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2016年5月21日土曜日

(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月~1879年1月)

題:(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月~1879年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
明治10年代(1877年~1887年)、この頃の日本の風潮は、
  何でも、西洋は優れているという『明治の思い込み』
 だった。
  それは、西洋の宗教・キリスト教においても起きてい
 た。
  日本人のキリスト教の殉教のイメージは、キリスト教
 の宣教師のイエズス会士・ジャン・クラッセが書いた本
 によって大きく影響された。
  クラッセの本が、西洋の素晴らしさを持っているのだ
 と勘違いしてしまった。
  ジャン・クラッセは、日本の本当の事情を知らずに、
 西洋の頭の思い込みで、この本を書いてしまった。
  その様な『間違い本』によって、日本は影響されてし
 まった。
  ここに、明治初頭の『西洋は何でも優れている』とい
 う『明治初頭の思い込みの頭』の日本の劣等感が作用し
 た。
  彼の著書を、明治初頭の10年代に、太政官(だじょう
 かん)本局の翻訳官が翻訳した。
  本『日本西教史(せいきょうし)』という名で出版さ
 れた。
  ここで、この本の間違ったイメージが、強烈に日本に
 定着してしまう。
  この事は、日本の教科書にも記載されてしまう。
  また、解説書にも記載されるという、このキリスト教
 イエズス会士の間違い見解一色となってしまった。
  徳川幕府は、西洋がしたのと同様に、大弾圧をしてい
 たのだ・・と、なってしまった。
  事実は、『まったく逆である』。
  これによって、現代の日本人の殉教のイメージが決定
 づけられてしまった。
  事実は、まったく、本当にまったく、違っていた。
  徳川幕府の基本的な姿勢は・・
  「キリシタンの捕縛は、極力少なく収めたい」であっ
 た。
  今までの間違った情報に洗脳された頭で聞くと驚かれ
 ると思います。
  それだけ、キリスト教によるプロパガンダ(嘘宣伝)
 がなされて来ていた。
  幕府は、例え、キリシタンだと分かられてしまっても、
 知人・友人や親せきでも良いから、
  「キリスト教を棄教した」と、仮にでも言えば、捕縛
 には向かわなかった。
  誰でも、容易に捕縛から逃れられる様にと、『逃れの
 道』が作られていた。
  刑場でも、『矢来の一部を取り外した形にして、逃れ
 られる様に』していた。
  取り締まりを厳しくして、少しでも見過ごさなく捕縛
 するという姿勢では・・全くなかった。
  西洋での厳しい状況が、この様な状況が、イメージが、
 日本に持ち込まれ、その様にプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れていた。
  また、キリスト教は、殉教することが神の信仰にこた
 える道だと、美しく殉教をすることを勧めていた。
  親子連れで、わざわざ名乗り出たという事例が記録さ
 れている。
  卑劣な殉教の洗脳であった。
  また、今、キリスト教会が必死に宣伝している、子供
 向けの本「フランダースの犬」は、この殉教死の洗脳本
 で、
  殉教死をすることに「マインド・コントロール」して
 いる。
  また、「フランダースの犬」の本は、自殺奨励的にな
 っている。
  先日も、女学生二人が、手をつないで電車に飛び込む
 という痛ましい事故があったが、
  キリスト教は、大いに反省すべきだ。
  この様な事故を誘因している。
1878年1月28日、世界最初の電話機が、米国コネチカット州
 ニューヘイブンに架設された。
1878年2月19日、エジソンの発明の蓄音機が、ニューヨーク
 にて世界最初の特許権を獲得する。
1878年、イギリスが、キプロス島をトルコから奪った。
  そして、1925年に、イギリスの直轄統治領になる。
  第二次世界大戦後は・・反英テロが活発化する。
  イギリス本国と対立を深めて行く。
1878年3月3日、サン=ステファノ条約
  この年の、露土戦争の講和条約で、ロシア帝国とオス
 マン帝国の間で結ばれた。
  オスマン帝国は多額の賠償金とともに、
 (1)アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、および
   アナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バ
   ヤジト地方(トルコ語版)のロシアへの割譲
 (2)ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認
 (3)ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大
   ブルガリア公国が成立)
 (4)ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与
 ・・などを課せられた。
  しかし、ヨーロッパ南東部におけるロシアの影響力の
 拡大、
  特に、ブルガリアの領土がエーゲ海に接していること
 によりロシア海軍がエーゲ海北部に拠点を置くことを恐
 れたイギリス、オーストリアの干渉により、
  1878年6月のベルリン会議によって、ブルガリア国境が
 縮小されて、マケドニアはオスマン帝国に復し、ロシア
 は、バヤジト地方などの放棄を余儀なくされた。
1878年4月29日、ニューヨークに初めて高架鉄道が開通した。
  高架鉄道は、全部、鉄で作られた。
  車道の上方へ高さ3メートルから9メートルくらい(窪
 地は高くなる)に線路を敷設した。
  その車道に、太い鉄の柱がにょきにょきと立った。
  その鉄柱に支えられた鉄橋の上を汽車が走った。
  枕木は木であるが、すべてが鉄で、汽車が疾走して走
 ると、ゴーゴーと凄まじい音を出して走った。
  また、高架鉄道と言ったって、今の日本の高架鉄道の
 イメージとまったく違って、ハシゴを上って行って、汽
 車に乗った(乗車するまでの危険性があった)。
  汽車の燃料は、無煙炭にして、極力、煙が出ないよう
 にした。
  通勤のために利用する人が多く、朝晩は、満員状態が
 多かった。
  高架鉄道の下の道路にも、路面電車が走っていて電車
 の花盛り状態だった。
  町の景観は、今の日本の高速道路の様に、町が暗くな
 り、景観は悪くなり、また、苦情を抑えるため鉄道会社
 が周辺を買った。
1878年6月13日、ベルリン会議開催 (~1878年7月13日)
  露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイ
 ツのビスマルクが主催した国際会議。
  イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガ
 リー帝国、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が
 参加し、
  バルカン半島の新独立国の領域が決定された。
  バルカン問題:いわゆるバルカン諸国は、現在、旧ユ
 ーゴスラビア、アルバニア、ブルがニア、ルーマニア、
 ギリシャ、トルコ(欧州領)であるが、
  1878年のベルリン会議後、第一次世界大戦に至る時期
 の、この地をめぐる国際紛争は多発した。
  オスマン・トルコ治下の、スラブ系民族の独立運動、
 これに乗じたロシアの南下政策、ドイツの中近東3B政
 策、
  イギリスの東地中海政策など列強の帝国主義政策、
  また、オーストリア対セルビアの民族対立などを含む
 厳しい緊張が続いた。
  それ故、この地域は、「ヨーロッパの火薬庫」と言わ
 れた。
  バルカン戦争)1次=1912年、2次=1913年)を経て、
 サライェボ事件(1914年)が第一次世界大戦の遠因とな
 った。
  この地の民族問題は、今日の複雑なバルカン情勢の歴
 史的背景となっている。
1878年10月21日、ドイツの宰相ビスマルクが、「社会主義
 者鎮圧法(しゃかいしゅぎしゃちんあつほう)」を制定
 した。
  (1890年に廃止されたが、この制定によって逆に、社
 会主義者たちを団結させた)。
  これは、社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)の
 勢力の伸長が目覚ましかったため、
  その発展を恐れ 、弾圧するために発布した法律だった。
  この法律によって・・、
  社会主義的傾向をもつすべての結社、集会、出版を禁
 止した。
  また、特定地域の部分的戒厳令の施行、違反者の居住
 地制限などを既定した。
  社会主義者運動は・・大きな打撃を受けた。
  しかし、地下活動によって・・党勢は拡大して行った。
  ビスマルクは、この年・1878年に、皇帝狙撃(そげき)
 事件が起きると、この時がチャンスだと、これを口実に
 し、議会の協力を得て、この法律を制定していた。
  しかし、ビスマルクは、その後、同法のさらなる強化
 を図ろうとした。
  また、有効期限の延長をしようとした・・が、1890年
 1月、議会は否決した。
  そのため、1890年9月に失効し、ビスマルク退陣の一因
 となった。
1879年、出来事:
・演説会が盛んに行われた(自由民権運動)。
  多くの人へ・・国会開設の必要性を訴えるための方策
 は、演説会と新聞だった。
  そして、翌年・1880年に、演説会ブームが起きる。
  1880年の1年間で、東京の民権家が関東でおこなった演
 説会の回数は・・259回だった。
  また、植木枝盛が、1ヶ所の演説会に3日間、5回出演
 し、客は500~800人集まったという事例がある。
  板垣が、大阪夷座で演説をしたときは、5000人分のチ
 ケットが売り切れた。
・長崎造船所に、東洋一の立神船渠(たてがみせんきょ、
 現:第1ドック)が完成した。
  幕末に、幕府が力を入れていた造船も、花開いて来た。
  日本の柱になって行く・・その後に、三菱長崎造船所
 の主力工場となった。
1879年、論文・哲学:
・「民権自由論」(植木枝盛)
・ 「大森介墟古物編」(エドワード=モース)→大森貝塚の調
 査報告書。
 モースの日本初の発掘報告書 "Shell Mounds of Omori"
 が出版された。  大森貝塚発見(1877年)
・ 「天路歴程」(漢訳からの重訳・初めての口語体翻訳小説)
 (作・バンヤン、訳・佐藤喜峰)
1879年、流行:
・大八車が流行した。
・コレラが、松山から発生し、全国に蔓延・・そして、
  →迷信、まじないの類が・・流行した。
・撃剣会が、再度、流行し、道場が増加した。
・ウサギ飼育と、売買が流行した。
・官吏に・・髭を生やすことが流行した。
1879年、マスコミ:
・ 「朝日新聞」 が、大阪で創刊された。
・ 「山陽新報」 岡山で創刊。
・ 「福嶋新聞」 創刊。
・写真新聞 「歌舞伎新報」 創刊。
・東京絵入新聞が「毒婦お伝のはなし」を挿し絵入りで15
 回の連載をした。
1879年、娯楽・囲碁:
・灯火による講談 「磁石指北針」
  後に、機械の運動を映写して説明する会となる。
・村瀬秀甫〔しゅうほ〕(後の、本因坊)が、中川亀三郎、
 小林鉄次郎らと囲碁結社「方円社」を設立した。
1879年、衣:
・千住製絨所が成り、毛糸の生産も始まった。
・印刷局抄紙部でカセイソーダの製造がはじまり、洗濯石
 鹸もつくった(明治14年に廃止)
・唐チリメン(メリンス)の輸入が盛ん。
1879年、食:
・北海道紋別に製糖所が設置された。
・東京小石川興農社で、各種の缶詰をつくり利益をあげた。
・広島の博進社が、缶詰製造をはじめ、日清戦争以来、牛
 肉缶詰が盛んになる基となった。
1879年、その他:
・梟首刑(きょうしゅけい、さらし首)が廃止された。
・府県会が開始された。
・印刷局が、懐中日記を発行する。
  大蔵省印刷局が、フランスの日記簿を参考にして「懐
 中日記」を発行した。
・国立銀行150行に達する。
  新しく出来た銀行の信用度が低く、金兌換券(国立銀
 行券)を発行すると、即座に、金に兌換されてしまうた
 め、
  1876年6月末の国立銀行券残高は、わずか6万円になっ
 た。
  この様な状況では、十分な産業資金を供給できないた
 め、
  政府は、1876年4月に、国立銀行条例を改正した。
  国立銀行の設立要件を緩和し、金貨兌換性を停止した。
  この改正国立銀行条例によって、国立銀行の設立、お
 よび、経営が容易となり、また、有利でもあったので、
  国立銀行が、各地で、続々と設立された。
  その結果、紙幣は、増発されて、
 物価が騰貴して行く。
  国立銀行の行数の推移は・・、
  1873年: 2行、1874年: 4行、1875年:  4行、
  1876年: 5行、1877年: 26行、1878年: 95行、
  1879年:151行、1880年:151行、1881年:148行、
  1882年:143行、
・大阪に、硫酸製造会社が設立された。
  政府は、当初、大阪を首都しようとした。
  そこで、重要な造幣工場を大阪市に設置する方針をと
 った。
  1869年(明治2年)に、外国人技師を高給で迎え、最新
 技術を導入し、大阪市に造幣寮を設立した。
  造幣寮は、地金・地銀の分析のために硫酸を必要とし
 た。
  この硫酸製造のため、大阪アルカリ社の設立となった。
  初め、硫酸は、ドイツから輸入した。
  しかし、1872年(明治5年)に、イギリス人御雇外国人
 ローランド・フィンチを招いて、国内で硫酸を製造する
 ようにした。
  1875年(明治8年)のフィンチの帰国後、豊原百太郎と
 山口武が、硫酸製造を引き継いだ・・、
  その後、硫酸製造が、収益性の高い産業だと認識され、
  また、清に硫酸を輸出するようになり、
  1879年(明治12年)に、大阪アルカリ会社の前身であ
 る硫酸製造会社が創設された。
・姫路の私塾で、ルソーの「民約論」の講義をしたところ、
 警察官に中止させられた。
  『この本は、一昨年に、政府の許可で翻訳が出版され
 たのだ』と抗弁した。
  読むのはいいが、教えるのはいかんとの命令が出た(
 朝野新聞)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年5月18日水曜日

(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月~1878年12月)

題:(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月~1878年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年8月30日、明治天皇陛下が巡幸される(~11月9日)
  明治天皇陛下が、岩倉具視、大隈重信らと、北地巡幸
 に御発(北陸・東海道地方)
  明治期(1868年~1912年)の、明治天皇陛下の地方巡
 幸は、97件。
1878年8月、夜間興行が、新富座で初めて行われる。
  ガス灯を設備し、夜間上演が可能という画期的な近代
 劇場だった新富座で、日本初の試みの夜間興行が行われ
 た。
1878年9月3日、観象台(かんしょうだい、東京天文台)が
 創設された。
  東京・本郷本富士町の文部省用地内に、東京帝国大学
 理学部の観象台が創設された。
  東京天文台の前身。
  1878年、東京大学理学部の観象台として本郷構内に発
      足した。
  1888年、旧内務省および海軍省の天文関係の業務が統
      合され、改称された。
  1921年、麻布飯倉の地に、東京天文台が設立され、
  1924年、三鷹に移転し、現在に至る。
1878年9月11日、愛國社 再興第1回大會
  大阪で、愛国社の再興大会が開かれた。
  1875年に、立志社が中心となって結成された日本で最
 初の全国的政治結社だったが、
  中心人物の板垣退助の参議復職で自然消滅した。
  しかし、1878年に、地租改正反対闘争が、各地で盛り
 上がるや、
  この年に、植木枝盛(えもり)らの主唱によって、再興
 大会がもたれた。
  翌年・1879年の第2回大会には、18県21社が結集した。
  これを契機として、自由民権運動が急速に発展した。
  1880年3月の第4回大会には、2府27県の国会開設請願
 署名者10万1161名の代表97名が大阪に結集した。
  名を国会期成同盟と改め、
  土佐立志社の片岡健吉、福島石陽(せきよう)社の河野
 広中(こうのひろなか)を代表に選んで、
  政府に「国会を開設するの允可(いんか)を上願する書」
 を提出した。
1878年9月15日、最初の鉄道事故
  新橋~横浜間の河川が氾濫し、3日間の運転休止。
  因みに、世界で最初の鉄道事故は、1830年9月15日、イ
 ギリスのランカシャーのパークサイド駅で発生した。
  この日は、リバプール-マンチェスター鉄道の開業当
 日という記念すべき日だった。
  この日に、代議士が、知人に挨拶をしようと線路を横
 切ったところ、轢かれて死亡した。
  汽車の速度を知らなかったので予測できなかったとい
 う。
  日本の最初の鉄道事故として、標記の他に、1877年に
 発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」とする説
 がある(これは、死亡事故としての最初)。
  死亡事故でなければ、さらにさかのぼって、
  1874年に、「新橋駅構内列車脱線事故」がある。
  ポイント故障で、機関車と貨車が脱線した(死亡は無
 し)。
  しかし、日本の鉄道が開業した1872年9月12日に、記念
 すべき鉄道開業式のこの日に、
  線路に入り込んだ見物人が、機関車に引かれて、指を
 切断している。
  (参考)「事故の鉄道史――疑問への挑戦」
1878年9月19日、佐野常民が、博愛社(日本赤十字社の前身)
 の存在と、その事業を社会に知らしめる為に、宣伝文を
 作成した。
  因みに、佐賀の七賢人と言われた佐野常民は、1878年
 6月に、博愛者副総長に大給恒とともに就任した。
  また、佐野常民は、1867年のパリ万国博覧会に、佐賀
 藩の団長として、
  そして、6年後のウィーン万国博覧会に、博覧会事務副
 総裁として渡欧した。
  そして、その時、西欧の先進的な知識・技術・思想の
 見聞・習得に努め、
  同時に、各国に赤十字社が組織されていることを知っ
 た。
  そこで、1877年の西南戦争の惨状に、博愛者の創設と
 西南戦争の救護活動の行動を起こした。
  10年後に、日本赤十字社となり、常民は、初代社長に
 就任した。
1878年10月1日、初めて、鉄道往復切符が発行された。
1878年10月8日、桂太郎が、「陸軍参謀局拡張の議」を太政
 官に上申した。
  陸軍省による参謀局の拡張上申は、軍令機関の組織・
 機構・権限の拡張で、
  その直後の軍令.機関の分離・独立を意味し、桂太郎陸
 軍少佐 (参謀局勤務) の建議を基本にして行なわれた。
1878年10月12日、山県有朋陸軍卿が、「軍人訓戒(ぐんじ
 んくんかい)」を配布した。
  西周(にしあまね)が起草し、天皇陛下の絶対神聖、
 軍隊の中立化を説き、軍人勅諭の先駆となった。
  西南戦争後の近衛砲兵の反乱である竹橋騒動を起因と
 して、
  明治・大正時代の代表的な藩閥政治家であり、元老、陸
 軍の最長老として、山形有朋(やまがあありとも)が示
 した。
1878年10月16日、札幌農学校の演武場が完成(札幌時計台)
  基本構想図は、教頭のW・ホイラーが作成した。
  開拓使工業局主席技術者・安達喜幸が、設計・監督。
  費用は、3869円16銭3厘。
  演武場は、農学校生徒の兵式訓練や、心身を鍛える体
 育の授業に使う目的で建設された。
  2階は、兵式訓練や体育の授業などの屋内体育館や、中
 央講堂、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室
 など
  演武場が完成したときに、時計台はなく、小さな鐘楼
 のみ、
  開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発案で、時計
 の設置が決定した。
  1881年(明治14年)7月、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、
 骨組みを強化して、時計を設置した。
  改修費は1329円
  北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計台)が
 落成する。
  演武場(Military Hallの訳)とは学生に軍事訓練を行
 う道場のことで、
  米マサチューセッツ農科大学のミリタリー・ホールを
 模して造られた。
  下見板張りの外壁の木造2階建て建築で、
  2階には、練兵場と武器室があり、兵式訓練や体育の授
 業などの屋内体育館や中央講堂として使用され、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室と
 して使われた。
  時計がつけられていなく小さな鐘楼(しょうろう)の
 みだったが、開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発
 案で、時計の設置が決まった。  
1878年10月20日、東京大学に生物学会が創立された。
  東京大学の初代動物学教授であった大森貝塚発見者の
 モース(E. S. Morse)が、東京大学、植物学教授・矢田
 部良吉とともに創立した。
1878年10月24日、体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)
 の設立(体操教育始まる)
  この年に、東京に設置された文部省直轄の西洋式体操
 の教育機関で、
  アメリカ人 G.A.リーランドを教師として西洋の体操を
 導入し、
  リーランドの退任後は、坪井玄道が、その後を継いで
 日本の学校体育の基礎確立の中心となった。
1878年10月28日、郡区町村制が決まり、町村に初めて自治
 体としての性格が与えられた。
  地方制度の根本となる郡区町村編成法、府県会規則、
 地方税規則に基づくもの。
1878年11月1日、明治天皇陛下が、車駕(しゃが、くるま。
 乗り物)東行し金原明善(きんぱらめいぜん)夫妻
 を召見(しょうけん、呼び寄せて対面すること)
  金原 明善氏:(1832年7月4日~1923年1月14日)、明
 治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安
 間町)出身。浜名郡和田村村長。
  天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代
 日本の発展に活躍した。
1878年11月2日、東京府、15区6郡を定める。
  東京府が、大区小区制を廃して15区6郡(麹町、神田、
 日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂など15区)を定めた。
1878年11月2日、西南戦争の功により、有栖川宮熾仁を大勲
 位に叙す。
1878年11月2日、学校体操が、初めて東京女子師範にて実施
 された。
1878年11月16日、北海道・函館で大火。
  13ヶ町が焼失。焼失家屋954戸。
1878年12月5日、参謀本部條例
  陸軍参謀局を廃し、陸軍省に参謀本部を設置 
1878年12月10日、教育総監部の前身となる監軍本部創設
  (中部は野津鎮雄、東部は谷干城、西部に三浦梧桜)
1878年12月10日、紙幣局を、大蔵省印刷局と改称
  大蔵省印刷局が創立(大蔵省紙幣局を印刷局と改称)。
  1871年7月27日、大蔵省内に紙幣司創設
  1871年8月10日、大蔵省紙幣司を紙幣寮と改称
  1872年9月20日、大政官正院印書局設立
  1875年4月、抄紙局設置(現王子工場)
  1875年9月4日、大蔵省紙幣寮と太政官正院印書局が合
 併され大蔵省紙幣寮となる
  1876年4月5日、抄紙局操業開始(現王子工場)
  1876年10月10日、印刷工場が東京大手町に落成
  1877年1月11日、大蔵省紙幣寮を紙幣局に改称、現業
 官庁となる。
  1877年、国産第1号紙幣を製造(国立銀行紙幣一円(新
 券)12月28日発刊)
  1878年12月10日、大蔵省紙幣局を印刷局と改称。
1878年12月13日、監軍本部條例
  陸軍監軍本部を置く (後の教育総監部)
1878年12月15日、停車場扱いの電信開始される(最初は新
 橋・横浜両駅のみ)
1878年12月24日、侍従長を置く(米田虎雄中佐任命)
1878年12月26日、従来の海軍始の儀式を廃せられる
1878年12月、東京の風月堂が、日本初の国産チョコレート
 を製造・販売する。
  輸入したチョコレートを加工したもの。
  新聞に掲載された日本初のチョコレートの広告には、
 「貯古齢糖」という漢字があてられた。
1878年12月末、井上良馨(いのうえよしか、軍人)が、艦
 の艦長となり初の国産軍艦「清輝」が出港、ヨーロッパ
 諸港を回航した。
  軍艦・清輝は、ヨーロッパ航海を最初に成し遂げた日
 本艦となった。
.
(今日の言葉)
  知人が幼い子供と散歩をしていた時・・、
  その子供との散歩のところへ・・、
  運悪く・・車が突っ込んで来た。
  知人は、とっさに逃げ、幸い、けがはなかった。
  しかし、子供は・・けがをしてしまった。
  奥さんは、知人を攻めた。
  何故?・・子供を抱いて逃げなかったの?・・と、
  知人を攻めた、
  問い詰めた。
  とっさの場合だったので、その様になってしまった・
 ・と、
  知人は「気詰まそうに」・・私に話した。
  幸い子供の怪我も大けがではなかったので、
 事は、話は・・おさまって行ったが、
  心に・・何かが残った。
  冷静に事を処すことが出来たら・・、
  当然、その知人は、自分の子供も一緒に抱いて逃げ、
 事を避け、無事に・・事態を収め得ただろう。
  それが、妻と一緒の散歩のときも・・その様に・・、
  家族全員を守ろうと・・知人は・・行動しただろう。
  その時・・、実の親、ご両親の場合も、
  知人は・・守ろうとしただろう。
  また、その時、妻のご両親の場合であっても、
  その様にしただろう・・と・・想像する。
  そして、親友だったら・・?
  近所の良く話しあう・・気の合った方々だったら・・
 と、考えて行くと・・、
  高校野球の場合もそうだ。
  自分の子供が甲子園に出ることになって・・、
  大変、うれしくて・・出るんだ、出るんだ・・と、必
 死に出るんだと周りの人に知らせ、必死に応援していた
 方が居たが・・、
  また、地元のチームが敗退したので、その隣の地域の
 チームを応援しています・・と、言う話も聞いた事があ
 ったが、
  守る、応援する、助ける・・という行為は、
  自分の周りの社会から始まって行く・・、
  オリンピックでも、日本の選手のメダル獲得を喜ぶ。
  これは、自然の心情なのだ。
  しかし、この自然の心情が・・尊いのだ。
  故に、当然に、
  愛する家族が、妻や子供が、そして、愛するご両親、
 親族、そして、地域の方たち、
  そしてそして、日本の方々へと・・その意識は広がっ
 て行く。
  その愛する方々が、危険に犯された時に、
  その意識のもとに・・行動を起こす。
  自動車事故から守る・・という話と、
  他国から危険にさらされた時、家族の生命も危うくな
 ると思われた時、守ろうという意識と、そして行動が起
 きる。
  俺は逃げるという事を言う人もいるだろう。
  一人で逃げるのかい?
  えっ! 家族は連れて行くって??
  ご両親は?
  兄弟は??
  そして、戦争が悪いのだ・・と言うのかい?
  そうだ。君の言う通り、戦争は悪いのだ。
  それで・・、そう言って・・そう言っていれば・・戦
 争は起きないのかい?
  起きなかったのかい??
  人間の歴史は、そんな簡単なことで、戦争を避ける事
 が出来てきたかい?
  歴史を見ても分かるように、
  「戦争は悪いのだ」と言って、戦争を避けることが出
 来なかったことを示している、
  あなたも分かっているでしょうが・・。
  戦争が起きて、家族が危険にさらされ、
  ご両親が危険にさらされ、
  地域の方々が危険にさらされ、
  国の人々が危険にさらされ・・
  自分だけ逃げることが出来ない時・・
  あなたはどうするのだ。
  その時、あなたには・・、
  家族を守り、ご両親を守り、兄弟を守り・・、
  地域の人を守り、そして、国の方々を守るという、
  『崇高な使命』があります。

..
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2016年5月16日月曜日

(増補版)353E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年6月~1878年8月)

題:(増補版)353E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年6月~1878年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年6月10日、陸奥宗光らが、挙兵陰謀で逮捕された。
  紀州派の大立者である元老院幹事の陸奥宗光は、
 明治10年の西南戦争の勃発の時、西郷軍に通謀(つうぼ
 う、相手方とあらかじめ示し合わせて事をたくらむこと。
 共謀)したという疑いと、
  土佐の立志社の林有造、大江卓、岩神昂らと共謀して、
 政府顛覆クーデターを計画した・・として、1878年(明
 治11年)8月21日、禁固5年の刑に処せられた。
  1877年(明治10年)2月、鹿児島の私学校党が決起した
 という報道が東京に届いた時、
  西郷隆盛の去就がまだはっきりせず、廟議は区々に分
 かれて定まるところがなかった。
  この時、最初から堂々と討薩論を主張したのが、内閣
 顧問の木戸孝允と、元老院幹事の陸奥宗光の二人だけだ
 った。
  「今日の急務は、速やかに廟議を一定して、征討の帥
 を出すことである。
  すでに、私学校党が、武器をとって起った以上、政府
 たるものは、これが討伐に躊躇してはならない。
  佐賀の乱、萩の乱の前例もあることである。
  よろしく英断果決全力をつくしてこれを討伐しなけれ
 ばならない」・・と、
  右大臣・岩倉具視や参議・大久保利通に、その説を鼓
 吹した。
  また、この機会を利用して内閣改造をはかり、木戸を
 説いて京都行在所の廟議を動かし、
  板垣退助と後藤象二郎の二人を入閣させて、
  この際、薩長独裁の風を改め、内政を革新し、挙国一
 致で西郷にあたるべきだと主張した。
  やがて、西郷出兵の知らせが京都に入り、1877年2月19
 日、政府はついに西郷征討の詔勅を発した。
  西南戦争の戦局は、はじめ必ずしも政府側に有利では
 なく、
  政府は、徴兵だけでは足りないので、北海道の屯田兵
 まで動員したが、それでも足りず、
  各県の士族を募集して、出征させることになった。
  陸奥は、紀州に赴いて壮丁を募集し、自らこれを率い
 て征討軍に参加しようと決意し、
  岩倉を説き、伊藤博文、大久保利通に会見してその応
 諾を受けようと東京から海路神戸に向かった。
  しかし、陸奥の建議は、伊藤にも大久保にも取り上げ
 られなかった。
  「行在所軍人取扱」(官軍の参謀長兼兵站総督)の鳥
 尾小弥太は、はじめ一切募兵には反対で、常備兵だけで
 征討すべきであるという意見だった。
  維新の頃、鳥尾は、木戸の内意を受けて大阪の陸奥の
 邸に寄宿していた。
  陸奥は、鳥尾にすすめて紀州藩に仕官させ、戊兵副都
 督として兵制の改革にあたらせた。
  今は、中将となったその鳥尾が、陸奥の建議に大反対
 したのである。
  鳥尾は、「陸奥に旧紀州藩兵の募集を任せるのは危険
 千万である」。
  「陸奥は、一世に傑出する手腕を有する人物である」。
  「もし彼に、紀州の兵力を任せたならば何をするかわ
 からない」と、密かに、伊藤と大久保を説き、
  当時、陸奥の反対派だった紀州藩士・三浦安を起用し、
 旧藩主・徳川茂承を説き、
  機先を制して、紀州の壮兵募集に着手させた。
  この藩閥政府の陰険なやり方には、さすがに、ものに
 動じない陸奥も激昂した。
  かくして、陸奥の計画した諸策はことごとく敗れ去り、
 陸奥は不平満々としてその日を送っていた。
  陸奥が、大江卓にすすめられて、土佐派の政府顛覆(
 てんぷく)の陰謀に関係するに至ったのはこの時だった。
  土佐の立志社の一派、林有造や大江卓の一派は、西南
 戦争に乗じて、武力をもって大久保専制政府の顛覆をは
 かり、
  国会開設の目的を達成しようとクーデターを計画した。
  この機に乗じて、新内閣を組織し、立憲政治を実現し
 ようというのである。
  大江らは、陸奥が、紀州藩の戊兵都督(総司令官)で
 あったことに着目し、
  なんとかして、陸奥をこの企てに加担させようと、陸
 奥を訪問して、土佐挙兵の秘密を打ち明けた。
  陸奥は、大江と黙契して、大阪鎮台襲撃の策を決した。
  また、土佐の挙兵の準備と同時に、紀州においてもこ
 れに応じる計画を定め、
  密かに、募兵の計画を進めた。
  更に、挙兵の準備と同時に、大江および岩神昂とはか
 り、重臣暗殺の準備を始めた。
  そのリストに、大久保利通、伊藤博文に次いで、征討
 軍総参謀長・鳥尾小弥太の名を加えた。
  一方、林有造は、上海から買い込むスナイドル銃の代
 金を作る為の金策に奔走していたが、
  うまくいかず、
  1877年4月14日、官軍の援軍が、熊本城に達して、西郷
 軍の形勢が怪しくなってきた。
  戦局の推移と共に、高知の立志社では、戦機すでに去
 るとみて挙兵中止を唱えるものも出てきた。
  6月1日、高知に戻った挙兵派の林有造は、ありあわせ
 の銃と同志で決起しようと、いまさらのように拙速主義
 を唱えたが、
  1877年6月4日、政府は、高知の小池県令と相談の上、
 中岡商店に貯えられていた小銃1500挺と、火薬を陸軍省
 買上げの名義で押さえ、神戸に持ち去った。
  これより前、薩軍が熊本進撃の最中、桐野利秋は、中
 央の形勢を探らせるため鹿児島属、土佐人の三浦介雄を
 高知に向かわせた。
  三浦は、古勤王党の桑原兵八、左田家親などに面会し
 て桐野の内意を伝え、彼らは薩軍に内応することを約し
 た。
  この時、三浦は、立志社には何ら相談も働きかけもし
 なかったので、立志社のほうで、藤好静、村松政克を密
 使として薩軍に遣わした。
  二人は、1877年5月16日、江代の本営で、桐野利秋に面
 会して立志社の意向を伝え、
  1877年5月26日に高知に帰って来た。
  この事がやがて政府の密偵によって洩れ、捕縛の第一
 着手となった。
  1877年6月14日、藤好静、村松政克を捕縛。
  1877年6月25日、岩神昂、川村矯一郎を大阪で拘引(こ
 ういん、人を捕らえて、無理に連れて行くこと)。
  1877年8月8日、林有造は、竹内綱(吉田茂の実父)の
 屋敷で、外商・ローザと会見しようとして門を出たとこ
 ろを拘引された。
  1877年8月17日より、片岡健吉など8名が捕縛される。
  翌年の1878年(明治11年)4月24日に竹内綱、
  1878年5月1日に、中村貫一、
  1878年5月15日に、大江卓、岡本健三郎が拘引された。
  陸奥は、すでに拘引を免れない事を知ると、鳥尾小弥
 太を訪ねて、真相を打ち明け、前後の処置を謀った。
  鳥尾は自首をすすめたが、
  1878年6月10日、陸奥が、自首しないうちに拘引された。
  この日、陸奥は、羽織袴の出で立ちで、
  途中、親友の中島信行の宅に立ち寄り、後事を託して
 から入獄した。
  1878年(明治11年)8月21日、東京臨時裁判所で、大審
 院の判決が下る。
  林、大江、岩神は禁獄10年、陸奥は禁獄5年だった。
  禁獄(きんごく):牢獄に拘禁すること。
  紀州人で陸奥と行動を共にしていた者は、陸奥が口を
 閉ざして名前を出さなかったので、皆、罪を免れた。
  (参考:竹橋事件100周年記念出版編集委員会『竹
 橋事件の兵士たち』1979年、現代史出版会発行)
  この後、1882年に、陸奥は、特赦されて欧米に渡り、
  1888年、外務省特命全権公使としてメキシコとの日墨
 修好通商条約に調印し、我が国最初の対等条約を結んだ。
1878年7月12日、政治結社・集会に警官の立ち会いや禁止す
 る権限を定めた。
  1878年7月、政府は、愛国社の再興を目ざす自由民権運
 動の高まりに対抗して、
  政治結社、集会に対する警察官の視察と、民心扇動、
 国安妨害と認めるものの禁止を命じた。
  しかし、自由民権運動は、国会開設請願運動として全
 国的に高揚を見せ、
  1880年3月には、国会期成同盟が結成された。
  こうした状況に対し、政府は、同年・1880年4月5日、
 集会条例を制定し、
  政談演説会、政治結社は、事前に警察署に届け出て許
 可をうけること、
  警察署は、国家の安全に害ありと認めたときは許可し
 ないこと、
  会場監視の警察官に集会解散権を与えること、
  軍人・教員・生徒の政治活動を禁止すること、
  集会の広告、政治結社相互の連絡、屋外集会を禁止す
 ること・・などを定め、弾圧体制を強化した。
1878年7月15日、東京の工部大学開校式式場に初めて万国旗
 を掲げた。
1878年7月15日、日本初の本格リゾートホテル、富士屋ホテ
 ルが開業した。
1878年7月19日、大阪株式取引所が開業した。
1878年7月22日、地方三新法公布(郡区町村編成法制定され
 る)
  太政官布告で郡区町村編制法制定。
  大区小区制を廃して、郡区町村を置くことを定めた。
  郡町村の名称と区域は、江戸時代のものを継承した。
  この日に、  「府縣會規則」  「地方税規則」
1878年7月27日、高島炭鉱暴動
  高嶋炭坑坑夫虐待事件が起こった。
  長崎の高島炭鉱で、苛酷な労働条件と納屋制度に反対
 し、賃上げ要求とともに坑夫が暴動化した。
  100余人が逮捕された。
  さらに、体験者が、1888年に、雑誌《日本人》にその
 実態を発表した。
  1870年3月、同年6月、1872年11月、1873年2月と、この
 騒動以前に、4回の騒動が発生していた。
  1888年の雑誌「日本人」への発表が発端になって、社
 会問題化した。
  政府が乗り出し、調査し、待遇改善を勧告した。
1878年7月、東京・両国区若松町の西洋菓子舗風月堂が、ア
 イスクリームを「アイスキリム」として売り出した。
1878年8月20日、「立志社の獄」の大審院判決が出た。
  林有造ら土佐立志社武力行使派に禁獄10年など
  林有造・大江卓:禁獄10年、
  元元老院幹事の陸奥宗光:禁獄5年、
  片岡健吉:禁獄100日
  板垣退助:取り調べをされず。
1878年8月23日、竹橋事件(近衛砲兵大隊の反乱起こる)
  西南戦争の恩賞や俸給(給料の減額)に不満をもつ近
 衛砲兵隊の二百数十人が、この日の夜、
  東京・竹橋の営舎(現=千代田区北の丸公園に建つ国
 立近代美術館と国立公文書館の裏のあたり)で蜂起し、
 制止する大隊長・宇都宮茂敏(うつのみやしげとし)少佐
 と、週番の深沢巳吉(ふかざわみのきち)大尉を殺害して、
 厩に放火した。
  砲兵大隊兵営と向かい合っていた近衛歩兵第二連隊に
 協同を呼びかけた。
  同隊から30余名が呼応し、
  兵士90人余は、山砲一門を引いて営外に出て、麹町区
 飯田町(現=千代田区九段南1丁目、区役所のあたり)
 の参議・大隈重信邸に砲弾を打ち込み、
  さらに、赤坂の仮皇居(現=迎賓館)に押しかけ、天
 皇陛下に直訴しようとしたが、
  東京鎮台の軍により、翌・24日午前2時ごろには、全員
 が逮捕され、鎮圧された。
  10月15日、陸軍裁判所で、死刑53人などの判決。
  深川越中島の刑場で、53人は銃殺刑に処された。
  陸軍卿・山県有朋は、この事件を契機に、軍人訓戒・
 軍人勅諭を発し、軍の規律強化をはかった。
  最近の研究では、自由民権思想とのかかわりが指摘さ
 れている。
  真相は、闇(やみ)に包まれているが、関係者遺族など
 の掘り起こし研究が進んでいる、それによると、地租改
 正反対一揆(いっき)や、自由民権運動の影響がみられる
 史実が明らかにされつつある。
  (氷川清話)明治11年には、竹橋騒動と呼ばれる近衛
 兵の反乱、
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2016年5月14日土曜日

(増補版)352E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年3月~1878年6月)

題:(増補版)352E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年3月~1878年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年3月、西道仙(にしどうせん、ジャーナリスト、教育
 家、医者)が東京へ旅行し、
  連日、三条実美、勝海舟など朝野の名士等30余人を歴
 訪した。
1878年4月1日、新聞囲碁欄の始まり(『郵便報知』)
1878年4月5日、板垣退助らが、愛国社の再興趣意書を発表
 した。
  この時、立志社が中心となり、愛国社の再建を決定す
 る。
  そして、1878年9月に、石川、愛知、和歌山、愛媛、香
 川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県か
 ら13社の代表が大阪に集まり、愛国社再興会議を開催し
 た。
  翌・1879年11月に開催された第3回大会で、国会開設実
 現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決
 定し、
  こうして愛国社は、全国的な国会開設運動の中心とな
 って行く。
  また、国会開設を目標とする全国運動は、それまで士
 族中心だったが、新たに豪農・豪商を出身とする者らも
 加わった運動へと転換して行った。
1878年4月10日、第2回 地方官會議
  第2回地方官会議開催、議長は伊藤博文(5.3まで)
  三新法(さんしんぽう)は、明治政府による最初の統
 一的地方制度で、
  「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」の
 総称。
  この三新法は、この1878年の第2回地方官会議・元老
 院の審議を経て施行された。
  それまでの大区・小区制を廃して、町村の自治体的性
 格を認め、府県会を設置し、豪農・豪商層の把握(はあく)
 を策した。
  そして、従前の府県税・民費を、それぞれ地方税・協
 議費に分割し、地方税財源を明確化する等、府県の行政
 能力強化を目的とした。 
1878年4月、兵隊を甲乙に分けて対抗運動会をした。
1878年4月、川崎築地造船所の開設(川崎重工業の創業)
  東京・築地に、川崎正蔵が造船所(後の川崎造船所)
 を設立した。
  川崎重工業株式会社の創立は、1896年(明治29年)10
 月だが、造船業の歴史はこれより古い。
  それより18年前、創業者の川崎正蔵が、1878年(明治
 11年)、東京・築地に、川崎築地造船所を開設したのが
 始まり。
  川崎正蔵は、1837年(天保8年)、鹿児島の呉服商人の
 子として生まれ、
  17歳(嘉永6年)の時、当時、唯一の西洋文明への窓口
 だった長崎に出た、
  そして、貿易商の修行を積んだ。
  27歳(文久3年)の時、大阪に移り、海運業を始める。
  この時、持船が暴風雨で遭難し、積荷もろとも海没し
 た。
  事業は失敗した。
  その後、1869年(明治2年)に、薩摩藩士が設立した琉
 球糖を扱う会社に就職し、
  1873年(明治6年)に、大蔵省から委嘱されて琉球糖や
 琉球航路の調査を行く。
  翌年・1874年に、日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就
 任する。
  そして、琉球航路を開設し、砂糖の内地輸送事業を成
 功させた。
  この時も、運命を左右するような海難事故に何度も遭
 遇した正蔵は、
  自らの苦い体験を通して、江戸時代の大和型船に比べ、
 船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型
 船への信頼を深めた。
  そして、同時に、近代的造船業に強い関心を抱いた。
  1878年(明治11年)、時の大蔵大輔(現在の次官)で
 あり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助も得て、
 東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川
 沿いの官有地を借り、川崎築地造船所を開設した。
  そして、造船業への第一歩を踏み出した。
1878年5月3日、日本赤十字社の前進「博愛社」設立のため
 願書提出(西南の役傷病者救済の博愛社誕生)
  博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の時、
  佐野常民(さのつねたみ)と、大給恒(おぎゅうゆず
 る)の両元老院議官によって、救護目的の団体として設
 立された。
  西南戦争では、政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広
 げられ、両軍ともに多数の死傷者を出したが・・、
  この悲惨な状況に、佐野・大給の二人は、救護団体に
 よる戦争・紛争時の傷病兵の救護の必要性を痛感した。
  そして、ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を
 作ろうと思った。
  1877年(明治10年)、佐野と大給を発起人として、政
 府に対し、救護団体・博愛社の設立を願い出た。
  しかし、願いは認められなかった。
  理由は、
  (1)現地には、救護に必要な医師等は派遣していて、
    医療が足りていること。
  (2)故に、今、新しい組織を作って戦地に送れば、
    混乱が起きる。
  (3)平和な時に十分、時間をかけて検討したい。
  ・・だった。
  しかし、西南戦争の戦場では、負傷兵が手当てをされ
 ずにいる事があり、
  博愛社の必要性を感じた佐野は、征討総督・有栖川宮
 熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)に直
 接、博愛社設立の趣意書提出を決意し、
  1877年5月、熊本の司令部に願い出た。
  そして、有栖川宮熾仁親王の英断をもって、この博愛
 社の活動が許可された。
  許可を得た博愛社は、直ちに現地に急行し、官薩両軍
 の傷病者の救護にあたった。
1878年5月4日、株式取引所条例を制定
  条令の制定とともに東京・大阪・横浜の三地に取引所
 が設置されていく。
1878年5月8日、東京~横浜間の鉄道が複線化し、全通した。
1878年5月10日、渋沢栄一ら、資本金20万円にて東京兜町に
 株取引所設立を出願し許された。
1878年5月14日、大久保利通・・暗殺
  内務卿・大久保利通、刺殺される(紀尾井坂の変)
  西郷が果て、それから僅か8ヶ月後に、大久保利通も
 紀尾井坂で凶刃に倒れた。
  (氷川清話)大久保利通、暗殺さる。
  参議兼内務卿の大久保利通(49歳)が・・、
  東京・三年町3番地(現=千代田区霞が関)の私邸を
 出て、
  赤坂の仮皇居(現=迎賓館)に向かう出勤途上、
  麹町の紀尾井坂(東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷、
 現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で、
  石川県士族6人によって刺殺された。
  斬奸状(ざんかんじょう、理由を書いた文書)には・・、
  (1)国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
  (2)国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
  (3)外国との条約改正を遂行せず、国威を貶(おとし)
    めている。
  (4)法令の朝令暮改が激しく、また、官吏の登用に情
    実・コネが使われている。
  (5)不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いし
    ている。
1878年5月15日、『朝野新聞』が、大久保利通暗殺の島田ら
 の斬奸状を掲げ・・7日間の発行停止に・・、
1878年5月22日、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が、
 イギリス留学より帰朝。
  東郷平八郎は、海軍軍人で、鹿児島県生まれ、日露戦
 争では、連合艦隊司令長官として、日本海海戦を指揮し
 た。
1878年5月24日、日本初の公立盲あ学校開校として京都府立
 盲あ院開校する。
1878年5月27日、金銀複本位制
  この時、大蔵卿・大隈重信の建議を受け、正式に金銀
 複本位制を採用した。
  そして、これまで開港場のみで通用を許していた1円銀
 貨、及び、貿易銀を、
  日本国内でも強制通用力のある貨幣として扱い、その
 無制限使用を許した。
  これによって、銀貨も事実上の本位貨幣となった。
  しかし、西南戦争に伴う不換紙幣増発によって生じた
 インフレーションで、
  金貨・銀貨ともに国外への流出や退蔵が深刻化した。
  そして、本位貨幣としては名目上の存在となってしま
 った。
  これを憂慮した大蔵卿・松方正義は、一時的な銀本位
 制導入による通貨安定を模索し、
  1885年(明治18年)に、銀本位制に基づく兌換紙幣で
 ある日本銀行券を発行して、日本は一時的に銀本位制と
 なった。
  その後、1897年(明治30年)の貨幣法によって金本位
 制への復帰を果たした。
1878年5月27日、大久保利通の国葬
  日本初の国葬。
  事件の翌日・5月15日に、大久保に正二位右大臣が追贈
 され、
  大久保および御者の中村の慰霊式が行われ、
  17日に、両者の葬儀が行われた。
  大久保の葬儀は、大久保邸に会する者1,200名近く、費
 用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀と
 なった。
  警察の捜査は、厳重を極め、
  斬奸状を起草した陸や、
  島田に頼まれ、斬奸状を各新聞社に投稿した者など30
 名が逮捕された。
  『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると、
 大久保は、全身に16箇所の傷を受けていた。
  そのうちの半数は、頭部に集中していた。
  事件直後に駆けつけて遺体を見た前島密は・・、
  「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」
 と表現している(死んだ直後だったので、脳が動いてい
 たという)。
  島田らは、刀を捨てて、同日、大久保の罪五事と、他
 の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、
 黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首し
 た。
  7月27日に、6名は、判決を言い渡され、即日、斬罪と
 なった。
  斬奸状を起草した陸は、終身禁錮刑に処せられたが、
 1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法発布により特赦
 を受けて釈放された。
  また、この事件を機に、政府高官の移動の際は、数人
 の近衛兵らによる護衛が付くようになった。
  尚、•斬奸状には、大久保が、公金を私財の肥やしにし
 たと指摘されていたが、
  大久保は、実際は、金銭に対しては潔白な政治家で、
  必要な公共事業を、私財をなげうって行うなどしてい
 た。
  そのため、大久保の死後は、8,000円もの借金が残った
 くらいだった。
1878年6月1日、万国郵便連合条約、パリで調印。
  郵便物の交換のために単一の郵便境域を形成し、郵便
 業務での国際協力の増進をはかることなどを目的とする。
  1874年に締結:スイスのベルンで22ヵ国によって創設
 され、
  翌・1875年に発効した国際郵便条約によって一般郵便
 連合が設立され、
  日本は、1877年(明治10年)に加盟し、
  1878年に、条約を改正し、
  1947年には、国連の専門機関の一つとなった。
1878年6月1日、東京株式取引所が開業した。
  日本最初の証券取引所である東京株式取引所が開かれ
 た。
1878年6月5日、春季皇霊祭(春分日)・秋季皇霊祭(秋分
 日)を定めた。
  旧制の大祭の一つで、毎年、春分の日に、宮中の皇霊
 殿で、天皇陛下が、歴代の天皇・皇后の両陛下と皇親の
 霊を祭る儀式が行なわれた。
  現在、この日を「春分の日」として国民の祝日。
  同様に、秋季皇霊祭も、秋分の日に、天皇陛下が、皇
 霊殿で、歴代の天皇・皇后両陛下と皇親の霊をまつる儀
 式行なわれ、旧制の大祭日の一つで、現在の国民の祝日
 「秋分の日」。
1878年6月7日、東京の大劇場・新富座の竣工開場(6月8日
 説あり)
  ガス灯などを配備した近代劇場を新設し、大々的な洋
 風開場式を行った。
  太政大臣・三条実美をはじめ、各外国公使らも貴賓と
 して開場式に招待された。
  西洋劇場に倣って、日本で初めて夜芝居興行を行う。
  リットンの戯曲『Money』を翻訳した『人間万事金世中』
 (1879年3月)や、ウエルノン一座を招いて『漂流奇談西
 洋劇』(1879年9月)を上演、九代目市川團十郎による活
 歴(かつれき)が行われるなど、明治時代中期の演劇改
 良運動の場となった。
  活歴は、歌舞伎で、在来の時代物の荒唐無稽(こうとう
 むけい)を排し、史実を重んじて歴史上の風俗を再現しよ
 うとする演出様式。
  明治初期から中期にかけて、9世市川団十郎らが主唱
 した。
..
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2016年5月12日木曜日

(増補版)351E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年2月~1878年3月)

題:(増補版)351E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年2月~1878年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年2月14日、廣田弘毅(ひろたこうき)が、福岡に生ま
 れた。
  戦争の回避に全力を尽くした人・・
  しかし、アメリカに主導され、戦後に開設された東京
 裁判で、「A級戦犯」にされ、死刑に処せられた。
  絞首刑だった。
  廣田は、軍人ではなかった。
  理由は、東アジア、太平洋、インド洋などを支配しよ
 うと、共同謀議を一貫してした・・だった。
  オランダの判事が「廣田は軍人ではなく、文官政府は
 軍部に対しほとんど無力なのだ」という弁護を言った。
  そして、また、「その限られた枠の中で廣田は、十分
 努力していた」と弁護した。
  そして、何と、キーナン首席検事でさえ驚き・・、
  その判決に対し・・
  「なんという馬鹿げた判決なのだ。
  絞首刑は不当だ。
  どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」
 ・・と言った。
  非人道的な東京裁判だった。
  戦勝国の無反省の中で、相手ばかりに非を求める、
  そして、自分勝手な判断によって、吊るし首が横行し
 た西部劇の乱暴狼藉の様な世界が、戦後のこの時に、ま
 かり通っていた。
  裁くべき法のない中で、無理に裁く『演技』をした。
  興奮し、上気した中で、常識の世界ではまったくない
 リンチ(私刑)がまかり通っていた。
  ひどいことをするものだ・・、
1878年2月、春陽堂(しゅんようどう)書店の創業(文芸書
 出版、春陽堂文庫などを刊行)
  神田和泉町での、本の小売商売に始まる。
  岐阜県出身の創業者の和田篤太郎は、西南の役から帰
 還した後に、本を背負っての行商を初め、
  やがて、芝・新桜田町に小さな書店を開き、
  1882年(明治15年)頃から出版に手を伸ばす。
  当初は、開化期の実用本や明治合巻本、滝沢馬琴や鶴
 屋南北の復刊などへと手を広げ、
  1884年(明治17年)、京橋区南伝馬町に移転し、
  明治期の文学出版をリードするようになる。
  大正期にかけて、夏目漱石、芥川龍之介などの文豪の
 作品を出版し、
  明治30年代から大正にかけては、『中央文学』や『新
 小説』などの定期雑誌も刊行した。
  幸田露伴、森鴎外ら多くの文壇人に頁を提供した。
  種田山頭火、尾崎放哉、金子みすゞなど、詩歌関連書
 も発行している。
1878年3月6日、大久保利通が、一般殖産の建議をする。
  大久保は、1874年5月に、「殖産興業に関する建議書」
 を提出し、
  また、この時・1878年3月には、「一般殖産及華士族授
 産ノ儀ニ付伺」を提出した。
  この基本方針実現の財政計画として、参議兼大蔵卿の
 大隈重信は、「内国債募集ノ儀」につき上申を行った。
  積極財政を前提とした殖産興業政策が、ようやく実現
 へ、大きく発進しはじめた。
  そして、同年・1878年5月1日、「起業公債証書発行条
 例」が発布された。
  募集総額1,250万円(募集実額1,000万円)、年利6分、
 元金は2年据置、3年目より23カ年間にわたり抽籤償還。
  取扱事務は、国立第一銀行、三井銀行に委託し、
  政府は、新たに「起業基金部」を設けてその処置を行
 った。
  起業公債の公募は、全般的な財政散超と改正国立銀行
 の簇生(そうせい、群がって生えること)という金融状
 況の軟調に支えられて、
  予定額の2倍以上の応募を見るなど、順調に消化されて
 行った。
  公債資金は、大久保=大隈建議に言うところに遵(し
 たが)い、
  一半は、交通運輸機構の整備を中心とする社会資本の
 充実にあてられ、
  他の一半は、士族授産のための勧業資金の貸付にあて
 られた。
  因みに、大久保は、西南戦争において、西郷の死亡の
 報せを聞くと号泣した。
  そして、時々、鴨居に頭をぶつけながらも
  家の中をグルグル歩き回って(この際、「おはんの死
 と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が・・」と呟
 いたという。
  また、西南戦争終了後に、「自分ほど西郷を知ってい
 る者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹
 に頼んでいたりしていた。
  また、大久保が暗殺された時に、生前の西郷から送ら
 れた手紙を持っていたと高島鞆之助(たかしまもとのす
 け、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征、その後
 熊本鎮台司令長官)は語っている。
1878年3月11日、鉄道局が、下等客車内での広告掲示を許可
 した。初の車内広告。
1878年3月12日、東京商法會議所の設立
  東京商工会議所の設立認可。
  日本における商工会議所の源流は、鎌倉時代の「座」
 や、江戸時代の「株仲間」といった我が国古来の制度に
 さかのぼる。
  その後、「江戸町会所」「東京営繕会議所」「東京会
 議所」の過程を経て、
  欧米先進諸国の「商業会議所」の組織機構を取り入れ
 ながら、
  商工会議所の基礎を築いた。
  制度の誕生は、明治維新後、日本の経済社会が資本主
 義制度へ移行して行く中で、時代の要請に基づいた。
  明治政府は、欧米諸国に遅れた国力を増進するため、
 富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げた。
  その中で、外国貿易振興のための商工業者の機関を必
 要とした。
  一方、自主独立や殖産興業を阻む不平等条約改正の取
 組みの中で、日本に、「商工業の世論を結集する代表機
 関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張が虚構とな
 る恐れ」を感じた。
  そこで、伊藤博文・大隈重信が、渋沢栄一に商工業者
 の世論機関の設立を働きかけた。
  これらの背景から、1878年(明治11年)3月、現在の商
 工会議所の前身である東京商法会議所が設立された。
1878年3月14日、東京上野博物館の建設が起工した。
  1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地(後に東
 京国立博物館の敷地となる)で、第1回内国勧業博覧会が
 開催された。
  これは当時の「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って
 開催されたもので、
  この博覧会の展示館の1つである「美術館」は、日本で
 最初に「美術館」と称した建物。
  この「美術館」は、博覧会終了後も使用することを前
 提として煉瓦造で建設された。
  初代館長の町田久成は、内山下町の博物館は手狭であ
 り、火災等の危険も大きいとして、博物館の上野公園へ
 の移転を陳情していたが、
  この1877年、太政官より上野移転の裁可を得た。
  コンドル設計の旧東京帝室博物館。
1878年3月17日、神田の大火
  東京・神田黒門町より出火。
  焼失家屋4562戸。
1878年3月24日、『団々珍聞』、黒田清隆の醜聞を風刺して
 発行停止になる。
1878年3月25日、日本で初めて電燈(アーク灯)が点灯した。
  日本初の電灯。
  電信事業がスタートしたのを記念して、東京・虎ノ門
 の工部大学校(現:東大工学部)の講堂で開業記念式典
 が行われた。
  その席上50個のフランス製アーク灯(弧光燈と呼ばれ
 た)が15分間点灯された。
  公式の席上で、電気点灯が行われたのは日本で初めて。
1878年3月25日、電信中央局が開業
  全国の電信局の元締めとなる電信中央局が、東京木挽
 町に新築された。
  開設の祝賀会が、東京虎ノ門の工部大学校講堂で、夕
 方から開催された。
  参会者は、大臣や参議をはじめとする高官、外国公使
 など150人に、
  英国人教師・エアトンは、伊藤博文工部卿から会場を
 電気灯で照らすよう命じられた。
  50個のグローブ電池を用い講堂の天井に吊るされたア
 ーク灯を点灯するため、助手の電信科学生藤岡市助らと
 調整した。
  午後6時、エアトンの合図で、目もくらむような光が
 周囲にほとばしった。
  講堂内をくまなく照らし出した。
  満場の人は「不夜城に遊ぶ思い」をした。
  この時のアーク灯は、1855年(安政2年)に、フラン
 スで発明されたデュボスク式アーク灯だった。
  電源は、1839年(天保10年)に、英国人のグローブが
 発明したグローブ電池だった。
1878年3月25日、電報の開始
  東京・木挽町十丁目に、工部省電信中央局が開業した。
  全国主要都市、および、国際電報の受け付けが開始さ
 れ、日本の電信事業が本格的にスタートした。
1878年3月29日、印刷局において、製紙の原料に初めて稲藁
 を用いて成功した。
  印刷局抄紙部が、初めて、稲わらを原料としてパルプ
 を試製する。
  紙幣寮抄紙部を印刷局抄紙部と改称し、初代局長・得
 能良介(とくのうりょうすけ)が、紙幣用紙を三椏(み
 つまた、ジンチョウゲ科ミツマタ属)に確定した。
  また、擬革紙製造にも着手した。
  印刷特性・明瞭な透かしなど
  パリ万博出品の局紙は好評だった。
  模造紙のもととなる。
  稲科の原料は、墨・インクののりがよい「稲わらパル
 プ」。
  1878年(明治11年)のパリ万国博覧会に、大蔵省印刷
 局が三椏(みつまた)を主原料とした高級特製和紙であ
 る「局紙」(きょくし)を出品。
  なお、局紙は、溜め漉き法により、1877年(明治10年)
 に誕生し、その名称は、大蔵省印刷局で作った紙の意か
 ら来ている。
  局紙は、ジャパニーズ・ベラムと名付けられ、おもに
 ヨーロッパへ輸出されるようになったが、その品質は美
 しく、丈夫で、光沢があり、緻密な印刷ができると好評
 だった。
  しかし、高価格だった。
  そのため、1898年(明治31年)に、オーストリアの製
 紙会社が、亜硫酸パルプの原料で、機械抄きの、局紙に
 似せた風合の紙(洋紙)を造り、
  シミリー・ジャパニーズ・ベラム(日本の局紙の模造
 品)という名前で売り出した。
  日本の局紙が「模造」された。
  ヨーロッパ製のこの「模造紙」は、局紙とは比較になら
 ないくらい品質は劣っていた。
  しかし、安価なうえに、印刷、筆記、包装など広範な
 用途に使えた・・ので、
  逆に、日本に輸入され、評判は良かった。
  1913年(大正2年)に、九州製紙(株)がそれを真似た
 うえ、さらに改良し、亜硫酸パルプを使いスーパーカレ
 ンダー処理を行って、光沢があり、表面が平滑な、紙の
 国産化を行った。
  九州製紙が開発した技術で、他のメーカーも次々生産
 に参加し、ヨーロッパの模造紙を駆逐して行く。
  これが、今日のわが国での「模造紙」の始まり。
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(増補版)350E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年1月~1878年2月)

題:(増補版)350E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年1月~1878年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年、住・生活: 
・銀座通りの煉瓦街が完成した。
・電信中央局の開業祝賀会に、初めて、弧光燈の電気燈が
 点火された。
・ジョセフ・スワンが、木綿糸を炭化したフィラメントを
 使用して長寿命(約13.5時間)の白熱電灯を作った。
・新富座が、ガス燈をつけて、夜間興行をした。
・神戸のマッチが、上海へ輸出され始めた。
  1869年(明治2年)に、金沢藩の藩費でパリに留学した
 清水誠は、1873年(明治6年)に、文部省留学生となり、
 フランスの工芸大学に入学した。
  1874年(明治7年)に、外遊中の宮内次官・吉井友実と
 パリのホテルで会談した際、吉井卿が、卓上のマッチを
 指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、
 外貨不足の際、これを日本で作れないだろうか」と言わ
 れて、清水誠は、マッチを日本で製造する決心をした。
  同年・1874年、留学生の制度が廃止になり帰国。
  清水誠は、官費留学生であったことから、1875年(明
 治8年)に海軍造船官として横須賀造船所に勤務した。
  その傍ら、暇ある毎に、東京に出て三田四国町にある
 吉井友実の別邸を仮工場としてマッチの製造を始め、試
 売した。
  従って日本におけるマッチを工業的に製造を始めたの
 は、1875年(明治8年)。
  公務の傍ら、マッチの製造では仕事がはかどらなかっ
 たが、時に内務卿・大久保利通に招かれ、「造船も大事
 だが何とかなる」「マッチに専念してはどうか」と勧告
 され退官。
  本格的にマッチ製造に集中することとなった。
  この年・1875年、清水誠は、マッチを製造するために
 軸木となる原木を求めて、日光山中に白楊(はくよう、
 別名:ヤマナラシ、ヤナギ科、落葉高木、上位分類:ポ
 プラ)を発見した。
  次いで、信州諏訪方面でも白楊を発見した。
  同年・1875年、大阪でも小野久兵衛と小杉又三郎が協
 同してマッチ工場(後の昌燧社)をつくり生産している。
  1876年(明治9年)9月、清水誠は、本所柳原町に一大
 工場を新築し、「新燧社」(しんすいしゃ)と名づけ、
 本格的な工場生産を開始した。
  新燧社の代表的な商標に、桜印がある。
  1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧
 会で、新燧社はマッチを出品し、鳳紋賞牌(ほうもんし
 ょうはい)が授与された。
  この受賞は、新燧社のマッチの品質が優れていたこと
 を実証している。
  1877年(明治10年)3月に、神戸市山手通で堀という人
 が燐寸工場を新設したが小規模であった。
  これが神戸マッチ製造の先駆けだった。
  函館の玉林治右衛門は、服役中であったが、不自由な
 環境下で、独力でマッチの製法を研究し、1877年(明治
 10年)に試作に成功した。
  清水誠から優秀なマッチと品質保証を得た。
  玉林は、1880年(明治13年)、函館燐寸製造所を設立
 した。
  清水誠は、士族授産、産業振興の見地からマッチ製造
 法を公開した。
  そして、各地にマッチ工場の建設が企画された。
  その主なものは、葆光社(盛岡)、慈恵社(尼崎)、
 就光社(姫路)、積善社(膳所)、有恒社(岡山)、徳
 潤社(徳島)、百做社(土佐)、共勉社(高松) 真燧社
 (名古屋)、葎律社(金沢)・・、
  また、1878年(明治11年)に、長岡で燦盛舎が設立さ
 れた。
  そして、下津燐寸株式会社の前進である蜂蟻社(ほう
 ぎしゃ)(高松)が、1879年(明治12年)に設立された。
  1878年(明治11年)に、初めて清国上海にマッチを輸
 出した。
  これ以来、マッチが日本の重要な輸出商品の一つとな
 った。 
・東京の楓川に、国産初の鉄橋、元弾正橋(もとだんじょ
 うばし)が架設された。
  橋長15.2米、橋幅3.0米のウィップル形トラス鉄橋
  この橋は、国の威信をかけて架設された。菊の御紋が
 付けられた。
  また、このタイプの橋は多く架けられ、伊藤博文とか、
 山形有朋とか、大隈重信とかの要人の名前が付けられて
 いる。
1878年、その他・もろもろ:
・鉛筆が国産化。
  輸入も減るだろう・・と(朝野新聞)
  1877年(明治10年)に、東京・上野で開催された第一
 回内国勧業博覧会の「教育ノ器具」部門に鉛筆が出品さ
 れた。
  また、三菱鉛筆の創業者である眞崎仁六(まさきにろく)
 は、1878年のパリ万国博覧会を訪れた際、外国製のさま
 ざまな鉛筆にであい、その素晴らしさを感じ、独学で鉛
 筆製造に取り組み、国産化が本格的にスタートした。
  眞崎は、最初に三つ叉(また)になった軸の先に芯を
 はさむ「はさみ鉛筆」を作り、
  そして、1901年(明治34年)には「削り鉛筆」(現在の
 普通の鉛筆 ) を逓信省に納入するようになった。
・フェノロサ(アメリカ人)が来日した。
・大蔵省が、西洋式複式簿記の講習会を開いた。
・宮内省と工部省に、電話が通じた(朝野新聞)
・電話機の国産化に成功した人あり。
  舶来品に劣らず・・と(東京曙新聞)
・コッホが、破傷風菌を発見した。
  破傷風菌は、世界中の土壌や汚泥に芽胞として存在し
 ていて、破傷風毒素の毒性は極めて強く、
  破傷風毒素(テタノスパスミン)によって死に至る怖
 い病気。
  1889年に、日本の「細菌学の父・北里柴三郎」とエミ
 ール・フォン・ベーリングが初めて純粋培養に成功した。
  診断は、基本的に、症状から推測するしかないが、
  発症したときには、外傷が治癒してわからなくなって
 いることがあるため、外傷がないからといって破傷風の
 可能性を除外しないことが肝要で、非常に大切である。
  治療は、早期の診断が大切で、
  速やかに破傷風免疫グロブリン(TIG)を筋肉注射して、
 毒素を中和する。
  早期診断・治療が、非常に重要である。
1878年1月11日、伊豆七島が、静岡県から東京府に移管され
 た。
  大久保利通の採決で移管されたが、伊豆諸島の住民の
 希望に沿った形だった。
  伊豆諸島は、名前の通り、伊豆半島(静岡県)と同じ
 「伊豆国」に属していた。
  江戸時代は、徳川幕府の直轄領の天領で、
  明治維新後に、伊豆半島などの旧幕府領と共に「韮山
 県」となった。
  そして、1871年(明治4年)に、神奈川県西部と静岡県
 の伊豆半島を管轄していた「足柄県」(県庁は小田原)
 に属することになった。
  1876年(明治9年)に、足柄県は、東部が神奈川県に、
 西部が静岡県に分割統合され、消滅した。
  この時、伊豆諸島は、「伊豆国」である伊豆半島と共
 に静岡県の一部となった。
  しかし、そのわずか2年後の1878年(明治1年1)に、内
 務卿・大久保利通の裁決で、伊豆諸島は、東京府に移管
 されて、現在に至っている。
  この理由は、伊豆諸島の裁判事務が東京裁判所に帰属
 することになったからで(大久保から太政大臣・三条実
 美への上申書に記載されている)、
  これは、島民が、司法・行政の要請で出頭するとき、
 静岡ではなく、東京に出ないといけなかったからだった。
  米の穫れない伊豆諸島は、島民は、海産物や黄八丈な
 どの特産品を江戸の「島方会所」に送って売り捌いてい
 た。
  東京とつながりの強い中で、その代金を得て、生活の
 糧を得ていた。
  本土との航路は、伊豆半島の港以上に、江戸との往来
 が中心だった。
  明治になっても、伊豆諸島は、東京に経済的に強く依
 存し、変化なく続いていた。
  江戸=東京との間の航路が絶対的な生命線だった。
  伊豆諸島以南の島々は、日本国が太平洋上の権益を確
 保する上で、非常に重要な領土で、
  伊豆諸島が、東京以外の他の県の管轄における繋がり
 を維持する政治的配慮と予算は、東京とのつながりが最
 適だった。
  住民サイドからも、島民や商人からも、静岡県から東
 京府への移管を求める嘆願書が政府に提出されていた。
  手厚い支援の中に自立する島々、それ故、財政力も比
 較的潤沢な東京府へとの判断が、明治政府の判断だった。
  静岡県も、財政的な面からも、負担が大きい伊豆諸島
 の帰属を望んでいなかった。
  また、1876年(明治9年)に、日本の領土として国際的
 に承認された小笠原諸島の存在がある。
  小笠原諸島は、日本領と確定した直後に、内務省直轄
 地となった。
  「本土」として扱い、どこかの府県の管理を考えた時
 に、
  本土からは八丈島や青ヶ島よりさらに2倍~3倍の距離
 がある小笠原諸島管理を、東京府にした。
  東京は、首都として、他の府県以上に、中央政府の強
 い管理下にあった。
  当時、東京府知事は、政府が任命した役人が務めた。
  警察も、東京府だけは、府県の管轄ではなく、内務省
 直属の組織だった。
  そこで、小笠原諸島を、中央政府の影響が強い東京府
 の管理下においた。
  伊豆諸島も含めて、離島管理を東京府に一元化した。
  この様にして、伊豆諸島は、1878年に、小笠原諸島は
 1880年に、東京府の所管となった。
1878年1月24日、東京府・駒場農学校の開校式
  農事改良のため、欧米の学理と技術とを修得すべく、
 内務省勧農局所管の駒場農学校(こまばのうがっこう)
 が開校した。
  (氷川清話)駒場農学校、陸軍士官学校、工部大学成
 る。
  イギリスから5人の農学教師を招いて、駒場野に校舎を
 新築し、1878年1月に、開校した。
  しかし、イギリス・ドイツのいずれもが大農経営を前
 提とし、日本農業の実情に沿わず、
  「農学さかえて農業おとろえる」の観があった。
  そして、1881年、農商務省へ移管。
  1886年7月、東京山林学校と合併し、現在の東京大学
 農学部の前身である東京農林学校となった。
1878年2月5日、東京警視本署が、相撲・行事取締規則、興
 行取締規則を布達。
  東京の相撲を統合一本化した。
  明治十一年二月五日警視庁御本署甲第拾一号を以て、
 相撲並びに行司取締規則御布達により、東京府下相撲合
 併一卜組と相成候に付、協議の上更に左之通り内規則相
 定め候事。
  第 一 条
  春冬両度大相撲興行の際、其損益金精算之義は、桟敷、
 土間、新桟敷、小間々に至る迄取締年番に及び歩持年寄
 並びに願人差添両大関とも出会の上差引精算可相立事、
 但し府下に於て修業相撲興行之際精算之義も本文同様た
 るべき事。
  そして、東京大角力協会申合規則、明治22年1月改正
  条 一 条
  当協会は東京大角力協会と称し東京市本所区元町十七
 番地に其事務所を設置す。
  条 二 条
  東京大角力は古来の習慣に随ひ一組合となし之を分離
 せざるものとす。
  条 三 条
  当協会は東京大角力取締上に関する諸般の事を処理し
 且つ風儀の改良技芸の上達を図る為設くるものとす。
1878年2月10日、横濱英國領事裁判所が、アヘンを密輸した
 イギリス商人のハルトレーに無罪判決した。
 (アヘン戦争の最悪行為の日本版・・それに無罪判決)
  正義なんてあったもんじゃない・・、
  日本における英国の商業活動が盛んになると、第一審
 を上海の高等領事裁判所が行うのは不便ということなり、
  横浜居留地に、第一審を行うための横浜領事裁判所が
 設立された。
  横浜領事裁判所の判事は、当然のごとく、イギリス人
 だった。
  このイギリス人が、自国人を無罪にした。
  英国高等領事裁判所は、中国、日本、及び、朝鮮で発
 生した英国民に対する訴訟及び領事裁判の上告を処理す
 るために、1865年に、上海共同租界に設立された上級裁
 判所で・・、
  アヘン戦争に勝利した英国は、1842年に清と南京条約
 を締結し、さらに翌年の虎門寨追加条約で治外法権を獲
 得した。
  アロー戦争後の1858年に締結された天津条約で英国の
 権利はさらに拡大された。
  日本において、1858年に締結された日英修好通商条約
 により、英国は、日本においても領事裁判権を獲得した。
  この侮蔑的な不平等条約によって、麻薬犯が無罪とな
 ったりしていた。
  イギリスは、当然のごとくの様に、この様なハレンチ
 な事をしていた。
  明治政府による条約改正交渉により、日英通商航海条
 約が、やっと1894年に締結され、締結より5年後の1899年
 に、英国は、日本における領事裁判権を失った。
.
(今日の言葉)
三木谷君、私腹を肥やすのは、いい加減にしなさい。
  ちゃんと税金を払いなさい。
  納税の義務を果たしなさい。
  守銭奴にはなりなさんな。
  パナマ文書でわかった「税金逃れの輩」。
  「楽天なんかは負けてくれ」と思う。
  貴方の納税を待っている弱者の方が大勢います。
  「正直な者だけに納税させておけばいいのだ」という
 「貧乏人の心から抜け出しなさい」。
  この様な根性が気に入らない。
  「納税逃れではない」と強弁しているのも、気に入ら
 ない。
ーー報道事例ーー
パナマ文書の衝撃
楽天・三木谷会長の名も 10日に一部公表
楽天の三木谷浩史会長兼社長
  国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)に参加
 する共同通信のパナマ文書分析で8日、インターネット
 通販大手楽天の三木谷浩史会長兼社長がタックスヘイブ
 ン(租税回避地)法人の株主となっていたことが分かっ
 た。
  ICIJは日本時間10日午前3時にホームページで
 文書の一部情報を公表する。
  多くの目でチェックしてもらうことで、より分析を深
 めたい考えで、「調査に値するものを見つけた場合」に
 は情報を提供するよう呼び掛けている。
 文書によると、三木谷氏は1995年に英領バージン諸
 島に設立された法人の株主になっていた。
  株の取得は楽天起業前で、同社は三木谷氏の話として、
 パーティーか友人の紹介で知り合った外国人から投資を
 持ちかけられ、80万円程度を出したが一部しか戻って
 こなかったと説明。
  三木谷氏は「租税回避の認識はなく、全くやましいと
 ころはない」と話しているという。(共同)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年5月10日火曜日

(増補版)349E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年12月~1878年1月)

題:(増補版)349E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年12月~1878年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年8月、インディアンの方々の人権蹂躙をするアメリカ
  (自由を奪う行為をするアメリカ)
  アメリカ・インディアンの『ジェロニモ』という族長
 は、何も悪いことはしていないが、追い詰められて、彼
 の部隊は殺戮され、そして、降伏した。
  彼は、捕虜となった。
  そして、収容所送りとなった。
  そこは、体(てい)のいい監獄だった。
  自由が剥奪されて、拘束された監獄である、
  収容所と言うが・・、アメリカ合衆国は領土を奪い、
 その土地に生活していたアメリカ・インディアンの方々
 を、収容所という檻(おり)に入れてしまった。
  ジェロニモは、死ぬまでそこから出る事が出来なかっ
 た。
  終身刑を受けた様なものだった。
  ジェロニモは、アメリカ合衆国の大統領に
  「生まれ故郷に帰してくれ」
  「生まれた国に戻してくれ」・・と叫んだ。
  許可を乞うた、
  しかし、彼の願いが叶う事はなかった。
  何十年もの間、彼は囚人の身分にされていた。
1877年、カナダも・・ていよく・・先住民の方々の国を奪
 った。
  だましである。
  この年に、ブラックフィート族のスポークスマン(政
 府や団体の意見などを発表する担当者)であるクロウフ
 ットが、
  5万平方マイル(約13万平方キロ)の平原をカナダ政
 府に譲り渡した・・という。
  「その様な譲り渡しがあった」と、カナダは主張して
 いる。
  そして、ここから、また悪辣な行為が始まる。
  自分の土地なのだからと、その土地に居るバッファロ
 ーを殺して行った。
  この約束(条約)が、結果として、バッファローの激
 減を招いた。
  その結果、ブラックフィート族などのインディアンの
 方々は、食糧としていたバッファローを得られなくなっ
 た。
  民族が絶滅に瀕した、また、絶滅した・・
  自分の土地なのだから、自分の土地に居るバッファロ
 ーは殺していいのだ・・という論理は・・、
  全くの詭弁(きべん、道理に合わないことを強引に正
 当化しようとする弁論)である。
  この13万平方キロが、あたかもカナダのすべての広さ
 の様に・・カナダ政府は言っている。
  それは・・まったく違う。
  広そうに見えるその数字は、カナダの『ほんの一部』
 でしかない。
  それほど、カナダの地は広いのである。
  カナダの広さは1709平方キロメートルである。
  つまり、その0.76パーセントが13万平方キロである。
  1%にも満たないのである。
  それで、すべてを手に入れたという詭弁を言った。
  カナダのインディアンの方々は、カナダの領土の99%
 以上は、まだ、カナダ政府に譲り渡していないのである。
  カナダ政府が、カナダの領土のすべてを得たから、カ
 ナダの地のバッファローをすべて狩る権利が発生したよ
 うに言うのはペテンである。
  インディアンの方々が食糧としていたバッファローの
 すべてを狩って、インディアンの方々の絶滅を狙った悪
 巧みである。
  卑劣な行為である。
  こんな悪辣なことした。
  また、このスポークスマンのクロウフットが・・、
  多くの種族がカナダの地に居るインディアンのすべて
 の種族の全権ではないことは明らかで、
  その条約が・・成立する訳はない。
  カナダ政府の締結した条約は、『何ら、効力はない』。
  その条約があるからというのも、カナダ政府の『ペテ
 ンの話』である。
  ある一つの種族の、その一担当者が、その様な権利が、
 全権が・・ある訳がない。
  子供だましのペテン話で、世界に嘘を言っている。
  この件についての責任を取るべきである。
1877年1月、インド帝國の成立(英領インドの成立)
  イギリスのビクトリア女王が、インド皇帝の地位があ
 るという状態は、そのままにして、インド帝国の成立が
 宣言された(1877年~1947年)
  イギリスが、インドに、イギリス領インド帝国を成立
 させたが、事実上はイギリス植民地で・・、
  イギリスは、自身は、表面的に隠れて植民地を作った。
  この様な形態の国(植民地)を、巧妙に作るような事
 をよくするイギリスだった。
1877年4月24日 ロシアが、トルコに宣戦布告(露土戦争)
  バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系
 諸民族が、トルコ人の支配に対して反乱し、
  それを支援するかたちで、ロシアが介入して起こった。
  この日、ロシア帝国は、オスマン帝国に宣戦布告し、
 バルカン半島と、アナトリア半島東部が戦場となる・・
  露土の間の戦端が開かれた。
  バルカン半島では、露土戦争の引き金となったセルビ
 アが、戦争再開をめぐる国内対立の末に、戦線に復帰し
 た。
  地中海への通路を確保しようとするロシアの意図があ
 り、不凍港獲得を目指す南下政策の一環としての側面を
 持った戦争でもあった。
  ロシア帝国の勝利で終わった(1877年~1878年)
  1878年3月に、サン・ステファノ条約が結ばれた。
  この条約によって、セルビア、モンテネグロ、ルーマ
 ニアの各公国が、オスマン帝国から独立した。
  また、ロシアの影響を強く受けた広大な自治領「大ブ
 ルガリア公国」が成立した。
  多くの人々が、ブルガリアやコーカサスで難民となっ
 た。
  そして、オスマン帝国へと逃れて行き、また、シリア
 やヨルダンへと向かった。
  ロシアの勢力拡大に対して、欧州各国の警戒感が広が
 り、また、強まった。
  弱肉強食「まる出し」の、そして、弱い人々が泣く世
 界だった。
1878年、出来事:
・自由民権運動盛ん。
・明治天皇陛下が、北陸・東海道を御訪問された。
  (氷川清話)天皇陛下、北陸巡幸。
・郡区町村編成法・地方税規則などが公布された。
・商工会議所が開設された。
・伊藤博文が内務卿になった。
  伊藤博文が、明治維新後、木戸孝允と大久保利通に信
 頼されて、外交・財政・民政に才腕をふるい、
  そして、彼らの死後、大久保の跡を継いで内務卿とな
 り、やがて、政府の最高指導者となる。
・帝国陸軍が、熊本鎮台から対馬に対馬分遣隊を派遣した。
  そして、1886年(明治19年)12月3日、対馬分遣隊を改
 編して、「対馬警備隊」が置き、
  1903年(明治36年)4月14日、「対馬警備隊司令部条例」
 を制定し、
  司令部が、長崎県対馬国下県郡鶏知村に置かれた。
  また、1920年(大正9年)8月に、対馬要塞司令部が設
 置された。
・榎本武揚が、シベリアを馬車で横断した。
 この時、彼は、車中で克明な「シベリア日記」を付けた。
1878年、流行:
・在日外国人の入浴客が増加した。
  雲仙に、新湯温泉が開かれ、旅館を洋風にし、新たに
 宿泊施設を改善した。
  また、ベッドを採用し好評を得た、滞在客が増えた。
  日本人浴槽の他に、洋人風呂と称する1人のみが入浴
 する箱風呂を作り、混浴を避けた。
1878年、出版・本・論:
・「米欧回覧実記」(久米邦武編集)全100巻刊行。 <岩
 倉使節団の報告書>  岩倉使節団出発(1871年)
・時局風刺雑誌の「驥尾団子」創刊。
・「通俗民権論」(福澤諭吉)
・ 「自由交易日本経済論」(田口卯吉)
・「開明新論」(植木枝盛)
・「男女同権論」(著:ミル、訳:深間内基)
・ 「代議政体論」(著:スペンサー、訳:鈴木義宗)
・ 「亡友帖」(勝海舟)
  (氷川清話)勝海舟、金谷開墾方の隊中に書を送る。
・ 「断腸の記」(勝海舟)
  (氷川清話)勝海舟、「断腸の記」を記す、明治21年
 10月印行。
・ 「特命全権大使米欧回覧実記」(久米邦武編)
・ 「開化新題歌集」(大久保忠保編)
・「日本西教史」(太政官翻訳係訳)
・ 「Art and art industries in Japan(日本の美術と美術
 産業)」刊行(オールコック)
1878年、流行:
・唄 「梅ヶ枝節」
・河鹿(かじか、カジカカエル)の飼育
・日本髪にお高祖頭巾(おこそずきん)をかぶること
・毒婦(どくふ)小説、毒婦:人をだましたり、陥(おと
 しい)れたりする根性の悪い女のこと
1878年、衣:
・少女のシャツを着る姿が現われた。
・島田十郎兵衛が、麦わら帽子を作り、売り出した。
・亜鉛白粉が発売される。白粉:おしろい、
・海軍兵学校、洋服自給のため裁縫工場をもつ
・国産フランネル・紋羽二重綾木綿の無税輸出が許可され
 た。
・オーストラリアの羊1500余頭が、下総牧場に移された。
1878年、食:
・東京の両国若松町の風月堂が、日本で初めてチョコレー
 トを加工・販売した。
  チョコレートを、わが国において最初に商品として加
 工製造・販売をしたのは、東京両国若松町の米津風月堂
 といわれている。
  1871年(明治4年)、安政の不平等条約改正の予備交渉
 と、近代的な制度・文物摂取のため、岩倉具視を全権大
 使に、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、山口尚芳らの
 一行が欧米諸国に派遣された。
  その際、パリに赴いた一行は、チョコレート工場を視
 察している。
  彼らは、そのチョコレートが、後世のお菓子の世界で
 なくてはならないものになるとは想像もしなかったであ
 ろう。
  しかし、米津松造は、これらの情報をしっかりキャッ
 チして、いち早く研究をはじめ、商品化に取り組んだ。
  米津松造が、チョコレートの製造をはじめたことは、
 1878年(明治11年)12月21日の『郵便報知新聞』に、
 「菓子舗、若松町の風月堂にては、かつて西洋菓子を製出
 し、
  江湖(こうこ=世間、世の中)に賞美せられしより一層
 勉励してなお、この度、ショコラートを新製せるが、一
 種の雅味ありと。これも大評判」と報じている。
  ショコラートは、チョコレートのこと。
  この記事を受けて、その直後の12月24日付けの『かな
 よみ新聞』(明治8年創刊・仮名読売新聞改)に、
  「貯古齢糖・洋酒入ボンボン」の項目を掲げ広告を掲
 載した。
  さらに、1878年(明治11年)12月24日発行の『かなよみ
 新聞』と、翌25日発行の『郵便報知新聞』、
  さらに、翌12年1月6日の『東京日日新聞』に次のよう
 な広告が掲載された。
「西洋菓子製所 鳳紋 賞牌
 ○西洋菓子各種
 ○新発明ボンボン 祝日用・飾り菓子・西洋酒入り      
    数種 種々効能あり
 ○新製・猪口令糖 菓物味入り
 ○機械製・有平糖 
 ○桃子糖漬
 ○柑子糖漬
 ○仏手柑糖漬   各缶詰
 ○新年辻占パピヨ 此品は、西洋各国にて新年宴会の折、
 戯むれに供するものにて至極面白きものなり。
  文化、日に開らけ、百事、洋風に依らざる無きに独り
 “西洋菓子(ケイキ)”の製法のみ我国に有るを聞かず。
  日頃、該製造に思いを焦がす折節、昨年、内国勧業博
 覧会の挙あるに際し、
  西洋人の良工を雇いて洋菓の数種を精製せしめ該場へ
 出品せしに殊の外、諸彦の愛顧を蒙り、
  忝なくも鳳紋賞牌を付与せらるるに至れり。
  弊舗深く、感謝にたえず。
  依て尚一層、勉励新製数種調進候間、従来販売する菓
 子と共に御賞翫あらん事を是祈る。
   東京日本橋若松町、西洋菓子製造本舗 両国風月堂、
 米津松造」
  このときの米津風月堂のチョコレートは、輸入したチ
 ョコレート原料を加工したもので、
  また、もともとチョコレートとは飲み物であったが、
 食べるチョコレートが生まれたのがヴィクトリア王朝時
 代の1840年頃で、
  米津風月堂が、その製造に関してトップを走っていた
 のが分かる。
  さらにその後、喫茶においても飲むチョコレートを販
 売していたことも広告されている。
  続いて、京橋木挽町・精養軒、新橋壷屋が、自家特製
 加工品を使用し、明治30年代に、主として輸入製品とし
 て、東京銀座亀屋、明治屋、函館屋、本郷赤門通り・青
 木屋などによって売られ、
  その後、森永製菓も、カカオ豆からチョコレート一貫
 製造をはじめる。
・飲料水の取締規則が出来て、井戸水検査が始まる。
・開拓使が、鮭の缶詰をイギリス・フランス・アメリカに
 試売した。
・勧農局が、紅茶伝習所を各地に設けた。
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2016年5月8日日曜日

(増補版)348E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年12月)

題:(増補版)348E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年10月1日、日本最初の鉄道死亡事故
  東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
  東海道線・住吉駅~西ノ宮駅(現:西宮駅)間で上り
 旅客列車と、下り回送列車が正面衝突した。
  上下列車は、本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、
 上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列
 車の機関方(機関士)が、臨時列車の到着後、旅客列車
 を待たずに発車したのが事故の原因。
  上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。
1877年10月4日、山田顕義少将、野津鎮雄少将、大山巌少将
 らが、東京に凱旋した。
1877年10月10日 征討総督・有栖川宮熾仁親王、参軍・川村
 純義、伊藤祐磨少将らが、東京に凱旋した。
  同日、書を岩村県令に贈り、戦後、大いに窮迫せる士
 族に授産の途を講ぜしむ。
1877年10月10日、長崎県令の北島秀朝(きたじまひでとも)
 が、長崎市内にコレラが流行し、制止されたが避病院(
 ひびょういん、伝染病専門病院)に、コレラ患者を見舞・
 慰問し、本人もコレラに感染し、在職中に死亡した、享
 年36歳。
1877年10月12日、『東京毎夕新聞(とうきょうまいゆうし
 んぶん)』が創刊した(夕刊紙の始まり)
1877年10月17日、学習院が開校した。
  私立の華族学校開業式、天皇・皇后の両陛下が親臨(
 しんりん、天子や貴人が、その場所にみずから出向くこ
 と)、勅諭・令旨を賜わる。
  あらためて「学習院」の勅額を下賜される(神田錦町)
  学習院開校(氷川清話)
  1884年(明治17年)4月、宮内省所轄の官立学校となる。
  初代院長は、旧三池藩第8代藩主で子爵の立花種恭。
  華族の子弟教育を目的とし華族会館が経営。
1877年10月26日、車駕(天子)、上野公園に幸し、内国勧
 業博覧会に臨まれる。
 (注)車駕(しゃが)天子が行幸の際に乗られるくるま。
1877年10月、新町屑糸紡績所(しんまちくずいとぼうせき
 じょ)が開業した。 
  新町屑糸紡績所は、明治新政府によって群馬県新町(
 現・高崎市)に設立された官営模範工場で、内務卿・木
 戸孝允(たかよし)の設立伺(うかがい)などを経て、この
 年に開業した。
  1887年に、三井に払い下げられ新町三越紡績所となり、
 新町は、昭和初期まで製糸業の町として発展した。
  また、紡績所は、1911年に、鐘淵紡績新町工場となり、
 近年まで生糸をつくっていた。
1877年11月2日、科学博物館ができた。
  1872年に、湯島聖堂内に博物館を設立したことに起源
 をもち、
  創立は、1877年に、教育博物館が設置されたときとし
 ているが、その後、高等師範学校の附属となり、
  博物館としては、活動が停滞していた時期もある。
  大正時代に、科学博物館設立の機運が高まったことを
 受けて、1930年に、上野公園内に新館(現在、日本館と
 呼ばれている建物)が建てられ、
  その翌年・1931年には、東京科学博物館と改称され、
 東京市の施設となった。
  そして、1949年に、国に移管され、現在の国立科学博
 物館となった。
1877年11月20日、京都~大阪間の鉄道貨物運輸が開始され
 た(12月1日説あり)。
  因みに、1873年(明治6年)9月15日に、新橋~横浜間
 の貨物営業、および、小荷物の受託を開始した(取扱駅
 は新橋・横浜)
  また、1874年(明治7年)12月1日に、大阪~神戸間の
 貨物営業が開始された。
1877年12月6日、京都仙洞御所にて、軽気球を上げる。
 (かなよみ11・22/大阪日報12・8、明治11年1・6)
  「来月六日には西京旧仙洞御所内にて大小二ツの軽気
 球が登るに付て、是を見るは通券(きつて)一枚三銭宛
 で、西京新聞の配達人が持てゐるから夫を買て中へ這入
 ので、外に売捌處も何も御座なくと、該社の新聞に見え
 ましたから、同府の看客(おきやく)さまへお取次」(
 かなよみ)
 「一昨六日の西京招魂祭の時、仙洞御所に気毬の飛び上
 るを見ん為めに、各校の生徒が教師を隊長とし美々敷扮
 立(いでたち)、幟を押立て、続々と進みしは、肥境に
 出でし薩軍の景況なり」(大阪日報12・8)
  「(前略)昨十二月の招魂際に西京の旧仙洞御所の御
 庭に揚がるは、西京軽気球会社にて製する物を飛すは、
 観客都を傾け、切符の売れ高四万枚なりとぞ。
  然れば京童のみならず大津、伏見、淀、鳥羽、桂、嵯
 峨や小室の人々、丹波、丹後の山奥からも出て来たに相
 違なし。(後略)」(大阪日報・明治11年1・6)
 〈編者註〉この京都仙洞御所の軽気球は、京都府知事槇
 村正直の肝煎りで、学務課の原田千之助が立案し、島津
 源蔵と三崎吉兵衛が制作したもので、いわば初めての民
 間飛行、初めて木戸銭をとって見せた軽気球である。
 (山崎)寅吉が搭乗した気球は見事に飛揚し、入場料一
 人三銭(生徒半額)の切符が48,800枚売れ、売上高1,000
 円余を計上したという(『気球の歴史』)。
  大成功といっていい。
  早速この軽気球を買いに来た者があり、翌年正月、大
 阪城外の馬場にての興行が決定した。
1877年12月6日、蓄音機が発明された。
  トーマス・エジソンが、蓄音機の試作品によって、
 "Mary had a little lam..." (メリーさんの羊)と録音
 し、その再生に成功した。
1877年12月12日、「清輝艦」(国産の軍艦)が発航(はっ
 こう、船舶が港を出発して航海に出ること)した。
  日本艦船として初めてのヨーロッパへ遠征だった。
1877年12月19日、東京大学、第一回卒業証書授与式
  東京大学の第1回卒業式は、この日に行われたが、この
 時、卒業証書を授与された理学部化学科の3名は、すでに、
 同年・1877年7月に、卒業していた。
  しかし、「卒業式の方法等に関し議論ありし結果」数
 ヶ月を経てからの式となった。
  「午後一時に文部大輔綜理同補其ほかハ高座に着れ卒
 業生徒ハ高座の下に並び雇教師教授其ほかとも着席が定
 まると」、
  濱尾大学総理補が学事報告を行い、加藤大学総理が証
 書を授与した。
  「加藤総理,中村正直学監モルレー交々起ちて演述す
 るところありて」2時間ほどで式を終えた。
  その後、祝宴が開かれた。
  (讀賣新聞,1877.12.20、および、『東京帝国大学 五
 十年史』上冊,1932,pp.484-486)。
  濱尾総理補の報告は、「学校創立以来今日まで沿革の
 大略」であり、
  この学事報告と証書授与、加えて学内の要職にある者
 や来賓の演述という三つの要素からなるのが、
  初期卒業式の最も簡潔な手順であった。
  最初の卒業式において、総代以外の卒業生は、証書を
 受け取り、話を拝聴するのみの受動的な立場だったが、
  1878年(明治11年)3月29日の医学部第1回卒業式では、
 池田総理の奨励の辞に対し卒業生総代が答辞を述べ、
  さらに、製薬学本科卒業生9名全員が各自の研究につい
 て演述を行った。
  『東京 帝国大学五十年史』上冊,1932,pp.488-489
1877年12月21日、電話の開通の最初
  東京工部省電信局より宮内省間に、2回線の電話線を架
 設し、通話を始め、開通した(実用電話最初の記録)
  当時、伝話機と呼んだ。
  工部省は、民部省に所属していた灯台・電信・その他
 の部局と、民部省に付置されていた修技校を引き継いだ。
  そして、当時の工業の殆どすべての部門を管理するこ
 とになった。
  そして、工部省のやり方は、そっくりそのまま西洋の
 やり方を模倣するというやり方だった。
  そうして、一挙に西洋の技術を日本に移そうとした、
 また、西洋式の工業を、日本に興そうとした。
  工部省の事業はしだいに拡張された。
  そして、1875年~1876年頃に、その最盛期を迎えた。
  それ故に、電話の場合も、この様なやり方だった。
1877年12月25日、刑法草案審査局を設けた(伊藤博文を総
 裁とした)
  日本は、総てにおいて、着々を体制を整えて行った。
  この刑法における努力も頭が下がる行為だった。
  この様な先人の蓄積・努力によって今の日本がある。
   1875年(明治8年)9月に、司法省に刑法草案取調掛が
 設置された。
  これによって刑法の編纂が始まった。
  先ず、総則部分が編纂され、「日本帝国刑法初案」(
 第Ⅰ編82条)として、1876年(明治9年)4月に、司法省
 から正院に上呈された。
  それはさらに、「改正刑法名例案」として、元老院に
 送 られたが、不完全であるという理由で、審議を経ずに
 返された。
  そこで、司法省では、1876年(明治9年)5月、新たに
 ボワソナード起草の草案を原案として編纂作業を開始し
 た。
  この作業は、1877年(明治10年)11月に終了し、編纂
 委員から司法卿・大木喬任に「日本刑法草 案」(Ⅳ編
 478条)として提出された。
  そして、さらに、司法省から太政官に上呈された。
  太政官では、1877年(明治10年)12月に、刑法草案審
 査局を設置した。
  そして、そこで司法省草案の審査作業が開始された。
  審査局の審査は、1879年(明治12年)6月に終了した。
  そして、「刑法審査修正案」(Ⅳ 編430条)として、
 太政大臣に上申された。
  翌・1880年(明治13年)3月、「刑法審査修正案」は、
 元老院に送られた。
  そして、同年・1880年4月16日に、審議を終了して、
 翌日これを上奏した。
  「元老院修正案」は、内閣で承認された。
  そして、1880年(明治13年)7月17日に、太政官布告
 第36号刑法(4編430条)として公布された。
  そして、1882年(明治15年)1月1日から施行された。
  西洋流の近代的な内容だった。
1877年12月25日、地方長官に国産愛用を諭告 
1877年12月26日、西南戦争の凱旋巡査、東京に整列式 
  吹上御庭にて先頃凱旋になりし警視隊の整列式を天覧
 在せられ、石井権中警視その他三間、田辺の両少警視も
 出張せられ・・、
1877年12月26日、勝海舟、帰朝す(氷川清話)
1877年12月27日、新紙幣2700万円を発行し、西南戦争の戦
 債を補う。
  大蔵卿としての大隈は、殖産興業政策を主唱する大久
 保と意見を同じくしていたが、
  同時に、財政支出のむだ(官庁建築の制限、剰余金の
 「回産復生」資本への流用、官庁の輸入品使用制限、秩
 禄処分)を省き、かつ不換紙幣を銷却し、準備金を充実
 することを提唱していた。
  大隈といえども、財政の均衡や紙幣整理の必要を重視
 していなかったのではなく、経済発展と財政均衡・紙幣
 整理を両立せしめようとする企図が強かった。
  以後の財政政策史上にくりかえしあらわれるこの発想
 を積極主義と言うのならば、大隈はその創始者である。
  ともあれ、1876年(明治9年)、韓国との緊張が緩和し
 たのを機として、政府は最終的な秩禄処分を行い、懸案
 の一つを解決した。
  それは、殖産興業政策に本格的に乗り出すためにも、
 不可欠な処置だった。
  しかし、このためには巨額の金禄公債の発行が避けら
 れなく、
  1890年(明治23年)までの同公債の発行額が1億7,385
 万円に達した。
  その価格が暴落するのは目に見えていた。
  その対策として考えられたのが、国立銀行条例を改正
 して、同公債を資本金として国立銀行を成立させ、
  正貨兌換をあきらめて、金融の疏通をはかり、士族の
 生業の道をひらくことだった。
  公債を抵当に国立銀行券の交付をうけて営業を行わせ、
 準備率も資本金の2割でよいとした。
  これ以後、国立銀行設立が急に盛んになり、1879年(
 明治12年)までに、既設4行を含めて153行が設立の許可
 をうけた。
  その仲に、旧大名華族の資本を集めた最大の第十五国
 立銀行(資本金1,783万円)もあった。
  同行は、はじめ、鉄道建設資金の供給を意図していた
 が、1877年(明治10年)の西南戦争勃発に際し、設立を
 いそぎ、政府に戦費1,500万円を年利5分、期限20年で貸
 付けた。
  国立銀行全体の活動も活発で、その銀行券発行高は、
 1880年(明治13年)の年末には3,443万円と、許可限度一
 杯に達した。
  それは、西南戦費調達のために、好都合であったとは
 いえ、重大な通貨増発を惹きおこすことになった。
  1871年(明治4年)以降、各年末の現金通貨ストック量
 を見ると、1873年(明治6年)以降、発行を抑制されてき
 た現金通貨が、この年と翌年に一挙に増発された。
  この増発は、もちろん西南戦争の戦費調達のためであ
 った。
  政府紙幣も、この1年間に2,700万円の予備紙幣を発行
 し、
  戦費総額の4,157万円の大部分は、傭給費、運送費、
 旅費等であって、
  物件費は、軍器費、粮食費等で、全体の2割程度にすぎ
 なかった。
  したがって、軍需のために物資の需給が急に逼迫して
 物価が上昇することはなかったが、関係者の所得増加が
 生じ、やがて社会的需要の増大をもたらしたと考えられ
 る。
  西南戦争後のインフレーションが、1880年~1881年を
 ピークに激化した理由はこの点にあった。
1877年12月、東京株式取引所設立の許可。
1877年12月、勝海舟、「亡友帖」成る。翌年出版す(氷川
 清話)
1877年、朝鮮の人口が減少
  逆に言えば、日韓併合とともに朝鮮の人口は、驚異的
 に増加した。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授は、自著
 で以下の様に記す・・、
  「日韓併合とともに朝鮮の人口は、驚異的に増加した。
  例えば、韓国の教師用国定歴史(国史)教科書による
 と、1777年、総人口は1804万人であったが、100年後の
 1877年には、1689万人で6.8%減少した。
  さらに、1910年には、1313万人となった。
  そして、日韓併合され、それが、32年後の1942年の人
 口は2553万人で倍近くに大きく増加している。
  この事は、李朝518年の統治が如何にひどいものであっ
 たかを如実に証明している。
  日韓併合によって、韓民族が享受(きょうじゅ、気持
 ちよく楽しいこと)した社会の改善点を上げると、主な
 所で以下の様になる。
  1)両班・常民・賤民などの階級制で、少数の支配者
   が住民の大部分を服従させる悪弊が払拭(ふっしょ
   く、好ましくない者を払い除くこと)された。
  2)法治制度の下に公正な裁判が行なわれるようにな
   り、賄賂(わいろ)の慣習が一掃された。
  3)私有財産制度の確立・処分・移動・職業選択と居
   住の自由と経済秩序の確立。
  4)鉄道・道路・橋梁などの交通機関の整備により、
   経済が活性化し、李朝での飢餓問題も解決された。
  5)教育が普及し、医療制度も近代化して予防制度が
   確立した。
  文教部発行の国定歴史(国史)教科書の日本に対する
 記述には、
  「彼らの国家利益を増やすために、朝鮮を開発し、日
 帝の侵略政策で、民族の経済活動は大幅に委縮し、民族
 産業も、その発展が抑えられ、沈滞せざるを得なくなっ
 た」と、まったくでたらめな記述をしている。
  この様な教え方では、卑屈な考え方を青少年に植え付
 けるに過ぎない。
  我々は、併合時代以前の歴史を顧(かえり)み、日本
 によって他力本願でありながら、近代的産業開発を学び、
 教育によって経済活動にも先進することが出来たのであ
 る。
  一方的に享受する側であるから、初めのうちは屈辱感
 があっても当然だが、日本の援助を受け入れ、誠意を尽
 くして実力を養えば、日本と同等、または、日本以上に
 も発展する事も可能であった。
  今日の韓国と台湾は、日本によって育成された史実を
 認めるべきである。
  台湾の李登輝前総裁は、日本時代にこそ、今日の台湾
 の経済発展の基礎が培(つちか)われたと言い切ってい
 る。
  その姿勢から、韓国・朝鮮の指導者たちは素直に学ぶ
 べきである」と。
  そして、また、韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)
 教授は書く・・、
  「19世紀末から20世紀にかけて、世界史上、最も驚異
 的な現象がアジアの極東において、新しい光として輝き
 出した。
  それは、極東の小さな島国と考えられた日本が、旭日
 昇天の発展を示した事である。
  中国(朝鮮も)が斜陽に傾く中、明治維新後の日本は、
 当時の世界の強国・眠れる獅子「清」と戦って勝ち、
  その10年後には、三国干渉以来の仇敵(きゅうてき)
 でもあった「帝政ロシア」と日露戦争を戦い、これを勝
 利に導いた。
  600余年前、自主独立の国であった高麗は、明に戦争で
 勝つ成算と、民族の故地である東北部(旧満州)を取り
 戻す見込みがあったにもかかわらず、李成桂の裏切りに
 よって敵国であった明に臣従し、その属国に成り下がっ
 た。
  そうして建国された李氏朝鮮は、スタートから血で血
 を洗う骨肉の争いと、つまらない権力維持のために、百
 姓の生殺与奪をほしいままにし、
  明の腐敗した儒教を国教とし、住民を四階級に区分し
 た。
  既存の産業を潰(つぶ)し、インフラ整備を完全に遮
 断させたまま、百姓を生屍(いきかばね、民草)に取り
 扱ったために、開化と近代化を志向した志士たちは容赦
 なく処断された。
  悪辣(あくらつ)極まりない李朝の統治下で500年を経
 過した朝鮮に隣接し、この生屍に等しい百姓を再生させ
 たのが、日本であり、日韓併合であった事は歴史が証明
 している。
  だが終戦とともに、北朝鮮では金日成集団が中心とな
 って、再び以前の李朝のコピーと成り下がり、数千万の
 百姓を餓死か、それ寸前の境遇に落として、いじめ尽く
 し、自由と財産を強奪する圧政を続けている。
  北朝鮮の暴力集団を、同胞だとか、まともな国家と見
 なすとは、非常識も甚だしい。
  国連による制裁もない今日、北朝鮮住民の明日への希
 望はまったく見えない。
  国家には、領土・人民・主権の三要素と、国民の生命・
 財産を守る任務があるとされるが、李朝518年間と20世紀
 の北朝鮮では、まったく顧(かえりみ)られていない。
  スターリンによって送り込まれた金日成が北朝鮮で、
 まず着手したのが、日韓合邦時代の北朝鮮住民の生命と
 財産の掠奪(りゃくだつ)であった。
  そして繰り返し、「革命」を合唱した。
  「革命」とは、実力のある有為の人達を殺す事であっ
 た。
  そうして1000万の離散家族を発生させ、数百万人を虐
 殺し、餓死させた」。
..
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2016年5月6日金曜日

(増補版)347E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年9月)

題:(増補版)347E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年9月2日、静寛院宮が逝去された(31歳)。
  和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、
 弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)~明治10年(1877年)
 9月2日)
  静寛院宮相州塔の沢で逝去(氷川清話)
  文久元年(1861年)11月15日に、和宮一行は江戸城内
 の清水屋敷に入られ、
  そして、12月11日に、江戸城本丸大奥に入られた。
  文久2年(1862年)2月11日、和宮親子内親王(16歳)
 と将軍・徳川家茂(16歳)の婚礼が行われた。
  慶応2年(1866年)7月20日、家茂は大坂城で薨去(こ
 うきょ)した。
  あまりにも早い逝去だった。
  結婚期間は、4年5ヶ月の非常に短い期間だった。
  夫婦の仲は非常に良かった。
  天皇陛下のご意向で帰京する様にと発令された。
  だが、すぐには江戸を去らず・・、
  江戸幕府の最終末には徳川家への寛大な処分や存続な
 どに意を配られ、関係された。
  明治2年(1869年)1月18日、和宮一行は東海道を京都
 へと向かわれ、明治天皇陛下へご対面され、
  5月19日には、天皇陛下から京都在住の沙汰があった。
  御住まいを栄御殿と名が改められた。
  明治天皇陛下が、東京行幸され、東京遷都の後・・、
  東京に住まわれる天皇陛下の勧奨もあり、再び東京へ
 戻ることを決め、明治7年(1874年)7月に、東京に戻ら
 れた。
  そして、皇族や天璋院・徳川家達をはじめとした徳川
 一門などと幅広い御交流を持たれた。
  そして、病気がちとなられ、
  明治10年(1877年)8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療
 養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かわれた。
  箱根の地元民とも気さくにご交流をなされたりしてい
 たが、
  明治10年9月2日、病気のため療養先の塔ノ沢で薨去さ
 れ、若い一生を閉じられた。
  静寛院宮の「家茂の側に葬って欲しい」との御遺言を
 尊重する形で、葬儀は仏式で行われ、
  墓所を、家茂と同じ、東京都港区の増上寺に・・。
1877年9月7日、寺田屋・お登勢(49歳) が没した。
  幕末期の寺田屋の女将。
  寺田屋は薩摩藩の定宿。
  寺田屋騒動の時は、被害を受けたが、事件後、薩摩藩
 から見舞金を受け、即座に畳や襖を取り換え、営業でき
 るよう整えた。
  お登勢は世話好きで、坂本龍馬をはじめとする幕府か
 ら睨まれた尊王攘夷派の志士たちを保護した。
  龍馬から託されたお龍を養女とし、また、お龍の母に
 まで仕送りして、龍馬との約束を大切にした。
  龍馬や薩摩藩との関係などから、お登勢も幕府より危
 険人物と見なされ、牢に入れられかけたこともあった。
  龍馬は、何かとこのお登勢に頼み事や、泣き言を聞い
 てもらう手紙を色々と出している。
  龍馬は、姉の乙女への手紙も有名だが、このお登勢に
 も色々と手紙を出していた、筆まめな龍馬だった。
  明治10年(1877年)9月7日に没し、墓所は、寺田屋に
 近い伏見松林院(浄土宗鎮西派末寺)。
1877年9月8日 西南戦争で官軍が、鹿児島・城山を包囲。
  官軍の参軍・山縣有朋中将が、鹿児島に到着した9月8
 日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一
 として攻撃を第二とする」という策をたてた。
1877年9月10日 朝鮮京城に公使館を設けた(韓国公使に花
 房義質を任命)
1877年9月16日 モースが、大森貝塚を発掘調査した。
  助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、
  また、9月29日にも訪れ、
  10月9日から本格的な発掘を行った。
1877年9月19日 官軍の鹿児島・城山の包囲陣が成る。
  西郷の助命・・救命の動き・・、
  西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では、
 一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が、西郷
 の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意
 を説くためと称して、軍使となって・・西郷の縁戚でも
 ある参軍・川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえら
 れた。
  9月22日、西郷隆盛は、「城山決死の檄」を出し、決死
 の意を告知した。
  「今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣は
 し候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を
 以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)
 に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、
 今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可
 有之候也」
  『後世に恥辱を残さないように・・』・・「士魂」を
 大切にせよ・・
1877年9月20日 官軍、鹿児島城山攻撃開始
1877年9月23日 西郷隆盛、城山にて訣別の宴
  この日、軍使・山野田一輔が持ち帰った参軍・川村純
 義からの降伏の勧めを無視し、参軍・山縣からの西郷宛
 の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。
1877年9月24日、西郷隆盛が自刃、西南戦争が終結。
  この日の午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に
 官軍の総攻撃が始まった。
  このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府
 晋介・辺見十郎太ら将士40余名は、西郷が籠もっていた
 洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。
  進撃に際して、国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自
 刃した。
  途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が
 続き、島津応吉久能邸の門前で、西郷も股と腹に被弾し
 た。
  西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて
 「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将
 士が跪(ひざまず)いて見守る中、跪座(きざ)し襟を
 正し、遙かに東方を拝礼した。
  遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめん
 なったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介
 錯した。
  その後、別府晋介は、その場で切腹した。
  西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺
 見・山野田・岩本平八郎らは、再び、岩崎口に突撃し、
 敵弾に斃れ、自刃し、或いは、私学校近くの一塁に籠も
 って戦死した。
  午前9時頃、銃声は止んだ
  西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765
 人に及んだ。
  桐野利秋(39歳)、別府晋介、村田新八 戦死、
  西郷隆盛(50歳)ら城山で自刃(西南戦争終結)
  西郷隆盛が、不平士族の推されて西南の役を起こした
 が、
  敗北して城山にて自刃、西郷は政治的人間であったが、
 西南の役で部下のために死を決した・・、
  それを滅びの美学と称する者あり・・しかし・・、
  この様な状況の中で、西郷隆盛は「士魂」を示したか
 った。
  西郷隆盛反す、西南の役(氷川清話)
  戦費は、国家予算の半ばに達す(氷川清話)
  西郷隆盛は、「士魂」を示すために戦ったという話が
 ある・・、
  西郷隆盛は、負けると分かっていた戦いを・・、
  その戦いの「勝つ」「敗ける」より大切なものがある
 として・・、
  それを示したかった・・見せたかった・・、
  そこに、絶大な価値がある・・とした。
  その示した行為・行動・考えは、日本に永久に残る・・
 残したい・・とした。
  西部邁ゼミナールで、下村博文・自由民主党衆議院議
 員が、西郷隆盛の国家観の言葉を話されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=CA-tRKqnriQ&list=PLZ0F09jaasHNwh67iJd1l6gzSXutHh0_Q&index=3
  「国家の根源は、財政でも、軍事力でもなく・・、
  そこの国民の持つ颯爽とした士魂(武士の魂)にある」
 ・・と。
  「国民の士魂にあり」・・と。
  そして、西部邁氏がいう・・、
  ロシアと戦う4~5年前に、中江兆民は言う、
  「ロシア討つべし、滅びを覚悟で戦え、大陸に覇を唱
 えよ」・・と。
  そして、さらに、西部邁氏は言う・・、
  「負けると分かっている西南の役を、西郷隆盛は担が
 れて、士魂は何であるかを示すため、戦った」と。
  そして、「士魂は、自分が死んでも残るだろう」・・
 ・・と。
  そして、話は・・国を守る話に至る・・
  「自衛隊は我が国の平和と独立を守り国の安全のため
 ・・」という自衛隊法第三条に話は至る・・、
  自衛隊法
  (昭和二十九年六月九日法律第百六十五号)
  (自衛隊の任務)
  第三条:自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、
   国の安全を保つため、
   直接侵略及び間接侵略に対し
  我が国を防衛することを主たる任務とし、
   必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
  そして、西部氏は・・、
  「士魂」の持つ意味を考えて行くと、「自立と自尊、
 独立と自尊」が大事・大切なのだと言う。
  そして、日本に・・この点についての、「冷静な議論
 の土壌をつくらねば、日本がそのものが危うい」という
 論点を話す。
  そして、「デマゴーグ」ばかりで、本質論に至らない、
 その様な討論に終始してしまう日本を嘆く・・、
  そして、日本は・・、
  1940年代に至って、この士魂の行為をしている。
  (注)デマ:政治的な目的で、意図的に流す扇動的か
    つ虚偽の情報。
   デマゴーグ:このデマを用いる政治家。扇動政治家。
   デマゴギー:民衆扇動、⇒デマ。
1877年9月30日 前鹿児島県令・大山綱良、漸に処せられる。
..
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(増補版)346E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年7月~1877年9月)

題:(増補版)346E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年7月~1877年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年7月14日、西南戦争の小林・高原方面において・・、
  6月19日、河野主一郎は、破竹隊を率いて別働第2旅団
 が守る飯野を
  6月21日まで、猛撃して奪取をはかったが、
  官軍は、善戦し、陥(おとしい)れることは出来なか
 った。
  逆に、横川から転進してきた第2旅団が、7月14日、小
 林から高原を攻撃し、高原を占領した。
1877年7月17日、高原奪還を目指す薩軍は・・、
  7月17日、堀与八郎を、全軍指揮長とし・・、
 雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9個中隊を正面・左右翼・
 霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、
  深夜に植松を発ち、
  正面・左右翼軍は、暁霧に乗じて、高原の官軍を奇襲
 し、
  あと一歩のところで奪還するところであったが、
  官軍の増援と、弾薬の不足により兵を引き揚げた。
1877年7月19日、力を振り絞る薩軍は・・、
  7月17日、辺見は、奇兵隊を率いてきた別府九郎と、本
 営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、
  荒磯野の官軍を攻撃するため、兵を本道・左右翼に分
 け、夜明けに高野を出発した。
  辺見らの諸隊は、官軍に対し善戦するが・・、
  河野が、本営に帰還するよう命じられたことによる右
 翼の指揮官の不在と、官軍の援軍の参戦、弾薬の不足に
 より、
  雷撃隊は、高野へ、
  奇兵隊は、庄内へと・・それぞれ退却した。
  7月19日には、都城の危急の知らせにより、高野の雷撃
 隊は庄内へ移動し、守りを固めた。
  また、辺見は、7月23日の岩川攻撃作戦のために、雷撃
 六番隊、干城七番を率いて・・岩川へ向かった。
1877年7月21日、都城への全面攻撃を始める前の、7月21日、
 山縣参軍・川村参軍・大山少将・三浦少将らは、軍議し
 て、各進撃部署を定めた。
1877年7月24日 官軍が、都城を陥る(西南戦争)
  この日、薩軍・村田指揮部隊が・・都城で大敗した。
  都城方面の戦いにおいて・・、別働第3旅団は、7月24
 日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩軍を攻撃し、
 財部を占領した。
  薩軍が、都城に退却したため、別働第3旅団は、さらに
 これを追撃し・・、都城に侵入した。
  7月24日、要所である庄内方面・財部方面が、官軍に占
 領された結果、
  都城の各方面で・・薩軍は総崩れとなった。
  この日、官軍は、都城を完全に占領した。
  これ以降、薩軍は、官軍へ投降する将兵が相次ぐもの
 の・・、
  活路を宮崎へ見出していこうとした。
  しかし、この守備に適した都城という拠点を・・官軍
 に奪取された時点で・・、
  戦局の逆転は・・ほぼ絶望的となってしまった。
1877年7月26日、『東洋奇事新報』(弘義社)、納本を怠り
 発禁となる。
1877年7月27日、別働第3旅団が、飫肥を攻めて陥落させた。
 この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。
1877年7月30日 西郷隆盛が、官軍に圧せられ、日向の高鍋
 に退いた(同日、杉之本に戦闘あり)
1877年7月31日、この日、第3旅団・第4旅団・別働第3旅団
 は、大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って、宮崎市
 街へ攻め込んで行った。
  薩軍は、増水のため・・官軍による渡河はないと油断
 していたので、抵抗できず・・、
  薩軍が、宮崎から撤退したため、官軍は、宮崎市を占
 領した。
1877年8月1日、この日、海路より新撰旅団が宮崎に到着し
 た。
  この後、一ッ瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と
 共に高鍋に向かった。
  翌・8月2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。
1877年8月3日、警察各署が、巡査へ暑気払い薬代として10
 銭ずつ下付した(ボーナスの初め)
1877年8月6日、西南戦争の別働第2旅団は、8月4日、鬼神野
 本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備してい
 た宮崎新募隊の背後を攻撃した。
  薩軍は渡川、鬼神野から退いて、
  8月6日、山蔭の守備を固めた。
  西郷隆盛は、この日、各隊長宛に教書を出し奮起を促
 した。
1877年8月7日、この日、奇兵隊三・六・十四番隊は、別働
 第2旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退した。
  官軍は、そのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。
  薩軍はこれを抑えきれず。
1877年8月8日 高知県士族の林有造が、兵器購入の計画発覚
 して、東京で捕えられた。
1877年8月14日、 官軍は、8月12日、延岡攻撃のための攻撃
 機動を開始した。
  別働第2旅団が、8月14日に延岡に突入し、薩軍は、延
 岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第3・
 4旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。
  この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は、
 自ら陣頭に立ち、官軍と雌雄を決しようとした。
  この時の薩軍(約3,000~3,500名)は、和田峠を中心
 に左翼から配置していた。
  対する官軍(約50,000名)は、山縣参軍の指揮のもと、
 延岡から北嚮に攻撃主力を部署し、
  西部の可愛岳(えのたけ)山麓には第1旅団と第3旅団
 を配置し、
  また、熊田の北部には、熊本鎮台・別働第1旅団2個中
 隊を配備し、薩軍を包囲して、殲滅しようとした。
1877年8月15日、この日の早朝、西郷は、桐野・村田新八・
 池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。
  一方、山縣参軍も樫山にて戦況を観望した。
  この様に、両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。
  当初、別働第2旅団は、堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦し
 んだ。
  これを好機と見た桐野が、決死精鋭の1隊を率いて馳せ
 下り攻撃したために、別働第2旅団は危機に陥った。
  しかし、第4旅団の左翼が進出して、別働第2旅団を
 救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。
  その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。
  やがて、官軍は、別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しよ
 うと熊本隊に迫った。
  熊本隊は、官軍を迎え撃ったが・・苦戦した。
  辺見と野村忍介が、援兵を送り熊本隊を支援したが、
 官軍は守備を突破した。
  激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍は、やがて長
 尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却
 した。
  この機に官軍は、総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙
 に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進
 めた。
1877年8月16日、この日の前日の8月15日、和田越の決戦に
 敗れた西郷軍は、長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎
 宅に本営を置いた。
  8月16日に、西郷は、解軍の令を出した。
  「我軍の窮迫、此に至る。
  今日の策は、唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。
  此際、諸隊にして、降らんとするものは降り、死せん
 とするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。
  唯其の欲する所に任ぜよ」。
  これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残
 った。
  一度は、決戦と決したが、再起を期すものもあり、選
 択に迫られた首脳は、8月17日午後4時、官軍の長井包囲
 網を脱するため、遂に、可愛岳突破を決意した。
  突破の隊編成として、
  前軍に・・河野主一郎・辺見、
  中軍に・・桐野・村田新八、
  後軍に・・中島・貴島をおき、
  池上・別府晋介は、約60名を率いて西郷を護衛した(
 「鎮西戦闘鄙言」では、村田・池上が、中軍の指揮をと
 り、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。
  この時の突囲軍は、精鋭300~500(『新編西南戦史』
 は約600名)であった。
  17日夜10時に、児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始
 め、
  翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。
  ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手
 薄であったため、西郷軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃
 を開始した。
  不意を衝かれた官軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、
 退却を余儀なくされた。
  このため西郷軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬
 3万発、砲一門を奪うことに成功した。
1877年8月17日、延岡にて薩摩軍が解散した。
  薩摩軍の将・佐々友房が、官軍に降る。
1877年8月18日 官軍が、日向を平定した。
  可愛岳を突破した西郷軍は、8月18日、鹿川分遺隊を粉
 砕し、三田井方面への進撃を決定した。
  その後、西郷軍は、8月19日には、祝子川の包囲第2線
 を破り、
  翌・8月20日に、鹿川村、中川村を落として、三田井へ
 と突き進んだ。
  8月21日、西郷軍は、三田井へ到着するが、
  ここで、桐野は、官軍による包囲が極めて厳重であり、
 地形が非常に険しいことから、薩軍の全軍が突破するこ
 とは困難であると考え、
  熊本城の奪取を提案するも、
  西郷はこれを却下し、
  8月22日深夜、西郷軍は、鹿児島へ向けて南進を開始し
 た。
  これに対し、西郷軍による可愛岳突破に衝撃を受けて
 いた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、
  西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、
 かつ機動力に長ける西郷軍の前に・・失敗に終わった。
  これは、西郷軍の行動が、始めから一定の目的に従っ
 ていたわけではなく、
  その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向
 けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したの
 は、米良に到着した後のことであったということも一因
 だった。
  8月24日、西郷軍は、七山・松ヶ平を抜け、神門に出た
 が、
  ここで、別働第2旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何と
 かこれを免れ、
  8月26日には、村所、
  8月28日には、須木を通過し、小林に入った。
  同日・8月28日、薩軍は、小林平地からの加治木進出を
 図るが、西郷軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上
 陸した第2旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。
  迂回を余儀なくされた西郷軍は、9月1日、官軍の守備
 隊を撃破して・・鹿児島に潜入した。
1877年8月18日、立志社の獄(高知ノ獄)発覚
  西南戦争の際に、西郷軍に呼応しようとして、立志社
 の社内が動揺をきたし,40余名が逮捕された(立志社の獄)。
  1877.8〜1877.11に片岡健吉が、西南戦争に際し、西郷
 軍に呼応した疑いで逮捕された(高知の獄)、
  立志社の獄(りっししゃのごく)は、1877年の西南戦
 争に乗じて、立志社の林有造や大江卓が、元老院議官・
 陸奥宗光らと共謀して、高知県にて挙兵を企てたとされ
 る事件で・・、
  1877年8月に、事件が発覚し、
  林をはじめとする首謀者や、片岡健吉ら高知在住の幹
 部が逮捕された。
  翌年・1878年8月に、大審院において有罪判決が下った。
  この事件については、立志社の指導者である板垣退助・
 後藤象二郎らは無関係で、
  片岡も、林ら過激な首謀者の巻き添えとなったとする
 見解が、『自由党史』以来の通説であるが、
  これに対して同書は、板垣監修の書であり、仮に板垣
 自身が関与したとしても、その事実を記載をするとは考
 えにくいとする史料批判や、
  林や大江の回想録が、板垣と協議した事実を記してい
 ること、
  後藤象二郎と陸奥宗光が、戦争中に板垣あるいは木戸
 孝允を司令官とした旧土佐藩士を中心とした西郷隆盛討
 伐の義勇軍を持ちかけて、一旦は、明治政府の方針とさ
 れたこと(4月15日に中止)から、
  これを、挙兵の大義名分作りのための計画とみなして
 板垣や後藤も挙兵計画に関与していたとする反論もある。
  いずれにしても、自由民権派による「第2の西南戦争」
 になる事を危惧した明治政府側は、
  板垣・後藤に対する責任追及を避けて、「一部過激派」
 の暴走と規定することで事態の収拾を図ったと言える。
  また、別史料には・・
  内務卿・大久保利通の行動も果断を極め、西郷を断固
 討つの決意を示し、
  即座に政府軍を派遣させる一方、板垣と立志社の動き
 を密偵・河野敏鎌によって探らせ、
  陸奥らの関与を察知した。
  2月15日、西郷軍は鹿児島を出発し、1週間後には熊本
 城を包囲したが、
  3月20日には、政府軍が田原坂で西郷軍を破り、形勢は
 逆転する。
  6月、林有造らは、2人の密使を鹿児島に送り込んで、
 桐野利秋と会見させたが、
  これが露見して、8月には叛乱の首謀者として林、片岡
 が捕まり、
  9月末には、西郷が自刃した。
  政府の立志社への弾圧はきびしく、
  翌年・1878年4月には、竹内綱、大江卓ら23人が、相次
 いで逮捕され、
  立志社の挙兵計画「高知の獄」は失敗に期し、
  林と大江は、10年という長期刑が下った。
  西南戦争から1年有余の1878年(明治11年)明治5月14
 日、大久保は、紀尾井坂で、石川県士族の島田一郎らに
 暗殺された。
  内務省の大久保の手文庫が開かれたが、
  中から河野敏鎌の秘密報告書が出てきた。
  その中に、陸奥が、元老院の暗号電報を利用して、大
 江や林と政府転覆の連絡をとっていたことが判明して、
  陸奥は、6月10日に捕まり、5年の刑に処せられた。
  「高知の獄」では、なぜ・・板垣や後藤象二郎は、逮
 捕を免れたのだろうか?
  これが最大の謎??
  板垣が、林に対して1万人の兵力と銃を準備すればとい
 う条件付き決起に賛成したことは事実。
  林、大江らを、政府側はきびしく追及したが、
  板垣との関与については固く否定し、
  陸奥も一切口を閉ざした。
1877年8月21日 第一回内国勧業博覧会、
  場所は、東京の上野公園で開催(日本最初の勧業博) 
  日本初の西洋式の噴水が作られる。
  第1回内国勧業博覧会の会場中央の美術館前の人工池
  そして、日本初の噴水が、9月8日に落成した。
  出品者:1万6000人、
  入場者:45万人。
  期間:8月21日~11月30日
1877年8月31日 西郷隆盛の軍が、大隈に奮闘す。
1877年8月、長崎と横浜にコレラが発生した。
1877年9月1日 西郷隆盛が、退いて鹿児島に入り、本営を城
 山に置いた。
  鹿児島の郷土の民が、これに応じ士気振う。
  9月1日、鹿児島入りすると、辺見は、私学校を守って
 いた200名の官軍を排除して、私学校を占領し、突囲軍の
 主力は、城山を中心に布陣した。
  このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、
 住民も協力していたことから、
  西郷軍は、鹿児島市街をほぼ制圧し、
  官軍は、米倉の本営を守るだけとなった。
  しかし、9月3日に、官軍は形勢を逆転した。
  城山周辺の薩軍前方部隊を痛撃し、駆逐した。
  反撃に出た西郷軍は、9月4日、貴島率いる決死隊が、
 米倉を急襲したが、
  急遽、米倉へ駆けつけた三好少将率いる第2旅団に阻ま
 れ、貴島以下決死隊が一掃された。
  こうして官軍は、9月6日、城山包囲態勢を完成させた。
  この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)とな
 っていた。
  編制を小隊(各隊20~30名)に改めた。
  そして、諸隊を部署した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2016年5月5日木曜日

(増補版)345E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年5月~1877年7月)

題:(増補版)345E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年5月~1877年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年5月26日、西南戦争、鹿児島方面の戦いにおいて、5
 月24日、別働第1旅団と別働第3旅団は、大挙攻勢に出て、
 涙橋付近で交戦する一方、
  軍艦に分乗した兵が、背後を衝き、薩軍へ大打撃を与
 え、敗走させた。
  逆襲した薩軍と、壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、
 暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に、弾薬乏しく
 なった薩軍は耐えきれず、吉野へ退却した。
  この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は、鹿児島方面
 で行なわれた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷
 者を出した。
  翌・5月25日、第4旅団は、下田街道を南下し、坂元・
 催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃
 し、吉野へと追撃して行った。
  5月26日には、同旅団が、鳥越道と桂山の二方から前進
 し、攻撃したところ、薩軍は、抵抗することなく川上方
 面へ退却した。
  そして、この日、木戸孝允(きどこういん、たかよし)
 が病没した(45歳)。
  長州生まれ、通称を桂小五郎といった・・、
  この人は、今、必死に戦いをしている西郷隆盛と、そ
 して、大久保利通らと、薩長連合の密約を結び、
  そして、協力して倒幕勢力の結集を計った人だった。
  この縁ある二人の戦争が、激戦が、今、行なわれてい
 る・・この様な時に没したのだった。
  木戸は、「五箇条の御誓文」の起草にも参加し・・、
  1873年に、岩倉使節団の一員としても参加し、帰国後、
 西郷隆盛の主張する征韓論に、岩倉・大久保らとともに
 反対した・・、
  そして、西郷を退けた、
  そして、下野をさせた・・人だった。
  しかし、この直後に成立した大久保の独裁政権に対し
 て、木戸は・・批判的立場を示した。
  そして、ついに、1874年、参議を辞任した・・
  が、しかし・・、
  翌年の1875年に、大阪会議において、大久保らの政府
 主流派に妥協する・・そして、再度、参議に復帰する。
  そして、1877年に、病気により・・没した。
  この木戸が没したこの頃の、西南の役での、西郷の地
 元の鹿児島での戦いがある。
  涙橋の戦いとして、その秘話が伝わっている。
  涙橋・・鹿児島市電の「涙橋電停」下車し、1分の所の
 川沿いに石塔が立つ。
  「涙橋決戦の碑」とある。
  涙橋は、旧谷山街道の新川に架かる小さな橋。
  旧薩摩藩時代に、吉野実方(さねかた)にあった処刑
 場を、この橋の先の堺迫門(さかいせと)、今の二軒茶
 屋の付近の谷間に移した。
  刑場へ向かう罪人と家族は、この橋で泣き、そして、
 涙でこの世の別れをした・・涙橋の由来である。
  このいわれの涙橋、西郷軍が、この故郷の地にたどり
 着いたときには、この故郷の地のほとんどは政府軍によ
 って占領されていたという・・
  ここの地で、西郷軍の枕崎出身の今給黎(いまきいれ)
 久清以下213名の兵士が、
  谷山方面へ向かうため、武之橋方面からと、脇田方面
 から迫る政府軍と戦い、
  旧式の兵器や弾薬の不足にもかかわらず奮戦し、
  戦いは6時間にもおよぶ激戦の末に・・多くの戦死者を
 出した。
  そして、平田新左衛門ら90名の戦死者を出し、大敗し、
 柴原方面へ退却して行った。
  碑の建立は、勇敢に戦い、そして、散った兵士らの供
 養の意味もあった。
1877年5月27日 矢筈嶽(やはずだけ)の激闘(西南戦争)
1877年5月28日、この日の明け方、官軍が、舞床の鵬翼隊
 三番中隊を襲った。
  また、この頃、桐野は、宮崎から鹿児島方面、および、
 豊後等の軍を統監していたが、
  ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日
 に、軍務所と改称した。
  別働第2旅団の侵攻で、危険が目前に迫った人吉では、
 村田新八らが相談して安全をはかるために、
  5月29日、池上に随行させて、狙撃隊等2,000名の護衛
 で、西郷隆盛を、宮崎の軍務所へ移動させた。
  5月31日に、西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍
 の本営となった。
  そして、軍票(西郷札)などが作られ、財政の建て直
 しがはかられた。
1877年5月29日、官軍は、この日に、再び、鵬翼隊三番中隊
 右半隊を攻撃した。
  薩軍は、塁を捨てて後退したが、
  鵬翼隊三番中隊左小隊が、よく奮戦し、この活躍によ
 り塁を取り返した。
  そして、銃器・弾薬を得た。
  この夜、三方堺の鵬翼隊二番中隊も襲われ、弾薬不足
 のため背進した。
1877年5月31日、薩摩軍が敗れて、ことごとく肥後人吉に退
 いた(西南戦争)
  5月30日の夜明け頃、官軍が、程角左翼の塁を攻撃し、
 薩軍は敗北した。
  官軍は、勢いに乗じて干城隊八番中隊・振武隊十六番
 小隊を攻めた。
  薩軍各隊は、大いに苦戦した。
  そして、次々と兵を原田村に引き揚げた。
  激しい攻防が続いた、
  勝敗は決まらず・・夜になった。
  翌日・5月31日、薩軍各隊は、原田村に兵を配置した。 
  しかし、翌日・6月1日は激戦だった・・、
1877年(明治10年)5月、秋山好古(あきやまよしふる)が、
 陸軍士官学校に入学した。
  新しい日本が生まれる・・生みの戦いが行われている
 この時・・、
  次の時代の・・日本の人材が・・日本に生まれようと
 していた。
  「坂の上の雲」のナレーションは・・、以下の様な事
 を言っている・・、
  この頃の日本・・・、
  まことに小さな国が、開花期を迎えようとしていた。
  小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなか
 ったであろう。
  産業といえば農業しかなく、
  人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族し
 かなかった。
  明治維新によって、日本人は初めて近代的な「国家」
 というものを持った。
  誰もが「国民」になった。
  不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史
 上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。
  この痛々しいばかりの昂揚が分らなければ、この段階
 の歴史は分からない。
  社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定
 の資格を取るために、必要な記憶力と根気さえあれば、
 博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。
  この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
  今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産
 業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海
 軍を持とうとした。
  陸軍も同様である。
  財政の成り立つはずがない。
  が、ともかくも近代国家をつくりあげげようというの
 は、もともと維新成立の大目的であったし、
  維新後の新国民達の少年のような希望であった。
  この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける、最
 も古い大国の1つロシアと対決し、どのようの振る舞った
 かという物語である。
  主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということ
 になるかもしれない。
  ともかくも、我々は3人の人物のあとを追わねばならな
 い。
  四国は伊予松山に、三人の男がいた。
  この古い城下町に生まれた秋山真之(あきやまさねゆ
 き)は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に
 近いといわれた
  バルチック艦隊を滅ぼすにいたる作戦を立て、それを
 実施した。
  その兄の秋山好古(あきやまよしふる)は、日本の騎
 兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を
 破るという奇蹟を遂げた。
  若い日本、彼らは、明治という時代人の体質で、前を
 のみ見つめながら歩く。
  https://www.youtube.com/watch?v=j6Jwc4S3idI
  https://www.youtube.com/watch?v=sGPnbt-oeMo
1877年5月、永野万蔵(ながのまんぞう、カナダ移住が記録
 されている最初の日本人)が、横浜から英国船で、カナ
 ダのブリティッシュ・コロンビア州のニュー・ウエスト
 ミンスターに密入国した。
  永野万蔵は、長崎県の南高口之津村の生まれで、日本
 人として初めてカナダに移民した人だが・・、
  後に、フレザー川の河口で鮭漁をはじめ、州都ビクト
 リアでレストランやホテル経営し、
  また、その後に、日本向けの輸出塩ざけ製造会社を設
 立し大成功した。
  一躍、大富豪となって、「塩ざけキング」の異名をと
 った。
  1922年(大正11年)に至り、ビクトリア市のメインス
 トリートにあるJ・M・NAGANO&CO.のビルが火災となり、
  全財産を失い、2人の子供をカナダに残し、妻・多誉子
 とともに日本へ帰国した。
  そして、1924年(大正13年)5月21日に没した。
1877年6月1日、日本が、万国郵便連合(UPI)に加盟した。
  萬國郵便連合條約に加盟、調印し、日本の郵便制度が
 公式に国際化した。
1877年6月1日、西南戦争・・この日の早朝、諸道の官軍が、
 人吉に向かって進撃した。
  諸方面の薩軍は、すべてが敗れた。
  人吉や大畑に退却した。
1877年6月3日、官軍の二方面からの大関山への総攻撃が始
 まった。
  薩軍は、大口方面へ後退した。
1877年6月7日、久木野が陥落し、薩軍は、小河内方面に退
 却した。
1877年6月9日、立志社が、「國會開設建白」 請願した。
  立志社は、1874年(明治7年)、土佐において生まれた
 民間の結社であるが・・、
  1877年(明治10年)2月に、西南戦争が勃発すると、社
 内にはこれに同調して挙兵を企てる一派が生まれた。
  しかし、一方、植木枝盛・吉田正春・竹内綱ら武力蜂
 起に反対する一派は、天皇陛下への上申書として「立志
 社建白」を作成した。
  その内容は、内閣専制や兵制・税制・外交の失敗など
 を挙げて政府を批判し、
  そして、地租の軽減や徴兵制度の廃止などを求めると
 ともに、民撰議院の設立、および、立憲政体の確立を提
 案・要求するものであった。
  立志社社長の片岡健吉が、総代として、この建白書を
 京都行在所に提出したが、
  「不遜ノ件」を理由として数日後に却下された。
1877年6月12日、人吉方面撤退後の、6月12日、村田新八は、
 都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍諸
 隊を集め、都城へ進撃する官軍に対する防備を固めた。
1877年6月13日、山野が陥落した。
  官軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第2旅団は、飯
 野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に
 攻撃を加えた。
  結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。
1877年6月17日 参軍・山県有朋は、八代に諸将を集めて、
 都城進撃の軍議をした。
  熊本鎮台兵は、三国峠を占拠した。
1877年6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率い
 る辺見は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。
  だが、北東の人吉からの別働第2旅団の攻撃、北西の山
 野からの別働第3旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が
 別働第2旅団の手に落ちた。
  結果、両者の間の高熊山に籠もっていた熊本隊は完全
 に包囲された。
1877年6月19日 万国郵便条約が実施された。
1877年6月19日、大森貝塚の発見
  アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横
 浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてからすぐ。
  崖に貝殻が積み重なっている(露出)のを列車の窓か
 ら発見する(6月20日説あり)
  モースは、生物学を教えることになった東京大学の教
 え子たちと9月16日に至り、発掘調査を開始した。
  日本初の近代的な考古学的調査だった。
  あわただしく5日間で論文を執筆した。
  後に、科学雑誌「ネイチャー」の12/19号に、大森貝塚
 発見の記事を投稿した。
  モースによる発掘は、日本の考古学・人類学の幕開け
 となった。発掘報告書(1879年)
1877年6月20日、官軍は、この日、高熊山の熊本隊と雷撃隊
 が占領する大口に攻撃を加えた。
  この時の戦闘では塹壕に拠る抜刀白兵戦が繰り広げら
 れた。
  しかし、圧倒的な官軍の物量の前に、薩軍の急激な士
 気の低下があった。
1877年6月25日、この日、雷撃隊は、大口の南に布陣し、曽
 木、菱刈にて官軍と戦ったが、戦いは効を奏せず・・
  相良率いる行進隊と中島率いる振武隊と合流し、南へ
 と後退していった。
  ここに大口方面における約2か月もの戦いに幕は下りた。
1877年6月29日、大口南部の薩軍を退けた川路少将率いる別
 働第3旅団は、6月23日、宮之城に入り川内川の対岸およ
 び下流の薩軍を攻撃した。
  一斉突撃を受けた薩軍は、激戦の末、遂に鹿児島街道
 に向かって退却した。
  別働第3旅団の部隊は、翌・6月24日には、催馬楽に至
 り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には、ことごと
 く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。
  こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。
  退却した薩軍は、都城に集結していると予測した川村
 参軍は、6月29日、別働第1旅団を海上から垂水・高須へ、
 第4旅団を吉田・蒲生へ、別働第3旅団を岡原・比志島経
 由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。
  また、海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第4旅
 団の1個大隊を残した。
1877年6月30日、勝海舟、長男の小鹿、米国アナポリス海軍
 大学校卒業(氷川清話)
1877年6月30日、初の交通規則の制定、
  泥酔者の馬車運転を禁止 
1877年6月、電話機が輸入された。
  電話機2台が輸入し、使用した事例・・、
  輸入した電話機が、赤坂御所と青山御所の間に架設し
 た電話線で結ばれ、 明治天皇陛下、皇后陛下・皇太后の
 御三方で初通話をして戴いた。
  1889年(明治22年)に、東京~熱海間で商用実験が行
 われ、翌・1890年から加入者を募集し、東京~横浜間で
 電話交換業務が開始された。
1877年7月9日 外国渡船に国旗を掲げしむ。
  既に、1860年に、アメリカに行った咸臨丸に日章旗(
 日の丸)を掲げて航行し、日米修好通常条約の批准書交
 換のため、アメリカ合衆国へ派遣されているが、
  船舶法(せんぱくほう、明治32年3月8日法律第46号)
  「日本船舶ハ法令ノ定ムル所ニ従ヒ日本ノ国旗ヲ掲ケ
 且其名称、船籍港、番号、総トン数、喫水ノ尺度其他ノ
 事項ヲ標示スルコトヲ要ス」
  「日本船舶ハ法令ニ別段ノ定アル場合ヲ除ク外船舶国
 籍証書又ハ仮船舶国籍証書ヲ請受ケタル後ニ非サレハ日
 本ノ国旗ヲ掲ケ又ハ之ヲ航行セシムルコトヲ得ス」
  また、船舶法施行規則の、第五章 国旗及船舶ノ表示
  「第四十三条 船舶ハ左ノ場合ニ於テ国旗ヲ後部ニ掲
 クヘシ」
  また、因みに、
  戦後のアメリカ軍などのGHQの・・、占領軍最高司令=
 ダグラス・マッカーサー元帥が、
  新憲法の内容から「平和を求める国家」に最もふさわ
 しい国旗は、「日の丸」であると、一方的に定義した。
  そして、その平和を求める象徴として国旗「日の丸」
 を、新憲法の施行日に、三権の長である「国会」「首相
 官邸」「最高裁判所」に、
  今後、毎日、掲揚せよと吉田茂首相に命令した。
..
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2016年5月4日水曜日

(増補版)344E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年3月~1877年5月)

題:(増補版)344E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年3月~1877年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年3月21日、西南戦争において、田原坂の攻防戦で敗
 れた薩軍が、この日に、早くも有明海・吉次峠・植木・
 隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。
  こうすることによって、官軍の熊本への道を遮断でき、
 攻撃を遅らせられた。
  3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)
 は、この戦争の分水嶺になった激戦だった。
  激戦のこの戦場の地は・・現在でも・・、
  戦争から100年以上たった今でも、現地では、当時の銃
 弾が、田畑や斜面からしばしば発見される。
  薩軍では、副司令格であった一番大隊指揮長・篠原国
 幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。
  官軍も、3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。
  田原坂の激戦は、官軍の小隊長30名のうち11名が命を
 落としたことからも、その激戦の凄さが知れる。
  こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は、田原
 坂の戦いで薩軍を圧倒し、
  着実に、熊本鎮台救援の第一歩を踏み出していった。
1877年3月21日、岩村通俊(いわむらみちとし、土佐高知藩
 士、佐賀の乱に際し大久保利通に随員し、乱を鎮圧した)
 を鹿児島県令に任命した。
  この後の西南戦争後、県令として処置に手腕を振るっ
 た。
1877年3月23日、官軍が、植木・木留を攻撃し、一進一退の
 陣地戦に突入した。
1877年3月24日、『団々珍聞(まるまるちんぶん、政治風刺
 雑誌)』が創刊した。
  戯画、戯文で藩閥政府を攻撃し、自由民権思想の鼓吹
 (こすい、元気づけ、励ますこと)に努めた。
  しばしば発売禁止や発行停止の弾圧を受けた。
  以後30年間「マルチン」の愛称で親しまれ、人気を得
 た。
1877年3月25日、植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移
 した。
  また、官軍の衝背軍が上陸した。
  3月24日、長崎を出発した別働第2旅団(山田少将)・
 別働第3旅団(川路少将)は、25日午後、八代に上陸した。
  この時、一旦各旅団の名称が改められたが、後29日に、
 再び改称された。
1877年3月26日、熊本城長囲において、長囲軍が減少した
 薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて、水責めを行うべ
 く、3月26日、石塘堰止を実行し、坪井川・井芹川の水
 を城の周囲に引き込んだ。
  これによって熊本城の東北、および、西部の田畑は、
 一大湖水に変じた。
  この策によって、薩軍は、城の東北及び西部に配する
 兵を数百名節約できたのだが、
  その一方、鎮台に対し城の西部を守る兵の削減を可能
 とさせ、結果的には鎮台側を益することになってしまっ
 た。
  また、小川方面の戦いでは・・、
  3月26日、黒田参軍は、別働第1旅団を左翼、別働第2旅
 団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと
 三方から小川方面の薩軍を攻撃し、激戦の末、薩軍を撃
 退し、小川を占領した。
1877年3月30日、官軍主力が、三ノ岳の熊本隊を攻撃した。
  また、松橋付近の戦いでは・・、
  3月30日、黒田参軍は、別働第3旅団に娑婆神嶺、別働
 第1旅団・別働第2旅団に松橋を攻撃させた。
1877年3月31日、明治天皇陛下が、大阪の陸軍病院に、西南
 の役の傷病兵を親問された。
1877年3月、西南の役が起きると、臨時海事事務局が神戸か
 ら長崎に移った。
  兵員、軍需品輸送のため、長崎輸送局が置かれた(後
 に、陸軍運輸局と海軍運輸局に分かれる)
  軍団病院や、海軍仮病院が、市内に置かれ、騒然とな
 った。
1877年3月、少年の投稿専門誌『頴才新誌(えんさいしんし)』
 が創刊した。
  最初、修身や立身出世を扱った教科書風の紋切型が多
 かったが、次第に、文学色を濃くしていった。
  尾崎紅葉や田山花袋らの明治の文学者の多くが本誌の
 愛読者であり、また、投稿者で、文学愛好の青少年に投
 稿を習慣づけて、明治文学の基盤づくりに寄与した。
1877年4月1日、半高山、吉次峠を占領した。
  また、宇土・堅志田・緑川の戦いでは・・、
  この日、別働第1旅団が、薩軍の夜襲隊を追撃して、
 宇土を占領した。
1877年4月2日、官軍が、木留をも占領し、薩軍は、辺田野
 に後退した。
  辺田野・木留の集落は炎上した。
1877年4月5日、官軍の本営にて軍議が開かれた。
1877年4月6日、熊本協同隊・宮崎八郎(みやざきはちろう、
 自由民権運動家)が戦死。
  西南の役が起きると協同隊を組織し、西郷に味方した。
  1875年(明治8年)2月の愛国者結成大会に参加した後、
 熊本で「民約論」を教科書として植木学校を創設し、県
 民会開設運動を展開した。
1877年4月8日、熊本城の包囲網が破れ、奥少佐の率いる第1
 大隊は、他の籠城している部隊の支援を受けつつ、この
 日の黎明、突撃を開始した。
  攻囲していた西郷軍は不意を突かれ、一時的に混乱し
 た。
  これなら突破できると思った奥少佐の頬に、火箸を当
 てられたような感覚が走った。
  左手で頬を抑えると被弾していて、そこから出血して
 いた。
  手で出血を迎えつつ、奥少佐は第1大隊の指揮を執り、
 西郷軍を突破していった。
  その勢いのまま、その日のうちに第1大隊は背面軍の
 陣地にたどり着き、宇土に達した。
  また、4月8日、辺田野方面は激戦となり、官軍は、萩
 迫の柿木台場を占領した。
  鎮台兵の出撃について・・、
  籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台
 は、余力があるうちに、征討軍との連絡を開こうとして、
 南方の川尻方面に出撃することにした。
  隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、
 及び、予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。
  侵襲隊が、安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は
 前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て、宇土の衝
 背軍と連絡した。
  一方、侵襲隊は、薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米
 720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。
1877年4月12日、東京大學が創立された。
  東京開成学校と東京医学校を合併し、東京大学が設立。
  東京大学開校(東京開成学校と医学校が併合、東京帝
 国大学の前身)
  漱石ゆかりの地「東京帝国大学」  
  帝国大学発足(1886年)
1877年4月12日、官軍の黒田参軍は、衝背軍を部署した。
  そして、各方面への一斉進撃を企図し、
  4月12日、別働第3、第1旅団は一斉に攻撃を開始した。
  御船が、官軍に占領された。
1877年4月13日、黒田清隆率いる政府軍が、熊本城に入る。
 (4月14日説あり)
  衝背軍の熊本入城は、4月13日、別働第2旅団の山川浩
 中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機
 逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて
 熊本城を目指して突入し、遂に城下に達した。
  城中皆蘇生した思いで喜んだ。
1877年4月14日、小石川植物園を東京大学に附す。
1877年4月15日、薩軍は、4月12日に、最後の反撃をしたが、
  4月15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方
 面へ退いた。
  これを追って官軍は大進撃を開始した。
1877年4月16日、青年よ大志を抱け
  クラーク博士が、北海道月寒村島松(現=北広島市)
 の島松駅逓所で、札幌農学校1期生との別れの際に、「
 子供等よ、此老人の如く大望にあれ」(Boys, be
 ambitious like this old man.)と発したとされる。
  5月に離日。  来日は(1876年)
1877年4月17日、薩軍諸隊が、熊本城・植木から逐次撤退し
 てきた4月17日のこの日に、桐野らは、本営木山を中心に、
 右翼は、大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は、御船に亘
 る20km余りの新たな防衛線を築いた。
  そして、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅
 させる作戦をとることにした。
1877年4月20日、別働第5旅団の主力が、4月20日、保田窪
 地区の薩軍を攻めた。
  午後3時には、猛烈な火力を集中して、薩軍の先陣を突
 破し、後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左
 翼部隊が総崩れとなった。
  腹背に攻撃を受けた官軍は、漸く包囲を脱して後退し
 た。
  この結果、別働第5旅団と熊本鎮台の連絡は、夜になっ
 ても絶たれたままになった。
1877年4月21日、この日、薩軍は、矢部浜町の軍議で、村田
 新八・池上が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議
 に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩
 摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその
 根拠地とすることなどを決めた。
1877年4月22日 参軍・山県有朋が、各旅団長を木山に招き、
 謀議を凝らす。
  また、この日に、西郷隆盛が、人吉に退く。
1877年4月23日、山県有朋が、西郷隆盛に書面を送り、その
 立場に同情し、投降自決を勧告した。
1877年4月27日、参軍・川村純義らが、海路鹿児島に至り、
 兵を各地に配置した(西南戦争)。
  また、4月27日に、人吉盆地に入った薩軍は、本営を
 人吉に置いた。
  4月26日~30日、薩軍は、球磨盆地の人吉で、浜町(矢
 部)で決めた新戦略の元、再編した部隊で行動を始めた。
  球磨盆地の出口に部隊を配置して守りをかため、豊後・
 大口・鹿児島へ隊を送り政府軍を牽制し、
  その間に兵と物資を蓄え、機を見て打って出るという
 ものだった。
  人吉および球磨盆地一帯は、薩軍に協力する人吉隊を
 出していた事。
  また、幕末・相良藩時代の人吉大火(寅助火事)の際に
 は薩摩藩から多大な援助を受け、それを恩義に感じてい
 た領民が多かった事。
  さらに維新戦争では、薩摩藩配下で共に戦った仲でも
 あったので、薩軍(鹿児島士族)に好意的であった。
  しかし、薩軍が、球磨盆地へ来た頃は、すでに政府軍
 優勢は伝わっており、薩軍に協力はしても募兵に応じる
 者は少なかった。
  薩軍をさらに悩ませたのが兵の規律低下だった。
  歴戦の勇士は戦死し、生き残った薩兵は心身ともに疲
 れ切っており、軍を脱走する者が出始めていた。
  また、食糧の欠乏もあった。
1877年4月28日、この日に江代に着いた薩軍の桐野は、ここ
 に出張本営を置き、軍議を開いた。
  江代軍議で決められた事は、人吉に病院や弾薬製作所
 を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐
 次実行に移された。
  この時、桐野が、人吉を中心に南北に両翼を張る形で
 薩軍を配置した。
  4月27日、人吉まで退却した西郷らに続き、桐野は、江
 代まで退却し、再びここで軍議して諸方面の部署を定め、
 新たに編制した中隊を各地に派遣した。
  以後しばらく桐野は、人吉本営で指揮していたが、戦
 況が不利と見て、軍を立て直すべく宮崎に赴いた。
1877年4月、大阪に、小学校の夜学が開設された。
  京都は教育の進んだところで、明治維新前より私塾・
 寺子屋も多かった。
  京都市は、1869年(明治2年)に、柳池小学校(日本初)
 を筆頭に全国に先駆けて64校の小学校を創設した。
  明治4年に文部省が創設されたが、それ以前の小学校創
 設だった。
  明治4年に京都の教育状況を視察した福沢諭吉は、
  「民間の学校を建て人民に教育せんとするは、余輩の
 積年の志なりしに、
  今、京都に来たりて、その実際を見たる日、恰(あたか)
 も故郷に省りて知己に会うが如し。
  およそ世間の人この学校を見て感ぜられるは、報知の
 心無きと言うべきなり・・・」と言っている。
  その京都の南浜小学校(第2尋常小学校  字丹後)は、
 1876年(明治9年)4月、校内に夜学生を収容し教授・・と
 の記録がある。
  働く子供のための措置だったという。
1877年5月1日、博愛社(赤十字社の前身が創立された。
  元老院議官:佐野常民や大給恒らが、博愛社(日本赤十
 字社)を興した。
1877年5月1日~9日、4月の末の薩軍は、政府軍の動きが緩
 やかな事もあって、わずかな休息も取ることが出来た。
  しかし、5月に入ると、薩軍の休息もそう長くは続かな
 かった。
  城東会戦以後緩やかだった政府軍は、5月に入って一気
 に動き始め熊本・鹿児島(宮崎)・大分に展開した。
  人吉攻撃の中核・別道第2旅団(司令官:山田顕義少将)
 は、球磨盆地へ入る7街道から攻め込む作戦をとった。
  前衛隊が薩軍の守りが厚い球磨川道・佐敷道から攻め、
 薩軍・破竹・常山・鵬翼・正義の4隊と接触。
  球磨盆地へ入る街道はいずれも難所の連続で、大部隊
 が一気に通るには困難な地形である。
  薩軍は、各街道沿いの要所に部隊を置き政府軍を待ち
 かまえた。
  政府軍は各地で敗退。
  鵬翼隊は大口の雷撃隊と連携し、佐敷へ攻め込んだ。
  しかし、薩軍の攻勢もここまでだった。
  一度に大部隊は送れない状況下であっても、政府軍は、
 兵と物資を絶え間なく動員出来る力があるが、薩軍は消
 耗を補う事が出来なかった。
  また精鋭・有能な指揮官を田原坂以来の戦いで失い、か
 つてほどの勢いがなかった。
  政府軍第2旅団が八代・水俣へ増援に入る頃から、政
 府軍優勢が色濃くなって行った。
1877年5月8日、この日、辺見・河野主一郎・平野・淵辺は
 それぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4個隊を率い
 て神瀬箙瀬方面に向かった。
  官軍との戦闘は、翌日の5月9日に始まったが、
  5月15日には、破竹隊の赤塚源太郎以下1個中隊が官軍
 に下る(降伏)という事件が起きた。
  これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら
 6月頃まで続いた。
1877年5月9日、久木野・山野を手に入れた辺見は、5月9日、
 自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩
 境を越えて追撃した。
  5月11日、雷撃隊は、水俣の間近まで兵を進め、大関山
 から久木野に布陣した。
  人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺率いる
 鵬翼隊6個中隊(約600名)も佐敷を攻撃した。
  また、池辺率いる熊本隊(約1500名)も矢筈岳・鬼岳
 に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せた。
  5月12日、鵬翼隊は、佐敷で敗れたが、雷撃隊は圧倒的
 に優る官軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわ
 れるほどの奮戦をした。
  これを見た官軍は増援を決定し、第3旅団を佐敷へ、第
 2旅団を水俣へ派遣した
1877年5月14日、人好しの攻防戦において・・、
  4月30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田
 吉次は頭治などそれぞれ要地を守備したが、
  5月3日から7日までの宮藤の戦い、
  5月10日から14日までの平瀬の戦いで、
  官軍は、中村中佐の活躍によりこれらを敗走させるこ
 とに成功した。
1877年5月16日、大野方面は、この日、官軍が、一ノ瀬の鵬
 翼隊五番中隊を攻撃した。
  薩軍は苦戦したが、大野からきた干城隊三番中隊の参
 戦により官軍を退けることができた。
1877年5月18日 西南戦争による九州の人心鎮定のため、東
 京より巡査700名を派遣した。
1877年5月20日、別働第3旅団が久木野に進入した。
1877年5月23日 軍用に使用する軽気球が、東京築地の海軍
 省練兵所で揚げられる
1877年5月23日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の
 薩軍を次々と破り、大野に進入した。
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2016年5月3日火曜日

(増補版)343E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年2月~1877年3月)

題:(増補版)343E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年2月~1877年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1877年2月15日、西南戦争始まる(西郷隆盛が挙兵) 
  この日は、60年ぶりと言われる大雪だった。
  この大雪の中、薩軍の一番大隊が、鹿児島から熊本方
 面へ向け先発した。
  以後、順次、大隊が出発した。
  2月17日に、西郷隆盛らは、兵1万5,000人を率いて、政
 府尋問と称し熊本へ向かい、東上した。
  これを見送りに行った桂久武は、装備を心配したとい
 う。
  そのため、西郷への友情と責務から、急遽、従軍した
 という。
  熊本鎮台を目指して鹿児島を発った隊には、九州各地
 の不平士族も合流し、総勢は4万余となった。
  一方、政府軍は、有栖川宮を征討総督に任命し、
  陸軍は、山縣有朋中将、海軍は、川村純義中将に指揮
 を執らせた。
  政府の兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送のため、助成を
 受けている三菱に対して、社船の徴用が命じられた。
  三菱は、定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸
 送に注ぎ込んだ。
  そして、この後・・、
  西郷軍は、熊本鎮台を攻めあぐみ、
  田原坂で壮絶な戦いを展開し、
  ついに、敗走する事になって行く、
  そして、宮崎県の各地を転戦する。
  明治天皇陛下は、京都に赴かれ、戦況の報告を受けら
 れたりし、
  天皇陛下が、東京に戻られるのは、7月末に至る。
  その頃になってやっと、政府軍の勝利が見えて来た。
  陛下は、神戸から、三菱社船の広島丸で東京に戻られ
 た。
  西郷隆盛は、鹿児島の城山で、9月24日、自刀する事に
 なる。
1877年2月15日 偕行社(陸軍将校組織)が創立された。
1877年2月18日 西南戦争で、西郷軍に備えて熊本城外の民
 家が焼かれた。
  そして、何故か?この次の日、熊本城からも火が発す
 る。
1877年2月19日、西郷軍の出兵の報を受けた政府は、この日、
 鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を
 決定した。
  そしてまた、この日、西南戦争に関する流言・噂話の
 新聞掲載を禁止した。
  この勃発した西南戦争の戦費を、政府は、紙幣の増発
 でまかなった。
  そのため、膨大な紙幣が流通するようになった。
  紙幣の価値下落が起きた。
  明治政府の発行紙幣に対する信用が、大きく揺らいだ。
1877年2月19日、不審火発生
  熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、
  烈風の中、櫓に延焼し、天守までも焼失した。
  この火災の原因は今もって不明(ただし、官軍による
 自焼説が有力)である。
1877年2月19日、文部省布達により、長崎英語学校が廃止と
 なった。
  また、同時廃止は、「東京女学校」、「愛知、広島、
 新潟の各師範学校」、「愛知、広島、新潟、宮城の各
 英語学校」。
  幕末から維新にかけての外国語熱が峠を越した。
  英語熱は衰微して行った。
  そして、この後も、多くの外国語学校が減少傾向を示
 した。
  長崎県令・北島は、県が英語学校の土地、建物と書籍、
 器具頭を文部省より譲受けることで存続を図ろうとした。
  1878年(明治11年)3月3日、文部省より長崎県に移管
 され、長崎英語学校は県の所轄として存続した。
  3月22日、長崎県立長崎中学校と改称し、中学校として
 再出発した。
1877年2月20日、この日、薩軍諸隊が、熊本県川尻に到着し
 始めた。
  まもなく、熊本鎮台から派遣された偵察隊が、薩軍の
 隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。
  熊本鎮台からの攻撃を予想していなかった薩軍は、
 相次いで大隊が川尻に到着した21日夜、川尻で軍議を開
 いた。
  軍議では、「熊本に抑えを置き、主力東上の策」と、
 「全軍による熊本城強襲策」が対立したが、
  強襲策が採用された。
1877年2月21日、この日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍
 の大隊は順次熊本に到着し、熊本城を包囲し強襲した。
  この時の戦力比は、薩軍約14,000人に対して、鎮台軍
 が約4,000人であった。
1877年2月22日 「東京日日新聞」の社長・福地源一郎が、
 軍団御用係の名目で、西南戦争従軍のため出発した。
  福地源一郎・犬養毅が、西南戦争の報道で話題となる。
1877年2月22日、熊本城攻防戦
  西郷軍が、熊本城を包囲し強襲。
  この日、乃木希典少佐が、連隊旗を奪われた。
  夕刻、薩軍の伊東隊の岩切正九郎が、官軍の歩兵第14
 連隊(乃木希典少佐)の軍旗を分捕った。
  一方、総攻撃された熊本城は堅城だった。
  この日の状況から、簡単には攻め落とせないとみなさ
 れた。
  深夜に開かれた再軍議で、熊本城を強襲する一方、一
 部は「小倉を電撃すべし」と決した。
  翌・2月23日に、池上が、村田・深見らの小隊を率いて
 小倉へ向けて出発した。
  しかし、途中で激戦の銃声を聞いて池上は、田原へ転
 進した。
  小倉へは、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。
  熊本城を攻める薩軍は、大砲が少なく、また、装備の
 劣った小銃だった。
  一方、堅城の熊本城に籠もる政府軍は、優勢な大砲と
 小銃で、また、豊富な弾薬を有していた。
  この様な鎮台を攻めることは、無謀この上もない作戦
 だった。
  この戦いの結果、薩軍は、剽悍(ひょうかん、すばや
 く強い)な士の多くを、この攻城戦で消耗してしまった。
  2月24日以降は、膠着状態の対峙状態となった。
  この様な中で、これ以後、官軍が続々と到着するだろ
 うことが予想された。
  そして、予想通り官軍が到着すると共に、戦線は拡大
 した。
  2月20日~27日には、熊本方面へ、
  3月1日~31日には、田原・吉次方面へ、
  3月10日~4月15日には、鳥巣方面へ、
  3月4日~4月15日には、植木・木留方面で激しい戦闘が
 行われた。
  この様な戦闘の中に、薩軍に加担した九州諸県の各隊
 が多くあった。
  熊本隊:1500名、協同隊:500名、滝口隊:200名、
  飫肥隊:800名、佐土原隊:400名、人吉隊:150名、
  都城隊:250名、報国隊:120名、高鍋隊:1,120名、
  中津隊:150名、延岡隊:1,000名・・などだった。
1877年2月23日 東京・名古屋・大阪三鎮台に令して、第二
 後備軍を召集した。
1877年2月25日、参軍・山県有朋、陸軍少将・三浦梧桜らが、
 博多に本営を設置した。
1877年2月25日、西郷隆盛、桐野利秋、篠原国幹らの官位を
 剥奪した。
  そして、その謀反を正式に布告した。
1877年2月26日、稲荷山確保を巡る戦いが行われた。
  ここを巡る争奪戦が、西南戦争の最初の天王山と言わ
 れている。
  あまりにもの激戦で、弾薬不足も出る部隊もあった。
  敵前渡河の強行策も行われたりした。
  官軍も、あまりにもの疲労で追撃できずという状況が
 起きた。
  この戦いでも、薩軍の有力諸将が戦死した。
  この様な激戦の中、伍長・谷村計介は、高瀬の官軍へ
 の使者として、命を賭して、熊本城を脱出した。
1877年2月27日、薩摩軍が大挙して肥後の高瀬において、官
 軍と戦う(熊本城兵は利非ず)
  連絡を取り合って、官軍を挟撃しようとするが、突然、
 の遭遇戦が展開するという事もあった。
1877年2月28日、伍長・谷村計介は、薩軍に捕われるも脱出
 し、漸く高瀬の官軍に辿り着く(薩軍と疑われ、船隈に
 連行)
  この日、熊本県阿蘇谷で農民3000人が暴動を起こす。
1877年3月1日~3月31日、現在の熊本県熊本市北区植木町大
 字豊岡で『田原坂・吉次峠の激戦』が繰り広げられた。
  春先で冷え込みが酷く、雨も降るという厳しい状況の
 中で戦いは始まった。
1877年3月2日、谷村計介が、船隈の営にて野津鎮雄少将に
 危急を報告し、密使の大役を果たした。
1877年3月3日、官軍が、薩軍と田原坂で激戦。
1877年3月4日、この日、吉次峠で、西郷軍の篠原国幹が戦
 死する・・が、政府軍を撃退した。
1877年3月6日、四国と本州を通じる海底電信、讃岐~備前
 間が開通した。
1877年3月11日、官軍は、田原坂防衛線突破のため、この日、
 軍を主力と別働隊に分けた。
  主力は、田原坂・吉次峠の突破のために、
  別働隊は、山鹿の桐野部隊の動きを封じ込むためにお
 かれた。
  しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい
 銃撃と抜刀白兵戦に手も足も出ず、
  田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(
 那智山)を奪うことにした。
  薩軍の抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵
 卒を当てたが、討ち破られた。
1877年3月11日、孫右衛門が、横浜元町で輸入自転車の貸自
 転車業をはじめた。
  孫右衛門は、1台が銀16枚する自転車を16台購入した。
  1時間25銭という高い賃料にもかかわらず、在庫の自
 転車が不足するほど繁盛した。
  輸入自転車に加えて、地元の鍛冶や車大工につくらせ
 た国産の自転車も使用した。
  1883年(明治16年)に大火によって自転車を全て焼失、
 廃業となった。
1877年3月13日~14日、抜刀隊を交えた激しい斬り合い。
1877年3月15日、官軍は、この日、薩軍の守備を破り、つい
 に横平山(那智山)を占領した。
  この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入るこ
 とに成功した。
  3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000
 名にのぼる。
1877年3月15日、諏訪公園にて、東京、横浜に次いで九州
 初の第3回内国勧業博覧会を開催。
  出店地域は長崎県、佐賀県。
  出品点数は、1360点。
  会期100日の予定が、西南戦争のため06/22で中止した。
  第1会場・公園入口の建物(のち長崎商品陳列所)。
  第2会場・公園丸馬場テント張り
1877年3月17日、西郷軍に加担した鹿児島県令・大山綱良の
 官位を奪った。
1877年3月18日、佐川官兵衛(さがわかんべえ、会津藩士、
 豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長) 戦死(47歳)
  この日、官軍主力隊本営で、幕僚会議が開かれた。
  この会議での結論は・・、
  これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎなが
 らも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてき
 たが・・、
  この原因として挙げられるのは・・、
  薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生か
 して田原坂の防衛線を築いている・・と見て・・、
  この現状を打破するため・・いち早く堅い田原坂の防
 衛線を突破する必要がある・・だった。
  20日の早朝を総攻撃の決行と決めた。
1877年3月20日、田原坂の大激戦
  政府軍が、激戦の末、田原坂を占領するに至る。
  この日の早朝、官軍は、開戦以来、最大の兵力を投入
 した。
  攻撃主力隊は、豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を
 越え、田原坂付近に接近した。
  そして、雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から、田原
 坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。
  砲撃が止むと同時に、薩軍の出張本営七本のみに攻撃
 目標を絞り、一斉に突撃した。
  薩軍は、官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため
 応戦が遅れた。
  七本では、状況が把握できないまま攻撃を受けざるを
 得なかった。
  薩軍は、防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のた
 め徐々に応戦できなくなった。
  そして、ついに、植木方面へ敗走した。
  官軍の攻撃を成功に導いたのは、別働の吉次峠部隊の
 活躍が大きかった。
  吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。
  これによって官軍主力は、「田原坂突破」一本に的を
 絞ることが出来た。
  しかし、吉次峠部隊の被害は甚大であった。
  駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。
  官軍・薩軍の田原坂での攻防は・・17日間続いた。
  植木方面の敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破
 られた。
  その後、官軍は、田原坂を下って植木方面までの侵攻
 を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。
  田原坂の戦いで・・薩軍は敗勢へ傾いていく。
..
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2016年5月1日日曜日

(増補版)342E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年2月)

題:(増補版)342E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年、その他:
・大阪でセルロイド製のサンゴ玉ができる。
  根付という、印籠 (いんろう) ・巾着 (きんちゃく) ・
 タバコ入れなどを腰に下げるとき、帯にはさむひもの先
 端につけて、すべりどめとした、小形の細工物を、日本
 人は好んだ。
  材料は、木・象牙・角・金属などで、人物・動物・器
 物などを彫刻した。
  1700年頃の元禄年間から使われだした。
  象牙が高価であった。
  しかし、象牙は高価なものである上に、象三頭に二人
 と言われるほど、多くの犠牲者を出した。
  そのために象牙の代替品が必要となりセルロイドが発
 明された。
  このセルロイドが、珊瑚や鼈甲などの代用品としても
 使わた。
  日本に最初に輸入されたセルロイドが赤色であったこ
 ともあり、模造珊瑚玉に加工された。
  因みに、セルロイドは、ニトロセルロースとショウノ
 ウ(カンファー)から生成された、史上初のプラスチッ
 ク素材だった。
  1860~70年代に開発され、成形加工が容易で玩具・日
 用品などに多用されたが、可燃性であるため、最近は使
 われていない。
・浅草文庫を、上野の東京府図書館に移管した。
  1872年:書籍館(じょはくかん)が開館、
  →1874年:浅草文庫と改称
  →1875年:東京書籍館となる
  →1878年:東京府書籍館と改称
  →1880年:東京図書館と改称
  →1897年:帝国図書館となる
  →国立国会図書館
1877年1月1日、タバコ課税の実施
  茶・煙草などの物品税収入が200万円以上になったら、
 税金を地価の100分の1に下げるとした。
1877年1月4日、地租軽減之詔書
  減租の詔(氷川清話)
  地租の2.5%への軽減が認可された。
  「朕惟フニ維新日浅ク中外多事国用実ニ貲ラレス而シ
 テ兆民猶ホ疾苦ノ中ニ在リテ未タ富庶ノ沢ヲ被ラサルヲ
 愍レミ曩ニ旧税法ヲ改正シテ地価百分ノ三トナシ偏重無
 カラシメントス今又親ク稼穡ノ艱難ヲ察シ深ク休養ノ道
 ヲ念フ更ニ税額ヲ減シテ地価百分ノ二分五厘ト為サン有
 司宜ク痛ク歳出費用ヲ節減シ以テ朕カ意ヲ賛クヘシ」
1877年1月11日、神祇を統括する教部省と東京警視庁を廃止
 した。
  警視庁発足時から、各地で士族反乱が発生し、地方の
 警察力では対処できなかった。
  政府は、全国の警察を一元化するため、1877年(明治
 10年)1月11日に警視庁を廃止し、
  内務省直轄の東京警視本署へと改編した(庁舎はその
 まま使用された)
  川路利良(かわじとしよし)大警視は、内務省に対し
 兵器の貯蔵を上申し、
  東京警視本署は、陸軍省から7000挺の小銃を借用して、
 陸軍士官の派遣を受け、軍事訓練を行った。
  1877年(明治10年)、最大の士族反乱となった西南戦
 争に、警視隊(9500名)を編成して従軍し、陸軍を支援
 している。
1877年1月26日 歴史館設立(総裁は伊知地正治)
1877年1月、工部省鉄道寮にかわって鉄道局設置(改称)
1877年1月29日、鹿児嶋縣・私學校の生徒数100人が、銃器製
 造所、陸軍火薬庫を襲撃した(1月30日説あり)
  鹿児島の私学校生、草牟田の火薬庫を襲う(西南戦争
 の火種となる) 
  この私学校は、西郷隆盛が設立した私学校だった。
1877年2月3日 西郷隆盛が、私学党を率いて遂に官軍対抗の
 意を決した。
  そして、結局、西郷隆盛も、2月15日に、兵を率いて鹿
 児島を出発することになる、そして、2月22日に、熊本城
 を包囲し、政府軍と激しく戦ったが、3月20日に田原(た
 ばる)坂で敗退し、9月24日に、鹿児島に帰った西郷軍は、
 政府軍の総攻撃を受け、西郷隆盛は自刃する。
1877年2月5日、 東海道線の京都~大阪~神戸の鉄道が正式
 開業した。
  京都・大阪・神戸間の鉄道開通式(京都駅落成、明治
 天皇陛下を迎えて開業式を行なった) 
  2月6日、営業運転を開始した。
  神戸~大阪間が、1日11往復で、所要時間は1時間8分、
  大阪~京都間が、10往復で1時間43分。  
  仮開業(1874年)
1877年2月10日、有史閣(のちの有斐閣)創業、
  古書店から法律専門書出版社に発展
1877年2月10日、紙鳶あげ・羽根つき・独楽遊び、交通妨害
 になると禁止された。
1877年2月10日 西郷隆盛の私学党の乱に対して、近衛、及
 び、東京・大阪両鎮台に出動命令が下った。
  西南戦争が起きる原因として・・、
  明治六年の政変で下野した西郷は・・、
  1874年(明治7年)、鹿児島県全域に、私学校とその分
 校を創設した。
  その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率
 することと、県内の若者を教育することであった。
  外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊
 学させる等、
  積極的に西欧文化を取り入れたりした。
  西郷の目的は、外征を行うための強固な軍隊を創造す
 ることだった。
  やがて、この私学校は、その与党も含め、鹿児島県令・
 大山綱良の協力のもとで、県政の大部分を握る大勢力へ
 と成長した。
  明治政府の廃刀令や金禄公債証書発行条令など旧武士
 の特権を奪う行為を不満として「神風連の乱」「秋月の
 乱」「萩の乱」が起きた。
  この時も、西郷は、若殿輩(わかとのばら)が逸(は
 や)らないように、この鰻温泉を動かないという気持ち
 にあった(若い者たちが激昂しないようにとの態度)。
  西郷は、乱など起こす気は毛頭ないという気持ち・態
 度だった。
  しかし、政府内の長州派にとって、鹿児島の動きは気
 になる動きだった。
  この様な時に、鹿児島側、及び、政府側のそれぞれの
 内部に・・蠢(うごめ)く動きがある・・この様な時に、
  1877年1月に、警視庁大警視川路利良が、中原尚雄以下
 24名の警察官を「帰郷」という名目で、鹿児島に派遣す
 るという行為をした。
  まったく、いかがわしい、また、不穏な動きを・・し
 た。
  目的を明らかにして動いたのとは違い、慮(おもんば
 か)る不穏さと、疑念などが、事を大きくして行った。
  大量帰郷ということ・・はかりごとを含んだ様な・・
 丸出しの動きを・・あからさまに、政府側はした。
  この様な不穏な時、1月29日に至り、政府は、秘密裏行
 動を・・重ねて・・またした。
  政府は、鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器
 弾薬を大阪へ移すために、隠密裏に、赤龍丸を鹿児島へ
 派遣した・・
  そして、その搬出を行った。
  これは、当時、陸軍が主力装備としていたスナイドル
 銃の弾薬製造設備を、大阪への搬出しようという行為だ
 った。
  スナイドル銃は、陸軍の主力装備で、
  その弾薬は、薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身
 である鹿児島属廠で製造されていた。
  しかも、ほぼ独占的に製造し、供給していた。
  外国技術を導入した鹿児島藩の技術は進んでいた。
  スナイドル弾薬の製造が、唯一、国産化に成功してい
 た。
  また逆に、この様な進んだ技術を、一地方の鹿児島が
 持っていることが、中央政府として気になっていた。
  それ故に、この技術の秘密裏の持ち出しは、非常に繊
 細な重大な問題だった。
  この様な事から、私学校徒は、武器という重要なジャ
 ンルの、鹿児島の独自技術の、中央政府の無断持ち出し・
 泥棒的行為に怒った。
  同時に、武器弾薬も持ち出されるため、1月29日の夜、
 行動を起こしたのだった。
  草牟田火薬庫を襲った、そして、武器類を奪取した。
  この段階では、私学校徒たちも、まだ大きな乱へ発展
 の予感も意図もなかった。
  また、西郷や、薩摩士族たちは、戊辰戦争において、
 このスナイドル銃の優秀さを、良く実体験で知っていた。
  1月30日になって、私学校幹部らは会合し、警視庁帰藩
 組を、ひそかに調査・内定した。
  その結果、この帰郷が、「西郷の暗殺をも目的として
 いる」ということを掴んだ。
  ここが、事が起こる分岐点だった。
  この様な一連の事が西郷の耳にも達した。
  私学校徒の行動に、西郷は「ちょしもたー(しまった)」
 と言ったという。
  西郷には不本意な事の成り行きだった。
  西郷は、暗殺計画の話で沸騰する私学校徒らに対処す
 るため鹿児島に戻った。
  また、この西郷を迎えに、また守るために各地から、
 私学徒らが馳せ参じ、集まった。
  相当の人数に達した。
  2月3日、私学校徒らの私学校党は、帰郷した警察官ら
 60余名を一斉に捕縛した。
  そして、取り調べが・・行われた。
  その自白書には、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよ
 う指示したということが記された。
  2月4日夜、小根占村(こねじめむら)から帰った西郷
 は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。
  翌日の2月5日、私学校幹部、及び、分校長ら200余名が
 集合して大評議がおこなわれた。
  今後の方針が話し合われた。
  「武装蜂起すべし」という意見、
  「上京して、政府を詰問すべし」という意見、
  「暗殺を企てる政府が上京途中に危難を加える虞があ
 る」という意見、
  「京都に行幸されて居られる天皇陛下に上奏する」と
 いう意見・・などなど・・種々の意見が出て、紛糾した。
  この様な紛糾の熱気の中・・、
  西郷を除く座長格だった篠原が・・、
  一同の意見を黙らせた、そして、「旗鼓堂々(きこど
 うどう)総出兵の外に採るべき途なし」と・・言った。
  これで、意見の大勢は・・決した。
  全軍出兵論が・・多数の賛成意見となった。
  少数となった出兵反対論は・・抑え込まれた。
  2月6日になると、私学校本校で、従軍者名簿の登録が
 始められた。
  同時に、この日に、西郷を中心に作戦会議が開かれた。
  「神戸・大阪・横浜・東京の急襲の策」
  「三道分進策」
  「陸路東上策」
  「熊本城・一部の抑えをおく策」
  「汽船しかなく、軍艦を持たないこと」などが話し合
 われたりした。
  2月8日、部隊の編成が・・開始された。
  2月9日、西郷の縁戚・川村純義海軍中将が軍艦に乗っ
 て西郷に面会に来たが、会うことができず。
  また、この日、県庁に自首してきた野村綱(文部官僚)
 が、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」
 という内容を自供し、
  また、西郷暗殺計画には、大久保利通も関与していた
 と考えられるに至った。
  2月12日、各担当が、軍需品の収集調達、募兵など一応
 の準備を整えた。
  2月13日、大隊編成がなされた、
  そして、発表された。
  薩軍総指揮官:西郷隆盛
  参謀格兼本営附護衛隊長:淵辺高照、
  副官:仁礼景通、
  一番大隊、大隊長:篠原国幹
   一番小隊~九番小隊 半隊長・・略
  二番大隊、大隊長:村田新八
   一番小隊~九番小隊 半隊長・・略
  以下、三番大隊、四番大隊、五番大隊、六番大隊、七
 番大隊、連合大隊、一番砲隊、二番砲隊、大小荷駄隊
  計約2000名、連合大隊合計約1600名、
  淵辺は、狙撃隊を率いて西郷を護衛する。
  2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷によ
 って、一番~五番大隊の閲兵式が行われた。
  因みに、
  政府が持ち出したスナイドル弾薬製造設備は・・、
  2月13日に、大阪砲兵工廠に設置されたが、鹿児島から
 搬出した際に、部品の不備や破損が生じ、
  結局、稼働できず、
  稼働させるには修理と部品の追加購入が必要となった。
  その後、それでも、政府は、兵の装備をスナイドル銃
 に統一して派兵している。
  そして、兵の動員規模が拡がるにつれて、
  早くも3月には、スナイドル弾薬500万発の装備を使い
 果たした。
  弾薬が欠乏した。
  この様な、激戦が続いた。
  そして、さらに、1800万発の調達が必要と見積もられ
 た。
  その為、政府軍は、旧装備のツンナール銃の装備で派
 遣される状態だった。
  戦いはそれだけ熾烈だった。
  政府は、清国から弾薬を借り受けたりもして、弾薬調
 達に東奔西走した。
  この様な、西南戦争の引き金が引かれようとしていた。
..
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