ページビューの合計

2016年6月18日土曜日

(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)

題:(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年10月21日、陸軍・大山巌と、海軍・川村純義を参議
 兼任に任命した。
  (参考)大山巌(おおやまいわお)1842年~1916年、
  薩摩(鹿児島)藩士の生まれ、西郷隆盛の従弟。
  陸軍軍人、元帥・陸軍大将、公爵、元老、
  1862年(20歳)に、大坂に出て倒幕運動に参加。
  薩英戦争でイギリス艦の大砲の威力を認識し、戦後、
 江戸の江川塾で砲術を学ぶ。
  1868年(26歳)の戊辰戦争では、薩摩藩兵の砲隊長。
  維新後の1869年(27歳)に、欧州に派遣され、砲術を
 研究する。
  そして、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ
 入城をする。
  1871年(29歳)再び渡欧、
  パリ・スイスに住んでフランス語・砲術を学ぶ。
  1877年(35歳)の西南戦争では、旅団司令官として西
 郷軍とたたかう。
  1880年(38歳)、陸軍卿となって、以後は陸軍内部の
 薩摩閥の首領の地位を占め、長州の山県有朋とともに陸
 軍を2分した。
  陸相・参謀総長を務め、日本陸軍の創設にあたった。
  1884年(42歳)には、陸軍の俊秀をひきいて渡欧し、
 各国の兵制を視察し、帰国後、陸軍大臣として軍制改革
 を行った。
  1894年(52歳)日清戦争では第二軍司令官、
  1904年(62歳)日露戦争では満州軍総司令官をつとめ
 た。陸軍大将、元帥、
  因みに、イギリス軍楽隊長のJ・W・フェントンが国歌
 の必要を説いたとき、
  大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を
 歌詞として選定したという。
  (参考)川村純義(かわむらすみよし)1836~1904、
  薩摩(鹿児島)藩士の家に生れる。
  軍人、参議兼海軍卿、海軍大将、伯爵、枢密顧問官、
 日本海軍の創設者の一人。
  戊辰(ぼしん)戦争で活躍。
  1877年(41歳)西南の役征討に軍艦を行動させて参軍
 し、活躍。
  1878年(42歳)参議兼海軍卿。勝海舟の後任の海軍卿
 となる。
  薩摩勢力を海軍部内にのばした。以後、海軍充実に尽
 力した。
  上記の大山巌の普仏戦争の観戦について・・、
  1870年8月15日、大山巌(28歳)らは、普仏戦争観戦を
 命ぜられ、8月28日、横浜から米飛脚船クレド・ハフリッ
 ク号で出発した。
  太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨーク
 経由で大西洋を渡り、
  10月23日に、ロンドン到着、
  閏10月23日に、ベルリン着、
  11月11日(西暦1871年1月1日)以後、普仏戦争を観戦
 した。
  フランス政府が、プロシヤに降伏後、大山はパリに入
 り、3月19日に、マルセーユから日本への帰途についた。
  5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着した。
  すでに、1870年12月の勅使・岩倉具視らが鹿児島を訪
 問したとき、
  藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆
 盛は、岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、
  明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とするこ
 とを主張していた。
  翌年・1871年2月13日に、政府は、薩長土3藩の兵を徴
 して御親兵の編成を命令した。
  そして、4月25日に、大山巌は、その御親兵を統括する
 兵部省の役職兵部権大丞に任命された。
1881年10月28日、日本語速記術の発明
  田鎖綱紀(たくさりこうき)が、日本語の速記術を発
 明し、講習会を開いた。
  大学南校(政府所轄の洋学校)で鉱山学を学ぶかたわ
 ら、グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を発
 明した。
1881年10月29日、自由党の結党式
  東京にて、板垣退助を総裁とする急進主義の自由党が
 結成された。
  我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張るこ
 とになる。
1881年11月11日、最初の私鉄・日本鉄道会社が設立された。
  日本最初の民間資本による鉄道会社である日本鉄道が
 設立された。
  代表は岩倉具視。 上野~熊谷間開通(1883年)
  運行期間:1883年~1906年
  今のJR東日本の路線の多くを建設し、運営した。
  横浜の実業家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、
 1872年5月、東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄
 道の建設を政府に建言し、却下されるも、高島は、政府
 要人の岩倉具視を説き、
  鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、明治天皇陛下および当
 時の政府に、
  『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森、
 あるいは、東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走
 らせることを補す』ことを建言させた。
  こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめ
 とする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の
 創立が決定し、
  同年・1881年11月11日、設立特許条約書が下付され、
 初代社長に吉井友実を選出し、会社が設立された。
1881年11月、 日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』が刊行さ
 れた。
  君が代・蝶々・蛍(蛍の光)などを収めた『小学唱歌
 集(しょうがくしょうかしゅう)』初編を刊行した。
  文部省音楽取調掛が編集した日本最初の音楽教科書。
  明治14年に初編、~明治17年(1881年~1884年)刊。
  初編に「蝶々」「蛍の光」、
  第二偏に「霞か雲か」、
  第三編に「仰げば尊し」「庭の千草」などを収録。
1881年12月7日、紅綬・緑綬・藍綬の褒章が定められた。
  太政官布告第63号の褒章条例(1881年)で定められ、
  初めは、紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章の3種で、
  紅綬褒章:自分の危険を顧みず人命救助をした人に、
  緑綬褒章:孝子(孝行な子)・節婦(節操堅固な婦人)・
 徳行卓絶なる人や、実業に精励して一般人の模範たるべ
 き人に、
  藍綬褒章:教育、衛生事業、学校・病院建設、道路・橋
 梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖、
 実業の発達などに貢献した人に与えることとした。
  1918年に、公益のために私財を寄付した人に授与する
 紺綬褒章が加わり、
  1955年、政令により、条例の一部が改正され、業務に
 精励し衆民の模範である人を緑綬褒章から切り離して黄
 綬褒章の対象に、
  また、従来は藍綬褒章に含まれていた学術・芸術・発
 明などの顕著な功績に対し新たに紫綬褒章の各褒章がで
 き、6種となった。
  勲章が、国家に功績ある者に与えられるのに対して、
 社会や公共のため尽くした人々に与えられる栄典だった。
1881年、アメリカの野心を訴えるハワイ王国の国王
  原因に・・そこには・・巧妙に「ハワイ」を手に入れ
 ようとするアメリカ合衆国があった。
  ハワイには「ちゃんとした政府があって」「チャント
 統合する国があって」「チャント統合する王が居て」「
 ちゃんとその王国・政府に従う人々が幸せに生活してい
 る」というのに・・、
  そこが弱者の国だと思うと・・自分のものにしたくな
 ったアメリカ合衆国だった。
  当然、そこに、何らの正義は無かった・・まったく、
 無かった。
  この年に、ハワイ王国のカラカウア王一行が来日した。
  予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏(
 つくろ)うアメリカ随行員の目をくらまして赤坂離宮を
 訪ね、明治天皇陛下(当時29歳)との極秘会談に及んだ。
  カラカウア王のこの行動は、外国の『国家元首』の最
 初の明治天皇陛下への訪問となった。
  王は、その場で、次のように訴えた。
  意訳概要:
  「我が国は、主権を持つ独立国家である。
  その我が国に対し、アメリカ合衆国が太平洋上の拠点
 にしようという野心を抱いている。
  今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重
 する気持ちが微塵も無い。
  アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を
 深めている。
  この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列
 強諸国に対峙することが急務です。
  日本の進歩には実に驚くべきものであり、
  アジア連合を起こすとすれば、その盟主には日本以外
 には無い。
  また、天皇陛下こそが相応しい。
  日本は、今、列強諸国に治外法権(不平等条約の改正)
 を認めさせようとして苦労していると伺います。
  日本なら連合実現が、より容易にできるはずです。
  どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主とな
 っていただきたい。
  そうなれば私は、陛下を支え、大いに力をお貸しさせ
 て戴きたいです。
  私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカ
 イウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。
  日本とハワイの絆の為、是非もらって戴きたい。
  私は、貴国の良い返事を待ち続けます」
  (「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。
  そして、この後・・、
  「明治天皇陛下とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」
 は、直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。
  井上馨は、伊藤博文を後継し、明治政府の重要な地位
 に居る人だった。
  ハワイ王国の国王による国王間直訴は・・その後・・、
  1882年(明治15年)3月22日になって、ハワイ国王・カ
 ラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府
 の回答がカラカウア王へ届けられた。
  「政府に、そこまでの余力はない」との内容だった。
  また、カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても
 最終的にはウヤムヤとなって行き・・幻となった。
  井上馨は・・、
  「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見
 解を示し、
  伏見宮邦家親王の第17王子の山階宮定麿親王(当時15
 歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留
 学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が、
 画策された。
  ・・が、しかし、懸念材料はアメリカだった。
  アメリカとの関係の悪化を懸念する意向が前面に出て、
 幻となって行った。
  かくて、「カラカウア王の望み(秘策)」は潰(つい)
 えてしまった。
  カイウラニ王女は・・その後・・、
  1889年に、カラカウア王の指示で、イギリスへ留学し
 た。
  そして、その留学中に、カラカウア王は死去されてし
 まった。
  カイウラニ王女は、叔母のリリウオカラニから王位継
 承権第1位に指名され、
  美貌の彼女は、ヨーロッパ社交界の教養を身につけ、
 英仏社交界の華になった・・が・・、
  アメリカの思惑(アメリカ帝国主義によるハワイの地
 の取得)がうごめくハワイの政変が続くハワイの事情か
 ら・・帰国が出来ず・・帰国が延び続けるという状況と
 なった。
  日本とハワイの連邦化を夢見ていたハワイ王国は・・
 消滅し・・そして、ハワイはアメリカ化し・・今、アメ
 リカ合衆国の州となっている。
1881年2月24日、イリ条約
  ロシアと中国(清国)との間で、1871年に起きた国境
 紛争事件(イリ事件)の条約が結ばれた。
  ロシアのイリ地方占拠を、清朝は左宗棠の働きで1875
 年から1877年にかけて排除した。
  しかし、1879年に、ロシアとのイリ返還を交渉した清
 朝の全権大使・満州貴族・嵩厚保がいったん領土を大幅
 に譲歩した条約を締結した。
  そのため、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀
 沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、
  ようやく1881年に、イリ条約を成立させ、イリ地方は
 清に返還された。
  しかし、清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆
 全土を市場としてロシアに経済的に開放することを認め
 た。
1881年3月12日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺され
 た(3月13日説あり)
  1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世は、パ
 リで襲撃されたが、この時は難を逃れた。
  その後も、皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、
  1880年2月には、アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂
 爆破事件が起きて、多数の死傷者が出た。
  これをきっかけに、最高指揮委員会が設置され、下ヴ
 ォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・
 ロリス=メリコフが委員長に任命された。
  政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴
 動の抑止になると考えたロリス=メリコフは、行政改革
 と財政改革を皇帝に進言し、
  これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メ
 リコフが内務大臣となった。
  社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた
 悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、
  立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、
 一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市
 自治会の代表などを参加させようとした。
  1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュ
 ラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグ
 ナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾(キバリチチ
 式手投げ爆弾)により、サンクトペテルブルク市内で暗
 殺された。
1881年5月、フランスが、チュニジアを保護国化した。
  1830年のフランスによるアルジェリア占領以後、
 フランスとイタリアによる植民地化の対象となった。
  ベクは、1867年立憲君主制憲法を制定し、トルコの力
 をかりて独立維持をはかった。
  1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フラン
 ス・イタリアの管理下に置かれ、
  1873年~1877年の改革派官僚のハイルッディーンによ
 る改革が行われたが、宮廷内の保守派の反対で成果を上
 げることが出来なかった。
  普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジア
 に進出したのでフランスは危機感を強めた。
  1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスが、
 チュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、
  フランスは、チュニジアに於けるフランスの権利を認
 めさせ、
  最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジ
 アにおけるフランスの優先権が確認された。
  フランスは、1881年に、軍隊を派遣し、首都チュニス
 を占領して、保護領とした。
1881年7月2日、アメリカ合衆国大統領の暗殺事件が起きた
  第20代大統領のガーフィルド大統領が暗殺された。
  ワシントンのボルティモア・ポトマック駅で大統領は
 銃撃され、9月19日に死亡した。
  暗殺犯のチャールズ・J・ギトーは、色々な職業に手を
 出して失敗していた。
  神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キ
 リストの再臨を信じる共同社会)だった。
  大統領は、就任から4か月の短期間だった。
1881年7月14日、ビリーザ・キッドが、満21歳で、射殺され、
 この日に死んだ。
  彼は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー(犯罪など
 によって法の保護を受けられなくなった人)で、強盗な
 どを行なっていた(1859年~1881年)
  罪名:殺人と脱獄。
  職業:牧場手伝、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー。
  ニューヨークで生まれたらしい、西部のニューメキシ
 コ州で育った。
  偽名が多く、父親は良く分からない。
  12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトローに
 なったとされる。
  死ぬまでに21人を殺害したとするが、この人数の中に
 はインディアンの方々の人数は含まれてないとされる(
 有色人種への無視・軽視・蔑視)。
  アリゾナ、テキサス、メキシコ国境あたりをさすらっ
 たという。
  用心棒もした。この時、リンカーン郡戦争と呼ばれる
 騒動となった。この時、4人を射殺。
  1880年12月、友人でもあった保安官に、仲間と共に
 逮捕される。
  しかし、1881年4月18日に刑務所を脱走した。
  この事が、ニューヨーク・タイムズに報じられ有名に
 なる。
  1881年7月14日に、ニューメキシコ州フォートサムナー
 で、ギャレットに射殺された。
  鏡で銃を抜く敵を見て、振り返らずに撃ち殺したなど、
 嘘もあるだろうが・・彼の銃の腕前を示す話は多い。
  この様なアメリカ西部の様相の中で、西部は開拓され
 て行った。
  誠実に農地開拓をしている農夫の土地を、欲しがる牧
 場主が、プロの殺し屋を雇い、この正直な農夫を殺そう
 とする。
  その時、殺し屋は次の手を使う、
  町の酒場に農夫を呼び出し、この農夫に対して、あら
 んかぎりの嫌(いや)らしい事を言う。
  農夫は、愛する妻や子供も居るので我慢してその話を
 聞いているが、続けて、殺し屋は人格攻撃も含めて、い
 やらしい攻撃を続け、
  この続く人格攻撃などの中で、農夫は、やむを得ず腰
 のけん銃に手を掛ける。
  その途端、プロの殺し屋の銃が、いち早く火を噴く。
  可哀想に、この善良な農夫は殺される。
  キリスト教は、この様なこの行為を、この殺し屋の行
 為を悪くないとしている。
  だから、アメリカの西部では、この様に殺される人が
 多かった。
  キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅しても良い」と、神の義による殺人を是としてい
 る。
  この様な論理・教義で、隣国の富を奪いに行く。
  当然、戦争の頻発地となる。
  長い歴史、キリスト教の回りには多くの戦争の歴史が
 記録されている。
  キリスト教聖書に記されている「相手に警告を与えれ
 ば何をやっても良い」という教え・・、
  また、キリスト教の聖書記載の手順を踏めば、攻撃を
 加えて良いという教え・・
  「相手の町を包囲して、ぐるぐる回れば、何をやって
 も良い」とかと・・この様な記載が、色々多い。
  キリスト教には蛮行の実行につながる教義が多い。
  「目には目を」という教義は有名だが、「同罪報復を
 認める」教義である。
1881年9月、エジプトでアラービー=パシャの乱が起きた(~
 1882年)
  アフマド=ウラービー=パシャ・・エジプトの反イギ
 リス民族闘争の指導者は、
  1881年に、イギリス・フランスの支配に反発し、立憲
 政治実現を要求して革命を試みたが、イギリス軍によっ
 て鎮圧されてしまった。
  世界中で、武力によって、やりたいことをやっている
 イギリス、そして、ヨーロッパ列強のキリスト教国。
  パシャは尊称で、
  エジプト人の農民の子として生まれ
  軍人となり、
  ワターニューン(愛国者たちの意味、ワタン党ともい
 う)という秘密結社を組織して、
  ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、
  パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言わ
 れた。
  19世紀中頃のエジプトが、イギリスとフランスの経済
 的支配を受けて、
  政治干渉も受けるという二国管理体制下におかれ、
  これに強く反発した(誰だって反発したくなるだろう
 よ)、
  エジプトの方々のエリート層や、高等教育を受けた
 方々は、ヨーロッパ人が、エジプト社会を牛耳ることに
 よって、
  自らの出世の道が閉ざされることも不安視した。
  また、農民は、課せられた重税に対して不平を募って
 いた。
  また、差別も存在した。
  エジプトは識字率も向上し、1870年代から188年代には、
 出版も盛んになり、新聞も発行されるようになった。
  人々は、社会の情勢・変化を知り、行動を起こした。
  1881年に、クーデターを起こして、エジプト王を退位
 させ、実権を握り、立憲政治の実現などの改革を進めよ
 うとした。
  しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、
 陸上からも攻撃し、革命を強烈な軍事力で抑えつけた。
  その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。
  ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流され
 た。
  彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスロー
 ガンは、
  その後のエジプト民族運動に受け継がれ、
  ウラービー運動といわれるようになった。
  → アラブ民族主義運動へ
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月16日木曜日

(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)

題:(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1811年10月1日、國會期成同盟 第3回大会
  第三回大会は自由党結党の会だった。
  1881年(明治14年)10月に開かれる予定の第3回国会期成
 同盟大会での重要議題は、各地で作成された「憲法私案
 の審議」であった。
  また、10月1日~10月2日の幹部相談会では、常務委員
 の林包明(はやしほうめい、自由民権運動家、自由党幹
 事となる)を中心として、
  大日本国会期成有志公会と自由党(準備会)を糾合して、
 新党を結成する相談がなされた。
  そうした中、開拓使官有物払下げ事件が明るみとなり、
 政府側を追求した。
  その結果、明治十四年の政変(1881年8月31日)が起こ
 った。
  大隈重信は、政府から追放された。
  ・・と同時に、政府は批判をかわすために・・、
  1881年(明治14年)10月12日に、『国会開設の詔を発
 布』し、
  1890年(明治23年)に、国会を開設することを決めた。
  国会開設の目的は達せられた。
  この様ないきさつから、目的達成と判断した自由民権
 運動家達は、大会での憲法私案の審議を見送った。
  そして、「政党を樹立すべき」との意見が、大勢を占
 めた。
  しかしなお、地方出身者層と都市出身者層との間で意
 見の相違は発生していた。
  そのため、嚶鳴社(おうめいしゃ、自由民権系の政治
 結社)の沼間守一らは、新党結成から離脱した。
  1881年10月18日に、東京の井生村楼(いぶむらろう、
 浅草にあった演説会場として利用された会場)に全国各
 地から代表78人が集まって大会が開かれた。
  大会では、議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪が選
 ばれた。
  そして、翌日の1881年10月19日には、自由党盟約・規
 約が作成され、
  1881年10月29日には、総理(党首)に板垣退助を、副
 総理に中島信行が選び、自由党を発足させた。
1881年10月2日、大日本自由政党結成會を組織した。
1881年10月9日、黒田清隆が、大隈重信の「国会開設早急
 論」に反対し、そして、三条実美へ趣意書を提出した。
  『開拓使官有物払下げ事件』:
  北海道開拓使長官の黒田清隆は、1881年に、開拓使の
 廃止方針が決定したため、この開拓使の事業を継承させ
 るために、官有の施設・設備を安値で払い下げる事にし
 た。
  黒田は、その払下げ予定事業が赤字であったため、非
 常な安値で払い下げ価格を設定した。
  払下げの対象は、船舶・農園・炭鉱・ビール・砂糖工
 場などで、
  例えば、「1400万円の国費を投じたもの」を「38万円
 (無利息30年賦)」という破格の低価格だった。
  その払い下げを受けたのが、関西貿易商会(黒田と同
 郷の薩摩出身者・五代友厚ら)だった。
  破格の値段の払下げ先が同郷の薩摩だったので、薩閥
 政治への不満が高まって行った。
  当然の様に、この方針に、政府部内の薩長出身参議は
 賛成した。
  しかし、政府内でも批判の声が起こり、特に、払下げ
 の規則を作った前大蔵卿の大隈重信が反対した。
  この経緯(いきさつ)を新聞がすっぱ抜いた。
  この秘密をリーク(意図的に秘密や情報などを漏らす
 こと)したのが「大隈だろう」と疑われた。
  さらに、大隈が登用した大蔵官僚の間にも、払下げ中
 止を求める意見が出された事から、
  払下げ中止を目的として「大隈が仕掛けた」という話
 が広まった。
  この様な中、黒田清隆は、天皇陛下の裁許を戴いて払
 下げを決定してしまった。
  しかし、批判の声は、ますます高まった。
  そして、大隈が、東京を離れた間に、伊藤博文らは、
 収拾策の方針を決定し、天皇陛下に裁許を仰ぎ、大隈の
 追放、国会開設の詔勅(藩閥政治への不満への対応)、
 払下げ中止などを発表した(明治十四年の政変)。
  その後、黒田も開拓使長官を辞め、内閣顧問の閑職と
 なった。
  薩長閥でない大隈が退かされた、薩長閥主導の時代と
 なった。
  薩長閥の黒田は、問題視され無かった。
  民意を尊重する政治・・、
  日本には、明治以前から、早々と、民意を受けて、民
 意によって政治を司るという考え方はあった。
  そして、明治になって草々の1868年の「五箇条の御誓
 文」・・第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
 と形となって・・議会開設の理念は示されていた。
  この様な流れから、大隈の「国会即時開設論」はその
 流れの中にあった。
  しかし、政府は漸近主義をとり、
  その中に、「イギリス型の議院内閣制か」、「ドイツ
 型の超然内閣の選択か」などの思考があった。
  大隈らはイギリス型案だった。
1881年10月11日、明治十四年の政変
  伊藤博文らが、大蔵卿参議・大隈重信を追放、罷免し
 た(10月12日説あり)
  自由民権運動の嵐が吹き荒れる世のなかで・・、
  また、その方向へ世の中が流れるなかで・・、
  憲法制定論議が高まり、政府内でも、君主大権を残す
 「ビスマルク憲法」か、「イギリス型の議院内閣制の憲
 法」とするか・・で争われていた。
  前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する
 大隈重信と、ブレーンの慶應義塾門下生らを、政府内か
 ら追放した。
  クーデター状態だった。
  明治10年代の政治は・・、
  大久保利通亡き後は・・、国会開設運動が興隆して行
 った。
  政府が、いつ立憲体制に移行するか・・という課題の
 ある・・問題が持ち上がっている時代だった。
  この様な時代の流れの中にあって・・、
  政府は、消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、
 漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)と、
  やや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)
 を中心に運営されていた。
  この頃は、政治への介入工作などもあって、政情は不
 安定の中にあった。
  「薩長土肥」四藩の連合が変化し、「薩長」二藩至上
 主義的方向へ姿を変えて行った。
  そして、明治14年の政変は・・起きた。
1881年10月12日、国会開設の詔
  1890年(明治23年)に国会開設の詔勅。
  明治天皇陛下が、来る明治23年を期して、10年後(1890
 年)国会を開設する旨の詔書を下し給う。
  天皇陛下が、行幸から帰京された10月11日に、御前会
 議の裁許を得て、
  翌日・1881年10月12日のこの時、「国会開設の詔勅」
 などが公表された。
  また、大隈邸を、伊藤と西郷従道が訪れて、辞表の提
 出を促し、大隈は了承した。
  なお、この際に、
  「建国の本各源流を殊にす(とりわけ、格別)。彼れ
 を以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が
 為された。
  そして、結果として、自由民権運動や大隈の唱えるフ
 ランス流やイギリス流を否定したものの、
  岩倉らの進めようとしたプロシア流についても、一旦
 は白紙撤回された。
  ドイツ憲法に傾いていくのは、岩倉が公家出身という
 立場も関係した。
  政変で下野した官僚:犬養毅、牛場卓蔵、大隈英麿、
 尾崎行雄、小野梓、河野敏鎌、島田三郎、津田純一、中
 野武営、中上川彦次郎、前島密、牟田口元学、森下岩楠、
 矢野文雄、
  (注)国会開設奏議、明治十四年十月十一日
  「国会開設ノ期限ヲ定ムル勅諭ノ事」 『岩倉公実記』
  日本憲政基礎史料:
  諸參議連署の立憲政體に關する建奏(明治十四年十月
 十一日):
  憲法を定める標準に至ては臣等竊に以為く建国の本各
 源流を殊にす。彼を以て此れに移すべからず。祖宗基を
 始め伝うるに神器を以てす。民と之を守る万世不易の道
 なり。陛下時期を照鑑し古今を変通し将に政権を分て之
 を衆庶に公にせんとす。蓋、実に祖宗の遺烈を掲げ懿訓
 を広むるに過ぎざるなり。今民間政談を為す者を視るに
 好で欧米詭激の説を主張し国体の何たるかを省みざる者、
 往々之れ有り。臣等、実に之を危む。竊に願くは憲法の
 成各国の長を採酌するも、而も我国体の美を失わず広く
 民議を興し公に衆思を集むるも而も我皇室の大権を墜さ
 ず乾綱を総攬し有極を建立し以て万世不抜の基を垂れん
 ことを。…
  以上陳ぶる所を総ぶるに、国会の開設の期を予定する
 は大政の向う所を公示する所以なり。憲法を定めるに国
 体を重んずるは篤く祖宗の遺業を守る所以なり。…
1881年10月18日、自由党、結成
  板垣退助らが、自由党(自由主義派)を結成した。
  初の政党(総理・板垣退助)。 
  この日・10月18日に、東京・浅草の井生村楼で自由党
 結成会議が開催された。
  10月29日に、板垣退助を総理に選び、副総理・中島信
 行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15
 章を決定して正式に発足した。
  日本最初の近代的な政党。
  1881年8月以後に起草した植木枝盛の「東洋大日本国国
 憲按」(私擬憲法)が作成されていた。
1881年10月21日、参事院(さんじいん)が設置された。
  この日、太政官布達89号によって、官制改革太政官に
 参事院が設置された。
  初代の長は、参議・伊藤博文。
  1872年7月の太政官達で設けられた正院法制局を受継い
 だもの、
  尚、1885年12月22日に、内閣法制局発足とともに廃止
 された。
1881年10月21日、松方デフレの開始
  松方の前々任者の大隈重信は、1873年10月25日に大蔵
 卿に就任し、1880年2月28日まで務めた。
  そして、この大隈の後は、大隈と「同じ肥前閥」の佐
 野常民が、この1880年2月28日に就任し、1881年10月21日
 まで務めた。
  そして、この日・1881年10月21日に、閥が変わって、
 「薩摩閥」の松方正義が、参議兼大蔵卿に就任し(~
 1885年12月22日)、方針は転換された。
  大蔵卿に就任した松方正義は、薩摩閥の地で発生した
 西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解
 消しようと、デフレーション誘導の財政政策を行なった。
  世はデフレ不況へ向かって行く・・、
  この松方財政(まつかたざいせい)の緊縮財政によっ
 て政府は、紙幣の回収を進めた。
  紙幣価値の安定と、正貨の蓄積を図る「松方財政」を
 推し進めた。
  松方正義は、また、欧州各国の中央銀行をモデルに、
 「一国の金融の心臓」として日本銀行の設立を提案し、
  紙幣発行権を、日本銀行に集中させ、兌換券の発行を
 目指した。
  1877年の西南戦争の戦費の大半を、紙幣増発でまかな
 ったことなどから、政府紙幣の整理の問題が焦点となっ
 ていたからだった。
  松方は、大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真
 っ向から反対していたのだった。
  それによって、1年半まえの1880年2月28日には、松方
 正義は、伊藤博文の配慮によって、内務卿に転出する形
 で大蔵省を去っていたのだった。
  松方は、1877年(明治10年)には渡欧して、経済を勉
 強していた。
  1878年(明治11年)3月~12月には、第三共和制下のパ
 リを中心とするフランスに滞在し、
  フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、
 フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)
 から3つの助言を得ていた。
  (1)日本は、発券を独占する「中央銀行」を持つべき、
  (2)その際、フランス銀行やイングランド銀行は、そ
    の古い伝統故に、モデルとならない、
  (3)従って最新のベルギー国立銀行を例として、これ
    を精査すること・・を、勧められた。
  1881年(明治14年)7月に、帰国した松方は、「日本帝
 国中央銀行・説立案」を含む政策案である「財政議」を
 政府に提出した。
  そして、政変によって大隈が失脚すると、
  参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日
 本銀行を、ベルギーの中央銀行制度を原型にして創設し
 た(1882年10月10日)。
  この後の1883年(明治16年)に、松方は、明治天皇陛
 下に奏上して、恩になったレオン・セイに、勲一等旭日
 大綬章が贈られるように図っている。
  そして、1885年の内閣制度発足と同時に、大蔵大臣に
 就任し、兌換銀行券条例に基づき兌換券(銀貨兌換)を
 発行した、
  さらに、1886年に兌換を開始し、近代的信用制度の確
 立をはかった。
  松方は、財政家として、政府紙幣の全廃と、兌換紙幣
 である日本銀行券の発行による紙幣整理と、
  煙草税や酒造税や醤油税などの増税による歳入増や、、
  政府予算の圧縮策などの財政政策や、
  官営模範工場の払い下げなどによって、財政収支を大
 幅に改善させ、インフレーションも押さえて行った。
  ただ、これらの政策は、深刻なデフレーションを招い
 たために、「松方デフレ」と呼ばれ、世論の反感を買う
 こととになった。
  物価が急落し、そして、景気が、急速に下降し
 インフレを終息させることには成功したが、農民の方々
 の多数が土地を失うなど、
  農民の方々への被害が、特に、甚だしく大きかった。
  地主制の成立の促進の現象となった。
  農民層の分解が進み、資本主義的体制の基礎を作った
 という別の一面が語られた。
  明治新政府は金が無かった。
  不換紙幣を乱発して世はインフレとなり・・、
  地租を確保しようとしたら、世は一揆が一斉に起き、
  外債を発行して、海外へ資金を求める大隈政府だった。
  松方正義大蔵卿は、支出を削減しながら、官営事業を
 払い下げたりして・・金を作った。
  富岡製糸は、31万円で整備したが、三井への払下げの
 売却は12万円だった。
  院内・阿仁鉱山は、古川へ売却し、
  兵庫造船は、川崎に売却し、
  長崎造船は、三菱に売却したが、
  いずれも破格の値段で、格安払下げをし、政府の儲け
 はなかった。
  ただ唯一、三井炭鉱は、三井が競り落としたが、整備
 費の6倍となり、政府に金が入った。
  この様な中で、間接税である消費税の大増税を行なっ
 た。
  煙草も課税の対象にしたが、その他、醤油税、菓子税、
 酒造税などを行ない。
  酒税は、1875年に250万円の収入となり、1884年には
 1400万円と5~6倍となった。
  因みに、松方正義は、オックスフォード大学の名誉博
 士である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月15日水曜日

(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)

題:(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
..
1881年4月5日、大日本農会が、東京に創立された。
  公益社団法人大日本農会(だいにほんのうかい)は、
 元農林水産省生産局所管の公益社団法人。
  主な目的は、農業の発展・農村振興など
1881年4月7日、農商務省が設置された。
  農林、商工行政を司る中央官庁の農商務省を置き、農
 林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を担当
 した。
  明治政府は、日本の産業の資本主義的発展を達成する
 ために、殖産興業政策を、その課題として掲げた。
  そして、農・商・工の各分野で、行政指導を懇切丁寧
 に進めて行った。
  欧米の機械制工場制度の移植や、鉄道・電信の導入な
 どを促進した。所管する役所は工部省(1870設立)、
  そして、農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代になると、めまぐるしく
 機構の改廃が行われた。
  また、その統合を重ねるという過程で、相互に補完し
 あいながら、資本主義育成策の重要な部分をなして来た。
  ただ、これまでの産業行政や殖産興業政策は、内務省・
 工部省・大蔵省などに分散していたことが、官業政策の
 限界と、殖産興業経費の過重が明らかとなって来た。
  そのために、政策の転換と、産業行政の一元化を図る
 ため、1880年に、工場払下概則を発令し、この年・1881
 年に、農商務省を設け、統合した。
  外務卿・河野敏鎌(こうのとがま)を農商務卿に任命
 した。
  因みに、この農商務省は、1925年に、農林省と商工省
 に分け、分離して、発展解消された。
  現在の農林水産省と通商産業省の前身。
1881年4月8日、三省堂書店(さんせいどうしょてん)が創
 業した。
  この日、亀井忠一・万喜子の母子が古書店として創業
 した。
  日本初の「日本百科大辞典」などを刊行した。
  三省堂書店は、書店ゼロの留萌に進出した。
  これは、「子供に必要」と地元の訴えに応えたもので、
 日本経済新聞が、2011年7月22日に報じた。
1881年4月25日、陸前・福島の大火(約1780戸焼失)
1881年4月26日、初めて、天皇陛下の主催で、吹上御苑で観
 桜御会が開かれた。
  皇族、大臣、参議、各国公使、来日中のシャム王族な
 どが招かれた。
  これは、不公正条約の条約改正を促進させる意図のも
 とに開かれた。
1881年4月、東京に、12か所の憲兵屯所が新設された。
  1881年3月には、フランスの憲兵制度を模範にして、憲
 兵条例が制定され、
  その第一条に、憲兵の役割を「陸軍大臣ノ管掌ニ属シ
 主トシテ軍事警察ヲ掌(つかさど)リ兼テ行政警察司法警
 察ヲ掌ル」と規定した。
1881年4月、自由・民権などを凧に託して凧揚げ大会が開か
 れた。
1881年5月4日、小学校教訓則領(しょうがっこうきょうそ
 くこうりょう)が定められ、初等・中等・高等に区分し
 た。
  初等科3年、中等科3年、高等科2年の計8年。
1881年5月8日、鶴見~横浜間が複線化した(5月7日説あり)
  鶴見~横浜間の鉄道の複線化工事が完成して、新橋~
 横浜間が複線運転になった。
  単線が複線化して、ますます鉄道ダイヤが密となり、
 使いやすくなり、だから人々も利用するという好循環で
 日本の鉄道は、急速に敷設距離数が伸びて行く。
  そして、今、鉄道技術は、日本の得意の技術・お家芸
 となっている。
1881年5月31日、勤王家・蒲生君平(がもうくんぺい、学者)
 に正四位を追贈。
1881年5月、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が、関西
 貿易会社を設立した(1835年~1885年)
  薩摩藩出身、長崎の海軍伝習所で航海や砲術を学び、
 勝海舟・榎本武揚・寺島宗則・佐野常民・高杉晋作らと
 交遊し、また、トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、
 開明的知識を得た。
  1859年(24歳)の時、水夫として上海に行きドイツ汽
 船を購入した。
  1863年(28歳)の時、薩英戦争が起こると、寺島宗則
 と共に、イギリス艦隊と交渉し、戦い、捕虜となり、横
 浜に拉致された。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(30歳)の時に、薩摩藩留学生の引率者として
 ヨーロッパ(イギリス・ベルギー・フランス)を視察し、
 紡績機械や武器を購入、また、貿易商社設立契約や、万
 国博への出品委託を行なった。
  渡欧中、薩摩藩主へ富国強兵に関する18カ条の建言書
 を送った。
  1866年(31歳)に帰国して後、御用人席外国掛に任ぜ
 られ、外国貿易や鹿児島紡績所の建設・長崎小菅修船場
 の建設・薩長合弁商社設立の計画を行うなど、薩摩藩の
 殖産興業政策を推進した。
  そして、藩の開明派の指導者となり、藩の貿易発展に
 活躍した。
  明治維新後に、外国事務掛、外国官権判事、大阪府判
 事を歴任、大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の
 建設にかかわるとともに、通商・為替会社設立などを契
 機に大阪経済界とも接触した。
  そして、1869年(34歳)の時、その官僚や外交官を経
 て、実業界・実業家(政商)へ転じた。
  大阪株取引所(現:大阪取引所)や大阪商工会議所(
 1878年)の創設などに力を注ぎ、
  また、製鋼・貿易・銀行・鉄道会社の設立し、事業を
 おこすことにも尽力した。
  その主なものは、金銀分析所、弘成館(鉱山経営)、朝
 陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社、阪堺鉄道、
 大阪商船、神戸桟橋会社、堂島米会所、大阪株式取引所、
 大阪商法会議所(現在の商工会議所)、大阪商業講習所(大
 阪市立大学の前身)など。
1881年6月18日、小学校教員心得を制定(6月17日説あり)
  「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育
 ノ弛張ハ国家ノ降盛ニ係ル其任タル重且大ナリト謂フヘ
 シ今夫小学教員其人ヲ得テ普通教育ノ目的ヲ達シ人々ヲ
 シテ身ヲ修メ業ニ就カシムルニアラスンハ何ニ由テカ尊
 王愛国ノ志気ヲ振起シ風俗ヲシテ淳美ナラシメ民生ヲシ
 テ富厚ナラシメ以テ国家ノ安寧福祉ヲ増進スルヲ得ンヤ
 小学教員タル者宜ク深ク此意ヲ体スヘキナリ因テ其恪守
 実践スヘキ要款ヲ左ニ掲示ス苟モ小学教員ノ職ニ在ル者
 夙夜黽勉服膺シテ忽忘スルコト勿レ」
  尚、約1ヶ月前の1881年5月4日には、「小學校教則綱
 領(しょうがっこうきょうそくこうりょう)」(明治14
 年文部省達第12号)が出されている。
  第一条:小学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第二条:小学初等科ハ修身、読書、習字、算術ノ初歩
     及唱歌、体操トス
      但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ
  第三条:小学中等科ハ小学初等科ノ修身、読書、習字、
     算術ノ初歩及唱歌、体操ノ続ニ地理、歴史、図
     画、博物、物理ノ初歩ヲ加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ
     裁縫等ヲ設クルモノトス
  第四条:小学高等科ハ小学中等科ノ修身、読書、習字、
     算術、地理、図画、博物ノ初歩及唱歌、体操、
     裁縫等ノ続ニ化学、生理、幾何、経済ノ初歩ヲ
     加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ経済等ニ換ヘ家事経済ノ
     大意ヲ加フルモノトス
1881年6月、「海員掖済会」が東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け「海員寄宿所」を開設した。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  また、高等海員養成所を併設し、高等海員の養成に着
 手する。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と相次いで海員寄宿所
 を設け、主要な港に配置し終える。
  1886年(明治19年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
1881年7月2日、パストゥール予防注射に成功。
  フランスの化学者で細菌学者のパスツールは、1880年、
 狂犬病の研究を開始し、
  1881年に、弱毒性変異炭疽菌株によるヒツジの免疫実
 験の成功を発表した。
  続いて、プュイ・ル・フォルにおいて炭疽免疫公開実
 験を行って、完全に成功し、
  同年・1881年、ニワトリコレラと炭疽のすべての成績
 をロンドンの国際医学会で発表した。
1881年7月6日、天皇陛下へ、岩倉具視が、憲法制定意見を
 上奏した。
  岩倉具視の憲法構想とは・・、
  憲法について岩倉具視が、上奏した意見書を、箇条書
 きで記したもので、起草者は、井上毅と言われている。
  (1)欽定憲法(きんていけんぽう、君主によって制定
 された憲法。大日本帝国憲法など)たること、
  (2)漸進主義をとること、
  (3)プロシアをモデルとすること、
  (4)内閣組織は議院と距離を保つこと、
  (5)二院制の採用、
  (6)選挙のあり方(制限選挙)など、
  その内容の大半が、明治憲法に採り入れらた。
  そして、この時・1881年、これを基にした「大綱領」
 が天皇陛下に上奏された。
1881年7月9日、明治生命が開業した。
  福澤諭吉門下の阿部泰蔵らにより、東京・木挽町に、
 有限明治生命保険会社が創業した(日本最初の生命保険
 会社)。
  設立は7月8日。三菱財閥系。
1881年7月、北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計
 台)が、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化し
 て日本初の時計台を設置した。
  「3面の文字盤を持ち、鐘の鳴る装置を備えた機械」を
 米・ハワード時計会社に注文したが、到着した機械が、
 予想以上に大きかったため、
  玄関正面部と、鐘楼を取り壊し、骨組みを強化して設
 置した。改修費は1329円。
  8月12日に、初めて4km四方に鐘を響かせて時を告げた。  
  この演武場は、1878年に建築されていた。
  尚、これは、開拓長官の黒田清隆の発案による。
1881年7月21日、黒田清隆が、北海道開拓使官有物の払下げ
 計画を太政大臣に申請した。
1881年7月29日、「中學校教則大綱」(文部省達第二十八号)
 が公布された。
  第一条:中学校ハ高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中
    人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ル
    カ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス
  第二条:中学科ヲ分テ初等高等ノ二等トス
  第三条:初等中学科ハ修身、和漢文、英語、算術、代
    数、幾何、地理、歴史、生物、動物、植物、物理、
    化学、経済、記簿、習字、図画及唱歌、体操トス
    第四条 高等中学科ハ初等中学科ノ修身、和漢文、
    英語、記簿、図画及唱歌、体操ノ続ニ三角法、金
    石、本邦法令ヲ加へ又更ニ物理、化学ヲ授クルモ
    ノトス
  第五条:中学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ高等中学科
    ノ外若クハ高等中学科ヲ置カス普通文科、普通理
    科ヲ置キ又農業、工業、商業等ノ専修科ヲ置クコ
    トヲ得
  第六条:普通文科ハ高等中学科中ノ三角法、金石、物
    理、化学、図画等ノ其科ヲ除キ或ハ其程度ヲ減シ
    修身、和漢文、英語、本邦法令等某科ノ程度ヲ増
    シ又歴史、経済、論理、心理等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第七条:普通理科ハ高等中等科中ノ和漢文、英語、本
    邦法令等ノ某科ヲ除キ又ハ其程度ヲ減シ金石、物
    理、化学、図画等某科ノ程度ヲ増シ又ハ代数、幾
    何、測量、地質、重学、天文等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第八条:初等中学科卒業ノ者ハ高等中学科ハ勿論普通
    文科、普通理科其他師範学科、諸専門ノ学科等ヲ
    修ムルヲ得ヘシ
  第九条:高等中学科卒業ノ者ハ大学科、高等専門学科
    等ヲ修ムルヲ得ヘシ
     但大学科ヲ修メソトスル者ハ当分ノ内尚必須ノ
    外国語学ヲ修メソコトヲ要ス
1881年7月29日、北海道官有物を、関西貿易商会に払下げ決
 定した。
  しかし、世論の反対で10月12日に中止に至る。
  7月21日に、北海道開拓使官有諸施設払下げ問題が起こ
 り、
  民権派は、激しく政府を攻撃した。
  これに対して政府は、10月12日、10年後に国会を開設
 するという詔書を出すとともに、大隈参議を罷免した。
  民権派は、10月29日自由党を結成した。
1881年7月30日、明治天皇陛下が、東北、北海道巡幸御発輦
1881年8月1日、開拓使官有物払下げ事件が起こる。
  黒田清隆が、官有物を格安で払い下げた。
1881年8月2日、「学生」の称の始り
  東京大学本科生が学生と呼ばれるようになる。
1881年8月19日「師範学校教則大綱」(文部省達第二十九号)
 が公布された。
  第一条:師範学校ハ小学校教員タルニ必須ノ学科ヲ授
    クル所トス
  第二条 師範学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第三条 初等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、物理、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、
    体操トス
     但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ以
    下之ニ傚フ
  第四条 中等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾何、
    記簿、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、体操
    トス
  第五条 高等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾可、
    代数、経済、記簿、本邦法令、心理、教育学学校
    管理法、実地授業及唱歌、体操トス
  第六条 師範学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ某学科ノ
    程度ヲ斟酌シ農業、工業、商業等ヲ加フルヲ得殊
    ニ女子ノ為ニハ本邦法令、経済等ヲ除キ若クハ某
    学科ノ程度ヲ斟酌シテ裁縫、家事経済等ヲ加フヘ
    シ
  第七条 高等師範学科卒業ノ者ハ小学各等科ノ教員タ
    ルヲ得ヘク中等師範学科卒業ノ者ハ小学中等科及
    初等科ノ教員タルヲ得ヘク初等師範学科卒業ノ者
    ハ小学初等科ノ教員タルヲ得ヘキモノトス
  第八条 師範学科ヲ修メントスル生徒ハ品行端正、体
    質強健、年齢十七年以上ニシテ小学中等科卒業以
    上ノ学力アル者タルヘシ
     但年齢ハ土地ノ情況ニ因リ十五年以上トスルモ
    妨ケナシ又初等中等学科卒業ノ者ハ高等師範学科
    第四年級ニ入ルコトヲ得
  第九条 師範学校ノ修業年限ハ初等師範学科ヲ一箇年
    トシ中等師範学科ヲ二箇年半トシ高等師範学科ヲ
    四箇年トス
1881年8月20日、勅を奉じて編纂せる元田永孚(もとだなが
 ざね、漢学者)の修身教科書「幼学綱要(ようがくこう
 よう、幼童のための欽定教訓書)」刻本(こくほん、印
 刷した本)完成する。
1881年9月、横浜に、連合生糸荷預所(れんごうきいとにあ
 ずかりしょ)が設置された。
  生糸取引方法の改革を主張する「生糸売込問屋」らと、
  それを阻止しようとする「外国商館」との間で紛争が
 生じた。
  茂木惣兵衛、原善三郎、渋沢喜作らの横浜生糸売込問
 屋は、従来、外国商館が現物を引き込んで検査、計量を
 行っていた取引は、弊害が多いと批判した。
  そして、検査・計量を、連合生糸荷預所で行う見本品
 取引に改めた。
  また、同所を通じて輸出生糸流通を独占的に掌握しよ
 うとした。
  外国商館は、一致して取引を拒否しつつ、対抗した。
  9月下旬~11月中旬まで、約2ヵ月にわたり外国商館へ
 の生糸売込みは途絶した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月11日土曜日

(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月~1881年3月)

題:(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月~1881年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年、出来事:
・明治天皇陛下が、東北・北海道を御訪問。
・松方正義が、大蔵卿(現在の大蔵大臣)に就任した。
 松方正義の緊縮財政政策で不況に陥る。
1881年、データ:
・租税総額に占める地方税の割合:36.2%
1881年、流行:
・唄 書生節:「書生、書生と軽蔑するな~大臣参議はみな
 書生~」
・「蛍の光(ほたるのひかり)」:日本の唱歌。
  原曲はスコットランド民謡、
  作詞は、稲垣千頴(いながき ちかい、国学者、教育
 者、歌人、教科書編集者)
・ステッキ・懐中時計が流行した。
・洋式自転車が、輸入されたのは、明治14年か15年の頃、
  反骨のジャーナリストにして一代の奇人である宮武外
 骨は、
  東京で、外国人がこれを乗り回しているのを見て、無
 性にほしくなり、明治17年に購入した。
  東京、横浜、大阪を駆け巡ったが、売り物は1台もなく、
 神戸の居留地で、ようやく中古を見つけ、
  談判の末、192円で買い取った。
  小学校教員の初任給が、5円の時代の192円で、
  大得意で郷里・高松に帰り、乗り回していたら、たち
 まち評判となった。
  日本一のバカ者と笑われた・・、
  『しかるに近年は大流行にて、山間にもベルの音を聞
 く、うたた灌漑にたえず』と、明治36年に記している。
1881年、マスコミ:
・新聞創刊:東洋自由新聞(1881年3月18日、創刊)
  西園寺公望が、フランスから帰国して社長となり、パ
 リで知り合った中江兆民を主筆として創刊した。
  自由民権派の日刊新聞(自由民権運動の中心的言論機
 関たらんとして発刊した)。
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数:62件
1881年、本・理論書:
・「東洋學藝雑誌(とうようがくげいざっし)」 創刊
   1881年10月に、東洋学芸社から創刊された自然科学
 を含む月刊誌。
  日本で最初の学術総合雑誌。
  杉浦重剛と千頭(ちかみ)清臣が井上哲次郎や磯野徳
 三郎らの協力のもとに、その範をイギリスの科学雑誌《
 Nature》にとり、啓蒙を旨として編集された。
・ 「社会平権論」(著:スペンサー/訳:松島剛)
  スペンサーは、明治前半期の日本に大きな影響を与え、
 『社会静学』が松島剛(まつしまこう)(1854―1940)訳
 『社会平権論』(1881~1883)の名訳によって紹介され、
 「民権の教科書」として愛読された。
・ 「時事小言(じじしょうげん)」(著:福澤諭吉)
  《時事小言》、および、その前後の一連の著作では、
 立憲制とイギリス流の議院内閣制・政党内閣制によって
 〈官民調和〉を実現するという原理が明確に示されてい
 た。
1881年、衣:
・地方の町村に靴を履く者が出る。
1881年、食:
・牛乳配達が始まる。
・東京に粉ミルク・バターの製造が始まり、その売捌店は
 市内13軒をかぞえた。
・第2回内国勧業博覧会に、11道府県より缶詰の出品あり、
 殆どが魚介を材料とした。
  また、2府3県から琺瑯(ほうろう)品が出品された。
  これは鍋等の飲食器であった。
・東京湾の金沢に、カキの移植がなされた。
・芝日影町で、日本人のラムネ製造が始まった。
1881年、住:
・東京下町に、1月と2月に重ねて大火があり、火災の後、
 内地釘が間にあわぬため、西洋釘を輸入して、にわかに
 洋釘使用が普及した。
1881年、その他:
・官吏と新聞記者の交際がふえ、好ましくない風潮だ(朝
 野新聞)
・東京職工学校が創立された。
 「東京工業大学」は、1929年設立され、東京都目黒区に
 本部を置く、日本の国立大学だが・・、
  その創立は、母体である東京職工学校が創設された1881
 年とされている。
・小学校で、体操と唱歌を正科とした。
  1881年5月の「小学校教則綱領」あたりから次第に小学
 校の教科として取り入れられたのが、「唱歌」と「体操」
・竹器の輸出が盛ん・・、
  竹材は、1878年から、見本的な輸出が行われていた。
  輸出先は、ドイツ・イギリス・アメリカ。
  注文待ちの形ではなく、どの様な需要があるかを考え
 て、積極的に売り込んだ。
  そして、輸出を本格化させて行った。
  1881年に、森村商事が、米国でモリムラ・ブラザーズ
 を立ち上げた。
  1880年代半ば~1890年代半ばにかけて、アメリカに輸
 出された竹材のうち、
  特に、盛んに取引されたのは、箒(ほうき)柄竹だっ
 た。
  当時のアメリカの需要は、年間4,000万本といわれた中
 で、日本からの輸出は1,000万本を占めた(アメリカ市
 場における、日本商品のシェア25パーセント)。
  いくら集荷しても供給が追い付かないという状況だっ
 た。
  しかし、残念なことに、この箒のアメリカ市場の最後
 は、日本の業者間の安値競争と、その多い需要に応える
 ため、粗悪品を輸出したため、信用を失い、まったく注
 文が来ないという状況となった。
・船会社が運賃協定をはかる。
  1880年頃の関西を起点とした航路に就航していた船は、
 110余隻、70余名の船主に達していた。
  この頃は、三菱と共同運輸の双方が、横浜を中心に激
 しい競争を繰り広げていた。
  日本の船会社は、満身創痍の状態で、この様な事では
 外国汽船会社に漁父の利を与えかねないと、政府首脳や
 両社の社長が話し合いを重ねた。
  1885年に漸く、両社が合併して、日本郵船会社を設立
 した。
  この日本郵船会社は、日本の海運業界のガリバー的存在
 で、三菱会社から汽船29隻、帆船1隻を、
  そして、共同運輸から汽船29隻、帆船10隻の合計69隻
 を保有していた。
  この日本郵船会社は、半官半民に近く、正副社長や理
 事は、保証期間中、政府が特命することになっていた。
  また、航路の開設についても、政府の命令に従ってい
 た。
  そして、この日本郵船会社が、圧倒的な大きさを誇る
 一方で、
  瀬戸内を中心とした船主は、互いに競争したり、協調
 したりを繰り返していた。
・二人乗自転車について、東京の新聞が、珍しげに記事を
 かかげた。
  現在の自転車の原形である『安全型自転車』が出来上
 がったのは1885年(明治18年)で、
  この時期に、日本への輸入も始まっている。
  国産化も早く進み、宮田製銃所(現:宮田工業)が、
 国産第1号を製作したのは、1890年(明治23年)。
・大阪鉄工所・小野田セメント・日本鉄道・大日本農会な
 ど設立された。
  後に、日立造船となる大阪鉄工所が、1881年に、イギ
 リス人のE・ハンターによって創立した。
  また、この年に、小野田セメントの前身の会社が、毛
 利藩士族・笠井順八によって、「セメント製造会社」と
 して山口県小野田に創立された。
  日本での最初の民間セメント会社で、1891年に、「小
 野田セメント製造会社」に改称した。
  また、日本初の私鉄である「日本鉄道」が、この年に、
 設立された。
  日本鉄道は、今・現在のJR東日本の路線の多くを建設・
 運営していた会社。
  また、公益社団法人の大日本農会が、この年の4月5日
 に設立され、我が国で最も古い団体となっている。
・パスツールが、狂犬病ワクチンを完成させた。
  1879年、パスツールが57歳の時、ニワトリコレラ菌の
 研究から、「弱毒性の病原体で免疫ができる」ことを発
 見した。
  1880年の58歳に至り、狂犬病の研究を始めた。
  そして、1881年2月、炭そ病のワクチンを開発した。
  そして、1885年7月6日、狂犬病にかまれたメイステル
 少年が来て、
  パスツールは、初めて人間に狂犬病のワクチンを注射
 した。
  メイステルは回復し、
  世界中から狂犬病の患者が押し寄せる状況となった。
  そして、1886年に、狂犬病治療、および、研究のため、
 パスツール研究所を設立した。
   1888年、パスツール研究所は完成した。
・ピカソが生まれた(1881年~1973年)
  スペインの画家のパブロ・ピカソが、スペインのマラ
 ガに生まれた(1881年10月25日)。
1881年1月4日、警察庁再設置(1月14日説あり)
  内務省の一部局となっていた東京警視本署が、警視庁
 として再び設置された。  
  設置(1874年)  内務省移管(1877年)
  東京に警視庁を設け憲兵を置く。
1881年1月15日、初代の警視総監として陸軍少将・樺山資紀
 が任命された。
  警察関係の整備が盛んに行なわれた。
1881年1月17日、明治法律学校(めいじほうりつがっこう、
 現在の明治大学)が、東京麹町有楽町に開校した。
  自由民権運動と強い関わりを持つ。
  私立の法律学校(校長:岸本辰雄)
1881年1月26日、東京大火(明治最大)
  神田より深川に延焼し、1万5200戸を焼失。
  神田区松枝町から出火した火は、折から北西の強風に
 あおられて瞬く間に東神田一帯を焼きつくし、
  日本橋馬喰町、横山町へと延焼し、神田川沿いの元柳
 町、吉川町から両国橋を越えて本所、深川に及んだ。
  この火災による被害は、神田、日本橋、本所、深川の
 4区52ヶ町におよび、全焼1万673戸、焼損面積12万7697
 坪(42万1400平方メートル)、
  被災者数3万6542人に達し、明治期最大の大火となった。
  この大火は、火元の町名をとって神田松枝町の大火と
 一般に呼ばれた。
1881年1月、記念祭・記念碑・記念盃などの語が流行する。
  それまでは「記念」を「かたみ」と読んでいたが、下
 記の様に「きねん」と呼びだしたという。
  『読売新聞』は1878年9月に大津の三井寺に「西南戦死
 人の記念碑(きねんひ)」が完成したという記事を、翌
 月には「学習院の紀念式(きねんしき)」が行われたと
 いう記事を掲載している。
  1879年に創刊された『朝日新聞』では、同年2月に大阪
 鎮台の有志が中之島に「紀念碑(きねんひ)」「明治記
 念標(きねんひょう)」の建設を計画中という記事が確
 認できる。
1881年2月2日、出版・雑誌統制
  新聞紙・雑誌などを内務省警保局へ納付方令達、検閲
 の強化。
  内務省警保局への新聞・雑誌等納入を命ず。
1881年2月11日、東京神田大火(7700戸焼失)
  東京・神田小柳町から出火。
  松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月11日に、
 神田区で大火が発生し、また、さかのぼって、その約1ヶ
 月前の、1880年(明治13年)12月30日にも、神田区で大
 火が発生している。
1881年2月21日、東京・四谷の大火
  東京・四谷箪笥町より出火して、1500戸焼失。
  午後8時ごろ、箪笥町22番地から出火、四谷から麹町に
 かけて延焼し、11時40分鎮火。
  10か町1496戸、6万7305平方m余(2万360坪余)を焼失。
1881年2月28日、ウラジオストク~長崎の航路が、日本郵船
 の前身・郵便汽船三菱会社により開設された。
  汽船1隻で3週に1回、両港を出港。
  朝鮮の釜山や元山に寄港。冬季は元山止り。
  長崎で横浜上海線、長崎天津線に連絡。
  1889年に、神戸まで延長し、
  また、1907年(明治40年)4月に、敦賀起点の直行便が
 大阪商船により開設し、長崎線が大きく後退した。
1881年2月、綿糖糸茶共進会の開催(山梨・静岡・愛知・三
 重県の連合)
1881年3月1日、第2回・内国勧業博覧会
  期間:3月1日~6月30日、会場:東京・上野公園
  コンドル設計の博物館新館(旧本館)が竣工し、美術
 館として使用された。
1881年3月11日、憲兵本部を東京に創設し、憲兵中佐・三間
 正弘を部長に任命した。
  フランスの国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範
 として、憲兵条例により設置された。
  憲兵制度は、竹橋事件の影響や、自由民権運動の牽制、
 警視庁の薩摩閥勢力の減殺などのために創設されたとも
 いわれる。
  憲兵は、軍組織内において警察活動を行い、特定の任
 務を果す特別部隊。
  通常、各国とも、軍隊内部の犯罪捜査、脱走兵の逮捕、
 軍刑務所の管理と警備、軍交通の整理、防諜、軍事施設
 の警備などの任務が与えられている。
  通常は、一般警察権の及ばない軍隊内や、軍隊に関係
 ある行政警察、司法警察の業務を併せ行う。
  (参考)行政警察:広義では、犯罪の捜査および被疑
 者の逮捕の作用である司法警察に対して、公共の安全と
 秩序を維持するために、一般統治権に基づいて、人の自
 然の自由を制限する作用を行政警察という (行政法学上
 の警察) 。
  司法警察:警察権の発動に基づく諸活動のうち、犯罪
 事件の捜査、被疑者の逮捕、身柄拘束のための対人的強
 制処分令状の執行などのほか、裁判所、検察官の命ずる
 法定事務も合せて総称する。行政警察に対するもの。
  統治権:(1)国土・国民を治める権利。
 (2)最高の権威、または、国家の主権と同義、または、
 類似の概念であるが、国家、政府、独立、民主主義など
 と関連して政治学や国際法において最も論争の多い言葉。
 (3)国民、および、国土を支配する権利。主権とか国権
 とよばれることもあり、また私法上の権利と区別された
 公法上の権利であるという意味で高権とよばれることも
 ある。国民に対する支配権を対人高権、領土に対する支
 配権を領土高権という。
1881年3月18日、東洋自由新聞(とうようじゆうしんぶん)
 が創刊された(2月18日説あり)
  自由民権派の日刊新聞。
1881年3月27日、越後・出雲崎の大火(約540戸焼失、死者
 26名)
1881年3月、参議・大隈重信が、早期国会開設・政党内閣制
 を内容とする意見書を出す。
  独断での即時国会開設の意見書の提出であったため、
 政府部内はもめた。そして、分裂した。
  1881年は、開拓使の「官有物払下げ事件」が明るみに
 出たことに対し、参議の大隈重信は、新聞も用いて、開
 拓使長官の黒田清隆を鋭く批判した。
  また、早期の国会開設を主張した。
  その内容は、イギリス流議院内閣制にもとづく憲法の
 制定と、国会の一刻も早い開設を主張する・・大隈の意
 見だった。
  この意見に対し、伊藤博文の考えは、ドイツ流の君主
 大権をのこしたビスマルク憲法を範とすべきとした。
  また、国会開設は時期尚早であり、立憲政体の整備は
 漸進的に進めるべきだとした。
  結果的に、伊藤が、大隈を政府から追放する事件「明
 治十四年の政変」に発展し、大隈は政府を去ることにな
 った。
  これは、大久保利通暗殺後の、政府部内の主導権争い
 でもあったが、
  世論がこの事件に対して激化し、
  また、自由民権運動が、さらに高揚の様相を呈したた
 め、政府は、近い将来の議会制度確立を約束し、運動の
 尖鋭化を抑えようとした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月9日木曜日

(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月~1880年12月)

題:(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月~1880年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年12月14日 伊藤博文が、立憲政体に関し建白した。
  概歴を記すと・・、
  1875年に、大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退
 助らの大阪会議での合意に基づいて、
  続いて、1875年4月14日に、明治天皇陛下が出された立
 憲政体の詔書によって、
  1875年4月25日、左院にかわり設置された元老院が、
  1876年(明治9年)9月、この元老院に対し、「国憲起
 草の詔」が発せられた。これによって、憲法制定の第一
 歩が踏み出された。
  日本は、比較的、明治の早い時期に、憲法制定に関す
 る意思を示していた。
  また、この時期は、1874年(明治7年)1月17日の民撰
 議院設立建白の後で、自由民権運動の機運が盛り上がろ
 うとする時期だった。
  そして、元老院は、1876年のこの時に、国憲取調委員
 を置いて、各国の憲法を調べ、
  1876年10月に、「日本国憲按(にほんこくけんあん)」
 と題する「憲法第一次草案」を奏上した。
  さらに、1878年に第二次草案をつくった。
  しかし、この案は、岩倉具視らの強い反対を受け、我
 が国の国体に十分適合するものではないとして、成案と
 なるに至らなかった。
  さらに再修正され、1880年に「日本国憲按」(第三次
 確定案)として奏上された(成案とならず)。
  1881年(明治14年)10月12日には、国会開設の勅諭が
 発せられ、政府として、憲法制定の本格的準備を進めて
 行く。
  憲法制定という、法典の中心をなす近代憲法の制定の
 動きは、上記の様に、1874年の民撰議院設立建白書に触
 発されたが・・、
  しかし、政府は、急速な憲法制定を望まず、漸進主義
 をとっていた。
  1875年に設立された元老院が、この方針の下で憲法案
 の作成の立場にあったが・・、
  そして、ベルギー憲法、プロイセン憲法に範をとった
 「日本国憲按」が、1876年、そして、1878年にできたが、
  その立憲的傾向は、岩倉具視などのいれるところでは
 なかった。 
  他方、明治10年代(1877年代)に活発化した自由民権
 運動の中から、
  イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな
 憲法私案(私擬憲法)が発表された。
  その憲法私案は、また、政府の採るところではなく、
 自由民権運動自体が、やがて抑圧されていった。
  この様な中で、伊藤博文が浮上してくる。
  1877年(明治10年)には、木戸が没し、
  また、同年の1877年には、西南戦争で西郷隆盛が敗死
 し、
  翌・1878年(明治11年)5月14日には、大久保も暗殺さ
 れた。
  伊藤博文は、この様な状況の中で、この頃の1878年5月
 15日に、二度目の内務卿を、大久保亡き後に継承し、維
 新の三傑なき後の明治政府の指導者の1人として、政治に
 否応なく、大いに関わって行った。
  1881年(明治14年)1月、伊藤博文は、日本の立憲体制
 をどう作るかを、井上馨や大隈重信と熱海で会談した。
  しかし、大隈が、急進的な構想を内密に提出して、独
 走するようになると、政界追放を決め、1881年10月に大
 隈下野の目的を果たした。
  そして、政府の重責を担(にな)って行く。
  伊藤は、1882年(明治15年)3月3日に、明治天皇陛下
 から憲法調査のための渡欧を命じられた。
  1882年3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直
 胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東
 巳代治らの随員を伴い、ヨーロッパへ向けて出発した。
  はじめ、ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・
 グナイストに教示を乞い、
  そして、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐
 条的講義を受けた。
  後に、ウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるロ
 ーレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行
 政について学んだ。
  これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝
 国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつなが
 った。
  その後、伊藤博文は、1885年12月22日に、内閣制度を
 創設し、初代の首相(組閣4回)となった。
  そして、枢密院の設置(1888年に創設)し、大日本帝
 国憲法の制定をして行った(1889年2月11日に公布、1890
 年11月29日に施行)。
  伊藤は、日本の近代国家の枠組みを作って行った。
  不平等条約の条約改正も実現して行った。
1880年12月15日 河野広中、松田正久、沼間守一などが、東
 京において、自由党の盟約を成立させた。
  自由党は、日本最初の全国的な自由主義の政党だった。
  国会開設運動が全国的に高揚した自由民権運動の中の
 この時・1880年に始まった。
  植木枝盛らから、全国に拡大した運動の組織を強化す
 るため、
  国会期成同盟を改組して、自由主義を標榜する政党を
 組織すべしとする意見が提出された。
  そして、国会論・財政論の対立に、開拓使官有物払下
 問題が加わって引き起こされた「明治14年の政変」によ
 り、国会開設の勅諭が発布される1881年10月12日に相前
 後して、この提案は議決され、
  次いで、自由党の盟約・規則の審議が行われ、組織され
 た。
  そして、重要な役割を果たした。
   1881年10月18日に、板垣退助・中島信行・後藤象二郎・
 末広重恭・馬場辰猪らが結成した。
  総理は板垣で、
  中央機関紙の『自由新聞』を発行した。
  しかし、1884年(明治17年)には、日本最初の近代政
 党は解散となる。
  急進派の行動を抑えることが出来なかったのが理由。
1880年12月23日、「集會條例」改正
  警視長官・地方長官に、「政治結社解散権」と、「管
 内における1年以内の演説禁止権を与える」ように改正さ
 れた。
1880年12月24日 大阪大火(南区に出火、約3000戸焼失)
  島之内出火:南区笠屋町約3000戸焼失
1880年12月28日、「教育令」改正
  改正教育令、公布(国家統制が強化される)
  河野敏鎌(こうのとがま)文部卿の手で、再度、国家管
 理強化の方向に改正された。
  太政官布告59号をもって改正し (通称、改正教育令) 、
 地方官の権限を強め、また、就学義務などを強化した。
   1886年になって、初代文部大臣・森有礼(もりありの
 り)の制定した「小学校令」の結果、廃止されるに至る。
1880年12月30日 東京・神田・日本橋で大火
  神田区で大火が発生し、神田、日本橋一帯の町家2188
 戸を焼失し、
  焼損面積2万5100坪(8万2830平方メートル)の大火と
 なった。
  さらに、松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月
 11日にも、神田区で大火が発生している。
  この大火によって、神田・日本橋両区の48か町、7751
 戸が全焼し、焼損面積は8万8328坪(29万1482平方メート
 ル)に達した。
  わずか40日ほどの間に3件の大火が発生し、この大火
 だけで79万5712平方メートルを焼失したというのだから
 凄まじい状況だった。何かがあったのか??
1880年4月23日、イギリスに、ウィリアム・グラッドストン
 の第二次内閣ができた。
  1880年の総選挙で、自由党が大勝したため、第二次グ
 ラッドストン内閣を組閣した。
  アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の
 地代を地代法廷で決めるなど、小作農保護を強化した。
  また、選挙区割りについて、野党保守党に妥協するこ
 とで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状
 態を実現した。
  グラッドストンは、小英国主義者であり、帝国主義に
 は消極的だったが、
  オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命
 を鎮圧してエジプトを半植民地とした。
  一方、マフディーの反乱が発生したスーダンは、放棄
 を決定し、
  国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣し、
 スーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとし
 たが、
  ゴードンは、撤退しようとせずにいた。
  そして、戦死してしまったため、内閣支持率に大きな
 打撃を受けた。
  1885年に、強行策のアイルランド強圧法を制定しよう
 とした。
  このことにアイルランド国民党は反発した。
  そして、ソールズベリー侯爵が率いる保守党との連携
 に動いた結果、議会で敗北し、総辞職した。
1880年、ハインリッヒ・ヘルツ(ドイツの物理学者)がラ
 ジオを発明した。
  以上のような情報があるが・・? おかしい??
  無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現した
 のは元エジソンの会社の技師だったカナダ生まれの電気
 技術者レジナルド・フェッセンデンという情報もある。
  レジナルドは、1900年に、歪みはひどいものの、最初
 の通信テストに成功した・・とある。
   そして、彼は、引き続き、ヘテロダイン検波方式や、
 電動式の高周波発振器を開発して、ラジオの改良に取り
 組んだ・・とある。
  そして、1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセ
 ッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶を
 ラジオ放送し、
  フェッセンデンは、この日、レコードでヘンデル作曲
 の「ラルゴ」を、そして、自身のバイオリンと歌で
 “O Holy Night”を電波に乗せた・・とある。
  そして、偶然に傍受した無線技術者たちを驚かせたこ
 の放送は、「世界初のクリスマス特別番組」で、フェッ
 センデンは「史上初のラジオアナウンサー&プロデューサ
 ー」と言える・・とある。
  また、この他に、グリエルモ・マルコーニ(イタリア
 の無線研究家)は、激しい無線送信距離競走の中、
  イギリスの資本と国力を背景に実用化を試み、成功さ
 せた・・とある。
  1901年12月12日、イギリス(ワイト島)からカナダニ
 ューファンドランドへ、
  大西洋を3000km横断する無線通信の実験を、25kwの出
 力で成功させた・・とある。
  1909年には、無線通信の発展に貢献したとして、ブラ
 ウンとともにノーベル物理学賞を受賞した・・とある。
  wikipediaは、元エジソンの会社の技師だったレジナル
 ド・フェッセンデンを最初の成功者としている。
  しかし、YAMAHAのホームページには、イタリアのグリ
 エルモ・マルコーニが、
  1896年に、イギリスで無線通信に関する特許を取得し
 たことをもって、発明者だと記している。
1880年頃、19世紀後半、ドイツの富豪ハインリヒ・シュリ
 ーマンが、私財を費やして、幼いころから夢に見ていた
 トロイアや、ミケーネの遺跡を発見した。
  彼は、ドイツの考古学者・実業家とされている。
  幼少期に聞かされたギリシア神話に登場する伝説の都
 市トロイアが実在すると考え、実際にそれを発掘によっ
 て実在していたものと証明した・・とある。
  しかし、これは、彼の功名心から、後から作られた話
 で、
  当時は、すでに、トロイアの遺跡の発掘は行われてい
 た。
  「トロイアの実在説」は、荒唐無稽なものではなかっ
 た・・と。
  この人の嘘は数多い、発掘の調査費を出すために、貿
 易などの事業に奔走しつつ、ホメーロスの「イーリアス」
 の研究と語学にいそしんだと・・、
  自作の著書に何度も書き、また、講演でも繰り返した
 が、
  実際には、発掘調査に必要な費用が用意できたので事
 業をたたんだのではなく、
  事業をたたんでから、遺跡発掘を思いついた・・など。
19世紀末頃、アメリカ合衆国が、フィリピンを植民地にす
 る。
  フィリピンが、19世紀末の米西戦争の結果、アメリカ
 の植民地となった。
  19世紀末の「フィリピン独立の父とされるホセ・リサ
 ール」・・、
  リサールは、1896年12月30日に銃殺された。
  1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国は、エ
 ミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援し
 た。
  しかし、実際は、後に判明するように、アメリカが、
 スペインからフィリピンを奪って、自国の植民地にする
 ことが目的だった。
19世紀になって、産業革命、各国はこれに追随した。
  産業革命は、一国内現象ではなく、原料獲得と廉価な
 工場製品の輸出で成立する世界システムであり、
  先進国の工業化は、後進地域の伝統産業や社会を破壊
 した。
  先進国の、後進国への破壊と搾取となった。
  イギリスによる、インドの綿産業の壊滅行為は、最大
 の不幸だった。
19世紀末以後の中国では、革命思想が高まり、多くの組織
 が出来上がっていた。
  1911年に、武昌で起こった反乱(第一革命)に各地で
 呼応し、辛亥革命が始まった。
  1912年1月、帰国した孫文が、南京で臨時大総統となり、
 中華民国の成立を宣言したが、
  清朝北洋軍閥の袁世凱が、その地位を奪い、清朝皇帝
 を退位させた。
1880年代、ヨーロッパは、18世紀末ごろから、アフリカの
 内陸部に対する興味を深めた。
  19世紀半ばには、ディヴィッド・リビングストンや、
 ヘンリー・スタンリーらの探検家が現れた。
  キリスト教の布教を目的としていた。
  1880年代から、第一次世界大戦前の1912年までにかけ、
 ヨーロッパの帝国主義の列強によって激しく争われたア
 フリカ地域の争奪と植民地化行為、修羅の奪い合いの行
 為だった。。
  イギリス、スペイン、ポルトガル、イタリア、フラン
 ス、ドイツ、ベルギーが、この悪の分割行為国だった。
1880年、アメリカ・インディアンは、そのすべての部族が、
 アメリカ軍に統制された。
  この先住民の方々は、奴隷状態に陥らされ、WASPの
 都合の良い様に処せられた。
  そして、居留地に移動させられ、
  また、卑劣な事に、再移動を繰り返された。
  これは、完全に、本来の持ち主からの略奪行為であっ
 た。
  そして、卑劣な事に、この移住の地は、まったく肥沃
 ではなく、その様な地を選んで移動させた。
  また、鉱物資源もなく、最小の土地を与えた。
  当然、インディアンの方々は、食糧自給が出来る訳が
 なく、土地を略奪した白人・アメリカ人(WASP)は、
  食料をアメリカ・インディアンの方々へ与えたが、救
 助などと呼ぶべきものではなかった。
  救助すべき状況に陥らせて「救助」と称した。
  しかし、白人・アメリカ人は、あくまで「救助」と称
 した。
  可哀想なことに、インディアンの方々は、やむなく、
 その食料に頼るしかなく、
  また、白人・アメリカ人の役人のなすがままの状況に
 なって行った、陥って行った。
  戦いの戦士は、今は居ない状況だった。
  アメリカ・インディアンの方々の生活状況は、全く不
 安定の中に置かれた。
  白人アメリカ人たちが、自分たちが利得したいという
 事によって、アメリカ・インディアンの方々が自給でき
 ていた領土を奪い、その利を横取りし、救援と称して、
 インディアンの方々へ全く不安定な生活に陥らせて、食
 料を与えた。
  まったく、ひどい話ではないか・・、
  インディアンの方々に、居留地と言う名の牢獄から、
 拘束された生活から、悲鳴と苦悩が生まれた。
  インディアンの方々は、祈るしかなかった。
  「もうすぐ春が来れば偉大な精霊が訪れ、狩猟の獲物
 たちが走り回る大地を取り戻してくれるだろう。
  そして、死んだ同胞たちもふたたびこの世によみがえ
 るだろう」・・と。
  インディアンの殺戮史が展開するアメリカ合衆国だっ
 た。
  人間性のかけらもない土地だった。
  豊かな土地は白人のもの。
  広大な領土を奪い、わずかな不毛の土地を与えること
 をしでかしていた。
  世界記憶遺産(ユネスコ記憶遺産)に登録せよ・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月8日水曜日

(増補版)363E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年7月~1880年11月)

題:(増補版)363E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年7月~1880年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年8月5日、「海員掖済会(えきさいかい)」の設立。
  前島密ほか、明治政府の要人や海運界首脳の約50名が
 発起人となり「海員掖済会」が設立され、
  わが国海運の振興を図るためや、海員に対する福利厚
 生が目的とされた。
  掖済の「掖」は、「たすける、よい方へ導く」、「済」
 は、「たすける、救う」の意。
  1881年(明治14年)6月、東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け、「海員寄宿所」を開設。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  高等海員養成所を併設し、高等海員の養成も着手した。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と、相次いで海員寄宿
 所を設け、主要な港に配置し終えた。
  1886年(明治20年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
  1898年(明治31年)10月20日、民法施行法の規定によ
 り社団法人の認可を受け、法人登記第1号となった(10
 月27日説あり)
  掖済会は、民法施行前からの独立の財産を有する社団
 として、民法施行法の規定により第1号になった。
  後に、海員に対する宿泊、職業紹介や、海員の養成、
 表彰、援護、医療等、海員の福利厚生に関する事業を網
 羅的に行なった。
1880年8月7日、新潟の大火(約5500戸焼失)
  新潟大川前通りで大火。焼失6200戸。
1880年8月8日、柏崎で大火。焼失2700戸。
1880年8月18日、日清両代表が、琉球事件を商議(協議)
 する。
  日本は、「琉球は日本に属し、中国が主張する琉球と
 の朝貢関係は属国関係とは言えない」と説明した。
  また、「琉球が、元来日本に属している」ことを説明
 した。
  江戸時代に朝鮮通信使というものがあった。
  これは、正式名称を「朝鮮聘礼使」と言う。
  聘礼(へいれい)は、結納のような贈り物を意味する。
  「朝貢(ちょうこう)」も「外国の使者などが貢物を
 差し出すこと」の意味で、これを属国関係とは、到底、
 言えない。
  この件は、後に、不幸にして起きた日清戦争で、
  日本と清国は、その条約において、朝鮮は完全な独立
 自主の国であると確認され、
  そして、この朝鮮も含め、また、台湾(日本のものと
 なる)も含めて、すべてが完全決着した。
  そして、台湾の方々を、日本人と見なすことも確認さ
 れ、条約が調印された。
1880年8月24日、三條西季知(さんじょうにしすえとも、公
 卿)が没した(70歳)
  幕末に、尊王攘夷派として活躍し、8月18日の政変で、
 七卿落ちの一人として、三条実美らと長州へ西走した。
  明治天皇陛下の侍従となる。
1880年8月28日、バイオリンの初国産
  東京・深川の楽器職人・松永定次郎が、初の国産バイ
 オリンを制作した。
  お茶の水のニコライ堂の楽士・デミチリーが持つバイ
 オリンを研究した末の作。
  後に、提琴(ていきん)と呼ばれ、上流階級の子女が
 習い、広まった。
1880年8月31日、エジソンの白熱電燈に特許権
1880年8月、東京・京橋に専修学校(現=専修大学)が開校
 (9月16日説あり)
  簿記夜学講習校(京橋区南鍋町)の仮校舎で挙行され
 たこの日を、専修大学の創立記念日とした。
  「明治13年(1880年)9月に、京橋区木挽町にあった明
 治会堂において開学しました」との挨拶の言葉もある。
1880年9月12日、東京・神田に東京法学社(現=法政大学)
 が開校(4月説あり、また、1881年5月説あり)
  また、東京法学校(とうきょうほうがっこう)は、
 1881年(明治14年)5月、東京法学社を母体として、薩埵
 正邦らにより東京府に設立された私立法律学校。
  現在の法政大学の前身である」・・の、説明文もある。
1880年9月15日、最初の美術学校、京都府画学校創立(現在
 の京都市立芸術大学)
  以下の説明文がある・・、
  「美術学部は、1880年(明治13年)に創設の京都府の
 画学校が起源。
  6月に、太政大臣三条実美により「日本最初京都画学校」
 と命名され、
  7月に、京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式が行
 われた」。
1880年9月1日、『信濃毎日新報(しなのまいにちしんぽう
 )』が創刊した。
  「信濃毎日新報は、1880年9月1日~1881年5月25日まで
 刊行されていた地方新聞で、信濃毎日新聞の前身の一つ
 である」との説明文がある。
1880年10月8日、小笠原諸島が、東京府に編入された。
  1880年(明治13年)10月8日、内務省から小笠原諸島を
 引継ぎ、
  同年・1880年10月28日に、出張所を設置した。
1880年10月22日、新聞・雑誌の処分
  政治的取締りのほか、風俗を壊乱(かいらん、秩序・
 風俗などを乱すこと)の新聞・雑誌も、発行禁止・停止
 の行政処分を行う事が決められた。
1880年10月25日、「君が代」が完成。
  「君が代」に曲がつけられる。
  司馬遼太郎の本「坂の上の雲(鎮海湾)」に・・、
  「三笠の乗組を構成しているなかで、軍楽隊というグ
 ループがある。(中略)
  航海中、軍楽隊としての日常的な任務が毎日二度あっ
 た。
  軍艦旗が午前八時にあげられ、日没時におろされる。
  そのつど軍楽隊は「君が代」を演奏するのである。
  あとは水兵と一緒に甲板をかけまわって訓練をうけた」
 ・・と。
  「君が代」は、英国人フェントンが、国歌の必要を説
 いた。
  そして、薩摩琵琶歌『蓬莱山』中から歌詞が採用され、
 作曲を試みたが、
  海軍から、相応しい楽曲でないとされた。
  そして、11月に至って、宮内省による曲が演奏された。
1880年11月3日、天長節御宴会において、海軍省から「君が
 代」作曲の委嘱をうけていた宮内省は、雅楽課の林広守
 の旋律を採用し、初演奏を行った。
  そして、この旋律は、ドイツ人音楽教師・エッケルト
 が和声を付し編曲して、海軍省軍楽稽古場で初めて試演
 されていた。
  1885年に制定され、「陸海軍喇叭(ラッパ)吹奏歌」
 の第一号に定められた。
  1888年には、吹奏楽譜が、海軍省から諸外国へ「大日
 本礼式」として送付した。
  1893年8月、文部省も、小学校の祝日大祭日唱歌の一つ
 として定めた。
  1890年代は、「君が代」を国歌と見なし、
  昭和の初期に至って、国歌となった。
  天長節前の10月30日に、宮内省雅楽課の林広守が編曲
 した「君が代」が採用されていた。
  君が代の歌詞が採用された『薩摩琵琶歌大全』には・・、
  めでたやな、君が恵みは久方の、光り長閑き春の日に、
 不老門を立出で、四方の景色を詠むれば、
 峰の小松に雛鶴(ひなづる)棲みて、谷の小川に亀遊ぶ、
  君が代は、千代に八千代にさざれ石の、巌となりて苔
 のむすまで、
 命長らへて、雨塊を破らず、風枝を鳴らさじと、いへば
 また、
  尭舜(ぎょうしゅん、徳をもって理想的な仁政を行な
 い、後世の帝王の模範とされた中国古代の伝説上の王)
 の御代も斯あらむ、
  かほと治まる御代なれば、千草萬木花咲き実のり、
 五穀は國にみちみちて上には金殿桜閣甍(いらか、家の
 上棟)をならべ、
  下には民の竈(かま、煮炊きをするところ)賑ひて賑
 ひて、仁義正しき御代の春、
  蓬莱山(ほうらいさん、中国、古代における想像上の
 神山、仙人が住み、不死の薬をつくっており、宮殿は金
 玉、白色の鳥獣がおり、玉の木が生えているという)と
 は是とかや、君が代の、千とせの松も常盤色、
  かはらぬ御代のためしには、天長地久(てんちょうち
 きゅう、天地が永久に不変であるように、物事がいつま
 でも変わらずに続くこと)と、
  国も豊に治まりて、弓は袋に、剣は箱に蔵め置く(戦
 争もまったくなく)、
  諌鼓苔深ふして(君主の善政により諌鼓を鳴らす必要
 がなくて苔が生えるほど、世の中がよく治まっているた
 とえ)、鳥もなかなか驚くやうぞ無かりける
1880年11月5日、「工場払下概則(こうじょうはらいさげ
 がいそく)」が制定される。
  官営工場払下概則:官営模範工場の払い下げ。
  この日に、布達された太政官(だじょうかん)布告(第
 48号)で、当時、政府が官営の鉱山、工場を民間に払い
 下げる契機となった法令。
  1870年代なかば以降、資本主義育成のための殖産興業
 政策が展開される過程で、
  財政節減と、民間産業奨励のため、政府は、それまで
 官営であった諸施設を、民間へ払い下げることを決定し
 た。
  しかし、営業資本の即時納入を前提とするなど、その
 条件が厳しかったため、払受け希望者がきわめて少なか
 った。
  その結果、同法令は、4年後に廃止され、
  以後、官営事業の民間払下げは、個別の事例ごとに承
 認される形をとった。
  また、西南戦争の戦費がかさんだため、その戦費をま
 かなうため、余儀なくされた予備紙幣の繰替発行(2700万
 円)と、第十五国立銀行からの借入れ(1500万円)は、流通
 紙幣量を一挙に増加させた。
  そして、その為、インフレーションが促進させた。
  そのため政府は、1880年秋から、政府紙幣の整理に本
 格的に取り組み、
  増税や、一部経費の府県への振替えなどによって、歳
 出余剰の捻出に努めるとともに、
  別に「工場払下概則」を定め(11月5日)、「工業勧誘ノ
 為メ政府ニ於テ設置シタル工場」を、漸次、民間に払い
 下げることになった。
  これにともなって、1881年4月、農商管理事務の統一の
 ため農商務省が設置され、内務省所管の直営事業所をす
 べて引き継いだ。
1880年11月10日 東京馬車鉄道(とうきょうばしゃてつどう)
 の設立が認可された。
  東京馬車鉄道は、日本初の馬車鉄道であるとともに、
 日本初の私鉄でもある。
  1880年2月13日に、発起人:種田誠一他3人が、松田道
 之東京府知事に敷設願を提出し、そして、設立された。
  予定する馬180頭と、馬車30両を、収容可能な車庫兼厩
 舎を設備する土地を用立てるのが容易ではなかった。
  出願した路線は三路線で、
  (1)新橋停車場(後の汐留駅)~新橋、京橋、日本橋、
 昌平橋、御成り通り~上野公園(後の上野恩賜公園)、
 下谷広徳寺前を抜け、浅草広小路(現:雷門通り)へ達
 する甲路線と、
  (2)甲路線と並行区間(新橋停車場~本町三丁目)か
 ら分岐し大伝馬町通り、浅草橋を経て、御蔵前通りを右
 折、浅草橋に至り蔵前、浅草広小路の乙路線と、
  (3)新橋停車場~新橋、乙路線と並行区間から右折し
 京橋~炭屋橋を越え、日本橋東仲通り出て、江戸橋~伊
 勢町河岸通り~馬喰町通りを右折、浅草橋に至り乙路線
 と並行・合流する丙路線・・の三つの路線が開業路線だ
 った。
  営業開始は、1882年(明治15年)6月25日に、新橋と日
 本橋の間を結んで営業が開始された。
1880年11月10日 国会期成同盟・第ニ回大会開かれる。
  國會期成同盟 第2回大会が、東京の元愛国社支社で開
 かれた。
  2府22県から各地の政治結社を代表する64人が参加し、
 国会開設請願を求める約13万人の署名が集まった。
  この大会で、議長に河野広中が選ばれ、
  そして、
  (1)運動で弾圧を受けた者や、その家族を扶助する
 ことを規定した「遭変者扶助法」が定められた。
  (2)合議書が制定されて、国会期成同盟の名称を「大
 日本国会期成有志公会」と改称する事、
  (3)本部を東京西紺屋町に置く事、
  (4)次回大会までに、各々の政治結社が、憲法私案
 (私擬憲法)を作成して持ち寄る事、
  (5)国会開設が実現するまで会を解散しない事・・な
 どが決まった。
1880年11月28日、幌内鉄道・手宮~札幌間が開通した。
  北海道鉄道の始まり。
  北海道最初の鉄道開通(小樽手宮駅より起工し、札幌
 間までが開通した)
1880年11月、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)が創設
 された。
  五代友厚らによって、大阪府に開設された商業教育機
 関で、
  この商業講習所の開設のきっかけとなったのは、福沢
 諭吉門下で、慶應義塾に学んだ加藤政之助による新聞論
 説であった。
  彼は、1879年8月、編集主幹を務める『大坂新報』紙上
 に社説を掲載し、
  全国の商業の中心として栄える大阪に、なぜ商法学校
 がないのか・・という問題提起を行った。
  同紙の経営者であり、大阪商法会議所(現・大阪商工
 会議所)の初代会頭でもあった五代友厚は、
  加藤の提起に応え、加藤および門田三郎兵衛(豪商)・
 桐原捨三(福沢門下のジャーナリスト)の3名を、仮創立
 事務委員とし、自らは創立員代表として、商業講習所の
 開設準備を進めていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月5日日曜日

(増補版)362E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年4月~1880年7月)

題:(増補版)362E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年4月~1880年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年4月22日、日本薬学会が創立された(2月か?)。
  薬学雑誌の1919年度版に・・、
  薬学会の創立はいつか? 本学会ホームページには「明
 治13年(1880年)、日本薬学会は我が国では最も古い学
 会の一つとして誕生しました」と書いてある。
  本当だろうか。ちょっと疑ってみよう・・と書いてあ
 る。
  しかし、以下の事も書いてある・・、
  しかし、薬誌の創刊号(明治14年12月)は長輿専齋、
 長谷川泰の祝詞のほかは学術論文のみ、
  以後の号も、学術記事と会員への通達ばかりで、その
 1、2年前という会の創立に関する記事は一切書かれて
 いない。
  諦めかけたら薬誌1910年(明治43年)6月号の付録に、
  「日本薬学会沿革史」というものがあった。
  30年後とはいえ創立メンバーの多くが存命中の公式記
 録である。
  既に、明治43年の薬学会は、医事、衛生、化学、博物
 の諸科にわたって会員2750余名を有する大規模学会に成
 長していた。
  しかし、沿革史によれば、明治13年創立当時は,東大
 本科の同窓生30人(明治11年、12年の卒業生19人中17人、
 在校生15人中13人)より成る、些々たる小集団に過ぎな
 かったという。
  「明治13年1月、在京の製薬士、神田明神境内の開花楼
 にたけなわ会して新年会を催す。
  酒酣なるころ、某氏発議して曰く、我ただが徒、同窓
 多年その交、水魚啻ならざれども一たび業を卒へて、校
 舎を去るの日は一別東西、容易に相見ること能はず。
  年つい処悠久竟に呉越の疎情を生ずるに至らんことを
 恐る。
  宜しく今において情誼を永遠に保持するの策を講ぜざ
 るべからず。
  その方法の一端として、今より定期の親睦会を設くべ
 し」。
  満場一致これを賛成し、
  翌2月、第4土曜日を卜して各自会きょ費15銭を醵し、
  神田仲町福田屋に親睦会を開く。
  これを第1回とし、以来、毎月集まっていたのだが、
 親睦以外何も目的がなかった。
  初めの頃こそ、談笑囲碁の間に多少の交歓の楽しみも
 ありしなれ、
  会を重ぬるに従い興味衰え、
  晩秋には、会する者わずか3人になってしまった。
  そして、このまま明治13年は終わってしまうのである。
  創立というには、少し寂しい一年ではないか?
1880年4月24日、皇室紋章の乱用禁止
  因みに、国際的にも、皇室の紋章である「十六八重表
 菊」は、
  工業所有権の保護に関するパリ条約第6条の3に基づい
 て、1967年に、同条約の同盟国に通知されていて、
  これらの国では、商標登録をすることはできない。
1880年4月、朝鮮の漢城(ハンソン)(現=ソウル)に、日
 本公使館が設置された。
1880年5月10日、弘前で大火。焼失1500戸(5月17日説あり)
  陸奥弘前の大火(約1000戸焼失ともある)
1880年5月20日、地価を、さらに5年間据え置きと決定する。
  1873年(明治6年)の地租改正時にも、農民一般の不平
 は大きく、
  そのために、多くの騒擾(そうじょう、集団で騒ぎを
 起こし、社会の秩序を乱すこと)が起こり、
  やっと平静をとりもどしたのは、つい最近のこと、
  それを、今、急に、米納に戻そうとすれば、必ず農民
 蜂起が発生するであろう・・、
  この年(1880年)5月に、1885年まで、地価の再査定を
 せず、
  地租改正当初、定めた地価に基づいて、地租を徴収す
 る旨布告したにもかかわらず・・、
  今、米納の旧制に戻せば、
 「当ニ信義ヲ民ニ失フベシ」と考え、不採択とせざるを
 えなかった。
1880年5月21日、越後三条町、大火。
  約2500戸焼失、死傷者64人
1880年5月、結婚紹介所が、大阪に開業。
  日本初の結婚相談所が、大阪に開設され、
  「養子女婿嫁妻妾縁組中媒取扱所」と表示し、
  養子縁組や愛人の紹介もしている。
  大阪に、人々が集まって来た時世を現わしていた。
  人々は、「高砂屋」として結構利用したような様子。
  また、この頃、自分の略歴や相手への希望条件を新聞
 に記載して出し、結婚相手を探す広告も登場した。
1880年6月16日、明治天皇陛下が、中央道地方を御訪問(~
 7月23日)
1880年6月29日、東京代言人組合が創立した。
  会長は星亨(東京弁護士会の前身)
  1872年(明治5年)代言人(弁護士の前身)制度発足
  1876年(明治9年)代言人免許制度開始
  1880年(明治13年)代言人組合加入を義務付け
    東京代言人組合(東京弁護士会の前身)結成
  1893年(明治26年)弁護士法(旧々法)制度 弁護士の
   名称採用
    弁護士試験制度の新設
    弁護士会への強制加入制度
    東京弁護士会創立
  1933年(昭和8年)弁護士法(旧法)改正 弁護士の法
   律事務独占
    実務修習制度新設
    女性に資格貸与
  1946年(昭和21年)憲法公布
1880年6月1日、逢坂山(おうさかやま)トンネルが完成。
  日本人のみによる、最初のトンネル工事(外国人技師
 に頼らず完成させた)。
  長さ:664.8メートル。
  地質が悪く、当時の技術力では難工事だったという。
  トンネルは、そのほとんどが滋賀県内に位置する。
  古代より逢坂関が置かれたところ。
  西南戦争の影響でなかなか着工できなかったが、1878
 年8月21日に着工した。
  工期:1年9ヶ月。
1880年7月6日、不公正条約の改正
  井上外務卿が、条約改正案を各国公使に交付(アメリ
 カと中国=清国を除く)
  日本人を未開人扱いするような列強各国に対し・・、
  新しく参議兼外務卿となった井上馨は、最難関のイギ
 リス公使に、上野景範に代え、省内きっての親英派で強
 硬派でもある森有礼を起用した。
  そして、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案
 を作って、
  1879年(明治12年)9月19日、森駐英公使に基本方針を
 訓令した。
  同年・1879年11月には、在欧各国の公使に対し、海関
 税則改正と、開港場における外国人の不当な慣習(日本
 人を未開人扱いすることなど)の是正、日本の行政規則
 における軽微な罰則・制裁条項をもつ規則についての外
 国人への適用などを骨子とした条約改正方針を、各国に
 通知するよう訓令を発した。
  1880年(明治13年)3月の官制改革において、参議と卿
 は分離されたが、
  井上外務卿のみは、条約改正に携わる関係から、その
 例外とされ、
  なお、井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は、前
 駐露公使・榎本武揚であり、
  外務少輔には、上野景範が任じられ、
  榎本が、海軍卿に転出すると上野が外務大輔に昇格し
 た。
  また、1880年5月以降は、横浜のアメリカ副領事であっ
 たヘンリー・デニソンが、外務省顧問に採用された。
  1880年6月に、井上案の骨子を基に修好条約改正案、お
 よび、通商航海条約改正案が準備され、
  同年・1880年7月6日に、条約改正会議を、日本で開催
 することをアメリカ・清国を除く、各国に通知した。
  この改正案の内容は、駐日オランダ公使からリークさ
 れ、7月16日付のジャパン・ヘラルド紙に掲載されてしま
 った。
  翌・1881年(明治14年)2月に、井上は、条約改正案を
 関係各国に回付した。
  列国の態度は、日本案は要求のみ多く、それに対する
 報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を求める
 姿勢が強かった。
1880年7月14日、日本の独り立ちの大津線、京都-大津間が
 全通した。
  京都・大津間の鉄道開通式(7月15日説あり)
  外国人技師に依頼せず、邦人技師のみにて竣工せる最
 初の鉄道。
1880年7月17日、刑法・治罪法制定(公布)。
  斬首を廃止(⇒82・1・1施行)、新刑法公布(1907年)
  この刑法(旧刑法)で、刑事手続において少年として
 扱うことができる年齢が、12歳未満の者の行為は罰せず、
  20歳未満の者は、刑を軽減すると規定した。
1880年7月20日、明治天皇陛下が、神戸行幸の折、勅使を
 湊川神社へ差遣し、楠正成に正一位を追贈し給う。
1880年7月26日、明治天皇陛下、中央道巡幸より御帰還。
1880年7月31日、『団々珍聞』が、政府批判の挿絵(戯画)
 を載せ、発禁となる。
1880年7月10日、東京大学文学部第一回卒業式 (岡倉天心、
 井上哲次郎らが卒業)
  この日の、学位授与式において,文学部で初の卒業生
 8名が巣立った。
  因みに、1881年(明治14年)9月、文学部は、二学科
 体制から、哲学科(第一科)、政治学及理財学科(第二
 科)、和漢文学科(第三科)の三学科体制に組織替えさ
 れた。
1880年7月、紡績業の振興策
  この時に、官立・広島紡績所(ぼうせきじょ)を起工
 した。
  明治政府は、輸入全体の3分の1前後を占める綿製品の
 輸入を減らすのと、国内の綿作の回復のために、紡績業
 の育成を図り、
  1878年から、労働者数十人で、2000錘規模の工場を、
 各地に建設させるという政策をとった。
  模範工場として、官営・愛知紡績所と広島紡績所を設
 立した。
  一方、イギリスから輸入した2000錘紡績機10基を、民
 間有志に、年賦で、払い下げ(十基紡)、
  また、県や民間の紡績所に資金を貸し付け、
  さらに、内務省技師を、技術指導に派遣した。
  その結果、1880年代半ばまでに、20ヵ所近い小紡績が
 開業したが、大部分は経営不振だった。
  むしろ、臥雲辰致(がうんたつむね、紡績機の発明家、
 1842年~1900年)が、1876年に発明した「ガラ紡」が一時
 的に広まった。
  臥雲辰致は、1873年に、最初の紡織機を発明し、特許
 を申請し、特許をとった。
  そして、この紡織機の製作を事業化し、1877年の上野
 開催の第一回内国勧業博覧会に出展し、最高の賞である
 鳳紋賞牌を受賞した。
  そして、これが、各地に広まった。
  しかし、後に、洋式紡績機が普及し、高速に均質で細
 い糸を紡ぐ事が出来る様になったので、ガラ紡機は、
 1890年ころから、衰退した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:沖縄は、どうなっているか?
.
  中国の自治区と言っても、今、建前だけの自治区とな
 っている。
  名目上のトップは、ウイグル人だったり、チベット人
 だったりするが?
  その下の幹部は、そのすべてが、漢族で押さえられて
 いる傀儡(かいらい)政権だ・・と本にある・・、
  今、女真族は、影も形もない・・という・・
  そして、その族の、話される言葉もない・・、
  その独自の言葉も・・なくなってしまっている・・
  この族は、どこに行ってしまったかもわからない。
  この女真族・・女真族と言えば「満州族」・・、
  約80年強の以前には、日本が手助けをしてあげて、満
 州国が建国されたのに、
  今、満州族・女真族は、地球上から姿を消した、居な
 くなっている。
  そして、チベットは、今、「中国の各省が、皆(みん
 な)が金と人を出し合って、チベットを助けましょう」
 ・・というキャンペーン・一大運動をやり・・
  金で黙らせて・・、
  そして、中国全土から漢族が、大勢、大挙して・・チ
 ベットに入って来て、
  チベット人が、居住区から追われることも起きて、
  結果的に、漢族に、チベット人が「やられた形」にな
 っている・・という・・
  豊かになった中国、金のある中国、結局、沖縄だって
 「金で黙らせて」、こんなはずじゃなかったのに・・と
 なる。
  そうなった後では・・「手遅れ」・・
  中国は、チベットに簡単に行けるように、国家プロジ
 ェクトで・・鉄道や道路を完成させた。
  不満を言うチベット人は、力で押え込まれている。
  これに抗議して・・焼身自殺した仏教徒は・・160人以
 上、居るが・・報道されることは、ほとんどない。
  そして、今・現在、チベットの一部は、完全に中国と
 なっていて、「自治区」の「じの字」も出て来ない・・
  中国は、「青海省」とか、「四川省」とかの名前を付
 けて・・自国の様に・・
  ここは「チベット」でした・・と、過去形になってい
 る。
  「沖縄もこうなる・・うかうかすると・・こうなる」。
  チベットの件も、満州の件も、意外と早く、事は進ん
 で行った・・
  だから、あなたのお子さんが・・大人になる頃には・・、
  「沖縄が・・どうなっているか?」・・クエスチョン
 です。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月3日金曜日

(増補版)361E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年2月~1880年4月)

題:(増補版)361E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年2月~1880年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年2月、横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう、
 為替銀行)が開業した。
  国立銀行条例(1872年に太政官布告)に準拠した銀行
 で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利
 益を軽減するため、現金(正金)で貿易決済を行なうこ
 とを主な業務とした。
  東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身。
  貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新
 後、急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日
 本を、国際金融面で支えた。
  そして、列強の銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展して
 行く。
1880年3月2日、米内光政(よないみつまさ、日本海軍軍人、
 政治家)が生まれた。
  岩手県盛岡市に旧森岡藩士の長男として生まれた。
1880年3月8日、公使任命
  スウェーデンの最初の公使に柳原前光(やなぎわらさ
 きみつ)が任命された。
1880年3月15日、愛国社が、第4回大会を開催する。
  3月17日に、国会期成同盟結成(改称?)し請願運動を
 開始する。
  自由民権運動が、いよいよ盛んとなる。
  国会期成同盟の結成(元:板垣退助の愛国社)
  第4回大会において、愛国社とは別として、国会期成同
 盟の大会が開会される事態になったため、
  この後、愛国社は、旧立志社系統の人々によって継続
 するが、
  1880年12月27日(明治13年11月26日)、東京において
 解散が論議された記録を最後に、歴史の舞台から退場し
 た。
1880年3月22日、小磯國昭(こいそくにあき、日本陸軍軍人、
 政治家)がうまれた。
  栃木県宇都宮に山形県士族(旧新庄藩士)の長男とし
 て生まれた。
1880年3月23日、内務省に駅逓官を設けた。
  これまで郵便業務は、「管内の公用通信網」であった
 が、これを再構築し、
  この1880年3月以降、これまでの「地方管内公用通信網」
 が、駅逓局と各府県との契約(特別地方郵便法)によっ
 て、急速に郵便ネットワークに組み込まれていった。
  これによって、日本全国、津々浦々まで、郵便集配が
 行なえるようになり、ネットワークが完成して行った。
  これは、「五街道を中心とした駅制」と、「地方管内
 公用通信インフラストラクチャー」とが包含され、出来
 上がって行き、そして、近代郵便制度が成立・完成して
 行った。
1880年3月24日、デンマークの最初の公使に長岡護美(なが
 おかもりよし、外交官、華族、貴族院議員)を、
  そして、スイス公使に鮫島尚信(さめじまひさのぶ、、
 薩摩藩士、外交官)を任命した。
1880年3月25日、前島密(まえじまひそか、官僚、政治家)
 が、駅逓総官に任用された。
  (幕臣の家に養子となり、後に貴族院議員となる)。
  1871年(明治4年)に駅逓頭(えきていのかみ)となっ
 て、近代郵便制度の確立につとめていた。
  そして、1881年(明治14年)に、官を辞し、1882年(
 明治15年)に結党された大隈重信の立憲改進党にくわわ
 った。
  前島密・略歴・・、
  1835年2月4日、越後国頸城郡下池部村(新潟県上越市)
         の豪農、上野家に生まれる。
  1845年(11歳)、高田藩儒・倉石典太の門に入る。
  1847年(13歳)、江戸に出る。
         苦学しながら医学・蘭学を学ぶ。
         ペリー来航により国防強化の必要性を
        痛感し、全国を周遊する。
         そして、砲台、港湾などを実地見聞す
        る、
         また、砲術・操練・機関学などを学ぶ。
         その後、箱館で武田斐三郎の門に入っ
        て、航海術・測量法を修得する。
  1865年(30歳)、薩摩藩の開成学校で英語を教授する。
  1866年(31歳)、江戸に戻る。
         そして、幕吏・前島錠次郎の家を継ぐ。
         また、兵庫奉行支配調役、遠州中泉奉
        行を経て、
  1869年(34歳)、新政府に出仕する。
         この頃、密(ひそか)と改名。
  1870年(35歳)、駅逓権正に就任。
         そして、維新後も存続した江戸時代の
        飛脚が、遅滞、不着が甚だしく、そして
        また、高額という飛脚に代わる郵便事業
        創設を決意した。
  1871年(36歳)、イギリスから帰国し、駅逓頭に任ぜ
        られ近代郵便制度を東海道~大阪間で開
        始した。
         また、郵便切手を発行した。
  1872年(37歳)、郵便を全国に実施する。
         そして、飛脚屋に陸運元会社(のち内国
        通運会社)の設立を勧めた。
  1873年(38歳)、郵便事業の政府専掌とし、全国均一
        料金制を確立した。
       「郵便」「郵便切手」の名称は前島の創意。
  1881年(46歳)、14年の政変により大隈重信と共に下
        野し、立憲改進党の結成に加わった。
  1886年(51歳)、関西鉄道会社社長に就任。
  1887年(52歳)、東京専門学校(早稲田大学)の校長に
        なる。
  1888年(53歳)、逓信次官に任ぜられる。
         そして、電話交換事業の創始に貢献。
         退官後、北越鉄道会社社長となり、直
        江津~新潟間の開通に尽力。
  1904年(69歳)、貴族院議員になる。
  1919年4月27日(84歳)、神奈川県三浦郡西浦村大字芦
        名(現在の横須賀市芦名)の別荘・如々
        山荘にて没する。
1880年3月30日、村田銃が発明される。
  陸軍省、村田経芳作製の単発銃を、軍用に採用した。
  この年に、単発の後装式施条銃を完成し、十三年式村
 田歩兵銃として制定された。
  口径 11mm、全長 1090mm、重量 4kg、最大射程 2000m
  陸軍少将・村田経芳(むらたつねよし)の考案。
  日本陸軍の最初の正式採用された国産の制式小銃。
  日清戦争に威力を発揮した。
  砲金(銅と錫、または、銅とスズと亜鉛の合金)の薬
 莢(やっきょう、銃砲の弾丸の発射薬を詰める円筒形の
 容器。底部に雷管がついている)を用い、射撃後、槓桿
 (こうかん、銃の遊底・ゆうていを操作するための握り)
 を引いて尾筒を開けば空薬莢ははじき出された。
1880年3月、 「愛國志林(あいこくしりん)」 が創刊
  愛国社(自由民権運動の全国的指導組織)の機関誌。
  1880年8月に、「愛国新誌」と改題した。
  資金、編集ともに高知の立志社が中心となり、大阪で
 発行した。
  基本的人権や人民主権を主張。
  自由民権思想の普及に大きく貢献した。
1880年、政府側も揺れていた『憲法制定と国会開設』
  この年の1880年(明治13年)に入ると、立憲体制に消
 極的であった岩倉具視も・・、
  自由民権運動への対応から、参議や諸卿から、今後の
 立憲体制導入の手法について意見を求めた。
  伊藤博文は、この年の1880年の暮れに意見書を提出し、
 漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議し
 た。
  後者は、公家出身の岩倉が嫌う点であったが、伊藤は、
 敢(あ)えて提出した。
  ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにし
 なかった。
  伊藤に相前後して、参議らから次々に意見書が出され、
 様々な意見が出された。
  その中で、1人・大隈重信だけが意見書の提出を先延ば
 しにしていた。
  1881年(明治14年)3月に至って、ようやく大隈が、左
 大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して、「
 密奏(みっそう、ひそかに奏上すること)」という形で
 意見書を提出した。
  大隈は、その中で、イギリス流の立憲君主国家を標榜
 (ひょうぼう、主義・主張などをはっきりと掲げ示すこ
 と)し、
  早期の憲法公布と、国会の2年後(1883年)の開設を主
 張した。
  このことを、1881年5月に、内容を知った岩倉は、その
 内容とともに、自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見
 書を出した経緯に憤慨した。
  岩倉は、太政官大書記官の井上毅に意見を求めた。
  井上毅は、大隈案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)
 との類似点を指摘して、一刻も早い対案を出す事を提言
 した。
  そして、岩倉の指示を受けた井上は、ドイツ帝国を樹
 立したプロシア式に倣った君権主義国家が妥当とする意
 見書を作成した。
  だが、大隈の密奏も、岩倉・井上毅の意見書も、他の
 政府首脳には詳細が明かされなかった。
  そのため、伊藤が、この事情を知ったのは、1881年6月
 末であった。
  ただし、伊藤は、大隈に対してのみではなく、岩倉・
 井上毅が、勝手にプロシア式の導入を進めようとしてい
 た事に対しても意を悪くし、説明に来た井上毅を叱責し
 た(6月30日)、
  そして、伊藤は、三条実美に辞意を伝えた。
  岩倉は、伊藤に辞意の翻意を求め、
  井上毅も、国家基盤を安定させてからイギリス流の議
 院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を
 求めたが、
  伊藤は、イギリス式かプロシア式かは、今、決める事
 ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的
 であった。
  この間にも、井上毅は、伊藤の盟友・井上馨(当初は
 将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入
 れ、
  伊藤は、薩摩閥と結んで、まず、憲法制定・議会開催
 時期の決定することを求めた。
  (参考)民情一新は・・、
  「文明論之概略」と共に、福沢諭吉の歴史観を知る重
 要な書で、
  「文明論之概略」において、福沢は、歴史を動かすも
 のは一二の英雄豪傑の力ではなくて時勢であるとした。
  この「民情一新」においては、更に、その論緒を発展
 させ、時勢を動かすものは交通の便によると説いた。
  19世紀文明の急速なる発達は、蒸汽船車・電信・郵便・
 印刷の発明工夫に基ずくもので、結局、蒸汽力を、人類
 が利用することを知ったのが、近時文明の進歩の最も大
 きな原因で、
  しかも、この蒸汽力利用の発明によって、これを発明
 した人類自身が急激なる変化に遭遇し、周章狼狽してい
 るのが、これが、現在の世態民情であると言った。
  新技術の発明が、歴史を動かす原因であるとする福沢
 の所説は、
  物質的生産力が歴史推進の原動力であるとするマルク
 スの所説に甚だよく似ているので、
  近年になって永田広志、小泉信三などの諸家の注目す
 るところとなり、研究論考の対象となった。
  福沢自身は、もちろんマルクスの学説などは知らなか
 ったのであるが、
  この書については相当に自信があったものと見えて、
 「日本学士の思想」を示すために英訳しようともした。
  この英訳は遂に成らなかったが、オーストリヤの碩学・
 シユタイン博士からその著書を贈られたとき、
  これに答礼するために、自著を贈るに当って、多くの
 著書の中から、この一冊だけを選んだ。
1880年4月5日、集会条例を制定し、公布した(施行)
  国会請願運動を拘束し、
  また、民心を扇動して、民心を動揺するのを防ぐため、
 「集会条例」が定められた。
  自由民権運動を弾圧、集会・結社の規制で・・、
  政治結社や集会を届け出制にしたほか、
  国家の安全に害ありと認めたときは許可しないこと、
  警官の集会場への派遣・臨席や、演説内容によっては
 集会の解散、この処分を受けた結社の禁止、
  軍人・警官・教員・生徒らの政治結社、および、集会
 への参加、政治活動の禁止などが定められた。
  また、集会の広告、政治結社相互の連絡、屋外集会の
 禁止を定めた。
1880年4月8日、2府22県、9万6924人の委託を受けた「国会
 を開設するの允可(いんか、許可)を上願する書」が起草
 された。
  そして、片岡健吉と河野広中(こうのひろなか)が代表
 で、太政官(だじょうかん)と、元老院に提出した。
  しかし、両方とも受理されなかった。
  これに興奮した全国各地の民権派は、続々と請願や建
 白の運動を始めた。
  しかし、いずれも却下されるか、回答を得ることがで
 きなかった(政府自身も、政府部内も揺れていたから)。
  同年の1880年11月、東京で開かれた国会期成同盟・第
 2回大会では、2府22県13万人を代表する64人が集まり、
 関東や東北などからも参加があり、運動は拡大した。
  この大会では、弾圧を受けた者の救援を図るための遭
 変者扶助法が定められた。
  また、翌・1881年の大会までに、加盟各社が憲法見込
 案を持参し、研究する合議がなされた。
  これを受けて、各地で憲法起草の取り組みが始まった。
  しかし、1881年に、『明治十四年の政変』が起こり、
 ついに、憲法草案の審議をすることなく、国会期成同盟
 は自由党結成への準備会と合流し、政党組織へと変わっ
 ていった。
  日本は、近代システムの建設への経過の中に居て、
 生みの苦しみをしていた。
  すべての日本国民が、誠実に、国家建設に邁進してい
 た。
1880年4月17日、「國會ヲ開設スルノ允可(いんか、許すこ
 と)ヲ上願スル書」を太政官に提出した。
  1881年3月、大隈重信が、國會開設の早期開設案を提出
1880年4月19日、河野広中・片岡健吉ら、約10万人の総代と
 して、国会開設の請願書を提出(却下される)
  片岡健吉,河野広中が、全国2府22県約9万7000名の請
 願委託者を代表して「国会を開設するの允可を上願する
 書」を提出した。
  この請願書は、120件に及ぶ国会開設請願書・建白書の
 中でも、9項目の請願理由を列挙した詳細なもので、
  その根拠が、天賦の人権、五ヵ条の誓文の国是、兵役
 ならびに地租負担者の権利、内政および財政の混乱、国
 権回復など広範にわたっていたことを示している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月1日水曜日

臨時ブログ:マインド・コントロールされる子供たち(キリスト教のマインド・コントロール教育)

臨時ブログ:マインド・コントロールされる子供たち
  (キリスト教のマインド・コントロール教育)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1822年、昔も、今も、キリスト教はマインド・コントロー
 ル教育に精を出す。
  1822年のこの年に生まれ、1890年に没したハインリヒ・
 シュリーマンは・・自著に書く、
  彼は、キリスト教聖職者の家系で・・、
  子供の頃には、様々な不思議な怪奇な話を聞き、聞か
 されたと。
  我が家の庭の小屋には、前任者牧師の亡霊が出ると。
  また、家の後ろにある小さな沼に、真夜中に若い女の
 幽霊が皿を持って出ると。
  また、村の堀をめぐらす小丘に、キリスト教時代以前
 の墓があって、それは巨人の墓だと。
  また、キリスト教時代の墓には、老盗賊の騎士が、自
 分の愛人の子を、金のゆりかごに入れ、埋め、葬ったと。
  また、アンケルス・ハーゲンには中世の城があり、
  その城には、厚さ2メートルの城壁の中を通じる秘密の
 通路が、深い湖の底に達していると・・、
  そして、そこに恐ろしい幽霊がさ迷い出る・・と。
  子供の頃の著者は、そのすべてが現存すると信じた・・
 とのこと。
  このキリスト教聖職者の家系に生まれた著者は、幼少
 よりこの様な話を聞き続け、洗脳され、マインド・コン
 トロールされて来た。
  そして、キリスト教の性悪説に、マインド・コントロ
 ールされ、
  世の中は悪いものだと、マインド・コントロールされ、
  人間は悪いものだと・・マインド・コントロールされ、
  世の中が・・良い訳はないと思い、
  マインドコントロールされた心は、人間を、その様に
 も見て・・そして、その様に、思考が展開して行く。
  その様なことにマインド・コントロールされた教育も
 なされ、その様に思考展開される子供たちとなって行く。
  (その様な中から政治家も生まれ、
   その様な思考形態で、政治がなされていく)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

(増補版)360E1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年1月~1880年2月)

題:(増補版)360E1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年1月~1880年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年、食:
・三田育種場(みたいくしゅじょう)孵卵器で孵化に成功
 したが普及せず。
  三田育種場は、1877年~1886年まで、東京の三田(現
 在の港区芝)で営まれていた官営種苗会社。
  農産物の優良な種苗の普及に努めるほか、牛馬や農機
 具の改良も行われた。
  馬匹(ばひつ、馬のこと)の改良の為に、三田育種場
 内には競馬場も設けられ、
  そこで行われる競馬は、上流階級を含む多くの観客を
 集めた。
  文献には・・、
  「土地を拡大していく過程で、明治7年7月に、三田四
 国町の旧島津邸の4万坪の土地を買収して付属の試験地と
 した。
  正式な名称は、内藤新宿勧業寮出張所附属試験地であ
 るが、後の三田育種場である。
  同地を買収したのは、内藤新宿の土地が各種の穀菜類
 のうち、麦、綿、藍等の試作に「地味良ラズ」との理由
 に加え、「所在が僻在」していたためでもあったといわ
 れている。
  これが、後の明治12年5月に、内藤新宿試験場の廃止理
 由にもなるのであるが、廃止の理由としては、その頃に
 は、三田育種場自体が「漸次整備」されていたこともあ
 る」
 ・・と、文献にあるごとく、
  明治新政府は、富国のために政策に誠実に邁進してい
 た。
・丸山三吉が、信州飯田で梨の栽培をはじめ、成功す。
  丸山三吉は、近世、果樹園始祖とある。
  梨の他に、リンゴ、モモ、ぶどうを栽培した模様。
・東京・浅草で、初代・神谷傅兵衛が「みかはや銘酒店」
 として洋酒の『一杯売り』を始めた。
  神谷バーの創業。デンキブラン(1882年)
・東京市内のビール販売店が、13店を数えた。
  そして、1880年代後半には、本格的な会社組織のビー
 ル会社が相次いで誕生していった。
  財閥や有力な資本家が、ビール産業の将来性に着目し、
 業界参入を企図したからだった。
  ジャパンブルワリー・カンパニー(Japan Brewery
 Company、以下JBC)が、我が国の最初の、日本ビール産
 業の創始の会社とされているが、
  このJBCは、すでに、1870年頃、横浜山の手の天沼に設
 立されたスプリングバレー・ブルワリー(Spring Valley
 Brewery)を前身として存在していた。
  また、このJBCの他に、1887年9月に、東京で、日本麦
 酒が、
  そして、同年・1887年12月には、札幌麦酒がそれぞれ
 設立され、
  また、関西では、大阪麦酒の設立の動きがあった。
  この頃のビールは、まだ高級品で、一部の人々にしか
 飲まれていなかったが、洋食の広まりとともに、ビール
 は、わが国に必ず普及していくと考えられていた。
1880年、住:
・和製の弗匣(どるばこ、金庫)販売の新聞広告が出た。
1880年、その他:
・地図記号が、初めて定められた。
  フランスにならって設けたもので70点ほど。
  明治13年図式と呼ばれる。
・「サガレン島出稼漁者寄合」が結成された。
  全国から13名が参加し、樺太漁業の開拓者となった。
  因みに、「樺太」と言えば南樺太を指したため、
  北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)とも呼んだ。
1880年1月10日、陸軍に軍用電信隊が開設された。
  アメリカでグラハム・ベルが電話機を発明したのは、
 1876年で、
  1年後の1877年に、日本に電話が渡来した。
  そして、この年に、創設の電信隊においてヘリオグラ
 フ式のもので通信した。
  回光通信機(かいこうつうしんき)は、光の明滅によ
 る視覚的通信(発光信号)を行う軍用通信機で、
  うち、光源に太陽光の反射を用いるものは、ヘリオグ
 ラフと呼ばれた。
1880年1月20日、シャム総領事・品川弥二郎(しながわやじ
 ろう、元長州藩士、政治家)の斡旋により、シャムと本
 格的な国交が開かれた。
1880年1月25日、交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(設立)
  1880年のこの日に、福沢諭吉が設立した社交クラブ。
  しかし、単なる社交クラブにとどまらず・・、
  慶応義塾出身者、および、縁故実業家やジャーナリス
 トが主となって、「国会開設」や「閥族打破憲政擁護」
 の運動を進め・・、
  1880年2月、『交詢雑誌』を創刊し、知識交換・世務
 諮詢を行い・・、
  憲政擁護運動の策源地となった。
  これは、立志社~愛国社系の自由民権運動に対抗する
 という政治的ねらいをもっていたとみられる。
  全国的な組織活動の結果、発足時、1800名の社員を擁
 して、
  構成員は、地主・豪農層や商工業者、銀行家、官吏、学
 者、言論人、教員など、中央・地方の有力者であった。
  1881年、私擬憲法として交詢社憲法案を発表した。
  翌年・1882年に結成された立憲改進党の有力な支持基
 盤となった。
  著名な社員に、三井財閥系の中上川(なかみがわ)彦次
 郎、武藤山治(むとうさんじ)、池田成彬(なりあき)らの
 実業家・・ら、
  尾崎行雄(ゆきお)、竹越与三郎(よさぶろう)、犬養毅
 (いぬかいつよし)、箕浦勝人(みのうらかつんど)などの
 政治家、
  本多精一(せいいち)、小山完吾(こやまかんご)らのジ
 ャーナリストがいた。
  1913年の大正政変の際に、憲政擁護会を結成して、第
 一次護憲運動の指導的役割を果たした。
  社交クラブとして現在に至っている。
  (参考)世務(せむ、世の中の務め)、
      諮詢(しじゅん、参考として他の機関などに
     意見を問い求めること)
      策源地(さくげんち、前線の作戦部隊に対し
     て、必要物資の補給などの兵站(へいたん)支援
     を行う後方基地)
1880年1月26日~27日、高崎で大火(28日説あり
  午後9時ごろ、本町から出火、折からの激しい北風にあ
 おられて次々と延焼した。
  まず炎は、久蔵町から田町、連雀町を焼き払い、翌日
 の午前1時過ぎ、檜物町まで灰にしてようやく焼け止まっ
 た。
  2500余戸焼失、土蔵50余棟が崩落。
  高崎ハリストス正教会が全焼した。
1880年1月31日、陸軍飾隊式を観兵式と改める。
  (参考)観兵式(かんぺいしき):旧日本陸軍で、天
    長節・陸軍始などで、軍隊が整列し、天皇陛下が
    御観閲(かんえつ)された儀式。
1880年1月、安田銀行が開業した。
  安田商店が、安田銀行(後の富士銀行、現・みずほ銀
 行)に改組(かいそ、組織を改めること)した。
  1864年に、安田善次郎が、日本橋で開業した乾物兼小
 銭両替商の安田屋がその前身で、
  1866年に、両替専門店として安田商店に改称した。
1880年2月3日、東京・日本橋町、浜町で大火。
  焼失21500戸。
  日本橋も、神田に匹敵する大火の多発地帯で、
  明治期に5件の大火がある。
  中でも、1879年(明治12年)12月26日、日本橋区箔屋
 町から出た火の手は、屋根の瓦が飛ぶほどの強い北西風
 にあおられて、たちまち現在の日本橋2丁目から3丁目、
 京橋1丁目、2丁目の一部に延焼し、八丁堀、新富、入
 船、湊、新川の一部、さらには佃の一部を焼く大火とな
 った。
  被害は、65か町、全焼1万613戸、焼損面積7万4234坪
 (24万4972平方メートル)にも及んだ。
  この大火からわずか1か月余りしか経たない翌1880年2
 月3日、また、日本橋で大火が発生した。
  日本橋区橘町から出火した火の手は、久松町から浜町
 1~3丁目を焼き、
  1776戸、1万5336坪(5万609平方メートル)が焼失した。
1880年2月5日、第3回 地方官會議
  1875年4月に出された「漸次立憲政体を立てるの詔」に
 基づき、
  民情(みんじょう、人民の心情。国民の気持ち)を通
 じ公益をはかるために、太政官の開催した地方官の会議
 で、
  1875年6月、第1回の地方官会議が、東京浅草の東本願
 寺で開催され、
  議長は、木戸孝允。
  議題は、地方民会、地方警察、土木工事などの諸案が
 審議され、
  町村会の開設、租税について国税と府県税の区分が設
 定された。
  この第3回は、伊藤博文を議長として、1880年2月に開
 かれ、
  三新法の改正と、区町村会法、備荒貯蓄法の制定が重
 要議題だった。[
  (参考)三新法(さんしんぽう)は、明治政府が制定
    した最初の統一的地方制度で、
     1878年7月22日に布告された地方制度に関する三
    つの新しい法で、
     (1)郡区町村編制法、(2)府県会規則、(3)地方税
    規則。
1880年2月5日、外国郵便為替が創設され、外国郵便為替の
 取り扱いが開始された。
1880年2月6日、横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこ
 う)の設立(開業は2月28日)
  国立銀行条例(1876年、太政官布告第106号)に基づい
 て設立された貿易金融の専門銀行で、
  その目的は、正貨によって為替取引を行い、貿易金融
 に資するにあった。
  (参考)正貨(せいか):本位貨幣(一国の貨幣制度
    の基準となる貨幣)で、
     通常は、金本位制度のもとで、金貨のほかに金
    地金・金為替を含む意味で用いられる。
1880年2月20日、陸軍省・海軍省・工部省、連署して太政官
 に製鉄所建設を稟議した(2月27日説あり)
  陸軍、海軍、工部各省の連合精鉄製造所(後の製鉄所)
 設立の請を配す
1880年2月28日、参議の各省兼任を止め、太政官と各省を分
 離する。
  太政官における太政官制は、王政復古後の1868年1月13
 日、太政官代が置かれ、三職(さんしょく)七科の制が発
 足した(ほどなく三職八局の制に変更)。
  ついで、閏(うるう)4月21日、政体書を発布して、立法・
 行政・司法の三権に分け、
  議政官(ぎせいかん)以下の七官を置き、
  これらの中央官庁を太政官と総称した(特別の官庁が
 あったのではない)。
  しかし、三権分立の実はなく、
  行政を担当する五官(行政・神祇(じんぎ)・会計・軍
 務・外国)の首位にあった行政官が、国政の決定・執行
 の中枢機関であった。
  版籍(はんせき)奉還後の1869年7月8日、官制の改革に
 よって、民部以下の六省を管轄する官庁として太政官が
 置かれ、ここに機構上、太政官制が成立した。
  しかし、この改革は、律令(りつりょう)的太政官制に
 基づく復古的なもので、三権分立制は消え、太政官の上
 に神祇官が置かれていた。
  廃藩置県後の1871年7月29日に、天皇陛下が親臨して万
 機(ばんき)を総判する正院(せいいん)、
  各省の長・次官が会合して行政事務を審議する右院、
  議院・諸立法の事を議する左院が置かれて、太政官三
 院制が成立した。
  そのもとに、外務以下の八省が設置され、
  中央集権国家の最高機関として、太政官は確立された。
  三院の中心は、正院にあり、天皇陛下を輔弼(ほひつ)
 する最高責任者の太政大臣以下、納言(なごん)(8月10日、
 左・右大臣と改称)、参議などがこれを構成した。
  1873年5月2日に、強大な大蔵省の権限を抑え、正院の
 権限を拡大するために改革が行われた。
  正院には、参議を議官とする内閣が設置されて、
 立法・行政をはじめとする国政の中枢機関となった。
  これに伴って、右院は、臨時に開く機関にかえられた。
  ついで、この年10月の征韓論をめぐる政変後から、参
 議と各省の卿(きょう)(長官)の兼任制が確立してゆき、
 参議の権限はしだいに強大となった。
  1875年4月14日に、漸次に立憲政体をたてるとの詔書が
 発せられたのに対応して、太政官制にも大改革が加えら
 れ、左右両院は廃止された。
  正院のもとに、元老院(げんろういん)と大審院(だいし
 んいん)が設置された。
  1877年1月18日に、地租軽減・政費節減の実施に伴う機
 構改革の一環として、
  正院の称は廃止され、名実ともに内閣が中枢機関とな
 った。
  1880年2月28日に、参議への権限集中に対する批判の高
 まりに対して、いったん参議と省卿の分離を図ったが、
 「明治十四年の政変」後の1881年10月21日に、兼任を復
 活した。
  同時に、法律規則の制定、審査にあずかる参事院を置
 いた。
  1885年12月22日に、太政官達第69号をもって太政官制
 は廃止される。
  同日発足の内閣制が、これにかわった。
  太政官制は、幕藩体制を解体した新政権が、律令古制
 への復帰を標榜(ひょうぼう)しつつ、全国統治を目ざし
 て創出した中央権力機構であった。
  当初、神祇関係機構の位置づけをめぐって混乱はあっ
 たものの、改革・整備は、太政官に強大な権限を集中す
 る方向で進められた。
  しかし、天皇陛下の輔弼の責任が大臣に限られ、
  国政の実質的運営にあたる参議は、この責任にあずか
 らなかったこと、
  国政の審議決定にあたる大臣・参議と、これを執行す
 る諸省の長官とは権限を区別され、
  前者が、上位に置かれていたこと、などの制度的特質
 からしばしば問題が引き起こされた。
  内閣制への移行によって、国務大臣と各省長官との重
 複制が成立し、輔弼と執行との一体化が図られていった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年5月30日月曜日

(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月~1880年1月)

題:(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月~1880年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年、出来事:
・憲法制定手続きの論議が活発化
・財政監督制度が始まった。
  会計検査院の歴史において、1869年(明治2年)、太政
 官(内閣の前身)のうちの会計官(財務省の前身)の一
 部局として設けられた「監督司」を前身とし、
  その後、「検査寮」、「検査局」と名称の変遷を経て、
  1880年(明治13年)に至り、太政官に直属する財政監
 督機関として誕生した。
  そして、1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法が発
 布されるとともに、「会計検査院」は、憲法に定められ
 た機関となった。
  以後60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁として財
 政監督を行って来た。
・消防本部の設立。
  この年・1880年に、内務省警視局に消防本部が設立さ
 れた。これが、東京消防庁の始まり。  
  消防は、基本的に警察の管理下に置かれた。
  これは、火事場泥棒を防ぐための措置で、
  消防経費は、国庫負担だった。
  そして、翌年・1881年、消防本署の下に6つの消防分署
 が設置された。
  消防第1分署(現在の日本橋消防署)
  消防第2分署(現在の芝消防署)
  消防第3分署(現在の麹町消防署) 
  消防第4分署(現在の本郷消防署)
  消防第5分署(現在の上野消防署)
  消防第6分署(現在の深川消防署) 
1880年、経済・財政:
・政府財政が深刻、
  西南戦争の戦費調達で、さらに火の車となった。
  負債利子だけで国庫収入の1/3となった。
  西南戦争は高くついた。
  そこで、1873年~1880年に、大蔵卿を務めていた大隈
 重信や、
  1880年~1881年に、大蔵卿を務めた佐野常民(さのつ
 ねたみ)は、不換紙幣を発行した。
  不換紙幣:正貨である金貨や銀貨との交換を保障しな
 い貨幣。不兌換の紙幣。
  世はインフレーションとなった。
  物価は上昇し、表面上の政府への歳入は、増えた様に
 見えたが、実質的に歳入減となり、さらに、財政は深刻
 化した。
・全国銀行株金総額の42%は華族が所有した。
1880年、物価:
・米価 1石=10円47銭
  この年、米価の平準を保つということで、米会所条例
 の改正が行われた。
  主な改正点は・・、
  (1)仲買人身元金の変更。
  従来、東京・大阪は200円、他は一等200円、二等100円
 を改めて、一律1000円とした。
  (2)売買証拠金を「10分の1」から「10分の2」とし
 た。
  (3)現場売買を禁止した。
  この結果、仲買人は激減した。
  また、取引は、低迷となる米会所が出た。
  当然、規制緩和の運動が、各地の米商会所から出た。
  政府は、その声を聞き容れざるを得なくなり、1882年
 に改正した。
  政府は、必死に税収を増やそうとしていた。
1880年、論:
・ 「言論自由論」(著:植木枝盛)
  1880年7月、愛国社から発行された。
  『言論自由論』の目次は・・、
  (発端)
  (言論ノ自由ハ天然ニ出ツルヲ論ス)
  (言論ノ自由ノ人生エ闕ク(か)可カヲサルヲ論ス)
  (言辞ハ文字ヨリモ優ル所アルヲ論ス)
  (語辞ノ勢力ヲ論ス)
  (人間必ス言論ノ自由ヲ有ス可キヲ論ス)
  (言論ノ自由ハ国家ニ於テモ亦緊要ナルヲ論ス)・・
  以下略
・ 「民権弁惑(みんけんべんわく)」(著:外山正一)
  外山正一(とやままさかず)は、明治時代の日本の教
 育家・文学者・社会学者・政治家。
  勝海舟の推挙により、1866年(慶応2年)、中村正直ら
 とともに幕府派遣留学生として渡英し、イギリスの最新
 の文化制度を学んだ。
  官立東京開成学校で、社会学の教鞭をとり、
  1877年、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編
 されると日本人初の教授となった。
  モースを東京大学に招聘したりし、
  また、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)に強く働き
 かけ、東京帝国大学英文学講師に招聘した。
  東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て、
 同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の文部大臣など
 を務めた。
  大日本帝国憲法発布の記念式典に、明治天皇陛下に対
 して「万歳」を始めて唱えたのは外山正一だったと言われ
 ている。
1880年、本・文学:
・美術雑誌 「臥遊席珍(がゆうせきちん)」 創刊。
・佐々木弘綱 「明治開花和歌集」
・戸田欽堂 「情海波瀾(じょうかいはらん)」
  政治小説の最初の作品。
  民権の確立(国会開設)を争点とする政府と人民の対立
 と調和が、アレゴリー(たとえ話的)に書かれている。
・翻訳物あきられ、漢字の本が売れるようになった。
・出版する者がふえる(有喜世新聞の記事)
・丸屋商社(後の、丸善・まるぜん)が丸善商社と改称し
 た。 創業(1869年)
  内外図書、雑誌、文具、事務機械、洋品雑貨の販売、
 および、輸出入のほか出版、教育機器の製造、不動産業
 を営む会社。
  1869年(明治2年)、福沢諭吉の門人・早矢仕有的 (は
 やしゆうてき) が、横浜に設立した丸屋商社がその前身。
  1869年1月1日、丸屋商社を横浜に創業し(事実上日本
 の株式会社第一号)、『丸屋商社之記』を制定した。
1880年、世相・流行:
・東京、京都、愛知で万年青、蘭の栽培が流行
・横浜で鶏の蹴合いが流行。
・甲斐絹(かいき、絹織物の一種)の騰貴で、女性の稼ぎ
 がよくなり、女天下になったと言われた。
  世界的にも稀(まれ)で、独自の技法がみられ、織物
 の風合いにも特徴がある、広幅の輸出甲斐絹が盛んに織
 られた。
・「ヘナチョコ」という新語が新橋花柳界から発生し、流
 行した。
  語彙については、「埴猪口、へな土でつくった猪口」
 の意味、
  「未熟な人や役に立たない人をあざけっていう語」と
 ある。
  そして、『集古』庚申第二号(大正9年4月25日発行)
 に、ヘナチヨコの由来と題する野崎左文(のざきさぶん、
 蟹廼屋左文)の文があり・・、
  明治14~15年の夏の事で、当時、風雅新誌の社主であ
 つた山田風外氏とおのれ等四五人で、同年神田明神に開
 業した今の開花楼に登つて一酌を催した。
  其時銘々の膳に附けて出した盃は、内部がお多福、外
 側が鬼の面になつて居る楽焼風の気取つたものであつた。
  是れは面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注
 がせるとこは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が
 立つた。
  イヤ是れは見掛によらぬ劣等な品物だヘナ土製の猪口
 だからヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが抑も
 の始まりで、
  それから以後、外見ばかり立派で実質の之に伴はぬも
 のを総てヘナチヨと呼び、ヘナチヨコ料理屋、ヘナチヨ
 コ芸者、ヘナチヨコ芝居などゝ盛んに此の新語を用ひた
 のが、忽ち新橋の花柳界に伝はり、
  又、落語家円遊などが高座で饒舌るやうになつた為め
 終に東京一般の流行言葉となつたのである。
  此のヘナチヨコなる語は、今でも猶屡々耳にする事が
 あるのに其の名付親たる当時の四五人の連中は過半故人
 となり、活き残つて居るのは風外翁とおのればかりとは
 座ろに今昔の感に堪へぬ。
1880年、演芸:
・三遊亭円遊 → ステテコ踊り
  11月:東京・浅草の並木亭で初代三遊亭円遊が「すて
 てこ踊り」を始め、大変な人気で流行した。
  落語が終わった後に、高座で見せた踊り。
  類似の芸を見せる芸人も他に現れ、それぞれに大変な
 人気となった。
  1880年は、コレラ流行の余波で寄席が不況であったの
 で始めた。
  尻っぱしょりで半股引を見せ、踊るものであった。
・三遊亭萬橘(さんゆうていまんきつ)→ヘラヘラ踊り
  「へらへら踊り」は、その後、大阪宗右衛門町の料亭・
 南地大和屋が復活させ、現在でも演じられている。
1880年、衣:
・近畿の綿作が激減しはじめる。
  二毛作は、経済性の追求を目的としていたため、その
 普及は著しかった。
  その為の「ため池の築造」が、二毛作の普及に間に合
 わないという事態が起こった。
  しばしば、水不足に見舞われる様になった。
  この対策として、いくつかの水田には米を作らないで
 おく『犠牲田』を設けて、慢性的な水不足に対応した。
  その犠牲田の有効活用を図ったのが田畑輪換農法だっ
 た。
  田畑輪換農法は、稲作と畑作を交互に行なうもので、
 いくつかの水田を畑として利用し、2~3年の周期で再び
 その土地を稲作に戻すという方法で、
  同時に、二毛作による連作障害や、地力の低下した田
 を休ませ、回復させるという長所もあった。
  輪換作物は、綿が主流だった。
  稲作期間中の綿の作付けは、江戸時代初期の「作物勝
 手作りの禁」により禁止されていた。
  明治になって、この規制が緩和に向かった。
  綿作は、水不足による犠牲田を有効利用するための作
 付けだった。
  また、綿作に向かった理由の一つに、朝鮮からの綿輸
 入の縮小があった。
  その為、国内の綿需要を満たし、また、需要の高まり
 から、綿作は、徐々に公認されて行った。
  (因みに、朝鮮からの綿輸入の減少は、豊臣秀吉によ
 る朝鮮出兵以来という古い時代にさかのぼる話がある)。
  こうして、二毛作を補うような形で無駄なく生産する
 ことができる田畑輪換が、その後、広く普及した。
  二毛作、田畑輪換により、大和平野の農業は著しく発
 展を遂げた。
  近世の中期では、水田の約3分の1(約6000ha)が輪換
 畑であった。
  しかし、明治の開国により、外国の安い綿が輸入され
 るようになると、大和平野で作られていた綿の需要は、
 一気に低下して行った。
  この頃、平野で営まれていた田畑輪換に作付けされて
 いた作物の内、綿の占める割合は4割にも達していた。
  綿を作付けしていたそれらの農家は、再び、田畑輪換
 を行なう前の状態、つまり、二毛作を強いられることに
 なった。
  綿作が衰退し、徐々に稲作が増えてくると、当然、再
 び用水が不足するようになった。
  根本的な水不足問題は、なにひとつ解決していなかっ
 た。
  そこで、再び、ため池の築造が始まった。
  明治に入って造られた「ため池」は、平野部に集中し、
 田をため池にするというような方法で行なわれた。
  綿による収入が激減していた農家に、平野部の田んぼ
 をつぶして水の確保を行なわなければいけないという辛
 い状況となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年5月28日土曜日

臨時ブログ:オバマ大統領! ありがとうございます。

臨時ブログ:オバマ大統領! ありがとうございます。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  以下は、2016年05月27日、アメリカ合衆国のオバマ大
 統領が、広島でスピーチした全文です。
  歴史に残るべき、大変素晴らしい演説でした。
  以下に、その全文を再掲させて戴きました。
  執筆者は吉川慧氏で、インターネット上のThe
 Huffington Postです。
  因みに、ハフィントン・ポスト(英語:The
 Huffington Post)は、アメリカ合衆国のリベラル系イン
 ターネット新聞です。
  また、同様に、インターネット上に掲載されたNHK
 の全文は、NHKのお好みに所々が意訳されているので
 注意を要します。
  末筆ですが、安倍首相、今回の御活躍、ありがとうご
 ざいました。
  御礼、申し上げます。
  [ スピーチ内容 ]
  71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、
 世界は一変しました。
  閃光と火の玉がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に
 導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。
  なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?
  私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が
 解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来
 ました。
  私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして、
 子供、数多くの朝鮮の人々、10人ほどのアメリカ人捕虜
 を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。
  彼らの魂が、私たちに語りかけています。
  彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして、自分た
 ちがどうなったのかを振り返るため、本質を見るように
 求めています。
  広島だけが際立って戦争を象徴するものではありませ
 ん。
  遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった
 頃からあったことがわかります。
  フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を
 作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具
 を狩りのためだけでなく、自分たちの同類に対して使っ
 たのです。
  どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。
  戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こさ
 れ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きて
 しまいます。
  多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。
  多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。
  そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人
 たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そし
 て、時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたこ
 とに苦しめられました。
  第二次世界大戦は、広島と長崎で、とても残虐な終わ
 りを迎えました。
  これまで人類の文明は、素晴らしい芸術を生み出して
 きました。
  そして、偉大な思想や、正義、調和、真実の考えを生
 み出してきました。
  しかし、同じところから戦争も出てきました。
  征服をしたいという思いも出てきました。
  古いパターンが、新しい能力によってさらに増幅され
 ました。
  そこには制約が働きませんでした。
  ほんの数年の間に6000万もの人たちが亡くなりました。
  男性、女性、子供達。
  私たちと全く変わらない人たちです。
  撃たれ、殴られ、あるいは行進させられ、飢えさせら
 れ、拘束され、またはガス室に送られて亡くなりました。
  世界中には、この戦争の歴史を刻む場所が沢山ありま
 す。
  慰霊碑が、英雄的な行いなども含めて、色々なことを
 示しています。
  空っぽな収容所などが、そういうことを物語っていま
 す。
  しかし、空に上がったキノコ雲の中で、私たちは人類
 の非常に大きな矛盾を強く突きつけられます。
  私たちの考え、想像、言語、道具の製作、私たちが自
 然とは違うということを示す能力、そういったものが大
 きな破壊の力を生み出しました。
  いかにして物質的な進歩が、こういったことから目を
 くらませるのでしょうか。
  どれだけ容易く私たちの暴力を、より高邁な理由のた
 めに正当化してきたでしょうか。
  私たちの偉大な宗教は、愛や慈しみを説いています。
  しかし、それが決して人を殺す理由になってはいけま
 せん。
  国が台頭し、色々な犠牲が生まれます。
  様々な偉業が行われましたが、そういったことが人類
 を抑圧する理由に使われてきました。
  科学によって私たちはいろいろなコミュニケーション
 をとります。
  空を飛び、病気を治し、科学によって宇宙を理解しよ
 うとします。
  そのような科学が、効率的な殺人の道具となってしま
 うこともあります。
  現代の社会は、私たちに真理を教えています。
  広島は私たちにこの真理を伝えています。
  技術の進歩が、人類の制度と一緒に発展しなければな
 らないということを。
  科学的な革命によって色々な文明が生まれ、そして、
 消えてゆきました。
  だからこそいま、私たちはここに立っているのです。
  私たちは今、この広島の真ん中に立ち、原爆が落とさ
 れた時に思いを馳せています。
  子供たちの苦しみを思い起こします。
  子供たちが目にしたこと、そして、声なき叫び声に耳
 を傾けます。
  私たちは罪のない人々が、むごい戦争によって殺され
 たことを記憶します。
  これまでの戦争、そして、これからの戦争の犠牲者に
 思いを馳せます。
  言葉だけで、そのような苦しみに声を与えるものでは
 ありません。
  しかし、私たちには共有の責任があります。
  私たちは、歴史を真っ向から見据えなけれなりません。
  そして、尋ねるのです。
  我々は、一体これから何を変えなければならないのか。
  そのような苦しみを繰り返さないためにはどうしたら
 いいのかを自問しなくてはなりません。
  いつの日か、被爆者の声も消えていくことになるでし
 ょう。
  しかし、「1945年8月6日の苦しみ」というものは、決
 して消えるものではありません。
  その記憶に拠って、私たちは慢心と戦わなければなり
 ません。
  私たちの道徳的な想像力をかきたてるものとなるでし
 ょう。
  そして、私たちに変化を促すものとなります。
  あの運命の日以来、私たちは希望を与える選択をして
 きました。
  アメリカ合衆国、そして、日本は、同盟を作っただけ
 ではなく友情も育んできました。
  欧州では連合(EU)ができました。
  国々は、商業や民主主義で結ばれています。
  国、または国民が解放を求めています。
  そして、戦争を避けるための様々な制度や条約もでき
 ました。
  制約をかけ、交代させ、ひいては核兵器を廃絶へと導
 くためのものであります。
  それにもかかわらず、世界中で目にする国家間の攻撃
 的な行動、テロ、腐敗、残虐行為、抑圧は、「私たちの
 やることに終わりはないのだ」ということを示していま
 す。
  私たちは、人類が悪事をおこなう能力を廃絶すること
 はできないかもしれません。
  私たちは、自分自身を守るための道具を持たなければ
 ならないからです。
  しかし、我が国を含む核保有国は、(他国から攻撃を
 受けるから核を持たなければいけないという)「恐怖の
 論理」から逃れる勇気を持つべきです。
  私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれ
 ません。
  しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。
  このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減ら
 し、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないよう
 にしなくてはなりません。
  それだけでは十分ではありません。
  世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破
 壊をもたらすことがあります。
  私たちの心を変えなくてはなりません。
  戦争に対する考え方を変える必要があります。
  紛争を外交的手段で解決することが必要です。
  紛争を終わらせる努力をしなければなりません。
  平和的な協力をしていくことが重要です。
  暴力的な競争をするべきではありません。
  私たちは、築きあげていかなければなりません。
  破壊をしてはならないのです。
  なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する
 必要があります。
  同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要が
 あります。
  つながりこそが人類を独自のものにしています。
  私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去
 から学ぶことができます。
  選択をすることができます。
  子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができ
 ます。
  人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易
 く受け入れない世界を作っていくことができます。
  物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。
  原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。
  殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいま
 した。
  アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持って
 います。
  アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。
  すべての人類は平等である。
  そして、生まれもった権利がある。
  生命の自由、幸福を希求する権利です。
  しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内で
 あっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありま
 せん。
  しかし、その物語は、真実であるということが非常に
 重要です。
  努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必
 要なものです。
  すべての人がやっていくべきことです。
  すべての人命は、かけがえのないものです。
  私たちは「一つの家族の一部である」という考え方で
 す。
  これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物
 語です。
  だからこそ私たちは、広島に来たのです。
  そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。
  たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人と
 のキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親から
 の優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこ
 の場所にもあったのだということを考えることができま
 す。
  亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たち
 です。
  多くの人々がそういったことが理解できると思います。
  もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。
  科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしい
 と考えています。
  国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省す
 るとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。
  世界はこの広島によって一変しました。
  しかし、今日、広島の子供達は平和な日々を生きてい
 ます。
  なんと貴重なことでしょうか。
  この生活は、守る価値があります。
  それを全ての子供達に広げていく必要があります。
  この未来こそ、私たちが選択する未来です。
  未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、
 私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょ
 う。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  共同通信が起こした英文があります。
  (注)として、以下が記されています。
   ※米政府が発表したものではなく、共同通信が起こし
 たものです。(共同通信)
  71 years ago, on a bright cloudless morning,
 death fell from the sky and the world was changed.
  A flash of light and a wall of fire destroyed a
  city and demonstrated that mankind possessed the
  means to destroy itself.
「核兵器なき世界」へ決意表明 オバマ米大統領、広島訪
 問
  Why do we come to this place, to Hiroshima?
  We come to ponder a terrible force unleashed in
  the not so distant past.
  We come to mourn the dead, including over 100,000
 Japanese men, women and children, thousands of
 Koreans and a dozen Americans held prisoner.
  Their souls speak to us. They ask us to look
 inward to take stock of who we are and what we
 might become.
  It is not the fact of war that sets Hiroshima
 apart.
  Artifacts tell us that violent conflict appeared
 with the very first men.
  Our early ancestors, having learned to make blades
  from flint and spears from wood, used these tools
  not just for hunting but against their own kind.
  On every continent the history of civilization is
  filled with war, whether driven by scarcity of
 grain or hunger for gold, compelled by nationalist
 fervor or religious zeal. Empires have risen and
 fallen, peoples have been subjugated and liberated,
 and at each juncture innocents have suffered -- a
 countless toll, their names forgotten by time.
 The World War that reached its brutal end in
 Hiroshima and Nagasaki was fought among the
 wealthiest and most powerful of nations.
  Their civilizations had given the world great
 cities and magnificent art.
  Their thinkers had advanced ideas of justice and
 harmony and truth, and yet the war grew out of the
 same base instinct for domination or conquest that
 had caused conflicts among the simplest tribes, an
 old pattern amplified by new capabilities and
 without new constraints.
  In the span of a few years some 60 million people
 would die; men, women, children -- no different
 than us, shot, beaten, marched, bombed, jailed
 starved, gassed to death.
  There are many sites around the world that
 chronicle this war -- memorials that tell stories
 of courage and heroism, graves and empty camps, the
 echo of unspeakable depravity.
  Yet in the image of a mushroom cloud that rose
 into these skies, we are most starkly reminded of
 humanity's core contradiction -- how the very spark
 that marks us as a species, our thoughts, our
 imagination, our language, our tool making, our
 ability to set ourselves apart from nature and bend
 it to our will -- those very things also give us
 the capacity for unmatched destruction.
  How often does material advancement or social
 innovation blind us to this truth? How easily do we
 learn to justify violence in the name of some
 higher cause?
  Every great religion promises a path to love and
 peace and righteousness.
  And yet no religion has been spared from believers
 who have claimed their faith has a license to kill.
  Nations arise telling a story that binds people
 together in sacrifice and cooperation, allowing for
 remarkable feats, but those same stories have so
 often been used to oppress and dehumanize those who
 are different.
  Science allows us to communicate across the seas,
 fly above the clouds, to cure disease and
 understand the cosmos.
  But those same discoveries can be turned into ever
  more efficient killing machines.
  The wars of the modern age teach us this truth.
  Hiroshima teaches this truth.
  Technological progress without an equivalent
 progress in human institutions can doom us.
  The scientific revolution that led to the
 splitting of an atom requires a moral revolution as
 well.
  That is why we come to this place.
  We stand here in the middle of this city and force
  ourselves to imagine the moment the bomb fell.
  We force ourselves to feel the dread of children
 confused by what they see.
  We listen to a silent cry.
  We remember all the innocents killed across the
 arc of that terrible war, and the wars that came
 before, and the wars that would follow.
  Mere words cannot give voice to such suffering.
  But we have a shared responsibility to look
 directly into the eye of history and ask what we
 must do differently to curb such suffering again.
  Some day the voices of the Hibakusha will no
 longer be with us to bear witness.
  But the memory of the morning of August 6, 1945
 must never fade.
  That memory allows us to fight complacency.
  It fuels our moral imagination, it allows us to
 change.
  And since that fateful day we have made choices
 that give ushope.
  The United States and Japan forged not only an
 alliance, but a friendship that has won far more
 for our people that we can ever claim through war.
  The nations of Europe built a union that replaced
  battlefields with bonds of commerce and democracy.
  Oppressed peoples and nations won liberation.
  An international community established
 institutions and treaties that worked to avoid war
  and aspired to restrict and roll back and
 ultimately eliminate the existence of nuclear
 weapons.
  Still, every act of aggression between nations,
 every act of terror and corruption and cruelty and
 oppression that we see around the world shows our
 work is never done.
  We may not be able to eliminate man's capacity to
 do evil, so nations and the alliances that we
 formed must possess the means to protect ourselves.
  Among those nations like my own that hold nuclear
 stockpiles, we must have the courage to escape the
 logic of fear and pursue a world without them.
  We may not realize this goal in my lifetime, but
 persistent effort can roll back the possibility of
 catastrophe.
  We can chart a course that leads to the
 destruction of these stockpiles, we can stop the
 spread to new nations, and secure deadly materials
 from fanatics. And yet that is not enough, for we
 see around the world today how even the crudest
 rifles and barrel bombs can serve up violence on a
 terrible scale.
  We must change our mindset about war itself -- to
 prevent conflicts through diplomacy and strive to
 end conflicts after they've begun; to see our
 growing interdependence as a cause for peaceful
 cooperation and not violent competition; to define
 our nations not by our capacity to destroy but by
 what we build; and perhaps above all reimagine our
 connection to one another as members of one human
 race -- for this too, is what makes our species
 unique.
  We're not bound by genetic codes to repeat the
 mistakes of the past.
  We can learn.
  We can choose.
  We can tell our children a different story, one
 that describes a common humanity, one that makes
 war less likely and cruelty less easily accepted.
  We see these stories in the Hibakusha: the woman
 who forgave the pilot who flew the plane that
 dropped the atomic bomb because she recognized what
 she really hated was war itself; the man who sought
 out families of Americans killed here because he
 believed their loss was equal to his own.
  My own nation's story began with simple words.
  All men are created equal and endowed with certain
 inalienable rights,including life, liberty and the
  pursuit of happiness.
  Realizing that ideal has never been easy, even
 within our own borders, even among our own citizens.
  But staying true to that story is worth the effort.
  It is an ideal to be strived for, an ideal that
 extends across continents and across oceans.
  The irreducible worth of every person, the
 insistence that every life is precious, the radical
  and necessary notion that we are part of a single
  human family: that is the story that we all must
  tell.
  That is why we come to Hiroshima, so that we might
  think of people we love, the first smile from our
 children in the morning, the gentle touch from a
 spouse over the kitchen table, the comforting
 embrace of a parent.
  We can think of those things and know that those
 same precious moments took place here 71 years ago.
  Those who died, they are like us.
  Ordinary people understand this, I think.
  They do not want more war.
  They would rather that the wonders of science be
 focused on improving life and not eliminating it.
  When the choices made by nations, when the choices
 made by leaders reflect this simple wisdom, then
 the lesson of Hiroshima is done.
  The world was forever changed here, but today the
 children of this city will go through their day in
 peace.
  What a precious thing that is.
  It is worth protecting and then extending to every
 child.
  That is a future we can choose, a future in which
 Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of
 atomic warfare, but as the start of our own moral
 awakening.
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年5月27日金曜日

(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月~1879年12月)

題:(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月~1879年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1879年8月、東京大学医学部成る(氷川清話)
1879年8月、勤倹の詔下る(氷川清話)
1879年8月、流行:ウサギを弄ぶこと再び流行
1879年9月15日、製茶共進会を、初めて横浜に開催(産業一
 種目の共進会はこれを端となす)
  明治前期における政府の殖産興業政策の一つ。
  内国勧業博覧会と並ぶ明治政府の勧業政策。
  明治政府の工業化政策は、1873年の内務省設置以後、
 大きく変化した。
  財政難や貿易収支の悪化によって、工部省の直営事業
 に対する批判が高まり、『民業の育成』が緊急の課題と
 して強調されるようになった。
  試験場・学校の経営、民業助成などに当たる勧業寮(1877
 年に勧農局と改称)や、各種博覧会事務局が、内務省内に
 設けられた。
  共進会は、産業の振興を図るため、産物や製品を集め
 て展覧し、その優劣を品評する会。
  明治初年代より各地で開催された。
  各地方の代表的な物産や技術を一堂に集め、一般の観
 覧に供するとともに、生産者、販売者に優劣を競わせて
 品質改良、産業振興を図らせた。
  1879年9月、横浜で開かれた製茶共進会と、
  1879年11月、生糸繭共進会が最初で、
  明治期に殖産興業政策の一環として生糸、茶、織物な
 どを中心に各地で催された。
  特に、輸出奨励の観点から生糸類と製茶、また、輸入
 防遏(ぼうあつ、侵入や拡大などを、防ぎとめること)の
 観点から綿、砂糖、織物の共進会が重要視された。
1879年9月29日、教育令(きょういくれい)の制定
  文部卿・寺島宗則が、教育令を布告した。
  この時、学制を廃止し、公布された学校制度全般に関
 する基本法令である教育令(明治12年太政官布告40号)
 が制定された。。
  全文が47ヵ条で、学制に比べて簡略であり、また、教
 育を地方の管理にゆだねた。
  1880年12月、太政官布告59号をもって改正し (通称、
 改正教育令) 、地方官の権限を強め、また、就学義務な
 どを強化した。
1879年10月1日、長崎商法会議所を築町に創立
  初代会頭に、松田源五郎が就任した。
1879年、電気通信連合に加盟した。
  電気通信連合は、国際電気通信連合(略称ITU)の前身
 で、
  このITUは、電気通信分野での国連専門機関の一つ。
  本部は、ジュネーブ。
  加盟国数は、193か国(2012年)。
  通信の設備と運用の標準化、無線通信業務別の周波数
 割当、衛星軌道割当、通信の世界的拡充の計画と調整が
 任務。
  現存の国際組織のなかでもっとも古く、
  1865年に、ヨーロッパの20か国が設立した国際電信連
 合(万国電信連合。日本は1879年に加盟)を起源とし、
  その後の国際無線電信連合を合体して、マドリード国
 際電気通信条約(1932年作成、1934年発効。日本は原加
 盟国)により今日のITUの形となった。
1879年10月13日、川路利良(かわじとしよし)が没した。
  警察制度の創設者(45歳)。
  薩摩藩の城下士、郷士と足軽との間の与力の家柄に生
 れた。
  大久保利通の腹心として日本の警察制度の確立に努力
 し、西南戦争では陸軍少将として警察隊を率いて従軍し
 た。
  明治5年には、西郷隆盛の推挙もあり、各国警察制度視
 察のために渡欧をしていた。
  大久保利通のもとで、終始、警察権力の強化をはかる
 ことにつとめた。
1879年10月25日、目黒火薬製造所
  日本海軍の目黒火薬庫を白金火薬庫に移転し、目黒火
 薬庫の跡地に火薬製造所を建設する事にした。
  明治維新後、明治政府は、薩摩藩が1863年に建設した
 敷根火薬製造所を海軍に移管し利用した。
  しかし、1877年3月10日の西南戦争の際に、西郷軍の手
 に渡るのを恐れて、政府自ら同製造所を焼き払ってしま
 った。
  このため、火薬をすべて輸入する事になるが、
  経済的な理由や、軍事上、兵器の国内生産が必要なこ
 とから、
  東京近辺に火薬製造所を設置することにした。
  当時、火薬製造は、水車で行ったので、水利と、製造
 した火薬の運搬に適した土地を探していた。
  江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(
 1863年)9月の項の一節に・・、
  「同時二十六日昼、四半(よつはん)時頃、荏原郡目
 黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、
 過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕
 の者七十余人といふ」
  幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆
 発の記録がある。
  安政4年(1857年)幕府は、軍事上の必要から三田村の
 新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地
 域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐ
 ら、火薬庫)を移転し、
  さらに、中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒
 村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水
 車場を建てる計画を打ち出した。
  村民らは、火薬の爆発を恐れたが逆らえず、その代わ
 りに用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を
 支払うことを幕府に認めさせた。
  こうして目黒砲薬製造所がつくられた。
  明治政府になって、新政府は、国防と内乱鎮圧などに
 備え、兵器・火器の補強を図る必要があった。
  そのために、新たに火薬製造所の建設場所を捜してい
 た。
  そして、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村が候補地
 となった。
  三田村は、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に
 恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、
 火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していた。
  1869年(明治12年)、田畑をつぶし、道路を開き、水
 路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて、三田用水に
 玉川上水をひき入れ、
  翌年の1870年に、東西1町16間、南北4町10間、面積
 2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。
  ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎え、
  1885年(明治18年)、操業を開始した。
  そして、製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われ、生
 産額もしだいに増加して行った。
1879年10月27日、徴兵令改正(免役条項を縮小、輜重輸卒
 を説く)
  (参考)輜重輸卒(しちょうゆそつ)旧日本陸軍で、
    輜重兵の監督のもとに輜重の輸送に従事した兵卒。
     のちに輜重特務兵と改称。
  (参考)兵卒(へいそつ)1 最下級の軍人。旧日本陸
    軍では兵長以下。 2 軍人。つわもの。軍兵。兵。
  (参考)輜重(しちょう)軍隊の糧食・被服・武器・
    弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。
  (参考)輜重兵(しちょうへい)旧日本陸軍で、輜重
    の輸送を任務とした兵種の一。また、その兵士。
1879年10月28日、札幌測候所が国営移管。
  文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称した。
1879年10月28日、水上警察署を東京に開設した。
  都道府県警察は、海、空を含む都道府県の区域全域に
 ついて治安維持の責務を担っているが、
  海、河川、湖沼等の水上において行われる警察業務を
 とくに水上警察と呼称し、警察庁地域課が指導調整して
 いる。
  水上警察制度は、1877年(明治10年)2月の河海警察規
 則の制定、および、東京警視本署(警視庁)の河海警察
 仮出張所の設置に始まり、
  同年・1877年8月、河海警察が水上警察と改称され、
  さらに、1879年10月、水上警察所が廃止され、水上警
 察署が設置されてその確立をみた。
  そして、現在に至っている。
1879年10月、自由民権期の政論雑誌の『嚶鳴雑誌(おうめ
 いざっし)』が創刊された(求友社)
  自由民権運動高揚とともにその言論の一舞台となり、
 月5回刊まで発展、部数も増加した。
  しかし、1883年5月10日に75号で終刊し、「東京輿論新
 誌」と合併した。
1879年11月1日、横浜で、生糸の共進会が開催された。
1878年11月5日、共同競馬会が設立され、
  11月30日に、第1回共同競馬会が開催された。
  競馬の歴史・・
  1860年(万延元年)横浜本村(現在の元町商店街あた
 り)で日本初の洋式競馬(馬蹄形の馬場)が開催された。
  因みに、この年に、咸臨丸がアメリカへ出発した。
  1862年(文久2年)10月1日~2日、横浜居留地(現在の
 中華街あたり)にいた居留外国人のレクリエーションと
 して、現在の競馬の原型となる近代競馬が始まった。
  (環形馬場で正式に番組を決めて実施した)
  1865年(元治2年)横浜のイギリス第20連隊駐屯地で競
 馬が開催。
  1866年(慶応2年)横浜の根岸に、幕府の手によって
 「根岸競馬場」が竣工した。
  1867年(慶応3年)1月「根岸競馬場」で競馬開催。 
  1869年(明治2年)神戸の生田神社東側の競馬場で居留
 外国人による競馬が開催  
  1870年(明治3年)九段(靖国神社境内)で、最初の招
 魂社祭典競馬を開催  
  1872年(明治5年)札幌神社で祭典競馬を開催(札幌競
 馬の発祥)  
  1875年(明治8年)函館招魂社祭典競馬を開催、
  御所内の吹上御苑(円周馬場)で天覧競馬開催。
  西郷従道が、根岸競馬場にて、日本人馬主として最初
 の勝利を挙げた。
  1878年(明治11年)横浜レースクラブ、横浜レースア
 ソシエーションが解散し、新たに横浜ジョッキークラブ
 が発足した。
  1879年(明治12年)祭典競馬が契機となり、各地に競
 馬場が開設し、共同競馬会社が発足した。
1879年11月7日、愛國社が、再興後の第3回大會を大阪・江
 戸堀で開催した。
  愛国社第3回大会開催し、国会開設請願を決議する。
1879年12月6日:北海道・函館で大火。
  33ヶ町がした焼失。焼失家屋2326戸。
  魚市場より要塞付近まで、焼死者多数。
  焼跡に対し、前年同様の道路の大改革を行なう。
1879年12月10日、印刷局が、当用日記帳(懐中日記)の刊
 行を始めた。
  日本で最初に印刷製本して出版された日記帳は、大蔵
 省印刷局の初代局長の得能良介が、この年・1879年に、
 官吏に配った『懐中日記』とのこと。
1879年12月20日、青森県・尻屋埼灯台に霧笛が設けられた。
  青森県下北半島北東端の尻屋崎燈台に日本で初めての
 霧笛が設置された。
1879年12月26日、東京・日本橋・京橋の大火
  東京・日本橋・京橋で大火。
  日本橋区箔屋町から出た火の手は、屋根の瓦が飛ぶほ
 どの強い北西風にあおられて、たちまち現在の日本橋2
 丁目から3丁目、京橋1丁目、2丁目の一部に延焼し、
 八丁堀、新富、入船、湊、新川の一部、さらには、佃の
 一部を焼く大火となった。
  被害は65ヶ町、全焼1万613戸、
  焼損面積7万4234坪(24万4972平方メートル)。
1879年12月31日、人口調査
  現在の国勢調査にあたる「全国の総人口の現在調査」
 (当時は「現在人別調」と称した)を志し、
  その調査方法や問題点を把握するために、1879年(明
 治12年)に、日本における国勢調査の先駆となる「甲斐
 国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施した。
  同年・1879年の12月31日午後12時現在人を対象として
 行い、
  調査人:2,000人、
  調査費用は、約5,760円、
  そして、調査対象となる甲斐国の現在人数は、397,416
 人という結果を得た。
  いきさつは・・、
  杉亨二(すぎこうじ、日本近代統計の祖と言われてい
 る)が、人口調査の必要性を説いた。
  国勢調査の試験調査とも言うべき「甲斐国現在人別調」
 を実施した。
  「現在人別調の調査は根本である。国家必要なる事で
 ある」として、全国総人員の現在調査を計画し、
  実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査
 経費等の大体の目途を知るため甲斐国で実施調査した。
  甲斐国を選んだ理由は・・、
  (1)人口の規模が適当である
  (2)管内の人口の移動が比較的少ない
  (3)東京に近く指導、連絡等が便利である
  戸籍法の戸口調査が、戸籍編成のために戸籍上の人を
 実地に点検調査したのと異なり、
  実際の住人を調査地域こそ甲斐国に限られたが、近代
 センサスとして我が国の国勢調査の先駆をなすもの
  「我が国における国勢調査の最初の試験調査」と位置
 づけられる
  調査員の2千人が、1人の調査員=1日平均39軒調査
  結果(甲斐国現在人数)=39万7416人
  調査費用=5759円99銭5厘8毛(1人当たりの費用=1銭
 4厘4毛9絲)
1879年12月、盲人学校の校舎が落成した。
  1875年5月に、古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香
 らが集まって盲人教育の必要について話し合い、
  盲人学校を設立するための主体として「楽善会」を発
 足させることを決めた。
  翌年・1876年、前島密・小松彰・杉浦譲・山尾庸三が
 加わり、
  また、1876年には、楽善会訓盲院の設立認可が下り、
 東京府より3000円が下賜された。
  校舎は、築地3丁目、約4783坪。
  1879年12月に、総面積約100坪、総レンガ造りの2階建。
  室内は総漆喰塗りの校舎が落成し、
  1880年より、授業が開始された。
1879年、アメリカのカリフォルニアの「州憲法」で、中国
 人の参政権を剥奪し、拒否した。
  正常な中国の方々を、精神異常者と同様な処置とした。
  完全な人権侵犯・人権侵害行為で、
  州として国として、一番大切にしなければならない基
 本的人権を侵犯する非民主国家的行為で、最低の行為で
 ある。
  アメリカは時々このような事をする国で、どこに民主
 的な国家制があると言うのだ。
  人権尊重は第一義に守るべきもので、人権を踏みにじ
 るこの様な行為は、人類の皆を敵にしている。
1879年1月11日~7月4日、ズールー戦争が起きた。
  イギリスと南アフリカのズールー王国との間で戦われ
 た戦争。
  最新式の銃を用い、先進的な兵器を持ったイギリスが、
 弱い者いじめをした戦争。
  (強い者による、領土略奪・軽蔑行為)
  相手のズールー王国の方々は、槍と盾しかもたないと
 いう現地の方々に対し、血なまぐさい戦争行為をした。
  植民地欲しさの戦争。
  イギリスは、本国から大部隊をどんどん送り込んだ。
  敗ける訳はない、この様なやり方をした。
  そして、ズールー国家は滅亡した。
  イギリスによって、桁違いのズールーの方たちが殺さ
 れた。
  この戦争にもキリスト教がからんだ。
  現地のキリスト教宣教師が戦争を煽った。
  戦勝したイギリス軍指揮官に、ヴィクトリア十字勲章
 をイギリス国家は授与した。
  イギリスは、望まぬ戦争をしたとプロパガンダしてい
 るが、応援部隊の増派や、勲章授与など国家主導の戦争
 だった。
   望まぬ戦争ならば、戦争を止めさせることもできた
 のに、その様な行動はまったく無く、遅れた武器しか持
 たない人々に対して、卑劣な殺戮の戦争が続けられた。
  それも、体制を立て直して、また、戦争開始するとい
 う二度もの戦争が、南アフリカ共和国(アパルトヘイト
 の酷い行為もあった)の地で行なわれた。
1879年10月22日、アメリカのトーマス・エジソンが白熱電
 球を発明した。
  トーマス・エジソンが炭化した紙を使用したフィラメ
 ントで白熱電灯の実験に成功した。
  12月31日の公開実験で、40時間の点灯に成功した。
  (別の説)エジソンは、日本産の竹を焼いて作った炭
 素を用いた白熱電球を完成させる。
1879年10月7日、ドイツ・オーストリア同盟(~1918年)
  ドイツとオーストリアの間に存続した対ロシア防御同
 盟。
  1878年のベルリン会議以後、ドイツとロシアとの関係
 が悪化したので、ビスマルクは、オーストリアとの結合
 を強めた。
  そして、1879年10月7日に、両国間の秘密軍事同盟が、
 ウィーンで調印された。
  この条約は、締約国の一国がロシアから攻撃された場
 合、他の一国が共同して戦うこと、
  また、ロシア以外の国からの攻撃をうけたときには、
 好意的中立を守ることなどを義務づけた。
1879年11月、アルタミラの洞窟が発見された。
  人類最古の美術である洞窟絵画の第1号が、スペイン北
 部で発見された(洞窟長さは270メートル)。
  発見者は12歳の女の子。
  この地方の領主であり、アマチュアの考古学者である
 マルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵は娘と洞窟に入っ
 て行った。
  そして、偶然に発見した。
  アルタミラ洞窟壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分で
 主にマドレーヌ期(約18,000年前~10,000年前)と呼ば
 れる旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、ト
 ナカイなどの動物を中心とする壁画だった。
  侯爵は、これらの絵が旧石器時代のものであると考え、
 1880年に発表した。
  しかし、当時は、旧石器時代の絵が知られておらず、
 学界からは侯爵の捏造だと疑われた。
  20年ほどの間に、他の地でも、いくつかの洞窟壁画の
 事例が報告されたが、
  何と、これらの絵にも当初は否定的な見解がなされた。
  侯爵は、失意の中、1888年に、57歳でこの世を去る。
  しかし、1900年代に入ると、科学的な調査も進み、こ
 れらの洞窟壁画は間違いなく旧石器時代の絵だと認識さ
 れるようになった。
  侯爵の死から15年後、侯爵の論文を否定したトゥルー
 ズ大学のカルテラック教授は、洞窟壁画に関する肯定的
 な論文を発表し、
  かつて、侯爵の論文を否定したことを謝罪した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive