19日日曜日

(増補版)158D1/3:気になった事柄を集めた年表(1725年~1727年)

題:(増補版)158D1/3:気になった事柄を集めた年表(1725年~1727年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1726年、日本の総人口:26,549,000人。
1726年12月、物価取締令を出した(銭価・物価の高騰抑制
 を命じた)。
1726年、大坂の町人が、1724年に創立した学校・懐徳堂を
 準官学の扱いとする。
1726年、交通:借駕篭の数の制限を廃止した。
1726年8月、令:新田検地条目を制定した(全32条)。
  江戸幕府検地条目の集大成と言うべきもの。
  従来のどの検地条目よりも詳細な規定となっている。
  第1条~4条、検地を受ける村方での準備に関する規定。
  第5条~32条、検地の施行にあたっての地主、作人、反
 別、等級などの決定方法、及び、それらに伴う雑則。
1726年、スウィフト(アイルランド)著の「ガリヴァー旅
 行記」が刊行された。
  出版後、間もなく非常な人気を博した。
  イギリス人の社会や慣習に批判的な視点を与えている。
  「ロビンソン・クルーソー」の方向性を継承していた。
  イギリスは、アイルランドに、経済的な政策において、
 イギリスだけが美味しい・旨いことができる様に仕組ん
 でいた。
  それに反して、アイルランドは極度の貧困にあえいで
 いた、
  スウィフトは、この本が出版以前に、パンフレットを
 用いてイギリス製品のボイコット運動を呼びかけていた。
  イギリス政府から危険人物視されていた。
  その為、出版社は、出版に慎重な姿勢を取っていた。
  この本は、これまでに書かれた道徳と品行に対する風
 刺文学の中で、最も痛烈な一作品であると言われている。
  法において判例上の対立が書かれ、数理哲学が、不死
 の追求が、男性性について、動物を含めた弱者の権利な
 ど、今日の数多くの議論が、予見的に書かれているとい
 う。
  リリパット国とブレフスキュ国は、イギリスとフラン
 スを例えていて、その国際上の問題を表現している。
  その戦争の理由の、両国の意見の違いを表現している
 ・・など。
1726年、チューリップ時代のオスマン帝国、イスタンブー
 ルに印刷所を設立。
  イスラム教徒のイブラヒム・ミュテフェッリカが、イ
 スタンブールに「ミュテフェリカ印刷所」を開設した。
  彼は、オスマン政府の官人であるが、フランスへの使
 節団に随行した経歴のある官僚と共同で、1726年に、印
 刷所の効用を説いた意見書を提出し、アラビア文字文献
 の印刷を認める勅許とイスラム法学者の意見書を得て、
 印刷所を開いた。
  辞書や歴史書など17点の出版物が刊行された。
1727年、経済:米価の下落が著しい
  蔵物の大量出荷により、この頃から、米価の下落が著
 しく、幕府や諸藩の財政が大打撃を受けた。
  しかし、一方下記の記述もある。
  1726年に、幕府の年貢収納量が150万691石と、史上初
 めて150万石を突破した。水野忠之は1万石加増された。
  そして、1727年には、さらに162万1980石となる。
  (1731年や1734年の米価下落の記述は確認した。1727
 年は、年貢の増徴の記述までしか確認できず。豊作貧乏
 があったのか?)。
1727年2月、経済:米相場会所を設立(付随して米会所・
 こめかいしょ)、別名:堂島永来町御用会所1727年~
 1728年、北浜冬木会所1730年。
  大阪御為替米御用会所が、1711年から1726年頃に、幕
 府から堂島に設立を許可され、同会所が米取引をとりし
 きった。
  大阪の堂島に米相場会所(堂島永来町御用会所)が設
 立された(翌年廃止となる)。
  大阪には、17世紀以降、堂島(どうじま)米市場が、
 米取引の中心となるが、それに付随した形で米会所が成
 立する。
  この堂島米会所は、堂島米市場に付随する事務所施設
 であり、堂島米仲買の代表である米方年行司(こめかた
 ねんぎょうじ)が運営にあたった。
  大阪では、1725年~1730年の間に幕府公認の下、3回
 に渡って江戸商人による米会所が設立された。
  この米会所は、米取引所であったが、いずれも大阪商
 人の反発を受けて、短期間で廃止された。
  畿内(きない)直轄都市では、このほかに、堺、兵庫
 に米取引の場としての米会所があった。
1727年、農業:青木昆陽が、芋の栽培を始めた。
  苗を取り寄せし、栽培に成功。
  サツマイモは、新大陸の発見以来、原産の南米からヨ
 ーロッパ、そして、中国へ、→琉球(1605年に、沖縄の
 野国総管が福建省から苗を持ち帰り、
  儀間真常・ぎましんじょうが、栽培に努力し普及させ)
 →種子島(1698年)→薩摩・鹿児島藩(1705年)・・
 九州地方へ、
  昆陽は、島流しになった罪人が、餓死するという事を
 聞いて、離島での栽培植物としてサツマイモに注目して
 いた。
  これを発端として、凶作対策として甘藷を説く「甘藷
 考」を著し、普及に努めた。
  これが、八丁堀の名主・加藤枝直の目に留まり、
  彼の推薦により、大岡越前守に「甘藷考」が提出され、
 奉行に目通りとなった。
  昆陽は、世間では「甘藷先生」と呼ばれていた。
  そして、その本は、吉宗に渡った。
  吉宗は、栽培実験を命じ、小石川御薬園で栽培し、伊
 豆七島・八丈島・佐渡島などに送り、その培養を奨励し
 た。
  また、青木昆陽が栽培法を記した書物とタネ芋を諸国
 に配らせ広まった。
  また一方、栽培実験は、千葉の九十九里浜でも行われ、
 ここでも、栽培実験は成功し、九十九里浜からも広まっ
 た。
  1627年に、南永井村の吉田弥右衛門が、九十九里から
 買って、三富に広まった。
  昆陽の墓には、「甘藷先生墓」と刻まれている。
  また因みに、八丈実紀には、
  「甘藷、薄く切りて日に干し。俵として倉に収む、こ
 れを切干(きんぼし)と云う。和田藤右衛門これを始し
 め、文化文政には辻彦之丞しきりにこれを製し・・今は
 八丈一同にこれ習ふて製し、粮穀トス」とある。
  八丈島に、サツマイモが初めて入って来たのが1727年
 とある。
  これは、吉宗が広めようと八丈島にもたらしたものだ
 った。
  しかし、当初は、栽培法が分からず失敗したという。
  八丈島においての本格的な栽培は、昆陽が、1735年に
 栽培成功してから80年後の1813年だったという。
  千葉の下総では、1735年に、4400の芋が取れたという。
 これが関東での甘藷栽培の初めと言われている。
  因みに、この頃、九州では、飢饉を乗り切ったという
 実績があったが、江戸や関東では、初めは「甘藷を食べ
 ると病になる」などの流言があった。
  因みに、サトウキビも、1727年に、苗を取り寄せ栽培
 が成功し、諸国へ移植したとある。
  また、高麗人参の種子と生根を、対州候が、1721年に、
 朝鮮から入れ、幕府に献じられたという。
  そして、これを小石川薬園と下野の日光に植え、約40
 年後の1763年に、5万株に増やし諸藩に配ったという。
  日本は、民の事を思って一生懸命だった。
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2015年7月18日土曜日

(増補版)157D1/3:気になった事柄を集めた年表(1723年~1725年)

題:(増補版)157D1/3:気になった事柄を集めた年表(1723年~1725年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1724年6月、令:大名および全幕臣に倹約令を発した。
  吉宗は、理知的に改革に向き合った。
  封建体制を強めて、幕府だけが良くなるなどという改
 革ではなかった。
  ヨーロッパによくある、自分たちだけという視点では
 なかった。
  世の変化、社会の方向を直視し、その流れに即して、
 その変化に合わせて、幕府財政を切り替えよう、建て直
 そうという努力だった。
  時代の流れの先取的な所もあった。
  それ故、吉宗は「幕府、中興の祖」と言われ、名君と
 言われ、
  そして、死後、間もない頃から神格化された。
  そして、この頃から、吉宗の改革の中心的施策が行わ
 れて行く。
  老中・水野忠之が、幕政の中心となって活動した。
  この時期、幕政の中心であった代官制度で、代官が、
 口米や口永だけで、経常費を賄えることのできる代官所
 は日本中から居なくなっていた。
  (注)口米:くちまい、米納の本租である年貢米のほ
   かに加徴された税米。
  (注)口永:くちえい、金納の貢租に付加された税。
  真面目につとめれば勤めるほど、借金の代官だった。
  吉宗は、1716年から、口米支給仕法を廃止した。
  それに代えて、地域に応じて代官所の必要経費を算定
 し、それを、幕府から支給する方式に切り替えた。
  罰せられる代官は、悪いことをしたくて処罰される様
 な事をしていたのではなかった。
  この後、処罰される代官は、ほとんどと言って居なく
 なった。
  必要なものは与える、しかし、中心になるのは支出を
 とにかく抑制するという方策だった。
  新田開発もしたが・・、
  そして、吉宗は、当時のヨーロッパと比べても、立派
 な福祉大国の手厚い政治もした。
  社会資本整備もよくした。
  民を思う心がその基本にあった。
1724年11月、近松門左衛門が没した(1725年説あり)。
 (1653年~1725年)、72歳。
  江戸元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者、巨星!落つ。
  辞世の歌:「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬまあ
 だなる 朽木書きして」・・
  大意:埋火が消えずに残るわずかな暇に、書いたたわ
 いない作品が、あとあとまで残れと思うだけでも、愚か
 なことだなぁ・・
1724年、経済施策:諸物価引き下げを命じた
  米価下落のため、諸物価引き下げを命じる。
 (諸色元値引き下げる)
  かつて、1706年に、大豆の値段が下がったのに、豆腐
 の値段が非常な高値のままで下がらない、江戸町奉行は、
 豆腐屋全員を呼び出して、理由を問いただした。
  結局、カルテルをしている事が判明した。
  (注)カルテル:同一業種の各企業が、独占的利益を
   得ることを目的に、競争を避けて価格の維持・引き
   上げ、生産の制限、販路の制定などの協定を結ぶ連
   合形態。今、日本では独占禁止法で禁止されている
   悪の行為。
1724年、組合結成を命ず(1721年8月説あり)
  江戸の生活必需品22品目(96種との説あり)の問屋に
 組合結成を命ずる。
  幕府が、江戸問屋仲間の組織を本格化させた。
  扇屋、菓子屋、雛人形屋など、幕府から考えて嗜好品
 と思われる商品の組合の結成を命じて作らせ、その商品
 を作って販売しない様にした。倹約の為・・、
1724年、江戸日本橋で塗家・土蔵を命じる(防火性向上)。
1724年、懐徳堂(かいとくどう、学校)が開設した。
  (1726年に、幕府官許の学問所となった)
  大阪の豪商たちが、三宅石庵を学生として懐徳堂書院
 を設立した。
  庶民教育の漢学塾で、朱子学・陽明学が講じられた。
  吉宗が援助し、大阪尼崎町に建てた半官半民の学校。
  ここに、中井甃庵(なかいしゅうあん)・竹山履軒・
 並河誠所・五井蘭洲等、緒方洪庵らが集った。
1724年、社会資本整備:印旛沼(いんばぬま)の干拓
  洪水期に冠水の害が頻発した。
  幕府は、この年の1724年と1758年と1843年の3度、干拓
 を計画した。工事は難航した。
  沼の西端平戸村から検見川村までの延長約17キロの掘
 割を掘り、沼の水を江戸湾に落とそうとする工事が3回行
 われた。
1724年、ファーレンハイト(ドイツ)が、華氏目盛りを始
 めた。
1725年、新井白石が没した(1657年~1725年)(68歳)
  白石が、幼少の家継の将軍の権威を向上しようと改め
 た朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によって翻さ
 れた・・が、
  (吉宗の「援立の臣」達は、白石が怖い先生で、白石
 をその政策と共に排斥したかった)
  しかし、将軍家宣は、白石の献身的努力を感じて、白
 石との関係を「一体分身(一体の神仏が、衆生救済のた
 め様々な姿をかりて現れること、また、その神仏)」と
 支持を表明していた。
  白石の正徳政治は、仁政(じんせい、恵み深い、思い
 やりのある政治)を基本理念としていた。
  一方、賄賂請託(わいろせいたく、賄賂で特別の計ら
 いを頼むこと)の腐敗政治の一掃に努力し、民の政治不
 信の解消に努力したりしていた・・また、
  公平な裁判が行われるように意を配り、百姓ほか多く
 の庶民を冤罪(えんざい、罪がないのに罰せられること)
 から救っていたり・・と、
  これらは、正徳の治と称せられ、吉宗の政治にも継承
 され・・(吉宗は、原則的に白石の政策を承継した)、
  白石の業績は多方面にわたって、歴史的意義は大きい。
  また、学問的業績も、先駆的な偉大な業績を遺した。
  歴史的に偉大な存在の人だった。
1725年3月、大判改鋳を命じた。
  吉宗は、白石のデフレ政策を継承した。
  白石は、改鋳を20年もかけてゆっくり実施する事を命
 じた・・が、
  吉宗は、白石の路線を継承するが、その実施において、
 改鋳を急激に行って行く。
  その辺が、吉宗には、それが幕府財政にどのような影
 響を与えるかの理解が至らなかった。
1725年、社会資本整備:飯沼新田工事を着工した。
  農民の悲願に応える形で行われた。
  まず、新しい川を開削し、飯沼の水を利根川に流した。
  そして、さらに飯沼の水を落とすために南北に流れる
 川を開削するという、大変、手の込んだ工事だった。
  次に、飯沼に流れ込んでいる川の水を東西に分けた。
  そして、新田に流れ込むようにもした。
  この様に、何本の川を作り、水路をつくる工事だった。
  吉宗に呼ばれて、紀州から来た井沢弥惣兵衛為永の指
 導で行なわれた。
1725年、古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)が成っ
 た。
  中国、清代の類書(今の百科事典に近いもの)。
  1万巻で、中国最大の類書。
  初め、1698年に、康煕帝の命によって陳夢雷が編纂し、
 27年の時を経て、この年に完成した。
  翌々年の1727年に、銅版印刷法で64部を刷った。
1725年2月、ベーリングの第一次カムチャッカ探検
 (~1730年)
   ピョートルは、1682年に皇帝に即位し、1696年には、
 ロシア初の艦隊を組織して、トルコのアゾフで勝利した
 りした。
  そして、1700年からは、バルト海の覇権を巡って、ス
 ウェーデンとの間で、北方大戦争を始めたり、
  そして、1722年に、22年間におよんだ戦争に勝利する
 と、1720年からは、ドイツ人学者が率いるシベリア調査
 隊を派遣した。
  続いて、カムチャッカ探検隊を組織し、操船技術の長
 けたベーリングを隊長に任命した。
  このピョートルの命を受けたベーリングは、1725年2月
 に、50名を率いて、サンクトペテルブルグを出立した。
  そして、この年の8月に、この探検を命じたピョートル
 1世が没した・・が、ベーリングは、シベリア横断を続け、
 19ヶ月をかけて、1726年9月に、オホーツクに到着した。
  そして、その地で、船舶を作って、北極海への入り口
 のデジネフ岬に到達した。
  しかし、海の向こうにあると思われる東方の陸地(ア
 ラスカ)の調査まで至らず、
  1730年に、不十分な結果を携えてサンクトペテルブル
 グへ帰還した。
  その後、第2次探検隊の派遣が行われる(1732年~
 1743年)。
..
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2015年7月17日金曜日

(増補版)156D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1723年)

題:(増補版)156D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1723年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1723年、前野良沢(まえのりょうたく、豊前国中津藩の藩
 医で蘭学者)が生まれた(1723年~1803年)
  47歳にして蘭学を志し、青木昆陽に学ぶ。翌年、長崎
 へ遊学。
  「解体新書」を翻訳し、書く。
1723年、池大雅(いけのたいが、文人画・南画の大成者)
 が生まれた(1723年~1776年)
  「桜閣山水図」(六曲一双):国宝
1723年2月、幕府が、心中を禁じた。
  情死の罰則を定め、歌舞伎・浄瑠璃の心中物の上演を
 禁止する。「曾根崎心中」の上演を禁ずる。
1723年6月、経済政策:足高制を実施した。
  下級武士の抜擢を容易にするために設けられたのが、
 足高の制度で、
  これは、あらかじめそれぞれの役所に相応の役高を定
 めておく、
  例えば、町奉行・勘定奉行は、3000石、作事奉行・普
 請奉行は2000石・・と、
  そうして家禄がそれに及ばない者は在職中にかぎり、
 その額まで加給される。
  この制度は、この後、大いに効果を発揮し、少禄の者
 の栄進の道が大きく開けたが、また一面、役職に伴う収
 入に対する世襲家禄の比重がどんどん軽くなり、武士の
 サラリーマン化を促進した。
1723年、質地騒動
  出羽村山郡で質地騒動が起きた。
1723年8月、質流地禁令(りゅうちきんしれい)を撤回
  質流地禁止令は、1721年12月(1722年4月説あり)に、
 出された。
  この法令は、幕府の祖法(そほう、祖先から代々伝わ
 る法)である田畑永代売買禁止令が質流れによって有名
 無実化するのを防ごうとするものであったが、質地騒動
 などの混乱が生じたために、この時に、撤回された。
1723年、新田開発を奨励
  代官見立新田十分一法を定め、年貢の十分の一支給を
 条件に幕領代官の新田開発を奨励した。
  諸大名もこれにならって大いに開墾に力を入れた。
  そして、新田の主流が、官営の代官見立新田から民営
 の町人請負新田へと変わって行く。
  今現代でも、民営化で経済を活性化させるのと同じ事
 が、すでに、この江戸の時にも行われていた。
  この民営で開発された新田には「鍬下年季・くわした
 ねんき」と言って、3年間以上の免税期間があった。
  そして、幕府も奨励する意味から、この鍬下年季の延
 長している例も多かった。
  また、幕府は、援助金を出して、利子も安くしている。
  そして、開発した新田は町人の所有を許した。
  そして、開発した新田を売って、早期に資金回収し、
 また、儲けを手にする者もいた。
  課税比率も、一般の天領が税率30%だったが、その10
 分の1程度だった。そして、収量が悪い悪地の場合は非
 課税となった。
1723年、武蔵野新田開発が始まった。
  享保の改革の一環として展開された新田開発政策にお
 いて、武蔵野台地を中心に開発された享保期新田の総称
 で、総石高は1万2600石余であった。
  武蔵国の多摩郡・入間郡・新座郡・高麗郡の4つの郡
 にまたがるもので、計82の農村がここに開拓された。
  水田は少なく、陸田が多かった。
  新田出百姓の総戸数は、1739年当時で、1300戸程度。
1723年、「おかげまいり」が流行した。
  「お蔭参り(おかげまいり)」は、伊勢神宮への集団
 参詣であるが、
  数百万人規模のものが、およそ60年周期に、3回おこ
 った。
  江戸からは片道15日間、大阪から5日間、名古屋から3
 日間、東北地方からも、九州からも、参宮者は歩いて参
 拝した。
  また、この時代は、五街道を初めとして交通網が発達
 整備されていて、参詣が以前より容易となっていた。
  世の中も落ち着いた、良い社会となっていた。
  観光の目的も含んで、庶民は楽しんだ。
  農民でも、現金収入を得る事が容易となり、
  現代の「旅行ガイドブック」に相当する本も出ていた。
  伊勢神宮の参詣に関しては、幕府の厳しいお咎めは、
 なしだった。
  伊勢神宮参詣の名目で、通行手形さえ発行してもらえ
 れば、実質的には、どの道を通って何処へ旅をしても問
 題はなかった。
  参詣後にも、京・大坂などの見物を楽しむ者も多かっ
 た。
  「お伊勢講」による旅費の相互扶助的な仕組みも流行
 をつくった。
  庶民の人生の楽しみとして位置づけられ、そこに、講
 という仕組みが、貧乏な人にも、一生に一度はという参
 詣ができるという希望を与えた。
1723年、人事:吉宗が、田中丘隅(たなかきゅうぐう、休
 愚とも)を召し抱え、民政・治水を委(ゆだ)ねた。
  1723年に、支配勘定並に抜擢された(または、川方御
 普請御用を命ぜられた)。
  吉宗のもとで、荒川・多摩川の治水を行い、酒匂(さ
 かわ)川の築堤を行った。
  田中丘隅は、民政家、武州川崎宿の名主だった。
  50歳を過ぎてから、荻生徂徠に学び、治水や、民政に
 功績があった。
  民政上の意見を、1721年に書いた「民間省要(みんか
 んせいよう」がある。
  これは、1722年に、幕府に提出された。
  「民間省要」は、農政書であるが、役人の横暴を批判
 し、武士階級だけではなく、民間の有為な者の登用を主
 張した。
1723年、人事:松平乗邑(まつだいらのりむら、下総佐倉
 藩主)が老中になる。
  享保の改革に参画し、幕府財政の再建にあたる。
  1744年に、年貢徴収量の最高値をみた。
  しかし、翌年の1745年に、突然、老中を罷免され、蟄
 居(ちっきょ)を命じられた。
  この原因として、有毛検見法(ありげけみどりほう、
 田畑の位や石盛に関係なく、実収によって年貢を決める
 法)による年貢増徴政策の強引さに、諸大名、旗本、町
 人、農民などの諸階層の強い反発や批判があったという。
  その強引なやり方は、重罪に処すという罪を事前にひ
 らめかせて、百姓の抵抗をくじくというやり方だった。
  年貢が多いからと喜ぶ幕府ではなかった。
1723年、中国・清の雍正帝が、キリスト教を厳禁し、宣教
 師をマカオへ追放した。
1723年、ブラジルのリオのカーニバルが、この年に、始ま
 ったが、
  このカーニバルの始まった起源にも悲しい原因があっ
 た。
  それは、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちに殺さ
 れた先住民の方々(因みに、インカの滅亡は1533年)、
  そして、その後、アフリカから連れて来られて、奴隷
 として虐げられたアフリカの方々、
  これらの非人道的なストレスの発散から、始まったエ
 ネルギー発散のカーニバルだったという。
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2015年7月16日木曜日

(増補版)155D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1722年)

題:(増補版)155D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1722年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1722年、施策:吉宗が、本格的に享保の改革を開始。
  老中の水野忠之を財政専管として、本格的な財政再建
 を開始した。
  水野氏は、徳川家康の母の実家。
  そこを領している忠之、三河の国、岡崎の5万石藩主。
  譜代中の譜代だった。
  吉宗は、その忠之を勝手掛老中にして起用した(5月
 15日)。当然、この人事に誰もが異を唱えなかった。
  そして、吉宗の改革が始まった。
  世は、貨幣経済の下にあった。
  年貢米収入はデフレ下で目減りしていた。
  幕府の収入も大幅に減じていた。
  非常用支出に「奥金蔵」というものがあった。
  しかし、その金蔵に、1661年の時点で384万7194両あっ
 たという。
  ここから非常時の支出をしていた。
  その金蔵に、1722年の時点で13万6618両しかなかった
 (わずか3.6%)で、96.4%は非常支出で使ってしまって
 いた。
  幕臣の俸給支払いにも困っていたという。
  吉宗が改革は待ったなしだった。
  そして、やったのが上米の制であった(7月3日)。
  上米の制の口語訳:「旗本・御家人の数が、将軍の代
 を重ねるにつれて、段々と多くなった。
  蔵入地からの年貢収入も、以前よりは増加しているが、
 切米、扶持米、その他、経常支出と比べると、結局、毎
 年不足している。
  特に、今年の場合には、切米を支給することも難しく、
 行政費用にも差し支える状況となっている。
  そこで、幕府では、和泉守(水野忠之)に命じて、い
 ろいろ詮議を重ね、年貢の増強と新田開発等の政策によ
 ってこの財政危機を切り抜けることにした。
  しかし、それは急場の間に合わない。
  そこで、これまで、このような沙汰はなかったが、万
 石以上の大名より米の上納をするようにと命じようと思
 われた。
  そうでないと、御家人を数百人も解雇しなければなら
 ないので、恥辱も省みず、命じられたのである。
  1万石について100石の割合で上納しなさい。
  その代わり、江戸滞在を半年ずつ免除されるので、国
 元でゆっくり休息するようにとの仰せである」。
1722年、吉宗が、小石川薬園内に、小石川養生所(こいし
 かわようじょうしょ)を設置した。
  貧民・窮民のための救療・療養施設であるが、当初の
 入院定員が40名だったが、後に100名となった。
  多くの医師が診療にあたり、幕府の終わりまで続いた。
  施薬局を設け、低所得の病人、看護する人のいない者
 なども収容した。
1722年4月、越後質地騒動(えちごしっちそうどう)
  質流地禁令の実施を巡り、越後国頸城郡(くびきぐん)
 で質地騒動起こる。
  天領の村々から起こった質地取り戻しの農民騒動。
  幕府の法令の「流地禁止令」が難解な事から質置人ら
 は、徳政だと、自己に有利に解釈し、質地取戻しの願書
 を代官所に提出したが、受け入れられなかったため、大
 挙して取戻しを敢行した。
 (注)質屋は質物をとると質札を質置人に交付した。質
  置人は質物受戻の際、この質札を持参しなければなら
  ない。
1722年頃、物価:米価安の諸色高
  江戸の町は、人口が50万人を数えるという世界有数の
 大都市となっていた。
  幕府の収入も、新田開発など、吉宗の政治の努力で、
 わずかづつでも多くはなっていた・・が、この頃、「米
 価安の諸色高」の現象が顕著となっていた。
  吉宗は、足高の制といい、有能な人材を確保するため
 に禄高を加増し、人材を迎え入れたが、職を離れたとき
 には元に戻すという『足高の制」にした(出費を抑えつ
 つ有能人材の確保する)。
  この様な財政努力をしていた時、米の収穫量は、技術
 の改善・新田開発などがあり増加していたが、米の価格
 上昇時に、物価も上昇するというパターンに、必ずしも
 ならなくなって来た。
  この頃は、米の余剰による値下がりがよく起こる様に
 なり、世はバブルで、貨幣経済は進展し、物価は上昇し
 ていた。
  収入を米としていた武士層は、収入減という状態に陥
 (おちい)った。そして、収入が減り、物価は上昇とい
 う二重のダメージを受ける状況だった。
  (注)諸色:しょしき、必要ないろいろの品物。
1722年、中国の清の第5代皇帝の廟号(びょうごう)が世宗
 である雍正帝(ようせいてい)が即位した(在位期間、
 1722年~1735年)
  前帝の康煕帝60年の放漫政治の後を受け、
  官僚の綱紀を引き締めて、皇帝独裁権を強化し、財政
 を改革し、清朝支配権を確立した。
  そして、次の乾隆(けんりゅう)帝60年の治世に引き継
 いだその事業の歴史的意義は、高く評価されている。
1722年~1723年、ロシア・ペルシャ戦争
  ロシアのピーター大帝が、イランに侵入。
  イランのサファヴィ朝の北部領域であるカスピ海と南
 コーカサス地域でのロシアの影響力拡大を図り、
  この地域で衰退するサファヴィ朝に代わり、ライバル
 国のオスマン帝国によって奪われ、オスマン帝国領にな
 ることを防ごうとするロシア皇帝ピーター大帝(ピョー
 トル1世)の企てによって引き起こされた戦争。
  1724年に、フランスの仲裁でコンスタンティノーブル
 条約を締結した。
  ロシア帝国とオスマン帝国の間で締結され、両国間に
 挟まれたサファヴィ朝ペルシャの領土を分割する事を取
 り決めた。
  しかし、ペルシャのナーディル・シャーは、この条約
 を認めず、後に、オスマン帝国に宣戦する。
1722年、イランのサファヴィ朝が、アフガン族に首都・イ
 スファハンは陥落して占拠され、事実上、崩壊した。
  しかし、このアフガン族を率いたマフムードは、間も
 なく発狂し、従弟のアシュラフによって暗殺された。
  その後、トルコ部族の一つのカジャール族の首長の一
 人が、サファヴィ朝の旗を掲げて、アシュラフを破り、
 自らナーディル・シャーと称して即位し、
  新たな王朝であるアフシャール朝を開いた(1736年)。
  この王は、イランからカスピ海沿岸のロシア人を追い
 出し、オスマン・トルコを押し返した。
  また、この王は、インドへ遠征し、デリーを占領して
 掠奪した。
  この王は、クルド人討伐の宿営中、部下に暗殺された。
  その後は、この王朝も衰退して行った。
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2015年7月15日水曜日

(増補版)154D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1722年)

題:(増補版)154D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1722年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1722年4月、芸能:近松門左衛門の「心中宵庚申(しんじゅ
 うよいごうしん)」が大阪の竹本座で初演された。
  この年に起きた八百屋の養子・半兵衛と女房お千代の
 心中(姑の嫁いびり)を脚色したもので、近松の最後の
 世話物。
  夫婦愛と義理人情の切なさが強く描かれている。
1722年7月、施策:参勤交代の制をゆるめた
  上米の制を定めて、参勤交代の制をゆるめた。
  幕府が、財政の立て直しのため、大名に対し、1万石に
 つき米百石の上納を命じる上米の制を行うかわりに、
 参勤交代を、在府半年、在国1年半に緩和した。
  これは、1730年に、上米の制が廃止され、参勤交代制
 も元に戻った。
  因みに、東北の伊達家(63万石)は、参勤交代に8~
 9日かかり、行列規模が2000~3000人、距離:368キロ、
 費用:3000~5000両(米換算で1両=約4万円、そば代金
 換算で1両=12~13万円)、故に、今だと3億5000万円と
 なる。
  また、遠い九州の島津家(77万石)は、40~60日かか
 り、行列は1880人、距離:1700キロ、費用:17000両で、
 今だと14億5000万円となる。
  行列の沿道の経済的効果も大きかっただろう。
1722年10月、教育:手習いの教科書
  吉宗が、江戸郊外の葛西方面に放鷹に出掛け、休息の
 ため立ち寄った医者の家で、代々の法度書を、近所の子
 供たちの手習いの手本としているのを見つけ、これに褒
 美を与えるとともに、
  代官を通じて、各地の手習いの師匠に、法度書や5人組
 帳などを教科書として使う事を奨励した。
  因みに、この頃、江戸に手習い師匠が840人もいたと
 いう。
1722年、教育:室鳩巣の手習い手本を寺子屋で使わせた。
  室鳩巣の作った「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)」
 を、書家に清書させて出版し、手習いの手本として寺子
 屋で使わせた(1721年に、初めて編纂したともある)。
  これは、我が国の初の国定初等教科書で、江戸時代を
 通じてかなり広く普及した。
  吉宗の意図は、読み書きを通じて道徳教育を庶民に施
 し、法秩序を認識させ、遵法の精神を養う所にあった。
1722年11月、出版:統制
  「古状揃(こじょうぞろえ)」は、有名な手紙を収録
 したものであるが、幕府は、これを絶版にさせた。
  この中に、豊臣秀頼の手紙があり、「家康は、表裏之
 侍前代未聞に候、太閤之厚恩をわすれ・・・」という、
 家康非難の文章が含まれている。
  幕府が、法律でもって明確に「家康及び徳川氏の事を
 えがいてはならない」という禁止規定を設けた。
1722年、出版統制(政治批判禁止)。
  この法は、異説・新説はもとより、世上の噂話、ある
 いは、たとえ事実であっても、徳川家に関する事は刊行
 できなかった。
  脚本や上演も同様であったから、例えば、「忠臣蔵」
 「先代萩」など、この時代の事件を題材としつつ、時代
 を鎌倉や室町に仮託(かたく、他の物事を借りて言い表
 すこと)している。
  「大岡政談」などでも、公刊されたものは松亭金水「
 大川仁政録」などのように、大岡を大川とし、時代を鎌
 倉としている。
1722年11月、出版取締令
  幕府は、5ヶ条の出版取締令を出した。
  1721年7月に、幕府は書籍の大調査を開始した。
  そして、1721年8月に、江戸本屋仲間を結成させ、
  1721年12月1日に刊行書籍の目録の作成を命じた。
  この書籍調査目録は、1722年に、完成し、幕府へ差し
 出された。
  掲載点数は7446点だった。徹底的な調査だった。
  この徹底的な調査を踏まえて、幕府は、1722年11月に、
 五ヶ条の出版統制令を発した。
  この令には、出版書物には作者名と版元の実名を入れ
 ることとし、出版物の責任の所在を明確にさせた。
  そして、風俗のよからぬもの、卑猥なものは段々改め
 て行くか、絶版とせよとしている。
  そして、権現様や徳川家を貶めるものの無き様にと。
  1. 猥りなる儀・異説等を取り交え作り出すことの禁
  2.好色本絶板
  3.人の家筋・先祖の事など、かれこれ相違の儀ども
    出版の禁
  4.作者・板元の実名を奥書しなければならないこと
  5.徳川家のことは出版・写本とも禁。よんどころな
    き子細ある場合は奉行所の指図を受けること
1722年12月、出版・統制:幕府が、心中物の出版を禁じた。
1722年、江戸城外郭を廃止して松を植えた。
1722年、経済:新田開発奨励の出資呼びかけ
  日本橋に新田開発奨励の高札を上げ、町人に出仕を呼
 びかける(町人請負新田)。
1722年、経済:税・定免法に
  天領で、検見法から定免法に切り替える。
1722年、施策:町名主を町の区域ごとに編成した。
  治安の維持は、奉行所の力だけではできない。
  町の自治組織が大切な役目を果たした。
  その自治組織は、町年寄を筆頭として、その下に数町
 を束ねる町名主が決められていた。
  家康の時から、江戸のその町に住む名主は、草創名主(
 くさわけ)と呼ばれ尊敬されていた。
  町年寄は、家康に三河の時から付いて来た喜多村・奈
 良屋・樽屋の3家で代々の世襲で務め、トップに居た。
  その江戸市中の町名主を番組に編成し、大家などで作
 る5人組を作り、人別の報告、幕府からの御触れの伝達、
 税の支払いなど色々と担当していた。
  1722年の町名主の数は、17組の264人だった。
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2015年7月14日火曜日

(増補版)153D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1721年)

題:(増補版)153D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1721年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1721年2月8日~3月31日、江戸大火(江戸享保6年春のあま
 りにも悲惨な連続火災):2月から3月にかけて、6度の
 火事で江戸の3分の2が焼失した。
  2月8日(6日説あり)午前10時頃、日本橋呉服町1丁目
 から出火し、北風にのって延焼、大工町、新数寄屋町、
 京橋から築地浜まで燃えて、やっと鎮火した。
  2月24日、午前1時頃、麻布善福寺門前の家から出火し、
 芝愛宕下裏町まで延焼。
  3月4日、午前9時頃、四谷中殿町から出火し、六本木、
 麻布一本松あたりまで焼く。
  3月6日、午後1時頃、四谷忍町から出火し、左衛門町、
 麻布谷町、狸穴脇、三田筋より芝、品川あたりまで焼失、
  3月30日、午前11時頃、神田三河町四丁目から出火し、
 強い南風にあおられて須田町、神田旅籠町、湯島天神社
 地、下谷筋まで残らず焼失、
  そこからまた上野池端から東叡山の仁王門を焼き、広
 小路も越えて下谷、浅草観音寺内あたりから坂本、千住
 まで焼く大火となった。
  翌3月31日に、前日に続き、南の烈風が吹き荒れた。
  午前9時頃、牛込木津屋町から出火し、同若宮、同御門
 外を経て、小日向から小石川伝通院も全焼し、境内に避
 難していた360人余が焼死したという。
  その後、火は本郷、駒込、千駄木、谷中と進み、氷川
 あたりでようやく鎮火した。
  この6回の火災で、江戸市中の3分の2が焼失し、
  2107人が焼死し、
  百石以上の武家屋敷と医師屋敷7415軒、陪臣屋敷と町
 屋13万3720軒、その他225軒、寺社560ヶ所が焼失した。
  焼失した伝通院は、後に、死者を弔い、無縁塚を建立
 した。
1721年閏7月、経済:大坂蔵米の延売(のべうり、延払いで
 商品を売ること)と買占(かいしめ)を禁止し、大阪銅
 吹屋の御用請負を廃止した。
1721年閏7月、経済政策:幕府が、勘定所機構を改め、公事
 方(裁判・民政)・勝手方(財務)に分けた。
  行政効率の向上を図った。
1721年8月2日、施策:目安箱(めやすばこ)の設置
  吉宗が、江戸城竜の口評定所の門前に、目安箱を設置
 し、一般庶民の不満や要求の意見を投書させた。
  これは、吉宗の考案によるもので、
  民の気持ち・心を知りたいというのが目的だった。
  江戸市中の防火制度の整備や、小石川養生所の設置も
 目安箱の投書に基づくものと言われる。
  町医者の小川しょうせん(赤ひげ先生と言われた)が、
 目安箱に、江戸の貧しい病人のための病院が欲しいと投
 書し、小石川養生所が実現した。
  これは、無料の病院として、幕末まで存続した。
  吉宗の幕府が偉いのは、目安箱で幕府への不満を言っ
 た場合でも、良く言ってくれたと褒美を与えている。
  そして、吉宗が、将軍自らが目を通したというところ
 も偉い(毎月3回、目を通したという)。
  また、箱は、将軍の面前で錠が開けられ、
  書状は、将軍が自らが開封し、
  採否は将軍のみによる判断だった。
  後に、京都、大阪、駿府、甲府などにも置いた。
  意見が、施政上、具体的に活用された事例が多く、新
 田開発が採用された事例もあった。
1721年8月17日、施策:江戸小石川に薬園を拡張設置した。
1721年8月25日、施策:江戸市中の諸商人・職人に組合結成
 を命じた。
1721年9月15日、幕府が、荻生徂徠に「六諭衍義(りくゆえ
 んぎ、分かりやすい道徳教科書) 」を講ぜしめ、
  訳述させ、流布を図った。
  六諭衍義は、中国の「六諭」が、琉球を経て日本に伝
 わり、
  幕府は、室鳩巣に「六諭衍義大意」を作らせていた。
  幕府は、各藩に奨励し、流布した。
  これは、明治期の教育勅語の成立に影響を与えている。
1721年、教育:手習い手本を編纂
  寺子屋の手習いの手本を、幕府は、享保6年に初めて編
 纂した。
  「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)がそれ。
1721年頃、経済政策:この頃から、年貢徴収を検見法から
  定免法へ転換開始。
1721年、令:幕府が、質流地禁令を発布して、質地小作の
 制限を図り、質入れ田地の請戻し権を保障し、小作料率
 を制限した。
1721年、事件:医師・中島隆硯夫婦殺害
  江戸深川の医師・中島隆硯夫妻を下男直助が殺害して
 逐電した事件が吉宗の耳に入った。
  側近の者は、吉宗が、犯人に対しさぞ怒りを発すると
 思ったところ、
  吉宗は、江戸の自分の膝元に、この様な主殺しという
 重罪人が出たのは残念だ・・と、心を痛めたという話を、
 室鳩巣が、伝え聞いて手紙にのせている。
  室鳩巣の庶民教育への関心の方向がここに現れている。
1721年、天領の一部を大名の領地とする
  適正代官不足のため、天領の一部を大名の領地とする。
1721年、出版:田中丘隅(たなかきゅうぐう、または、休
 愚・きゅうぐ)が、「民間省要(みんかんせいよう)」
 を著した。
  田中丘隅は、武州川崎宿の名主で、役人の横暴を批判
 し、武士階級だけではなく民間有為(才能のある)の者
 の登用を主張した。
  民間省要は、農政の沿革、民間の実情、民政に対する
 批判的意見が書かれている(治水政策・土地政策・交通
 政策・地方役人論・村役人論・民役・国用・賦税など77
 項目にわたる大著)。
  この書は、1722年に、吉宗に献上され、享保改革に採
 用された節がある。
1721年、イギリスで、ウォルポール内閣が成立した(責任
 内閣制の初め)
  お粗末な事件の南海泡沫事件の後処理をした。
  責任内閣は、議院内閣制の下で、内閣が議会に対して
 責任を負う制度で、内閣は、議会の多数の支持により成
 立し、その信任を失った場合には辞職する。
  王ではなく、議会に責任を負う。
  彼を、最初のイギリス首相としている。
1721年、二スタット講和条約(北方戦争終結)
  ロシアとスウェーデン間に締結された条約。
  ロシアは、バルト海に領土を拡張し、覇権を握った。
..
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2015年7月13日月曜日

(増補版)152D1/3:気になった事柄を集めた年表(1720年~1721年)

題:(増補版)152D1/3:気になった事柄を集めた年表(1720年~1721年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1720年、消防政策:町屋に防火性の良い塗壁や瓦葺を推奨
 した。
  この頃は、江戸初期のロの字型の町割りは消滅して、
 市街が密集化しているので、特に、防火性に配慮した。
1720年、下田奉行(しもだぶぎょう)の廃止
  1616年に設置されていた伊豆下田の廻船改番所が廃止
 され、浦賀に移し、統轄された。
  下田奉行は、幕府の遠国奉行の一つで、
  伊豆国下田番所の長で、
  下田湊の警護や、船舶の出入り監督、廻船の積荷改め
 などにあたっていた。
  伊豆は小国であったが、江戸を防御するにの自然の立
 地が良く、
  また、交通上の要衝にあった。
  箱根の関を控える三島に代官陣屋が置かれ、
  東海道と海上の要所であった。
1720年、広東に公行(こうこう)が結成された(公行の創
 設)。
  中国の清代に、広州で外国貿易に従事した行商の同業
 組合で、通常は広東十三行と称された。
  清朝の貿易は、仲買商(行商)にのみ許された(独占)
  この年に、同業組合を結成して「公行」と称した。
  また、この年には、行商16家が公行を結成てし、取引
 を独占し、価格の協定をはかったのだが、他の行商の反
 対で成功せず、有力な行商6家が、1726年に選ばれて、
 外国船との取引独占権を与えられ、他の一般行商は、こ
 の6家の保証のもとで取引を行った。
1720年、イギリスが、南海泡沫事件(なんかいほうまつじ
 けん)、その結果、恐慌が起こった。
  この年に、株価が暴落し、イギリスの経済界と政界に
 大混乱をもたらした事件。
  戦争ばかりしている好戦国・イギリスは、この時も、
 スペイン継承戦争中であった。
  その為、イギリス政府は国債を乱発した。
  そして、その利子の支払いに苦しんだ。
  そして、大蔵大臣の肝いりで、1711年に、南海会社が
 設立された。
  南海会社は、1720年に、多額のイギリス国債と引換に
 スペイン領アメリカとの貿易独占権を与えられた。その
 ため株価が暴騰した。
  しかし、この年に株価は、大暴落をする。
  そして、これを契機として、イギリスは大恐慌に陥(
 おちい)る。
  1711年に、南海会社を設立した目的は、卑劣な事に、
 スペイン領の中南米との奴隷貿易だった。
  そして同時に、イギリスが利子支払いに苦しむので、
 低利債への転換を目的としていた。
  そして、一時は、奴隷貿易の独占権を獲得したため、
 膨大な利潤を得るだろうと予想した者による株価暴騰だ
 った。
  また、イギリス政府の肝いりで東インド会社やイング
 ランド銀行ともうまくやるだろうと予測されていた。
  イギリス議会も承認もしていたので、安心して株価は
 急騰した。
  空前の株式投機ブームとなって浮かれた。
  しかし、しかし、事業計画が次第に明らかになるにつ
 れ、そのお粗末さが露呈して来る。
  数か月後には、株価は反転して、大暴落となった。
  南海会社株は泡沫となって舞った。
  破産者が続出した。
  またまた、この劇に、汚職が露顕する。
  政界のスキャンダルとなる。ひどい国のイギリスだっ
 た。
  そして、馬鹿なことに、19世紀まで、イギリス政府は、
 株式投資を禁止した。
  この事件の罪作りなところは、外国へまで多くの被害
 を与えたところだった。
1720年、フランスで、ジョン・ローが、財務長官に就任(
 翌年、改革失敗)
  これも、ヨーロッパの不名誉な話。
  ジョン・ローは、1671年のイギリス生まれで、フラン
 スの財政を指導した財政家だった・・が、
  ローは、ロンドンに移住し、1694年に、女性を巡る問
 題で決闘をし、人を殺し、死刑の判決を受けた・・が、
 脱獄し、ヨーロッパ大陸に逃れた。
  アムステルダムで銀行業務を行っていた。
  フランスのルイ15世の治世下、莫大な債務残高に悩む
 国に、それを軽減して、経済発展をしますよという政策
 「経済システム」を売り込んだ。
  そして、取り立てられ、金融財政の責任者となった。
  そして、実行に移した。
  だが、結局は、フランスにバブルを引き起こし、
  やはりこの時も、株価がバブルで暴騰するが、暴落さ
 せるというバブル経済に悶えるフランスを現出、そして、
 後は、ローは、ベネチアで、58歳の時に客死した。
  多くの文献では、絵空事をまくし立てる詐欺師だと書
 かれ、また、トリックスターとされた。
  一部に、評価する者もいるが、しかし、結果は、社会
 を破綻(はたん)させた人物だった。
1720年、イタリアにサルデーニャ王国が成立した。
  トリノを事実上の首都とした。
  この期間、フランスと反フランス大同盟との間を巧み
 にくぐり抜け、フランスからの独立に成功したりして、
 王国の成立に至った。
  スペイン継承戦争の時は、シチリアを獲得したが、後
 に、オーストリアに、そのシチリアをやむなく譲渡した
 りと大変なヨーロッパをくぐり抜けて来た王国だった。
1721年、施策:全国の人口・耕地・戸数を大調査、
  吉宗の時代のこの年から、諸国人数調査が実施される
 こととなる。ほぼ、5年ごとに行った。
  この頃の総耕地面積:297万町歩、総石高:2610万石。
  そして、日本の総人口は、26,065,000人(約2600万人)
..
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2015年7月12日日曜日

(増補版)151D1/3:気になった事柄を集めた年表(1719年~1720年)

題:(増補版)151D1/3:気になった事柄を集めた年表(1719年~1720年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1719年~1723年、第二次ジャワ承継戦争(じゃわしょうけい
 せんそう)が起きた。
  オランダは(オランダ東インド会社)、インドネシア
 を着々と植民地化して行った。
  オランダは、インドネシアのマタラーム王国を自分の
 都合の良い形に、介入して変えて行った。
  第一次ジャワ戦争を経過し、
  1719年に、王国のパクブウォノ1世が死に、長男のア
 マンクラット4世が即位すると、オランダは、オランダ
 の不利な行動をする反対派の叔父や弟を弾圧し、島流し
 にした。
1719年、デフォー著の「ロビンソン・クルーソー」が発表
 された。
1719年、収賄などの不正をした代官を大量処分する。
  田沼意次(たぬまおきつぐ)が、この年に生れている
 が、
  吉宗は、代官の綱紀粛正の為、代官の大量処分を行っ
 た。
  幕府は、後の1722年に、代官の不正が起こりにくい年
 貢の取り方を、検見取法(けんみどりほう、田畑の収穫
 高に応じて貢租量を決める徴税法)を止めて、
  定免法(じょうめんほう、収穫高の平均から一定の年
 貢率を決める)にした。
1720年1月26日、司法政策:刑罰基準
  三奉行に、刑罰基準の検討を命じた(公事方御定書の
 源)。
  江戸城中において、老中の水野忠之から、寺社・町・
 勘定の三奉行に対し、何々の科は死罪、何々の罪は遠島、
 あるいは、追放などという様に、あらかじめ、大体の基
 準を定(さだめ)て書き立て置くようにと申し渡された。
  公事方御定書(くじがたおさだめがき)は、1742年に、
 吉宗の下で作成されて、仮完成したものだが、幕府の基
 本法典となっている。
  上巻・下巻の2巻からなり、上巻は基本法令を、下巻は
 旧来の判例に基づいた刑事法令が収録されている。
1720年12月、出版:大日本史を献上
  水戸藩が、「大日本史」本紀・列伝を幕府に献上した。
  光圀は、1645年に「史記」「伯夷伝」を読んで、伯夷
 や叔斉に感銘を受け、学問に精励し、史書編纂を志した。
  1657年の明暦の大火で、藩邸が焼失して駒込別邸へ移
 り、ここに史局を作り、編纂事業を始めた。
  種々の変遷の後、1715年の光圀忌日には、「大日本史」
 と書名決定された書名で、清書本(正徳本)が、光圀廟
 に供えられた。
  1720年には、さらに、校訂を加えた享保本が、幕府に
 献上された。
  この事業は、途中の休止はあったが、継続して行われ
 水戸藩の事業として、光圀死後も二百数十年継続し、明
 治になって完成した。
1720年6月、小倉藩主が、中国・唐の密貿易商人の3人を捕
 らえ、長崎へ護送した。
1720年、芸能:近松門左衛門の作の「心中天の網島(しん
 じゅうてんのあみじま、浄瑠璃)」が大阪・竹本座で初
 演された。
  この年に起きた、紙屋治兵衛と紀伊国屋小春との心中
 事件を脚色したもの。
  商業で栄える大坂を背景にして、妻子ある身で遊女の
 小春に通いつめる治兵衛、
  その小春に、憎しみを越えて、女同士の義理を感じ合
 う治兵衛の妻おさんなど、登場人物の心理や性格が見事
 に描かれ、近松の最高傑作と言わわれている。
1720年、事件:会津御蔵入騒動(あいづおくらいりそうど
 う、百姓一揆)が起きた。
  年貢減免と郷頭(ごうがしら、数ヶ村支配の村役人)
 の廃止を求めた。
  農民の約800人が、竹槍、鋤、鍬、棍棒を持って代官所
 に迫った。
  代官所は、18組の郷頭と、名主236人を呼び出し、談合
 し、願書を出させたが、首謀者が投獄された。
  このことから、江戸訴訟となり、農民代表35人が、翌
 年の1721年に、訴状を提出した。
  幕府は、一部を削除し、農民側は、残りの13ヶ条を再
 び願い出て、さらに50ヶ条の訴状となった。
  しかし、郷頭側は不正はないと反駁し、結局、農民側
 は敗訴に終わった。
  江戸にいた農民は、皆、投獄された。
  そして、この後、在国の者の380人が牢舎となり、名主
 5名は死罪となった。
1720年、吉宗が、禁書令を大幅にゆるめた。
  例えの中にキリスト教に言及する文章が入っていても、
 輸入が認められた。
  また、漢訳の洋書が輸入された(洋書の解禁)、この
 輸入漢書は、洋書に先立って、日本人の中に科学技術に
 関する基礎を築いた。
  外来文化を考える場合、この漢籍の果たした役割を無
 視することは出来ない。
  日本の近代化への貢献は大きかった。
1720年頃、教育:この頃、禁書令が緩和されて、蘭学が起
 こった。
  勝海舟は、長崎に行けば西洋の状況・事情は、苦も無
 くつかめたと言っている。
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2015年7月10日金曜日

(増補版)150D1/3:気になった事柄を集めた年表(1717年~1719年)

題:(増補版)150D1/3:気になった事柄を集めた年表(1717年~1719年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1718年、柄井川柳(からいせんりゅう)が生まれた(1718年
 ~1790年)
  「排風柳多留」が、1765年に、刊行されている。
  辞世の句は、
  「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳(かわやなぎ)」
1718年、経済政策:幕府御用達を免ず
  三井家が、幕府御用達を免じられた。
1718年、消防・町火消を制度化
  江戸の消防組織は、定(じょう)火消、大名火消、町
 火消があり、町火消の起源は明確ではないが、当初は、
 店(たな)火消と称し、1719年のこの年に、江戸町火消
 「いろは」の47組に組み分けされた。
  これは、荻生徂徠の進言により、大岡越前守が施策と
 して打ち出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護ら
 せる」という、自衛・自治の考え方に根ざした町火消の
 創設で、本格的な町火消制度へと発足させた(1719年4月
 の説あり)。
  因みに、大阪は町火消のみ。京都は奉行所支配下に臨
 機各町から人足を出動させた。
1718年7月、バッサロヴィッツ条約(オスマン帝国は、セル
 ビアなどをオーストリアに割譲した)。
  トルコ・ベネチア戦争と墺土戦争(おうとせんそう)
 の終結による講和条約として締結された。
1718年、オスマン・トルコ(オスマン帝国)アフメット3
 世の時代、比較的戦乱のない1718年~1730年の13年間を
 チューリップの時代という。
  かつて、オスマン帝国から出て行ったチューリップが、
 改良されて逆輸入され、フランス文化も導入された。
  アフメト3世の時代は、宥和政策(ゆうわせいさく、
 温和な外交政策)がとられ、内政も泰平な唯美主義の時
 代だった。フランス宮廷との交換も頻繁に行われ、趣味
 や風潮・文化が導入された。
  オスマン各層に大きな影響を与え、絢爛たる文化が栄
 えた。
1719年、田沼意次(たぬまおきつぐ、老中)が生まれた(
 1719年~1788年)
  紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸
 屋敷で生まれた。
  父は、足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近
 に登用され、吉宗が将軍就任になると、多くの紀州系家
 臣と共に幕臣となった。
  意次は、紀州系幕臣の第二世代であり、第9代将軍と
 なる徳川家重の小姓として抜擢され、1735年に、父の跡
 の600石を継いだ。
1719年1月、吉宗から松前矩広が10000石格の大名とされ、
 公式に松前(福山)藩が成立した。
  そして、蝦夷地の交易独占を許された。
  幕府は、この年に、蝦夷地の渡海と通常の条例を定め
 た。
  松前藩は家臣の知行地として、1754年に、国後島のほ
 か択捉島や得撫(うるっぷ)島を含むクナシリ場所が開
 かれ、国後島の泊には交易の拠点、および、藩の出先機
 関として運上屋が置かれていた。
  尚、松前(藩主)は、1715年に、江戸幕府に対し、
 「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前領と報告し
 ている。
  そして、この地は、後に、近江商人に経営権を与え、
 請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌ人と
 で漁業をした。
  鰊・鮭・昆布などの北方の海産物の生産は、大きく拡
 大して行った。
  これ以前からあった熊皮・鷹などの取引を圧する規模
 になった。
  ロシアはまだ来ていなかった。
  安房・紀州沖にロシア船が来るのは1739年で、厚岸(
 あっけし)にロシア船が来るのは1778年。
1719年、教育:庶民の聴講を許す
  この年には、林家以外の幕府の儒者に命じて、八代洲
 河岸(今の東京都庁付近)の高倉屋敷で講義させ、庶民
 の聴講を許した。
1719年、司法:金銀貸借訴訟を幕府法廷で受理せず。
  当事者間で解決するよう命ず(相対済令、~1729年)
  この事を、幕府は数度にわたって出している。
  金公事(かねくじ)とは、江戸幕府の訴訟取扱い上の
 区分で、担保物を伴わない利子付き金銭債権、ならびに、
 これに準ずるものをいい、
  幕府は、和解を強く指導した。
  幕府の考え方は、この種の訴訟は、本来、当事者の実
 意(じつい、言動の裏に隠されている本当の意図・真意・
 本心)により相対で解決すべきものであるとした。
1719年、政策:町並地(まつなみち)の貢租関係も町奉行
 支配下へ組み込まれた。
  貢租納入の連帯責任があった。
  江戸時代の町には、一般の人足役などの公役を負担す
 る町人の町と、鍛冶・大工などの技術労働を国役として
 負担する町人の町、そして、代官領であって後で開けて
 市街地となった地子銀を納める町(町並地)があった。
 その他・寺社領、寺社門前の町など・・、
  この町の中の町並地が、町奉行の支配下になった。
1719年、毛利氏の改革(1)
  萩藩第5代藩主・毛利吉元のとき(1719年)、人材育成
 の組織である「藩校・明倫館」を創設し、
  先駆的な学校教育を開始した。
  そして、登場する名君は、7代重就(しげたか)で、
 「御前仕組方(藩主直属の財政会議)」を新設し、
  本格的な財政改革が始められた。
  産物の増産を専門職とする「撫育方(1763年創設)」
 もあった。
  明治1年の時、幕府との対決に使った軍事費(撫育金と
 呼んだの残高は、100万両を越えた(プレジデント平成
 10年7月号)
  因みに、日本銀行金融検研究所貨幣博物館によると、
 元文期の賃金で見ると1両=30万円~40万円、そば代金で
 見ると1両=12万円~13万円、米では1両=約4万円に相当
 するという、故に、長州藩の100万両≒1000億円(1両=
 10万円として)となる。
1719年、人事:吉宗が、天文学者の西川如見(にしかわじ
 ょけん)を招いた。
  西川をして洋書を講義をさせた。
  世界の地理、そして、天文・暦学を深く理解した町人
 学者とある。
  また、儒学に通じ、町人・農民に道徳を平易に説いた
 という。
  また、長崎で得た知識をもとに、「増補華夷通称考」
 を書き、中国・西洋・南洋の風土や文化を国別にまとめ
 たという。
  また、この年に、西川如見が、「町人嚢(ちょうにん
 ぶくろ、教訓書)」を出版した。
  これは、町人としての心得を、学問・道徳・職業・処
 世などに分けて箇条書きにしたもの。
  封建的身分制を肯定した上で武士と異なる町人独自の
 生き方・心得が平易な文章で書かれている。
  「人間は根本の所に尊卑あるべき理(ことわり)なし」
 という四民平等を説いている。
  平等を謳った1787年のフランス革命より完全に早い時
 に、日本の一町人学者は、その概念を、日本の町の方々
 へ平易にすでに説いていた。
  歴史を探求すれば、日本人の先進性や素晴らしさが、
 あちこちに出て来る。
  平等観念などは、平等院もそうだが、遠い昔から日本
 人には根付いていた、当たり前の観念だった。
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2015年7月9日木曜日

(増補版)149D1/3:気になった事柄を集めた年表(1716年~1717年)

題:(増補版)149D1/3:気になった事柄を集めた年表(1716年~1717年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1716年、人事:吉宗は、出身藩の紀州藩士を起用し、新井
 白石らを罷免した(「側近政治」より「将軍親政」へ)。
  白石は、良質な「正徳金銀」を鋳造して、緊縮財政を
 行ったのだったが、その経済政策は、インフレ(物価上
 昇)をおさえたもののデフレ(物価下落と幕府の収入の
 減少)を引き起こすという弊害をもたらした。
  吉宗は、将軍に就任すると、新井白石や間部詮房を退
 けた。
  そして、出身の藩である元紀州藩士を起用する。
  そして、紀州藩主であった吉宗が、この藩主の時に、
 既に、自ら経験していた「藩政改革」を行った。
  その基本理念の「質素倹約」「緊縮財政(歳出削減)」
 「風紀紊乱(びんらん、風紀の乱れること)取締」を、
 幕政に持ち込んだ。
  吉宗がやったことは、白石らの「側近政治」から、「
 将軍親政」による幕政改革へと取り組んだ。
  この白石を罷免したこの1716年から、1745年に至るこ
 の吉宗の政治改革を、「享保の改革(きょうほうのかい
 かく)」と言った。
1716年、人事:小笠原胤次・有馬氏倫・加納久道を御用掛
 に任命した。
  小笠原胤次(おがさわらたねつぐ)、有馬氏倫(あり
 まうじのり)、加納久道(かのうひさみち)は、吉宗の
 紀州時代からの側近だった。
  そして、御用取次として登用し、将軍と老中の間を取
 り持ち、享保の改革を補佐させた。
  当初の名称は「御用掛(御用懸り)」や「御用掛(御
 用懸り)御側衆」であったが、1755年頃より「御側御用
 取次」となった。
1716年、鷹狩り復活
  徳川吉宗が、鷹狩りを復活させた。
1716年、世相:「享保世話(きょうほうせわ)」
  この頃の江戸市中に流れていた巷談を集めたもの(
 1722年~1725年の頃の説がある)
  旗本・親見正朝編の「近世風俗見聞集」に収められて
 いる。
  享保の吉宗の時代になると、旗本への給与の遅配が起
 きたという。
  「享保世話」は、この事などを批判し、皮肉っている。
  吉宗は、石高の1パーセントを幕府へ納める「上げ米
 令」を公布するにあたって、
  在府の大名の全員を江戸城の大広間に召集し、自ら頭
 を下げて、幕府の困窮した財政事情と再建策を詳細に説
 明し、協力を要請した。
  この様に、将軍以下幕閣たちは、非常な決意で享保の
 改革に取り組んでいた。
1716年、世相:百姓層が、『成長組』と『転落組』に二分
 されて行く。
  享保以降、近世後半期に入ると、
  土地を集積して地主へと成長して行く少数の家と、
  喪失して小作、水呑み百姓へと転落して行く多数の家
 と、方向がはっきり二分して行く。
  大高持(本百姓・ほんびゃくしょう)の家は、酒屋・
 質屋などを兼営し、商人としても致富を重ねて行く。
  また、町人資本の投下によって、町人の新田地主も増
 加して行く。
  領主が、農民から得た富の一部分は、その地主層が、
 その分け前にあずかった。
  こうして得た部分は、百姓=生産者の手に残ったので
 はなく、町人・地主の手に入って行った。
  三都(さんと、江戸・大坂・京都)の問屋・豪商など
 が、近代へとその経営を発展させたのと同様、
  農村における地主層も、着実に、その基盤を固め、
  日本の近代経済の支柱を形成して行った。
  経済面ばかりではなく、この様な近世社会の仕組みの
 中で成長して行った町人・地主層に、日本的な文化の形
 成の土壌があったと言える。
  幕藩領主が、石高制によって把握する事が出来た産業
 経済界が、公的な世界であったのに対して、
  その社会の仕組みから成長して行った世界は、私的な
 世界であった。
  公的世界では、商行為を賤視し、利益追求を悪とする
 のに対し、
  私的世界では、それを積極的に肯定する意識が生まれ
 ていた。
1716年、出版:康熙字典(こうきじてん)が成った。
  中国の漢字字典。
  編者は、張玉書、陳廷敬ら30名。
1717年2月、人事:大岡忠相(おおおかただすけ・越前守)
  伊勢山田奉行・大岡忠相を江戸南町奉行に登用した。
  大岡忠相は、山田奉行時代に、紀伊領と関係のあった
 問題を紀州藩に気兼ねせずに解決して、吉宗に認められ
 ていた。
  それで、吉宗が将軍に就任し、江戸町奉行の抜擢され
 たという。
  医師が吉宗に建議して出来た、貧民の救済救療施設の
 小石川養生所(医療施設)は、大岡町奉行の管理となっ
 た。
  また、小石川薬園内に、施薬局を設け、低所得の病人
 を救済し、また、介護者のいない者なども収容した。
  1722年にできた。
1717年7月、教育・講義を庶民に開放する。
  幕府の享保の改革において、まず、1717年に、湯島の
 聖堂の講義を庶民にまで開放した。
  湯島聖堂の「仰高門東舎」での講義聴講は、連日、武
 士・庶民が座り切れないほどだった。
1717年、外交:朝鮮使節の待遇
  朝鮮使節の待遇を白石以前の形態に復し、将軍の自称
 も「日本国大君」に返した。
1717年、人事:水野忠之(みずのただゆき、1669年~1731
 年)が、老中に就任した。
  1722年に、さらに改革の財政再建の最高責任者である
 「勝手掛老中(かってがかりろうじゅう」に任命され、
 年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ、
 幕府を財政危機の窮地から救った。
  しかし、その政策は、社会に深刻な不況と米価の急落
 をもたらし、人々の不満、批判は忠之に集中した。
  「享保世話」に、「無理で人をこまらせる物、生酔(
 なまよい、酒に少し酔うこと)と水野和泉守」とある。
1717年、出版:荻生徂徠が、「弁道」「弁名」を著した。
  この二冊を「二弁」と呼ばれ、徂徠学の神髄と言われ
 ている。
1717年、広東省で、人頭税を廃止し、土地課税のみとする
 地丁銀(ちていぎん)が施行された。
  以後、各地に広まる。
  古来それぞれ独立していた丁銀(人頭税)と地銀(土
 地税)を一本化し、土地のみに課して徴収した。
  丁税を廃止した点が画期的改革だとされている。
..
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2015年7月7日火曜日

(増補版)148D1/3:気になった事柄を集めた年表(1714年~1716年)

題:(増補版)148D1/3:気になった事柄を集めた年表(1714年~1716年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1714年、ピョートル1世(ロシア皇帝)が、バルト海東岸
 地域を支配下に置いた。
  ピョートル1世の富国強兵策によってロシアは発展し、
 バルト海に出たいという希望が、スウェーデンよりバル
 ト海海域世界の覇権を奪取して叶った。
  そして、バルト海交易ルートを確保した。
  これまで、ピョートル1世は、権力を皇帝のもとに一元
 化して戦争をし、その戦争遂行をしやすくする為に行政
 改革し、海軍創設をしたりして来た。
1715年1月、施策:長崎貿易を制限
  長崎貿易を制限し、中国船30隻、オランダ船2隻が各々
 銀6000貫匁・3000貫匁の取引を行う事を認め、
  決済手段の半分は、銅によることを定める(正徳新令・
 海舶互市新令)。
1715年、経済政策:両替商と諸問屋仲間の組合設置
  新鋳金銀の通用促進のため、江戸に両替商と諸問屋仲
 間の組合が設置された。
1715年、芸能:近松門左衛門の「国性(姓)爺い合戦」の
 初演、大当たりをした。
1715年、新井白石の「西洋紀聞」が完成した。
1715年、稲生若水(いのうやくすい、本草学者、漢学者)
  稲生若水は、加賀藩前田候に仕えていが、加賀藩主の
 前田綱紀(まえだつなのり)の援助で「庶物類纂(しょ
 ぶつるいさん)」を編集・著述に着手したが、この年に、
 362巻(正編)までで病没した。
  庶物類纂は、正編と増補から成り、正編は中国の諸書
 から物産、博物の名称、形状、産地などが記されている。
1715年、東海道歩行飛脚が始まる
  江戸の若狭屋忠右衛門が、東海道歩行飛脚を始めた。
  歩行飛脚は、書状や荷物を運ぶ徒歩の飛脚のこと。
1715年、イギリスが、東インド会社を広東に商館設置した。
  この後、広東貿易に参入してアヘン戦争という卑劣な
 戦争をする。
  日本の場合、平戸に商館があるが、イギリスの国王の
 国書を携えた使節が来航して許可を得ているが、会社と
 いうが、国の行為そのもの。その国が、イギリスが、中
 国で卑劣な事をする。
1716年、第8代将軍に徳川吉宗が就任した(1684年~1751年)
(将軍期間、1716年~1745年)
  7代将軍の家継が没し、紀伊藩主の吉宗が8代将軍とな
 った。
  吉宗は、「元文の改鋳」をした。
  当時の「享保小判」を回収して、金の量が少ない「元
 文小判」を数多く発行した。
  その後は、約80年に渡り、物価は安定し、再び経済が
 繁栄した。
  当時は、地方の農民が、特産品を売るようになるなど、
 市場経済が各地に広がり、
  元文小判が、活発に使われた。
  現在の日本企業は、海外へ出て行き、外国で得た利益
 の為替変動の影響を避けるためなどから、その国の事業
 にその利益金を使う事が多く、日本の経済を成長させる
 力になってない。
1716年、与謝蕪村(よさぶそん、俳人、画家)が生まれた
 (1716年~1784年)
  摂津国の毛馬村(大阪市毛馬町)の生まれだが、それ
 以上の詳しいことが分からない人。
  敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活にあこがれて、その足跡
 を辿り、また、僧の姿に身を変えて東北地方を巡った。
  絵を描いて宿代代わりに置いて行くという旅だった。
  その後、丹後、讃岐なども周遊し、42歳で京都に居を
 構えた。
  45歳で結婚し、一人娘を得た。68歳で生涯を閉じた。
  辞世の句は、
  「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」
  蕪村に影響された俳人は多いという。正岡子規もその
 一人という。
  「蕪村忌に呉春が画きし蕪かな」正岡子規
  鳶鴉図(とびがらすず、重要文化財)がある。
1716年5月、出版:新井白石の自伝「折りたく柴の記(おり
 たくしばのき)」が執筆開始され、
  1716年5月ころに成ると言われる、また、随筆ともいわ
 れる。
  生家である新井家のことや、白石の政治的体験談など
 自伝的、政治的要素の濃い自伝的随筆と説明されている。
  6代将軍徳川家宣のあつい信任と恩恵に浴しつつ幕政に
 尽力した自分の立場を明確に子孫に語り残す事を主目的
 につづったものとも説明されている。
1716年、室鳩巣が吉宗の侍講になった。
  間部詮房・新井白石らが罷免されてとも説明され、ま
 た、白石におされて幕府に仕え、のち吉宗の侍講となっ
 たとも説明されている。
  ・・が、白石の推挙が正しいようだ、白石・室鳩巣と
 もに木下順庵の弟子であるし・・、白石と室鳩巣は並ん
 で英才の誉れが高かったという。
1716年、8代将軍・吉宗によって、享保の諸政策が遂行され
 ているとき、
  儒者・室鳩巣は、幕府の財政難を解決する方策として、
 京・大坂の富豪から御用金を徴収する事を献言した。
  しかし、吉宗は、この意見を退け、かかることは臨機・
 当座の措置であり、
  目下苦慮しているのは、根本的解決策であると述べた。
1716年、教育:寺子屋の著しい増加
  寺子屋の著しい増加の傾向は、享保以来の現象である。
  享保の頃、江戸には840人もの手習いの師匠がいた。
1716年、交通:雲助やごまのはい取締り
  幕府は、各宿場で雲助、ごまのはいなどを捕らえるよ
 う命じた。
1716年、交通施策:五街道の正式名
  五街道の正式名称が定まる。
  東海道はそのままで、中仙道は中山道に、甲州、日光、
 奥州は、各々、道中となる。
1716年頃、交通政策:六郷川の橋を廃止
  この頃、六郷川の橋を廃止し、舟渡しとする。
  江戸の防御の一環でもあったと考えられる。
  「1570年に、信玄が武蔵国へ乱入の時は、北条家の侍
 が焼き落とした、そして、甲州勢を止めた。その後、30
 余年、たえたりしを・・」という古文書がある。
  しかし、最初から橋があったのか?の論議もある。
1716年、人事:能吏(のうり、能力の優れた有能な官吏)
 を登用
  8代将軍・吉宗は、享保改革を行い、幕府の財政や直轄
 領行政を担当する勘定方役人に多くの能吏を登用した。
  彼らは、「地方巧者(じかたこうしゃ)」と言われ、
 農政や農業技術の練達の人たちだった。
  特に、享保以降は、民間からの登用が目立った。
  また、彼ら地方巧者は、地方書の著者で、地方の改革
 を実践する人、進める人たちだった。
  江戸時代を封建というが、この事例の様に、本当に、
 差別なく、四民平等で、民主的な行動をとっていた社会
 だと言える。
  明治維新以降に、日本は、西洋から民主主義を教えら
 れたというのは間違いで、西洋礼賛から来ている。
  日本人の心根の底には、優しさがあり、そこから発す
 る差別のない平等意識が根付いていて、
  この事例の様な政治にも、その事が反映している。
  坂本龍馬の育った高知にあった民主主義社会のつなが
 りの事例は有名で、竜馬出現の、世に出たことの必然さ
 が感じられる。
  下級武士社会から有能な志士があまた出現した。
  西洋ヨーロッパ社会は、殺戮の、家系存続、王位継承
 の争いの社会だった。
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(増補版)147D1/3:気になった事柄を集めた年表(1713年~1714年)

題:(増補版)147D1/3:気になった事柄を集めた年表(1713年~1714年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1713年、出版:貝原益軒
  貝原益軒が、「岐蘇路記(きそじのき)」を刊行した。
1713年、ユトレヒト条約が締結された。
  スペイン継承戦争参加国の講和(オーストリアを除く)
  この戦争は、イギリスの「一人勝ちである」と言うが、
 講和の内容は、まったく卑劣の一語に尽きる(例えば、
 奴隷貿易の利益の奪い合いがあるという様に、何しろ、
 餓鬼の欲得の世界である、軽蔑すべき我欲の世界に、う
 ごめいていたイギリスはじめ、キリスト教のヨーロッパ
 諸国だった)。
  内容:1、イギリスは、スペインの奴隷貿易に参入で
      きる。
  2、イギリスは、スペイン王国より、ジブラルタル及
   びメノルカ島を譲り受けることができる。
  3、イギリスは、フランス王国より、北アメリカのア
   カディアとニューファンドランド島、ハドソン湾地
   方を譲り受けることができる。
  そして、今後、フランスとスペインの合同をしないこ
 とを条件に、スペインの王位(フランスのルイ14世の孫
 のフェリペ5世)を認めた。
  しかし、フランスの王位継承権は、放棄させられた。
  王位が欲しいとか、王位を継続したいとかのヨーロッ
 パだった。そこには、民は、いなかった。
1713年、オーストリア皇帝カール6世が、国事詔書(プラグ
 マティッシェ・ザイクツィオン)を発布した。
  王位継承についての法。
  相続についてとか、帝位につくこととか、家領を残す
 ためとかの家憲についてとか・・と、
  王位についての、自分たちの特権についてだけの事。
  ここにも、民は、いなかった。
  ハンガリー女王であり、オーストリア女大公であり、
 ボヘミア女王であったマリア・テレジア(はるかヨルダ
 ン川でキリスト教の洗礼をしたという人)も承継戦争に
 関わってうごめいた。
1714年2月、施策:密貿易を厳禁とした。
  幕府が、抜荷(密貿易)を厳禁。
  翌年、長崎貿易を制限。
1714年5月、経済政策:金銀貨の品位を旧に復す。
  金銀貨を改鋳し、慶長金銀の品位へ旧に復した(正徳
 金銀)、
  すると、新金銀の通用以前の状態に銭貨は急騰した。
  そのため、7月には、幕府は、銭価の禁止する令を出し
 た。
1714年5月、事件:銀座不正摘発、銀座関係者を処罰した。
  幕府は、元勘定奉行の荻原重秀と結び、暴利をむさぼ
 っていた中村内蔵助ら銀座関係者10名に、遠島・追放・
 逼塞(ひっそく、門を閉ざし、昼間の出入りを許さない
 もの)などの刑を言い渡した。
  重秀は、長く勘定奉行の要職におり、銀座関係者らと
 結託して金貨・銀貨の質を落として貨幣を多く流通させ
 た。
  中村は、不正に得た利益で、京都の一等地に3600坪(
 12000㎡)の巨大邸宅を構えていたという。
1714年8月、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、画家・浮世絵
 師)が没す。「見返り美人図」
  生年は、1618年または1630年、もしくは1631年と言わ
 れ、クエスチョンマークが付けられる場合もある。
  また、没年は、1694年とも言われる。
1714年8月、貝原益軒(かいばらえきけん、本草学者・儒学
 者)が没す(1630年~1714年)「養生訓」
  「心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にす
 る。これ身を養い徳を養う工夫なり」(養生訓)
1714年9月、浅草に鋳銭所を設置した。
1714年9月、竹本義太夫(たけもとぎだゆう、義太夫節浄瑠
 璃の創始者)が没す(1651年~1714年)
  大阪に竹本座を開設し、近松門左衛門を作者に迎えて
 繰り芝居(繰り人形を用いてする芝居)を興行し、人形
 浄瑠璃を大成した。
1714年、世相:デフレで経済混乱
  デフレで、新旧貨幣の交換に関する投機などで、経済
 混乱。
  1714年に行われた金貨の品位向上は、慶長金貨の品位
 を84%~87%までの引上げたのだった・・が、また、
  元禄・宝永小判二両に相当する品位84%の正徳小判を
 発行したのだが・・、
  しかし、正徳小判の品位は、慶長小判に劣るとの風評
 が立った。
  そこで、翌年の1715年に、さらに品位の高い改鋳を行
 った。
  慶長小判と同品位の享保小判(品位87%)を発行した。
  金銀貨の流通量は、減少傾向を強め、
  物価は、大きく下落した。
  デフレ経済に陥った。
  武士や民・百姓へ、深刻な影響を与えた。
1714年、事件:大奥老女の絵島(絵島・生島事件)
  幕府が、大奥老女の絵島(えじま)らを処罰した。
  当時、名代(なだい)の歌舞伎役者・生島新五郎(い
 くしましんごろう)との恋愛沙汰が露顕した・というも
 の・・しかし、
  この背後に、将軍の側近たちによる派閥に対する、譜
 代大名や旗本、および、先代将軍に仕えた者たちとの派
 閥争いがあったという。
  参詣帰りに芝居見物し、帰りが夕暮れになったことに
 端を発している。
  絵島は、死一等を減じ遠流とされ、月光院(将軍家継
 の生母)の願いによって、信州高遠(長野県伊那市)に
 高遠藩の預けとなった。
  絵島の兄は、死罪に処せられた。
  生島は、三宅島に流罪となった。
  その他、旗本、奥医師、陪臣、呉服師とその手代、座
 元、役者、商人などの連座したものが多数いた。
  また、大奥女中の67人が、親戚への預けとなった。
  この後、絵島は、高遠の囲屋敷で27年を過ごし、1741
 年に、61歳で生涯を閉じた。
  生島は、この翌年に赦され、江戸に帰れた。
1714年、出版:荻生徂徠の「蘐園随筆(けんえんずいひつ
 )」が刊行した。
  蘐園は、徂徠の別号。
  1709年に、門人の手で編集が開始された。
  古学の開創者・伊藤仁斎(じんさい)への景慕(けい
 ぼ、仰ぎしたうこと)が、一転して憎悪に変わったため
 仁斎の学問性への先駆を認めながらも厳しい批判の書と
 なっている。
  本書は、一躍、徂徠の文名(ぶんめい、作家としての
 名声)を高らしめた。
  後に、将軍・吉宗から、間接に、政治上の諮問を受け
 る様になった。
  この諮問に答えて、幕府政治の改革案を述べた著書が
 「政談」で、
  吉宗は、徂徠を、幕府に登用する意思があったと伝え
 られるが、徂徠が病死したために、実現には至らなかっ
 た。
1714年、ラシュタット条約が結ばれた。
  イギリス・オランダ・オーストリアの連合諸国と、フ
 ランスとの間で争われたスペイン承継戦争の、
  終結のための条約で、ユトレヒト条約を補足するもの。
  フランスとドイツ(オーストリア)の講和。
  スペインは王位を承認されたが、南ネーデルランドを
 オーストリアに譲渡が認められた。
  国交断絶とか、王位を認めたとか、戦争ばかりのヨー
 ロッパが延々と続く。民は度外視の世界。
1714年、イギリス、アン女王没し、スチュアート朝断絶、
 ハノーヴァー朝成立。
  1692年に成立したハノーファー公国の君主の家系であ
 ったが、この年に、スチュアート朝に代わってイギリス
 の王家となった。
  女子の継承を認めていなかったため、この家は、1837
 年に、ヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって、イ
 ギリス王家から分枝する。
  合従連衡の世界だった。
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