題:(増補版)26B:気になった事柄を集めた年表(935年~1054年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
935年、811年から新羅が滅亡する935年までの間、度々、
新羅の賊が日本各地を侵した。
990年5月、藤原道隆(関白在位、990年5月、関白次いで
摂政となった。993年4月22日再び関白となる。995年
4月3日、関白を辞し、藤原伊周の関白就任を再度騒擾
(そうじょう、さわいだ)したがかなわなかった。4月6
日、出家し、4月10日、没した。
992年、藤原頼道が生まれた(992年?~1074年)
995年、藤原道隆が没した(953年~995年)。
疫病が流行して藤原道隆・藤原通兼が没し、藤原道長
が内覧右大臣になり政治の実権を握った。
内覧(ないらん)とは、天皇陛下に奏上する文書を、
摂政・関白、または、宣旨を受けた大臣が前もって読ん
で処置する事、または、その令外官の役職。
10世紀末頃、この頃、清少納言「枕草子」、紫式部「源氏
物語」が書かれた。
996年、藤原道長(内覧在位、996年~1016年)
996年、藤原教通(のりみち、藤原頼道の弟)が生まれた
(996年~1075年)
996年、藤原氏の権力争奪。摂関の就任についての藤原氏
どうしの争いで、道長・伊周(これちか、973年~1010
年)の叔父甥間で展開された争いは有名で、この結果、
兼家・道長の家系が、以後、摂関就任の家系として定着
していった。
997年、長徳の入寇。
長徳3年(997年)高麗人の賊が、対馬、肥前、壱岐、
肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。
民家が焼かれ、財産を奪われ、男女300人がさらわれ
た。これは、南蛮の入寇とも言われている。
998年、赤疱瘡(あかもがさ)が流行した。
症状から「はしか」とされている。
江戸時代にも、はしかは、度々、大流行を繰り返し、
天然痘より死亡率が高かった。
「はしかは命定め」と言われた。
11世紀頃、11世紀頃から(聖徳)太子信仰が大きく広がっ
た。
11世紀、ヴェネティアが独立国になった。
東ローマ帝国の初代皇帝のアレクシオス1世コムネノ
スから金印勅書を獲得して、独立を果たした。
金印勅書とは、皇帝の命令が記されていて、黄金製の
印象が付された公文書の事。
1096年から始まったキリスト教の十字軍がもたらす収
奪品などの売買で莫大な利益を得て発展した。
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティ
アゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険にな
ったため。
11世紀頃、バイキング:11世紀頃には北米大陸に達したと
される。コロンブスより早い。
最初のアメリカ大陸発見はコロンブスではない。
11世紀頃、ビルマ(ミャンマー):9世紀頃から、中国南部
より南下した民族か、11世紀に最初のビルマ王朝である
バガン朝を樹立した。
その壮大な仏教遺跡は今日もなお残存している。
11世紀頃、イースター島に、約1000体のモアイ像という
巨大石像がある。
大きい物は20メートルにもなる。
これらが作られたのは、紀元1000年頃から数百年間と
考えられ、
ポリネシア人は紀元400年~500年頃に渡って来た事が
ほぼ認められている。
11世紀頃、キリスト教の世界終末思想。ローマの巡礼。
11世紀頃、ローマ法:11世紀(1070年頃、フレンツェ写
本が再発見された)以後、ボローニャ大学の法学研究で
復活し、ヨーロッパ諸国の近代法の基礎となった。
11世紀頃、スルタン:11世紀以後、主としてスンナ派イス
ラム王朝の君主が用いた称号。
セルジューク朝、マムルーク朝、オスマン朝などが有
名である。
多くの場合、スンナ派イスラム世界の精神的な首長で
あるアッパース朝カリフから、特定地域における世俗的
な政治権力を委任されるという形式を踏んで、この称号
が授けられた。
東南アジアやアフリカでも用いられたが、現代では、
アラビア半島オマーンの君主が用いている。
11世紀頃、トルコ民族:11世紀のセルジューク朝、次いで、
オスマン朝など、トルコ民族がイスラム教の主要な担い
手となった。
現在、トルコ共和国、トルクメニスタン共和国、ウズ
ベキスタン共和国、中国の新疆ウイグル自治区などの政
治体がある。
11世紀頃、北欧の叙事文学「サガ」をひもとくと、11世紀
に、北欧のバイキングがアメリカ大陸に足を踏み入れて
いたと記されている。
バイキング説は19世紀に立証された。
サガとは、中世の散文物語群の総称で、アイスランド
で成立し、ノルマン人の植民前後からの史実や英雄伝説
を年代記風に記している。
1008年、後一条天皇が生まれた(1008年~1036年、68代)
1008年~1009年、エルサレムの聖墳墓教会が、エジプト
のイスラム教徒に破壊された。
1009年、後朱雀天皇が生まれた(1009年~1045年)
1011年、三条天皇(在位、1011年~1016年)
1011年、冷泉天皇が崩御した(950年~1011年)
1011年、一条天皇が崩御した(980年~1011年)
1014年頃、この頃、紫式部が死んだ(45歳?)。
源氏物語を書き始め、才能と学識を認められた紫式部
は、権力者の藤原道長の懇望に応じて愛娘の家庭教師に
なった。
それが、どんな意味を持つか、彼女は察知していたが、
案の定、道長が、ある夜、部屋の戸を叩いた。
紫式部日記には「恐ろしさに戸を開けなかった」とあ
る。「女性が厭わしさではなく、恐ろしさにというとき
は、後日、自室に招じ入れたはずだ」と、研究者は言う。
いずれにせよ、この夜の出来事は、道長が、長和5年
(1116年)1月29日、摂政になる以前の事という。
1016年、後一条天皇(在位、1016年~1036年)
1016年、鴨の河原に住みついていた河原人が死牛の処理に
したがっていた。
1016年1月、藤原道長が摂政になった(摂政在位、1016年
~1017年)
1017年、三条天皇が崩御した(976年~1017年)
1017年、藤原頼道(摂政在位、1017年~1019年)
1017年、藤原道長が太政大臣となった(1017年~1018年)
1019年、藤原頼道が関白となった(関白在位、1019年~
1067年)、藤原氏の全盛時代。
1022年、藤原道長が法成寺金堂五大堂を建てた。
1022年、平安時代後期に活躍した仏師の定朝(じょうちょ
う)が、法成寺金堂の造仏の功績により、仏師として初
めて、法橋に叙せられた。
1025年、後冷泉天皇が生まれた(1025年~1068年)
1027年、藤原道長が没した(966年~1027年)
1028年、平忠常(たいらのただつね)の乱が起こった。
房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた。
忠常は、広大な所領を持っていて、傍若無人に振る舞
い、国司の命令にも服さなかった。
また、納税の義務も果たさなかった。
中央の国と、地方の有力豪族のいざこざは、これ以外
にもあるという世になって来ていた。
在地豪族と、国衙(こくが、律令制で、国司が政務を
執った役所)との対立。
1032年、富士山が噴火した。
1034年、後三条天皇が生まれた(1034年~1073年)
1036年、後朱雀天皇(在位、1036年~1045年)
1036年、後一条天皇が崩御した(1008年~1036年)
1036年、セルジュク=トルコが起こった。(~1308年)
セルジューク朝は、11世紀から12世紀にかけて、現在
のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在した
イスラム王朝。
現在のイスラエル(カナンの地)も含まれる。
1038年、西夏が起こった。(~1227年)
李元昊が皇帝だと主張した。
モンゴルとチベットの中間に建国された騎馬民族の国
家。
寧夏に首都をおき、東西交易の実権を掌握して栄えた。
宋や周辺の国々を侵略し、独自の官制を整え、西夏文
字を作った。
モンゴル帝国のジンギス・カンによって滅ぼされた。
1039年、源義家が生まれた(1039年~1106年)
1041年、大江匡房(まさふさ)が生まれた(1041年~
1111年)
1045年、後冷泉天皇(在位、1045年~1068年)
1045年、寛徳の荘園整理(停止)令(前任の国司の以後の
新立荘園を禁止した)。
しかし、実効性が乏しかったので、令は何度も発布さ
れる。
1050年頃、この頃、旅行に握り飯の利用が始まった。
1051年、前九年の役が起こった。
奥州(東北地方)を舞台とした戦い。
陸奥の国の有力豪族の安倍氏は、柵(城砦)を築き、
半独立的な勢力を形成していた。
11世紀半ば、朝廷への貢租を怠る状態になったため、
討伐軍が組織され、戦いとなった。
安倍氏は圧勝した。
朝廷は、新たな陸奥守を選任し事態収拾を図った。
しかし、ある事件をきっかけに再び朝廷と阿部氏は、
戦闘状態に入った。
一進一退の状況が続く、色々変遷があったが、1062年、
阿部氏は滅亡した。
1052年、仏陀滅後2000年の年。末法の初年という(末法
思想)。
1052年、藤原頼道が平等院を建てた。
1053年、白河天皇が生まれた(1053年~1129年)
1053年、鳥羽僧正が生まれた(1053年~1140年)
1053年、藤原頼道が宇治に平等院鳳凰堂を建てた。
1054年、キリスト教の東西教会の分裂。
ギリシャ正教会(ビザンチン帝国)と、ローマカトリ
ック教会とが分裂した。
分裂の遠因として、東西両教会の交流が薄くなり、数
百年に及ぶと教義の解釈が違ってきた。
教皇権に対する考え方の違いや、司祭の妻帯が良いの
かどうかの違い、典礼(奉神礼)の形式の違い、キリス
ト教としては基本で重要なニカイヤ信条の解釈の違い、
聖像破壊運動・悪習打破運動の軋轢などなど、色々な問
題の存在がそこにあった。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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935年、811年から新羅が滅亡する935年までの間、度々、
新羅の賊が日本各地を侵した。
990年5月、藤原道隆(関白在位、990年5月、関白次いで
摂政となった。993年4月22日再び関白となる。995年
4月3日、関白を辞し、藤原伊周の関白就任を再度騒擾
(そうじょう、さわいだ)したがかなわなかった。4月6
日、出家し、4月10日、没した。
992年、藤原頼道が生まれた(992年?~1074年)
995年、藤原道隆が没した(953年~995年)。
疫病が流行して藤原道隆・藤原通兼が没し、藤原道長
が内覧右大臣になり政治の実権を握った。
内覧(ないらん)とは、天皇陛下に奏上する文書を、
摂政・関白、または、宣旨を受けた大臣が前もって読ん
で処置する事、または、その令外官の役職。
10世紀末頃、この頃、清少納言「枕草子」、紫式部「源氏
物語」が書かれた。
996年、藤原道長(内覧在位、996年~1016年)
996年、藤原教通(のりみち、藤原頼道の弟)が生まれた
(996年~1075年)
996年、藤原氏の権力争奪。摂関の就任についての藤原氏
どうしの争いで、道長・伊周(これちか、973年~1010
年)の叔父甥間で展開された争いは有名で、この結果、
兼家・道長の家系が、以後、摂関就任の家系として定着
していった。
997年、長徳の入寇。
長徳3年(997年)高麗人の賊が、対馬、肥前、壱岐、
肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。
民家が焼かれ、財産を奪われ、男女300人がさらわれ
た。これは、南蛮の入寇とも言われている。
998年、赤疱瘡(あかもがさ)が流行した。
症状から「はしか」とされている。
江戸時代にも、はしかは、度々、大流行を繰り返し、
天然痘より死亡率が高かった。
「はしかは命定め」と言われた。
11世紀頃、11世紀頃から(聖徳)太子信仰が大きく広がっ
た。
11世紀、ヴェネティアが独立国になった。
東ローマ帝国の初代皇帝のアレクシオス1世コムネノ
スから金印勅書を獲得して、独立を果たした。
金印勅書とは、皇帝の命令が記されていて、黄金製の
印象が付された公文書の事。
1096年から始まったキリスト教の十字軍がもたらす収
奪品などの売買で莫大な利益を得て発展した。
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティ
アゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険にな
ったため。
11世紀頃、バイキング:11世紀頃には北米大陸に達したと
される。コロンブスより早い。
最初のアメリカ大陸発見はコロンブスではない。
11世紀頃、ビルマ(ミャンマー):9世紀頃から、中国南部
より南下した民族か、11世紀に最初のビルマ王朝である
バガン朝を樹立した。
その壮大な仏教遺跡は今日もなお残存している。
11世紀頃、イースター島に、約1000体のモアイ像という
巨大石像がある。
大きい物は20メートルにもなる。
これらが作られたのは、紀元1000年頃から数百年間と
考えられ、
ポリネシア人は紀元400年~500年頃に渡って来た事が
ほぼ認められている。
11世紀頃、キリスト教の世界終末思想。ローマの巡礼。
11世紀頃、ローマ法:11世紀(1070年頃、フレンツェ写
本が再発見された)以後、ボローニャ大学の法学研究で
復活し、ヨーロッパ諸国の近代法の基礎となった。
11世紀頃、スルタン:11世紀以後、主としてスンナ派イス
ラム王朝の君主が用いた称号。
セルジューク朝、マムルーク朝、オスマン朝などが有
名である。
多くの場合、スンナ派イスラム世界の精神的な首長で
あるアッパース朝カリフから、特定地域における世俗的
な政治権力を委任されるという形式を踏んで、この称号
が授けられた。
東南アジアやアフリカでも用いられたが、現代では、
アラビア半島オマーンの君主が用いている。
11世紀頃、トルコ民族:11世紀のセルジューク朝、次いで、
オスマン朝など、トルコ民族がイスラム教の主要な担い
手となった。
現在、トルコ共和国、トルクメニスタン共和国、ウズ
ベキスタン共和国、中国の新疆ウイグル自治区などの政
治体がある。
11世紀頃、北欧の叙事文学「サガ」をひもとくと、11世紀
に、北欧のバイキングがアメリカ大陸に足を踏み入れて
いたと記されている。
バイキング説は19世紀に立証された。
サガとは、中世の散文物語群の総称で、アイスランド
で成立し、ノルマン人の植民前後からの史実や英雄伝説
を年代記風に記している。
1008年、後一条天皇が生まれた(1008年~1036年、68代)
1008年~1009年、エルサレムの聖墳墓教会が、エジプト
のイスラム教徒に破壊された。
1009年、後朱雀天皇が生まれた(1009年~1045年)
1011年、三条天皇(在位、1011年~1016年)
1011年、冷泉天皇が崩御した(950年~1011年)
1011年、一条天皇が崩御した(980年~1011年)
1014年頃、この頃、紫式部が死んだ(45歳?)。
源氏物語を書き始め、才能と学識を認められた紫式部
は、権力者の藤原道長の懇望に応じて愛娘の家庭教師に
なった。
それが、どんな意味を持つか、彼女は察知していたが、
案の定、道長が、ある夜、部屋の戸を叩いた。
紫式部日記には「恐ろしさに戸を開けなかった」とあ
る。「女性が厭わしさではなく、恐ろしさにというとき
は、後日、自室に招じ入れたはずだ」と、研究者は言う。
いずれにせよ、この夜の出来事は、道長が、長和5年
(1116年)1月29日、摂政になる以前の事という。
1016年、後一条天皇(在位、1016年~1036年)
1016年、鴨の河原に住みついていた河原人が死牛の処理に
したがっていた。
1016年1月、藤原道長が摂政になった(摂政在位、1016年
~1017年)
1017年、三条天皇が崩御した(976年~1017年)
1017年、藤原頼道(摂政在位、1017年~1019年)
1017年、藤原道長が太政大臣となった(1017年~1018年)
1019年、藤原頼道が関白となった(関白在位、1019年~
1067年)、藤原氏の全盛時代。
1022年、藤原道長が法成寺金堂五大堂を建てた。
1022年、平安時代後期に活躍した仏師の定朝(じょうちょ
う)が、法成寺金堂の造仏の功績により、仏師として初
めて、法橋に叙せられた。
1025年、後冷泉天皇が生まれた(1025年~1068年)
1027年、藤原道長が没した(966年~1027年)
1028年、平忠常(たいらのただつね)の乱が起こった。
房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた。
忠常は、広大な所領を持っていて、傍若無人に振る舞
い、国司の命令にも服さなかった。
また、納税の義務も果たさなかった。
中央の国と、地方の有力豪族のいざこざは、これ以外
にもあるという世になって来ていた。
在地豪族と、国衙(こくが、律令制で、国司が政務を
執った役所)との対立。
1032年、富士山が噴火した。
1034年、後三条天皇が生まれた(1034年~1073年)
1036年、後朱雀天皇(在位、1036年~1045年)
1036年、後一条天皇が崩御した(1008年~1036年)
1036年、セルジュク=トルコが起こった。(~1308年)
セルジューク朝は、11世紀から12世紀にかけて、現在
のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在した
イスラム王朝。
現在のイスラエル(カナンの地)も含まれる。
1038年、西夏が起こった。(~1227年)
李元昊が皇帝だと主張した。
モンゴルとチベットの中間に建国された騎馬民族の国
家。
寧夏に首都をおき、東西交易の実権を掌握して栄えた。
宋や周辺の国々を侵略し、独自の官制を整え、西夏文
字を作った。
モンゴル帝国のジンギス・カンによって滅ぼされた。
1039年、源義家が生まれた(1039年~1106年)
1041年、大江匡房(まさふさ)が生まれた(1041年~
1111年)
1045年、後冷泉天皇(在位、1045年~1068年)
1045年、寛徳の荘園整理(停止)令(前任の国司の以後の
新立荘園を禁止した)。
しかし、実効性が乏しかったので、令は何度も発布さ
れる。
1050年頃、この頃、旅行に握り飯の利用が始まった。
1051年、前九年の役が起こった。
奥州(東北地方)を舞台とした戦い。
陸奥の国の有力豪族の安倍氏は、柵(城砦)を築き、
半独立的な勢力を形成していた。
11世紀半ば、朝廷への貢租を怠る状態になったため、
討伐軍が組織され、戦いとなった。
安倍氏は圧勝した。
朝廷は、新たな陸奥守を選任し事態収拾を図った。
しかし、ある事件をきっかけに再び朝廷と阿部氏は、
戦闘状態に入った。
一進一退の状況が続く、色々変遷があったが、1062年、
阿部氏は滅亡した。
1052年、仏陀滅後2000年の年。末法の初年という(末法
思想)。
1052年、藤原頼道が平等院を建てた。
1053年、白河天皇が生まれた(1053年~1129年)
1053年、鳥羽僧正が生まれた(1053年~1140年)
1053年、藤原頼道が宇治に平等院鳳凰堂を建てた。
1054年、キリスト教の東西教会の分裂。
ギリシャ正教会(ビザンチン帝国)と、ローマカトリ
ック教会とが分裂した。
分裂の遠因として、東西両教会の交流が薄くなり、数
百年に及ぶと教義の解釈が違ってきた。
教皇権に対する考え方の違いや、司祭の妻帯が良いの
かどうかの違い、典礼(奉神礼)の形式の違い、キリス
ト教としては基本で重要なニカイヤ信条の解釈の違い、
聖像破壊運動・悪習打破運動の軋轢などなど、色々な問
題の存在がそこにあった。
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