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2016年1月23日土曜日

(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月5日(3月13日)神仏分離(神仏判然令)(~1868
 年12月1日)
  新政府が、太政官布告で「神仏判然令」を出す。
  政府の政策的意図による神仏分離令・排仏毀釈により
 神仏混淆がなくなる。
  神道振興で、諸社が格式をそなえ、神社と仏寺の習合
 が禁じられる。
  多くの仏寺が、神社として存続するが、廃滅を余儀な
 くされた寺もある。
  廃寺改称が30か寺にのぼる。順次移り変わる。
  ローマ法王が、日本の神道は良いが、仏教は駄目と言
 った。
  キリスト教の偏するNHKはその為、この明治の神仏
 分離令的な行為を現代でもしている。
  仏教を蔑視し、無視するNHKとなっている。
  明治の廃仏毀釈も酷かったが、今のNHKもひどい。
  神道の国教化の方針を採用し、神仏習合を排した。
  神道の神に仏具を供えること、また、「御神体」を仏
 像にする事を禁止し、
  神社に奉仕していた僧侶に還俗を命じた。
  これをきっかけに、全国各地で廃仏毀釈の運動が起き
 た。
  各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
  神官や国学者が煽動した。
  西洋は、良いのだとか、西洋に追い付けの盲目の意思
 も働いた。
  尚、この様な破壊の例は、キリスト教宣教師が、民衆
 を扇動して行なった例がある。
  この時は、神社や仏閣のみさかいが無かった。
  豊臣秀吉から「何故、穏便にできないのか」とたしな
 められた位だった。
1868年4月7日(3月15日)川路聖謨(かわじとしあきら、幕
 臣)が没。
  川路聖謨が、この日、江戸城開城を悲観し、自邸でピ
 ストル自殺をした。
  河村修就と同様に幕府の外交官として、開国に向けて
 力を惜しまなかった人物の自害であった。
  徳川将軍家への忠誠を精神の背骨におき、海外事情に
 通じ開明性をもち続けた人だった。
  「天つ神に 背くもよかり 蕨摘み 飢えし昔の 人
 をおもへば」。
1868年4月7日(3月15日)有栖川宮熾仁親王が、筑前、津和
 野両藩の兵を率いて京都を出発した。
1868年4月、勝海舟、江戸城地引渡しを談ず
  勝海舟、池上に行き、先鋒総督府に江戸城地引渡しの
 ことを談ず(氷川清話)
1868年4月、陛下に御拝謁・・、
  大久保は、行幸の行在所の大阪本願寺別院で天皇陛下
 に拝謁した。
1868年4月12日(3月20日)徳川家処分に関し、三職会議(
 三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、
 広沢正臣ら)
1868年4月12日、秋山真之(あきやまさねゆき、海軍中将)
 が愛媛県に誕生(1868年~1918年)
  日露戦争(1904年)で東郷司令長官の参謀。
  戦略家として知られた。
  「天気晴朗なれども波高し」などの戦報の文章は有名。
  1897年にアメリカに留学し、翌年・1898年にアメリカ
 =スペイン戦争観戦のためアメリカ運送船『セグランサ』
 号に乗組んでいる。
1868年4月(3月)徳川家事務を田安邸に移す(氷川清話)
1868年4月(3月)各藩に貢使を命ず(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)明治天皇が、親征と大坂行幸の
 ため、京都を出発。閏4月8日京都に還幸。
  天皇大阪に行幸(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)英軍艦で将軍を亡命・・、
  1968年3月21日と27日の両日の「海舟日記」には、
  「英吉利人来訪、我が心理を話す、彼、善(よし)と
 称す」とか、「英公使パークス氏並海軍総督キップル氏
 を訪ふ、
  此程之趣意を内話す、英人大に感ず」と書き留めてあ
 る。
  これは、パークスが、海舟の立場に同情して、海舟に
 協力することを約束したのであり、
  横浜にある英軍艦アイロンヂック号の艦長キップルに
 紹介し、その艦の出発を一か月延期して、品川に留めて
 おこうと言ったのであった。
  その意味は、もし西郷との談判が不調に終わって、戦
 争となったら、慶喜を坊主にして法衣を着せて、浜御殿
 から小舟に乗せてアイロンヂック号に運んで、そのまま
 イギリスに亡命させようという計画であった(氷川清話)
  そして、また・・、氷川清話
  勝海舟、英公使パークス氏を訪い、英軍艦の艦長キッ
 プル氏を招き、厚意を謝し、密事を談じ此の艦を1ヶ月
 滞船させることを約束。これは海舟の深思遠慮の所であ
 る(氷川清話)
1868年4月、軍艦4隻朝廷に納む。その余4隻徳川に賜る
 (氷川清話)
1868年4月、勝海舟、狙撃される・・、
  勝海舟、半蔵門外で官兵に狙撃され落馬し死を免れる
 (氷川清話)
  慶応4年4月末に、官兵3、4人が小銃を以って俺を
 狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚いて、後ろ足で立ち上が
 ったものだから、俺はたまらず、あおむけざまに落馬し
 て、路上の石に後脳を強く打って、一時気絶した。
  けれども暫くすると、自然に生き返って、辺りを見回
 したら、誰も人はおらず、馬は平気で道端の草を食って
 いた。
  官兵は、銃丸が当たったものと心得て立ち去ったので
 あろう(氷川清話)
1868年4月16日(3月24日)パリにて、初めて邦字新聞が、
 発行された(石版刷「世の噂」)
1868年4月16日(3月24日)「九州鎮撫長崎総督府」が、九
 州の34藩の全てを管轄することになった。
1868年4月18日(3月26日)天皇陛下が、軍艦を観閲された。
  日本最初の観艦式が行われた。
  朝廷は、2月6日に、海陸軍務総督の名で7藩(鹿児島、
 山口、土佐、佐賀、久留米、福岡、広島)から各軍艦と
 汽船1~3隻を徴発して集め、この機に在大阪の軍艦を一
 同に会わせて、3月26日に、天保山沖で天皇の親閲を行な
 う事を決めた。
1868年4月24日(4月2日)勝海舟らに、江戸の取締りを命ず。
 (4月29日説あり)
1868年4月24日(4月2日)ストーンウォール号(甲鉄艦)が、
 横浜に入港した。
  (官軍の海軍先鋒の大原俊実が、これを抑留した)
  ストーンウオール号(甲鉄艦)は旧名で、東艦(あず
 まかん、1872年12月7日に改名)と言った。
  この艦の艦歴は、1867年に幕府がアメリカに買取を約
 束したが、1868年に戊辰戦争が勃発し、幕府が崩壊する
 と、新政府側で買い取りたいと言い出した。
  旧幕府は、これに反発。
  横浜に至ったアメリカは、戦いの決着がつくまで売ら
 ないとした。
1868年4月、大原侍従・・、
  勝海舟が、横浜に出張し、大原侍従の旅館へ参謁(さ
 んえつ、参上して目上の人や尊貴な人に会うこと)、公
 の厚意を謝し、
  且つ、主家の至誠、又、臣節(しんせつ、臣下として
 守るべき節操)の重きを述ぶ(氷川清話)
  大原侍従は大原俊実のことで・・、
  佐賀藩の海軍奉行の島義勇は、この年3月(1868年4月)
 に、官軍の海軍編成を命じられている。
  そして、この月末に、彼(島義勇)は、勝海舟に面会
 し、勝を新政府側に帰順させようとした。
  海舟日誌に、以下の記述がある・・、
  「海軍先鋒・大原俊実、佐賀藩士・島団右衛門義勇を
 して旧幕府陸軍総裁・勝義邦に説き、旧幕府の軍艦を納
 れて帰順せしむ、義邦、之を辞す」と。
  官軍、もしくは、佐賀藩主は、、徳川海軍をどうにか
 せよと命じたのだろう、そして、官軍の大原俊実と佐賀
 藩士・島団右衛門義勇が動いた。
1868年4月25日(4月3日)近藤勇・・、
  近藤勇が、下総流山にて、官軍に抗して虜となった。
1868年4月25日(4月3日)新聞の発刊・・、
  福地源一郎が、江潮新聞を発刊した。
1868年4月25日(4月3日)慶応義塾・・、
  福沢諭吉が、運営する英学塾を芝新銭座に移し、「慶
 應義塾」と改称した。(閏4月説あり)
  尚、1871年に、三田へ移転している。
  慶応大学のホームページには・・、
  「4月 鉄砲洲から新銭座に移り、時の年号(9月改元)
 に因んで慶應義塾と名づける。
   同月 長女里が生まれる。
  5月15日 上野彰義隊の戦の砲声を耳にしながらウェー
 ランド経済書の講義をする。
  8月ごろ、幕臣をやめて帰農。
  この年、明治新政府よりたびたび出仕を命ぜられたが、
 固辞する」・・とある。
  新銭座移転後は、もっぱら民間で活発な著作活動を行
 なった・・ともある。
  「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」など
 は、その代表作であり、
  その中で、近代文明を紹介するとともに、門閥制度に
 対する徹底的な憎悪を吐露し、官尊民卑を激しく攻撃し、
 儒教に関わる実学を主張した。
  「独立自尊」の4字に集約される国民の創出に努め、
 政府及び民衆に比類ない影響と勇気を与えた。
  一方、「演説」を創始し、明六社に参加し、さらに、
 家族道徳の革新には終生関心を持ち続けた。
  しかし、自由民権運動が起こると批判的となり、国民
 主義に移行した。
  日本の偉大な教育家であり、思想家。
  福沢諭吉は、その著「文明論の概略」で説いたものは、
 西洋文明を見習えとは言ったが、福沢諭吉の主張すると
 ころ、説くところを突き詰めれば、西欧起源の近代科学
 技術であった。
  その思想や宗教とは違う。
  西洋文明を無批判に取り入れる、まだ、何も知らなか
 った明治初期において、福沢は、冷静にものを見分けて
 いた。
  しかし、この明治初期に、福沢の様に、ものがよく見
 分けられないでキリスト教に入って行った日本人が多く
 居た。
1868年4月26日(4月4日)江戸開城の勅使が参向した。
  勅使(ちょくし、勅旨を伝える使者)が下向。
   西郷は、勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、
 旧暦4月4日には、大総督府と徳川宗家との間で最終合意
 に達し、
  東海道先鋒総督・橋本実梁、副総督・柳原前光、参謀・
 西郷らが、兵を率いて江戸城へ入城した。
  橋本らは、大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶
 頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等
 を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
  そして、旧暦4月9日(1968年5月1日)には、静寛院宮
 が清水邸に、
  旧暦4月10日(5月2日)には天璋院が一橋邸に退去した。
  旧暦4月11日(5月3日)には、慶喜は、謹慎所の寛永寺
 から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大
 総督府が接収した。
  それより前、旧暦4月8日(4月30日)に東征大総督熾仁
 親王は駿府を発し、旧暦4月21日(5月13日)に、江戸城
 へ入城した。
  ここに、江戸城は、正式に大総督府の管下に入り、江
 戸城明け渡しが完了した。
  また京都では、旧暦4月9日(5月1日)に、明治天皇が、
 紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を
 平定したことを報告された。
..
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2016年1月21日木曜日

(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年4月6日(3月14日)翌日の会談・・江戸開城談判
  再度、翌日に、西郷隆盛と勝海舟との会談が行われた。
  幕府全権の陸軍総裁の勝安房(海舟)と、新政府軍参
 謀の西郷隆盛の和平交渉が行なわれた。
  幕府側は、大久保一翁(利通)や山岡鉄太郎(鉄舟)
 、東征軍側は、村田新八、桐野利秋らが同席した。
  交渉は、江戸高輪の薩摩藩・江戸藩邸だった。
  前日に続いての、この会談で、江戸城を開城し、新政
 府軍に明け渡されることになった。
  新政府軍による江戸城総攻撃は、4月7日(旧暦3月15日)
 と、この会談の日の翌日と予定されていたが、勝の説得
 に西郷が応じた。
  江戸が戦火に巻き込まれずに済んだ。
  この後、5月3日(旧暦4月11日)に、江戸城が無血開城
 された。
  真の「名誉革命」だった(イギリスの名誉革命は偽り)。
  城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれた。
  徳川慶喜は、謹慎所の上野寛永寺から、水戸へ。
1868年4月6日(3月14日)品川談判2、
  勝海舟は、この日の事を書いた・・、
  「翌日、すなわち14日に、また、品川へ行って、西郷
 と談判したところが、
  西郷が言うには、「委細承知した。しかし乍ら、これ
 は拙者の一存にも計らい難いから、今より総督府へ出掛
 けて相談した上で、なにぶんのご返答をいたそう。
  ・・が、それまでのところ、ともかくも、明日の進撃
 だけは、中止させておきましょう」と言って、
  そばにいた桐野や村田に、進撃中止の命令を伝えたま
 ま、後は、この事について何も言わず、
  昔話などして、従容(しょうよう、ゆったりと落ち着
 いているさま)として、大事の前に横たわるを知らない
 ありさまには、俺もほとほと感心した。
  この時の、談判の詳しい事は、いつか話した通りだが、
 それから、西郷に別れて、帰りかけたのに、この頃、江
 戸の物騒なことといったら、なかなか話にもならないほ
 どで、
  どこからともなく、鉄砲玉が、始終、頭の上をかすめ
 て通るので、俺も、こんな中を、馬に乗って行くのは険
 呑(けんのん、危険な感じがするさま)だと思ったから、
 馬をば別当に引かせて、俺は、後からとぼとぼ歩いて行
 った。
  そして、ようやく城門まで帰ると、大久保一翁をはじ
 めとして、皆々が、俺のことを気遣って、そこまで迎え
 に出ておったが、
  俺の顔を見るとすぐに、「まずまず無事に帰ったのは
 めでたいが、談判の模様はどうであったか」と尋ねるか
 ら、
  その顛末(てんまつ)を話して聞かせたところが、
  皆も大そう喜んで、
  「今し方まで、城中から四方の模様を眺望していたの
 に、初めは、官軍が緒方から繰り込んでくるから、これ
 は、必定、明日、進撃するつもりだろうと気遣っていた
 が、
  先刻からは、また、反対にどんどん繰り出して行くよ
 うなので、どうしたのかと不審に思っていたのに、
  君のお話によれば、西郷が進撃中止の命令を発した訳
 と知れた」と言うので、
  俺は、この瞬間の西郷の働きが行き渡っているのに、
 実際、感服した。
  談判が済んでから、例え、歩いてとは言うものの、城
 まで帰るには、時間は幾らもかからないが、
  その短い間に、号令が、ちゃんと諸方へ行き渡って、
 一度、繰り込んだ兵隊を。また、後ろへ引き戻すという
 働きを見ては、西郷はなかなか凡の男でない、といよい
 よ感心した。
  ひっきょう、江戸百万の人民が命も助かり、家も焼か
 れないで、今日の様に繁昌しているのは、みんな、西郷
 が「諾(よし)」と言ってくれたおかげだ。
  俺は、始終、この事を思っている(氷川清話)
  勝海舟、再度、同所で西郷と会談、徳川恭順の旨を伝
 える。
  彼、よく情実を察し、明日の進撃を中止す(氷川清話)
  14・15の両日、薩摩屋敷で大総督府参謀・西郷隆盛と、旧
 幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が行なわれた。(無血開城
 で交渉成立)。
1868年4月、海舟の後日談・・、
  海舟の「江戸城無血開城」の策が受け入れられなかっ
 た場合の・・次なる策の「江戸の町の焦土作戦」・・、
  そして、そのために用意した品々が・・、
  無血開城策が受け入れられたので、無用の長物となっ
 て・・品川の沖に捨てる事になり、
  その事を行なったが・・、余りに怪しい行為だったの
 で、大いに疑われた・・という、幸い、笑い話になった
 が、
  そこまで考えていた海舟を、結果として、この用意が
 無駄に終わって良かったのだが・・、
  人は、その愚を、海舟に感謝しつつ苦笑し、笑った。
  しかし、海舟に言わせれば・・、
  「予も亦甚だ愚拙(ぐせつ、愚かでつたない者、男性
 が自分をへりくだっていう語)を知る。
  然りといへども、若しかくの如くならざりせば、14、
 15両日の談、予が精神をして活発ならしめず、又、貫徹
 せざるものあり」。
  つまり、外交談判というものは、「気迫」である。
  いくら正理正論を述べても、人はその論に聞かず、そ
 の人に聞くものである。
  その気迫の充実、その気合いの鋭さによって、同じこ
 とを言っていても、通る時と通らない時とある。
  背景に力があり、自信がなければ、どんな立派なこと
 を言ってみても、それは「口舌の徒(こうぜつのと、言
 葉は達者であるが実行力の伴わない人を軽蔑していう言
 葉)」にすぎない。
  相手に見透かされてしまう。
  だから一見無駄なようであるが、それだけの用意、手
 配というものは無駄でないのである。
  西郷を押し切るだけの迫力があるかないのかが問題だ
 ったのである(氷川清話)
1868年4月6日(3月14日)五箇条の御誓文
  (民主主義は、日本自らのもの、既に持っていたもの、
 欧米から得たものではない)
  氷川清話:五箇条の御誓文が発す。
  明治天皇が、南殿に渡御し、公卿諸卿を率いて、天地
 神祇を祭り、五箇条の御誓文を下す。
  明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を
 標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。
  慶応4年1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事
 之体大意」五箇条を起案し、
  次いで、土佐藩出身の制度取調参与・福岡孝弟が、修
 正し、そのまま放置されていた。
  それを、同年3月に入って、長州藩出身の参与・木戸孝
 允が加筆し、同じく、参与の東久世通禧を通じて、議定
 兼副総裁の岩倉具視に提出した。
  昭和21年の天皇陛下の人間宣言において、御誓文が引
 用されているが、
  天皇陛下が示されたお考えは、「これまでも皇室が決
 して独裁的なものでなかったこと示すために・・」と、
 明治天皇の五箇条の御誓文を加えられた。
  また、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召し
 である・・そうして、五箇条御誓文を発して、それが、
 基となって明治憲法が出来たので、民主主義というもの
 は決して輸入物ではないということを示す必要が大いに
 あったと思います」と。(1977年8月23日、記者会見)
  「五箇条の御誓文」の、まず、最初に・・
  一、広く会議を興し万機公論に決すべし・・とある、
  これこそ・・民主主義である。
  第二次世界大戦のとき、日本は、民主主義を欠いてい
 たから侵略戦争を起こすに至ったと、アメリカは繰り返
 し、繰り返し・・言ったが、・・
  言いがかりだ。
  アメリカは、五箇条の御誓文などの日本の歴史の史実
 などを知っているのだろうか?
  「我々(アメリカ)は、知っている」が、日本は、民
 主主義を知らないと言うのは・・蔑視だろう。
  アメリカにある蔑視意識・・キリスト教国にある有色
 人種に対する蔑視意識である。
  欧米の民主主義に匹敵するものは、既に、日本にもあ
 った。
  また、平等の考えについても、とうの昔からある日本
 なのだ。
  平等院に見学に来る外国人たちに、欧米列国より、と
 うの昔からあるという話にびっくりするが、佛教にある
 平等の理念が、既に、日本にあった。
  西欧の市民革命より600年以上も前に、日本には平等の
 教えがあり、根付いていた。
  平等院という建物さえある。
  この1例の様に、日本には、その様な教えの数々がある。
  逆に、欧米にある唾棄すべき奴隷という意識・観念は、
 日本には、まったくない。
  キリスト教の聖書には、キリスト教の神が率先して「
 奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫び、隣国の民を自国のた
 めにだけに利用しようと奴隷観念を教え、そして、説く。
  その様な教え・教義に感化された社会とは違う日本な
 のだ。
  アメリカの独立宣言の文を書いたジェファーソン(第
 3代大統領))は、奴隷を多く使った大きな牧場を経営す
 る牧場主で、人種差別の悪の行為をしている。
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2016年1月20日水曜日

(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年4月1日(3月9日)山岡鉄舟が、駿府城にて、西郷隆
 盛と会見した。
  (勝海舟の和平解決の書面を提示した)
  山岡、駿府で西郷に面会、総督府の御内意を齋し帰府
 す(氷川清話)
  勝安房は、慶喜の助命嘆願の下工作のため、山岡鉄太
 郎を駿府の大総督府に派遣した。
  薩人・益満(ますみつ)、休之助を連れ、勝の書状を
 携えた山岡は、するすると敵中を抜けて、3月9日、駿府
 へ到着した。
  西郷と会談し、
  (1)城の明け渡し、
  (2)城中の家臣を向島へ移す、
  (3)兵器・軍艦を渡す、
  (4)慶喜の妄動を助けた者に謝罪させる、
  (5)幕府で鎮撫できず、暴挙する者は、官軍が鎮定
    する、
 ・・と言った朝命7ヶ条が示された。
  「慶喜の備前藩のお預け」だけは君臣の情として忍び
 難いと、山岡が言うと
  西郷は「慶喜殿の事、吉之助一身が引き受け申した」
 と確約した。
1868年4月、両雄の会談のまえ・・、
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略は凄かった。
  江戸かく乱工作に功のあった相楽総三は、東征軍の先
 鋒として中山道を進んでいたが、偽官軍の汚名をかぶせ
 られた。
  そして、諏訪湖畔で処刑されてしまった。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣には耳を籍さず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府ま
 で攻め上っていた。
  その時、幕臣・山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる、勇みたつ)だけでは王
 師(おうし、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川
 もまた帝(みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
1868年4月2日(3月10日)官軍、来る
  東海道の官軍、神奈川から六郷辺りに到る。
  府下の殺気充満、
  中山道東下の土州兵、尾州邸に入る、
  駿府より上野法親王、御東帰(氷川清話)
1868年4月5日(3月13日)両雄の会談(江戸の薩摩屋敷)
  西郷隆盛と勝海舟の両雄が、江戸の薩摩屋敷で会見し
 た。
  旧暦3月9日の山岡と西郷の話し合いの結果が、勝安房
 に伝えられ、
  勝は、腹を決めて、旧暦3月13日に、芝高輪の薩摩邸で
 西郷と会見し、
  旧暦4月11日に、江戸城は、無血開城されることとなっ
 た。
  氷川清話・・では・・、
  西郷におよぶことが出来ないのは、その大胆識と大誠
 意にあるのだ。
  俺の一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。
  俺だってここに処して、多少の権謀を用いないことも
 ないが、ただ、この西郷の至誠(しせい、きわめて誠実
 なこと)は、俺をしてあい欺くことが出来なかった(氷
 川清話)
1868年4月5日(3月13日)勝・西郷会談
  江戸城総攻撃の時が迫る中で西郷(39歳)は、芝・田
 町の薩摩屋敷に勝海舟(45歳)を迎えた。
  4年前に初めて会った時、西郷は、勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として、西郷は最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手はずをすでに整えてい
 る。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏むことになる」・・と。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって幕藩体制は終焉した。
  列強の植民地化の危険も去った。
  西郷は、我が事なれりと野に下ったが、新政府は、西
 郷を迎えて、筆頭の参議に据えた。
1868年4月5日(3月13日)官軍との談判で・・、
  勝海舟は、慶応4年に、西郷との会見に臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く。
  「当日、俺は、羽織袴で馬に騎って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩邸へ出掛けた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、
 西郷は、庭の方から、古洋服に薩摩風の引っきり下駄(
 のこぎりで引いて切った下駄)をはひて、
  例の熊次郎という忠僕を従へ、
  平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、
 と挨拶しながら座敷に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思わ
 れなかった。
  さて、いよいよ談判になると、
  西郷は、俺のいふ事を一々信用してくれ、その間、一
 点の疑問も挟まなかった。
  「色々、むつかしい議論もありませうが、私が一身に
 かけて御引受けします」、
  西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財
 産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏も、その滅亡を免れたのだ」。
  この会談は、きわめてスムーズに進行したような印象
 を受けるが、
  真実そうでない。
  勝は、破談になった時の事を考えて、謀略を巡らせて
 いる。
  それは、第一に、西郷に対し、ナポレオンの教訓を教
 えている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシア軍は、
 自らモスクワに火を放ち、それによって、ナポレオンも
 敗退させたという事で、
  いざとなれば、江戸でも、それと同じ焦土作戦をやる
 と言って西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官、アーネスト・サトウを
 通じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしてい
 る。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日に、
 パークスは、東海道先鋒総督府・参謀の長州藩士・木梨
 精一郎と会談をしているが、
  パークスは、この時、
  「横浜が混乱して、貿易に支障を来すと、日本のため
 にも、不利益を生ずる事になる。
  従って、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備を当たっ
 ているから、左様ご承知おき戴きたい」・・と発言して
 いる。
  これは、官軍が、江戸に攻め入るようなら、英仏両軍
 を敵に回す事になるという脅しに他ならなかった。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷に、この
 情報はもたらされていた。
  鳥羽伏見の戦いでは、官軍の近代兵器や、整然とした
 軍律から見ても、幕府軍に、到底、勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上にある・・と、
  そして、慶喜公の安全を得たいと考えていた。
1868年4月5日(3月13日)勝海舟、高輪の薩摩藩邸で参謀・
 西郷吉之助に面会、静寛院宮進退の事を述べる(氷川清
 話)
  勝海舟は、江戸開城前の西郷隆盛との会談の際に、幕
 府に居る静寛院宮(和宮)や天璋院の存在について話を
 している。
1868年4月5日(3月13日)品川の談判、様子を伺う兵たち
  この時の談判が、まだ始まらない前から、桐野利秋な
 どという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、秘かに様子
 を伺っている。
  薩摩邸の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけ
 ている。
  その有様は、実に殺気陰々として、ものすごいほどだ
 った。
  しかるに、西郷は、泰然として、辺りの光景も眼に入
 らないものの様に、談判をし終えてから、俺を門の外ま
 で見送った。
  俺が、門を出ると、近傍の街々に屯集していた兵隊は、
 どっと一時に押し寄せて来たが、
  俺が、西郷に送られて立って居るのを見て、一同、う
 やうやしく捧げ銃(つつ)の敬礼を行なった。
  俺は、自分の胸をさして兵隊に向かい、「いずれ今、
 明日中には何とか決着いたすべし。
  決定しだいにて、あるいは足下らの銃先にかかって死
 ぬることもあろうから、よくよくこの胸を見おぼえてお
 かレよ」と、言い捨てて、西郷にいとまごいをして帰っ
 た。
  この時、俺が、ことに感心したのは、西郷が、俺に対
 して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、
  談判の時にも、始終、坐を正して、手を膝の上に乗せ、
 少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するという
 ような風が見えなかったことだ。
  その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊(かいか
 つ)で、見識ぶるなどという事はもとより、少しもなか
 った(氷川清話)
..
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2016年1月19日火曜日

(増補版)277E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年3月~1868年4月)

題*(増補版)277E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年3月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年、静寛院宮と天璋院:官軍が御配慮すべきことだった
  官軍は、鳥羽伏見の戦いに大勝した・・、
  意気盛んな官軍であった・・、
  これから江戸城攻撃に出発する・・
  この時にあたって、官軍が・・最も御配慮しなければ
 ならないこと・・は、静寛院宮と天璋院のことであった。
  静寛院宮(皇女・和宮、家茂夫人)は、公武合体論の
 盛衰の中に過ごされた。
  これを周旋し、勧めたのは岩倉具視(いわくらともみ)
 であった。
  岩倉としては、先帝・孝明天皇の霊に対しても責任を
 感じていた、
  何とかして宮を安泰に救わねばならないと思っていた。
  しかも、徳川方には、静寛院宮を擁して旗を上げると
 いう動きさえあるという情報もあった。
  また、天璋院は、13代の家定将軍の夫人であって、島
 津斉彬の妹御として関東に輿入れしていた。
  そして、その婚儀に際し、走り使いをしたのが西郷隆
 盛だった。
  それ故、西郷としては、天璋院の運命に関してが最大
 の関心事だった。
  無責任では到底いられない事だった。
  京都から勝と大久保宛に、次の様な達しが届いたのは
 1月22日(1868年2月15日)であった。
  「各通、勝安房守、大久保越中守、和宮御事、
  往年天下の為を以て御東下の処、其旨趣総て画餅と成
 り、既に先帝御遺憾の御沙汰も在らせられるの次第、
  古今に至り実以て容易ならざる形勢、万一不慮の事変
 も測り難く、今上に於ても言うべからざるの御苦慮在ら
 せられ、
  其方誠忠の義、兼て聞食され候間、暖急守衛、海陸便
 宜に従い、御帰京の処置深く頼みに思召され候旨、仰下
 され候事」。
  この達しが京都から届いたことによって、幕閣におけ
 る勝と大久保(忠寛)の立場に、微妙な変化が生じた。
  (西軍へのチャンネルを持っている・・と)(氷川清
 話)
  勝海舟、静寛院宮(和宮)御守衛、便宜御帰京の処置
 を頼む思召の旨、御所より内命を賜る(氷川清話)
1868年、慶喜は思った・・、
  勝・大久保が、京都側との有力なパイプとなりうると
 分かった時、迷っていた慶喜は、このパイプを通じて恭
 順の方針を貫くことが出来れば、何とか局面打開の道は
 あろうと思った。
  翌、慶応4年1月23日付で、勝は陸軍総裁、大久保は会
 計総裁に任ぜられた。
  陸軍総裁と言えば老中格であり、勝は若年寄格に引き
 上げられた(勝は、これをすぐ辞退した)。
  これで実質的には、勝・大久保の非常時内閣が誕生し、
 勝は、兵馬の大権を握って、徳川幕府の終戦処理の全責
 任を負う事になった(氷川清話)
1868年3月8日(2月15日)堺事件(土佐藩兵とフランス水兵
 の衝突事件、泉州事件ともいう)
  原因は、フランス人水兵が、町で狼藉をしたため、捕
 らえようとしたら、捕縛を逃れ、しかも、捕縛をしよう
 とした隊の隊旗を奪って逃走した。
  まったくフランス側が悪い事件だった。
  そして、事件処理が横暴であった。
  初め、堺の湾内に入って来たフランス軍艦が、湾内を
 無断で測量を始めた。
  この間に、上陸したフランス士官ら数十名が、市内で
 遊びまわり、どんちゃん騒ぎをしていた。
  その行為が、あまりにひどかったのだろう、夕刻にな
 って、そのあまりの酷さを、住民は、苦情として役所に
 届けた。
  役人は、艦に帰るようにとを論示(教え諭す)したが、
 言う事を聞かなかった。
  日本側は、やむを得ず、捕縛しようとした。
  フランス水兵は、土佐藩の隊旗を奪い、逃げた。
  土佐藩は、仕方なく発砲。
  銃撃戦となった。
  フランス水兵側に、射殺者も出て、また、酔っての足
 なのだろう海に落ち・・、
  酔いなのだろう自力で這い上がれず、水死者も出た。
  フランス側は、日本という国内法を無視して銃撃して
 いる、しかし、この後に、この行為については、まった
 く問題にされないで、
  日本側だけの射殺行為が問題にされた。
  また、これは交戦である、互いに撃っている。
  これに対し、フランスは、何もしないのに突如銃撃を
 受けたと主張した。
  死亡したフランス水兵は11名。
  列強のいつもの通りの強硬な日本政府に対する抗議・
 主張・圧力が始まった。
  結局、日本側の謝罪となった(韓国の慰安婦の問題の
 様に・・謝るべきところがないのに謝罪する日本が、こ
 の頃からあった)。
  駐日フランス公使ロッシュの5つの要求を、明治政府
 は受諾させられた。
  フランス水兵の死者数と同じ11名の土佐藩士の切腹が
 行なわれた。
  また、土佐藩主の山内豊範の謝罪もなされ、
  何と、明治天皇からの謝意も行われた。
  そして、賠償金の15万ドルも支払わされ・・、
  まったく、腹の立つ事件だった。
  尚、水兵の埋葬時にフランス公使のロッシュは、激烈
 な復讐を誓う弔文を読んだ・・「とことん復讐する」と。
  まったく、「目には目を」のキリスト教教義の教える
 ところを行なった。
1868年3月8日(2月15日)兵隊の脱走
  氷川清話:慶応4年2月15日に、赤阪屯所(とんしょ)
 の兵隊が、甲州に逃げたのを、八王子まで追って、
  新宿の宿屋まで率いて帰って、
  そこで説論を加えている間に、脱走の張本たる伍長の
 某は、とても志を達せられぬと覚悟したと見えて、
  突如、反対派の伍長某を刺して、すぐその場で自殺し
 てしまった。
  これがため、俺は(海舟〉殺されもしないですんだ。
1868年3月16日(2月23日)旧幕臣も彰義隊を組織し、上野
 に籠った。
  渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)らの旧幕臣が、
 彰義隊を結成して、上野に籠った。
  この成一郎は、この後、振武軍を作って飯能で官軍と
 戦い、また、北海道の箱館・五稜郭にも行き、新政府軍
 と戦った。
  明治4年に大蔵省に入省し製糸法の調査研究にヨーロッ
 パ留学し、明治7年になって、渋沢商店を開き、廻米問屋、
 生糸売込問屋を営み、東京株式取引所の理事長も務めた。
1868年3月16日(2月23日) 勝海舟が、陸軍総裁(後に軍事
 総裁)に任命され、
  幕府全権として、新政府軍との講和を目指した。
1868年3月16日(2月23日)新政府が、京都で機関紙『太政
 官日誌(だじょうかんにっし)』を創刊した。
  官報の先駆となった。
  この日、明治新政府が、太政官総裁局日誌司に編集さ
 せ、京都の御用書物師・村上勘兵衛に命じて発行させた。
1868年3月17日(2月24日)柳川春三(やながわしゅんさん)
 らによって、佐幕派の最初の機関新聞となった中外新聞
 が発刊された。
  5月の彰義隊(しょうぎたい)の戦いに際して、『別段中
 外新聞』を発行した、
  これは、新聞号外の元祖といえる。
  しかし、官軍が、佐幕派新聞に対し厳しい許可制を
 敷いたので、6月8日の第45号で廃刊となった。
1868年3月18日(2月25日)勝海舟、京都に使いに行くの内
 命あり、陸軍総裁罷免を乞う。
  同日、免ぜられ軍事取扱を命ぜられる(氷川清話)
  この日に、勝海舟は、陸軍取扱という職に異動された
 が、会計総裁となった一翁らと、朝廷の交渉に向かうこ
 とになった。
  そして、官軍が駿府城にまで迫ると、早期の停戦と、
 江戸城の無血開城を主張して、ここに歴史的な和平交渉
 が始まった。
1868年3月21日(2月28日)徳川慶喜親征の詔(氷川清話)
 (2月3日説あり)
  朕夙に天位を紹き今日一新の運に膺り文武一途公議を
 親裁す國威の立不立蒼生の安不安は 朕か天職を盡不盡
 に有れは日夜不安寝食甚心思を労す 朕不肖と雖も 列
 聖の餘業 先帝の遣意を継述し内は列藩百姓を撫安し外
 は國威を海外に耀さん事を欲す然るに徳川慶喜不軌を謀
 り天下解体遂及騒擾萬民塗炭の苦に陥んとす故 朕不得
 止断然親征の議を決せり且巳に布告せし通り外國交際も
 有之上は将来の處置最重大に付天下萬姓の為に於ては萬
 里の波濤を凌き身を以て難苦に當り誓て國威を海外に振
 張し 祖宗 先帝の神霊に對んと欲す汝列藩 朕か不逮
 を佐け同心協力各其分を盡し奮て國家の為に努力せよ。
1868年3月22日(2月29日)外国の報道
  この日の「ル・タン」には、香港のイギリス紙からの
 転載として、
  「日本では大君が、大名軍に完敗を喫し、江戸へ逃れ
 た由。
  内乱のため、貿易は麻痺。
  帝(みかど)は、外国公使たちに諸条約を尊重すると
 の覚書を送った」と報じた。
1868年3月23日(2月30日)パークス襲撃事件
  英国公使パークスが、京都で攘夷党の壮士数名に襲わ
 れるが、後藤象二郎らに救われた(陰暦30日)
  イギリス公使パークス一行は、明治天皇に謁見するた
 め宿舎の知恩院を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃
 された。
  すぐさま、護衛の中井弘蔵と後藤象二郎が反撃し、犯
 人の一人朱雀操を斬殺した。
  もう一人の犯人である三枝蓊も、他の警護兵に重傷を
 負わされ、逃走しようとした所を捕縛され、襲撃は失敗
 に終わった。
  三枝は、同年3月4日に斬首された。
1868年3月25日(3月2日)勝海舟が、薩摩藩・南部弥八郎、
 肥後七左衛門、益満休之助、冬より拘留、今般申旨あり、
 許可を得、右3名本日より勝邸に預かる(氷川清話)
1868年3月28日(3月5日)勝海舟が、山岡鉄舟(山岡鉄太郎)
 に会う。
  勝海舟、初めて山岡鉄太郎に会う。
  駿府滞在中の西郷参謀に一書を寄す。
  山岡が持参す。益満が同行する(氷川清話)
  この時、勝海舟は、次なる策も考えていた・・
  西郷との談判が不調に終わって、どうしても戦争とな
 った時の策として、勝海舟の用意したことは3つあった。
  1つは、慶喜の亡命策である。
  第2は、焦土戦術で、
  江戸を焼き払ってしまう策である。
  これは、ナポレオン戦争に学んでいる、侵攻されたロ
 シアの策である。
  ナポレオンは、モスコーを陥落させるために苦しめら
 れている。
  勝も、あらかじめ、都下の無頼の徒を、とび職や、火
 消組の親分、そして、博徒の親方、運送の親方、非人の
 頭など、主だったもの35,6名を組織して、合図があった
 ら直ちに動けるようにしてあった。
  将軍・慶喜の奥方にお咲という女性が居たが、この女
 性の父親が、浅草の新門辰五郎という江戸の町火消のボ
 スで、人物も立派で、江戸のそういう連中から尊敬され
 ていた。
  新門の親分が、大の慶喜ファンであるから、この親分
 の「つて」で他の親分にも渡りを付け、海舟は、4つの手
 籠に乗って、一々、それらの頭の家へあいさつ回りをし
 て手を打った。
  何しろ安房守様が直々に頼みに来たのであるから、彼
 らは感激した。
  それぞれが莫大な金ももらっていた。
  これが、江戸の治安を維持するにも役立ち、無警察状
 態になった市中を取りまとめる働きをした。
  そして、いざとなれば直ちにゲリラ活動に移って、一
 斉に火を放ち、薩長の錦切れと見れば襲撃するという段
 取りだった。
  第3には、江戸の市民の生命財産を出来るだけ安全に
 守り、その逃げ道を考えて、船で千葉・神奈川の沿岸地
 方へ退去させる策である。
  信田歌之助・成川禎三郎・伊志田某に命じて、秘かに
 房総の海岸にある大小の船という船はことごとく借り上
 げ、これを江戸の川々に導き、小舟から大舟へと被災者
 を運んで逃がす寸法である。
  これらの準備のため、会計総裁の大久保忠寛から莫大
 費用を出させた。
  また、この時に、用意した火付けの道具類なども、後
 で、品川の海へ捨てるのに苦労した上、そのことで大い
 に官軍の疑惑も受けた。
1868年4月1日(3月9日)江戸城の無血開城のいきさつ
  俺は、この罪のない江戸市民の百万の生霊をいかにし
 ようかという事に、一番苦心したのだが、
  もはやこうなっては仕方がない。
  ただ至誠(しせい、極めて誠実なこと、まごころ)を
 もって利害を官軍に説くばかりだ。
  官軍が、もしそれを聞いてくれねば、それは官軍が悪
 いので、俺の方には、少しも曲がったところがないのだ
 から、その場合には、華々しく最後の一戦をやるばかり
 だと、こう決心した。
  それで、山岡鉄太郎が静岡へ行って、西郷に会うとい
 うから、俺は、一通の手紙を預けて西郷へ送った。
  山岡と会ったのは、この時が初めてだった。
  それも、大久保一翁などが、山岡は、俺を殺す考えだ
 から用心せよと言って、ちょっとも会わせなかったのだ
 が、
  この時の面会は、その後、十数年間、莫逆(ばくぎゃ
 く、ばくげき、心に逆らうことなし、非常に親しい間柄)
 の交わりを結ぶもとになった。
  さて、山岡に預けた手紙で、先ず、俺の精神を西郷へ
 通じておいて、それから、彼が品川に来るのを待った、
  さらに手紙をやって、今日の場合、決して兄弟(けい
 てい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐべき時でないことを論
 じたところが、向こうから会いたいといってきた。
  そこで、いよいよ官軍と談判を開くことになったが、
 最初に、西郷と会合したのは、ちょうど3月の13日(1868
 年4月5日)で、この日は、何も他の事は言わずに、ただ
 和宮(皇妹、将軍・家茂夫人)の事について、一言、言
 ったばかりだ。
  全体、和宮の事については、かねて京都から、俺の所
 へ勅使が下って、「宮もよんどころない事情で、関東へ
 御降嫁になったところへ、はからずも今度の事が起こっ
 たについては、陛下もすこぶる寝襟(しんきん)を悩ま
 して居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の
 御身の上に万一の事のないようにせよ」とのことであっ
 た。
  それ故、俺も、最初にこのことを話したのだ。
  「和宮の事は、定めて貴君もご承知であろうが、拙者
 も一度お引き受け申した上は、決して別条のある様な事
 は致さぬ。
  皇女一人を人質に取り奉るというごとき卑劣な根性は
 微塵(みじん)も御座らぬ。
  この段は何とぞご安心下されい。
  その他のお話はいずれ明日罷り出て、ゆるゆるいたそ
 うから、それまでに貴方も篤と御勘考あれ」と言い捨て
 て、その日はすぐ帰宅した。
..
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2016年1月18日月曜日

(増補版)276E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年3月)

題:(増補版)276E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年2月、勝海舟、越前・肥後両侯に一書を呈し外交の要
 を述べ、反省を求む(氷川清話)
1868年2月、洋銀1で金3歩に換えることを布告す(氷川清話)
  日米和親条約の通貨取り決めで、自国貨幣と外国貨幣
 の自由な交換を認めさせられたのは、外国貨幣の自国内
 通用を公然と認めたことになって、
  我が国の通貨主権の喪失となり、不平等条約の一面で
 あった。
  メキシコが、銀産出が世界一で多く、国際的な決済通
 貨となっていた。
  米ドル銀貨もこのメキシコ銀の洋銀であった。
  この様な洋銀(0.866オンス、銀含有量90%内外)と、
 我が国の貨幣(一分銀など)との換算率が問題だった。
  日米和親条約締結の当初は、米ドルの1ドル=銭1貫200
 文としていた。
  その後、着任したハリスは、アメリカが不利だと主張
 し、アメリカ有利に変えさせられた。
  この様な変遷の中にある貨幣主権だった。
1868年2月18日(1月25日) パークスが、戊辰戦争に対する
 英国の局外中立を宣言した。
  これは、2月14日(1月21日)の新政府の要請を受けた
 形で行われた。
  これは、諸外国が、かつて条約を締結した政府として
 の徳川家と、新政府が交戦状態になっていると確認させ
 た事となった。
  他国もこれに追従した(米、仏、蘭、普、伊の5か国が
 局外中立を宣言した)。
1868年2月20日(1月27日)倒幕の官軍が、菊花章の旗幕を
 用いた。
1868年2月25日(2月3日)「徳川慶喜親征の詔」を発した。
  明治天皇は、二条城太政官に行幸し、倒幕の為の「徳
 川慶喜親征の詔」を発布した。
  朝廷が、幕府討伐、東征の大号令を発した。
  有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が、
 慶喜追討の旨を洛中洛外に公布した。
  諸藩に勤王を誓わせ、征東軍の陣容を整えた。
  自身は、親征大総督として、十余藩を率い、3月15日を
 江戸総攻撃の日と目し、東海道を江戸に進んだ。
  徳川慶喜親征の詔::
  朕夙に天位を紹き今日一新の運に膺り文武一途公議を
 親裁す國威の立不立蒼生の安不安は 朕か天職を盡不盡
 に有れは日夜不安寝食甚心思を労す 朕不肖と雖も 列
 聖の餘業 先帝の遣意を継述し内は列藩百姓を撫安し外
 は國威を海外に耀さん事を欲す然るに徳川慶喜不軌を謀
 り天下解体遂及騒擾萬民塗炭の苦に陥んとす故 朕不得
 止断然親征の議を決せり且巳に布告せし通り外國交際も
 有之上は将来の處置最重大に付天下萬姓の為に於ては萬
 里の波濤を凌き身を以て難苦に當り誓て國威を海外に振
 張し 祖宗 先帝の神霊に對んと欲す汝列藩 朕か不逮
 を佐け同心協力各其分を盡し奮て國家の為に努力せよ
  (氷川清話):関東追討使宣下る。慶喜、大阪城を退
 き江戸城に帰る。
1868年、各国公使を参朝させる(氷川清話)
  参朝(さんちょう):朝廷に出仕すること。参内(さ
 んだい)
1868年2月末~3月初旬、幕府軍の殺気・・充満
  2月初旬(1868年2月末~3月初旬)より、幕府の兵隊の
 殺気が充満。
  脱走をはかるもの四方に起こる。
  ために、勝海舟、東西に奔走、説諭鎮撫に忙殺される。
  ある夕方、銃丸雨射にあう。
  従卒2名倒れる(氷川清話)
  この事について・・、
  慶応4年、幕府の兵隊は、およそ8000人もあって、それ
 が機会さえあれば、どこかへ脱走して、事を挙げようと
 するので、
  俺も、その説諭にはなかなか骨が折れた。
  何でも2月であったが、3番町に兵隊が2大隊、およそ
 1000人ばかりあるのを、1大隊は、どうかこうか説諭して
 静まらせたけれど、
  もう1大隊の方は、まだ、その暇がないうちに、200人
 ばかりは、5日に脱走するし、
  残り300人ばかりは、7日の夜、にわかに塀を越えて大
 路へ出て、むやみに鉄砲を放って乱暴をするので、士官
 も手のつけようがなく困っていた。
  そこで、俺は、先に説諭した1大隊をも土手ぎわへ整列
 させて、「もうこうなったは致し方がないから、貴様た
 ちの中にも俺の説諭が分からない者があるなら、この際、
 勝手に逃げろ」と命令した。
  その間に、かの塀を越えた300人は、どんどん九段坂を
 下りて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしていら
 れない、
  50人ばかり、闇に乗じて後ろの方から俺に向かって発
 砲した。
  すると、かの脱走兵の中にも踏みとどまって、俺の提
 灯を目がけて一緒に射撃するので、俺の前に立って居た
 従卒二人は、急に、胸を貫かれて倒れた。
  この二人は、いずれも勇気のある男だから、始終俺の
 側に置いた者だ。
  従卒は倒れる、提灯は消える、
  付近は真っ暗になったものだから、俺は幸いにちょっ
 とも負傷はしなかったが、
  兵隊は残らず逃げてしまった。
  今の土手際へ整列していた1000人も、勢い留まるわけ
 にはいかないから、これも千住の方へ逃げてしまった。
  この時、死んだ者は、兵卒がわずかに4人で、傷を負っ
 たものは6,7人に過ぎなかった(氷川清話)
1868年2月25日(2月3日)新政府が、官制を改め、三職八局
 の制とした。
  慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号
 令が出されると、依然として強力な政治体制を維持して
 いた江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。
  そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるもの
 として、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公
 卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、
 参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職が任
 命された。
  慶応4年(明治元年)1月には、この下に神祇・内国・
 外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七
 科とし、当面の政務に当たることになった。
  翌2月には、科を局として総裁局を設置し、三職八局と
 した。
  総裁局には副総裁を置き、議定の岩倉具視と三条実美
 をこれに任命して、熾仁親王を補佐することとなった。
1868年2月、渡仏した徳川昭武らの苦労
  徳川昭武(あきたけ)らが、1867年2月に、使節団を率
 いて渡仏したが、
  この使節団には、フランスから金を借りるという役目
 もあった。
  しかし、慶応4年1月(1868年2月)、昭武の兄である将
 軍・徳川慶喜が、大政奉還を行なったことを知り、
  使節団の立場も微妙なものとなった。
  慶応4年3月(1868年4月)鳥羽・伏見の戦いの報が、フ
 ランスの新聞に掲載された。
  随行していた栗本安芸守らは帰国し、昭武らの7名は残
 った。
  ほどなく、明治新政府から帰国要請が届くが、
  慶応4年4月(1868年5月)に、慶喜から、このまま滞在
 し勉学する様にと、手紙が送られて来ていた。
  しかし、1868年8月に至り、新政府より帰国命令書が届
 いた。
  そして、ついに帰国する事となった。
  この様な経緯から、フランス政府は、欧州に5年間留学
 の予定であった徳川昭武や、他の留学生の指導などにト
 ラブルが発生した。
  これは、在日しているアーネスト・サトウらが、薩摩
 寄りのため、
  「日本は一種の連邦国家であり、幕府は全権を有して
 いない」などとの情報も、もたらしてもいたからだった。
  この様な事から、フランス政府も無視できず、結果的
 に小栗忠順が成約したフランスからの600万ドル借款が、
 取り消されてしまった。
  このあたりの事について、勝海舟は書いている・・、
  慶喜様の時になっては、とうとう、幕府も往生して、
 はるばるフランスまで、金を借りに行くことになった。
  使者は、あの向山黄村(むこうやまこうそん、徳川昭
 武の随行員)で、
  随行員は、田辺太一などの連中であった。
  ところがかえって、フランス自身があのような革命騒
 ぎになったものだから、
  他国へ金を貸すどころの話でない。
  そこで、向山らは、仕方がないから、オランダまで廻
 ってきたが、さてそれから日本に帰る旅費が無い。
  それは、最初、向山らは、フランスに着きさえすれば、
 金は確かに借りられるものと、あまり大丈夫に当て込ん
 だから、
  行く時に、帰国の旅費を持たなかったのだ。
  しかし、まあ、やっとのことで、オランダで旅費だけ
 を工面して、ようやく帰ったが、ずいぶん辛かったであ
 ろうよ(氷川清話)
1868年3月1日(2月8日)歌舞伎ブーム
  戊辰戦争の頃の治安の悪さ、不景気をよそに一時、花
 が咲いたように「田之助ブーム」で沸き立った。
  それは慶応3年の9月に、脱疽のために片足を失った美
 貌の名女形・三代目・沢村田之助が戻って来たからであ
 った。
  2月8日が初日だった。
1868年3月2日(2月9日)有栖川宮熾仁親王を、東征大総督
 に、嘉彰親王を海軍総督に定めた。
  鳥羽・伏見の戦いにおいて設置された征討大将軍の職
 が廃止された後、
  慶応4年(1868年)2月9日に、新政府は、東征大総督府
 を設置し、新政府の総裁に任命されていた有栖川宮熾仁
 親王を、総裁在任のまま、東征大総督に任命し、
  先行して設置されていた東海道、東山道、北陸道の鎮
 撫使を、改めて先鋒総督兼鎮撫使として、東征大総督府
 の指揮下に置いた。
1868年3月5日(2月12日)徳川慶喜が、江戸城を出て、上野
 の東叡山寛永寺に入り、謹慎の意を表した。
  慶喜、東叡山大慈院に入り謹慎す(氷川清話)
  [慶喜、上野寛永寺へ向かい謹慎へ]
  朝六つ、慶喜は上野寛永寺大慈院に向かった。
  あくまで恭順と進言したのは勝安房らであった。
  慶喜を護衛した精鋭隊長・高橋伊勢守(泥舟)も同じ
 考えであった。
  上野に入ったのは、そこが徳川家の菩提寺であり、住
 職を輪王寺宮こと一品宮公現法親王が勤めていた。
  慶喜は、本坊の輪王寺宮に謁し、京都への謝罪の周旋
 を依頼してから、その塔頭の一つ大慈院に入った。
  謹慎し、武力抵抗のない事を素手の慶喜は示そうとし
 た。
1868年3月5日(2月12日)、その日の事・・、
  1月16日(1868年2月9日)に、江戸に帰った近藤勇と土
 方歳三の両名は、佐倉藩江戸留守居役・依田七郎に江戸
 城に召し出されて面談した。
  そして、鳥羽伏見の戦いの状況について説明した。
  幕府軍の装備が遅れていることを進言した。
  銃と大砲が無ければ戦いになりませぬ、剣と槍では戦
 は不可能だと・・、
  そして、再び、2月12日(1868年3月5日)に、近藤勇は、
 江戸城に召し出され、慶喜の護衛を命ぜられた。
  「新選組に、上野寛永寺に謹慎中の慶喜公の警護を任
 せたい」と、・・
  しかし、この日、雑司ヶ谷茗荷屋(ぞうしがや、みょ
 うがや)に秘かに集まったものが居た。
  その数・17名・・後に、彰義隊となって行く。
  その会合召集の書状は「橋府随従之有志」の名で出さ
 れている。
  慶喜の大政奉還を「公明至誠の御英断」と讃え、それ
 なのに追討令が下ったことを「切歯に堪ゆべからず候」
 という。
  「君恥らるれば臣死するの時」、いよいよ官軍が東下
 するにあたり、鴻恩に報いるため百事相談したい。
  これは、慶喜の出身である一橋家に仕える者達の回状
 であった。
  起草者は本多敏三郎。
  後半は伴門五郎という。
1868年3月10日(2月17日)彰義隊の結成会合(2)
  彰義隊の前身の集まり(3月5日)は、17名で、これで
 は人数が少ないという事で、改めてこの日・1868年3月10
 日、四ッ谷鮫ヶ橋円応寺に集まった。
  さらに3月14日にもあつっまり、円応寺に集まった人数
 は67人と、人数は増えて行った。
1868年3月16日(2月23日)彰義隊の結成会合(3)
  彰義隊の前身の集まりは、会合を重ねるうちに人数も
 増えて行ったが、この日・3月16日には、浅草本願寺に場
 所を移した時は130名になっていた。
  そして、彰義隊と名を付けた。
  そして、「同盟哀訴申合書」を旧幕府に差し出した。
  幕府の政治に温かさを感じた人たちの多かったことを
 これは示していた。
  そして、この書は、慶喜の恭順に同意しつつも、君側
 の奸を除くという表現や、同盟決死といった不穏な表現
 もあって、旧幕府側はこの上申を拒否した。
  しかし、この集まりの噂を聴いて本願寺に馳せ参ずる
 ものは多かった。
  まったく名が示すように「義」を「彰(しょう、あら
 わす)」、義をあらわす無欲の人達の隊だった。
  日本人の誰もが持つ徳性をあらわす隊だった。
  その勢力は日毎に増して、平和開城派の勝安房らは、
 これを憂慮した。
  西郷が送り込んでいた輩などの行動などもあって、ち
 ょうど、江戸市中の治安も悪化していて、白昼から盗賊
 が横行していた。
  むしろ、彰義隊を使って、これを治めさせれば暴発も
 すまい・・と、市中警護を申付けた。
  つまり、幕府の正規軍となった。
  彰義隊の300余人は、喜んで、丸提灯に朱を塗っている
 類は「彰」の字を、あるいは「義」の一字を表して、日
 夜、市中を回った。
  江戸市民は、彰義隊を「徳」とし、ますます隊士は増
 加した。
  真実の市民革命・名誉革命の様相だった(イギリスの
 偽の名誉革命ではない)。
  人数がますます集まり、東本願寺では手狭となった。
  ついに、恭順中の慶喜公を守護せんと、上野東叡山に
 屯集した。
  上野に引き入れずばなるまいとしたのは輪王寺宮側近
 の執刀覚王院義観であった。
  しかし、この様な武力集団が上野に立てこもって困っ
 たのは謹慎中の慶喜と勝安房らであった。
..
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2016年1月17日日曜日

(増補版)275E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年2月)

題:(増補版)275E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年2月3日(慶応4年1月10日)徳川慶喜の官位剥奪
  徳川慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松
 平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27名
 の官位が剥奪され、京都藩邸など領地も没収という処断
 が下された。
1868年2月3日(1月10日)大君の名称を天皇に変える旨、条
 約国に示す(氷川清話)
1868年2月4日(1月11日)新政府が、諸藩に対して兵を上京
 させるように命じた。
1868年2月4日(1月11日)慶喜ら、品川到着、幕府内騒然
  慶応4年1月11日に、慶喜らが、伏見鳥羽の戦いに敗れ、
 軍艦で品川に帰った。
  幕閣では、連日、議論百出、てんやわんやの騒動であ
 った。
  会議をリードしていたのは小栗上野介・小野友五郎ら
 の経済閣僚だった。
  フランスの援助によって断乎一戦を交えようという主
 戦論派であった。
  勝・大久保の恭順論は意気地なし、腰抜けの議論と見
 られていた。
  慶喜自身は、中間にあった。
  勝・大久保が、京都から「其の方、誠忠の義、兼て聞
 食(きこしめす、聞くの敬語)され候」と呼びかけられ
 ていて、この事で、京都側との有力なパイプとなりうる
 と分かった時、迷っていた慶喜の決心はついた。
  このパイプを通じて恭順の方針を貫くことが出来れば、
 何とか局面打開の道はあろうという、先の光が見えて来
 た。
  慶応4年1月23日付で、勝は陸軍総裁、大久保は会計総
 裁に任ぜられ、小栗一派の主戦派は追放される事になっ
 た。
  (幕臣の日記):今夜、品川御着船。此程日々風烈。
 昨日、浦賀御一泊。
1868年2月4日(1月11日)神戸事件(明治最初の外交問題)
  神戸の三宮神社前で、備前藩(現・岡山県)兵が、隊
 列を横切ったアメリカ・イギリス・フランスの水兵らを
 切り捨てた(無礼討で負傷させた)。
  銃撃戦になり、また、居留地予定の地を検分中の欧米
 諸国公使らにも銃撃を加えた。
  神戸港に停泊する日本船舶が拿捕されたり、神戸を占
 拠されるなどした。
  明治政府の初の外交問題となった。
  決着は、備前藩の隊の責任者の滝善三郎が切腹し、ま
 た、備前藩の家老の謹慎処分などで一応の決着を見た。
  しかし、又も、日本側が悪いとなった。
  武家諸法度にも記されている「供割(ともわり)」と
 呼ばれる最高に無礼な行為となっている。
  日本の法や慣習(無礼行為)などを知らない外国側が
 悪い訳なのだが?
1868年2月5日(1月12日)前将軍・徳川慶喜が、品川から
 江戸に入った(江戸帰還)。
  (前将軍・徳川慶喜様)、浜御殿へ御上陸。
  直ちに韶切りにて西丸へ還御(かんぎょ、高貴な人が
 出かけた先から帰ること)。
  「素より天朝に対し奉り他心あるにあらず、宸襟(し
 んきん、天子の心)を悩まし奉りしは恐懼(きょうく、
 おそれかしこまること)に堪へざれば、浪華城(ろうか
 じょう、大阪城)は尾張、松平に託し、謹みて東退仕る
 なり」との奏聞(そうもん、天子に申し上げること)書
 を捧げた。
  正月十二日、江戸に帰った慶喜は、一意恭順して、朝
 敵の汚名を雪ごうと努力した。
  静寛院宮(和宮)は、慶喜の衷情を知り、徳川の滅亡
 を救うべく周旋された。
  実に御一身にかえての奏請であった。
  輪王寺宮も、水戸慶篤も、田安慶頼も奔走し、小田原
 藩主以下の諸侯も、慶喜の為に、数多く上書した。
  しかし、其の効を見る前に、戦機は刻々迫って行った。
1868年2月5日(1月12日)、この日の夜、小川町伝習隊の兵
 卒が2大隊、それも乱暴をしながら逃げたのだが・・、
 (氷川清話)
1868年2月6日(1月13日)徳川慶喜が、江戸城中にて和戦
 会議(和か?戦か?)を開いた。
1868年2月8日(1月15日)明治天皇が、元服された。
1868年2月8日(1月15日) 朝廷が、東久世通禧を派遣し、
 各国外交団に対し開国和親・条約遵守を宣言し、神戸事
 件の交渉を開始した。
1868年2月8日(1月15日)王政復古の通告(2月3日説あり)
  王政復古を、外国公使に通告した。
  新政府外国事務取調掛の東久世通禧が、兵庫で、各国
 の公使と会見し、王政復古の国書を手渡した。
  「明治元年一月十日付
   日本国天皇、各国帝王及び其の臣人に告す。
  さき将軍・徳川慶喜政権を帰するを請い、制してこれ
 を允し内外政事これを親裁す。
  乃ち日く。
  従前の条約、大君の名称を用いると雖も、今より以後、
 まさに天皇の称を以て換ふべし。
  しかして各国交際の職専ら有司等に命ず。
  各国公使この旨を諒知せよ」
1868年2月8日(1月15日) 徳川慶喜が、主戦派の中心人物
 である小栗忠順を解任し、恭順の意志を表明した。
1868年2月9日(1月16日)親王、及び、大臣の席次を定めた。
1868年2月、福沢諭吉は・・、
  福沢諭吉は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪
 城を抜け出して江戸に帰還し、江戸城が上へ下への大騒
 ぎになったときに、それを見て、苦笑し、江戸で戦火が
 開かれれば自分は真っ先に逃げると公言していた。
  上野の彰義隊が攻撃を受けているときに、平然と塾生
 に経済学の勉強をさせていたのも、これも当事者でない
 からできた。
  しかし、まさに幕臣の頂点に立っていた勝はそうは行
 かない。
  勝は、実行家にならざるを得ず、しかも、矛盾した事
 でもやらざるを得なかった。
  その矛盾とは・・、近代国家を目ざしながら徳川家の
 名誉だけは守るという事であった。
  結果として、勝は、江戸城無血開城をやり遂げた。
  氷川清話に、「勝海舟、軍艦奉行より海軍奉行並命ぜ
 られる(2月10日)」とある。
1868年2月9日(1月16日) 長崎奉行・西役所が、長崎会議
 所と改められ、長崎奉行の権限が引き継がれた。
  この後、3月9日(2月16日)に至り、「長崎会議所」を
 廃止し、「長崎裁判所」が正式に発足した。
  これは、明治政府が、旧長崎奉行支配地を管轄する行
 政機関として長崎裁判所を置いたのだった。
  そして、府庁が外浦町に設置された。
  また、所内に「九州鎮撫長崎総督府」が置かれた。
  1869年(明治2年)7月28日、「長崎府」が「長崎県」
 にあらためられた。
1868年2月10日(1月17日)外国総奉行・堀直虎が、江戸城
 において、徳川慶喜に恭順を直諌し、潔く自刃した。
1868年2月10日(1月17日)勝海舟が、軍艦奉行より海軍奉
 行並を命ぜられた。
1868年2月12日(1月19日)フランス公使ロッシュが、一旦、
 江戸に戻り、江戸城に徳川慶喜を訪れ、再挙・再起を促
 すが拒否された。
  不届き至極のフランス公使ロッシュだった。
1868年2月13日(1月20日) 青松葉事件。
  尾張藩内での佐幕派弾圧事件。
  この日、尾張藩内の佐幕派の領袖と目されていた尾張
 徳川家の家老・渡辺新左衛門在綱を始め、三重臣が、名
 古屋城二丸御殿向屋敷にて斬首された。
  1月25日(1868年2月18日)までに更に十一名の尾張藩
 士が処刑された。
  なぜ起きたかの真相は不明となっている・・が、
  幕末の主な大名家は、一橋家の血統に繋がる人物が藩
 主となり、
  それに対抗しているのが、系統的には水戸の血を引く
 一橋本家という捻れ現象だった。
  尾張藩も例外ではなく、一橋系が藩主を務めていた。
  ・・が、しかし、14代・慶勝は、支藩の高須家から入
 った人物で、水戸の血縁のため、勤王の考えに近い人物
 だった。
  家臣も2派に分れて、付家老の竹越を中心にした佐幕派
 と、成瀬を中心にした勤王派で、青松葉事件というクー
 デターで、慶勝・成瀬ラインが佐幕派の粛正に成功し、
 官軍に加わった。
1868年2月14日(1月21日)新政府が、外国事務総督・東久
 世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦
 の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わな
 いよう要請した。
1868年2月14日(1月21日)薩摩藩の沖直次郎と、芸州藩の
 石津蔵六を、長崎の会議所総代として、京都にのぼらせ
 た。
  二人は、長崎奉行が脱走して空席となった後の、長崎
 の治安状況や、外交処理の経過を、中央政府に詳しく報
 告するためだった。
  また、二人は、鎮撫使(ちんぶし、諸国の治安の巡察、
 監察などを任務とした)の下向を強く要請した。
  鎮撫使は、兵力をもって治安にあたる軍政機関であっ
 て、軍政と民政の総督を兼ねていた(治安維持権力の要
 請)。
1868年2月15日(1月22日)大阪に鎮台を設置した。
1868年2月16日(1月23日)徳川慶喜が、主戦論者を排除し、
 恭順論の主唱者・勝海舟を用いた。
  勝海舟、収拾のため起用される。
  勝安房守義邦、陸軍奉行、慶応4年1月23日~4年4月(
 氷川清話)
  権力を失った幕府は、小栗忠順を罷免し、勝安房守(
 あわのかみ)を収拾のために起用した。
  勝海舟、陸軍総裁若年寄を命ぜられ若年寄は直ちに辞
 す(氷川清話)
  [勝海舟へ戦争の勧め]
  勝海舟が、陸軍総裁となって3日目、フランス陸軍教官
 シャノワンが、士官数名と共に勝に会いに来た。
  そして、戦争を勧めた。
  「吾々が、これまで教え育てた優秀な士官兵隊数百名
 は、皆、熟練した兵力である。
  今や陸軍総裁となった男が、これを率いて戦えば必ず
 勝つ。
  吾々も大いに協力しよう。・・どうかご返事を承わり
 たい」。
  勝は、困ってしまって、「明日に御返事しましょう」
 と言って帰した。
  その夜、勝は、直ちに、フランス公使ロセスを訪ね、
 幕府の方針は、恭順に決した事を言い、
  シャノワンの厚意は有り難いが、その雇いを解約した
 い、と申し入れた。
  翌日、シャノワンの館を訪ねて、同様の事を説明して、
 幕府は、決して戦わぬ方針に決めた、と告げると、
  シャノワンは不思議は面持ちで、どうしてこんなに優
 勢な兵力があるのに戦わないのか。
  戦えば必ず勝ち、東北諸藩も協力して、形勢は我に有
 利になるのに、実に惜しい。
  君自身の立場もなくなるではないか、と懇々(こんこ
 ん)と説教した。
  勝は、その親切は有り難いが、今はやむを得ない。
  たとえ自分の身がどうなろうと、それは天のみぞ知る、
 御教訓は忘れない・・と、答えて別れた。
  公使ロセスは、慶喜の所にも行って、極力抗戦を勧め
 たのである。
  しかし、勧告が聞かれないと見るや、ロセスは急いで
 帰国し、フランス軍教官たちは、この後、榎本武楊らの
 脱走兵について、東北・北海道に転戦するのである(氷
 川清話)
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2016年1月16日土曜日

(増補版)274E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年1月~1868年2月)

題:(増補版)274E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年1月~1868年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年1月21日(慶應3年12月27日)明治天皇が、最初の御
 閲兵
  明治天皇、最初の御閲兵が、この日、京都御所の建春
 門前で行われた。
  参列の光栄に浴した諸隊は、一番隊から四番隊までで、
  一番隊は、土佐藩の約40人、
  二番隊は、薩摩藩の約60人、
  三番隊に、長州藩の約400人、
  四番隊が薩摩藩のおよそ1,000人、
  総計約1,500人の勤王軍となった。
  中でも薩摩藩の兵は、他藩と趣を異にして、服装も帽
 子も揃いのイギリス式を模していた。
  そして、大太鼓、笛などの軍楽隊を先頭に、砲兵隊も
 加わり盛況に行われた。
  当時の事が、谷干城の日記には、
  「斯(か)くの如き盛大な観兵式は余未だかって見ざる
 所也」と述べている。
  時節柄、銃の発射演習は行われなかった。。
1868年1月22日(12月28日)今津藩、及び、桑名藩の佐幕党、
 および、旗本諸隊が憤怒し、徳川慶喜に迫り、挙兵を主
 張した。
1868年1月、小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣、小栗上野介)
 は、長州征伐を奇貨(きか、利用すれば思わぬ利益を得
 られそうな事柄・機会)として、
  まず、長州を倒し、次に薩州を倒して、幕府のもとに
 郡県制度を立てようと企て、
  フランス公使レオン・ロセスの紹介で、フランスから
 銀600万両と、年賦で軍艦数そうを借り受ける約束をした
 が、
  これを知っていたものは、慶喜公ほか閣老をはじめ4,
 5人に過ぎなかった。
  長州征伐が難しくなったなど、そうこうするうちに、
 慶応3年の12月(1868年1月)、フランスから破談の知ら
 せが来た。
  後でフランス公使が俺に、「小栗さんほどの人物が、
 わずか600万両くらいの金の破談で、腰を抜かすとは、さ
 ても驚き入った事だ」と言ったのを見ても、
  この時、小栗がどれほど失望したかは知れるよ。
  小栗は、わずか600万両のために徳川の天下を賭けよう
 としたのだ(氷川清話)
1868年1月23日(12月29日)岩倉具視、西郷隆盛、井上馨、
 大久保利通らが、三条実美邸にて施政を議した。
1868年1月23日(慶応3年12月29日)徳川慶喜が、兵を率い
 て京へ上ることを声明した。
  徳川慶喜が、慶応3年12月29日に、ついに、兵を率いて
 京へ上ることを声明した。
  そして、慶喜は、京都に向け進軍を開始した。
  今までの流れを顧みると・・
  慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨
 害があったが、それを抑えて、慶喜は、長州征伐につい
 ての天皇からの勅命を得た。
  しかし、薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、
 幕府軍は、連敗を喫した。
  その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大
 坂城で薨去する。
  慶喜は、朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津
 藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に
 成功した。
  家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は、
 江戸の異論を抑えて、慶喜を次期将軍に推した。
  慶喜は、これを固辞し、8月20日に、徳川宗家は相続し
 たものの将軍職就任は拒み続け、
  12月5日に、将軍宣下を受け、ようやく将軍に就任した。
  これは、言わば恩を売った形で将軍になることで、政
 治を有利に進めていく狙いがあったと言われているが、
  就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」
 説を否定する根拠もないのが実情となっている。
  この頃の慶喜は、はっきりと開国を指向するようにな
 っており、将軍職就任の受諾は、開国体制への本格的な
 移行を視野に入れたものであった。
  そして・・、
  大政奉還後の政治体制については、諸侯会議によって
 定められるはずであった・・が、
  12月、薩摩藩らは、政変により朝廷を制圧し、慶喜を
 新政府から排除した(王政復古)。
  慶喜には、辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返
 上)が命ぜられた。
  慶喜は、衝突を避けるべく会津藩・桑名藩兵とともに、
 大坂城に退去し、
  諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。
  慶喜は、越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な
 形とし、年末には、自身の議定就任(新政府への参画)
 がほぼ確定した。
  しかし、翌・慶応4年(1868年)に、薩摩藩の挑発に乗
 った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに行動を起こした。
  1867年12月(旧暦、11月)に、上京した有力大名は、
 わずかだった。
1868年1月24日(12月30日)松平慶永、成瀬正肥ら、参内し
 て徳川慶喜の復命書を上る。
  戦いを避けようとして出された復命書は・・、
  奉帰政権将軍職辞退の議被聞食候上は官位も一等を辞
 し奉り且つ政府御入費も差上度段申上候心底には候へど
 も即今手元人心居合兼痛心の訳柄も御座候に付鎮定次第
 奏願上度候間此段相含於両人可然様及執奏呉候様申聞候
 事も御座候間慶永天地へ誓つて御請合申上候間徳川内府
 内願之節御聞届被下候様奏願上候  慶 永
1868年1月26日(1月2日)松平泰直が、全軍15,000余を引率
 して進軍を開始した(鳥羽伏見の戦いの序幕)
1868年1月27日(1月3日)鳥羽・伏見の戦い起きた。
  戊辰戦争始まる。
  (1)三代目・中村仲蔵の日記・・、
  「慶喜公、会津・桑名を先手として、3000人程の少人
 数にて、上洛のところ、薩長の藩、伏見に関門と構え、
 これを拒み留む。
  慶喜公は、天朝のお召なれば、押して通らんと、人数
 を進む。
  関門より不意に大砲を放つ。
  遂に戦争となり、然るに薩長、錦の旗を押し立て、こ
 れへ砲発せしゆゑ、朝敵と口々に叫ぶ、
  ここに於いて、江戸方、敗北して、淀へ引取る」。
  薩長の官軍と会津・桑名の幕軍が衝突し、幕府軍は総
 崩れになった。
  (2)幕臣・川村修就の日記:伏見・淀・竹田街道等
 に薩摩兵より御先手之向に戦争これ有り。
  (3)前将軍先鋒隊が伏見鳥羽で薩摩・長州藩と戦う
 (氷川清話)
1868年、江戸の噂・・、
  戊辰戦争勃発の噂は、江戸に、またたくうちに広まっ
 た。
  芝居は休みとなり、開けたところで客は来ない。
  去年暮れの三田薩摩藩邸焼打ち事件以来の治安の悪化。
  それに伴う不景気だった。
1868年、江戸城中では・・、
  戊申の変の事は・・、城中は鼎(かなえ)を沸かすよ
 うだった。
  この時の幕議では、事の起こりが少々の行き違いだか
 ら、大した事にもなるまいとの説だったけれども、
  俺は、一人で、西郷めがこの機に乗じて、天兵を差し
 向けはないかと心配していたところが、やはりやって来
 たわい。・・(氷川清話)
1868年1月27日(1月3日)東郷平八郎が、海軍生活の第一歩
 を踏み出した。
1868年1月28日(1月4日) 朝廷が、仁和寺宮嘉彰親王に錦
 旗・節刀を与えた(1月3日か?)。
  薩長軍が、官軍となった。
  この年、宮さん宮さんの俗謡的な最初の軍歌とも言え
 る歌が流行した。
1868年、薩長軍が官軍になったので・・、
  御三家の筆頭の尾張藩が官軍方についた。
  そして、紀州や水戸、高松などの親藩も官軍に味方し
 た。
  鳥羽・伏見の戦いで、高松藩は幕府軍と戦闘までした。
  薩長軍のままだったら違っただろうと言われている。
1868年1月30日(1月6日)鳥羽・伏見に敗れた幕府の軍が、
 大阪へ敗走した。
  慶喜は恭順の意を示そうと大坂へ下った。
  そして、慶喜公は、大阪城をわずかな供を連れて抜け
 出し、開陽丸で海路江戸へ帰った。
  幕臣の日記:今夜、天保山沖にて開陽へ御乗船。
1868年1月30日(1月6日) 幕臣の日記:今日、浪華(大阪)
 御出帆。
1868年1月31日(1月7日)慶喜追討令
  勅して、徳川慶喜の罪を声明し、征討の大号令が下っ
 た。
  また、公卿、大名の去就を決せしむ。
  旧幕府軍、朝敵となる。
1868年2月1日(1月8日)長州藩兵、大阪城の幕軍を砲撃す。
1868年2月2日(1月9日)薩長藩の兵、備後福山城を降す。
1868年2月3日(1月10日)土佐商会、全焼
  午前2時頃、長崎の本古川町から出火し、榎津町、萬
 屋町、東浜町に延焼した。
  そして、西浜町海岸沿いの土佐商会が全焼してしまっ
 た。
  長崎に、鳥羽伏見の戦いが発生したことが伝わり、長
 崎の町には、流言飛語が乱れ飛び、市民は不安にかられ
 た。
  長崎の町から逃げ出す者もいた。
  海援隊の隊長・佐々木三四郎(土佐藩士でもある)は、
 土佐藩としても関わっていた土佐商会の事もあって、2月
 6日、薩摩藩の松方助左衛門を訪ね対策を協議した。
  勤王派の海援隊は、町の不安の状況の中で、幕府方の
 遊撃隊と一触即発の戦々恐々の状態の中にあった。
  夜、佐々木は、単身で西役所で出向いて、奉行の伊豆
 守に面会し、争いが起きない様にと説得した。
  伊豆守は「慶喜追討令」が出ている情報を入手してお
 り、九州諸藩が勤王派が多いことも承知していた。
  この後、奉行は、長崎を脱出した。
  残っていた役人は、帰順の意思を表明した。
  薩摩藩の松方は、遊撃隊へ、単身で出向き、事態を説
 明し、説得した。
  遊撃隊の幹部の白江竜吉は、松方の意を受け入れ、一
 触即発の状態は回避された。
  この様な状況で、長崎の町の人達も不安の中に居た。
  長崎は、無政府状態となっていた。
  幕府の残した金と回米は、市民へ配られた。
  配給を受けた者は、2万人以上に達した。
  また、 「旧来のわだかまりをいっさい捨て、今後ど
 んなことが起きても互いに協力し、朝廷のため鉄石の誠
 意を示す」と、18の藩が誓書に署名したりし、長崎の治
 安・秩序が回復する努力がなされた。
  市民向けに高札も立った、「流言などにまどわされず、
 一般は安心して生活するように」・・と。
..
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2016年1月15日金曜日

(増補版)273E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年11月~1868年1月)

題:(増補版)273E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年11月~1868年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年11月24日(10月29日)天皇陛下が、勅使・日野資宗
 を孝明天皇御陵に差遣、大政復古を告げしめ給う。
1867年11月、勅して総裁、議定、参与の三職を置く(氷川
 清話)
1867年11月、勝海舟が、英・仏・米の船将を同伴して、我
 が汽船で、燈台の位置検定の為、房州沿海を巡航す(氷
 川清話)
1867年12月8日(11月13日)鹿児島藩主の島津忠義(しまづ
 ただよし)が、藩兵3000名を率いて鹿児島を出発した。
  これは、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を
 容れて上洛したのだった。
  そして、後に、王政復古の大号令に貢献し、議定に任
 ぜられて小御所会議に参席した。
  時代の流れの中心に位置した。
1867年12月10日(11月15日)坂本龍馬が暗殺された。
  坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される(近江屋事件)
  竜馬、暗殺、氷川清話では・・、
  慶応三年十一月の「海舟日記」に・・、
  本月15日夜4ッ時頃、京三条通り油屋、土藩・後藤象次
 郎寓宿此頃大坂へ下り居合せず、坂本龍馬を尋ね、武士
 3・4人罷(まか)り越し、案内を請い候所、取次ぎの者、
 名札請取り、二階へ上り云々申聞る折、既に武士、後よ
 り取次の者切り掛け、口より進む者、竜馬に打掛け、そ
 の内、同所へ談話に参り居り候、同藩陸援隊頭吉田某へ
 切掛り、両人共痛手おい、竜馬は同夜息絶え、吉田は暁
 迄死きれぬ趣(注)吉田とは中岡慎太郎のことであろう)
 (氷川清話)
  惜しいかな、竜馬は11月15日、河原町通り近江屋の2階
 で暗殺された(氷川清話)
  中岡慎太郎と会談中、刺客に襲われ殺された。坂本竜
 馬ら暗殺さる(氷川清話)
  坂本竜馬が暗殺された時、一緒にいた中岡慎太郎は重
 体となった。
  竜馬は即死、ないしは、翌日未明に息絶えたが、
  慎太郎は、二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子につ
 いて詳細に語ったが、
  12月12日に死去した。享年30歳。
1867年12月12日(11月17日)中岡慎太郎絶命。
1867年12月18日(11月23日)薩摩の島津忠義が、兵を率い
 て京都に入った。
  西郷隆盛、品川弥二郎も京都に着いた。
1867年12月20日(11月25日)東北の各藩に、樺太の開拓を
 許した。
1867年12月24日(11月29日)幕府が、樺太の漁業を民間に
 奨励した。
  また、旗本大名にして同地希望者へは割与した。
1867年12月25日(11月30日)幕府が、海底電信布設を計画
 した。
1867年3月30日、アメリカが、財政難のロシアからアラスカ
 を720万ドルで購入する条約に調印した。
  1エーカー(4047平方メートル)が2セントという安さ。
  しかし、「巨大な保冷庫を買った」と非難された。
  1896年に、金鉱が発見され、資源の宝庫であることが
 分かった。
  しかし、本当の所有者は、アメリカ・インディアンの
 方々やエスキモーの方々である。
  この本当の所有者を無視した行為だった。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェ
 イ諸島を新領土の植民地として手に入れた。
1867年、カール・マルクスが資本論を書いた。
1867年、フランク・ロイド・ライト(アメリカの建築家)
 が生まれた(92歳まで生きた)
1867年、ノーベル(スウェーデン)が、ダイナマイトを発
 明した。
1868年(慶応4年)1月1日(12月7日)幕府が、兵庫(神戸)
 港を開港した。
  大坂の互市場(ごしじょう、貿易の行われる場所の意
 味)が国際的に開かれた。
  ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。
  それを祝うため、英・米・仏の艦艇17隻が集結。
  各国公使も大坂に滞在した。
1868年1月1日(12月7日)坂本龍馬や中岡慎太郎の仇を狙っ
 て新撰組が襲撃された。
1868年、横浜の人口が3万人。
  そして、すでに、横浜には、イギリス・フランス・プ
 ロシア(ドイツ)の軍隊が居た。
1868年1月2日(12月8日)、土佐藩の山内容堂が、ようやく
 入京した。
  王政復古クーデターが勃発するのは、この翌日・1868
 年1月3日だった。
1868年1月2日(12月8日)三条実美ら六卿、及び、毛利敬親
 父子の官位を復し、入京が許された。
1868年1月3日(12月9日)小御所会議
  (王政復古に関する御前会議)
1868年、勝海舟、正月、二月、二度にわたり越前家を介し
 京師参与に意見書を呈す(氷川清話)
  勝海舟、一書を三道の城主に贈る(氷川清話)
1868年1月3日(12月9日)、王政復古クーデター
  討幕派による王政復古クーデターが敢行された。
  王政維新の勅諭(氷川清話)
  王政復古の大号令・・、
  徳川慶喜の将軍職辞職を勅許し、江戸幕府を廃止した。
  禁裏の小御所で、朝議が開かれ、
  明治天皇は、大政奉還に伴う王政復古を宣した。
  西郷は、直ちに、旧幕の親藩・桑名の禁門衛兵を追っ
 て、薩摩の兵を配置につけた。
  銃剣は、内に向け、朝議に無言の圧力をかけた。
  禁裏では、引き続き、王政復古後の初めての会議が開
 かれて居た。
  西郷は、議場の外。
  大久保は、内に居るが、藩士の身分で出席し、宮中で
 は地位が低い。
  玉座近くには島津久光がいる。
  幕府は消滅しても、天皇の下に、総理が徳川慶喜で、
 副総理が島津久光と山内容堂あたりが収まると予測され
 た。
  容堂が、前将軍・慶喜を出席させないのは不都合だと
 発言した事から会議はにわかに紛糾した。
  硬骨の岩倉具視が反駁した。
  「慶喜は、速やかに官を辞し、領地を返上して、忠誠
 のあかしを示すべし」。
  大政奉還を演出した容堂は激昂した。
  「勤王の志により政権を返上した徳川殿を、更に、罰
 するとは不埒千万なり」。
  大久保は、岩倉に同調した。
  「辞官納地の命を拒めば追討もやむなし」。
  激越な発言も末席からでは効果が無かった。
  休憩の間に、使者が状況を伝えると、西郷は、事もな
 げに言った。
  「短刀一本あれば片付くことでごわす」。
  岩倉の席は容堂に近い。
  岩倉は、本気で容堂を刺す気でいた。
  議場は殺気に包まれて、討幕派の主張が容認された。
  二条城の幕臣たちに怒りが渦巻いた。
  慶喜は、暴発寸前の幕臣を鎮めて辞官納地を承諾した。
 (プレジデント平成10年7月号)
  王政復古の大号令が発せられ、追い詰められた徳川慶
 喜のいる二条城では主戦論がつのった。
  そして、一旦、大阪に下った。
1868年1月3日(12月9日)新たに総裁、議定、参与を置く
1868年1月4日(12月10日)徳川慶喜に退官納地の勅諭
1868年1月6日(12月12日)徳川慶喜の将軍職の辞職に、幕
 臣が騒然(特に会津、桑名の両藩の兵激昻する) 
1868年1月6日、徳川慶喜、二条城を退去。
  翌日、大坂城に到着。
1868年1月8日(12月14日)西郷従道、大山巌ら、三条実美
 以下の五卿を迎えるため大宰府に到着した。
18687年1月10日(12月16日)徳川慶喜が、英・米・仏らの
 六国使臣を招き、政体改革の事を告げた。
1868年1月10日、徳川慶喜、英仏米蘭伊普の6カ国公使に、
 外交権は幕府が保持していることを宣言
1868年1月13日(12月19日)三条実美ら、帰京のため大宰府
 を発った。
1868年1月14日(12月20日)江戸城二の丸が全焼した。
1868年1月16日(12月22日)、勝海舟へクーデター情報が届
 く・・、
  この時、大阪湾にある開陽丸の船長・榎本釜次郎から
 の密書が届いて、
  京都朝廷におけるクーデター、小御所会議の結果とし
 ての、倒幕密勅の動き、慶喜に辞官納地を命ずる旨の策
 謀がある旨を知らせて来た(氷川清話)
1868年1月17日(12月23日)閣老の小笠原壱岐守が、米国
 書記官・ボルトメンの願により、江戸~横浜間の鉄道敷
 設免許を与えた。
  (その後明治新政府はこの契約を認めず)
1868年1月17日、勝海舟がスパイではないかと・・、
  この時、勝海舟は、登城して海軍総裁の稲葉兵部大輔
 へ状況の重大な事を進言したが、
  稲葉兵部は、勝に向かって、「そこもとの申したつる
 所は頻る善いが、役人たちがそこもとを嫌って、薩・長
 のスパイではないかと疑っている。
  そこもとを、免職すべきだとさえ云っている。
  暫く時の至を待つがよい」。
  勝海舟は、こうまで疑われては、今更、言うことはな
 いと思った。
  そこで退職を願い出て、「憤言上書」を書いて差し出
 す。
  この書には、海舟の平常の考え方の真髄が露出してい
 る。
  署名も「海舟狂夫」とある(氷川清話)
1868年1月19日(12月25日)薩摩屋敷焼討事件 :戊辰戦争
 への流れを決定的にした事件
  庄内藩を中心とする旧幕府軍による薩摩藩邸、佐土原
 藩邸焼き討ちが起きた。
  江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が、江戸市中取締
 の庄内藩・新徴組らによって襲撃され、
  砲火により焼失した事件。
  この事件からの一連の流れが、戊辰戦争のきっかけと
 なった。
  この時期、前将軍・徳川慶喜をはじめとする旧幕府の
 幹部は、小御所会議により大坂城に詰めており、
  江戸には、市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。
  京では、朝廷が、幕府に見切りをつけて、
  そして、討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
  密勅を賜った薩摩は、すぐに行動を開始した。
  薩摩の意を受けて活動を開始したのは相楽総三であり、
 三田の薩摩藩邸を根拠地として、意思を同じくする倒幕、
 尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。
  彼らは、薩摩藩士・伊牟田尚平や益満休之助に指導を
 受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して、幕府を挑
 発した。
  その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象
 は、
 「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。
  志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。
  唐物を扱う商人。
  金蔵をもつ富商」・・の四種に及んだ。
  旧幕府も、前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に
 「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し
 捕り申すべし。
  賊が逆らいて、その手に余れば、討ち果たすも苦しか
 らず」・・と、
  厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては
 十分な取締りとならなかった。
  庄内藩は、旧幕府が上洛のため編成し、その後、警護
 に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせ
 ていた。
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2016年1月11日月曜日

(増補版)272E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年9月~1867年11月)

題:(増補版)272E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年9月~1867年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年9月22日(8月25日)土佐藩士・後藤象二郎らが、藩
 主の命により大政奉還の建策(けんさく、計画を立てる
 こと)のため、高知を発ち、上洛した。
1867年10月、お陰参り(ええじゃないか)大流行。
1867年10月1日(9月4日)幕府が、デンマークと通商条約締
 結した。
1867年10月3日(9月6日)幕府が、イタリアと通商本条約締
 結した。
1867年10月6日(9月9日)土佐藩士・後藤象二郎、福岡藤次
 (孝弟)ら、小松帯刀、西郷隆盛と会見し、幕府に対す
 る武力牽制の延期を求める(西郷隆盛訊かず)
1867年10月8日(9月11日)島津忠義(しまづただよし、薩摩
 藩主、島津久光の子)が、1000余の兵を率いて京都に入っ
 た(西郷隆盛の王政復古の大計いよいよ熟す)
1867年10月9日(9月12日)江戸~大阪間に飛脚船が開設さ
 れ、始まった。
  農民・町人も乗船を許可された。
1867年10月11日(9月14日)幕府が、江戸の市街地に3階建
 て家屋の建築を許可した。
1867年10月12日(9月15日)三代目・澤村田之助(さわむら
 たのすけ、歌舞伎役者)が、片足切断の大手術(義足を
 つけた最初の日本人)
1867年10月14日(9月17日)正岡子規、誕生。
  正岡子規が愛媛県で生まれた。
  この年には、夏目漱石・尾崎紅葉も生まれている。
1867年10月15日(9月18日)薩摩藩士・大久保利通らが、山
 口において毛利敬親父子に謁し、薩長攻守同盟を謀る。
1867年10月17日(9月20日)海援隊・坂本龍馬が、長崎を発
 して下関に向う(10月15日説あり)
  坂本龍馬が、プロシア商館からライフル小銃1300挺を
 購入し、
  土佐藩へ輸送のため芸州藩(広島藩)の震天丸で長崎
 を出帆した。
1867年10月29日(10月3日)山内豊信(容堂)、後藤象二郎、
 福岡孝親ら大政奉還建白書を、老中・板倉勝静に提出し
 た。
1867年10月30日(10月4日)土佐藩主・山内容堂が、将軍・
 徳川慶喜へ、大政奉還の建白書を提出した(10月29日説
 あり)
1867年11月1日(10月6日)大久保利通、品川弥二郎の両人
 が岩倉具視を訪ねて、「錦の御旗」作製について相談す。
1867年11月1日(10月6日)芸州藩主・浅野茂長が、藩士・
 辻将曹をして書を幕府に呈せしめ、政権変換を建言す。
1867年11月3日(10月8日)長州藩の品川弥二郎が、上京せ
 る広沢真臣と共に、薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保
 利通、芸州藩の辻将曹、植田元次郎らと共に、三藩合同
 し倒幕の事を議決する。
1867年11月4日(10月9日)薩摩、長州、芸州三藩の倒幕連
 盟成立の顛末につき、中山忠能(なかやまただやす、公
 卿、明治天皇の外祖父)が、委曲(いきょく、詳しく細
 かなこと)奏上する。
1867年11月5日(10月10日)坂本龍馬、倒幕を期し江戸に入
 る。
1867年11月7日(10月12日)将軍・徳川慶喜が、老中以下諸
 有司を召し、大政奉還の已むを得ざる旨を懇諭する。
1867年11月8日(10月13日)薩長両藩主に倒幕の蜜勅。
  討幕の密勅が薩摩・長州に下りた。
  徳川慶喜が、大政奉還を乞うた(1867年11月8日)。
  翌日、勅許。
  将軍の徳川慶喜が、政権を朝廷に返還(大政奉還)(
 1867年11月9日)した。
  江戸幕府がほろんだ。
1867年11月9日、討幕の密勅が、薩摩藩と長州藩に下った
 (現在では偽勅説が有力)
1867年11月9日(10月14日)大政奉還
  徳川慶喜が、朝廷に大政奉還した(家康以来270年の歴
 史に幕が下りた)
1867年11月9日(旧暦、10月14日)大政奉還
  江戸幕府・第15代将軍・徳川慶喜が、政権返上を明治
 天皇に上奏す(大政奉還)。
  朝廷は、これを受けて、薩長に倒幕の実行延期の沙汰
 書を下す。
  翌(1867年11月10日)に、天皇は奏上を勅許した。
  実際には、朝廷は、外交に関して、為す術は無く、
 1867年11月18日(旧暦、10月23日)に、外交については、
 引き続き、幕府が、中心となって行なうことを認める通
 知を出された。
  1867年12月14日(旧暦、11月19日)の江戸開市と、新
 潟開港の延期通告や、
  1867年12月23日(旧暦、11月28日)のロシアとの改税
 約書締結を行ったのは幕府だった。
  朝廷は、慶喜に、当分の間、引き続き庶政を委任し、
 諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため、上
 京を辞退する大名が相次いだ、
  将軍職を巡る慶喜の進退に関し、何ら、主体的な意思
 決定ができぬまま、事態は推移した。
  1867年12月(旧暦、11月中)に上京した有力大名は、
 薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみで、
  土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく1868年1月2
 日(旧暦、12月8日)であった(王政復古クーデターが勃
 発するのはその翌日・1868年1月3日である)。
  この間、土佐藩は、坂本龍馬を越前藩に派遣するなど、
 公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。
  他方、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らにの間には、
 大政奉還が、薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発
 が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。
  この時期の朝廷は、二条摂政や、賀陽宮朝彦親王(中
 川宮、維新後久邇宮)ら親幕府派の上級公家によってな
 お主催されていたのであり、
  大政奉還がなされても、この様な朝廷の下に開かれる
 新政府(公武合体政府)は、慶喜主導になることが当然
 のごとく予想された。
  薩長や、岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝
 廷内の親幕府派中心の摂政・関白・その他従来の役職を
 廃止し、体制を刷新し、朝廷の実権を掌握する必要があ
 った。
  討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉
 ら倒幕派の中下級公家と、薩長側が、慶喜のそうした狙
 いに対抗する非常手段として、画策したものである。
  密勅を受けた討幕の実行は、慶喜の速やかな大政奉還
 が朝廷に受け入れられたことにより、いったん延期とな
 ったが、
  薩摩・長州・芸州の3藩は、再び、出兵計画を練り直し、
 土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで、1868年1月3日(旧
 暦、12月9日)の王政復古へと向かっていくことになった。
1867年11月9日、大政奉還。
  江戸幕府の第15代将軍・徳川 慶喜が、政権の返上を明
 治天皇に上奏し、翌15日(旧暦)に、天皇が、これを勅
 許した。
  幕末、及び、維新の方々の優秀さは、外国勢力を引き
 入れて相戦うということが駄目な事を良く知っていた。
  それは、禁じ手だとよく知っていた。
  悲しいかな、ベトナムには、17世紀に鄭政権が、オラ
 ンダを引き入れ、
  また、阮政権が、ポルトガルを引き入れ、当時の内乱
 をいっそう複雑にしてしまった。
  日本の幕末の指導者たちは、こういう事態が起こるこ
 とを恐れて、自らの手で政権を自沈させてしまった。
1867年11月、徳川慶喜の将軍職辞職
  徳川慶喜は、薩長両藩に倒幕の密勅が下ると、山内豊
 信の意見を入れ、ただちに将軍職を辞した(大政奉還)。
  しかし、倒幕派の慶喜に対する辞官納地要求で不満が
 爆発し、鳥羽伏見の戦いとなって行く。
1867年11月10日(10月15日)朝廷の允許
  朝廷が、徳川慶喜の大政奉還に允許(いんきょ、許す
 こと、許可)す。
  将軍慶喜、大政奉還を奏す。朝廷において万機決裁の
 旨布告(氷川清話)
  朝廷から長州に対し倒幕の密勅が下った。しかしその
 日、15代・将軍・徳川慶喜は、大政奉還の上書を奉じて
 勅許された。
1867年11月10日、大政奉還・・坂本龍馬の感激
  慶応三年十月十四日、慶喜が将軍を辞し、いわゆる大
 政奉還が実現したとき、
  これを聞いた坂本龍馬の感激は大変なものであった。
  「よくも断じ賜えるものかな。この公の身辺に万一の
 事あるときは、自分は誓って一命を捧げてこれを守らん。
  天下の為に、その公正な処置に感謝せずにいられない」
 と言って、感涙にむせんだ・・という。
  「私を捨てて公につく」という出処進退に、竜馬は、
 純粋に感動できた人である(氷川清話)  
  大政奉還・・西郷・大久保・桂は、新帝の外祖父・中
 山忠能を通じて工作し、倒幕の密勅を手にした。
  同じ日に、慶喜は、大政奉還の挙に出た。
  幕府が消滅したので、密勅は宙に浮いた。
  大政奉還をしても徳川家は残る。
  竜馬が発案して、土佐藩・山内容堂が演出した。
  主導権が、土佐藩に奪われることを西郷は我慢できな
 いと思った。
1867年11月12日(10月17日)伊東玄伯(いとうげwんぱく、
 医師)が、日本人として初めて電報を打つ。
  オランダに留学中の伊藤玄伯が、一緒にヨーロッパ留
 学をしてアムステルダムに滞在していた赤松則良へ、「
 明日、そちらに着きますので宜しく」と打電した。
  1868年3月には、フランスのパリから日本に向けて、電
 報が打たれてもいる。
  これは、徳川昭武で、旅費がなくなって、電報なら早
 く用件を伝えることが出来ると聞いて、「金あらず、資
 金援助頼む」と打った。
  しかし、この時、直接、日本に打つことは出来なかっ
 たので、ロンドンに打たれ、ロンドンから大西洋を横断
 する海底ケーブルでサンフランシスコに電報が送られ、
 それを印刷して、日本へ船便で運ぶというものだった。
  日本到着まで1ヶ月以上もかかったという。
1867年11月16日(10月21日)幕府が、諸大名に総登城を命
 ず。
1867年11月19日(10月24日)徳川慶喜が、朝廷に征夷大将
 軍の辞表を提出。
   慶喜の征夷大将軍辞職の申し出に対し、朝廷は、これ
 を認めず。
1867年11月、毛利侯入京(氷川清話)
1867年11月、官位は旧のまま脱走の公卿入京(氷川清話)
1867年11月、前将軍、京都を退く(氷川清話)
  徳川慶喜は、恭順の意を示そうと大坂へ下った。
  しかし、慶喜にその気は無くても、前将軍という名か
 ら兵力が増強された。
  武器弾薬が蓄積される。
  兵糧が調達され、フランス公使が戦闘を支援すると申
 し出て来た。
  それでも、慶喜は、冷静であり続けた。
  しかし、暴発を押さえ通せる保証はない。
  大久保と慶喜との忍耐比べには限度がある。
  大久保は、西郷と相談した。
  西郷は、武力発動の決意があった。
  戦争の大義名分について、西郷に謀略があった。
  血なまぐさい京都と違って、江戸には平穏な暮らしが
 保たれていた。
  ところが、突然に無頼の徒がはびこり、火付け・押し
 込み・拐かし(かどわかし、誘拐)など、狼藉の限りを
 尽くした。
  西郷が、東国に明るい相良総三(さがらそうぞう、特
 に、特定の藩に属さない尊攘派志士)らに江戸を錯乱さ
 せたのだった。
  たまりかねた幕府は、無頼の徒が屯する薩摩藩邸に砲
 弾を撃ち込んだ。
  大阪城に居た慶喜も、幕臣の怒りを抑えようがなかっ
 た。
  倒幕派の挑発だと知りつつ、薩摩を除けと軍を発した。
  謀略は成功し、西郷は、大久保に後事(朝廷のこと)
 を託して、出陣した。
  鳥羽伏見街道を攻め上ってくる徳川の軍勢に、薩長の
 砲列が火を噴いた。
  戊辰戦争が開始された(1868年1月に開始し、1869年に
 終わった)。
  戦場には錦の御旗が翻った。
  徳川軍を怯(ひる)ませた。
  官軍と賊軍に分かれる。
  徳川軍は、総崩れになり、慶喜は、秘かに江戸に逃れ
 た。
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略はすごかった。
  江戸の攪(かく)乱工作に功のあった相良総三は、東
 征軍の先鋒として中山道を進んでいたが、
  「偽官軍だ」の汚名をかぶせられて、諏訪湖畔で処刑
 された。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣に、耳をかさず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府に
 まで攻め上っていた。
  その時、幕臣・山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる)だけでは、王師(おう
 し、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川もまた帝
 (みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
  江戸城総攻撃の時が迫る中で、西郷は、柴田町の薩摩
 屋敷に海舟を迎えた(1868年3月13日)。
  4年前に初めて会った時(1864年9月11日)、西郷は、
 勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として西郷は、最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手筈(てはず)を、すで
 に整えている。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏む(てつをふむ、前人の犯した失敗を繰り返すた
 とえ)ことになる」。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって、幕藩体制は終焉した(1868
 年4月)。
  列強の植民地化の危機も去った。
  西郷は、我がこと成れりと野に下ったが、新政府は、
 西郷を迎えて、筆頭参議に据えた(1871年)。
  しかし、破壊の時代にときめいた者は、必ずしも、新
 時代建設にも適任とはならない。
  新時代プランナーとしての精彩は欠いたが、令名(れ
 いめい、名声)は却(かえ)って輝きを増した。
  価値観の混乱から、新政府に不満を持った者が、巷(
 ちまた)に溢(あふ)れ、彼らは、西郷を慕った。
  大久保は、西郷の存在に危険を感じ、征韓論を政争の
 具にして、かつての盟友を追放した(1873年)。
  新政府の権力を掌握した大久保は、西郷を担いで暴走
 する薩摩軍団を殲滅(せんめつ)した(西南の役、1877
 年)。
  西郷は果(は)て、それから僅か8ヶ月後に、大久保
 利通も紀尾井坂の凶刃に倒れた(1878年)(参考:プレ
 ジデント平成10年7月号)
..
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2016年1月10日日曜日

(増補版)271E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年6月~1867年9月)

題:(増補版)271E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年6月~1867年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年(慶応3年)7月、勝海舟、長男・小鹿、米国留学の
 ため出発(氷川清話)
1867年7月上旬、土佐藩は、「亀山社中」を「海援隊」(隊
 長:坂本龍馬)と称し、藩の付属にした。
  ここに、坂本龍馬の海援隊長としての活躍がはじまる。
  外国を視野に入れた大きな夢がスタートした。
  しかし、竜馬の暗殺もあり、1868年(慶応4年)4月27
 日、「海援隊」は解散する。
  また、同時に、「土佐商会」も閉鎖された。
1867年7月10日(6月9日)坂本龍馬と後藤象二郎が、上洛の
 ため、長崎を出帆した(この航海の途上、坂本龍馬は、
 「船中八策」を提唱した)
1867年7月11日頃、船中八策
  坂本龍馬が、土佐藩の参政・後藤象二郎に大政奉還を
 含む船中八策を提示した。
  これには、新国家体制の基本方針が示されている。
  坂本龍馬は、いろは丸沈没事件を解決させたのち、京
 都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対し
 て大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で、長崎を
 出航し、
  この上洛中の洋上で、参政の後藤象二郎に対し、口頭
 で提示したものを、そばにいた海援隊文司の長岡謙吉が
 簡潔に書きとめ、成文化した。
  (別史料:後藤象二郎が、山内容堂から大政奉還に備
 えての上京を命じられたため・・となっている)
 一、大政奉還:天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜
     シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
 一、上下議政局:上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機
     ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
 一、有材之人物登用:有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧
     問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官
     ヲ除クベキ事。
 一、外国トノ交際:外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至
     当ノ規約ヲ立ツベキ事。
 一、無窮ノ大典(憲法)撰定:古来ノ律令ヲ折衷シ、新
     ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
 一、海軍拡張:海軍宜ク拡張スベキ事。
 一、御親兵帝都守衛:御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシム
     ベキ事。
 一、金銀物貨外国ト平等(対等条約):金銀物貨宜シク
     外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
  以上八策ハ、方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ
 徴スルニ、之ヲ捨テテ他ニ済時ノ急務アルベシ。
  苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、
 万国ト並立スルモ亦敢て難シトセズ。
  伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天
 下ト更始一新セン。
  坂本龍馬は、「このほかに策はなし」と断言した。
  これは、横井小楠の「国是七条」の思想を色濃く反映
 していた。
  この二人は、1867年7月13日(6月12日)に、兵庫に上
 陸し、1867年7月15日(6月14日)に、後藤象二郎は、京
 都に入り、夜遅くには、藩論としてまとめ上げられた。
  そして、1867年7月16日(6月15日)に、成案を得て、
 1867年10月29日(旧暦、10月3日)に、この成案を基にし
 た大政奉還の建白書が幕府に提出された。
  そして、この後、明治新政府の大方針を示す「五箇条
 の御誓文」へと繋がり、新政府樹立後の国政の指標とな
 った。
  坂本龍馬は言う・・、「船中八策」を披露した坂本龍
 馬は、今までの意見とは違うじゃないかと言われて、
  「昨日までの俺は、今日の俺じゃない」・・と、言っ
 たという。
1867年、プチャーチンとの交渉を見事に収めた川路聖謨(
 としあきら)。
  有能な武士と言われた。
1867年、坂本龍馬は・・、桂小五郎は・・、
  竜馬自身、土佐の勤王派を弾圧した仇敵の後藤象二郎
 と手を組み、亀山社中を海援隊に編成し直し、「船中八
 策」を示して、後藤に大政奉還の献策を示している。
  竜馬は、大目標の為には、仇敵とも手を結んだ。
  国元の姉の乙女から「おまえは利に眼がくらみ、後藤
 などと手を組んで、天下国家の事を忘れたか」の手紙を
 貰ってもいた。
  土佐24万石をバックに、後藤に演じてもらうためなら
 ば・・、
  「船中八策」には、幕府が政権を返上した後の、国の
 政治の在り方が、実に、具体的に述べられていた。
  竜馬の描いた新国家の青写真は、鮮明だった。
  議会制度を設け、人材を広く募り、諸外国との条約を
 改正し、新憲法を制定し、海軍を充実させ、通商貿易の
 レ-トを正して、諸外国と対等に行動できる国家をつく
 る。
  この竜馬の示した国家構想を下敷きにして、明治の指
 針「五箇条の御誓文」が作成された。
  これは、西郷や木戸(桂小五郎)にもできなかった事
 だった。
1867年7月15日(6月14日)薩長土の三藩の志士・西郷隆盛、
 大久保利通、後藤象二郎ら王政復古を議す。
1867年7月23日(6月22日)後藤象二郎・坂本龍馬ら、西郷
 隆盛・大久保利通らと会見(大政奉還の薩土盟約を結ぶ)
1867年7月26日(6月25日)土佐藩士・中岡慎太郎、坂本龍
 馬と共に岩倉具視を訪ね、王政復古を論ず。
1867年8月5日、長崎で、イギリス船のイカラス号の乗組員
 達が、日本人の歓楽街へと繰り出し、酒を飲んだ。
  イギリス人の2人が酒に酔い、道に寝込んだ。
  仲間たちは見捨てて、そのまま放置してしまった。
  この二人は、日本の侍に切り殺されて見つかった。
  不逞の輩と切り捨て御免にしたのだろうが、坂本龍馬
 の率いる海援隊がしたとの話となって行く。
  イギリスは、この土佐侍の逮捕を要求したが、日本は
 証拠がないとして拒否した。
  イギリス総領事のパークスは、アーネスト・サトウを
 団長とする代表団を派遣して調査をした・・が、立証で
 きる証拠を得る事は出来なかった。
  幕府は、長崎奉行が事件を解決できないと責任を問い、
 奉行を解任した・・しかし、イギリス側は納得しなかっ
 た。
  1868年(明治元年)の新政府に至っても、イギリスは
 犯人捜査の要求をした。
  後日談として、後に、土佐の役人が、筑前黒田藩の藩
 士(塾生)が下手人と突き止めた。
  そして、さらに後、この下手人は、事件直後、自刃し
 ていた事が判明した、
  そして、明治2年になって、筑前の仲間たちが投獄され、
 筑前藩主は蟄居し、殺された遺族に賠償金の支払いが命
 じられた。
  尚、事件直後の8月18日に、坂本龍馬ら海援隊士が、長
 崎奉行に出頭している。
  また、尚、この年に、イギリス人2名が、許可なく雲
 仙を登山し、小地獄で捕らえられ、長崎へ護送されてい
 る。
1867年8月7日(7月8日)兵庫開港のため、国産改所を京都
 及び大阪に設置して物産検査の制を定めた。
1867年8月9日(7月10日)江戸の四門、品川、千住、板橋、
 新宿の四駅廃され、江戸の出入り自由となる。
1867年8月23日(7月24日)英国公使・パークス大阪に入り
 て、老中板倉勝静らと会見する。
1867年8月26日(7月27日)徳川慶喜が、英国公使パークス
 と会見した。
  徳川慶喜以前の将軍は、老中を前面に立たせていた。
1867年8月~12月、ええじゃないか
  名古屋地方に「ええじゃないか」が起こり、各地に波
 及して行った。
  「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前
 触れだ」・・という話が広まるとともに、
  民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」
 などを連呼しながら集団で、町々を巡って熱狂的に踊っ
 た。
  平成の「ハロウィン」のようなもの。
  討幕派が、国内を混乱させるために引き起こした揺動
 作戦だったという説がある。
  平成のハロウィンは、キリスト教のお祭りで、
  「キリスト教の巧妙なる伝道行為」となっている。
  嬉々としてキリスト教徒が駆け付けている。
  日本をキリスト教化したいと、近隣アジアからも日本
 見物を兼ねて、キリスト教徒が来ている。
  一般大衆は、それに乗せられ、商店街は一時の利を求
 めて加わっている。
1867年9月8日(8月11日)幕府、従来の飼鷹を廃す。
1867年9月10日(8月13日)幕府、ベルギーと通商条約締結
1867年9月18日(8月21日)桂小五郎、坂本龍馬ら、長崎に
 おいて公儀政体を論じ、その貫徹を期す。
1867年9月、幕府の勝房州登庸は困る
  慶応三年八月(1867年9月)、土佐の佐々木高行が、
 長崎へ行った時、その旅宿に、坂本龍馬が、毎夜の様に
 やって来て、徹夜で倒幕の議論をし、泊っていった
  ある時、竜馬は言った、「今日、幕府において勝房州
 を登庸されては、吾々同志に一の城郭を築くもので、実
 に由々しき大事である。
  僕は、房州には、非常に恩顧を受けて居るから、之を
 敵とする事は出来ぬ。
  君等宜しく注意して、其間に策略を施して、彼が驥足
 (きそく、才能の優れた人、足の速い馬の意)を伸ばさ
 ぬようにして呉れ」と。
  この一言は、倒幕派の薩・長・土の志士たちが、徳川
 方における最強の相手として勝を見ていたことを物語る
 ものである(氷川清話)
1867年8月14日、原市之進(はらいちのしん)、暗殺さる
 (氷川清話)(1830年~1867年)
  水戸藩士で、藤田東湖に学び、また、昌平黌(しょう
 へいこう)に学んだ。
  一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍職につくと目付となり、
  兵庫開港をとなえ、この日に、部下の幕臣に暗殺され
 た。38歳。
1867年9月6日(8月9日)、築地ホテル着工
  築地に「築地ホテル館」と呼ばれる日本初の本格的ホ
 テルが着工された。
  これは、小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣)の発案と
 主導のもとに清水喜助(清水建設の創業者)らが建設し、
 翌年・1868年9月25日(8月10日)に完成した。
  江戸に来る外国人のための宿泊、交易場として建設さ
 れた建物で、
  江戸は開港場でなく開市場であるため、外国人が商館
 を建てることが出来ず、
  外国人旅館が建設されたのである。
  敷地は、かつての紀伊・尾張家の屋敷地だった所で、
  後に、軍艦操練所となった地である。
  建物の設計者は、アメリカ人の建築家R・P・ブリジ
 ェンスで、後に、新橋や横浜の停車場(明治5年)を設計
 した人物。
1867年秋ごろ、大阪城の皇城説
  秋ごろになると、国威をいっそう外国へ輝かすために
 は、万事不便な京都ではなく、「帝都」を大阪に移すと
 いう意見が、現実味を持って語られた。
..
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2016年1月9日土曜日

(増補版)270E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年1月~1867年6月)

題:(増補版)270E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年1月~1867年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年1月14日(慶応2年12月9日)、和宮親子内親王(かず
 のみや ちかこないしんのう)を静寛院とす。
  1861年5月18日に、皇女・和宮は、内親王宣言を受けて
 「親子(ちかこ)」の名を賜わり、諱(いみな)を親子
 内親王と改められた。
  そして、この時に、将軍・家茂の死去(1866年8月29日)
 により、剃髪(ていはつ)後の称として、静寛院宮(せい
 かんいんのみや)となられた。
  和宮は、孝明天皇の妹君。
1867年1月30日(慶応2年12月25日)、孝明天皇が、崩御さ
 れた(満35歳没)、在位21年、
  明治天皇の父・孝明天皇が崩御された。
  天皇崩御、孝明天皇と諡名す(氷川清話)
  諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主
 に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への
 評価に基づく名。
1867年、公武合体論の後退
  孝明天皇が崩御されると、公武合体論派は後退した。
1867年1月、第2次長州征伐による小倉藩と長州藩の和約が
 ようやく成立した。
1867年2月、パリ万国博覧会に参加。
1867年2月1日、後藤象二郎が、長崎の西濱町にて「土佐商
 会(長崎商会)」の業務を開始した。
  これで、土佐藩の長崎貿易が始まった。
1867年2月3日(慶応2年12月29日)、孝明天皇の大喪発せら
 れる。
1867年2月13日(慶応3年1月9日)、明治天皇御即位。
  睦仁親王(16歳)が、践祚して明治天皇となられた。
  明治天皇践祚(氷川清話)
1866年12月~ 、慶応の改革。
  ロッシュの意見を入れ、老中の総裁制度(職務明文化)
 を採用した。
1867年2月15日(慶応3年1月11日)、徳川昭武らが、パリ万
 博のため出発。
  遣欧特使・徳川昭武(とくがわあきたけ)らが、フラ
 ンスへ出発した。
  徳川民部大輔仏国に使す(氷川清話)
  使節団を率いての、約50日をかけての渡仏。
  使節団の中には、会計係として渋沢栄一、随行医とし
 て高松凌雲、通訳に山内堤雲がいた。
  ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。
  万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オラ
 ンダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴
 訪する。
  その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポ
 ルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、
 イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。
  以後は、パリにて留学生活を送る。
1867年2月27日(慶応3年1月23日)福沢諭吉が、幕府の軍艦
 受取委員に従って渡米した。
  この時に使われた船が、幕府の軍艦「富士山(ふじや
 ま丸(コロラド号の説あり)」だった。
  福沢諭吉は、江戸時代に3度も欧米に渡った稀有な日本
 人だった。
  この時は、幕府の軍艦、兵器、書籍購入のため、小野
 友三郎、福沢諭吉らがアメリカへ出発。
  この渡米において、諭吉の言動が問題となった。
  諭吉は、帰国する船中で、「幕府は潰(つぶ)す以外
 にない」と言い、これが問題となり、帰国後、謹慎を命
 じられ、アメリカで買った本は没収された。
  帰国は、同年7月28日。
  謹慎は、大政奉還によって解除された。
  (謹慎理由として、同行者の小野と揉めたからという
 説もある)。
  (また、中島三郎助の働きかけですぐ謹慎は解けたと
 いう説もある)。
1867年2月、どうだ、もう九ヶ国は手に入ったか?
  慶応三年二月、西郷隆盛が、島津久光の使者として、
 土佐に山内容堂を訪ねた時、容堂はいきなり、
 「どうだ、もう九ヶ国は手に入ったか?」と切り出して、
 西郷を驚かした。
  つまり、島津が、徳川にとって代わる運動の手始めと
 して、九州ぐらいはもうおえたかという意味だった。
  西郷もやり返して、「四国はもうお手に入りましたか
 ?」と言ったという。
  こういう話が、土佐の古老の間に伝わっている(氷川
 清話)
1867年3月、勝海舟、この月より米国海軍伝習の事を執る
 (氷川清話)
1867年3月11日~12日、徳川慶喜が、大坂城でフランス公使
 のロッシュと会見(旧暦の2月7日、2月20日にも会見)
  公には、旧暦2月6日に、ロッシュが大阪城に登城し、
 徳川慶喜が、ロッシュを大阪城に引見し、幕府改革の意
 見を聴いた・・となっているが・・、
  これは、儀礼抜きの会見で・・、老中の板倉勝静が同
 席し、
  慶喜は、ロッシュに言った、「統治の全権は、天皇で
 はなく幕府・慶喜(自分)にある」と、
  また、老中・板倉は言う、「将軍が、長州との戦争を
 継続する事を、まったく放棄し、この撤退は一時的なも
 のではない。そして、将軍家と薩摩藩は良好な関係にあ
 る」・・と、
  ロッシュは、それに答えて、慶喜に、「フランスをモ
 デルとした内閣制など国政改革を・・」と提案した。
  1867年3月26日(2月20日)にも会見し、慶喜は、この
 時、ローズ提督を紹介されている。
1867年3月19日、豊田佐吉(とよださきち)が生まれた。
  日本の偉大な発明家。
  自動織機をはじめとして、生涯で発明・特許84件、外
 国特許13件、実用新案35件に及んだ。
  トヨタ自動車などのトヨタグループの創始者。
  豊田佐吉は、遠江国、浜名湖の西にある敷知郡山口村
 (現在の静岡県湖西市)で、
  父・伊吉、母・ゑいの長男として生まれた。
  豊田家は、伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てて
 いた。
  佐吉を頭に、3男1女の子供と両親の6人が、豊田家の
 家族だった。
  豊田家は裕福ではなかったが、極貧という事でもなく、
 佐吉は幼い頃、寺子屋へ通った。
  その寺子屋が下等小学校として開設されると、佐吉は
 4年間通学し、卒業した。
  まだ、学校に行けない子供の方が多い時代だった。
  佐吉の弟たちも小学校に通った。
  そして、豊田家では一人の子供も奉公に出なかった。
  当時の山口村の中では、少し余裕のある家庭であった。
  佐吉は、小学校を卒業した後、父について大工の修業
 を始めた。
  だが18歳の頃、「教育も金もない自分は、発明で社会
 に役立とう」と決心した。
  手近な手機織機の改良を始めた。
  心優しい佐吉は、いつも、母の機織り姿を見ていたが、
 この母の働く姿を楽にさせてあげたいという、やさしい
 気持ちが、発明を始める動機の一つでもあった。
  しかし、佐吉の苦労に苦労を重ねた発明も真似をされ、
 何ら利益がもたらされなかった。
  この事からも、日本の特許法である「専売特許条例」
 が生まれて行く。
  (努力する者が、報われる社会でなければならない)。
1867年、この年、日本の貿易額が輸入超過となった。
  それまでは、輸出の方が多かったが、逆転し、輸入超
 過となった。
  これは、1866年に締結された「改税約書」が原因だっ
 た。
  欧米列強の圧力により、輸入関税が20パーセントから
 5%に引き下げられ、産業的に弱小の日本の商品は、欧米
 列強の商品に食われた。
  今のTPPの様なもの・・また、東京や大阪の中小企
 業の倒産が増えることだろう。
  そしてまた、一層、一次産業が衰退するだろう。
  いざという時に、「飢える日本が現出するだろう」。
  今は、幸せの様に見えているが・・?
1867年3月25日、幕府の新造軍艦「開陽丸」、オランダより
 回航して横浜に入港した。
  就役は、1866年8月26日。
  この日、1867年3月25日に、横浜へ帰港した。
  最新鋭の主力艦として、外国勢力に対する抑止力とな
 ることが期待されたが、徳川の軍艦としてわずか1年数ヶ
 月、
  1868年(明治元年)11月15日、蝦夷・江差沖において
 暴風雨に遭い、座礁し、沈没した。
  因みに、1975年に、江差町教育委員会によって発掘・
 調査が行われ、大砲やシャフトなどの遺構から古文書な
 ど、3万点以上の遺留品が引き上げられた。
  江差町資料館には、開陽丸が復元されている。
1867年3月26日、榎本釜次郎(武揚)、軍艦・開陽丸で帰朝
 (氷川清話)
1867年3月28日、将軍・徳川慶喜が、英、仏、蘭の代表と大
 坂城で会見し、兵庫の開港実施を約した。
  5月24日、勅許を得て、開港と決定した。
  6月6日、幕府が、12月7日より兵庫を開港と布告した。
1867年3月28日(2月23日)イギリス代理公使ニール、江戸
 湾頭に進航し生麦事件の償金を要求。
1867年、江戸市中、白昼強盗横行す(氷川清話)
  これが、西郷隆盛が手配した輩の仕業と考えられる。
1867年4月3日、幕府が送った「パリ万国博覧会への使節」
 が、マルセイユに到着した。
  パリ万国博覧会開催に際し、慶喜の実弟・徳川民部昭
 武(あきたけ)が、将軍の名代で遣わされた。
  マルセイユに到着したのは1867年4月3日。
  ところが、現地では、薩摩藩による会場独立出品の動
 きや、反幕キャンペーン工作が繰り広げられていた。
  そこで信頼回復のための使節が出発する事になった(
 出発6月14日、旧暦5月12日)
1867年4月9日(3月5日)徳川慶喜、兵庫開港の勅許奏請。
1867年4月23日(3月19日)朝廷、兵庫開港の奏請を許さず。
1867年4月28日(3月24日)各大名、兵庫開港の可否建議。
1867年4月29日(3月25日)徳川慶喜が、英国公使らと会見
  徳川慶喜が、各国公使を謁見した(~29日)
  兵庫開港を確約し、各国公使の信頼を得る。
  この時、ハリー・パークス(第2代駐日イギリス大使)
 のみが、慶喜の敬称を「陛下」ではなく「殿下」とした。
  辞書に記す使い分けは・・以下、
 【1】「陛下」は、天皇、皇后、皇太后、太皇太后に対
   する敬称。
 【2】「殿下」は、天皇、皇后、皇太后、太皇太后以外
   の皇族に対する敬称。
    外国の王国、公国などの皇族についても用いる。
1867年5月15日(4月12日)、倒幕の意思が確定
  鹿児島の島津久光が、京都警備のため(として)兵・
 7000を率いて、この日に、京都に入った。
  久光の4回目の上京だった(3月25日鹿児島発、4月12日
 京都着)
  この時、京で、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城ととも
 に四侯会議を開いた。
  議題は、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫開港問
 題や、前年9月の再征の休戦(事実上の幕府の敗北)以来
 保留されたままの長州処分問題をめぐり、
  四侯連携のもとで将軍・慶喜と協議することを確認す
 る事だった。
  完全に、薩摩・越前・土佐・伊予宇和島の各藩に対す
 る幕府という、対抗・対立の図が、ここにあった。
  しかし、5月14、19、21日の二条城における慶喜との会
 談では、長州処分問題の先決を唱える四侯に対して、
  慶喜は、対外関係を理由に、兵庫開港問題の先決を主
 張した。
  同月23、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を
 同時に勅許するというものだったが、
  慶喜の意向が強く反映され、長州処分の具体的内容は
 不明確であった。
  この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最
 終的に断念した久光だった。
  そして、久光の決断によって、薩摩藩指導部は武力倒
 幕路線を確定する。
1867年5月17日(4月14日)高杉晋作が没した。 
  近代日本への里程標に居る一人が没した。
  この高杉といい、竜馬といい(この時点では活躍中だ
 が)、明治の開明の直前の死だった。
  肺結核による死。享年29歳。
  辞世の歌・・、
  「おもしろきこともなき世におもしろく」
  「おもしろきこともなき世をおもしろく」
 の両説ある・・が・・、
  司馬遼太郎は、自著に「を」で記している。
1867年5月18日、フランス新外相ムスティエ、600万ドル借
 款を拒否。ロッシュ反論するが覆せず。
  小栗上野介の苦労も水の泡となった。借款を成約して
 いたが・・、
  日本の現状を知っていたのだろう、都合もあったが・・、
  そして、先方の世情の不安もあったが・・、
  日本には貸せないとなった・・、美しく言えば、フラ
 ンスの外交政策の変更・・となる。
1867年5月21日(4月18日)薩摩藩士・大山綱良(おおやま
 つなよし、大山格之助)が、兵30数名、砲3門を率いて
 大宰府に入り、三条実美以下五卿の動座に反対した。
1867年5月21日(4月18日)幕府が、英仏軍隊の横浜駐留を
 承認した。
1867年5月23日、坂本龍馬が、土佐藩の銃砲弾薬輸送のため
 「いろは丸(160瓲)」で長崎を出帆した。
  これが、海援隊の初航海であった、しかし・・、
1867年5月26日(4月23日)いろは丸事件(日本最初の蒸気
 船衝突事件)
  坂本龍馬の、この「いろは丸」は、讃州箱岬沖で、紀
 州藩の明光丸と衝突し、沈没してしまった。
1867年6月6日、四侯会議(松平慶永、島津久光、山内豊信、
 伊達宗城)
1867年6月10日(5月8日)幕府が、松平慶永以下、山内、伊
 達、島津の諸侯に登城を命ずるも応ぜず。
  意識では、完全に離反されている幕府だった。
1867年6月14日(5月12日)火薬製造機が、初めて輸入され
 た。
1867年6月14日(5月12日)幕府が、パリ万国博覧会へ、信
 頼回復のために使節出発と借金の申し込み・・、
  徳川幕府の信頼回復のための使節:駐日公使のレオン・
 ロッシュから、慶喜への進言もあり、
  使節のみならず徳川政権の国際的な信頼を回復させ、
 北海道の開発権を担保に、英・仏両国からの借款を引き
 出す使命を帯びて、親仏派の外国奉行の栗本鋤雲が、急
 遽、渡仏する事となった。
  (完全にロッシュの入れ知恵、下手をすると北海道が
 取られる)。
  鋤雲が、ナポレオン3世へ宛てた親書を持参して、横浜
 を出発したのは1867年6月14日(5月12日)とされるが、
  大阪で兵庫開港、長州処分の外交交渉に携わって後、
 1867年7月10日(6月9日)付、向山隼人正宛書簡ならびに
 辞令を持参しているから、1867年7月14日(6月13日)横
 浜発のフランス郵便ファーズ号の乗ったとすれば、神戸
 出航は14,5日ころとなろう。
  マルセイユ着は1867年9月8日(8月11日)
1867年6月16日(5月14日)山内容堂、島津久光、松平慶永、
 伊達宗城らの雄藩諸侯が、徳川慶喜に対し、王政復古の
 急務と開港の已むなきを論じた。
  山内容堂、王政復古の旨を建白す(氷川清話)
  諸藩連合体制を相手にする・・将軍・慶喜が居た・・、
  徳川慶喜は、早くから、土佐の山内容堂らと一緒にな
 って、「諸藩連合体制」を作ろうと考えていた・・が、
  大政奉還の際、長州側はびっくりする・・が、
  その先見の明が上手くいかないのは・・、西郷隆盛。
  また、西郷隆盛の命を受けた益満休之助が、江戸でゲ
 リラ戦を展開した・・その揚げ句・・、
  幕府は、薩摩藩邸に兵を出し、焼いてしまった。
  慶喜は、フランス公使のレオン・ロッシュなどから国
 際情勢をいろいろ聞いていた。
  もし、慶喜が、国際情勢に疎いタイプだったら、徹底
 して戦っていたかもしれない。
  また、幕府には、後進に席を譲る、国を滅ぼす事だけ
 はやるまいとの・・気があった。
  また、薩長にも・・あったと思われる。
  この頃、経済破綻を来した国内では・・百姓一揆が相
 次ぎ・・、
  国外では、アメリカは南北戦争、フランスは普仏戦争。
  一番、幕府側の目を開く原点になったのは・・イギリ
 スが起こした・・卑劣な戦争を展開したアヘン戦争の情
 報だった。
1867年6月23日(5月21日)高知藩士・板垣退助らが、鹿児
 島藩士・小松帯刀らと京都で会見し、倒幕挙兵を盟約し
 た。
1867年6月26日(5月24日)朝議決定し、長州藩処分を寛大
 にし、併せて兵庫開港の勅許下る。
  徳川慶喜が、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得た。
  会議側の敗北を受け、薩摩藩は、武力倒幕の方針を固
 めた。
1867年6月29日(5月27日)中岡慎太郎、板垣退助、谷守部
 (干城)、小松帯刀、西郷隆盛ら倒幕同盟を結ぶ 。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2016年1月8日金曜日

(増補版)269E1/3:気になった事柄を集めた年表(1866年8月~1867年1月)

題:(増補版)269E1/3:気になった事柄を集めた年表(1866年8月~1867年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年(慶応2年)8月26日、軍艦・開陽丸
  江戸幕府の軍艦・開陽丸が、就役(しゅうえき、仕事
 や任務に就くこと)した。
  以下、勝海舟の話・・、
  幕府から、開陽丸という軍艦を、オランダに注文した
 時に、榎本武楊や赤松大三郎などを、海軍伝習性として、
 オランダに派遣した。
  それが出来上がって、日本に回航してくる時分には、
 この伝習生らも、少しは海軍の様子が分かって来たもの
 だから、
  自分で開陽を乗り回して、日本へ帰って来た。
  その時、
  開陽には、幕府から雇い入れたオランダの海軍士官13
 名という者が、日本の海軍のお傭い教師として便乗して
 きた。
  ところが、これが外交上の一悶着となった。
  何故かというと、これより先、イギリスの海軍士官を、
 日本のお傭い教師として、かねて頼んでおいたので、オ
 ランダの士官の方が、まだ到着しない以前に、はや日本
 へ来ていた。
  そこへ重ねて、オランダからも雇い入れたという事だ
 から、オランダの士官も、イギリスの士官も、双方なが
 ら大怒りに怒ったのさ。
  オランダの士官は、「ぜんたい我々は、オランダ国王
 から勅命を持って、幕府に雇われて来たのだ。
  その雇われて来るのにも、無条件ではない。
  日本の海軍を、我々オランダの士官の一手で、教育し
 てもらいたいとお申し出によって来たのものである。
  それを何ぞや、我々を差しおいて、イギリスからも教
 師を頼むなどとは、実にもってのほかである」という。
  それからまた、イギリスの方で見ると、「ぜんたい幕
 府は、我々、イギリス海軍士官に日本の海軍を、一手に
 教育してくれとあるからして、はるばる、この極東まで
 やって来たものだ。
  しかるに、今更、無断でオランダの士官を雇い入れ、
 しかもそれに、海軍教育の全部を一任するなどという約
 束をするとは、我々の顔ヘドロを塗るものだ。
  こうなった上は、我々に対してお結びになった約束は、
 どうせられるお考えであるか」と理屈を言う。
  さあ、大変なことが持ち上がったというもので、幕府
 の外国奉行たちは、大狼狽にうろたえて、
  やれ今日も相談でござる、やれまた明日も相談でござ
 ると、
  毎日毎日、相談ばかりに日を暮らしたけれども、
  どう始末をつけてよいやら、とんとまとまりがつかな
 かった。
  そこで奉行たちから、俺の所へ、この始末をつけてく
 れと頼みに来た。
  俺は、この時分には、もはや外国語も使っているし、
 外国人にも、いくらか名前も知れているし、外国事情に
 も相応には通じていたから、
  それで是非にお頼み申すと泣きついてきたのだ。
  そこで、俺はすぐに、外国奉行らが額を集めての相談
 最中の席へまかり出て、
  「皆様方において、この度の一件の善後策を、勝にお
 頼みなさるという御事ならば、私は、あらかじめ、一応
 申し上げておかなければならない事がございます。
  それは、別儀ではない。
  もし、この事件に関する一切の全権を、私にお任せに
 相成るならば、私は、万事、お引き受け申して、幕府に
 は、少しもご迷惑を相かけないようお取り計らいいたし
 ましょうが、
  しかしながら、左様でなくて、ただ一部分のみをお任
 せになって、談判の進行中に、私を制約せられるような
 ことならば、私は、まっぴらごめんを蒙ります」と、こ
 う申し出た。
  そうしたところが、奉行たちも、この際、困り切って
 いる最中だったから、
  「なんじょう異存を申すべき、全権を任せて勝さんに
 お頼み申します」と言ったから、
  それではと、俺は、直ちに、開陽丸へ船でこぎつけて、
 まず、オランダの方から談判に着手した。
  オランダ公使にも、むろん立ち会わせておいて、
  さて、俺は、「幕府は、色々入り組んだ事情がござい
 まして、せっかく皆様が万里の波浪を破って、はるばる
 ここまで来てくださいましたけれども、
  とても今のところでは、この折り重なっている事情の
 ために、皆様をお頼み申しておくわけには参りません。
  その代わりに、皆様方の約束の報酬3年分は、ただいま
 一時に差し上げますから、ひとまず帰国してください」
 と言い出した。
  ぜんたい、この場合では、とにかく理由が無くって約
 束を破るのだから、中々やかましいのは、初めから覚悟
 をしていたのだが、
  しかし、向こうも俺の顔に免じて、思ったほどは、や
 かましい理屈も言わずに、とうとう俺の申し出の通りに
 承知してくれて、オランダ士官は、一同折り返して帰国
 する事となった。
  そこで、俺は、機転を利かして、一同を築地のホテル
 へ連れて来て、酒肴料として金を千両くれてやった。
  そうしたところが、大そう俺に礼を言って帰った。
  それから、まず一方の談判が落着したから、今度は、
 イギリスの方へ掛け合いをして、この方は、もう訳もな
 くうまくやりつけたが、
  この事件を片付けるために、俺は、あの時、早馬で3日
 の間、横浜へ通ったよ。
  この頃のイギリスの公使と言えば、かの有名なパーク
 スだが、今のサトウなどは、その頃の書記生で、確か、
 24歳くらいで、年の若いのに似合わないやり手であった
 よ(氷川清話)
1866年、福沢諭吉の「西洋事情」初編が刊行された。
  福沢諭吉は、江戸幕府の命によって1860年(万延元年)
 にアメリカに渡った。
  そして、1862年(文久2年)に、ヨーロッパに渡り、
  その後、1866年(慶応2年)に、「西洋事情」初編3冊
 を刊行した。
  翌年の1867年(慶応3年)、再びアメリカへ渡り、
  その後1868年(明治元年)に、外編3冊を、
  1870年(明治3年)2編4冊を刊行した。
  そして、その内容については・・、
  政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学
 技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気
 機関、電信機、ガス燈などに及んでいる。
  例えば、政治については、政体が君主政(君主制)、
 貴族政、共和政の三種類の政体に区別されて、
  イギリスでは、これらの政体を組み合わせていると記
 されている。
  文明国の六つの要訣(ようけつ、物事の最も大切なと
 ころ)については、
  法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、
 技術や文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政
 治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済
 する・・と論じている。
  外交については、通商や婚姻によって君主間の関係を
 構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基
 づいて大使が相互に派遣される・・という外交の制度が
 紹介されている。
1867年1月10日(慶応3年)、徳川慶喜、15代将軍となる。
  1867年9月17日に、徳川宗家は相続したものの、将軍職
 の就任は拒み続けていた・・が、
  1867年12月30日に、将軍の宣下を受けて、ようやく将
 軍に就任した。
  徳川慶喜は、正二位権大納言に任ぜられ、
  徳川の最後の征夷大将軍となり、
  1913年(大正2年)11月22日、77歳で没した。
  (将軍在職1867年~1867年)
  就任後、フランス公使・ロッシュの援助で、幕政の改
 新を図ったが、大勢には抗しえなかった。
  徳川慶喜将軍宣下(氷川清話)
1867年、この頃、葛餅(くずもち)15文。
1867年1月12日、幕府が、デンマークと通商条約を締結した。
   (日丁修好通商条約調印)
  丁はデンマークのこと、読みは「にってい」。
1867年1月13日、フランス軍事顧問団が、横浜に到着した。
  翌日から、幕府陸軍の訓練を開始した。
  第一次フランス軍事顧問団(1867年~1868年)は、西
 洋式陸軍の訓練のために、日本に派遣された、最初の顧
 問団で、士官6人、下士官兵9人の15人だった。
  団長のシャルル・シャノワーヌ参謀大尉が率いた。
  後に、4人が追加派遣され、総勢19名となった。
  顧問団の一部は、明治政府成立後も、幕府側に加担し、
 戊辰戦争に参加した。
  横浜で、到着の翌日から訓練開始した軍事顧問団は、
 大田村陣屋(現在の港の見える丘公園付近)で、幕府の
 エリート部隊である伝習隊に対し、砲兵・騎兵・歩兵の
 三兵の軍事教練を開始した。
  伝習隊は、最新の装備は有していた。
  団長のシャノワーヌは大坂に赴き、ロッシュとともに、
 1867年5月2日および3日の二日間、将軍・徳川慶喜に謁見
 した。
  ここで、シャノワーヌは、幕府陸軍の大規模な改革の
 必要性などについて述べた。
  これに対し、慶喜は、江戸において、陸軍総裁・松平
 乗謨から承る(うけたまわる、謹んで拝聴する)こと、
 必要経費は勘定奉行より支給すると回答した。
  その後、幕府陸軍は、大幅な組織改革を行い、旧暦9月
 (10月)には、顧問団は、横浜から江戸に移り、教練を
 受ける兵員数も増加した。
  教練の成果に幕府も満足し、1867年10月20日には、陸
 軍奉行の石川総管と浅野氏祐の連名で、シャノワーヌに
 宛てて感謝状が送られた。
  しかしながら、1867年11月9日の大政奉還、1868年1月
 27日(慶応4年1月3日)の戊辰戦争勃発により、軍事顧問
 団の継続は不可能となり、訓練の期間は1年強に留まった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2015年12月29日火曜日

(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月~1866年12月)

題:(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月~1866年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年、大阪・江戸打ちこわし:
  江戸時代中期から、たびたびあったが・・、
  第二次征長のとき、征討令が出されて物価が高騰した。
  そのために起こった。
1866年6月13日、武州一揆(武州世直し一揆)
  武蔵国秩父郡上名栗村で、この日に、蜂起し、19日に
 壊滅した。
  「世直し」を掲げた貧農ら約10万人余により、豪農層
 に対する打ちこわしが行われた。
  打毀しは、450軒余に渡った。
  秩父(ちちぶ)郡・高麗(こま)郡・多摩(たま)郡の山村
 の百姓が、米値など諸物価の高騰に困窮し、在郷商人ら
 に米穀の安値売りを求めたが拒絶され、打毀(うちこわし)
 連中を結成して、同時に蜂起した。
1866年6月14日、国産初の蒸気軍艦・千代田型が就役した。
  石川島造船所で、初めて日本人が設計した蒸気軍艦・
 千代田型が建造された。
1866年6月25日、改税約書(かいぜいやくしょ、江戸協約)
  幕府は、英・米・仏・蘭と、改税約書に調印し、輸入
 関税の引き下げにより、
  以降輸入が急増した。
  列国の圧力のもとに、改訂された関税協定で、江戸協
 約ともいう。
  1865年11月4日、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英、
 仏、米、蘭) の威嚇により、
  幕府は、兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ
 要求に応じるほかなく、
  1866年6月25日、江戸で、老中・水野忠精 (みずのただ
 きよ) が調印、6日後に発効(はっこう、法律や規則など
 の効力が発生すること)した。
1866年6月15日、信達一揆が起きた。
  江戸時代後期と末期に、陸奥国(むつのくに)信夫(しの
 ぶ)・伊達(だて)両郡(福島市周辺)にまたがり起こった
 大百姓一揆。
  1749年(寛延2)と1866年(慶応2)に起こっている。
  この時の一揆は、物価高騰、助郷(すけごう)加重負担、
 蚕種・生糸の不良品取締りを名目にした荷改め料徴収な
 どに反対し、
  信夫・伊達両郡全域の農民らが、加担した在方商人ら
 に打毀(うちこわし)をかけたもの。
  6月15日から七日八晩にわたり49か村164戸を打毀し、
 要求を実現した。
  金原田(かなはらだ)村(伊達市)の農民思想家・菅野
 八郎(かんのはちろう)が指導者と目され、
  彼は、「世直し大明神」とよばれた。
  また、長州出兵の最中に起こった世直し騒動で、関東
 の武州一揆とともに幕府に大きな打撃を与えた。
1866年6月25日、燈台条約締結
1866年7月10日、勝海舟が、軍艦奉行に復帰した。
  長州藩と幕府の緊張関係が、頂点に達する直前のこの
 日に、
  勝海舟は、軍艦奉行に復帰し、
  老中・板倉勝静の命を受けて大阪へ向かった。
  出兵を拒否した薩摩藩と、会津藩の対立解消、および、
 薩摩藩を出兵させる約束を取り付けるという命だった。
  この任務は、成功したと、後年、海舟は語っているが、
 実際は、「薩摩藩は、拒否したまま」であった。
  また、「会津藩と薩摩藩の対立も続いたまま」だった
 ため、完全に失敗していた。
  しかし、勝海舟は、氷川清話で、次のような事を言っ
 ている。
  慶応2年5月27日(1866年7月9日)に突然、(海舟の所
 に)奉書が来た。
  閣老・水野和泉守から、「明朝、礼服で登城せよ」と
 あった。
  破格に軍艦奉行に任ぜられて、すぐに大坂へ出張を命
 ぜられた。
  両三日たって、俺は大阪へ出発した。
  大坂に着いて、板倉伊賀守の言うには、長州再征の事
 について、薩州から大久保市蔵(利通)とか、岩下佐次
 右衛門とか、内田仲之助とかいう連中が来て、ひどく反
 対するから、お前、京都へ行って彼らを説き伏せてこい
 との事だ。
  そこで、俺は、かねて意見を述べて、長州征伐は決し
 て国家のために利ではない、
  大久保や岩下らの言うところが、かえって道理にかな
 っているという事を明瞭に弁じた。
  ところが、会津藩だけは、容易に俺の説に従わなかっ
 たけれど、
  色々例えなど設けて説明してやったら、後には、とう
 とう俺の意見が耳に入った。
  それで、遂に、長州とは和解するようになったのだ。
  この後も、俺は、時勢に応じて、いろいろ建白したけ
 れど、多くは役人の機嫌を損ずるばかりだった(氷川清
 話)
  勝海舟、軍艦奉行再勤を命ぜられ、且つ、急用につき
 草々上坂申渡される(氷川清話)
  勝安房守義邦、軍艦奉行、慶応2年5月28日~4年1月28
 日。(氷川清話)
1866年7月、勝海舟、京都において板倉閣老に謁して言う。
  幕府は、仏国より金幣軍艦を借入れ、内政の改革をし
 ようとの密議ありと聞く、その非道を痛論す(氷川清話)
  金幣:きんぺい、金の貨幣。
1866年7月16日、家茂が、防長大営を大阪に置く。
1866年7月17日、この日に、開陽丸が竣工し、
  1866年10月25日、榎本武揚(えのもとたけあき)ら留
 学生は、開陽丸とともに、
  オランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・
 アンボイナを経由して、
  1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。
1866年7月18日、幕府の第二次長州征伐、戦端が開く
  幕府軍艦(富士山丸など)が、長州藩領の周防大島郡
 を砲撃して、
  第二次長州征伐の戦闘がはじまった。
  (しかし、薩摩藩は、出兵を拒否)
  1866年9月に至って、幕府・小倉藩が全面敗北し、長州
 征伐が停止する。
  1866年10月10日、慶喜の意を受けた勝海舟と、長州の
 広沢真臣、井上馨が、宮島で会談し、停戦合意が成立す
 る。
  1867年2月、ようやく両藩の和約が成立する
  この戦いは、薩長同盟が成立した中での戦いだった。
  薩長同盟には「干戈を交えても」幕府に決戦を挑もう
 とうたわれていた。
  干戈:かんか、武器。また、武力。戦争。
  西郷と大久保は、反幕から討幕へと脱皮した。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃にあって惨敗した(1866年7月)
  将軍・家茂が急死(1866年8月29日)したことでようや
 く撤兵の緒を掴む。
  家茂が急死で、慶喜は、朝廷に運動して休戦の詔勅を
 引き出し、
  会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で、休戦協定
 の締結に成功した。
  ここで一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ(1866年9月28日)、
 討幕派の結集を拒んだ。
  この頃になると、幕府の権威も落ち、将軍職に就くに
 は大名会議の推戴が要った。
  大久保は、朝廷を動かして、大名会議を操作しようと
 した。
  将軍空位による幕府弱体化を企図したが、事を荒立て
 ない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気があ
 った。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍宣下を受け、将軍の座に就いた(1867年1月10日)。
1866年7月18日、
  幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まった。
  7月24日には、芸州口・小瀬川口、
  7月27日には、石州口、
  7月28日には、小倉口で、それぞれ戦闘が開始された。
  長州側は、山口の藩政府の合議制により作戦が指揮さ
 れた。
  この時、すでに、西郷と桂小五郎(木戸孝允)が一堂
 に会して、薩長同盟の密約を結んでいた(1866年3月7日)
  坂本龍馬の斡旋であったが、西郷の事前のムード作り
 も功を奏した。
  同盟協約は、干戈(かんか、干・タテと戈・ホコの意、
 武力)を交えても、幕府に決戦を挑むとうたっていた。
  西郷と大久保は、反幕から倒幕へと変わった、脱皮し
 た。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃に会って惨敗した(1866年7月)。
  将軍・家茂が急死〈1866年8月29日)した事で、ようや
 く撤兵の緒を掴(つか)むという状況であった。
  ここで、一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ、討幕派の結
 集を拒んだ。
  この頃になると、幕府にも民主的ムードが漂って、将
 軍職に就くには大名会議の推戴が要る。
  大久保は、朝廷を動かして大名会議を操作しようとし
 た。
  将軍空位による幕府の弱体化を意図したが、事を荒立
 てない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気が
 あった。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍の座に就いた。
  その後も江戸へ引き上げず、国事多難を理由に二条城
 に留まった。
  巷には、慶喜を東照神君家康公の再来と称える声も溢
 れていた。
  幕府は、立ち直る気配さえ見せ始めた。
  今や、世は、尊王一色であった(参考:プレジデント
 平成10年7月号)
  この様な時、西郷は大久保に言った・・、
  「下々からの世直しじゃ、長州を見てみやんせ」。
  長州は、士農工商の別なく藩民こぞって武器を手に立
 ち上がり、第二次征長軍を、完膚なきまでに破った。
  大久保は、有力諸侯を一つに束ねる事を考えた。
  海舟が示唆した雄藩連合の小手調べにもなる。
  彼は、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽〈はるたけ)、
 土佐ノ山内容堂、宇和島の伊達宗城を選んだ(四侯会議)。
  慶喜は、兵庫開港を、天皇の勅許を得られないが、外
 国公使に約束した。
  大久保は、イギリス公使・パークスに、即時、兵庫開
 港を強硬に迫られる一方で、四侯会議には断固反対して
 もらう事にした。
  しかし、慶喜は、反対する公卿たちに時世を説いて勅
 許を得た。
  慶喜は、四か国公使等の喝采を浴びた。
  西郷は、前代藩主・島津斉彬が、一橋家を嗣いだ慶喜
 を14代将軍に擁立しようとしたこともあって、
  西郷は、熱烈に慶喜を敬愛していた。
  しかし、倒幕の意思を固めていた。
  佐幕から反幕、反幕から倒幕へ。
  幕府が消滅しない限り、近代国家は生まれない。
  大久保も同じ結論になっている。
  孝明天皇が崩御されると、公武合体論派は後退した。
  新帝・明治天皇は、まだ14歳(1867年1月30日.即位、
 1852年~1912年)。
  西郷・大久保・桂は、新帝の外祖父・中山忠能を通じ
 て工作し、討幕の密勅を手にした。
  同じ日に、慶喜は、大政奉還の挙に出た(1867年11月
 9日)。
  幕府が消滅したので、密勅は宙に浮いた。
  大政奉還をしても徳川家は残る。
  竜馬が発案して、土佐藩・山内容堂が演出した。
  主導権が土佐藩に奪われる事を、西郷は我慢できない
 と思った。
  禁裏の奥の小御所で、朝議が開かれ、明治天皇は、大
 政奉還に伴う王政復古を宣した(1868年1月3日)。
  西郷は、直ちに、旧幕の親藩・桑名の禁門衛兵を追っ
 て、薩摩の兵を配置に付けた。
  銃剣は、内に向け、朝議に無言の圧力をかけた。
  禁裏では、引き続き王政復古後の、初めての会議が開
 かれていた。
  西郷は、議場の外。
  大久保は、内にいるが、藩士の身分で出席し、宮中で
 は地位が低い。
  玉座近くに島津久光がいる。
  幕府は、消滅しても天皇の下に総理が徳川慶喜で、副
 総理が島津久光と山内容堂あたりが収まると予測された。
  容堂が、前将軍・慶喜を出席させないのは不都合だと
 発言したことから、会議はにわかに紛糾した。
  硬骨の岩倉具視が反駁した。
  「慶喜は、速やかに官を辞し、領地を返上して、忠誠
 の証(あかし)を示すべし」。
  大政奉還を演出した容堂は激昂した。
  「勤王の志により政権を返上した徳川殿を、さらに罰
 するとは不埒(ふらち)千万なり」。
  大久保は、岩倉に同調した。
  「辞官納地の命を拒めば、追討もやむなし」。
  激越な発言も末席からでは効果が無かった。
  休憩の間に、使者が状況を伝えると、西郷は事もなげ
 に言った。
  「短刀一本あれば片付くことでごわす」。
  岩倉の席は容堂に近い。
  岩倉は、本気で容堂を刺す気でいた。
  議場は、殺気に包まれて、倒幕派の主張が容認された。
  二条城の幕臣たちに怒りが渦巻いた。
  慶喜は、暴発寸前の幕臣を鎮めて辞官納地を承諾した。
  (プレジデント平成10年7月号)
1866年7月21日(旧6月10日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年7月27日、薩摩藩士・村田新八、黒田了介、山口に来
 り、藩主・毛利敬親に謁した。
1866年7月28日、第二次長州征伐(征長幕軍の敗退)
  長州藩軍は、1866年7月23日から、高杉晋作が率いる丙
 寅丸(へいいんまる)を用い、夜陰にまぎれて、幕府艦
 隊に近づき、激しく砲撃して反撃の火蓋を切った。
  1866年7月26日未明からは、長州藩の第二奇兵隊・浩武
 隊の二隊を大島占領のために投入し、
  松山藩軍と激しい戦闘を展開した。
  沖に停泊していた幕府艦隊が、長州藩軍の動きに応戦
 し、砲撃を打ち込み、戦闘は一進一退の攻防が続いた。
  激戦の末、島内の各所で、幕府軍を打ち破った長州藩
 軍の勝利となり、大島奪還に成功した。
1866年7月28日、英国公使パークス、汽船にて、横浜より鹿
 児島港に入り、藩主と会見を請う。
1866年7月、二朱金(天保二朱判)の通用を禁ず(氷川清話)
1866年8月1日、日白修好通商条約調印(ベルギー)
1866年8月2日(旧6月22日)、勝海舟、着阪(氷川清話)
1866年8月3日(旧6月23日)、勝海舟、大阪城に出頭、会
 津・薩摩調停の内命を奉じ上京(氷川清話)
1866年8月4日、桂小五郎、杉孫七郎等、幕府・長州征伐の
 間に立てる外人の調停を固辞(こじ、かたく辞退するこ
 と)す。
1866年8月5日(旧6月25日)、勝海舟、先ず会津を説き、つ
 いで、薩摩・大久保市蔵等の諸氏に面会し、その征長出
 兵辞退の上書を抑え、円滑にその局を結ぶ(氷川清話)
1866年8月12日、長州藩兵、豊前・小倉藩兵と衝突
1866年8月22日、長州藩石見内田に諸藩兵と戦う。
1866年8月25日、幕府、イタリアと通商条約締結。
1866年8月25日、日伊修好通商条約調印
1866年8月28日、薩摩藩主・島津茂久が、幕府に対し、征長
 の非を陳じ、その罪を赦さんことを請う。
1866年8月29日(旧7月20日)、勝海舟、家茂将軍が大阪城
 で病重しときき、号泣し長嘆息す(氷川清話)
1866年8月29日、将軍家茂が、没した(1846年~1866年)
  将軍家茂、大阪城で死去する(昭徳院、21歳)(氷川
 清話)
  勝海舟の大恩ある家茂が、この日に、21歳の若さで脚
 気小心(衝心、心不全のこと)で急逝した。
  海舟はがっかりした。
  せめて、遺骸を軍艦に乗せて江戸までお供するつもり
 でいた所へ、長州征伐の後始末の談判のため、安芸の宮
 島へ出張を命じられ、9月29日(旧8月21日)広島に行っ
 た。
  その出発前、15代将軍として、一橋慶喜を迎える事を
 支持すると表明した。
  しかし、慶喜と海舟はウマが合わなかった(氷川清話)
  将軍・家茂が、幕長戦争のさなかに大阪城で病没する
 までの、計3年4か月余りの間に、将軍・家茂は、22か月
 も京都と大阪に滞在した。
  また、将軍・慶喜も、将軍後見職の時を含めて、その
 ほとんどを京都の政局の中で過ごした。
  この間、諸侯の上洛があいつぎ、志士が競って京都を
 目指した。
  こうして、公権力の所有者(将軍)も京都に移った形
 となり、日本の首都であると意識されるようになった。
1866年9月5日、徳川慶喜、将軍家相続に決定(9月28日説
 あり)
1866年9月7日、朝廷、慶喜の将軍家相続勅許
  将軍慶喜、相続を宣下(氷川清話)
1866年9月9日、豊前小倉落城す(氷川清話)
  小倉藩は、第一次長州征討も、第二次も参加し、第二
 次では、小倉口の先鋒として参戦した。
  戦闘は不利に展開し、長州軍が領内に侵攻して来た。
  九州諸藩は撤兵した。
  孤立した小倉藩は、この日、小倉城に火を放ち(小倉
 城自焼は、一説に、熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも言わ
 れる)、田川郡香春(現・香春町)に撤退した。
1866年9月10日、徳川慶喜、仏国公使を通じ軍艦その他の
 兵器購入を依嘱す。
1866年9月(旧8月)、外国へ渡海、修学を許す(氷川清話)
1866年9月10日、小栗忠順が、フランス経済使節ウクレとの
 間に借款契約成立。
1866年9月24日(旧8月16日)、勝海舟、京都において長州
 へ密使を命ぜられる(氷川清話)
1866年9月25日(旧8月17日)、勝海舟、下阪(氷川清話)
1866年9月27日(旧8月19日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年9月28日、ロッシュの仲介により、小栗忠順(おぐり
 ただまさ、幕臣)が、フランスからの600万ドルの借款契
 約に成功。
  これを元手に、幕府の近代化・軍事力強化を目指した。
1866年9月29日(旧8月21日)、海舟、長州への使者になる。
  大坂に居た時、突然、京都から早打ちがやって来て、
 直ぐ来いと言うので、京都へ上った。
  その頃、慶喜公は、後見職であったから参内中であっ
 た。
  そのうち、慶喜公もご帰還になって、御直で、長州へ
 の使者を仰せつけられた(1866年9月24日)。
  1ヶ月中には必ず始末をつけて帰りますと申し上げ、
 一人の供も召し連れず、単身、芸州(広島)まで行った
 (1866年9月29日)。
  辻将曹が、色々周旋してくれて、宮島において双方会
 談する事になった。
  宮島へ渡ってみると、長州の兵隊が、ここかしこに出
 没して殺気が満ちていた。
  もとより、こんな事だろうと覚悟はしていたから、平
 気で旅館に泊まり込んで、長州の使者が来るのを待って
 いた。
  彼らも国論をまとめた上で、船に乗って来ると言うの
 だから、ずいぶんと手間がいったが、その間、今の長州
 の兵隊や密偵は、始終、俺の旅館の周囲をうろつき、た
 まには、遠方から旅館へ向かって発砲する者などもあっ
 た。
  しかし、俺は、ちっともこんな事に頓着しないで、旅
 館の広間に平然と座り込んで、
  日夜、使者の来るのを待っておったが、
  この頃、この辺りの婦人などは、どこかへ逃げて行っ
 てしまって、俺の旅館にも、老婆がただ一人残っておっ
 たばかりだった。
  かれこれするうちに、長州から広沢兵助など、8人の
 ものが使者としてやって来た。
  こっちは、木綿羽織に小倉はかまの小男の軍艦奉行が、
 たった一人控えているばかりだ。
  いよいよ、今日、会合という日になると、俺は、まず、
 大慈院、これが会合の場所だが、この寺の大広間に端座
 して居ると、後から広沢などがやって来た。
  しかし、さすがに広沢だけあって、少しも傲慢のふう
 が無く、一同、縁側に座ってうやうやしく一礼した。
  そこで、俺は、「いや、そこではお話が出来ませんか
 ら、どうぞこちらへお通りなさい」と挨拶すると、
  広沢は頭をもたげて、「御同席は、いかにも恐れ入る」
 と辞退するので、
  俺は、全体、ひょうきん者だから、「かように隔たっ
 ていてはお話が出来ぬ、貴方がおいやとあれば、拙者が、
 そこへまいりましょう」と言って、
  いきなり向こうが座っている間へ割り込んで行った所
 が、一同、大笑いとなって、
  「それでは御免こうむります」という事で、一同、広
 間に入って、いよいよ談判を始める事になった。
  談判と言っても訳はなく、とっさの間にすんだのだ。
  まず、俺は、よくこちらの赤心(まごころ)を開いて、
 「自分の初めからの意見は、かくかくであった。貴藩に
 おいても、今日の場合、兄弟争いをしておるべきでない
 という事はご承知であろう」という趣旨を述べた。
  すると、広沢も良く合点して、「尊慮のある所はかね
 てより承知していました」などと言った。
  そこで、俺は、断然、「私が帰京したら、直ちに貴藩
 の国境にある幕兵は一人も残らず引き上げるようにする
 から、貴藩においても、その機に乗じて、請願などと唱
 えて多勢で押し上げることなどは決してしない様にせら
 れよ」と言い放ったら、
  広沢も承諾の旨を答えて、談判もこれで決着した。
  さて、帰りには、また、辻の周旋で、えり抜きの船頭
 を雇って出帆したが、
  高砂の沖で、向こうからくる船と衝突して、ほとんど
 沈没しようとしたのを、やっとのことで、明石の浜辺へ
 乗り上げて、そこから陸を通って京都へ帰った(1866年
 10月18日)が、
  これは、出発した日から数えて、ちょうど28日から9日
 目であった。
  帰って見ると、留守のうちに一体の様子はがらりと一
 変しておって、
  わざわざ宮島まで談判に行った俺の苦心も、何の役に
 も立たなかった。
  しかし、もし、この時の始末が、俺の口から世間へ洩
 れようものなら、それこそ幕府の威信は、まったくなく
 なってしまうと思って、俺は、謹んで秘密を守って、辞
 職を願い出た。
  すると、ある老中が、中へ入って周旋してくれたため
 に、軍艦操練専務の役でもって、とうとう江戸へ帰るこ
 とになった。
  しかし、これが為に、幕府の命脈も、ちょうど1年延び
 た勘定になった(氷川清話)
  勝海舟、芸州着、ついで厳島で広沢兵助、井上聞多等
 に面会、休戦及び衆議採用の大趣旨を演達す。彼承服し、
 又その国情を陳述す(氷川清話)
1866年10月(旧9月)、開成所に地理窮理兵学を置く(氷川
 清話)
  窮理(きゅうり):物事の道理・法則をあきらかにす
 ること→西洋流の学問一般、物理学、朱子学
1866年10月、イギリス公使パークスが、英・米・仏・蘭の
 4国への賠償金の代わりに、灯台を8か所に 建てることを
 要求し、幕府が承認する。
1866年10月10日、幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成
 立。
  幕府の使節・勝海舟が、宮島の大願寺に長州藩の代表
 と会見し和協す。
  将軍逝去につき、長防出兵停止の勅諭(氷川清話)
  徳川慶喜は、長州藩と休戦した。
1866年10月11日(旧9月3日)、勝海舟、広島に帰着す(海
 舟の自著亡友帖中、広沢真臣翰の後に慶応元年8月奉命、
 長州に使す云々、指名は2年8月で元年と記したのは誤り)
 (氷川清話)
1866年10月18日(旧9月10日)、勝海舟、帰京(氷川清話)
1866年10月20日(旧9月12日)、勝海舟、謁見、復命28日、
 長州の処置は公平至当を要する事を建白す(氷川清話)
1866年10月24日、高杉晋作、姫島の獄にある野村望東尼を
 救出した。
1866年10月27日、幕府が、征長軍の撤兵を命ず。
1866年11月7日(旧10月1日)、勝海舟、用向き相済み帰府
 を命ぜられる(氷川清話)
1866年11月7日、江戸市中と五街道に、荷物輸送用馬車の使
 用が許可される。
1866年11月12日、幕府吹上奉行を新設す。
1866年11月16日(旧10月10日)、勝海舟、次男四郎死亡、
 四男七郎誕生、後に、岡田氏をつぎ義徴と改名す(生母、
 小西かね)(氷川清話)
1866年11月18日、風水害による凶作で、幕府が外国米輸入・
 販売を許可する。
1866年11月21日、薩摩藩士・小松帯刀、西郷吉之助、一挙
 以て王政復古の実を挙げんと鹿児島発。
1866年11月22日、徳川慶喜が、参内して天盃を拝受す。
1866年11月28日(旧10月22日)、遊撃隊を置く(氷川清話)
 遊撃隊(ゆうげきたい)は、14代将軍・徳川家茂死後に
 結成された幕府軍の部隊。
  講武所師範や、奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成に
 よって、この日に、「遊撃隊」が結成され、
  槍術家の高橋泥舟や、剣客の榊原鍵吉などが頭取を務
 めた。
1866年12月2日、朝廷が、重ねて諸大名の上洛を促さる、
 病と称して上洛する者少なし。
1866年、薩摩藩士・小松帯刀、西郷吉之助、入京す。
1866年12月4日、在京諸大名参内して、徳川慶喜を15代将軍
 たらしめんとして奏請す。
1866年12月16日、江戸の大火、元乗物町より京橋八丁堀に
 至る延長21町、幅7町余延焼す
1866年12月17日、凶作と米価暴騰による窮民が増え、
  幕府が、施米などの救助のほか、強壮者の兵採用を布
 告する。
1866年12月21日、ロッシュが、徳川慶喜の依頼により幕政
 改革を提言した。
1866年12月26日、幕府が、三千石以上の者に英仏両国へ留
 学を許した。守兵の服制新兵式に改む。
1866年12月29日、三条実美ら、大宰府発、上洛出発。
1866年12月~、慶応の改革。
  ロッシュの意見を入れ、老中の総裁制度(職務明文化)
 を採用した。
1866年、西周(にしあまね)著、『万国公法』。
1866年、福沢諭吉著、『西洋事情』初編3冊が刊行した。
  福沢諭吉「西洋事情」なる(氷川清話)
1866年、軍艦操練所は、さらに軍艦所と改称され、この年
 には、教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能
 も追加されて、最終的に海軍所となった。
  操練所を海軍所と改む(氷川清話)
1866年、樺太の境界を定める。
  使節を露国に派遣し、樺太島の境界を定めさせる、箕
 作秋坪等随行す(氷川清話)
  山川浩(会津藩家老)は、慶応二年(1866年)に、幕府
 が、樺太境界議定のため、外国奉行・小出秀実らを露国
 に派遣するにあたり、
  藩主・松平容保の推薦によって、これに参与し、仏・
 独両国を経て露国に入った。
1866年、中村正直(なかむらまさなお、敬宇)等14人、英
 国に留学させる(氷川清話)
  中村正直は、渡英して帰国後、スマイルスの『セルフ
 ーヘルプ』を翻訳した『西国立志編』を出版。
  私塾同人社を設け、「三田聖人」福沢諭吉と並び、「
 江戸川の聖人」といわれた。
1866年、根岸競馬場
  総面積、6.53ヘクタール。
  一周、1764メートルの根岸競馬場を徳川幕府は創った。
  折りから攘夷運動が燃え盛っていた時だった。
  横浜・生麦村での事件や、薩英戦争などの嵐が吹き荒
 れていた。
  根岸の競馬場の建設は、外国勢力に対する幕府の理解
 の意味があった。
  明治の競馬は、外国人と金持ちなどに限られた人々の
 娯楽だった。
  春と秋に三日間前後のレースが催された。
  その日、横浜の外国銀行や貿易会社は、新聞広告を出
 して一斉休業を宣言した。
  昭和初期の入場料は、一等馬見所5円、二等馬見所3円。
  入れない庶民は外側から見物した。
  昭和17年のレースを最後に、旧海軍に接収された。
  それは、賭け事自体が白眼視されたうえ、馬見所から、
 遠く横須賀の海軍基地までが一望できたからだった。
  そこに、双眼鏡を持った外国人が集まるなど、とんで
 もない事だった。
  その様な時代だった。
  終戦後、アメリカ軍がすべてを接収した。
  接収は1969年まで続き、それまでは、アメリカ軍関係
 者のみのゴルフ場とされていた。
1866年、香港の人口が11万5000人になった。
1866年、アルミニウム電解精錬法が発明された。
1866年、アメリカ合衆国、ネブラスカ州のオハマの西に、
 初めて、ユニオン・パシフィック鉄道が開通した。
  レールが、平原の真ん中に敷設された。
  この日から、インディアンの方々の地に、
  インディアンの方々に都合の悪いものが、大量に、
  そして、アメリカ合衆国に都合の良いものが・・運ば
 れて来た。
  アメリカ合衆国の白人は、文明を運んだと讃美した。
  鉄道会社に、線路の両側の6キロの土地が与えられた
(インディアンの方々に無断で)、
  そして、その地の開発が許可された(これも、インデ
 ィアンの方々に無断で)。
  新しい農業技術が、この頃、発達していて、
  その技術を持った白人・アメリカ人が、この鉄道に乗
 って、大量に、新たに、入って来た。
..
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2015年12月28日月曜日

(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月~1866年5月)

題:(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月~1866年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年(慶応2年)1月1日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍
 工廠)の建設が開始された。
1866年1月7日、長州藩藩主・毛利敬親(もうりたかちか)
 が、京阪の視察として、桂小五郎を上洛せしむ、品川弥
 二郎これに従う 。
1866年1月7日、膳所藩尊王党の切腹(森祐信以下10名に切
 腹を命じる)
  膳所藩(ぜぜはん):近江国大津周辺(現在の滋賀県
 大津市)に存在した藩。
  尊王攘夷の派が、反対派のために罪を問われた。
  全国の各藩とも、その思想的に帰する所に迷っていた。
  幕府及びその徳川周辺でさえ内紛がひどい状況だった。
  日本中がその様な中に起きた尊王派処分の事件だった。
1866年2月28日、高島秋帆(たかしましゅうはん、砲術家)
 が没した(1798年~1866年)
  高島秋帆没す(氷川清話)
1866年3月7日、薩長同盟(3月6日説あり)
  京都で、西郷隆盛・小松帯刀と桂小五郎が会談し、
  薩摩藩と長州藩の同盟が成立した(政治的、軍事同盟)。
  坂本龍馬(31歳)が立会いのもと、長州の桂小五郎と
 薩摩の西郷隆盛との間で、京都の小松帯刀邸(上京区)
 で締結された。
  明治維新への導因となった同盟だった。
  無私の精神の一脱藩浪人の竜馬と、
  藩意識の捨てきれない西郷と桂小五郎(木戸)の、初
 めから終わりまで、張り合いする中で成立した。
  両藩は、1年半前までは、なにしろ、禁門を挟んで血を
 流しあった仇敵同士だった。
  疑心暗鬼は、根深いものがあり、やむを得ない面もあ
 った。
  その閉塞状態を、竜馬が、風穴を開けたのだった。
  「共に目指す目標は同じ」の言葉を竜馬は言った。
  長州藩は、天保の改革当時から、藩政の実権が、保守
 から急進の間を揺れていた。
  めまぐるしく、その政策が転換するという状況だった。
  公武合体だった薩摩藩の西郷(33歳)も、一転して、
 盟約を結び、倒幕体制を整えて行った。
1866年3月7日、薩長同盟成立の意義・・、
  長州藩にとって、幕府との一戦は必然の中にあり、ま
 た、その様な流れを生んだ歴史の中にあった。
  その為に、大村益次郎の指導の元に軍制改革を進め、
  軍制改革に励む長州藩だった。 
  それ故、長州軍にとって、薩摩藩から供与された西洋
 小銃、及び、弾丸などは貴重だった。
  貿易を禁じられていた長州藩にとって、喉から手が出
 るほど欲しかったものだった。
  この供給は・・長州を救った。
  これまで仇敵の間柄だった薩摩藩と、長州藩は、急接
 近する。
  そして、この関係は、西洋小銃供与の返礼として、長
 州藩から薩摩藩へ、兵糧米が輸出されたのを受け、この
 関係改善は益々高まって行った。
  そして、1866年3月7日のこの日に、薩摩藩の意向を受
 けた坂本竜馬と、
  長州藩の意向を受けた中岡慎太郎(坂本と中岡は共に
 土佐藩の脱藩浪士)を仲立ちにして、薩長同盟は結ばれ
 た。
  この薩長同盟による西洋小銃・弾丸の供給は、大村益
 次郎の軍制改革による、長州軍の小銃隊(歩兵化)は進
 んだ。
  しかし、全長州軍に、西洋小銃(特に、ミニエー銃)
 を装備させるには、先に薩摩藩の斡旋により供与された
 だけでは、まだ不足していた。
  また、近代戦を行うには、膨大な弾丸を消費すると考
 えていた大村にとっては、長州藩内で弾丸の生産工場を
 設けていた。
  しかし、まだ、その生産力は、心もとないものを感じ
 ていた。
  そんな大村にとって、この薩長同盟によりより多くの
 ミニエー銃と、その弾丸・雷管の新たな入手先が生まれ
 た事は、これから、幕府軍と戦かう作戦を立案していた
 大村にとっては、うれしい限りだった。
1866年3月9日、寺田屋騒動(坂本龍馬襲撃事件)
  この日、慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩
 長同盟の会談を斡旋した直後に・・、
  薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行の林
 肥後守忠交の捕り方が、捕縛ないしは、暗殺しようとし
 た(寺田屋遭難とも言う)、
  龍馬や、長州の三吉慎蔵らは、深夜の2時、幕府伏見奉
 行の捕り方30人ほどに囲まれた。
  いち早く気付いたお龍は、風呂から裸のまま裏階段を
 2階へ駆け上がり、投宿していた龍馬らに、危機を知らせ
 た。
  捕り方は、「肥後守(奉行)よりの上意」であるとし
 て迫り、
  踏み込まれた龍馬らは、「(奉行の権限の及ばない)
 薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られ
 た。
  龍馬は、高杉晋作からもらった拳銃で、
  三吉は、手槍を用いて防戦して、
  捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。
  しかし、捕り方が、拳銃を持つ手を刀で払おうとして、
 龍馬は、手の親指(左右)を負傷した。
  装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で
 応戦する間に、辛くも家屋を脱出し、路地を走り、材木
 屋に隠れた。
  三吉は切腹しようとしたが、龍馬に止められて、伏見・
 薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。
  薩摩藩邸にいた留守居役・大山彦八は、藩士3名をつれ
 て、川船を出し、救出に向かった。
  龍馬は、九死に一生を得ることができた。
  すぐに、京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸
 輔が早馬で伏見に来て、事情を調べ、
  西郷は、軍医を派遣し、治療に当たらせると共に、藩
 邸を警護させた。
  翌日、薩摩藩邸は、龍馬に対する伏見奉行からの引き
 渡し要求を受けたが・・、拒否した。
1866年3月16日、アーネスト・サトウが、ジャパン・タイム
 スに匿名で論文寄稿した。
  将軍を主権者と見なさないとする内容だった。
  後に、翻訳され『英国策論』と題されて出版された。
1866年4月13日、幕府が、長崎・神奈川・箱館に出稼ぎ、自
 由交易と、
  及び、商人の外国船舶の購買を許した。
1866年4月28日、松本良順(蘭学者)が、万国公法6冊を、
 14代将軍・徳川家茂へ贈った。
1866年5月5日、高杉晋作が、伊藤博文を連れて3度目の長
 崎へ行った。
  薩長同盟に加わるためだった。銅座町の薩摩屋敷へ。
  また、グラバーからオテントサン丸を買った。
  そして後に、オテントサン丸は、丙寅(へいいん)丸
 と命名され、幕府を向こうにまわして活躍した。
1866年5月17日、幕府は、長州と談判をして来たが、埒(ら
 ち)は開かず、
  幕府は、この日・5月17日、長州を代表する四家名の名
 代に対して、速やかに帰国して主人に伝え・・、
  1866年6月3日までに、請書を出すように命令を下した。
1866年5月18日、林甚六郎が、幕府の命に依り、三条実美以
 下の五卿に対し、京都へ帰還を迫った。
  薩摩の大山格之助、黒田嘉右衛門等、西郷吉之助に代
 って、頑として五卿を渡さず。
1866年5月19日、毛利敬親が、形勢切迫せるを以て、緒隊の
 軍備を急ぎ、幕府軍対抗に備えた。
1866年5月21日、海外行き許可の認証に関する布告。
  幕府が、学術および商用や留学目的の海外渡航を解禁
 した(海外渡航を許した)。
1866年5月28日、薩摩藩は、正式に、第二次長州征討軍に参
 加しないとした。
  ここに至って、幕府は、長州藩の武力討伐に意を固め、
 その準備を進めて来たが、1866年5月10日に、改めて、長
 州藩主父子、及び、重臣に広島に出頭するよう命じた。
  長州藩は、既に、幕府軍との開戦はやむを得ないとし、
 時間稼ぎの交渉を続ける。
  戦闘準備のための時間が欲しい長州だった。
  1866年5月28日に、薩摩藩が、正式に、第二次長州征伐
 の参加ができないとした事により、薩摩藩に割り当てら
 れていた萩口の攻め口は、消滅する事となった。
  第二次長州征討は、芸州口・石州口・小倉口・大島口
 の4つの戦線で戦われる作戦だった。
  また、幕府は、長州藩の本拠である萩を、海路から、
 直接、攻撃することも考えていた。
  そして、それを、薩摩藩兵を、その主力にするつもり
 だった。
  この作戦予定も立たなくなった。
  この薩摩藩の出兵拒否は、第二次長州征伐に難色を示
 す諸藩にも影響を与えた。
  薩摩藩の様に、出兵を拒否する諸藩が現れる要因とな
 った。
  また、出兵拒否まではいかなくても、参戦しても戦意
 が無い藩が多く生まれる背景となった。
  長州藩としては、萩口からの攻撃が無くなったのは大
 きかった。
  それの戦力を、他の戦線に回すことが出来た。
  強大な幕府軍を迎え撃たなければならない長州軍にと
 って、その作戦を立てる大村にとって、多大なる恩恵を
 与えた。
  でも、まだ、この時に、長州へは、西国の諸藩を中心
 とした17藩が出兵して来ていた。
  この様な状況の中で、1866年7月11日を最終期限として、
 最後通告が長州藩に来た。
  長州藩は、この最後通告も無視した。
  ここに至り、1866年7月18日に、広島を出港した幕府海
 軍の軍艦・富士山丸から、長州藩領の上関に対して艦砲
 射撃が行われた。
  この事が皮切りとして、幕府軍は、山陽道から長州へ
 侵攻した(芸州口)、
  また、山陰道からも、長州へ侵攻する(石州口)、
  そして、九州から関門海峡を渡って長州に侵攻する(
 小倉口)、
  そしてまた、四国から瀬戸内海を渡って、長州へ侵攻
 する(大島口)、
  以上、幕府軍は、計四方面から長州藩への侵攻をした。
  萩口の薩摩藩の予定の侵攻は行なえなかった。
1866年、汎日本的立場に・・薩摩藩の西郷と大久保
  この年に、西郷と大久保は、島津の一家臣の立場から、
 『汎日本的立場に立つ行動』へ向かおうとする。
  西郷と大久保の黙契(もっけい、無言のうちに合意が
 成り立つこと)
  西郷の許(もと)へ赦免(1864年)の船が向けられる
 と、西郷は、京へ駆け上った。
  大久保に迎えられた西郷は、5年に亘る空白の鬱積(
 うっせき)を吐(は)きつけた。
  国の政治の中心は京であった。
  幕府は、尊王攘夷の反幕の嵐に立ち向かうかのように、
 将軍は、自ら、大坂に出て来ていた(1863年)。
  京に天皇、大阪に将軍で、畿内は、にわかに緊迫して
 いた。
  久光の標榜(ひょうぼう)する公武合体論は、革新性
 を失っていた。
  和宮の降嫁(1862年3月11日)によって、徳川家は、天
 皇家の姻戚(いんせき)となり、参台した将軍・家茂に、
 政務委任確認の勅が下されるに至って、幕府の存続・延
 命が助長された。
  西郷と大久保は、島津の家臣である事から脱け出し、
 汎日本的立場で行動しようとした。
  土佐の坂本龍馬の様に脱藩する気はない。
  二人は、薩摩藩という強力な組織を利用した。
  この時、西郷は38歳(1866年)、大久保は35歳。
  二人は、黙契を固めた。
  それは、一切の行動を勅命・勅許によって権威づける
 こと。
  そして、常に主導権を保つであった(参考:プレジデ
 ント平成10年7月号)
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2015年12月27日日曜日

(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月~1866年1月)

題:(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月~1866年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(慶応1年)9月10日、長州藩のはっきりしない態度
 に、将軍が江戸を進発するという令を、1865年5月12日
 (旧暦:4月18日)に出した。
  そして、将軍は、江戸を出発し、上洛し、参内した。
  幕府と長州の駆け引きが続く・・、
  そこまで出来る長州へと育っていた、また、幕府の権
 威が凋落していた。
  高杉も長崎に行ったり・・、長州藩は、抗幕態勢を整
 えている。
  長州藩の村田増六(後の大村益次郎)も、近代洋式軍
 隊の創設をした。
  薩摩の西郷と、長州の桂が、会談へと斡旋され・・、
  その様な時の、この日(1865年9月10日)、井上馨と伊
 藤博文が長崎へ入った。
  長州藩は、抗戦武装のため、小銃1万丁を求め、青木郡
 平を長崎に派遣していた。
  坂本竜馬は、薩摩藩の名義で、長州藩がイギリスより
 購入できるように薩摩藩へ運動した。
  薩摩が同意したため、桂は、藩政庁の承諾がないまま
 2人を長崎へ派遣したのであった。
  千屋虎之助、高松太郎、上杉宗次郎、新宮馬之助は、
 協議の上で、小松清廉に、薩摩藩で、伊藤・井上を潜匿
 (せんとく、人知れず隠れること)させるように依頼し
 た。
1865年、第二次長州征伐・長州再征が発令されて・・、
  長州藩は、朝敵の立場であったので、表立って武器は
 調達出来ず・・、
  薩摩藩が調達した武器を、長州藩に融通していた。
  ただ、薩摩藩も、まだ幕府と決定的に対立していたわ
 けではないので、
  まだ、表立って名前を出すことは出来なかった。
  その様な両藩を、仲介する形で、間に立ったのが坂本
 龍馬の率いる亀山社中だった。
  薩摩藩が調達した武器を、亀山社中が長州藩に届け、
 長州藩は、その代金として米などで亀山社中に払い、亀
 山社中が、それを薩摩藩に輸送した。
  薩摩に限らず、多くの西国大藩はこの第二次征長には
 出兵しなかった。
  この時期、洋式兵制が整った藩はほとんどなかった。
  長州藩にしても 洋式兵制で、ある程度、訓練を受けた
 のは、まだ、3000~4000人に過ぎなかった。
  小倉口の敗戦は、家茂死去以降、主力の筑前藩、肥後
 藩が引き上げた後に、小倉藩と、八王子千人隊だけにな
 ってしまったからだった。
  八王子千人隊は、洋式訓練受けている筈だが、活躍し
 たという事例がまったくないので、事実は不明?
  役に立たなかったのかもしれない?
  八王子千人隊は、八王子千人同心(はちおうじせんに
 んどうしん)とも言い、
  徳川家康の江戸入府に伴い、1600年に発足していた。
  そして、『徳川実紀』には・・、
  「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王
 子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首
 領とした。
  その理由は、八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有
 事の際には、小仏峠方面を守備させようとお考えになっ
 たからだった。
  同心どもは、常々、甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿
 の類をはじめとして、甲斐の産物の行商を行い、江戸で
 売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ
 った」(現代語訳)
  すなわち、千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に、徳川
 氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・
 豪農などで組織されていた。
  甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田
 家遺臣を中心に、甲斐方面からの侵攻に備えたためだっ
 た・・、
1865年12月31日、筑前の女傑・野村望東尼が、玄海の孤島
 姫島に流された。
1865年、牛乳の販売
  この年、幕府が、雉子(きじ)橋門内の牧場で牛乳をと
 り、一部を市中にも売り出した。
1865年、津田真道(つだまみち、法律家、法学博士、開成
 所教授貴族院議員)訳『西洋各国盛衰強弱表』
1865年、アメリカの第1期プロパテント時代(特許重視)
1865年、ジオヴァニ・カセリがファクシミリを発明した。
1865年、アメリカ合衆国で、この年まで、200年以上の間
 (1640年代~1865年)、アフリカの方々と、その子孫の
 方々が、合法的に奴隷化されていた。
  その所有者は、圧倒的に白人だった。
  4家族に1軒が奴隷を所有し、
  奴隷にされた方々の労働から富を搾取するという、非
 人道的行為が行なわれていた。
  17世紀から19世紀にかけて、何と、1200万人ものアフ
 リカの方々が、
  アフリカ大陸の地から、奴隷として連れ出されて来て
 いた。
  荒れ地のプランテーションを切り開くという超重労働
 に従事させられて、亡くなるという・・アフリカからの
 奴隷の方たちだった。
  死亡率は凄まじかった。
  労働が、過酷になるほど、奴隷の方たちの反抗も増え、
 白人たちは、暴力に訴えて監督をするという状態だった。
  日の出から日没までの・・過酷な労働だった。
  ニューオーリンズの奴隷売買の市場が最大だった。
  白人の奴隷所有者の言葉が残っている・・、
  「奴隷に説得して働くように仕向ける事は、豚に真珠
 を投げる事に似ている。
   奴隷は、働くように仕向けなければならない、罰を
 受ける事を常に理解させておくべきだ」。
  腕力での管理が目に浮かぶ、
  その腕力を受けるアフリカから来た方々が悲惨だった。
  キリスト教の聖書にも、隣国に攻め入った、キリスト
 教徒の「神の許しを得て非行を行なう、奴隷狩り」のキ
 リスト教の教義が記されている。
  キリスト教の神は、叫ぶ、「○○人は全滅にせよ」「
 △△人は男だけを殺せ」「生娘は生かしておけ」
  そして、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」・・と。
  自分たちの利ために、相手の民をしゃぶり尽くす。
  その事をキリスト教の神は叫び、そして、「奴隷にす
 る」。そのことをキリスト教聖書は説き、教える。
  聖書に書かれた事であるため、忘れられる事なく、連
 綿と歴史に、この悪行為は続けられて来た。
  市場で売買される奴隷の方々についての話・・、
  「その奴隷に売られる100人の娘たちは、印のために、
 足に石灰を塗られた。
  売りに出された奴隷だとすぐ分かる様に、その様な非
 人道的な事をされた。
  また、一家単位で取引される奴隷もあるが、その一家
 が、バラバラにされて、売りに出される、白人たちの勝
 手な都合で取引された。
  見捨てられた子供が、哀れだった。
1865年4月9日、アメリカ合衆国の南北戦争が終了した。
  この南北戦争が終了すると、アメリカ政府は、今度は、
 アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々へ、
 全力投球の戦争でもって、向かって行った。
  その目的は、アメリカ・インディアンの方々を狭い区
 域に入れたい、閉じ込めたい、
  そして、アメリカ・インディアンと白人・アメリカ人
 との間を引き分ける「はっきりした境界線」が引きたい
 のだった。
  そして、それをやるために、あらゆる戦争・軍事上の
 行動をするという方針だった。
  アメリカ・インディアンのスー族が、この勝手なアメ
 リカ政府の方針に、特に、抵抗した。
  それまで虐げられてきたインディアンの方々、スー族
 の方々は、やっと住み慣れたプラット川の谷に広がるブ
 ラックヒルズの領土を守りたいと思った。
  領土防衛のために決死の覚悟で立ち上がった。
  スー族は、アラパホ族やシャイアン族の理解と支持を
 受けた。
  戦いが繰り広げられた。
  戦いは長く続いた。
  被害が大きい『消耗戦』となった。
  悲惨な戦いが続いた。
  アメリカ政府は、インディアンの方々と交渉を持つ方
 針に切り替えた。
  1868年の春に、ララミー砦で結ばれた約束・条約では、
 スー族によるブラックヒルズとプラット川渓谷の統治権
 が認められた。
  アメリカ政府が作らせたアメリカ軍の砦のいくつかも
 撤去する事となった。
  しかし、アメリカ・インディアンの方々が、当然、得
 たいだろう自由に住む権利、生活する権利は奪われたま
 まだった。
  肝心の、この当然の権利は認められなかった。
  狭い居留地に住み続けさせることが、アメリカ政府の
 根本精神だった。
  人権は全く認められていなかった。
  隔離生活が続き、虐げられた。
  ここに、自由や民主主義は全くなかった。
  人権、人道に従う道もまったくなかった。
  アメリカ・インディアンの方々の多くの命を懸け、殺
 戮され、失った命が無駄になってしまっていた。
  この戦いが起こされる前、アメリカ政府は、インディ
 アンの方々へ、インディアンの土地に止まるのではなく、
 さらに西へ行って金を探すためだと嘘を言っていた。
  「我等と同じ人々よ、よく聞け、ワシントンにいる白
 人の長の言う事は、嘘となり(だましとなり)戦争にな
 ってしまう。私は戦うつもりだ」と。
1865年4月14日、第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハ
 ム・リンカーンが狙撃された。
  フォード劇場で「Our American Cousin」(われらのア
 メリカのいとこ)を、
  妻メアリー・トッド、従者フォーブスとラスボーン少
 佐、少佐のフィアンセのクララと観劇中だった。
  北部軍メリーランド州出身のジョン・ウィルクス・ブ
 ースに1.2メートルの至近距離から、拳銃で、後頭部左耳
 後5センチを1発、撃たれた。
  狙撃時刻は、午後10時13分(午後11時17分?)
  4月15日、午前7時21分、向かいの民宿、ピーターセン
 ハウスにて死亡が宣告された(1809年~1865年)
1865年、北部人による南部人へのいやがらせ
  アメリカの南部人は、北部人から、嫌がらせを受けた。
  その市長の席から、町長・村長の席から、郵便局長の
 席から、あらゆる要職の席から、北部人によって追放さ
 れた。
  そして、何と、そこへ黒人の方たちを据えた。
  これは、当てつけだった。
  嫌がらせだった。
  自分たちが、しなかったことを、できなかった事を、
 南部人に対してやった。
  1872年に至って、やっと、この嫌がらせ行為を止めた。
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