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2016年7月29日金曜日

(増補版)388E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年10月~1883年12月)

題:(増補版)388E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年10月~1883年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年10月16日、東京商工会が設立された。
1883年10月22日、独逸学協会学校が設立された。
  獨逸学協会学校(どいつがくきょうかいがっこう)は、
 獨逸学協会によって設置された。
  戦後、設立された獨協大学の源流と位置づけられてい
 る。
  この時、設立された独逸学協会学校は、私立の旧制学
 校で、中等教育機関であったが、
  一時期、高等教育課程である「専修科」も併設した。
  また、獨逸学協会は、1881年に、「ドイツ文化の移植」
 を目的に設立された団体。
  学校設立に際し、初代学長の西周や加藤弘之ら、当時
 の啓蒙学者が関与した。
  そして、ドイツ啓蒙主義を基礎とした。
  啓蒙思想は、中世以来のキリスト教会によって代表さ
 れる古い伝統的権威や、旧来の思想を、徹底的に批判し、
  理性の啓発によって、人間生活の進歩・改善を図ろう
 という思想。
  イギリスではロック・ヒューム、
  フランスではモンテスキュー・ボルテール・ディドロ、
  ドイツではレッシングなどに代表される。
1883年10月24日、陸軍監獄則を制定した。
  軍事監獄(ぐんじかんごく)とは、戦争犯罪などを起
 こした軍人を専門に収容する刑務所。
  戦争犯罪とは、国際条約の定める戦闘法規に違反する
 行為で、戦争における非戦闘員の殺戮などがある。
  アメリカの原爆投下は、完全な無差別な、非戦闘員の
 殺戮で、国際条約違反である。
  しかし、東京裁判では裁かれなかった。
  東京裁判当時、国際法で定められていない法規を、ア
 メリカなどの連合国は、新規の法律をわざわざ作って、
 日本だけを裁いた。
  例えば、貴方が、今夜、飲んだ酒が、後の時に禁酒法
 が作られて、日にちを遡(さかのぼ)って、その法規を
 適用されて、貴方が有罪にされるようなもの。
  東京裁判では、その様な不正な裁きを、アメリカなど
 の連合国は、日本にした。
1883年11月12日、観菊御宴が開かれた。
  天皇陛下の主催の菊花観賞会で、1880年11月に、赤坂
 離宮で催されたのを初めとして、以後、年中行事となっ
 た。
  皇室外交による条約改正促進の意図ももっていた。
  モースの『日本その日その日』や、ピエール・ロチの
 『秋の日本』に、その記述がある。
1883年11月16日、自由党が臨時大会を開催した。
  この大会は、関西勢はほとんど出席してなく、下り坂
 の党勢だった。
  ただ、星亨(ほしとおる)だけが頑張って、党維持の方
 針が決定された。
  しかし、党の総力あげて、政府と正面から戦おうとい
 う姿勢は失われていた。
  関東勢が党指導部に多く入り、また、板垣総理の権限
 も強化された。
  この頃、地方間の「いさかい」があり、党員同志の攻
 撃がある状態だった。
1883年11月20日、天璋院篤姫が逝去した。
  千駄ヶ谷・徳川邸
  1836年~1883年、享年48歳、
  江戸幕府第13代将軍・徳川家定の正室。
  幼名は於一(おかつ)。
  通称は篤姫。
  薩摩藩島津家一門に生まれ(島津斉宣の孫。島津忠剛
 の娘)、
  島津斉彬の養女・篤子(あつこと改名)となり、
  近衛家の養女・敬子(すみこ)と改名を経て、
  安政3年、御台盤所(みだいばんどころ)となった。
  婚姻から2年足らずの、1858年7月の22歳の時に、家定
 が没し、
  家定の死後、落飾して天璋院の号を得て、従三位に叙
 せられた。
  幕府崩壊に際しては、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略
 の回避に、静寛院宮(和宮)らとともに力を尽くし、協
 力して徳川家救済に尽力した。
  しかし、1868年7月、官軍に反発、奥羽越列藩同盟に官
 軍討伐を願った。
  その後、一橋邸、紀伊藩邸、尾張藩邸、相良(さがら)
 藩邸と移り、徳川16代当主家達(いえさと)のいた徳川千
 駄ヶ谷邸で過ごし、
  徳川本家の家格・家名の維持を目ざし、徳川宗家を継
 いだ家達の養育に専心した。
  徳川家処分の際には、位記を剥奪(はくだつ)されてい
 た時もあったが、従三位に復し、上野の家定の墓域に埋
 葬された。[
  家定との婚姻は、政略的なものであったと言われるの
 は仕方のないものではあるが、生涯、徳川家の人として
 生きた誠実な方であった。
1883年11月28日、鹿鳴館、開館式が挙行された。
  東京麹町山下町に、西洋社交クラブ「鹿鳴館」が開館
 した。
  煉瓦造り2階建て。1350万平方メートル。
  建設費は18万円。
  設計はコンドル。
  2階には、大広間とバルコニーがあり、舞踏会などが開
 かれた。
  鹿鳴館は、外国からの賓客や外交官を接待するために
 明治政府によって建てられた社交場。
  「鹿鳴」は、詩経の「鹿鳴の詩」に由来、来客をもて
 なすことを表わす語。
  開館の当日は、井上馨の誕生日だった。
  落成の祝宴が、名士1200人を招待して行なわれた(1300
 人?、600人?)
  パーティは深夜にまでおよび、午前1時に、新橋発横浜
 行の臨時列車が運行された。
  その後・・、
  1887年4月9日に、井上馨が外務大臣を辞任し・・、
  鹿鳴館時代は、井上とともにその歴史に幕をおろした。
  1890年には、鹿鳴館の建物が、宮内省に払い下げられ、
 華族会館が一部を使用した。
  1894年6月20日、明治東京地震で被災し・・、
  後に、修復後、土地・建物が、華族会館に払い下げら
 れた。
  1927年に至り、徴兵生命保険(後の大和生命保険)に
 売却され・・、
  1940年、取り壊された。
1883年11月9日、石川縣能美郡の農民が、小松町の金貸会社
 を襲撃した。
  松方デフレ下でおこった農民騒擾。
  この日、石川県能美郡下70~80ヵ村民100余人が集合し、
 米価下落・金融閉塞による困難打開のため、利子低減・
 元金年賦を債主の金貸し会社に迫ることを相談。
  11月14日~15日ごろより、各地の金貸し会社に押しか
 けるもの1500人~1600人におよび、
  18日には、700人が小松町の金貸し会社に迫った。
  20日、八幡山・三道山に各500人集合したが、25日鎮静
 にむかった。《自由新聞(復刻版)》
1883年12月11日、英国外相が、条約改正に関する覚書を、
 森有礼駐英公使に送付した。
  内容
  (1)予備会で討議の改正税目、関税率引き上げの大要
   は承認する。
  (2)関税率改正条約を結び、その期限後に内地開放を
   条件に関税自主権を認める。
  (3)領事裁判権放棄については留保する。
1883年12月11日、為替手形・約束手形条例を制定し、公布
 した。
  為替手形約束手形条例(かわせてがたやくそくてがた
 じょうれい、明治15年12月11日太政官布告第57号)が、
  1883年12月11日に制定・公布され、太政官布告した。
  近代手形・小切手法の先駆となる法令。
  江戸時代、日本の為替・手形システムは、大坂の両替
 商による信用制度に基づいて、高度な仕組が確立されて
 いた。
  しかし、明治政府は、為替・手形に対する理解が不十
 分で、
  銀目廃止や、国立銀行以外での持参人払式の約束手形・
 小切手振出の禁止(国立銀行条例)などを行ったため、
  両替商の破綻や、信用制度の混乱が発生した。
  しかしながら、為替・手形に対する需要が高かったこ
 と、欧米でも同様の制度が存在していることから、
  西南戦争以後に、為替・手形制度の法制化が進められ
 た。
  そこで、御雇外国人ヘルマン・ロエスレルを中心に編
 纂が進められていた商法草案のうちの「為替」の部分の
 みを独自の法令「為替手形約束手形条例」として先行し
 て実施した。
1883年12月12日、山県有朋が、内務卿に任命した。
  山県有朋が、内務卿に就任し、市制・町村制・府県制・
 郡制を制定した。
1883年12月18日、海軍志願兵徴募規則が制定された。
1883年12月28日、徴兵令を改正
  免役を廃止、現役・予備役・後備役の制を定め、代人
 料が廃止される。
1883年12月28日、中山道鉄道公債証書条例が制定。
  中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅~大垣
 駅間の建設が始まったが、
  山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航した。
1883年12月28日、金札引換無記名公債証書条例が制定され
 た。
  この月に、松方は、どうしても免れがたい国庫の一時
 的な資金不足に際しては、政府紙幣ではなく、大蔵省証
 券を発行する様に建議した。
  そして、1884年9月の大蔵省証券条令で、
  「出納上一時使用の為」に満期が3、5、6、9ヶ月
 の無記名利付債を一般公募発行、あるいは売り出し発行
 することを定めた。
  また、松方正義大蔵卿は、この月に、
  「独り鉄道布設の用に供するのみならず傍ら現今紙幣
 価格の挽回を謀る一助とも相成候」と、
  鉄道建設と紙幣整理の一石二鳥を狙って、
  中山道鉄道公債2000万円の募集を太政官に上申した。
  中山道鉄道の敷設には、予定以上の経費と期間を要す
 ることが判明し、
  新たに東海道鉄道の敷設を計画することになった。
  このため、第3回発行の収入金で、10%利付き金禄公債
 の繰り上げ償還を行なった。
  これが、国債整理の先駆けとなった。
  中山道鉄道公債を公募発行すると同時に、政府紙幣の
 回収償却と正貨獲得のために、金札引換無記名公債を発
 行した。
  これまでの金札引換公債は、記名式であったために流
 動性が乏しく、
  しかも、外国人に所有を認めなかった。
  これらを改め、また、財政上の都合により発行を停止
 するという条項を加えた条例を、1883年12月に公布した。
  1883年度から3年間で、1000万円程度を、募集期限を設
 けず申し込みに応じて随時発行することし、
  発行条件を6%利付き、紙幣との額面交換発行、償還は
 5年据え置き後、30年間で毎年抽選償還とした。
1883年8月19日、ココ・シャネル(ガブリエル・ボヌール・
 シャネル)生誕(~1971年1月10日)
  20世紀を代表するフランスのファッションデザイナー。
  第二次世界大戦中にドイツに協力したという暗い影が
 ある。
1883年、優生学、そして、人間を差別する行為に
  イギリス人のフランシス・ゴルトンが、この年に、「
 優生学」という言葉を初めて用いた。
  そして、キリスト教の有色人種蔑視などの優劣意識を
 植えこまれたキリスト教徒たちは、人種の蔑視と共に人
 種の差別意識も植え込まれた。
  キリスト教聖職者だったダーウィンの従兄弟のフラン
 シス・ゴルトン(イギリス人)は、人間の能力の研究を
 し、優生学の研究をして、1883年に優生学という言葉を
 初めて用いた。
  そして、1869年に「遺伝的天才」という本を著した。
  そして、彼は、「人の才能がぽぼ遺伝によって受け継
 がれるものである」と主張した。
  そして、人間も人為選択を適用すればより良い社会が
 できると論じた。
  (このキリスト教から派生したこの考えが、ヒトラーの
 ユダヤ人虐殺につながって行く)
  そして、当時のイギリスの産業革命の中のイギリスに
 おいて、
  社会の発展のためには、環境の改善よりも、生物学的
 な改良が有意義だと言う考えを示した。
  このゴルトンの思想を、イギリスは受け入れた。
  そしてまた、アメリカにも伝播し、
  アメリカは、イギリスより多く受け入れられた。
  アメリカは、1931年に、全米の30州に『断種法』が成
 立した。
  そして、この考え方は、有色人種蔑視の論拠にも用い
 られ、
  また、移民の制限の論拠にもなった。
  そして、スエーデン、ノルウェー、フィンランドなど
 の北欧の国々においても断種法が成立し、
  人間を差別する行為が行われた。
  (参考)断種:だんしゅ、精管や卵管の手術などによ
    って生殖機能を除くこと。
1883年、アメリカ合衆国のインディアンの方々への傲慢な
 態度
  本当のアメリカ合衆国の領土の持ち主のアメリカ・イ
 ンディアンの方々へ対し、
  アメリカ合衆国は、まったく蔑視的態度から傲慢な態
 度が出ていた。
  例えば、アメリカ合衆国のシャーマン将軍は、「イン
 ディアンを制圧するためには、軍隊を増強するよりも鉄
 道を発達させる方が効果が高い」と言い、
  さらに、「鉄道や電信で圧倒すれば、『木の葉っぱの
 様に固まってたくさんいる』インディアンたちも、みん
 なバラバラになってしまう」・・と、発言した。
  完全にキリスト教の有色人種蔑視に毒された頭からの
 発言だった。
1883年、ベトナムの全土が、フランスの植民地支配下にな
 った。
..
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2016年7月28日木曜日

(増補版)387E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年9月~1883年10月)

題:(増補版)387E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年9月~1883年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1883年9月5日、東京師範学校、中学師範学科の規則が改正
 された。
  この年の東京師範学校での規則改正を通じ、中学師範
 学科は、小学師範学科とは、完全に区別された学科制度
 として整備されることとなった。
  因みに、東京師範学校(とうきょうしはんがっこう)
 は、官立もしくは(東京)府立の師範学校の名称。
  また、中学師範学科は、1875年8月に、東京師範学校に
 おいて設置されていた。
1883年9月9日、東京教育学会が、全国規模の大日本教育会
 に拡大された。
  この日に、大日本教育会が創立され、
  初代会長に辻新次が推された。
  帝国教育会の前身。
  大日本教育界は、全国的な規模で組織された教育団体
 で、
  東京府の各学校教員を会員とする東京教育会と、
  学習院在職教員などを会員とする東京教育協会とを合
 併して、
  1882年に結成された東京教育学会を基盤にして組織さ
 れた。
  そして、1896年に改称して帝国教育界となり、
  1947年まで存続した。
  日本教職員組合(日教組)の成立後に解散した。
1883年9月11日、海軍退隠令を廃止して、海軍恩給令を定め
 た。
  恩給(おんきゅう)は、官吏であったものが退職、ま
 たは、死亡した後、
  本人、または、その遺族に、安定した生活を確保する
 ために支給される金銭で、
  近代恩給制度は、1875年の海軍退隠令、及び、1876年
 の陸軍恩給令に始まり、
  1883年に、文官恩給令も制定され、同時に、太政官に
 恩給局が設置された。
1883年9月13日、川上音二郎が、集会条例違反で1年間演説
 禁止の措置を受けた。
  河上音二郎(かわかみおとじろう)は、大阪の寄席で、
 自由民権思想を鼓舞するオッペケペ節を唄い、人気にな
 っていた。
   14歳の時に、故郷を出奔し、自由党壮士となったが、
  統制のため、講釈師や寄席芸人になったりし、また、
 「書生にわか」になったりしていた。
  書生にわかは、書生あがり、壮士あがりの素人によっ
 て始められた新演劇。
1883年9月21日、三池炭坑で、囚人が騒ぐ
  この年、三池集治監が開庁し、囚人労働が本格化した。
  集治監は、囚人の収容施設のことで、
  囚人労働は、立派に賃金が払われた労働形態のことで、
 単なる刑罰とは異なり、三池炭鉱で、この労働形態によ
 る炭坑掘削が行われた。
  この日・9月21日、この三池炭坑で、就労中の囚人395
 人が、灯心の配布が少ないことに抗議して、騒ぎが起き
 た。
  しかし、詰め所に放った火が延焼して、坑内火災に拡
 大するという不幸な惨事となってしまった。
  このため、死者が46人を数えた。
  因みに、イギリス人ポッターに指導された三池炭鉱で
 は、1873年から、囚人労働が用いられ始め、
  三井に払い下げられた1888年の当時は、炭鉱夫の69%
 が囚人炭坑夫が占め、重要な労働力となっていた。
  この囚人労働は、各国でも見られ・・、
  イギリスは、刑務所が足りないくらいに囚人が多く、
 囚人をオーストラリアに連れて行って、収容所代わりに
 し、そして、労働させたのが有名(アボリジニの先住民
 の方々の殺戮行為)、
  また、その多い囚人を、イギリスは、労働力としてア
 メリカに売った(自国の国民を人身売買する低劣なイギ
 リスだった・・などなど)
  ロシアの場合は、シベリアでの酷寒地での労働が有名
 (極寒の地で多くの囚人が死んだ)。
  また、ドイツでは、すでに、17世紀にあり、マニュフ
 ァクチュアの紡績工となっていた・・など外国事例は多
 い。
  今・現在でも、アメリカでは、240万人もの受刑者が、
 刑務所に収監されているが、安価な労働力として、大企
 業が利用し、使役させられている。
  アメリカの受刑者は非常に多く、人口比率から行って
 も日本の40倍も多い。
  (アメリカは、日本の40倍もの犯罪がおき、受刑者数
 となっている)
1883年9月22日、京都に宮内庁支庁を設置した。
1883年9月22日、工部省の工作局、鉱山局を廃止し、事務を
 直轄とした。
  品川工作局は、品川硝子製作所に、
  兵庫・長崎工作分局は、兵庫・長崎造船局に、
  佐渡・生野・阿仁・院内・三池の各鉱山分局は、それ
 ぞれの鉱山局となった。
1883年9月24日、高島炭坑暴動
  長崎の高島炭坑で、争議が起きたが、暴動化した。
  坑夫らが、減給に反対して騒いだ。
  7人が死亡した。
  政府も警保局長を現地に派遣し、実情を調査させ、一
 定の是正措置を図った。
1883年9月24日、立憲帝政党が解党した(9月26日説あり)
  御用政党的で、保守層の支持を受けたが、組織が弱く、
 さらに、政府が、超然主義を採ったため存在意義を失っ
 た。
  超然主義=関知しなかった。
1883年9月24日、奥宮健之(おくのみやけんし)らが、車会(
 界)党結成した(1882年説あり)(10月4日説あり)
  奥宮健之は、社会運動家で、
  1880年に、共存同衆という、お互い切磋琢磨しようと
 いう会や、国友会に参加した。
  1881年に、自由党に入党し、板垣退助らが設立した立
 志社で、自由民権思想を学んで、自由民権家となった。
  そして、この年、貧しい労働者の同情者として、下層
 労働者の組織化に尽力し、人力車夫300人余りを組織して
 懇親会・車会(界)党を組織した。
  この時の席上、車夫の親方の言葉は・・
  「車夫と雖ども亦皆同等の人間なり」と訴えていた。
  後に、移民事業をしたりしたが、境遇に恵まれず、幸
 徳秋水と関係を持つに至った。
  そして、大逆事件の幸徳秋水に、爆弾の作り方を教え
 たとして検挙された。
1883年9月、私立夜学校「東京物理学講習所」が、東京物理
 学校と改称した(後の東京理科大学)。
  寺尾寿(てらおひさし、天文学者、数学者、近代日本
 天文学の基礎を固めたとされる人)らを始めとする東京
 大学理学部仏語物理学科の初期の出身者21名は、
  同学科が3回の卒業限りで廃止されるのをきっかけに、
  物理学普及のための活動を行うことを決めた。
  彼らは、当初、講演会(街頭演説会)を企画したが、
 自由民権運動との関係で、講演会の開催が許されなかっ
 たため、夜学校の設立に踏み切った。
  こうして、1881年6月13日、東京理科大学の前身となる
 私立夜学校「東京物理学講習所」の設立広告が出された
 が、
  21名の設立者は、いずれも公務に就いていた者ばかり
 であり、余暇を使って無給で講義を行っていた。
  さらに、開校当初は、生徒がなかなか集まらず、講習
 所は経営難に苦しんだ。
  そのため、講習所が東京物理学校と改称された(1883
 年9月)。
1883年9月、東京英学校が青山に移り、東京英和学校と改め
 開校した(後の青山学院)
1883年10月11日、東京商法会議所が解散した。
  商法会議所(しょうほうかいぎしょ)は、明治政府が、
 実業家の意見を集約するために設立した任意の経済団体
 で・・、
  1881年までに、日本全国で34の商法会議所が組織され
 た。
  そして、政府や府県の支援を受けながら、諮問の答申
 や商慣習の調査、商品・商況調査などの任にあたった。
  また、条約改正については、関税改正の基礎資料など
 が提供された。
  しかし、商法会議所は、外国を模範とした任意団体で、
 その活動は、地域によって差があった。
  活動が不振な地域があったりしたので、
  政府は、府県や農商務省が主導する商工会を結成して、
 商法会議所に代わらせようとした。
  しかし、一部の商法会議所が、これを拒んだ。
  そのため、2つの組織が併存する地域もあった。
  (東京では、1883年10月に、商法会議所は一旦解散さ
 れて、翌月に商工会が再発足したが、
  大阪では、商法会議所が、解散を拒否した)。
  1890年9月12日に、商業会議所条例が公布されて、法人
 格を持った商業会議所に衣替えされた。
1883年10月12日、岸田俊子(きしだとしこ、女性民権運動
 家)が、大津で「函入娘」の題で、女性の権利拡大演説
 を行い、集会条例違反として罰金刑を受けた。
  岸田俊子は、京都の呉服商小松屋の長女として生まれ、
 17歳で宮中に出仕し、文事御用掛を務めた。
  そして、皇后陛下に進講するが、 1881年に、病気で
 辞任した。
  1884年に、自由党副総理・中島信行と結婚し、婦人運
 動の先駆者となった。
1883年10月12日、馬場辰猪が、政治講談論議の禁止を解か
 れた。
  6ヶ月の経過後に、この処置を受けた。
1883年10月15日、日朝間の、日本人民貿易規則、海関税目
 規則、間行里程取極約書、日本人漁民取扱規則が布告さ
 れた。
  日本の新聞「時事新報」に・・、
  「朝鮮貿易に從事する日本商人は、充分熟讀の上、豫
 め覺悟する所あるべきは論を俟たざるなり」とある。
..
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2016年7月27日水曜日

臨時ブログ:アメリカ大統領・ルーズベルトの愚考〈愚かな罪〉

臨時ブログ:*アメリカ大統領・ルーズベルトの愚考〈愚かな罪〉
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  1945年8月8日、ソ連が、日本との条約を破棄して、
 満州全域になだれ込んだ。
  (ソ連の「日ソ中立条約」の一方的破棄だった)
  この様な行為を『せよ』と言っていたのがアメリカだ
 った。
  しかし、これ以降、アメリカの予想していた思惑と違
 った事態が、早くも起きた。
  アメリカの思惑は、ソ連が、満州に侵入し、日本を攻
 撃し、大東亜戦争(第二次世界大戦)が早く終わり、ア
 メリカ軍の損害が少なくなることを期待したのだったが、
  しかし、ソ連が、満州全域に侵入すると、この地域・
 中国北部一帯の地域は、逆に、混乱が増すばかりだった。
  日に日に、収拾が付かなくなる状態だった。
  アメリカの思惑だった「蒋介石の中国軍による中国域
 の掌握」は、まったく進まなかった。
  アメリカは、戦争まで作って世界を繰って、アメリカ
 の思惑どおりにしようとしたが、その様には、事は進ま
 なかった。
  (卑劣にも、アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦
 争を作った」と、自分の思惑を吐露し、しゃべっている)。
  ことの成り行きの実態は、ソ連の満州の占領域が拡大
 する一方だった。
  しかも、中国北部では、毛沢東の軍が活動を強めて行
 った。
  (日本は、この毛沢東の共産党軍と戦ったのではない。
  蒋介石の中国軍と戦ったのだった。
  つまり、毛沢東の共産党軍ではなく、日本と戦った『
 蒋介石の中国』が戦争の戦勝者なのである)。
  ソ連の勢力が拡大する一方の時、アメリカの中国の司
 令官であるアルバート・ウェデマイヤーは、重慶に居て、
 蒋介石を支援し、事の成り行きに苦慮していた。
  ソ連のスターリンは、「中国の共産党(毛沢東)を支
 援しない」と、アメリカと約束していたが、
  完全に、この約束をどこ吹く風と、「約束違反」をし
 ていた。
  毛沢東と結託していた。
  ルーズベルト亡きあと、アメリカの大統領になったト
 ルーマンも、この事に気づいた。
  アメリカも、軍を、中国へ侵入させた。
  (アメリカの中国侵略)
  (アメリカも中国を侵略したのだ)
  「日本軍の武装解除するためだ」と、世界に嘘をつい
 た。
  実際は、その武装解除するはずの日本軍と共に武力
 介入した。
  (日本軍は、アメリカに、中国軍と戦わせられた)
  名目は、蒋介石の中国軍の支援だった。
  アメリカは「ヤルタ密約」までして、ソ連と取決めを
 して、
  戦後の構想を巡らしていた「このアメリカの構想(
 妄想)」は、
  戦後、この様に、早くも夢となってしまったのだった。
  大きな犠牲を払って、余りにも大きな犠牲を払わされ
 て、
  アメリカの愚劣な妄想が演じられた結果が、これだっ
 た。
  その犠牲が払われた直後に、早くも、そのアメリカの
 愚劣な構想は、雲散霧消した。
  雲となり、霧となり、あとかたもなく消え去り、
  ただただ、アメリカが作り出した『愚かな結果だけ』
 が残った。
  アメリカのルーズベルトの『ヤルタ密約の安定圏構想』
 なんて、愚劣な構想だった。
  そんな甘いものではなかった。
  戦争を作って、多大な犠牲者を作っただけだった。
.
  (追記)
  ならば・・、日本は、戦勝国です。
  アメリカと戦った戦勝国です。
  イタリアは、敗戦国です。
  しかし、敗戦直前にムッソリーニを捕らえ、そして、
 処刑したから、
  だから、枢軸国として戦争して来たことを、アメリカ
 をはじめ連合国は、「イタリアの戦争責任の追及をする
 こと」をあまりしない。
  甘く・・見過ごしてきた。
  日本だって、中国で、アメリカと共に戦ったのだ。
  連合国のアメリカと戦ったのだ。
  日本は、ナチスの様な極悪の非道な事はしていないし、
 逆に、日本は、ちゃんと!アメリカ人捕虜を国際条約に
 のっとり収監していた。
  だから、逆に、アメリカは、非道な原爆を広島に投下
 し、そのアメリカ人捕虜とともに、無実の日本人や朝鮮
 人とともに、皆殺しにした。
  これこそ『国際条約違反行為』なのだ。
  アメリカの小学生たちに教え、教育せよ!
.
  (追記の追記)
  騙(だま)されたアメリカが悪いのか?
  騙したソ連が悪いのか?
  アメリカのルーズベルトは、ソ連のスターリンに、騙
 された。
  スターリンは、ヤルタで、「モンゴル共和国を俺にく
 れ」、「ソ連の勢力圏にしてくれ」と、
  何度も、ルーズベルトに言い、
  その代わり、「毛沢東でなく、蒋介石の中国を支持す
 る」、「その中国の独立を認める」と、
  馬鹿らしいことに、何度も何度も、アメリカのルーズ
 ベルトに誓った。
  そして、さらに、ルーズベルトの死から3か月後の1945
 年7月中旬の時にも、
  アメリカのルーズベルトより上手(うわて)の騙しの
 テクニシャンである「スペシャル騙しテクニシャン・ス
 ターリン」は、
  蒋介石の部下の中国国民政府の外交部長(外相)・宗
 子文に、「蒋介石を支持します」と約束していた。
.
  (追記の追記の追記)
  旧日本軍と、アメリカ軍は、満州で、共同作戦を取り、
 ソ連軍と中国共産党軍と戦った。
  この時のアメリカ軍は海兵隊だった。
  5万人もの兵士を、アメリカは中国に侵略させた。
  そして、そして、朝鮮までもが赤っぽくなってきた。
  ソ連は、朝鮮まで欲しがった。
  アメリカ大統領のトルーマンは、深入りする事を恐れ
 た。
  元はと言えば、アメリカの愚劣な大統領のルーズベル
 トが、ソ連のスターリンに火を付け、
  その火が燃え盛って、
  深入りを恐れた「ルーズベルトの次のアメリカ大統領
 のトルーマン」が、
  その火に恐れおののいた・・という図だった。
  アメリカ大統領のトルーマンは、「中国からの全面撤
 退を命じた」。
  そして、アメリカ大統領のルーズベルトの幼稚な夢想
 と、まったく違った世界が現出して行った。
  朝鮮半島は分断され・・共産化した。
  そして、中国も・・中華人民共和国という共産党国家
 となった。
  アン・フェアな、不正義な、小細工をした「ヤルタ密
 約の行為者・ルーズベルト」は、世にはいなかったが、
 生きてこの事態を見たら、何と思うのだろうか?
  この地域の安定を保っていた日本の役目の大きさに、
 この時になって、感謝をするであろう。
  その日本の役目を理解せず、その地から日本が抜けて
 空白になったら、この体たらくのアメリカだった。
  朝鮮半島は分断され、「ルーズベルトの安定圏構想」
 どころか、「不安定圏構想」となってしまっていた。
  それが、今・現在も解決できない、
  分断朝鮮など最悪の事をしでかしたアメリカ大統領の
 ルーズベルトだった。
  アメリカの元国務長官のキッシンジャーは言う・・、
  「日本が抜ける空白を(見落とし)、埋めるという均
 衡論に、思いが及ばなかったルーズベルト、
  その論理を理解しなかっただけでなく、大国の勢力争
 いという考え方自体を否定する(認識不足で、欠陥ある)
 ルーズベルト」と批判して言う。
..   アメリカ国民の方々が、「戦争はしない」としていた
 ことを、作り話で繰って、
  「戦争を作った」と自分の思惑を吐露し、しゃべった
 大統領・ルーズベルトの結果がこれだった。

 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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2016年7月25日月曜日

(増補版)386E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月~1883年9月)

題:(増補版)386E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月~1883年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年8月1日、小野梓(おのあずさ、政治学者、、政治思
 想家、政治家)が、出版社の東洋館(後の冨山房)を開
 業した。
  小野梓は、土佐に生まれ、戊辰戦争で会津攻めに参加
 し、
  1869年(17歳)に、昌平黌に学ぶ。
  1870年(18歳)に、上海旅行でアジアの近代化の必要
 を痛感し、
  1871年(19歳)に、アメリカへ私費留学し、法律学を
 学ぶ、
  1873年(21歳)に、大蔵省の官費留学生としてイギリ
 スへ行く(法律学)。
  1875年(23歳)に、同志とともに文化啓蒙(けいもう)
 団体「共存同衆」を結成し、
  「共存雑誌」を創刊。
  同誌で活発な言論活動を展開した。
  1876年(24歳)以降、司法省少丞に任ぜられ、以後、
 司法省、太政官少書記官を歴任、
  1880年(28歳)に、会計検査院の検査官に就任して、
 大隈重信の知遇を得て、関係を深めた。
  1881年10月(29歳)の時の、14年の政変で、大隈が失
 脚すると、自らも依願免官する。
  1882年4月(30歳)、自由主義を唱え、東京大学の学生
 を中心とする鷗渡会を率いて、立憲改進党に加わり、
  大隈重信を助けて立憲改進党を結成し、指導者として
 活躍した。
  また、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立に参
 画した。
  1883年(31歳)に、私擬憲法「国憲私案」を起草し、
 イギリス流の立憲君主制実現をめざす。
  主な著書に、自己の国会論や主権論を論じた『国憲汎
 論』や『東洋論策』などがある。
  肺結核により早世(1852年~1886年、35歳)
1883年8月3日、伊藤博文らが帰国した。
  博文らは、1883年3月に、ドイツを離れ、イギリスのロ
 ンドンへ行き、ここに、約2月滞在し、
  ロシア皇帝の即位に、日本を代表して出席したのち、
  1883年7月に、ヨーロッパを出発し、この時、日本に到
 着した。
1883年8月4日、陸軍治罪法(りくぐんちざいほう)
  軍法会議について定めた陸軍治罪法が公布された。
  主な内容は、陸軍軍人に対する刑事裁判手続特別法
1883年8月6日、関東と関西を結ぶ鉄道計画について、陸軍
 の意見が採り入れられ、中山道ルートの高崎~大垣間の
 建設が決定した。
  「中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅~大
 垣駅間の建設が始まったが、
  山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航した。
  中山道幹線(なかせんどうかんせん)、または、中山
 道線(なかせんどうせん)は、日本の官設鉄道(国鉄)
 が、東京と京都を結ぶ目的で、中山道に沿って計画した
 鉄道路線で、
  実際に着工されたものの、
  工期と工費が、当初の見込みを大幅に上回ることが建
 設中に判明したため、
  東京と京都を結ぶ幹線鉄道としては、東海道本線の建
 設を行う方針に変更された。
  1869年(明治2年)11月に、明治政府が、鉄道建設を廟
 議決定した際には、
  基本方針として、東京と京都(東西両京)を結ぶ路線
 を幹線とし、
  東京と横浜を結ぶ路線など、
  それ以外の路線を支線として建設する方針であった。
  この時点では、幹線の経路として、東海道と中山道の
 どちらを採用するかは未決定であった。
  政府の命を受けて、1870年(明治3年)6月に、東海道
 の鉄道建設事情を調査した際の復命書「東海道筋鉄道巡
 覧書」では、
  東海道は、陸運・海運ともに交通の便利な場所が多く、
 貨物輸送については、高価な物品、あるいは、至急の輸
 送を要するもの以外は、鉄道以外の運賃の安い交通手段
 が選ばれるであろうとし、
  東海道よりは、交通手段の不便な中山道に鉄道を建設
 する方を優先するべきだとした。
  この時の調査経路は、東京から愛知県までは東海道に
 沿い、
  そこから岐阜県へ入って、中山道に沿って京都へ向か
 うもので、
  その基本的な経路は、後に東海道本線に生かされるこ
 とになった。
  実際に、東西両京の幹線をどちらに建設するかは決定
 されないまま、東京~横浜間の鉄道が建設されることに
 なった。
  続いて、京都~大阪~神戸間にも鉄道が敷設され、東
 西両側での鉄道の運行が始まった。
  こうしていよいよ、東西を連絡する鉄道に取り組むこ
 とになった。
  資金難で、鉄道建設に困難をきたしていた政府も、日
 本鉄道の着工に影響を受けて、急速に幹線の整備に向け
 て動き出すことになり、
  1883年(明治16年)8月6日に、ついに、中山道幹線の
 着工を内定し、
  工部省に対して測量を進め、建設の方法を定めて提出
 するように命じた。
  資金的にも、この年・1883年12月21日に、太政官布告
 第47号により「中山道鉄道公債証書条例」が布告され、
  2000万円の公債を募集して、工事費に充てることにな
 った。
1883年8月16日、和歌山県名草郡で、日照りによる分水騒動
 が起こる。
  干ばつのため、和歌山県の各地で水騒動続発した。 
1883年8月18日、文部省が、教員講習所や督業訓導の設置を
 府県に指示した(文部省達第16号)
  小学校教員の資質向上のため、教員講習所の設置、督
 業訓導の配置方を府県に指示した。
1883年8月26日、大坂紡績が、生産向上に励み、日本を支え
 る産業へ。
  日本最初の大規模紡績会社で、東洋紡績の前身。
  綿製品輸入防遏(ぼうあつ、防ぎとめること)を企図
 する渋沢栄一の主唱により、
  華族を中心ににして、1882年5月に創立された。
  資本金25万円。
  翌年・1883年に、イギリスから帰った山辺丈夫を工務
 支配人として、蒸気機関による1万500錘、労働者300人と
 いう当時最大の規模で開業した。
  電灯を設備して、昼夜二交替制で生産し、好成績をお
 さめた。
  1880年代後半の紡績ブームを呼び起こした。
  1880年代半ばまでに、20ヵ所近い小紡績が開業したが、
 大部分は経営不振であった。
  大坂紡績は、その様な状況の中に、風穴を開け、日本
 を支えるの産業へと育って行った。
  機械製綿糸生産は急増し、1890年には、早くも輸入綿
 糸を上回った。
1883年8月、林遠里(はやしえんり、篤農家:農業に熱心で
 研究的な人)が、私塾の勧農社を創設し、優秀な卒業生
 を実業教師として各地に派遣し、農業技術の普及に努め
 た
  筑前の福岡藩・武士の家に生まれたが、廃藩置県の後
 に帰農し、農業経営に努める。
  1889年に、農商務省から、ハンブルク商業博覧会出品
 説明委員補助としてドイツに派遣され、欧米の農業を視
 察した。
  欠陥のある点もあったが、先進的農法を全国に伝えた
 功績は大きい。
1883年9月5日、御雇外国人・ノット(イギリス人物理学者)
 が、来日した。
  東京大学(のち帝国大学)理学部の教師となり、引き続
 き、帝大理科大学で教えた。
  その間、電気学、音響学、磁気力学などを講義し、日
 本全土の磁気測量にも従事した。
  在日中、J.ミルンらと地震、火山の調査・研究を行な
 う。1891年に帰国。
.
  (今日の言葉)
:
1945年8月8日、ソ連が、日本との条約を破棄して、満州全
 域になだれ込んだ。
  (ソ連の「日ソ中立条約」の一方的破棄)。
  この様な行為をしろと言っていたのがアメリカだった。
  しかし、これ以降、アメリカの予想していた思惑と違
 った事態が、早くも起きた。
  アメリカの思惑は、ソ連が、満州に侵入し、日本を攻
 撃し、大東亜戦争(第二次世界大戦)が早く終わり、ア
 メリカ軍の損害が少なくなることを期待したのだったが、
  しかし、ソ連が、満州全域に侵入すると、この地域・
 中国北部一帯の地域は、逆に、混乱が増すばかりだった。
  日に日に、収拾が付かなくなる状態だった。
  アメリカの思惑だった「蒋介石の中国軍による中国域
 の掌握」は、まったく進まなかった。
  アメリカは、戦争まで作って世界を繰って、アメリカ
 の思惑どおりにしようとしたが、その様には、事は進ま
 なかった。
  (卑劣にも、アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦
 争を作った」と、自分の思惑を吐露し、しゃべっている)。
  ことの成り行きの実態は、ソ連の満州の占領域が拡大
 する一方だった。
  しかも、中国北部では、毛沢東の軍が活動を強めて行
 った。
  (日本は、この毛沢東の共産党軍と戦ったのではない。
 蒋介石の中国軍と戦ったのだった。
  つまり、毛沢東の共産党軍ではなく、日本と戦った蒋
 介石の中国が戦争戦勝者なのである)。
  ソ連の勢力が拡大する一方の時、アメリカの中国の司
 令官であるアルバート・ウェデマイヤーは、重慶に居て、
 蒋介石を支援し、事の成り行きに苦慮していた。
  ソ連のスターリンは、「中国の共産党(毛沢東)を支
 援しない」と、アメリカと約束していたが、
  完全に、この約束をどこ吹く風と、「約束違反」をし
 ていた。
  毛沢東と結託していた。
  ルーズベルト亡きあと、アメリカの大統領になったト
 ルーマンも、この事に気づいた。
  アメリカも、軍を、中国へ侵入させた。
  「日本軍の武装解除するためだ」と、世界に嘘をつい
 た。
  実際は、その武装解除するはずの日本軍と共に武力
 介入した。
  (日本軍は、アメリカに、中国軍と戦わせられた)
  名目は、蒋介石の中国軍の支援だった。
  アメリカは「ヤルタ密約」までして、ソ連と取決めを
 して、
   戦後の構想を巡らしていた「このアメリカの構想(
 妄想)」は、
  戦後、この様に、早くも夢となってしまったのだった。
  大きな犠牲を払って、余りにも大きな犠牲を払わされ
 て、
  アメリカの愚劣な妄想が演じられた結果が、これだっ
 た。
  その犠牲が払われた直後に、早くも、そのアメリカの
 愚劣な構想は、雲散霧消した、
  雲となり、霧となり、あとかたもなく消え去り、
  ただただアメリカが作り出した愚かな結果だけが残っ
 た。
  アメリカのルーズベルトの『ヤルタ密約の安定圏構想』
 なんて、愚劣な構想だった。
  そんな甘いものではなかった。
  戦争を作って、多大な犠牲者を作っただけだった。
.
  (追記)
  ならば・・、日本は、戦勝国です。
  アメリカと戦った戦勝国です。
  イタリアは、敗戦国です。
  しかし、敗戦直前にムッソリーニを捕らえ、そして、
 処刑したから、
  だから、枢軸国として戦争して来たことを、アメリカ
 をはじめ連合国は、「イタリアの戦争責任の追及をする
 こと」をあまりしない。
  甘く・・見過ごしてきた。
  日本だって、中国で、アメリカと共に戦ったのだ。
  連合国のアメリカと戦ったのだ。
  日本は、ナチスの様な極悪の非道な事はしていないし、
 逆に、日本は、ちゃんと!アメリカ人捕虜を国際条約に
 のっとり収監していた。
  だから、逆に、アメリカは、非道な原爆を広島に投下
 し、そのアメリカ人捕虜とともに、無実の日本人や朝鮮
 人とともに、皆殺しにした。
  これこそ『国際条約違反行為』なのだ。
  アメリカの小学生たちに教え、教育せよ!
.
  (追記の追記)
  騙(だま)されたアメリカが悪いのか?
  騙したソ連が悪いのか?
  アメリカのルーズベルトは、ソ連のスターリンに、騙
 された。
  スターリンは、ヤルタで、「モンゴル共和国を俺にく
 れ」、「ソ連の勢力圏にしてくれ」と、
  何度も、ルーズベルトに言い、
  その代わり、「毛沢東でなく、蒋介石の中国を支持す
 る」、「その中国の独立を認める」と、
  馬鹿らしいことに、何度も何度も、アメリカのルーズ
 ベルトに誓った。
  そして、さらに、ルーズベルトの死から3か月後の1945
 年7月中旬の時にも、
  アメリカのルーズベルトより上手(うわて)の騙しの
 テクニシャンである「スペシャル騙しテクニシャン・ス
 ターリン」は、
  蒋介石の部下の中国国民政府の外交部長(外相)・宗
 子文に、「蒋介石を支持します」と約束していた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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2016年7月22日金曜日

臨時ブログ:オバマ大統領は、アメリカ大統領は、明確に、広島で謝罪をしていた。

臨時ブログ**オバマ大統領は、アメリカ大統領は、明確に、広島で謝罪をしていた。
  (やっと、被爆者の方々が、心やすらぐ時が来た)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  下記のYou Tubeで・・、
  青山繁晴氏は、オバマ大統領が行なった広島演説に、
 謝罪の意思が『明確にあった』ことを示され、説明され
 た。
  それは、青山氏の優秀で、堪能な英語力の知識から知
 り得たことだった。
  同席したデープ・スペクター氏も同意し、青山氏の説
 明通りと裏付けた。
  それに引き換え、NHKの元職員・池上彰の知識の適
 当さと、不確かさにはあきれる。
.
  青山繁晴が暴露するオバマ大統領の広島訪問の裏側!
  特亜が羨む戦後71年の歴史的瞬間!
.
  https://www.youtube.com/watch?v=cm59HGlsAIU
.
  [内容]:
司会者:オバマ大統領が広島訪問で、世界へ送ったメッセ
 ージ
  核兵器の無い世界を追求する勇気を持たなければなら
 ない。
  原爆投下の是非や、謝罪は無かった(?)が、犠牲者
 を悼むために広島に来た、8月6日を忘れてはいけないと
 訴え、被爆者を抱き寄せる一幕も。、
  青山さん、昨日の動き、どのように御覧になりました
 か?
青山氏:今だに、どうしても涙ぐんでしまいますけれど
 ・・、この写真ね!
  (被爆者を抱くオバマ大統領の写真)
  この写真、ほんとうに、今、世界中に広まっているん
 ですよ。
  この被爆者の方は、アメリカ軍の捕虜になっていた人
 の原爆の犠牲になったという事を、周りの反撥を受けな
 がら、長年、研究して来た被爆者なんです。
  オバマ大統領は、それを知らずに、この方が先に涙を
 こぼしたので、オバマさんの一番の良い面が出て・・、
  僕は、オバマさんにきついのですけれど、
  優柔不断の大統領だけれど、
  その代わり、すごく優しいところがある大統領で、
  本当に「ぎゅっ」と、思わずね、抱きしめたのですよ、
  「エンプレイス」と言って、ぎゅっーと抱くと言う、
 ハグすると言うんですけれど、
  もっといい言葉、意味なんです。
  米語は・・「エンプレイス」・・、
  それが、世界中に流れていて・・、
  ところがね、先ほど「暴露」という、あまりいい言葉
 でない話がありましたけど、
  僕が、実は、最初にショックを受けたのはですね、
  オバマさんが広島に行くのが決まってから、アメリカ
 側と話した時に、
  普通のアメリカ人ではなくて・・ホワイトハウスの人、
 それから、アメリカの国務省の人が、
  一致して言ったのは・・、
  被爆者と会わないと言ったのです。
  びっくりして、オバマ大統領が広島に行って、その原
 爆記念公園に行って、被爆者に会わないというのは、
  「そんなこと、あり得ない」・・と言ったら、
  一番最初に言われたのは、画像情報で調べたと、
  この被爆者の団体を調べたら、皆、小柄だと、
  オバマさんが188センチあって、大きくて優しいから、
 どうしてもかがみ込んで、
  それが、アメリカじゃ、謝るときに頭を下げないけど、
 日本式の謝罪は、頭を下げるのが結構有名だから、謝っ
 ているように見えて、
  そうすると、退役軍人が、皆、怒るから、
  オバマさんの仲間のヒラリーさんが、選挙に落ちたり
 するから、会えないと言われたんで、
  僕は、ただの民間人ですけど、(日本)国民の一人と
 してやることがあると思って、
  (僕は)日帰りでアメリカに行ったりして、一生懸命、
 アメリカに行ったりして、
  二つだけ言ったのは・・、
  「とにかく会って下さい」と、「被爆者に会って下さ
 い」と、この原爆記念公園で、
  もう一つはですね、オバマさんは、ノーベル平和賞を
 取っている。
  いつ取ったかと言うと、大統領になってすぐに取った。
  2009年4月に、チェコのプラハで、「核なき世界」とい
 う歴史に残る演説をしたんです。
  「核なき世界」というのは、実際は、実現、ほとんど
 できないんですけど、
  大事なことは、その長い長い28分の演説の中に、「道
 義的責任」・・、
  言葉は難しいのだけれど、これ、むしろ英語で言った
 方が分かるのです。
  すみません、一瞬、英語なんですけど・・米語で言い
 ますとね・・、
  デープさんの前なんですけれど・・、
  『ア・モラル・デスポンザビリティ』と言ったのです。
 ・・モラル上の責任があると、
  これを、プラハで言ったら、「ああ、そうですか」と
 聞くけれども、
  日本の被爆者の前で、「原爆を落とした道義的責任が
 ある」と言ったら、謝っているのと同じになる。
  それを、どうしても言って下さいという事を、僕は、
 民間で、勝手に言っているだけなんだけれど、
  安倍総理や日本の外務省も、僕と関係ないですよ、
  僕と関係なく、粘り強く、ずーっとアメリカと交渉し
 て、ついに・・、
  これ、本番になるまで分からなかったんだけれど、
  オバマさんが「つかつかつかと、歩いて行って」、そ
 の(被爆者に)ハグした訳ですよ、
  すみません、また、英語ですけれど・・抱きしめる事、
 本当に、愛でもって抱きしめることを、英語で『エンブ
 レイス(愛をもって抱きしめること)』と言うのですよ、
  凄く言い言葉でしょ、『エンブレイス』、
  同時に、ここにないんだけど、演説が5分で終わるはず
 が、17分続いたのですよ、
  聞いている僕らも、後で聞いたら安倍さんもね、「ど
 こまで続くのかと思った」と・・、
  で、さっきの道義的責任、モラル(デスポンザビリティ)
 が出て来なくて、
  あ、このままウヤムヤで終わるのかと・・、思ったら、
 最後の最後の、一番最後に・・、
  アワー(私たちの)、モラル・・デスポンザビリティ
 と言わなくて、アウェイクニングと言ったのです。
  モラル・アウェイク・・アウェイクというのは「目覚
 める事」、だから、道徳に目覚める事の切っ掛けに広島
 がなったと言った、(アメリカが)・・、
  これは、アメリカ人にとってショックですよね。
デープ・スペクター氏(核兵器に対しての責任感というこ
 とに、認識せざるを得ないということ)
デープ・スペクター氏(遠回りな表現でも、謝罪が、勿論、
 入っているんですね)
司会者(今まで、分かっていなかった、我々は、そういう
 感じを・・)、
青山氏:ごめんね。デープさん、アメリカに行くと、例え
 ば、小学校で教えている事ね・・
  結構、学校に行くのですけれど、そうしたら(アメリ
 カの小学校に行ったら)、本当に原爆投下のお蔭で、100
 万以上の人が救われたという話をするんです。
  あそこで戦争終わったから・・、だから、良いことだ
 と教えている訳です。
  信じがたいでしょ?
デープ・スペクター氏(神話を作っているんだね、そのー、
 生徒たちに)
青山氏:胸の底では、本当は、すごく悪いことをしたんじ
 ゃないかと思っているから、
  弁解して、弁解して・・なんですよ。
司会者(目覚めたという事は・・すごい事ですよ)
デープ・スペクター氏(地上戦で犠牲者が減ったという事
 は、勿論、あると思うんですけれど、
  その、原爆投下のそのものの酷さ、残酷さと対比でき
 ないんですよね、人数の問題じゃないんですよ)
青山氏:これはね、僕は、アメリカに行ったときに、いつ
 も言うんですけれど、
  本当は、もう日本は、降伏する準備をしてて、それを
 アメリカは知っていたから・・、
  戦争を終わらせるためじゃなくて、『終わっちゃうか
 ら、早く(原爆を)使おうと思って・・』、
  人体実験に使ったんです。
  何で分かるかというと・・、
  戦争を終わらせるためだったら、広島だけで終わるは
 ずが、
  3日後の長崎に、タイプの違う奴を落しているんですか
 ら・・、
  『人体実験をしたんです、実際に』、
  だから、オバマ大統領も、非公開の、日本人の僕らの
 知らない、被爆者に何が起きたかという記録を、
  歴代大統領は、必ず、読んでいるのです。
  だから、原爆資料館へ行かなくても、
  本当は、分かっているけれども、あえて行って、たっ
 た10分だけれども、
  アメリカ人にここに来てくださいと、本当に、同じ人
 間に何が起きたかを目覚めて下さいと、
  おっしゃったとおり、「初めて、道徳が目覚める」と
 いうね、だから、
  事前に色々な事があった、辛いことも一杯あったんで
 すよ、
  僕も結構怒鳴られた事があったですけれど、アメリカ
 人に、
  でも、この結果を見ると、被爆者の方が、初めて心や
 すらぐ時がね・・、71年ぶりに来たかと思うと、本当に
 感謝します。
司会者(その様な戦争の終わらせ方、実験的な見方、アメ
 リカでは、どういう風に受け取られているのですか?)
デープ・スペクター氏(知識層は、ある程度分かっている
 し、終戦に近づいて、
  むしろ、ロシアの脅威の方が、早めたんですよね、終
 戦そのものを、
  あと、ロシアは天皇制をなくすとか、色んなことがあっ
 たけど、、まだ、アメリカと交渉が出来ると思っていた
 から、
  (原爆投下の)必要なかったという事を、ほぼ、分か
 っているんです、(原爆投下の必要性)そのものがです
 ね、
  だけど、どうしても感情論とか、難しい本を読もうと
 しない人とか、オバマが、こんな感動的なシーンがあっ
 ても、
  アンチ(反対派)は居るから、やはり、批判記事も出
 るんですけれども、
  それを、どこまでの人が言うかにもよるんです、
  人口は多いですから、
  分かっている人と、分かっていない人が居ます)
司会者(今回、この握手をしたり、抱きしめたり、オバマ
 さんよりか、
  握手されたり、抱きしめられたりされている被爆者の
 かたの表情に、ジーンと来たんですけれど)、
デープ・スペクター氏(賞賛されていますよ)
青山氏:被爆者のかたの人柄が素晴らしいでしょー、
出演者(日本ぐらいですよね、広島の方々が来てくれるな
 ら、謝罪が無くていいって、
  そんなこと言う国、日本ぐらいですよね、そう思うん
 ですが・・)
別の出演者(だから、オバマさんも、この行動になったと
 思うんですよね、
  ほだされたじゃないけど、やはり日本の人たちって、
 こんな風に思ってくれてたんだ・・と、
  だったから・・この「エンブレイス」があったんだな
 ー・・と)
青山氏:その通りです。
女性出演者(ウソを感じなかったですよね、テレビの世界
 に居て言うのはなんなんですけれども、
  ほんとに、一瞬だけは、総理であっても、オバマさん
 であっても、親切なんだろうな・・と、思いました)
出演者(たぶん、作家さんがいてね、一緒に考えているん
 だろうけれども、それにしても、
  この、ぎりぎり、謝りはできないぎりぎりまで、ちゃ
 んと突いた演説ではある)、
青山氏:これは、ローズさんというね、大統領補佐官のス
 ピーチライターが居て、で、
  その人が、僕に、直前に、戦争を終わらせるために(原
 爆投下は)やむを得なかったと、簡単に変えないけど、
  凄く大きな代償があったと、それを、アメリカ人は気
 づいていなかったから、それを、大統領は、きっと、個
 人的な気持ちとして言うだろうと予言したのですよ。
  それが、17分間、全然、出て来ないから、心配してい
 たら、最後の最後に(謝罪の意味の言葉が)出て来た。(9:49)
.
☆コメント欄に・・、
  「僕は、広島に生まれ育った。
  おばあちゃんは、6才の時江田島で歩いているとき、前
 後5メートルに焼夷弾を撃たれた。
  曾祖母は、広島で原爆にあい背中にやけどがある。
  3箇所もガンで手術した。
  現在、93歳で健在です。
  二人とも、今回、アメリカの大統領が広島に来てくれ
 た事に涙を流していた。
  オバマ大統領が原爆を落とした訳ではない。
  だから、謝罪とかの問題では無いと言っていた。
  広島に来てくれて、少しでも理解してくれたことがあ
 りがたいと話ていた。
  謝罪して解決することなど無いのではないかと思った。
  むしろ少しでもお互いが理解して歩みよることが解決
 への道ではないかと僕は思った。
  今回、オバマ大統領が広島に来てくれて本当に嬉しく
 思う。」
.
☆オバマ大統領に、ハグされた被爆者の方・・、
  「オバマさんがハグをした方は、原爆で亡くなった12
 名の米軍捕虜の原爆犠牲者登録に尽力し、Googleもない
 時代にアメリカの遺族に情報を伝え、彼らを追悼し続け
 る素晴らしい方だった。
  「広島被爆米兵の名前を刻んだ日本の歴史家」
  森重昭さん。」
.
☆NHKの元職員・池上彰は・・説明を受けた話による
 と、このオバマ大統領のこの広島演説の翌日、この訪問
 の件をテレビで解説した。
  その時、「原爆を落とされたのは、日本が真珠湾を奇
 襲したからだ」と解説した。
  これは『まったくの嘘』と、今ではなっている。
  真珠湾に日本が攻めて行く日本艦隊の動きを、すべて
 知っていたアメリカ軍が、
  もう誰もが知っている「アメリカが作り上げた」「ア
 メリカのデッチ上げの『日本の真珠湾奇襲作戦話』を、
  今の時代になってまでも言う、この元NHK職員」。
  公共の電波を使って、今もこの様に言う時代遅れの解
 説風の発言者。
  キリスト教に偏するNHKの出身者で、完全にマイン
 ド・コントロールされている。
.
☆(参考)特定アジア(とくていアジア)とは:
  特に、反日感情の強い中華人民共和国、大韓民国、朝
 鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の3カ国を意味する呼称
 とされている。
  こうした反日感情は、幼少期からの徹底した反日教育
 によるものとされる。
.
☆(参考)デープ・スペクター氏(テレビプロデューサー)
  デイヴィッド・マーク・"デーブ"・スペクターは、日
 本を拠点に活動するアメリカ人テレビプロデューサー、
 放送作家、著作家、タレント、コメンテーターである。
  株式会社スペクター・コミュニケーションズ代表取締
 役。
  アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身。
  公称身長170cm。 ウィキペディア
  生年月日: 1954年5月5日 (62歳)
  生まれ: アメリカ合衆国 イリノイ州 シカゴ
  配偶者: 京子スペクター (1981年から)
  学歴: 上智大学
  著書: いつも心にクールギャグを、 僕はこうして日
 本語を覚えた
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)385E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月~1883年7月)

題:(増補版)385E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月~1883年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年7月4日、隅田川出水
  東京の大水害(千住大橋が落ちる)
  千住大橋が落ちたのは、1885年7月1日の台風による洪
 水の時という記述があり、それまで落ちていなかったと
 も言う。
  流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われ
 る・・とある。
  因みに、明治18年(1885年)の流出の際、下流の橋を
 守るために多くの『水防夫』が活躍した・・とある。
1883年7月5日、明治天皇陛下が、右大臣・岩倉具視邸に臨
 み、その病患を親しく問はせ給う。
1883年7月6日、文部省が、 府県立師範学校通則を制定した。
  師範学校の精神や、教員にふさわしい人物の指定がな
 された。
  また、官費だけでない例外についても記載された。
  第一條:
  府県立師範学校ハ教育令第三十三條ニ基キ此通則ニ遵
 ヒテ之ヲ設置シ忠孝彝倫ノ道ヲ本トシテ管内小学校ノ教
 員タルヘキ者ヲ養成スヘキモノトス
1883年7月7日、鹿鳴館が落成した。
  東京・麹町区山下町(現=東京都千代田区内幸町1丁
 目)の薩摩藩跡地に、外務卿・井上馨(かおる)が中心
 となって建てた。
  設計は、イギリス人のコンダー。
  1940年(昭和15年)に取壊された。
1883年7月10日、鉄道略則、鉄道犯罪罰令を私鉄にも適用す
 ることを決定した。
1883年7月19日、岩倉具視が、病気のため右大臣を辞任した。
1883年7月19日、岩倉邸行幸
  明治天皇陛下が、岩倉具視邸に臨み、親しくその病床
 を見舞う(岩倉具視感泣す)
  「・・感涙雙頬に滂沱たるのみ、復た一語の能く奉答
 するなし、一座黯然たり」。
  (参考)雙頬:そうきょう、両方のほお。
      滂沱:ぼうだ、涙が止まらない、
      黯然:あんぜん、悲しみ、絶望などで心がふ
        さぎ、気落ちするさま。
1883年7月20日、岩倉具視薨去(享年59歳)
  食道癌(咽頭癌?)だった。
  明治16年(1883年)、初め頃には、咽頭癌の症状がは
 っきりと出始めていた。
  岩倉は、5月25日には、京都御所保存計画のため京都へ
 赴いたが、ここでますます症状が悪化した。
  これを聞いた明治天皇陛下は、勅命により東京大学医
 学部教授をしていたエルヴィン・フォン・ベルツを京都
 に派遣して診察させた。
  岩倉は、ここでベルツからは癌告知を受けた。
  これが、記録に残る日本初の癌告知だった。
  その後、船で東京へ戻され、明治天皇陛下から数度の
 見舞いを受けたが、回復することはなく、最後の天皇陛
 下の見舞いの翌日の7月20日死去した。
1883年7月25日、岩倉具視 國葬
  品川浅間台において岩倉具視の葬儀執行(最初の国葬)
  墓所は、東京都品川区の海晏寺。
1883年7月25日、朝鮮政府との間に、日本人民貿易規則、海
 関税目規則、間行里程取極約書、日本人漁民取扱規則を
 調印し、最恵国待遇となる。
  当時の新聞「時事新報」に記載された記事内容・・、
  「讀者諸君は、去る十六日以後の時事新報公報欄内に
 就て承知せらるゝ如く、本月十五日を以て、我政府は、
 「朝鮮國に於て、日本人民貿易の規則」と稱するものを
 發布せられたり、
  此規則は、朝鮮國に於て、貿易に從事する我日本人民
 の遵奉すべき法規にして、本年七月二十五日、朝鮮漢城
 に於て辨理公使・竹添進一郎氏と督辨交渉通商事務・閔
 泳穆氏と各奉する所の全權に依て、〓議決定し、兩國政
 府の准可を得たるものなり、
  而して又、此規則は、七月二十五日より百日の後に至
 りて、實行するものにして、來月二日は、正に朝鮮各港
 に於て、此規則實行の期日に相當し頗る切迫したるもの
 なるが故に、
  朝鮮貿易に從事する日本商人は、充分熟讀の上、豫め
 覺悟する所あるべきは、論を俟たざるなり
  回顧すれば、日本・朝鮮両國の間に、初めて條約を結
 び兩國の交通を密ならしめしは、明治九年の二月にして
 今より正に七年の昔に在り、締約の當坐は、日本商人の
 渡韓する者も甚だ少なく、釜山の一港、僅かに一落の日
 本居留地を見るに過きざりしが、三四年前より、貿易次
 第に繁昌の兆を現はし、
  本年、仁川開港の後は、俄かに渡航の商人も増加し、
 後來大に其〓大を期すべき傾向あるが如く然り抑も、朝
 鮮の貿易は、他の外國貿易に比して一種特別の性質を帯
 び、名は外國貿易なれども、其實は、日本内國の商賣と
 毫も異なる所なし、
  朝鮮に渡航するの船は、日本國内何れの津浦より出發
 し、何れの津浦に歸着するも勝手次第にして、
  他の外國貿易の如く、開港塲を經て發着すことを要せ
 ず、
  朝鮮に渡航するの船は、他の外國に航する者の如く、
 必ず西洋形の蒸氣風帆たるを要せず、日本形商船漁舟に
 ても決して差支なし、
1883年7月26日、日本鉄道開業
  日本鉄道の上野~熊谷間が開通した。
  7月28日に、運転を開始した。
  1日2往復で、所要時間は2時間24分。
  私設鉄道の始まり。会社設立(1878年)
  10月16日に、上野駅開業:日本鉄道の上野駅が開業。
 駅舎は仮設であった。完成は1885年。
  10月21日に、熊谷から本庄まで延長し、
  12月27日に、新町まで延長し、
  上野~高崎間の開通は1884年。
1883年7月27日、小学校教員免許状授与方心得が改正され、
 免許授与規定に品行の項目が加わった。
1883年7月28日、日本鉄道会社の建設していた上野~熊谷間
 が開通し、仮営業が始まる。
  日本初の私営鉄道経営。
1883年7月31日、小・中・師範学校の教科書採択が認可制と
 なる。
  日本における教科書の起源は、遠く古代にまでさかの
 ぼることができる。
  最初の教科書といわれているものは、仏教や儒教の教
 典・経書、国文・和歌、史書などの古典のたぐいであっ
 た。
  一般に、中世から近世にかけて広く用いられた「往来
 物」が有名。
  往来物とは、もともと書簡文の模範を示したものであ
 るが、その後、社会の変化とともに内容も変わり、教訓
 的なもの、産業的なもの、地理的なものに分かれた。
  そして、特に、寺子屋を中心に用いられた。
  その代表的なものに『庭訓往来(ていきんおうらい)』
 がある。
  (参考)庭訓往来:室町時代の往来物。
     玄恵 (げんえ) の著とされるが定かでない。1巻。
     庶民用の初等教科書で、室町から江戸時代を通
    じ明治初期まで広く普及した。
     形式は手紙文 25通を1年 12ヵ月に配列している
    が、文例集ではなく、日常生活に必要な多くの用
    語を示し、それが意味する社会事象を教えるのを
    目的とした。
  日本の近代学校教育制度は、1872年(明治5年)の「学
 制」発布よりスタートするが、
  この「学制」期の教科書制度は、自由発行・自由採択
 制であった。
  このため、この期の教科書は、種類が多く多様性に富
 んでいた。
  前述の旧来の教科書とともに、欧米の教科書を翻訳し
 たものや、欧米の文化・科学を紹介した啓蒙(けいもう)
 書などが教科書として広く普及していた。
  また、これら教科書とならんで掛図(かけず、地図や
 標本の絵・図などを掛け軸のようにした教材用のもの)
 が教科書と同格のものとして取り扱われ、小学校入門期
 の主要な教材となっていた。
  「学制」期において、文部省や師範学校も教科書を編
 集出版していた。
  1880年に、文部省は、地方学務局内に教科書取調掛(と
 りしらべかかり)を設置し、各府県の教科書の適否を調査
 し、使用中止を含めてリストを通達した。
  背景に、当時の自由民権運動の活動があり、民衆への
 啓蒙・指導の必要性を感じた(放任主義からの転換)
  翌・1881年に、各府県が、小学校の使用教科書を、文
 部省に報告することを義務づける開申制(告げ知らせる)
 とした。
  そして、1883年、教科書採択を開申制から認可制に改
 めた。
  小学校教科書以外にも、公立中学校・師範学校での教
 科書も認可制とした。
1883年7月、東京大学で、ドイツ出身の御雇外国人・ワグネ
 ルらによる吾妻焼の研究が始まった。
  新しい陶器の研究に着手し、1885年に、赤坂葵町に試
 験工場を設け、吾妻焼と命名する。
  さらに1887年に、東京職工学校に設備を移し、名称を
 旭焼と改めた。
  産業の近代化が進む中で、日本のタイル製造技術を向
 上させたワグネルだった。
  さらに新しい技法を積極的に取り入れながら、輸入品
 以上の精巧なタイルを海外に輸出した。
  来日の後、政府に雇われためずらしい経緯を持つ人。
  京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学
 教師、および、東京職工学校(現・東京工業大学)教授
 となる。
  また、陶磁器やガラスなどの製造を指導し、ヘンリー・
 ダイアーらと、同時期に明治時代の日本で、工学教育で、
 大きな功績を残し、讃えられた人。
  墓碑や記念碑が、後年まで管理され残っている(1892
 年11月8日没、61歳)
  墓所は、青山霊園内で、厚く葬られている。
  また、東京工業大学博物館には、業績の展示がなされ、
 また、キャンパス内には、その功績を讃える立派なワグ
 ネル記念碑がある。
  島津製作所の創業者もワグネルの指導を受けている。
  教え子には、東大教授など何人もの帝国大学を含め、
 多くの教授が居り、
  研究所の創設に功験したり、実業家の卵を育てたり、
 必要な学問を開くため学課の創設をしたり、
  また、国へ建設的なな建議をし、発展に寄与した。
  七宝などの製法指導、陶器焼成釜の発明、工芸家を育
 て・・など功績は多く、大きい。
  彼が指導し育てた会社が、第2回内国博覧会で名誉賞を
 受賞している。
  彼への讃辞は、止まるところを知らない・・、
  京都の七宝に色彩を導入し・・透明釉は、日本の七宝
 の美しさを世界に知らしめ・・飛躍的に高品質となった。
  パリ大博覧会でも名誉大賞・金賞など、国際的な評価
 を得るのは彼の寄与で大きな功績による。
  学究的な彼の性格は、日本人の性格と合い、
  歴史的に技術のある日本の陶磁器界を、さらに輝かし
 いものとした。
  彼は、一時、ドイツに帰国するが・・再び、日本に戻
 り、東京の自宅で没し、日本の土となって戴けたところ
 が有り難く、うれしい。
  『ドクトル・ゴットフリード・ワクネル伝』がある。
.
 (今日の言葉)
.
  グローバリズムの罪
.
  グローバリズムは、多国籍企業による市場の寡占、も
 しくは、独占固定化に至る可能性が高い性向がある。
  (参考)寡占:(かせん)少数の供給者が、市場を支
    配している状態。
  1例として、参入に巨額の資金が必要な半導体製造等の
 業種は、リスクが高く、新規参入が困難であることから、
 多国籍企業による市場寡占・独占固定化の可能性が高く
 なっている。
  (強い奴がさらに強くなるということ、強い奴に都合の
 良い状況、弱い者いじめの状態、ベンチャーは大変)。
  参入が困難な業種ほど寡占・独占固定化が進むと予測
 される・・グローバリズムの悪。
  グローバリズムによる相互依存が高まると、原油を初
 めとする資源価格高騰によって、持てる者である資源国
 がますます富み、
  無資源国が、高値で資源購入を余儀なくされる状況が
 深刻化する。
  (資源のない貧者が、ますます貧乏になる・・こんな
 グローバリズムがよいのか・・??
  グローバリズムの片棒担ぎの・・TPP・・!!)
  一部の多国籍企業による国際市場の寡占・独占固定化
 が強まると・・、
  資金・資本に乏しい(貧乏)国家からの企業の参入は
 極端に不利となる。
  国内産業が、多国籍企業に支配された低開発国は、先
 進国から国際援助を受けても、資金が国内産業に回らず
 そのまま国外に流出し・・、
  低開発国からなかなか離陸ができない。
  (せっかくの日本の援助が空回りする・・強者の儲け
 となって、吸い上げられる)
  無資源国で有力な産業が少なく、国外市場参入もでき
 ない国は、世界を一つの市場として共有するメリットは
 無い・・そのため、
  故に、グローバリズムの市場共有を放棄するしかない
 状態となる。
  逆に、ソフトウェア産業等のように、わずかな資金で
 参入でき、1人の人間のアイデアが大きく生かされる業種
 は、多くの雇用がアウトソーシングの形で先進国から開
 発途上国に流れており、世界的な産業規模の拡大が続い
 ている。
  (日本のアイデアが吸い上げられた・・!!)
  ロシア・中国・インドの急速な台頭による多極化や、
 経済面での地域統合の動き(ヨーロッパのユーロ通貨な
 ど)により、今後グローバル化の動きは相対的に後退す
 る・・その時代に入って行くと予測されている。
  (昔は、善人を奴隷にして吸い上げ・・今は、超巨大
 企業が吸い上げる・・そのシステム作りに狂奔する・・)
.
  そして、次の話・・、
.
1/3(討論!特別版)西尾幹二氏と語る、世界と日本の現在
  (いま)(桜H28/6/25)
https://www.youtube.com/watch?v=WaVrAHE_JTk&list=PLubSbhcjV7IC474nAq4dd64J1NubFDFCH
.
  西尾幹二氏と桜チャンネルの社長との対談(抜書き)
・世は、グローバリズムとナショナリズムの戦いになって
 いる。
  そして、アメリカの力の限界と共に、アメリカまでも
 ナショナリズムを主張し始めているために見えなくなっ
 ている。
・グローバリズムを定義すると・・、
  グローバリズムを狭義に解すれば・・、
  経済的に、アメリカ資本主義の改革主義、
  あるいはまた、構造改革、自由マーケット主義、
  そして、それを放任する事による弱者を抑え込む構造
 の世界観、
  (グローバリズムの考え方である)国境を無くした方
 が、資本の論理の方が・・有利に決まっている。
  だから、そういうグローバル企業が、パナマ問題に至
 る、脱税にまで至る横暴を尽くす(狭義のグローバリズ
 ム)
・これだけで考えるべきか・・つまり、経済帝国主義だと・・、
・桜チャンネル社長、・・システムとか、インターネット
 を含めて、通信手段や情報手段が、拡大・充実した中で、
 西欧の白人支配秩序・・、
  例えば、自由・博愛・平等とかは・・、
  これは欺瞞(ギマン)だったと、作られた単なる理念
 であって、根の座ったものでなかったというように見て
 いる。
  そして、その様に行ったのがEUであったり、アメリ
 カ合衆国である、
  作られた理念であって・・、
  経済に見られるように、また、政治状況に見られるよ
 うに、これが、ぜんぜん通用しなかった、中東でも通じ
 なかった、
  だから、各民族が、ナショナリズムというよりも、自
 国のアイデンティティ(主体性)を主張し始めた、見直
 しをし始めた。
  だから、白人が作り上げたそれらの理念を、かなり、
 疑いを通り越して・・否定をし始めている。
  アラブの春というのも、結局、押し付けだった、それ
 も駄目になった。
  原因は、人類の価値観が、『良く言えば多様化』した。
  今まで、世界的に共通しているものだった西欧近代主
 義なんかが、溶解・破綻し始めている、その結果である
 と見ている、
・西尾氏・・それは、ナショナリズムから見ているので、
  グローバリズムの正しさを主張する人にとっては、今、
 言ったことが、総べてが、ポジティブ(肯定的)になる。
  私が、「全体主義の呪い」という東ヨーロッパを中心
 とした共産主義の崩壊の姿を、90年代の姿を探訪した。
  その時、東ヨーロッパを歩いたとき、
  東欧の人達は、ナチズムとコミュニズムを区別しなか
 った、
  (参考)ナチズム:ナチスの思想・主義・支配体制。
    全体主義、偏狭な民族主義などを特徴とする。
  (参考)コミュニズム:共産主義に同じ。
  (参考)全体主義:個に対して全体を優先させる主義、
  (参考)リベラリズム:自由主義
  (参考)エスタブリッシュメント:社会的に確立した
    制度や体制。または、それを代表する支配階級・
    組織。規制勢力。
  つまり、コミュニズムは、ナチズムと同一のものであ
 って、同質の全体主義だと・・、
  そして、それを分からないのは、西ヨーロッパの知識
 人だと、彼らは、怒っていた、その当時にね。
  今、西ヨーロッパのリベラリズムは、ソ連化し始めて
 いる、逆に言えば、東欧のリベラリズムは怒っていた、
 89年より前には・・、
  今でも、東欧諸国の知識人は怒り続けている、本当の
 共産主義を理解してない・・と、
  西ヨーロッパの知識人も、今、ますます、ソ連化する。
  ソ連全体主義に甘い、そして、ナチズムを絶対悪とし
 て、これを他と比較したり、例えば、ソ連共産主義と比
 較したり、パラレルとして見たりすることは、ナチスの
 相対化になると言って、それ自体が犯罪だと言っている
 のがヨーロッパの言論界の姿、
  そうすると、共産主義は、例外として認められている
 ような、極悪はナチズムであるという思想になっている、
 これが西欧リベラリズムなのだ。
  この西欧リベラリズムが、まったく目が覚めてない、
 それがメルケルの移民を入れろという思想である。
  あれだけのことをされても、まだ、目が覚めていない、
 世界的に、それに対して、東欧諸国はナショナリズムで
 ありますから、西欧リベラリズムに対して西欧の民衆ま
 でもが、今、「ノー」と言い出している。
  ドイツでも、フランスでも、右翼が出てきているのは
 「それ」である、
  それも、超大国・アメリカにまで同じ波が起きた、ト
 ランプ現象が、まさに、そうですから・・、
  こうなると、結局、本当は、とおの昔は大戦争になっ
 ている時代に入っているのだけれど、核の脅威があるの
 で、誰も口出しできない、
  地球の上で、一部の特定地域だけが、直ぐに戦乱を起
 こすようになる仕組みの代わりに、大部分の9割の地域
 は腐敗したわいせつ感の中に生きていて、平和という名
 の中に、白黒のはっきりしない地域、愚かな正義が旗を
 振る、そして、それを分かっていても忍耐するしかない、
 それを私は『わいせつ』と呼ぶのです・・が、
  そういう状況が、世界的にどこでもつながっている、
  大きなことはエスタブリッシュメントと言われる勢力、
 つまり、大きなメディア、日本もそうですけれども、ま
 ったく、この問題に関して無反省である。
  本当に不思議なくらいの状況、これだけの事が言われ
 て来ていて、分かっている人は分かっているのに、知ら
 ん顔している、毎日、テレビを見ていると、何だろうと
 ・・舛添・・舛添・・舛添・・と?
  各家庭はそれを、目の色を変えて見ている。(12:08)
..
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2016年7月21日木曜日

(増補版)384E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年6月~1883年7月)

題:(増補版)384E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年6月~1883年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年6月3日、日本初のボート競技(レガッタ)
  隅田川の言問橋近くで、天皇陛下の御臨席のもとに、
 海軍軍艦乗組員による、カッター競漕大会が開催された。
  日本初のボートレースとなった。
1883年6月5日、海軍兵学校の生徒館が新築落成す。
  日本海軍の士官養成機関の海軍兵学校の東京で最初の
 赤煉瓦造りといわれる生徒館が新築落成した。
  海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)は、1876年(明
 治9年)~1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦まで存続
 したが・・、
  大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教
 育機関だった。
  初め、明治2年 (1869年) に、海軍操練所が東京の築地
 に設けられ、
  翌年・1870年、海軍兵学寮と改名。
  第1期卒業生は 1874年で 37人。
  1876年に、海軍兵学校と改名。
  1888年、広島県江田島に移転して、1945年まで続いた。
  絆が強かった。
  クラス同士の会合は、準公務として扱われ、
  また、クラスが戦死した場合、残された家族は、生き
 残ったクラスが可能な限り面倒を見るという、暗黙の了
 解が存在していた。
  この様な事から・・宮崎駿は言う・・、
  「野坂昭如の小説『火垂るの墓』の設定は、現実を無
 視した虚構である」・・と、
  宮崎駿は、事実にそぐわない野坂の虚偽と批判する。
  野坂の事実らしく作ったこの小説は、主人公らの父親
 は、原作では大尉、
  アニメ版では、巡洋艦艦長(中佐・大佐)、
  ドラマ版では、戦艦艦長(大佐)と設定されていると
 ころ、
  この様な者が戦死した場合に、その子弟が餓死するな
 どあり得ない話だと批判する。
  (虚構の小説を、美しく作りたいがだけのために、事
 実をゆがめ、日本を貶めている)
1883年6月7日、函館県に続き、札幌県でも移住士族取扱規
 則が制定された。
1883年6月15日、日本銀行に国庫金取扱を命じた。
1883年6月16日、東京大学法・理・文学部と大学予備門が合
 同陸上競技会を開催した。
1883年6月22日、第十五国立銀行の紙幣制限外発行権が廃止
 された。
  紙幣発行権を日本銀行に集中させ、兌換券の発行を目
 指した。
1883年6月22日、自由党の総理・板垣退助、及び、後藤象二
 郎、巡欧の旅より帰国(1月帰国説あり)
  また、因みに、『板垣退助帰朝記念碑』があり、それ
 によると、明治16年8月29日に、浦戸丸にて帰国とある。
  そして、自由党員30余名が、船上より歓迎万歳を叫び、
  祝砲煙火数十発を打ち上げ、
  先生の船を囲みて、丸山台此君亭に休憩す、島田糺同
 志を代表して歓迎の辞を述べ、
  先生、これに応へて、楼上の祝宴に臨む・・昭和60年
 春吉日、云々とある。
  この旧暦の明治16年8月29日は、1883年9月29日となり
 疑問である。
  板垣らは、1882年11月に出発したが、資金は三井財閥
 から出ていたという。
  この板垣の渡欧は、政府が、板垣退助などに、フラン
 スなどのヨーロッパを視察させて、板垣退助などを、政
 府の味方にして、自由党の勢力を弱めようとしたという
 話もある。
  そして、板垣退助は、この帰国の前後から自由党解散
 の意向をもち始めていた。
  そして、この翌年の1884年10月には、自由党幹部と合
 議のうえ、自由党解散を行っている。
1883年6月23日、駒場農学校の、第一回学位授与式。
  日本の近代農学の発展の礎とされている・・、
  また、明治11年(1878年)1月24日の農学校開校式の祝
 辞で、大久保利通は・・、
  「農でもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに
 今日この日からはじまるのだ」と述べている。
  また、農学校の規則に・・、
  「専門科卒業後、学術上著シキ顕功アルモノハ之ニ学
 士ノ称号与フコトアルベシ」・・とある。
  これは、最初の卒業式から3年後に実現した。
  卒業評点数85点以上の者に学士、それを下回る者に得
 業士を与えた。
  平均点が85点以上であっても、1課目以上、その数を下
 回るときには得業士となったが、得業士であっても学業
 研究の上試験を出願し、これに合格したときは学士を与
 えることとしていた。
1883年6月29日、出版条例の一部が改正された。
  実質的な検閲制への道を開き、規制強化⇒93・4・14
  「式によって宣布されない公文および上書、建白、請
 願書は、当該官司の許可を得なければ、記載してはなら
 ず、またその大意を録し、草案を掲げるのもまた同じ・
 ・」
1883年6月29日、根室県でも移住士族取扱規則が制定され、
 「北海道」地方のすべてで適用された。
  釧路市史に以下の記述がある・・
  根室県が、赤壁次郎・酒井純明に命じて士族移住地の
 適地選定をを行い、報告により入植地を阿寒川西岸と決
 める(1883年6月25日)
1883年6月30日、釜石鉱山分局が廃止された。
  釜石鉱山(かまいしこうざん)は、岩手県釜石市にあ
 る鉄鉱石鉱山で、
  この鉱山の存在によって、釜石市に、現在でも、新日
 本製鐵釜石製鐵所などの企業が数多く立地している。
  1727年(享保12年)に、江戸幕府付採薬使の阿部将翁
 が仙人峠で磁鉄鉱を発見した。
  そして、1883年(明治16年)に、官営製鉄所の廃止が
 正式に決定し、
  鉄屋・田中長兵衛に払い下げを依頼した。
  因みに、田中長兵衛(たなかちょうべい、天保5年(
 1834年)~明治34年(1901年)11月7日)は、
  幕末・明治期の実業家で、
  日本で初めて、洋式の民間製鉄所を設立するなど、日
 本近代製鉄の礎を築いた。
1883年6月、日本蚕糸協会の設立が決定した(5月説あり)
  農商務省で、1883年(明治16年)5月に、製糸諮詢会が
 開かれ、日本蚕糸協会の設立が決められた。
  速水堅曹が会頭、河瀬秀治が幹事長に就任した。
  日本蚕糸協会は、日本初の公的・全国的蚕糸業団体。
  因みに、河瀬秀治(かわせひでじ)は、天保10年12月
 15日(1840年1月19日)~昭和3年(1928年)4月2日)で、
 日本の武士(宮津藩藩士)、官僚、実業家。
  小菅県や印旛県、熊谷県などの県令を歴任後に、中央
 官庁を経て、実業界に転じて活躍した。
1883年6月、郵便碁
  囲碁、方円社(後の日本棋院)の村瀬秀甫(しゅうほ)
 が岩手県在住の三戸与彰(さんのへともあき)と郵便碁
 を開始した。
  四子局を、18ヶ月で117手まで進んだ。
  結果は不明。
  棋譜の残る最初の郵便碁。
  村瀬秀甫(のち18世本因坊)は、方円社の活動の一環
 として、郵便による対局(ハガキ、手紙に一手ずつ書き、
 交互に送って対戦)を考案していた。
  本因坊秀甫(ほんいんぼうしゅうほ、本名、村瀬弥吉、
 1838年(天保9年)~1886年年(明治19年)は、
  車坂下(上野、江戸、東京)の木匠(大工)の子とし
 て生まれ、
  幼少より本因坊丈策、秀和に師事し、
  1848年(嘉永元年)11才で、早くも初段となった。
  1851年(同4年)に、本因坊家の内弟子となった。
1883年7月1日、かな文字運動3団体が合併し、「かなのく
 わい(かなの会)」が結成された。
  今のカナモジカイ(大正9年、1920年~)の運動は、
 この考え方の系統を引いたもの。
  漢字の全廃は、現実の問題として実行が困難であると
 いう理由から、
  別に、漢字節減論が、明治初期に現れた。
  福沢諭吉、矢野文雄などは、この代表的論者で、また、
 実行者だった。
  また、ローマ字採用の意見が、明治2年(1869年)に、
 南部義籌(よしかず)の修国語論の主張に始まり、
  明治17年(1884年)に、羅馬(ローマ)字会が作られ、
  後に、ローマ字ひろめ会(明治38年、1905年~)と日
 本ローマ字会(大正10年、1921年~)とが設けられた。
  政府は、早くから国語問題の重要性をみとめ、
  明治35年(1902年)に、文部省に、国語調査委員会を
 設け、この問題の解決に着手した。
1883年7月2日、『官報』の創刊
  参議・山縣有朋の建議により、「官報」の第一号が発
 行された。
  発刊の意図は、当時、政党機関紙化し・・、
  「政府ヲ攻訐(こうけつ)シ、民権ト云(い)ヒ、自由ト
 称ス」
  民間新聞の抑圧を目ざしたものだった。
  編集・発行業務は、太政官文書局。
  官報は、国の公文書など公示事項を登載し周知させる
 ための機関紙で、
  江戸幕府には、『御触書 (おふれがき) 』(一般民衆向
 け) 、『御沙汰書 (おさたがき) 』 (上級武士向け) 、
 『封廻状 (ふうかいじょう) 』 (重臣向け)などがあった。
  そして、政府は、一般国民に知らせる必要のある事項
 (法令・告示・予算・人事など)を、編集して文書とし
 て刊行したいとした。
  この「官報」の発行のための文書局は、1883年5月10日、
 太政官(内閣)に、文書局(初代局長・平田東助)として、
 設置されていた。
  しかし、「官報」は、系譜的には、1868年2月23日に、
 明治新政府が、京都で創刊した「太政官日誌」にさかの
 ぼれる。
  この「太政官日誌」は、1877年1月まで続き、1177号で
 中止された。
.
 (今日の言葉)
  ヨーロッパの地名・・、
  それは、『豊かな森と自然』を物語っている。
  しかし、ヨーロッパの地では・・「開発」によって、
 その生の自然は失われて行った。
  そこには・・、
  「地を従えよ」のキリスト教の教義があり、考え方が
 あった。
  そのキリスト教の教義の洗脳を受け、
  人々は、自然を伐採し、
  壊す事を、自然を損なって行くことを、何ら違和感な
 く、罪悪感なく、破壊して行った。
  「地を従えているのだ」と錯覚した、
  次々と、自然は破壊され、失われて行った。
  見渡す限り・・樹木のない地が現出した、
  牧草だけの地に、麦だけの地にした。
  森に居たすべての生物は・・そのすべて死滅した、
  生き物の多様さの話は、おくびにも出さなかった。
  多様性について、「ある」とは言えない地となって、
  その一面の草地を・・、麦畑を・・綺麗と感じた。
  日本の里山の美しさ、動植物の種々の生物の多様さの
 中に、
  大自然を大切に、大事にし、
  尊重し・・、そのありがたさの中に生活するという考
 え方は、このキリスト教の考え方にはない。
  キリスト教に教義に固執した・・
  洗脳された人々には、それでいいのだとしか考えられ
 なかった。
  ただ、破壊された地が現出した。
  かつての豊かさは、
  そのヨーロッパの地の・・地名にだけに残った。
  かつての豊かなヨーロッパの自然を語った地名が・・、
  そこにある。
  ヨーロッパの姿を、地球の姿を・・大きく変えたこと
 を物語っている。
  地名の中には、かつての豊かなヨーロッパの自然が息
 づいている。
  かつての深いヨーロッパの森は、豊かな森は、今は、
 ドイツの一部にしか無いという。
  深い森の息づく地名、例えば、ベルギーは・・、
  やはり、キリスト教に殺され、駆逐された民族=ケル
 ト族の言葉に由来して、
  「ベルガエ」はケルト語の「沼地」と、「ガル」(森
 林)が・・合成された地名「沼地の森林」。
  有名な「ポツダム」は「樫の木の下に」の意味。
  ノルウエーの首都「オスロ」は「神聖な森」、
  ドイツの都市「ライプチヒ」は「菩提樹の土地」。
  ドイツの「ズデーデン」地方は「猪の森」と・・森に
 かかわる地名が多い。
  イギリスの絹織物の都市「ダービー」は「鹿の居る所」。
  マンチェスターは、ケルト語の「マキオム」から来て
 いて「毛皮を取引した場所」。
  ドイツの「ベルリン」は「沼地」。
  スウェーデンの鉱山の「キルナ」は「雷鳥の山」。
  スイスの「ベルン」は「熊」。
  ドイツの「ハイデルベルク」は「コケモモ」などなど。
.
  (追記)
.
  まさに、シャロームが、そうなのだ。
  キリスト教は、平和を・・「シャローム」という。
  キリスト教は、説く・・、
  すべてを死滅させて「シャロームが来る、現出する」
 と説く。
  すべてを殺して、誰も居なくなった地に、キリスト教
 の教会を建てて何になるのだ・・と、軽蔑するが、
  キリスト教は、平和を・・その様に説く。
  南米・中米・北米、および、それらの離島で、
  キリスト教徒、および、キリスト教聖職者たちは、
  キリスト教の説く「シャロームを目指して」、殺戮の
 上に殺戮を重ねて、
  8000万人の方々が、先住民のインディオの方々が、
 幸せな生活をしていた方たちを殺戮しまくった。
  キリスト教の有色人種蔑視の教えに、何ら、そこに罪
 悪感もなく・・卑劣な事をしまくった。
  ヨーロッパの自然破壊も、そこに満ちる豊かな命・・
 生物多様性の姿に、その考え方はまったくなく、
  その考えにおよぼすことなく、
  ただただ、キリスト教の教える「地を従えよ」の教え
 によって、すべての生物の死滅行為を平気でやった。
  真の豊かさ、本当の豊かさ、未来の豊かさが失われる
 のを、愚かにも気づかずに、
  キリスト教の説く「地を従えるのだ」と破壊行為をす
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年7月19日火曜日

(増補版)383E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年4月~1883年6月)

題:(増補版)383E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年4月~1883年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年4月23日、自由党が、大会で立憲改進党攻撃を決議し
 た。
  そして、偽党撲滅演説会を各地で開催した。
1883年4月27日、大蔵省が、日本銀行に国庫金取扱いを命じ
 た。
1883年4月28日、府県選挙師範生徒募集規則制定(明治16年
  文部省達第6号)
  公費で、各府県選択生を東京師範学校で修学させ るこ
 とにした。
1883年4月28日、日本銀行の開業式
  日本銀行は、1882年10月10日に、永代橋のたもとに開
 業したが・・、
  開業式は、建物・付属施設の工事完了後の1883年4月28
 日に行われた。
  開業式において、大蔵卿に、1881年に就任していた松
 方正義大蔵卿が祝辞を述べた。
  「其地位、官民の中間に立ち・・全国の貨財を流通し、
 善く聚め、善く散し、操縦離合各々其宣を得せしむるの
 一大機関に当り・・」
  中央銀行は、経済に、金という血液を送る心臓のよう
 な重要な存在である・・と述べた・・、
  因みに、松方大蔵卿は、欧州の中央銀行をモデルに、
 短期間で日本銀行の設立準備を進めた人。
1883年4月、長崎市に、製靴会社が設立され、本格的に靴の
 生産が始まった。
  代表・金尾長次郎の更盟社。
1883年4月、日本人名義の営業を禁止(外国人)
  (参考)明治16.5.31 横浜・病院(大蔵省へ達)神
 奈川県下清国人避病院増地ヲ貸与ス
  (参考)1901年(明治34年)、当時、船見町一帯に、
 通称「西出山」と呼ばれたほどの広大な地所を所有して
 いた西出孫左衛門が、
  五反五畝八分の畑地(1657坪)を、9948円60銭で
 (9947円60銭とも)中瀬捨太郎宛に売り渡した。
  ここは、旧ロシア領事館が、現在、建っている場所と
 同じ船見町125番地の3で、
  当時の政府は、外国人名義で不動産登記を行うことを
 禁止していたため、
  中瀬が、その信託的名義人となり、ビリチが、地上権
 を999年にわたり賃貸借するという形が取られた(清水恵、
 A.トリョフスビャツキ著「〈史料紹介〉日露戦争及び明
 治40年大火とロシア帝国領事館」『地域史研究はこだて』
 25号および『北海道新聞』昭和31年12月3日)
1883年5月1日、共同運輸會社が創業した。
  共同運輸が、横浜~神戸間の航路を開設し、三菱との
 競争時代に突入する。
  (氷川清話)海坊主退治(三菱財閥攻撃)
1883年5月5日、各国立銀行紙幣の償却を行うため、国立銀
 行条例が改正された。
1883年5月8日、第一回大日本水産会が開催された。
  大日本水産会は、水産業の振興をはかり、経済的、文
 化的発展を期する目的のため、1882年2月に設立された我
 が国唯一の水産業の総合団体。
  創立時の会頭に、小松宮彰仁親王を奉戴(ほうたい、
 謹んでいただくこと)し、品川弥二郎氏を初代幹事長に
 選出した。
  今・現在も存続し、活動している。
1883年5月9日、富山県、佐賀県、宮崎県が設置された。
  富山県は、「明治16年太政官布告第15号 富山佐賀宮崎
 三縣設置」により、
  佐賀県、宮崎県の分県とともに、
  旧越中国一円(越中4郡)を富山県として再び設置され、
 この日をもって置県とした。
  同様に、佐賀県も、現在の県域と一致する、最終的な
 佐賀県が成立した(佐賀県復県)
  また、同様に、宮崎県も、川越進(鹿児島県会議員)
 等による分県運動の結果、
  日向国のうち、志布志郷・松山郷・大崎郷を除いた地
 域をもって、国より再置県が認められ、分県が成立した
 (宮崎県再置)
1883年5月10日、官報発行條例
  この年の太政官布告17号、及び、太政官達22・23号に
 よって官報発行が正式に決定され、
  1883年7月1日に、本格的に官報が刊行されるようにな
 った。
1883年5月10日、地学会が設立された。
  データ1、1879年:地学協会設立、榎本は副会長に任
 ぜられる。
  データ2、東京地学協会が、明治12年(1879年)4月、
 神田錦町の学習院内に創立された。
  創立の首唱者は、渡辺洪基・榎本武揚・花房義質・鍋
 島直大・長岡護美の5名・・(中略)・・
  明治25年(1892年)12月、東京地学協会は、地学会と
 合併した。
  地学会は、明治16年(1883年)5月、博物友の会から分
 離創立した。
  データ3、1889年:東大地質学科を中心とした地学会
 が地学雑誌を創刊した。
1883年5月18日、農商務省に、蚕糸諮詢会が設置された。
  この日より26日まで、農商務省議事堂に、各地方の蚕
 糸製造販売に経験ある者を招集して、製糸諮詢会を開く。
  尚、農商務省農務・商務・工務三局相謀り、各府県蚕
 糸業者を招集して蚕業諮問会を開く。
  渋沢栄一が、会員に選任さる。
  (参考)諮詢:しじゅん、参考として他の機関などに
     意見を問い求めること。
1883年5月22日、官省院庁の「達」「布告」が、官報に掲載
 するとの決定がなされた。
1883年5月26日、布告・布達の施行期限、到達日数を制定し
 た。
1883年5月26日、日本初の暴風警報が発令された。
  四国南岸を、中心が745mHg(993ヘクトパスカル)の低
 気圧が通過した。
  内務省地理局気象台は、我が国初の暴風警報を発表し
 た。
  その発表に用いた地上天気図(26日6時)は、当時の観測
 所の数は全国で22か所であり、各地の観測資料は、1日3
 回8時間毎に電報により東京気象台に報告されていて、そ
 の資料より作成された。
1883年5月30日、各国立銀行紙幣償却のため、銀行紙幣合同
 銷却方法を、日本銀行に下付した。
  政府は、日本銀行を設立して兌換制度を確立せんとし、
 五月五日、国立銀行条例の改正を布告す。
  是に於て、国立銀行の営業期間は、開業許可日より向
 ふ二十年後と制定され、其期間内に、銀行紙幣を銷却す
 ることとなれり。
  同行此変革に処して、合同紙幣銷却法を提唱し、是日
 政府の容るる所となる。
  渋沢栄一本件に尽力する所多し。
  尚、1883年5月15日に、
  是より先、国立銀行条例の改正あるや各国立銀行は開
 業後二十年を以て営業満期とし、
  満期の後には、普通銀行に組織を変更するか、又は、
 鎖店するを要することとなり、従つて、其迄に発行紙幣
 全額を消却する必要を生じたり。
  よつて、是日、右に付き大蔵卿より下付されたる命令
 書の趣旨に基きて、協議せる結果、
  紙幣消却方法には、合同法を用ふるを可とするに決し、
 後之を上申して許されたり。
  そして、尚、1883年5月19日に、
  大蔵卿松方正義国立銀行改正条例第百十二条に拠り、
 此月十日、各国立銀行に対し、
  国立銀行紙幣消却方法を命令すると共に、
  日本銀行に対しては、之に関し各銀行毎に協議を遂げ
 約定を結ばしむ。
  然るに、渋沢栄一該消却方法の頗る煩雑に渉るを以て
 各銀行合同消却方法を採らんことを東京銀行集会所同盟
 銀行に提唱し、賛同を得、是日、同集会所之を日本銀行
 に提出す。
  依て日本銀行大蔵卿に請願し、容るる所となる。
  (参考)銷却=消却、
1883年5月、中江兆民(36歳)らが、東洋出版会社を設立し、
 兆民は社長となる。
  欧米書籍の翻訳出版。
  『維氏美学・上冊』(ヴェロン原著)を刊行した。
  中江兆民、1847年、土佐高知に生まれる。
1883年6月2日、函館県が、移住資金の不足する士族のため
 に、移住士族取扱規則を制定した。
  明治初期の北海道移民の主力は、幕末維新の混乱で失
 業し、生活に困窮して、移住を余儀なくされた士族を中
 心とする、いわゆる士族移民であった。
  士族移民は、大きく分けると、
  (1)初期の幕末維新動乱関連の移民、
  (2)中期から後期にかけての屯田兵、
  (3)後期の士族授産のための移民・・の3種。
  1例として、仙台藩は、総石高62万石で、実際は100万
 石を超えていたともいわれる大藩であったが・・、
  1868年9月に、戊辰戦争で敗れ、新政府軍に降伏すると、
 領地を28万石に削減され、
  藩士の家禄も削減され、家臣の扶養どころでなくなっ
 た。
  北海道に移住して、新政府の北門防備に応じて、「朝
 敵」の汚名をそそぐとともに、
  士族としての、家臣団の維持が図られるし、また、再
 建への道も残された。
  全国各地から、移住士族は集まり、北海道各地に支配
 権を得て、入植がなされていた。
  士族移住は、苦境を切り抜けようという性格も強く、
  また、君主ともども、家臣だけでない移住をするケー
 スも多く、顕著な成果を上げたものが多かった。
  君主も、自ら率先して、先祖伝来の財宝を売却したり
 して、成功の素地があった。
  しかし、黒田の建議を受けて、1874年10月に「屯田兵
 例則」が制定され、
  士族対象に募集が行われ、平民籍となり、入植した屯
 田兵。
  入植後3ヵ年は、米と塩菜料が支給され、
 銃などの武器の貸与もなされた。
  そして、1876年の秩禄処分による失業士族の発生、
  そして、その士族授産が、国家的な問題・課題となっ
 た。
  1883年に至り、石川県士族の林顕三らが、旧金沢藩主
 前田利嗣の出資で、岩内郡前田村の開墾事業に着手した
 起業社などがある。
  開進会社は、「遊手坐食」の士族を授産させるために
 第四十四銀行頭取であった岩橋徹輔が、岩倉具視ら華族
 から200万円の資本金の出資で設立した会社であり、
  全道各地に土地の払い下げを受けたが、思うように資
 本金が集まらず、1884年に解散した。
  しかし、この種の会社組織による北海道開拓は1887年
 以降本格化し、開進会社はそのさきがけだった。
  日本は、士族の救済に、あの手この手で全力を尽くし
 ていた。
  (参考)遊手:ゆうしゅ、手を遊ばせて使わないこと
      坐食:ざしょく、無職のまま生活すること、
..
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2016年7月17日日曜日

(増補版)382E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年3月~1883年4月)

題:(増補版)382E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年3月~1883年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年3月22日、国庫出納条例が制定された(4月17日説あり)
  日本の銀行業が成立していく速さは早かった。
  1872年に、国立銀行条例が制定され、
  1876年に、それが改正されると、わずか3年後の1879年
 には、国立銀行の数は153行に達した。
  その後は、おびただしい数の私立銀行・銀行類似会社
 が生まれた。
  1883年には、全国の銀行数は1000行を越えていた。
  銀行資本金も急増を続けた。
  明治期の日本の経済発展は、まず、金融機関、海運、
 鉄道、郵便、電信事業、道路の開発・整備に始まった。
  そして、繊維・鉄鋼などの工業分野に広がって行った。
  この頃までの銀行資金総額に占める民間預金の割合は、
 10%~20%と極めて低率であった。
  資金の大部分は、政府資金と株式によって調達されて
 いた。
  1884年以降は、日本の民間預金のシェアーは急速に増
 大し始めるが・・、
  1873年~1894年の段階において、銀行は、十分な民間
 預金を集めることが出来なかった。
  銀行を通じて資金が、社会へ大きく流れて行くという
 状況は、この次の世代へ行かなければならなかった。
  この様な状況の中で、どのようにして産業資金を供給
 するかであった。
  政府は、維新当時は、主として豪商・豪農に為替方を
 依頼し、
  国庫金の出納を管理させていたが、
  銀行制度を持つに至り、各地の国立銀行や主要な私立
 銀行などに為替方の主体が移って行った。
  その様な中で、政府は、民間が、高い利息で苦しまな
 いで資金が供給されるというシステムを作りたいとした。
  国立も私立も、銀行の政府預金は高い比率にあった。
  (1880年の国立銀行で25%、1876年の私立の大銀行の
 安田銀行で56%だった)
  また、1874年に民間銀行の倒産があり、この時から、
 政府は、官公預金の大蔵省による集中管理方式への切り
 替えを始めていた。
  そして、設立された日銀による国庫金の管理に重点が
 置かれるようになって行く。
  (参考)政府は、1883年4月、日銀に「国庫金取扱方」
 を命じ、
  同年・1883年6月、従来の「大蔵省為替方」は廃止され、
 新たに以下3つが設置された。
  1、国庫取扱所
  国庫に納めるべき金の収納と送納を行う機関。日銀が
 扱う。
  2、現金取扱方
  3、金銭取扱方
  (参考)1882年末、総預金に占める官公預金の比率は、
 国立銀行44.7%、三井銀行44.7%、安田銀行40.8%
1883年3月26日、井上馨外務卿が、日清通商章程満期につき、
 条約改正希望を清国公使に通告した。
1883年4月1日、新聞紙条例を改正した(4月16日説あり)
  発行保証金制度、行政権による発行禁止・停止権、新
 聞紙差押え権などの新設・拡大によって、新聞弾圧の意
 図をますます強くした。
  しかし、新聞界の反対があって、1887年12月28日と1897
 年3月19日の改正などで、行政権による発行停止・頒布の
 禁止・差押え権などは廃止された。
1883年4月9日、秋山好古(あきやまよしふる、陸軍軍人)
 が、陸軍大學校(1期)に入学した。
1883年4月10日、大倉喜八郎らが発起人となり、中華料理店
 「偕楽園」が開業した。
1883年4月11日、文部省が、農学校規則を制定した。
  この時、文部省は、達第五号で農学校通則を定めたが、
  これは、1881年に起きた、農業や商業についての学校
 に対する管轄権について、農商務省との軋轢と行き違い
 があった。
  それは、1881年4月7日に、太政官達第二十五号をもっ
 て布達された農商務省職制に、
  農商工の諸学校に関する管理が・・、
  「官立ノ農商工の諸学校、農工業模範の建造物及ヒ博
 物館ヲ管理シ民立農商工ノ諸学校ヲ監督ス」・・
  ・・と、書かれたことに対し、
  文部省が、教育令の既定を根拠に、その変更を太政官
 に求めた。
1883年4月12日、馬場辰猪、政治講談論議を禁止される。
  馬場辰猪(ばばたつい)は、日本の思想家、政論家、
  急進的で国粋的な人だった。
  江戸留学の藩命を受けて慶応2年(1866年)に、鉄砲洲
 にあった中津藩邸の福沢塾(後の慶應義塾)で政治史、
 経済学を学んだ。
  そして、その後、長崎に赴いて長崎英語伝習所にてオ
 ランダ人グイド・フルベッキに英語を習い・・、
  明治2年(1869年)、慶應義塾に戻り、のちに教師も務
 めた。
  1883年には、警視総監・樺山資紀から東京での政治演
 説の禁止を申し渡され(6ヶ月間)
  その後は、著作活動に入った。
  1884年の加波山事件に関して、「露国虚無党の利器と
 称する所のダイナマイト」に着目し、
  明治18年(1885年)11月に、横浜・山手のモリソン商
 會で「ダイナマイトは売っているか」と尋ねたため、密
 偵に発見され検挙された。
  爆発物取締罰則違反に問われて、大石正巳と共に逮捕
 された。
  翌年・1886年6月、公判で無罪判決を受けた後、アメリ
 カに亡命して講演を行う。
  アメリカでは、政府批判の講演を行い、駐米公使とし
 てアメリカにいた陸奥宗光を尋ねた。
  しかし、病苦と貧苦に耐え切れず、明治21年(1888年)、
 肺結核と肺炎のためフィラデルフィアのペンシルヴァニ
 ア大学病院で没した(38歳)。
  没後の明治29年(1896年)11月2日に、谷中天王寺で、
 辰猪の没後8周年祭が催された。
  その時、福沢諭吉、尾崎行雄、犬養毅、中江兆民、田
 口卯吉、荘田平五郎、金子堅太郎、渡辺洪基、中上川彦
 次郎、矢野文雄、大石正巳ら140名ほどが参列したという。
1883年4月12日、参謀本部内に、初めて、陸軍大学校が開設
 され、この日に開校された。
1883年4月16日、西洋流の園遊会が、初めて、大隈重信邸内
 に催された(立憲改進党結党1周年祝賀、来賓者110数名)
1883年4月19日、米公使が、下関取極書に基づき償金78万
 5000ドルを井上馨外務卿へ返還した。
  幕府と条約4カ国が横浜で下関戦争の賠償取極めに合
 意した時から、およそ3年2ヶ月も経つ頃、
  アメリカの国務長官・ウィリアム・スーワードから下
 院外交委員長・ナサニエル・バンクスに宛てた、1868年
 1月8日付けの1通の書簡に、以下の様に「相当する理由
 のない日本よりの賠償金」について書かれている。
  下院外交委員会委員長 N・P・バンクス閣下 殿
 拝 啓、
  名誉をもって以下の如くご通知します。
  1864年10月22日付けで合衆国も参加して結んだ日本と
 の取極め書の条項により、
  本政府は、日本政府より、本質的に相当する理由のな
 い、この取極書に述べられる賠償金支払い分としての
 金貨・60万ドルを受領しました。
  この総額は、合衆国登記公債に投資され、議会の処分
 決定を待っています。   敬 具           
        ウィリアム・H・スーワード
  この金貨・60万ドルは、「下関戦争」での合計300万ド
 ルの下関戦争賠償金のうち、
  アメリカに支払われるべき78万5千ドル分の半分に相当
 する金額と、その公債の利子も含め、当時アメリカ政府
 の手に渡っていたものだった。
  (日本は、他のアジアの各国と同様に、弱小国家とし
 て、この様なべらぼうな大金を、アメリカ・ヨーロッパ
 の列強各国から課される『圧迫・いじめ』に会っていた)
  通常ならアメリカ政府の歳入として国庫に納入されて
 もおかしくない入金だが、
  その後に、残りの支払い分や長期に渡る公債の利子も
 合わさり、アメリカ国内で後に「日本賠償金基金」とも
 呼ばれ、その処分について民間をも巻き込んだ熾烈なロ
 ビー活動が繰り返され、
  アメリカ議会では15年もかけて、繰り返し、その処分
 方法が論じられ、ようやく
  1883年2月に、日本が、アメリカに支払った全賠償金額
 を日本政府に返還する決定がなされ、そして、4月に返還
 された。
  アメリカ国務省で、登記公債に投資するなどの特別処
 理がなされたのは・・、
  当時のスーワード国務長官が決定したものだが、バン
 クス委員長宛てに、「本質的に相当する理由がない」 と
 個人的見解を書いた以外、その詳しい経緯を公にしてい
 ない。
  「相当する理由がない」、つまり、受け取る理由のな
 い賠償金なら、
  または、取り過ぎた賠償金なら、アメリカが、何故、
 こんな賠償要求をしたのか?
  日本の歴史学者は、米国内の世論は 「取りすぎだ」と
 の気運が強く、スーワード国務長官は、その世論に配慮
 して登記公債に入れたと考えられる・・と。
  しかし、若年寄・酒井忠眦(ただます)が、横浜で4ヶ
 国と下関賠償取極書を取り交わした1864年9月22日頃や、
  この翌年・1865年、ニューヨーク・デイリー・トリビ
 ューン紙に、フランシス・ホールの下関賠償記事が 「日
 本からの興味ある情報」と題して載った1865年2月15日頃
 のアメリカは、まだ南北戦争の最中だった。
  そして、この記事から2月後の4月14日には、リンカー
 ン大統領が、観劇中に暗殺され、
  同時に、スーワード国務長官自身の命も狙われ、大怪
 我をしていた。
  また、デービス南部連合大統領が、1865年5月5日に、
 南部連合国の閉国を決め、南北戦争は完全に終結したと
 はいいながら、
  実際に、アメリカ政府が、日本からの入金を受領し始
 めた1866年8月頃までは、まだ、テキサス州の各地に小競
 り合いは残っていた。
  そんな長期の内戦や大統領暗殺という大事件があった
 当時のアメリカ世論に、このアジアの片隅の下関賠償金
 に関し 「取りすぎだ」という、そんな気運が発生したり、
  スーワードが、その世論を考慮したりする必要や余裕
 があったのか?
  また、スーワードが、このバンクス宛の書簡を書いた
 約1年前の1867年3月末には、スーワード国務長官が、主
 導し、アメリカ合衆国が、720万ドルで、ロシア帝国領の
 アラスカ購入に調印していた。
  これに対し、多数の共和党議員から「スーワードの愚
 行」とか「スーワードの巨大冷蔵庫購入」などと強い非
 難と反対意見も出されていた。
  結局、アラスカは購入されるけれども・・、
  この様に、永い間外交をしてきた「つわもの」のスー
 ワードが、そんなに簡単に世論に迎合して、日本賠償金
 基金を造のか?
  そして、民間からの基金獲得ロビー活動を含め、全額
 返還に至るのか?
  当時の300万ドルは、途方も無い大金であった。
  当時のドル・両の交換比率「一ドル三分換え」で換算
 すると、225万両の大金となる。
  下関戦争の前年の1863年の徳川幕府「貨幣方歳出」と
 いう現金歳出は、金換算で705万7千両だという額になる。
  これに「米方歳出」の約66万石を、当時の米の単価、
 1石を2両1分で金換算した148万5千両を合計すると、
  総歳出額は、854万2千両になる。
  つまり、この賠償金額300万ドルという225万両という
 額は、現金支出と現物支給の米を合わせた当時の総歳出
 額の26%強となる。
  1863年の幕府の年間歳出額の4分の1強という、大変高
 額な賠償金額だったという事が分かる。
  因みに、この賠償交渉をした2年前の1862年8月29日に、
 当時の幕府が、蒸気軍艦を購入しようと、幕閣の板倉勝
 静(かつきよ)が、アメリカ公使・プルーインと会談し、
  その時のやり取りの中で、プルーインは、アメリカで
 最新造船軍艦の例として、船の長さが20間~25間の約1000
 トン級の蒸気軍艦で、16万ドル、
  長さが35間の約1500トン級で、大馬力のエンジンを搭
 載して30万ドル位の値段だとしている。
  これから、300万ドルという賠償金額は、35間・1500ト
 ン級の蒸気軍艦が一度に10隻も購入できる。
  更に、1863年5月9日に、幕府が生麦事件で、イギリス
 に支払った賠償金が、44万ドル、
  その後の薩英戦争で、薩摩藩がイギリスに払った10万
 ドルと比べれば、この300万ドルが非常な高額なことが分
 かる。
  幕府は、この莫大な現金を簡単に支払えないので、交
 渉に当たった若年寄・酒井忠眦は、3ヶ月ごとに6分割し
 た50万ドルの支払いを約束した。
  アメリカの国務長官・スーワードの指示で 「他国との
 協調外交」 に方針転換していたアメリカのプルーイン公
 使が、イギリスの武力外交戦略を協調的に支持し、フラ
 ンスもオランダも支持した・・そして、行なわれた日本
 への武力行使の結果がこれだった。
  外国列強の侮辱を晴らすという行為の結果だった。
  被害も受けていないイギリス主導の武力外交を共同し
 てやったという結果がこれだった。
  そして、下関戦争に完敗した長州に代わり幕府が、日
 本政府としての管理責任を取ったのだった。
  返還要求した明治政府の勝利だった。
..
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2016年7月15日金曜日

(増補版)381E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年2月~1883年3月)

題:(増補版)381E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年2月~1883年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年2月17日、浴場での政談演説が始まった。
  政談演説は、政治思想を普及させる方法として行われ
 た演説で、
  明治10年代初め、自由民権運動が起こると、明六社ら
 の知識人グループが行っていた演説は、民権派によって
 政府批判、民権思想普及・宣伝のための手段として重視さ
 れた。
  そして、政談演説会は、頻繁に開かれた。
  また、政談演説は、新聞とならぶ最も重要なコミュニ
 ケーション手段であり、1881年~1882年には、全国で大
 流行した。
  それにともない、政府は、取締りを厳しくした。
  街頭での演説禁止、官吏の演説禁止、警察官の臨監、
 法に触れた弁士の一定期間演説禁止などの処置をとり、
 1880年には、これらをあわせて集会条例を制定して規制
 した。
1883年2月21日、郡区長の給料・旅費は、1883年度より国庫
 支給と定められた。
1883年2月27日、伊能忠敬へ正四位追贈された。
1883年2月 東京電燈会社が設立された。
1883年2月、朝鮮の首都漢城の外港にあたる仁川(インチョ
 ン)に日本租界が設定され、9月に開港した。
  (参考)租界:アメリカやイギリスが、中国の開港都
 市において、その居留地区の警察・行政権を掌握した組
 織および地域の事を言い、1845年に、イギリスが上海 (
 シャンハイ) に設けて以来のもの。
1883年3月1日、天気図が作成され、「低気圧」の語が誕生
 し、流行語となった。
  東京気象台が、毎日の天気図を作成し、配布を開始し
 た。
1883年3月1日、農商務省が、第1回水産博覧会を開催した。
  会場は、東京・上野公園
  会期:1883年3月1日~1883年6月8日
  開設の趣旨:
  本会開設ノ趣旨ハ各地其ノ業ノ盛衰ヲ較へ其術ノ巧拙
 ヲ闘ハシ其方法ノ得失ヲ交詢シ広ク其改良進歩ノ道ヲ求
 ル所以ニシテ其趣旨専ラ経済上ノ点ニアリトス出品者宜
 シク其ノ意ヲ領シ凡ソ出品物ハ漁具ノ利用漁業ノ巧拙水
 族ノ繁殖保護及製造方法ノ良否得失ヲ示ス等務メテ本会
 開設ノ意ニ適切ナラシムル様注意スルコト肝要ナリ
  ・・非常にまじめな明治人の気質が表れている文。
  必死に日本を良くしたいと努力していた。
1883年3月3日、朝鮮と海底電線設置条約に調印した。
  日本は、インフラの恩恵を朝鮮まで及ぼした。
  また、この頃、清国と朝鮮間の締結した条約で、清国
 は、国主的立場であった。
  そして、日本は、この日本・朝鮮の線と清国・朝鮮の
 線とを結んだ(連結した)。
  この頃、長崎・上海が連絡されてはいたが・・、
  この今回の日本・朝鮮(長崎・釜山)の線でも中国と
 連絡できることとなった。
1883年3月10日、「清国及朝鮮国在留日本人取締規則」制定
  (明治16年太政官布告第9号)
  中国及び朝鮮における、在留禁止の法令ができるいき
 さつは・・、
  この発端になったのが、1881年8月に、釜山居留地の日
 本人に暴力が加えられる事件があった。
  最初、朝鮮側から日本側への加害行為があった。
  それは、借金返済を取り立てるため、条約上の旅行制
 限があったが、朝鮮内地の亀浦に赴いた日本人商人4名が、
 土地の朝鮮人に暴行された。
  借金取り立てから逃れたいという理由を、騒ぎにして、
 法令に「かこつけて」乱暴撃退行為に出たという経緯(
 いきさつ)だった。
  それに対し、抗議しようと日本人居留民たちが、居留
 地を離脱し、朝鮮人町へ行き、いざこざが大きくなった。
  この件に対し、朝鮮政府は、釜山領事館へ条約違反で
 あることと、居留民の取締の責任を問うと主張した(借
 金踏み倒しに対して何ら言及していない)。
  釜山領事の近藤真鋤は、同事件の善後策として、領事
 館警察の増員と共に、「退韓律」の制定を本国・日本政
 府に提出した。
  そして、在留を禁止するのは効果的な統制手段である
 と前提し、
  主に「両国交際ヲ妨害セシ罪」「両国条約ニ違犯セシ
 罪」「両国貿易ヲ妨害セシ罪」に適用すべきことを進言
 した。
  (これも、原因の元にある借金踏み倒しに対して何ら
 言及していない)。
  更に、一週間後に、案を具体化して・・、
  「退韓ハ司法上ノ処分ニ非スシテ」、「予防ノタメノ
 行政処分」の制度、
  すなわち、領事裁判権に属する司法処分ではなく、領
 事警察権に属する行政命令の制度として制定するとした。
  しかし、日本政府からは、何等の反応もなかった。
  そのため、翌年・1882 年に、領事・近藤真鋤と総領事・
 前田献吉の連名で・・、
  「犯罪ヲ未然ニ予防スルハ行政上ノ要務」であるが故
 に、「未タ罪科ヲ犯シタルコトナシト雖モ過激ノ言論ヲ
 発シ或ハ過激ノ挙動アル者」、「一タヒ罪科ヲ犯シタル
 者ニテ再犯ノ懸念アルモノ」に対する在留禁止制度を設
 けることを催促した。
  (予防の名のもとに、無実の者を拘束してしまうとい
 う問題を無視した。
  何もしていないのに、急に、警察が来て拘束されると
 いう恐ろしさがある)
  そして、その理由として、その前例が、日本国内にお
 ける「過激言論」に対する行政処分としての印行禁止・
 演説禁止などの行政処分、そして、英国の「日清在留英
 国人取締法令」の関連規定を挙げた。
  この様な、現場からの度重なる要求により、ようやく
 中央政府内において、議論が行われた。
  そして、同年・1882年12月に、布告案が纏まり、外務
 卿・井上馨、司法卿・大木喬任の連名で、太政大臣・三
 条実美へ在留禁止制度制定の件が上申された。
  その理由は・・、
  「現今、朝鮮国漸ク外交ヲ重ンシ万国ノ公例ニ従ヒ広
 ク欧米諸国ト交通セントスル時」であるが故に、在留日
 本人が紛擾を起こす場合、「独リ在留地方ノ平安ヲ害ス
 ル耳ナラス御交際上不都合不尠」・・と。
  すなわち、居留地の安寧秩序と対朝鮮外交を主眼とし
 た領事館側の提案理由に加え、
  中央政府レベルでは、対欧米外交に及す悪影響を懸念
 した。
  また、清国については、朝鮮在留民のような過激粗暴
 の行動は未だないものの、安寧の保持と在留民善導のた
 めに必要と判断した。
  そして、在留禁止制度を適用することとした。
  同草案は、翌年の1883年2月21日に、元老院で審議・修
 正され、同年・1883年3月10日付で、「清国及朝鮮国在留
 日本人取締規則」(明治16 年太政官布告第9号) が制定さ
 れるに至った。
  丁寧に近隣諸国に対応する日本だったが・・、自虐的
 である。
1883年3月13日、高村光太郎(たかむらこうたろう、みつた
 ろう、詩人、彫刻家)が生まれた。
  『智恵子抄』の詩集が有名。
  『乙女の像』(彫刻)。
  父は、高村光雲。
1883年3月14日、カール・ハインリヒ・マルクスが没した。
  哲学者・思想家・経済学者・革命家
  1845年に、プロイセン国籍を離脱しており、以降は無
 国籍者であった。
  主に、イギリスで活動し、フリードリヒ・エンゲルス
 の協力を得つつ、包括的な世界観および革命思想として
 科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたてた・・しか
 し・・、
  1991年12月のソビエト連邦共産党の解散と、
  1991年12月25日の、ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョ
 フの辞任に伴う、ソ連解体をどの様に思うだろうか・?
1883年3月15日、立憲政党が解党した。
  前年・1882年に結成の日本立憲政党が、集会条例の影
 響を避けるため解散した。
  福地源一郎らが中心となって結成した政府系政党で、
 欽定憲法主義を標榜(ひょうぼう)したが空中分解した。
  「三人党」とよばれ、組織的には弱体だった。
  (氷川清話)偽党撲滅
1883年3月20日、自由民権運動関係の高田事件(内乱陰謀容
 疑)起こる。
  新潟県頸城郡の自由党員20数人が、大臣暗殺・内乱の
 陰謀容疑で逮捕された。
  政府転覆計画の捜査そのものが一種の見込み捜査であ
 った。
  大半の容疑者について、証拠が見つからないまま、8月
 までに22名が不起訴、
  加藤・八木原らの自由党幹部12名は、起訴したものの
 公判が維持できず、免訴・責付釈放となり事実上の無罪
 となった。
  (氷川清話)明治16年には自由党員の叛乱・高田事件
.
 (今日の言葉・・その1)
.
1905年、日本はこの時まで、日本の危機の時代をくぐり抜
 けて来た。
  日本は、この年、日露戦争に戦勝した。
  この時まで・・、1853年のアメリカの来航をはじめ、
 列強各国が、日本の植民地化をうかがっていた時代・・
 それをくぐり抜けて来たのだった。
  1853年に、アメリカのペリーが来航し・・アメリカ・
 ヨーロッパの列強各国が日本へ殺到して来たが、
  日本の江戸幕府は、やむなく開国し、その各国と国交
 を開いたが、
  まだまだ、未熟な日本は、何らその防備はなく、
  その列強各国は、その機会をうかがっていた。
  日本だけが・・例外であったのではない。
  日本は、常に、外国勢力が、ある日、突然上陸して、
 自分たちの主義や独立を脅かすかもしれない危機に曝(
 さら)されていた。
  アジア各国がされたように、日本の植民地化への思惑
 は、列強各国は、当然のように持っていた。
  明治政府が、必死に、「富国強兵」策に邁進したのは、
 明治の賢明な諸士が、そのことの理(ことわり)を十分
 すぎるほど理解していたからだった。
  のほほんと平和の夢を貪(むさぼ)っていたのではな
 かった・・現代の様に・・、
.
 (今日の言葉・・その2)
.
1942年頃、アメリカが、日本の天皇制を『日本の計り知れ
 ない資産』と結論した。
  日本との戦争を遂行しているアメリカは、盛んに日本
 の分析を行った。
  そして、日本の天皇制が、日本民族にとって『計り知
 れない資産となっているとの分析の結論を得た』。
  日本の敗戦後、日本の占領政策をアメリカは主導した
 が・・、
  GHQは、日本の皇族の11の宮家を臣籍降下させた(
 宮家でなくした)。
  近年、アメリカの文書公開によって明らかになって来
 た資料によると、
  長期的に「天皇制を潰したい」という対日占領政策の
 目的があった事が、徐々に明らかになっている。
  2016年7月14日、天皇陛下が、「生前退位」の御意向を
 示されたが・・、
  当時の占領政策として・・日本からの将来の脅威を局
 限(ある部分の範囲に限ること)する・・という占領政
 策の基本コンセプトが策定されていた。
  「臣籍降下」は、後継者を徐々になくしてゆくという
 目的だった。
  日本の国を弱体化し、精神的に劣化させ、あるいは、
 長期的に皇室の生命力を枯渇させるという大目標があっ
 たことが明確になって来ている。
..
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2016年7月14日木曜日

(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年2月)

題:(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年、流行:
・書生・士族の子弟らの間に麦わら帽子流行し始める。
・金沢で茶の湯が流行し、また、道具市がたびたび立ち、
 流行し、骨董品が高騰した。
・歌 「ダイナマイト節」
 https://www.youtube.com/watch?v=AmegfQjtB8k
  自由民権運動は、藩閥政府の弾圧が厳しく、言論集会
 も新聞活動も思うようにできなかった。
  そこで窮余の策として、歌の形式をとって街頭に出て
 民衆に直の呼びかけをはじめた。
  そして、ザラ紙刷りの歌本を一銭で売った。
  それを運動の資金にあて、全くスポンサーなしの自発
 的な活動だった。
  「ダイナマイト節」のパンチをきかせたやりかたは、
 後の演歌に引き継がれていった。
  歌の「コクリミンプクゾウシンシテ ミンリョクキュ
 ウヨウセ」は、
  「国利民福増進して 民力休養せ」の意味。
・女史風俗で、ハイカラスタイルが流行り始めた。
  ハイカラ:西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、
 事物などを表す日本語の単語。
  1898年(明治31年)頃から、当時、東京毎日新聞の主
 筆であった石川半山(石川安次郎)が、紙上で使い始め、
 後に流行語となって定着した。
・馬車鉄道が開通したため、人力車が減少し始めた。
1883年、その他:
・中西輝政・京都大学大学院教授は言う・・、
  「歴史を振り返った時・・、
  日本では『国家の危機』と『文明の危機」が、常に、
 並行して起っていることが分かる。
  そして、『日本文明』が最も活力を発揮できたのは、
 『国家の危機』と『文明の危機』、その二つながらを
『一つのもの』と捉え、乗り越えようと闘った、明治の
 『和魂洋才』の時代だったことを、今日われわれは切実
 に思い起こすべきである」・・と。
・市内巡査交番所に、天気予報を掲げることとなる
・地球磁気観測が始められた。
  中央気象台に、常設の地球磁気観測が始められた。
  日本における地磁気定常観測は、第1回国際極年観測
 (1882年~1883年)を契機に、1883年(明治16年)、東京
 市赤坂で始められた。
・英国人動物学者のブラキストンが、動物棲息の範囲を定
 める『津軽海峡ブラキストン線』を発表した。
・太政官日誌を廃し、官報となる。
・帝国教育会(ていこくきょういくかい)が設立された。
  日本の教育者、および、教育関係者を構成員とする教
 育団体の全国機関。
  教育史で大きな役割を果たした帝国教育会は・・、
 東京府教育会と東京教育協会の合併により1883年発足し、
 名称を大日本教育会とし・・、
   1896年に、既存の大日本教育会と国家教育社を統合し
 た。
  「我国教育社会ノ中央機関トナリ教育ノ改良及ヒ上進
 ヲ図ルコト」を目的とし、各種の調査部会をおいて調査
 活動を行う。
  後、日本教育会と改称し、1948年(昭和23年)まで存
 続した。
  (日本教職員組合(日教組)の成立後に解散した)。
・丸ノ内馬場先門外に補修道路(タタキ路)ができる。
・浅野セメント・大日本製薬・東京製氷等が設立された。
  ☆浅野セメント:太平洋セメント株式会社は、1998年
 に、秩父小野田と日本セメント(1947年に、浅野セメン
 トから改称)が合併して設立されたセメント業界最大手
 の企業。
  ☆大日本製薬:大阪の道修町は、西日本の薬種取引の
 中心市場として栄えてきた。
  明治維新後、洋薬の輸入に取り組み、純良薬品を供給
 することを目的に、道修町の薬業家21人が発起人となり、
 1897年(明30)大阪製薬が設立された。
  翌年・1898年には、日本初の製薬会社として1883年(明
 治16年)東京に創立された大日本製薬を吸収合併し、社名
 を由緒ある大日本製薬(株)と改めた。
  ☆東京製氷:日本最初の製氷会社。
  余談だが・・1870年(明治3年)の梅雨時、福沢諭吉が
 熱病にかかり、氷が必要となる。
  しかし、当時は氷を簡単に手に入れることは不可能だ
 った。
  塾生たちは困る・・、だが、たまたま福井藩主だった
 松平春嶽が、外国から製氷機を購入していた。
  春嶽は、氷製造器の使い方がわからなかったが、塾生
 たちは借り出し、大学東校の宇都宮三郎教授の元に持ち
 込んだ。
  機械自体は単純な構造だったので、すぐに氷を作るこ
 とができた。
  福沢の熱病に役立ったという・・これが日本で初めて
 の人工的に氷を作った話。
  また、因みに、仁徳天皇陛下は、氷室で蓄えられた氷
 を夏に食べられた天皇陛下で・・
  延喜式(えんぎしき)に、氷室が、山城・大和・河内・
 近江・丹波に21室あったと記されている。
・佐世保村は、この頃、わずか戸数800、人口3700ほどの農
 漁村だった。
・横浜の貸自転車業屋が、大火により自転車を全て焼失、
 廃業となった。
・ガソリン自動車が発明された。
  19世紀のはじめに、トレビシックが発明した蒸気機関
 車は、スティーブンソンによって改良され、
  ヨーロッパやアメリカでは、人員や貨物を輸送する実
 用的な手段となっていた。
  一方、1769年に、キュニョーが先鞭(せんべん)をつ
 けた蒸気自動車も、少しずつ技術開発が進んでいた。
  さらには、電気自動車の可能性を探る動きもあった。
  しかし、そのどれにも一長一短があった。
  1860年、フランスのエティエンヌ・ルノワールが、「
 ガスエンジン」の特許を取った。
  実用的な内燃機関の考え方だった。
  軽量でコンパクトなシステムだった。
  4ストロークエンジンなどの工夫で問題点を乗り越え、
 内燃機関の改善がなされた。
  そして、ダイムラーとウィルヘルム・マイバッハが、
 カンシュタットで研究を重ね、1883年に、熱管点火方式
 の改良型エンジンを完成させた。
・悪く書かれた者の代理だと称し、新聞社を「告訴する、
 金で解決か」と、ゆする者がふえ、連絡所も出来た・・
 と(郵便報知)新聞が報じた。
1883年1月1日、共同運輸株式会社が開業した。
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗して、1882年
 に、三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海
 運会社。
1883年1月1日、『栃木新聞』が、不敬罪で発禁処分となっ
 た。
  不敬罪:天皇陛下、および、皇族・神宮・皇陵に対し
 て不敬(ふけい、尊敬の念を持たず、礼儀に外れること)
 の行為をする罪。
1883年1月4日、叙勲の条例が制定された。
1883年1月11日、京橋の明治会堂で、西洋風舞踏会が開催さ
 れた。
  明治会堂(めいじかいどう)は、福澤諭吉と慶應義塾
 (現:慶應義塾大学)の政治結社グループにより建築さ
 れた政談演説公会堂。
  1880年6月に「明治会堂建築相談会」が発足し、
  1880年9月に着工し、1881年1月に完成した。
  所在地:東京府築地木挽町(銀座)
  1階1000席、2階300席(食堂)。
1883年1月22日、『絵入朝野新聞』が創刊した。
  編集の中心は山田孝之介であったが、経営不振のため
 同年・1883年4月3日より「朝野新聞」の経営に移った。
1883年1月23日、府県に兵事課が設置された。
1883年1月23日、工部美術学校が廃止された。
  日本最初の美術教育機関で、工部省の管轄。
  「工部大学校」の付属機関として設置され、1883年に
 廃校となった。
  設置されていた学科は「画学科」「彫刻科」の二科。
  アーネスト・フェノロサの提言などもあって、日本美
 術の再評価が行われ、国粋主義が台頭してきた。
  こうした背景の中、1882年(明治15年)6月に、彫刻科
 が廃止され、翌1883年1月には、画学科も廃止されて、工
 部美術学校は廃校に到った。
  6年後の1889年、国立の美術教育機関である東京美術学
 校が設立された。
1883年2月7日、東京で40年来の大雪
  東京で大雪、日本橋白木屋に来客皆無。
1883年2月12日、福島事件審問を開始
  東京法院を開き、国事犯最初の審問を開始した。
1883年2月15日、電力会社の設立許可
  矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利
 助、柏村信、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が、国
 から会社の設立許可を受けた。
  富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資
 本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められ
 た。
1883年2月16日、天気図初めて発行される(七色刷りの天気
 図で一日一回発行)
  日本で初めて天気図が作られる。
  御雇外国人のドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッ
 ピングの指導のもとに、7色刷りの天気図となった。
  全国11か所の観測所から、電報データを集めクニッピ
 ングが英文でかき馬場信倫が訳して天気図にした。
  1883年3月1日に、毎日発行されるようになり、
  1883年8月23日に、新橋と横浜の停車場に掲示された。
1883年2月16日、赤羽工作分局(あかばねこうさくぶんきょ
 く)を廃止し、その設備は、海軍省兵器局に移管された。
  赤羽工作分局は、明治初期の官営の機械製作工場で、
 1870年(明治3)閏(うるう)10月に、新設された工部省の
 もとで、
  翌年・1871年10月に、東京・芝赤羽の旧久留米(くるめ)
 藩邸跡に開設された製鉄寮がその前身。
  1873年に、赤羽製作所となった。
  旧佐賀藩所有の工作機械や、材料を引き継ぎ、
  外国人技師を雇って、農具、機械、鉱山・鉄道用品の
 ほか、蒸気機関や紡績機などを試作した。
  1877年に、赤羽工作分局と改称し、
  品川、深川工作分局とともに、工部省所管のもとで、
 多額の出資がなされ、当時の機械工業部門の中枢にあっ
 た。
  1883年廃止され、その設備は、海軍省へ移管された。
..
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2016年7月13日水曜日

(増補版)379E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年1月)

題:(増補版)379E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年、出来事:
・鹿鳴館外交
  井上馨外相、鹿鳴館時代:治外法権など列強各国に押
 し付けられた不公正条約の改正に努力するが失敗、列強
 の横暴の中で涙ぐましい努力をする日本。
  鹿鳴館時代は、館の落成の1883年から1887年まで・・、
  鹿鳴館の落成の祝宴が、1883年11月28日に行われた。
  この欧化政策に対し「退廃的」との非難の国民の声も
 あった。
  欧米列強に媚びへつらう日本の姿も見え、この様な批
 判となった。
  しかし、ここまでして条約改正に努力する日本。
  しかし、しかし、欧米諸国の外交官の日記などには、
 完全に西欧化していない部分を、ぎこちない部分を、そ
 こまで出来ない日本を「滑稽」などと嘲笑している。
  ダンスの踊れる日本女性が少なく、ダンスの訓練を受
 けた芸妓が対応した。
  こうした井上外交は、次第に風当たりの厳しいものと
 なった。
  日本は、何と、「外国人判事の任用など」屈辱的な条
 約改正案なども提示した。
  当然、国内から「大反対」の声があがった。
  鹿鳴館は、1940年に閉館となり、取り壊された。
  しかし、この頃、日本は、自律的発展への離陸条件を
 備えた国に、やっとやっと、なって来た(軽工業中心、
 ~明治30年)
・工業所有権
  工業所有権の保護に関するパリ条約がつくられた。
  これは、工業所有権についての最も基本的な国際的枠
 組みを定めたもの。
  平成3年の時点で、103ヶ国に増えている。
1883年、データ:
  自作農37.3%、自小作41.8%、小作20.9%、~1884年
1883年、衣:
・大阪紡績(現:東洋紡績)が開業した。
  この開業の後、日本の綿糸の生産量は急増し、1897年
 (明治30年)に至ると、輸出量が輸入量を上回るように
 なった。
  その先駆けとなったのがこの大坂紡績だった。
  また、この頃、綿布は、貿易の目玉商品となっていた。
 各国は競った、特に、イギリス製やインド製の綿布。
  そして、日本は輸入した綿布を、朝鮮に再輸出するケ
 ースが多くなった。
・金巾(かなきん、固くよった糸で目を細かく織った薄地
 の広幅綿布)輸入が激減する。
  貿易港であった長崎が衰退しつつあったことも影響し
 ている。
  また、綿布貿易の担い手の変化があり、日本商人から
 清国商人へ変化してもいた。
  日本商人は、綿布貿易から手を引きつつあり、大阪市
 場へ向けての穀物輸出に比重を置くようになった。
1883年、食:
・東京に偕楽園・陶々亭の支那料理店ができる。
・山形県ハッカの輸出に成功し、県下至る処ハッカの栽培
 流行す。
  北海道農業発達史に、1885年に、山形県からハッカ種
 根を移入し、上川郡で試作、これが、ハッカ栽培の起源
 との記述がある。
・栃木県で外国煙草の試作をなす。
  栃木県那珂川町馬頭地区が発祥の地とされていて、こ
 こに「たばこ神社(=別雷神社)」があり、この神社に
 「たばこの和歌」が残されている。
  そして、1898年(明治31年)に、葉煙草専売法が敷か
 れ、
  当時、日本で一番の生産高を誇った馬頭町には、専売
 所が開設され、町は発展した。
  「福寿草」という煙草の箱に記してある「たばこ和歌」
   香ばしき その名も高き 福寿草
        命を延ぶる 薬なりけり
1883年、住:
・東京電燈株式会社が創立された。
  日本初の電力会社。
  1883年(明治16年)2月15日、矢島作郎、藤岡市助、大
 倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶な
 ど数名からなる発起人が、国から会社の設立許可を受け
 た。
  富国強兵に、電力は、今後、欠かせないという判断の
 元に、資本金20万円で、前年・1882年に出した企業創立
 の請願書が認められた。
1883年、医学:
・ドイツのコッホが、コレラ菌を発見した。
1883年、論・新聞・本・文学・出版:
・馬場辰猪 「天賦人権論」 刊行(1月)
  明治初期の啓蒙主義者・民権論者によって、広く主張
 された自由主義的人権思想であったが、
  民権運動発展の過程を通して理論的に純化され、西欧
 的な自然権思想と変らないものとなった。
  加藤弘之が、 1882年、『人権新説』で天賦人権を虚妄
 と論じたことから「天賦人権論争」が生じた。
  しかし、植木枝盛は、『天賦人権弁』において、人権
 を自然権の概念によって把握しようとした。
・植木枝盛 「天賦人権弁」
・田口卯吉(たぐちうきち)「支那開化小史」
  田口卯吉は、日本の経済学者、歴史家、実業家、衆議
 院議員。
  実業家としては、士族授産金処理事業としての南洋交
 易を、東京府から提案されて引き受けている。
  ほぼ無抵抗で秩禄処分で既得権を失った士族を支援し
 た。
・矢野龍渓 「経國美談」 発行(1月)
  日本の民権と国権の伸長を図った政治小説。
・ 「動物進化論」(述:モース/記:石川千代松)
  モースは、腕足類(わんそくるい、海産で、二枚貝の
 ような貝殻を持つが、殻は体の背腹に位置する)の研究
 を進め、ダーウィンの進化論を支持するようになった。
・「東京大家十四家集」(編:平井元満)
・「絵入朝野新聞」 創刊(1883年1月22日に創刊)
・「明治協會雑誌」 創刊
・ 「人肉質入裁判」(原題・ベニスの商人/著:ラム/訳:井上
 勤)刊行(10月)
・ 「魯敏孫漂流記」(原題・ロビンソン=クルーソー(ロビ
 ンソン漂流記)/著:デフォー/訳:井上勤) 刊行
・ 「花心蝶思録」(「大尉の娘」抄訳/作:プーキシン/訳:高
 須治助)
・(フランス)モンパッサン「女の一生」
・(ドイツ)ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」
.
 (今日の言葉)
.
  アンドレ・モーロワは書く、
  「国というものは簡単に滅びることがある」・・と。
  アンドレ・モーロワは、フランスが、ナチス・ドイツ
 の侵略を受け、あっけなく滅びた様子を書いた。
  フランスは、自国の防衛にほとんど手を打っていなか
 った。
  その底には、見たくもないものは見ようとしない国民
 の「精神の崩れ」があった。
  その結果、フランスは、1940年に、ナチス・ドイツの
 侵略を受け、あっけなく軍門に下った。
  そして、4年4ヶ月の間、敗戦国としてヒトラーに支配
 された。
  モーロワは言う「大切な自由」「祖国のその自由を守
 る」
  「国民は、祖国の自由のためには、いつでも死ねるだ
 けの心構えがなければ、やがてその自由を失う」・・と。
  「自由を失えば、その自由を守る自己犠牲の精神を失
 えば、自由も民主主義も平和も守れない」・・と。
  そして、モーロワは、次に、「国民の団結」の大切さ
 を言い、そして、「外国の影響から世論を守ること」を
 言う。
.
 (今日の言葉・・おまけ)
1807年~1808年、フランスのナポレオンが、スペインのイ
 ベリア半島に侵攻した。
  スペインという宗主国が、ナポレオンの支配下に置か
 れ、混乱が続いたために、スペインの植民地は、各地で
 独立運動が起きた。
  1806年に、世界初の黒人共和国・ハイチが誕生した(
 独立は1804年)。
  1811年には、ベネズエラが独立した。
  しかし、先住民のインディオの方々は、蚊帳の外に置
 かれた。
  牛耳ったのは「クリオーリョ」というスペイン本国の
 移民の子孫。
  結局、移民が国を乗っ取ってしまった。
  日本もこの様な移民の形で「めでたし、めでたし」と
 ならない様に・・、特に、沖縄が・・。
  また、結局、EUの大揺れも『移民の問題』。
  グローバリゼーションなんて美しく言ってはいられな
 い。
  グローバリゼーションについて騙(だま)されてはい
 けない。
  イギリスのエマ・ロスチャイルドは言う・・、
  「グローバリゼーションのブームは、ほぼ30年周期で
 終わる」・・と。
  だから、1980年前後に始まった今のグローバリゼーシ
 ョンのブームは、間もなく終局する・・と。
  そして、奇(く)しくもEU離脱をしたイギリスの行
 動が・・2016年に起きた。
  そしてまた、ドラッガーは言う、
  「近代史というのは「『グローバル・エコノミー』と
 『ネイション・ステイト』、すなわち、国際化と国民国
 家の間を振り子のように動く」・・と。
  今、2016年は、転換期にある。
  グローバリゼーションの終わりが近づきつつある・・
 と言う。
  日本よ!「ポスト・グローバリゼーション」の時代に
 向けて対応をせよ!!
..
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2016年7月11日月曜日

(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月~1882年12月)

題:(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月~1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年12月2日、巡査が、棒を廃して洋劔を帯びる。
  明治最初期には、邏卒(らそつ、警察官)は3尺の手棒
 を携行しており、帯刀は禁止されていた。
  その後、1874年の太政官達によって1等巡査にも帯刀が
 解禁されており、この時点で警部以上は既に帯刀してい
 たものと考えられる。
  この時点では、区内を巡行するときに限られていたが、
 その後、適用範囲が、順次、拡大され、
  1882年12月2日の太政官達第63号をもって、全国一斉に
 帯刀が開始された。
  基本的にはサーベルが用いられていたが、
  幹部などは、刀身が日本刀の場合もあり、外装も高級
 であった。
1882年12月3日、幼学綱要(ようがくこうよう)
  天皇陛下が、「幼学綱要」を地方長官らに下付された。
  幼学綱要は、幼童のための欽定教訓書で、 1882年に、
 宮内省より出版された(7巻)。
  1879年、明治天皇陛下の勅命を奉じて、元田永孚(も
 とだながさね、熊本藩士、儒学者、男爵)が中心となっ
 て編纂して来た。
  1881年には、成稿を得たが、なお修訂を重ねていた。
  古典からの引用と、中国、および、日本の例話をあげ
 ながら、孝行、忠節をはじめ、和順(わじゅん、気質が
 穏やか)、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲
 (れいじょう、礼儀正しくへりくだった態度をとること)、
 倹素(けんそ、質素でむだな出費をしない)など 20徳目
 を掲げて、国民の守るべき道徳を説いている。
1882年12月7日、岩倉具視が、府県会が政府に批判的だとし」
 て中止するよう意見書を提出した。
  1871年の廃藩置県以後、各府県で府県会・民会・区戸
 長会などの名目で、地域代表による諮問機関が設置され
 るようになっていたが、
  1878年(明治11年)には、府県会規則を公布して、各
 府県に民選の地方議会である府県会を設置していた。
  府県会(ふけんかい)は、今日の地方議会の前身であ
 る府県の議会(府会・県会)のことで、
  府県会は、帝国議会よりも先に設置されていた(帝国
 議会の開設は、この12年後の1890年)
  そして、地方長官、あるいは内務卿が、国家の安寧を
 害し、法律規則を犯すと認めた場合には、会議の中止・
 解散・閉会を命じることが可能であった。
  この様な中で、自由民権運動が高まって行くとともに、
 各地で、県令と府県会の衝突が相次いだ。
  そこで、1882年に、右大臣・岩倉具視は、府県会中止
 の意見書を提出した。
  しかし、政府内部では、府県会の事実上の廃止を求め
 るこの岩倉の考えに同調する動きは少なかった。
  府県会に対し、政府の統制を強化することで対応して
 行った。
  因みに、府県会規則の選挙権は、年間地租5円以上納付
 の満20歳以上男子で、
  被選挙権は、同10円以上納付の25歳以上の男子だった。
1882年12月12日、請願規則を布告する。 
  請願権は、国民の自己の権利の確保を求める手段とし
 て大切であるが・・、
  請願制度は、明治維新後活発に行われた「建白書」を
 1882年に、「請願規則」として、当時の政府が発布し、
 はじめて請願という文言用られ、権利として確認された
 のは大日本帝国憲法においてであった。
  自由民権運動が高揚して、1877年に立志社ができ、
  1880年に、国会期成同盟が、国会開設を要求する建白
 書を提出したり(政府はこれを却下)・・、
  この様な情勢に対応するために、1880年に、太政官布
 告第53号を布告し、「建白」と定義して、管轄庁を経
 由して元老院に提出することを定めた。
  そして、翌年の1881年に、「建白書取扱順序」を定め
 た。
  そして、政府は、1882年に、請願規則を発布した。
1882年12月16日、郵便条例の制定
  郵便条例の制定(翌年・1883年1月1日、施行)により、
 第3種の規定が設けられ、雑誌(定期刊行物)は他より
 低料金となった。
  江戸時代から、公用の書状を送達する飛脚制度があっ
 たが、これは、幕府や一部大名の事務連絡用であり、一
 般の用に供されるものではなかった。
  明治政府は、欧米列強からの立ち遅れを克服すべく、
 近代国家、近代産業にとって欠かすことのできない交通・
 通信制度の整備に力を注いだ。
  1870年5月に、駅逓権正(ごんのかみ)兼任となった前
 島密は、公文書などの巨額の運送費を飛脚屋に支払って
 いた実情に目を向け、
  外国のように、官営の郵便制度を創設すべく検討を始
 めた。
  そこで、前島による創業の建議により、そして、鉄道
 建設資金借款要務のため、彼のイギリス派遣後は、時の
 駅逓権正・杉浦譲の準備作業のもと、1871年3月1日(新
 暦4月20日)、東京~西京(京都)~大阪の間に「新式郵
 便」の制度が発足した。
  これが日本おける国営事業としての郵便事業の始まり
 だった。
  1840年のイギリスの新式郵便創始から31年後だった。
  1875年に、外国郵便の取扱いが開始された。
  小包郵便は,国内に先立って外国との間で取扱われた。
  日本に設置されていたイギリスの郵便局の閉鎖の条件
 として、その取扱いの存続が求められて、1880年に、香
 港との間で外国小包の取扱いが開始された。
  (因みに、国内の小包郵便の開設は、その17年後の1892
 年だった)。
  当初は、制度や規則の改廃が、毎年繰り返されたが、
  1882年に、制度的にも固まってきたとして、初めて郵
 便条例が制定された。
  これによって、郵便事業は、法律的に体系化されると
 ころとなり、翌年の1883年より施行された。
1882年12月29日、村田経芳が、銃の発明で叙勲された。
  陸軍少将・村田経芳(むらたつねよし)は、日本陸軍
 が初めて採用した国産銃「村田銃」の発明の功により、
 勲三等に叙せられた。
1882年12月30日、軍備拡張を陸海軍両省に通達
  壬午軍乱を契機に、日本は、それまでの軍拡抑制の路
 線から転換した。
  清国(中国)の「定遠」「鎮遠」に対抗して軍備を拡
 張する方針を決定した。
  また、この年、それまでの治安維持軍事力は、対外侵
 攻のための軍事力として再編強化をして行くことになっ
 た。
  陸軍力の基幹である歩兵連隊は、1878年には15個であ
 ったが、1884年に3個、1885年に4個、1886年に5個、1887
 年には1個がつぎつぎ増設され、28個連隊になった。
1882年12月31日、陸奥宗光が、禁固5年の刑を終わり出獄を
 許された(特赦?)
  陸奥は、西郷隆盛を中心とする薩摩閥を強く批判して
 いた。
  さらに、陸奥は、彼らが起こした西南戦争を非難し、
 西郷を、歴史的に中国で謀反人として名高い安録山と名
 指しした。
  西郷の起こした西南戦争を非難しながら、皮肉なこと
 に、陸奥は、その西南戦争時に、旧土佐藩のグループに
 協力したので、結局、自分自身も政府に対して反乱を起
 こした謀反人の1人となり入獄することとなった。
1882年12月、東本願寺が、貫練教校を真宗大学寮と改称し
 た(後の大谷大学)
  1868年3月28日に、「神仏判然令」が布達された。
  これによって「廃仏毀釈」が起きた。
  しかし、この反仏教的な処置に対しての農民を中心と
 した強い抗議運動があり、
  明治政府は、これに苦慮し、解決策を見いだすことを
 模索していた。
  また、浄土宗に属する増上寺の福田行誡や、真言宗の
 釈雲照らは、諸宗同徳会盟などの活動を通して仏教擁護
 の運動を展開した。
  明治政府は、1872年に設置した「教部省」に、神社や
 寺院の建設や廃止の権限を置き、管理責任を与えた。
  ここに、教導職として、神主や僧侶も任用された。
  苦しい活動はあったが、運動は実を結び、宗教の自由
 を求める声は徐々に大きくなって行った。
  1875年11月に至り、明治政府は「信教の自由保障の口
 達」で仏教徒の要求を認め、信教の自由を保障した。
  1881年には、西本願寺が普通教校(本派普通校)を創設
 した。
  この学校は、当時の仏教界として画期的な一面を持っ
 ていた。
  また、僧侶のみを教育するのではなく、僧俗共学を実
 施した。
  更に、この西本願寺の普通教校には、学生を中心とし
 た自主的な修養団体があった。
  東本願寺では、1879年に、貫練場と称されていた教育
 機関が貫練教校と改称され、1896年には、真宗大学へと
 発展して行った。
  そして、真宗大谷大学と改称される。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。
  この後、日本人が移民を始めるが、この中国人の後に、
 日本人が移民を始めたということが不運だった。
  日本人に対しても、インディアンの方々や中国人に対
 するのと同様に、『非白人』に関する劣った種の人間と
 の意識が移民先のアメリカに根強くあった。
  キリスト教に感化された意識だった。
  この意識が、アメリカの指導者階級にまで及んでいた。
  ジョン・ダワーの言葉:
  「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによ
 って生命は安価だ」と言うのだった。
1882年9月4日、ニューヨークに初めて電燈が点火した。
  そして、この年、ニューヨークに、世界初の大規模な
 火力発電所が建設された。
  そして、白熱電球の発明により、照明は、石油やガス
 を使ったランプから、現在も利用されている電灯へと変
 わっていった。
  1879年には、エジソンが、白熱電球を45時間点灯させ
 続けることに成功していた。
  1882年9月に、エジソンは、ニューヨーク中央発電所の
 200馬力ジャンボ発電機で、電力の供給を開始した。
  この時の電灯数は、わずか400個であったが、
  中央発電所はだんだんと消費者を増やし、1ヵ月後には、
 1万個の電灯に送電を行なうようになった。
  この時、エジソンは、直流によって電力供給を考えて
 いた。
  1890年頃に、これが問題となった時、エジソンは、照
 明が安定することや、モーターの起動力が大きいという
 理由で直流を主張した。
  しかし、エジソンの部下であったニコラ・テスラや、
 フェランティたちは、電圧を変えて効率よく電力を送れ
 るなどの点から、交流を主張した。
  そして、テスラは、1887年に、誘導電動機を発明し、
 交流技術を完成させ、
  そして、1896年には、ナイアガラ水力発電所を成功に
 導いた。
  この成功で、交流の優位が決定的となって、エジソン
 の主張は退けられ敗北した。
  エジソンの進めた直流による送電システムは、交流電
 力システムの発展とともに消えていった。
18829月、イギリスのエジプト支配が完了。
  イギリスの横暴、エジプトを保護国とする。
  イギリスは、エジプトにアラビ・パシャの民族運動が
 起き、エジプト国内の政情が不安になると、それを口実
 にして、アレキサンドリアを砲撃した。
  そして、さらに、これを端緒にしてエジプトを侵略し、
 イギリスの目的通りに武力で行動した。
  イギリスの帝国主義国家の行動だった。
  エジプトをイギリスは保護国化した。
  そして、スーダンへと侵略して行く。
  イギリスは、1881年に、エジプトにウラービーの反乱
 が勃発すると、イギリスは軍事介入し、
  1882年に至り、アレクサンドリアに上陸して反乱軍に
 砲撃を加え、鎮圧した。
  これによってエジプトは、イギリス軍の単独軍事占領
 下に置かれ、事実上の保護国とされることとなった。
  1904年には、英仏協商が締結され、
  イギリスは、フランスのモロッコ支配を認める代わり
 に、フランスにイギリスのエジプト支配を認めさせ、帝
 国主義諸国による植民地分割が行われた。
  この様にして、エジプトは、1882年に、イギリス領に
 実質的に組み組まれたが、形式的にはオスマン帝国の宗
 主権が続いていた。
  しかし、第一次世界大戦が、1914年に勃発し、オスマ
 ン帝国が、ドイツ・オーストリア側に参戦したため、
  イギリスは、正式にエジプトを保護国とすることをオ
 スマン帝国に通告した。
  第一次世界大戦では、エジプトのカイロは、イギリス
 の対オスマン帝国とのアラブ各地での戦闘の拠点とされ
 た。
  第一次世界大戦開戦に伴い、1914年に、正式に保護国
 とした。
  大戦後の民族運動の高揚をうけ、イギリスは、1922年
 に、エジプト王国の独立を認めたが、スエズ運河地帯で
 の駐兵権などは継続させた。
1882年5月20日、独墺伊、三国同盟(~1915年)
  戦争ばかりしているヨーロッパ・キリスト教国。
  ドイツ、オ-ストリア・ハンガリ-二重帝国、イタリ
 アの間で三国同盟が成立した。
  これは、秘密軍事防御同盟で、英仏露三国協商と対立
 して、第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。
  1870年~1871年の独仏戦争で、フランスに勝って成立
 したドイツ帝国では、宰相・ビスマルクの下、フランス
 を孤立化させて、対独復讐を断念させる目的で、欧州各
 国との同盟外交を推進した。
  その一環として、1882年、オーストリア、イタリアと
 三国同盟を締結した。
  その後、ベルリン会議 (アフリカ分割)などにおける
 いざこざ(俺の方が分け前が少ない・・という餓鬼の戦
 い)対立により・・ロシア、イギリスとの関係が悪化し、
 ビスマルク外交は破綻した。
  しかし、三国同盟は維持され続け、1907年に成立した
 イギリス、フランス、ロシアの三国協商と角を突き合わ
 せて対抗した。
  1914年に始まった第一次世界大戦では、ドイツ、オー
 ストリアが同盟国を形成して『協商3国』などによる連合
 国と戦った。
..
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2016年7月10日日曜日

(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月~1882年12月)

題:(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月~1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年10月21日、東京専門学校が創立した(後の、早稲田
 大学)
  大隈重信、および、小野梓らが、東京専門学校を創立
 (設立)し、開校式を挙行し開校した。
  因みに、大学令による私立大学は、慶應義塾大学と早
 稲田大学が、1920年2月2日に、私立大学で初めて(旧制)
 大学として認可された。
  そして、この年、次いで、公立2校と私立6校が大学と
 して設立された。
1882年10月27日、売薬印紙税規則が制定され、布告された。
  売薬業者が減少した
  施行は、1883年1月1日。
  因みに、1886年になると、売薬印紙交換規則が制定さ
 れ、未使用の売薬印紙が交換できるようになった。
  また、この年、 藤井論三が、ハワイに売薬を輸出し、
 富山売薬の海外進出が始まった。
  この売薬税は、一種の消費税で、下層ともされる階層
 の人たちが頼りにする薬に税を課すことは悪税とされ、
  1926年(大正15年)に廃止とされた。
1882年10月30日、日朝修好条規続約の批准書が交換された
 (10月31日説あり)
  件名: 朝鮮国修好条規続約訂定交換(ちょうせんこく
 しゅうこうじょうきぞくやくていていこうかん)
  調印: 1882年(明治15年)8月30日(陰暦7月17日)
  場所: 仁川府(済物浦)
  日本側全権: 花房義質
  朝鮮側全権: 李裕元、金宏集
  批准: 1882年(明治15年)10月30日
  布告: 1882年(明治15年)11月22日
  法令番号: 明治15年太政官布告第54号
  内容:
  日本國ト朝鮮國ト嗣後益々親好ヲ表シ貿易ヲ便ニスル
 爲メ茲ニ續約二款ヲ訂定スルコト左ノ如シ
  第一 元山釜山仁川各港ノ間行里程今後擴メテ四方各
 五十里ト爲シ(朝鮮里法)二年ノ後ヲ期シ(條約批准ノ
 日ヨリ周歳ヲ算シテ一年ト爲ス)更ニ各百里ト爲ス事
  今ヨリ二年ノ後ヲ期シ楊花鎭ヲ以テ開市場ト爲ス事(
 間行里程取極約書ノ部ヲ參照スヘシ)
  第二 日本國公使領事及ヒ其隨員眷從ノ朝鮮内地各處
 ニ遊歷スルヲ任聽スル事
  遊歷地方ヲ指定シ禮曹ヨリ證書ヲ給シ地方官證書ヲ驗
 メ護送ス
  右兩國全權大臣各々
  諭旨ニ據リ約ヲ立テ印ヲ盖シ更ニ批准ヲ請ヒ二ケ月ノ
 内(日本明治十五年十月 朝鮮開國四百九十一年九月)
 日本東京ニ於テ交換スヘシ
  大日本國 明治十五年八月三十日
   日本國辨理公使 花房義質(印)
  大朝鮮國 開國四百九十一年七月十七日
   朝鮮國全權大臣 李裕元(印)
   朝鮮國全權副官 金宏集(印)
1882年10月31日、海軍兵学校条令が制定された。
  海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)は、1876年に設
 立され、
  大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教
 育機関だった。
  海軍兵学校と言えば江田島だった。
  この海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とと
 もに生徒三校と呼ばれた。
  その規模は、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカの
 合衆国海軍兵学校とともに、世界でも最大の兵学校の一
 つであった。
  この海軍兵学校から、全78期、総計1万2433名の卒業生
 が輩出した。
  英語教育が重視され、また、徹底した教養教育もなさ
 れた。
  坂元正一東京大学名誉教授や、建築家・池田武邦(日
 本の高層建築のパイオニア)など、近年まで、各界でリ
 ーダーとして活躍している卒業生も多い。
  その創立は、勝海舟が関係した海軍操練所に辿れる。
  東京・築地の元芸州屋敷内に、1869年に、創立開設さ
 れた。
  1870年(明治3年)、海軍兵学寮と改称し、
  1876年(明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校した。
  築地時代に、明治天皇陛下が、皇居から海軍兵学校ま
 で行幸され、その道が、現在のみゆき通り。
1882年11月1日、東京電灯會社が設立され・・、
  初の電気街灯が点灯された。
  東京・銀座大倉組前で、4000燭光のアーク灯が点灯し
 た。
  これが、日本で初めての電気街灯だった。
  これは、東京電灯会社設立事務所が、会社設立の宣伝
 を兼ね、銀座大倉組前でアーク灯を点灯したもので、
 大評判となった。
1882年11月1日、東京職工学校が開校した。
  この学校は、1881年4月、東京府浅草区(現在の東京都
 台東区)に設立された旧制の中等教育、もしくは、高等
 教育相当の官立学校で、
  明治初期の日本では、産業技術の近代化を推進する人
 材を育成するべく、
  欧米の科学技術を取り入れた工業技術教育の整備が進
 められた。
  まず初め、1873年に、工部省の工学寮工学校が、日本
 最初の国立工業学校として設立され、
  そして、1877年には、工部大学校に改組された。
  御雇外国人G・ワグネルの建議を受けて、1874年に、東
 京開成学校内に「製作学教場」が設置された。
  しかし、3年後の1877年に廃止された。
  先行の工部大学校も、1886年、東京大学に合併されて
 (東京)帝国大学工科大学に改組された後は、実務的な
 工業教育よりも学理研究へと傾斜していた。
  この様な状況の中、ワグネルや手島精一(文部省・教
 育博物館長補)は、中等技術教育の必要性を主張し、文
 部省内の理解者(九鬼隆一・浜尾新などの同調者)が現
 れたことから、
  1881年4月26日、文部省は、官立の東京職工学校を設立
 した。
  職工学校は「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ
 必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校として位置づけ
 られ、教員となったのは東京大学理学部を卒業した日本
 人の教員で、
  先行の開成学校・工部大学校・東京大学の教官の大半
 が、御雇外国人で占められていたのとは大きく違った。
1882年11月4日、皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)が
 開設された(国学院大学の前身)。
  皇典講究所は、国典を研究し、国体の意義を明らかに
 して、日本的徳性を有する人材を育成することを目的と
 し、
  「凡ソ学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ」(初代
 総裁有栖川宮幟仁(たかひと)親王の告諭)ということか
 ら、
  国体を講明し、徳性を涵養し、皇典を講究して祭祀・
 旧儀古式を明らかにし、かつ、これに必要な教育を施し
 て国家有用の人物を養成するにあった。
  山田顕義、岩下方平らにより この時、東京に設立され
 た財団法人で、
   1890年には、国史、国学を研究するための國學院を設
 立し、神職の養成も行なった。
  1946年には、GHQの占領政策により解体させられた。
1882年11月13日、幌内鉄道が、幌内まで全通した(11月10
 日説あり)
  明治政府の資源開発の為の鉄道で、
  建設工事は、1880年1月、小樽市内の若竹第3隧道から
 着工されていた。
  1880年10月24日には、手宮桟橋~熊碓第4隧道間で蒸気
 機関車「弁慶号」による試運転を行い、
  1880年11月28日には、手宮~札幌間の22マイル25チェ
 ーン(約35.9km)が開通していた。
  また、1882年2月8日を以って開拓使は廃止されたが、
 鉄道と炭鉱は、工部省の所管となり、
  1882年6月25日には、札幌~江別間が仮開業し、
  1882年11月13日には、手宮~幌内間が全通した。
1882年11月11日、板垣退助・後藤象二郎が、横浜を出発し
 渡欧した。
  しかし、何故、渡欧したのかの理由は、よく分からな
 い状況にある。
  板垣退助と後藤象二郎は、随員二人(今村和郎、栗原
 亮一)を連れ、この時、横浜を出港し、
  翌年・1883年6月に、帰国するまで、ヨーロッパの国会
 や政治などを視察するため渡欧したとされる。
  板垣の渡欧については、自由党内部でも、旅行反対論
 が沸き起こっていた。
  しかし、ふたりは渡欧を強行した。
  板垣と後藤のパリ滞在中の行動は、当時、パリに滞在
 していた西園寺公望がお目付け役として監視していて、
 伊東博文に手紙で報告している。
  そして、このことは、伊藤博文宛西園寺公望書簡(伊
 藤博文関係文書5)で読むことができる。
  その書簡によると、板垣は、西園寺に滞在資金の援助
 を求めている。
  板垣は、滞在費の工面に困窮していたのでホテル住ま
 いができず、安アパートで生活をし、外出もあまりしな
 かった。
  しかし、一方の後藤は、ホテル住まいで、羽振りがよ
 かった様だ。
  しかし、この渡欧中の後藤の行動は、よく分かってな
 い。
  この渡欧の資金は、何と政敵側から捻出されていると
 いう疑惑も持たれている。
  この「板垣退助の洋行問題」は、国内の政局問題とし
 て語られている。
  そして、この様な、政局のリスクを無視してまで押し
 切った渡欧・・、
  なのに、何をしたかったかがよく分かってない。
  特に、後藤の行動が謎・・?
  ただの物見遊山で渡欧したとは考えにくい。
  この頃の東アジア情勢に関わっているという説がある。
  この頃、後藤象二郎は、福沢諭吉を介して、朝鮮の開
 明派の金玉均と会っている。
  この頃の朝鮮は、中国(清朝)への旧態依然とした属
 国のようだった。
  金玉均は、日本に倣(なら)って開国をとげて、
  日本がヨーロッパのイギリスなら、朝鮮はフランスに
 ならなければならないと考えていた。
  この様な金玉均に、後藤は、当時、中国と交戦状態に
 あったフランスと利害が一致する朝鮮独立運動で、フラ
 ンスに活動資金となる借款を出させるよう、後藤は、仲
 介をしている。
  こうした背景と、この渡欧は無縁とは言えない。
  因みに、後藤は、1881年に、自由党の結成に際し、板
 垣に次ぐ副党首格で参加し、大同団結運動を推進する。
1882年11月13日、陸軍大学校条例を定めた。
  陸軍の将校のなかから優秀な者を選抜し、高等用兵、
 および、軍事研究に必要な学術を修得させ、
  また、高等用兵に関する研究を行う学校。
  アメリカ、イギリス、フランスをはじめとして、各国
 とも高級指揮官、幕僚教育、軍事研究のための陸軍大学
 校が設立されている。
1882年11月19日、右大臣・岩倉具視が、海軍拡張を建議し
 た(9月説あり)
  明治維新以来、日本は対外的危機の中に居た。
  その西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に、海防
 は重要な政治課題の一つであった。
  しかし、財政の制約、血税一揆と士族反乱を鎮圧する
 ため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警
 備軍)の建設が優先されていた。
  ただし、1877年の西南戦争後、陸軍の実力者・山縣有
 朋が、「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年・
 1877年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、たえ
 ず軍拡が追求されたわけではなかった。
  それが、軍拡路線へ転換が計られたのは、1882年に、
 朝鮮で勃発した壬午事変であった。
  事変直後の同年・1882年8月、山縣は、煙草税増税によ
 る軍拡を、
  1882年9月に、岩倉具視が、清を仮想敵国とする海軍増
 強とそのための増税を建議した。
1882年11月24日、松方大蔵卿が「軍備拡張ノ議」を上程し
 た。
  清国の軍事脅威から国防増強の必要性が迫られ、軍備
 拡張策がとられた。
  そして、軍拡についての詔勅が下された。
  この年の壬午軍乱を契機とする軍備と、その時の清国
 の圧力の脅威を目の当たりにしたことに、その対処を目
 的とした財源確保のための大増税政策が実施された。
  朝鮮の軍乱以後、東洋、特に、清国の軍備と、その圧
 迫に脅され、自衛上、海軍拡張の急を迫られ、
  この国防政策遂行には、巨額の経費を必要とし、
  かつ、多額の国債償還を始め、他の一般経費の増加が
 見込まれていたため、
  財源となる租税収入は、北海道物産税軽減の閣議決定
 もあり、税収減が見込まれ、
  この税収減を補填し、かつ経費増加に対応するとして
 も、社会経済の発展変化に対応出来ないきわめて非弾力
 的な現行税制では困難であった。
  そこで、新税を起こして、これに対応する必要があり、
 この政策・増税策が採られた。
  わが国所得税創設は、世界で初めて所得税を創設した
 イギリスと同様に、軍事費の財源調達に起因した。
1882年11月28日、福島事件、(11月20日説あり)
  県令の三島通庸の圧政に対し、福島県民が立ち上がり、
 警官隊と衝突した。
  福島県新道路建設に反対していた農民らの所有地が、
 公売処分されることになり、
  この運動を支援していた会津自由党の宇田成一らが抗
 議を行い、逮捕された。
  また、喜多方警察署に抗議した2人が逮捕されたのを
 きっかけに農民の怒りは爆発した。
  数千人の農民が、釈放を求め、喜多方警察署を包囲し、
 また、工事中止と弾圧抗議のため警察署へ押し掛けた。
  警察は、この事件を口実に、自由党員と農民あわせて
 約2000人を検挙した。
  自由民権運動を警察力で弾圧した最初の事件となった。
1882年11月、山川捨松と津田梅子が、アメリカより帰国し
 た。
  津田仙(旧幕臣・東京府士族)と初子夫妻の次女とし
 て生まれた津田梅子。
  1871年、仙は、明治政府の事業である北海道開拓使の
 嘱託となり、津田家は麻布へ移った。
  開拓使次官の黒田清隆は、女子教育にも関心を持って
 いた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応
 募させ、同年・1871年、岩倉使節団に随行して渡米した。
  5人のうち最年少の満6歳であった。
  1871年11月に、横浜を出港し、サンフランシスコを経
 て、同年・1871年12月に、ワシントンへ到着した。
  この時の留学生の山川捨松と津田梅子が、この年・1882
 年に帰国した。
  津田梅子は18歳だった。
  梅子は、アメリカでは一般家庭に預けられ、英語とピ
 アノを学び、学校へ通った。
  梅子は、帰国の18年後の1900年の36歳の時、父の津田
 仙らの支援を得て、「女子英学塾」(後の、津田塾大学)
 を設立した。
  因みに、山川捨松は女性で、日本軍人の元帥陸軍大将
 の大山巌(おおやまいわお)の妻となり、大山捨松とな
 った。
  鹿鳴館時代は、明治政府の高官方たちと、諸外国の外
 交官の接待に、宴に加わり、涙ぐましい努力・活躍をさ
 れた。
  しかし、慣れない日本を、諸外国は揶揄し嘲弄した。
1882年11月、御雇外国人のドイツ人フェスカが来日した。
  フエスカは、ドイツの農学者で、
  1882年~1894年の間、農商務省嘱託、駒場農学校(東
 京大学農学部の前身)教師、地質調査所土性掛長を兼任
 した。
  1886年に、北海道を実地調査し、「日本農業及北海道
 殖民論」(1888年)を発表した。
  その後、日本各地を歩き「農業改良」(1888年)、「地
 産要覧図」(1889年)をとりまとめた。
  この様に、わが国最初の全国的土性調査を指導し、本
 格的記録を完成した。
  そして、日本農業に関して多くの提言・・、
  科学的農学に基づき在来・零細農法を批判し(大農方
 式の導入を主張)、日本の土性調査事業を創始し、「日
 本農業及北海道殖民論」「日本地産論」などで農業改良
 策を立案、近代農学の育成に貢献した。(1845年~1917年)
1882年12月1日、 福嶋事件 (11月28日説あり)
  福島県自由党幹部の河野広中らが、政府転覆の盟約を
 作成したという容疑で逮捕された。
  道路工事の反対運動での福島事件の首謀者として、河
 野広中ら逮捕のほか、自由党員などが一斉検挙された。
1882年12月1日、農商務省の官立学校の東京山林学校が開校
 した。
  世界的に例のない林学の高等教育機関だった。
  修業年限は3年で、前期・後期に分け、
  前期を2段階、 後期を4段階にして講した。
  教養課程にあたる前期で、主に、自然科学系の基礎科
 目を取得し、段階を上げるにしたがい、その他の学系科
 目が占める形式にしていた。
1882年12月2日、東京の馬車鉄道を更に延長して、京橋~
 上野間に布設し、開業された。
  馬車鉄道は、南は沖縄から、北は北海道までの全国に
 広まって行った。
  しかし、電気で動く電車が登場すると、糞尿や餌の問
 題がない事もあって、急速に取って代わられ、馬車鉄道
 は衰退した。
  東京馬車鉄道も、1903年(明治36年)には電化され、
 「東京電車鉄道」となった。
  因みに、電車ではなく、蒸気鉄道に生まれ変わったも
 のや、馬車鉄道のまま廃止になったものもある。
  日本で、最後まで営業していた民営の馬車鉄道は、1949
 年(昭和24年)に廃止された宮崎県の銀鏡軌道である。
  また、北海道の殖民軌道などでは、昭和30年代まで存
 続した。
  現在、北海道にある野幌森林公園内で、「北海道開拓
 の村」にて、馬車鉄道が夏季に限って、再現という形で
 運行されている。
  また、岩手県の「小岩井農場」内にある「まきば園」
 でも、同様に、観光向けで馬車鉄道が運行されている。
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2016年7月7日木曜日

(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月~1882年10月)

題:(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月~1882年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年8月9日、清国が、属邦保護のためとして朝鮮派兵を
 日本へ通告して来た。
  壬午事変(1882年7月23日に勃発)の発生を察知した清
 国は、「両国間を調停したい」「日本公使館は我が属邦
 に在るので派兵したい(兵を派して護衛したい)」と言
 って来た。
1882年8月11日、日本の清国への通告
  吉田清成外務卿代理は、朝鮮(李氏朝鮮)は清国の属
 国ではない、「日本は、朝鮮を自主独立国と認める」と
 通告した。
1882年8月11日、伊藤博文が、憲法草案の形が見えたことを
 日本へ連絡した。
  伊藤博文は、日本の憲法を作ろうと、ヨーロッパに来
 ていたが、
  その憲法を、如何に形づけるかと、その姿が見えずに、
 苦しみ悩んでいた。
  その当時、日本は、一部の選ばれた者が、政治を行う
 体制で、
  自由民権運動が起こり、国民の間で、最高潮に達して
 いた。
  そこに、「憲法を定めて、国会を開く」という国民の
 要望があった。
  政府は、国民の要望を聞き入れ、1890年に、国会を開
 くことを約束した。
  伊藤は、この様な切羽詰まった状態の中で、憲法につ
 いての調査に、ドイツに来ていた。
  この日、伊藤博文は、岩倉具視へ、ドイツから書簡を
 書いた。
  その憲法の姿が見えたと感動的に記述した。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、皇室の基礎を固め、、
 大権の大眼目を充分に組み立てました。・・
  いま、我が国の現情は、自由論者が、英米仏流の思想
 を誤信し、国家を傾けようとの勢いで御座いますが、こ
 れを凌駕する論理と手段とを私がつかみましたことは、
 報国(ほうこく、国恩にむくいること)の赤心(せきし
 ん、嘘いつわりのない、ありのままの心、まごころ)を
 貫徹する時機において、その効果をあらわす大切な要具
 になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」・・と。
1882年8月15日、煙草税の増税を建議
  朝鮮で起きた壬午事変、そして、その後に、清が、朝
 鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになった。
  朝鮮内では、この清の方針に沿おうとする穏健的開化
 派(事大党)と、
  これを不当とする急進的開化派(独立党)との二派が
 相争う姿が鮮明になった。
  党派の観点からは前者の清の方針に沿おうとする派が
 優勢だった。
  後者の独立党は劣勢であった。
  また、アメリカ・イギリス・ドイツなどは前者を支援
 し、日本は後者を支援した。
  この様な情勢の中で、日本は、参事院議長・山県有朋
 が、煙草増税をもって軍備充実にあたりたいと建議した。
1882年8月30日、「済物浦條約」 締結
  日本と朝鮮の両国代表の間に、善後処置のための済物
 浦条約が成った。
  日本と李氏朝鮮の間で締結された条約・・済物浦は、
 朝鮮語読みで「サイモッポ」、仁川の旧称。
   壬午事変(壬午軍乱)での日本公使館焼き討ち事件等
 の事後処理のために結ばれた。
  この朝鮮の不満兵士の反乱・事変において、
  日本の公使館が襲われ、日本人の死傷者十数名を出し
 た事変について、首謀者の処罰、賠償、公使館の修理費
 と護衛の為の駐留、開市・開港などが締結された。
  朝鮮駐在公使・花房義質(はなぶさよしただ)は、朝鮮
 政府代表・李裕元(りゆうげん)、金宏集(きんこうしゅ
 う)と、済物浦(現:仁川(じんせん))で、善後約定を結
 んだ。
  加害者処罰、損害賠償、および、公使館護衛のための
 兵員駐在、国書による謝罪が決められた。
  これは、若干名とはいえ、日本が海外に駐兵権を得た
 最初の条約だった。
  この日本の駐兵に対抗して、清(しん)側は軍駐在、お
 よび、宗主権の一層の強化を図った。
  そして、親日派の独立党と、親清派の事大党との相克
 が激化した。
  甲申(こうしん)政変の遠因が醸成された。
  しかし、この済物浦条約がすんなり締結されたわけで
 はなかった。
  そこには、清国の影響から、交渉の進展を渋った朝鮮
 があり、
  この日本・朝鮮間の交渉の停滞に、いち早く反応した
 のが、仁川に軍隊を展開していた馬建忠が率いる清国軍
 だった。
  清国軍は、日本の交渉団が漢城を去るのと入れ違いに
 入京した。
  そして、日本側へ、「李氏朝鮮の大院君を排斥し、交
 渉を調停する用意がある」と言った。
  日本はその話を拒否した。
  しかし、清国軍の陣営に誘(おび)き出された大院君(
 日本と朝鮮の条約締結の要(かなめ)に居た)は、身柄
 を拘束され、清国へと連れ去られた。
  そして、漢城市内に、「大院君が清国皇帝の怒りに触
 れて処罰された」とする掲示文が貼り出された。
  大院君が、清国に拉致された期間は3年間という長期に
 渡った。
  この様なアクシデントの中、朝鮮政府から謝罪文が日
 本側へ送られて来た。
  これを契機に、交渉再開が約され、そして、交渉は続
 けられた。
  条約内容は、日本公使館の襲撃において、多くの職員
 が被害を受け、
  また、朝鮮国から招聘を受けて、日本側が送り出した
 軍事教官までもが惨殺された経緯において・・、
  しかし、和好を重んじ、両国関係を修復しようと表明
 され、話し合いによって条約は約された。
  軍乱に巻き込まれて死亡した日本官吏は、礼を尽くし
 て埋葬し、厚く弔うとされた。
  また、日本公使館は、兵員若干名を置いて警護するこ
 とも約された。
  そして、国書をもって日本へ謝罪する事も約され、
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)が決め
 られ、
  居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 が認められた。
1882年8月、会津自由党員の宇田成一らが、福島県新道路建
 設反対の抵抗運動を開始した。
1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院した。
  日本初の私立医科大学で、東京慈恵会医科大学附属病
 院の前身。
  尚、高木兼寛(たかきかねひろ)は、「ビタミン研究
 の開拓者」として、日本、および、欧米においても高い
 評価を受けていて、
  1959年(昭和34年)には、イギリスの南極地名委員会
 によって、南極大陸に「高木岬」という地名がつけられ
 た。
  その説明には、「日本帝国海軍の軍医総監・高木兼寛
 男爵は、1882年、食事の改善によって脚気の予防に初め
 て成功した」と述べられている。
1882年9月9日、板垣退助の外遊資金疑惑
  立憲改進党系の東京横浜毎日新聞が・・、
  板垣退助の外遊資金の出所疑惑について非難した。
  この攻撃を受けた自由党は、大混乱に陥(おちい)っ
 たが、立憲改進党と三菱との関係を攻撃した。
  しかし、この年・1882年、欧州の憲政事情研究の名目
 で、板垣は、後藤象二郎とふたりで外遊した。
  因みに、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、土佐
 藩政の最高責任者だった、そして、参政を務め、
  1867(慶応3)年1月、脱藩者の坂本龍馬と長崎の清風亭
 で会談し、
  土佐藩が大政奉還に向けて動き出す契機となった。
  龍馬は、姉の乙女らへの手紙で後藤について・・、
  「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニ
 ハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」と評した。
1882年9月22日、陸軍裁判所の廃止
  陸軍裁判所が廃止され、東京鎮台に軍法会議を設置し
 た。
1882年10月1日、 第1回 内國絵画共進會 開催
  東京の上野公園で、農商務省主催の第1回・内国絵画
 共進会が開催された。
  洋風画の出品は拒否された。
  内國絵画共進會(ないこくかいがきょうしんかい)は、
 1882年と1884年に開催された官営の展覧会で、
  維新と、それに続く文明開化の風潮(アメリカ・ヨー
 ロッパ讃美にマインド・コントロールされた風潮)は、
 日本固有の美術を衰微させたが・・、
  やがて反省が起こり・・伝統保存の機運が高まった。
  (フェノロサのお蔭・功績、
  しかし、廃仏毀釈の愚行で、多くの国宝級の伝統の美
 術・工芸の品々が逸失した。まったく惜しい限り)。
  端緒になったのは、1877年に開催された内国勧業博覧
 会の成功と、1879年に創立した竜池会(古美術の鑑賞と
 調査のため、佐野常民らによって組織された)の運動で
 あった。
  東京大学に招聘(しようへい)されたフェノロサが竜
 池会で講演し、洋画を排して日本画を尊重すべきことを
 説いたことが、この機運をいちじるしく助長した。
1882年10月2日、浅草~上野~日本橋間の全線が開業した。
1882年10月4日、馬車鉄道が出現したことにより、失業対策
 として人力車夫懇親会が結成された。
1882年10月10日、日本銀行条例により成立した日本銀行が
 開業した(10月6日説あり)
  東京の永代橋のたもと(現在の日本橋箱崎町)にあっ
 た旧北海道開拓使出張所の建物を本店とし、中央銀行と
 して開業し、業務を開始した。
  政府が発行した札を回収し、また、札の発行を1ヶ所で
 行なうことを目的として設立された。
  預金取引し、貸出等を開始。
  明治維新以来、明治政府は、混乱した貨幣制度を建て
 直すため、新貨条例や国立銀行条例を 制定するなど貨幣
 制度の近代化に努めて来ていた。
  沿革:
  1872年、国立銀行条例が制定され、
  1876年、国立銀行条例全面改正された。
    不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、イ
   ンフレーションが進行した。
  1881年、三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿・松方正
   義により日本銀行の創設へ。
  1882年6月、日本銀行条例が公布され、
  1882年10月10日、日本銀行が開業した。
  日本銀行券発行は(1885年)、本館完成(1896年)
1882年10月10日、曹洞宗、大学林専門学本校を開校した。
 後の駒沢大学。
1882年10月19日、朝鮮全権大臣兼修信使・朴泳孝らが、天
 皇陛下と会見し、国書を提出した。
  朴泳孝(ぼくえいこう)は、朝鮮における貴族で、ま
 た、実業家でもあり、福沢諭吉と交遊があり、支援を受
 けていた。
  そして、この時、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のため
 に派遣された。
  朴泳孝は、この時、8月9日に仁川を出航して、この日
 本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗の
 デザインを考案した。
  この時、イギリス領事が立ち会っている。
  このいきさつが、彼の記述の『使和記略』に詳しく書
 かれている。
  そして、神戸に到着した8月14日には、すでに宿泊先に
 このデザインした太極旗を掲げた。
  そして、8月22日に、国旗制定を本国に報告した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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