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2015年6月29日月曜日

(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)

題:(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1702年、飛騨屋久兵衛が松前に渡り、尻別において唐檜(
 エゾマツ)の伐木事業を始めた。
1702年7月18日、事件:浅野家へおあずけ
  浅野長矩の弟の浅野大学(だいがく、浅野長広)が、
 広島藩主:浅野家へおあずけの身となった。
1702年、経済:江戸で地代・店賃が取り調べられた。
1702年閏8月、経済:金銀訴訟の相対済令(あいたいすまし
 れい)、享保の改革で発布された法令の一。
  前年までの金銀訴訟を相対済とした(金銀貸借や売掛
 金などの紛争の訴訟に公権力は関与しない)。
  訴訟事務の停滞を理由に、既往の金銭貸借の訴訟は受
 理せず、当事者間で解決させることとした。
1702年、経済:物価低減令
1702年、出版:新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ、
 歴史書)」が完成した。
  甲府藩主の徳川綱豊(後の、6代将軍家宣)に、1701年
 に、命じられていた。
  1600年からの80年間における、1万石以上の大名の337
 家について、その始封、襲封(しゅうほう、諸侯が領地
 をうけつぐこと)、廃除などを記したもの(由来と事績・
 業績を集録し、系図を付けた)。全13巻。
  本書は、幕藩体制の鳥瞰図(ちょうかんず)的役割を
 持つことのほか、政治の参考書であり、道徳教訓書でも
 あった。
  内容の優れた文章と、豊かな内容とによって、家宣は
 死ぬまで座右を離さなかったという。
  また、武家一般に広く読まれ、大名家で本書を備えな
 いものはなく、古今いまだその比を見ないと言われた。
  白石は、全精力を傾けて書いたため、「白髪満頭(頭
 が白髪・しらがで真っ白になった・・という意味らしい)」
 になったと告白している。
  実証主義を堅持し、学問的良心の強さがみられる。
  本書は、その後、権威ある著作として、標準的史書と
 として扱われ、よく引き合いにも出された。
1702年、イギリス:アン女王戦争が起きた(英仏植民地戦
 争、~1713年)
  スペイン継承戦争の際に、アメリカ大陸で行われてい
 た戦争。
  この戦争の結果、イギリスは、アメリカへの奴隷貿易
 の特権を得た(卑劣な権利の獲得)。
  また、ニューファンドランド、ノバスコシア、ハドソ
 ン湾沿岸地方の新たな領土を獲得し、獲得領土が拡大し
 た(カナダの東端地域で、ニューヨーク・ボストンの北
 方地域)。
  卑劣な事に、この後も、何度も戦争を繰り返す好戦国。
1702年、イギリスの利益収奪行為の「東インド会社」が、
 植民地の虐げ行為が行き過ぎと感じたのか、2社が合同さ
 れた(イギリスの行為を代行していた)。
  しかし、合同後も、この2社は、懲りずに新旧の2派を
 新たに作って対立した。
1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士が、吉良邸
 へ討ち入った(仇討ち)。
  そして、主君の仇である吉良義央を殺し、その首を泉
 岳寺にある主君・浅野長矩(ながのり)の墓前に捧(ささ)
 げた。
  雪は、前日に降り、実際は日陰に残っている程度だっ
 た。
  仇討の中心人物は、家老の大石良雄で、1701年4月21日
 の事件から、1年9ヶ月が経っていた。
  芥川龍之介に「或日の大石蔵之助」がある。
1703年3月20日(元禄16年2月4日)、赤穂浪士切腹
  赤穂浪士46士が切腹した。
  同日、吉良家当主の義周(きらよしちか、)は、幕府
 評定所に呼び出された結果、領地を没収され、家名が断
 絶した。
1703年、演芸:近松門左衛門が、「傾城三の車」を京都で
 上演した(忠臣蔵物のさきがけ)
  1701年の浅野内匠頭の殿中切傷と切腹、
  そして、翌々年の赤穂浪士討ち入りは、江戸の関心を
 集め、これに取材したおびただしい数の作品が、歌舞伎
 や人形浄瑠璃の舞台となった。
  最も早いものは、刃傷が行われたのと同年同月に、小
 栗判官的に脚色されて、江戸の山村座で上演された「東
 山栄華舞台」があり、
  次いで、浪士たちの切腹直後の曽我的に組まれた、江
 戸の中村座で演じられた「曙曽我夜討」と言われている。
  上演が確認できる最初の作品は、歌舞伎では、この時
 の、京都の早雲座二の替りの、近松門左衛門作「傾城三
 の車」である。
  その中の巻に、討入を示唆する場面がある。
1703年4月、事件:曾根崎心中
  醤油屋の手代の徳兵衛と遊女のお初が、大阪の曾根崎
 天神の森で心中した。
1703年5月、演芸:近松、大阪初演
  近松門左衛門が、「曾根崎心中」を、大阪の竹本座で
 初演した。
  この頃、上方で心中が流行した。
1703年、交通政策:借駕篭の数を制限した。
  江戸で、借駕篭の数を600挺に制限した。
  そして後に、さらに300挺にした。
1703年、出版:室鳩巣(むろきゅうそう、儒学者)
  室鳩巣が「赤穂義人録(あこうぎじんろく)」を著し
 た。
  赤穂義士の仇討の一件を、赤穂義士を褒(ほ)め称(
 たた)える立場で、漢文で記した書。
  赤穂浪士の関係書物としては、最も早く流布した。
1703年、世相:打ちこわし
  長崎の町人が、米の買い占めを行なっていた米商を打
 ちこわした。
1703年、ピョートル1世(ロシア)が、ペテルブルグ(後の
 レニングラード)建設を開始した(要塞と港湾都市)。
  そして、1713年に、遷都した。
  ピュートル1世は、西欧技術・文化の輸入を図り、富国
 強兵に努めた。
1704年2月、初代・市川団十郎(いちかわだんじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1660年~1704年)
  元禄時代を代表する名優。市川家の宗家。
  俳優の生島半六に舞台で刺殺された。屋号は成田屋。
  祖先は広州の武士で、後に下総国(千葉県成田市)に
 移住して農を営んだ。
1704年、交通政策:助郷の取締り
  宿駅問屋場に役人を置き、無用の助郷を取り締まった。
  助郷(すけごう)は、宿駅常備の人馬が不足する場合、
 その補充のために、宿駅近くの村々に課された夫役(ぶ
 やく)。
  この助郷は、1694年に制度化されたが、助郷負担の見
 返りに出る手当は微々たるものであり、
  河止めにでもなれば、何日も拘束されるなど、
  その間、農作業が出来ないなど負担が重かった。
  その為、助郷の免除願いが出されたり、出勤簿だけ書
 いて逃走したりと、
  負担回避のための行動が行われた。
  また、この制度を悪用して、
  農民から金銭を集めて代役を安く雇い、利益を貪(む
 さぼ)る者も出た。
  雇われた人足は「雲助」と呼ばれた。
  年々、助郷の人数や、召集の回数が、次第に多くなり、
 農民は、農業が出来なくなり、百姓を止める人や、離散
 者が増えた。
  助郷一揆が、発生した例もある。
1704年、政治:綱吉の将軍世子
  甲府城主が徳川綱豊を将軍世子とし、家宣と改名させ
 た。
  綱吉が、継嗣子を得られず、甥の甲府の徳川綱豊(綱
 吉の兄・綱重の子)を将軍職後継者に定めた。
1704年、天災・洪水:利根川に洪水が起きた。
1704年、芸術:尾形光琳(おがたこうりん、画家、工芸家)
 が、江戸に下り、大名や豪商らの支持を得た(1658年~
 1716年)
  光琳は、5年ほど江戸に滞在した後、1709年に、京都へ
 戻っている。
1704年、社会資本整備:大和川
  幕府が、大和川の付替え工事に着手した。
  岸和田・三田・明石・高取・丹羽・柏原藩などの助役
 により付替工事が完成した。
1704年、清で典礼問題が起こり、ローマ法王が、軍隊式に
 組織されていたイエズス会を異端とした。
  このイエズス会は、資金を得るため商業を営んでもい
 た。
  法王の勅書を守らないイエズス会司祭を破門にした。
1704年8月、イギリスが、ジブラルタルを占領した。
  スペイン継承戦争における戦闘の一つ。
  イギリスは、地中海の橋頭堡を得たいと、1703年に、
 まず、ポルトガルのリスボンを海軍の寄港地とし、
  オーストリアを同盟軍に招き入れ、
  イギリス・オランダ艦隊にオーストリア軍も乗せて派
 遣し、紆余曲折の後、スペイン南端の港湾都市ジブラル
 タルを守備するスペイン軍を降伏させ、占領した。
 ..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/

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