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2015年2月23日月曜日

(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年~1096年)

 題:(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年~1096年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1055年、セルジュク軍がバクダッドに入城した。
1056年、藤原清衡(きよひら)が生まれた(1056年~
 1128年)
1062年、源頼義(988年~1075年、1051年から安倍氏と
 戦う)・清原武則(不詳~不詳、出羽の豪族)等が、厨
 川柵(くりやがわのさく、盛岡市付近にあった安倍氏が
 築いた柵)に安倍貞任(安倍頼時の第2子、厨川柵主)を
 殺し、弟の安倍宗任(あべむねとう、安倍頼時の子)を
 降ろした(これより源氏の基盤固まる)。
1066年、イングランドが、ノルマン人(ゲルマン人の一種)
 に征服された。
  ノルマンディー公ウィリアム(キヨーム2世、1027年
 ~1087年)が、イングランドに侵入し、(イギリスを)
 征服し(ヘースチングスの戦い)、ノルマン朝を成立さ
 せた。現在のイギリス王室の開祖となった。
  イギリスは、国を開いてから950年弱、1000年にも満
 たない。
  キヨーム2世は、1066年12月、ウェストミンスター寺
 院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。
1068年、後三条天皇(在位、1068年~1072年)
1068年、藤原教通(関白在位、1068年~1075年)
1069年、再び、寛徳2年以後、新立荘園を停止させた。
1069年、初めて、記録荘園券契所(荘園調査機関)をおい
 た。業務は、不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の
 没収など。
  この頃になると、摂政関白への寄進地系荘園集中が進
 んだ。1069年の後三条天皇による「記録荘園契約所」の
 設置と荘園整理(延久の荘園整理令)は、藤原頼道の反
 対で目的を十分には達しなかった。
1070年頃、この頃、「大鏡」や「今昔物語集」が書かれた。
1072年、白河天皇(在位、1072年~1086年)
1072年、ノルマン人による南イタリアの征服。
  南イタリアとシチリアが、ノルマン人に征服された。
  ノルマン人(ゲルマン人の一種)が、傭兵として南イ
 タリアで働き始めた11世紀前半から12世紀前半に至る
 100年近い期間に及び、そこには、多くの戦いと、独立し
 た複数のノルマン人勢力による幾多の『領地獲得行為
 (征服)』が含まれていた。
  そして、それらの行き着いた過程の中に、数年の戦い
 の後に達成された1066年のイングランド征服、
  そして、数十年となったが南イタリア征服など。
  ゲルマン人の大移動に始まるこのヨーロッパの大変化
 は、戦いの後の各地の征服となった。
  この姿が、ヨーロッパの基礎である。
  「壁の向こうには異教徒の敵がいる」という世界であ
 る、そして、信仰は、キリスト教の「異教徒は殺せ」の
 教義で、異教徒に決して馴染(なじ)むなと説く教えで
 ある。
1073年、院の蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
  蔵人所は、天皇と天皇家に関する私的な要件の処理や、
 宮中の物資の調達や、警備などをつかさどった。
1074年、藤原頼道が没した(990年~1074年)
1075年、藤原師実(関白在位、1075年~1086年)
1077年、疱瘡が流行した。
1077年、ハインリッヒ4世がキリスト教教皇に敗北する。
  キリスト教が強大な力を誇示する世となった。
  世俗の王(ドイツ王で神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世)
 が、宗教のキリスト教の教皇(グレゴリウス7世)に敗北
 し、謝罪せざるを得ないという事件が起きた。
  キリスト教会が破門を行うという行為が絶大な権力誇
 示の行為となっていた。
  叙任権(任命権)を世俗王がキリスト教に奪われた(
 カノッサの屈辱)。
  現在でも、「カノッサの屈辱」の語は、「強制されて
 屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられている。
1079年、堀河天皇が生まれた(1079年~1107年)
1083年~1087年、後三年の役が起こった。
  奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦い。
  前9年の役で、陸奥国の安倍氏が滅んだが、この時に、
 参戦し、国司側に付き、国司側勝利の原動力になったの
 が出羽国の清原氏だった。
  こうして奥羽に力を伸ばした清原氏に内紛が勃発。
  そこへ陸奥守として赴任した源義家が介入。
  藤原清衡を助けて反乱者の清原家衡・武衡を滅ぼした。
  源氏は東国に基盤を築いた。
1083年、富士山が噴火した。
  延暦寺の僧が記した「扶桑略記(ふそうりゃっき)」
 に記録されている。
1086年、堀川天皇(在位、1086年~1107年)
1086年、藤原師実(摂政・関白在位、1086年~1094年)
1086年、白河上皇(1086年~1129年)が院政を始めた。
  幼帝の補佐のために院政が出現した。
  引き続いて、摂政関白が置かれていたが、次第に、名
 目上の存在となって行った。
1091年、源義家への荘園寄進を禁止した。
1092年、源義家の荘園設立を禁止した。
1094年、初めて、院の北面の武士を置いた。
  院の親衛隊と言える。
  摂関家が、源氏と結んで武士的な力を高めて来たのに
 対抗した形。
  伊勢平氏を取立て、平正盛を任命した。
  平正盛は、源義親を出雲に追討して武名を高めていた。
  また、源義家は、後三年の役ののち、名声が高まり、
 諸国の百姓らの寄進が義家に集中するようになっていた。
  そして、貴族の様な荘園領主化する動きが出て来るこ
 とが恐れられた。
1095年、堀河天皇による嵯峨野の虫取りが伝えられる。
  鳴く虫の愛玩が宮廷にみられる。
1096年、平忠盛が生まれた(1096年~1153年)
1096年12月、第1回十字軍が各地から出発した。
  十字軍に参加すると、完全に免罪がなされるという「
 完全免罪」が与えられるとされた。
  キリスト教は生まれた時から原罪があるとされるが、
 その原罪どころか、人間は日々の生活で罪を犯している、
 その罪をも完全に免罪されるとされた。
  そして、死後の天国行きが確実だとされた。
  自分の利益だけにとらわれたキリスト教だった。
  当然、これまでの悪行は、すべて帳消しとなると、キ
 リスト教聖職者は説いた。
  また、十字軍に出立するとき、財産のすべてを、キリ
 スト教会に預けさせた。
  出立した兵士が戦死とか、色々な理由で帰って来ない
 とき、その財産をキリスト教会は、自分のものとした。
  そして、ただの烏合の衆にならない様にとの規則があ
 ったが機能しなかった。
  また、出立したら、絶対、帰るなとされたが、途中か
 ら帰る者が居て、キリスト教会は、その者を破門にした。
  また、十字軍は、当時、不満がたまっていた相続権の
 ない次男・三男対策のために計画されたという経緯があ
 る(ガス抜き)。
  1096年から1270年までに7回行われ、結果は失敗であ
 った。
  教皇権が失墜し、イスラム文化の流入などをもたら
 したが、中世社会の崩壊を導く一大契機となった。
  十字軍の異端撲滅のキリスト教世界の教義・考え方は、
 世界の戦争体質を拡大した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

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