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2013年10月2日水曜日

イエスの言葉より・・発した・・・

 題:イエスの言葉より・・発した・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 人類の歴史において、
 多くの戦争の原因となり、
 また、驚くべき多くの、
 筆舌に現わすことのできない、多くの数の人々の・・
 『死の原因』となったのは、
 イエスの言葉より発した。
 (「ヨハネによる福音書」8章)で、イエスは言う。
 「汝らおのが父、悪魔より出でて・・」・・と。
 ユダヤの方々を『悪魔より出た民族だ』と決め付けた。
 イエスが言った。
 2世紀に作られたという「ヨハネによる福音書」にある。
 また、政治的な作為があって作られたという言い訳もあ
る。
 この言葉で、ユダヤの方々は、以後、拭(ぬぐ)うこと
のできない『悪魔の民だとのレッテル』が貼られてしまっ
た。
 イエスのこの言葉には、まったくもって、『憤りが頂点』
に達する。
 何が愛なのだ・。怨(うら)みだけではないか。
 この言葉を始めとして、悲惨な歴史が、延々と、ユダヤ
の方々に降りかかって行く。
 そしてまた、
 キリスト教の卑劣な教義である「同罪報復を認める教義」
である。
 神の正義なのだからと、『同じ報復をしてよい、そして、
しろ』と言う。
 その様な事を言う『神も神』である。
 「眼には眼を」である。
 この様に、卑劣な仕掛けを、「人類の歴史に仕掛けるキ
リスト教」なのである。
 結局、人間同士なのに、神の正義なのだからと・・。
 神を名乗って、『同罪報復』を、『相手を傷付ける行為』
を、堂々とする。
 そして、『それを良し』として教え、『そうするべき』と、
洗脳するキリスト教。神の正義なのだ・・と。
 洗脳・コントロールされた頭を持ったキリスト教の信徒
の方々が、同罪を与えようと、『武器を持って』、卑劣な
行為に走る、およぶ。
 卑劣な宗教だ。
 この様な解決策しか与えられない、劣った宗教だ。
 神という御旗を立てて・・、
 結局は、地獄の悪魔の行為にしかおよべない。その様な
教えしか信徒の方々へ与えられない。
 力のない劣悪なキリスト教によって、人類に仕掛けられ
た、同罪の報復の連鎖は続いて行く。
 益々、世は悲惨さが増す。
 悲惨さを繰り返させる、繰り変えす劣悪な宗教教義。
 無くなって消えるという論理システムではない『キリス
ト教の劣悪宗教教義』。
 ユダヤの方々も、終世、『悪魔より出た民、キリスト殺
しの同罪報復の対象の民』との、呪いのキリスト教の教義
の暗示の中で、苦しみもだえ殺されて行く歴史となる。
 キリスト教の、『『卑劣な暗示の仕掛けが悪い』』ので
ある。
 『呪いの宗教パターン』が悪いのである。
 劣っているのである。
 「汝等の宗教・キリスト教こそが悪魔の宗教」だという
ことが気が付いていない、気がつかない。
 同じ福音書の章でヨハネは書く、イエスが言うと、
 「もし(汝ら)アブラハムの子ならば、アブラハムの業
をなさん。しかるに汝らはいま、神より聴きたる真理を汝
らに告ぐる者なるわれを殺さんとはかる」・・と。
 ここで、イエスは言っている、同じアブラハムの、この
同民族ならば、アブラハムのことをしろ・・と。
 そして、汝らの信じる神から真理を聞いて来たわれ(イ
エス)なんだからその言葉を聴くべきなのに、聞かず、ま
た、信じもせず、われ(イエス)を殺さんとする(そして、
結局、十字架に掛けてしまった)。
 イエスの言葉は、われ(イエス)の言うのが正しいのだ
から、『お前たちが悪い』の一点張りの思考パターン。
 『同じアブラハムではないか』と言っているところも、
思考範囲が、同民族内の自分だけのポジションから発想し
ていて、思考の発想基盤が非常に狭い状況となっている。
 イエスの思考領域が、『民族レベル』ということが分か
る。
 キリスト教も、同じく、狭い思考基盤の宗教となってい
るが・・。
 所詮、神から『選民』として、選ばれた民だけの優越意
識だけの宗教・思想となっている。
 そして、イエスは、われ(イエス)、神の言葉を聴いて
いるのに、汝ら(ユダヤの民)が、それを聞けない『汝ら
が悪い』と、相手だけを悪者にする思考パターン。
 そして、われを聞けない汝らが同罪報復を受けるのだ、
悪いのだからとなる。
 そして、われを殺した・・と。
 そのユダヤ民族側にも、「同罪報復」の発想・思想が働
いている。この愚劣な考え方・思想・教義が悪く働いてい
る。
 イエスへの死による同罪報復である。
 愚劣な報復が続いて行く。
 どちらからも歩み寄りがない。
 仏には、仏の様に常に寄り添い、分からないならば「分
かるように、悟るように」・・、
 何時も相手の身になって、
 「何時も、分かれる様に、悟れるように、色々な譬(た
とえ)の話・言葉を加えて、手を差し伸べて、分かるよう
に、悟れる様に」・・と。
 ここには、お互いが相手を思いやる心だけがある。
 何ら相手への恨みや同罪報復の思想・心・発想はないし、
生まれない。
 愚かにも、このイエスの怨(うら)みの暗示の言葉が、
 人類の歴史にずーっと付きまとい、
 何人の人に、非常に多くの無念の死が発生し、させられ
たか。
 さらに、卑劣・愚劣なことに、イエスは、
 この「ヨハネによる福音書、8章」で重ねて言う、
 「かれ(ユダヤ人)は、はじめより人殺しなり」。
 イエスは最後に、吐き捨てる様に言う、ユダヤ人は人殺
しなのだ・・と。
 呪いのキリスト教。教義を止めよ、そして、変えよ。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
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2013年10月1日火曜日

非常に残念な「人類の負の遺産」、可哀想な方々。

 題:非常に残念な『人類の負の遺産』、可哀想な方々
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 12世紀までのスペインは、ユダヤ人に対して比較的寛大
だった。
 しかし、これから、筆舌につくせぬ『卑劣な行為』をし
た。
 それ以前に、スペインに居たイスラム教のアラブ人の方
々も、ユダヤ人の方々への迫害はしなかった。
 しかし、頭に『キリスト殺し』の観念を、ユダヤ人の方
々に対して持っている『キリスト教会は別』だった。
 『キリスト教会』は民衆を唆(そそのか)した。
 民衆のユダヤ人の方々への襲撃が起こるようになった。
 その上、特に、フランスから「アラブ十字軍」が入ると
様相は一変した。世はヒステリックになった。
 (これも『キリスト教会』が仕組んだこと)
 ユダヤの方々への風当たりは激しくなった。
 最初は、「逮捕」「投獄」「国外追放」の程度であった
が、「虐殺」が始まった。
 総べてが、『キリスト教会の煽動』であった。
 ユダヤの方々は、『キリスト教会』から徴税請負人(取
税人)になるようにされていたから(職業選択の自由を拘
束されていた)、人々のユダヤ人への敵意は、根強かった。
 14世紀の末頃から、特に、全国的に迫害が行われるよう
になり、更に酷(ひど)い状態へとなった。
 「略奪」「暴行」「殺害」である。
 ユダヤの方々は皆が、その嵐を受けたくらいであった。
 免れたユダヤ人はいないという状態だった。
 絶望したユダヤ人は、生き延びるために「不本意なキリ
スト教の洗礼」を受けた。
 信仰心の強いユダヤ人の方々の、集団での転向は、それ
までのユダヤ人の歴史には無かったことだった。
 転向すれば、元の職業に戻ることが許された。
 『キリスト教会』は、ユダヤ人の方々の転向は、心から
の転向では無い、「偽装転向」と見ており、
 助かりたいというユダヤ人の方々を『キリスト教会』は、
猜疑の眼で見た。
 この様な世情の中で、プロテスタントの反カトリックの
騒ぎの愚行が、この世の中の、『キリスト教会が作った』
陰湿な動きに加わった。
 また、この『キリスト教会のこの反目』は、戦争にまで
発展して行った。
 「農民戦争」が勃発した。
 『キリスト教カトリック教会』は、異端者の摘発に卑劣
な行為をするようになる。
 『キリスト教会の聖職者』は、「悪魔の手先だ」という
『妄想』をヨーロッパ中に吹聴し、説いて回った。
 スペインに、1478年、ユダヤ人追放のための、『キリス
ト教会の異端審問所』が作られた。
 この機関・異端審問所が『極悪の極み』なのである。
 殺人マシンと化す。
 何人ものユダヤ人の方々が殺された。
 スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、ア
メリカ大陸でも、数えきれないくらいのインディオスの方
々を虐殺したが、
 スペイン国内でも、この様な悲惨なシステムを造って、
卑劣・悲惨な行為をした。
 この異端審問所は、300年間という途方も無い長期間に
渡って存在し、人を殺し続けた。
 生きながら焼き殺した。
 この焚刑をする、『キリスト教会の異端審問所』は、18
世紀に至るまで続けられた。
 無数のユダヤ人の方々が、異端者とされ、無念の死を、
『キリスト教会のこの施設』から受けた。
 コロンブスの船に乗った多くのユダヤ人の方々は、この
様な悲惨な行為から逃れる面もあった。
 コロンブスは乗組員不足に悩んでいたが、解決した。
 また、実は、コロンブス自身もユダヤ人だったのではな
いかと言われている。
 ユダヤ人の方々は、アメリカ大陸にも逃げた。
 しかし、卑劣なことに、この『キリスト教会の異端審問
所』は、アメリカ大陸にまでも造られ、ユダヤの方々が犠
牲となった。
 焼き殺すユダヤの方々が、あまりにも多いため、キリス
ト教聖職者の、その事情「手が回りません」の連絡がロー
マ法王にまで伝えられている。
 ユダヤ人の方々は、卑劣なスペインから逃れるため、ポ
ルトガルへも逃れた。
 しかし、スペインの手が回っていた。
 ポルトガルも「ユダヤ人追放令」を準備していた。
 コロンブスの「新大陸発見」の報で、ユダヤ人の方々は
次々に新大陸へ渡った。
 その先頭に立って新大陸へ渡ったのは、ユダヤ人の方々
だった。
 しかし、既に記したが、『キリスト教会・異端審問所』
は、新大陸にまでも設置された。
 この審問所は、「血しぶきをあげて回転を始めた」と書
籍に書かれるぐらいの、極悪の非人道的な『キリスト教会
の極悪機関』だった。
 『キリスト教会のトップ』のローマ法王庁まで援助を求
めるほどに人を殺した。
 この『キリスト教会の極悪行為』は、「メキシコ」や
「フィリピン」まで殺しの手を伸ばしていった。
.
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2013年9月30日月曜日

(追記)ユダ王国のヘロデ大王について・・

 題:(追記)ユダ王国のヘロデ大王について
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イスラエルの古代・・の、南イスラエルの「ユダ王国」
の王・ヘロデは、大王と呼ばれているが・・、
 しかし、よく調べると、何だか「怪(あや)しい」男の
様だ。
 エジプトの大王が、大きなピラミッドを造っているが、
 このパレスチナの大王も、自分もパレスチナの地で、そ
の様にしようと思ったのか、南イスラエルの山をピラミッ
ドの様にさせた。そして、自分の墓にしている。
 エジプトのピラミッドは、農閑期の失業対策として、民
のための善政の工事だったが・・、
 このイスラエルの偽(にせ)の大王は、民をいじめると
いう、名ばかりの大王だった。
 苦しんでいる民を、更に、苦しめ、しないでも良い工事
をしたと言える。
 この男は、イスラエルの男ではなかった。
 隣国の人間だった。
 イスラエルの王に、巧妙に立ちまわり、ゴマもスリ、も
ぐりこんだ男だった。
 そして、隣国をいつも軽蔑していた。
 自分が、その地の男だったのに。
 こんな男が王位について、ユダヤ人が喜ぶ訳がない。
 成り上がった者は、ローマ帝国へのご機嫌もとった。
 得意なゴマスリもした、そのしわ寄せは民へ来た。
 莫大な税金を民へ課した。
 そして、権力を握ったら、この男は、エルサレムの最高
法院(サンへドリン)の役職者を全員、殺した。
 最後の一人まで徹底した。
 当然、政治は「恐怖政治」となった。
 民は、怯(おび)えた。
 政治上の不平分子も徹底してやった。
 民を苦しめて取った税金で、国中に、ローマが喜びそう
な施設(箱物)などを造った。
 「ローマ風劇場」「ローマ風競技場」などだ。
 そして、敵が怖かったのか、この様な奴は、当然、敵が
多いので、怖(こわ)がる訳だが、
 城壁を堅固にし、また、城壁増築もした。エルサレムを
さらに城壁で囲んだ。
 また、不平の民を放逐する訳に行かないので、また、殺
す訳にも行かないので(納税者なので)、懐柔(かいじゅ
う)策をとる。
 民が喜ぶ、エルサレム神殿の大改造をした。
 やはり、民・ユダヤの人たちは喜んだ。
 この神殿は、イエスが大暴れした例の神殿である。
 イエスは、口で、言葉で、納得させることが出来なくて、
 腕力で、大暴れで、民の商店を壊した。
 八つ当たりされた町の商人の方たちは、大迷惑だったろ
う、可哀想なことだ。
 この神殿には、本尊の「ヤハウェ神との契約」が入った
証(あかし)の箱はない状態。
 行くへ知れずの本尊。
 本尊の「もぬけのからの神殿」だった。
 また、パリサイ派の過激分子は「熱心党」を作ったが、
 更に超過激な『短剣組(シツカリ)』が生まれた。
 探検組は、ローマ人やローマへの協調者を暗殺して歩い
た。民は恐れ、恐怖に沈んだ。
 この、探検組に睨(にら)まれたローマ政府への協調者
(ユダヤの裏切り者)にはイエスが入り浸(ひた)った取
税人がいた。
 ローマ政府の手先となって、苦しんでいるユダヤの方か
ら税金を取った奴である。
.
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2013年9月29日日曜日

イスラエルの地の出来事

 題:イスラエルの地の出来事
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエス(BC4頃~AD30頃)。
 一人のユダヤ人として、ユダヤの一時期、歴史の中で必
死に生きた人だった。
 今・現代、そのユダヤ人の方たちから、一番、疎(うと)
んじがられている人でもある。
 イエスは、北イスラエルの地・ガリラヤに生まれ育った
が、そして、南イスラエルの地には「ユダ王国」があった。
 この「ユダ王国」に、イエスの生まれるはるか以前の時、
 「ギリシャ帝国」から命令が来た。
 「イスラエルの宗教を捨てよ」。
 そして、「ギリシャの祭壇に供犠を捧(ささ)げよ」・
・と。
 イスラエルの民は、この「セレウクス朝ギリシャ帝国」
の帝の勅命に従った。
 これを見た「ユダ王国の王権を継ぐ家系である『ハスモ
ネ家』の系図に居る『マタティア』(?~BC166年)」は、
激怒した。そして、叫んだ。
 「宗教連合を支持するものは、我が後に続け」。
 マタティアは、5人の息子・ユダ(マカベ)・シモン・
ヨナタン等と支持する人々と山に潜伏した。
 ゲリラ戦である。
 そして、マタティアが死んだ後は、ユダ(マカベ)が引
き継いだ。
 そしてまた、ユダの戦死後は、ヨナタンが引き継ぎ、
 エルサレムを占領した。
 セレウクス朝ギリシャ帝国に、ハスモネ家は大司祭の系
図でもあったので、正式に大司祭職を認めさせた。
 しかし、このヨナタンも、後に捕えられて、殺された。
 その後は、シモンが引き継いだ。
 しかし、このシモンも暗殺されてしまった。
 引き継いだのは、シモンの子のヨハネス・ヒルカヌス
(BC135~105年)だった。
 ヒルカヌスは、「ローマ帝国」の援助を得た。
 ここで、やっと、ユダは独立できた。
 王国が建設できた。
 ヒルカヌスは、気になっていたサマリア人の神殿を破壊
した。そして、割礼を強いた。
.
 そして、時は遡(さかのぼ)ってギリシャの話。
 ギリシャの大王だったことで有名なアレキサンダー(BC
356~323)が死んだ時、アレキサンダーの死によって、安
定していた勢力図に変化が現われた。
 そして、それまでのギリシャ帝国は、分割・割譲されて
いった。
 世の勢力分布は変わった。
 「本拠マケドニア」と、「クレオパトラ(BC70~30)で
名高いエジプトのプトレミオ朝」と、「アジアのセレウク
ス朝ギリシャ」だった。
 パレスチナのこの小さな国は、これ等の大国の「はざま」
で生きた。
 パレスチナの地は、「セレウクス朝ギリシャ」と「プト
レミオ朝エジプト」の争点の地となった。
 この時のセレウクス朝ギリシャは、ユダヤ人を徹底的に
ギリシャ化しようとし、エルサレム神殿を破壊した。
 そして、「ゼウスの神殿」を建てた。
 ユダヤ人の律法は厳禁となった。
 ギリシャ人は、彫像(イコン)を美化・尊重した。
 裸体美を愛した。
 これは、ユダヤ人は、宗教的に受け入れられなかった。
 裸体は恥辱の最たるものだった。
 ヤハウェ神殿の近くで、裸体で体育競技をするギリシャ
人に反感し、嫌悪を持った。
 ギリシャ化したユダヤ人が裸体になったりした。
 ハスモネ家のヒルカヌスは、大司祭を名乗ったが、事実
上は王だった。
 世の中は世俗化した。
 大司祭の世俗化でもある。
 人々はこのことに反発した。
 「王権は、ダビデと、その裔(えい)に継承される」
である。
 ユダヤの人々の中には、律法への忠誠と共に、世俗化し
た王権力への反感を持つ人たちがいた。
 この人たちが、「パリサイ派」の人たちだった。
 ユダヤの人々には、このパリサイ派の人々の他に「サド
カイ派」の人たちがいた。
 サドカイ派は、上層部の人たちが支持し、王・ヒルカヌ
スも、このサドカイ派と結び付いていた。
 イエスは、この「パリサイ派を、よく、罵倒した」。
 一般的に、「サドカイ派が、国家主義的」で、
 「パリサイ派は、国際主義的・国際協調的」と言われる。
 ユダヤ人の「バビロニア捕囚などの、異民族の中での生
活の経験が、ユダヤ人を国際的な感覚にし、国際協調的に
していた」。
 キリスト教教義の「異教徒は殺せ」は、まったく、卑劣
で、劣った教義である。
 この教義は、まったく、国際的な人間を作らず、人間を
成長させない教義である。
 ユダヤ人の多数は、パリサイ派になっていた。
 このパリサイ派を、イエスはしきりに罵倒したが、その
意義が分からない。
 このイエスの生まれる前、紀元前40年に、
 南イスラエルの「ユダ王国」に、大王と言われた「ヘロ
デ (BC73~BC4)」が、この年に王位についた。
 ヘロデは、「ユダ王国」の長くはないが王位を継承する
「ハスモネ家」の系図にいる人だった。
 ユダヤの国家、ハスモネ家の国、その大王と言われたヘ
ロデ王の時、社会矛盾が激化する。
 階級の格差も大きくなる。 
 この様な流れから、パリサイ派の中に、分派の動きが生
まれる。
 そして、この動きは、「戦闘的な『熱心党』を生んだ」。
 また、その反動で「隠者的なエッセネ派が生まれ、裸体
に反感して、長衣をまとった」。
 一方、パリサイ派の人々は、復活の思想を持ち、奇蹟を
信じ、メシア(救世主)出現の思想を持った。
 サドカイ派には、「復活の思想はなかった」。
 当初、イエスは、「しきりに罵倒したパリサイ派に所属
していた」。そして、批判色を濃くしていった。
 所詮、イエスは、一つの決まった組織内に居られる人で
はなかった。
 イエスの行動は、ガリレア湖畔のカぺルナウム(町の名)
で、ユダヤ教のラビ(聖職者)として説教をした。
 時代を眺めてみると、
 イスラエルの地は、戦争に明け暮れる地獄の様相の地だ
った。
 パリサイ派は、サドカイ派を弾圧したりし、
 パリサイ派が、第一王子を支持たのに対し、サドカイ派
は、第二王子を戴いて巻き返すとかの泥沼状態。
 それらの争いに乗じて、様相を見ていた外国勢が、侵入
し、漁夫の利を占めようと、エルサレム神殿に兵が至って、
 祭司はその場で殺されたり、反抗した王子は捕えられた
り、虐殺の悲惨な声が満ちたりと・・。
 宗教の劣悪さが、卑劣さが、時代の様相に反映していた。
.
 (参考)アレクサンドロス3世(古希: Ἀλέξανδρος Γ'、
紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前33
6年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王(古希:
Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアデス朝のマケドニア
王、ヘラス同盟(英語版)(コリント同盟)の盟主、エジ
プトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレ
クサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでア
レクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも
多い。
 (参考) うと・む【疎む】 [動マ五(四)]いやだと
思う。嫌って遠ざける。うとんずる。
 (参考)ヘロデ【Herod】 [前73ころ~前4]ユダヤの
王。在位、前37~前4。キリスト誕生当時専制君主として
君臨、ヘレニズム文化に心酔し、エルサレム神殿を再建。
猜疑心(さいぎしん)が強く、妻子や縁者を殺害。
 (参考)マケドニア(ギリシア語:Μακεδονία、マケド
ニア語:Македонија、ブルガリア語:Македония)は、東
ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的
な地域。67,000km²ほどの広さにおよそ465万人が住み、
中心的な都市は南東部にあるギリシャ領のテッサロニキ(
サロニカ)である。
 (参考)クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語:
Κλεοπάτρα Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philop
ator, 紀元前70年12月/紀元前69年1月 - 紀元前30年8月1
2日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオ
である。父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はク
レオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシ
ノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14
世(英語版)(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の
名はギリシア語で「父の栄光」を意味する。
 現在、一般に「クレオパトラ」として浸透しているのは、
このクレオパトラ7世の事である。「絶世の美女」として
知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美
しい声であったと伝えられる。ただし、クレオパトラの肖
像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨
に横顔がのこされているのみであり、この評価は後世の作
り話だとの説がある(#人物節を参照)が、妹のアルシノ
エ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする
説もある。
 (参考)ゼウス(古希: ΖΕΥΣ, Ζεύς, Zeus)は、ギリシ
ア神話の主神たる全知全能の存在[1]。全宇宙、天候(特
に雷)、社会秩序を司る天空神でもあり、オリュンポス十
二神をはじめとする神々の王である。
 (参考)えい【裔】 血筋の末。子孫。
 (参考)カペナウム(ギリシア語: Καπερναούμ, Kaper
unaoum)は新約聖書に登場する、ガリラヤ湖の北西岸に
ある町のことである。今日のイスラエルのテル・フームに
あった。新共同訳聖書では、カファルナウムと表記。
 日本正教会訳聖書ではカペルナウムと表記される。
.
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2013年9月28日土曜日

ザビエルたち、キリスト教宣教師について・・

 題:ザビエルたち、キリスト教宣教師について・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 日本に来たキリスト教宣教師たちは、最初の頃は、清貧
をかこっていたが、
 金持ちの貿易商人とかかわるようになると、次第に贅沢
になって行った。
 教会での食べ物をはじめ、衣服も贅沢化して行った。
 従僕をかかえるまでにもなった。
 あげくの果ては、祈祷や仕事に熱意を欠く者も出て来た。
 また、衣服に関しては、日本人は、はなはだ外見を重ん
じる国民だからと異論を唱える者もいた。
 つまり、規則通りのものでなく、華美なぜいたくな服装
をしたいという。
 また、ザビエルは、清貧に甘んじたではないかとの論議
も出た。
 しかし、実際は、ザビエルは、「日本人は外見によって
人を評価する国民だから」と言い、ザビエルは、華美に装
っていた。
 この頃のキリスト教宣教師のフロイトは、嘘をつく事の
多い宣教師だったが、その1例だが、
 頼りにしていた信長の家臣の和田惟政を過大にして、嘘
の報告をしていた。
 例えば、姉川の合戦に参戦し、「信長軍中にある最も強
力な武将で、総司令官」だと、報告しているが、
 和田惟政は、姉川の合戦に参戦もしていない。
 姉川の合戦の当日、自領の神社に行ったとのはっきりし
た記録が残っている。
 キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)が多いが、日本へ
来た当初の頃から、この様な嘘体質だった。
 そして、また、
 日本に来たキリスト教宣教師の棄教は多かったが、
 徳川幕府の見解をうかがい知る1例。
 寛永20年に来日して、キリスト教を棄教したキリスト教
宣教師が、棄教した時に、
 偽りの棄教でないことの確認をするため、誓文を書かせ
た。
 その誓文に、キリスト教宣教師を取り調べ、書いたその
要旨に、その主旨がよく表れている。
 その文には・・
 「イタリアの国・ローマという所にキリシタン宗門の頭
・パッパという者(ローマ教皇のこと)がある。
 国々へバテレンを遣わし、宗門を広め、その国がパッパ
に従えば、奉行を遣わして仕置きする。
 ルソン・ゴア・ノビスパンなどその他多くの国をむさぼ
り取っている。
 日本は、軍勢で従わせるには困難なので、後生のために
宗門を広めることにして、バテレンを渡した。
 宗門がおおかた広まったら戦争をし、日本の多宗を打ち
たいらげ、パッパに従わせようというたくらみである」。
.
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2013年9月26日木曜日

そこに神はいるのか。

 題:そこに神はいるのか。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の教義や聖書などが、宗教として形づくられ
ていく過程・経過において、
 キリスト教の聖職者が言う様に、美しく経過し、出来あ
がって行った訳ではなかった。
 キリスト教を信仰する民も、美しく統一されて、美しく
信仰を守って来た訳では無かった。
 民もあらゆる民族と混血した。
 信仰において、『神から与えられた』という常套句が、
よく使かわれるが、
 神から与えられたという、『純粋無垢なものという話と
は程遠かった。
 そこには、民の生きる「生き様」と共に、信仰が形作ら
れて行き、多くの血も流れ、民はさ迷い、戦いに明け暮れ
もし、砂漠の地の宗教は形成されていくという過程があっ
た。
 神の介在は無い。
 民が、生きる「もだえ」の中から、人の手、民の手によ
って形作られて行ったものだった。
 海に囲まれ、長い長い期間、まったく有難いことに、ま
とまりの中にいた日本とは違う地であった。
 イスラエルの地で、糧を求めて、生を求めた、色々な民
族が行きかい、争いをする、長い時が流れる中から生じて
来た。
 そのある一時期の話。
 紀元前721年、イスラエルの民は、北と南に分かれてい
た。
 しかし、平安の時は続かなかった。
 その内の、北にある「北イスラエル王国が滅亡した」。
 外敵の侵入による滅亡だった。
 南にある南イスラエルの「ユダ王国」は、生き残るため
に、アッシリア王国にゴマスリの臣従の道を選んで、命脈
を保った。
 しかし、そのアッシリア王国も、紀元前612年に滅亡す
る。
 北イスラエル王国が滅亡してから109年の時が経過して
いた。
 そして、それから15年の後の紀元前597年に、
 新バビロニア軍によって、エルサレムは攻撃を受けると
いう悲劇が発生した。
 これによって、第1回バビロニア捕囚が行われるという
悲惨な事態も起きた。民が連れて行かれるという。
 そしてまた、その10年後の紀元前587年に、
 第2回目の攻撃をエルサレムは受けた。
 この時にエルサレムの命運は尽きた。外国による征服が
成立した。
 異教徒の制圧である。
 勿論、宗教的干渉もなされた。
 それでなくても、南イスラエルのユダ王国は、アッシリ
ア王国にゴマスリ従属していた時も、イスラエルの民は、
自分たちの信仰の形は保っていられなかった。
 異教の神・バール神への礼拝が、大っぴらに行われた。
 また、信仰の中心だったイスラエルの民の『エルサレム
神殿』には、「異教徒の神・バール神」に捧(ささ)げる
ための神殿までもが作られた。
 そして、エルサレム神殿の屋根の上にまで、「バール神
の祭壇」が設けられた。
 エルサレムの従属は、侵略国家の風俗となった。
 第二次世界大戦後の米軍占領下の日本と同じであった。
 エルサレムの娘たちは、異教の男の求めに応じ、
 「目に媚(こび)をたたえ」「自分たちの信仰の神に背
(そむ)き」、緑の木の下で、生活のためとはいえ、外国
の男たちの求めに応じた。
 (「イザヤ書」1章)に、
 「ああ忠信なりし町、いかにして遊女とはなれる。往時
は公平にてみち・・いまは人殺しばかりとはなりぬ」。
 この1例の様な事々を吸収し、歴史の事々を経験し吸収し、
それらが混ざり合って宗教は形成されて行った。
 キリスト教は、また、ヨーロッパに入って行く時にも、
節操無く、恥ずかしげも無く、異教の地の神々と習合した。
 集合癖のあるキリスト教は、あらゆる地場の神を吸収し
た。
 以前の形を保とうという何ら節操もない、確固したもの
もないキリスト教。キリスト教の性癖である。
 そこに神はいるのか。
.
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キリスト教は教義を変えよ。人類を愛せよ。

 題:キリスト教は教義を変えよ。人類を愛せよ。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、馬鹿な宗教だなと思う。
 殉教を、ひたすら、大きく大きく、見せたいとしている。
 銅版画「雲仙の拷問画」(日本二十六聖人記念館蔵)は、
想像して描いた想像図である。
 真実ではない。
 この図は、想像図と公的に確認されている。
 キリスト教は、ひたすら殉教を悲惨なものへ、悲惨なも
のへと、より悲惨さへプロパガンダ(嘘宣伝)して来た。
 本図も、キリスト教系記念館(カトリック教会の設立)
の所蔵で、想像図ということからキリスト教のいつも良く
やる針小棒大に描いている。
 キリスト教は、教義から殉教を美化し、「殉教を求めて
行くべきもの」としている。
 また、殉教される時には、喜びを現(あら)わし、苦痛
を現わしてはいけないとしている。
 殉教の姿が厳しければ厳しいほど、その苦痛をさりげな
く処す事を良しとしている(苦しくても体をよじらないと
か)。
 そのキリスト教の説く殉教の姿を現わした想像図である。
 しかし、日本の取り締まりは、この殉教の図とはまった
く逆であった。
 秀吉が「バテレン追放令」を出した後に、キリスト教徒
数が逆に増えているのを見ても分かる。
 また、徳川時代においても、なるべくキリシタンを捕縛
しない様にした。
 たとえ、キリシタンだと分かってしまわれても、友人・
知人や親戚にでも、「キリスト教を捨てたと一言」、仮に
でも言えば捕縛には来なかった。
 キリスト教は、凄惨さをひたすらプロパガンダ(嘘宣伝)
する。
 キリスト教の悪行の一例の「魔女事件」一つをとっても、
村ごと全滅などという例の様に、キリスト教は想像を絶す
る殺戮をしたが、
 この日本の場合は、キリスト教が「大殉教」と称する犠
牲者数が最大でも55人とか50人というオーダーとは比較ど
ころではない。
 キリスト教の行った殺戮は、オーダーの違う人数の多さ
なのである。
 キリスト教がアメリカ大陸で行った殺戮は、何と1000万
人に届くかという悲惨さなのだ。何という数なのだ。
 キリスト教は教義を変えよ。人類を愛せよ。
.
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2013年9月25日水曜日

聖遺物など信仰対象は多様化へ・・

 題:聖遺物など信仰対象は多様化へ・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 ヨーロッパでは、キリスト教の『聖遺物信仰』が盛んだ
った。
 キリスト教会には、露骨にも頭蓋骨が並べられたりして
いた。
 また、えげつない行為であるが、血の付いた布とかも並
べ、その俗信ぶりは、卑俗化・迷信行為はエスカレートし
ていた。
 聖母マリアの母乳まで出現した。
 日本でも、ほんの短期間だが一時期に、キリスト教宣教
師が日本人に教えて、お守りを手に入れるという感覚の行
為が起きた。
 処刑されたキリスト教徒のものがありがたがられた。
 その時期が過ぎ、キリスト教宣教師は嘆息する「この国
の者たちが、あの頃、信じたものは、我々の神では無かっ
たのか。彼らの神々だったのだ。それを長い間知らず、日
本人が基督教徒になったと思いこんでいた」・・と。
 今、世界的にキリスト教が多神教化している。
 そして、当時、ヨーロッパや世界において、キリスト教徒
や布教される側などに、多くの無益な血が流されたが、こ
れ等を仕組んでいたのは「国家的な戦略と、キリスト教の
思惑に基づいて行なわれていた」。その行為という事は
事実である。真の犯人はここにいた。
 今現代も、貴重な人生を、無益な行為に注ぐ人たちが居
る。
 結婚もせずにいる多くの女性が、特に、痛ましい。
 (参考)
 本「中世の秋」に、ある一つの例であるが、紀元約1000
年頃、ウンブリア山村の民衆は、キリスト教隠者の聖ロム
アルドゥスを危うく撲殺しかけた。
 誠に愚かなことだが、それは、彼を失いたくなかったた
めの行為だった。
 1274年に、トマス・アクィナス・フォッサ・ヌォヴァの
僧院で没すると、そこの修道士たちは、貴重な遺物が彼ら
の手から失われるのを恐れ、気高き師の遺体を文字通り漬
け込んでしまった。
 つまり、頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ。
 テューリンゲンの聖エリザベートの遺体が、まだ埋葬さ
れなかった時、善男善女の一群が、彼女の顔を、巻き付け
てあった布片を切り取ったり引き裂いたりして持ち帰った。
 彼女の髪や爪を切り取り、果ては耳や乳房までもちぎり
去った。
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2013年9月24日火曜日

西洋は何でも優れているという『明治の思い込み』が・・

 題:西洋は何でも優れているという『明治の思い込み』が・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 日本人の殉教のイメージは、
 キリスト教イエズス会士のジャン・クラッセが書いた本
に影響されている。
 彼は、日本の本当の事情を知らずに、西洋の頭で書いて
しまった。
 そして、明治初頭の『西洋は何でも優れている』という
明治初頭の『思い込みの頭』の日本の劣等感が作用する。
 彼の著書を、明治初頭の10年代に、太政官(だじょうか
ん)本局翻訳官が翻訳し、
 本『日本西教史(せいきょうし)』という名で出版した。
 この本のイメージが、強烈に日本に定着してしまった。
 教科書にも記載され、解説書も、このキリスト教イエズ
ス会士の見解一色となってしまった。
 徳川幕府は、大弾圧をしたのだと。
 『まったく逆であった』のに。
 現代の日本人の殉教のイメージを決定づけた。
 事実は、まったくと言っていいほど違っていた。
 徳川幕府の基本的な姿勢は・・
 「キリシタンの捕縛は、極力少なく収めたい」であった。
 この事を聞くときっと驚かれると思います。
 それだけ、キリスト教によるプロパガンダ(嘘宣伝)が
なされてきていた。
 幕府は、例え、キリシタンだと分かられてしまっても、
知人・友人や親せきでも良いから、
 キリスト教を棄教したと、仮にでも言えば、捕縛には向
かわなかった。
 誰でも、容易に捕縛から逃れられる様にと、『逃れの道』
が作られていた。
 刑場でも、『矢来の一部を取り外した形にして、逃れら
れる様に』していた。
 取り締まりを厳しくして、少しでも見過ごさなく捕縛す
るという姿勢では全くなかった。
 西洋のこの様な状況が日本に持ち込まれ、その様にプロ
パガンダ(嘘宣伝)された結果だった。
 また、キリスト教は、殉教することが神の信仰にこたえ
る道だと、美しくもしていた。
 卑劣な事である。
.
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2013年9月23日月曜日

実際の首謀者は、庄屋や食いはぐれた浪人たちだと・・

 題:実際の首謀者は、庄屋や食いはぐれた浪人たちだと・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 『天草・島原の乱』とか、『天草・島原一揆』とかと言
われている事件は、
 地方行政官の、いわゆる、『悪代官の圧政』という話が
あるが・・、事実ではない。
 作られた話である。
 何ら、圧政とは関係が無い。
 これは、キリスト教の布教の行為と、取締側とのトラブ
ルから発生したこと。
 それも突発的に。
 当時の信頼できる資料に、島原藩松倉家の報告書がある
が、この報告書によれば、
 領地のキリシタンとなった農民たちが、
 キリスト教の布教のために領民を集めていた。
 その情報が入った取り締まり側の責任者が、「捕えよ」
の命令を出した。
 そして、捕えようと駆けつけ、領民を10数人を捕えた。
 その日は、それで、事は済んだが、
 翌日、
 百姓たちは、代官のすきを見て、殺害行為をしてしまっ
た。
 キリシタンとなった百姓たちは、
 一揆に加わらない、協力しない百姓たちを、仲間なのに
殺す行為をした。
 これも、キリスト教の根底に流れる、同じ教えではない、
また、同じ考えではない者たちを『異端』とし、
 「異教徒は殺せ」という教義が根底に流れる心で以って
思考し、行動した結果である。
 松倉家は、その様な行為もした、その領地へ、取り締ま
りに向かった。
 着くと、ある百姓が逃げて来て、告げた。
 有馬という地では、百姓たちが騒いで、鉄砲など武器を
集めている、だから、この人数では駄目だ・・と、
 武器をそろえなければ・・と、
 そして、有馬から島原にかけて、ありこちに火が付けら
れ、島原のすべてを焼く勢いだ・・と。
 駆け付けた家臣は、急遽、引き返し、この事を報告した。
 この様に、キリシタンの布教の行為と、取り締まり側と
のトラブルが発端なのである。
 また、これには、ある伏線がある。
 キリスト教宣教師の『洗脳行為』である。
 カリスマ性の指導者が居れば、大規模な一揆をおこすこ
とができる・・と、煽動し、言いふらし、
 宣教師は『ある予言的洗脳』をした。
 天草に、一人の善人が生まれるだろうと、
 その善人は、習いもしないのに字を知り、
 諸事を究(きわ)めている。
 そして、この善人は、山に白旗を立て、皆の頭にクルス
を立てるだろう・・と。
 そして、天草に四郎という者がいて、その少年が、この
通りの者で、天の使いに疑いない・・と。
 そして、また、その少年に、天から鳩が舞い降り、手の
ひらに卵を生み、四郎がその卵を割ってみると、中から経
文が出た・・と。
 島原の人々は、その話を素直に信じ、四郎を崇(あが)
めていた。
 この様な土台・素地から、天草・島原一揆が大事件とな
る伏線があった。
 イエス・キリストにも、洗礼を受けた時に、鳩が舞い降
りたという話が残されている。
 キリスト教宣教師は、あちこちで作り話・嘘を言い、煽
っていた。
 天草四郎の実在は、かなり疑わしいことだ。
 まず、出生が定かでない。
 語られている『ある一つの説』が、信じ込まされている
状態である。
 当然、出生地もはっきりせず、生涯も不明な点が多い。
 神格化され、イエスの物語の様に、奇蹟が色々とある。
 例えば、イエスがやった様に、盲目の少女に触れると視
力を取り戻したとか、
 イエスが、イエス出生地の湖のガラリア湖の水面を歩い
たと言われているが、
 四郎も、界面を歩いたと言われている。
 また、イエスが救世主と呼ばれるように、四郎も救世主
とされた。
 四郎の死後については、諸説が色々とあり、どうなった
かは定かではない。
 実際は、少年の四郎が、大規模な反乱を組織したり、指
導したりしたとは考えにくく、
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)と考えられ、
 実質的には、首謀者は庄屋や食いはぐれた浪人たちと言
われている。
.
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2013年9月22日日曜日

マザー・テレサの『真の業績』・・

 題:マザー・テレサの『真の業績』・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 インドで、ヒンズーの方々と共に可哀想な方々を救う行
為をしている、「マザー・テレサ」は、
 生涯のその救いの行為は偉大であったが、
 その偉大な行為以上に、偉大だったのは、
 生涯、キリスト教の『神の不存在』に悩み、『キリスト
教の神は居ないことを吐露し』、
 『世界のに人々にその心を偽ることなく伝え』、
 そして、『公表したこと』であった。
 つまり、マザー・テレサの『最大の功績』は、
 『キリスト教の神の不存在の立証の中に生涯をかけたと
ころ』だった。
 生涯かけて「キリスト教の神は居ないとの証明を誠実に
した人」だった。
 彼女にこの行動をさせたのは、
 この様にする事で「世界に」、そして「人類に貢献でき
」、「世界の平和が実現できる」と感じたから行ったこと
で、その行為だったと断定できる。
 マザー・テレサの偉大な行為によって、
 キリスト教の『偽説』の一生を掛けての立証を世界に示
した人だった。
 『王様は裸だと言った人=マザー・テレサは偉大だった』。
 それにしても、キリスト教は、戦争につながる教義は、
全面的に直さなくてはならない。
.
(注)マザー・テレサは、ヒンズーの方々の組織の中に入
って行って救済活動を始めました。
 キリスト教がプロパガンダ(嘘宣伝)で、さも、キリス
ト教だけでの救済活動のように見せかけていますが、キリ
スト教はよくこの様な宣伝行為をします。
.
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2013年9月20日金曜日

殉教ではなくなってしまう

 題:殉教ではなくなってしまう
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、「殉教を進める教義」がある。
 そしてまた、「殉教を勧める教義」がある。卑劣なこと
である。
 殉教は、ラテン語で「マルチリヨ」と言うが、
 キリスト教には、殉教を勧める書「マルチリヨの栞(し
おり)」がある。
 それには、「丸血留(殉教者の意味)になるためには、
死ななければならない。まず、第一に、
 人から殺されることを喜んで耐え忍ぶこと」・・と教え
ている。
 破廉恥宗教=キリスト教だ。
 また、殺されるのを嫌がったりしたら殉教ではないと教
えている。そして、死を強要した。
 そしてまた、殺される時に、体をひねったりしたら駄目
とも決めている。静かに殺されるのが良いと説いている。
 イエスは、十字架上で「我が神、我が神、何故、私をお
見捨てになったのですか」との声を上げているが、この様
な事をすると、キリスト教の教えでは、殉教ではなくなっ
てしまう。
 イエスの死は、この叫びで、殉教ではないとしてしまう
ことになっていた。
 勿論、処刑の場から逃げたり、逃げたいとの素振りもあ
ったら殉教では無かった。
 故に、キリスト教の殉教を報告する文書には、死んだ時
の状況が非常に詳しく書きとめられた。
 そして、キリシタンとして殺されるのは喜ぶべき事であ
るから、抵抗して戦う事は赦されていなかった。
 抵抗して戦う事は殉教では無いとした。
 天草四郎も殉教では無いことになっている。
 逃げる事は良いとされたが、しかし、卑劣な事に、進ん
で申し出て殺されれば「優れた殉教」とされた。本当にキ
リスト教は卑劣だ。
 そして、褒められ、栄誉を与えられた(こんな栄誉まで
与えるなんて・・卑劣なことだ)。
 そして、卑劣な事に、キリスト教は、殉教すると功徳が
あると懇切丁寧に解説した。御利益宗教=キリスト教。
 殉教すれば、キリスト教の神の前で最高の位に就けると
説いた。
 そしてまた、すべての罪が許されると説いた。
 そして、またまた、煉獄(れんごく)の苦しきは免除さ
れると説いた。
 そして、またまたまた、天国では光背を頭にいただくこ
とができますと説いた。くだらない。
 そして、またまたまたまた、受けた傷は光り輝くと説い
た。御利益宗教=キリスト教。
 キリスト教の宣教師は、日本人信徒たちに殉教を勧め
た。
.
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2013年9月18日水曜日

『こじつけ説法』で成り立っている。

 題:『こじつけ説法』で成り立っている。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖職者は、次の様に言う。
 「律法を守っているのだから神の国に入れると言うこと
は、守っているという神への恩を着せている様なもの、ギ
ブ・アンド・テイクの関係に貶(おとし)めている」・・
と、説明し、その律法を守る行為を否定します。
 これは、自分の立場・聖職者の立場において、都合よく、
論理展開しただけの話です。
 都合のよい言い回しです。
 論理的には成立していません。
 キリスト教聖職者は、いつも、この様な言い回しで、分
かった様な、本当は分からないことを言うので注意しなけ
ればなりません。
 聖職者の言葉は、「神が与えた律法を守ったのだから、
神の国へ入れる』という事は、「神に恩を着せていること
になります」と言っていますが、明らかにおかしな論理展
開です。
 神へ恩を着せたりなどは、していけません。
 神が与えた律法を尊重し、ただただ、誠実に守っている
だけなのです。
 何故、「恩を着せたことになるのでしょうか?」。
 キリスト教の聖職者が勝手に「恩を着せたことになる」
と思っているだけなのです。
 キリスト教聖職者は、「だから、恩を着せて、ギブ・ア
ンド・テイクで、神の恩寵を貰おうというのは、御利益を
貰うという御利益宗教になるからいけない」という。
 だから、「律法を守らなくてよいのです」と言う。
 まったく、正しく思考を展開できないキリスト教の聖職
者だと思う。
 キリスト教には、この様な論理展開の説教をする聖職者
が、実に多い。
 これは、ギブ・アンド・テイクではありません。
 神が与えた律法を、神が決めた意思どおりの行動をして
いるだけなのです。
 キリスト教のパウロが、『律法なんて守らなくてよい』
『捨てよ』と決めたから、その『パウロ・キリスト教』で、
現在はあるから、その路線の『こじつけ説法』をしている
だけなのです。
 キリスト教の説法は、このたぐいの『こじつけ説法』が
実に多い。
 何ら、ためになる話ではなく、この様な、時間の無駄の
説法が実に多い。
 キリスト教は、ただ単に、律法を守れない事情がある、
その様な律法だから止めた、止めよと言うだけの話。
 キリスト教聖職者は、何らためにならない、この例の様
な話ばかりをして洗脳する。
 キリスト教は、自分勝手に解釈し、自分に都合のよい律
法はどんどん作っている。
.
(追伸)
 キリスト教の神は、『定住しない神』なのだ。
 神の住居と見なされていたのは、神との契約を書いた書
を納めた箱。
 その箱は、シロ(パレスチナのある場所)の聖所に安置
され、
 戦争の時には、ユダヤ人たちはこの箱を担ぎ出していた。
 神と共に戦ったパレスチナの人たちであった。
 キリスト教の神は、『戦勝を祈る意味の神』だった。
 箱は、キリスト教の神が、モーゼに命じて作らせたもの。
 (「出エジプト記」25章)に、
 「アカシアの木をもて箱を作るべし。その長さは2キュ
ビト半(1.25m)、その幅は1キュビト半(75cm)、高
さは1キュビト半なるべし。汝、純金をもて、これを覆う
べし。(中略)汝、わが汝にあたうる律法を、その箱に
納むべし」・・と。
 神との契約書も律法。
 律法は、この様にキリスト教の神が、与えたもの。
 また、モーゼが神と契約した事も記されている大切なも
の。
 しかし、パウロは、今までの大切な経緯・いきさつを無
視して、律法はいらないと捨て去った。
 モーゼの顔は丸つぶれとなった。
 当然、キリスト教の神も無視され、キリスト教の神の顔
も丸つぶれ。
 今・現在のキリスト教は、このキリスト教。
 パウロ・キリスト教。
 自分たちの神を無視するという根本が崩れている、今・
現在のキリスト教。
.
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2013年9月17日火曜日

キリスト教側にある大きな罪・・。

 題:キリスト教側にある大きな罪・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 現代の研究者によると・・、
 「セルジュク・トルコによる、キリスト教の聖地とされ
たエルサレムへの巡礼に対する迫害は、ほとんど無かった」
・・との、結論に至った。
 イスラム教側は、『無実』だった。
 これも、キリスト教側のお得意のプロパガンダ(嘘宣伝)
であった。
 本当にキリスト教は、歴史のあちこちで嘘ばかり付いて
いる。この様な宗教に染まっていると嘘つきになってしま
います。
 キリスト教は、1096年に第一回十字軍を始めた。
 そして、1291年まで、本当に、欲に絡めて嘘の悪行為を
続けた。
 そして、その口実は・・、
 11世紀の後半に、セルジュク・トルコが小アジアに進出
して、ビザンティン帝国を圧迫し、
 聖地エルサレムを占領して、聖地への巡礼者を迫害して
いる・・とした。
 これは嘘である。
 イスラム教側にとっては、何でキリスト教側が攻めて来
たのか、キリスト教側の『攻撃理由』が分からなかった。
 お粗末な事に、キリスト教十字軍が、エルサレムまで行
って戦ったのは、第一回十字軍だけだった。
 馬鹿な事に、自分と同じキリスト教の正教会を攻めると
いう呆(あき)れた『お粗末十字軍』までしでかしている。
 また、十字軍は、行軍の道々で略奪の限りをする『強盗
団』とも化している。
 キリスト教は、お得意の嘘で、プロパガンダで、綺麗ご
との様に思わせているが、十字軍は、キリスト教の『大汚
点』だった。
 十字軍は、大規模なものだけでも、200年間の間に、8回
も起こされている。
 そして、結局、キリスト教側の目的は失敗に終わってい
る。キリスト教の聖職者たちが、煽ってやらせた目的は達
成されていない。
 でも、煽られて行かされた民は、略奪などをして自分の
欲は達した。
 その様なレベルの十字軍だった。
 人類にとって大損失な事は・・、
 このキリスト教聖職者たちの大暴挙によって、イスラム
教側に「十字軍の戦いの前は、イスラム教側は、キリスト
教を、それなりに尊重する気持ちであったが、その様な気
持が、吹っ飛んで無くなってしまった事だった」。
 イスラム教とキリスト教は、互いに睨(にら)み合う中
になってしまった。それが、現代まで続いている。
 イスラム教には、戦闘的な宗派も生まれた。
 人類の負の大きな遺産を生んでしまったキリスト教聖職
者たちの暴挙だった。
 今でも、その末裔(まつえい)が、イタリア半島のバチ
カンに居る。
 イスラム側は、最初、なぜ急に攻めて来たのか?・・と、
まったく思い当たる事が無く、
 十字軍だと分からず、
 敵を単に『フランク人』と呼んだ。
 そして、スンニー派擁護政策をし、
 ジハード(聖戦)宣言をし、
 戦いの世界に入った。
 キリスト教側は、イスラム世界より医学・技術など劣っ
ている世界だった。
 しかし、キリスト教側は、得意なプロパガンダ(嘘宣伝)
行為で、イスラム側を馬鹿にしていた。
 文化的にもイスラム側の方が優れていた。
 寛容だったイスラム世界は一転した。
 何度も何度も攻めた『キリスト教側に大きな罪』がある。
.
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生きるか死ぬかの中に居たのではない・・。

 題:生きるか死ぬかの中に居たのではない・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 作家の遠藤周作氏は、キリスト教徒であった。
 キリスト教に題材を求めた作品「沈黙」は、
 日本に来た宣教師が、キリスト教を捨てるという話であ
る。
 この「棄教の主人公」が、殉教をしようとする人を救う
ことができないという『キリスト教の神の無力』を描いて
いる。
 「キリスト教の神の無力」について悩んでいる。
 この小説の様に、実際、当時、日本に来て棄教した宣教
師は多かった。
 例えば、イエズス会の日本副官区長のペドロ・マルケス
のグループは、遠藤周作の小説の主人公のモデルとされた
ジュセッぺ・キアラを含めて、多くの宣教師が棄教した。
 キリスト教は、得意のプロパガンダ(嘘宣伝)で、美し
く語るが、事実は棄教宣教師だらけだった。
 キアラが日本を目指したのは、そもそも、キアラの師の
クリストヴァン・フェレイラも、キリスト教を棄教した事
を知り、フェレイラを信仰に立ち戻らせようとした事に始
まる。
 フェレイラは、当時の日本司教代理兼イエズス会日本管
区長で、
 日本の『最高位の人』の棄教に、イエズス会は大きな衝
撃を受けた。
 棄教したフェレイラは、その後、沢野忠庵(ちゅうあん)
と名前を変え、日本人として生きた。
 そして、キリスト教宣教師と『逆の行動・行為』をした。
 キリスト教を『棄てさせる活動』である。
 ここに何があったのか?
 少なくとも、キリスト教を自分が持ち、信じ、保つに価
(あたい)しないとの結論に至ったことは間違いない。
 また、キリスト教が、ことさら大きく、日本におけるキ
リスト教への弾圧を『誇大にプロパガンダ(嘘宣伝)する』
が、
 後に、ヴァリニャーノが日本にいた頃を回想する話に、
 まず最初に、「あの頃は、私たち宣教師は、日本で絹の
修道服を着るべきか、木綿の修道服を着るべきかを真剣に
議論し合ったものだ」と回想している。
 これは、キリスト教に規則の「清貧に、裸足で、木綿の
服を着る」に反するが、威厳を保つために「絹の服を着る
べきだ」との意見と対立したことを言っていて、
 結局、彼らは、キリスト教の規則を犯す方への断を下し
「絹の服を着る」。
 この事はまた、日本の弾圧など、キリスト教が必死にプ
ロパガンダ(嘘宣伝)して、悲惨な話を過度にでっち上げ
るが、事実は以上の様なことだった。
 キリスト教宣教師は、弾圧で『生きるか死ぬか』の中に
居たのではない。
 キリスト教は、この様に、あらゆる所で、この類いの嘘
宣伝行為をしている。
 その他、日本人が嫌がる肉食を続けるかの問題を討議す
るとかの程度だった。
 今でも、キリスト教は嘘を言い続けている。
 言わざるを得ない教義のお粗末さから来ることなのだが。
.
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2013年9月15日日曜日

二項対立の思考なら、『やつら』は悪にしかならない。

 題:二項対立の思考なら、『やつら』は悪にしかならない。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 アメリカには、強大な軍事力がある。
 この強大な『軍事力』を行使する際に、『無批判に正当
化』する事は悪である。
 また、『無批判に美化』してはならない。
 また、アメリカ政権は、これ等の軍事力を背景にして持
つ影響力で、
 他国の貿易慣行や通商政策を、操作しようとし、
 影響力を与えて来た。また、政治的影響力も。
 アメリカが良いと判断する事や、正しいと判断する事に
対抗する行為をする国には、『悪の枢軸』というレッテル
を貼り、
 あたかも第二次世界大戦時を想念させるような言葉を使
って敵対視した。
 アメリカの後ろにある『巨大な軍事力をちらつかされる
脅(おど)し』に、
 言われた国は怯(おび)えた。
 あたかも、西部開拓時代に、早撃ちが、腰のベルトにあ
る拳銃をちらつかせ、
 町の人々を威圧して歩いていた『早撃ち男』の如くに感
じさせた。
 時と共に世は変わったが、形は変わっているが、やって
いる事の本質は何ら変わっていない。
 アメリカの、国外への政治的・軍事的影響力の行使は、
完全に帝国的支配と言える。
 アメリカが標榜する『デモクラシーの姿』は無い。
 民主主義の社会形態ではない。
 アメリカの自国の意思に合わせて「海外の状況を操作」
する。
 TPPも、これ。
 そして何故、アメリカは、より深い『大人の思考』がで
きないのか?と思う。
 ある映画の風景だが、
 「世界の終りの風景」である。
 ホワイトハウスやエンパイア・ステート・ビルなど、
 アメリカの主だった観光名所が総べて、宇宙人によって
壊されてしまう。
 倒れた自由の女神像の後ろには、廃墟となったマンハッ
タンのビル群が広がり、
 空一面に超巨大な宇宙船。
 戦闘機を総動員して反撃を加えても、
 また核兵器による攻撃をしても、
 宇宙船のバリアを破る事は出来ない。
 現代版の「世界の終り風景」である。
 キリスト教にある『終末論』がすぐに連想される。
 キリスト教国・アメリカにある、キリスト教から来る終
末論と密接に結び付く。
 この映画は、アメリカの独立記念日の7月4日に、ユダヤ
系の技術者と黒人の兵士が、協力して宇宙船に潜入し、
 宇宙船の中核部分を壊す事で相手を倒す、駆逐する。
 独立記念日には花火が上がるが、さも、その花火の如く
に、超巨大な宇宙船が、空に火花を散らして消えて行くと
いう筋書き。
 この映画『インディペンでンス・デイ」の中で、語られ
る言葉は、「われわれ」と「やつら」で語られる。
 これしかない。
 キリスト教の教義の、ニ項対立の語り・思考と同じであ
る。
 『やつら』は敵で、『われわれ』を守るの二項が対立す
る思考形態だけになっている。
 市民社会を防衛しようの視点。
 第三の視点の思考はない。
 他の立場や視点の想定はない。
 ただただ、
 宇宙人から市民を守るのが「正義」だからだ・・と、
来る。
 それだけで間違いないのだの思考の範囲なのだ。
 この範囲外があるのではないか?と疑おうともしない。
 キリスト教的二項対立思考に捉(とら)われている。
 われわれの正義に対抗する者は悪。『悪の枢軸だ』で思
考停止する。
 だから、やっつけるのだ。悪なんだからと。
 「われわれ」に正義があるんだからと。
 「やつら」にはないんだからと。
 この範囲に捉われて終わる。
 東洋的な、仏教的な、多様な思考は、そこにはない。
 「シリアの件も『やつら』と言っていたら『軍事力行使』
しかない」。
.
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2013年9月13日金曜日

内政干渉になっても良いのだ・・そして、神の書となった。

 題:内政干渉になっても良いのだ・・そして、神の書となった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 『歓迎すべき内政干渉」。
 これはアメリカの考え方である。
 相手国にとって良いこと、また、世界にとって良いこと
なら、『相手の国の主権は二の次』で、『内政干渉になっ
ても良いのだ』・・という、考え方である。
 これは、実は・・、
 回り回って自国のアメリカに、影響がおよぶ事を恐れ、
 相手国の部分・領域内において処理をしておきたい・・
という、考え方である。
 自国におんで来てからでは遅い、『血を多く出したくな
い』である。
 自利の行動、自国の利の行動でもある。
 自国の尊い若者の命が亡くなったが、それに何倍かする、
何十倍かする、相手国の多くの方々が、戦争と全く関係の
ない相手国の方々の命が、また、亡くなった。
 この、相手の国の方々のことを、どう思っているのか? 
 一般的には、常識的には、世界法の立場からでは、相手
国、その国の主権を尊重しなければならない、当然である。
 内政干渉などは、絶対、してはならない、これは言うま
でもないこと。
 しかし、アメリカは・・、
 「その土地の人々のために、アメリカ人が犠牲となって、
『現地政府』に立ち向かう」・・と、言う。
 世界の民、一般の人たちは言う、
 「ずいぶん都合のいい話だね。こんな身勝手な議論を、
その土地に実際に住んでいる『土地の人々』が、受け入れ
る保証など、実はありません』・・と。
 実際、アメリカは、現地から遠くにあり、遠いアメリカ
の地で、現地の見える部分だけで類推し、正しいか?正し
くないか?は不明な状況から、正しいと『信じた』情報か
ら類推するしかないのだ。
 アメリカは、直接、統治はしていない。統治権のない遠
い国なのだ。
 当然、現地の土地の人々も、アメリカに『意見表明』な
ど行う機会はない。
 行動をするアメリカは、おかしなことに自国民に、その
事の『良否』を問うている。
 アメリカ人だけの議会意見で決める。
 そして、決まったOKなのだと、巨大な軍事力を行使する。
 その行為の現地の方々の批判を受ける事無く、『恰好の
よい自由の戦士』として立ちまわり、立ち去る。
 ここまでしたから、後は宜しく・・と。
 やったからには、とことん最後まで面倒みて下さい。自
分だけの判断で、自分だけの都合のよいところで投げ出さ
ないでください。
 アメリカは、自国の尊い若い方々の命を守るために、空
爆だけとか、選択肢はアメリカにあるが・・、
 空爆を受ける子供たちを含む方々には、問答無用で、
 爆弾を振りまき、かける。
 アメリカ製の『ペン型爆弾』で、手の指が無くなった子
供の映像を見たが、
 その拾ったペンを、口で開けようとし、ねじった瞬間に
爆発した。
 手と同様に、その子の口の半分は、爆風で吹っ飛んで無
くなってしまった。まったく可哀想な映像だった。
 この様な子供が大勢居る。
 アメリカは、自らの行動の行く末に、この様な子供の姿
が見えて居たのか? 当然、見えていたと思える。ペンを
拾うのは子供でしょう。
 自分の欲、覇権の欲に惑わされているのではないのか?
 貿易や儲けの囲い込みなど、私利私欲からの行動ではな
いのか?
 元を辿(たど)って行けば儲けたいの欲であろう?結局、
そこへ行く。
 ここで、キリスト教の聖書の1節を記す。(「サムエル
前書」27章)に・・、
 『ダビデその従者とともに出て立ち、ゲシュル人、ゲセ
リ人、アマレク人を襲うをこととせり、むかしよりこれら
の部族は、シュルにいたる地に住みて、エジプトにまで及
べり。ダビデ、その地を討ちて、男も女も生かし残さず、
羊と牛と駱駝と衣服を奪いて帰れり」。
 自分の利になるものは奪い去り。
 相手の方々の尊い命は、何ら自分たちの利に関係ないと、
利にならないと、殺し去り、捨て、この様な事を教え・説
くキリスト教聖書。
 この様な文が、あちこちにあまたあるキリスト教聖書。
 この様な文により洗脳された人々。
 そしてさらに、この文は書く、奪った品・分捕り品の『
分け方』が事細かく書いてある。
 奪い取って来た自分たちが、また強欲に、奪い合わない
様に、憎しみが生まれないように、そのための記述である。
 聖書記述はこれが目的なのだ。
 この古代の人たちのマニュアル、生きるためのマニュア
ルなのだ。
 『神からの言葉だ』はでっち上げ。古代のマニュアルの
意味しかなかった。古代民族が生きていくために意味があ
ったもの。それが、いつしか、キリスト教はプロパガンダ
(嘘宣伝)をして、神の書だとした。でっち上げた。
.
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2013年9月12日木曜日

『救いはエホバにあり』と、内村鑑三は言うが・・そして、努力をするなと言うが・・。

 題:『救いはエホバにあり』と、内村鑑三は言うが・・
         そして、努力をするなと言うが・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、『他からの恵みに期待するだけの宗教で
ある』。
 「自分から幸せになろう」という宗教ではない。
 何ら自らは努力をしようとはしない。
 また、『努力をすること自体を否定する宗教教義』にな
っている。無気力信徒製造宗教となっている。
 この宗教では国は滅びる。
 また、家庭も滅びる。
 人類も『じり貧』となり、滅びる道を進む。
 何しろ、「ひたすら、神からの恵みを願い、祈り・・、
 『たなぼた的な恵みを期待する宗教』である。
 内村鑑三は言う、内村鑑三集の「ルーテル特愛の聖句」
には以下の様な記述がある。
 言葉は綺麗ではあるが、その様に感じるが、表面的に綺
麗に見えるだけで、その実は人生を誤らせることになる。
 「穏(おだ)やかに神に寄り添い頼れば、力を得る」と
言う。神を信じろと言う。
 平穏は沈黙を守ることだと言う。ただただ神に寄り添い
頼ればいいのだと言う。
 そして言う。「それは、すなわち自(みずか)ら努めず、
(努力せず)、神の行動を待て」・・と、教える。
 これでは無気力人間が出来上がってしまう。
 人に食べさせてもらえなければ、つまり、まず神の前に、
人間に頼らなければミイラになってしまう。
 何ら自ら努力をしない人間ができ、キリスト教は、待っ
ていれば、『ただただ、いいのだ』と言う。
 力を得るのだと言う。
 それを信じろと言う。
 待っていさえすれば、強くなると言う。
 だから、汝の敵に勝つと言う。
 だから、救われますと言う。
 そして、ここで例えて言う、「嫉妬の毒矢に身を曝(さ
ら)すとき、・・われはただ静寂を守り、すべての救済を
神より望み、かれ(神)をしてわが城塞たり、守衛たり、
(神を)武器たらしむべきなり。われは弱けれどもかれ
(神)は強し、われとともにありて、われ一人は全世界よ
りも強し、救いは『エホバにあり』・・と。
 何ら、神はこうなのだからという話は皆無となっている。
 ひたすら精神的高揚のみ、感情的入れ込みのみ。
.
 (追伸):
 また、内村鑑三の様な、明治初頭の学究の徒は、
 進んだ西洋の科学知識および哲学を含む学問を勉強しよ
うとひたすら学んだ。
 しかし、今現代、その努力の跡は認めるが、その研究課
題のどれもが、陳腐化がはなはだしいのは仕方がない状態
となっている。
 それだけ、現代の科学は進み、学問・知見が進んでいる
のだ。
 内村鑑三のキリスト教も、その知見レベルは、また、研
究レベルは、はなはだしい進歩をした現代からみると酷(
ひど)く低かった。
 西洋の学問を仰ぎ見た明治初頭の学級の徒は、無批判に
優れたものと西洋を見ていたことは否めない。
 その様な環境に居た内村鑑三が、今・現代に居れば、キ
リスト教の真の全貌を知れば、この様な浅薄なキリスト教
に失望しただろう。

(追伸の追伸)
 「神が居ない」と悩んだマザー・テレサ。
 「神の存在が確認できません」と嘆いたマザー・テレサ。
 何と、彼女の人生の中でズーットあった悩み。
 ある時、急に、その様に思えたという話ではない。
 彼女は、長い年月「神の存在が確認できない」と悩んで
いた。
 「神の行動をマザー・テレサは待ち続けていた」。
 しかし、最後まで待ち続け、神に会えなくて終わった。
 彼女の死後、その経緯(いきさつ)が公(おおやけ)の
元に公開された。
 彼女の「これが真実」との公にする希望だった。
.
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2013年9月11日水曜日

偶像が、いっぱいのキリスト教。

 題:偶像が、いっぱいのキリスト教。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の『モーゼの十戒』の二項目に、
 「偶像を作ってはならない」とある。
 しかし、この項目の戒は、「常に意識されていたわけで
はなかった」。
 見過ごしていた時代もあったし、
 厳しく言った人は、「イザヤ書」の(40条以下)の著者
の第二イザヤである。
 彼は、偶像について、手厳しく攻撃をするが、この例の
様に、その人その人や、時代によって差がある。
 しかし、キリスト教が、十戒の「偶像崇拝」について、
他宗教を攻撃する資格はない、また、権利もない。
 キリスト教こそが、『偶像崇拝宗教』の状態にある。
 ブラジルの山の頂上に『大きなイエス像』を建てている
が、これも『偶像』である。
 また、この様な偶像を立てる行為を、世界のあちこちで
やっている。
 また、キリスト教の聖堂の外壁には『像を嵌(は)め込
んだりしている』。
 またそれも、戦争で侵略した地の「他宗教の偶像」を、
こりゃいいと、持ち帰り、聖堂の外壁に嵌め込んだりもし
ている。
 それこそ他宗教の『異端の宗教』の像を、聖堂という重
要で神聖な建物に嵌め込んでいるというお粗末な行状であ
る。
 イスラム教は、キリスト教の様な『十字架』や『十字架
に付けられたキリスト像』に相当するものはない。
 それをすると、『偶像崇拝になる』と『正しい解釈』を
しているからだ。
 祈るのは、ただ、『マーク』に向かって祈る。
 神の居る方向に向かって神に祈る事を大切にしている。
 キリスト教の様な、『偶像へ向かって祈る』ような事は
していない。
 キリスト教は、その他においても、偶像が満ち満ちてい
る状況。
 『マリア像』も、あちこちに一杯ある。
 また、『聖人像』も、いやなくらいにあちこちに飾って
ある。
 『聖画像』も多いし、節操はない。
 「偶像崇拝宗教=キリスト教という状況である」。
 インドの、マザー・テレサ修道院も、異常な状態の偶像
を飾っている。
 『マザー・テレサ像』が、びっくりする形で飾られてい
る。訪れる人がびっくりする。
 キリスト教の聖職者は、「人間が人間の自分のために神
を作り、それを礼拝する。これは、神のための神ではなく、
自分のための神となる」と批判しているが、
 自分の足元を見なさいと言いたい。
 この、キリスト教の聖職者の言葉は、自分の顔に唾を吐
くようなものです。
 像を彫(ほ)って人間のためと決め付けるのはおかしい。
 この逆の言葉が、キリスト教に戻って来る状態です、『天
使像』も一杯ですし、他を批判できない状況です。
 キリスト教は、本当に、どこが偶像崇拝忌避宗教なので
すかと指摘できる現状です。
.
(追伸)
 ユダヤの民の一番の歴史上の人・モーゼ。
 そのモーゼが、いつ、何処で、唯一信仰を持ったかなど、
いまだに解明はされては居ない。
 モーゼの存在そのものも、疑問視されている。
 そのモーゼの頃と思われる頃から、600年~700年も後
になって、初めて、「偶像崇拝」が問題となった。
 故に、モーゼの頃は、偶像崇拝は問題となっていなかっ
た。
 故に、明らかに、「モーゼの十戒」の第二項の「刻んだ
像を作ってはならない。云々」の偶像崇拝禁止の条項は、
モーゼの十戒の契約の言葉ではない。
 偶像は、キリスト教の神であるヤハウェ信仰には、かな
り密接に付属していた。
 偶像を持った信仰をしていたのである。
 モーゼたちが、その持っていた偶像を非難する訳がない。
 紀元前8世紀になって初めて、偶像礼拝が非難攻撃に登る
ようになった。そして、非難するようになった。
 はるか以前のモーゼが非難し攻撃する訳がない
.
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2013年9月10日火曜日

繰られている・・その結果は。

 題:繰られている・・その結果は。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
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 アメリカの方々は、繰られている。
 そのアメリカの方々を繰っているもの、その1つが
 『映画』に見られる。
 また、その映画を見る世界の人々も繰られている。その
繰られた結果は・・。
 1例、1984年に作られた『インデアナ・ジョーンズ、
魔宮の伝説』。スティーブン・スピリバーグ監督の作品。
 この映画は、作為的にアメリカを『英雄視』し、英雄に
仕立て上げている。
 対するのは東洋。この映画の場合は「インド」。
 東洋は、『遅れている』、『劣っている』としている。
 そして、邪悪な間違った考え方をする国としている。
 この映画は、復活作品であるが、最初の作品は、第二次
世界大戦前に作られている。
 大いに、アメリカ国民を鼓舞し、『世界を救う救世主』
と錯覚させた。・・効果は大きかったと思われる。
 アメリカ国民を、第二次世界大戦に駆り立てる『戦意高
揚』もあったと思われる。
 キリスト教の『選民思想』による、『救世主』を意識さ
せ、正しいのだから宣教せよとの、その『宣教行為』によ
って、民が救われるのだという。それは『正義』なのだと、
掲げ、錯覚し、逆に、結果的に『虐殺行為』を多く行うと
いう歴史の事例が多くある『悪魔行為』の結果と同じ様な
経過をたどる。
 インデアナ・ジョーンズの映画を見たアメリカの方々は、
娯楽の面もあっただろうが、『洗脳された面』も大いにあ
ったのだろうと想像される。
 『世界の救世主』と錯覚し、高揚させられただろう。
 キリスト教は、イエスを救世主とし、キリスト教を宣教
する事で目的が達すると錯覚し、その実は、実に多くの人
々を殺し、絶滅をもある死に人々を至らしめて来た。
 また、数多(あまた)な数の戦争の数々が、キリスト教
の歴史、過去に累々と存在する。
 救世主の意識により宣教の意識が強く、宣教のためには
人を殺しても良いになっている。
 アメリカは、警察行為と言いながら、警察行為ではなく
軍行為をしている。影響されている。
 この映画の、インドの村人は、何者かに虐げられていて、
 天から降りて来るジョーンズに、痩せ細った手を、次々
に出して、助けを・救いを求める。
 そして、天からの主人公は悪の宮廷に乗り込み、一旦は
敵に囚(とら)われるが見事に脱出し、悪の祭司をやっけ
て、邪悪なものから村人たちを解放する。
 そして、村人が、その結果に喜び、感謝の中、名残を惜
しまれる中を、村を去って行く。
 第二次世界大戦前に大量生産されて、アメリカ中に公開
された作品だという。
 映画は、インド各地方のもの事がごちゃごちゃに入って
いて学術的な整合性はないという作品。アメリカの観客に
は、「インド的、東洋的」に見えるだけという作品。
 主人公・ジョーンズは、知性と体力と意思をそなえる紳
士に描かれ、
 対する東洋の民は、古い理念にとらわれ、自由な行動も
取れず、
 運命を切り開く事も出来ず、ただただ災厄におののき、
 無力な存在に過ぎない・・と、描かれている。
 それに対し、主人公は、科学的に進んだ利器を駆使し、
どこでも自由に動ける。
 対する村人は土地に縛られ、動く事はできない。
 主人公は、天から降りて来るが、村人は地を這うしかな
い。
 主人公は活動域が広く、知性や判断力に優れ、
 さらに自由に、主体的に、自分の行動が選ぶ事ができる
と描く、
 対象的に、東洋の村人はそのことごとくが、その様にで
きないと描く。
 村人たちは、邪教のために貧困に追いやられ、そればか
りか、その邪教に精神が繰られ、ある者は奴隷となり、ま
た、ある者は供犠(くぎ)とされる。
 悪に虐げられた民に、自分たちを救う力などは無く、
 放っておけば邪悪な力によって滅びるほかはない。
 邪悪な力を取り除くためには、『外からの光』が必要だ
と主張し洗脳する。
 国境を乗り越えて主人公は活動し、その知性が、土地と
伝統に縛られた人々を救っていくと主張し洗脳する。
.
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2013年9月9日月曜日

やっぱり、性善説でなければ・・・。

 題:やっぱり、性善説でなければ・・。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 おめでとう、2020東京オリンピック決定。
 初めは思った、「安倍さんは、まったく運のよい首相だ」
・・と、しかし、『運』ではなかった。
 安倍さんたち・グループの方々は、チーム一丸となって
布石を打っていたのだ。
 それも、『プロ』の布石を。
 そのプロの技が、プロ技によって、なるべくしてなった
結果だったのだ。『2020オリンピック東京決定』に。
 その他の面でも、安倍さんの行動の結果が好結果となっ
ている現状だが、
 これらもまた、今回のオリンピックの様に、なるべくし
てなったのだと感じる。
 『プロの技・布石』である。
 この例の様に、積極的に、知的に、ポジティブに思考し、
事をなして行くのが性善説的行動・思考・展開なのだ。
 そして、次も続けて、そして、それが続いて、良い前向
きな行動・思考によって、その想いで展開して行く。
 この様な思考を展開していれば「日本も良い回転・展開
で行く」「世界にもよい貢献する国に成長していく」、
 人だったら「人生が開け、明るく展開して行く」。
.
 これに対し、朗報に接しても、「ああ、良かった・・だ
けど、あの時はまずかったなー、悪かったなー。今回は良
かったけど』・・と考えるのが性悪説。
 そして、ここを入口とし、スタートとして悪い事を連想
し、思い出し、考えて行くのが性悪説の性癖。
 性悪説的思考の展開=キリスト教の思考展開。
 安倍さんのホームランを見て、「三振、バッター・アウ
ト」を思う性癖。
 安倍さんの好い結果に対して、例えば、「トラスト・ミ
ー」の時は最悪だったなー・・と思ったり・・。安倍さん
に対して鳩山さん。
 先の政権の鳩山さんが訪米し、イスに座って、膝がつ
きそうなくらいに、オバマ大統領との間の位置関係、
 そんな雰囲気で話し合っている2人。
 その時、鳩山首相が顔をオバマサンに近づけた。
 オバマ大統領も、鳩山さんが何か言いたいのだろうなと
察して顔を近づけた。
 そして、顔と顔が接するくらいになった時に、鳩山さん
が小さな声でささやいた。
 『トラスト・ミー』・・と。信じてくれー・・と。
 その時の、オバマサンの顔。
 この時、この瞬間、今まで日本が築いて来た日米の信頼
関係は大きな音を立てて崩れて行った。
 歴代の首相の方々の努力、日米の友好関係構築に身を捧
(ささ)げて来た方々の努力は無と変わった。無くなって
しまった。
 「沖縄の普天間基地は今月中に何とかする』と空手形を
切り。本当に出来るのかなと、国民の大半はおかしいと、
半信半疑でいたら、「やっぱり」との言葉が出る。空手形。
 空手形の乱発の鳩山さん。・・・話の泉で、話がここま
で転がってきましたが・・。やっぱり、性善説でなければ
駄目なのです。
.
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2013年9月8日日曜日

素晴らしい提言:美しい潟の復活、観光再生。

 題:素晴らしい提言:『 美しい潟の復活、観光再生。
           人工海岸線をなくし海と共生 』
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
:学習院大学教授・福島県立博物館長・赤坂憲雄氏の言葉
 (抜書き):「・・日本の人教は、将来8000万人台に減
り、その4割が高齢者になるという推計があります。
 まず、この事を視野に繰り入れる必要がある。
 水田だった所を、膨大な予算を投じて、塩抜きして、基
盤整備して、除染をして、元に戻す。
 そして、『さあ耕して』と言っても、農家は70~80代に
なっていて、耕す人は居ません。
 更に、人口減はいや応なく、経済力の低下をもたらしま
す。
 数百キロにわたる長大な防潮堤を造ってメンテナンスし
ながら50年、100年と維持して行く力が、果たして日本に
ありますか。
 将来の人口減少を考えると、今ある海岸線を守って行こ
うという発想に、もはやリアリティーはありません。
 潟は、生物多様性の宝庫で、実に多彩な暮らしやなりわ
いが周辺で営まれて来た。
 潟をもう一度回復する事は、人口8000万人台の日本列島
に向かって海辺の風景を再構築することだと僕は思う。
 美しい潟が復活すれば観光資源になるでしょう。(以下
略)」。(日経新聞 2013・7・27)
.
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2013年9月6日金曜日

経時劣化をしています。

 題:経時劣化をしています。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、経時劣化をしています。
 その1例が、「モーゼの十戒」で分かります。
 「モーゼの十戒」には、モーゼの言葉ではない言葉が入
っているという。
 また、モーゼの言った言葉は、ほんの一言・二言で、
 その言葉に、後の人たちが、書き加えたり、削ったりと
やってきた。
 びっくりするぐらいに長いものもある。
 最近、「魔女は生かしておいてはならない」を言わない
ことが多い。
 あまりにも、酷(ひど)こと、まずいことと感じている
からなのだろう。
 最近、キリスト教は逆に魔女観念を美しく見せる様な活
動をしている。
 過去に、実に多くの女性が殺されたが、これを「『負の
人類の遺産』として大切にしなければならない」のに、
 また、そうして差し上げねば、キリスト教に殺された、
あまたの女性が浮かばれないのに。
 魔女を安易に扱うことは慎(つつ)まなければならない。
 やはり、「モーゼの十戒」のこの部分は、宣教上、現代
では、当然、受け入れられないので削っているのだろう。
 モーゼの宣教の心と、当然、変わって対応しているとい
う現代、モーゼの精神とは違っている。
 「モーゼの十戒」が、現代の指針となっていないことを
示す1例。
 キリスト教は、この1例が示す様に、すべてで、カメレオ
ンの如くに変わっている。
 例えば、また1例をあげれば、第10項の「あなたは隣人
の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はした
め、牛、ロバ、また、すべて隣人のものをむさぼってはな
らない」。これが変わっている。
 「『隣人の妻』をむさぼる」は浮気の行為。この行為の
戒(いまし)めが恰好悪いと感じたのか、
 「隣人の妻」以下をカットして表示される場合が、ほと
んどとなっている。
 人前に出せないというところ、この削除も、経時の劣化
(時とともに劣化・劣った)その戒めを見せない様にして
いる行為。
 「しもべ・はしため」も「浮気対象のむさぼり」が含ま
れる。
 当時は、現代では想像ができないくらいに社会が乱れて
いた。
 また、宗教自体が、現代の倫理観ではびっくりするくら
いな破廉恥な状況だった。(エルサレム神殿に娼婦・娼夫
がいるとか、一生に一度は、町の普通の民の女性も、神殿
で、見ず知らずの男に、身を任せなければならないとかを、
神から強要されていたとか・・など)。
 「モーゼの十戒」は、あまりにも社会が乱れているので
神の言葉として出た。
 そうしなければ人々が守らない状況でもあったから。
 第7項の「姦淫してはならない」も、然(しか)り。
 社会のあまりにも酷(ひど)い乱れを映している。
 この様な、余りにも乱れに乱れている社会への戒を、こ
の現代に持って来ようというのは、TPO的にも「アウト」。
 まったく、ずれております。
 「モーゼの十戒」から、現代社会に、何か役に立つ話が
出て来るのか?
 「何もないでしょ」。
 宣教の理由は、何もないでしょう。
 第6項の、「殺してはならない」も最悪。
 あえて、言われるまでもないこと。
 この「モーセの十戒」も、他のキリスト教の資料と同じ
く、後世の人たちが色々といじくっているが、
 付けくわえたりしてきているが、
 第4項の「安息日の戒」も酷い状況になっている。
 あまりにも長すぎる。
 一目でモーゼではないと分かる。
 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働い
てあなたのすべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主
の安息であるから、あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、
はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人も
そうである。主は6日のうちに、天と地と海と、その中の
すべてのものを造って、7日目に休まれたからである。そ
れで主は安息日を祝福して・・(あまりに長いので略す)。
 これは、500~700年後に付け加えられたことがはっき
りしている。以下、略す。経時劣化をしています。
.
 (参考)経時劣化(けいじれっか)=経年劣化。けいね
ん‐れっか〔‐レツクワ〕【経年劣化】.[名](スル)年月が
経つうちに製品の品質・性能が低下すること。
.
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2013年9月5日木曜日

『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。

題:『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地、砂漠の地は、
 何一つない地だ。
 万物を焼き尽くす太陽と、
 何ものをも育てる事の出来ない「灰色の大地」だけが
                      ある。
 「 神が天上にあると叫び、
       人びとは大地におののき ひれ伏す 」
 「 神は嫉(そね)む神なり、
    われを憎む者にむかいては、
     父の罪を子にむくいて、3,4代に及ぼす 」。
 景色の手掛かりとなるものは、
             何もない。
 戦闘によって糧を得る事を、
             営みの中に入れている
 戦闘的な絶対唯一神を奉(ほう)じる理由は、
             この自然の環境から来る。
 また、この環境だからでもあるのだ。
 故に、この環境以外の場合には、
     『存在してはならない教え』となっている。
 この地の宗教は、
  神の似姿(にすがた)をつくる事を禁ずることも、
   手がかり一つないこの自然から来る事なのだ。
 木々は緑に、山は美しいという自然とは、
                訳が違うのだ。
 美しい自然に取り囲まれた、
   自然の一つ一つに、
     神の姿を見い出す、日本の自然は、また、
 それが当り前の、当然で 自然の事。
 砂漠の神、妬(ねた)みの神、嫉(そね)みの神は、
   全身全霊をあげて、
     自分につかえる事を人々に要求し、
 その代わり自分も、
   『反対給付』として、恵みを与える事を約束する。
 その上、キリスト教の神を信じたキリスト教の信徒は、
 「神に生殺与奪(せいさつよだつ)の権利を
                 握られている」。
 キリスト教の神は、
   信徒の信を要求し、
     信徒が約束どおり、忠誠をつくした場合に、
       恩恵を与えるという神。
 砂漠の地は、色々な民族が錯綜(さくそう)した。
 それ故、種々の同盟や契約が結ばれた。
 このことが、キリスト教の教義になった。
 新約の宗教となった。
 ただただ、環境条件から来たことなのだ。
 (「民数記略」31章)に、他民族と争って、神は言う。
 「男と寝て男しれる女を、ことごとく殺せ。ただし、今
だ男と寝て男しれる事あらざる女児は、これを汝らのため
に生かしおくべし」。
 (「レヴィ記」20章)に、
 「女もし獣畜に近づき、これと交わらば、その女と獣畜
を殺すべし・・・(この様な、記述が続く。何らためにな
らないので、以下を略す)」。
 倫理的に、こんな聖書を読んで良い訳がない。
 当時の、古代の社会環境なら、役に立ったのかもしれな
いが・・。
 娼婦、娼夫がエルサレムの神殿に巣食っていた。
 また、一生に一度は、一般の市民の女達も、神殿に行っ
て、見ず知らずの男に、身を任かせなければならないと、
神は民へ強要した。
 こんな環境から生まれた宗教。
 古代のそのままが、今・現代に持ち込まれている宗教。
 その古代のことが、そのままに記述されている宗教。
 ここから、未来の人類の幸せが、世界共通の幸せが、生
まれるはずがない。
.
 (参考)せいさつ‐よだつ【生殺与奪】 生かしたり殺した
り、与えたり奪ったりすること。他人をどのようにも思い
のままにすること。「―の権を握る」
 (参考)『民数記』(みんすうき、ヘブライ語: במדבר‎、
英語: Numbers)とは旧約聖書中の一書で、伝統的に四番
目に置かれてきた。モーセ五書のうちの一書。イスラエル
の民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖
書では『アリスモイ』(数)と呼ばれ、そこから民数記と
いう名称が生まれた。ヘブライ語では冒頭の語から『ベミ
ドバル』と呼ばれるが、これは「荒れ野に」という意味で
ある。物語は出エジプトの出来事から二年二ヶ月後に始ま
り、ヨルダン川にたどりつくのが40年目であるとしている。
 (参考)『レビ記』(ヘブライ語: ויקרא‎、英: Leviticus)
とは旧約聖書中の一書で、伝統的に三番目に置かれてきた。
モーセ五書のうちの一書。ヘブライ語では冒頭の言葉から
「ワイクラー」と呼ばれるが、これは「神は呼ばれた」と
いう意味である。内容は律法の種々の細則が大部分を占め
ている。
.
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2013年9月4日水曜日

キリスト教の権威付け

 題:キリスト教の権威付け
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、教勢を拡大したいと、
 そして、それと共に必死になって「権威を付けたい」と
した。
 その為の、あらゆる行動を節操無くした。
 そこに、『神を畏れよ』のキリスト教の教義があるが、
 その教義に災いされ、
 『民を死に至らしめる行為』をキリスト教はした。
 民を殺すことによって、民を畏れさせ、そこにキリスト
教の権威が生まれるとキリスト教は考えた。
 まったく、『非人道的』な、『大罪行為』である。
 死を畏れるだけの民を・・。
 その姿に、キリスト教の権威があると、生まれたと、キ
リスト教の聖職者たちは考え、そのキリスト教の教義の行
為をした。
 その為の死を民に強いた。見せしめの死もあった。
 それ故、聖書も権威ある形へ、意味ある形へと、なって
行くとキリスト教は考え、思っていた。
 ある1例、聖書解釈・・・、
 (「マルコによる福音書」6・45~52)に、
 文脈はまったくつながらないのだが、以下の様なあらす
じの事が書いてある。
 『イエスが、弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ行かせる。
その間、イエスは群衆を解散させる。そして、山へ登る。
夕方になると、(弟子たちの)舟は湖の真中にいた。イエ
スは陸にいた。風が吹いて、舟を漕ぐのが難しくなった。
それをイエスが見て、夜が開けると、イエスは水の上を歩
いて、弟子たちの所に来た。そばを通り過ぎようとした。
弟子たちは水の上を歩くイエスを幽霊だと思った。そして、
大声で叫んだ。弟子たちはおびえていた。イエスは弟子た
ちと話をし、『安心しなさい。わたしだ。恐れるな」と言
った。イエスが舟に乗ると風は止み弟子たちは驚いた。パ
ンの事が理解せず、心が鈍っていたからだ」・・・と、マ
ルコは書く、これが記述のポイントである。
 聖書研究者は、これは「民間説話からとられた」と言う。
 そして、「水の上を歩くと奇をてらった話は他の宗教に
もあること」と言う。
 それにしても、脈絡がつながらない話だ。無駄な動きも
多い。
 ここをキリスト教聖職者は、意味あるものなのだと言う。
これが仕事と言えば仕事なのだが・・。
 例えば、弟子たちを舟に乗せる時に、「強いて」という
言葉が書いてあると・・この『強いて』に意味がある・・
と言う。
 弟子たちを「励まし」、「試みさせているのだ」と言う。
 そしてまた、「山へ登った」という事に対して、すぐ思
い出される有名な話。
 「モーゼが山へ登って神に会い。神と契約をした話」を
持ち出す。
 「この時、イエスは山に登って神と契約したのだ」・・
と。
 しかし、こんな大切な話を、ただ、「山へ登った」で、
あとは何も書いてない。変だと思う。
 そして、何時、山から降りたとも書いてないし、山の上
で何があったのかも、書いてない。
 イエスが山へ登ったからには、何か、『重大な』意味合
いがなければならないはずなのだが、何も書いてない。
 そこを、聖職者の口でつながっていく。
 このくらいの事を言いイエスの行動の意味合いを言う。
 モーゼが出て来る。
 そう言われても、聖書の字面だけでは、「登った」しか
書いてない。他の、何の意味合いも記されてない。
 そしてまた、「夕方、舟が、湖の真中に出たのは、夕方
という闇の世界で、湖の真ん中という「混沌(カオス)」
を表している」のだと言う。だから、どうしたがない。
 イエスが、陸にいるというのは揺れる舟の上とは違い、
揺れない陸にイエスは居ると言いたかったのだと言う。
 イエスの権威を上げる事しか意味がない、これを読んだ
信徒の方たちのためになる話の意味合いは何もない。ただ
揺れない陸に居ただけの意味しかない。
 そして、聖書の他の部分にも多くあるが、「風を止ませ
る行為」がここでも出て来る。
 イエスが、風を止ませる事をしたと説明する。そのイエ
スの凄(すご)さを分からない弟子たち、そして、無理解
を繰り返す弟子たちに、マルコは批判を展開した・・と、
聖書研究者は言う。
 だから、イエスは、「夜明けまで待ったのだ」と。
 聖書の記述の意味合いをアッピールする。
 「通り過ぎる」も、神が出現するときは「通り過ぎる」
のだと。旧約聖書にもこの様な事が書いてある・・と。
 神出現の権威づけの行為と考えられる。
 そして、イエスが「わたしだ」と言ったのは、「私は神
なのだ」と言った意味なのだという。
 だから、そこを驚いた弟子をマルコは批判したと。驚い
てはいけないのだ。ああやっぱりと思わないと。
 だから「パンの事。済んだ事まで持ち出して、マルコは
批判したのだ」・・と。
 なんだ、かんだと意味合いを付けをする。
 聖職者が、色々意味合いを付けるが・・、
「マタイによる福音書」では、「弟子のペトロが水の上を
歩いて」、イエスの所へ行っている。
 その様に、マタイは、マルコを書き直している。
 そして、風でペトロが沈みかけると、イエスに助けて貰
っている。
 ここを、キリスト教聖職者は、イエスの方が、ペトロよ
り上だと言っているのだという。
 (注):ペトロは、聖書の別の記述の中で、イエスに叱
られた時、イエスを叱り返す様な弟子で、イエスと同列
意識があるから、ここでは、この様に書かれているのだと
感じる。
 そして、キリスト教聖職者は、イエスの神格化を示して
いると強調する。『わたしだ』とだけ言った言葉で・・。
 この様な記述は、まさしく、ブルトマンが、「古代の『
魅力に欠けた』古い神話的記述」と言った様な方法で権威
づけをしている、これでしか、イエスを神格化できない。
 また、ブルトマンが『古代の泥沼にはまる」と、半分、
軽蔑した様な方法でしかできない、
 「意味のない言い方の権威付け」をする。
.
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2013年9月3日火曜日

アンフェアな国・アメリカ。公正にして下さい。

題:アンフェアな国・アメリカ。公正にして下さい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 対等な条件で戦おうと、
 善良な農民と早撃ちの男は、
 街のメインストリートで戦った。
 当然のごとく、
 善良な農民は撃たれ、
 殺された。
 これは公正と『アメリカは判断した』。
 こんな『アンフェア』なことを、
 アメリカでは『公正なのだ』と言う。
 早撃ちは、
 毎日、
 早撃ちの練習をし、
 農夫は、
 毎日、
 トラクターを運転し、
 鋤(すき、農具)を持って働いている。
 銃を持つことはほとんどない『平和に暮らしている平和
な民なのだ』。
 同じ様に銃を持ったのだから、
 同じ条件で『公正なのだ』と、
 アメリカは言う。
 同じじゃないでしょう。
 ここが分からないアメリカ。
 早撃ちは、独り者で、
 毎日、酒場を出入りし、
 自分の時間がいっぱいある。
 自分だけの時間である。
 他の人たちのための時間ではない。
 酒場を出入りしているこの独り者は、銃をいじくる時間
がいっぱいある。
 善良な農夫は働き者で、汗水を流して働き、愛する妻と
愛する息子の生活を大切にし、守っている。
 農夫の体には、『愛する家族を守る重い責任がかかって
いる』。
 早撃ちの身の軽さとは『雲泥の違いがある』。
 この様な、大切な面の違い、重大な違いを、
 『見落としているアメリカ』。
 この二人が、街のメインストリートで、
 銃で、銃で戦うことを、
 『公正だ』というアメリカ。
 『公正だから良い』と判断するアメリカ。
 巨大な国アメリカにある『公正』。
 『公正だから良い・・やれ』と判断するアメリカ。
 『公正ではないでしょう』。
 プロレスラーの大男が、
 リングの上で、
 対等に戦おうと、
 子供に言った。
 『どこが公正なのだ』
 ・・と言えないアメリカ。
 『何処を見て公正なのだよ』と、アメリカは言えない。
 逆の立場で、考えられないアメリカ。
 自分さえよければ良いが先に来るアメリカ。
 アメリカは言う『お前も何もない。もちろん、
 俺も何もない。
 お前も俺も素手だ。
 こんな公正なことはないだろう』と、
 アメリカは言う。
 『公正ではないでしょう』。
 TPPで、
 こんな事を、アメリカは言っている。
 弱小国を相手に、
 公正を振りかざして。
 結局、弱者を、大勢殺すことになった過去がある。
 自分の国の大切な若者も亡くなったが、
 それ以上の、
 それに何倍するか分からないくらいの、
 大勢の、
 他国の方々が亡くなった。
 この行為の基本に、
 考え方の所に、
 自分だけに都合よく考えるというところがある。
 キリスト教的思考に由来している。
.
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2013年9月1日日曜日

イエスの時代、預言者と言われる人たちがいた。

 題:イエスの時代、預言者と言われる人たちがいた。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの時代、預言者と言われる人たちがいっぱいいた。
 或る者は、官の身分の預言者だった。
 イエスは、「私の身分」の預言者だった。
 預言者は、「予言が当たらないと、民から総スカンを食
らった」。
 その様な、預言者・予言者が謹慎・自粛する例もあった。
 予言者は、民から喝采を浴びることが生活につながった。
 民へ媚(こ)びへつらう傾向があった。
 競争の激しい預言者たちであった。
 預言者は、その様な身分で、社会からの受け入れ方で、
民から尊敬されている訳でもなかった。
 イエスも、故郷に帰っている時に、イエスを知る故郷の
人から「預言者とは、旨いことをしているな」と言われて
いる。
 また、この時代、ほとんどの予言者が、処刑された。
 イエスも自分が、その様になることを予感していた。
 しかし、実際は十字架に付けられた訳だが、イエスは、
「石打の刑」になると思っていた。
 そして、予言者たちが処刑されて行くのを嘆いている。
 『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に
遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(「マタイによる福
音書」23・37)(「ルカによる福音書』13・34)。
 イエスの「自己理解力の限界」が見える。
 イエスの、あまりにも人間的な面を伝えるところで、
「水の上を歩くイエス」とか、「死者を生き返らすイエス
」とかは、つくづく作り話だなと思わせ、感じさせる一説
の1つの事例である。
 また実際、タルムードには(「バビロニア・タルムード
」「サンへドリン」43a-b)の様に、「イエスが、石打ち
の刑にされた」と伝える記述もある。
 そして、キリスト教は、「非神話化」をしなければなら
ないとした人がいた。
 その人は言う、古代人ではない、もう、その手は効かな
いと。
 ブルトマンは、キリスト教福音書の中の『魅力に欠けた』
古い神話論的言語を取り除こうとした。
 「古代人たち」は、処女降誕にも、水の上を歩く様な超
自然的奇跡を行なう「神の人」にも、困難を感じなかった
が、
 いかにしたら、その様な『古代の泥沼』に、はまらない
でよいかを示す試みを、ブルトマンは、「非神話化」を通
して示そうとした。
.
(参考)よげん‐しゃ【予言者】 :未来を推しはかって言
う者。
(参考)よげん‐しゃ【預言者】 1(神の言葉を) 預言する
力を与えられた者。
(参考)タルムード【(ヘブライ)Talmud】 《教訓の意》
ユダヤ教の宗教的典範。モーゼ律法および社会百般の事項
に対する口伝的解答を集大成したもの。本文ミシュナとそ
の注釈ゲマラの2部からなる。4世紀末ごろ編集されたパレ
スチナタルムードと6世紀...
.
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2013年8月29日木曜日

キリスト教の話の初め・・アブラハムたち

 題:キリスト教の話の初め・・アブラハムたち
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 wikipediaに、以下の様に書かれていますが、まったく
キリスト教の話に都合のよい話に書いているプロパガンダ
(嘘宣伝)です。
 wikipedia記述内容:「アブラハム (英語 Abraham ) は、
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じるいわゆる聖典
の民の始祖。ノアの洪水後、神による人類救済の出発点と
して選ばれ祝福された最初の預言者。『信仰の父』とも呼
ばれる」と。
 また、
 「ユダヤ教の教義では、全てのユダヤ人の、またイスラ
ム教の教義では、ユダヤ人に加えて全てのアラブ人の系譜
上の祖とされ、神の祝福も律法(戒律)も彼から始まる。
 イスラム教ではイブラーヒームと呼ばれ、ノア(ヌーフ)
、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)、ムハンマド
と共に五大預言者のうちの一人とされる。キリスト教の正
教会においてはアウラアムと称され、聖人に列せられてい
る。族長と呼ばれるヘブル人の先祖たちの一人である」と。
 ・・・wikipediaには、上記の様に書かれているキリスト
教の聖書に書かれる最初の人たちアブラハムは、実は、
 キリスト教とは全く違う人たちだった。
 紀元前1700年の頃、今から約3700年前、アブラハムは、
チグリス・ユーフラテス川の下流にある「ウル」を出立し
た人たちだった。
 向かった先はパレスチナのカナンの地だった。
 アブラハムの一団は数100人で裸足であった。
 これで砂漠の地を羊を追いながら進んだ。
 彼らの宗教は『 多神教 』であり、
 また、特に、『 樫の木を崇拝した 』。
 彼等の住まいは天幕であった。
 多くの町を通過した。
 ナプルウスというアラブ人の町に着いた時には、
 彼等は、この石の城壁に守られた町に入らずに天幕を張
った。
 彼ら一行に途中から加わる者もいた。
 また、途中の町に長く留まった町もあった。ハランデと
言った。
 アブラハムの父のテラは、ここで亡くなった。
 彼等はこの様な苦難の後に「カナンの地」に至った。
 出立地のウルに残した親族もいた。
 ウルは肥沃であったが、時々、洪水に見舞われた。(創
世記11章、12章)を参照。
 ただ、この様な事、アブラハムたちがやった事は、アブ
ラハムたちだけが、やったという訳ではなかった。
 この様に、北へ向かう半放牧のセム諸部族は多くあった。
 キリスト教の聖書の記述だけが特別なのではない。
 また、キリスト教とは全く違う宗教・多神教であり
 また、『樫の木を崇拝する宗教』の話なのである。
 また、ユダヤ教徒も違う。
 自然崇拝である。
 ヤハウェ神も影も形もないアブラハムたちであった。
..
(追伸)
 カナンの地へ向かって、
 チグリス・ユーフラテス川のウルを出立したアブラハム
は、
 カナンへ向かったという訳ではなく、
 カナンの地へ着くまで、あちこちを彷徨(さまよ)った
のが事実。
 ダマスやシケムなどをたどり、天幕の旅の生活は続いた。
 そして、ネゲヴの荒野に行き、
 それからエジプトに行く。
 ここであやうく妻のサラを奪われそうになったりした。
 そして、ベテルに戻り、ヘブロンへ行く。
 この様にイスラエルの民となったアブラハムは、パレス
チナの地、、メソポタミアの地、エジプトの地などを彷徨(
さまよ)っていた。
 生きる糧を求めたさすらいだった。
 この様に、エジプトの地もよく出入りする地だった。
 また、イスラエルの民は、カナンの地に定着したらその
まま定着し続けたという訳ではなく、
 定着した後も、
 羊と山羊を連れて、
 生きるために方々を彷徨った。
 エジプトの地も、その様な地の一つだった。
 モーゼの話のような劇的な話ではない。
 エジプトは通常の行き先なのだ。
 エジプトの地はちょっとした出入りの地なのであった。
 モーゼの話は作り話なのである。
 モーゼの実在もないとされているのが真実。
.
(追伸の追伸)
 イスラエルの民は純粋種ではない。
 混血が、あらゆる機会に行なわれている。
 日本の様な島国で混血がない様な種族と違う。
 (海を渡って大陸から少しは来たが)
 イスラエルの民の地は、あらゆる種族が行き交(か)う、
 また、自分たちもさ迷(まよ)う歴史だった。
 その中で、血が混ざり、イスラエル種族は形成されて来
た。
 キリスト教の聖書には、「娘は異教徒へ嫁にやるな」「
異教徒が増えてしまう」などと説いているが、
 まったく、国際的な感覚の無くのないキリスト教の教義
であるが、事実は、イスラエルの民は混血に次ぐ混血であ
った。
 何でこんな狭量の教義を民へ押し付けているのかと軽蔑
する。
 カナンの地には、ヘテ人(ヒッタイト人)やアモリ人(
西方セム族)などの先住民が居た。
 カナンに渡ったアブラハムたちは、俗に言う「よそ者」
だった。
 アブラハムたちは、この先住の民と混血した。
 キリスト教の教義などそっちのけ。
 地になじむためもあったのだろう。
 例えば、アブラハムの孫(アブラハムの子・ヤコブの子
供のエサウ)は、ヘテ人の女性と結婚した。
 (エゼキエル書、16章)「汝の母はヘテ人、汝の父はア
モリ人なり」など。
 キリスト教の神の言葉は、アブラハムの時代においても
無視されていたと言える。
 因(ちな)みに、エサウの結婚したヘテ人は、インド=
ヨーロッパ系の民。
 アブラハムの家系にインド系の血も混血してる。
 同時に民が持っている宗教性も伝搬している。
.
(追伸の追伸の追伸)
 紀元前7000年頃から、中近東の全域および北アフリカ
一帯は砂漠化が始まった。
 パレスチナのカナンを含む「肥沃の三日月と呼ばれる地」
はその砂漠化から残された地となった。
 ここに住む人々は、はじめ「略奪農業」という「土地が
痩(や)せれば他へ移る」という行動であったが、次第に
定着して行った。
 紀元前5000年頃に、エルサレム周辺に人々は住みついた。
 ちなみに、紀元前2100年頃、チグリス・ユーフラテス川
の地に、スメール最後の王朝(ウル第三王朝)がたち、王
朝を樹立したウル・ナンムは、支配地のバビロン(ばべる)
に「バベルの塔」を作らせた。
.
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2013年8月28日水曜日

惑わす行為とイエスの『私の父の家』

 題:惑わす行為とイエスの「私の父の家」
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 科学に否定的な事を言われ、
 科学を対抗的に見るキリスト教だが、
 その科学の一分野の考古学の発掘という行為で、
 「ミクヴァオート(浴槽)」が、
 何に使うのか、
 使われているのかが分かった。
 つまり、科学的な探究・追求によって、
 より宗教の実際が分かって来ている。
 これからの方向を示唆もする『知見』である。
 今、進行中の宗教行為に、良い反映となってその科学の
恩恵が現出してくる『考古学の寄与』だった。
 科学的探究の寄与面なのである。
 しかし、あまりにも、今までが、
 キリスト教の教義を否定してきた科学の結果だった。
 キリスト教は、科学的な結果と信仰は別なのだと言って
いた。
 科学無視の言葉を言わざるを得ない『無残な結果』を、
科学から付きつけられていた状態のキリスト教だった。
 キリスト教の科学に対するこの調子から分かるように、
都合が悪くなると、その場が収(おさ)まる様な、
 都合のよい言い逃れを言って来たキリスト教だった。
 「ミクヴァオート」は、祭儀的清めのために必要とされ
たユダヤ教の浴槽。
 ユダヤ教からの流れをより深く理解するための『貴重な
知見』を得た形となった。
 今までは、その流れを適当に解釈していた。
 これ等に関連することが、「ヨハネによる福音書」の2章
などに書かれていたが、
 キリスト教は理解できずに、適当に解釈していた。
 また、イエスは、町の外で処刑されたと伝えられていた
が、紀元44年に、街の城壁が、より外側に築かれ、
 イエスが、町の外で処刑された様には見えなくなってい
た。
 この科学的探究の結果、新しく得た知見が、
 キリスト教を裏付け、補強をする形になった。
 今まで、その場を繕(つくろ)う行為ばかりしているキ
リスト教の態度は、厳に、慎(つつし)み深くしなければ
ならない。
 「懺悔せよ」と言っているキリスト教こそが、懺悔しな
ければならない。
 「言い逃れ」したり、「嘘をついたり」。「実際を隠し
たり」・・などなど。信徒を惑わすことはしないように。
 また、
 イエスは、ユダヤ教のエルサレム神殿を「私の父の家」
と讃(たた)えていた。
 そしてまた、使徒行伝の著者は、イエスの弟子たちが神
殿で礼拝し、そこで教え続けたことを知っている。
 そして、ペトロとヨハネは、「祈りの時」に、神殿の丘
へと続く階段を上っている(「使徒行伝」3・1)。 
 また、ペトロは、イエスがメシアであることと「死者か
らの復活」を、イエスがまさに教えたと伝えられている場
所で宣教し続けている(「ヨハネによる福音書」10・22~
30)。
 また、その話を聞いていた人たちは、つい先頃まで、
 イエスが、神殿で礼拝をしていたことを見ている人たち
であった。
 また、彼らの内のある者たちは、
 『イエスを十字架につけよ』と叫んだ群衆の中に居た人
々だったかもしれない。
.
(参考)本文によれば、『使徒行伝』は、『ルカによる福
音書』の続編として(聖書自身の証言と伝承によればルカ
の手で)書かれたものであるという。
 どちらも「テオフィロ」(ギリシア語で「神を愛する者」
という意味)なる人物に献呈されている。
 もともとは一冊の書物だったという説もあるが、現代の
研究者たちがさかのぼれる最古の資料の時点では、すでに
『ルカによる福音書』と『使徒行伝』は別々の本になって
いた。
 『使徒行伝』は、この時代に書かれた作品としては他に
類をみない非常にユニークなものであり、初期キリスト教
の研究は本書なしには成り立たない。
 また、パウロの書簡集も『使徒行伝』の存在によって価
値あるものになっており、『使徒行伝』なしにパウロの手
紙を読んでも理解できない部分が多いことを忘れてはなら
ない。(wikipediaより)
.
(追記)
 原始キリスト教の時代。
 キリスト教福音書の記述者たちは、
 旧約聖書において約束されていたことを、明らかにしよ
うと試みた。
 その約束とは、神が世界を救うために『メシア(救世主
)』を派遣されるという事である。
 彼らによれば、それはイエス・キリストにおいて、完全
になし遂げられた・・と、キリスト教は説明した。
 仏教は、仏となられた仏陀が衆生に教え導いた。
 そこに、数々の教えがある。
 これを学べと説かれた。
 その教えを学び、人々は幸せになって行くが、
 時の経過と共に、その衆生の中から世をより良くする人
々が、さも涌くがごとくの様に出現してくる・・と、教え
ている。
 キリスト教は、イエス・キリストで完結し、ピリオドが
打たれるが、
 また、イエス・きりすとだけの1人で完結し、終結する
が、
 仏教は、その後、教え悟(さと)された衆生の中から、
湧き出ずる様に、無限の菩薩が世を良くし、幸せにする菩
薩出現を説いている・・教えている。
 キリスト教は、イエスで終結し完結する1神教的発想で
あり、そこに、完全無欠の神の存在が欠かせない。そして、
信の『能動的エネルギー』を必要とする信仰の宗教の形を
とる。
 また、その信じ込みのエネルギーを必要とし、キリスト
教は信じることを必須要件とし、信じなければ切り捨てる
という宗教形態となっている(信じなければ異端・異教徒
となる)
 仏教は、仏の教え悟しが世に示されれば、そこからまた
新しく芽生える得る『新しい若い出現』に世の希望を成就
する菩薩の涌くがごとくの無限の出現を説く。
 そこには、これからの時の中に希望が沸き立つ未来の夢
の必然の成就を説いている。
 キリスト教は、神の介在の中に、イエスのメシアとして
の出現のみを説き、積極的信じ込みを、信徒に「必須の要
件」とし、信徒に要求し、条件としながらの信仰だけの存
在として存立する。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
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2013年8月27日火曜日

自分以外の生命への思いやりを・・

 題:自分以外の生命への思いやりを・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 『里山・資本主義』という言葉がある。
 里山の自然をうまく生かして、
 日本人は『里山と共に』生きて来た。
 里山には、人と自然が『共生』していた。
 人が育み、自然が恵みのお返しをしてくれる。
 人は自然を必要とし、自然も人を必要とする。
 人があってこそ、自然の健全な姿を保った。
 そこでは、自然のサイクルの中で、経済的にも成立って
いた。
 サイクルは永遠に、自然に負担をかけずに、巡(めぐ)
った。輪廻した。
 永遠に続く優しい継続する姿だった。
 しかし、古来から育み育てて来た里山と生きる経済シス
テムは、
 例えば1例だが、
 安い外来木材で、里山経済は、大打撃を受けた。
 里山経済は、優しく、微妙なバランスの上に、成立して
いる。
 長い期間、辿(たど)り、至った、輪廻の状態だった。
 外国の場合、
 大きな面積の森林は、
 木々は、すべてを皆、伐採される。
 見はるかす彼方(かなた)まで、畑とし、
 大きなトラクターでの農業をやるシステムだ。
 そこには、
 一面に単一作物があるという農業だ。
 あまりにも広大な、大きな畑に働く農家の人たちは、
 あまりに広大な故に、農地であるため、
 何処にいるかが、分からない。
 日本の場合、里山を生かし、自然を壊さず、『利用させ
て戴いています』の精神で、自然の中に人の所在も分かり、
 里山も人格があれば『お礼を言うでしょう』と感じる。
 その中で、時が流れて行く。
 世界で、『サトヤマ』という日本語が、世界語になって
いるという。
 その様に、注目を集めている日本の里山の成り立ち。
 キリスト教には、「地を従えよ」と説く、教義がある。
 『自然の征服』を教義としている。
 仏教は、地には仏があちこちに居られるという教え。
 キリスト教の教えから出る結果は、総べて地にある木々
は伐採である。征服の教えから当然の姿なのだ。
 萌映ずる草草はトラクターで踏みにじり、そこに生きて
居た生き物へは目が届かず、
 鳥や獣、虫たちの生きる姿も踏みにじる。
 キリスト教は、それが教義なのだ、「これでよいのだ」
という。
 「神の居る天のみ清浄」。「地は汚(けが)れている」
とキリスト教は教える。
 「自分さえよければ良い」のキリスト教なのである。
 自分以外の生命への思いやりの教えを説かなければいけ
ない今なのである。
.
(追伸)
 本「(株)貧困大国・アメリカ」の著者・堤未里氏が
言う。
 「アメリカでは驚愕(きょうがく)の事態が進行中。
 それは人々の食、街、政治、司法、メディア、暮らし
そのものが、じわじわ蝕(むしば)まれていく。
 あらゆるものが、巨大企業に飲まれ、
 株式会社化が加速する世界。
 果たして国民は、主権を取り戻せるのかが疑問になっ
ている」。
 キリスト教国・アメリカの実態・姿を言っている。
 征服する強いものが良い、
 勝って取れれば自分のものにする、
 それが神の義なのだという、
 自分さえよければいいというキリスト教の根底に流れ
る教えが、この様な形になって現われている。
 TPPもこの形だ。流れだ。
.
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国家百年の大計の知的戦略を・・

 題:国家100年の大計の知的戦略を・・
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
.
 (読売新聞、2013・8・7)によると、
 安倍政権が、今年度から、東大や京大など、22の大学や
研究機関に、計64億円の研究支援費を、新たに配分するこ
とを決めたという。
 大変、結構なことをして戴いたと感じる。
 大学の国際競争力を高めるのに欠かせない知的戦略など、
 主に研究支援を担う人材を配置する資金で、各大学・機
関に、年間2~4億円を、10年間に渡り配分する・・と、あ
る。
 この重点配分も「ぴったり」である。
 特許など、知的財産の、この部分を強くする必要性が、
日本にはあった。
 それでなくても、そこへ新たな資金を投入する必要性は、
今後ますます増大していく。
 新たな知恵・知的財産が、日本で生まれても、
 折角の『打ち出の小槌(こづち)』が、
 この部分が薄弱では、
 日本が、折角、先発明しても、
 肝心の特許権などの知的財産などが、
 他国へ持って行かれる。
 これでは、投入した投資資金も戻らず、
 また、国も富まない。
 それでなくても、iPS細胞の場合の様に、一生懸命、日本
の担当の方々が努力していても、
 アメリカの様に、びっくりするくらいの巨大な資金を投
入し、行く先々の特許などを押さえる事もされている。
 大いに、知的財産戦略の参謀部分に、資金を投入して戴
きたいものである。
 この部門の強化が『肝心なところ』、『要のところ』な
のである。
 新聞によると、研究で、一定以上の成果をあげている全
国27の大学・機関から選んだという。
 これも最適である。
 先の政権の様に、国防予算に匹敵するような巨大な資金
を投入しようとしたが、研究をちょっとかじった輩も恩恵
にあずかれるという策では、資金に群がる連中も多く出現
するだろうことは明らかだった。
 国民の税金の無駄t無駄遣いであった。
 「実績をまず作りなさい」の今回の策は適切です。
 そして、新聞では、最大の年間4億円の配分を受けるのは、
東大、京大、東北大、名古屋大。
 筑波大、早稲田大、自然科学研究機構など12の大学・機
関には3億円、
 北海道大など6大学にも2億円がそれぞれ配分されるとあ
る。
 そして、5年後に中間評価を行ない、
 成果が不十分な大学への支援を打ち切ったり、支援額を
見直したりするという。
 まったくこれも素晴らしいと感じる。成果優先主義OK。
 過去のこの類いの評価は、甘かった感がする。
 極端に言えば、研究支援費目当てに、作られた研究もあ
った様に感じる。
 資金を与えっぱなしにしないことが大切。
 そして、成果が上がって良いところには、「相手がびっ
くりするくらいの資金も出す」という様な裁量を取って戴
きたい。
 また、新聞には、使い道について、大学側の裁量も認め
る方針としている。
 これも素晴らしい。
 研究というのは「アイデア一つで180度、変わる時もあ
る」。
 柔軟な、臨機応変に、適切に、タイムリーに資金を振り
向けて行きたいのだ。
 そして、新聞は、国際共同研究を進める人材や、海外の
優れた人材を確保するための年俸制の導入などを提案して
いる大学もあるとある。
 これも大切なことだ。
 日本の大切な頭脳が、アメリカなどへ流出することを嘆
いていることが多かったが、
 日本への外国の優秀な『頭脳の流入』に意を砕いて行か
ねばならない。
 「シンガポールの目覚ましい発展は、ここに『キーポイ
ント』がある」。
 シンガポールは、世界の頭脳を集めたところに発展の基
がある。
 ここの戦略も、国家100年の大計の視点で、しっかりや
って行って戴きたい。
.
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2013年8月26日月曜日

後に続く人たちの知恵を信じないという愚行

 題:後に続く人たちの知恵を信じないという愚行
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の言葉を「宣教」と称して述べ伝える事は、
人類にとって良い事なのだろうか?
 また、人類の幸せに通じる事なのだろうか?
 『ベストの宣教』となっているのだろうか?
.
 今までの、何千年という経過を見る限り、
 あまりにも多くの人たちが
 酷(ひど)い形で、祈りを無にされている。
 『無益か』と言うより、『害ある結果』となっている。
 あなたたちは、害ある行為に携わっていると言える。
 キリスト教は、遠い昔に『既に使用に耐えなくなって
いる宗教』と言える。
 砂漠の地で、
 民族、我が民族が・・と、我が民族のみの生存・存続を
祈った、
 ぎりぎりの生存を祈る状態なら、
 ぎりぎりに赦(ゆる)せたとしても・・。
 今、手にする事の出来る資料で知る、これ以後の、この
様な状態・感じでは、
 『否』とはっきり言える。
 実は、福音書の記述者たちも、その様なことを感じてい
た。
 その時、そこで、
 「ある者は棄てた」。
 また、ある者は、
 「このままでは駄目だ」・・と、「自分に納得する様に
書き換えた」。
 「神のなすこと、変えてはならない」と思っていたが、
 変えざるを得ない実情だった。
 当然、「棄てた者たちの福音書』は、
 われわれは見ることが出来ない。
 現存する訳が無い。
 そして、そこで、我々が手にすることが出来ない、書き
残す行為を捨てた記述者の福音書へは、だからこそ、重い
想いを、はせなければならない。  
 今、我々が、手に出来ているキリスト教の福音書は、
 ある特定の記述者たちの福音書。
 「衝撃的だが、自分の納得する様に変えてしまおう」と、
 その様に考え、行動した記述者たちだけの福音書なのだ。
 その様な福音書を、手にしているのだ。
 キリスト教の聖書に書かれた内容は、
 その様に、
 誰が呼んでも完全で、非の打ち所の無い内容・代物(し
ろもの)というものでは 無かった。
 異論百出の 論議の湧いていた代物だった。
 削除・書き込みが多いという状況。
 ズタズタに切り刻まれ、 変転している。
 誰が書いたのか、また、誰が書き込んだのかも、
 まったく不明な 「多くの手」によっていじられ、変遷
して来た。
 その様に、福音書記述者さえ戸惑い、
 また、その他の多くの人たちをも戸惑わせた代物だった。
 この事は、後世のキリスト教聖職者とて同じこと。
 「聖書を一人で読んではならない」・・と、指導もされ
ている。
 つまり、誰もがが、何時、いかなる時でも、
 また、何処で読んでも良いという代物ではないという事。
 誰もがが、いつも、「ためになったと、感銘する代物で
はない」。
 棄てた福音書記述者の存在が、
 目に見えない記述者の方々の事まで、思い描かなくては
ならない。
 記述拒否の福音書のほかに、昔には、『数多く、書かれ
た福音書』があった。
 つまり、書かれたけど、「消えた福音書」が、あまたあ
ったのである。
 そのいくつかが、近年、発見されているが・・。
 紀元4・5世紀の頃、
 キリスト教福音書が確定して来たが、
 そのキリスト教聖書が確定して来た頃、
 聖書に載せられなかった、記載されなかった福音書、及
び、キリスト教の関係書類が、
 『処分されていた』という史実が残っている。
 最初の福音書と言われている「マルコによる福音書」に
は、参考にした書があった。
 それは「遠い昔に死んだイエスの言葉を集めたもの」と、
言われている書だった。
 この資料は、あちこちに参考にされ、利用され、影響の
大きい資料となっている。
 この資料も処分された。
 現在は無い。
 今は、参考にして書いたという「マルコによる福音書」
などから、その資料のことに思いはせなくてはならない状
態。
 その資料の片鱗をうかがい知るしかない。
 その有名な資料は、「G資料」と言われている。
 その様に、その他の資料の処分で、今は、
 「全体像が見えない状態」なのである。
 一部で見ている状態なのである。
 このことだけででも、
 この様な中に『真実はない』と言える。
 聖書がまとめられたという4・5世紀の時の、
 「ある一つの主義・主張」で、
 その頃に固まったその主義・路線だけの範囲で、
 こじんまりと収(おさ)まり、
 それ故に、なお悪いことに、
 その他のもの・書や資料は、『不用』と、その時点の者
たちは考え、
 足を引っ張るからと思い、
 その他のものは不用と写り、
 その貴重な「その他のもの」は、
 キリスト教の、『その時』の、権威者たちの手によって、
 人類の遺産を、
 狭い範囲の者たちの手によって
 処分されてしまった。
 後世の人たちが、永遠に見ることができない形に、
 されてしまった。
 後世の人たちの、
 あまたいる、後に続く人たちの、
 『知恵』を信じないという愚行をしてしまっていた。
.
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2013年8月23日金曜日

聖骸布について・・誰でもわかる事が

 題:聖骸布について・・誰でもわかる事が
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は嘘が多いが、程度の悪い嘘は、『考古学的
発見の嘘』である。
 21世紀に入る少し前、『イエスの巻き物』が発見された
と騒がれた。
 これには、学者も騙された。
 新聞・雑誌も大々的に報じた。
 また、21世紀に入って、間もなく、イエスの弟・『ヤコ
ブの骨壷』が発見されたと騒がれた。
 『イエスの巻き物』は、現代科学の力で、捏造(ねつぞ
う)が証明された。
 「ヤコブの骨壷」も、専門家たちは、やはり偽物とみて
いる。
 キリスト教は、キリスト教も嘘が多いが、その嘘が伝染
したのか、キリスト教の周りも嘘が多い状態。
 キリスト教は、自分に嘘が多いし、その嘘を言い張って
いるから、他を批判できない。
 この様な事で権威が落ちている事を自覚していない。
 特に、「聖骸布」の嘘はまったく改めようとしない。
 イエスが刑での死後、十字架から下ろされたイエスに、
布が被(かぶ)せられた。
 また、布なら、軟らかで、しなって、イエスの顔は、横
幅が広くなり、太っている様に見えるわけだが、
 まったくその様ではなく、
 正面からの正常な写真の様に描かれている。
 その布に、イエスの顔や体が、さも、プリントされた様
に描かれているというものである。
 化学分析の結果、中世のころのもの(布)と判明してい
るが、キリスト教は認めようとはしない。
 また、近年、キリスト教会は、この布を修復したという
(人間が修復したらいけません)、また、複数あるという
ことが何か変な感じがする。
.
 (参考)ねつ‐ぞう【捏造】 [名](スル)《「でつぞう
(捏造)」の慣用読み》事実でないことを事実のようにこ
しらえること。でっちあげること。「記事を―する」
 (参考)wikipediaには、以下の記述がある(抜書き)。
  聖骸布(せいがいふ、Holy Shroud)は、キリスト教
でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死
んだ後、その遺体を包んだとされる布。イエス・キリスト
の風貌を写したという布には、聖ベロニカのベール、自印
聖像など、複数あったといわれるが、ここではただ一つ現
存するトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている「トリノ
の聖骸布」(Shroud of Turin)を解説する。
 通常は一般に向けて常時公開されてはいない。カトリッ
ク教会の大聖年にあたる2000年に一般公開され、その後
2002年に修復作業が施された。2010年には修復後初めて
一般公開された。
 イギリスのサリー州ギルフォードで開業していた医師の
デイヴィッド・ウィリス博士が写真を元にした検討をした。
それによると、聖骸布の像の人物の背中には多数の鞭打た
れた後があり、3本の皮ひもの先に2つの小さな金属球がつ
いた「フラグム」という鞭で打たれたと考えられる。放射
線状についた傷の跡から、二人の執行者によって鞭打たれ、
右にいた人間の方が若干背が高かったとされる。
 聖ヨセフ病院の外科医長ピエール・バルベは実験を行い、
聖骸布で示される位置に釘を打つと手首の骨の隙間を押し
広げてとおり、簡単に貫通した。また神経の損傷により親
指が内側に曲がることを発見し、聖骸布の状態を確認する
と親指が隠されて陰影は写っていなかった。また、イエス
の磔の絵はほとんどの場合手のひらに釘が打たれて描かれ
ており、これらのことは聖骸布の陰影は誰かによって人為
的に描かれたのではなく、(イエス本人であるかは別とし
て)実際に磔刑にされた人物によるものであるという強い
医学的証拠である。
 「律法」によって死者は日没までに埋葬しなければなら
なかったため、ユダヤ人の受刑者は日没少し前までに死亡
しない場合、脚を折って死を早められた。聖骸布の人物の
脚が折られていないことは明瞭である。また、右脇に楕円
状の傷がある。ここから流れる血による陰影には、色の濃
い部分と薄い部分とがあり、血液と透明な液体とが混ざっ
ていたと考えられている(ウィリス博士)。
 これまでの調査では、その信憑性について支持的なもの
から懐疑的なものまで、結果は多岐に渉る。あるときは顔
料で描かれた絵であると推定されたり、後年の創作物であ
ると結論づけられたこともあった。
 1988年の調査では、オックスフォード大学、アリゾナ大
学、スイス連邦工科大学の3機関において、考古学などで
資料年代推定に用いられる放射性炭素年代測定(炭素14法
年代測定)が行われた。その結果、この布自体の織布期は
1260年から1390年の間の中世である、と推定された。
 1973年にスイス警察犯罪科学班のフライ博士によって行
われた聖骸布の花粉調査によって、レバノン杉をはじめ、
49種類の花粉粒が発見された。その中の13種類については
死海周辺にしか群生していない植物のものであった。しか
し、これはあくまでそう言う花粉粒が発見されたというだ
けであり、聖骸布が中東方面から来たとする絶対的な証拠
となるわけではない。
 また、ネガ状の全身像についても、どのような過程でそ
こに付着したのか、もし後年作成されたものであったとし
てもどのような材料や方法でそれを作成したのか、などま
だ不明な点が多い。
 カトリック教会は布の真偽に関係なく、信仰のための重
要な道具であるとの立場である。
.
 (?の追記)この文に記した様に、『布は被せられた』
のではなく、『巻かれた』のだとされている。
 この文に、『被せられた』と記した理由は、巻かれたの
であれば、1例として、耳などが、耳の正面から描かれてい
る様に写っているわけですが、
 聖骸布は、カメラで正面から移したようにプリントされ
ている。
 つまり、正面から見た耳となっている。
.
 (追伸の追伸)
 『神の御業(みわざ)』が、この様な聖骸布をなしたと、
主張するキリスト教が、
 何故、修復しなければならなかったのですか?
 神のなせる御業(わざ)は、完全ではないのですか? 
 神の御業が完全であるなら、修復は不要なはず、
 必要ないわけではないのすか? 
 それが、修復が必要だったということは、『神は完全な
事はなされなかった』ということなのですか?
 キリスト教が、修復したと発表したのは、「神の御業は
不完全なのだ」と発表したようなものではないですか。
 さらに、『神の御業がなしたものを、人間の手で修復し
た』とは? おかしいのではないですか?
 神が不完全だから人間が修復しましたと言っている様な
ものです。疑問です。
.
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2013年8月22日木曜日

生き延びている宗教の『態』

 題:生き延びている宗教の『態』
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの教えが意味を持つのは、『紀元前20年~紀元
70年の間においてだけ』・・という主張がある。
 この主張は、イエスの思想は『今・現代において意味を
なしていない』という主張であって、
 1例をあげれば、
 イエスは、当時のユダヤ教の「清浄規定」に反対した。
 その時代は、第二神殿の再建と増築によって霊性と聖性
をますます強調する動きが拡大した時代であり、
 その時代において、ユダヤ地方と下部ガリラヤ地方での
ユダヤ教の宗教生活を定義づけるものは、「ミクヴァオー
ト」(ユダヤ教の祭儀に用いられる浴槽)であった。
 さらに、「石の器」が習慣的に造られ、売られ、買われ
たのは、その時代のみであった。
 霊的清さを確かなものとする「ミクヴァオート」と、
 その中身が汚れに染まってしまわないように守る「石の
器」は、エルサレム神殿の祭司たちによって展開された、
極端なユダヤ教の「清浄規定」に基づいて要求されたもの
であった。
 その様な背景において、イエスは反対運動をした。
 イエスは言う。「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さ
と)って下さい。外から人の体に入るもので人を汚すこと
が出来るものは何もありません、人の中から出るて来るも
のが、人を汚すのです」・・と。
 これは、民をいじめていた、ただ、山のてっぺんに神殿
を建てて、君臨していた宗教権力。
 それでなくても、武力で征服したローマ政府の権力組織
の圧政を受け、苛(さいな)まれていた民をターゲットに、
ひと儲けしようという行為だった。
 民に、何ら、ためにならない宗教権力を誇示するだけの
「エルサレム神殿宗教権力」に放った「イエスの怒り」だ
った。
 「神殿税」という重圧を民にかけ、
 更に、無益な、当時の宗教教義から来ている「清浄規定」。
 イエスは、揶揄(やゆ)った。
 馬鹿馬鹿しい「清浄規定など止めてしまえ」の気持だっ
た。
 イエス特有の理屈っぽい言葉を放った。
 変な「清浄規定」なんか作って、民を惑(まど)わせ、
民を不安に陥(おとしい)れ、
 「ミクヴァオート(浴槽)」買わすとは・・。
 キラキラとした作られた権威、
 空虚な権威をちらつかせ、
 迷信を信じ込ませ、
 民から金を巻き上げて。
 「そんな浴槽で体を洗ったって、清浄なんかになるもの
か」・・。
 「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことが
出来るものは何もないのだ」・・。
 浴槽で清浄になんかする必要は無いのだ。
 あなたたちは知らないが、
 「人の中から出てくるものが、人を汚すのだ」。
 イエスは、当時の「神殿の宗教権力」にこの様な言葉で
対抗した。
 イエスの言葉は、民の苦しさを知る心から発した。
 『当時の、社会事情においての言葉』だった。
 今・現代にない、神殿の宗教教義に抗した。
 イエスの思想は、この言葉の例のように、BC20年~AD
70年のあいだ「のみ」に意味を持っている。
 この間の期間にだけ、意味を持っている言葉なのだ。
 経時(時の経過)の劣化が明らかなのだ。
 この言葉を、現代のキリスト教聖職者が、「尾ひれ・は
ヒレ」を付けて話したら、それは、イエスの言葉を借りて、
利用して、自分の宗教観、「この聖職者の独自の宗教の披
露行為となる」。
 自分の話に自分が酔っている。
 救う宗教の体をなしていない。人々を幸せにする態をな
していない。キリスト教ではない。
 この様に、キリスト教聖職者が、勝手に自分の好きなよ
うに、キリスト教を演じているから、キリスト教は、四分
五裂して、分派がいっぱいの状態になっている。
 キルケゴールは言う、「キリスト者とは信仰の飛躍をす
る者」だ・・と。
 キリスト教は、四分五裂し、形を変えて(キリスト教で
ないキリスト教が)生き延びている。
 教義が破綻した宗教が起こす現象の『これは一端』なの
だ。
..
(追伸)前記した、イエスが言った言葉だという、
 「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さと)って下さい。
外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何
もありません、人の中から出るて来るものが、人を汚すの
です」・・は、
 イエスの衛生観念や衛生に関する知識についても教えて
いて興味深い。
 実は、本当は、衛生のために浴槽に入って身体などを洗
い、清潔さを保つというエルサレム神殿の「清浄規定」は
正しいのである。
 イエスが間違っている。
 イエスは、やはり古代人なのだ。
 イエスは、「細菌の存在を知らない人」なのだ。
 イエスの言葉の「外から人の体に入るもので人を汚すこ
とが出来るものは何もなく・・」という言葉は、『大間違
い」。
 外から入るものこそ、清浄にし、衛生的にしていなくて
はならないのだ。
 イエスの考えている事とまったく逆なのだ。
 病気の原因の細菌を知らないイエスなのである。
 イエスの「外から入るもので、人を汚すものは、何もな
い」は無邪気な無知識だ。
 イエスは、人々に「間違った『宣教』をしている」。
 イエスは、人々に「私の言う事を聞いて悟りなさい」と
言っているが、真実を聞いたら、恥ずかしくて、イエスは
顔を真っ赤にするだろう。
 「知ったかぶりをシテ、人々に無知な事を言ったと恥じ
る」だろう。
 イエスは、「人の中から出て来るものが、人を汚すのだ」
と言っているが、
 キリスト教聖職者が、ここを美しく「人が発する『言葉』
を含めて話をする場合が考えられるが、これは「エルサレ
ム神殿の『ミクヴァオート(浴槽)』の売り付け行為の
「清浄規定」に関する場合なので、人の発する言葉を含め
た話に仕立てるのは脱線である。
 例え、「人の発する言葉を入れたとしても、確かに、人
が発する言葉は「人を汚す場合」もあれば、「宣教の言葉
の様に『ロゴス』となって人々を導きもする」。
 イエスの「人から出るものが汚す」は、細菌など目に見
えない「真に汚すもの」を知らない人間の言葉で、
 このイエスの言葉は、「目に見え得る『糞尿』について
言った言葉だ」。
 ここには、イエスの古代的知識しかない。
 『イエスの限界』はやむを得ないが、現代人には何ら
示唆など、当然、与えないという結果となっている。
   (詳しくは、以下のブログへ)
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2013年8月20日火曜日

人類の負の遺産、キリスト教によること・・。無駄にすまい。

 題:人類の負の遺産、キリスト教によること・・。無駄にすまい。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教には『(キリスト教の)神の義があれば、人
を誅しても良い』の教義や、『異教徒は殺せ』の教義があ
る。
 自分を中心に考える宗教です。
 悲しいかな!これが悲惨な戦争やキリスト教の極悪行為
の原因となっています。
 キリスト教はこの教義を改めなくてはならなりません。
 また、キリスト教は、ユダヤの方々を執拗に殺して来ま
した。
 キリスト教の聖職者たちは、ユダヤの方たちへの憎悪を
掻き立てました。
 そして、迫害を加えることに凝り固まって来ました。
 改めなくてはならなりません。
 キリスト教聖職者は、「ユダヤ民族は、キリスト殺し民
族だ」と、ユダヤの方々への憎悪を掻き立てました。
 この意識が不幸の発端でした。
 そしてまた、新たな罪を、聖職者は発生させていました。
 キリスト教聖職者は、ヨーロッパ中に「ユダヤ人撲滅」
を説いて回わりました。
 『ユダヤ人の追放』も説いてまわりました。
 その為、『異端審問所』が作られました。
 特に、スペインは過激でした。
 びっくりするくらいの大勢のユダヤの方々を、キリスト
教の異端審問所経由で、焚刑の刑場へ送り、生きながら焼
きました。
 ユダヤ人の方々は、隣国のポルトガルへ逃がれました。
 隣国のキリスト教国であるポルトガルも「ユダヤ人追放
令」を出しました。
 ユダヤ人は、アメリカの新大陸へも逃れました。
 すると、卑劣にも、スペインは、キリスト教徒と同行し
たキリスト教聖職者たちが、インディオの多くの方々を殺
しに殺し、全滅にしました。そしてその、人の居なくなっ
た地に、ユダヤ人追放のための異端審問所を作りました。
 作られた異端審問所は、血しぶきを揚げて回転を始めた。
 それでも、ぞくぞくと入り込むユダヤ人をさばききれず、
審問官は、イタリアの法王庁に援助を求めました。
 執拗に、ユダヤ人を追うキリスト教の異端審問の流血の
歴史は、メキシコや、フィリッピンと広範で、執拗で、陰
湿でした。
 キリスト教の性格そのままでした。
 人種偏見宗教=キリスト教。陰湿宗教=キリスト教であ
る。
 ユダヤ人憎悪、そして、蔑視の宗教=キリスト教。
 キリスト教のこの卑劣行為は、次の聖書の記述に一端が
あります。
 「イエス言いたまう。『もし(汝ら)アブラハムの子な
らば、アブラハムの業をなさん。しかるに汝らはいま、神
より聴くきたる真理を汝らに告ぐる者なるわれを殺さんと
はかる。・・汝らはおのが父、悪魔より出でておのが父の
慾を行なわんことを望む。彼ははじめより人殺しなり』」
(ヨハネによる福音書、8章)。
 卑劣極まりないことを、よく言うことよ。
 このイエス・キリストの怨念の言葉が、ユダヤ人を悲惨
な目にあわす元凶となっています。
 キリスト教聖職者は、「汝らはおのが父、悪魔より出で
て・・・」を説き続けて来ました。
 今も、説いていいます。卑劣な宗教めと感じる。
 この様な宗教では人類は救えません。あなた方も幸せに
はなれません。
.
(追伸)
 これからのキリスト教が、真に人類に貢献し、生き残る
事が出来る道は、今まで行なってきた悪さ加減を、隠すこ
と無く、あらいざらい白日の下に曝(さら)し、正直に表
明することです。
 「今、一部で、法王が、懺悔(ざんげ)し、悔い改め、
ミサを行なったりしていますが、少ない状況です」。
 そして、ネガティブな面での人類貢献(人類繁栄の足を
引っ張ってきた極悪行為・行動)を、これからはしない、
行わない・・という、これからの態度を、これは『表明す
ることになります』。
 この行為をしてこそ、『キリスト教の誠実さが表明され
る』のです。今の状態は『不誠実な状態』です。
 そして、これは、今までの様な、嘘で言い逃れし、嘘で
固めた、今までのやり方を『反省したことを表明したこと』
になります。
 そしてまた、これからの悪行為を『止める』ことにもつ
ながります。
 今、キリスト教が犯した膨大な人類の『負の遺産を生か
す時代』が始まったのです。
 また、キリスト教は、その『努力』をして下さい。ホッ
カムリは駄目です。
 その行為・行動によって、キリスト教は、今までに、人
類(特に弱者)に行って来た、極悪行為の『本当の真実の
贖罪になります』。
 今までの様な、自画自賛の贖罪では駄目です。
.
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2013年8月16日金曜日

古代からの長い期間ある意識を、払拭しなければならない。

 題:古代からの長い期間ある意識を、払拭しなければならない
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 戦国時代に覇(は)を競っていた各大名は、富国強兵の
ため、また、生き残りのため、南蛮船が持って来る「鉄砲
や弾薬の原料」などの軍需物資が、喉(のど)から手が出
るほど欲しかった。
 ここは、「キリスト教の布教に貢献した」と、キリスト
教系学者も認めるところ。
 『死の商人』をしていたキリスト教宣教師たち。
 キリスト教になったというキリシタン大名は、キリスト
教の宗教を知って、そのキリスト教を理解して、キリスト
教になったのではない。
 武器弾薬が欲しかった。
.
 そのキリシタン大名の子供の代になり、
 キリスト教宣教師も居なくなると、
 キリスト教と、まったく、関係のない状況になった。
 そして逆に、
 キリシタン大名の子に、「キリスト教のことを悪く言う」
という文献が残されている。
 子供として、父親の姿を見ていて、その状況が、この様
な態度をとらせたと考えられる。
 キリスト教との関係は、本当に嫌になる状態だったのだ
ろう。
 何しろ、キリスト教は、基本的に、日本人を馬鹿にする
という心が根底にある。
 有色人種の蔑視である。
 これが古代から抜けていない。
 キリスト教の教えの根底に、日本人に限らず、アフリカ
の黒人の方々を侮辱したキリスト教聖職者の言葉が残って
いるが、
 また、南米などで蛮行した出先が、
 本国へ問い合わせているその返答が、
 現地人の方たちを『人間ではない』と答えている。
 日本においても「日本人を馬鹿にしている記録が残って
いる」。
 キリスト教は、この根底にある、長い期間、古代から払
拭することが出来なかった「人種的偏見の意識を、払拭(
ふっしょく)しなければならない。
.
 (追伸) 戦国大名が、キリシタン宣教師たちが持ち込ん
だ物資を欲し、代わりに領内の布教を許したのは、いつ果
てるともなく続いていた戦乱の中で、貿易によって富みを
蓄積し、輸入した強力は火器(武器)によって戦いを有利
に導いて行きたかったから。
.
 (参考)は【覇】 1 武力や権力によって国を統一し、
治めること。「天下に―を唱える」 2 競技などで優勝す
ること。
 (参考)は【覇】 [常用漢字] [音]ハ(呉)(漢)
 1 武力で天下を取る者。「覇王・覇者/五覇」 2 力によ
って支配すること。また、競技で優勝すること。「覇権・
覇道/制覇・争覇・連覇」 [名のり]はる [難読]...
 (参考)し‐の‐しょうにん【死の商人】 営利本位に兵器
を製造・販売する業者や資本。中世ヨーロッパで、敵味方
を問わず武器を売り込んだ商人をいった語。
 (参考)ふっ‐しょく【払拭】 [名](スル)はらいぬぐ
い去ること。すっかり取り除くこと。一掃。ふっしき。
.
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2013年8月15日木曜日

自分の都合を優先することを許す宗教

 題:自分の都合を優先することを許す宗教
 ...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教が守るべき律法。その中で、食べて良い動物
は、「蹄(ひづめ)が割れていて、反芻(はんすう)する
動物」のみ。
 故に、蹄が割れていない馬は、食べてはならない。
 また、豚は、蹄が割れているが、反芻しないので食べて
はならない。
 故に、魔女事件で、魔女にされた女性を陰湿に虐(いじ)
めるキリスト教聖職者は言う・・、
 「ブタを食べただろう」・・と。
 可哀想なその魔女にされた女性は、「食べてません」「
食べてません、豚は食べると気持ち悪くなるから、食べら
れないのです」と一生懸命に言うが、イジメ抜かれた女性
は、命を落としめられる。
 この様に、キリスト教には食べてはならない食物がある。
 この事例の様に、動物の豚もその様な食べてはならない
動物。
 また、海や川にいるものの中では、食べて良いものは、
ヒレと鱗(うろこ)のあるものだけ。
 イカやタコや海老もそうだ。食べてはいけないのだ。
 また、貝やウナギも、当然、食べてはいけない食物とな
っている。
 また、食べて良いことになっている牛肉は、しっかり血
抜きをしなければならない。
 (肉汁たっぷりのステーキは駄目)。
 キリスト教の一派:「エホバの証人の」は、輸血も駄目
としている。
 幼い子が、この医学の発達した現代、立派な病院で「輸
血」を拒否され、尊い幼い子の命を落とし、救えなかった。
 また、「肉を乳で煮てはならない」という戒もある。
 別々に煮ても、同時に食べてはいけない。
 皿に盛る時も、同じ皿に盛ってはならない。
 キッチンの流しも別にするとよい。
 (こんな時代錯誤な教え、信徒はほとんどが馬鹿にして
守らないと、適当にやっている。『自分の御都合』を優先
しているのだ。元々、キリスト教は低劣な教義に満ちてい
る。勝手に皆で破って平然としている宗教なのだ。一面で
は「神だ」「神だ」と言い、別の面では『自分の御都合を
優先する』。それを組織的にキリスト教は目をづぶってや
っている。組織自体が御都合主義にどっぷり漬(つか)っ
た宗教なのだ。くだらないの一言。こんな宗教を信じて、
皆様が幸せになれるはずがない)。
 着るものも、「男は女の着るものを着てはならない」と
なっている。そしてまた、反対に「女は男の着るものを着
てはならない」となっている。だから、女が「ネクタイ」
をする事が出来ない。
 また、2階にバルコニーを設ける時には、「手摺をちゃ
んと設けるようにしなさい」というのもある。これは当た
り前。言われなくても。落ちてしまうではないか。
 マニュアル宗教のレベルなのである。
 そして、『ユダヤ教徒の意識で死んだイエス』を供犠(
くぎ)として利用したパウロのキリスト教の宗教企画(現
在のキリスト教)をキリスト教の宗教教義とした。
 そして、今では、多くのキリスト教聖職者でさえ信じて
いない「復活」を、「イエスの復活はあった」とパウロは
宗教企画に決めた。
 しかし、パウロは、肝心な「イエスの行動や言葉」はい
りませんと、必要ありませんと、捨ててしまった。そのこ
とを文にしてまでして残した。パウロの都合、お好み。
 そして、キリスト教は、ユダヤ教正典を「旧なる神との
契約の書」の地位に貶(おとし)めた。
 「神の子」を勝手に作ったキリスト教は、良かれと思っ
てやったのだろうが、神を『神の地位』からも貶(おとし)
めた。
 神に、「時間に捉われる」という行為をさせている。こ
の様な「大失態」をもしている。
 また、名も呼んではならないという神概念を崩す行為を
している。
 神を、「ある空間」の中に置くという行為もキリスト教
はしている。
 これでは、まったく、「人間と同じではないか」。
 この事例の様に、キリスト教は、神に良かれとやったが、
「神への大冒瀆(ぼうとく)」をしている。
.
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2013年8月14日水曜日

嘘を言っていたら、深まりません・・。

 題:嘘を言っていたら、深まりません・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、『1神教の壁』があって・・、
 キリスト教より早くに成立した仏教の影響は受けていま
せん・・と言う。
 これは、キリスト教の良くやる嘘です。
 キリスト教は、色々な面で、仏教の影響を受けています。
 例えば1例ですが、地獄の概念です。
 キリスト教の「地獄」の概念は、まったく、仏教の影響
を受けています。
 「裁かれて天獄にはいる。そしてまたは、はいれない人
もいる」という、キリスト教の宗教概念は、完全に仏教か
らの影響です。
 (「マルコによる福音書」9・48)に、「地獄では蛆(
うじ)尽(つ)きることも、火が消えることもない。人は
皆、火で塩味を付けられる」とある。
 また、(「マタイによる福音書」25・41)に、「呪わ
れた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のため
に用意してある永遠の火に入れ」。
 イエスが居たナザレは、交通の要衝(ようしょう)、異
邦人が多く居た。
 また、インドの佛教宣教師も、「一神教の壁」と称する
ものなど何の関係もなく、越え、パレスチナの地へ宣教に
来ています。
 イエスの思考形態に、仏教的な面が見られるのは、イエ
スの生まれ育った地に多く居た異邦人が、インドから持ち
帰った仏教的考え方に影響を受けていた。
 また、イスラム教には、「ラザー」という「火炎地獄」
があり、「キリスト教徒が入(い)れられる地獄」だとさ
れている。
 その「キリスト教徒が入れられる地獄」は、イスラム教
の教義で決められています。
 キリスト教の地獄の教義・宗教概念は、「永遠に責め苦
を受ける」となっています。
 しかし、このキリスト教の教義は、まったく慈悲心がな
い状態です。
 「攻め・イジメ一本やり」です。これが、キリスト教の
考え方であり、教義なのです。
 この点、仏教の地獄は、「一定の期間、罪を償(つぐな)
うところ・場所」とされています。
 そこには、「救いの道」があります・・その様な、教え
を説いています。
 キリスト教は「無限の責め苦」という宗教概念で、救い
はまったく無い、ありません。
 キリスト教の「愛の宗教」は、この様な宗教概念・シス
テムで、救いの道が無い考え方・教義で・・愛?・・と、
疑問が・・。
 これで、どこで愛を説いて居るのですか?・・と、言い
たいのです。
 キリスト教の「愛の宗教」は、嘘宣伝・プロパガンダな
のです。実態面で、愛となっていないのです。
.
 この無慈悲さに気付くいたキリスト教は、
 大分、年月が経過した後、
 仏教的な地獄の概念を、キリスト教会は作った。
 気付きましたか、良かったですね、おめでとう・・です。
 しかし、プロテスタントは、今でも、頑(かたく)なに
拒(こば)んでいます。『責め・イジメ一本』です。
 この様な、慈悲ある地獄の概念はありません。
 「最終的に、人類を救うという宗教概念」でなければい
けません。
 煉獄の宗教概念を取り入れたキリスト教と、
 拒んでいるキリスト教という状態です。
 ちなみに、プロテスタントは、「告解」も否定していま
す。
 いずれにしても後追い宗教=キリスト教です。
 人類救済は表面だけの言葉です。実態は実際は、救うこ
とはできない教義になっています。
 嘘ばっかり言っている宗教では真実は深まりません。
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2013年8月12日月曜日

時の流れは、その中にある・・

 題:時の流れは、その中にある・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 エジプトには、豊かな「ナイルの流れ」があり、
 その豊かな「ナイル川の流れ」は、豊かな実りをもたら
しました。
 そしてまた、その豊かな実りは、民へ豊かな生活をもた
らし、
 豊かな生活は、「豊かな文化」をもたらしました。
 エジプトの文化は栄えました。
 花は大きく開きました。
 その文化は、数々の『人類の至宝』を生みだしました。
 それに引き換え、
 「キリスト教の生まれた地・パレスチナ」は、
 砂漠の地で、『飢餓と背中合わせの地』でした。
 民は、飢餓にさ迷い、
 大挙して豊かなエジプトに流れ込む事もしばしばでした。
 BC17世紀の時にも、この様な事がありました。
 因(ちな)みに、
 この豊かなエジプトが貧しくなったのは、ヨーロッパ・
キリスト教諸国の『植民地支配』があったからです・・、
 民が得るべき『富み』は吸い上げられました。
 民・国民のための作物は、栽培できなく・・、
 植民地支配をする側の国の『儲けに都合の良い作物』で
ある「商品作物」を作らされました。
 土地も貧しくなって行きました。
 かつては「非常」という言葉を付けることが出来るほど
の豊さだったのに・・。
 例えば、エジプトと同じ様に植民地支配に苦しめられ、
泣いた「インド」の例をみると・・、
 支配者のイギリスは、実質、「国策であるインド支配」
を「東インド会社」を作って会社組織で行いました。
 これは、表面を繕(つくろ)っているのです。
 東インド会社は1600年に作られ、
 インドを、何と、『257年』にも及ぶ長い長い期間牛耳
(ぎゅうじ)りました。苦しめ、搾取しました。
 その富の奪い取り・取り上げ・吸い上げは凄(すさ)ま
じい限りで、
 「非人道的」などという言葉は、とっくに、通り越して
いる状態でした。
 「奴隷としての人の使役」を赦(ゆる)すキリスト教。
 「奴隷制度」を容認するキリスト教、
 このインドの収奪も、形の変わった『奴隷制度的略奪』
でした。
 キリスト教の発生地の出来事。苦しい時には「隣国の富
を奪いに行く事を、『神の義がある』から赦されるのだ・
良いのだとするキリスト教、
 その考え・思考形態・文化に染まった植民地支配国・イ
ギリスのなす行為。
 悪辣(あくらつ)ぶりの一端、この東インド会社の配当
率を見るとびっくりする。
 この257年間に、なんと、100%の配当率を割り込んだ
事はありませんでした。
 銀行の利子が1%にも達しない事からもお分かりと思い
ますが、如何(いか)に悪どく利益をこの会社は得ていた
か・・という事です。
 堂々とこの様な馬鹿みたいな配当を、超・長期にできた
という呆(あき)れた話なのです。
 この様な配当が出来たこの会社がどんだけ収奪利益があ
ったかは想像を絶します。
 旨い汁を吸ったこのヨーロッパ・キリスト教諸国は、
 この1例の様に、あらゆる場面で利益を吸い上げていま
した。
 そして、この様な行為は、世界のあちこちで、強い立場
を利用して、弱小の国の富を吸い上げ、本国へ持ち去り、
奪い去りました。
 本来は、差別されている植民地の人たちのものを・・。
 当然、当り前のことですが、ヨーロッパ・キリスト教国
の本国は、豊かになりました。
 収奪・奪(うば)った富み・利益で肥え・太りました。
 その1例が、今・現代でも、強者の国・差別行為をした
国・収奪した国=本国のキリスト教諸国に見られる「社会
資本の充実ぶり」です。
 綺麗なのは当たり前。自分たちで稼いで作ったのではあ
りません。
 綺麗なヨーロッパ・キリスト教諸国の街などは、世界の
弱者の国から吸い上げた富で出来ている。
 キリスト教に偏するNHKは「世界遺産」という番組名
で、何度も何度も放送するが、再放送に再放送と、その放
送頻度は「ヨーロッパ・キリスト教国」に偏(かたよ)り、
番組名の「世界」を冠しているのが泣くぐらいです。
 番組名を「世界遺産」ではなく、「ヨーロッパ・キリス
ト教国遺産」としたい位です。
 そして、キリスト教会とかキリスト教関係(例えば、ま
ったく関係のないミサなど)を放送し「巧妙な伝道行為」
をしています。
 さて、飢餓の苦しさから、豊かなエジプトに逃れた「イ
スラエルの民」の話は・・、
 エジプトに逃れたパレスチナの民は、当初は寛大に受け
入れられていました。
 しかし、エジプトで、BC13世紀の頃になると、パレス
チナの民は奴隷化されて行きました。
 でも、パレスチナの民も、エジプトの宗教を信仰する様
にもなったりして、エジプトに溶け込んで生活しました。
 エジプト脱出の時に、苦しい場面で、モーゼがなじられ
たくらいでした。「こんなに苦しいならエジプトに居れば
よかった」と・・。
 それなりの安定した、満足した生活をしていました。
 パレスチナの宗教は、「律法を守る事が大切」とされ、
 「律法を守れば、神は保護してくれる」、
 しかし、「律法を守らないと、神は陰湿化し、色々な仕
打ちをする」。
 キリスト教の神は、「総べてにおいて、この発想」。
 「律法を守れば保護する」、「そうでなければ、懲らし
め・虐(いじ)め」です。
 また、この発想で、信仰していない異教徒に対しては、
キリスト教の教義である「異教徒は殺せ」の対応です。
 結局、キリスト教は、
 「キリスト教の神様、これからは、あなたの言うがまま
にします」という宗教。
 そして、キリスト教は「契約の思想が入り、介在すると
いう宗教」。
 そこには、『契約していない人は知りません』という「
限定」が厳然とある宗教。
 故に、『契約外の人も守る』という宗教では無い。
 「契約の外の人は排除する」というキリスト教の宗教思
想・理念・教義の宗教。
 「宗教教義を信仰する人の身だけを守る宗教」。
 「人類救済の宗教ではない」。
 「愛の宗教といっても、同じ宗教を信じる、同じ民族を
対象とした=我が民族の同じ宗教を信じる民だけへの愛」
となる。(隣人愛である)
 だから、異教徒の人々が、いくら苦しみに、のたうち回
っていようが、無視するという教義・考え方の宗教。
 無視するというより、「異教徒は滅っせしめよ(殺せ)」
の宗教教義なのです。
 「キリスト教の神は、信者だけの安寧(あんねい)と幸
福だけを守る」。だから・・・、
 「自分の国の兵隊が死なないためには何でもする」。
 「異教徒の命なんて意識の外」。
 「ましてや」、自国の兵の命を捨てて、異教徒の民を守
るなんて、考えられないくらいな、「あり得ない事」。
 「甘い考え・期待は捨てよ」。
 「自分の事は自分で」。
 キリスト教の教義は、その様に、教徒へ、幼い時から、
 この様な話を教え、聞かせ、育って来た、
 洗脳されて来た。
 過去の歴史は、この事例で満ちています。
 北アメリカのインディアンの方々、
 南アメリカや中米などのインディオの方々、
 オーストラリアのアボリリジニの方々、
 アフリカ大陸の方々などなどなどなど・・。
 好きなまでに、ここまでかというところまで、
 際限なく
 蹂躙されています。
 時の流れは、今も、その中にある。
 (題:時の流れはその中にある)完。
.
 (参考)し‐ほう【至宝】 この上なく大切な宝。
 (参考)あく‐らつ【悪辣】 [名・形動]情け容赦もなく、
たちが悪いこと。あくどいこと。また、そのさま。
 (参考)あん‐ねい【安寧】 無事でやすらかなこと。特に、
世の中が穏やかで安定していること。
.     
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2013年8月11日日曜日

イエスに会ったことがない人・・そして、そのもがきが・・

 題:イエスに会ったことがない人・・そして、そのもがきが・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 (「マルコによる福音書」6・7~13)に、
 イエスがする「病気癒し」が、奇蹟的業(きせきてき、わざ)
と言われているが、イエスだけが独占する業(わざ)ではなく、
皆がする業(わざ)の様に書かれている。
 そして、「悔い改め」の宣教をしたとあるが、
 「宣教」の内容が、言葉で相変わらずはっきりと示されては
いない。
 内容のない、内容不明の話・聖書記述となっている。
 聖書は何時もこのような話の展開。
 肝心要(かんじんかなめ)の役に立つ話が抜け落ちている。
 また、マタイによる福音書のこの部分の並行記事部分の、
 (「マタイによる福音書」10・5~15)には、「天の国が近
づいた」とだけは言ったようだ・・が、これはもう、遠の昔
「洗礼者ヨハネ」が言ったこと。
 洗礼者ヨハネの言葉の「受け売り」だけになっている。
 また、「死者を生き返らせる」のも弟子が出来たりして、イ
エスだけが出来るということではない様な事。
 宣教内容はないし、また、他人の受け売りだし、「病気癒し」
や「死者の生き返らせ」は弟子たちの皆が出来てしまうという
「どこでも、だれでも」という嘘っぽい話となっている。
 そして、おかしいところは、その理由として「働くものが食
べ物を受けるのは当然である」と言い、宣教意識がまったく欠
落している。
 「食べ物を貰(もら)いたいからやっている」という感じで
ある。
 そして、「町や村に入ったら、そこでふさわしい人は誰かを
調べよ」と言い、「受け入れない者たち」へ報復をするように
と説く。
 それも、「裁(さば)きの日のソドムとかゴモラの故事」を
持ち出して、おどろおどろしく、ねっちりと陰湿に語(かた)
る。精神衛生に良くない。
 さらに、(「ルカによる福音書」9・1~6、10・1~12)の
並行記事になると、12人派遣が、72人に増え、どちらの人数が
正しいのかが不明。
 または、12人と72人の二重の伝承という問題となっているの
か、色々と不定に考えられるあてにならない状況。
 この適当状態は、伝承の確度が疑われるからである。
 伝承は、「告げられた通りに受け取らなければならない」。
 そうでなければ、「伝承の意義が崩れる」。
 「伝承が崩れ」「伝承にならない」のである。
 「違う」とか「間違い」とかで済ませられる問題ではない。
 伝承されてない、変わったとかも含め、宗教の伝承として
根本的問題である。
 キリスト教は、この1例の様な問題が、あちこちにあり、宗
教的に確定されない、成立しない問題が多く孕(はら)んでい
る。
 この様な文を毎日読んで糧となるか?という事である。
 (「ガラテア」1・6~9)に、
 「違った福音」は「呪(のろ)われる」と記されている。
 そういう意味で、今、パウロが宗教企画した「パウロ・キリ
スト教」であるが、
 このパウロが、あってはならない嘘を言っている。
 「福音の伝承」において、あってはならない嘘なのである。
 パウロは、「イエスに会った事がない人なのである」。
 しかし、(「使徒言行録」9・1~9、22・6~11)で、
 パウロは、「サウロ」と名のっていた頃、
 ダマスコへ行く時、
 イエスに直接会ったことがあると嘘をついている。
 キリスト教会は、この問題をもみ消し、かつ、権威を得たい
と、恥の上塗り的な嘘をつく。
 イエスが、ペトロに「あなたが地上でつなぐことは、天上で
もつながれる。あなたが地上で解くことは、天でも解かれる」
(「マタイによる福音書」16・19)と言い、
 さらに、ペトロは「神の代理人」だとした。
 そしてまた、「キリストの代理人」だと嘘の極地をつく。
 そして、これが、「継承されていく」。(デッチアゲの継承)
 しかし、嘘をついたのが、後(うし)ろめたいのか、
 気になった頃に、教皇は神であり嘘・偽(いつわ)りが一切
ないという「教皇無謬説」という人を馬鹿にした説・教理を制
定する。
 神は嘘をつかない。その神になってしまった。
 キリスト教の悪いところは、この様な、筋の通らない、不合
理な教えさえも、さも正しい様に教徒・民をゴマカシ、思わせ
るところである。
 その不合理な嘘行為を正しいことの様に錯覚させるところに
ある。
 過去が事実なら、「歴史的事実の継承」として堂々としてい
られるし、生き生きとした信仰としていられるわけだ。
 しかし、後ろめたいキリスト教は、嘘を糊塗(こと、嘘の上
にまた嘘を塗る)する歴史を刻む。
 そして、さらに、キリスト教は、「聖霊が来臨」の話を持ち
出し・追加し、過去の嘘のしがらみから逃れようと、
 似たような『もがき』を繰り返す。
 聖霊は便利な『グッズ(道具)』。あちこちで多用された。
 聖霊自体が得体のしれないものなので、あちこちで便利に使
うことが出来た。
 (「ヨハネによる福音書」3・8)も、図(はか)らずも言う、
 聖霊は「思いのまま吹く」と。
 あてにならないものなのだ。確かさはない。
 救いを得るという、肝心な信仰の中心が不確かに揺れるキリ
スト教なのである。
 そして、カール・バルトは、キリスト教のカトリックも、プ
ロテスタントも異端で駄目だと言う。
 カール・バルトの言葉:
 「プロテスタントはちゃちな異端であり、カトリックは壮大
な異端である」・・と。
 どっちみち、どちらも異端で駄目なのだと言っている。
 そして、C・G・ユングは報告する。
  多くの患者を診察して、
 「一番に神経症になっているのが『ユダヤ人』で、次が『プ
ロテスタント』で、次が『カトリック教徒』」だと、
 みんな病気と報告している。
 そして、キリスト教は、信仰の不確かさをカバーしようと
「告解」などの、さも威厳のありそうなサクラメント(秘跡)
を作り、その信仰の不確かさを紛(まぎ)らわしている。
 内実はない。儀式だけ。
 プロテスタントは、それらの儀式が馬鹿馬鹿しいのか?すべ
てを、取っ払って、一切無しにしている・・が、病人が多い。
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2013年8月9日金曜日

そしてまた、嘘をついた事例が不幸を・・。

 題:そしてまた、嘘をついた事例が不幸を・・。
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の十字軍も、
 キリスト教の酷(ひど)い嘘宣伝で、
 皆様は間違った印象・記憶をキリスト教にさせられています。
 キリスト教は、次の様に言った。
 「セルジュク・トルコが、聖地エルサレムへのキリスト教徒
の巡礼を迫害している」・・と。
 しかし、事実は違った。
 研究が進んで来た、今・現在、研究の結果では、まったくの
キリスト教の作り話で、嘘と分かった。
 当時のキリスト教の教皇や聖職者たちが、自分たちだけの利
益を目的に、事を大げさに作り上げた話だった。
 この事で、なんと多くの人たちが死に、
 また、なんと多くの人たちが、人生を狂わされたかである。
 まったく『罪作りなキリスト教』である。
 「神、それを欲し給う」とキリスト教聖職者たちは煽(あお)
った。
 民を死地へ赴(おもむ)かせた。
 イスラム教側にとっては、このキリスト教の攻撃は、一方的
なキリスト教の攻撃となり、
 イスラム教とキリスト教との無益な戦いが始まった。
 イスラム教側は、キリスト教側の攻撃の目的が分からない状
態であった。
 しかし、「ジハード(聖戦)」として戦った。
 キリスト教の教皇の無益な欲望に酔った、ゴマスリ聖職者た
ちの「無益な戦争」は、200年も続いた(1096から1291年)。
 結果は、キリスト教側の目的は失敗に終わった。
 同じキリスト教である「キリスト教正教会」を攻撃するとか
滅茶苦茶だった。
 エルサレムの目的地に行ったのは1回だけのテイタラク。
 十字軍の行軍する道は、略奪の強盗軍団だった。
 しかし、最大の不幸は、この事件を切っ掛けに、キリスト教
側とイスラム教側が憎み合う状態になってしまった事だった。
 この様な状況を作った長い年月の無益さを起こしたキリスト
教の罪は重い。
 イスラム教側は、キリスト教軍を「十字軍」と呼ばずに、た
だ、「フランク人」と呼んだ。
 そして、更に不幸な事は、この十字軍の無益な攻撃は、攻撃
目的の分からないイスラム教側に「ジハード(聖戦)」を持っ
たスンニー派主義が生まれてしまった事だった。
 訳の分からないキリスト教側からの、何度も何度も繰り返さ
れる攻撃。
 イスラム教側の戦闘的な不寛容な派の誕生となった。
 それまでは、イスラム教は寛容さがあった。
 また、当時は、イスラム教側の方が学問的に、また、技術的
に進んでいた。
 キリスト教側は、「ガラス工芸技術」とか「砂糖生産技術」
とか医学などの知識を得た。
 なのに、キリスト教は、まったく逆のことを、得意のプロパ
ガンダ(嘘宣伝)で、
 イスラム教側は、野蛮で、無知・劣っていると嘘をついた。
 そしてまた、この様な、キリスト教が嘘をついた事例が、後
年まで、後々まで続く不幸を生んでいるということが分かった。
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まず、嘘は言わないこと・・。

 題:まず、嘘は言わないこと・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イスラム教は一神教。
 それを誠実に守っている宗教である。
 故に、その一神の神は、「アッラー」だけである。
 キリスト教の様な、「神になった」、または、「神になりそ
うな神」が、過去も今も、いっぱいいる宗教とは違う。
 神になってしまった神は、「三位一体という形で一神だ」と
しているが・・。問題は解決していない。
 教皇、自らが神にしたいものが、今・現在も存在していると
いう状態。
 そのイスラム教の一神の神・アッラーに、「息子などあるも
のか」の立場で、「イーサー(イエス)」が、「神の子」であ
る訳がないの立場である。
 そしてまた、イスラム教は説く、神は預言者を世に遣わし、
イエスも預言者として遣わされたが、最終段階に最も優れた「
ムハンマド」が遣わされた・・と。
 イエスは、預言者として古く、劣っている・・と。
 それ以後、預言者は出現しない・・と、コーランは説く。
 だから、十字架に架け、死刑にしたと説く。
 それに対し、キリスト教は、嘘をついてイスラム教を攻撃す
る。
 キリスト教の得意なプロパガンダ(嘘宣伝)である。
 キリスト教は、あちこちを像で飾る(マリア像などがいっぱ
い)の偶像崇拝宗教なのに、
 イスラム教は、しっかり一神教を守っているのに、
 キリスト教は、得意なその嘘で、
 「イスラム教は偶像崇拝宗教だ」と言う。
 また、キリスト教は、「イスラム教は多神教だ」と、また嘘
を言う。
 そして、「ムハンマドは狂信者だ」とも言う。
 さらに、「『コーラン』は、ムハンマドが捏造(ねつぞう)
したものだ」と。
 キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)に精を出す。
 まったく、逆の言葉を返したい。
 キリスト教は、荒れ方が酷(ひど)い宗教で、荒れたキリス
ト教が「よく言うよ」という状態。デマ宗教=キリスト教なの
である。
 昔から、今も、この性格は変わっていない。
 まず、キリスト教は、嘘は言わないこと・・。
.
 (参考)『コーラン』は、天使=ガブリエルを通じて、預言
者=ムハンマドに啓示された、神=アッラーの言葉を集めたも
の。
 啓示が下されたのは、610年から、632年にムハンマドが死ぬ
までの22年間であった。
 (参考)イスラム教徒にとってムハンマド(マホメット)は、
預言者であり完全な人間である。
 『コーラン』は繰り返し、ムハンマドを、「私は使徒として
の一個の人間以外の者(ではない)」(17章93節)。
 「この男は、昔の警告者と同じ警告者だぞ」(53章56節)と
言っている。
 彼は理想的なイスラム教徒であり、信徒の神であるが、しか
し、「人間」以外の何ものでもなく、絶対に神格化されては
ならない存在であった。
 ムハンマドを神格化すれば、アッラーの超越性が制限され、
イスラム教が成立しなくなるからである。
 (キリスト教は、安易にイエスを人間以外のものと神格化し、
神の超越性を制限し傷付けている)。
 (参考)イスラム教は・・、イスラム教の聖典(キターブ)
・イスラム教の聖典はもちろん『コーラン』だが、しかし、
 『コーラン』だけが聖典ではない。
 ここに言う『キターブ』とは、神が天使を通じて人類に下し
た啓示の書の事で、全体で140あるとされている。
 そのうち最も神聖なものは、モーゼに下された5書(「創世記
」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)、
 ダビデに下された「詩篇」、
 イエスに下された「福音書」、
 そして、ムハンマドに下された『コーラン』である。
 しかし、『コーラン』以前の現実の諸聖典は歪曲されており、
神の啓示を正しく伝えないので、神は最後にムハンマドを通し
て、『コーラン』という正しい、完全な啓示を下された。
 『コーラン』が並ぶものなき聖典・・と説く。
 (参考)キリスト教の「天国」は、イスラム教では「楽園」
と呼ぶ。    
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