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2016年2月26日金曜日

(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)

題:(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年9月18日(8月4日)最初の侍従長が任命された。
  侍従長の徳大寺実則(とくだいじさねつね)は、明治
 天皇陛下の政治関与に強く反対し、
  侍補(じほ、宮内省内に置かれた役職)制度が定めら
 れて、天皇陛下の親政運動が行なわれた時には、その阻
 止に強く動いた。
  また、自らの政治的関与も、強く戒めていて、
  政界に転じた実弟の西園寺公望(さいおんじきんもち、
 公家、政治家、教育者)とは、公の場所以外では会話も
 しなかった。
  天皇親政運動: 明治前期の天皇陛下を政治的君主とし
 て強化しようとした元田永孚(もとだながざね、熊本藩
 士、儒学者、男爵)ら 侍補による政治運動。
1871年9月19日(8月5日)太政大臣・三条実美(さんじょう
 さねとみ、公卿、政治家、公爵)が、鉄道一部竣工につ
 き、横浜に於いて汽車に試乗した。
  翌日の9月20日(8月6日)に、参議・木戸孝允、同大隈
 重信、工部大輔・佐藤象二郎、工部少丞・吉井源らも、
 横浜~金川(神奈川)間を試乗した。
1871年9月23日(8月9日)散髪脱刀令(さんぱつだっとうれ
 い)、政府の開化政策の一つとして、旧風を改め、散髪・
 廃刀の自由を許した。
  明治政府は、太政官布告を以て「散髪脱刀令」を布告。
  士族の断髪、脱刀、服装の自由化。
  平民の羽織袴も無制限に、
  江戸時代末からすでに行われていた。
  「半髪(はんぱつ、野郎頭。男の月代さかやきのある髪
 の結い方)頭をたたいてみれば、因循姑息(いんじゅんこ
 そく、古い習慣に頼って、その場をしのごうとすること)
 の音がする。
  惣髪(そうはつ、月代を剃らず、髪を全体に伸ばし、頭
 頂で束ねたもの)頭をたたいてみれば、王政復古の音がす
 る。
  ジャンギリ頭(髪を散切・ざんぎりにしたもの)をた
 たいてみれば、文明開化の音がする」と流行歌(はやり
 うた)があった。
  民衆は、喜んで受け入れた。
  しかし、熊本で、不満な小学校教師たちが、学校を閉
 校することが行われた。
  また、この布告は、女性の断髪も促した。
  髪を切る婦女が多いため、この風潮を止めようと、
  1872年に、東京府では「婦女子散髪禁止」の告諭(こ
 くゆ、言い聞かせる言葉)を発した。
  脱刀は、強制ではかなった。
  士族の帯刀者が多い状態だった。
  1875年12月に、陸軍卿・山形有朋が、徴兵令によって
 武士の帯刀の必要性はなくなったとし、廃刀を建議し、
  1876年(明治9年)に、帯刀禁止令(廃刀令)が出され、
 軍人や警察官以外は帯刀禁止となった。
1871年9月23日(8月9日)米麦輸出禁令の撤廃。
  安政期に、列強五か国と条約条約を取り交わしたが、
  そこにあらわれた欧米列強諸国の外交意図は、
  日本を、欧米資本主義の大量生産品を売りさばくため
 の、また、その原料を輸入するための、
  半植民地的な市場と位置づけるものだった。
  板垣退助が、会津で見た様な「君国ノ滅亡」の危機は、
 目前に迫っていた。
  この様な状況にあって、新政府には・・、
  日本が国家としての独立を保つため、
 そして、政治・経済・軍事の近代化を、
  最も短い期間内に、なし遂げる必要性が痛感した。
  この様にして、新政府は・・、
  わが国が、大久保利通が「万国ニ御対立」と表現した
 様に、万国と対峙(たいじ)するために、
  統一国家の建設、そしてまた、
  資本主義の発展という歴史的な使命を達成する必要を
 痛感した。
  新政府の政権の足元をおびやかすものは、
  明治元年以来、再び盛り上がってきた農民一揆だった。
  農民大衆の重租に対する不満は、極度に達し、
  政権の基礎に脅威を感じさせるまでになっていた。
  1868年(明治1年)~1870年(明治3年)の間に90件の
 農民一揆が発生し、
  そのうちの20件は、新政府が直轄する県のものだった。
  政府は、日々の莫大な支出に充てるための
  商人からの借入の返済に、
  安定し、まとまった歳入を確保しなければならず、
  その唯一の恒常的な財源は、幕藩体制から引き継いだ
 封建的な貢租である旧地租だった。
  それは、全歳入の6割未満(通常歳入の8割)であり、
  全歳入の2割強は、不換紙幣の発行、および、三井・
 小野・島田を筆頭とする商人からの臨時借入、および、
 外債だった。
  商人からの借入は、政商を生み出した。
  歳出は、その約4割が、家禄賞典禄等の旧封建支配者
 救済の費用であった。
  陸海軍費は、一般行政費の2倍に近く、さらに内乱・
 外征の戦費も多額にのぼるものだった。
  明治政権は、「農民からの封建的搾取に右足を置き、
 政商資本たる商業・高利貸資本家層の援助に左足をのせ
 るもので、
  そして、崩れ行く封建支配収拾の任務と、
  欧米列強に対抗する軍事力創出の強兵富国策実現の任
 務とを、一身に体現(たいげん、身を以って実現するこ
 と)していた。
1871年9月24日(8月10日)江藤新平が、左院副議長に就任。
1871年10月2日(8月18日)明治天皇陛下、馬車を召され浜
 殿へ行幸(馬車にて行幸の始め)
1871年10月2日(8月18日)東京、大阪に鎮台を設けた。
  鎮台(ちんだい)は、 明治初期の常備陸軍のことで、
 1871年(明治4年)に、東京・大阪・鎮西(小倉)・東北
 (石巻)の4鎮台を置き、
  1873年(明治6年)に、東京・仙台・名古屋・大阪・
 広島・熊本の6鎮台となった。
  また、1888年(明治21年)に、師団と改称した。
1871年10月4日(8月20日)この頃、条約改正使節に大隈重
 信をほぼ内定した。
1871年10月5日(8月21日)伊豆の石室埼燈台が竣工す。
1871年10月5日、長崎~ウラジオ間の海底電信線敷設工事が
 完成した。
  11月21日に、長崎~ウラジオストックの通信を開始し
 た。
  また、別史料には・・、
  日本最初の海底ケーブルは、1871年8月(明治4年6月)
 に敷設された長崎~上海間、及び、長崎-ウラジオストク
 間のものである。
  現在の長崎市南山手一丁目18番地には、「国際電信発
 祥の地」の碑があるが、
  かつて、ここにあったホテルベルビューの一室を借り
 ていた大北電信会社によって、
  1871年9月26日(8月12日)、一般公衆電報の取り扱い
 が始まった。
  これは、日本における国際電報事業が開始された日で
 あり、翌年・1872年、開通した欧亜陸上電信線と接続さ
 れた。
1871年10月6日(8月22日)坂本龍馬、中岡慎太郎両家共、
 その姪に故人の家督相続を許される。
1871年10月7日(8月23日)華族・士族・平民相互の結婚を
 認めた。
1871年10月7日(8月23日)御所機能が廃され、東京への首
 都機能の移転が行われた。
  京都では京都御所を後に残して、1871年(明治4年)ま
 でに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が
 次々に廃され、中央行政機関が消えていった。
  また、留守官は、1870年6月(明治3年5月)に、京都府
 から宮中に移され、
  1871年2月(明治3年12月)に、京都の宮内省に合併、
  1871年10月7日(明治4年8月23日)には廃され、東京へ
 の首都機能の移転が行われた。
  東京への移転を完了し、この実施により、中央集権体
 制が作り上げられた。
1871年10月(8月)官庁で椅子の使用が始まった。
  この年に、椅子、テーブルの使用が流行し始めた。
1871年10月15日(9月2日)官吏月給制の実施
  官吏の給与を月給制とする
1871年10月15日(9月2日)この頃、条約改正使節が大隈か
 ら岩倉具視に代わった。
1871年10月18日(9月5日)東京の元聖堂大成殿に文部省直
 轄の博物館を開設し、物産所所蔵の物品を移す。
1871年10月20日(9月7日)田畑勝手作の許可
  農民に希望の作物を作らせた。
  大蔵省が「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」
 と令した。
  江戸幕府は、石高制と年貢の米納原則を維持するため
 に田畑勝手作禁止令を出した。
  しかし、時代が下って来ると商業作物の生産が広まり、
 形骸化していった。
  明治になって、政府は、輸送手段が発達したことや、
 年貢の石代納(こくだいのう、年貢米で納める代わりに、
 貨幣で納めること)を認めたことを理由に、田畑勝手作
 禁止令を撤廃し、農民がそれぞれの土地に適した農産物
 を生産することを奨励した。
  これは、農民の生産意欲の向上とともに、政府への租
 税収入の安定・増加を図る事になった。
  そしてまた、計画されていた地租改正にともなう租税
 の金納化に備えた措置でもあった。
  これに続いて、翌年の1872年には、田畑永代売買禁止
 令を廃止する地所永代売買解禁が出された。
  田畑勝手作の許可[1871年10月20日(明治4年9月7日)
 大蔵省布告第47号]
  是迄夫食不足ノ訳ヲ以田畑ヘハ米麦雑穀ヲ重モニ作付致
 シ桑楮漆茶藍麻藺菜種其外ノ作物共其土地ニ適当致シ候
 テモ作付不致或ハ元地頭領主ヨリ差留候向モ有之候処追
 々運輸ノ道辨利相成其上是迄米納ノ向モ願次第石代納御
 差許相成候事ニ付村々百姓銘々ノ夫食取入候外ハ何品ニ
 限ラス勝手ニ作付致シ候方下々ノ利潤ニモ可相成候間総
 テ従来其土地ノ貢租辻ヲ以テ年季ヲ究メ検見ノ場所ハ新
 規定免ノ規則ニ照準シ定納相願候上ハ屋敷成並田畑勝手
 作共御差許可相成候条地味ノ善悪作物ノ損得篤ト勘弁イ
 タシ充分仕当ニ可相成見込有之候ハ丶可願出事
  右ノ通管下村々ヘ触達願出候モノ有之ニ於テハ従前ノ貢
 租辻等篤ト相糺不都合無之候ハ丶聞届置追テ可相届事
  但田畑成畑田成共貢租辻増減無之分ハ総テ可為本文之通
 事
1871年10月22日(9月9日)ドン(正午号砲の制)を制定。
  江戸城より初の午砲、正午を知らせた。
  正午、宮城内・旧江戸城本丸の
 庭園にて、近衛師団の砲兵が空砲による最初の報時を行
 なった。
  江戸時代の時の鐘に代わるもの。号砲、午砲。
  その発射音の「ドン」が俗称となる。
  全国の陸軍師団司令部所在地に於いても、各師団砲兵
 にて的確に実施。
  師団所在地の都市を中心に「ドン」という言葉が普及。
1871年10月30日(9月17日)武門の流弊除去(無礼討ちの禁)
 (旧暦8月17日説あり)。
  1862年の生麦事件の時は赦されたが、武士の特権であ
 った「無礼討ち」を禁止した。
  流弊:(りゅうへい)以前からの悪い習慣。
1871年11月1日(9月19日)、政府印刷事業が始まった。
  日本における印刷業の本格的定着は、この年の政府令
 による4種類の郵便切手の印刷によって始まった。
1871年11月4日(9月22日)明治天皇陛下、日比谷操練所に
 て陸軍整列御閲兵(最初の天長節観兵式)
1871年11月5日(9月23日)華士族・平民相互の結婚の許可。
1871年11月5日(9月23日)、新政府が、西郷隆盛(43歳)
 を迎え、筆頭参議に据えた。
  西郷は、1871年4月に提案した御親兵の編成が成り、
  1871年8月、木戸とともに参議になり、
  そして、この日、新政府は、西郷を筆頭参議に据え、
  岩倉使節団が、米欧に派遣された際は、筆頭参議とし
 て留守政府を総理した。
  そして、外遊派は、新規事業と政府首脳部人事の凍結
 を西郷に誓約させたが、
  留守政府では、各省が学制、徴兵制度、地租改正など
 の重要政策実現に邁進した。
  破壊の時代にときめいた者は、必ずしも新時代建設に
 も適任とはならなかった。
1871年11月12日(9月30日)日本の「野球の初め」
  我が国の初めての野球の試合が行われた。
  そして、最初の国際試合は、「一高」対「横浜在留ア
 メリカ人」。
  無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申
 し込んだが「まあ、やめておきましょう」という返事で、
 相手になってくれなかった。
  明治29年に、やっとこの試合が出来た。
  因みに、野球という言葉は、明治27年、中馬庚(ちゅ
 うまんかなえ、教育家)が、「Ball in the field」を訳
 して「野球」と命名した。
  また、因みに、「ショート・ストップは、戦列で時期
 を見て待機し、動き回ってあちこちを固める”遊軍”の
 ようだ」と説き、
  「遊撃手(ゆうげきしゅ)」という名称が広まった。
  1970年に、特別表彰で、野球殿堂入りした。
..
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2016年2月25日木曜日

臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)

臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  コンクリート。
  コンクリートは、砂利と、砂と、セメントに、水を入
 れながら混ぜ、こねて作られます。
  混ぜ、そして、こねると「ドロドロしたもの」になり、
 この水を入れた時点から、セメントと水は反応(化学反
 応)を始める。
  だから、水を入れて混ぜ始め、そして、その混錬が終
 わったら、なるべく早く型に入れる必要がある。
  型に入れるのが遅くなれば、なるほど、コンクリート
 の品質は低下する。
  コンクリートは、ドロドロしているから、どの様な型
 にも、当然、入る。
  だから、好きな形に、ものを作ることが出来る。
  型に入ったコンクリートは、熱を出しながら固まって
 行く。
  だから、建物や、橋や、トンネルなどを作ることが出
 来る。
  気温が低いと固まらない、または、固まりが不十分に
 なる。
  だから、北海道の様な、極寒の地の冬は、特に、大量
 の灯油を燃やし・・温める。
  東京でも、厳しい低温が予想されれば温める。
  この様にして、その化学反応を進め、固まらせて、強
 度を出させる。
  そして、日が経ち、過ぎて行くと強度が出て来る。
  強度が出て来れば、皆さまを支えることが出来る構造
 躯体になることが出来る。
  そこに、家具や机や機器や、好きなものを入れられる。
  楽しい住宅になったり、楽しい買い物ができるショッ
 ピング・センターになったり、好きな所へ早く行くこと
 が出来る高速道路になったり、
  楽しい家族旅行が快適に行けるトンネルや、新幹線を
 走らせられたりする。
  これらの事を実現させてくれている『コンクリート』。
  昔は、この様な、命や暮らしを支えてくれるものに、
 感謝し、祈ったものだ。
  物だけでなく、それを実現させてくれた道具や機械、
 あらゆる、すべてのものに、感謝の気持ちを捧(ささ)
 げた。
  その様な感謝の気持ちの中に、暮らして行くことが大
 事だった、そして、大切だった。
  今は、それがない。
  素晴らしい素材=コンクリート。
  この素晴らしいコンクリートを成り立たせているのが、
 「砂利」「砂」「セメント」「水」。
  この素材が、今、「ピンチ」です。
  良質な素材は、既に、『枯渇』しました。
  この様な意味からも、出来たものは、出来上がったも
 のは、大切にしなければなりません。
  安易に、NHKの様に、「建物は○○年、橋は△△年」
 と放送し、
  また、NHKの近所の「子供の城は壊す事になりまし
 た」などとニュースにならないニュースを放送して、洗
 脳する、マインド・コントロールする事は、「社会悪」
 です。
  使い続けることが出来る建物・社会資本の見本が、上
 野の前川国夫の「文化会館」です、そして、ル・コルビ
 ュジェの国立西洋美術館です。
  国立西洋美術館は、世界遺産に登録して、『永久』に
 使って行こうとしています。
  この姿勢でなければなりません、この姿勢が正しいの
 です。
  武甲山は無くなりました。
  急に、この様に言われても、何の事かが、お分かりに
 ならないと思います。
  ここが、「セメント」の古里なのです。
  武甲山は、無くなりました。
  関東地方のセメントは、この武甲山の山を削って作っ
 ています。
  山野草の図鑑を見ると、武甲山に生えているという記
 述の希少な植物がありますが、
  その消息が、心配なほど武甲山は、そのほとんどを無
 くしました。
  埼玉県秩父にある武甲山。
  登山ガイド・ブックのブルー・ガイドブックスにも掲
 載された登山できる山・武甲山は、今は、ありません。
  皆、東京や、その近県の、建物や橋や、トンネルや高
 速道路などなどに、なってしまいました。
  かつて、山男が、足の下に踏み固めた道はありません、
 山は、今は、ありません。
  この様な状況からも、出来上がったものに感謝し、大
 切にして行かなければなりません。
  武甲山は・・あと、半分です。
  アフリカの川鰻(かわうなぎ)。
  この希少な川鰻まで食べてしまおうという日本人。
  次世代の方々に残せ、飢えているアフリカの方々のた
 めに残せ・・、
  飢えているアフリカの方々が、食べられるくらいの量
 の食べ物を捨てている日本人。
  物は、何でも大切にしなさい。
  ベニヤ板で、熱帯雨林を「はげ山」にしている日本人。
  このベニヤ板で建物の型が作られている。
  そして、コンクリートを作っている砂利の話。
  川の砂利は、角がとがってなく、丸く、コンクリート
 の骨材(こつざい)として使うのに適している。
  しかし、川の砂利の採取をすると川底が下がり、川が
 深くなる。
  その結果、川に設けられた橋の基礎が露出して来た。
  ひどい橋は、その基礎の下の杭まで現れ、出て来てし
 まう状態となった。
  杭は、上からの重い荷重を支えるためで、この上から
 の方向の力には強いが、横からの力には弱い。
  その橋に、電車が走ったり、自動車が走ったり、振動
 が、その横からの振動が杭に加わり、そしてまた、加え
 続けられたりすると劣化し、品質が低下したり、
  また、地震で橋が揺らされて、杭にその横揺れの力が
 加わったりすると、横の力に弱い杭は、折れたりする恐
 れがある、その心配があった。
  それらの悪現象が出るまで、川の砂利が取り続けられ
 た。
  それで、採取禁止になると・・、
  川の岸、川岸を掘って、川砂利を取った。
  深い大きな穴・「砂利穴」が出来た。
  その砂利穴は、浅瀬が無く、急な斜面の穴なので、子
 供たちが落ちやすく、
  岸へ上りずらい、「アリ地獄」のような状態の為、子
 供たちが、よく転げ落ちて溺(おぼ)れ死んだ。
  多くの子供たちが、この罠の様な、コロコロすべる砂
 利の岸から転げ落ちた。
  アリ地獄のような砂利穴に落ちておぼれ死んだ。
  皆が行く、子供もよく行く、川に仕掛けられた、あた
 かも罠のような状況だった。
  川砂利は、この様な、犠牲となってしまう子供たちが
 出る状況において、供給された。
  そして、その子供の命の入った砂利で作ったコンクリ
 ートで、都市の建物などが建設された。
  亡くなった子供たちの事などへ、思いがおよばずに、
 出来上がった、新築なった建物へ入居した。
  そこに、皆の笑顔があった。
  だが、陰で泣いている、亡くなった子供さんと、その
 御両親、兄弟姉妹、親戚、近所の方々、学校の友達など
 など、多くの泣いている方々が居た。
  川砂利は枯渇して、この様な惨事まで生み出して、川
 砂利採取は禁止された。
  川砂。
  コンクリートを作るには砂も必要。
  川の砂は、常に、川の水で洗われていて、洗浄されて
 いて、コンクリートが嫌う不純物などが無く、良質だっ
 た。
  しかし、川砂利と同様の問題を起こした。
  また、その砂や砂利の洗浄水が川を汚染した。
  魚の遡上が問題となったりした。
  川砂採取も禁止で採れなくなった。
  そこで、やむなく、海の砂を使った。
  海砂は、塩分が含まれていた。
  これは、コンクリートに対して大問題だった。
  清浄な水を使って洗った。
  洗ってその塩分を取り去ろうとした。
  しかし、塩分は、そんなに簡単に取り切れるものでは
 ない。
  塩分が含有する、残る、その海砂で、コンクリートが
 作られ、建設に使った。
  砂が無いので、やむを得なかった。
  塩分の入ったコンクリートが、世の中に供給された。
  そのコンクリートは、鉄筋を錆びさせた。
  それ故、海砂は、必死に洗浄された。
  コンクリートの強アルカリ性も鉄筋を錆びさせないよ
 うに働いた・・が、しかし、海砂は、川砂の様な最適な
 骨材ではなかった。
  そして、砂や砂利は、山にそれを求めて行く。
  ここにも問題があった。
  まだまだ言い足りない部分がありますが、この様な背
 景で、あまり関心が無かったでしょうコンクリートに、
 この様な背景があります。
  コンクリートは、非常に『貴重』なものなのです。
  NHKが煽って、世は、すぐ壊して、建て直すという
 風潮になっていますが、反社会的な行為です。
  社会資本は、しっかりメンテナンスして、しっかり大
 切に、使い切って行くのが、社会正義です。
(追伸)
  1936年に建設されて、80年が経過している国会議事堂
 が建て替えをしなくて、長く使っていて、
  その約半分のNHKが、何故、建て替えなければなら
 ないのだ。
  アメリカのエンパイアー・ステートビルなど、しっか
 り長く使っているビルは目白押しにある。
  参議院の予算委員会で、自民党の二之湯さとし議員が、
 NHKに、ゴマをすって「50年、NHKは使ったから」
 と言って、NHKの建て替えを容認しましたが?
  根拠はまったくありません。
  NHKを管轄する総務大臣が、NHKへ、「視聴者の
 方々へ、建て替えについて誠実に説明する義務がありま
 す」と言われたが、NHKは、その説明責任を果たして
 いません。
  NHKは、耐震補強をしてお金をかけているならば、
 まだまだ、しっかり使用が出来ます。
  まだまだ大切に使って行って下さい。
..
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2016年2月24日水曜日

(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)

題:(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年9月2日(明治4年7月18日)文部省が設置された。
  文部省が創設され、江藤新平が、初代文部卿(文部大
 輔)になり、学制の改革が急速に行なわれた。
  維新直後は、江戸時代以来の諸藩がなお存続しており、
 個別に藩内の教育を統轄し、また、独自の教育改革を行
 なっていた。
  したがって、新政府の教育政策の直接の対象は、府県
 の教育に限られ、
  それは、全国的に見れば一部の地域に過ぎず、
  全国の大部分を占める諸藩の教育は、新政府の直接統
 轄するところではなかった。
  明治四年七月に廃藩置県が行なわれ、
  その後、新政府は、初めて全国に統一した行政を実施
 できる体制となり、
  これに伴って、全国の教育行政を総括する機関として
 文部省が設置された。
  文部省の設置は、廃藩置県後まもない、この日・明治
 四年七月十八日であり、
  「大学ヲ廃シ文部省ヲ被レ 置候事」という太政官布
 告が発せられた。
  この大学を廃止して文部省を置くということは、この
 時まで、大学が、教育行政の機能をもっていたためで、
  明治二年七月の官制改革によって、教育行政官庁とし
 て「大学校」が設置されていて、
  同年の明治二年十二月に、これを「大学」と改称した。
  当時の大学は、最高学府であるとともに、教育行政官
 庁でもあった。
  明治三年七月に大学本校は閉鎖され、その教育・研究
 の機能を失ったが、行政官庁としての大学は存続してい
 た。
  そして、その大学が廃止されて、新しくもっぱら教育
 行政を担当する機関として文部省が設置されることとな
 った。
1871年9月6日(7月22日)寄留・旅行者の鑑札制の廃止
  旅行の自由が許可される。
  現代においては、「旅行の自由」は当たり前の様に思
 えるが、これは戸籍にからんで、様子が少し違った。
  1871年5月22日(4月4日)、新政府はかねてより準備を
 進めていた 全国的統一戸籍の編製を命じた。
  明治四年戸籍法の公布(壬申戸籍)で、
  制定の動機は、その前文に・・
  『戸数人員ヲ詳ニシテ猥ナラサラシムルハ政務ノ最(
 モ脱か) 先シ重スル所ナリ』とある。
  脱籍浮浪の徒の取締と復籍 (本籍返し)や、
  人民の居住、交通に関する制限監視の統一化という点
 があった。
  そして、短期の移動(旅)について、
  「出生死去出入等ハ必其時々戸長ニ届ケ、戸長之ヲ其
 庁ニ届ケ出」るとある。
  また、「凡ソ旅行スルモノ、官員ハ其官省等ノ鑑札ヲ
 所持シ、 自余ハ臣民一般其管轄庁ノ鑑札ヲ所持スヘシ
 (略)鑑札ニハ当人名住所ト職分ヲ 記スヘシ」とある。
  つまり、管轄外に旅行する者は、戸長に届け出て、鑑
 札の交付を 受けて携行するようにと義務付けられていた。
  しかし、この時から4か月もたたないこの日・7月22日
 に 鑑札は廃止となった。
  しかし、旅行届の方は、これまでの「規則ノ通可相心
 得事」、つまり、「継続する様に」とが命じられた。
  中央法令たる戸籍法に基づいて、 実際に戸籍事務を扱
 う地方の行政体が、管轄下の住民に、旅行時の届出を命
 じる仕組みとなった。
  山口県の令を見ると、1872年7月(明治5年6月)に、
 「是迄之通」「届出を命じる布達が出され」、「戸籍法
 が改正される明治十九年まで旅行届 が提出され続けてい
 た」ことが確認できる。
  しかし、中央政府の法令であったので全国で実施は、
 されたはずであるが、実態としては「旅行は自由化」だ
 ったという。
1871年9月11日(7月27日)紙幣司
  大蔵省内に紙幣司として現在の国立印刷局が創設され
 た。
  そして、1871年10月(8月)に紙幣寮と改称した。
  創設当初の業務は、紙幣の発行、交換、国立銀行(民
 間銀行)の認可・育成など紙幣政策の全般がなされた。
  しかし、当時、国内では、印刷技術が未熟であったこ
 とから、
  明治政府は、近代的な紙幣の製造を、ドイツやアメリ
 カに依頼していた。
  しかし、紙幣は、国内で製造すべきであるとの声が強
 まったため、紙幣寮において、紙幣国産化の取組が行わ
 れることとなり、
  併せて、証券類、郵便切手が、1872年2月(明治5年1月)
 に、製造開始され、活版印刷等の印刷・製紙業務を行う
 こととなった。
1871年9月13日(7月29日)太政官に、正院・左院・右院を
 置いた。
  太政官官制改定、新たに正院、左院、右院を置く。
  正院(せいいん)は、明治維新政府の太政官職制発布
 後の最高政治機関で、
  他の二院に優越して、立法・行政・司法の三権の事務
 に対する最終決定権を持った。
  廃藩置県が断行された結果、9月13日に、太政官制が根
 本的に改革され、太政官に正院・左院・右院の三院が設
 けられた。
  太政大臣・左大臣・右大臣・参議などで構成された。
  3院のなかで、正院が中枢的地位を占めたので、正院の
 ことを太政官と呼んだ。
  1873年5月2日の改革で、正院の権限はさらに強化され、
 拡大された。
1871年9月13日(7月29日)日清修好条規(にっしんしゅう
 こうじょうき)
  日清修好通商条約成る(氷川清話)
  天津で、日本と清の間で初めて結ばれた最初の対等条
 約だった。
  特異性があると言われ、ヨーロッパ諸国や、アメリカ
 の列強諸国から、軍事的な密約があるのではないかとい
 らぬ疑惑をもたれた。
  これらの列強は、日本と中国が手を結ぶこと、同盟が
 怖かった。
  アメリカは、特に、日本が中国と手を結ぶ事を恐れた。
  また、この条約に対する列強各国の反対論には、この
 条約の条項に、日本と中国が、不平等条約を打ち破る条
 項があったためだった(儲け・利益の要だったから)。
  その様な状況から、批准は遅れた。
  1873年(明治6年)4月30日に、批准書交換がされて発
 効した。
1871年9月18日(8月4日)江藤新平(えとうしんぺい)が、
 左院1等議員に転ず。
  江藤新平は、佐賀県の下級武士の家に生まれ、(1834
 年~1874年)、領内の国学者に学ぶ、肥前佐賀藩士、
  藩の目付、代官を経て、貿易方を務める。しだいに、
 尊攘運動に参加し・・、
  1862年(文久2年)の28歳で、佐賀藩を脱藩し上京、尊
 王攘夷運動に参加(攘夷派の公卿と提携した)、
  帰藩を命ぜられ、帰藩後、藩庁より永蟄居に処せられ
 る。
  1867年(慶応3年)の33歳のとき、許されて群目付(こ
 おりめつけ、監察)となる。
  明治政府の成立とともに、明治政府に登用され、
  1868年(明治1年)の34歳の時、東征大総督府軍監とな
 り、江戸遷都を主張した。
  ついで江戸鎮台判事として、江戸開城直後の施政を担
 当した(民政兼会計営繕の任にあたる)。
  会計官判事、東京府判事、佐賀藩権大参事、制度局御
 用掛を歴任し、法制関係の官職を歩む、
  1871年(明治4年)の37歳で文部大輔、ついで左院副議
 長をつとめ、フランス流の民法典編纂(へんさん)に従
 事、
  1872年(明治5年)の38歳に司法卿となり、司法制度の
 確立・近代化に尽力した。
  司法権の独立・警察制度の統一をはかり、改定律例(
 かいていりつれい)の制定をした。
  後に、1873年(明治6年)の39歳に参議となり、征韓論
 を主張、西郷隆盛・板垣退助らに同調する。
  征韓論が受け入れられず辞職、1873年10月に下野した。
  1874年1月に、明撰議院設立建白書に、板垣退助・副島
 種臣(そえじまたねおみ)らと署名。
  1874年2月(明治7年)の40歳に、佐賀征韓党に推され
 て首領となり、憂国党(秋田県権令をやめた島義勇が結
 成した党)と結んで、不平士族に推されて、佐賀の乱を
 挙兵し、県庁を襲った(司法卿の時に、長州系の疑獄事
 件に腕を振るっていたのが関係したのか?)。
  しかし・・、政府軍に鎮圧され、薩摩・土佐に逃れた
 が、政府に逮捕され、
  1874年4月13日、処刑(斬罪のうえ梟首・きょうしゅ、
 さらし首)により没す(41歳)、
  のちに、大赦令(しゃれい、赦免、または特赦・大赦
 の命令)によって罪名消滅した。
  地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など、民
 衆の要求を反映した近代化政策を行いながらも、
  大久保利通(おおくぼとしみち)や、岩倉具視(いわくら
 ともみ)らが政権を牛耳(ぎゅうじ)る有司(ゆうし、役人、
 官吏)専制体制を克服する道を誤り、士族の反乱にそれを
 求めることとなった。
..
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2016年2月22日月曜日

(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)

題:(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年6月5日(4月18日)平民の乗馬を許した。
  中近世の日本では、馬術は、長く武芸の一つとして位
 置づけがなされていた。
  それ故、乗馬は、基本的に武士のみに許されていた。
  それ以外は、馬子など別の者に馬を引かせる場合に限
 って騎乗が許された。
  たとえ、自分の馬でも自ら手綱を握ることはできなか
 った。
  1871年になって、平民の乗馬が許可された。
1871年6月8日(4月21日)西郷隆盛が、島津忠義(薩摩藩主
 →鹿児島藩知事、華族)に従い、廃藩置県に備えて、常
 備兵四大隊を率いて京都に入った。
1871年6月10日(4月23日)初めて鎮台(ちんだい、軍政機
 関、鎮守府)を設置する(明治初期の常備陸軍)。
  東山道本営を、陸前石巻(分営:福島・盛岡)、
  西海道本営を、豊前小倉(分営:博多・日田)に設け、
 地方の警護にあたった。
  1888年に、師団と改称した。
1871年6月11日(4月24日)戸口調査のため民家各戸に番号
 を記入せしむ。
  1871年戸籍法に基づいて、1872年に実施。
1871年6月(4月)「安愚楽鍋(あぐらなべ)」(著者:仮
 名垣魯文、かながきろぶん)が出版された。
  牛鍋を囲む庶民の雑談の形で,文明開化の世相を滑稽
 に描いた。
  田舎(いなか)武士、職人、生(なま)文人、芸者、商人
 などの登場人物の会話のなかには、蒸気車、伝信機(てれ
 がらふ)、こうもり傘など、開化の文物が縦横に取り上げ
 られている。
  すでに牛なべは、文明開化を象徴する食べものになっ
 ていた。
  この6年後の1877年頃には、牛鍋屋は急増する。
1871年6月(4月)お雇い外人
  お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、
 幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、
 欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用され
 た外国人のことで、欧米人を指すことが多い。
  そして、その国籍や技能は多岐に亘り、
  1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)
 までに、
  日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の
 者の資料として、『資料 御雇外国人』や『近代日本産業
 技術の西欧化』がある。
  この資料から、2,690人のお雇い外国人の国籍が確認
 できる。
  内訳は、イギリス人 1,127人、
      アメリカ人  414人、
      フランス人  333人、
      中国人    250人、
      ドイツ人   215人、
      オランダ人   99人、
      その他    252人 である。
  また、期間を1900年までとすると、
      イギリス人 4,353人、
      フランス人 1,578人、
      ドイツ人  1,223人、
      アメリカ人 1,213人 とされている。
  1871年(明治3~4年)の時点で、太政大臣・三条実美
 の月俸が800円、右大臣・岩倉具視が600円であったのに
 対し、
  外国人の最高月俸は、造幣寮支配人ウィリアム・キン
 ダーの1,045円であった。
  日本人の大臣の1.7~1.3倍という超高給だった。
  その他、グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・
 デュ・ブスケが600円で雇用されている。
1871年6月18日(5月1日)大井川の輦台渡、廃止となる。
1871年6月26日(5月9日)車馬道、人道の制、初めて東京
 市街主要大通りに開く。
1871年6月27日(5月10日)新貨条例
  新貨条例定めて、一円を単位とする。
  新貨条例を制定、「円」 と「金本位制」。
1871年6月30日(5月13日)参議・副島種臣(そえじまたね
 おみ)が、樺太の境界問題の解決のため、ロシアへ派遣
 を命ぜられた。
1871年7月1日(5月14日)種痘苗を各府県に頒ち、種痘を
 奨励する。
1871年7月15日(5月28日)洋服屋開店広告初めて現われる。
  洋服の普及の初め、洋服店が出現した。
  横浜の五十二番街、及び、東京茅場町に各一軒の洋服
 屋が開店した。
1871年7月(5月)木戸孝允が、『新聞雑誌』を創刊した。
  「新聞雑誌(しんぶんざっし)」は、参議となる木戸
 孝允が出資して、出身藩の長州藩の山県篤蔵(やまがた
 とくぞう)に、東京で創刊し、発行させた新聞だが、
  紙名は、ニュースの他に世間の雑事も掲載するという
 意味(政治・経済・教育・人事のほか、海外事情の紹介)。
  そして、新政府の文明開化や廃藩置県などの政策を、
 国民に周知徹底させることを意図していた。
1871年7月、食肉が広まり、販売権をめぐって商人・南屋喜
 重に屠牛場免札が許された。
  そして、8月に、屠牛場の開設が鑑札制となった。
1871年8月4日(6月18日)陸奥の尻屋岬燈台が竣工する。
1871年8月11日(6月25日)西郷隆盛と木戸孝允が、参議と
 なる 。
  この後に断行される廃藩置県によって、公卿と諸侯の
 大半が一掃される。
  そして、維新の功臣が政府の中核となる。
  この直前、郡県制への移行の実現のため、兵士を引き
 連れて上京した薩摩藩出身の西郷隆盛は、木戸孝允一人
 を参議とすべしとした。
  そして、他の者は省庁に下ることを提案し、大久保ら
 の賛同を得たが、木戸本人が固辞したため、
  西郷自身も参議に就任するという妥協に応じて、共に、
 参議に就任した
1871年8月12日(6月26日)民部省が長崎~上海の通信を開
 始した。
1871年8月23日、ドイツ医学の輸入の初め、
  ドイツ人教師が到着した。
  大学東校(東京大学医学部の前身、以下、東京大学と
 いう)で、ドイツ式医学教育を本格的に始めた。
  明治政府は、1870年(明治3年)、東京大学(医学校:
 大学東校)兼病院において、3年契約で、2名の医師を招聘
 したい旨をドイツ連邦公使に依頼した。
  先方の条件には、医学校の長たるべきこと、天皇陛下の
 侍医たること・・などが盛り込まれていた。
  契約は成立したが、肝心の教師たちは、なかなか来な
 かった。
  この時、プロシャ(ドイツ)は、普仏戦争のまっ最中
 だった。
  来る予定の二人の教師は、現役の軍医だったので、来
 日がなかなかできなかった。
  肝心の教師が来ないとなって政府は苦慮した。
  そこで、ボードイン(オランダ出身の軍医、長崎養生
 所のポンぺの後任)に頭を下げて、1870年8月(明治3年
 7月)に、帰国するまで講義してくれるよう頼むという始
 末だった。
  それでも、まだ、約束の教師は来なかった。
  今度は、フランス人のE. マッセを12月まで雇用した。
  そして、翌年の1871年になっても、まだ来なかった。
  急場しのぎで、アメリカからデンマーク人 O.シモンズ
 を招いた。
   1871年8月23日に、ようやく、ドイツ人教師たちは、
 夫人同伴で横浜港に着いた。
  1871年8月25日の朝、一小隊の儀伎騎兵に護られた陸軍
 一等軍医正(中佐)のミュルレル(1824年生まれ、47歳)は、
 華々しく東京大学(東校)玄関に到着した。
  彼は、ただちに、ドイツ語で演説を始めた。
  この急場を、松本良順の弟子で語学に秀でていた司馬
 凌海(しばりょうかい)が通訳した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)廃藩置県
  廃藩置県の詔書が出る。
  この日・明治4年7月14日、午後2時、東京にいた各藩の
 知藩事56人が皇居大広間に呼び出され、
  そして、明治天皇陛下によって廃藩置県の詔(みこと
 のり)が発布された(以下、その詔)。
  朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万
 国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシム
 ヘシ朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ
 各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久シキ或ハ其名ア
 リテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対
 峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト
 為ス是レ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令
 多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
  (数百年因襲いんしゅうの久ひさしき
  或あるいは其その名ありて其実そのじつ挙あがらざる
 者あり
  何を以もって億兆を保安し
  万国と対峙たいじするを得んや
  仍よって今 更に 藩を廃し県と為なす)
  ・・
  藩は、県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京へ
 の移住が命じられた。
  各県には、知藩事に代わって新たに中央政府から県令
 が派遣された。
  なお同日、各藩の藩札は、当日の相場で政府発行の紙
 幣と交換されることが宣された。
  当初は、藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道
 府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。
  また、飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と
 比べると弱かった。
  そこで、明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統
 合された。
  その後、県の数は、明治5年(1872年)69県、明治6年
 (1873年)60県、明治8年(1875年)59県、明治9年(1876
 年)35県と合併が進み(府の数は3のままである)、明治
 14年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了し
 た。
  だが、今度は、逆に、面積が大き過ぎるために地域間
 対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て
 来た。
  そのため、次は分割が進められて、明治22年(1889年)
 には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着い
 た。
  江戸城明け渡しという形で、流血を見ずに 中央政権の
 交代が実現した 翌年の1868年6月11日に、新政府の統治
 機構である政体書が発表された。
  これが、現在の都道府県の前身と言え、府県 が、最初
 に設けられたのが、この政体書だった。
  薩長土肥がリードした「版籍奉還」は1869年7月25日に
 行われ、諸侯は 新政府から任命されたという形になり、
 「知藩事」となった。
  藩に対しては、「藩制」などによる統制が加えられた
 ものの、基本的に、まだ、地方は、殿様の支配が続く分
 立体制だった。
  財政問題と余剰人員化した士族とを抱えて 苦しい諸藩
 だった。
  脱落する藩も出てきた。
  軍事・教育・司法・財政を、「全国一致之政体」にし、
 近代国家に脱皮したい政府にとっても、中央政府の強化
 は大きな問題だった。
  これを解決したいために行われたのが、この廃藩置県
 だった。
1871年8月29日(7月14日)外国はびっくり:廃藩置県の「
 外国新聞報道」
  この廃藩置県が行われた時、外国の新聞記者は、これ
 は凄(すご)いと、各社が外電を打った。
  一つの体制が滅びていく時には、ヨーロッパであれば、
 間違いなくギロチンになる様な世界的革命である廃藩置
 県を、日本は、血の一滴も流さずにやった・・と、
  「武士階級の最終的な自己否定」であった廃藩置県で
 あったからだった。
  廃藩置県の断行は・・、
  廃藩置県案は、西郷隆盛、大久保利通・木戸孝允ら薩
 長の要人間で密かに練られた。
  そして、三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信ら
 の賛成を得て成案となった。
  そして、この日、新政府は、在京の知藩事を皇居に集
 めて廃藩置県を出した。
  そして、藩は府県となった、知藩事は免職された。
  そして、中央政府から府知事・県令が派遣された
  旧来の藩制を廃して郡県制度を敷き、中央集権をはか
 った。
  そのままに、県に置き換えたため、細かく分かれ、全
 国で3府302県になった。
  飛地も多く、地域としてのまとまりも弱いというとこ
 ろもあった。
  これは後に、11月14日に、統合され、3府72県になっ
 た。
1871年頃、裏側の諸要素が見えない明治
  明治以来の日本人が、久しくヨーロッパの明るい側面、
 近代的なシンボル、自由や平等や進歩だけを受け入れよ
 うとし、
  その背後にある、これとは正反対の方向へヨーロッパ
 を引っ張っている裏側の諸要素が、
  如何に根強いかを見ないで、
  極めて表面的で空疎な理想主義に走っていた。
1871年~1872年、何でも西洋が良いの風潮
  この頃、何でも、かんでも、「西洋に学べ、西洋に遅
 れを取るな」の風潮が世を風靡した。
  この叫びが、日本全土を駆け巡り、野火の様に広がっ
 て行った。
  西洋の何も分からない時代、ただただ、西洋は進んで
 いる、西洋から学べとなっていた。
  こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト
 教を良きものと盲信した。
.
  そして、今日の言葉・・、
.
  かつては「建設省」という「省」があった。
  その頃の日本は、何もない時代だった。
  日本は、一生懸命に建設した。
  その努力のかいもあって、幸いにも目的は達して、そ
 の省の名前は、国の形に不相応になった。
  そこで、その省の名前は変わり、建設省の名前は無く
 なった。
  マンションでも何でも、竣工すれば、出来あがれば、
 建設されれば、その次に、「その維持」に意を配るのが、
 当然の行動となる。
  維持費の積み立てもする。
  その維持の実施を考える「組織も作られる」。
  何もしないで、放っておけば、「何でも壊れる」ので、
 当然の行為だ。
  国は今、「社会資本」に「維持メンテナンス」が「必
 要」で「大切な時」なのである。
  国には今、「社会資本」の「維持メンテナンス」の「
 組織が必要な時」なのである。
  「社会資本メンテナンス省」、もしくは、「社会資本
 メンテナンス庁」が必要な時なのである。
  NHKのような組織などが、間違い観念を煽り、有り
 もしない「2016年問題」が煽られる状況となっている。
  その様なインチキに煽られ、公的機関は、まだ、使え
 る多くの社会資本を壊して、作り直そうとしている。
  もう地球資源の多消費型社会は終焉しているのにだ。
  その様な状況の、地球の状況の中を、多くの公的機関
 の建物・社会資本が壊される事になっている。
  NHKのインチキ放送が、「2016年問題」が持ち上
 がって乗っかり煽っている。
  また何と、この多くの社会資本は、「壊すという方針」
 になっている。
  「そう簡単に壊すなよ」と言いたい。
  「リユースする道を考えよ」と言いたい。
  デザイン良く耐震補強すれば良いだろうに・・。
  建物内部だってセンスの良い設計事務所に依頼すれば、
 びっくりするくらい、見違えるほどになる。
  まだまだ、社会資本は使えるのだ、大切に使って行き
 なさい。  リユースならば、費用は半分で済む。
  その残った半分の費用は、そのお金は、国民へ還元せ
 よ。
  そうすれば、社会が潤(うるお)い、景気を刺激する。
  金のない時に無駄遣いはしないこと。
  このNHKのインチキ放送で、損害賠償を請求される
 リスクまで、国民は負う羽目になっている、その可能性
 は否定出来ない。
..
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2016年2月21日日曜日

(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月~1871年5月)

題:(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月~1871年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年2月27日(明治4年1月9日)1月、賊広沢真臣を殺す(
 氷川清話)
  横井小楠、大村益次郎に続いて広沢真臣(ひろさわさ
 ねおみ)も暗殺される。39歳、
  広沢真臣は、長州藩士で、藩の財政改革(安政の改革)
 に参画し、また、倒幕運動(尊王攘夷派)に尽力した。
  幕長戦争(長州征討)の際には、長州藩を代表して広島
 に出張し、厳島で幕府方の勝海舟と休戦協定を結んだ。
  明治になり、維新政府に参画し、海陸軍務掛、内国事
 務係、同判事などを歴任し、政府最高位の参議となった。
  何故、暗殺されたのか?
  理由不明の中に、必死の捜査が行われた。しかし、迷
 宮入りとなった。
  (因みに、この2年前に襲撃されて死亡した同じく長州
 藩出身の大村益次郎の場合は、薩摩や長州の不平分子の
 関与だという)。
  1879年(明治12年)に、広沢家は、維新の功を賞せら
 れ、華族に列せられた。
  広沢家の様に、士族から華族になる例は稀だった。
1871年3月6日(1月16日)西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通
 らが、治政改革のため土佐の山内容堂訪問した。
  何で、西郷らは、44歳の土佐藩主の容堂でなければな
 らなかったのか?
  徳川末期には、徳川慶喜を支えた容堂だった。
  辞官納地が徳川慶喜が押し付けられたとき、薩摩・土
 佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、
 何故?徳川宗家に対してだけなのか?と擁護した。
  これは、正論であった。
  種々、容堂は、徳川側に立った。
  その時、最後は、容堂は酒に酔っていると無視された。
  鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、土佐藩兵に対し、『
 この戦いに加わるな』と厳命した容堂だった。
  (土佐藩兵は、藩主の命を無視して官軍に参加した)
  明治となれば、反主流派である。
  維新になって、内国事務総裁という役職に就任したが、
 容堂は、すぐに、2年足らずの1869年に辞職した。
  そして、隠居になって、酒楼通いの、この様な容堂に、
 西郷らのそうそうたる人たちが訪問した(容堂は、この
 翌年・1872年、脳溢血に倒れ、46歳で没する・・が?)。
  因みに、西郷隆盛は、この4年前の1867年3月22日に、
 薩摩藩主の命によって、容堂に面会している。
  そして、その時、時局の重大性を話し合い、容堂の上
 洛をしきりに頼んでいる(意気投合している)。
  この時、西郷らの頭にあったのは「政府改革案」だっ
 た。
  この後、世は、廃藩置県へと流れて行く。
  すべての大名(旧藩主)の失職である、そして、東京
 へ移住せよと命じられるのである。
  代わって中央政府が権利を持つという改革(クーデタ
 -)である。
  各藩主の反抗に対する相談だったのか?
  いきなりの廃藩置県の断行もできないという事で・・、
1871年3月14日(1月24日)郵便に関する布告がなされた。
  東京・京都・大阪間に郵便開設のため同規則を領布
 (りょうふ、有料で提供する)し、4月20日(3月1日)
 より実施するとした。
  そして、この日の3月14日(1月24日)に、「書状ヲ出
 ス人ノ心得」、及び、「郵便賃銭切手高並代銭表」、
 「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公
 布された。
1871年3月22日(2月2日)西郷隆盛、山内容堂、板垣退助、
 山県有朋ら上京す。
  行動したのは、万一の反乱に対処するための軍組織を
 しっかり作ることだった。
  東京に着いた一行は、1871年3月28日(2月8日)に会談
 し、御親兵の創設を決めた。
  そして、明治維新政府の大変革が本格化して行く。
1871年3月24日(2月4日)二卿事件(にきょうじけん、政府
 転覆未遂事件)の首謀者が東京に入る。
  案の定と言っていいのか?・・この様な事件が起きる。
  攘夷派の公卿、愛宕通旭と、外山光輔が、明治政府の
 転覆を謀ったクーデター未遂事件。
  尊皇攘夷の中心的な役割を果たしてきた薩摩藩と長州
 藩。
  その両藩を中心とした明治政府が、成立したことによ
 って、攘夷が断行されると信じていた全国の攘夷派は、
 明治政府が、戊辰戦争が終わると、直ちに、「開国和親」
 を国是とする方針を打ち出したことに強い失意と憤慨を
 抱いた。
  これは、倒幕に参加していた薩摩藩・長州藩・土佐藩・
 肥前藩の薩長土肥の志士や、公家の一部にも及んでいた。
  彼らは、明治政府を倒して、新しい政府を作り直して
 攘夷を行って、外国と戦うべきであると唱えていた。
  その先駆けとなったのが、1870年1月2日(明治2年12月
 1日)に、長州藩で発生した大楽源太郎に率いられた奇兵
 隊などによる「脱隊騒動」であった。
  この反乱は、木戸孝允らによって間もなく鎮圧された
  ものの、
  大楽は、九州に逃亡し、攘夷派が藩政を掌握していた
 久留米藩や、熊本藩の河上彦斎らの支援を受けて再起を
 伺っていた。
  一方、大楽の救援に駆けつけていた土佐藩の堀内誠之
 進は、京都に逃れて、同地の攘夷派志士の糾合を画策し
 ていた。
  そして・・、
  かつて、廷臣二十二卿列参事件(1866年10月8日に発生
 した公家による事件・騒動)にも加わったことのある愛
 宕通旭(おたぎみちてる、幕末の公卿→官僚)は、
  この頃、明治政府の参与を免ぜられて京都に引き籠っ
 ていた。
  愛宕は、新政府の実権を握った薩・長の下級武士らに
 よって、「天皇の藩屏(防備の囲い)」であった公卿が、
 政治の中枢から切り離されていくことに、苛立ちを感じ
 ていた。
  家臣の比喜多源二・安木劉太郎らは、これに同情し、
 新政府を倒して、明治天皇陛下を京都へ連れ帰り、攘夷
 を断行するべきであると進言した。
  弾正台(だんじょうだい、警察機関)で、横井小楠暗
 殺事件の捜査を担当しながら、
  逆に、横井を糾弾しようとしたことで知られる古賀十
 郎と、その友人である秋田藩の中村恕助は、
 比喜多によって、仲間に招き入れられると、天皇陛下と
 主だった公卿が東京にいる以上、まず、東京で事を起こ
 さなければ意味がないと説いた。
  これに同意した愛宕は、1871年3月18日(明治4年1月28
 日)に、比喜多・安木らを連れて京都を発ち、
  この日・1871年3月24日(2月4日)に、東京に入った。
  愛宕主従は、古賀・中村に誘われた秋田・久留米藩士
 や、土佐の堀内誠之進らと謀議を重ね、秋田藩内の同志
 に呼びかけて日光を占領し、東京に火を放って天皇陛下
 を京都に連れ出す作戦を練った。
  この様に、新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、
 洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁してい
 て、
  成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。
  そして、静岡藩を初めとする旧組織の親藩・譜代の諸
 藩の動静には過敏にならざるを得なかった。
  小規模な蜂起反乱が勃発した。
  そして、事態は、新政府は、横井小楠・大村益次郎を
 早々に失い、
  そしてまた、雲井龍雄処刑の責任者・広沢真臣が、1871
 年(明治4年)に暗殺されるなど、不安定な中に、政府は
 あった。
1871年3月28日(2月8日)浅草の大火に・・消防ポンプ
  東京(浅草)の火事に、初めて消防ポンプが使用され
 た。
  『続武江年表』には・・、
  明治四年二月八日戌下刻(午後9時頃)浅草本願寺後
 田島町火事、田原町迄焼る。消防器械ポンプ始て用い、
 便利を知る。
1871年4月2日(2月13日)帝都に、親兵(しんぺい)設置。
  明治政府の最初の直属軍隊。
  「御親兵」と呼ばれた。
  明治新政府は、1868年3月13日(明治1年2月)に、はじ
 めて政府直属軍としての親兵を設置した。
  この設置は、必ずしも安定してなかった国内事情に由
 った。
  富国強兵策の対外的な面だけではなかった。
  内国的な面もあった。
  1868年閏4月に、各藩の献兵による京都警衛隊の制が
 定められたが、この制は翌年の1869年2月に廃止され、
  十津川郷士などの約400人の親兵を有したにすぎなか
 った。
  東京遷都後の皇居警衛には、長州藩兵があたっていた
 が、
  1870年12月に、山県有朋は、鹿児島にいた西郷隆盛に
 薩・長・土3藩の献兵による親兵創設を説き、
  翌年・1871年2月に、薩摩藩歩兵4大隊・砲隊4隊、長州
 藩歩兵3大隊、土佐藩歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲隊2隊の献
 兵による親兵設置が令せられた。
1871年4月4日(2月15日)大蔵省造幣寮の創業
  今まで、藩札のほかに、民間紙幣の私札が、近世初期
 から各地において発行されていた。
  1871年4月4日(2月15日)に、政府は、造幣寮(現在の
 大蔵省造幣局)の開業に踏み切り、
  そして、新貨の鋳造にのり出した。
  1871年6月27日(5月10日)には、新貨条例を制定し、
 公布し、
  「円」という貨幣単位を採用した。
  (金貨を本位貨幣、銀貨を補助貨幣とする新貨制度を
 実施し、
  これまでの両にかわって、円が通貨となり円、銭、厘
 の十進一位の単位が決定した)
  そして、これによって、江戸時代の両・匁・文の体制か
 ら切り替えた。
  新しい金貨・銀貨・銅貨は、円形の貨幣となり、江戸時
 代の楕円形の大判・小判、なまこ形の丁銀、不定形の小粒
 であった豆板銀などが、円形に統一された形状をもつこ
 とになった
1871年4月11日(2月22日)兵の配属・配置
  鹿児島藩:歩兵四大隊、砲兵四隊、
  山口藩:歩兵三大隊、
  高知藩:歩兵二大隊、騎兵二小隊、砲兵二隊を、
 御親兵として招徴し、兵部省の隷下に置いた。
1871年4月20日(3月1日)郵便制度がスタート
  官営郵便事業の開始(前島密)
  日本で、最初の郵便切手の発行(この時に発売された
 切手は、銭48文、銭100文、銭200文、銭500文、半銭、壱
 銭、弐銭、五銭など)
  郵便ポストもこの時に始まった。
  この日の4月20日(3月1日)に、東京〜京都〜大阪間
 に、現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、
  東京・京都・大阪に、最初の郵便役所が創設された。
  布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じ
 た。
1871年4月24日(3月5日)江藤新平が、対外策を岩倉具視へ
 呈す。
  江藤新平は、1870年2月(明治3年1月)には、佐賀に帰
 郷して準家老に就任し、藩政改革を行うが、
  後に、中央に呼び戻され、1871年1月(明治3年11月)
 に太政官中弁となる。
  1871年2月(明治3年12月)、虎ノ門で佐賀藩の卒族に
 襲撃されて負傷する。
  1871年4月(明治4年2月)には、制度取調専務として国
 家機構の整備に従事し、
  そして、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を
 提出する。
  近代的な集権国家と、四民平等を説き、国法会議や民
 法会議を主催して、箕作麟祥らとともに民法典編纂に取
 り組んだ。
  江藤は、「フランス民法と書いてあるのを日本民法と
 書き直せばよい」「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」とい
 うほどフランスの法制度を高く評価ていた。
1871年4月30日(3月11日)神武天皇祭(じんむてんのうさ
 い)の始まり(後に、4月3日に改める)
  初代の天皇陛下である神武天皇の崩御日にあたる4月3
 日に毎年行なわれ、神武天皇の天皇霊を祭る。
  崩御日は、『日本書紀』によれば紀元前586年(神武
 天皇76年)3月11日であるが、これを太陽暦に換算し、
 4月3日とした。
  宮中の皇霊殿と、神武天皇陵に治定される奈良県橿原
 市の畝傍山東北陵で儀式が行われる。
  神武天皇祭は、幕末の孝明天皇の時代、1860年(万延
 元年)3月11日に、神武天皇の御陵祭として始まり、
  1871年(明治4年)9月に定められた「四時祭典定則」
 で規則化された。
1871年5月22日(4月4日)壬申(じんしん)戸籍(旧暦4月
 5日説あり)
  戸籍法が制定された(太政官布告によって制定)。
  国民を華族・士族・卒・神官・僧侶・平民に区分した。
  (1945年に、身分制度が廃止された)
  戸主中心の戸籍で、やがて、旧民法が出来ると「家」
 制度の根幹を成した。
  1872年(明治5年)2月1日に、施行した。
  この戸籍法は、不備が多く、多くの機能(印鑑証明、
 地権等)を持たせたことにより、複雑となった。
  また、必要限度の要件さえ整っていれば、記載様式も
 特に設けられなかったことから、
  地方によって書式の詳細に格差が生まれた。
  また、以後、6年に一度改編するという規定も、大区
 小区制施行と併せて行われた1回程度で、多くの問題点が
 あった。
1871年5月22日(4月4日)旧藩札発行の禁令。
1871年5月25日(4月7日)専売特許条例が制定された。
  我が国で初めての特許法と言える『専売略規則』が公
 布された。
  しかし、技術の未発達により、特許を得られる発明品
 が少なかったことや、審査員の不足などがあり、
  翌年・1872年に、施行が中止された。
  しかし、人力車やガラ紡のように、特許制度が整備さ
 れていないことで様々な問題が生じると、再び、制度の
 必要性が確認され、復活が求められるようになった。
  これを受けて、新たに、1884年(明治17年)に、「商
 標条例」が、1885年(明治18年)に、「専売特許条例」
 (明治21年に特許条例に改正)が、
  1888年(明治21年)に「意匠条例」が公布され、本格
 的な特許制度が開始された。
1871年5月27日(明治4年4月9日)長崎製鉄所を長崎造船所
 と改称した。
  1872年(明治5年)に、長崎製作所と改称する。
1871年5月30日(4月12日)皇城(皇居)に電信開設す。
1871年5月、売春業者の新規開業禁止。
1871年5月、兵部省に軍楽隊が設置された。
  軍楽隊の初めの、薩摩藩の軍楽伝習隊に、ダブルリー
 ド系の楽器が入っていないのは、楽器が高価であったり、
 習得するのが困難な楽器だったらしいが・・、
  この当時、アメリカやフランス、ロシアの軍楽隊には、
 サキソフォーンが既に採用されていた。
  しかし、イギリスやドイツ、イタリアにおいては、ま
 だ採用されていなかった。
  この事と、規模こそ違うものの、編成上のバランスな
 どを考えると、
  やはり、フェントンは、薩摩藩軍楽伝習隊に、イギリ
 スの軍楽隊のスタイルをそのまま移そうとした。
  1870年6月に、薩摩藩軍楽伝習隊に、楽器が到着した。
  しかし、彼等に、帰藩命令が出されたのが、1870年9月
 だった。
  つまり、彼等は、楽器を手にしてわずか三ヶ月で、伝
 習が打ち切られた。
  この様な、短期間では、楽器から一通り音を出せるよ
 うになるだけでも難しいが、
  彼等は、「イギリス国家」などの楽曲を数曲、演奏で
 きるほどに上達していた。
  また、フェントン作曲の初代『君が代』、および、現
 行『君が代(国歌)』を初演した。
  さらに、彼等は、郷里の薩摩に戻って、そこの土地で、
 指導者としても活動した。
  1871年(明治4年)に、150人を超える人数の軍楽隊と
 なって再上京し、明治政府兵部省の軍楽隊の基礎となっ
 た。
  なお、フェントンは、1876年(明治9年)に、雅楽局式
 部寮に赴任した。
  そして、初期の軍楽隊は・・、
  1871年5月に、明治政府は、兵部省に、前記の薩摩藩軍
 楽隊を基礎とした軍楽隊を設置した。
  1871年7月に、兵部省は、陸軍部と海軍部に分かれ、
  1871年9月には、軍楽隊も、陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊に
 分かれた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年2月18日木曜日

(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月~1871年2月)

題:(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月~1871年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年1月3日(明治3年11月13日)徴兵規則領布
  領布:りょうふ、有料で提供するの意、
  因みに、配布は無料で配るという意味で使われること
 が多いのに対してこの言葉がある。
  また、頒布(はんぷ)は、品物や資料などを広く配る
 という意。
  府藩県一万石毎に士族平民を問わず5名宛徴募の制。
  山縣有朋の構想のもと、徴兵規則(ちょうへいきそく)
 が制定され、
  各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石に
 つき5人を徴兵することを定めた。
  続いて、1871年4月2日(明治4年2月13日)には、
 西郷の構想の一部をも取り込む形で、三藩(薩摩・長州・
 土佐)の軍が親兵として編成され、
  この兵力を背景に、1871年8月29日(明治4年7月14日)
 に、廃藩置県(各藩の武装解除)が断行された。
1871年1月15日(明治3年11月25日)松代藩の一揆:松代騒
 動 (午札騒動)
  松代藩(まつしろはん、信濃国、現在の長野県)で、
 7万人の農民蜂起(~明治3年11月27日)、
  各地で「世直し」の騒乱が続いた。
  碑文から分かることは・・、
  幕末から明治維新にかけて、松代藩は、約100万両とい
 う多額の藩債(借金)があった。
  そして、財政難に陥っており、また、当時、「チャラ金」
 という贋金が大量に流通するようになっていて、財政難
 をさらに窮地に追い込んでいた、そして、流通の混乱を
 招いていた。
  困った松代藩は、1869年(明治2年)、贋金引き換え(と
 いう口実)で、許可をもらい、信濃全域で使用できる済急
 手形(藩札または午札、藩計政局発行の藩札)という商法
 社手形を大量に印刷し、流通させた。
  ところが、新政府は、贋金回収のために藩札の発行を
 許可したのに、まったく成果があがらない状況であるた
 め、政府発行の新紙幣に変わったのを機会として藩札の
 発行を禁止した。
  そして、藩札と新紙幣を交換する方針をとった。
  しかし、その交換率が、新紙幣の2割5分から3割5分と
 いう藩札にとって大変不利な交換率であったため、藩札
 を大量に抱えていた松代藩は、大きな打撃を受けること
 となった。
  打撃を受けたのは藩だけでなく、年貢の相場の高騰に
 よる農民への打撃も大きかった。
  流通貨幣改定による相場の高騰に農民が騒ぎ出し、暴
 動化して行った。
  その中心となったのが小平甚右衛門の動きで、藩の改
 定布告後、悪租法反対の一揆を起こした。
  これが、午札騒動の引き金となった。
  上山田村で起こった一揆は、周辺の村人を巻き込みな
 がら、約3万人もの村人が、松代城下を襲撃し、甚大な被
 害が出た。
  松代大英寺で、藩知事・真田幸民(ゆきもと)と、一
 揆代表者が会見し、結局、藩が折れ、相場を元どおりに
 し、紙幣藩札交換に割引をしないことで折り合いがつき、
 一揆は終息した。
  小平甚右衛門が一揆の首謀者ということで、一人だけ
 斬首の刑に処された。
  その碑である「小平甚右衛門之碑」がある。
1871年1月17日(明治3年11月27日)大蔵省造幣寮
  大坂本局が、銀貨製造を開始し、
  4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
 業式を挙行した。
  そして、最新式の鋳造機を、香港から購入し、贋造が
 難しい近代的な貨幣鋳造が開始された。
  本位貨幣として、金貨5種(20円、10円、5円、2円、1
 円)、
  銀貨1種(1円)、
  補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、
 銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された。
  また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例、およ
 び、造幣規則布告がされて、近代的貨幣制度が開始され
 た。
1871年1月24日(12月4日)群馬県の富岡製糸場の設立が布
 告された。
  2014年6月21日に、世界遺産として正式登録されたが、
 本建物群の初期のものは、国宝、および、重要文化財と
 なっている。
  開国した日本は、有力な輸出品を求めていた。
  そこへ、生糸という輸出品としてのチャンスが恵まれ
 た。
  明治政府の賢人たちは、「外国資本を入れず」という
 方針をとった。
  そして、国策として進められた。
  最先端機器が導入され、さらに、日本人の知恵が加え
 られた。
  そして、お雇い外国人(外国のノウハウ)も導入した。
  そして、政府は、ここの成果を、日本中に奨励した。
  お雇い外国人と共に、日本という大きな視点で、各地
 を視察し、各地の産業の導入・育成・改善を図って行っ
 た。
  そして、働く方々・女性(工女)には、重要な立場で
 働くのだという意義と名誉を説き、与えた。
1871年1月28日、横浜毎日新聞が創刊された(1870年説あり))。
  横浜で、子安峻ら、日本最初の日刊新聞の『横浜毎日
 新聞』を創刊された。
  子安峻(こやすたかし)、新聞・出版経営者。大村益
 次郎に蘭学を,佐久間象山に砲術を学んだ。
  明治維新後は新政府に仕え,神奈川裁判所に通訳翻訳
 方として勤めるかたわら、
  明治3 (1870) 年の『横浜毎日新聞』の創刊にも一役買
 った。
  明治7年11月日就社より『読売新聞』を創刊。
  明治22年『読売新聞』から離れ,
  明治26年に『いさみ新聞』を創刊した。
1871年1月29日(12月9日)近代日本の官制:三職制
  新たに総裁、議定、参与を置いた。
1871年2月1日(12月12日)最初の日刊紙「横浜毎日新聞」
 発刊。
  本木昌造が、横浜に移り、1枚摺りの日本最初の日刊
 新聞「横浜毎日新聞」を創刊した(旧暦12月8日説あり)
  神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して
 活字と印刷機とを取り寄せ、
  昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員の陽
 其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構えた。
  1873年に、東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築
 地活版製作所)を開設した。
1871年2月8日(明治3年12月19日)中野騒動→長野県成立
  中野騒動は、旧信濃国北部の幕府領・旗本領を管轄す
 る中野県で発生した世直し一揆。
  主張は、年貢削減、特権的豪商の告発、新税廃止など。
  そして、中野騒動は、この前年から発生していた。
  1870年10月11日(明治3年9月17日)に、伊那県から分
 立して中野県が成立した。
  高石和道大参事は、民部省の意向を受け、増税策を次
 々と打ち出したが、
  兼ねてより贋金の流入による経済の混乱や、米価の上
 昇によって困窮する農民の不満は増大していた。
  近隣の松代藩や、須坂藩で発生した一揆勢の要求項目
 の一部が藩当局に聞き入れられると、中野県にも波及す
 ることとなった。
  そして、この日・1871年2月8日(明治3年12月19日)、
 高井郡高井野村(現上高井郡高山村)から発生した一揆
 勢・約2000人が、
  羽場村(現同郡小布施町)に集結して、中野町(現中
 野市)に向かい、
  特権的豪農や、商家を打ち壊して、また、中野県庁を
 焼き討ちし、県吏を殺害した。
  高石大参事は逃亡し、松代藩に匿(かくま)われ謹慎
 となった。
  これを受けて、松代藩ほか各藩兵が、鎮圧に向かい、
 旧暦12月21日になって一揆勢は退散した。
  1871年2月24日(明治4年1月6日)から、明治政府軍(
 佐賀藩兵を主力とする)によって、一揆の参加者の探索
 が進められ、約600名が逮捕された。
  1871年4月16日(明治4年2月27日)には、斬首刑6名、
 絞首刑22名、徒刑十年124名、その他・処罰数百名などが
 刑に処された。
  後任の立木兼善権知事は、中野での県庁再建を断念し、
 長野への移庁を政府に上申し、太政官布告によって、
  1871年9月9日(明治4年7月25日)に、長野県が成立し
 た。
1871年2月9日(明治3年12月20日)新律綱領(しんりつこう
 りょう)を領布した。
  新律綱領頒布(氷川清話)
  新律綱領は、仮刑律にかわり、明治政府により1871年
 2月9日(明治3年12月20日)に制定頒布された刑法典。
  全6巻8図 14律 192ヵ条項から成るが、逐条主義はとっ
 ていない。
1871年2月11日(12月22日)陸海軍の洋式服制定められた。
1871年2月13日(12月24日)士族といえども特定以外の帯刀
 を禁ず。
1871年2月17日(明治3年12月28日)、米沢藩の雲井龍雄(
 くもいたつお)が処刑された。
  米沢藩雲井龍雄処刑(氷川清話)
  龍雄は正義の人と言える人で、幕末の争乱期に正しい
 行動をした。
  頭の切れる人で、王政復古の大号令が発せられると貢
 士(こうし、藩から推挙された議政官)に挙げられたり
 した。
  これは、龍雄が、藩を越えてその才幹(さいかん、物
 事を成し遂げる知恵や能力)が広く知られていたことを
 示している。
  明治になって、興譲館(こうじょうかん、米沢藩の藩
 校)の助教になったりした。
  また、新政府は、集議院議員に任じた。
  しかし、新政府は、薩長出身の政府要人と、またその
 繋がりがある議員が多くある中で、
  龍雄は、龍雄の経験した幕末期でのことで「薩摩批判」
 をした。
  そして、その一たび議論に及べば、徹底的に議論を闘
 わせた振る舞いが災いして、周囲の忌避に遭った。
  そして、わずかひと月足らずで、議員を追われた。
  この様な龍雄の元に、没落したり、削封された主家か
 ら見離された敗残の人々が、龍雄の許に集まるようにな
 り、
  龍雄は、明治3年(1870年)2月、東京・芝の上行、円
 真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、
  特に、「脱藩者や、旧幕臣に、帰順の道を与えよ」と
 4回にもわたり嘆願書を政府に提出した。
  これは、参議・佐々木高行や広沢真臣らの許可を得た
 ものであった・・が、
  しかし、龍雄の元に集まった人たちは、実は、新政府
 に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。
  これが、政府転覆の陰謀とみなされた。
  翌年4月、謹慎を命ぜられる。
  米沢藩に幽閉ののち、東京に送られ、深く取り調べも
 行われず、罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮
 刑律」が適用され、
  同年12月26日(1871年2月15日)に判決が下り、龍雄は、
 判決2日後に、小伝馬町の獄にて斬首された。
1871年2月22日(明治4年1月4日)御親兵(ごしんぺい)
  明治の時代になる前から・・、
  明治の政府を動かす人たちは・・、
  欧米列強の各国が・・、
  中国やインドの方々をはじめ、アジアの各国の方々から・・、
  好き勝手に、そして、悪辣に、自国へ利益をもたらす
 行為・行動をする姿を憤りながらも見て来ていた。
  その様な卑劣な行為を、日本が受けないため、そして、
 日本の国民を守るためには、日本の国を富ませ、
  そして、その強い経済力・産業力で、強い兵力を持た
 なければならないと、つくづく思い、肝に銘じていた(
 富国強兵策)
  1870年2月13日(明治3年12月24日)、山縣有朋は、当
 時、鹿児島藩(薩摩藩)の政務にあたっていた西郷隆盛
 に対して、天皇陛下と中央政府を守るために、薩摩藩・
 長州藩・土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提
 案した。
  これは、当時、中央政府に属していなかった西郷を、
 薩摩藩の親兵入京を口実に、政府内に入れることで、政
 府の強化を図る側面もあった。
  木戸孝允は、この御親兵の力を背景に、廃藩置県や、
 それを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政
 策を一気に実施しようとした。
  だが、大久保利通は、木戸や大隈重信が進める急進的
 な政策には批判的で、
  自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と、西郷の入
 閣は、この流れを変える足がかりになると考えた。
  これを受けて、西郷は、この日・1871年2月22日(明治
 4年1月4日)に、鹿児島を出発し、東京に向かった。
  しかし、その際に出された「西郷吉之助意見書」には、
 冗官(じょうかん、むだな官職)の整理や、府藩県三治
 制の維持、鉄道建設などへの批判など、
  木戸・大隈路線への批判、大久保路線の支持とも受け
 取れる言辞もあった。
  だが、途中で、大久保・木戸と合流して、両者の意見
 を聞き、
  更に、東京では、大隈らが、西郷が中央集権化に反対
 して薩摩藩の独立や、クーデターを起こすのを危惧して
 いる(『世外侯事歴 維新財政談』)ことを知った西郷は、
 政争の深刻化を危惧し、
  政治的な問題については、新政府官僚への薩摩藩など
 の倒幕功労者の起用の提言に留め、
  自らは、専ら、新制軍隊の編成に力を注ぐこととして
 一旦鹿児島に戻って準備を開始した。
  2月13日、入京した西郷を中心として正式に「御親兵」
 として発足した。
  そして、政府は、諸藩兵を廃し、天皇陛下の統率する
 国軍の創設のため、(2/22)親兵を設置し、
  引き続き鎮台を設置、団隊を統括した。
  鎮台は、東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)に
 置かれ、元藩兵を召集、常備兵とした。
  御親兵は、1872年に、近衛兵と改称され、
  明治24年(1891年)には、陸軍の近衛師団となった。
  また、別史料では・・
  幕府により行われた西洋式軍隊創設は、明治新政府に
 引き継がれ、
  新政府は、富国強兵を国策に掲げ、
  明治4年(1871年)2月には、長州藩出身の大村益次郎
 の指揮で、天皇陛下の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩
 の兵からなるフランス式兵制の御親兵10,000人を創設し、
 常備軍として、廃藩置県を行うための軍事的実力を確保
 した。
  明治4年(1871年)4月の設立当初は、鎮台制と呼ばれ
 る組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱や西南戦争な
 ど内乱鎮圧を主たる任務とした。
  そして、徴兵制度の施行に伴い、国民軍としての体裁
 を整えていった。
  その後、陸軍は、鎮台を廃止し、師団制に移行した。
  設立の基礎が、明治維新時の薩長軍であったために、
 永らく藩閥支配が払拭できず、
  陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固
 めた。
  明治5年(1872年)に、陸軍省が兵部省から分離し、
  明治11年(1878年)には、参謀本部が独立する。
  新政府は、廃藩置県や廃刀令で、武士階級を事実上消
 滅させた後、明治6年(1873年)に徴兵令を施行する。
  陸軍卿には、奇兵隊出身の山縣有朋、海軍卿には勝海
 舟が就任した。
  山県は、普仏戦争(1870年)でプロイセンが勝利した
 事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行
 った。
  海軍は、当初からイギリス式の軍制に倣って編成され
 た。
1871年、海外(オーストラリア)へ向かった日本人
  オーストラリアの西海岸のブルームの地は、良質な真
 珠貝が採れる。
  その事が、この頃に分かる。
  日本人の真珠貝採取潜水夫が、1871年のこの頃に、こ
 こに来た。
  初めは、日本に灯台建設に招聘されていたイギリス人
 技師に付いて来た日本人漁民が、試みに潜水をしてみた。
  そうしたら、その働きぶりが素晴らしく、注目され、
 人手不足のオーストラリアの採取業者が、日本へ契約移
 民として誘致をしたく、そして、誘致した。
  やがて、伊藤内閣の外務大臣・陸奥宗光が、移民奨励
 策を打ち出し、横浜にオーストラリア採貝移民取扱いの
 出先会社まで設立された。
  ボタン材料や装飾品としての真珠貝の景気がピークを
 迎えるのは1925年で、
  ブルームの町の人口は5000人、その8割が日本人で、
 4000人に達した。
  町には、採貝業者のみならず、様々な職種の人々が流
 れ込み、
  また、日本からの日本人を迎える下宿屋ができ、
  食堂ができ、雑貨屋、うどん屋、風呂屋、
  そして、映画館、赤ちょうちん、
  はては、売春宿に至るまで軒を並べ、
  乗り合いの蒸気機関車が走り、オーストラリア南部の
 都市繁華街以上の人混みとなり、まさにリトル・ジャパ
 ンが出現した。
  この頃の採貝船の数は、400隻を越えた。
  輸出先は、イギリスだった。
  しかし、プラスチック装飾品の発達普及で、高価な真
 珠貝の需要は、次第に減り、
  そして、第二次世界大戦による日本人の収監(卑劣な
 事に、アメリカと同じように日本人の自由を拘束した)、
  そして、終戦後の日本への送還で、主役を失った真珠
 貝採取産業は、ほとんど消滅した。
  また、この非人道的なオーストラリア政府による日本
 人収監行為は、今だに、オーストラリア政府の謝罪はな
 い。
  今、ブルームの町には、古びた雑貨屋はあるが、廃屋
 のある町となって往時の反映の面影はない。
  しかし、この日本人と交流したアボリジニーの方々に、
 有形無形の日本の文化が残って居た。
  日本人から教えてもらったのであろう『日本食』、『
 冷えたなます』『みそ漬け』『うどん』。
  そして、歌、『炭坑節』。
  そして、『祭り』、お盆〈盆踊り〉が『真珠祭り・フ
 ェスティバル』となっている、
  オーストラリアのウェスタン・オーストラリア州の最
 大の祭りとして人気の祭りとなっている。
..
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2016年2月16日火曜日

(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月~1870年12月)

題:(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月~1870年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年11月15日(明治3年10月22日)東京濱殿の海軍所を、
 築地に移した(明治2年10月説あり)
  海軍所のあった東京濱殿は、浴恩園(よくおんえん)
 のことで、
  浴恩園をまた調べると、現在の東京築地の東京卸売市
 場の場所で、松平定信の下屋敷だったと分かった。
  白川の城主でもあった定信は、隠居後、ここに住所を
 移し、文人として随筆・詩歌・絵画などの創作活動の日
 々だったという。
  無類の庭好きで、この約2万坪の風光明媚な地を散歩
 し、自ら庭の手入れも行ったという。
  定信は、この浴恩園を、1792年に造園したという。
  そして、明治となり、この地の一帯は海軍の中心地と
 なった。
  故に、海軍発祥の地が、築地5丁目となっている。
  そして、海軍所は、1866年(慶応2年)に、幕府軍艦操
 練所であったここを、海軍所と改めた。
  1869年11月(明治2年10月)、兵部省は、この一帯を
 海軍用地に買収し、艦船建造とともに、士官養成の地と
 した。
1870年11月17日(10月24日)最初の鉄道トンネル工事。
  日本で最初の「鉄道トンネル」としての碑がある。
  名称は、旧石屋川隧道。
  場所は、大阪~神戸間。
  その碑には、着工が明治3年10月22日と書かれている。
  完成は、明治4年7月(1871年9月)とある。
  碑文には・・、
  旧石屋川隧道は,、日本で最初の鉄道トンネルとして
  建設されました。
  その当時から石屋川が、天井川を形成 いていたため、
 困難な川底トンネルを掘らなければ なりませんでしたが,、
 イギリス人技術者の設計・監督により、明治4年7月に完成
 しました。
  この隧道は、石屋川の下を横断し、延長が200フィート
 (64m)ありました。
  工事方法は、川の流れを木製の仮水路に変え、川底を掘
 り下げ、レンガを積み重ねてトンネルを作りながら 川を
 元に戻す方法が採られました・・とある。
  因みに、隧道幅は、14フィート(4.1メートル)
1870年11月20日(10月27日)初めて医学校(後の東京大学
 医学部)にて人体を解剖し実習を行う。
1870年12月10日(明治3年閏10月18日)岩崎弥太郎が、九十
 九商会を設立し、そして、土佐開成商社を創始した (日
 本郵船、三菱商事の前身)。
  九十九商会(つくもしょうかい)は、三菱(みつびし)
 創業期の名称で、
  1870年12月(明治3年閏10月)、上京した岩崎弥太郎(
 やたろう)は、土佐藩の財政難を救うため、私商社・土佐
 開成商社を創始した。
  この商社は、名前のみで、同年の1870年12月10日(閏
 10月18日)改めて九十九商会として、通商司から廻漕(か
 いそう)業の仮免許を受け、
  藩船の夕顔、鶴、紅葉賀の三隻を用い、
  東京―大阪、神戸―高知間の海運を開始した。
  翌年の1871年7月、廃藩置県で高知県が誕生すると、弥
 太郎は、旧藩船の夕顔、鶴二隻を4万両で払下げを受け、
 私企業とした。
  経営の第一線にいた川田小一郎(かわたこいちろう)、
 石川七財(しちざい)、中川亀之助(かめのすけ)に共通し
 た「川」にちなんで、1872年1月、三川(みつかわ)商会に、
 翌年・1873年3月に、三菱商会と改称した。
1870年12月12日(閏10月20日)工部省(こうぶしょう)が、
 設立された(民部省より分離)
  明治維新政府が、工学の知識をひろめ、各種の工業を
 勧奨し、発展させることを目的に、1870年12月(明治3年)
 設置した官庁。
  富国殖産のために設置された省で、文明開化省とでも
 いうべき性格をもっていた。
  また、伊藤博文が、最も熱心で、みずから工部大輔、
 工部卿に就任した。
  1871年8月の官制で、省中に工学、勧工、鉱山、鉄道、
 土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作の10寮と測量司が
 おかれた。
  その後、ひんぱんに寮の改廃や統合が行なわれたが、
  1877年1月に、それらが全廃され、新たに、書記、会計、
 倉庫、検査、鉱山、鉄道、灯台、電信、工作、営繕の10
 局が設置された。
1870年12月25日(11月4日)東京海軍所を海軍兵学寮、大坂
 兵学寮を陸軍兵学寮と改称した。
1870年12月25日、勝海舟、東京滞在を免ぜられる旨御達し
 あり。(氷川清話)
1870年12月28日、仮名垣魯文の著「萬國航海 西洋道中膝
 栗毛・初編」刊行開始。
  十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にならって、弥次郎
 兵衛、北八の3代目の孫ふたりを、イギリスのロンドン
 万国博覧会見物に出立させ、その道中の滑稽を記した。
  この頃、評判だった福澤諭吉の『西洋旅案内』にあて
 こんでいる。
  魯文は洋行体験がないが、英文の読書は出来たので、
 知識はそこから得ている。
1870年、農民一揆頻発(高松、浜田、仙台、松代、宇和島、
 新潟、柏崎、名護屋、若松、伊那など各藩)(氷川清話)
  物価高騰から年貢減免を求めた。
1870年、半蔵門など5門の渡り櫓を撤去した。
  以降、明治6年ころまでに、城郭外周の諸門が撤去さ
 れた。
1870年、本陣、脇本陣を廃止した。
  参勤交代が行われなくなり本陣は有名無実となり、明
 治政府の通達によって廃止された。
1870年、この年、コウモリ傘が流行し、また、手編みのメ
 リヤス下着も流行った。
  因みに、1868年の『新聞街談』には、洋傘(コウモリ
 傘)をさしていた武士が、「異国傘をさした異人がとお
 る」とはやされて喧嘩になり、結果、首をはねられてさ
 らし首になった事件が掲載されている。
  また、福沢諭吉も『福翁自伝』に、「蝙蝠傘などさし
 て江戸の街を歩いたら、いくつ命があっても攘夷論者に
 狙われる」と、仲間内で話したエピソードを載せている。
 (「洋傘タイムズ」)
1870年、この年に、背広着用・靴の製造・こうもり傘の使
 用をし始める。 英、ジェントルマンスタイル。
1870年7月18日、不可謬説の宣言
  パストル・エテルヌス(教皇勅書):
  教皇が、全司教の第1位にあること、至上の権威を持つ
 とされ、最高権をもつという教皇の首位権・・、
  この時に、ローマ法王(教皇)ピウス9世が、ローマ法
 王(教皇)不可謬説を宣言した(あるのなら、別にこん
 な時に、宣言なんかしなくてもいいのだが・・?)。
  これは、ローマ法王の言う事や決定は、誤りは決して
 ありませんという説(ガリレオの天動説など、あちこち
 で、誤りでしたと謝罪しているけれども・・?)。
  キリスト教は、この様な説によって、間違いを正しい
 として、有色人種の殺戮の歴史、戦争の歴史を作って来
 た。
  キリスト教のこの様な思考形態がいけないのだ、そし
 て、その思考形態をキリスト教徒たちへ与え、悪い連鎖
 が続く人類の歴史を作って来た。
  これは、他からの批判は、まったく受け付けないとい
 う、自己洗浄力のまったく欠落した説であり、
  ただただ、信じるだけ、そして、信じろという盲信の
 民を強要(きょうよう、無理に要求すること)した。
  私の言う事は正しいのだ・・だけの説、また、幅も、
 深みもまったくない説・・結局、酷(ひど)いことを起
 こす結果となっている。
1870年7月19日、普仏戦争:フランスがプロイセン王国に宣
 戦布告(プロイセン・フランス戦争)
1870年9月1日、普仏戦争: セダンの戦い
1870年9月4日、ナポレオン3世を廃位して、フランス第三
 共和政が成立した。
1870年9月19日、普仏戦争: パリの包囲が始まる(~1871年)
1870年9月20日、イタリア王国軍が、ローマに進軍し、教皇
 国家滅亡、教皇領が完全に消滅した。(イタリアの領土
 が現在とほぼ同様に)
1870年、イタリアの統一が完成した。
1870年10月6日、ローマがイタリア王国の首都となった。
1870年10月20日、第1バチカン公会議が無期限延期となる。
1870年11月16日、アマデオ1世がスペイン王となる。
1870年11月29日、英国で義務教育導入。
1870年12月26日、フレジュス鉄道トンネル開通(最初のア
 ルプス貫通トンネル)
1870年12月28日、元スペイン首相フアン・プリム暗殺(12
 月30日死亡)
1870年、レーニンが生まれた(1870年~1924年)
  イギリスのディズレーリの政策にはじまり、フランス・
 ドイツが追随して、第一次大戦が起こった。
  レーニンは、帝国主義を「資本主義の最高段階」とし
 た。
1870年代、アメリカ合衆国、先住民の方々の殺戮が盛ん。
  この年代の北米大陸は、先住民の方々が殺戮される年
 代となっている。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリカ
 軍、
  殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・イ
 ンディアンの方々・・、
  インディアンの方々は忍従を重ねてきた・・、
  しかし、体制が整った、最新鋭武器を持ったアメリカ
 軍は、インディアン方々を、特に、この年代から、殺戮
 行為を激しくして行った。
  本当に恩になっていた、恩あるアメリカ・インディア
 ンの方々を・・、
  ヴァージニアでは、1607年に、約260年前に、アメリカ
 に渡って来たイギリスス人とアメリカ・インディアンの
 方々とが、初めて、ジェームスタウンで出会い、
  アメリカの新天地で、極寒の越冬を越えられず、餓死
 する人々が次々と出る中を、
  自民族の若い女性を食べるほどひどい中を・・、
  生きる術(すべ)を教えてもらった恩も、何も感じな
 い様に、アメリカ・インディアンの方々を、アメリカは、
 自分たちの土地が欲しいと、領土が欲しいと、欲しいと
 いう欲と、「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅
 しても良い」という自分たちの行為は正義だとの教えに
 洗脳され・・
  その洗脳と、マインド・コントロールされたアメリカ
 人は、恩あるインディアンの方々を、自分たちだけに都
 合のよい教義・考え方で、自分たちさえが、自分たちだ
 けが良ければ良いと、殺戮し始めた・・最新式兵器でも
 って・・、。
  1870年代は、殺戮の年代となっていた。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリカ
 軍、殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・
 インディアンの方々・・、
  そしてまた、さらに卑劣な事をした・・
  この頃から、アメリカは卑劣な事に、アメリカ・イン
 ディアンの方々の食糧であるバッファローを殺した。
  バッファローは、絶滅するところまで激減した。
  アメリカ人は、何ら自分たちでバッファローを食べた
 りするわけではなく、
  殺したバッファローは、ただ、平原に野積みにした。
  高い高いバッファローの山が築かれた。
  バッファローの群れが平原から消滅する事は、インデ
 ィアンの方々の消滅が、全滅が・・あった。
  インディアンの方々を絶滅する目的だった。
  この様な事から、アメリカ・インディアンの方々は、
 白人・アメリカ人を憎むようになって行った、当然であ
 る。
..
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2016年2月13日土曜日

(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月~1870年11月)

題:(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月~1870年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年8月(7月)大阪に、聴訴掛・断獄掛(のちの大阪府
 警察)を設置した。
  この当時、民事裁判を聴訟と言い、刑事裁判を断獄と
 言った。
  また、刑事裁判に関して、フランス法に範をとった治
 罪法が、1870年に公布された(1872施行)。
  治罪法は、刑事訴訟および裁判所の構成などについて
 定めた法律と説明されている。
1870年8月25日、日本政府が、デンマークの大北(グレート・
 ノーザン)電信会社の要求を受け入れた。
  「長崎~ウラジオ間、および、長崎~上海間に、海底
 線を敷設して、長崎に陸揚げさせ」、
  また、「長崎~横浜間に、九州、四国の南端を経由す
 る海底線を敷設させる」
  外務卿・沢宣嘉らは、国内通信まで外国資本に握られ
 かねないと条件をつけた。
  「ただし長崎~横浜間は、日本政府の電信線(陸線)
 が完成した場合は、海底線敷設を見合わせること」
  1870年10月に、デンマークの軍艦・キヨルト号が、長
 崎に入港した。
  大北電信会社のシュエンシン総代をはじめ技師たちが、
 乗船していた。
  大北電信会社は、前年に、ロシア領から大阪、横浜、長
 崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得してい
 た。
  1871年4月14日に、大北電信会社長崎支局を、下り松に
 あるベルビューホテルの一室に開設した。
1870年8月、長崎伝信局が開設された。
  長崎~横浜の電信線(陸線)の架設工事に着手した。
  伝信局は、のちの電信局。
  電信線のない当時、電報は、早飛脚で、長崎~横浜を
 7~9日間を要した。
  1871年7月29日、長崎伝信局が、長崎~東京(1368キロ
 メートル)に電信線架設した。
  沿道の各県に4キロメートルあたり、70本の電信柱の
 設置を割りあてた。
  1873年2月17日に、長崎~東京の架設電信回線が完成し
 た。
  あわせて、九州初の長崎電信局が開設した。
1870年9月8日(8月13日)相模(現:神奈川県)城ヶ島の燈
 台が、竣工し点火された。
1870年9月9日(8月14日)工部大学の前身たる工学寮(こう
 がくりょう)、及び、測量司を設置した(1871年説あり)。
  明治新政府は、産業育成に力を入れて、工部省を置い
 た。
  日本の近代工学の理念の移植と定着を図った。
  これから建国していく日本が欲している高級技術者の
 養成機関でもあった。
  工学寮は、工部省に設けられた工業教育機関で、1873
 年、イギリス人教師9名の来日を待って開校した。
  大学と小学に分かれ、大学は土木・機械・電信・造家・
 採鉱・実用化学の6科があった。
  修業年限は、予備・専門・実地教育の各2年の6ヵ年。
  全寮制で、卒業後7年間の工部省奉職を義務とした。
  また、国を創るのに正確な地図が必須だった。
  この広範囲の地図測量を担当したのも、1870年に、民
 部省から独立した工部省が担当した。
  1871年になって、工部省に測量司が設けられた。
  そしてまず、東京府をはじめ、都市の測量から、お雇
 いイギリス人の6名の指導で実施した。
  俸給(月)は、師長400円、助師350円を金貨にて支払
 い、支払日には銀行が出張して来て支払った(そのくら
 い高給だった)。
  そして、生徒も募集され、学校は赤阪溜池に、5棟、
 新築された。
  お雇い外国人の下で仕事をスムースに進めるため、通
 訳と監督役の督役掛を付け、外人の命を伝達して人夫を
 使役し、昼食の世話もさせた。
  2年後には、さらに6名の指導外人を追加した。
  作業は、すべてが順調であったという訳ではなく、意
 見がぶつかった。
  京都の場合、お雇い外人の技量が不足していて、作業
 が遅々として進まなかったことに由った。
  数年後には、優秀な日本人教授が育ち、指導する様に
 なった。
  測量は、伊能忠敬の素晴らしい先人が居た日本で、こ
 の忠敬の曽孫の伊能源六とも関係を持った。
1870年9月9日(8月14日)天文暦道局を星学局と改称した。
  江戸時代に天文方(てんもんかた)という天体運行や
 暦の研究機関があったが、
  この年・1870年に、天文暦道の権限は、文部省の天文
 暦道局に移された。
  さらに、この年の1870年、天文暦道局は東京に移され、
 星学局と改称された。
  星学局には、旧天文方の渋川敬典(しぶかわよしのり、
 江戸幕府の最後の天文方)も任用された。
  敬典は、東京天文台職員にもなった(1838年~1904年)
1870年9月15日(8月20日)大坂~神戸間に電信が開通した。
1870年9月16日、グラバーが、日本の政情不安定で、武器弾
 薬の需要を見込み、大量買付け・・、しかし、
  1870年9月16日に、イギリスの本国政府が、グラバー商
 会に対し、破産を宣告をした。
  日本の騒乱を大きくなると想定したが、予想外の早期
 安定で、武器弾薬が売却できず、負債が数10万弗となっ
 た。
  日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことになっ
 た。
  1871年8月に、グラバーは、商会を廃社にした。
  倒産後は、三菱が顧問として、面倒を見た。
  新しい事務所を、神戸につくった。
1870年9月17日(8月22日)東京府下に中学校を開設す。
  華族以下、一般の入学を許す。
  洋書教科書を使用。
1870年10月2日(9月8日)「君が代」が初めて演奏された。
  この日、明治天皇陛下が、東京の越中島で、薩摩・長
 州・土佐・肥前という明治政府を支える4藩の兵を閲兵さ
 れた。
  この日は、あいにく雨で、天皇陛下のお立ち台の近く
 までが水浸しという状態で、式は途中から中止となった
 が、
  この日、天皇陛下をお迎えするのに「君が代」が演奏
 された。
1870年10月13日(9月19日)苗字許可令(庶民苗字差許)
  平民の氏姓を許す(氷川清話)
  平民に苗字使用を許可(四民平等)
  平民苗字許可令が布告。
  一般の「平民」も苗字を持つことが認められる。
  国民(平民)は、政府を信用せず、付けることで余計
 課税されるのではないかと警戒し、あえて苗字を名乗ろ
 うとはせず・・
  そこで、5年後に・・、
  1875年2月13日、太政官布告、「平民苗字必称義務令」
 が布告される。
  国民は、みな公的に苗字を持つことが義務づけられた。
1870年10月19日(9月25日)囚人に、刺青することを廃止
1870年10月19日(9月25日)生糸、輸出品として技術改良
  ヨーロッパ式機械製糸法がはじまる。
  日本は、開国直後、生糸・蚕種・茶などの輸出が、急
 速に伸びた。
  この生糸の輸出拡大の背景に、ヨーロッパにおける生
 糸の生産地であるフランス・イタリアで、微粒子病とい
 う蚕の病気が大流行した。
  しかし、急激な需要の増大は、粗製濫造を招いた。
  そして、日本の生糸の国際的評価は低落した。
  日本製の生糸の価格も下落した。
  この様な頃、外国商人から器械製糸場建設の要望が、
 日本政府に出されていて、資金提供まで申し出されてい
 た。
  この様な背景から、国策として器械製糸工場を建設す
 べきという意見が持ち上がった(インドなどで、欧米な
 どの外国資本が横暴だったことを学んでいる)。
  そして、この年、1870年2月に、外国資本を入れずに、
 器械製糸の官営模範工場建設が決定した。
  富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が、群馬県富岡
 に日本初の本格的機械製糸の工場として、1871年3月に、
 着工し、1872年7月に、竣工し、開業した。
1870年10月26日(10月2日)兵制統一布告
  陸海軍の制式が決まる
  陸軍はフランス式、海軍をイギリス式と決定。
  兵制統一、海軍は英式、陸軍は仏式(氷川清話)
  1870年11月5日(10月12日)説もある。
1870年10月27日(10月3日)皇族旗、将旗などの旗章が制定
 される。
1870年10月(9月)官吏の出勤時刻を午前9時と決める
1870年11月11日(10月18日)外国人に東京府下の遊覧を許
 した。
1870年、この年に、牛乳屋が開業した。
  長崎大学医学部の創設者の松本良順(1832年~1907年)
 は、種々の業績を遺しているが、
  番外編となるが、牛乳の滋養効能の良いことから、牛
 乳を飲むことを広く薦めた。
  その啓蒙の仕方も半端ではなかった。
  当時の人気のあった名優の紀伊国屋澤村田之助や、芸
 妓を呼び集めたりして、牛乳を飲ませて話題となった。
  そして、この年の1870年に、良順は、義理の叔父で、
 旧旗本の阪川當晴と、赤坂に「阪川牛乳店」を開いた。
  時代が変わって、元武士が、職が無くて溢れていたこ
 の時、その救済策として、良順は、牛乳屋になることの
 手本を見せた。
  因みに、良順は、海水浴も奨励した。
  大磯の照ヶ崎には、良順によって開かれた日本最初の
 海水浴場がある。記念碑が設置されている。
.
  そして、今日の言葉・・、
  「ピサの斜塔」は、地盤の弱い所に立っているので、
 少しづつ傾きが大きくなっていて、
  対策を講じているが、傾き増大が止まらないので、日
 本の技術に頼ろうと、日本に依頼して来た。
  まだまだ、使って行きたいという意思の表れで、
  日本の技術はその依頼に応えた。
  このピサの斜塔の完成は、1372年。
  644年も使っている。
  ピタゴラスが振り子の実験をしたのが有名。
  こんな昔から使っている。
  「もの」は、大切に使えば、使えるのです。
  それを、NHKは、間違った放送をし続けている。
  耐用年数の洗脳です、マインド・コントロールです。
  NHKの根幹に、渋谷の放送センターを建て替えたい
 があるだけです。
  自分に利があるからと、たった、この事だけで、「大
 嘘を放送し続けているのです」。
  放送センターの耐震が心配なら、耐震診断を受けて、
 耐震補強をしなさい。
  そして、放送センターは大切に使いなさい。
  そして、放送センターを建て替えるからと貯め込んだ
 国民・視聴者の受信料は「返還しなさい」。
  そしてまた、NHKは、自分に都合の良いニュースは
 放送しないこと。
  「○○ビルは、耐用年数が来たから、建て替える様に
 なりました」などと・・、
  都合の良いニュースだけを放送しないこと。
  例えば、渋谷の・・NHKの御近所の話を仕入れて来
 たのか?
  「渋谷の『子供の城』が耐用年数が来たので建て替え
 に決まりました」などと・・、
  自分に都合の良い話を、自前の放送媒体で、全国へ放
 送するのは止めなさい。
  都合の良い、こんな類いの放送ばかりしている。
 マインド・コントロールのニュースばかりしている。
  因みに、法隆寺は1000年以上です。
  しっかりメンテナンスをして、大切に社会資本は使い
 ましょうという放送をしなさい。
  そして、税金を大切に使いましょうと放送しなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年2月12日金曜日

(増補版)295E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年4月~1870年8月)

題:(増補版)295E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年4月~1870年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年4月(3月)女性への授産事業
  東京府が、深川に工作場を設置し、12歳以上の婦女に
 紡績や機織りを教えた。のちの深川授産所。
  授産所:じゅさんじょ、仕事を教えて、仕事を与える
 所。
1870年5月15日(4月15日)水運への展開(玉川上水)
  玉川上水の通船が許可された。
  玉川上水は、1653年に、多摩の羽村から四谷までの43
 キロメートルに渡って築かれた上水のための川であった。
  船による輸送力は、人馬に比べ圧倒的であったので、
 江戸の地元有力者から、何度も、玉川上水を物資運搬の
 ための通船を行ないたいという願いが出されていた。
  江戸時代は、水質悪化を案じた幕府は許可しなかった
 が、維新政府は、税金収入もあり、それを許可した。
  そして、通船の為の工事が、1年程度をかけて急ピッチ
 で行なわれ、そして、通船が始まった。
  羽村から内藤新宿まで、玉川上水を船が往来した。
  これで農産物などの水運が可能となった。
  しかし、補修工事が必要な事にもなって、その費用は
 多大であった。
  またやはり、上水としての用途もあり、その汚染も問
 題となった。
  そして、1872年に、水質汚濁が問題となり禁止となっ
 た。
  以下の記述もある・・、
  舟には荷物や人が乗って、青梅から多摩川を下り、羽
 村の堰を通って、四谷大木戸(新宿)まで1日がかり、
   帰りは、舟に綱をつけて、船子が上水の両側の堤の上
 から引っ張った・・、
  経営者は、村の名主や有力者・・とある。
1870年5月17日(4月17日)東京駒場野の調練場で、在京の
 常備兵による初の天覧演習が行われた。
  明治天皇陛下は、駒場野(現在の東京大学のある所)
 に於いて、親兵諸隊、並びに、在京諸藩の兵で臨時編成
 した連合兵団の1万8千余の演武を御観覧された。
1870年5月22日(4月22日)暦本類を密かに販売するを禁ず
 る。
1870年5月24日(4月24日)種痘の全国実施を施行
  この年、全国に種痘法(方法)を奨励勧告した。
  維新政府は、種痘医の免許制度を定め、痘苗を頒布し
 た。
  そして、これらの推進、及び、医制の確立を目指した。
  この日・1870年5月24日(4月24日)、全国に種痘法(
 方法)を奨励勧告した。
  日本で最初の強制予防接種は、1876年の天然痘予防規
 則に基づく種痘の強制にさかのぼることができる。
  その後、1909年に種痘法(法律)が制定され、種痘の
 徹底が図られた。
  しかし、種痘以外の予防接種の法制化は、1948年(昭
 和23年)の予防接種法の制定をまたねばならなかった。
  第一条:この法律は、伝染のおそれがある疾病の発生
 及びまん延を予防するために公衆衛生の見地から予防接
 種の実施その他必要な措置を講ずることにより、国民の
 健康の保持に寄与するとともに、予防接種による健康被
 害の迅速な救済を図ることを目的とする。
  因みに、この年の1870年~1871年に、ドイツでは、天
 然痘の猛威により100万人以上の人が罹患し、12万人の方
 々が死亡している。
1870年5月30日、雑誌 「The Far East」 が創刊された。
  これは、写真入りの隔週の週刊新聞で、横浜で創刊さ
 れた。
1870年6月3日、勝海舟、東京着。(氷川清話)
1870年6月11日(5月13日) 庚午事変(こうごじへん)
  徳島藩の洲本城代家老の稲田家(1万4千石)は、主家
 である徳島蜂須賀家との間に、様々な確執が以前よりあ
 った。
  因みに、洲本城は、淡路国津名郡(淡路島)にある。
  幕末期に、徳島藩が佐幕派であったのに対し、稲田家
 側は尊王派であり、
  稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれて、徳島
 側との対立をさらに深めていくようになった。
  そして、明治維新の後になって・・、
  徳島藩の禄制改革によって、徳島の蜂須賀家の家臣は、
 士族とされたが、
  陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が、
 卒族とされたことに納得できず、
  自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。
  それが叶わないとみるや、今度は、洲本を中心に淡路
 を徳島藩から独立させ、
  稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩す
 ることを目指した(そうすれば自分たちは士族になれる)
  明治政府にも、独立を働きかけていくようになる。
  稲田家側は、幕末時の活躍により、要求はすぐ認めら
 れると目論んでいた。
  この日・1870年6月11日、稲田家側のこうした一連の行
 動に怒った徳島側の一部の過激派武士らが、
  洲本城下の稲田家と、その家臣らの屋敷を襲撃した。
  また、その前日には、徳島でも、稲田屋敷を焼き討ち
 し、脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地に進
 軍した。
  これに対し、稲田家側は、一切無抵抗でいた。
  これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重
 傷6人、軽傷14人、他に、投獄監禁された者は300人余り、
 焼き払われた屋敷が25棟であった。
  政府は、一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩
 庁が、裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調
 査した。
  少なくとも、洲本では、意図的に緊急の措置を怠った
 疑いがある。
  その様な事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった
 蜂須賀茂韶を容赦なく知藩事職から罷免するつもりであ
 った。
  当時の日本は、版籍奉還後も、かつての藩主が、知藩
 事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だ
 った。
  政府にとって、この問題は、中央集権化を推進してい
 く上で、是非とも克服してゆかねばならなかった。
  だが、下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の
 武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なく
 された。
  結局、政府からの処分は・・、
  徳島側の主謀者・小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首
 (後に蜂須賀茂韶の嘆願陳情により切腹になった、日本
 法制史上、最後の切腹刑)。
  八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多
 数に至るに及んだ。
  知藩事の茂韶や参事らも、謹慎処分を受け、
  藩自体の取り潰しはなかったものの、
  洲本を含む津名郡は、翌・明治4年(1871年)5月に、
 兵庫県に編入された。
  稲田家側に対しては、この事件を口実に、北海道静内
 と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士
 族として移住開拓を命じられ、稲田家の家臣らは、荒野
 の広がる北の大地へと旅立っていった。
1870年6月12日、勝海舟、願により本官を免ず、東京滞在
 仰せ付けらる。(氷川清話)
1870年6月13日(5月15日)陸軍旗章、及び、その他、諸旗
 章を制定した。
1870年6月15日(5月17日)北海道への入植
   1874年(明治7年)に屯田兵制度が設けられ、1904年
 (明治37年)まで続いた。
  北海道への入植を見るために、札幌の入植の歴史を見
 ると、
  札幌の中心部に最初に入植したのは志村鉄一、吉田茂
 八という人で、1869年(明治2年)の開拓使が設置される以
 前に、
  札幌の周辺では、1860年(万延元年)荒井金助の荒井村、
  1866年(慶応2年)、大友亀太郎の札幌村を始め、発寒、
 琴似、篠路、などの村が開かれ、農業が営まれていた。
  開拓使設置後の1870年(明治3年)には、苗穂、丘珠、円
 山、札幌新村に入植が始まった。
  また、屯田兵の入植については・・、
  1875年(明治7年)、最初の屯田兵が、琴似に入植、
  続いて1877年(明治9年)、山鼻屯田兵、
  1887年(明治20年)、新琴似屯田兵、
  1889年(明治22年)、篠路屯田兵が入植、
  屯田兵制度が廃止される1899年(明治32年)まで、札幌
 には、4つの屯田兵村が開村した。
1870年6月(明治3年5月)京都府から留守官が宮中に移され
 た。(注)留守官:りゅうしゅかん、るすかん、
  京都では、京都御所を後に残して、
  明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省など
 の京都留守・出張所が次々に廃され、
  中央行政機関が消えていった。
  また、留守官は、明治3年5月に、京都府から宮中に移
 され、
  同年12月に、京都の宮内省に合併、
  明治4年(1871年)8月23日には廃され、東京への首都
 機能の移転が行われた。
1870年7月6日(6月8日)東京に小学校の開校の布達
  そして、7月10日に、東京府に小学校を6校設置した。
 (お寺の中に小学校。寺子屋 → 寺小学校)。
  第一校 芝 増上寺源流院 (のちの鞆絵小学校)
  第二校 市ヶ谷 洞雲寺 (番町小学校)
  第三校 牛込 万昌院 (愛日小学校)
  第四校 本郷 本妙寺 (湯島小学校)
  第五校 浅草 西福治 (育英小学校)
  第六校 深川 長慶寺 (深川小学校)
1870年7月7日(6月9日)東京府で、男女混浴が禁止された。
  ペリーに、日本人は、他の東洋国民に比し、道徳心が
 はるかに優れているにもかかわらず・・と言われ、なの
 に、混浴は淫蕩だと言われている。
  明治政府は、この様な事からも混浴禁止令を出した。
  現在でも行われている家族風呂も駄目だったのか?・
 ・これは不明。
  (西洋の蒸し風呂は混浴だったのでは・・?)。
  ローマ時代は混浴であった。十字軍もこれ。
  イギリス人は風呂に入らなかった(チューダー朝)。
  中世の西洋は風呂に入らないのが普通。
  体臭を消すために香水が発達した(上流階級)。
  アメリカ人は朝にシャワーをするだけ、夜、風呂に入
 る人はいない(朝シャワーだけ)。
  アメリカ人のバスタブ使用率は、月1回が30%。ほとん
 どの人が年に1回、もしくは、前回使ったのがいつか不明
 という人。
1870年7月8日(6月10日)樫野埼灯台が点灯した。
  石造の灯台、樫野崎に竣工。
1870年7月10日(6月12日)東京府下に小学校6校を設置した。
1870年7月21日(6月23日)前島密(まえじまひそか)が、
 西洋諸国の郵便事業の視察のため、横浜を出帆した。
  切手になった人、幕臣だった。
  維新後に、新政府に出仕し、郵便創業を建議した。
  そして、渡英し、郵便制度を調査した。
  明治4年に、イギリスから帰国し,駅逓頭(えきていのか
 み)となり近代郵便制度の確立につとめた。
1870年7月、薩摩藩士・横山安武(よこやまやすたけ)、集
 議院にて諌死す(氷川清話)
  諌死:かんし、死んでいさめること。また、死を覚悟
 していさめること。
  明治3年(1870年)7月、時弊10箇条を挙げた書を集議
 院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹(とふく、割腹)し
 て果てた。
  その建言は、上に達することはなかった。
  安武は、当時さかんに論じられていた征韓論に対して
 は「ただでさえ国内が疲弊しているときに、征韓などで
 きるはずがない」という見解をもっており、その自決に
 は征韓論に対する抗議の意味があった。
1870年8月16日(7月20日)小松帯刀(こまつたてわき)が
 病により大坂に没した(享年36歳)
  薩摩藩士、西郷隆盛と共に、木戸孝允らとの間で薩長
 同盟を結ぶ。
  また、西郷、大久保利通と共に後藤象二郎との間に薩
 土盟約を交わした。
  維新後は、新政府の総裁局顧問などに就任し、大久保
 らと版籍奉還も画策した。
1870年8月19日(7月23日)弘文・淳仁・仲恭の三天皇に追
 諡(弘文 ・淳仁 ・仲恭天皇が天皇系譜に追加)(7月説
 あり)
  諡:し、おくりな、帝王などの貴人の死後に奉る、生
 前の事績への評価に基づく名のこと。
1870年8月24日(7月28日)普仏戦争に日本は中立を宣言す
 る(局外中立を宣言)。
  普仏戦争は、プロシア=フランス戦争とも言われ、ま
 た、独仏戦争とも言われる。
  ドイツ統一を目指すプロセインと、それを阻止しよう
 とするフランス・・、
  スペイン王位継承問題をきっかけに、プロセインの徴
 発にフランスは引っかかって開戦した。
  ビスマルクが率いるプロセインが圧勝した。
  ナポレオン3世は、セダンの戦いに敗れ、同地で降伏し、
 退位した。
  ナポレオン3世は、この戦いの前に行ったメキシコ遠征
 が失敗していて、フランス国内の政情が不安の状態に陥
 っていた。その名誉回復を狙って開戦した。
  最初から、勝つ見込みは低かった、しかし、ドイツが
 統一し、強大なドイツが成立するのも怖かった。
  また、ドイツ西部の領土獲得の野望も、プロセイン・
 オーストリア戦争でプロセインが勝利して挫折していた
 こともあった。
  フランスは強国になりたかった・・が、失敗した。
  そして、ドイツが勝利し、統一を果たした。
  阻止しようとしたフランスの自業自得か・・?
  ナポレオンをフランス世論が煽り立てたのにも罪があ
 った。勝てると思った。
  そして、宣戦布告した。
  しかし、北ドイツ連邦の諸邦も、またさらに、南ドイ
 ツの諸邦までもが、プロセインに味方した。
  ドイツの先制攻撃はすごかった。各地でフランス軍を
 撃破(この後の時代も、この歴史は繰り返すが・・)
  フランスは、7月19日に宣戦布告したと思ったら、9月
 1日には、壊滅的な打撃を受けて降伏してしまった。
  ナポレオン3世は、8万3000の将兵と共に捕虜になって
 しまった(セダンの戦い)
  そして、ナポレオン軍が破れたことを知ったフランス・
 パリでは、降伏の3日後の9月4日に、労働者が蜂起し、帝
 政が打倒され、共和制が宣言され、第三共和政が成立へ。
  敗れたフランスは、アルザス・ロレーヌを割譲させら
 れ、また、50億フランの賠償金支払いとなった。
.
  そして、今日の言葉・・
  アメリカの「エンパイア・ステート・ビルディング」
 が、竣工したのが1931年4月11日。
  建てられてから85年が経っている。
  日本のよく言う耐用年数的には、完全に「アウト」。
  NHKは、自分の渋谷の放送センターを建て替えたい
 から、
  どこから聞いてきたのか?
  「建物は○○年、橋は△△年」と自前の放送媒体を使
 って、日本中に洗脳放送をしている。
  (まったく罪作りな放送だ)
  メンテナンスをしっかりすれば、しっかり使えるもの
 なのです。
  渋谷の放送センターも、大事に使いなさい。
..
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2016年2月10日水曜日

(増補版)294E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年1月~1870年4月)

題:(増補版)294E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年1月~1870年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年1月3日(明治2年12月2日)禄制改革(ろくせいかい
 かく)・・この時は、徳川幕府の家臣・旗本を対象とした。
  禄制を定め藩士の俸禄を削減した。
  版籍奉還のとき、藩主の家禄は、藩の実収高の10分の1
 に定められたが、
  藩士の家禄については、財政困難のため1~2回の禄制
 改革を行なって変更(多くは削減)された。
  改革のやり方は、禄制の階層を簡素にし、単純化した。
  結果的に、上士層が大きく(20~50%)削減され、中・
 下士層は加増(10~20%程度)となった。
  当時、この層が主導権を握っていたこともあった。
  この禄制は廃藩まで変化することなく、
  そして、これは、後の秩禄処分はこれを基準として実
 施された。
  徳川家家臣だった旗本の場合は、この時の1869年12月、
 禄制が布告され、すべて旧来の知行制を廃し、21等級、
 および、等外に分けて、家禄を定め、現米で支給される
 ことになった(大きく削減された)。
  1871年には、禄高人別帳が作成されるなど、多元的で
 あった家禄の支給体系の一律化が進んだ。
  禄制改革をはじめとする政府の政策に対しては、反対
 意見も存在し、
  農民一揆なども勃発していた。
  また、政府では、旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝
 鮮出兵を巡る征韓論で紛糾したおり、薩摩士族の暴発を
 予防策として、家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を
 行うべきであるとする意見も存在した。
1870年1月3日、勝海舟、徳川家達より使いをもって退身を
 止められる(氷川清話)
1870年1月18日(12月17日)大学校を大学、開成所を大学
 南校、医学校を大学本校と改称した。
1870年1月22日(12月21日)安房の野島崎に西洋式燈台竣工
 点火する。
  相州観音崎燈台に次ぐ西洋式燈台だった。
1870年1月25日(12月24日)外務大臣・丸山作楽(まるやま
 さくら)など、樺太にてロシア代表と日露境界を談判(
 容易に決せず)
  因みに、作楽は、明治4年に征韓論に同調して、投獄さ
 れた。
  また、明治15年には、立憲帝政党を組織した。
1870年1月26日(12月25日)東京~横浜間に電信開通
  1969年10月23日(明治2年9月19日)に、東京~横浜間
 の電信線の設置工事が始まり、
  そして、この日に、東京~横浜間電信が開通した。
  そして、伝信局を置き、通信規則・料金を定め、公衆
 電報の取り扱いが開始された。
  この後、数年で、電信網は全国に張り巡らされた。
  明治2年(1869)に、横浜灯明台役所と、横浜裁判所の間
 の約800メールに、我が国最初の電信線が架設された。
  そして、その後のこの日の・・、、
  1870年1月に、東京~横浜間が開通した。
  1873年3月(明治6年2月)には、東京から長崎に達し、
  また、東京以北の青森に至る幹線は、1875年4月(明治
 8年3月)に竣成し、電信線路網は全国へ広がった。
1870年2月3日(明治3年1月3日)大教宣布の詔(だいきょ
 うせんぷのみことのり)
  天皇陛下に神格を与え、
  神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国
 家方針とした。
1870年2月5日(1月5日)徳川慶喜以下旧幕臣の罪を宥す
1870年2月17日(1月17日)最初の陸軍始(観兵式)
  明治天皇陛下が、宮城内旧本丸跡にて鎮台兵を閲兵さ
 れた。
1870年2月27日(1月27日)日章旗が国旗となる(商船規則)
  国旗、日の丸のサイズ制定される。
  商船に掲げる国旗に、日の丸を制定し、布告した。
  明治政府が、太政官布告(第57号)を以て、国旗のデ
 ザインや規格を示し、日章旗を「御国旗」として規定し、
 日本船の目印として採用した。
1870年2月、本木昌造が、長崎製鉄所の頭取の職を辞した。
1870年3月、本木昌造が、長崎製鉄所の頭取を辞し、長崎の
 新町に新町活版所を創設した。
  私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も、日本最初の
 民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め、近代日本の
 印刷技術発展の基礎がつくられた。
  そして、新町活版所にて、日本活字号数制を確立した。
   和文活字の大きさは、ウイリアム・ガンブルの考案し
 た号数活字のシステムを参考にした「号数制」が基本。
  ガンブルは、スモールパイカ(11point)を5号活字と
 するが、11pointに相当する日本の尺度、鯨尺の1分をあ
 てた。
1870年3月4日(2月3日)イギリスから蒸気消防ポンプを、
 東京府消防局が輸入した。
  因みに、日本の消防車が赤であるのは、1911年に、大
 阪市が輸入した消防車が赤色であったため・・、
  1951年に、道路運送車両法保安基準によって、消防自
 動車は、朱色であることが法律上で定められた。
  また、因みに、アメリカは、各消防局ごとに色が異な
 っている。
  アメリカ合衆国のタコマ市は黄緑色。
1870年3月14日(2月13日)樺太開拓使が設立された。
  樺太開拓使を置き、1870年6月には、黒田清隆(くろだ
 きよたか)が、開拓次官に任ぜられ、樺太専務を命ぜられ
 た、
  そして、開拓費を金12万両、米5000石と定めて、クシ
 ュンコタンに庁舎を置いて、農作物の試作を行なった。
  また、漁場を官営で行ったりした。
  そして、移民の誘致などを試みた。
  しかし、十分な成果はあがらなかった。
  ロシアの方が、盛んに植民経営をして、押されがちだ
 った。
1870年3月16日(2月15日)大阪造幣寮(現在の造幣局)開
 業。
1870年3月19日(2月18日)新橋駅~横浜駅間(現:桜木町
 駅)の鉄道を着工した。
  1872年10月14日(明治5年9月12日)に開業した。
  全線:29キロメートル。
  この日、開業式典が新橋駅で催され、明治天皇陛下の
 お召列車が横浜まで往復した。
  翌・10月15日から全線の正式営業を開始し、列車本数
 は、1日に9往復であった。
  全線の所要時間は53分。速度:32.8km/hだった。
  開業の日をさかのぼること1872年6月12日に、仮開業と
 いう形で、列車が2往復、運行されている。
  翌・6月13日には、6往復がなされた。
  途中の駅は設けられてなかった。
  欧米では、開国してわずかな期間に、鉄道を運行した
 日本に対し、驚嘆の声が上がった。
  (誇るべき日本の影の実力だった・・わずか数年で・・)。
  歴史家のアーノルド・トインビーは、「人類の歴史の
 奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べ
 た。
  因みに、アーノルド・トインビーは、ロンドン生まれ
 の、オクスフォード大学卒、キングス・カレッジ・ロン
 ドンの教授・王立国際問題研究所理事など歴任した、著
 名な欧米中心の歴史観ではない歴史学者である。
  日本の鉄道技術は、目覚ましい発展を遂げ、この開業
 からわずか30年余りで、7000キロメートルを突破する鉄
 道網を日本国内に築いた。
  今なお、新幹線やリニアモーターカーの技術へとその
 技術は継承され、花が咲き続け、伝統技術となっている。
  また、日本の誇るべきは、韓国や朝鮮半島にも、また、
 台湾、そして、中国の国内など、日本国内と同等に、差
 別することなく、鉄道網を構築した。
  ヨーロッパへつなげるという大局的な夢を掲げて、鉄
 道網を造って行った功績も誇るべきである。
  欧米の列強の搾取だけの態度・行動とは、まったく正
 反対だった。 
1870年3月21日(2月20日)京都諸藩兵を兵部省支配に管す
 る。
1870年3月22日、勝海舟、太政官より草々出京致すべき旨
 御達しあり。(氷川清話)
1870年3月25日、勝海舟、母信子逝く静岡豊田村蓮永寺に
 葬る(氷川清話)
1870年3月、勝海舟、再度御達示あり静岡発(氷川清話)
  因みに、この時、勝海舟は47歳。
  勝海舟は、1899年(明治32年)に75歳で没している。
1870年3月(2月)華族のお歯黒と眉描きを禁止した。 
1870年3月(2月)ドイツ医学の採用を決定。
  この「ドイツ医学採用」までには、イギリス医学が良
 いという意見との間で激論が戦わされた。
  ドイツ医学を推薦したのは、佐賀藩医の相良知安だっ
 た。
  イギリス医学を推薦したのは、新政府内の西郷隆盛や
 山内容堂などだった。
  二人は、戊辰戦争の傷病兵の治療で、イギリス人医師
 のウイリスに恩義があった。
  また、当時の医学の流れは、漢方からオランダ医学へ
 進み、さらにイギリス医学への流れだった。
  しかし、知安の知識は確かだった。
  知安は、ドイツ医学こそが世界最高水準であり、日本
 のとるべきは「ドイツ医学だ」との確信があった。
  その裏付けは、(1)オランダ医学書は、ドイツ医学
 書の翻訳が大半(オランダ医学はドイツ医学の焼き直し)
 で、当時のドイツ医学は、基礎医学で世界的発見が相次
 ぎ、発展していた。
  (2)大学南校学監の先人も「ドイツ医学が世界に冠
 たるもので、日本はドイツを範とすべき」と先見の明を
 示していた。
  (3)日本とドイツは、国情・民族性などに類似性があ
 るなどだった。
  ・・などの激論の末に、知安の論理に、新政府も理解
 を深めて行き、正式決定となった。
1870年4月5日(3月5日)東京湾最初の灯台、品川第二砲台
 に竣工した。
1870年4月10日(3月10日)続いて、品川第四砲台にも灯台
 を竣工した。
1870年4月15日(3月15日)我が国初の靴工場が着工(伊勢
 勝造靴場)
  西村勝三が、築地に伊勢勝造靴場を設立。日本初の西
 洋靴工場。
1870年4月17日(3月17日)人力車の営業許可願が提出され
 た(人力車の発明)。
1870年4月17日(3月17日)東京築地の尾張邸跡に、鉄道敷
 設事務局が設置される。
1870年4月22日(3月22日)和泉要助発明の人力車に営業許
 可出た。
  和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助らが、人力車業を開
 業、東京府に、人力車の製造と営業の許可を得る。
  拠点は日本橋。
1870年4月23日(3月23日)外債の初め(5月23日説あり)
  鉄道敷設費のため、英国人より九分利附公債480万円を
 募る(外国公債募集の始)
   日本政府が発行した最古の外債は、1870年4月23日(
 明治3年3月23日)に、ロンドンで出された新橋駅~横浜
 駅間の鉄道建設費用を捻出する為の9分付英貨国債100万
 ポンド(当時の相場で488万円相当)と、
  1873年に出された、秩禄処分の費用を捻出するための
 7分付英貨国債240万ポンド(当時の相場で1,171万円相当)
 であった。
.
 そして、今日の言葉・・
  減税策が採用できないなら・・、
  減税の景気刺激策が採(と)れないなら・・、
  約束のNHK受信料の3%値下げを実施せよ!
  NHK受信料の国民への、視聴者への3%返還分を、
 返還実施せよ!
  NHKは、金を貯め込むな!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年2月8日月曜日

(増補版)293E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年9月~1870年1月)

題:(増補版)293E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年9月~1870年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年9月14日(8月9日)デンマークに注文の電信敷設用の
 諸機械が、横浜に到着した。
1869年9月17日(8月12日)民部、大蔵の二省合併される。
1869年9月18日(8月13日)医学校(東京大学医学部の前身)
 において最初の人体解剖行われる。
1869年9月19日、平民に姓(氏)の呼称を許可する(苗字使
 用の許可)
1869年9月20日(8月15日)蝦夷地を北海道と改称した。
  蝦夷地を北海道と改称し、11か国86郡を置いた。
  当初、開拓使は、直轄地以外の経営を水戸・佐賀など
 の諸藩や、東京府、兵部(ひょうぶ)省などに割り当てる
 分領開拓の方式を採用したが、
  全道の統一的開拓が困難なため、1871年8月までに、す
 べて開拓使の直轄となった。
  なお、樺太(からふと)と改称された北蝦夷地には、ロ
 シアとの関係が緊迫化したため、1870年2月、開拓使の管
 轄から外れて樺太開拓使が置かれ、
  開拓次官・黒田清隆(きよたか)が、その専務となった
 が、翌年の1871年8月に、北海道開拓使に併合された。
  開拓次官の黒田は、就任直後に、道内および樺太を巡
 視した。
1869年9月25日(8月20日)明治新政府が、東京市内の地所
 約916万6770坪を民間に払下げを行う。
  一坪の売価が、1銭5厘~2銭5厘(現在の価格に換算す
 ると150円~250円相当)
  新政府は、旧幕府側の大小名屋敷や旗本屋敷等の一切
 の土地を、政府へ返還せしめたため、広大な空地が生じ
 た。
  そこで、桑や茶を植えたり、あるいは畑にした方が好
 いだろうということで、民間に払下げを許す事になった。
  政府は、いつまでも空地のままで放って置けないので、
 日比谷を練兵場にしてみたり、
  その他の地所は、富豪に勧めて、
  ほとんど、半ば強請的に千坪二千坪と区切って買取ら
 せ、着々と処分を進めた。
  明治初年には、地所を買っても、そのまま畑にもしな
 いで、板塀で囲ったまま、草茫々たる空地があちらにも
 こちらにも沢山見られた。
  今の東京駅前辺りは、三菱ヶ原と呼ばれ、停車場が建
 てられる直前まで、草原のままで放任され、
  その草深い中に他殺死体が発見されたという、今から
 考えると嘘のような事もあった。
  明治維新以来の東京は、茫漠たる原野と化し、日暮か
 ら通る者も無い、往古の武蔵野に還ったような情態であ
 った。
  明治23年、陸軍省でも、東京の空地を持余して、渋沢、
 大倉、岩崎、三井等の富豪を招き、懇談的に払下げの相
 談に及んだところ、誰一人引受手が無く、
  結局、岩崎家が貧乏くじを引いたつもりで、10万坪を
 坪5円当りで(50万円)背負い込む事になった。
  荒地のままで放っておいたが、明治27年に漸く二重橋
 前通りの正面中通りに、唯一軒、初めて赤煉瓦の西洋館
 が建てられた。
1869年9月30日(8月25日)菊花御紋章の制定められる。
  十六八重表菊が、日本の天皇陛下、および、皇室を表
 す御紋章で、俗に菊の御紋とも呼ばれる。
  太政官布告をもって、この年に制定された。
1869年9月、農民一揆、各地で頻発(新潟、仙台、南部、高
 山、福江、松江、長崎、飯田、高崎、郡上、甲府、延岡
 など)。世情不安(氷川清話)
1869年、軍楽隊の初め(薩摩藩)。
  最初の近代軍楽隊は、1869年(明治2年)薩摩藩が、イギ
 リス海軍軍楽隊長・フェントン(生没年不詳)の指導を受
 けて編成した薩摩藩軍楽隊である。
  1871年に、陸・海両軍に軍楽隊が誕生した。
  この時に発足した兵学寮教導隊軍楽隊が、後の陸軍戸
 山学校軍楽隊で、演奏活動のほか、軍楽教育機関も併せ
 もった。
1869年10月、イギリス人フェントンが、薩摩藩の依頼で軍
 楽隊の皇礼式曲として「君が代」を作曲した。
  1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍
 楽隊)の隊員に対し、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の
 軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンが、国歌、
 あるいは、儀礼音楽を設けるべきと進言し、
  それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩
 藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)
 が受け、
  大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が
 採用された。
1869年10月8日(9月4日)兵部大輔・大村益次郎、京都で襲
 撃される。
  翌4日夕刻、大村は、京都三条木屋町上ルの旅館で、長
 州藩大隊指令の静間彦太郎、および、大村の鳩居堂時代
 の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、
  元長州藩士の団伸二郎、同じく、神代直人ら8人の刺客
 に襲われた。
  静間と安達は死亡。
  大村は重傷を負ったが、1869年12月7日(旧暦11月5日)
 に死亡した。
1869年10月18日(9月14日)オーストリアと通商航海条約
 調印
1869年10月22日(9月18日)東京築地に、海軍操練所を開所
 (海軍兵学校の前身)
  海軍操練所の流れは・・、
  江戸時代末期の幕府の海軍教育機関を元治1年 (1864年)
 5月神戸に開設 → 翌年・1865年廃止 → 明治初年の
 海軍軍人養成所。海軍兵学校の前身 → 明治2年 (
 1869年) 9月、東京築地に兵部省が設置した。
1869年10月23日、東京~横浜間に国内初の電信線が着工(
 6月19日説あり)
  12月25日、公衆和文電報の取り扱いが始まる。
  日本の電信による通信の初め:
  1854年のペリーの2度目の来日の際に、米国大統領ミラ
 ード・フィルモアから、江戸幕府へ1/4サイズの蒸気機関
 車と共に贈られた「エンボッシング・モールス電信機」
 によるものであった。
  エンボッシング・モールス電信機は、受信側で信号が
 紙テープへ記録されるもので、この電信機のセットで約
 1マイル(1.6km)の電線を用いて送信された。
  この時の電文は、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)で
 あった。
  その後、幕末の混乱の中で、電信の普及は無かったが、
 明治維新後の1869年(明治2年)に、英国の通信技師を招
 き、横浜燈台役所と横浜裁判所の間に、電信回線が敷設
 され、ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文
 字を指す方式)による通信が始まった。
  同年中には、東京~横浜間で電信による電報の取り扱
 いが始まった。
  明治政府は、電信網の重要さを認識しており、整備に
 力を入れた。
  東京・横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で、電信網は、全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  因みに、ブレゲ指字電信機は、時計のような形をした
 電信機で、送信したい文字に針を合わせると、受信側で
 も同じ文字を指してメッセージを送信するという仕組み。
  モールス信号は、文字と信号を覚える必要があったが、
 ブレゲ指字電信機は、その必要がなく、誰でも扱うこと
 ができた。
  しかし、ブレゲ指字電信機には、1秒間に5~6文字程度
 しか送れない、通信線の敷設に多額な費用がかかるなど
 の欠点があった。
  そのため、多くの文字を送ることができ、通信線の敷
 設費用が安いモールス信号へと置き換わっていった。
1869年10月(明治2)、ばんどり騒動
  越中国新川郡で,加賀藩の厳しい封建支配に反抗して
 起こった農民一揆。
  同年は、大凶作であったが、加賀藩は、貢租の徴収を
 強行した。
  新川郡の農民たちは、10月,塚越村忠次郎を発頭人と
 し、貢租徴収の公正、農村役人(徴税機関)である十村(
 とむら)・同手代・惣代肝煎の公選、貢租減免、物価引下
 げなどを要求して蜂起した。
  ときに晩秋で、数万の農民たちはばんどり(蓑)をまと
 って集結したので,この呼称がある。
  農民騒擾(のうみんそうじょう)・・、
  王政復古により成立した明治維新政府の旧体制下と変
 わらぬ政策に対し、
  「御一新」の幻想を破られた農民は、各地で反対一揆
 を展開した。
  とくに1869年(明治2)には、大きな高揚がみられ、政
 府に動揺を与えた。
  このあと、71年7月の廃藩置県以後の学制(72年8月)、
  徴兵令(同年11月)、地租改正(73年7月)を中心とし
 た一連の諸政策に対して、農民一揆はふたたび高揚を示
 すことになる。
  とくに73年は、学制・徴兵令への反対を中心とする一
 揆の激発により、一つのピークを形成した。
  この高揚は、地租改正事業の進展のなかで、地租改正
 反対一揆へ受け継がれていった。
  他方政府は、先進資本主義諸国の圧力に促されて資本
 主義的生産様式を採用すべく、
  殖産興業政策のもとに鉄道・電信・電話の敷設、鉱山
 の官収などを進めた。
  これらの諸事業に対しても、それに反対する電信・鉱
 山騒擾が激烈な形態で爆発した。
1869年11月4日、明治期のベストセラー筆者・福沢諭吉は、
 コピーライト(著作権、複製権、版権、Copyright)を
 「版権」と訳すなど著作権にも詳しかった。
  自費で出した『西洋事情』『世界国尽』『学問のすす
 め』などの海賊版まで出たため、たまりかねて大阪府知
 事に取締要望書を出した。
1869年11月5日(10月2日)政府が、海軍はイギリス式、陸
 軍はフランス式と定めた。
1869年11月10日(10月7日)庶民の西洋型船舶の所有が許
 された。
1869年11月23日、勝海舟、兵部大丞仰せ付けられる。
  即日辞退の旨述ぶ。未だ命を得ず(氷川清話)
1869年11月25日(10月22日)西周、兵部省に出仕(以後、
 陸軍軍制の整備・軍人勅諭の制定などに参画)
1869年11月26日(10月23日)無提灯の夜行を禁止
  ガス灯が、日本に点火したのは明治5年だった。
  場所は、横浜の外人居住区、これが最初だと言われて
 いる。
  次に、明治7年、東京の芝の金杉橋から京橋までの表
 通りに85基が点火した。
  ガス灯は、文明開化の象徴として、大歓迎された。
  やがて、浅草まで伸びた。
  しかし、ガスの供給ができなかった
  浅草では、ガス灯と同じ形の街灯を立て、中に石油ラ
 ンプを点火して、ガス灯と呼んだ様だ。
  明治11年になると、銀座に点火された。
  アーク灯が、わずか数年で白熱灯に代わったのに比べ
 て、ガス灯の方は、大正の大震災まで灯し続けられた。
  ガス灯の燃える明かりが、アーク灯より日本人の情緒
 に合っていたものと考えられる。
  紫舟は・・
  蒸暑く 閉じたる部屋の 瓦斯の灯に 
            検温器見る 夏の夕暮れ
  ・・とうたっている。
  ガス灯が、室内に使われたのは、明治16年の鹿鳴館が、
 最初のようである。
  一般の家庭に使われたのは、東京ガス会社が設立され
 て、配管工事が行われるようになった明治20年以後のこ
 と。
  しかし、この方は、ランプほどの普及はなくて、やが
 て電灯に取って代わられた。
1869年12月、稲葉騒動(いなばそうどう)
  稲葉騒動とは、明治2年(1869年)12月に、西尾張地域
 一帯(稲沢・尾西・一宮・津島の133村)で起こった大規
 模な農民一揆。
  発端が、美濃路の稲葉宿であったことから、稲葉騒動
 と呼ばれた。
1869年(明治2年)12月1日、大楽源太郎(だいらくげんた
 ろう)率いる奇兵隊が乱を起こした。
  大楽源太郎は、1869年(明治2)、政府の国民徴兵制に
 反対し、
  兵部大輔(ひょうぶたいふ)大村益次郎(ますじろう)の
 暗殺事件に関係ありとして、幽閉されたが、脱走した。
  ついで、藩の脱隊騒動を指導したとして探索を受け、
 翌年九州日田県の農民一揆(いっき)を指導し逃走中、久
 留米(くるめ)で暗殺された(1832年~1871年)
  別史料には、1869年(明治2)の諸隊脱隊騒動に参加して
 敗走し、九州で再起を図ったが,潜伏先の久留米藩によ
 って暗殺された・・とある。
1869年12月6日(11月4日)海軍操練所を海軍兵学寮、
 大阪兵学寮を陸軍兵学寮と改称
1869年12月6日(11月4日)大阪造幣寮(後の造幣局)が火
 事になった。
  この造幣寮の権判事・斎藤弥九郎は、この時、72歳の
 老齢であったが、
  さすがに、幕末に鳴らした剣道の指南役だけあって、
 六男の六郎之助を従えて、真先に駆けつけ、
  狼狽して騒いでいる使用人に、「倉庫の重要書類を出
 したか?」と尋ねた。
  使用人が、「アッ、うっかりしておりました」という
 のを聞くと、
  手桶の水をザブリと頭から被って、阿修羅のように、
 火炎の中に飛び込んで行った。
  六郎之助も、父に負けじと、同じ様に水を被ってその
 後に続いた。
  斎藤父子の命懸けの働きで、重要書類だけは、無事に
 取出せたが、そのため、二人は、大火傷を負って病院に
 担ぎ込まれた。
  造幣頭の井上馨が、病院に見舞いに来て、源九郎の手
 を固く握って、「あんたは、明治の大川友右衛門じゃ」
 と言って、感激の言葉を述べた。
  ちなみに、大川友右衛門は、講談『細川血達磨』で猛
 火中に飛込み、お家の重宝を割腹した腹中に収めて全う
 したという美談の主。
  斎藤弥九郎は、幕末の剣豪で、神道無念流の達人、千
 葉周作(北辰一刀流)や、桃井春蔵(鏡新明智流)とと
 もに三傑と称された程の人物だった。
  江戸の飯田町に、練兵館という道場を開いて、盛んに
 少壮志士の腕を磨いた。
  長男の新太郎(二代目弥九郎)、木戸孝允を始め、楠
 本正隆、渡邊昇ら、後の、明治新政府の大官達多数が、
 この道場から輩出した。
  かっては、彰義隊一党が、彼を迎えて党首にしようと
 した。
  しかし、彼は、順逆の大義を説いて、断然これを刎ね
 つけた。
  明治政府となって、道場も賑わなくなったが、間もな
 く、大阪造幣寮の権判事に用いられた。
  なお、火傷の方は平癒したが、高齢のため東京に帰り、
 1871年(明治4年)、火事から約2年後、病気により没す。
1869年12月7日、勝海舟、帰省願の上、静岡に帰る(氷川清
 話
1869年12月7日(11月5日)大村益次郎、逝く
  大村益次郎が没した(1824年~1869年)(46歳)
  1869年10月8日(9月4日)に襲撃され、手術を受けるも、
 旧暦11月1日に至り、敗血症による高熱を発し、容態が悪
 化した。
  この年(1869年)兵部大輔となり、兵権の中央政府へ
 の統一をはかったが、その急進的な兵制改革は、守旧士
 族の反感を招き、神代直人らに京都で襲われて重傷を負
 い、大阪病院で死んだ。
  事実上の日本陸軍の創始者と言われる。
  賊、大村益次郎を殺す(氷川清話)
1869年12月12日(11月10日)政府、鉄道布設のことを決議
 する。
1869年12月12日、勝海舟、徳川へ退身書を差出す。これは
 逸民でありたいことを乞う為である。(氷川清話)
  逸民:いつみん、俗世間を逃れて、隠れ住む民。
1869年12月21日(11月19日)金銀銅の自由貿易を禁ず。
1869年、東京・大阪などに、通商会社・為替会社が開業し
 た(株式会社、発券銀行の起こり)
  明治政府の殖産興業政策推進を目的に通商司(勧商、
 産業政策担当の政府機関)の監督下に、通商会社ととも
 に設立された、日本最初の株式会社。
  その任務として、幣制整備、民間融資とあわせて、商
 業、貿易を担う通商会社に信用を与えることが期待され
 た。
  政府は、三井、小野、島田などの富商に勧めて、東京、
 横浜、京都、大阪、神戸、大津、新潟、敦賀(つるが)の
 8か所に為替会社を設立させた。
  運用資金は、これら富商の出資した身元金(資本金)
 のほか、その一部を金準備として発行した紙幣、政府の
 貸下げ金(太政官札(だじょうかんさつ))であった。
  業務は、紙幣発行、貸出のほか、預金、為替、両替な
 どをも行ったが、政府の保護にもかかわらず営業は振る
 わず、1871年の通商司の廃止とともに衰え、翌・1872年
 の国立銀行条例の制定にあたり、第二国立銀行に転形し
 た横浜為替会社を除いてすべて解散した。
1869年、パンの製造
  日本人の手によってパンが作られたのは、1840年に中
 国で起こったアヘン戦争がきっかけだった。
  徳川幕府は、日本にも外国軍が攻めてくることを恐れ、
 兵糧としてパンを作らせた。
  米飯では炊くときの煙が敵方にとって格好の標的にな
 りかねないのが理由だった。
  また、固いパンは、保存性と携帯性の面ですぐれてい
 ると考えたからだった。
  この時、パン作りの指揮をとったのは、江川太郎左衛
 門だった。
  1854年に、横浜、神戸など港町を中心に、パン作りが
 広がった。
  また、1869年に、現存するパン屋でもっとも古い「木
 村屋総本店」が銀座に開業した。
  6年後(1875年)には、日本独特の「あんパン」が発売
 され、人気商品になった。
1869年、人力車が発明された。
  和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が、発明者とし
 て明治政府から認定されている。
  3名は、東京で見た馬車から着想を得て、1868年に、人
 力車を完成させた。
1869年、脱隊騒動(だったいそうどう))
  1869年(明治2)から翌年にかけて、長州藩の諸隊脱隊
 兵が藩の常備軍編成に対する不満から反乱を起こした事
 件。武力により鎮圧された。
1869年、アメリカ大陸横断鉄道がなった。
1869年、メンデレーフ(ロシア)が元素の周期律を発見し
 た。
1869年、イスタンブール大学設置された。
1869年、この頃、アニリン染料が発明された。
1869年11月17日、スエズ運河が出来た(開通した)。
  建設開始は、1859年4月25日だった。
  建設に、約10年半を要した。
  フランスは、エジプトと協力して完成させた。
  1875年からイギリスが支配権を手に入れた。
  11月17日の午前8時、エジプトのスエズ地峡の地中海
 と、紅海(スエズ湾)を結ぶ海面と、水平な人工のスエ
 ズ運河が開通した。
  これによって、アフリカ大陸を回りこまずにヨーロッ
 パとアジアを海運で連結することができるようになった。
  運河は、北端のポートサイドと、南端のスエズ市タウ
 フィーク港を結んだ。
  全長は193.3キロメートル、深さは8メートル。
  開通式では、フランス皇后・ユージェニーが乗る皇室
 所有のエーグル号が先頭を切った。
  その後に続くイギリス船などの総勢48隻が、ポートサ
 イドから運河を渡った。
  オーストリア皇帝など、ヨーロッパ中から1000人以上
 の賓客が出席した。
1869年、フランシス・ゴルトン(イギリス)が、「遺伝的
 天才」という本を著した。
  この本の中で、彼は、「人間の才能がほぼ遺伝によっ
 て受け継がれるものである」と主張し、そして、更に、
 「人間も人為選択を適用すればよりよい社会ができる」
 と論じた。
  このゴルトンの論理はイギリスに受け入れられ、アメ
 リカにも伝わり、アメリカはイギリスより大きな影響を
 受け、「断種法」を成立させ、劣等な遺伝子を持つとア
 メリカの判断した方々が断種された。
  この考え方・論理の思想は、キリスト教の有色人種蔑
 視など人種差別の考え方・教義に洗脳されたところから
 由来している。
  また、ナチスがこれと同じ考え方をして、劣等因子を
 持つ方々を殺戮し、軽蔑すべき卑劣な大虐殺であるユダ
 ヤの方々への行為に及んだ。
  この思想の発端のゴルトンは、キリスト教聖職者のダ
 ーウィンの従兄弟である。
..
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2016年2月7日日曜日

(増補版)292E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年7月~1869年9月)

題:(増補版)292E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年7月~1869年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年7月27日(明治2年6月19日)東京九段に東京招魂社(
 靖国神社)の造営が起工された。
1869年7月29日(6月21日)明治政府として、最初の渡航免
 状を下付した(佐藤進、横浜を出帆しドイツへ向う)
  佐藤進:さとうすすむ、医師、医学者、日本陸軍軍医、
 男爵(1845年12月23日~1921年7月25日)
  この年、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイ
 ツに留学をし、ベルリン大学医学部で学び、1874年(明
 治7年)に、アジア人として初の医学士の学位を取得して
 帰国した。
1869年7月(6月)本木昌造(もときしょうぞう)が、長崎
 製鉄所で金属活字(鉛)の鋳造に成功した。
  1869年11月、本木昌造らのグループが洋式活版術の移
 入を受ける。
  日本の活版印刷技術の先駆者と言われている。
  興善町の唐通事会所跡(旧新興善小学校)に、長崎製
 鉄所付属活版伝習所を設立した。
1869年8月2日(6月25日)藩知事家臣を士族と称し、農工商
 民を平民とする。
  封建的身分制の廃止の進捗は・・、
  1869年に、公卿・諸侯を華族に、そして、藩士・幕臣
 を士族・卒に、町人・農民を平民にした。また、
  1870年に、平民に名字の使用許可し、
  1871年に、士族の散髪・脱刀の自由とし、華族・士族・
 平民間の結婚を許可し、職業の自由とした。そして、
  1872年に、全国戸籍調査 →翌年「壬申戸籍」
   裁判上の扱いも四民平等とした。
  1873年に、徴兵令を公布し、
  1876年に、廃刀令を公布した。
1869年8月5日(6月28日)明治天皇陛下、群臣を率いて神祇
 局に臨み、国是一定を天神地祇、皇祖の霊に告げ給う。
  神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)は、
 古代の律令制で設置された、国家機関の一つ。
  天神地祇(てんじんちぎ)は、天つ神と国つ神。すべ
 ての神々。一般に、天神は高天原(たかまがはら)に生ま
 れた神、あるいは葦原の中つ国に天降った神、地祇はこ
 の国土の神とされる。
  国是一定:一定の国是
  議會政治は、神代以来の傳統であり、近代になってわ
 が國に西洋から輸入されたものではないことは、
  明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地
 祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に
  「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる
 天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって
 明らかで、
  「議會政治實現」とは、神代への回帰、
  明治維新における徳川幕府政治打倒、一君萬民國家の
 建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新だ
 った。
1869年8月6日(6月29日)招魂社(しょうこんしゃ、後の、
 靖国神社)が、戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京
 招魂社」として、元歩兵屯所跡の火除地に創建された。
  但し、創祀時は、未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣
 工したのは1872年(明治5年)であった。
  また、明治天皇陛下の裁可を得て、1879年(明治12年)
 6月4日に「靖國神社」への改称がなされ、
  また、別格官幣社列格の太政官達が発せられた。
  鳥羽・伏見から箱館戦争にいたるまで、戊辰戦争の全戦
 没者が合祀された。
1869年8月9日、勝海舟、辞表に及ばずの御沙汰あり、更に
 藩知事より藩務諮の為大丞御免願書呈出(氷川清話)
1869年8月13日、勝海舟、外務大丞御免(氷川清話)
1869年8月15日(7月8日)政治情勢の変動に対応して中央集
 権が強化される。
  新しい太政官制が導入され二官六省制がとられた。
  二官六省の制:政府官制を改革し、神祇官・太政官・
 民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省、お
 よび、開拓使・衆議院そのほかを設置し、行政官・6官・
 上局会議を廃止。
1869年8月15日(7月8日)集議院が設置された(公議所が改
 称された)(7月7日説あり)。
  集議院は、明治初期の政府の議事諮問機関で、この日
 の官制改革で、公議所(こうぎしょ)を改称して設置さ
 れた。
  長官には大原重徳、次官に阿野公誠、判官に神田孝平、
 丸山作楽らが任じられた。
  議員は、諸藩の参事1名ずつで構成され、諸藩の意向の
 反映が配慮されていたが、公議所が議決機関であったの
 に対し、諮問機関ないしは諸藩の政府協力機関であり、
 その権限は縮小され、太政官提出の議案を審議、答申す
 るだけにとどまった。
  公議所(こうぎしょ)は、集議院の前の機関で、やは
 り1869年に開設されていた明治政府の議事機関だった。
  やはり、各藩から1名ずつ任命された公議人から成り、
 幕末以来の公議思想の実行を意図したもので、審議は各
 方面にわたった。
  1869年8月15日の官制改革により集議院と改称された。
  公議所を開き、制度律令を議す(氷川清話)
1869年8月15日(7月8日)、開拓使は、版籍奉還を受けて、
 この日に、実施された官制改革で誕生した中央政府機関
 であった。
  明治政府が、北方開拓のために「開拓使」を置いた。
  また、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を郡制の中
 に組み入れた。
1869年8月15日(7月8日)造幣局は、造幣寮へ改称されて大
 蔵省所属となった。
1869年8月19日(7月12日)高輪談判(たかなわだんぱん、
 贋貨の回収と近代貨幣制度の導入を国際公約する)
  東京高輪において開催された明治政府首脳と、イギリ
 ス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5ヶ国の駐
 日公使による会談。
  この会談で、日本が官民の(二分金を中心とした)贋
 貨の回収と、近代貨幣制度の導入を国際公約とすること
 になった。
  また、新貨条例や造幣局設置のきっかけとなった。
  倒幕後、明治新政府は、幕府の交わした改税約書を引
 き継ぐこととなり、
  慶應4年5月9日(1868年6月28日)新政府は、銀目廃止
 を布告し、丁銀および小玉銀は廃止され、通貨の両への
 一本化が図られた。
  この時期、日本国内には、多種多様の貨幣が混在し、
 それぞれが、額面でなく、実質価値による相場で取引さ
 れ、
  加えて、贋造貨幣が横行していたことから、
  これらについても、日本国外から改善を求められた。
  明治2年7月12日(1869年8月19日)高輪談判において、
 二分判を主とする贋造貨幣の処理について、新政府と、
 5カ国の駐日公使との間で交渉が行われた。
1869年8月24日(7月17日)太政官令にて三府の外、県と称
 す
1869年8月24日(7月17日)北海道という名称
  蝦夷開拓史となった伊勢国の探検家の松浦武四郎が、
 蝦夷の改名候補を政府に提出した。
  「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」
  候補は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北
 道、千島道。
  すべて地理や歴史に基づく
  北加伊道は、アイヌ民族が、自らの住む土地を「kay」
 と呼び、
  北に位置することから名づけられる
  8月15日、政府による審議を経て、「北加伊道」案が
 「北海道」と改字、
  南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海
 道」で「北海道」に、
  太政官布告第七三四「蝦夷地自今北海道ト被称
 十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」による。
1869年(明治2年)北海道茅沼炭鉱にて、炭鉱軌道(茅沼炭
 鉱軌道)が運行を開始した。
  鉄道とはいっても、鉄板で補強した木のレールを使用
 し、牛馬で運行していたものであった。
  これを、日本の鉄道の最初とする説もある。
1869年9月1日(7月25日)定期蒸気船が、初めて、東京~横
 浜間に運輸を開始した。
  毎日2回運輸、片道賃金100匹。
1869年9月5日(7月29日)能楽
  明治最初の、盛大な能楽が、赤坂の紀州藩邸で演じら
 れた。
  能を外交のもてなしとすること自体は、欧米視察後の
 岩倉卿の肝煎りで始まったわけではない。
  確かに、岩倉は、1871年に、岩倉使節団を組織して、
 1873年に、欧米視察をし、その時に、オペラが外国要人
 の饗応に催されることを知り、
  能が、日本で、これにあたると考え、能の再興と外交
 への活用を働きかけたが、
  すでに、岩倉使節団が出発する2年前の1869年(明治2
 年)に、
  早くも、外国賓客のために能狂言の催しが開かれた。
  1869年7月、明治政府は、英国ヴィクトリア女王の次男、
 エジンバラ公アルフレッド王子を迎えた。
  その饗応に、相撲観戦や浅草訪問とともに、観能の催
 しを組み、赤坂の紀州藩別邸で演じた。
  その時の能は、「弓八幡」(喜多勝吉)、「経正」(
 観世銕之丞)、「羽衣」(宝生九郎)、「小鍛冶」(金
 剛唯一)の四番。
  狂言も、「墨塗」「太刀奪」の二番が出された。
1869年9月6日(8月1日)鉄橋
  日本最初の鉄橋が、長崎の浜町通りに竣工した。
  (注)「初代」の銕橋(くろがねばし)が、1868年に
 架けられ、これが、日本最初の鉄橋という説もある。
  1867年(慶応3年)の豪雨にて、橋が大破し、有志らの
 協力を経て、長崎製鉄所の鉄を使った頑丈な鉄橋として
 架け直されることになり、
  設計は、オランダ人技師ホーゲル、
  工事は、長崎製鉄所頭取の本木昌造が指揮を採り、
  総工費は、1万6千両をかけて建設されたという。
  橋は、全長27メートル、全幅6メートルで、
  橋面は、板張りとされ、通行人の下駄の音がよく響い
 たという。
1869年、牛鍋屋の流行
  安政6年(1859年)の横浜が開港後、居留地の日本国外
 の人々から食肉文化が伝わってきた。
  日本に肉牛畜産の産業がなかったため、当初は、中国
 大陸や朝鮮半島、あるいは、アメリカから食用牛を仕入
 れていた。
  しかし、居留地人口の増加に伴い、牛肉の需要が増加
 し、
  のちに、神戸の家畜商が、横浜へ食用牛を搬送するよ
 うになった。
  この様な背景の元、幕府は、元治元年(1864年)居留
 地に指定されていた横浜市の海岸通に、屠牛場の開設を
 認めた。
  屠場開設から2年遡った文久2年(1862年)に、横浜入
 船町で、居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が、
 1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したの
 が最初の事例とされる。
  幕末期、開港場の横浜では、牛肉の煮売り屋台があっ
 た。
  1867年、江戸の芝で珍しい牛肉屋を開いていた「中川」
 も牛鍋屋を開業した。
  明治元年(1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」
 を創業し、
  当時主流の味噌煮込み風牛鍋を提供した。
  同年、横浜につづき、東京の芝にも、外国人向け屠牛
 場ができると、牛鍋屋の流行は飛び火し、
  それ以降の牛食は、文明開化の象徴となった。
1869年9月12日(8月7日)対馬藩の改称
  対馬の府中藩(対馬藩)が、厳原藩(いづはらはん)
 と改称した。
  宗義達は、版籍を奉還し、新藩制により厳原藩と改称
 されて、厳原藩知事となった。
  これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改めら
 れた。
1869年9月12日(8月7日)、静岡藩の成立
  明治のこの時に成立した藩は静岡藩(しずおかはん)
 と呼ぶ。
  かつての藩は、駿府藩(すんぷはん)で、駿河府中藩、
 もしくは、府中藩とも呼ばれた。
  以下、勝海舟の話・・
  維新の際、旧旗本の人々を、静岡に移したのは、およ
 そ8万人もあったが、
  政府では、10日の間に移してしまえと注文したけれど
 も、それは到底できないから、
  20日の猶予を願って、汽船二そうでもって運搬した。
  しかし、その困難は非常なもので、1万2000戸より他に
 ない静岡へ、一時に、8万人も入り込むのだから、
  俺は、自分で農家の間を奔走して、とにかく、ひとま
 ず皆のものに尻を据えさせた(氷川清話)
  また、以下、海舟の後日談・・
  将軍に政権の返上を進言・・、将軍が、政権を返上し
 て、徳川家がもとの駿・遠・参の一大名に戻るべき事を、
 公式に進言した最初の人は、大久保忠寛である。
  その直言のために、度々、上役に嫌忌されて、左遷さ
 れたり、屏居させられたりした。
  忠寛は、講武所奉行、外国奉行を歴任し、慶応4年の江
 戸無血開城の前後には、会計総裁として、陸軍総裁・勝
 安房の女房役であった。
  海舟は、この大久保越中によってどんなに助けられた
 か分からない。
  明治になってから、大久保は「一翁」と称したが、明
 治5年から8年まで、東京府知事を務め、また、元老院議
 官となった(氷川清話)
  また、勝海舟の回顧談・・
  幕府に軍艦製造を進言の件・・、長崎のオランダ商館
 長ドンケル・グルヂウスは、幕府に勧告して、日本も海
 軍を建設し、軍艦製造に着手し、そのための要員・人材
 を教育すべきことを進言し、
  幕府も、その勧告に従う事になった(氷川清話)
  長崎には、かねて、幕府の注文していた新造艦が、オ
 ランダから回航されてきた。
  このヤッパン号は、咸臨丸と名付けられた(氷川清話)
  また、長崎の飽の裏には、長崎製鉄所が設けられた。
  内容は、製鉄ではなく、造船所であり船の修理工場で
 ある(氷川清話)
  オランダへ発注した第二号艦エド号も到着して、これ
 は朝陽丸と名付けられた(氷川清話)
  家光と沢庵について・・、三代将軍・家光は、沢庵和
 尚を座右に置いて、重く用い、いつも民間の事情などを
 聞いた。
  家康公が、天海におけるのと同じ(氷川清話)
  島原の乱の事・・、注進が、幕府に来ると、将軍は、
 すぐに板倉内膳正(ないぜんのしょう)に命じて征討に
 向かわした。
  それを聞いた柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)は、
 将軍をひどく換言して、将軍が、すでに厳命を下して江
 戸をたたせたものを、わずか剣道指南ぐらいの身分であ
 りながら、独断をもって、それを引き止めようとした(
 氷川清話)
  (注)キリスト教は、幕府が、日本が、キリスト教を
 弾圧したとかと言うが、この事の様に、キリスト教には
 非常に寛大であった。
  捕らえても、本人ではなくても「キリスト教を止めま
 した」と言えば、すぐ許した。
  また、余り刑には処さなかったが、処す場合でも、そ
 の刑場の囲いの一部を開けておいて、逃げられるように
 していた。
  ヨーロッパのキリスト教会の様に、魔女を広場に連れ
 出し、なかなか燃えない生木でじわじわ焼くような、卑
 劣なやり方など、温厚な日本は、しなかった。
  そして、勝海舟の想い出のはなし・・、
  静岡に隠居の家康公について・・、静岡近辺の旧家に
 は、東照宮(家康公)が来て、碁を打たれた。
  これは、民と親しむことによって、民間の実状を知る
 ためであった(氷川清話)
  そして、勝海舟の財政手腕について・・、勝海舟が、
 明治20年にまとめた書物に「吹塵録(すいじんろく)」
  という大部の経済書があるが、
  これは、海舟が、当時の松方蔵相の依頼を受けて、旧
 幕時代の財政を担当した勘定奉行、組頭・目付など16名
 を動員して、資料をそろえて編纂した幕末財政史である。
  今日、幕末財政史を調べるためには、ほとんど唯一の
 基礎資料であると言われる。
  大蔵大臣が、ゆうに勤まるだけの手腕があった。
  幕府が倒れて、徳川家が駿・遠・参の70万石の一大名
 に格下げされて、静岡に移転するとき、
  徳川家臣団が飢え死にもせず、大きな混乱もなく、な
 んとか収拾できたのも、勝海舟や大久保一翁らの指揮宜
 しきによるものである(氷川清話)
  そして、勝海舟、海軍伝習所で近代国家観念を得るに
 ついて・・、勝海舟が、長崎の5ヵ年間に身に付けたもの
 は、海軍技術だけでなく、「近代国家観念」とも呼ぶべ
 きものを、外国人との接触の中で学び取った。
  カッテンディーケ中尉の書いた「長崎海軍伝習所の日
 々」という日本滞在記の中に、しばしば勝の名前も出て
 来るし、勝が、常に、教師団と緊密な接触を保っていた
 ことが分かる・・、
  勝海舟の明敏な頭脳には、西欧先進国の近代国家の観
 念が、かなり鮮明に浮かび上がってきたに違いない。
  その国家観念に照らしてみて、幕末の我が国の分裂状
 態、無防備状態、無統制状態というものは、お話の外だ
 という事になる。
  攘夷だ、開国だと言って、騒いでいるけれど、てんで
 んばらばらで、先ず、国論を統一し、国家意思を表現す
 るという事の大切さに、気付いているものがいない(氷
 川清話)
..
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2016年2月6日土曜日

(増補版)291E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年5月~1869年7月)

題:(増補版)291E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年5月~1869年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年(明治2年)6月3日、勝海舟、出府(氷川清話)
1869年6月4日(4月24日)官軍の船艦8隻、函館港にて幕府
 残党の船艦と戦う(勝敗決せず)
1869年6月9日(4月29日)陸海軍のため軍律制定される。
  我が国の軍司法制度の根源は、明治維新直後の1869年(
 明治2年)に実施された軍律の発布と、糺門司の設置によ
 る、兵士に対する刑事裁判制度の発足に遡る。
  次いで、1872年(明治5年)2月の陸海軍省分立に際し
 て陸海軍はそれぞれ省内に裁判所を置き、
  1872年3月5日、陸 軍糺問司の長である糺問正から陸軍
 省に対して次の具申がなされ、ここに我が国の軍事 史上、
 初めて軍法会議なる呼称が登場した。
  因みに、糺問主義(きゅうもんしゅぎ)は、訴追者(
 検察官など)の訴えを待たずに、裁判所等が職権によっ
 て訴訟を開始し、捜査・事実認定・裁判をする主義のこ
 と。
1869年6月18日(5月9日)日本で初めてアイスクリームが製
 造販売される・・とあるが・・、
  日本人で初めてアイスクリームを食べたのは、1860年
 (万延元年)に咸臨丸で渡米した遣米使節団であるとさ
 れていて、
  日本初のアイスクリームは、1869年(明治2年)6月
 遣米使節団のメンバーであった町田房蔵が米国に密航し
 た後に帰国した出島松蔵から製法を教わり、横浜の馬車
 道通りに開いた「氷水屋」で製造・販売したもの。
  「あいすくりん」という名称で、一人前の値段は2分
 (現在の価値で約8000円)と大変高価な物であった為、
 民衆に敬遠され、なかなか浸透しなかった。
  原料は、生乳、砂糖、卵黄といたってシンプルなもの
 で、これは今は「カスタードアイス」とも呼ばれている。
  なお「アイスクリームの日」である5月9日が日本で初
 めてアイスクリームを製造・販売した日と一般的に言わ
 れているが、横浜沿革誌にはそのような記述はない。
1869年6月20日(5月11日)函館において官軍海陸相呼応し、
 幕府の残党軍と戦いこれを撃破する(土方歳三、戦死)
1869年6月22日(5月13日)議政官を廃し、輔相・議定・参
 与を行政官におく。
1869年6月22日(5月13日)出版条例が制定された(出版許
 可制)
  出版許可制、風俗取締り、政府誹謗の禁止、版権保護
 などを規定した。
   1875年9月に、太政官布告により、さらに1887年12月
  は勅令により改正された。
1869年6月27日(5月18日)五稜郭が落城(榎本武揚は、部
 下の助命を条件に官軍に降り、函館戦争が終わった。
  榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結。
1869年、勝海舟と榎本武揚は・・同じ考えのもとに・・居
 たのではないか?
  五稜郭が開城し、戊辰戦争終結したが・・、
  榎本武揚は、勝海舟が歩んだ道を歩んだ、弟子ともい
 える人だった。
  幕末に、だから、榎本が、勝海舟と同じことを目ざし
 ていたと考えられる可能性がある?
  勝海舟は、江戸に押し寄せる猛りくる官軍と、その長
 の西郷隆盛、
  その西郷隆盛と会談し、猛り立つ官軍の火を見事に消
 した。
  明日は火の海になるだろうという前日に、事を成功裏
 におさめた。
  また、勝海舟は、京から帰って来た近藤勇には、名誉
 を与え、
  近藤勇自身もびっくりの位(くらい)の名誉な地位を
 与え、金を与え、
  江戸に居た武力を持った武士をまとめて、
  そして、その武力集団を近藤勇に預(あづ)け、与え、
  そして、その長にして、「甲州路を上って来る官軍を
 押さえよ」と近藤の存在意義・行動目標を与えた。
  その途中の近藤勇の出身地の東京の三多摩の地を通過
 する時には、
  その地元の人々に、自分の出世の姿を見せるがよいと
 言って、この武力のエネルギー集団を江戸から西へ向か
 わせた。
  そして、江戸の町からエネルギー集団を送り出す、遠
 ざける。
  残った不満のエネルギーは、上野の山の大政奉還した
 将軍・徳川慶喜を守らせ、集結させる。
  そして、その他は、戦いの地だと会津に向かわせた。
  江戸から地方へ、「時代が代わる際の歪(ひずみ)」
 =不満のエネルギーを放散させた。
  また、江戸湾の大砲を持った破壊力抜群の軍艦は、弟
 子ともいえるその榎本武揚に任せ・・、
  榎本も、軍艦で、あちこちを行くが、最後は、破壊力
 エネルギー所持の武士たちを軍艦に乗せ、連れて江戸湾
 を出航する。
  東北へ向かい、仙台で積極的に新政府軍と戦うという
 ことなしに、榎本の軍艦に来る武士たちを、ひたすら収
 容する。
  そして、仙台藩が、新政府軍に降伏すると、不満武士
 たちを乗せて、北海道の函館に向かう。
  この地の五稜郭に籠る。
  榎本武揚は、不満武士たちを、あたかも日本中から寄
 せ集め、ここ五稜郭に来て、
  そして、その不満武士たちのエネルギーを発散させる。
  そして、ここが、最終的にエネルギーの発散処理を「
 完了させる地」とした。
  この様な見方もできる・・榎本武揚の行動だった。
  誰にも言えない、この様な行動をした榎本武揚を、新
 政府は、要人としての役目を、また、与え、新政府に迎
 えた。
  勝海舟と榎本は、時代の代わる歪(ひずみ)のエネル
 ギーの爆発を最小限にしたいと・・共に行動した・・と
 も考えられる。
  榎本武揚は・・幕臣 → 政治家 → 子爵、
  1836年に、幕臣の子として、江戸に生まれる。。
  1848年(12歳)に、昌平坂学問所に入る。
  1854年(18歳)に、函館奉行の小姓となり、樺太探検
 に従う。
  1856年(20歳)に、長崎の海軍伝習所に学び(ここで、
 勝海舟と知り合う、勝の指導の下に軍艦操練、航海術を
 学ぶ、これが後に大いに役立つ)、
  1858年(22歳)に、勝海舟の息のかかった江戸築地の
 軍艦操練所教授方出役となる。
  1862年(26歳)に、勝海舟の口添えか?オランダに留
 学し、砲術、造船術、機関学、国際法規などを習得する。
  1866年(30歳)に、幕府が注文した開陽丸を操船して
 帰国し、帰国後、幕府の同艦船将、軍艦頭並など歴任、
  1868年(32歳)に、幕府海軍奉行・海軍副総裁となる。
  勝海舟がやっていたことを、勝海舟がやらねばならな
 いと思っていたことを、その弟子の様に行う、そして、
 海軍奉行までなる。そして、幕末の時代の大変革期に突
 入する。
  1868年8月、品川沖脱出、明治維新の時、五稜郭にたて
 こもり官軍に抵抗。「蝦夷共和国」樹立宣言。
  1869年(明治2年5月)降伏(箱館戦争)
  1872年(明治5年)(36歳)に、2年半の禁錮を経て、
 許され、黒田清隆の北海道開拓事業に出仕、北海道開拓
 使となる。
  1874年(明治7年)(明治8年?)(38歳)に、駐露公
 使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結。
  以後、海軍卿・逓信相・外相などの重要な職を歴任。
  1908年(明治41年)歿した、73歳。
  日本には、世界に類例のない二人の偉大な偉人が居た。
1869年6月(5月)弁天岬台場・五稜郭の旧幕府軍が降伏し、
 戊辰戦争が終結。
1869年6月30日(5月21日)京都に日本初の公立小学校開校。
  日本最初小学校柳池(りゅうち)校の石碑があった。
  現在は、御池中学校(おいけちゅうがっこう)がある。
  1872年の日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令
 『学制(がくせい)』よりも早くに作られた。
1869年7月12日(6月4日)蝦夷開拓督務(北海道庁官・開拓
 使の前身)として鍋島直正た任命された。
  北海道に開拓使の前身をおいた。
  沙汰書が、1969年8月20日(7月13日)に出て、「蝦夷
 開拓督務」は、開拓使長官に直された。
  蝦夷開拓督務というのは、鍋島直正への勅書によると、
 直正の請願により設けられた職で、
  国家体制が整い、国を挙げて蝦夷地開拓に着手するま
 で少しの間、直正に蝦夷地開拓を委ねるというもの。
  蝦夷地開拓の問題は、外交問題、財政問題と並んで重
 要急務課題の一つだった。
1869年7月13日、勝海舟、安房と安芳と改名す(氷川清話)
1869年7月18日、勝海舟、外務大丞を仰せつけられ、23日辞
 表呈出(氷川清話)
1869年7月20日(6月12日)招魂社の創建が決定された。
  外国船が来て、国内で志士たちが攘夷や開国で活躍し、
  命を落とす志士たちが出始めた頃の1853年(嘉永6年)
 以降の殉国者を、慰霊する祭典が行われる等、
  幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発にな
 り、
  その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。
  それらを背景に、大村益次郎が、東京に招魂社を創建
 することを献策すると、
  明治天皇陛下の勅許を受けて、
  1869年(明治2年)旧暦6月12日に、現社地での招魂社
 創建が決定された。
1869年7月20日(6月12日)室蘭、函館らの賊徒、悉く平定
1869年7月22日(6月14日)函館戦役の戦死者等23人を大徳
 寺跡の梅香崎招魂社に祀る。
1869年7月23日(6月15日)東京の昌平校を改めて大学校と
 なし、開成医学の二校を附属する。
1869年7月25日(明治2年6月17日)、版籍奉還
  諸藩の版籍奉還の勅許あり、公卿、大名らの称を廃し、
 華族と改める。
  各藩主に対し版籍奉還の奏請を許し、各藩主を藩知事
 に任命し、知藩事を置いた。
  太政官は、諸藩の版籍奉還をさせ、262人の旧大名に公
 家を加えて華族とした。
  さらには、旧大名で、地方官を務める者以外は、東京
 に居住する事を強制した。
  士族たちが、彼らを擁して反乱を起こすことを恐れた
 ため、初め、薩摩・長州・土佐・肥後の四藩が版籍奉還
 を奉受した。
  これは、行政官布達54号によって、従来の身分制度の
 公卿・諸侯の称を廃して華族となることだった。
  そして、藩主が、旧来所有していた土地と人民を朝廷
 に返還することだった。
  尚、華族は、皇族の下で、士族の上に置かれた。
  これは、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法の施
 行とともに廃止された。
1869年7月25日、四民平等
  版籍奉還にさいし公卿・諸侯(旧藩主)を華族に、平
 士以上の藩士などを士族とした事に始まり、
  その後、郷士などの世襲のものも士族にして、他は平
 民とした。
  過去の身分の差がある所を、はっきりと平等という意
 識のもとに置いた。
  1971年、穢多(えた)・非人の称を廃止し「平民と同
 様たるべき事」と令した。
  国民は全て平等にという事に徹底。
  公卿、諸侯を華族とする(氷川清話)
1869年、蘭学事始の刊行
  福沢諭吉が、玄白の「蘭学事始」の内容に感動し、
 この年、維新の騒然としている時期に自費で刊行した。
  杉田家の原稿本は、安政2年(1855年)の安政の大地震
 による杉田家の被災で失われ、大槻家の写本もいつか散
 逸し、完全に失われたものとされて、関係者から惜しま
 れていたが、
  幕末の頃、神田孝平が、湯島の露店で偶然に大槻家の
 写本を見つけ、
  1869年(明治2年)に、玄白の曽孫の杉田廉卿による校
 正を経て、福沢諭吉はじめ有志一同が『蘭学事始』(上
 下2巻)の題名で刊行した。
  その後、再発行を重ね、日本における西洋医学導入期
 の当事者による貴重な一次史料として、ひろく一般に読
 まれるようになった。
  資料として第一級であり、文学性も高い。
  福沢諭吉は、明治23年の「蘭学事始再版の序」で、草
 創期の先人の苦闘に涙したと記している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年2月5日金曜日

臨時ブログ:笹子トンネル天井版落下事故について・・、

臨時ブログ:笹子トンネル天井版落下事故について・・、
  何でも、ほっておいたら、劣化し、壊れる。
  国の、この面の対策が、非常に遅れている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  笹子トンネルの天井版落下事故の原因は、「工法の採
 用を優先した」という原因の要因が、消すことが出来な
 い。
  工事の工法は、工期・コスト・実現可能性・安全性・
 メンテナンス性などなどから選択される。
  今回、起きてしまった不幸、天井版落下事故の原因に
 おいて、標記の要因が消せない。
  笹子トンネル工事は、「本体工事の工法選択が優先さ
 れた」と言え、そして、考えられる一面がある。
  それが、結果的に「事故につながった」と考えられ点
 がある。
  トンネルを構築するという主目的である「工法の選択」
 を優先したからと考えられる。
  この採用されたトンネル工法は、この後に続く後続工
 事に、ある条件を課さねば成立しない工法だったと考え
 られる。
  ある意味、後続工事をないがしろにしなければ、成立
 しないトンネル工法だったと言える。
  それ故に、天井版の支持に、「ホール・イン・アンカ
 ー工法」を採用せざるを得なかったと言える。
  だからまた、この工法を採用を「可」とした「規準が
 不適切だった」とも言える。
  それ故に、この様な「リスクの高い後続の工法」が、
 採用されてしまったと言える。
  この「ホール・イン・アンカー工法」は、出来た時か
 ら「上向き使用には用いない方がよい」とされていた。
  そのホール・イン・アンカー工法を、採用を可能とし
 た規準が、トンネルの構築工法の採用への道を、「良く
 言えば広げた」(悪く言えばリスクをないがしろにしな
 がら使用可とした)。
  「ホール・イン・アンカーの工法」が出来た当初は、
 抜け落ちる恐れのある使用はお勧めできない・・という
 技術的な説明がなされていた(つまり、上向き使用は避
 ける方向にして下さい・・だった)。
  この様な、国が造るトンネルに、この様な部位に、上
 向き使用として使われている違和感は大きく感じて、驚
 かされた。
  笹子トンネル工事は、この様な状況と規準の中で、「
 ホール・イン・アンカー工法」を使用しなければ採用で
 きない工法だったと考えられ、ある意味、国民の命・ト
 ンネル使用者のリスクを大きくした工法を採用したもの
 と判断できた。
  故に、だからこそ、メンテナンスや点検は、更に十分
 に、行われなければならない必然性と運命の元にあった。
  しかし、点検やメンテナンスの実態も分かって来ると、
 その簡略さが非常に残念で、亡くなられた方々が、非常
 に惜しい感じにつまされる(ほとんどメンテナンスもな
 されていなかったと感じる、悪く言えば、ほっておいた
 状態だったようだ)。
  NHKのニュースで、その事故に遭遇した方が、「津
 波の様に天井版が落ちて来た」と言われていた。
  つまり、隣のボルトが、落下した部位の天井版を支え
 られずに、次々と隣の板に荷重を掛けながら、続けて、
 落ちて行ったという、劣悪な支持状態だったことが分か
 る。
  支持している支柱も少なく、その支柱を支持するボル
 ト本数も少ない(支柱は中央だけの1本で、そのボルト数
 も2本)・・この件も問題なのだ(この事故に関わる部分
 には、その他、まだまだ、今後、改善すべき点が多々あ
 るのだ、設計段階も問題である・・問題点は多々ある)。
  この件を・・、原因について、東京大学の教授が「樹
 脂の劣化だ」と言ったことも、問題の視点をずらす、「
 反社会的発言」と申し訳ないが言える面もある。
  樹脂の劣化もあるが、この1点の視点に固着し、固定し
 たところが問題である(他の問題点に免罪符を与えてし
 まった)。
  長い期間の湿気の吸放湿の繰り返しで樹脂は劣化する、
 この一点で、他は無罪とした。
  この笹子トンネル事故は、この問題だけではない。
  後述する裁判の判決も、この一点だけに捉われて判決
 が下されている。
  この判決によって、「一件落着」として戴きたくない。
  問題点は、すべては解決していない。
  教授の発言は、その原因となっている。
  樹脂の劣化と言えば、「世の中、丸く収(おさ)まる」
 的な発言であった。
  しかし、社会は何ら良くはならない。
  事故は再発する(悪く言えば、他の原因者が、前記の
 発言で隠れてしまったからである)。
  樹脂が、劣化をするならば、「その樹脂を選択したも
 のにも責任がある」。
  それを許した「国の規準にも原因がある」「国にも責
 任がある」。
  樹脂の劣化要因は色々とあるが、よく知られているの
 が紫外線劣化である。
  太陽光の下において劣化する樹脂が多い(もちろん、
 劣化しにくい樹脂もある)。
  紫外線のないトンネル内で樹脂が紫外線劣化する訳は
 ない。
  ましてや、トンネルに掘られた穴の中に詰まっている
 樹脂が・・。
  しかし、他の劣化要因についてマークできなかった、
 長期における繰り返し劣化に対して・・。
  この様な事を言うのならば、樹脂を使って木材を貼り
 合わせて構造体にして、例えば、体育館などを作ってい
 るが、樹脂がこの様に劣化をするならば、この体育館も
 崩落するだろう。
  点検をしているのだろうか?
  点検結果から適切なメンテナンスをしているのだろう
 か?
  だから、この体育館の件に限らず、社会資本の点検は、
 国の第一の重大課題なのである。
  点検だけではない、その充実した、誠実な点検で知り
 得た問題点は、一つ一つ丁寧に解決して行かねばならな
 いのだ。
  そうすれば、社会資本は、極端な言い方をすれば、永
 久に使用可能なのだ。
  上野の前川国男の文化会館を見て戴きたい、良い点検
 により、そしてまた、良いメンテナンスにより、新築同
 然です。
  また、ル・コルビジュエの近代美術館は、世界遺産に
 して、永久に日本の社会資本としようとしている、良い
 点検とメンテナンスがそれを可能にしている。
  壊して作り替えればいいのだ・・という考えは、間違
 っている。
  何でも、作り替えることが・・今の世の風潮になって
 いるが、間違いだ。税金がいくらあっても間に合わない。
  そして、何でも、ほっておいたら、劣化し、壊れるの
 です。
  この面の対応、そして、対策が、非常に遅れている。
  日本には、その技術は、十分ある。
  笹子で亡くなられた尊い方々は、この事を教えて戴い
 た方々だった。
  (追伸)天井版の「版」は、新聞や社会は「板」を使
 っている。
  しかし、笹子トンネルは、「板」という軽量なもので
 はなく、「版」と言うべき非常に重いものであり、
  だからこそ、なお、「ホール・イン・アンカー工法」
 などという工法は、不適切だったと言いたい。
  まだまだ、言いたいところがある・・が・・、
  そして、(読売新聞、2016・1・6)で、「笹子事故、
 判決確定へ」「賠償命令、中日本高速、控訴せず」と伝
 えていた。
  その内容は・・、
  山梨県の中央道で、2012年に起きた笹子トンネル天井
 板崩落事故で死亡した9人の内男女5人の遺族が、中日本
 高速道路と小会社に損害賠償を求めた訴訟で、両社は控
 訴期限の5日、計約4億4000万円の支払いを両社に命じた
 横浜地裁判決について「控訴しない」と発表した。
  遺族側も控訴しないため、判決が確定する。
  昨年12月22日の判決は、供用開始から約35年が経過し
 ていた笹子トンネルの劣化を容易に想像できたのに、適
 切な点検を怠ったなどとして、中日本高速と子会社の中
 日本ハイウェイ・エンジニアリング東京の過失を認めた。
  両社は、「点検方法に問題はなかった」と争ったが、
 中日本高速は「判決を真摯に受け止めた。
  事故から3年が経過し、遺族の気持ちに改めて向き合っ
 ていかなければならと判断した」と控訴しない理由を説
 明した(後略)・・とある。
..
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