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2017年3月4日土曜日

(増補版)503E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)503E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月8日、アメリカでモンタナが41番目に州となった。
  陸地面積では全米第4位
  2010年国勢調査の人口は約99万人で、少ない方から第
 7位。
  人口密度では小さい方から第3位である
   白人        87.8%、
   インディアン 6.3%、
   ヒスパニック 2.9%、
   アジア系     0.6%、
   黒人         0.4%、
   混血         2.5%、
  英語95.4%、スペイン語1.4%、
  数千年前から様々なインディアン部族が住んでいた地。
  1860年代後半に、アメリカ陸軍が、一連の基地を設立
 した。
  インディアンの方々が、土地の支配を守ろうとした。
  そのことで、幾つかの戦闘が起きた。
  現在のハーディンの町近くで、リトルビッグホーンの
 戦いが行われた。
  1862年~1876年の金産出量は、1億4,400万ドルに達し
 た。
  当時の銀はさらに重要だった。
  最大の鉱山はビュート市にあるもので、重要な銀鉱脈
 と巨大な銅鉱脈であった。
  1940年以降、イエローストーン国立公園やグレイシャ
 ー国立公園が観光地となって、観光業は州内第3位の産業
 となった。
1889年11月11日、アメリカで、ワシントンが42番目に州と
 なった。
  人口(2010年)約672万人(全米第13位)
  面積:全米18位
  英語82.5%、スペイン語7.8%、中国語1.2%、
   白人        72.5%、
   ヒスパニック11.2%、
   アジア系     7.2%、
   黒人         3.6%、
   インディアン 1.5%、
   混血         4.7%、
  1770年代に流行した天然痘のために、インディアン方々
 の人口が急減した。
1889年11月14日、婦人記者のネリー・ブライが、80日間世
 界一周に出発した。
  (翌年1月25日に72日間余で帰着)
1889年11月23日、最初のジュークボックスが登場(サンフ
 ランシスコ)
  パシフィック・フォノグラム社の総支配人ルイス・グ
 ラスが、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ
 のパレ・ロワイヤル・サルーンに、ジュークボックスを
 初めて設置した記録が残る。
  このときの装置は、電動のエジソン蓄音機(蝋管式)
 に聴音管を4つ付けたもので、それぞれに硬貨投入口があ
 り、独立して動作するようになっていた。
1889年、トーマス・エジソンが映画撮影機を発明した。
  エジソン・ゼネラルエレクトリック社を設立し、動画
 撮影機キネトグラフを発明した。
1889年、ロンドンでウリッジ・フリー・フェリー(Woolwich
 Free Ferry) が開業した。
  蒸気船によるテムズ川の渡し船。
  現在は、1963年に、建造されたディーゼル船3隻によっ
 て運行されている。
1889年、アスピリンが発明された。
  日本薬局方で、アスピリンと正式名称で呼ばれるこの
 薬は、消炎・解熱・鎮痛作用や抗血小板作用の薬効を持
 つ。
  この薬は、サリチル酸を無水酢酸によりアセチル化し
 て得られる。
  アセチルサリチル酸は、代表的な消炎鎮痛剤のひとつ
 であり、非ステロイド性抗炎症薬の代名詞とも言うべき
 医薬品である。
  ドイツのバイエル社が名付けた商標名のアスピリンで
 よく知られた。
  発明者は?・・と言うと・・
  アスピリンは、すでに、紀元前にその源がある。
  紀元前400年ごろ、ヒポクラテスは、ヤナギの樹皮を熱
 や痛みを軽減するために用いている。
  ヤナギの葉を、分娩時の痛みを和らげるために使用し
 ていたという記録がある。
  ヤナギの鎮痛作用は、ギリシャ時代からよく知られて
 いた。
  また、古代ローマの「薬物誌」には・・、
  ヤナギは、腹痛、痛風、リウマチなどに対する鎮痛作
 用があると記され・・
  また、そのほかに、出血を止める作用、ウオノメやタ
 コをなおす作用があると記されている。
  中世では、薬草売りの女性たちが、ヤナギの樹液を煮
 て、その苦い煎じ湯を痛みを訴える人々に分け与えてい
 た。
  また、中世の庶民が頼(たよ)った助産婦も、この様
 な薬草を多く用い、世の女性方を救っていた。
  しかし、教勢を拡大したいキリスト教は、あらゆる権
 威を得ようとした・・欲しがった。
  この庶民に頼られていた助産婦や薬草売りの女性方た
 ちの持っている権威は、このキリスト教が排除したい、
 気になる存在だった。
  キリスト教は、夜、薬を煎じるこの女性の方たちを「
 魔女」に仕立てた。
  そして、世を繰ってこの女性の方たちを、「魔女」と
 して町の広場で焚刑・火アプリにした。
  魔女の惨劇は、長い長い時代、中世ヨーロッパを暗黒
 の空に染めた。
  「魔女裁判」と共に、キリスト教裁判所は「異端審問」
 も盛んに行ない、全滅する村も出るという酷さだった。
  ヨーロッパには、東洋の『漢方薬』と同じように立派
 な薬草学があった。
  しかし、このキリスト教の蛮行によって、ヨーロッパ
 の薬草学は滅びた。
  キリスト教は、その頃、始まっていた大学医学とくっ
 ついて、このジャンルの権威を得た。
  医療が、「十字架をマークとしている」のはこのため。
  そのマークの陰では、「可哀想な・・焚刑で焼かれた、
 大勢の女性の方たちが居られる」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカを越える中国・・そして、台湾・・そして、沖縄・・そして・・
    (過去にはドイツが・・好きに・・  )
.
1923年、ドイツがハイパーインフレになった。
  貴方の月給が、翌月に倍になったら『うれしいですか?』
  その様にしなければ、世の中が収まらなかった『ハイ
 パーインフレ社会』が、この年に、起きた(1922年~
 1923年のドイツの事例)。
  ハイパーインフレーションとは、急激に進行するイン
 フレーションのことで・・、略して「ハイパーインフレ」
 とも言う、
  ハイパーインフレ・・過度のインフレで、物価が短期
 間に数倍~数十倍に跳ね上がった・・
  ・・が、しかし・・この時のドイツは・・さらに・・
 すさまじかった。
  ドイツのインフレは、最終的に物価が・・何と!『384
 億倍』にまで達した・・想像できない領域に入っていた
 ・・???
  このハイパーインフレによって、お金の価値は、当然、
 『紙くず同然』となった。
  同然というより・・『紙くず』となった。
  ドイツの方たちは・・紙幣を道端に捨てた!
  背景は・・、国土が戦場となったフランスは、第一次
 世界大戦後も、ドイツの強国化を恐れた。
  そのため・・フランスは、ドイツに課された賠償金不
 払いを厳しく追及した・・要求した。
  そして、ドイツの支払い不履行を理由に、1923年、石
 炭などの資源のあるルール地方の『占領を強行した』。
  これに対しドイツは、ルール占領には不服従運動で抵
 抗した。
  (第一次世界大戦で打ちのめされたドイツは、反抗す
 る手立てが無かった、反抗したくてもできなかった・・
 その様なドイツだった)
  その様な状況によって・・ドイツの生産は低下し、激
 しいインフレーションが進んだ。
  買い物に行くのに・・「お金をリヤカーで運ぶ人々」
 が居るくらいになった。
  お金の価値のあまりにもひどい下落に・・「街中に捨
 てられる市民の怒りの紙幣の山」が・・、
  何と!! ある保育園での「札束の山で遊ぶ子供たち」
 が写る写真がある。
  「刻一刻とマルクの価値が下がるため、食料品店に殺
 到する市民の長い列」・・社会は、シッチャカメッチャ
 カとなっていた。
  昨日まで、ハム・サンドイッチが、1万4000マルクだっ
 た同じ喫茶店で、今日はそのサンドイッチが2万4000マル
 クとなった
  お金(銀行券)は、1枚ほぼ1グラムなので、紙幣4000
 枚持ってレストランに行くとすると、約4kgの紙幣を運ぶ
 ことが必要だった。
  買い物の不便から100兆マルクが発行される事態となっ
 た。
  紙幣は、額面ではなく『重さ』で取引された。
  紙幣の印刷が間に合わず、片面しか印刷しなかった。
  喫茶店でコーヒーを飲むのに、トランク一杯分の紙幣
 が必要であった・・が・・、飲んでいる間に・・インフ
 レが進行した・・価格が・・トランク二杯分になった。
  昼と夜で・・レストランのメニューの値段が1桁違った。
  月給は、もらう頃には価値がなくなるので週給、日給
 へと変わって行った。
  薪を買いに行く代わりに・・札束を薪代わりにした。
  このインフレを鎮めたのは、11月15日に発行されたレ
 ンテンマルクの出現であった。
  新しい発券銀行としてレンテン銀行が設けられ、レン
 テンマルクとライヒスマルクの交換レートは・・、
  1レンテンマルク=1,000,000,000,000(1兆)ライヒ
 スマルクと決定された。
  このレンテンマルクの発行により・・ドイツのインフ
 レは沈静化した。
  このインフレの収束は、『レンテンマルクの奇跡』と
 呼ばれている。
  この原因を深く探ると・・、
  第一次世界大戦という戦争は、罪作りな大戦争だった。
  この戦争の後になっても・・人々を苦しめた。
  ドイツ経済は・・戦時体制と・・長らく続いたドイツ
 封鎖によって疲弊していた。
  そして、悲劇的な事に・・さらに、連合国のベルサイ
 ユ条約によって、『1320億金マルクの賠償金支払い』が
 課されていた。
  これは、ドイツの支払い能力を大きく上回っていた。
  そして、さらに苛酷な事に・・『外貨で支払う』こと
 が要求されていた。
  やむなく、賠償金の支払いは滞った。
  支払わないならばと・・1923年1月11日、フランスは、
 ドイツ屈指の工業地帯であり地下資源が豊富なルール地
 方を占領した(フランスは・・フランスで、フランスの
 地だ・・と言っていた)
  実力を行使されたドイツ・・その占領に対し、ドイツ
 政府は受動的な抵抗運動を呼びかけた。
  ストライキに参加した労働者の賃金は、ドイツ政府が
 保証した。
  既に、第一次世界大戦中よりドイツではインフレーシ
 ョンが進行していたが、抵抗運動に伴う財政破綻によっ
 て『致命的な状況』へと導かれた。
  ルール工業地帯の供給能力を失ったために、空前のハ
 イパーインフレが発生した。
  1923年6月までに、マネーサプライは、大戦前の2000倍
 に増加し、
  一般物価水準は25000倍を超えた。
  マルクは、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落す
 るというインフレーションとなった(マネーの価値の超
 下落)。
  パン1個が1兆マルクとなるほどで、100兆マルク紙幣も
 発行されるほどだった。
  この時期のマルクは「パピエルマルク(紙屑のマルク)」
 と呼ばれた。
  アドルフ・ヒトラーらが、ミュンヘン一揆を起こした
 のもハイパーインフレの危機が収束するかしないかとい
 う時期であった(1923年11月8日)
  また、左派による地方政府掌握が発生するなど、混乱
 はドイツ中に広がって行った。
.
  そして・・第二次世界大戦が起きる・・
  そして・・その戦争に勝利したアメリカは・・?
.
1945年、第二次世界大戦を勝利したアメリカは、自国のグ
 ランド・ストラテジー(国策)を大きく変えた。
  アメリカは・・、
  「ユーラシア大陸の三つの重要地域(西ヨーロッパ、
 中東、東アジア)を、アメリカが支配する」・・と。
  これらのユーラシア大陸の最重要地域を支配する事に
 よって、アメリカは、『世界を支配する事が出来る』・・
 と・・、
  このアメリカのグランド・ストラテジーに、ソ連陣営
 が対抗した。
  『アメリカの一極覇権は実現させない』・・とした。
  米ソ間の冷戦という二極の対立の時代となった・・対
 立構造となった。
.
1947年2月28日、二・二八事件(台湾)勃発
  1947年2月 28日、台湾で起った大陸人(外省人)によ
 る支配・・
  そして、その強圧取締りに対する、台湾人(本省人)
 及び日本人の抗議行動の事件が起きた(日本人がまだ残
 っていた)
  同年・1947年2月27日夜、台北市で、大陸人官憲の闇た
 ばこ摘発隊が、台湾人老婆を殴打した。
  この事に対し、今までの鬱積が溜まっていた本省人(
 台湾人)が・・抗議に集った。
  その民衆に対して、大陸人官憲は発砲し、1名を死亡
 させた。
  翌28日、憤激して省行政長官兼警備総司令・陳儀の公
 舎に向った台北市民のデモ隊が・・
  何と! さらにひどい事に・・機銃掃射を浴びせられ
 た・・
  当然、その様な劣悪な武器によって・・死傷者は多数
 となった。
  国民へ向けて機関銃を討つという考えられない行為を
 した。
  この時、台湾は、国民党支配下にあった。
  その様な台湾にあって、外省人と本省人(台湾人)との
 衝突によって生じた大規模な流血事件だった。
  中国国民党政権の在台中国人を「外省人」と言ったが、
 この外省人が、本省人(台湾人、この時はまだ日本国籍
 を有していた人々)と、日本人に対して弾圧を行なった。
  後になって・・民主化が進む李登輝(リー・トンホイ)
 体制の下で、この事件の真相究明のための『再審査が行
 われた』。
  また、その後の1992年2月には、膨大な調査報告書が
 作成されて、李総統自らが遺族を弔った。
  さらに、詳細に検証すると・・、
  当時・1947年2月27日、台北市内の夜市で、複数の警官
 が、ヤミたばこ密売の女性を、横暴に摘発しようとして、
 市民との間に混乱が生じ、警官の横暴発砲が原因で1人
 の市民が死亡した。
  これに抗議するデモが、翌28日、台北、基隆を始め全
 国に拡大した。
  本省人は、多くの地域で、一時、実権を掌握し、回復
 した。
  しかし、国民党政府は、大陸から援軍を派遣し、武力
 によって、これを『徹底的に鎮圧した』。
  この約2年前・・1945年10月、台湾に進駐した陳儀ら
 『国民党政権台湾接収委員』(アメリカの指示)は、日
 本植民地当局から施政権を引き継いでいた。
  そして、この当時、この様な経緯で行政長官となった
 陳儀らは、この事件の抗議に立ち上がった市民を徹底的
 に弾圧した。
  そのため、2万人以上(2万9000人という証言あり)と
 される死者が発生した。
  外省人、特に、国民党指導層への台湾民衆の心理的反
 発は決定的となった。
  当時、台湾へ、大陸から蒋介石が率いる中国国民党政
 府の官僚や軍人が進駐し、行政を引き継いだという形を
 とった・・が・・日本統治時代とは・・「雲泥の差」が
 あった。
  台湾の方々は、彼らの腐敗の凄まじさに驚いた、
  そして、失望した。
  中国大陸から来た軍人・官僚は、当時の国共内戦の影
 響で、人格的にも、能力的にも劣悪で、卑劣な行為をす
 る輩たちだった。
  質が悪く・・強姦・強盗・殺人を犯す者も多かった。
  しかし、犯人が罰せられないということが頻繁(ひん
 ぱん)にあり、日常茶飯事となっていた。
  (戦後、日本に来たアメリカ兵も酷い強姦魔だった・・)
  罰せられたとしても、犯人の省籍をマスコミ等で報じ
 ることを、「厳しく禁じられた」。
  (上記ののアメリカも、あまりの酷さに、新聞報道を
 強引に抑え込まれた、日本は報道する自由を奪われた)
  また、台湾の資材が、中国人官僚らによって接収・横
 領された。
  そして、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、
 物資不足に陥(おちい)った。
  そのため、台湾の物価は高騰した。
  台湾はインフレとなり、その中で、「企業の倒産」が
 相次いだ。
  そして、「失業も深刻化」していた。
  日本時代は、不正など勿論なく、そして、まったく東
 京と同じ生活水準の「良質な社会」だった。
  その落差を知っている台湾の方々は、それ故、不満は
 高まっていた。
  この時、台湾の方々に思い起こさせ、心を助けたのが、
 日本時代のことなどだった。
  台湾人の本省人の方々は、国民政府に占拠されている
 諸施設に向かって、大規模な抗議行動を展開した。
  その行動の時に、日本語や台湾語で話しかけた。
  そして、答えられない者を外省人と確認すると・・反
 抗手段をとった。
  そして、日本時代の教育を受けていた台湾人の本省人
 の方々は、「君が代」を国歌として全ての台湾人が歌え
 たため、本省人の方たちは、全台湾人共通の合言葉とし
 て「君が代」を歌った。
  「君が代」を歌って、行進した。
  歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。
  ラジオ放送局を占拠した。
  そして、軍艦マーチと共に、日本語で全台湾へ呼び掛
 け、放送した。
  「台湾人よ立ち上がれ!」・・と・・ここに独立の萌
 芽があった・・。
  今・現在でも・・台湾の方々は・・自分たちが・・自
 らの進む道を・・自ら決するという選択肢は、『当然、
 保持している』。
.
  そして、最近の・・2017年の・・新聞報道・・
.
2017年2月25日、中国の、『台湾侵攻』想定の演習実施の可
 能性があると、防衛省が発表した。
  この日の読売新聞によると・・、
  防衛省の防衛研究所は、24日・・、
  中国の軍事情勢などに関する報告書「中国安全保障レ
 ポート2017」を発表した。
  2016年5月に、台湾で、独立志向の強い蔡英文(ツァイ
 インウェン)政権が誕生したことを受け、
  中国が、『台湾侵攻』を想定した軍事演習や、大規模
 なサイバー攻撃を実施する可能性があると分析している。
  報告書は、蔡氏の総統就任後、中国が国際民間航空機
 関(ICAO)総会など国際会議への台湾代表の出席を
 妨害したほか、
  台湾の最大野党・国民党への接触を強めているとして、
 「今後も様々な圧力の行使や、切り崩しを図っていく」
 との見方を示した。
  また、東・南シナ海への進出を強める中国に対し、海
 上交通の要衝に位置する台湾の戦略的重要性が増してい
 ると指摘。
  「台湾が、防衛力を強化することは地域の安全に資す
 る」とした。
.
  そして、今後の将来予測・・は・・、
.
2020年代、アメリカを越える中国・・
  CIA(中央情報局:アメリカ合衆国の大統領直属の
 情報機関)と、
  ペンタゴン(アメリカ国防総省)と、
  アメリカ国務省は・・予測する・・、
  「今後、20年間の『中国』の経済成長率と軍事予算成
 長率は・・、
  アメリカの経済成長率と軍事予算成長率を、はるかに
 越えるだろう」・・と。
  そして、2020年代になると・・、
  東アジア地域における、米中の経済力と軍事力バラン
 スは逆転し、
  「アメリカは、いずれ、東アジアからの撤退を余儀な
 くされる」・・と・・、
  この予測通りだと、日本の「アメリカ追従政策の破綻
 (はたん)」が起きる事態となる。
  伊藤貫氏と日下公人氏の対談の本を参考にして記すと
 ・・、
  ニクソン大統領とフォード大統領の両政権で国務長官
 を務めたキッシンジャーは言う・・、
  「戦争に敗けて・・敵に占領された国には、二つの対
 応策しかない」・・と、
  その一つは、「占領軍に対して、長期間の徹底的な『
 ゲリラ戦』を実行する」、
  そして、その二つ目は・・、
  「眼先の利益と、安全を確保するため、占領軍に協力
 し、服従するコラボレーショニストになる」・・と・・
  「日本は、二つ目だ」とは明言していないが、そのニ
 ュアンスを込めた発言となっている。
  せっせと服従し、恭順の意を示していれば、そのうち、
 占領政策を緩めてくれるかもしれない。
  一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」
 で、国家がレジティマシー(正統性)を失うという意味。
  かつて戦争相手であった・・戦勝した敵の押し付けて
 来た憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈など、
  敗北した国は・・「道徳的に劣悪な国」であり、
  戦勝国は・・「道徳的に優越した正義の国」であると
 いう歴史解釈を押し付けられて・・使う。
  敗戦国家の国民は、「なんだ、自分の国は、占領軍の
 言いなりになっているだけの追従の似非(えせ:似て非
 なる・・正しいものに為り得ぬ)国家か・・?」・・と
 思うようになる。
  外見は「立派な独立国」で、「経済大国」のように見
 えたが・・???
  本音は、まったく違って、ただ・・ただ・・この国は、
 戦勝国に服従している・・「属国にすぎない」・・と。
  周りの国まで、口には出さないけれど・・その国を蔑
 (さげす)む。
  国家のクレディビリティ(信憑性、信頼性、確実性)
 や、正統性を・・半端にしか見ない。
  その点での尊敬など受けない。
  国家の「ディ・モラライゼーション、de-moralization、
 士気喪失」の弊害が起きる。
  国民が士気を失う。
  「モラール(士気、気概、競争心)」を失う。
  (参考)士気:しき、戦いに対する軍隊の意気込み。
     転じて、一般に、人が団結して物事を行う時の
     意気込み。
  「戦勝国の顔ばかりうかがう国」と、劣等意識を植え
 付けられる。
  国への忠誠心も阻害される。
  国のためより、自分のための・・国民になる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年3月2日木曜日

(増補版)502E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)502E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年1月8日、パンチカードの特許
  アメリカで、ハーマン・ホレリスが、タビュレーティン
 グマシンの特許を取得した。
  因みに、タビュレーティングマシンは、日本で一般に
 「パンチカードシステム」と呼ぶもので、会計などの作
 表を補助する機械群。
  1890年、アメリカの国勢調査のデータ処理で、初めて
 使用された。
1889年3月4日、アメリカでベンジャミン・ハリソンが第23
 代大統領に就任した。
1889年3月23日、アメリカの大統領になりたてのハリソン大
 統領が、オクラホマ未割当地への白人入植を認可した(4
 月22日説あり)
  白人たちが未開地へ殺到する。
  ランドラッシュ (Land Rus)は、この時、アメリカ合
 衆国政府が入植を解禁したオクラホマへ、白人たちが、
 未開の土地を求めて殺到した現象。
  白人による北アメリカ大陸入植が本格化した。
  先住民である、そして、本来の土地の所有者であるイン
 ディアンの方たちは、そのアメリカ合衆国の白人たちに、
 武力で打倒され、強制的に移住させられ、土地は奪われた。
  チェロキー族など各地のインディアンの方々が、「涙
 の踏み分け道」と呼ばれる苛酷な旅程を経て、移住させ
 られた。
  多くの体の弱い幼児や、ご老人が亡くなった・・死んだ。
  それまでは・・アメリカ合衆国政府は、インディアンの
 方々との『約束を破ることになるため・・入植を許可しな
 かった』。
  ・・が、しかし、1886年の戦いを最後に、インディア
 ンとの戦いが終息すると・・アメリカは手のひらを返し
 た。
  インディアンの方たちとの『約束を無視して』・・ア
 メリカ合衆国政府は、オクラホマ入植を認めた。
  この日、正午を告げる号砲が鳴ると、競争するがごと
 くに、一斉にオクラホマへと乗り込んで行った。
  (大群衆の競馬だと思えばよい、その様な感じで、イン
 ディアンの方々の土地は奪われて行った)
  そして、アメリカ合衆国の白人たちは、土地を安値で
 手に入れた。
  (参考)1889年4月22日、米オクラホマで白人入植解禁
    (ランドラッシュ)
1889年4月、最初の食器洗い機がシカゴで販売された。
1889年5月30日、フランスで、エルミニー・カドルがブラジ
 ャーの原型を発明した。
1889年5月31日、アメリカのペンシルベニア州ジョーンズタ
 ウンで大洪水となる(死者2209名)
1889年6月6日、アメリカのシアトルで大火(25街区壊滅)
  木工細工職人が、接着剤をあたため、溶かしていたとこ
 ろへ誤って引火した。
  このとき、ビルを再建する際には、石材かレンガを使
 うこと、
  また、周辺が海抜ゼロメートル地帯で、昔から満潮に
 なると、度々、浸水の被害にあっていたことから、
  土地に勾配をつけて、高い位置に入り口を作ることなど
 が定められた。
1889年7月8日、ウォールストリート・ジャーナルが創刊し
 た。
  世界最大の発行部数を誇る経済新聞で、世界や全米各
 地の経済活動、金融に関するニュース記事を掲載してい
 る。
  現在は、アメリカ版、アジア版、ヨーロッパ版がそれ
 ぞれ発行され、長年にわたりアメリカ合衆国内での発行
 部数第1位を占めており、
  近年では、USAトゥデイ(211万部)に次ぐ第2位(
 208万部)であった。
1889年7月15日、第2インターナショナルがパリで結成され
 た。
  開かれた社会主義者・労働者の国際大会で創立した各
 国社会主義政党の連合組織。
  マルクス主義を支配的潮流とするドイツ社会民主党が
 中心で、欧米・アジア諸国社会主義政党の連合機関だっ
 た。
  第一次世界大戦で、各国の党がインターナショナリズ
 ムを放棄して、自国の戦争を支持するに至り、戦争に協
 力したため解体された。
  第1インターナショナルが、1872年に活動を停止してか
 ら、国際労働運動・社会主義運動の国際連帯の再建をめ
 ざす運動が続いていた。
  その間の世界的な工業化の進展により、労働者の数も
 増加し、資本主義の矛盾が高まった。
  そのことで、労働組合運動も活発となった。
  各国で、社会主義政党の結成も続いた。
  それらの動きを受けて、マルクスの死(1883年)後の
 社会主義運動を理論的に指導していたエンゲルスの肝い
 りで、
  1889年、ヨーロッパ・アメリカの19カ国の労働者代表
 によって第2インターナショナルが結成された。
   第2インターナショナルは、各国の社会主義政党の連帯
 組織という性格が強く、その中心は、ドイツ社会民主党
 であった。
  労働組合も参加したが、政党との関係に否定的な労働
 組合主義をとる組合は、別に労働組合インターナショナ
 ルを結成した。
  第1インターナショナルで、マルクス派と対立したアナ
 ーキズム勢力は排除された。
   第2インターナショナルは、帝国主義段階での資本主義
 の矛盾を、国家の枠を越えた社会主義政党と労働者階級
 の連帯によって克服し、
  労働者の解放を実現する社会主義社会を目指した。
  しかし、第1インターナショナルの段階と異なり、各国
 が、かかえる植民地支配の利害が対立するなか、植民地の
 解放については、各国の意見が対立するという問題を抱え
 るようになった。
  帝国主義間の戦争の危機が高まると、バルカン戦争な
 どでは、第2インターナショナルは、明確な戦争反対の立
 場をとり、
  第一次世界大戦の勃発に対しても、当初は、反対したが、
 戦争が長期化する中、インターナショナル各国支部の中に
 祖国防衛のためには戦争もやむなしというナショナリズム
 と戦争容認の声が強まり、統一的な国際組織として維持が
 できなくなり、
  1919年を最後に開催されて、なくなった。
  再度、書くが・・、1914年に、第一次世界大戦が勃発し、
 国家間の対立が鮮明になると、各国の社会主義政党もそれ
 ぞれ自国の戦争を肯定する側に回ったり(自国がかわいい)、
 戦争支持か反対かによって党が分裂し、
  第2インターナショナルは、1914年の開戦とともに機能
 不全に陥り、崩壊した
1889年10月、第1回 パン=アメリカ会議 (汎アメリカ会議)
  南北アメリカ大陸の独立国家のすべて、または、一部
 の代表間で開かれる、さまざまな会議。
  1826年~1889年に、国防や司法の共通問題を協議する
 ため米州諸国間で開催された一連の首脳会議が発端とな
 った。
  アメリカ合衆国を中心に、西半球における協力や交流
 を促進したり、この地域の問題の解決を図るために開か
 れた米州諸国の会議。
  1889年、アメリカのJ・ブレーン国務長官が、中南米諸
 国との通商拡大や、紛争の平和的処理法の協議のために
 ワシントンで、18カ国の代表が集まり、最初の会議を開
 催した。
  通商協定・仲裁裁判などで協定を結んだ。
  以後、数年おきに開催。
  その理念となったのは、アメリカ合衆国の指導のもと
 に、南北アメリカ諸国が政治的・経済的に緊密な関係を
 結ぼうというパン=アメリカ主義(汎アメリカ主義)。
  アメリカ合衆国にとっては、自国の工業化が進展した
 ことに伴い、原料・食糧の供給地として中南米地域を重
 視するようになっていた。
  (アメリカの国益となる経済圏の形成)
  南米大陸には、イギリスが、強い経済的関係を有して
 いた。
1889年11月2日、アメリカでノースダコタが39番目に、サウ
 スダコタが40番目に州となった。
  この日に、それまでのダコタ準州が南北に分割され、
 サウスダコタ州とともに、同時に州に昇格した。
  ・・が、ノースダコタ州が39番目、サウスダコタ州が
 40番目と認識された。
  ノースダコタ州の北側はカナダ国境であり、東側はミ
 ネソタ州との州境にレッド川が流れている。
  西側はモンタナ州に、南側はサウスダコタ州に接して
 いる。
  人口は70万人に満たず、全米50州の中で少ない方から
 3番目であり、面積は第19位なので、人口密度も4番目に
 小さい。
.
  (今日の言葉)
.
  題:誠実に歩む・・日本・・
.
紀元前447年、パルテノン神殿の建設が開始された。
  (~紀元前438年)
  建設に9年を要した。
  パルテノン神殿は、火薬庫に使われた。
  その時、砲弾が、命中して爆発して建物は吹き飛んだ。
.
紀元前427年、プラトンが生まれた。
  (参考)プラトン(紀元前427年~紀元前347年)は、
    古代ギリシアの哲学者。
     ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師
     に当たる。
      プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流。
  そして、今・現在、アメリカの中間層は・・居なくな
 った。
  上層部の超富裕層の僅かな層が・・豊かさを独占し、中
 間層がその下の層に下落したからである。
  格差が広がるアメリカ社会となっている。
  そして、この2400年前のプラトンは言った・・
  「貧しすぎると、人間は賤(いや)しくなる。豊か過
 ぎると、人間はだらしなくなる」・・と・・、
  アメリカは格差が広がり・・プラトンが言う様に・・
 だらしない超富裕層が増えたのか? 
  欲だけが突っ張る層が・・?
.
17世紀後半、竹島の日本の領有権が、明確に確立した。
  「竹島」について(読売新聞、2017年2月22日)に記載
 されていた。
  島根県の第12回「竹島の日」記念式典が今日、松江市
 で開かれる。
  1905年に、日本が、竹島を島根県に正式編入した日だ。
  2005年に、県条例で竹島の日と定められた。
  ・・日本は、17世紀後半には、竹島の領有権を確立し
 た。
  第二次世界大戦後も、日本の領土として扱われて来た。
  しかし、1952年、韓国が、李承晩ラインを一方的に設定
 し、力による現状変更を行って以来・・不法占拠を続けて
 いる。
.
1932年3月1日、満州国が、建国宣言した。
  満州国が建国された。
  満州国の国づくりに協力した日本は、日本から日本の
 資本を持って行って、満州国へ資本投下し、国造りをし
 た。
  そして、また、同時に、日本の優秀な人的資源も満州国
 に入り、支援した。
  資金・資本とともに、『日本の優秀な頭脳』が満州国の
 国造りに援助し、参画した。
  そして、日本の敗戦とともに、その方たちは、日本に引
 き揚げて来たが・・、
  今度は、戦後の日本経済と、日本国家再興に寄与した。
  日本再建の中枢に・・多くのこの方々が居た。
  その方たちの根底には、しっかりした、また、大局的
 な国家論があった。
  世界から「奇跡の復興」と言われた日本の戦後復興を
 実現する大きな一翼を担った。
  しかし、今・現在、その様な人材は居るのか・・?
.
1941年12月10日、マレー沖海戦が起きた。
  日本海軍の陸上攻撃機と、イギリス海軍の東洋艦隊の
 間で行われた戦闘。
  今(2017年)、読売新聞で連載を書かれている松永真
 理氏の御祖父は、この時の海軍中将であった。
  (参考)松永 真理(1954年11月13日~)は、雑誌編集
    者、著作家。
  御祖父の海軍中将・松永貞市氏は、マレー沖海戦で、航
 空隊指揮官を務められていた。
  イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「
 レパルス」を沈め、当時の日本は沸いた。
  動いている軍艦を飛行機で撃沈したのは初めてだった。
  出来ないと言われていたことを・・やった・・
  イギリスのチャーチル首相に「これ以上の衝撃は無か
 った」と言わしめた。
  それまでの世界の海軍は、艦艇同士の砲撃船で相手を
 撃沈しようとした。
  艦艇や主砲はどんどん巨大化し、「大艦巨砲主義」と
 言われる戦闘システムであった。
  航空機では無理だとされていた。
.
1944年(昭和19年)1月20日、オーストラリアの捕虜虐殺
  平成19年1月20日(土曜日)天候:雨 
  オーストラリア軍の不法行為について
  「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
  日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくな
 った時の話を覚えているかね? 
  あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ・・
  (日本兵)捕虜を、機上から山中に突き落とし、ジャッ
 プは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
 (リンドバーグ日記八月六日)
  ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によ
 って、日本軍捕虜は、「死の行進」が課せられた。
  ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、
 一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。
  同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名が、トロキナ
 の仮収容所に移送されることとなったが、
  栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、
 気温三五~三八度の中を一〇マイル行進させられた。
  (ろくな食事も与えられなかった)
  翌日、到着の一二五〇人も同様であった。
  豪州軍の警備兵は、行軍の速度をゆるめることを許さず、
 水もほとんど与えられなかった。
  死亡者が続出した。
  体験者の回想によれば・・、
  川を見つけた日本兵が、水を求めて駆け寄ると、川の両
 側に並んだ豪州軍将校たちが、水を飲ませまいと、足で
 水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。
  一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人と、オーシャ
 ンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
  くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移
 動させられた時には、マラリヤに多数が感染したが、豪
 州軍は予防薬を支給しなかった。
  捕虜のほとんど全員が感染、
  約七〇〇名が死亡したとみられる。
   以上「日本の反論」米田健三著 p一六五およびp一七一
 ~一七二よりの引用ですが、米田氏は、リンドバーグ日記
 および「軍事史学 第三五巻第二号」喜多義人論文より
 引用されています)
.
1944年4月14日、特別攻撃隊、
  日本が行った特別攻撃、
  第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、自爆
 攻撃が、現場で行われることはあった。
  1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう
 陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊の一式戦
 闘機「隼」(操縦:石川清雄曹長)が、
  アメリカ海軍の潜水艦が発射した魚雷3本を発見、機銃
 掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し戦死するも爆破に成
 功した。
  また、1944年8月20日、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃
 機による八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊の二
 式複座戦闘機「屠龍」(操縦:野辺重夫軍曹、後方射手:
 高木伝蔵伍長)が、第794爆撃飛行隊の「ガートルードC」
 号に対し体当たり攻撃を敢行し、「ガートルードC」号は
 空中爆発し、墜落した、
  また、その破片の直撃を受けた僚機の「カラミティ・
 スー」号も墜落した。
  「屠龍」は墜落し、野辺・高木共に戦死するも、1機で
 2機のB-29を撃墜した。
  特攻は、日本人以外の方々には理解されにくい行動だ
 った。
  若い方々が、国のためだとはいえ、あまりにもその一
 途な行動は理解されにくかった。
  しかし、今、戦後、時を経て・・国際的に、その行動
 が理解され、また、逆に、多くの方々に、尊敬され始め
 ている。
  終戦の調印が、日本とアメリカとの間で行われた、ア
 メリカ戦艦ミズーリー号にも、日本の特攻隊は突っ込ん
 ていた。
  ミズーリー号には、国を思いその任務を果たした若い
 日本軍人を顕彰(けんしょう、功績などを一般に知らせ、
 表彰すること)している。
  また、イギリスへ若い時に留学し、そして、今は、帰
 国して大学の教授になって居られる方は言われる、
  留学草々、下宿先のイギリス婦人が、日本からの留学生
 と知ると、
  「あなたの国(日本)には、立派な若人が居られました
 ね」と、
  早々に特攻隊の方々を褒め称えたという、
  その後も、勉強に立ち往生して、ちょっと気を抜いてい
 ると、特攻隊員の居る国なのにと、叱咤激励されたという。
  昔、以前は誤解されていた、また、プロパガンダされ、
 悪いイメージが作り上げられていた。
  ただただ、表面的にしか見られず、狂信的だと思い込
 まれていた見方は、今は、なくなりつつあり、変わって来
 ている。
  その若人たちが、特攻隊へと行くにあたって、ただた
 だ、単純に、狂信的に、任務に赴(おもむ)いたのでは
 ないという、深い理解が分かって来て戴いている、深い
 ところが理解されて来ている。
  特攻隊の若人の方々、一人一人の方々に、それぞれの
 苦悩があり、家族を想い、愛する人を想い、それぞれの
 心があり、郷土を想い、国を想い、その心があり、そして、
 行動があった。
  家族・郷土を守るため、国を守るために赴くという、
 命を賭して赴こうという心に至る道程が、一人一人の方々
 に苦悩を持ちながらあって、決断して赴いて行って戴い
 た、
  そこを、世界の方々は、理解して来て戴いている。
  極限になって行動された日本の特攻の若人の方々が、
 世界に理解されて来ている。
.
1944年10月20日、神風特別攻撃隊
  神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、し
 んぷうとくべつこうげきたい)は、第二次世界大戦末期
 に行われた大日本帝国海軍の航空機による特別攻撃隊。
  大日本帝国陸軍航空機による陸軍特別攻撃隊は含まれ
 ない。
  1944年10月20日に、最初の編成があり、1945年8月15日
 の終戦まで続けられた。
  『アンパンマン』の作者のやなせたかし氏の弟さんが、
 この神風特攻隊で戦死されていた。
  「いいね!ニュース」に次の記述があった。
  http://iinee-news.com/post-307/
  あなたは『アンパンマンの歌詞』の本当の意味を知っ
 てますか?・・と、題して書かれていた・・、
  大人から子供まで誰もが知っているアンパンマン。
  その主題歌『アンパンマンのマーチ』は、「愛と勇気
 だけが友達さ」などの歌詞から、なんだか寂しい歌のよ
 うに解釈されがちです。
  しかし、この歌の背景を知ると、実は、この曲が、子
 ども番組の主題歌と言うには、非常にもったいない程深
 い曲だという事がわかります。
  このアンパンマン、元々、大人向けの読み物で、アン
 パンマン自身も普通の人間だったのです。
  空腹の人たちの元へパン粉を届けるという点は現在と
 比較的共通していますが、
  アンパンマンを語る上で、最も知っておく必要がある
 のが、
  やなせたかしさんの弟の存在です。
  実は、やなせたかしさんの弟は海軍に志願し、特攻隊
 として戦場でその生涯を閉じました。
  更に、やなせたかしさん自身も、戦中・戦後の食糧危
 機に直面し、非常に辛い思いをしたそうです。
  その事を踏まえて、もう一度この歌の歌詞を読んでみ
 てください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  『アンパンマンのマーチ』
  作詞 やなせたかし 作曲 三木たかし
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえ胸の傷が痛んでも
  何の為に生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのは嫌だ!
  今を生きることで 熱いこころ燃える
  だから君は行くんだ微笑んで。
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえ胸の傷が痛んでも。
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
  何が君の幸せ 何をして喜ぶ
  解らないまま終わる そんなのは嫌だ!
  忘れないで夢を 零さないで涙
  だから君は飛ぶんだ何処までも
  そうだ!恐れないでみんなの為に
  愛と勇気だけが友達さ
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
  時は早く過ぎる 光る星は消える
  だから君は行くんだ微笑んで
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえどんな敵が相手でも
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  特攻隊として飛び立った彼は、自分が二度と母国の地
 を踏むことは無いと知り
  胸の痛みを感じつつも、生きている喜びを感じる。
  涙をこぼすことなく、恐れることなく彼は飛んだ。
  みんなの夢を守るために。
  戦いに行くのは自分一人だけでいい。
  愛と勇気だけを連れて行くから。
  幸せとは何か 
  何のために生きるのか
  その答えを知らずに生きるのは嫌だ。
  時は過ぎ
  彼は微笑みながら、特攻隊としての任務をこなした。
  まるで光る星が消え行くように。
  彼は微笑みながら飛んだ。
  みんなの夢を守るため。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  あなたはこの歌の意味を知っていましたか?
  この歌にはこんなにも、深い意味が込められていたの
 ですね。
  きっとあなたの心に響いたはずです!
.
1945年1月2日、アメリカ軍の艦載機500機が台湾と沖縄を
 空襲した。
.
1945年3月17日、硫黄島が玉砕した。
.
1945年3月18日、アメリカ軍がベルリンを空襲した。
.
1945年3月26日、硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦してい
 た栗林中将配下の部隊が全滅した(硫黄島の戦い終結)。
.
1945年12月、上野の地下道で暮らす子供たちに行われた聞
 き取り調査。
.
  そして・・40年の時が流れ・・、
.
1985年、この年、日本が、半導体生産で、アメリカを抜い
 て世界一となった。
  この日本の台頭する前、世界の半導体市場は、もともと、
 アメリカのテキサス・インスツルメンツ、モトローラ、
 インテルなど専業メーカーの独壇場だった。
  そして、1970年代後半から、日立、NECのほか富士
 通、三菱電機、東芝などの日本勢が台頭した。
  1985年になって、日本の半導体生産は、アメリカを抜い
 て世界一になり・・日本が悪者になり・・貿易摩擦が起き
 た。
  (自分が一位の時は、何の配慮もなれていなかった)
  今(2017年)、日本の半導体は見る影もないが・・
  当時、『産業の米』と言われ、半導体は花形産業だった。
.
1980年代中頃、巨大な『双子の赤字』を抱えるアメリカ
  アメリカの赤字は双子となった・・、
  そのアメリカから、日本は、この年代の中頃から、ア
 メリカの猛烈な攻撃を受け始めた。
  この時のレーガン政権は、「双子の赤字」(巨額な財
 政赤字と経常赤字〉を抱える様になっていた。
  原因は、レーガンが『大減税』をして、しかも、財政
 支出を『どんどん増やし』、無責任なマクロ経済政策を
 していたからだった。
  (レーガンの無責任なポピュリズム政策が原因・・自分
 が悪い)
  そして、日本の貿易黒字が悪いのだと取り上げた・・攻
 撃した。
  貿易摩擦を発生させた。
  正々堂々と戦わずに・・『陰険な方策を取る』・・、
  アメリカの日本締め上げ策は『円を急激に切り上げて、
 日本の輸出産業を締め上げ』、
  また、大蔵省と日銀に、『猛烈な圧力』をかけて、金融
 を超緩和させる」のだった。
  ジャイアンの「のび太君いじめ」のごとくだった・・
.
1986年12月、日本が「バブル」となった(~1991年2月)
  (参考)バブル景気は、景気動向指数(CI)上は、
    1986年(昭和61年)12月~1991年(平成3年)2月
    までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上
    昇と好景気、および、それに付随して起こった社
    会現象。
     情勢自体は、バブル経済と同一であり、平成景
    気や平成バブル景気とも呼ばれる。
  日本に「バブル・エコノミーが出現」し、「資産市場
 は急騰」し、そして、「急落」した。
  そして、「大量の不良債権が発生」し、「金融危機」
 となった。
  可哀想に・・「中小企業が、大量に倒産」した。
  これは、『日本のかじ取りが悪くてなったのではなく』、
  アメリカから、「日本は、貿易黒字をアメリカ相手に、
 せっせと稼いでいる」・・と、言われ、
  アメリカが「双子の赤字」を抱えるのは、日本が悪い
 からだ・・と、レーガン大統領に一方的に言われ・・、
  「円を急激に切り上げるという策を取らされ」、
  また、「日本の輸出を締め上げられ」・・、
  そして、「金融を超緩和させられた」・・その様な結
 果から起きた事だった。
  『まったく外的要因(アメリカ)からの発生』だった。
  日本の国内需要を『無理やり』人為的に膨張させられ
 た。
  日米の貿易差額を縮小できるから・・という政策だっ
 た。
  実際、これは間違いだった。
  アメリカの「税制」と「財政」を適正・健全化させる
 というアメリカ自分の足りないことに目をつむって、他に
 のみ原因を求めるという状況、アメリカの態度だった。
  この様に、アメリカは、「通商政策」に、そして、「
 金融政策」に、「外交政策」に、「国防政策」等に・・
 一方的にアメリカの圧力によって決めさせることをした。
  明治が、不平等条約で悩まされていたが・・相変わらず、
 日本は、アメリカの内政干渉を受けていた・・圧力を受け
 ていた。
  日本は『大きなダメージを受けた』。
  この後遺症から脱却するため「失われた二十年」とか、
 「失われた三十年」とかの・・四苦八苦をする羽目とな
 った。
  そして、この時、結果的に、ひどい事になるのだが・・、
  日本は、バブルに浮かれて、アメリカ資産を買いあさ
 った。
  例えば、1989年(平成元年)に、三菱地所が、約2200
 億円で買収したニューヨークのロックフェラーセンター。
  当時の日本企業による国外不動産の買い漁(あさ)り
 の象徴となった。
  しかし、バブル後に熾烈(しれつ)な状況となり、結
 局、日本の買い漁った資産は、アメリカに安く買い戻さ
 れて、日本は大きな損失を出し、アメリカに『大金を貢(
 みつ)ぐ』こととなった。
  アメリカは頭が良い・・
.
2013年10月13日、やなせたかし氏が逝去された。
  享年94歳。
  アニメ『アンパンマン』の生みの親。
  本名:本名:柳瀬 嵩(1919年〈大正8年〉2月6日~
 2013年〈平成25年〉10月13日)
  2013年8月に、体調を崩して入院し、
  2013年10月13日、午前3時8分、心不全のため、東京都
 文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去された。
  死去の知らせは、一般には、翌々日の15日に公表された、
  出身地の新聞である高知新聞は号外をWebで公開した。
  テレビのニュースでは、2013年の6月に、「アンパンマ
 ン」のアニメ製作のスタッフらに、「来年までに俺は死
 ぬんだよね。朝起きるたびに少しずつ体が衰弱していく
 のが分かるんだよね」「まだ死にたくねぇよ。(ようや
 くアニメが)面白いところへ来たのに、俺はなんで死な
 なくちゃいけないんだよ」と発言するやなせ氏の姿が繰
 り返し放送された。
  同日、NHKも、夜のニュースで、アンパンマンのアニメ
 を暫らく流すなどして逝去を惜しんだ。
  やなせたかし氏には、1991年に、勲四等瑞宝章が贈られ、
 その功を讃えられている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月27日月曜日

(増補版)501E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年12月)

題:(増補版)501E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月29日、地租条例施行規則公布。
1889年11月30日、地租条例改正公布。
  地租改正条例公布される
  地租改正の際に行われた測量結果は地券に記され、こ
 の内容は地券台帳にまとめられた。
  地券は、土地所有を公証し、かつ、納税義務者を表示
 するものとされた。
  また、土地売買の法的手段であるとされたことから、
 土地の流通、および、土地金融はすべて地券により行わ
 れることとなった。
  1885年の登記法成立後は、登記簿が土地所有を公証す
 るものとされた。
  また、地券台帳自体も、1884年に、創設された土地台
 帳制度に引き継がれ、
  1889年に、事実上廃止されて、以後、地租の収税は、
 この土地台帳によって行われた。
1889年11月、東京~大阪間に自動電信が開始された(10月
 説あり)
  東京~大阪間で、ホイートストンモールス自動電信機
 の使用が開始された。
  (別史料)1899年、長距離通話始まる(東京~大阪間)
1889年11月、大日本帝国水難救済会が創立された。
  現在の公益社団法人日本水難救済会(にほんすいなん
 きゅうさいかい)で、公益社団法人である。
  海や海浜での遭難者や船舶等を救助するボランティア
 の団体の全国法人。
1889年12月1日、第十八国立銀行が移転。
  東濱町より築町の俵物役所跡のルネサンス様式で洋風
 煉瓦造2階建のモダンな新社屋に移転し、営業を開始し
 た。
  1890年に、国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川
 に支店を開設した。
1889年12月10日、閣議で、条約改正交渉の延期を決定した。
1889年12月11日、北海道炭鉱鉄道会社が開業した。
1889年12月13日、総理大臣の臨時代理である三条実美は、
 アメリカ・ドイツ・ロシアの駐在公使に、調印済新条約(
 調印した航海条約)の実施延期を請求するよう訓令した。
  1889年、大隈重信外相が、アメリカ・ドイツ・ロシア
 との間に新条約を調印したが、
  大審院に限り「外国人裁判官の任用を認めていた」の
 で、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切
 りに、国民協会を率いる保守派の品川弥二郎や鳥尾小弥
 太、民権派の星亨を中心として、再び、国内に反対運動
 が起きた。
  大隈は、玄洋社の活動家に、爆弾を投げつけられて負
 傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、
  また、その後も、青木周蔵外相の交渉が、1891年に訪
 日したロシア皇太子(ニコライ2世)が、大津で警護の警
 察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折す
 るなど、条約改正は難航して行く。
1889年12月14日、条約改正交渉の失敗を受けて、大隈重信
 が、辞表を提出した。
1889年12月17日、京都府画学校を市へ移管し、京都市画学
 校となる(現:京都市立芸術大学)
  1880年に創設された京都府の画学校(美術学部)が起
   源で、
  1880年6月、太政大臣・三条実美により、「日本最初京
   都画学校」と命名された。
  1880年7月、京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式
   が行われた。
  背景は、東京遷都によってパトロンが喪失し、また、
 文明開化による伝統文化の冷遇があったことから、円山
 派・四条派といった京都画壇の諸派が危機に陥った。
  この美術を立て直すために、市民の間から、美術家養
 成機関としての近代的な「学校」を作ろうという声が高
 まり、創立された。
  また、同様に、文明開化で低迷していた京都の主力産
 業である伝統工芸の近代化を支援し、
  それに密接な関係がある美術界を盛んにする目的もあ
 った。
  画学校は、修業年限3年で、文人画や大和絵、狩野派な
 ど日本の美術の諸派を学んだ。
  また、殖産興業のために工芸品の意匠・デザインに関
 する教育も行った。
  そして、西洋画を導入したことは、当時としては画期
 的だった。
  西洋画は、当初、日本では、芸術文化の類というより
 は、建築などの図面を描く工業技術として、京都府画学
 校創立に先立つ、1876年、工部美術学校などで導入され
 ていた。
  工部美術学校が、アーネスト・フェノロサらによって
 西洋美術学習・研究の発展を妨害され、後発の東京美術
 学校もフェノロサや岡倉天心の意向により、ながらく西
 洋画科が置かれない事情があった。
  京都画壇の中心地で、また、京都の陶磁器、漆工芸、
 染織などの地場産業に多くの人材を供給し、活発化させ
 た。
  明治以来、多くの日本画家、洋画家、版画家、陶芸家、
 染織家、デザイナー、音楽家、現代美術作家を養成して
 きた。
  京都市の財政難から国立大学への移管もあったが、京
 都市民の熱望から窮状を救おうと、古くからの町衆や旧
 家などから存続のための多数の寄付を受け、音楽短大と
 統合し、現在に至る市立大学としてある。
1889年12月19日、板垣退助が、旧自由党員と協議して糾合
 し、大阪で愛国公党の結成を決定した。
  板垣退助は総理。
  大同協和会は、同日、独自の自由党再興を決定した。
1889年12月20日、大同倶楽部が、愛国公党不参加を決定し
 た。
1889年12月21日、九州鉄道の博多駅~千歳川駅間が開通し
 た(12月11日説あり)
  初代の博多駅は、九州で最初の鉄道である九州鉄道(
 初代)が、1889年12月11日に、博多~千歳川仮停車場(
 久留米駅の北側、筑後川の北岸)間に開通時に開業した。
1889年12月24日、大隈重信外相が、辞任した。
1889年12月24日、第一次・山県有朋内閣が成立した。
  そして、三条実美と大隈重信の免官が発令した。
  三条暫定内閣が総辞職して終了し、山県有朋が首相に
 任命され、第1次山県内閣が成立した。
  同日、内閣官制も公布され内閣制度も整う。
  山県内閣(氷川清話)
.
  (今日の言葉)
.
  題:マッカーサーは、日本の戦争は『自衛の戦争だった』と言った・・、
.
紀元前11世紀後半、中国の周は、紀元前11世紀後半に成立
 した。
  そして、紀元前771年に滅亡した。
  今、金文(きんぶん、青銅器に彫られたもの)や、竹
 簡などの史料が発掘されて、その古代王朝の実像が、少
 しづつ明らかになって来た。
  2代の成王の時、周王朝の拡大は始まった。
  周王は、諸侯を統合する手段として、各地で諸侯らを
 参加させ、池水で「合同型儀礼」を行なった。
  これは、殷の狩猟・漁撈(ぎょろう)儀礼を引き継い
 だもので、宝貝などの賜与品が主君とのつながりを深め
 るために配られた。
  6代共王のあたりから、周王朝の軍事的な支配領域拡大
 が頭打ちとなり、儀礼も「冊命儀礼」(王が臣下に職務
 を任命)に変化する。
  10代の王は暴君として追放され、紀元前771年、12代幽
 王の時代に周は滅亡する。
  周の王族が洛陽に東遷して東周となり、500年生き延び
 るが、もはやリーダーとしての力は残っていなかった。
  そこで、諸侯の中の有力者(春秋5覇)が台頭した。
  乱世を嘆いた孔子は、礼制の再編を試みる。
  儒家は、西周の祀を復活させたと主張したが、実際は、
 当時の東周の礼制を元に、儒家が文献に散見される関連
 の記述をたよりに、西周時代の祀を修復、もしくは創造
 したものだった。
  (参考)祀:し、神や先祖を祀(まつ)る。祀り。
.
1900年頃、大掃除の始まり。
  この年に制定された「汚物掃除法」(明治33年法律31
 号)は、家屋の大掃除を国民に義務付けた。
  同法は、1954年(昭和29年)7月1日まで施行され、
  その後、1971年(昭和46年)年9月24日までは、「清掃
 法」(昭和29年法律72号)が施行された。
  同法16条は、「建物の占有者は、建物内を全般にわた
 って清潔にするため、毎年一回以上、市町村長が定める
 計画に従い、大掃除を実施しなければならない」と規定
 していた。
  同法は、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(昭
 和45年12月25日法律137号)の施行に伴い廃止され、
  現行法には、大掃除に関する規定はない。
  専門者は、自宅の大掃除をしなくなったことが、日本
 人の住宅に対する意識を変え、
  DIYの盛んな米国などと比べて、住宅の維持管理や
 リフォーム、さらには、既存住宅流通に対する消極的な
 傾向の一因にもなっていると言われている。
.
1939年6月、日本のユダヤ人保護にならって、駐ベルリン
 満州国公使館書記官・王替夫が、ユダヤ人の方々を含む
 難民にビザ発給した。
  杉浦千畝の倍以上のユダヤ人の方々へビザの発給をし
 ていた。
  なお、杉原千畝より早くからやっている。
  (1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)
  杉原千畝は、1940年。
.
1941年8月、アメリカが、第2次石油禁輸をして、対日輸出
 を全面停止とした。
  日露戦争以後・・、日本は、種々、痛めつけられてい
 た。
  そして、「日本からアメリカへの輸出も完全に止めら
 れた」。
  日本からの輸出は全面的に排除された。
  日本経済は、どん底となった。
  また、満州は、日露戦争でロシアから移譲されたもの
 で、侵略で得たものではないのに、
  そして、ヨーロッパ列強の様な、ただただ利を貪(む
 さぼ)る行為と違い、
  日本は、自らの日本の資本を持ち込んで、その資本を
 投下し、満州の国造りをした。
  また、満州族の方々の地なので「満州国の建国」の手
 助けをした。
  この満州について、アメリカは、国際連盟という名前
 を使って、注文を付けた。
  そして、アメリカの、自国のハルを国際連盟の調査団
 だとして行動を始めた。
  日本が投資して利益が上がるようになった努力も無駄
 になった。
  イギリスやアメリカは、ただ植民地経営で、収奪する
 だけだったが、日本は満州の方たちの為にもなる社会資
 本充実もした。
  また、満州において、日本の行なった正当な投資鉱山
 や鉄道などの経済活動にも、アメリカは注文を付けた。
  日本を潰したいアメリカは、日本が、資本投下して作
 った満州鉄道に並行して、アメリカは、鉄道を作るとい
 う行為をした。
  そして、中国を繰って「満州で日本人が土地を買えな
 い」という法律を作った、また、「借りることさえもで
 きなくされた」。
  さらに、「日本人が、鉱山開発をしては駄目」という
 法律も作った、
  日本は、大きな投資を鉱山にしていた。
.
1945年10月22日、GHQマッカーサーによって、日本へ「
 教育4大指令」が出された(~1945年12月31日)
  「日本教育制度に対する管理政策」「教職追放令」「
 神道指令」「修身、日本歴史及び地理に関する件」であ
 った。
  GHQは、日本の教育の変革を大きな課題としていた。
  「日本教育制度に対する管理政策」で、「自由」や「
 人権」などの「民主教育」を教師・学生に指導する一方
 で、「軍国主義」「封建主義」などの国威発揚につなが
 る過去の教育内容を禁止した。
  「教職追放令」では、全国約45万人の教師のうち、11
 万5778人が自ら辞職し、また、約5200人が教職を追放さ
 せられた。
  「神道指令」において、「神道的なもの」を取り除こ
 うとした。
  「修身、日本歴史及び地理に関する件」では、明治以
 来の日本人が使ってきた過去の修身・地理・歴史教育の
 教科書、および、教師用参考書の再使用を「封建的制度」
 としたレッテルを貼って一切禁止した。
  この為、日本の地理や歴史が、子供たちに教えられな
 くなった。
  教育改革以降は、戦前の「国史」ではなく「日本史」
 と呼ばせて、GHQは検閲をした。
  「国のあゆみ」や「公民教科書」などが使わさせられ
 た。
  また、真実であっても、GHQにとって「不都合な真
 実」は、異なるものに書き換えられるか、墨で「黒塗り」
 させられた。
  例えば、それまで偉人として、戦前まで教えて来た「
 楠木正成」「吉田松陰」「東郷平八郎」の3人は、「豊田
 佐吉」「ガリレオ」「野口英世」に書き換えさせられた。
.
1946年5月3日、極東国際軍事裁判所開廷
  東京裁判(~1948年11月12日)
  東京裁判で、日本は、「侵略戦争をした」と追及され
 たが、『アメリカなどは、侵略戦争と立証する事は出来
 なかった』。
  裁判でも確かめられたように、日本は侵略戦争をした
 のではない。
  そして、さらに、マッカーサーが、日本占領を終え、
 アメリカに帰国し、
  1951年(昭和26年)5月、アメリカ上院の軍事外交合同
 委員会で証言したように・・「日本の戦いは、自衛のた
 めの戦いであった」。
  ドイツの場合は、戦争の始まる前から、侵略の意図を
 持って、
  開戦の3年も前の1936年に、ヒトラーを中心にナチス指
 導者たちによる、明確な共同謀議の記録もある。
  日本には、当然、その様なものはない。
  そして、ナチスのその記録には、最初にチェコスロバ
 キアを侵略し、次にポーランド、そしてフランス、最後
 にソ連を植民地にする・・という侵略計画が記載されて
 いる。
  日本には、勿論、その様なものもなく、共同謀議の記
 録もない。
  アメリカなどの連合国側は、ドイツの様な「一貫した
 侵略の意図と侵略計画がある」としたが、立証する事は
 出来なかった。
  その様な意図や計画が無いのであるから当然である。
  しかし、マッカーサーは、戦後の占領政策の中で、必
 死に、日本人へ、「あの日本の戦争は、侵略戦争だった」
 と言い続けた。
  日本は侵略したのだとマインド・コントロールし、洗
 脳した。
  しかし、マッカーサー自身は、日本の占領統治を終わ
 って、アメリカに帰国し、アメリカ議会で証言に立ち、
 「(日本の戦争は侵略戦争ではなく)、日本は自衛のた
 めに戦った」と証言した。
  東京裁判の時は、侵略戦争だと追及したが・・、
  追求された日本の被告たちは・・、
  「その様な上等なものは、まったくありません」と、
 きっぱり否定した。
  また、日本は、法律を犯した殺戮は一切、一つもして
 いない。
  アメリカは、国際法違反の「一般市民の殺戮」をあち
 こちでやっている。・・が、少しも問われることもない。
  犯罪行為をした容疑者のままでいる・・、
  日本は、無実の罪だが、服役し終わっている状態だ・・、
  日本は、アメリカのルーズベルトの策にはまって行っ
 た。
  侵略の意図はない。
  戦争は、常に、収めたいという中にあった。
  日本は、最初から、アメリカとの戦争は勝つことはで
 きないという分析結果を持ち・・そして、その様に認識
 していた。
  日本から好んで戦争を仕掛ける事はしない。
  そうせざるを得ない悲惨な窮地に、アメリカのルーズ
 ベルトは、日本を追い込んで行った。
  「させられた戦争」を、「せざるを得なかった」。
  逆に、アメリカのルーズベルトには、1941年夏(昭和
 16年)に、日本を「戦争に徴発しよう」とした未遂事件
 がある。
  アメリカ巡洋艦を、日本の領海内に侵入させ、、日本
 の軍艦と衝突させようとした。
  一触即発の国どおし、こんな時に、こんな事が起きれ
 ば、戦争に至ることは必定(ひつじょう、そうなると決
 まっていること)だった。
  ルーズベルトという人間は、この様な事をしようとす
 る人間だった。
  そして、インドのパール判事が弁論したが・・、
  「こんな最後通牒の様な文書を出されたら、モナコで
 さえ武器を持って立つ」・・と・・、
  「日本政府が戦争したのは当然だ」と言った。
  それほど、アメリカは、強圧的な、上からの態度の内
 容の「ハル・ノート」だった。
  ことは、ルーズベルトの思惑通りに運ばされた。
  交通事故ではないが、一方が、完全に100パーセント悪
 いという事はない。
  しかし、アメリカは、うまく立ち回り、アメリカの責
 任、自分の責任はとろうとしない。
  アン・フェアなアメリカとなっている。
  日本は、種々、いじめられ、痛めつけられ耐えたが、
  その中でも・・大きく痛かった事項は、「日本からア
 メリカへの輸出を、すべて止められた」ことだった。
  日本からの輸出は、「全面的に排除」された。
  日本経済は、どん底となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年2月25日土曜日

(増補版)500E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表

題:(増補版)500E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ・・国益・・覇権・・金・・欲得(よくとく、貪欲と利得。ほしがって手に入れようとすること)に溺れる国・・
.
紀元前1000年、人類が、貨幣、帝国、普遍的宗教という
 想像上のものを皆が共有できるようになった。
.
.
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終わる。
  この年の頃から、第一次世界大戦が終わった後のこと・・、
  ・・イギリスは疲れ切った・・、
  ・・イギリスは、「疲れ切った覇権国」となってしま
 った。
  世界大戦で・・巨額の借金を抱えた。
  イギリス財政は、恒常的な危機状態になった。
  また、イギリスは、多数の優秀な若者も失っていた。
.
  経済面でも、そして、人材面でも、イギリスは・・、
 『終わってしまった帝国』となった。
.
  そして、今・現在、21世紀・・、
  アメリカも、21世紀のアメリカも・・、『疲れ切った
 覇権国』となって来ている。
  過去の戦乱の「陰の中にあるアメリカ」となっている。
  アメリカは、1980年代後半に、世界一の債権国となっ
 た。
  しかし・・1990年代のクリントン政権末期には、国民
 の平均貯蓄率が0%となり、
  最近の十数年のアメリカは、毎年、世界経済の純貯蓄
 額の8割を借りるという、驚くべき金を借りる国になって
 いる・・借りねばならないという国に落ちぶれている。
  自国の財政赤字・経常赤字を・・借金で・・金を借り
 るということで・・補てんしている。
  (その金を貸しているのが日本・・この先、返してく
 れるかどうかわからない金を貸している)
  ブッシュ大統領(子供)の時の2007年~2008年に発覚
 した・・アメリカの嘘(ペテン)・・アメリカの「不良
 金融資産の大量販売」は・・自国の過少貯蓄・過剰消費
 構造を、ごまかすための金融トリックだった。
  このキリスト教の強い信仰を持った大統領(ブッシュ・
 子)も、やはり、キリスト教の嘘つき体質に染まってい
 た・・また、何でも武力で事を収めるキリスト教体質を
 現わしていた(イラク戦争など)。
  この金融トリックで、大損した日本の会社、そして、
 個人も多く、そして、悲惨だった。
  (この大きな損は・・逆に、アメリカの利益となって、
 アメリカへ大金が流れ込んだ・・こんなことまでするア
 メリカだった)
  こんなことまでして、世界を誤魔化してまでして、ア
 メリカは金を集めた。
  現在のアメリカ経済の実質規模は、世界経済の2割を切
 るまで低落している・・下がっている。
  ところが、「世界一の借金しているにもかかわらず」
 アメリカは、自国の軍事的な覇権を維新するために、軍
 事予算だけは、世界全体の軍事支出の「5割~6割」も使
 っている。
  また、アメリカの中央銀行(連邦準備制度)は、実質
 的な資産の裏付けのないペーパー・マネー(米ドル札)
 を、異常な状態で・・何兆ドルも増刷し、国際通貨市場
 に流入させている。
  紙に刷って、世界に支払えば・・事が済むという立場
 にアメリカが居るから(世界の基軸通貨の発行国)・・
 その様な裏付けのない・無責任な紙幣印刷をしている。
  アメリカの無責任なマクロ経済政策となっている。
  いつまでも続くわけのない状況にある。
  つじつまが合わなくても、嘘で塗り固めてやって行く
 という、まったくキリスト教と同じやり方の、誠実さの
 ない、また誠意のないキリスト教国・アメリカである。
.
1989年、日米構造協議が始まった。
  そして、時を同じにするように、何故か?『日本のプ
 ラス成長』も止まった。
.
2007年9月10日、アメリカの金融トリック
  この日付で、某金融アナリストは下記の報告をする。
  『急変する世界経済』・・つい一ヶ月前まで、日本経
 済の先行きについては楽観論一色であった。
  多くのエコノミストは、2008年末まで現在の好況、と
 いっても実質で2%程度の成長だが、が続くと主張してい
 た。
  すでに、2002年2月から始まった今回の景気拡大は、昨
 年・2006年10月に57ヶ月と戦後最長の長さを更新してい
 たから、『超長期の景気拡大になるもの』と予想されて
 いた。
  国際機関も概ねそのような見通しを発表していた。
  たとえば、2007年7月25日に発表されたIMFの最新予
 測では、日本の2007年、2008年の成長率は2.6%、2.0%と、
 4月の見通しを上方修正したほどである。
  その中で、筆者のみは、2007年には、景気循環は下降
 局面に入ると見ていたが、かかる主張は少数説であった。
   状況、2007年は、8月に入って急速に変わった。
  米国のサブプライムローン(低所得者向け住宅ローン)
 問題が予想外にも世界的な広がりを持つものであること
 が次第にはっきりしてきたからである。
  ・・と・・(以下略)・・
  アメリカのブッシュ大統領(子供)は、低所得者にも
 住宅が持てるようにすると・・表面的には美しい事を言
 った。
  しかし、このキリスト教を強く信仰しているこの大統
 領は、他の大統領が出来なかったことをするには、やは
 り、そこに「トリック・嘘」のような事が必要だった。
  結果的に、世界中が、非常に大きな迷惑をこうむった。
  キリスト教がやっているいる事と同じだった。
  アメリカの「不良金融資産の大量販売」という状態で
 発覚した。
  アメリカを震源地にした全世界的規模の金融恐慌が深
 まりを見せている・・と、長周新聞が伝えた。
  日本の必死の状況について主に伝えている・・
  大騒ぎの日本、そして、同じ様な世界、その逆に・・
 大儲けしているアメリカ・・その新聞を参考にして・・、
 以下にその状況を記述する・・と)
  実体経済や、各国の人々の生活に深刻な影響を与え、
 ツケをみな転嫁して延命をはかっている。
  小泉首相・竹中蔵相路線で「金融立国」を志向してき
 た日本国内でも、金融崩壊はあらわとなっており、銀行
 の貸し渋りで中小企業は相次ぐ黒字倒産、
  輸出に依存してきた製造業は、大量首切りを強行する
 など、かつてない状況があらわれている。
  『銀行は焦げ付きを次々と発表』
  近年、「市場最高益」をあげてきた大銀行は、焦げ付
 きを次々と発表した。
  株安の進行によってみずほフィナンシャルグループ、
 三井住友フィナンシャルグループ、三菱東京UFJなど
 三大銀行の時価総額の合計は9兆6900億円と5年ぶりに10
 兆円を割った。
  ピーク時の2006年4月には、その4倍あったのから見る
 と、『短期日に巨額の資産が吹き飛んだ』ことがわかる。
  メガバンクの9月中間決算は軒並み減益で、資本増強の
 動きに出ている。
  不良債権の処理費が、前期の3倍に跳ね上がり、純利益
 は前年比で58%も減少した。
  モルガン・スタンレーに90億ドルの資本支援を迫られ
 るなど、たかられた三菱UFJフィナンシャル・グルー
 プは1兆円の資本増強。
  3大銀行の調達額の合計は約1兆7000億円にのぼる。
  サブプライム債券を、約5兆5000億円つかまされた農林
 中央金庫も1兆円規模の増資を打ち出した。
  1兆円を超える資本は傘下の信連や農協から調達すると
 いっている。
  9月中間期の純利益は、前年同期比で92%減の104億円。
  有価証券の価格下落で1120億円の損失処理を実施した
 ことが要因となった。
  9月末の有価証券の含み損は、国内金融機関のなかでは
 最大の約1兆5000億円にも膨らんでいる。
  資産の多くを有価証券などで運用しており、約58兆円
 もの資産のうち市場運用資産が7割弱を占めている。
  9月末時点で、証券化商品を6兆8000億円も保有してい
 る。
  「日本を代表する機関投資家」と豪語してきたが、要
 するに、農民漁民のカネを原資にして金融市場の『カモ』
 になっている。
  11月26日に出そろった地方銀行・第2地方銀行の103行
 の9月中間決算では、3分の1にあたる33行が赤字に陥った。
  地域経済が疲弊して、貸し出しが伸び悩む一方で、近
 年は、投資信託販売などにシフトし、海外投資などで利
 益を追求してきたのが特徴で、リーマン・ブラザーズ社
 債の関連損失などを計上した銀行も少なくない。
  損害保険大手6社の9月中間決算では、有価証券評価損
 などの関連損失の合計は約1900億円にものぼった。
  東京海上ホールディングス、三井住友海上、損保ジャ
 パン、あいおい損保、ニッセイ同和の五社が、当期最終
 利益で大幅減益の見通しになっている。
  損保ジャパンは、520億円の最終赤字に陥る見通し。
  新車販売が冷え込んだ影響で、自動車保険が不振とな
 り、住宅バブルがはじけて火災保険も不振。
  本業が振るわない一方で、リーマン・ブラザーズの社
 債や海外への株式投資、証券化商品の焦げ付きが最大要
 因となった。
  三井住友海上は、900億円もの損失を計上し、東京海上
 が724億円にのぼった。
  リーマン関連など完全にデフォルトしたものを損失計
 上として数字に乗せているほか、株式の評価損などが含
 まれているが、AIG、サブプライム2社、つぶれかかっ
 ているシティ(バンク)など、破綻が確定していけばさ
 らに深刻な損失が表面化することになる。
  9月初旬には、「邦銀が存在感を示すビッグチャンス」
 「世界最強」などと言っていたが、一転してピンチに陥
 っている。
  金融庁が、11月28日に発表した2008年9月末の国内金融
 機関の証券化商品の損失は、3兆2730億円にもなった。
  6月末から27%増加している。
  農林中金など大手銀行の損失額は2兆7760億円となった。
  サブプライム関連は、そのうち9500億円で、あとは、
 その他の証券化商品による損失である。
  国内金融機関が保有している証券化商品の総額は22兆
 2710億円(9月末時点)とされ、わずか3カ月で1割強が水
 の泡となった。
  10月以後、膨らみ続けている損失はさらにひどいと見
 られている。
  また、投資信託協会は、11月14日、国内の投信の純資
 産総額が10月だけで11兆円減少したと発表した。
  9月も合わせると18兆円にもなる。
  個人から投資信託会社が資金を調達して、国内外の株
 や債券に投資して運用するもので、
  ここ数年は、「貯蓄から投資へ」とキャンペーンが張
 られ、銀行や証券会社、郵便局までがさまざまな商品を
 組み合わせて窓口販売、訪問販売に熱を上げてきた。
  その結果、『巨額の個人資産が吹き飛んだ』ことを意
 味している。
  知識のない素人、高齢者や退職者を『カモ』にして、
 リスクを負わせるハメとなった。
  個人の損失は、「自己責任」で、大手金融機関の損失
 は『公的資金をぶち込んで救済』するシカケになってい
 る。
  『年金資金で株式買上げ 市場運用分約93兆円』
  NYダウも、日経平均も、各国金融市場も暴落したり、
 若干持ち直したりしながら、しかし、基本的にはジリ貧
 で下落し続けている。
  この過程で、不可解な買い上げがやられている。
  ドブに捨てるように、公的年金資金がぶち込まれて、
 怒濤の株式買い上げをやっている。
  日経平均株価は、放って置いたら暴落が避けられない
 のが実情だ。
  年金資金の市場運用分は、92兆9273億円にものぼり、
 財投債分の26兆9894億円をはるかに上回っている。
  四半期別に見てみると、この市場に投げ込んでいる92
 兆円で、7月から9月末までだけで、4兆2383億円の損失を
 出していることも明らかになっている。
  10月、11月、12月は、前期以上に「買い上げ」をやっ
 ているので、損失は10兆円ほどに膨れあがってもおかし
 くないという指摘もある。
  株式運用だけでなく、企業社債(資金調達)などにも
 突っ込んでいるが、運用の詳細については明らかではな
 い。
  株式市場において、外資投機集団が売り逃げしていく
 のを補う形で、日本の年金資金が買い支えする構図。
  みなが知らぬ間に、老後資金が、企業資金の穴埋めに
 張り替えられている。
  今後は、郵貯・簡保の株式運用も取り沙汰されており、
 『国民の金融資産も好き勝手に使われている』。
  『米国でも国が銀行救済 『日本に米国債買わせ』
  金融危機にさいして、世界の富をかき集めて『バブル
 を謳歌してきた米国』では、政府が連日のように金融機
 関の「救済策」を打ち出している。
  『赤字財政でカネはない』のに、金儲けした連中の尻
 拭いのために、ドルと米国債を『大量に刷り散らかして』
 国が救済している。
  米政府と米連邦準備制度理事会(FRB)が、投融資
 や保証を通じて抱えているリスクは最大で8兆ドル(約
 760兆円)にのぼる見通しになっている。
  対応如何で『焦げ付く可能性』が十分あるものだ。
  米連邦預金保険公社(FDIC)を通じて、銀行債務
 と決済性預金を保証させるために、1兆9000億ドル。
  FRBは、企業が資金調達のために発行するコマーシ
 ャルペーパー(CP)の買い入れに1兆8000億ドルを拠出
 して、『資金繰り支援』。
  住宅ローンや消費者ローン対策に8000億ドル。
  金融機関への資本注入や、不良資産救済に総額で7000
 億ドル。
  MMF(マネー・マネジメント・ファンド、公社債や
 短期金融資産で運用される投資信託で「極めて安全性が
 高く元本割れしない」といわれていた)向けの資金提供
 に6000億ドル。
  その元本保証に500億ドル。
  住宅ローンの借り換え支援促進策に3000億ドルなど、
 『すさまじい額』である。
  その他、破綻寸前の各社を『政府が抱え込んだ』こと
 によって、シティグループの不良資産に政府保証として
 2500億ドル。
  550兆円ものサブプライム債券をばらまいた、ファニー
 メイ、フレディマックの住宅公社の尻拭いに2000億ドル。
  保険最大手だったAIGには1500億ドル。
  ベアー・スターンズの救済に290億ドル(約2兆8000億
 円)。
  FRBが公定歩合をいじって、金融機関の資金繰りを
 助け、直接貸し出す制度は『無制限に運用』されている。
  また、各国の中央銀行とドル資金を融通する金額も無
 制限で、滞在リスクは上乗せされるすう勢。
  EUも、景気対策として25兆円規模の経済対策を加盟
 国に提案。
  企業支援や税制優遇などを実施するとしている。
  信用収縮が起きる過程で「最後の貸し手としての機能
 を果たす」といって中央銀行が登場し、量的緩和とか利
 下げなどを打ち出して資金を拠出している。
  政府が救済といっても資金はなく、『膨大な国債を発
 行』したり、博打のツケは『国家国民に転嫁』しつつ延
 命をはかっているわけだ。
  しかし、アメリカ政府の『大盤振る舞い』にせよ、こ
 れは、目先をしのいだ結果、ドルが『大量に溢れかえっ
 て』大暴落することになるほかない。
  そして、減価した分、日本など、『米国債を買わされ
 てきた国々は泣く目』にあう。
  日本は、9月時点で約100兆円もの外貨準備を保有し、
 ほとんどが『ドル建て』である。
  日本政府が日銀から100兆円を借りて、『米国債100兆
 円買い込んで』いる格好。
  しかし、ドルの日本円に対する価値は、日を追う事に
 『下落』しており、外貨準備の『評価損』は20兆~25兆
 円に達しているとも見られている(日本の奉仕)。
  『輸出総額が大幅に減少 労働者の大量解雇も』
  金融だけにとどまらず、実体経済にも波及している。
  財務省が発表した10月の貿易統計速報では、アジア向
 けの輸出額が7年ぶりに前年割れとなるなど、総額で前年
 同月比7.7%の大幅減少となった。
  米国向け輸出は、14カ月連続、欧州向けは3カ月連続
 で前年割れとなった。
  とりわけ自動車の落ち込みが最大要因になっている。
  国内でも消費は落ち込み、11月の国内新車販売台数は
 前年比33%減となった。
  トヨタは、トヨタ九州の生産計画を、来年1~3月期は、
 前年比で『60%減』の方針を出し、『ライン停止』も発
 表した。
  派遣・期間工などの非正規雇用を次々と『切り捨て』
 ているのは自動車産業だけでなく、他の製造業にも共通
 している。
  厚生労働省は、10月から3月の半年間に、非正規労働者
 が3万人が失職すると発表。
  すでに、解雇されたり、契約解除が確定している分だ
 けで3万人であり、新たに発生してくる解雇者などの数字
 は含まれていない。
  「定額給付金」をばらまいてどうにかなる事態ではな
 く、金融から実体経済にいたるまでの『破綻が進行』す
 るなかで、労働者が路頭に放り出されて食っていけず、
 現役世代が、これまでに経験したことのない社会状況が
 広がっている。
..
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2017年2月24日金曜日

(増補版)499E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)

題:(増補版)499E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月15日、内務省が、裸体美人画の発売頒布を禁止
 した。
  内務省告示第39号が出され、裸体画の発売を禁止とし
 た。
  この告示が発せられた背景に・・、
  この年・1889年1月の『国民之友』第37号に掲載された
 山田美妙の小説『胡蝶』の裸婦の挿絵で、裸体画論争が
 起こっていたことがあった。
  そして、人々の訪れる博覧会の性格から、裸体画論争
 も誘発されていた。
  日本では、この様な「裸体画論争」が度々起きていた。
  この内務省告示第39号は、裸体美人画類の出版物・印
 刷物が、風俗を壊乱するものとして、その発行を禁じた。
  (清水友美氏の論文を参考にした)
1889年11月15日、東京湾汽船(後の東海汽船)が設立され
 た。
  渋沢栄一の構想、指導のもとに、東京湾その他周辺の
 海運会社4社が合併して設立された・・と記されている
 が?・・別史料によると・・、
  フリー百科事典ウィキペディアにより、「平野富二」
 という人物が「東京湾内汽船」および「東京湾汽船」の
 設立に尽力した・・という記述があった・・、
  『平野富二伝』(古谷昌二/編著 朗文堂 2013 船
 橋市北図書館所蔵)によると、
  1881年6月、平野富二は、発起人6名の総代として東京
 湾内汽船安全会社の設立を申請し、
  1881年8月、許可を得た。
  1882年、発起人の1人稲木嘉助が死亡したため、上記
   東京湾内汽船安全会社は解散となり、
  1885年、平野は、新たに個人経営の平野汽船組を設立。
  1886年、株式組織の東京平野汽船組合が認可された。
  1889年、東京平野汽船組合を含めた東京湾内を運行す
   る汽船会社を統合して、有限責任東京湾汽船会社が
   設立された。
  1889年11月、このため東京平野汽船組合は、この時に、
   廃業届けを東京府に提出、
  1890年1月、解散した。
  有限責任東京湾汽船会社設立にあたり統合された汽船
 会社は情報源により若干異なるが、
  『郵便報知新聞』1889(明治22)年10月23日付記事、
  『東海汽船80年のあゆみ』、
  『にっぽん全国たのしい船旅 2014-2015』(イカロス
 出版 2014)などで確認できる。
  その後、有限責任東京湾汽船会社は・・、
  1890年4月、商法公布により社名を東京湾汽船株式会社
   に、
  1942年8月、東海汽船株式会社に社名を変更し、現在に
   続いている(レファレンス協同データベースを参考
 にした)
  渋沢栄一のみを書くデーターが氾濫していて、平野氏
 を書くデーターは少ない・・注意を要する。
1889年11月16日、内閣記録局篇「法規分類大全」が刊行さ
 れた(12月か?)
  慶応3年10月から明治23年12月に至る法令等を部門別に
 編集した法令集(国立公文書館ホームページより)
  「賞恤門 ; 文書門、内閣記録局編輯」「刑法門」「外
 交門」「兵制門」「財政門」「租税門」「政體門」「警
 察門」「官職門」「治罪門」「衛生門」「各廰會計」「
 外交門」「刑法門」「陸軍海軍二省 ; 官制収兵制門」
 「司法省 ; 文部省 ; 農商務省 ; 逓信省」「官職門」
 「郵便條例 ; 郵便税 ; 郵便物 ; 郵便集配 ; 郵便遞送」
 「治罪門 ; 警察門」「租税門」などがある。
1889年11月18日、北海道炭鉱鉄道会社が設立された。
  北海道炭礦汽船株式会社(ほっかいどうたんこうきせ
 ん)は、石炭の輸入販売やガラス製品の加工販売を行う
 日本の株式会社で、通称は北炭(ほくたん)・・と説明
 があるが・・、
  かつては、北海道で多くの炭鉱を経営し、財閥解体ま
 では三井財閥に属し・・、
  現在は、ロシアからの石炭輸入を中心とする専門商社
 で非上場(かつては上場企業)。
  従業員数:22人(2016年3月末現在)
  この日本に貢献した会社の・・現在に至る道程は・・
  1890年(明治23年)現在の夕張市に夕張炭鉱を、現在
   の歌志内市に空知炭鉱を開設。
    炭鉱の開発と並行して炭鉱から港までの鉄道を建
   設し、小樽港(小樽市)、室蘭港(室蘭市)を石炭
   の積み出し港として整備した。
    石炭を輸送する船を所有し、海運業も営んだ。
  1906年(明治39年)10月1日、鉄道国有法に伴い、北海
   道の幹線鉄道約200キロメートルを国に売却し、
    北海道炭礦汽船株式会社に社名変更。
  1907年(明治40年)11月1日、イギリスビッカース・ア
   ームストロング社と共同して株式会社日本製鋼所を
   設立。
  1909年(明治42年)7月23日、輪西製鐵場(現在の新日
   鐵住金室蘭製鐵所)が操業開始。
  1982年(昭和57年)10月9日、夕張新炭鉱閉山。
  1995年(平成7年)6月23日、会社更生手続き開始の決
   定を受ける。
  2005年(平成17年)1月31日、会社更生手続完了。
  今、従業員数は22名であるが・・、
  かつては、日本を支えてくれた偉大な会社だった・・
  ありがとうございます。
1889年11月20日、両毛鉄道の小山駅~前橋駅間が開通し、
 日本鉄道と接続した。
  日本鉄道の小山駅から延伸された両毛鉄道は、この時
 に、利根川東岸の現・前橋駅まで開業した・・そして・・
  1889年12月、利根川に橋梁が開通し、
   日本鉄道も、両毛鉄道前橋駅まで乗り入れた。
   東京方面からの直通列車も運転され、県都である前
   橋市の玄関口としての役割を果たしてきた。
1889年11月21日、歌舞伎座が開場した(11月10日説あり)
  歌舞伎の専用劇場で、福地源一郎(桜痴)が、東京市
 京橋区木挽町(現:東京都中央区銀座)に建設した。
  外観は洋風で、内部はすべて日本風の、3階建て檜造り、
 客席定員1824人、
  舞台間口 13間(約23.63m)、奥行 16間(約 28.96m)、
 回り舞台直径 9間(約 16.29m)と 7間(約 12.67m)の
 蛇の目回し、本花道 5尺(約 1.52m)の機構であった。
  演劇改良運動の熱心な唱導者福地源一郎が、自分たち
 の理想を実現すべく日本一の大劇場を目指して作った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本よ! 自分の足でしっかり立て・・
.
紀元前7万年前、人間の認知能力が、この頃、より向上した。
  (参考)認知:にんち、ある事柄をはっきり認める事。
  (参考)認知考古学:にんちこうこがく・・
     心の進化を研究する進化心理学を取り入れ、遺
     物・遺跡の分析から
      古代人の精神状態を解明しようとする、新し
     い研究分野。
.
1830年、インディアン強制移住法
  アメリカ第37代大統領アンドリュー・ジャクソンが、
 インディアン強制移住法によって、約10万人のインディ
 アンの方々を強制的に移住させた。
  先住の民・アメリカ・インディアンの方々が、先祖代々
 の地を、アメリカ白人たちに追われた・・、
  ミシシッピ川の西のオクラホマや、アリゾナなどへ
 強制的に移住させられた。
  白人アメリカ人、キリスト教プロテスタントに、『何
 の正義があるというのだ』・・追い出す権利があるとい
 うのだ・・
.
1863年、南北戦争のチャンセラーズヴィルの戦いで、北軍
 のフッカー将軍が、南軍のロバート・E・リー将軍に対し
 て惨めな敗北を喫した。
  このことは、アメリカで、一番知られていることであ
 る・・が・・、
  このフッカー将軍・・南北戦争に売春婦を連れて行っ
 たことでも有名(従軍慰安婦である)
  (参考)ジョセフ・フッカー(1814年11月13日~1879
     年10月31日)は、アメリカ合衆国の職業軍人で
     あり、南北戦争のときは北軍の少将を務めた。
      フッカーは、南北戦争の全体で従軍し多くの
     実績を挙げたが、1863年のチャンセラーズヴィ
     ルの戦いで大敗北を喫す。
.
1911年12月16日、トーマス・ブレーク・グラバーが死んだ。
  武器商人として幕末の日本で活躍し、暗躍した。
  イギリス人(スコットランド出身)の商人。
  その長崎のグラバーさんが、『牛が食べたい』と言え
 ば、幕府は、牛屠場を、その最適地を探して作って上げ、
 その要望に寄り添ってあげた。
  それに対しオーストラリアは、その反対だった。
  オーストラリアの国が出来る前から・・日本はクジラ
 獲りをしてきた。
  そのオーストラリアの国の歴史より古い日本のクジラ
 獲りを『止めろ』と言った。
  その理由が・・勝手な理由で・・キリスト教では、ク
 ジラは知恵があって、高い地位にいる動物だからだと言
 う。
  カンガルーを殴り殺しているオーストラリア。
  自分のやっている事は、何ら気付かず、正しいという。
  キリスト教は、祭りだと言っては七面鳥を食うが、そ
 れは問題外なのか?
  ケルト人は殺すし・・、ヨーロッパ大陸から居なくな
 ってしまったではないか・・
  自分たちがやっていることは良いのだと来る。
  自分たちがやってないのは違和感がある、『だから・・
 やめろ』・・と言う。
  こんな論理を正しいとしている方が「野蛮ではないの
 か?」。
  その「各々には、文化があり尊重しなければならない」。
  クジラを食べるのも食の文化。
  牛を食べる文化と同じなのです。
  散々、クジラの油が欲しいと、クジラを殺して来たの
 に、急に、手のひらを返したように日本を悪者にする。
  本音は、牛肉を買ってくれ・・なのだろー・・、
  もっと、正直に、まともに言って下さい・・キリスト
 教の性悪説のごとき『曲がった言い方』は止めて下さい。
.
1945年8月8日、深夜、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に
 宣戦布告した。
  ソ連、対日宣戦布告し・・、70個師団(約70万人)も
 のソ連赤軍が、怒涛の如く満州など各地へと進撃して来
 た。
  満州の日本人などの殺戮の限りを尽くした。
  戦車で踏みにじられた・・機関銃の乱射で殺戮された・・
  アメリカのルーズベルトは、秘密裏に、ソ連へ武器を
 渡していた。
  ソ連軍は、この満州の他、朝鮮・咸鏡北道などへも侵
 攻を開始した。
  ルーズベルトは、強烈なキリスト教信徒で、強い者の
 支配が正しいというキリスト教的考え方にあった。
  やはり、強いキリスト教信徒だった進化論のダーウィ
 ンも『強者の適者生存』の論理を展開した。
  因みに、ダーウィンは、後半生は、キリスト教から離
 れている。
  これは、逆に言えば、弱者の生存に配慮しない考え方
 であり、その様な考え方の宗教であった。
  (強者は生き残る権利がある・・だから弱者のものを
 奪うのは正当なのだ・・の考え方・・聖書に書いてある・・
 が、しかし、こんなことは隠している・・)
  キリスト教聖職者の父に育てられたダーウィンも「強
 い者の適者生存の進化論を唱えた」。
  しかし、研究の進んだ今・現代、そのダーウィンの進
 化論は、多くの点で間違っていると指摘されている。
  ルーズベルトの思考も、強者の生存論であった・・
  「異教徒で・・有色人種で・・しかも、敗者・日本に
 何ら配慮はなされなかった」
  (無条件降伏と原爆による完全破壊・・そこからしか
 平和は生まれないに洗脳されていた・・)
  「力ある戦勝国だけの考え方から、新しい秩序が生ま
 れる」とした。
  ルーズベルトは、キリスト教の「シャローム」の教義・
 考え方にマインド・コントロールされていた。
  「平和は、『すべてが破壊された中』から生まれるの
 考え方」から行為を進めて行った・・、
  「今、この時点で、アメリカなどの占領軍は、その占
 領地において、すべてを所有している」とルーズベルト
 は言った。
  他の国・他の民族の生命・財産まで手玉に取って、自
 由できるとした。
  イギリス外相のイーデンは、ヤルタにおける会談の中
 で・・ルーズベルトについて言った・・、
  「ルーズベルトは、老練に、確実に、手に入れ、
  その能力を見せたが・・、
  しかし、残念ながら、この才能ゆえにか、長期ビジョ
 ンがない」・・、
  ルーズベルトは、ペテン的な「エサで吊る話」で会談
 を進め・・、
  日本の正当な権利・領土まで、ソ連への手土産にして
 しまった。
  (アメリカの損は、まったくない状態の中で仕組んだ)
  引っ掛け交渉をして、成果があったと考えるのは間違
 い、次世代へ、禍根を残すやり方だった。
  逆に、『大きな・新たが問題』を作ったルーズベルト
 だった。
  成果など、まったくなかった。
  東欧も、すべてが共産化した。
  東欧での、ソ連の進出について、ルーズベルトは、完
 全にソ連の進出を認めてしまった・・
  ルーズベルトのアメリカは、東欧の共産化を認めた・・
 そして、何ら手を打たなかった・・
  ポーランドへも・・ソ連の進出を受け入れたルーズベ
 ルトだった。
  この様に・・広汎な地域を売り渡した。
  そして、たっぷりとお土産を貰ったソ連・スターリン
 は、日本とソ連の中立条約が、現存しているにもかかわ
 らず、臆面もなく、その条約を勝手に破棄し、
  1945年8月8日、70個師団ものソ連赤軍を怒涛の如く満
 州などへ進撃させ、
  満州の日本人を殺戮の限りを尽くした。
  ルーズベルトは、この様なソ連による日本人への殺戮
 行為の御膳立てをした。
  もともと・・アメリカは・・ルーズベルトは、ただ、
 中国の利権を手に入れたいだけだった。
  日本の主権のある地・千島列島・北方四島などまでも
 売り渡し、
  終戦となっても、戦後になっても、このソ連は、戦争
 を止めず・・、
  日本軍は、敗戦になって撤退し、居ない地・北方領土
 などへも侵攻して奪い取った。
  降伏を宣言していて戦争も何もない時に、その様な地
 へ、軍隊を上陸させて、「占領した」と宣言したって、
 そんな宣言が成立するわけはない。
  ソ連は、日本が降伏宣言する事を焦っていた。
  日本が、降伏の宣言をすると日本の領土が取れなくな
 るからだった。
  しかし、そのソ連の参戦は、「滑り込みアウトだった」。
  しかし、ソ連は、卑劣にも戦争が終わったにもかかわ
 らず、奪い続け・・奪ったことにした。
  千島列島の国守島の戦いは、日本の軍が優秀で強く、
 日本勝利で終戦を迎えた。
  しかし、終戦を向かえたので、敗戦しているソ連に対
 し、日本は武装解除して、武器を置いた。
  終戦状態にした。
  ソ連も、その終戦を受け入れた。
  そして、日本の武装解除を行なった。
  日本が終戦状態であるという日ソの合意がこの行動を
 起こさせた。
  ソ連の正規の軍がである・・その行為をした・・
  しかし、にもかかわらず・・ソ連は、この同じ千島列
 島の南の日本の領土の北方領土で、
  戦争は終わっていないと偽りを言って・・嘘を言って
 ・・ソ連の奪い取り行為を続けた。
  このソ連の屁理屈の「戦争は終わってない」は成立す
 る訳がない。
  日本の領土・千島・北方四島の「無法占拠」が続いて
 いる。
  無法矛盾の理屈を振り回し、自分に都合の良い行動を
 している。
  筋が通る正論であるわけはない。
  この様な、ソ連の卑劣な行為は、ヨーロッパでも行な
 われていた。
  アメリカのルーズベルトの、禍根を残すソ連へのそそ
 のかしは、この様な現実を引き起こしていた。
  こんな卑劣な現実を引き起こしていた。
  朝鮮半島では・・
  ソ連は、朝鮮半島の半分を奪い、何のいわれのない、
 何ら筋の通らない「金日成という男」を送り込んだ。
  自分の近くに居た・・というだけの理由で・・
  『ルーズベルトの仕掛け』・・これで、一番広大な地
 を拡げて得る事が出来たのは・・ソ連だった。
  中国の利権が欲しかったアメリカは、ルーズベルトの
 策に溺れた形で終わった。
  その目的の中国は・・結果的に、中国もまた、共産圏
 政権となった。
  そして、朝鮮では、また、夥(おびただ)しい血が流
 される事になる(数年後に朝鮮戦争が起きる、その金日
 成が引き起こす)。
  本当に、愚かなルーズベルトは、後々まで禍根を残し
 たアメリカ大統領となった。
  そして、その中国・共産圏政権は、今・現在、アメリ
 カの脅威となった。
  また、日本の脅威となった。
  また、アジアの、オーストラリアの、インドの、など
 々々の脅威となった。
.
1946年6月1日、日本人将兵によってベトミン軍のクァンガ
 イ士官学校が設立された。
.
1946年12月7日、シベリア引揚第1船が舞鶴に入港した。
.
21世紀、この21世紀は、多極化の時代を向かえると、中西
 輝政教授(京都大)は言われる。
  「アメリカ一極」の時代は去ると・・。
  教授は、2010年代は、その流れが顕著になると言われ
 る。
  今・2016年、アメリカは、トランプ氏が、次期大統領
 に決まり、氏は「強いアメリカにする」と盛んに演説を
 している。
  そして、次期国防長官の候補者の名を公表した。
  イラクで、盛んにイラクの方々を殺し、アフガニスタ
 ンでも、「悪者は殺すんだ」と、盛んに「自分の考えで
 判断し、人々を殺戮した」というその様な人を指名した
  (このイラクの時も、キリスト教に強く洗脳されたブ
 ッシュ大統領が悪かった・・『現代の十字軍になる』と
 宣言した大統領の蛮行だった)。
  人々を殺すことが・・「強いと言えるのか?」、
  その様な「選択センス」で人選したのか?
  強いアメリカになるというのは、その様に「暴力的に
 強くなる」という意味か?
  そうであるなら、強くなるという意味を「はき違えて」
 いる。
  「アメリカ一極」が終焉したという、次の幕が開(あ)
 く、今・現在、空(むな)しいのあくにならないように・・
  アメリカは「アメリカ一極」が崩れ、焦(あせ)って
 いるのだろうか・・
  日本も、この多極化の時代、その一極として自分の足
 でしっかり立て・・その様な時代になっている。
.
21世紀、この21世紀という世紀は・・、「米」「中」「ロ」
 「印」「欧」の五局の国際政治の構造となり、日本は、
 中国に呑み込まれてしまう可能性が高いという。
  国を疎(おろそ)かにしている今、その到来を速めて
 いる。
  「アメリカは、いずれ東アジアから撤退していく」と、
 ハンティントンは明言している。
  関連する・・バンドワゴンの話・・、
  『バンドワゴンする国』は・・、
  『外交や国防で致命的な失敗をする確率が高い』と・・
 これを指摘する学者は多い。
  キッシンジャー、ミアシャイマー、モーゲンソー、ケ
 ネス、ウォルツ(カリフォルニア大学とコロンビア大学)、
 ポーゼン(MIT)などが明言している。
  過去、1700年以降の300年間のアメリカ、イギリス、ロ
 シア、フランスなどの歴史を見ても明らかだと・・、
  これらの覇権主義国は、同盟国を何度もだましたり、
 裏切ったりして来ている・・と・・
  バンドワゴンする国は・・、
  自主防衛せず、他の強国に依存(もしくは追従)して
 生きていこうとする外交の国・・、
  一般的に・・「時流に乗る」「多勢に与する」「勝ち
 馬に乗る」などと説明されている・・が・・、
.
2020年、中国が・・アメリカを越える。
  中国は、過去20年間、毎年、二ケタの伸び率で軍拡を
 続けてきた。
  そして、アメリカの国防予算は、今後6年間は停滞する
 と予測されている
  2010年の予測で、2020年ごろには、中国の軍事予算は、
 アメリカを抜いて世界一になるだろうと予測されている。
  また、北朝鮮は、日本を直撃できる弾道ミサイルを300
 基を保有している。
..
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2017年2月22日水曜日

(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)

題:(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月3日、嘉仁親王、立太子式典が挙行された。
  嘉仁親王(よしひとしんのう、大正天皇陛下)が、立
 太子礼を行われた。
  東宮立太子(氷川清話)
  因みに、即位礼は、1915年(大正4年)11月10日、於:
 京都御所だった。
1889年11月4日、横浜共同電灯会社が設立された(7月説あ
 り)
  1889年7月に、横浜共同電灯会社(後に横浜電気と改称)
 が県の許可を得て設立され、初代社長に高島嘉右衛門が
 就任した。
  「関内及び外国人居留地」を営業区域として許可を得
 たが、英国人商会の競合があり居留地の売電が進まず、
 関外の営業権を持つ会社も吸収合併するが、苦戦が続く。
  1890年、横浜共同電灯会社が、発電所の建設や電線の
 架設など開業の準備を整え、
  1890年9月に、試験送電を始めた。
   試験送電は、事務所内の電灯を点灯してのデモンス
   トレーションが行われた。
   当初の出力は100キロワットの直流式、灯数は700灯
   ほどであり需要は少なかった。
  1890年10月から営業を開始した。
   初めて電灯を点火した。
  1896年に、居留地内の英国人経営の電灯会社経営権を
 買収した。
  競合が解消し、収益性が確保できるようになった。
  この時、英国人商社の電灯線は、地中埋設線による電
 力提供を行っていた(電柱の無い方式)。
  1903年12月30日、横浜共同電灯会社が、高島町に発電
 所を竣工させた。
  発電所は、エジソン直流三線式発電方式を採用した石
 炭火力発電所。
  1921年に、東京電力の前身である東京電灯と合併した。
  因みに、当初、競合する電気事業出願者があったが、
 再三に渡る官庁に対しての許可の督促や競合者との折衝
 を経て営業許可を受けるに至っていた。
1889年11月7日、代理公使・近藤直鋤が、朝鮮政府に対して
 咸鏡道防穀令施行は、通商章程違反と抗議し、損害賠償
 を請求した(1891年12月説あり)
1889年11月15日、門司、四日市の両港が開港した。
  北九州の工業力と結びついて、大陸貿易の基地となり、
 最盛期には、1ヶ月に200隻近い外航客船が入港した。
  国内航路を含めて年間600万人近い乗降客となった。
  明治の初期、外国貿易は、開港と朝鮮貿易のための特別
 貿易港に限られていた。
  石炭などの特定の産品を輸出するためには「特別輸出
 港」という制度が導入され、
  北九州の筑豊は石炭の主産地であり、取れた石炭は「
 川ひらた」「五平太」などと呼ばれる川舟を使用して、
 遠賀川及びその支流を利用して水運輸送され、若松港か
 ら積み出されていた。
  しかし、若松港は水深が浅く、大型船の入港には不向
 きであった。
  北部九州の港が、特別輸出校に指定されれば、石炭輸
 出が可能となり、地域経済の発展も期待できる。
  小倉港はじめとしたその他の北部九州の港も、外国貿
 易を行なうには問題があり、大型船が入港できる港湾の
 整備が求められていた。
  門司港は、水深が深くできた。
  また、本州と九州の結節点に位置し、石炭輸出だけで
 なく物流の面でも利便性が高かった。
  鉄道で、九州各地に輸送できるという地の利があった。
  四日市港は、今の四日市市中納屋(なかなや)町で回船
 問屋を営んでいた稲葉三右衛門 は、改修の必要性を感じ、
 三重県に働きかけましたがみとめられず、自分の財産を
 なげうって四日市港を改修する工事を始めた。
  この努力によって、1884年には、現在の四日市港の基
 礎ができていた。
  そして、この年に、外国貿易が出来る港としての開港
 場(かいこうじょう、特別輸出港)となった。
  そして、日本国籍の船舶として外国貿易が初めて行わ
 れた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実は・・帝国主義の国だった・・アメリカ・・
.
1890年代、バッファロー(アメリカ・バイソン)が、アメ
 リカの大地から姿を消す状態になった。
  絶滅寸前となった。
  千頭を割った(約750頭というデーターがある)。
  白人のキリスト教徒が現れる前のアメリカバイソンの
 生息数は、何と約6000万頭も居たという。
  99.9987パーセントのアメリカバイソンは、殺してしま
 ったというアメリカ人だった。
  0.0012パーセントしか生き残っていなかった。
  日本に鯨のことでとやかく言う資格はない。
  更にひどい事に、この様にした行為の原因は、このバ
 イソンは、アメリカインディアンの方々、この先住民の
 方々の大切な食料だった。
  アメリカインディアンの方々の絶滅作戦の一環でこの
 バイソンを射殺しまくったのだった。
  非人道的な極悪行為である。
  そして、そのバイソンを食べる訳でもなく、そのまま
 放置した、腐るがままにしたというから、動物愛護の話
 もあったものでもない。
  1870年代中期の写真というのがあるが、バイソンの頭
 骨を積み上げた山の写真がある。
  その山の頂上でアメリカ人が立っているが、この関係
 者が集めただけでもこのような山のようにバイソンが殺
 されたことを示している。
  20メートルの高さがあろうかという巨大なバイソンの
 頭蓋骨の山である。
  本当に可哀想という心が起きる写真である。
  今現在、そのアメリカ・インディアンの方々が絶滅に
 瀕(ひん)している。
  非人道的な話この上ない卑劣な話である。
  衣食住のすべてを、バイソンに支えられていたアメリ
 カインディアンの方々だった。
  長い長い歴史の中で、このように暮らしを育んで来た
 アメリカ・インディアンの方々のすべてを奪い取って、
 自分だけ良ければ良いというキリスト教の教えに洗脳さ
 れて、この様な最悪行為をしたのだった。
  アメリカ政府がその行為を率先して奨励してやったと
 いうのだから卑劣である。
  博愛のかけらもないキリスト教徒のアメリカ人の仕業
 (しわざ)だった。
.
1890年12月29日、ウーンデッド・ニーの虐殺、
  アメリカのサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミ
 ネコンジュー他のスー族インディアンの種族に対して、
 アメリカ軍の第7騎兵隊が行った民族殺戮、及び、民族
 虐殺。
  この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニーの戦い」と
 呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には名誉勲章まで授与さ
 れている。
  しかし、インディアン側では、これを「ビッグ・フッ
 ト一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争
 の象徴にもなっている。
  そして、日本では盛んに国づくりが行われている頃、
 アメリカでは卑劣なインディアンの方々に対する非人道
 的行為が、盛んに行なわれていた。
  アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々と、
 アメリカに新しくやって来た占領者のイギリスなどから
 の白人たちが、盛んに戦いそして虐殺行為が行われてい
 た。
  そして、この年に、忌わしい白人による大虐殺が、イ
 ンディアンの方々に対して行われた。
  そして、駆逐されたアメリカ・インディアンの方々は、
 可哀想に、この後、広大な領土を奪われて、狭い保留地
 に閉じ込められる。
  インディアンの方々が持っていた固有の文化もことご
 とく破壊された。
  アメリカのキリスト教の白人たちは、自分たちのもの
 が良いのだと、自分たちのものを押し付けた。
  この様な名分のもとに破壊を行なった。
  ことごとく理屈抜きの「キリスト教の神の義の下の行
 為で正しいのだ」とされた。
  卑劣な解釈においての卑劣な行為だった。
  尊い命をはじめ、すべてが、インディアンの方々は奪
 われた。
  アメリカ・インディアンの方々は、この強制に対して
 も戦った。
  自分たちの持つ文化を守る抵抗行動をして行った。
  基本的人権が奪うという遅れた行為の中にキリスト教
 に洗脳されたアメリカの白人たちは居た。
  『民族の自決権』なども完全に奪われた状態の中に置
 かれたアメリカ・インディアンの方々だった。
  アメリカはこの様な行為に対して謝罪していない。
  インディアンの方々が虐殺されて、南ダコタの雪の中
 に横たわっている記録写真がある。
  悲惨な事ではないか。
  子供たちも大勢(おおぜい)いる。
  100万人以上いたというアメリカ・インディアンの方々
 は、そのあらかたが殺されてしまった。
  4分の3の方々は確実に殺戮された状態だった。
  このウーンデッド・ニーの戦いの抵抗が最後の抵抗と
 なった。
  アメリカの最新兵器を持った軍団のやりたい放題の殺
 戮だった。
  名誉も何もない、卑劣な行為のみが残った。
  この後、白人たちが勝手に決めた居留地にインディア
 ンの方々は閉じ込められた。
  そして、更に卑劣な事は、この後、「ドーズ法」を作
 って、残り少なくなったインディアンの方々の土地をさ
 らに奪った。
  負の世界遺産として登録せよ!
  負の記念碑を建立せよ!
.
1942年9月、アメリカの航空母艦「ワスプ」が沈没した。
  「ワスプ」と言えばWASPである。
  これは、白人・アングロサクソン・プロテスタントで
 ある。
  アメリカは、自国を「民主主義の国だ」と自画自賛す
 る。
  そして、民主主義を根付かせると言って・・腕力で、
 戦争で・・「その言葉を掲げ」て、卑劣な事をする。
  どこが・・民主主義国だ・・と、糾弾したい。
  帝国主義国そのものではないか・・と、言いたい。
  アメリカの民主主義と言ったって、黒人の方々が入っ
 ていない民主主義・・、
  そんなアメリカなのだ・・、
  ズーット・・悪い事ばかりして来た・・国。
  良いことをした年代はあったのか・・?
  『すべての人間は平等に創られている』・・と、アメ
 リカの独立宣言書に書かれているが・・まったくの『嘘
 である』。
  アメリカは、ネイティブ・アメリカン(アメリカン・
 インディアン)の先住民の方々を殺しまくっているし・・、
  結局、WASPである。
  WASPの価値観で動いている国だ。
  かつての移民たちである。
  そのWASPが、今・現在、大多数の座から降りよう
 としている。
  これまで・・嫌というほど・・マイノリティの方々を
 虐(しいた)げて来たが・・自分たちがマイノリティへ
 の道を進んでいる。
  WASPたちは焦(あせ)っている。
  WASPは、「ホワイト・アングロサクソン・プロテ
 スタント」の英語( White Anglo-Saxon Protestant)の
 頭文字をとった略語。
  白人・アングロサクソン人種・キリスト教プロテスタ
 ントの宗教者たちである。
  殺戮と戦争の限りを尽くして、アメリカを奪った。
  マイノリティーの方々は殺されて、消えて行った。
  因みに、ワスプ(USS Wasp, CV-7) というアメリカ
 海軍の航空母艦は・・、
  航空母艦の名前にするぐらいのWASPなのだが・・、
  この名のアメリカ海軍におけるワスプの名を受け継い
 だ艦は8隻ある・・こんなに重きを置いている・・、
  この8隻目の艦は・・1942年9月、日本の潜水艦『伊-19』
 の魚雷攻撃を受け、大火災の後に沈没した。
.
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
  投下時間は午前8時15分だった。
  広島市の人口の35万人の半分近くの16万6000人の方々
 が亡くなった。
  避難所へたどり着いた方々も、また、担ぎ込まれた方々
 の70%~80%が亡くなった。
  被爆した方(小学生の女性、Kさん)は、その時の思
 い出を語る・・、
  櫛で、私の頭の毛を梳(と)いてくれたお姉さんたち
 の手、
  そのすべての方の手や唇はくっついていました。
  20歳代の女性の方たちでした。
  原爆が落ちなかったら、エノラ・ゲイが落とさなかっ
 たら・・、
  このお姉さんたちの敵(かたき)を取りたいと思いま
 した。
  その後に、そのエノラゲイの副操縦士に会う機会があ
 りました・・、
  アメリカのテレビ局で・・会った時は、「飛行機に乗
 ってた奴だ」・・と、思いました。
  私の父は、被爆したその様な女学生を見た時は、「あ
 ー、すまない」と思ったと・・言いました。
  父は・・キリスト教国・アメリカが落とした・・、
  アメリカは、謝らなければいけない・・と、父は言い
 ました。
  ニューヨークの病院が、無料でその女性の方たちを治
 療すると申し出ました。
  しかし、お姉さんたちは、軍用機に乗りたくないと思
 いました。
  アメリカのテレビに出る事になり、1956年5月11日、ア
 メリカのテレビ局のホールに入った。
  Kさんは、その時、5年生(11歳)だった。
  副操縦士のロバート・ルイスが居た。
  私は・・そのおじさんをにらんだ。
  午前2時45分:テニアン島を出発したと言った。
  広島・長崎・小倉が目標だったと言った。
  そして、投下後、確認のため、投下した広島を機上か
 ら見た・・その時・・、
  その時、「神様、私たちは何ていうことをしたんだ」
 と思いました・・と・・言った。
  広島は・・消え・・て・・い・・た・・、
  涙があふれた。
  それを見てショックを受けた・・副操縦士は言った・・
  その状況を語っていた「鬼だと見ていた副操縦士」か
 ら涙が出ました。
  私は正しい人と思っていた・・が、しかし・・心は変
 わった。
  少し経って・・旧ABCC(原爆傷害調査委員会)の
 『屈辱的な調査』を受けた。
  それは、原爆投下後の状況(原爆の効果)を調べたア
 メリカの研究所だった。
  多感の女の子を裸にしてまでして、色々、調べた研究
 所だった。
  屈辱を受けたその場に、研究所の場所に、当分、来れ
 ないという・・場所に・・なっていた。
  それほど・・Kさんの心を・・傷つけていた。
  忌まわしい場所(研究所の講堂)となっていた。
  アメリカの研究所は・・そこまでした。
  極悪行為の後の・・アメリカの指示した・・調査だっ
 た。
  その屈辱は、その後、忘れられない事となった。
  広島に住みたくないとまで思った。
  被爆の重荷を背負いたくなかった。
  しかし、被爆者と分かり、婚約が破棄となった。
  婚約者の・・婚約相手の叔父さんが医者で、その被爆
 の悪さを知っていて、婚約相手に伝えられた。
  原爆投下をした者・・テレビ局で会ったルイスに会い
 たかった。
  ルイスに会った時、ルイスは精神病院に入っていた。
  彼は、アメリカのテレビに出たのを、アメリカは、彼
 を非難した、彼は非難を受けた。
  Kさんは、日本に帰って、彼の死亡記事を見た。
  爆弾投下から、彼は心に重みとなって心を病んでいた。
  Kさんは、結婚した。
  虎の門病院で妊娠して居るのが分かり、「大丈夫です」
 と言われた。
  しかし、流産した。
  養子を引き取ることにした。
  今、2人の娘がいます。
.
2017年1月30日、この日の新聞広告に・・、
  (読売新聞、2017年1月30日)の広告に・・、マックス・
 フォン・シュラー氏という元アメリカ海兵他の兵士だっ
 た人が以下の事を言っている・・、
  ・マニラの戦いでは、10万人ものフィリピン人が死亡
   したが・・、
  アメリカ人は、強暴な日本兵がレイプや殺人を犯した
 からだと言います。
  実際はアメリカ軍の砲爆撃によるものでした。
  ・アメリカのフェミニストは、慰安婦は性奴隷と断面
 します。
  アメリカの歴史学者が、この考え方と違う事を書けば、
 職を失います。
  彼が止めるまで大学に圧力を掛けます。
  ・アメリカ人は、プロパガンダが巧みです。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)について「日本人は、
 腐敗した指導者たちに騙されていた」とアメリカ人は言
 います。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだ事実を絶対にア
 メリカ人は認めません。
  ・真実を語ることは、それは『ヘイトスピーチ』では
 ありません。
  本「アメリカが隠しておきたい日本の歴史」
  出版社:ハート出版
  広告コピー:海兵隊出身の著者が、アメリカの嘘を告
 発する。
.
2017年2月12日、中国を出ていく人たち
  この日の読売新聞を参考に記すと・・、
  トランプ米大統領の移民政策が、世界の衝撃となって
 いる様に、今、中国でも「中国を出ていく移民」が話題
 となっているという。
  身近な人が、いきなり海外に移住するという現象が中
 国の人々を騒がせているという。
  1例・・、最近、中産階級層の北京の中年男性へ、スマ
 ートフォンに友人からメッセージが届いたが・・、
  それを読んで仰天したという。
  「今、アメリカだ」と・・移民して行った・・と。
  やはり、昨年にも、突然、アメリカから連絡があって、
 幼稚園のPTA仲間だった。
  資金を作って、移民をする人が身の回りで起こってい
 るという。
  週刊誌の人気時事漫画も、移民熱を取り上げている。
  北京の著名な移民コンサルティング業者の総裁は・・、
  「確かに、移民はどんどん増えています」と笑顔で言
 う。
  大金持ちの投資移民が増えただけでなく、若者も海外
 へ出て行くという。
  近年、欧州諸国などで、中国人移民へのハードルをグ
 ンと下がり、家1軒を買うほどの元手で、永住権を手に
 出来る国が増えたことも・・急増の要因だという。
  北京や上海の不動産を売れば、問題なく手が届く。
  移民の主な動機は、子女の教育、大気汚染など劣悪な
 環境からの脱出、移民先の手厚い社会保障への期待など
 ・・。
  元々、中国は、華僑・華人を世界に出してきた国。
  中国経済が非常に良かった2012年でさえ、約14万人が、
 人気のアメリカ・カナダ・オーストラリアの永住権を取
 得したという。
  今、中国は、資産家層が増えて、経済減速が長引いて
 いる、そこで、移民をするという人が増えているという
 状況。
  中国が気がかりとしているのは、知識人の移民が増え
 ていること。
  その人たちは、中国の国家の理性や、寛容さが、喪失
 していくことの暗さに、行動の原因があると。
  自由、民主、人権などの「西側的な価値観」を壊す習
 近平政権の思想矯正運動がある。
  1月、毛沢東をインターネットで批判し、揶揄(やゆ)
 した大学教授が、地方幹部らの毛沢東支持者に攻撃され
 た末に、相次いで解任された。
  数知れない知識人が迫害された文化大革命(1969年~
 1976年)を連想させる事件が起きた。
  中国共産党の利益の前には、知識人などは簡単につぶ
 されるという国だった。
  ある知識人は、スマホに「あなたは来ないのか」とい
 う海外からのメッセージを見て、自分の資産額を考える
 という中国となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月21日火曜日

(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)

題:(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月30日、伊藤博文の免官が発令された。
  10月11日に、枢密院議長の伊藤博文が、大隈重信の条
 約改正案に反対して辞表を出した。
  そして、10月30日のこの日に、免官発令がなされた。
1889年10月、山形県鶴岡町で、困窮家庭の児童たちへ、給
 食が配られ始めた。
  和尚さんたちの慈しみの心から生まれた『日本初の給
 食』だった。
  明治22年のこの年、鶴岡市の家中新町の大督寺境内に
 ある私立忠愛小学校で、
  生活が苦しい家庭の子どもたちへ、昼食を与えたのが、
 日本の学校給食のはじまりとなった。
  小学校で、ある日から数日続けて数人分のお弁当が盗
 まれる事件が発生した。
  悲しいかな犯人は子どもだった。
  しかも、その子は、昼はおろか、朝晩もまともな食事
 をとることの出来ない家庭の、可哀想な子どもであるこ
 とがわかった。
  そのことを知って心を痛め、「なんとかしてあげたい」
 との思いで給食が始まった。
  和尚さんたちは、お経をとなえ、一軒一軒家を托鉢し
 てまわり、
  その時のお米や浄財を資金にして、お弁当を持って来
 ることの出きない子どもたちのために給食を作った。
  日本の学校給食の始まりは、この山形の私立忠愛小学
 校で、無料で食事を配ったのが始まりだった。
  初めは、おにぎりと漬物だけという簡素なものであっ
 た(これが、当時の日本では当たり前の昼食)。
  その後、各地で、一部の子供に対して、つまり欠食児
 童への、パンなどが、一部の学校で配られるようになっ
 て行った。
  1930年代に入ると、学校給食臨時施設法が制定され、
 一部ではあったが、学校給食が実施されるようになった。
  残念ながら、1940年代に入ると食糧事情悪化の為に中
 断され、・・また・・、
  戦後1945年以降は、外国からの食料援助によって、児
 童の欠食対策として、徐々に、給食が再開され、
  1952年あたりからは、食糧事情の改善により、全国的
 に完全給食を実施することが可能になった。
  同時に、給食の目的は「欠食児童対策」から「教育の
 一環」と位置づけられ、
  また、「学校給食法」が制定され、
  財政力の弱い地方自治体でも、交付税と補助金によっ
 て、全児童への完全給食が可能となった。
  因みに、この私立忠愛小学校の設立の主旨は・・、
 貧しい子どもたちへも教育を与えたいと、やさしい和尚
 さんたちが、鶴岡の寺院が宗派をこえて、 1889年(明治
 22年)に、大督寺の本堂の一部を利用し、「私立忠愛学校」
 を開設した。
  また、このお寺は、藤沢周平作品の「義民が駆ける」
 に登場する浄土宗のお寺である。
  境内には、学校給食発祥の地の記念碑がある。
1889年11月1日、史学会の第1回会合が行われた。
  公益財団法人 史学会、
  設立趣旨:
  この法人は、広く世界を対象とする史学研究の発展を
 めざし、最新の研究成果を公表することに努める。
  この活動を通して、過去と現在とを結ぶ歴史認識を社
 会に普及することにより、わが国の知的文化の向上に貢
 献することを目的とする。
  沿革:
  1889年、史学会 発足
  1929年、財団法人史学会 設立
  2012年、公益財団法人史学会 移行
  設立年月日:1889年11月1日
  会員数:個人会員:2280(人)
  性別:男性会員:1882(人)、女性会員:398(人)
  団体会員:120(団体)
  刊行物・誌名(和文):史学雑誌
  発行部数:4600(部/回)
  活動:国内及び国際の学術連合体への加入
  史学会の歩み:
  東京大学で生まれた史学会が歩んできた歴史は、日本
 におけるアカデミックな歴史学そのものの歩みである。
  御雇外国人のルートヴィヒ・リース(1861年~1928年)
 は、ベルリン大学で、ハンス・デルブリュックに師事し、
 ランケが確立した近代歴史学を学んだ。
  帝国大学の招聘を受けての来日は、1887年で、1902年
 まで世界史、史学研究法を講じた。
  明治維新後、欧米の先進文化を取り入れるため、政治、
 法律、軍事、経済などあらゆる分野の御雇(おやとい)外
 国人が日本に来たが、
  彼が、日本にもたらしたものは、レオポルト・フォン・
 ランケらによって樹立された近代歴史学・・、
  つまり、史料(歴史資料)を収集し、それを批判的に
 分析し、事実を再構成するという実証的な歴史研究の手
 法だった。
  東京大学大学院法学政治学研究科長の西川洋一教授は、
 当時のリースの授業について次のように説明する。
  「ドイツの大学では、歴史研究の方法を学生に学ばせ
 るため、
  演習(ユープンク)という授業形式を重視していたが、
 リースも日本でそれを採用した。
  1例として、1888年の演習で取り扱われた島原の乱の研
 究では、日本側の史料だけでなく、オランダ商館やキリ
 スト教会関係などヨーロッパ側の史料を集め、
  それらを比較検討しながら、蜂起の経過から鎮圧の過
 程に至るまでを再構成し、
  成果は、論文として発表された。
  学生たちは、単に、リースの講義を聴講するだけでな
 く、日本語の古文書を英訳するなどして、史料分析に積
 極的に関わった。
  リースが、島原の乱を扱った演習の成果は、当時、学
 生だった磯田良氏によって論文にまとめられ、『史学雑
 誌』第1編13号に掲載された。
  リース自身も、1890年に、『ドイツ東アジア協会紀要』
 に同テーマの論文を発表した。
  磯田氏は、帝国大学の講師になった後、ドイツ、オー
 ストリアに留学。
  帰国後、東京高師教授をつとめた。
  正岡子規は、随筆『墨汁一滴』で、自分が帝国大学を
 落第したのは、リースの授業を落としたからで、その後
 もしばしば試験に苦しめられる悪夢を見ると告白してい
 るが、そのような学生は、子規だけに留まらなかった。
  「講義録を読むと、リースは、ドイツの大学で行われ
 ていたものと遜色のない、高いレベルの授業を行ってい
 たことがわかる。
  リースを知る在日ドイツ人の書簡には、彼が、学生に
 対して厳しすぎるので大学と揉めている、といった記述
 を見つけることができる」。
  日本に早く根づいた近代歴史学。
  リースは、また、帝国大学に国史科が開設したことを
 機に、同僚の重野安繹教授らに、学会の設立と雑誌の刊
 行を勧め、
  その結果、1889年11月1日に、史学会発表会を兼ねた
 第1回学会が、文科大学第10番教室で行われた。
  また、同年・1889年12月15日には、『史学会雑誌』(
 後の『史学雑誌』)の第1号が発行された。
  研究者のネットワークとしての史学会、および、研究
 成果公表のためのフォーラムとしての『史学雑誌』を設
 けることによって、東京大学に、日本の近代歴史学が誕
 生した。
  因みに、『史学雑誌』は、日本で最も古い歴史学の学
 術雑誌で、
  論文は、すべて厳しい査読を経て掲載されるため水準
 が高く、日本史、東洋史、西洋史に限らず、総合的に歴
 史を扱っている。
  そして、主要な歴史学雑誌として、最古のものである
 ドイツの『Historische Zeitschrift』の創刊は1859年、
  イギリスにおける歴史学雑誌『English Historical
  Review』の創刊は1886年、
  アメリカ歴史学会の『American Historical Review』
 の創刊は1895年で、
  ヨーロッパで生まれた近代歴史学の基礎は、驚くほど
 早い時期に、日本に根づいたことがわかる。
  『史学雑誌』は、2014年現在で123編におよぶ。
  また、毎年1回開催されている史学会大会も、関東大震
 災や第二次世界大戦、東大紛争による中止をのぞき、現
 在まで続けられている。
1889年11月1日、伊藤博文、および、黒田清隆に、元勲優遇
 の詔書(しょうちょく)が出された(11月21日説あり)
  天皇陛下より、「大臣の礼によって元勲優遇の意を表
 す」という詔勅が下された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:貶(おとし)められる日本・・事実から乖離して・・
.
1911年2月21日、日米通商航海条約を調印した(小村条約)
  種々の段階がある日米通商航海条約のうち、明治44年
 (1911年)調印の新条約(小村条約の通称がある)。
  これによって、関税自主権が完全に回復したが・・、
 昭和14年(1939年)に、日本の中国の行動を不満として、
 アメリカは、破棄を通告し、1940年1月26日に失効した。
  日米の開戦の原因の一つとなる強烈な『準宣戦布告的』
 なアメリカの行動だった。
  1894年、1899年(陸奥条約)と続く日米通商航海条約
 で・・1911年に締結された日米の条約だった。
  不平等条約であった江戸末期の日米修好通商条約を、
 陸奥宗光(むつむねみつ)外相の時、日英通商航海条約同
 様に、法権を回復させ、
  次いで、日露戦争勝利後、日本の国際的地位向上を背
 景にして関税自主権を完全に回復させた条約。
  ☆不平等条約であった江戸時代の日米修好通商条約(
 1858年)を改め、明治政府がアメリカとの間で法権を回
 復した条約。
  1894年11月22日、陸奥宗光外相のとき、栗野慎一郎駐
 米公使と国務長官グレシャムW.Q.Greshamが調印し、
  翌年・1895年3月24日、公布した。
  1899年7月17日から実施された。
  1894年7月16日に調印された日英通商航海条約と同じ内
 容のものであった。
  (1)安政(あんせい)五か国条約の一つとして結んだ日
 米修好通商条約にかわり、
  1894年(明治27年)11月22日調印、5年後の1899年7月
 17日効力を発生した条約。
  通商航海の自由と内国民待遇を原則とし、領事裁判権
 を撤廃し、多少の束縛を除き関税自主権も回復した。
  (2)1911年(明治44年)2月21日、調印の日米新通商
 航海条約。
  旧条約には、日本人移民をアメリカ政府が国内法で制
 約できる留保条項があった。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900年
 から著しく増加、日本政府は、差別的法律が制定される
 のを防ぐため、1907年、1908年に日米紳士協約を結び、
 自主的に移民を制限した。
  しかし、移民問題は解決されなかったので、旧条約の
 終了と同時に有効となる新条約を結び、留保条項を削除
 し関税自主権を完全に回復した。
  日本政府は、同時に、紳士協約の維持宣言をアメリカ
 政府に伝えたが、アメリカは、1924年(大正13年)排日
 移民法により紳士協約を『一方的に廃棄した』。
  1939年(昭和14年)7月26日、アメリカは、日本の中国
 での行動に抗議して条約の廃棄を通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みたが成功せず、1940年1月26日失効
 した。
  (3)サンフランシスコ講和条約の発効に伴って1953年
 (昭和28年)4月、調印された日米友好通商航海条約。
  日米間の通商、および、投資交流の促進のための最恵
 国、および、内国民待遇の原則を基礎としている。
  日本が、第二次世界大戦後に旧連合国と締結した最初
 の通商条約。
.
1937年7月29日、通州事件(中国共産党の扇動)
  日本人の多数が虐殺された事件。
  この事件は、中国共産党の扇動であったと判明したと
 (産経新聞、2017年1月4日)が報じた。
  蜂起した地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動
 工作を受けていたことが、研究の結果、明らかとなった。
  「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の中国共産党
 が、敵対する親日政権の軍や警察組織に離反する事を働
 きかけた。
  そして、日本人を襲うという惨劇につながる蜂起とな
 ったことが裏付けられた。
  (参考)通州事件は、北京の東にある通州(現:北京
     市通州区)で、親日地方政権(殷汝耕・いんじ
     ょうこう政務長官)の保安隊が蜂起した事件。
     自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居
     留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あ
     まりが死亡した。
      多くの女性や子供が、極めて残虐な方法で殺
     害されたことで、日本の国内世論を激高させた。
  国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通牒が判明
 した。
  また、共産党の関与は、党史や地方史に関する報告と
 して、河北省唐山市の機構が運営する研究サイトや、歴
 史専門誌などで、近年、新事実が相次ぎ公表された。
  河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉
 少奇書記)の下で、工作員が、1935年の自治政府の成立
 直後から、保安隊や第一総隊長や第二総隊長と関係を持
 った。
  この関係で、共産党は、「抗日救国に一致団結する大
 義」を植え込んだりして、保安隊内への浸透をして行っ
 た。
  さらに、盧溝橋事件に始まる日中の戦い以前に、華北
 一帯で頻発した抗日活動も、「共産党が工作を行って」
 功を奏していた。
  1例として、1936年11月、河北省を列車で移動中の山海
 関守備隊長、吉田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安
 隊の兵士に拉致された事件について、共産党に洗脳され
 た張硯田の指示と判明した。
  1935年~1936年当時、毛沢東が率いる共産党は、陜西
 省(せんせいしょう)北部の根拠地で、国民党軍の包囲
 を受けつつ、党勢の立て直しを模索、国民党や親日勢力
 を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、
 国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。
  通州事件で、保安隊は、7月28日の深夜から行動に移り、
  第一総隊が、日本軍守備隊へ攻撃、
  第二総隊が、外部との連絡切断、
  教導総隊が、駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当
 した。
  蜂起を指揮した張慶余らは、通州事件の後、国民党軍
 の中将となり、戦後まで生存した。
  中国では「抗日将領」として評価されている。
.
1945年9月8日、アメリカが、南朝鮮を占領した(~1948年
 8月15日)
  そして、アメリカに直接統治された。
  近代産業の中心をなしていた重化学工業は、物的施設
 を残すのみで霧散し、
  日本経済との連関において編成されていたその他の鉱
 工業もマヒ状態に陥らざるをえなくなった。
  解放後の「南北への分断は、単なる地理的な分断では
 なく、韓国産業の構造的な切断とも言うべきもので、日
 本の支配下にあって築き上げた産業体系と、その基礎を
 解体する結果を招来した。
  この様な経済状況に於いて、北緯38度線以北から越南
 する者や、
  日本及び満州、その他各地から朝鮮人労務者などが一
 斉に帰還する事によって失業や食料、住宅問題が激化し
 た。
  しかし、この状況を、アメリカによる占領期の救護政
 策について何ら研究が見当たらない・・が・・
  アメリカが南朝鮮を統治する占領政策についての「民
 政に関する書記基本指令」がある。
  これは、1945年10月中旬、在朝鮮アメリカ司令官へ送
 付された。
  運営する人員についても、「軍事要員の節減を最大限
 に実施するため、朝鮮人をできるだけ行政上の地位に登
 用する」(第2節)ことを規定していたが、適当な者が
 見出せない場合、日本人、および、日本人に協力した朝
 鮮人を一時的に任用することを許可していた。
.
1946年1月9日、生田警察署襲撃事件(第2回)30-40人の朝
 鮮人が、検挙された賭博団の奪還を目的に署内に侵入、
 進駐軍の協力を得て鎮圧した。
.
1946年9月24日、南朝鮮でアメリカ占領政策反対ゼネラル・
 ストライキ
  アメリカが、南朝鮮における占領政策を進める上で、
 うまく出来たのか?
  そのアメリカの占領政策の腕前について記すと・・、
  結論を先に記すと・・日本人が優秀である事と、日本
 人が、朝鮮の方たちと仲良く・巧(うま)く行政を行な
 って来ていた・・その為、アメリカの占領政策に於いて、
 日本が敗戦となったからと言って、日本人を解任する事
 は出来なかった。
  日本人の優秀な能力と、朝鮮の方々との誠実な仕事ぶ
 りをそのまま使うしかなかった。
  その事を記す・・研究論文には・・、
  在朝鮮米軍司令官・ホッジ中将は、統治開始後まもな
 く、朝鮮総督府官僚を解任していく。
  1945年9月12日、総督室において安部総督に辞任を要求
 した。
  しかし、同席していた遠藤政務総監に対しては、政務
 総監としての官職を退いて、顧問として『残るように依
 頼した』のだった。
  そして、同日午後2時30分、政治・文化団体代表を参集
 した会合が、府民館で開催された。
  ホッジ中将は、その会合で、安部総督を解任し、アー
 ノルド少将を軍政長官に任命すると発表した。
  その3日後に、ホッジ中将は、新聞を通じて、12日に総
 督と警務局長を解任し、15日に、その他の各首脳部をす
 べて解任した、と発表した。
  そして、同月20日付をもって軍政庁の機構が決定し、
 朝鮮総督府の機構を、ほぼ踏襲した米軍政庁の各局長に
 米国人将校が任命されるのであった。
  しかし、1945年9月12日に、ホッジ中将が依頼したよう
 に、朝鮮総督府の日本人官僚であった遠藤政務総監以下
 各局長は、一旦は「解任されたが、そのまま行政顧問と
 して残ること」となったのである。
  このように、ホッジ中将が、日本人官僚を行政顧問と
 して残留させたことについて、ホッジ中将の政治顧問で
 ある国務省から派遣されたペニングホフは、同月15日付
 の報告書で次のように述べている。
  「日本人官僚の排除は、世間の見地から望ましいもの
 であるが、当分その実現はむずかしい。
  名目的には、彼らを職位から解除することができるが、
 実際には、仕事を続けさせなければならない」、
  その理由は・・、
  「政府機関、公共施設、報道機関を問わず、下級職員
 を除くと、資格をもつ朝鮮人職員が存在しないからであ
 る。
  終戦直後の南朝鮮における朝鮮総督府の日本人官吏の
 総数は、朝鮮関係残務整理事務所の調べによると、4万
 841人であり、嘱託以下の者も含めると5万4920 人であっ
 た。
  その内訳として、勅任官と奏任官は4,848 人であった。
  末期の朝鮮総督府で勤務していた日本人官吏の総数や、
 朝鮮人官吏の総数は、資料の関係上、明らかにすること
 は困難であるが、南朝鮮地域の「総督府高級官吏(勅任
 官と奏任官)のうち、末期の10年間、朝鮮人の占める割
 合は18~22パーセントを上下するレベルであった。
  絶対数で言えば、1942年の例であるが442人ほどであ
 った。
  仮に、20パーセントと設定した場合、終戦直後の南朝
 鮮地域における、日本人・朝鮮人の総督府高級官吏(勅
 任官と奏任官)の総数は、6,060人となり、その内、朝鮮
 人官吏は1,212人であったことになる。
  いずれにせよ、解放後の行政活動を実施しようにも、
 その経験が乏しい朝鮮人しか見出せないため、または、
 経験があったとしても日本に協力した朝鮮人であったが
 米軍政としては、一時的に、日本人を任用するほかなか
 ったのであった。
  ホッジ中将は、南朝鮮の民衆に対して、このような任
 用が一時的なものであると、1945年10月16日付の『毎日
 日報』で説明している。
  軍政庁では、「日本および親日官吏は、優秀な朝鮮人
 と可及的速やかに更迭となっている」ことや、
  「官吏地位、各階級に朝鮮人を配置するまで、その他
 朝鮮人官吏を養成中である」と述べていた。
  このように、統治開始直後の軍政庁にとって、行政を
 運営する人員の確保や、訓練が緊急の課題であった。
  朝鮮人職員の任命については、「日本の制度中、勅任・
 奏任の別は、現在は軍政庁に於いては其の区別の必要な
 きを以って一括高等官として統一す。
  又、勅任官は、日本天皇の任命なりしも、現在之等の
 官職は軍政長官の任命に属し、判任官は、中央及び地方
 の長官之を任命」して、軍政庁は、それらの朝鮮人職員
 を訓練していくのであった。
  (論文「米軍政期の南朝鮮救護政策に関する一考察」
 を参考にした)
.
1946年10月1日、大邱10月事件(テグじゅうがつじけん)で、
 南朝鮮人230万人が、アメリカ軍政に抗議して蜂起した。
  米価が、日本統治時代に比べて10倍以上に高騰してい
 た。
  そして、この年5月には、南朝鮮全土にコレラが流行し、
 慶尚北道だけで、4000人が死亡した。
  その後、水害による交通破綻や、『強制拠出』なども
 あった。
  この年、10月1日に、大邱府庁前で行なわれた抗議デモ
 に対して、警察が発砲したことから、不満が鬱積(うっ
 せき)していた人々の抗議活動が、収拾がつかない事態
 となった。
  10月2日に、アメリカ軍が戒厳令を布告した。
  これに触発されて、南朝鮮全土で、230万人が参加する
 『騒乱』となった。
  事態を収拾するために、アメリカ軍や、南朝鮮防衛隊
 や警察が投入され、強引な取り締まりの結果、136名の犠
 牲者(死者)が出た。
  事件後、南朝鮮のアメリカ軍への支持が失われた。
  共産主義団体への支持が強まった。
  「飢えた腹を握りしめた小市民たちの抵抗運動」と報
 道された。
.
1948年8月15日、大韓民国の独立・建国。
.
1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の独立・建国。
.
1980年代、アメリカでエイズが広がり始めた。
  感染者が解雇されたり、学校から登校を拒否されたり
 する事例が頻発(ひんぱつ)した。
  エイズにおいても差別社会が現出した(人種差別国の
 アメリカにおける新たな差別が発生)。
.
1997年、パラノイア・アメリカ
  パラノイアとは・・、
  ある妄想を始終持ち続ける精神病。
  妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさ
 まざまである。
  偏執(へんしゅう)病。妄想症。
  不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分
 を批判しているという妄想を抱くものを指す。
  自らを特殊な人間であると信じたり、隣人に攻撃を受
 けている、などといった異常な妄想に囚われるが、強い
 妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面
 において常人と変わらない点が特徴。
  キリスト教の性悪説的な思考習慣からこの資質に取り
 込まれる。
  そして、パラノイア・アメリカについては・・、
  ドン・デリロとトーマス・ピンチョンは、1997年に、
 数ヶ月前後して長編小説を発表した。
  前者のUnderworld(地下社会)は、20世紀後半のアメ
 リカ史を背景とし、後者のMason&Dixon(メーソン&ディ
 クソン)は、18世紀半ばのアメリカ独立期の史実を描き、
 共に歴史を材料としている。
  しかも、両者は、産業資本主義社会の隠れた裏面に焦
 点をあて、その問題点を描いている。
  Underworldの場合、一見互いに無関係と思われる諸々
 の出来事が、パラノイア的に関連付けて描かれており、
 その関連性が特異な効果を作品に与えている。
  作品には、20世紀後半を特色付ける多くの要素・・冷
 戦、核実験、軍産複合体、人種差別とそれに起因する暴
 動、反体制運動、種々の凶悪犯罪、メディア、廃棄物と
 そのリサイクル、社会の底辺に生きる人々等・・が描か
 れているが、
  それらは、共通のイメージや場所、小道具、数字等に
 より相互が複雑に交錯し、関連付けられている。
  また、諸々の事柄を関連付けて解釈するパラノイア的
 人物さえ登場している。
  これらの関連項は、全てワールド・ワイド・ウェブ(
 インターネット上で提供される超越的なテキスト・シス
 テム)で最終的に収斂しており、ネット社会に突入した
 現在の状況を象徴している。
.
2015年12月13日、池上彰氏が、ひどいテレビの解説放送を
 していた。
  よく自虐的な、そして、日本を貶める放送をするNHK
 という放送局出身の池上彰氏であるが・・、
  池上氏も、NHKを退職したこの時も、民放で、NH
 Kと同様の日本を貶める放送をしていた。
  知人宅でのBSジャパンでは、午後15時53分、番組名:
 「池上彰の教科書に載ってない20世紀」
  池上氏は、終戦の3日後、日本政府が慰安所を作ったと
 言った。
  これは嘘である。
  アメリカが、東京都へ依頼した「慰安所設置の要望書」
 がある。
  そして、さらに池上氏は嘘を言った。
  その1年半後に、アメリカが「止めよ」と言ったという。
  これでは、『日本政府が作って、アメリカが止めよ』
 と言ったになってしまう。
  「アメリカが作ってくれ」と言って、後に、止めよと
 言ったが正解なのである。
  池上彰は、作れと言ったのは日本政府だと嘘を言った。
  これでは、まったく、アメリカが美しくなってしまう。
  日本政府の作った慰安所設置を、アメリカが止めよと
 言ったと、まったく、アメリカが美しいという話になっ
 てしまう。
  日本を完全に貶めている池上彰になったいる。
  テレビという強力な影響力を持つ放送媒体を使って、
 この様な卑劣な行為を、NHKと同様に行なっている。
  この番組の酷い所は、バックにキリスト教の讃美歌を
 流しているところだ。
  慰安所を止めよと、さも、キリスト教が言っている様
 に印象付ける様に放送している。
  関連している沢田美喜さんの話・・、
  沢田美喜さんは、1948年に、エリザベス・サンダース・
 ホームを設立された。
  これは、第二次世界大戦後に、日本占領のためにやっ
 て来たアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と、日
 本人女性の間に・・、
  強姦や慰安所などで生まれたものの、アメリカ兵や周
 囲からも見捨てられた混血孤児たちのための施設として、
 1948年、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢
 田美喜さんが設立した。
  沢田美喜さんが設立したいきさつは・・、
  あまりに酷い性的に乱れた結果が残る状況を、沢田さ
 んは、アメリカGHQに、抗議した・・、
  「そんな子がいる訳ない」と、アメリカGHQは拒否
 した。
  そこで、沢田さんは、アメリカ兵と日本女性との間の
 混血の子を連れて行って、見せて、説明し、立証した。
  しかし、アメリカGHQは、それでも・・拒否した。
  沢田さんは、「よし、それなら」と・・、
  混血の子たちを連れて、アメリカ本土に行って訴えた。
  そして、寄付を募った。
  アメリカ本土の方々は、理解を示してくれた。
  寄付も戴くことが、やっとでき、三菱よりの資金と共
 に設立したのだった。
  この様な事も、本当に公正に説明しない池上氏だった。
  また、キリスト教は、この沢田さんの善行を、キリス
 ト教が良くやる嘘・「神の啓示だ」と作り上げている。
  神の声が聞こえた・・と・・
  また、GHQの上記の卑劣な対応などは一言も触れな
 い・・逆に・・美しく仕立てている・・そして、日本を
 貶める・・卑劣な『いつものパターン』となっている。
  設立時のアメリカGHQの対応も隠す行為をして・・、
  そして、最初の寄付者であるエリザベス・サンダース
 さんの話のみを大きく取り上げている。
  少額の寄付だが・・最初の寄付者ということで、その
 名がとどめられた。
  しかし、これを過大に美しくプロパガンダした・・
  また、当時の厚生省の調査結果によると、84%の子供
 が白人系で、11%が黒人系であった。
  これも、いやらしく説明した(ここに詳しく記すこと
 が出来ない)
  当時、アメリカGHQは、この問題から逃げていて、
 話題にされることさえ嫌い、当然、救済策も取ろうとし
 なかった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月19日日曜日

(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

題:(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月15日、条約改正に関する御前会議、賛否対立し
 て結論出ず。
1889年10月18日、外務大臣:大隈重信襲撃事件
  この日、大隈重信は、御前での閣議で条約改正の審議
 を受けるが、山縣有朋内務大臣が、条約改正案に反対し、
 閣議は散会した。
  大隈外相は、午後4時過ぎ、馬車で霞ケ関の官邸に戻
 ろうとしたところ・・、途中、馬車が、外務省の門前に
 さしかかる頃、フロックコートに身を包んだ30歳前後の
 男が近づく・・、
  玄洋社の来島恒喜が、爆弾を馬車へ投げつけた。
  大隈重信は、右脚に重傷を負いながらも・・、
  ・・憤然と、兇徒を見て「馬鹿者めが」と大喝一声。
 膝の上に燃える断片を払う。
  兇行におよんだ男は、爆弾の破裂を見届けると即座に
 短刀で咽喉をかき切り、その場に倒れる。
  来島は自殺。
  暗殺未遂となる・・条約改正は中止。
  その後、大隈は、佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・
 フォン・ベルツの手により右足切断手術を受けた。
  犯人は、日本の右翼活動家、テロリスト。
  筑前共愛公衆会で、国家主義組織・玄洋社の一員、来
 島恒喜(31歳)
  黒田内閣は総辞職し、三條実美暫定内閣へ・・、
  大隈は、その後、来島について・・
  「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思ってい
 ない。
  いやしくも、外務大臣である我が輩に、爆裂弾を食わ
 せて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であ
 ろうと感心する。
  若い者は、こせこせせず、天下を丸のみにするほどの
 元気がなければだめだ」と語っている。
  来島本人は、酒を受け付けず、大隈重信暗殺に出向く
 際、別れの盃は水であったという。
  来島が学んだ興志塾(通称:人参畑塾)の塾長・高場
 乱(たかばおさむ)は、来島自決の報を聞き・・、
  「ながらえて 明治の年の秋なから 心にあらぬ 月
 を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。
  博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘
 となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。
  当初、大隈襲撃は、月成功太郎(首相・広田弘毅の岳
 父)と一緒の計画であったが、家族持ちの月成の事情を
 考え、欺いて単独襲撃となった。
1889年10月19日、首相・黒田清隆が、条約改正交渉の中止
 を決定した。
1889年10月21日、黒田首相が辞表を提出した。
  黒田の総理辞任後、2ヵ月間にわたって存在した内大臣
 の三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょうざん
 ていないかく)となった。
  三條暫定内閣は、1889年10月25日~1889年12月24日。
  黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃
 が予想された自由民権運動に対する取締り強化と、
  欧米列強との間に交わされたままとなっていた不平等
 条約の改正を実現することにあった。
  大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布された翌日
 (1889年2月12日)、黒田は、鹿鳴館で開催された午餐会
 の席上において、「超然主義演説」を行って、政党との
 徹底対決の姿勢を示した。
  しかし、その一方で、立憲改進党前総裁(実質は党首)
 で外務大臣の大隈重信を留任させて、条約改正の任にあ
 たらせた。
  また、文部大臣の森有礼の暗殺後、
  榎本武揚が、文部大臣に移動し・・、
  空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者で
 あった後藤象二郎を充てた。
  そのことによって、大同団結運動を骨抜きとなった。
  自由民権諸派の団結は阻止された。
  また、条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条
 約である日墨修好通商条約を締結することに成功した。
  そして、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見え
 た。
  しかし、外務省が用意した改正草案に、妥協案として
 「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明
 らかになると、大騒動となった。
  一旦解体したはずの大同団結運動が、今度は、板垣退
 助を擁して再燃した。
  政府内からも、山縣有朋や後藤象二郎、伊藤博文、井
 上馨らが、妥協案に反対する意志を示した。
  黒田は、大隈を擁護したが、条約改正交渉は、中断に
 追い込まれた。
  その様な状況の中、10月18日に、大隈が重傷を負うと
 いう事態となった。
  進退窮まった黒田は、一週間後の25日、全閣僚の辞表
 を提出するに至った。
1889年10月23日、電信の架設
  この日、横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、
  東京~横浜間に電柱と電線を張る電信架設工事が着工
 された。  
  電話創業は1890年。
  因みに、日本で初めて電信の実験を試みられたのは、
 1854年(嘉永7年)2月24日だった。
  アメリカの提督ペリーが、二度目の来日の時、幕府へ
 贈った33種の土産物の内、蒸気機関車の模型と、電信機
 が、当時の人たちの興味をそそった。
  蒸気機関車の試運転は、同年1854年2月23日に行われ、
  引き続き、翌日の1854年2月24日に、横浜の弁天境内で、
 アメリカ人技師が、電信実験をやって見せた。
  約40メートルおきに、杉の柱を立て、その頭部にギヤ
 マンの壺を置き、これに針金を通し、一里離れた吉右衛
 門の屋敷まで電線を引いた。
  (別史料:この電信機のセットで、約1マイル(1.6km)
 の電線を用いて送信され、この時の電文は「YEDO、
 YOKOHAMA」(江戸、横浜)だったという)、
  そこで、双方から実験を行なった。
  前日の蒸気機関車の試運転で、驚きの状態だった幕府
 の役人達も、
  この日の電信の実験については、どうしても訳が分か
 らなかった。
  実験を行なう前に、一応の説明があったが、正しく伝
 えるべき通訳の役人が理解できなかった。
  電気について曖昧模糊たる中で実験は行われた。
  当時の機械は、エンボッシング・モールス電信機。
  1837年、サミュエル・モールスが電信機を発明してい
 て、それから、18年目だった。
  この時、発信・受信共に実験は成功した。
  そして、受信を、文字に書き代えて見せた。
  通訳が、「針金を引く距離は、もっと遠くても同様の
 実験ができるか?」と聞いた。
  答えは・・「十里が百里となっても完全に通信が出来
 る」・・だった。
  「ここでは、電線が引くのが大変だし、急場の間に合
 わぬので、こんなに近距離でやってみたが・・」・・と。
  当時の見聞記録にも、電信の事を「千里鏡」と呼び、
  或は・・「天連関理府」(テレガラフ)と漢字を当て、
 但書に、「電雷気にて事を告げる機械なり」・・と。
  実験後、この電信機械2台は、江戸城に収められた。
  当時、幕府は、風雲急を告げ、物情騒然たる折柄だっ
 たが、折角の文明の利器も殆んど顧みるものがなかった。
  それから15年目の1869年(明治2年)の夏、初めて横浜
 に電信線が架設された。
  そして、同年の1869年12月25日に、東京~横浜間に電
 信が開通した
  (別史料:1869年、イギリスの通信技師を招き、横浜
 燈台役所~横浜裁判所の間に、電信回線が敷設され、
  ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を
 指す方式)による通信が行われた。
  また、1869年には、東京~横浜間で電信による電報の
 取り扱いが始まった。
  明治政府は、電信網の整備に力を入れた。
  東京~横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で電信網は全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても大いに活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  1871年には、デンマークの大北電信会社によりロシア
 のウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、
  シベリア経由でヨーロッパ、
  さらには、大西洋横断電信ケーブルを経て、アメリカ
 とも通信が可能となった。
  1871年11月に、欧州へと出発した岩倉使節団は、不平
 等条約の改正交渉の経過報告を、この出来たばかりの回
 線を使い行った。
  1873年には、東京と長崎間に回線がひかれ、東京から
 海外との通信が可能になった。
  1872年~1916年まで、ウィリアム・ヘンリー・ストー
 ンという勅任待遇のお雇い外国人が、対外通信に貢献し
 た。
  その後、電信網は全国に広がり、
  1880年頃には、大都市間に、
  1890年頃には、全国の県庁所在地が継った。
  因みに、1879年に、官報、事務報、私報を合わせ165万
 通の電報が打たれていて、日本の普及は早かった。
1889年10月24日、黒田清隆以下、大隈重信を除く各大臣が
 辞表を提出した。
1889年10月24日、防穀令事件
  朝鮮政府が、不作のため咸鏡道に大豆輸出を禁ずる防
 穀令を布いた。
  1889年、朝鮮咸鏡道で、凶作を理由に出された穀類輸
 出禁止令に対し、
  日本の貿易商が、大打撃を受けたとして、日本政府が
 賠償などを朝鮮に要求した。
  1880年の元山の開港以来、元山は、日本商人による大
 豆や米の輸出が盛んであった。
  しかし、咸鏡道観察使趙秉式(ちようへいしき)は、
 1889年10月、凶作による食糧難を理由に、穀物の道外へ
 の搬出を禁止した。
  防穀令は伝統的な救荒政策の一つで、条約上も認めら
 れていたが、日本側が強硬に抗議したため紛糾した。
  朝鮮政府は、同令を解除させたうえ趙を懲戒,更迭し
 て解決を図った。
  しかし、1891年12月になって、日本政府は、14万円の
 損害賠償を請求した。
  この事によって、両国間の外交問題に発展した。
  交渉は当初から難航した。
  日本は、1893年5月、国交断絶の圧力をかけた。
  朝鮮政府が、総額11万余円の支払いに応じることで決
 着をみたて、1893年、朝鮮政府は賠償金を支払った。
  朝鮮政府の主張は、1883年の日韓通商章程第37款に基
 づく輸出禁止令だった。
  輸出禁止令発布が正しいのか? 
  自由な交易の阻害行為が悪く、それによる損害賠償の
 請求が正しいのか? ・・の問題だった。
1889年10月24日、黒田清隆内閣が総辞職した。
1889年10月25日、黒田清隆の辞表を受理し、三条実美が首
 相を兼任した(内閣総理大臣を兼職)
  他の閣僚の辞表は却下して、三条暫定内閣が成立した。
  内大臣・三條實美 臨時内閣 発足・・、
1889年10月25日、宮武外骨の控訴を棄却し刑が確定、石川
 島監獄に収監された。
  宮武外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日~1955
 年7月28日)ジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作
 家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
  役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願い
 します」などとたびたび言われるのが癪だと言って、
 「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかっ
 たという。
  晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めた。
  大日本帝国憲法発布をパロディ化して、不敬罪に問わ
 れ、禁錮3年の実刑判決となった。
  モットーは・・、
  「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタ
 リもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たてい
 と)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あ
 り」・・と。
  外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』
 があった。
  現代の週刊誌に相当する内容で・・、最盛期の部数は
 8万部。
  この時代の雑誌としては、トップクラスの売れ行きだ
 った。
  類似誌も多数登場した。
  外骨は、「猿雑誌」と類似誌を評しつつ、『滑稽新聞』
 の影響力を自慢した。
  明治41年(1908年)10月、当局は、『滑稽新聞』に対
 して発行禁止命令を出した。
  外骨は、発行禁止に先んじて、173号を以て「自殺号」
 として廃刊した。
  しかし、翌月に、『大阪滑稽新聞』を創刊し、事実上
 の後継誌とした。
  この頃、安重根に伊藤博文が暗殺されるなどの事件が
 あり、安易な批評などが批判された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
   合理化や利便性を追及する風潮を嘆く。
.
1850年頃、ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、
 「浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
 合理化や利便性を追及する風潮」を嘆いた。
  2017年1月24日の日付の読売新聞で・・、
  立正大学の斉藤昇学長が深い話をされていた。
  今年は、「ソロー」生誕200年ということで・・、
  このソローと、今の世相の「利便性の向上と、効率を
 優先させる情報・技術改革」を対比され・・、
  本当の豊かさを考える記述だった。
  今、真に豊かなのか?
  少なからず、まず、大切な人の心が、どこかに置き去
 りにされている様な現代ではないか?・・と言われる。
  そして、不安感に苛(さいな)まれている現代ではな
 いか?・・と言われる。
  このソロー・・
  (アメリカ・ロマン派文壇の異才と言われ、ヘンリー・
 デビット・ソロー、1817年~1862年)は、
  「利便と効率の対極」を意識して、「質素の美徳」と
 「世の中の安寧」の重要性を説いた。
  当時、彼は、過度に物質至上主義に大きく傾斜してい
 くアメリカ先進資本主義の『行き先の不透明感』を危惧
 した。
  ソローは、それを危惧し、自身の魂の葛藤と悲痛の呻
 (うめ)きを発した。
  彼の作品の「ウォールデン、森の生活」や「市民的不
 服従」・・、
  前者は、森の中での自給自足の生活を綴る・・、
  後者は、非暴力主義を掲げた作品・・、
  ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、「浅薄な
 現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)合理化
 や利便性を追及する風潮」を嘆いている。
  そして、世界の隅々までが安寧であることを、凛(り
 ん)として望んだ。
  「華やかに物に溢れた物質文明」の陰から、忍び寄る
 地球環境と人類社会の広汎(こうはん)な危機。
  それを憂うがゆえに、ソローは、その卓越した眼力で、
 鋭く時代を穿(うが)った。
  彼の作品群には、透き通る『慈愛』がある・・、
  そして、至極(しごく)『人間的な眼差し』がある。
  (斉藤学長の記述を参考に、記述した)
.
1942年3月21日、アメリカ議会、日系人強制収容命令承認
  この時の大統領は、フランクリン・ルーズベルトだっ
 た。
.
1942年4月~1945年9月、アメリカのラッシュ・ジョセフは、
 アメリカ陸軍航空部隊所属となり、天気予測班として国
 内勤務の間に、ルーズベルト大統領の妻エレノアと、シ
 カゴのホテルで密会しているところを、アメリカ軍防諜
 部隊に盗聴された。
  そして、それがもとで、盗聴をした防諜部隊隊員らと
 共に太平洋の最前線配属となった。
  もともと、盗聴せよと指示をしていたのはルーズベル
 トだった。
.
1942年6月、アメリカ、戦時情報局(OWI)発足
  アメリカ戦時情報局(OWI)ができた。
  日本の戦後をどの様にするかのアメリカの方針に、大
 きな影響を与えたオーウェン・ラティモアは・・、
  1943年~1944年1月の間、ここに勤務した(サンフラン
 シスコにあるこの部局=極東部主任の要職にあった)。
  ここは、海外向け戦時宣伝を目的にしていた。
  ラティモアは、日本の天皇制を崩したいと考えていた。
  また、「我々にとって、日本人ほど憎むべき敵はいな
 い」というラティモアの言葉があるように、この様な考
 えを持った人物だった。
  日本の自動車、航空機のエンジン製造を禁じなければ
 ならないと考えていた。
  また、軍工場、軍艦の造船所を取り壊すべきと考え、
 将来の日本は、第一級の工業国にしてはならないとした。
  そして、「日本を共和国に変える」と考え、天皇陛下
 とその後継者の皇族男子は、中国に監禁すべきだとして
 いた。
.
1943年12月1日以降、アメリカのルーズベルトが戦略の手の
 ひらを返した・・、アメリカは簡単に乗り換えた・・、
  この年のカイロ会談・テヘラン会談(1943年11月28日
 ~1943年12月1日)の後・・、
  ルーズベルト・アメリカ大統領が、中国・蒋介石を重
 要視しなくなった時は、それは、1943年のカイロ会談・
 テヘラン会談の後だった。
  テヘラン会談が、ルーズベルトが、チャーチルの練っ
 た通りに、あまりにも、その通りに行ったからだった。
  中国・蒋介石政府は、ある意味「用済み」となった。
  ここで、アメリカは、戦略の手のひらを返した。
  転換点だった。
  この時、マッカーサー(アメリカ南西太平洋方面司令
 官)は、海軍長官・フォレスタルへ言っている・・
  「中国軍を当てにした戦争は、もう意味がなくなった」、
  「我々は、満州に展開する日本軍をくぎ付けにするソ
 連軍の登場を待たなくてはならない」、
  「ソ連軍の侵攻後、ゆっくり日本本土に上陸すれは良
 い」・・と。
  アメリカは、完全に乗り換えた。
  日本参戦へのスターリンへの追加のエサ(大連と旅順
 の不凍港がソ連のものになる)で参戦が確実になった手
 ごたえを得たからだった。
  アメリカのルーズベルトは、あとは、中国が、日本に
 付くようにならないように注意するだけだと言った。
  「中国(蒋介石)は、日本との戦争を止める事がない
 ようにするのに必要なものだ」・・と、必要なら新たな
 戦争を作るというルーズベルトだった(ビルマ戦争)
.
1944年8月5日、オーストラリアのカウラ市内にあった捕虜
 収容所から、日本人が脱走を企てたとき、
  オーストラリア兵は、無差別に砲火を浴びせ、実に234
 人の日本兵捕虜を射殺した。
  そして、108人に重軽傷を負わせた。
  これに対し、この逆の話がある・・
  日本の長崎市に、戦時中、捕虜収容所があり、オース
 トラリア兵が収容されていた。
  アメリカが投下した原爆で、収容所が破壊されると、
 捕虜たちは脱出し、市民の中に交った。
  しかし、家族や友人を原爆で失い、連合国に原爆投下
 された極限状況下でさえも、日本人は、何ら彼らに危害
 を加えなかった。
  また、オーストラリアは、日本兵捕虜を飛行機から突
 き落として殺した。
  これも、リンドバーグが公表した。
  オーストラリアは、「日本軍は玉砕した」と嘘の報告
 をした。
  この行為は、1人、2人の行為ではなく、オーストラリ
 アは集団で行なった。
  リンドバーグは、この様な行為が、欧州戦線で行われ
 たであろうか?と、日本人が、「有色人種だから行われ
 ていた」との筆致で記述し、公表した。
  また、この頃のアメリカも、日本兵を「黄色い猿」と
 蔑視の表現して、キリスト教に洗脳された「人の肌の色
 で見分けし、有色人種を蔑(さげす)む」ことにマイン
 ドコントロールされた表現をした、そして、有色人種・
 日本兵の命を軽視した。
.
1945年3月9日、東京大空襲(~10日)無差別爆撃・・国際
 法違反・・一般市民の殺戮
.
1946年1月4日、GHQが、超国家主義団体の解体を指令し
 た。
.
1946年1月28日、GHQが、映画の検閲を指令した。
.
1946年2月3日、マッカーサー元帥が憲法3原則をGHQ民政
 局へ指示した。
.
1946年2月3日、通化事件が起き、中国在留日本人が多数殺
 害された。
.
1946年2月13日、GHQが、憲法改正松本試案を拒否し、G
 HQ案を日本側へ渡した(2月8日に正式に提出していた)
.
1946年2月23日、山下奉文元陸軍大将の絞首刑が執行された。
  違法なる執行。
.
1946年4月2日、マッカーサー元帥が、アメリカ将兵に、日
 本女性との醜行自粛を訓示した。
  あまりにもアメリカ兵の行動が乱れていた。
.
1946年5月、中華民国政府が南京に遷都した。
.
1950年、ダグラス・マッカーサーが、朝鮮戦争で、アメリ
 カ軍主力の国連軍司令官となった(~1951年)。
  1951年にトルーマン大統領によって解任させられた。
.
1951年5月3日、マッカーサー元帥が、アメリカ上院軍事外
 交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛
 権』の行使」と証言した。
.
1995年9月、沖縄のアメリカ軍兵士による少女暴行事件が起
 きた。
.
2004年、中国の平和的台頭はあり得ない・・と、アメリカ
 のミアシャイマーは言った。
  「目の前にある問題は単純にして深い。
  中国の平和的台頭は可能だろうか。
  私の答えは『ノー』だ。・・ジョン・ミアシャイマー
 は言った。
  何故、中国の平和的台頭はあり得ないのか?
.
2017年2月12日、この日の読売新聞に、安倍首相とトランプ
 大統領の首脳会談で・・、
  アメリカの核による日本防衛や沖縄県の尖閣諸島がア
 メリカの対日防衛義務を定めた日米安全保障条約5条の
 適用対象であることなどを共同声明に明記とした。
  日米首脳会談と共同声明のポイント。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月16日木曜日

(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

題:(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月2日、第1回汎米会議
  アメリカの強引な外交(属国扱い)
  おとなしく言う事を聞く属国という前提の会議・・、
  この日、その第1回汎米会議がワシントンで開かれた。
  アメリカが提唱して開かれた。
  南北アメリカ大陸の諸国で構成する汎アメリカ主義の
 会議だった。
  兄貴分のイギリスの排除の第一歩が・・始まった。
  当然、アメリカの主導的立場が明確になって行った。
  アメリカにとっては、自国の工業化が進展したことに
 伴って、原料・食糧の供給地として、中南米地域を重視
 しなければならない状況となった(自分の都合から)。
  この南米大陸は、イギリスが、強い経済的関係を有し
 ていた。
  その為、アメリカは、残された地・カリブ海域の経済
 関係を強くする事から始めた・・
  カリブ海域との関係を持ちたいとした。
  アメリカは、「自国の裏庭的関係国」と位置づけるカ
 リブ海政策を展開した。
  セオドア=ローズヴェルト大統領(日本との第二次世
 界大戦を始めたフランクリン・ルーズベルトの叔父)に
 よって進められた(やることは一緒だった)。
  アメリカは暴力を用いた(この叔父にしても、この様
 な手段を用いた)。
  アメリカ=スペイン戦争によるキューバの保護国化、
  そして、テキサス・カリフォルニア・ニュージニアな
 どをメキシコから奪った方法と同じ方法で、パナマ運河
 獲得などを実現して行った。
  (パナマ国の分離・独立、そして、アメリカの利権獲
 得)
  みんな、自分・アメリカに都合の良い『奪い取り』だ
 った。
  アメリカは、棍棒外交の強引な手法を用いた。
  (参考)棍棒外交:(こんぼうがいこう、こん棒を持
    つごとく、強引な砲艦外交をちらつかせて行う)
  しかし、これも、当然、次第に通用しなくなった。
  アメリカは、よく民主主義を根付かせるためだという
 が・・、偽善の正義を掲げるが・・??
  『こん棒で殴りながら民主主義を説く』という自分勝
 手なやり方・論理で、嘘っぽい論理でやるアメリカだっ
 た。
  この逆を、もし、アメリカがやられるという事を、ア
 メリカは考えたことがあるのか?
  アメリカより強い相手国が、『自分勝手な擬似正義を
 を掲げて』、アメリカへ暴力を行使して来たら・・アメ
 リカは、それを、受け入れられるのか・・?
  一方的に・・正義なんだからと、言われる状態を・・
 受け入れられるのか?
  また、アメリカは、このやり方を『一種の侵略行為』
 であると自覚していないところに・・悲劇があった。
1889年10月4日、大阪天満紡績会社の職工が集合したが、警
 察の出動により説諭され、解散した。
1889年10月4日、日本法律学校が設立された。
  日本法律学校(にほんほうりつがっこう)は、日本の
 法律を研究し、国運の増進をはかる目的として設置され
 た私立法律学校。
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援して、日本法律学校(現:日本大学)は設立
 された。
  山田顕義(やまだあきよし)は、長門国出身。
  吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後
 の門下生となる。
  25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。
  その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才で
 ごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との
 名言がある。
  岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポ
 レオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを
 確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。
  約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格とな
 る明治法典を編纂した。
1889年10月7日、海軍旗章条例(旭日旗が軍艦旗となる)
  海軍旗章条例により、それまで日章旗であったものが
 旭日旗に統一された。
  この時、この条例で、軍艦の標識として、艦艇の後部
 に掲げられる「軍艦旗」とされた『十六条旭日旗』は、
  「聯隊軍旗」と呼ばれ、
  1874年に、日比谷操練場で、日本陸軍近衛第一・第二
 各聯隊に、天皇陛下から授けられた旗だった。
1889年10月8日、逓信大臣・後藤象二郎が、条約改正問題を
 以て国家の不利とし、反対の旨を奏上した。
1889年10月11日、枢密院議長・伊藤博文が、大隈外相の条
 約改正案に反対して辞表を提出し、閣内では、後藤逓相
 (ていしょう)らが強く反対した。
  1889年10月15日の御前会議でも決着がつかず、
  1889年10月24日、黒田清隆首相は、大隈を除く閣僚と
   ともに辞表を提出するに至った。
  1889年10月25日の翌日、首相の辞表は受理されたが、
   他閣僚の辞表は却下された。
    そして、内大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)
   が、兼任首相となり、
    条約調印延期などの後始末にあたり、
  1889年12月24日、この日に成立した山県有朋(やまがた
   ありとも)内閣に引き継いだ。
1889年10月12日、第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  築町の俵物役所跡にルネサンス様式で洋風煉瓦造2階
 建のモダンな第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  沿革・・、
  1870年(明治3年)1月、協力社が設立された。
  1872年(明治5年)1月2日、合資会社「永見松田商社」
   を開業。
  1872年11月9日、「立誠会社」と改称。
  1875年(明治8年)9月15日、立誠会社を株式組織に。
  1877年(明治10年)5月16日、国立銀行願書を提出。
  1877年9月2日、国立銀行条例に基づき、「第十八国立
   銀行」として設立。
   資本金:16万円。初代頭取:永見伝三郎、支配人:
   松田源五郎、役職員:頭取以下21名。
  1877年12月20日、開業。
  1878年(明治11年)1月4日、開業式。
  1885年(明治18年)7月、政府紙幣5万円の下付を受け、
   洋銀買い付けを開始。
  1885年9月、洋銀鑑定人を採用。
  1886年(明治19年)3月1日、貯蓄預金業務の取り扱い
   を開始。
  1889年(明治22年)5月8日、東濱町(東浜町)の大火
   で本店が類焼。
  1889年10月12日、築町の俵物役所跡地に本店の新社屋
   が完成。
  1889年12月1日、本店を東浜町から移転。
  1897年(明治30年)7月1日、普通銀行に転換、「株式
   会社十八銀行」に改称し、営業を継続。(資本金100
   万円)
  1907年(明治40年)1月、株式の大暴落に端を発し、市
   場は混乱、金融界もその大打撃を受け、各所で取り
   付け騒ぎが起こる。
1889年10月13日、富山県魚津で米騒動が起きた。
  この年は、凶作で、
  1890年に入ると米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で貧民が救助を要求して騒動を
   起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけ、鳥取市、新潟県下、下関市、
   高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
   最大のものは、佐渡相川の暴動(6月28日~7月5日)
   で、鉱夫ら約2000人が蜂起(ほうき)し、軍隊が出動
   した。
   その後、福井、愛媛、宮城などの各県下にも騒動が
   起こった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカの・・常套手段・・
.
1820年代、アメリカの『メキシコ領土の奪い取り』
  アメリカのメキシコ領の奪い取りは、1820年代に始ま
 った。
  この頃、アメリカの公使として赴任したジョエル・ポ
 インセットは、卑劣な事に・・盛んに任地で、メキシコ
 政府に反駁する『反政府勢力を育てた』。
  まったく卑劣である・・後に自分のものにするために
 『政府転覆勢力を育てるのである』。
  この様なやり方は・・アメリカの常套手段だった。
  そして、メキシコの領土の方針が2つになったら、アメ
 リカが出て来る。
  アメリカは、その国が割れた状態にして、介入する。
  そして、植民地にする。
  この様なやり方をする。
  この状況を知ったメキシコ政府は、当然、怒って彼を
 追放した。
  しかし、アメリカは、懲りずにメキシコ領である『テ
 キサスの独立を企んだ』。
  そして、「独立を叫ぶアメリカからの開拓民」が、メ
 キシコ政府軍と戦い始める。
  そして、テキサス共和国として独立させる。
  そして、その9年後の・1845年に、奴隷制度を認める南
 部の一州・テキサスとして「アメリカに併合してしまう」。
  テキサス独立戦争(1835年から1836年)・・これは美
 しい表現の仕方・・策士・アメリカが、メキシコの領土
 を自分のものにして行く過程の暴力行為(戦い)である・・、
  アラモの砦の戦いは、アメリカからの開拓民の部隊が、
 サンアントニオ(テキサス州南部の都市)のキリスト教
 会に立てこもり、約3000のメキシコ政府軍(サンガ・ア
 ナ軍)と戦って全滅した戦い。
  アメリカは、この戦いを、当然、賛美した・・隣国の
 領土を奪うという下心の戦いを・・アメリカ国民の方々
 へのごまかしに・・「この悲劇の戦い」を使って行く・・、
  1836年2月23日から、アラモの砦となった教会に立て籠
 もった。
  指揮官はウィリアム・トラビス。
  また、伝説的英雄のデビー・クロケットらの部隊は、
 この年・1836年3月6日までに、非戦闘員を除く187人全員
 が戦死し・・陥落した。
  『アラモを忘れるな』は、以後、合言葉となった。
  1848年、アメリカは「尊厳を傷つけられた」という
 『名目』でメキシコに攻め入った。
  そして、カリフォルニアやアリゾナなどのメキシコの
 領土を奪った。
  メキシコは、国土の半分以上を奪われた。
  国土の52パーセントもの地域を賠償金だと「賠償金代
 わり」に、アメリカに奪われた。
.
1944年12月、報告書「米コミンテルン概略」が作成された。
  アメリカ大統領ルーズベルトの闇の情報屋と成り下が
 っていたFBIのフーバー長官は・・、
  「ホワイトハウス高官にソ連のスパイがいる」という
 情報を掴(つか)み、合法、または、非合法を問わず捜
 査を続けた。
  そして、ソ連が、アメリカに大掛かりなスパイ網を構
 築している事実を掴んだ。
  そして、この日、報告書「米コミンテルン概略」を作
 成した。
  アメリカ政府内部にも『ソ連情報網』があった。
  戦争中なので同盟国(ソ連)との関係悪化を懸念し、
 その配慮から、大袈裟にされずに済まされた。
  そして、そのソ連情報網の行なっている事は、「単な
 る情報収集」だけでなく、「アメリカの政策に如何に影
 響を与える」かを重視していた。
.
1945年、マッカーサーは日本語を無くそうとした。
  占領政策で、何でもできるという増上慢の上の行動だ
 った。
  グローバル化で英語だと来た。
  すでに、フィリピンで『実験済み』だが?
  フィリピンでも、大分、苦労し、もめめたが?
  フィリピンの方々は・・母国語を「もぎ取られる苦痛」
 を味わった。
  思考そのものが、酷(ひど)い状況になった。
  不慣れな、不器用な言葉の使用を強いられ、がんじが
 らめに縛(しば)りつけられている感じとなった。
  言うことが、一度で伝わらない世界、それも、中々、
 十分に理解してもらえない「もどかしさの中」に住む・・
 という悲しさがあった。
  高度な意見交換なんてできない。
  毎日、毎日、お天気の話のレベル。
  日本人は、漢字文化を、中国から導入して・・、
 平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)も自ら発明し、
 2000年の歳月をかけて磨いて来た現在の日本という世界
 に例を見ない言語。
  語彙は豊富だし、表音文字・表意文字と、豊富な語彙
 の中で深化した思索が行われ・・出来た。
  英語で代替できる訳がない。
  今、持っている良品質な質を劣化できるわけはない。
  1例として、あまたある一字一字に意味のある漢字の
 代替英語が有るのならば、示して戴きたい。
  漢字なら一字で済むものを、どんだけ長い英語の言葉
 で説明しなければならないかを思い知るだろう。
  「5・7・5・7・7」の短歌が、日本には有るが、英語
 には、この31文字で「一つの意味の単語」があるという
 から劣悪さであるから驚く。
  31文字をアルファベット文字で順列組み合わせをしな
 ければ、意味が表現できないという単語の存在の悲しさ
 の中にある・・という・・劣悪さなのである・・
  表音文字(表意文字ではない悲しさ)の数列・順列の
 英語はここまで行かないと、一つの単語が出来ないとい
 う悲しい事例の話なのである。
  表音文字と表意文字がある優れた日本語、それも、表
 意文字も数種類あるという世界一の素晴らしさだ。
  日本語で言えば・・平仮名の羅列の表音文字だけの英
 語が優れている訳がない。
  厚い英語の本を読んでいるからっと言って・・すごい
 話ではない・・平仮名の厚い絵本を読んでいる様なもの・・、
  こんな優れた日本語を、占領政策をしたアメリカのマ
 ッカーサーは、日本語を無くして英語化しようとしたと
 いうから・・愚かしい事をしてばかりいる状況だった。
  愚民化政策だった。
.
1946年2月11日、秘密にされていた『ヤルタ協定』の全文が、
 やっと発表された。
  臆面もなくこの様な卑劣な事をする・・民を愚弄(ぐ
 ろう、人をばかにすること)している。
.
1946年4月9日、GHQは、日本の総選挙の投票・開票は、
 アメリカ軍が監視すると発表した。
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1946年4月、日本の工業力を根こそぎ破壊する案、『敗戦国・
 日本への懲罰案』が提出された。
  ポーリーの「日本の懲罰事項などを記した報告書」が、
 正式に、トルーマン大統領に出された。
  敗戦国の経済問題を担当する『経済安全保障政策局』
 の局長だった経済学者のジョン・K・ガルブレイスは、
 エドウィン・ポーリーが懲罰的になっている状態・・、
  ある部下の言いなりに、懲罰的になっているのに我慢
 がならなかった。
  事前に見せられた草案は、日本の工業力を根こそぎに
 するものだった。
  ガルブレイスは、爆弾で破壊され、荒廃した日本の都
 市を見るにつけ、
  その上、そんな懲罰を加えることは耐えがたいと義憤
 に駆られていた。
  このポーリーという人物は、大手石油業者で、民主党
 への資金集めの功績と、トルーマンの個人的つながりを
 誇っていた男で、
  ルーズベルトの死の15日後、後継大統領となったトル
 ーマンが、連合軍委員会のアメリカ代表に、前任者のル
 ービンを排して、新たにポーリーをアメリカ代表に任命
 していた。
  ガルブレイスは、ポーリーを説得しようと思い、ある
 夜、ポーリを訪ね、説得した。
  「日本人だって何か着なければならないだろうから、
 繊維工業は除外しましょう」と言った。
  次に石油、そして、肥料工場というように進めた。
  「実に、骨の折れるものだった」と、ガルブレイスは
 言う。
  1946年4月、ポーリーの報告書は、正式にトルーマン大
 統領に提出された。
  ガルブレイスによって内容が弱められたが、まだまだ、
 厳しい内容であることに変わりはなかった。
  日本の占領政策を実質的に仕切るマッカーサーは、結
 局、その実施を渋った。
  時が移り、そのうち、その報告書は忘れ去られた。
  ポーリー報告書が実施されないまま、1948年3月、スト
 ライク使節団が新たな報告書を出した。
  そして、さらに、陸軍時間のウィリアム・ドレイバー
 が、別の報告書をまとめた。
  賠償額は、そのたびに減り、最終的にポーリー案の10
 分の1になった。
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1946年5月、フ-バー元アメリカ大統領は、この時、来日し、
 日本の人々への食糧の配給が、ちゃんと行なわれている
 かどうかを検証した。
  そして、マッカーサーと、三日間にわたって断続的に
 会った。
  そして、「この戦争は誰がしたのだ」「あの狂気の男
 (ルーズベルト)だ」と二人は同じ見解だった。
.
1946年12月16日、GHQが、日本の国家予算の編成・実行・
 修正は許可が必要だと指令した。
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1948年7月、アメリカ軍・GHQは、日本に圧力をかけて
 「紀元節」を廃止させた。
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1950年代、アメリカで、『黒人差別立法』が改められるこ
 となく、黒人の方々を、相変わらず苦しめていた。
  南北戦争(北軍の代表のリンカーンだという、黒人の
 方々の解放者だとプロパガンダ(嘘宣伝)されている大
 統領と、アメリカ南部の南軍の戦い)が終わっても・・、
  なお、アメリカでは、北部でも南部でも、黒人の方々
 に対する蔑視は続いていた。
  19世紀末から20世紀初頭は、特に、卑劣なアメリカ社
 会で、人種分離政策が『合法的』に進められていた。
  この様な差別は、今・現代の21世紀社会でも、アメリ
 カで続いている。
  本当に、唾棄すべきアメリカ社会である。
  交通機関やレストラン、学校等の公共機関で、白人と
 黒人を分離するものや、
  (例えば1例、バスの前の席は白人専用の特等席で、
 黒人の方々は座ってはいけないとされた・・など)
  このほか、この様な差別行為が影響し、就学率が低く
 なってしまう黒人の方々が・・また、蔑視され、
  また、投票権を、事実上、制限されたり・・
  (卑劣な事に、アメリカ白人たちによる、黒人の方々
 の投票率が低くなるような法律が、色々と作られた)
  (黒人の方々への差別を「あらゆるいやらしい法律」
 を立法して行ない、次々と、悪法をつくったりした)
  何と、住宅を制限することも合法とされていた。
  全米黒人地位向上協会は、これらの差別に立ち向かっ
 た・・が・・、
  アメリカの北部を含む諸地域における黒人差別立法は、
 1950年代になっても改めることが出来なかった。
  その様な状況を変えようと、また、酷い状況に我慢で
 きなくなった黒人の方たちは・・、
  1950年代に入ると、差別を無くし、人間としての尊厳
 を取り戻すための闘いである『公民権運動』を展開して
 行った。
  しかし、キリスト教に洗脳された根強い人種差別の意
 識があるため、
  中々、黒人の方々をはじめ、有色人種に対する差別観
 を、アメリカ社会からぬぐう事は出来なかった。
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1952年、移民国籍法が制定された。
  それでも、相変わらず、日本人は、自由にアメリカに
 移民は出来なかった。
  アメリカでの移民国籍法(すべての人種に帰化権を申
 請する資格を認めた法律)が制定されるまで、アメリカ
 は、日本人を含むアジア人や有色人種に対して冷たかっ
 た・・が・・、
  しかし、この法律が出来ても、移民数の割り当て規定
 が有り、移民と帰化は制限されたままであった。
  1965年の大改正(ハート=セラー法)は、出身国割り当
 て制限を撤廃し、西半球出身者と東半球出身者という大
 まかな枠で移民の数を決めることとし、
  特別な技能を持った人材を積極的に受け入れる姿勢に
 転じた。
  1986年の改正は、偽装結婚による永住権取得を困難に
 するもの。
  2001年9月11日の同時多発テロ以降は、移民を厳しく
 制限しようとする議論が巻き起こり、
  『テロリズムを摘発し阻止するため適切な手段を提供
 することによりアメリカを団結させ強化する法』(愛国
 者法)による修正が加えられた。
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1955年12月、人種差別の国:アメリカ・アラバマ州モント
 ゴメリーで、仕事帰りに、バスの白人席に座っていた黒
 人女性のローザ・パークスさんが、混雑したバスで、白
 人に席を譲らなかったために・・『逮捕』された。
  バス運転手の命令により、しぶしぶ白人に席を譲った
 同乗の黒人の人達に対して、差別待遇に抗議心を持って
 いたパークスさんは動かなかった。
  アメリカでは、この様な些細なことで黒人の方々は逮
 捕されていた。
  この事件をきっかけに、黒人のマーティン・ルーサー・
 キング氏を中心に、黒人の方々の「バス・ボイコット運
 動」が起きた。
  初めは、パークスさんの裁判の日のみの予定だったが、
 ビラの配布や新聞記事によって、それが成功を収めると、
  キング氏は、運動の継続を決めた。
  黒人の方々は、徒歩や車に同乗して通勤した。
  町中のバスは空っぽになった。
  バス会社の収益はがた減りとなり、差別政策に反対す
 る世論も後押しして、
  ついに、1956年11月、「バスの人種差別は違憲」とす
 る最高裁判決が下された。
  遅れたアメリカ社会を象徴した判決だった。
  約1年に及ぶ運動は、黒人の方々へ、当然の勝利をもた
 らした。
  この運動から、キング氏による公民権運動が始まった。
  キング氏は、インドのガンジー師を尊敬していた。
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1961年、この年のアメリカの風景、
  アメリカは、町に、サーカスがやって来て、仮設のテ
 ントを張って興行をする。
  そんなに、いつもあるという訳ではないので町中の人
 たちが見に行く。
  こういう時は、アメリカ人は家族中で行く。
  特に、子供連れで行く。
  こんな、サーカスの仮設テント、ここでも、黒人の方
 たちは、片隅の区切られた席に追い込まれていた。
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1961年、アメリカは、この年になっても、黒人の方々に差
 別をしていた。
  アメリカは、黒人の方々を何百年もの昔に、奴隷とい
 う非人道的行為によって、アフリカから連れて来て以来、
 黒人の方々への差別を、人種差別を・・し続けている。
  この1961年のアメリカのテネシー州の町・ブラウンズ
 ヴィルの記録があるが、黒人の方々へ選挙権を与えてい
 ない。
  この町の人口は、5000人とも言われ、また、1万1700人
 とも言われている。
  その理由は、黒人の方々へ選挙権も与えず、人口把握
 もされてないから・・、卑劣な状態・・、
  セグリーゲショニスト(黒人差別派)の言葉・・
  「○○さんが、ニグロと一緒に、わざわざ、同じテー
 ブルで食事をさせるのは馬鹿げたことだ」、
  「二グロの方じゃ白人と一緒に、ご飯を食べたって、
 シャチこばって、目を白黒さえせるばかりで、おいしい
 とも何とも思いませんよ」・・と・・、
.
1961年、アメリカのテネシー州のブラウンズヴィルへ行く
 機会があり、バスで行くと、停留所の食堂の裏側に暗い
 穴倉の様な入り口があり、
  そこに「カラード」と黄色い殴り書きのペンキの文字
 が、
  そこは、黒人差別されたトイレだった。
  当然、白人用は食堂内にある。
  そして、テント・シティーの事を口に出したら、案内
 をしてくれている人が、「テント・シティーなんて、そ
 んなことを、君はいったい誰から聞いた」と息巻いて言
 った。
  「知り合いが・・」と答えると、
  「あれは黒ん坊が勝手にやっている事だから、俺たち
 は知らんさ」と言った。
  テント・シティーは、選挙の時に、選挙人登録に行っ
 た黒人たちが、町から追放され、
  やむなく、自分たちでテントを張って暮らして居る村
 だった。
  そして、さらに、「彼等には、それだけの能力がない
 からさ」と、選挙権を渡せない理由を言った。
  そして、「我々は、できるだけ彼等に教育を与えて、
 他の都会へ行ってもらいたいだけさ」と、黒人の分散政
 策をとっている事を言った。
  そして、言った、「ところが、彼等は働かん、1日働く
 と2日休む。
  それじゃ、どこへ行っても駄目さ」・・と。
  そして、この案内人の知る黒人の家に行って驚いた。
  10畳ほどの板の間に椅子が二脚、それきり。
  日本の場合、貧乏な生活でも、わけの分からぬ「ぼろ
 ぼろのもの」が部屋中に満ちている。
  しかし、ここは、それを通り越して、一体どうやれば
 取り散らかすことが出来るかと考え込んでしまうほど、
 部屋の中には、物が、何一つないのだ。
  逆に、貧しい清潔さと言える・・と思った。
.
1972年6月17日、ウォーターゲート事件の発端が起きた。
  この事件で、アメリカ大統領のリチャード・ニクソン
 が辞任するという事件だった。
  しかし、この話にルーズベルトが出て来た。
  ウォーターゲート事件とは、1972年6月にワシントンD.C.
 の民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカ
 の政治スキャンダル。
  1974年8月にリチャード・ニクソン大統領が辞任するま
 での盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、
 事件報道、上院特別調査委員会、録音テープ、特別検察
 官解任、大統領弾劾、大統領辞任のすべての経過を総称
 して「ウォーターゲート事件」という。
  お粗末なアメリカというハレンチな事件だった。
  事件は、1972年の大統領選挙戦のさなかに、当時のニ
 クソン共和党政権の野党だった民主党本部があるウォー
 ターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、何者かが盗聴
 器を仕掛けようと侵入し警備員に発見されて警察に逮捕
 されたことから始まった。
  やがて、犯人グループが、ニクソン大統領再選委員会
 (CREEPまたはCRP)の関係者であることが分かり、当初、
 ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事
 件と政権とは無関係」との立場を取ったが、ワシントン・
 ポストなどの取材から次第に政権内部がこの盗聴に深く
 関与していることが露見した。
  さらに、事件発覚時に捜査妨害ともみ消しにホワイト
 ハウスが直接関わり、しかも、大統領執務室での会話を
 録音したテープが存在することが上院調査特別委員会で
 わかった。
  このテープ提出の拒絶や、事件を調査するために設け
 られた特別検察官を解任する(そのため司法長官と次官
 が抗議辞任)など、明らかな司法妨害が政権よりなされ
 た。
  こうした不正なニクソン政権の動きに世論が猛反発し、
 やがて、議会の大統領弾劾の動きに抗しきれなくなって
 アメリカ合衆国史上初めて、大統領が任期中に、辞任に
 追い込まれ、2年2ヶ月に及んだ政治の混乱が終息した。
  ニクソン大統領から指示され、盗聴行為を行なってい
 たのがFBI(連邦捜査局)だった。
  しかし、FBIを調査したアメリカ上院情報特別委員
 会は、徹底的に、FBIを調査した。
  過去にさかのぼって調査すると、「ルーズベルトのボロ」
 が出て来た。
  ルーズベルトは、自分の部下が、信じられなくて、何
 と側近のホプキンズを盗聴するように命じていた。
  しかも、このルーズベルトの盗聴は、徹底的になされ
 ているという、完全に部下を信じてないという盗聴数だ
 った。
  「人間には原罪がある」とするキリスト教を深く信仰
 するキリスト教徒のルーズベルトが、
  「人が信じられないとするキリスト教の大統領」が、
 やりそうな、悪意ある盗聴行為だった。
  側近として、身近で一緒に仕事をする人を信じられず、
 疑(うたぐ)り深く接するルーズベルトだった。
  例えば、ルーズベルトの盗聴指示の徹底ぶりは、1941
 年1月、この側近のホプキンズが、イギリスへ行くという
 「海外の行為」にまで盗聴させた。
  この時は、ホプキンズが、ルーズベルトが、第二次世
 界大戦へ参戦する予定だと、イギリス首相のチャーチル
 へ、ルーズベルト大統領代理で、赴いたときにも行われ
 ていた。
  ロンドンのクラリッジホテルでの会議や夕食会、そし
 て、イギリス代表団のグループが、ホテル内のカフェで
 ルーズベルト大統領の事を話題にしていたことも、その
 様な何気ない会話の一部始終までもが、FBI捜査官に
 よって盗聴されていた。
  ルーズベルト大統領は、「FBIたちが十分監視して
 いることを知り、満足した」と言った、意思表示した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive