ページビューの合計

2017年3月18日土曜日

(増補版)509E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年3月~1890年4月)

題:(増補版)509E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年3月~1890年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年、シッキム条約が締結された。
  イギリスが、チベットと関係を持つようになったのは
 清朝のグルカ征討(1792年)よりも以前で、
  イギリスの勢力は、プラッシーの戦い(1757年、イギ
 リス対インド+フランスとの戦い)等の後、ネパール、
 ブータン両国の国境に迫った。
  1772年、ブータンは、インド・ベンガル地方の混乱に
 乗じてクーチェ・ビハールを占領した。
  ブータンの侵入は、インド・ベンガル地方の直接の脅
 威であったため、イギリス軍は、ブータン軍を破り、ブ
 ータンの首都プカナに迫り、全土を制圧しようとしたが、
  ブータンは、チベットが仏教国であったので、国王の
 要請により、当時、幼かったダライ・ラマに代わり、第
 6代パンチェン・ラマが仲裁を申し入れた。
  その時、イギリスは、チベットが清朝の西部に位置し、
 ブータンは、チベットの属国であるという事実を知り、
  チベットの金銀貨や麝香などの珍しい贈り物を手にし、
 イギリスは、ベンガルとチベットの交易を計画するよう
 になった。
  1774年、ボーグルをチベットへの使者としてパンチェ
 ン・ラマの住むシガツェに赴かせ、
  パンチェン・ラマに好意的に迎えられたが、ラサ政庁
 の鎖国政策により通商関係を確立することはできなかっ
 た。
  その後、約100年間、イギリスとチベットの間には、何
 もなかったが、
  ラサの託宣所のラマ僧達が、チベットには魔力の加護
 があり、イギリス軍の武装を無力にしている。
  今こそ、チベット、シッキム間に、有利な国境を決定
 すべきだと唱え、
  1887年、チベット軍は、シッキムに侵攻した。
  イギリスは、侵入兵の撤退を要求したが、何の反応も
 示さなかったので、
  翌年・1888年、ベンガル政庁はチベット軍を攻撃し、
  1890年、シッキム条約を締結した。
  シッキム条約内容は・・、
  1、 チベットとシッキム間における国境の画定と国境
   不可侵の協約。
  2、 シッキムに対するイギリスの保護権。
  3、 チベット、シッキム間の通商、シッキム国内の遊
   牧、両国官吏の交渉往来。
  (参考)
  今、シッキムはインドのシッキム州となっている。
  インド北東部の、東パキスタンでくびれた地の辺り。
  ネパールとブータンの間。
1890年、チベットが参加しない条約は・・無効。
  チベットは、「チベットの参加しない条約は無効で、
 その条約には従わない」と、至極当然の主張をした。
  さかのぼること17年前の1873年、チベットとの通商(
 インド茶・英国製品などの輸出や羊毛などの輸入)を求
 めるベンガル州政府は・・、
  「チベットの鎖国状態は、駐蔵(チベット駐在)の中
 国官吏(アンバン)が強要している」と見て、インド政
 府に対し、チベットへの入国許可を出すべく清朝に交渉
 するように申し入れた。
  初代ベンガル総督ウォーレン・ヘイスティングズ(在
 任:1773年~1785年)が通商などを求めて、公式に、
 1774年~1775年に、ジョージ・ボーグルを、チベットに
 派遣するなどして以来、約1世紀を経て、中国を介した蔵・
 英関係が再スタートした。
  以後、イギリスは、特別条項で、チベット探検隊の派
 遣計画を許可された1876年の「芝罘条約」、
  チベットの反対にあって探検隊派遣中止に同意した1886
 年の「ビルマ及びチベットに関する条約」、
  シッキム・チベット間の境界を画定し、チベットとの
 通商に関する商議を約束した1890 年の「シッキム及びチ
 ベットに関する英中間の条約」、
  前条約をうけて通商などを約した1893 年の「シッキム
 及びチベットに関する1890年の英中間の条約に増補さる
 べき貿易と公的通信と遊牧に関する章程」など・・、
  次々と、チベットに関する条約を清国と締結していく。
  こうした英・清間の諸条約は・・、
  英国が、従来の歴史的な蔵中関係を西洋由来の国際法
 のフィルター(外挿法:既知のデーターから、その範囲
 外を予測する方法)を通して捉え、
  蔵・中は、「保護関係ではなく、付庸関係(付庸国―
 宗主国の関係)にある・・すなわち・・
  「中国は、チベットに対して宗主権を有する」と規定
 した。
  しかし、自由な国と自己認識するチベットは、「自ら
 が参加しない条約には従わない(中国の宗主権の否定)」
 として、諸条約の履行を拒絶し続けた。
  当然である。
  そこに住み、生活している民の意志が存在しないで、
 何の取り決めとなるのか?
  取り決めとなる訳はない。
  占領以外の何者でもない・・、
1890年2月25日、恵比寿麦酒の発売(3月説あり)  
  1889年10月、日本麦酒醸造会社の工場建設(現在の恵
   比寿ガーデンプレイス)
  ビヤホール(1899年)
1890年3月20日、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世が、ビスマ
 ルク宰相を解任した。
1890年3月24日、東京工業学校(後の、東京高等工業学校)設
 置された(東京職工学校を改称)
  1881年、東京府浅草・蔵前に開設された旧制の東京職
   工学校から・・、
  1890年、改称。
  1901年、東京高等工業学校。
  1929年、官立大学の(旧制)東京工業大学になった。
  1949年より現在の(新制)東京工業大学。 
   ⇒ 東京職工学校
1890年3月25日、女子高等師範学校が創設された。
  高等師範学校から女子部が独立し、女子高等師範学校
 となった。
  お茶の水女子大の前身。
  1890年3月、東京女子高等師範学校(とうきょうじょし
 こうとうしはんがっこう)は、1890年(明治23年)3月、
 東京市神田区(現・東京都文京区)に設立された官立の
 女子高等師範学校で・・、
  略称は「東京女高師」(とうきょうじょこうし)。
  日本最初の女子中等教員養成機関「女子高等師範学校」
 として設立された。
1890年3月26日、第3回内国勧業博覧会(4月1日~7月31日)
  【会場】東京・上野公園
  3月36日に開場式が行われ、明治天皇陛下が御出席され
 た。
  入場者数:1,023,693人
  当初は、ウィーン万博副総裁であった佐野常民を中心
 として、将来の万博開催を目指して少しでも規模を拡大
 した「アジア博覧会」を、皇紀2550年にあたる1890年に
 開催する案が構想されていた。
  しかし、大蔵大臣松方正義らの反対によって、純然た
 る内国博として第3回内国勧業博覧会が開催されることに
 なった。
  このような経緯により、内国博ではあったが出展品の
 販路拡大のために外国人客の誘致に力が入れられ、世界
 各国に招待状が送られた。
  最終的には、外国から246人の入場者があった。
  不景気・インフルエンザの流行・連日の雨、7月1日に
 は帝国議会衆議院選挙があったなどの影響から、全体の
 入場者数は伸び悩んだ。
  そのほかにも、単に西洋の文物というだけでは満足で
 きなくなりつつある民衆に対して、政府はあくまで、第
 1回以来の娯楽を排除する方針を貫いたことも、影響して
 いた。
  会場の建坪は9,725坪(3万2,000平方メートル)で、本館
 のほかに、美術館、農林館、動物館、水産館、機械館、
 外国製品を並べる参考館からなり、
  建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、
  出展品数は、441,458点と増加した。
  東京電灯会社が、会場内に、日本ではじめての電車と
 なる路面電車を走らせた。
  官庁出品物は、褒賞の審査の対象外とされたので、民
 業を振興する意図が明確になった。
  しかし、褒賞については、審査の結果次第では商品の
 売れ行きに大きな影響が出たため、等数に不満をもった
 出展者から訴訟が起こることもあった。
  一方、この博覧会は、1888年からの意匠登録制度を促
 進したことも注目される。
  政府は意匠条例を社会に認知させる意図のもと、出展
 物に限り出願手数料と登録料を徴収しないことにしたの
 で、出願数が急増した。
  このように様々な新しい動きがあった第3回内国勧業博
 覧会であったが、不景気なども重なり、出品数の増加に
 対して、大量の売れ残りが出る結果となった。
1890年3月31日、天皇陛下の御統監による、はじめての陸海
 軍特別大演習が、愛知県で行われた。
  動員数3万人。
  この日の天候は、あいにく豪雨となった。
1890年4月1日、第3回内国勧業博覧会が開催された。
 (~7月31日)
  電車の試運転を公開
1890年4月1日、第1回日本医学会が開催された。
  第1回日本医学会は、1890年、第1回帝国議会・内国勧
 業博覧会を機に、石黒忠悳、大沢謙二、長与専斎、高木
 兼寛、三宅 秀ら乙酉会員有志が発起人となり、学術上
 の知識交換を趣旨として全国に会員を募り、4月1日から
 7日間、東京において開催され、2千余名が参加した。
  しかし、大家の講義にとどまり、研究討論の意図にか
 けているとの強い批判も生まれ、第2回日本医学会は行わ
 れたものの、第3回は開催されなかった。
  また、第1回日本医学会において、薬物学分野から猪子
 吉人が「菌類中毒説」を、また、高橋順太郎が「薬物学
 研究ノ方針」を講演した。
  そして、この会の準備には、帝国大学医科大学薬物学
 教室教授・高橋順太郎が五十数名の「招聘員」の一人と
 して参画した。
  1947年(昭和22年)4月、大阪で開催された第12回日本
 医学会において、「医学および近接科学の進歩発達を図
 り、分科会間の連絡を密にするとともに、わが国の内外
 に対する日本医学界の代表機関とする」目的をもって決
 議された。
  この決議にもとづき、1948年(昭和23年)3月8日、日
 本医師会の設立にともない、日本医学会が常設化された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、キリスト教は、『新たな宗教弾圧者』となろうとしている・・、
.
紀元前753年、古代ローマ建国
  ロームルス(紀元前771年~紀元前717年7月5日)は、ロ
 ーマの建国神話に登場するローマの建設者で、伝説上の王
 政ローマ建国の初代王。
  レムスの双子の兄弟
  王政期:紀元前753年(建国)~紀元前509年まで、ロー
 ムルスに始まる伝説上の7人の王が治めていた(~紀元前
 509年)(伝承による)
  ローマ時代以来の野蛮な風習。
  他人の生命の危険を、大勢の人間が見物するのは、ロ
 ーマ時代以来の野蛮な風習であった。
.
1592年5月24年、文禄の役が始まった。
  秀吉は、文禄・慶長の役を行なったが、その事につい
 て徳富蘇峰は書く・・、
  徳富蘇峰(とくとみそほう)は、1863年3月14日に生ま
 れの思想家、歴史家、評論家で・・、
  『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著し
 た。
  この『近世日本国民史』初版には、豊臣秀吉の朝鮮出兵
 時の見聞録が書かれている・・、
  『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいば
 かりに、日本の女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って
 (南蛮)船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめ
 くさま地獄のごとし』・・、
  南蛮貿易をするキリスト教宣教師やマラーノたちは、悪
 どい入れ知恵をした・・、
  「生きるか?死ぬか?」の九州の中小大名たちは、キリ
 シタンとなって生き延びようとした・・、
  そこに付け込まれたのだった・・そこがつけ込みどころ
 だった。
  (因みに、このキリシタン大名たちの次の代の者たちは、
 きっぱりとキリスト教を辞めている)
  キリスト教をはじめて日本に伝えたザヴィエルたちは・・、
 早くも・・日本を、ヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割
 を演じていた。
  その役目も負っていた・・キリスト教聖職者たちは、そ
 の先兵としての役も与えられていた。
  そして、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイ
 ダは、ザビエルも知っていたこと、「日本に火薬を売り込
 む」ことと交換に、「日本女性を奴隷船に連れ込んで海外
 で売りさばいた」。
  後に、ザビエルたちのキリスト教の宣教師たちは、この
 事がばれて、この事の申し開きが出来ず、『海外追放とな
 った』。
  しかし、この事は、まったくキリスト教に偏するNHK
 は放送していない、日本の方たちへ伝える事をしていない。
 隠している。
  「火薬の欲しい」キリシタン大名たちは、ザビエルたち
 の卑劣な行為・南蛮交易に組していた。
  また、キリシタン大名の大友、大村、有馬の関係者たち
 は、宣教師に言われるままに、天正少年使節団として、ロ
 ーマ法王のところへ行かせた。
  宗教的な求めから行ったのではない。
  宣教師から言われて・・たまたま行ったのだった。
  「インドへ行くが・・どうだい」的な声掛けで行くこと
 が決まった・・、
  そして、その報告書にも、ザビエルたちの南蛮貿易の悪
 行がきされていた・・、
  世界中のあちこちで見られる悪行の証明がなされていた。
  『行く先々で、日本女性が、どこまで行っても、沢山、
 目につく。
  ヨーロッパ各地で50万という。
  肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、
 もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視
 できない。
  鉄の伽(かせ)をはめられ、同国人をかかる遠い地に売
 り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありな
 がら、何故、同じ人間を奴隷にいたす。
  ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
 インドやアフリカまで売っている』・・と記す。
  少年使節団の書いた『50万人の日本女性の悲劇』・・、
  「火薬一樽で50人の日本娘」が売られていった悲劇・・、
  キリスト教宣教師、キリスト教信徒、キリシタン大名
 たちに・・神杜・仏閣を焼かれた悲劇・・、
  殺された仏教僧侶の方々・・、
  この事は、キリスト教に偏するNHKも放送しないが、
 教科書にも掲載されていない(この逆は、プロパガンダさ
 れて掲載されている)。
  「火薬一樽につき日本娘50人」の記録は、必ず放送せよ。
  そして、今、申請中の世界遺産に登録せよ!
  追記せよ!!(作り事のきれいごとだけにするな!)
  豊臣秀吉は、キリスト教本部のルソン島の準管区長・コ
 エリヨに対して、
  「ポルトガル人が、多数の日本人を、奴隷として購入し、
 彼らの国に連行しているが、これは、許しがたい行為であ
 る。
  従って、伴天遠は、インドその他の遠隔地に売られて行
 った『すぺての日本人』を、日本に連れ戻せ」と命じた。
.
1860年~1890年、西部開拓時代。
  これは、北アメリカの時代区分の一つであるが・・、
 時代区分の終結は・・1890年のフロンティアの消滅を区分
 としている。
  1848年には、カリフォルニア州で金鉱が発見され、ゴー
 ルド・ラッシュとなって太平洋岸が開拓された。
  そして、逆に、太平洋岸から内陸部に向かっての開拓の
 波も起こった。
  この様に、西部開拓は、大西洋岸、および、太平洋岸か
 ら内陸に向かって進んでいった。
  1869年には、アメリカ合衆国で最初の大陸横断鉄道が
 開通した。
  この様な中、先住民族であるインディアンの方々にとっ
 て、突然やって来た侵略者に、自分達の土地を強奪された。
  そのうえに・・殺戮された。
  そして、鉱山の町では・・売春も酷かった。
  アメリカ西部は、売春が合法となっていた。
  売春婦は「夜の鳩」と呼ばれた。
  西部の砦の脇にも・・売春宿は作られていた。
  若い女性は、その行為で稼ぐ事も出来たが、年が行くと
 料金的に虐げられた。
  土曜の夜は、4000人の売春婦が、賃金が払われた鉱夫
 たちが押しかける夜で・・盛んとなり、娼館はにぎわった。
  気に入った娼婦を連れて2階へ行くという娼館だった。
  売春婦は、鉛や水銀の化粧を使った。
  それで、体を痛めた。
  また、少量のヒ素を使うと「肌が透きとおる」として
 使われた。
  並んだ小部屋に、女たちは並んで入れられ、男たちに
 選ばれた・・、
  女たちは男たちに媚(こび)を売り気を引いた。
  荒っぽい男たちを扱う時・・呼び鈴で、異常の事態に
 は助けを求めることも出来た。
  その様な客の対応もさせられた。
  現金は使われなかった。
  代用紙幣が作られ、金の役をした。
  また、砂時計が使われ、時間を決められ、目いっぱい
 男の対応をさせられた。
  脱出ルートもあった。
  妻から逃げる客が、そのルートを使うことにも使われた。
  また、地下ルートから娼館へ遊びに来ることにも使われ
 た。
  町の特定の家にもつながっているという「体たらくさ」
 「ひどさ」だった。
  町の人に見つからずに来れると・・裕福な男たちは、
 そのルートを使って女を買った。
  薬品で体を洗うことも求められた。
  鉄道員が来ると赤ランプを付け、露骨な呼び込みも止
 めた。
  地下の町が作られ、ビーナス街と言った。
  日の当たらない地下の部屋で体を売らされた。
  賭博と酒もはびこった。
  身分を隠した。
  売春婦だとはせず、下宿人と書いた。
  売春街は無法者を隠した。
  その様な客は、チップをはずんでくれる上客だった。
  保安官が来ても黙っていた。
  女主人も、保安官に金を渡した。
  女たちは5年しか働けなかった。
  精神的苦痛から自殺する女も多かった。
  第一次大戦で止められた。
  アメリカ政府は、「戦士に性病が拡がる」ことを恐れた
 ためだった。
  この時は、欧州で、アメリカ兵は盛んに女を買った。
  アメリカで出来ない反動だった。
  フランスでやった。
  アメリカ政府は、「必要悪」として公然と認めていた。
  ハワイのホノルルは、大変、有名な場所となった。
  アメリカ海軍は、有り難がって使った。
  アメリカ軍は、「3分で行為を済ませ」と命じた。
  出来なかった兵には、「振替チケット」を配った。
  アメリカ陸軍省は、性病のパンフレットを作って配った。
  性病の流行が酷(ひど)くなって作られたのだった。
  19世紀~20世紀初頭、特に、戦時中に盛んとなった。
  売春宿は情報源となると見られた。
  盗聴器が仕掛けられた。
  売春の歴史は古い。
  紀元前2300年、メソポタミアは、神殿娼婦が居た。
  神殿での性交は儀式とされていた。
  コリント、ギリシャにも1000人の売春婦が居た。
  町の宿でも商売としてなされる娼婦が居た。
  キリスト教も売春を行なった。
  カトリック教会は売春宿を持った(経営した)。
  金がキリスト教は欲しかった。
  キリスト教の聖アウグスティヌスは、「売春は否定で
 きない」と言った。
  売春宿を作ったキリスト教聖職者も居た。
  また、売春宿を奨励した聖職者も居た。
  名目は、結婚を促(うなが)すだった。
  キリスト教徒だけに性交させた。
  また、キリスト教会は売春宿に献金させ、潤った。
  今・現代は、電話で呼び出すシステムがあり、アメリ
 カで合法化されている町までさえある。
  欧米は、女性に優しいとか、倫理観があると言われて
 いるが、これは、完全なプロパガンダ(嘘宣伝)。
  日本人こそ、女性に対して優しく、高潔な倫理観がある。
.
  題:バチカンが最悪行為の児童虐待・・キリスト教の
    最高の機関がこのレベル・・他は推して知るべし・・
.
2014年1月17日、国連が、バチカンに児童虐待への対策迫る。
  AFP=時事
  バチカン(ローマ法王庁)は、2016年1月16日、ローマ・
 カトリック教会の聖職者による『未成年者への性的虐待』
 を撲滅するための取り組みついて、初めて国連(UN)から
 の質疑に応じた。
  ローマ法王、聖職者の児童性的虐待で委員会を新設
  バチカンの使節団は、スイス・ジュネーブ(Geneva)に
 ある国連・子どもの権利委員会(Committee on the
 Rights of the Child)にて、6時間に及ぶ質疑に応じた。
  バチカンの元検察高官チャールズ・シクルナ(Charles
 Scicluna)氏は、同教会は何をなすべきかを理解している
 と主張した。
  「特定の事案について、今とは違った対応が必要なこと
 は理解している」などと述べた。
  これに対し同委員会は、バチカンの決意を疑問視。
  サラ・オビエド(Sara Oviedo)委員は、使節団に対し
 て、「態度の変化に疑問を持っている」として、「あなた
 方(バチカン)は、実行に移す必要がある。
  われわれは、具体的な行動を目にする必要がある」と
 述べた。
  国連が、1989年に採択した「子どものための権利条約
 (Convention on the Rights of the Child)」の締約国
 は、規則が遵守されているかどうかを示した報告書を定期
 的に提出することが求められており、18人の委員からなる
 同委員会がこれを吟味する。
  報告書の提出に同意しているバチカンが、同委員会に、
 最初に、使節団を派遣したのは、同教会の聖職者の児童
 虐待問題が明るみに出る前の1995年で、16日の派遣が2回
 目となった。
  バチカンが提出した報告書と、同日の質疑応答に基づき、
 同委員会は、2月5日までに勧告を行う予定。
  勧告内容は、法的義務ではないが、道義的責任が問われ
 ることになる。
  英国に拠点を置く「子どもの権利国際ネットワーク(
 Child Rights International Network)」のベロニカ・
 イエーツ(Veronica Yates)代表は、AFPの取材に対し、
 「国連からのメッセージは明白。
  『あなた方(バチカン)は規則を守っていない』『責
 務を果たそうという意欲がない』『否定し話をそらして
 いる』だ。
  人権を促進する国際機関が、この様に言うのは、これが
 初めてだ」と、この日の質疑応答の意義を強調した。
  (評)
  キリスト教の最高の組織がこの最悪レベルである。
  他は、推して知るべし・・、
  キリスト教に偏するNHKよ、この事を報じよ!
.
2017年2月2日、「長崎の天草地方の潜伏キリシタン関連遺
 産」世界遺産登録のための推薦書が、再度、ユネスコへ
 提出された。
  前回、この世界遺産登録は、東南アジアなどに普通に
 存在している遺産と同程度で、特別性がないと判定され
 たり、種々、指摘されていた・・それの再チャレンジとな
 っている(大分、無理をしての申請だった)。
  そして・・、
  題:今、キリスト教は、新たな宗教弾圧者に、なろうと
 している。
  長崎のキリスト教関連の世界遺産登録は、歴史を曲げ、
 事実を曲げて、嘘を作ろうとしている・・、
  日本人は、本当に、温厚な民族だ・・、
  その1例を考えてみると・・、
  キリスト教の日本の禁教の歴史の中で・・、
  江戸幕府は、そう厳しい取り締まりをした訳では無かっ
 た。
  それが、ヨーロッパ社会と同じ様な、卑劣な、そして、
 非人道的な取り締まりが、日本で行なわれたと・・錯覚
 しようとしている・・そして、錯覚させられている・・、
  この主な原因者に、キリスト教とNHKが居る。
  この様な酷い弾圧が、日本でもなされたと思わせる事
 が・・錯覚が・・キリスト教には都合が良いのである。
  厳しい取り締まりがあった中を、信仰を守ったのだと
 したいのである。
  キリスト教は、その様なプロパガンダ(嘘宣伝)をして
 来ている。
  また、キリスト教に偏するNHKも、ひたすら「キリス
 ト教は、虐(しいた)げられた」という嘘番組を放送して
 いる。
  キリスト教禁教令の以後、1600年代の半ば以降、徳川
 時代のごく初期から、事実上、徳川幕府は、キリスト教
 取り締まりから手を引いた・・ノータッチとなった。
  この様な史実は、まったくと言ってNHKやキリスト教
 は、説明もしないし、放送もしない。
  徳川幕府は、『信仰の黙認さえもした』のである。
  研究論文に、「17世紀半ば以降は、信仰が事実上黙認
 されていた」と明記されている。
  この事実を無視しているのか?知らないのか?NHK
 は、キリスト教が弾圧を受け続けたと放送している。
  その様な嘘を放送し、明治になってキリスト教が自由
 になったという歴史観で、『間違った歴史観』で、キリス
 ト教に偏する放送を続けている。
  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録
 申請も、この歴史観から申請しようとしている。
  間違いである・・デッチアゲである。
  その申請主旨の、「弾圧の中、信仰を忘れず、カトリッ
 クに復帰した」というのは嘘である。
  はっきりした嘘であり、デッチアゲである。
  世界遺産登録を目指すと言うが、嘘・デッチアゲで登録
 を目指すというのは、『恥ずかしくないのか?』と問いた
 い。
  長崎県平戸市生月島(いきつきしま)の方々が、明治に
 信仰が認められた時でも、カトリックにはならなかった。
  それは、信徒の長老の言葉でもその理由が分かる・・、
  「(カトリックの人から)一緒にならんかと言われた
 が、元は同じでも拝み方が違う。先祖の教えは絶やせな
 い」・・である。
  もう、今の状態は、キリスト教から程遠い、仏教や神道
 などと習合して、『キリスト教とは別の、キリスト教と
 異質な宗教に・・変容しているのである』。
  キリスト教だって、節操無く色々な宗教と習合し、また
 集合するという・・習合のごちゃまぜの宗教であるという
 ことを忘れないで戴きたい。
  天使だって、他の宗教からの拝借品、借り物・・、その
 他ことごとにも、たくさん、この様な事はある。
  この九州の長崎県平戸市生月島の方々の宗教は、キリス
 ト教では、「最早(もはや)、ない」のである。
  このキリスト教と別な宗教に変容した宗教も、『尊重
 して差し上げなければならない』。
  それを、キリスト教は必死に戻そうとしているが、新た
 な『宗教の改宗の弾圧になる』ということを、キリスト教
 は知らねばならない、悟(さと)らねばならない。
  今、キリスト教は、新たな『宗教弾圧者』に、なろう
 としている。
  嘘の世界遺産登録は取り下げるべきである。無理であ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月16日木曜日

(増補版)508E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年2月~1890年3月)

題:(増補版)508E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年2月~1890年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
19世紀後半、黄禍論(こうかろん)
  19世紀半ば~20世紀前半にかけて、北アメリカ、ヨー
 ロッパ、オーストラリアなどの白人国家において現れた、
 黄色人種脅威論で、そこには、キリスト教に洗脳された
 白人の優越性と黄色人種の劣等生という考え方があり、
 洗脳された人種の差別論だった。
  アメリカやヨーロッパでは、黄色人種の台頭を懸念し、
 白人文明ないし白人社会に脅威を与えると恐れた。
  軍事、政治、経済、社会のいずれかにおいて、黄色人
 種の活躍が既成の白人支配体制に大きな影響を及ぼすと、
 宗教洗脳された白人社会に想像され・・、
  それによって「黄禍論」が唱えられた。
  13世紀のモンゴル帝国のヨーロッパ侵略の想像がある
 と論じるものもあるが、
  まったく裏付けのない宗教洗脳された非科学的な論理
 だった。
  その一方、日本では、アジア諸民族の連帯を説く「ア
 ジア主義」が主張された。
  黄禍論が・・人種的な言説が・・拡大したからという
 一面があった。
  そしてのちに、時は太平洋戦争へと至って行った。
  この様なことから、アジア太平洋戦争を「人種戦争」
 と捉える論説・作品は少なくない。
  人種的偏見が戦争へとつながって行った。
  さらに、他資料では・・、
  日清戦争末期の 1895年春頃から、ヨーロッパで唱えら
 れた黄色人種警戒論で、
  19世紀末に、ドイツの地理学者 F.リヒトホーフェンは、
 アジア民族の移住と、労働力の脅威にふれて、黄色人種
 の人口が圧倒的に多いことが、将来の脅威となるであろ
 うと指摘した。
  そして、日本を極東に閉じ込めるべきだと主張した。
  さらに、別資料では・・、
  白人種の正当化理論として・・、黄色人種が、白色人
 種を凌駕(りょうが)するおそれがあると主張し、
  また、黄色人種が、やがて世界に災禍をもたらすであ
 ろうと主張し・・、
  アジアに対する欧米諸国の侵略と黄色人種の圧迫を正
 当化するために用いられた。
  ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が、画家に「黄禍の図」
 を描かせ、それをロシア皇帝ニコライ2世に贈ってから、
 黄禍論がヨーロッパで問題となり・・、
  日清戦争、義和団事件などに際して、この言葉を用い
 たのが最初とされ、
  Yellow Perilという英語となって、
  とくに、日露戦争以後広まり、
  19世紀から20世紀初頭におよび、アメリカにおける、
 中国系移民や日系移民の排斥につながった。
  また、オーストラリアにおける、黄色人排斥の白豪主
 義にも黄禍論がある。
  キリスト教の宗教洗脳による有色人種蔑視を根底にし
 た黄禍論が、白人社会に広がり、戦争へとつながって行
 った。
1890年2月27日、浅草区で大火。
  東京・浅草三間町で大火、焼失1500戸。
  浅草区三間町から出火し、折からの北西の強風にあお
 られ寿町、駒形町、黒船町へと延焼し、全焼1469戸、焼
 損面積1万2828坪(4万2332平方メートル)
  この大火で、常備されて間もない蒸気ポンプが使用さ
 れた。
1890年2月28日、菊花紋章の乱用の禁
  商品などへの菊花紋章の乱用が禁止された。
  江戸時代より・・幕府の葵紋とは対照的に、菊花紋章
 の使用は自由とされていて、
  一般庶民にも浸透し、
  この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が
 作られるなど、各地に広まっていた。
  1867年(慶応3年)3月28日の太政官布告第195号で、
 提灯・陶器・貢物などに菊紋を描くことを禁止され、
  1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第803号で、
 社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺を除き一切の
 使用が禁止された。
  その後、徐々に社殿の装飾や幕・提灯に菊紋の使用が
 許され、
  1879年(明治12年)5月22日の太政官達第23号で、一般
 の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用することが許さ
 れていた。
1890年3月4日、イギリスでフォース鉄道橋が完成(開橋)
 した。
  スコットランドのエディンバラ近郊のフォース湾に架
 かる鉄道橋で、
  全長2530mのカンチレバートラス橋。
  トーマス・バウチは、スコットランドのテイ湾に架か
 るテイ橋を設計した人物であった。
  そのテイ橋は、1878年に開通した長さ約3kmのトラス橋
 で、
  バウチは、この功績でナイトの称号を与えられている。
  当代随一の設計者として知られていた。
  しかし、スコットランドは、風が強く、テイ橋は、完
 成した翌年・1879年に、強風で崩壊してしまった。
  運悪く通過中の列車が、テイ湾に落下した、そして、
 75名の犠牲者・死亡者を出した。
  この様な悲しい歴史があるスコットランドの橋だった。
  このフォース鉄道橋は、2015年に、ユネスコの世界遺
 産に登録された橋で、高さ100メートルという、大きな橋
 であるが・・、
  この建設に、日本人が関わっていた。
  スコットランドの強風にも耐え抜ける橋を造るべく、
 カンチレバーという構造が採用された。
  日本人の渡邊嘉一氏(長野県出身)は、現在の東京大
 学工学部を卒業すると、1884年に、グラスゴー大学に留
 学した。
  そして、卒業あとも、スコットランドにとどまり、
  当時、建設中であったこのフォース鉄道橋の建設工事
 監督を任された。
  2007年発行のスコットランド紙幣にも印刷され、現在
 でも使われている・・この橋・・、
  渡邊嘉一は、帰国後、日本土木会社の技術部長となり、
 そのあと、参宮鉄道、関西瓦斯、東京石川島造船所(石
 川島重工)、京阪電気鉄道会社、京王電鉄などの社長を
 務め、「日本土木史の父」と呼ばれている。
  フォース鉄道橋の前に、ダンディーンのティ・ブリッ
 ジという橋が建設されたが、強風で壊れ、走行中の列車
 とともに崩壊、多数の犠牲者を出したという惨事があっ
 た。
  その教訓からも、風に強い橋にすることが最重要課題
 だった。
  橋に使用された鋼材は50,000トンを越え、リベットの
 総数は650万個。
  そして、建設に関わった作業員は約4600人で、57人が
 建設における事故犠牲者となり、橋に尊い命を捧げた。
  この様な意味もあって、スコットランドの方々の思い
 入れの強い橋となっている。
1890年3月6日、東京駅前の三菱村と言われる地・・丸の内
 近辺の官有地が、岩崎弥之助に払下られた。
  岩崎弥之助が、政府から丸の内一帯の軍用地だった10
 万坪余りを(いわゆる三菱ヶ原)を譲り受けた。
  財源に苦しむ政府は、麻布に新兵舎を建設するための
 費用を捻出しようと、三菱会社(正式には岩崎久彌総代
 理人、岩崎彌之助個人)へ150万円で払い下げた。
  当時、一帯は、朽ち果てた古い大名屋敷のほかは、草
 が生い茂るばかりの荒れ地だった。
  三菱社、丸の内陸軍省用地、並びに、神田三崎町練兵
 場土地(353,000㎡余)の払下げを受け・・、
  1890年9月、丸ノ内建築所設置。
  1893年12月、三菱合資会社設立。
  1894年6月、丸の内最初の事務所建築である「第一号館」
   竣工。
  1923年2月、「丸ノ内ビル」竣工。
1890年3月15日、琵琶湖疏水(びわこそすい)が竣工した。
  琵琶湖から京都市内に通じる水路・運河で・・、
  大津市三保ヶ崎から長等山などをトンネルで抜け、京
 都市東山区蹴上(けあげ)を通り・・宇治川に合流する。
  第一疏水は、長さ8.7キロで、1890年に完成した。
  並行する第二疏水は、長さ7.4キロで、1912年に完成し
 た。
  舟運・発電・上水道・灌漑の目的で、当初は開削した
 が、現在は、蹴上浄水場への供給が主目的。
  京都府知事の北垣国道が、舟運の利便性を高め、工業
 用水や農業用水、飲料水を確保して近代化を推し進めよ
 うと考え、1885年に、工事を着工し、
  1890年に、大津から鴨川までの第一疏水が完成した。
  日本初の鉄筋コンクリート橋、インクライン、疎水分
 線の水路閣などが、1996年に、国の史跡に指定された。
  西欧の近代的土木技術を学んだ日本人技術者による大
 規模土木工事であり、
  明治中期における日本の土木技術水準の高さを示す画
 期的な事業だった。
  田辺朔郎(さくろう)の設計、施工によるもの。
1890年3月15日、博文館から「日本文学全書」24冊の刊行が
 始まる。
  博文館は、1887年、大橋佐平が、東京本郷で創業した
 出版社で、創業にあたり、集録雑誌「日本大家論集」を
 創刊し、驚異的成功を収めた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ポーランドの孤児たちを・・シベリアの極寒の地から・・日本軍は救出した・・
    今でも・・ポーランドの方々は・・その行為に対し・・感謝をして戴いている・・
.
1920年7月、日本軍が、ポーランドの孤児たちをロシア兵か
 ら救出した。
  この様な行為は、1922年にも、救出作戦は行われた。
  ポーランドに駐在した元大使が、ポーランドの方々か
 ら、大変、感謝されて感動したと記しています。
  http://shuchi.php.co.jp/article/1812
  当時、可哀想なことに、ポーランドは、領土を分割さ
 れ、国家を喪失していた。
  ロシアに占領され、ロシア領とされていた。
  そこで、ポーランドの方たちは、独立のために立ち上
 がった。
  しかし、鎮圧され・・、
  国の英雄となるべき方々は、ロシアによってシベリア
 へ流刑にされた。
  第一次世界大戦までに・・その数は5万人以上に上った。
  また、第一次世界大戦では、ロシアとドイツの戦場と
 なったポーランドだった。
  ポーランドの方々は、両軍に追い立てられて、流民と
 なって・・シベリアへ流れ込んだ。
  その様なポーランド人の方々は、15万人~20万人にま
 で膨れ上がった。
  そして・・ロシア革命が起きた・・そして・・内戦が
 起きた・・、
  その戦火の中で、シベリアのポーランドの方々は・・
 凄惨な行き地獄へと・・追い込まれた。
  食糧も医薬品もない中を、多くの人々が・・シベリア
 の荒野をさ迷った・・
  彷徨いの中で、多くの方々が餓死した・・、
  そして・・病死した・・、そして、凍死した・・、
  生きるか死ぬかの中で・・食べ物を先に子供たちへ食
 べさせていた母親が・・ついに力尽きた・・
  また、その様な母親の胸にすがって涙を流しながら・・
 その子供たちも・・死にゆくという光景が・・あちこち
 にあった・・、
  親を失った孤児たちも・・大勢いた・・、
  1919年、そのあまりにひどさに・・、また、悲しい悲
 劇的な状況に・・見かねたウラジオストク在住のポーラ
 ンドの方たちは立ち上がった・・、
  当時、シベリア出兵中の日本軍が居た。
  シベリア出兵は・・アメリカも、イギリスも、フラン
 スも、イタリア軍なども・・居た。
  ポーランドの方々は・・、初め、アメリカや・・ヨー
 ロッパ諸国の軍へ救いの働きかけをした・・
  しかし・・、ポーランド孤児たちの窮状を救って下さ
 いと懇願するが・・、
  ・・救出の行為は・・得られなかった。
  最後の頼みとなった日本軍が・・その要請に応えてく
 れた・・その行動を起こしてくれた。
  救出要請の訴えを聞いた日本政府は、その対応は早か
 った・・
  わずかな日数の後には・・その救出の行動が決断され
 た。
  そして・・日本陸軍の支援とともに・・日本赤十字社
 が行動した。
  そして、救出されたポーランドの孤児たちは、1920年
 (大正9年)7月、日本の地へ・・敦賀経由で東京に到着
 した。
  この様な行動は、1922年(大正11年)にも行なわれた。
  最初に、375人の児童が救われ・・、
  第2回で、390名が救われた・・、
  シベリアで死の淵をさ迷ってきた孤児たちは・・栄養
 失調で身体も弱り・・腸チフスなどの病気が猛威を振る
 うこともあった・・、
  1921年(大正10年)7月11日には、孤児たちを必死に看
 護していた看護婦の松沢フミさん(23歳)が、腸チフス
 に感染し・・殉職された。
  孤児たちも・・彼女の死を悼み・・涙にくれたと記録
 されている。
  日本の民間の方々も、不憫(ふびん、かわいそうなこ
 と。あわれむべきさま)なポーランド孤児たちを温かく
 迎え、世話をした。
  東京でも・・大阪でも・・慰問品や寄贈金が次々と寄
 せられた。
  慰安会も、何度も開かれた。
  この様な献身的な看護と、温かい周囲の行動のかいも
 あって、来日当初は、飢えて、体力も衰えていた孤児た
 ちは、
  元気を取り戻し、全員無事に、ポーランドへ帰国でき
 た。
  横浜港や神戸港から出航する時、幼い孤児たちは、親
 身に世話をしてくれた日本人の看護婦や、保母たちとの
 別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどだった。
  苦難に満ちたシベリアでの生活を過ごした孤児たちに
 とって、これほどまでに温かく親切にされたのは、物心
 ついてから初めてということも多かったのでしょう・・、
  彼らは口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を
 連発し、「君が代」などを歌って、感謝の気持ちを表わ
 した。
  帰る子供たちも、大勢の見送りの日本人たちも、涙を
 流しながら、姿が見えなくなるまで手を握り続けていた。
  (別史料も参考に・・)
  1920年から1922年にかけて、数回にわたり、合計765名
 のシベリアのポーランド孤児を受け入れ・・、
  さらに、孤児たちの世話役として65名のポーランド人
 の大人も受け入れ・・、
  東京や大阪など日本各地で厚い保護の元、1年ほど生活
 をした。
  その後、孤児たちは、無事にポーランドへ帰還した・・、
  この中には、多くのユダヤ系ポーランド人が含まれて
 いた。
.
1945年12月、白洲次郎が、GHQ司令長官のダグラス・マ
 ッカーサーを怒鳴りつけた。
  白洲次郎(しらすじろう)は、連合国軍占領下の日本
 で、吉田茂の側近として活躍した。
  終戦連絡中央事務局や、経済安定本部の次長を経て、
 商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。
  (参考)
  終戦連絡中央事務局:(しゅうせんれんらくちゅうお
 うじむきょく)は、
  太平洋戦争の終結に伴い、GHQとの折衝を担当する
 機関として、1945年8月26日に、終戦連絡事務局官制(昭
 和20年勅令496号)により設置された政府機関だった。
  白洲は、吉田茂の側近として、連合国軍最高司令官総
 司令部と渡り合った。
  吉田政権崩壊後は、実業家として、東北電力の会長を
 務めるなど多くの企業の役員を歴任した。
  一時は忘れられた存在であったが・・、
  1990年代前半頃から、少しずつ再評価され、各種メデ
 ィアで取り上げられることが増えた。
  21世紀に入ってからは、「日本のプリンシパル」(有
 数の要人)と評価する書籍が多く刊行されている。
  この白洲が、この時・1945年12月に・・、
  昭和天皇陛下からダグラス・マッカーサーに対するク
 リスマスプレゼントを届けた。
  その時に、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼント
 がぞんざいに扱われた為に、白洲は激怒した。
  「仮にも天皇陛下からの贈り物を、その辺に置けとは
 何事か!」と怒鳴りつけた。
  マッカーサーは、持ち帰ろうとした白洲に慌てた。
  その白洲次郎が・・、
  占領が終わった後の『日本の親米保守派』のことを、
  「独立回復後の今日でもそうである。米語を話し、と
 にかく米国人のご機嫌をとらんと努力する。
  それ以外のことは考えない日本人が、残念ながら多数
 存在する」・・と。
  そして、この白洲の言葉を読んだ伊藤貫氏は・・、
  「この親米保守派というのは、『強そうな奴』に媚(
 こ)びへつらうだけのコラボレイショニストだったのか」
 と思ったという。
  それが、朝日新聞やNHKという記述もある。
  戦時中は、軍にへつらい、そして、戦後は、親米保守
 となってアメリカにへつらった・・と・・、
.
2017年3月5日、中国の軍事費の伸び率
  驚くべきことだが・・次のような数字がある・・、
  中国政府の公表する数字がまったく信用が出来ないと
 いうが・・、
  それでも、中国の発表した軍事予算と伸び率を見ると
 ・・以下の様になる。
  2000年度、1200億元、前年比の伸び率・17  %
  2001年度、1400           16
  2002年度、1700           21 
  2003年度、2000           17 
  2004年度、2250           12.5
  2005年度、2600           15 
  2006年度、2950           13.5
  2007年度、3500           18.5
  2008年度、4100           17 
  以上の様に、毎年、二桁のハイ・ペースで伸び続け、
 5年~6年で倍になるという・・驚異的な伸びとなってい
 る。
  その目的・・狙いは・・
  1)短期的に:台湾の有事の場合、アメリカに対する
        けん制。
  2)長期的に:アジアからアメリカの勢力を駆逐し、地
        域の覇権を確立する。
  そして・・近年の状況は・・驚異的な額となっている。
  最近の、2017年3月5日、読売新聞に、これに関連する
 記事が掲載されていた。
  中国の「国防予算」(軍事予算)が初めて1兆元(約
 16.5兆円)を突破することが確実になった・・と報じて
 いた。
  また、「強軍建設」路線を進む中国は、アメリカ軍と
 の対立も念頭に、最新兵器の配備を急ピッチで進めてい
 る・・と報じた。
  この記事を参考にして、以下に抜書きすると・・、
  ・中国の軍事費は、アメリカに次ぐ世界第2の規模で、
   2016年は、日本の防衛予算の・・約3.2倍だった。
   また、世界第3のロシアと比べても・・約2.5倍とな
   る。
  ・専門家は、「潤沢な予算で軍備拡張を進められるこ
   とが出来る」と言う。
  ・1月に就任したトランプ米大統領は、「力による平和」
   を掲げ、国防費を約1割増やし、軍備増強を図る方針
   を示している。
    中国の習近平政権も、「自国の安全に対する脅威」
   に毅然と立ち向かう姿勢を示している。
  ・3月3日に、北京で開幕した会議で、軍出身委員から
   軍備増強を求める声が相次いだ。
   「中国の軍事費は、アメリカの4分の1だ」・・
   「もっと増やす必要がある」・・と、まくし立てた。
  ・また、「建軍の父」と言われる朱徳の孫は・・、
   「中国は、米国に比べて低い」。
   「国際水準に並ぶまでにまだ大きな空間がある」と
   主張した。
    また、全人代の傳氏も・・、
   「中国は、GDPの1.3%なのに、北大西洋条約機構
   (NATO)加盟国は2%まで引き上げようとしてい
   る」と言った。
  ・全人代代表で、中国軍事科学院研究員の少将は・・、
   「海、空、ロケット軍、(宇宙とサイバー分野など
   を担う)戦略支援部隊」の建設に(予算を)傾斜配
   分すると言った・・、
    また、海軍強化の一環として、建設中の国産初の
   航空母艦について、兵器や装備の取り付けが順調に
   進み、まもなく進水予定である・・と言った。
  ・習政権は、陸海空軍などの統合運用と戦力精鋭化を
   進めてきた。
    新たな戦略に対応するための兵器の近代化や、情
   報通信システムの構築をするためには「膨大な予算
   が必要」と・・、
    1月には、習氏をトップに、軍事面の開発研究に民
   間の資金や技術を導入する。
    そのための「軍民融合発展委員会」を発足させた
   ・・と・・など・・、
   因みに、日本の防衛費は・・1%以下の0.93%・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月13日月曜日

(増補版)507E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年1月~1890年2月)

題:(増補版)507E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年1月~1890年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年1月27日、慶応義塾が大学部を開設。
  1858年(安政5年)10月、開塾
    福沢諭吉が、藩命により江戸築地鉄砲洲に中津藩
   中屋敷内(現:東京都中央区明石町)に蘭学塾(1863
   年に英学塾に転向)を開いた。
    これが慶應義塾の起源。
    この時、福沢諭吉・・25歳。
    昔の日本人は偉かった・・若くして大志を実行し
   た。
  1868年(慶応4年~明治元年)4月、新銭座の新校舎が
   完成すると、時の年号をとって塾名を「慶應義塾」
   と定めた。
    同時に、共立学校の制度として、志を同じくする
   ものが共同で社を結び、家塾から脱して近代私学と
   して発足した。
  1871年3月、三田に移転。
    三田の地は、島原藩の中屋敷があったところで、
   前年・1870年に、邸地約1万2千坪を貸し下げられ、
   翌1871年年に、払い下げを受けた。
  1873年4月、学課を整備し、正則・変則の両科新設
  1875年5月1日、三田演説館竣工、開館
  1880年11月、「慶應義塾維持法案」を発表する
  1889年8月、「慶應義塾規約」制定
  1890年1月、大学部発足、文学・理財・法律の三科を
   置く。修業年限3年。
    私立として最初の総合大学。
    これまでの課程を普通部と呼ぶ。
1890年2月1日、國民新聞が創刊。
  徳富蘇峰主宰の「国民新聞」が創刊される。
  蘇峰が・・「新聞其物をして社会の生活と一致合体せ
 しむる」・・を、基本方針として発刊した。
  創刊当初は、政治、経済、文化等のさまざまな分野を
 報道・論評する生新な新聞として人気を博した。
  また、開明的なナショナリズムと、平民主義 (ブルジ
 ョア民主主義) の立場からの欧化政策を主張し、知識人
 層に歓迎された。
  ・・が・・蘇峰が、大隈重信、松方正義に次々と接近
 しては離れ、
  最後に、日清戦争後、蘇峰が、山県有朋、桂太郎の長
 州閥に密着して御用新聞化した。
  この山県、桂系の代弁新聞となることにより、官僚、
 軍人の支持を得るようになって、その論調は、政界に大
 きな影響力をもった。
  1913年(大正2年)の憲政擁護運動でも、桂内閣を支持
 して民衆の襲撃を受けたが、根強い蘇峰信者の支援を得
 て紙勢は衰えなかった。
  新聞統合で「都(みやこ)新聞」と合併し、
  1942年(昭和17年)10月、「東京新聞」となった。
1890年2月3日、第伍海軍区鎮守府を室蘭に設置した。
  1890年2月4日勅令第7号「第五海軍区鎮守府位置設定ノ
 件」によって、室蘭鎮守府の設置を内定したが、室蘭は
 地形的に太平洋からの攻撃に対して防御が困難であると
 の理由で、
  1895年6月12日に、軍港予定地を大湊に変更した。
  しかし、大湊に鎮守府の設置は実現しなかった。
1890年2月5日、メキシコに公使を置く(アメリカ国公使の
 陸奥宗光が兼務)
  在メキシコ日本大使(全権大使)
  陸奥宗光   :1890年(明治23年)
  建野郷三   :1891年(明治24年)~1894年(明治2年7)
  栗野慎一郎 :1894年(明治27年)~1896年(明治29年)
  室田義文   :1896年(明治29年)~1900年(明治33年)
  佐藤愛麿   :1900年(明治33年)~1902年(明治35年)
  杉村虎一   :1903年(明治36年)~1906年(明治39年)
  荒川巳次   :1906年(明治39年)~1907年(明治40年)
  1890年、駐サン・フランシスコ珍田領事メキシコとの
   貿易の可能性を調査。
  1890年、メキシコ初代駐日領事サルタレルが横浜に到
   着。
  1891年6月、建野郷三(10年間大阪府知事であった)が特
   命全権公使としてポルフィリオ・デイーアス大統領
   に信任状を提出した。
    しばらく後の会合での発言で、日本とメキシコの
   人種的近似性、両国語の類似性について言及、「ワ
   ラチェ」が両国で同じ意味であると述べた。
    一方メキシコ公使館もこの年の1月、東京に開設さ
   れた。
  1891年11月、メキシコのホセ・マルテイン・ラスコン
   特命全権公使が天皇陛下に拝謁した。
1890年2月8日 閣議が、青木周蔵外相提出の条約改正案を決
 定した。
  テロによって大隈が遭難した後、、1889年12月24日、
 青木周三が、第1次山縣内閣の外務大臣に就任した。
  そして、外相として「青木覚書」を閣議に提出し、承
 認を受けた。
  この後、対イギリス条約改正交渉をみずから指揮し、
 駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、
  1891年、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判
 権撤廃の条約改正に奮闘した。
  青木の条約改正案は、従来のものと異なり、治外法権
 に関して「対等合意」
  (外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は
 領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目
 指した。
  帝政ロシアが、東アジアに進出することに不安を抱い
 たイギリスが、日本に好意を持った。
  また、時勢にも恵まれ、交渉は成功しかけた・・が、
 新条約調印寸前の、1891年5月、大津事件が発生し・・青
 木周三は引責辞任した・・、交渉は中断された。
1890年2月10日、裁判所構成法が公布された。
  区裁判所、地方裁判所、控訴院、大審院の制度が出来
 た(明治23年法律第6号)
  公布:明治23年2月10日
  施行:明治23年11月1日
  公布文:
   朕裁判所構成法ヲ裁可シ之ヲ公布セシム此ノ法律ハ
  明治二十三年十一月一日ヨリ施行スヘキコトヲ命ス  
  御名御璽
     明治二十三年二月八日
             内閣總理大臣伯爵 山縣有朋
               司法大臣伯爵 山田顯義
1890年2月11日、金鵄勲章が制定され創設された。
  皇紀2550年の紀元節を記念して、この日に、金鵄勲章
 (きんしくんしょう)が制定された。
  (氷川清話)金鵄勲章の制成る。
  日本の武功勲章で、戦功が特にすぐれた陸海軍人、お
 よび、軍属に勲章が与えられた。
  神武天皇の東征の際、天皇陛下の弓の弭 (ゆはず、弓
 の両端の弦をかけるところ) に金鵄(金色の鵄・トビ)
 がとまったことにより、長髄彦(ながすねひこ)の軍卒
 を眩惑・圧倒し、連勝したという神話の故事にちなんで制
 定された。
  金鵄と古代の兵器をデザインした。
  功一級から七級までに分れ、終身年金付きで与えられ
 た。
  敗戦後の1947年5月3日に、GHQの指示により廃止さ
 れ、年金支給も無くなった。
1890年2月15日、偕行社(かいこうしゃ)新築落成式
  日本陸軍の将校クラブで、1877年(明治10年)に創立さ
 れた。
  1890年、それまで部内の自発的な研究団体として存在
 した月曜会を合併し、以後、全将校を包含する唯一の組
 織となった。
  帝国陸軍の創建まもない1877年(明治10年)2月15日、
 陸軍将校の集会所・社交場(将校倶楽部)や一種の迎賓
 館として東京府九段に集会所(九段偕行社/東京偕行社)
 が設立されたことに始まり、
  以降、各地の師団司令部所在地に偕行社が設立された。
  偕行社は、財団法人として、現役・予備役を問わず陸
 軍将校准士官ら会員同士の親睦、学術(世界戦史/軍事史・
 戦術・戦略・兵器等)研究や論文発表と、
  それらを掲載した「偕行社記事」の刊行、陸軍軍人の
 英霊奉賛と、戦争・事変・事件犠牲者の救済を主な活動
 としていた。
  運営は、会員である陸軍将校の会費によってなされた。
  また、偕行社は、一種の企業としても一大組織であり、
 各地の偕行社では、将校准士官、および、見習士官を対
 象とする軍服を筆頭とする各種軍装品(軍服(冬衣袴・
 夏衣袴・防暑衣袴・外套・マント・正衣袴ほか)、軍帽・
 略帽・正帽、手套・シャツ・パンツ・袴下・襟布・袖布・
 カフリンクス、軍靴(長靴・短靴・半靴・編上靴)、脚
 絆・革脚絆、軍刀・指揮刀・刀帯、拳銃・拳銃嚢・双眼
 鏡から、陸軍記念日や陸軍特別大演習といった行事記念
 品など)の製作・販売、
  および、陸軍将校や関係者用の喫茶店・旅館(各地の
 偕行社に付属)、学校の経営なども広く手がけた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:すべての考え方の前提が・・崩れ去って行く・・消え去って行く・・
.
1618年、キリスト教の宗教戦争(三十年戦争)が始まる。
  愚かなる戦争である。
  愚かなることにキリスト教は、1618年~1648年もの間、
 31年間という長い長い期間、30年以上にも渡って三十年
 戦争と名付けられた卑劣な程度の戦争をした。
  それは、宗教戦争であったがゆえ、その悲惨さは極限
 に達していた。
  キリスト教のカトリックと、キリスト教のプロテスタ
 ントとが・・戦うという、悲惨この上ない凄惨(せいさ
 ん、目をそむけたいような、むごたらしい様子)な戦い
 だった。
  消えた町や村が100以上もあった・・全滅する村・・皆
 殺しにあった村・・
  また、ヨーロッパの人々3分の1が死ぬという、劣悪な
 る宗教=キリスト教ゆえの卑劣な戦争だった。
  貴方の家族が5人であるなら、1人か2人が殺されるとい
 うむごたらしい戦争・・、
  それも、あなたの家が不幸であったのではなく、あな
 たの隣の家も、その隣の家も、また、その隣の家も、そ
 の様な不幸に会うというむごたらしい戦争だった。
  キリスト教の言う・・「隣人愛」なんて・・まったく
 ない「キリスト教どうし」の軽蔑すべき戦争だった。
  しかし、人類は、この様な歴史を経験しているのにも
 かかわらず・・、
  アメリカは、第二次世界大戦という、これまた卑劣な、
 そして、悲惨な戦争の後に・・、
  アメリカは、日本に、キリスト教を定着させようとし
 た。
  卑劣な・・戦争を利用した・・行為であり・・、
  そして、まだ、その行為を・・続けている。
  その様な・・アメリカのこの様な行為をすることは止
 めようと・・、今から約370年もの前の1648年に、すでに、
 世界は・・ウェストファリア条約で、人類は決めている。
  そのような歴史的叡智のまったくない・・その様な叡
 智の残っていない愚かなアメリカとなっている。
.
1930年代、アメリカは、日本を敵視していた。
  そして、アメリカは、日本に対して、敵対的な政策を
 採って行く。
  だが、イギリスの見方は違っていた。
  イギリスは、「何もそこまで、日本に意地悪くする必
 要はないではないか」・・という「発言をしていた」。
  また、イギリスは・・、
  「満州は、欧米諸国が、むきになって日本を処罰する
 ほど重要な事でもない」・・と言った。
  イギリスは、アメリカの頑(かたく)なな反日外交を
 緩和しようとしていた。
  この時、中国は排外ナショナリズムの行動をしていた。
  イギリスは、これにも手を焼いていた。
  この時、中国に勢力圏を築いていたのは、アメリカ・
 イギリス・フランス・オランダで、それぞれ美味しい勢
 力圏を持っていた。
  日本だけが満州を持っていたという訳ではない。
  満州は、日露戦争の結果、日本はロシアから移譲(い
 じょう、権利や権限などを譲り渡すこと)されていた。
  戦争で、侵略で、得たのではない。
  中国とも話し合われた結果だった。
  だから、イギリスは、アメリカが日本に対して排除意
 識を持たなくてもよいではないかの立場だった。
  だから、イギリスは、アメリカへ言った・・、
  「日本も大国なのだ。何故、日本が東アジアで独自の
 勢力圏を持ってはいけないのか」・・と、
  しかし、この時、アメリカは、「親中反日」だった。
  アメリカは言った・・、
  「日本には勢力圏は持たせない」。
  「イギリスが、東アジアで日本の肩を持つのなら、我々
 は、ヨーロッパで、イギリスの味方はしない」・・と。
  アメリカは、逆に、イギリスを脅した。
  イギリスは、対米説得、アメリカへの説得をあきらめ
 た・・止めてしまった。
  このアメリカの頑(かたくな)な日本への対抗意識、
 排除意識が・・第二次世界大戦への遠因となった・・
  不幸な第二次世界大戦へとつながって行った。
.
1979年、第39代アメリカ大統領のジミー・カーターの時、
 口約束であるが、
  中国の鄧小平は・・、
  中国の「国家を承認してもらう」代わりに・・、
  「台湾には手を付けない」・・という内諾を、ホワイ
 トハウスでしている。
.
1996年、クリントン政権は、この年に、「北朝鮮が、濃縮
 ウラニウム生産のための活動を始めた」という重大情報
 を得ていたが・・、
  同盟国の日本には・・秘密にした・・隠した。
.
2007年8月27日、AFPの国際ニュースが伝えた・・、
 「マザーテレサのキリスト教の神の不存在」のニュース
  その内容・・、
  マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す
  http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2272720/2044213
  【8月27日 AFP】
  カトリック教会の「聖人」に限りなく近いとされるマ
 ザー・テレサ(Mother Teresa)がしたためた私的な手紙
 が、近日出版される書籍の文中で公表される。
  この中でマザー・テレサは、自身の信仰の危機、およ
 び、「神の存在への疑念」に悩まされていたことが明ら
 かになった。
  数ある手紙の中の一通は、1979年に、親友のMichael
 Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には・・、
  「あなたはイエスの愛を受けている。
  わたしはといえば、むなしさと沈黙にさいなまれてい
 る。
  見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こ
 えない」・・と書かれている。
  66年の間に書かれた40通以上の手紙には、マザー・テ
 レサが破棄するよう求めたものも含まれており、これら
 は来週発売される書籍「Mother Teresa: Come Be My Light」
 で公表される。
  一部抜粋は、すでに米タイム誌(Time Magazine)が掲
 載している。
  インドのコルカタ(Kolkata)で、貧困層のために人生
 をささげたマザー・テレサは、手紙の中で、自身を襲う
 「闇」や「孤独」、「苦しみ」について記し、神にあて
 たとされる日付のない手紙では、
  「わたしの信仰はどこへ消えたのか。
  心の奥底には何もなく、むなしさと闇しか見あたらな
 い。
  神よ、このえたいの知れない痛みがどれだけつらいこ
 とか」と問いかけている。
  「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、
 若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされ
 るが、公の場での表情に反し、新たに明らかになった手
 紙の内容からは、彼女が亡くなるまでの50年以上を、神
 の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。
  また、ある手紙には・・
  「ほほえみは仮面」と書いたこともあり、
  さらに1959年に書いた手紙には、
  「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。
  もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実
 ではない」と記されている。(c)AFP
.
2010年頃、アメリカの財政赤字はGDP比10%だった。
  そして、この頃、アメリカ政府の言っている事は・・、
  「2013年頃に、正常な状態に戻れる」・・と、
  そいう事を・・アメリカは言っていたが、しかし・・、
  アメリカの連邦議会予算局は・・
  たとえアメリカ経済が、「正常な状態」に戻ったとし
 ても、2015年以降は、毎年、GDP比5パーセント以上の
 「財政赤字が続く」ことになると・・言っていた。
  しかし、ハーバード大学教授などは、
  「アメリカは、恒常的に、GDP7%を超える財政赤
 字となる」・・と、
  「そんなに甘くない」と言った。
  そして、「2020年代の財政赤字は、さらに悪化します」
 と言っている。
  ほとんど貯蓄をしないアメリカ・・その様なアメリカ・・
 予測では、「救える道がない」・・と・・、
  そして・・大量の白人層(それでも貯蓄をしていた層)
 が、引退をし始め・・、
  なけなしの・・その貯蓄を・・取り崩す状況にあるア
 メリカ。
  過剰消費国家・・アメリカ・・食いつぶす姿がある・・
  日本は、せっせと・・
  アメリカ国債を買わねばならない・・、
  また、「買ってくれの・・構図」となっている。
.
2010年6月13日、マザー・テレサ(Mother Teresa)の支持
 者たちが、8月26日のマザーテレサの誕生日にあわせ、
  有名なベールの色である白と青のライトアップを行う
 ことを提案した・・
  その提案をしたところ・・エンパイアーステートビル
 側は拒否した。(AFP)
  理由について、同ビルのオーナーであるマルキン・ホ
 ールディングス(Malkin Holdings)のアンソニー・マル
 キン(Anthony E. Malkin)氏は、
  「民間企業であるエンパイアステートビルには、いか
 なる宗教的人物のためのライトアップ、または、宗教、
 および、宗教団体からのライトアップ要求については受
 け付けないという方針がある」・・と述べた。
  マザーテレサを支持する米カトリック団体「カトリッ
 ク連盟(Catholic League)」は、マルキン側に決定を覆
 すよう求めている。
  同連盟は、中国建国60周年記念の際のライトアップを
 取り上げ、「中国を建国した毛沢東(Mao Zedong)主席
 の時代、中国共産党は7700万人を殺害した。
  つまり、歴史上最大の大量殺人者が、マザーテレサが
 拒否された称賛を受けるに値するというのか」と指摘し
 ている。
  (文が分かりづらいですが・・そのまま記載しました)
.
2017年、アメリカのヘッジファンドは曲者だ。
  まず、ヘッジファンド業界は、その政治資金の7割を
 民主党に流している。
  つまり、民主党以外へ渡す金額の2倍以上を、民主党へ
 資金提供している。
  (この様な異常な偏りの資金を与えている・・そこに
 は、買収的な異常さがある)
  そして、当然、ヘッジファンド業界が増税におちいる
 時、それを・・一生懸命に阻止したのが民主党の議員た
 ちだった。
  ヒラリー・クリントンも、その行動をした一人。
  そして、民主党のオバマ元大統領は、ユダヤ系ヘッジ
 ファンド業界から大量の政治資金を受け取っていた。
  アメリカの民主党は、金融業者たちと完全な癒着状態
 にある。
.
2017年、アメリカの誤解は、そして、不幸への根源は・・、
  「アメリカ・イズ・ザ・ビッゲスト」と思うこと・・、
  そして、「リッチェスト」と思うこと・・、
  そして、「ストロンゲスト」と思うこと。
  アメリカ勢力圏は縮小している・・、
  そして、失業率は高い・・、
  アメリカ国際は買ってもらっている。
  そして、不幸なことは・・「これが理解できない」・・
  ・・というより・・都合が悪いから、「理解したくな
 いというアメリカ」となっている。
  今、アメリカが恐れている事は、『アメリカ国債の暴
 落』・・、
  そして、それに伴って起きる・・『国際通貨危機』。
  日本が、せっせと買ってあげているアメリカ国債の価
 値は・・風前の灯火(ともしび)状態となっている。
  今、アメリカは、米ドルの国際基軸通貨の恩恵を最大
 に受けているが・・その地位から『下落する』。
  アメリカは、もっと『誠実にならなければならない』
 のだ。
  ノーベル経済学賞を受けたジョセフ・スティグリッツ
 氏は・・、
  「米ドルを・・国際基軸通貨として通用させる政策は
 『無責任だ』・・と。
  また、『利己的だ』・・と。
  この様な通貨政策は『危険すぎる』・・と。
  そして・・、
  米ドルは『止めて』、世界の諸国が信用できるESD
 R(IMFが発行している合成通貨)のような通貨にす
 べきだ」・・と、言っている。
.
2020年代、アメリカの経済的に、また、予算的に、その緊
 迫する状況から・・、
  アメリカの軍事費は・・明らかに・・現在の状況を維
 持できなくなる。
  「アメリカに頼っていれば大丈夫」・・は、崩れる。
  「日本の安全は大丈夫」に、危険のランプが灯(とも)
 る。
.
2020年代、この年代に、アメリカの青少年の『過半数』は、
 有色人種(非白人〉に・・なる。
  2042年頃、アメリカの有色人種が、アメリカ人口全体
 の『過半数になる』。
  今、アメリカ白人の平均年齢は42歳、ヒスパニックの
 平均年齢は26歳。
  アメリカの白人女性は、1人当たり1.7人の子供を生む
 のに対し・・
  (因みに、2.1人以下の場合は人口減少が起きる)、
  アメリカのヒスパニックの女性は3.0人を生む。
  WASP〈白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の支配層は・・少数派になって行く・・
  すべての考え方の前提が崩れ去って行く・・消え去っ
 て行く・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月11日土曜日

(増補版)506E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1890年1月)

題:(増補版)506E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1890年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年(明治23年)、出来事:
・内閣総理大臣:山県有朋(明治22年12月24日~明治24年
 5月6日)
・第一回衆議院議員総選挙が行われる(7月)
  初めて衆議院選挙が行われ、第一回帝国議会が開かれ
 た。
  アジアで最初の、議会を持つ本格的な立憲国家として
 出発した。
  選挙権のある人(25歳以上の男子で、納税額15円以上。
 人口の1.1%の45万人)
  被選挙権のある人(30歳以上の男子で、納税額15円以
 上)
  300議席中、立憲自由党130、立憲改進党41、大成会79、
 無所属45、その他5となる。
・府県制・郡制公定、地方行政制度 執行される(5月)
・第一会議、自由党再興(氷川清話)
  板垣退助が、愛国公党・大同倶楽部を合流して立憲自
 由党を結成(9月)(翌年、自由党に改称)
・第一回帝国議会が開かれる、(上院:貴族院・下院:衆議
 院) 召集(11月)民党側は民力休養を主張、藩閥政府と
 正面衝突する。翌・1891年3月7日閉会。
・松平慶永(よしなが)が没した(1828年~1890年)
  号は、春嶽(しゅんがく)。
  第16代越前福井藩主。
  幕末四賢侯の一人と謳われ、幕末の日本を導いた。
・大日本労働者同盟会の結成(氷川清話)
.
1890年、データー:
・日本の人口:約3,990万人。
・紡績工場の数:30。
.
1890年、経済・金融・貿易:
・年末より「明治23年恐慌」が始まる。
.
1890年、産業:
・白熱舎(白熱電球製造会社。後に「東京電気」となり、
  芝浦製作所と合併して東京芝浦電気になった。
  東芝の源流の1つ。
・品川電燈(4月)、横浜共同電燈(10月)、深川電燈(12
 月)それぞれが開業した。
.
1890年、交通・通信:
・東海道線全通
  この年、日本の官営鉄道が983キロとなった。
  また、私営鉄道も1,365キロと官営を上回った。
・第3回内国勧業博覧会の際、東京電燈会社は、上野公園桜
 岡より両大師前まで電気鉄道を敷設し運転をなす。
・日光線、水戸線鉄道開通
・東京~横浜間に電話が開通。
・電信交換規則発布し、実施。
.
1890年、衣:
・外務省の給仕、悉く(ことごとく)官給の制服となる。
・選挙の開始などにより鞄の需要激増する。
.
1890年、食:
・大坂に外国米多く輸入される。
・米価が騰貴して、兵舎の残飯を売り捌(うりさば)いた
 ものが大繁盛。
・馬肉の流行から、牛肉に馬肉を混ぜて売るものが現れ、
 警視庁は市中の肉屋を検査した。
・兵庫県揖保郡神岡村のそうめん製造年産15万円に達した。
・コレラの流行で氷水が売れず。
・第3回内国勧業博覧会の会場に喫茶店を設けて成功、一般
 市内にも見かけるようになった。
・村井商会、紙巻煙草サンライスを製造(国産紙巻煙草の
 はじめ)
・日本禁酒会が創立された。
.
1890年、住・社会資本:
・江戸川・利根川連絡運河落成
・銀座2丁目にスレート商会開店。
・水道条例発布。
・神奈川県秦野町で土管の小規模上水道が竣工した。

1890年、報道:
・国民新聞(2月1日)[日本新聞社]
  発刊者は陸羯南(くがかつなん)
  執筆者に内藤湖南、長谷川如是閑、正岡子規がいた。
・議会出入り記者団を結成。記者クラブの始まり。
・新聞用達会社が設立される。通信社と広告代理店を兼ね
 たもの。
.
1890年、論・文学・本:
・舞姫(森鴎外)を発表。 エリスという女性を登場させ、
 話題性をねらった。
・小泉八雲が日本に来た。
・勝海舟「外交余勢」を著す、「流芳遺墨」並びに「追賛
 一話」成り出版、又、「府城沿革」(30冊)編纂成る(
 氷川清話)
.
1890年、歌・流行・世相:
・やっつけろ節、法界節、愉快節などが流行。
・富山県で、附近に綿糸工場ができ綿作を中止。
.
1890年、生活:
・蚊取り線香:金鳥香(上山英一郎が、棒状蚊取り線香を
 発売した)金鳥の渦巻(1902年)
・石鹸:花王石鹸(洋物店の長瀬富郎が、初の国産石鹸の製
 造に成功して、「顔を洗うこともできる高級石鹸」として、
 顔をもじって花王という商品名をつけて売り出した)
・電柱への広告。産業振興にもなり、許可を受ければ、や
 ってもよい(時事)
.
1890年、医・衛生・伝染病:
・北里柴三郎が、ドイツのコッホのもとでジフテリア・破
 傷風血清療法を発見(12月)
  病気の予防や治療に大きな功績をあげる。
・コレラ流行 :コレラで35,227人が死亡した。
.
1890年、科学・教育:
・教育勅語発布:『教育ニ関スル勅語』発布(10月)
 道徳・教育の理念など 、井上毅(こわし)と、元田永孚
 (もとだえいふ)が起草。
・小学校制度が変更。
 尋常小学校4年、高等小学校4年の計8年。
・仁科芳雄が生まれた(1890年~1951年)日本の物理学者。
  岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。
  日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関
 係、加速器関係の研究で業績をあげた。
  日本の現代物理学の父。
・東京職工学校を東京工業学校と改称。
.
1890年、法律:
・民事訴訟法、商法公布(4月)
・刑事訴訟法公布(10月)
・旧民法が制定された。フランス民法(いわゆるナポレオ
 ン民法典)を範にした。民法施行(1898年)
・旧商法が制定された。ドイツの商法を基(破産法などは
 フランスによる)にし、「商ノ通則」「海商」「破産」
 の3部で構成されていた。商法制定(1899年)
・網走刑務所開設:釧路集治監網走分監網走囚徒外役所(
 のち=網走監獄、現=網走刑務所)開設。 囚人1200人、
 看守173人。
.
1890年、災害・防災:
・足尾鉱毒事件。翌1891年、田中正造は足尾銅山周辺の惨
 状を天皇陛下に直訴した。
.
1890年、外国:
・外国勢力(英仏露独など)による中国分割が進んだ。
  1890年頃~1910年頃、19世紀末~20世紀初頭)満州(
 ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・香港
 (イギリス)、雲南省(フランス)・・
・アメリカの人種差別:
  1890年代、アメリカ人作家のスチーブンスンは、大陸
 横断鉄道建設の労務者として、アメリカに連れて来られ
 た中国の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「
 見下げた人種」とされて、扱(あつか)われていると報
 告した。
  また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息
 が詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報
 告した。
・アメリカのインディアンの方々の虐殺:
  1890年、カスター将軍が被(こうむ)った不名誉な敗
 北以降、アメリカ合衆国内は、インディアンの方々に対
 して、激しい報復の怨念が巻き上がった・・、
  この年の12月、第7騎兵隊の兵士たちは、銃を撃ち、ス
 ー族に対し復讐戦をした。
  インディアンの方々の死体は、野に放りっぱなしにし
 て、暴風雨で凍った。
  族長のビッグ・フットの死体も、他の死体とごちゃ混
 ぜにされ、堀った穴に、みんな一緒に、投げ込まれた。
  ゴミを捨てるように・・
  白人アメリカ人たちは、共同墓地だと称した(ウンデ
 ット・ニーの虐殺(先住民への虐殺の歴史)
・アメリカ、工業生産額イギリスを抜き世界一に。
・世界初のメーデーが各国で行う。
・ドイツのビスマルクが辞職。
・マッキンリー関税(高関税による保護貿易)。
・シャーマン法(独占禁止法)
.
.
1890年1月1日、東京朝日新聞が、元日に付録を付けて発行
 した。
  1884年5月11日、星亨が自由党の機関紙として『自由燈』
   を創刊した。
  1888年7月10日、大阪の朝日新聞社が買収し、『東京朝
   日新聞』と改題の上、新創刊した。
  1897年2月1日、前日の八王子の大火に関する報道で、
   業界で初めて、記事伝送に伝書鳩を使用した。
1890年1月18日、富山市に米騒動が起きた。
  富山市で、米価高騰に反発する市民300人が、救済を求
 めて市役所に押しかけた。
  これが、米騒動の始まりだった。
  富山市の貧しい方々が、市役所や資産家に対して救助
 を要請する行動を起こした・・しかし・・、
  この行動が、富山県東部に拡がっていくにしたがい、
 4月から9月にかけて、鳥取、新潟、福島、山口、京都、
 石川、福井、滋賀、愛媛、宮城、奈良の各府県19地点に
 騒動となって行った。
  特に、新潟県佐渡郡相川町(現:佐渡市)の場合は激
 烈で、
  6月28日~7月5日にかけて、鉱夫を中心に(佐渡金山が
 ある)2000名余が蜂起した。
  軍隊1個中隊が出動して、鎮圧しなければならないとい
 う状況だった。
  発端は、大商人の米価つり上げや、米屋の売り惜しみ
 に抗議行動を起こしただけで、一揆とか、打毀しとかの
 騒乱を企てた訳ではなかった。
  その行動の一つが、北海道へ回送する米を積んだ輸送
 船・伊吹丸が、魚津町に寄港した時・・、
  米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の
 積み出しを行なっていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前
 に集まった。
  そし、積み出し・移出の阻止を求めた。
  これが、近隣各地に伝えられ、メディアで報じられ、
 町々でも不穏な空気が広がって行って、騒動的になって
 行った。
  日本では少ない・・この類の事例となった。
  (氷川清話)富山・新潟・鳥取・石川・福島各地での
    米騒動。
  (氷川清話)条約改正につき世論湧く、各地に米騒動
    起る
1890年1月21日、中江兆民、大井憲太郎ら、自由党を結成し
 た(自由党を再興)
  1889年 5月10日、大同協和会(だいどうきょうわかい)
 が・・、
  自由党の前身として、日本最初の自由党が解散した後、
 大同団結運動の一つの形として、この時に、結成された
 ・・しかし・・、
  翌年・1890年1月21日に解散した。
  この時を遡る事・・6年前の1884年に、自由党が解散し
 てからしばらく後の、1886年に、民権派政治家の力を結
 集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。
  1889年に至り・・この運動に沿った組織結成の機運は
 高まっていたが・・、
  この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬
 養毅ら政社派と、
  ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派
 の対立が表面化した。
  このような時、1889年3月22日、大同団結運動の主導者
 であった後藤象二郎は、突如、黒田内閣の逓信大臣とし
 て入閣し、運動から消えた。
  この後藤の離脱の表明を機に、両派は1889年4月になっ
 て決別した。
  そして、1889年5月には、政社派の団体として大同倶楽
 部が、非政社派の団体として大同協和会を発足させた。
  新井省吾・小久保喜七・石坂昌孝らとともに、自由党
 再興を目指した。
  運動を繰り広げるが、各グループ間の対立は解消され
 なかった。
  しかし、翌年・1890年に至り、第1回衆議院議員総選挙
 にそなえて、
  大井憲太郎が、中江兆民、斎藤珪次らとともに・・、
  この時・1890年(明治23年)1月、大同協和会を中心に自
 由党が結成された。
1890年1月23日、新島襄が没した。
  同志社英学校を興した人と知られる新島襄・・、
  アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が
 自由に教えられている国に行くこと」を夢見て決意した。
  そして、憧れのアメリカへと・・、
  備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って行った・・、
  ・・が・・行先のアメリカで、目にしたものは、考え
 抱いていたものとは違った。
  黒人の方々への人種差別の酷さがあった・・それを目
 撃した。
  この明治の時代・日本の西洋観は未熟だった・・未熟
 な憧れだった。
  ただただ、「西洋は何でもよい」という思い込みと、
  「日本はだめだ」という、この時代の
 『無批判な・・幼い・・無垢な世界観・時代観』であっ
 た。
  そしてまた、キリスト教の「すべてを知る事が出来る」
 という時代でもなかった。
  その様な・・すべての情報が与えられる時代というこ
 とではなかった。
  そこに、『思い込み』と『誤解』があった。
  新島襄の後を追ってアメリカに渡った内村鑑三は・・、
 はっきりと・・思い描いていたアメリカ像と、実際の違
 いを・・、その幻滅した現実を吐露した。
  はっきり表現した・・強い人種差別に辟易したと・・、
  スリや窃盗が頻繁に横行しているではないかと・・、
  社会は乱れているではないかと・・、
  「金銭(かね)は、アメリカではすべてのすべてであ
 り(金がモノ言う社会・アメリカ)、
  それはそこでは全能のドルとして礼拝されている」。
  (イエス・キリストが礼拝されているのではないでは
 ないか・・)
  「人種的偏見は、そこでは(アメリカでは)きわめて
 強く、黄色の皮膚とアーモンド形の眼は嘲笑の的(まと)、
 犬の吠える目標として通っているほどである」・・と言
 った。
  黄色い皮膚の日本人も人種差別の対象とされた。
  そして、新島襄も、目の前のアメリカを否定し、ピュ
 ーリタンを夢見た。
  新島襄のアメリカ像は、もろくも崩れていた。
  同志社英学校はつくったけれども・・??
1890年1月25日、婦人記者のネリー・ブライが、72日間をか
 けて単独世界一周を完遂した。
  1888年に、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」
 をモデルとして、実際に、リポーターを世界一周させる
 という企画が決定し、
  ネリーが、そのリポーターに決定した。
  1889年11月14日に、彼女はニューヨークを出発し、
 24,899マイルの旅に出た。
  この時、ネリーの世界一周企画に刺激を受けた他の雑
 誌社が、やはり女性記者のエリザベス・ビスランドを、
  ネリーとほぼ同時に、世界一周旅行(ネリーの東回り
 に対し、ビスランドは西回り)に派遣し、
  ネリーとビスランドは、競争する立場となったものの、
 ビスランドは76日を要したため、ネリーを上回ることは
 できなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教の神は・・居ない・・
.
1928年9月26日、マザーテレサさんは、18歳のこのとき、
  インドの話を聞いて、インドを中心に旅行をしたいと
 思った、
  また、旅行だけではなく現地密着の海外活動をしたい
 と思い立った。
  若い女性らしい思い立ちだった・・、
  今、キリスト教の広告塔にされているマザーテレサさ
 んは、あらゆる美化がなされているが・・
  初め・・この時・・
  マザーテレサさんのこの行動は、この様な広告塔の大
 きな話になるという訳では、まったく、当然、なかった。
  18歳のマザーテレサさんは・・、
  インドで・・、
  ヒンズー教徒の方々が・・行っている・・、
  『弱者救済の運動とその行動』の中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・、
  弱者救済活動を行なった。
  その行為が、そのことが・・、素晴らしい業績となっ
 ていますが・・、
  (注):
  世間には・・
  キリスト教のプロパガンダ・嘘宣伝だけが・・
  あまりにも声高に・・叫ばれているため・・、
  真実が・・隠されています。
  初めて、上記の文を・・読まれた方は・・
 驚かれたと思いますが・・、
  「真実は・・上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・、
  脚光を浴びた頃、その事を知り・・、マザーテレサさ
 んに着目し・・、キリスト教の・・「広告塔」にしまし
 た。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に・・なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを・・、
 国葬にして・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」・・と、表明されたこと
 でした。
  マザーテレサさんは・・、キリスト教の神の存在に悩
 んでいました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに・・長い期間、悩みを打ち明
 け続け・・、
  そして、相談をし続けていました。
  その事実は・・隠されていました・・が、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」・・続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』・「真実」が公表されました、キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・
  今、アメリカに・・、
  「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは・・、
  キリスト教の『神の不存在を主張』し・・、
  成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分や
 って行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違う・・と、
 主張する・・方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
  その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、
  そう考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が・・人類にとってよくないこと・・よくないもの』・
 ・と、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・、
 この様な、行動が取られたのだと言えます。
.
  (参考)神の死の神学:
  ニーチェの言葉である・・「神は死んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・、
  現代社会において神は・・、人間に・・、
  『リアルな存在ではない』・・・
 ・・という意味で、
  「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、
  アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニアンは・・、
  『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァハニアンは・・その中で・・、
  無神論を・・『アメリカの大衆の生き方である』・・
 と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
  エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・、
 異なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で・・、
  人間の主体性が、そして、自律性が・・とりもどされ、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・、
        (wikipedia・その他を参考にして記す)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月9日木曜日

(増補版)505E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)505E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月16日、オーストラリアで、最高気温を記録した。
  (摂氏53度、クイーンズランド州クロンカリー)
1889年1月30日、マイヤーリンク事件
  オーストリア皇太子ルドルフ謎の情死。
  ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハ
 プスブルク=ロートリンゲン(1858年8月21日~1889年
  1月30日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 の子で皇太子。
  ハプスブルク=ロートリンゲン家の世継ぎとして周囲
 に期待されたが、父帝との反目や政治的対立などから孤
 立し、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死
 を遂げた。
1889年3月4日、清国で、徳宗親政治が始まる
  1889年、光緒帝が結婚に伴い正式に親政を開始した。
  光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)は、清の第11
 代皇帝で(在位1875年2月25日~1908年11月14日)
  廟号は徳宗(とくそう)
  満州語族の皇帝。
  在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。
  1885年の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失など
 があった。
  そして、光緒帝が16歳になった1887年に、西太后から
 政権を委譲され、
  彼女の指導で政治を行う訓政という形で政治は継続さ
 れた・・が・・、
  末年は西太后と対立した。
1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーが生まれた。
  (~1945年4月30日)
1889年11月15日、ブラジル皇帝のペドロ2世が廃位した。
  そして、ブラジルは共和政となった。
  ペドロ2世(1825年12月2日~1891年12月5日)は、ブラ
 ジル帝国の第2代で・・、
  かつ、最後の皇帝だった(在位:1831年~1889年)
  初代ブラジル皇帝ペドロ1世と、オーストリア皇帝フラ
 ンツ1世の次女マリア・レオポルディナ皇后の長男で、
 ポルトガル女王マリア2世の弟。
  ペドロ2世は、学問や芸術を愛好するリベラルな君主で、
  憲法で国教と定められたカトリック教会を抑圧した。
  そして、素晴らしいことに・・新大陸で不可欠とされ
 た黒人奴隷制の廃止にも尽力した。
  しかし、この政策は、王政の支柱たるキリスト教会と、
 地主層の反発・離反を、当然のごとく招くことになった。
  自分の利にさとい(自分の利益にばかりに目が行く)
 キリスト教会や、金持ち地主層だった。
  奴隷制廃止が出来ないキリスト教会と地主層だった。
  ペドロ2世は賢帝であった・・リオデジャネイロの裏山
 が、コーヒー栽培で荒れ果て・・また・・、
  町に水がなくなったときに、コーヒー農園を奥地に再
 配耕し、裏山の再植林を命じた。
  再植林事業は成功し、現在、その地はチジューカ国立
 公園となり、世界最大の都市森林と呼ばれる最良の状態
 となっている。
  また、ブラジル最初の鉄道を引く敷設も命じた。
  また、ブラジルで、最初に、電話とタイプライターも
 使用出来るようにした。
  また、20万のブラジル兵を動員した三国同盟戦争(
 1865年~1870年)では、パラグアイの首都アスンシオン
 を陥落させた。
1889年、第一次エチオピア戦争が始まった(~1896年)
  エチオピア帝国と、その植民地化を図るイタリア王国
 との戦争。
1889年、ブーランジェ将軍事件が収束した(フランス)
  (1886年~1889年)
  第三共和政治下のフランスで起こった、反議会主義的・
 反共和主義的政治運動・・、
  この年・1889年、第三共和政に対する軍部や右派から
 のクーデター未遂事件が起きた。
  陸軍大臣だったブーランジェ将軍は・・、2年前の1887
 年に、当時はドイツ領だったロレーヌ地方で、フランス
 人が国境侵犯の疑いでドイツ側に拉致される事件(シェ
 ネブレ事件)が起きると・・、
  外交交渉による解決をはかる首相・外務省に対して、
 即時、軍事行動による報復を唱えた。
  これは、閣内不一致ということで、将軍は罷免された。
  フランス国内に、一斉に、将軍支持の世論が高まった。
  日頃、「対独復讐」を唱え、軍備拡張を主張している
 王党派(ブルボン王朝の復活を主張)や、
  ナポレオン派(ナポレオンのような強力な国家指導者
 の出現を求める一派)などが・・愛国者同盟を結成して
 共和政府打倒に動き出した。
  また、急進的な労働組合主義、アナーキスト(ブラン
 キの系統)らは・・、
  議会政治を否定する立場から、共和政を倒し、軍事独
 裁政権の樹立を支持した。
  当時は、共和政政府の混乱や腐敗もあって、大衆は、
 ブーランジェ将軍を「救国の英雄」と期待していたので、
  同年・1887年に行われた選挙で、多くのブーランジェ
 派(ブーランジェスト)が当選した。
  街頭では、共和政府を打倒し、強い行動がとれる政権
 の樹立を求め、そして叫ぶ、群衆のデモが盛んに行われ
 ていた。
  1889年には、クーデタの決行寸前まで行った・・が、
  政府は、コンスタン内相が、ブーランジェ将軍を国家
 転覆の陰謀の容疑で告発することで対抗した。
  ブーランジェは、突然、ベルギーに亡命した。
  そのため、運動は急速に衰退した。
  この事件を、より深く見れば・・、
  普仏戦争(1870年~1871年、フランスとプロセインの
 戦争、ドイツはプロセインに味方した)に、フランスは、
 敗北した。
  この事によって、フランスは賠償金を課せられた。
  また、一大鉱業地帯であるアルザス=ロレーヌ地方を
 喪失した。
  このために、フランスの国民感情は、ドイツに対する
 敵愾心(てきがいしん)が高まっていた。
  それと、1882年に起こった金融恐慌のため・・、
  それまで上昇傾向であった景気は低迷していた。
  工業生産は低落した・・アメリカ・ドイツに抜かれて、
 世界第4位に転落するという有様だった。
  また、フランス帝国主義による植民地支配は拡大し、
  その外債による対外投資が増大するという問題点があ
 った。
  これに加え、ドイツの時の宰相であるビスマルクが、
 フランスを孤立させる外交方針を展開していた。
  これらのことから、フランスでは、対独対抗意識を高
 揚し、
  また、強い政府を求めようという運動が主張されてい
 た。
  しかしながら、当時の多党連立政権は、明確な対策を
 打ち出すことができなかった。
  与党に対抗すべき社会主義政党も、離合集散を繰り返
 していて、広範な支持を得ることができるという状況で
 はなかった。
  一方、王党派は、ブルボン朝支持派と、オルレアン朝
 支持派の間で対立があった。
  こちらもまとまりを欠いていた。
  この様な1886年1月・・、シャルル・ド・フレシネ内閣
 の陸軍大臣として、ジョルジュ・ブーランジェが登用さ
 れた。
  ブーランジェは、時勢が共和派に有利となっていると
 判断した。
  彼らに迎合するかたちで、兵制の民主的改革をおこな
 った。
  また、王族の軍隊からの排除を行った。
  また、ドゥカズビル炭鉱における争議に対して、軍隊
 の出動を求められた際・・、坑夫に同情的な態度を装い・・、
  また、議会においては、共和制護持の演説を展開し、
 共和主義者・・特に、急進派からの支持を大きく受け、
  「共和的将軍」としての名が高まった。
  1886年12月には、内閣が、ルネ・ゴブレに交代したが、
 ブーランジェは・・陸相に留まった。
  1887年4月20日、ドイツ国境においてフランスの一警察
 官が、スパイ容疑で逮捕されるというシュネブレ事件が
 起きた。
  独仏国境における緊張が高まった。
  ブーランジェは、対独強硬論を主張した。
  ビスマルクをして『独仏の友好にとって最大の危険人
 物』と言わしめた。
  これによりブーランジェは、対独を含めた、排外的国
 民的感情を掌握した。
  「復讐将軍」「ビスマルクを尻込みさせた男」として
 人気を博した。
  右翼側からも広く受け入れられることとなった。
  1888年4月には二つの県で、8月には三つの県で、補欠
 選挙に立候補し、そのいずれにも当選を果たした。
  これは、選挙法の不備につけこんだ行為でもあったが、
 少なくとも、違法ではなかったため、政府はなすすべが
 なかった。
  ブーランジェは、「議会解散、立憲議会、憲法改正」
 の三つのスローガンを掲げた。
  1889年1月27日に、セーヌ県で行われた選挙に出馬し、
 共和各派統一戦線の候補者に8万票の大差で圧勝した。
  この際に、5万の群集が集まった・・そして、彼に、
 「クーデターの実行」を指嗾(しそう、悪事などを行な
 うように仕向けること、指図してそそのかすこと)する
 までになった。
  ブーランジェ派の指導者たちは・・、
  当選が決定した1月22日の夜・・ブーランジェをエリゼ
 宮殿まで行進させ、示威行動とともに・・独裁権を奪取
 する計画を練っていた。
  ・・が、肝心のブーランジェ本人が、実行をためらっ
 た。
  そのため・・計画は瓦解した・・
  大衆の支持は急速に失われた。
  フランス共和制は・・危機を脱した。
  その後、ブーランジェに逮捕状が発せられた。
  また、関係する組織が、起訴されることとなった。
  身の危険を感じたブーランジェは・・ベルギーに亡命
 した・・彼を支持した勢力は・・急激に衰えて行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:このアメリカの『戦略方針』から始まった・・
    アメリカの知識人たちは・・これを否定した・・
.
20世紀初頭、この頃、アメリカの『戦略的方針』が決まっ
 た。
  新興の帝国主義国として目覚めたアメリカは・・、
 『アメリカに挑戦できる勢力を持つ覇権国の出現は、許
 さない』・・という・・グランド・ストラテジー(grand
  strategy、国策、雄大な戦略)を設定した。
  アメリカが、第一次世界大戦に参戦したのも、
  当時、イギリスよりも強い工業力と陸軍力を持つよう
 になったドイツが、ヨーロッパの覇権国になろうとして
 いたことを阻止するためだった。
.
1937年10月5日、ルーズベルトが「隔離演説」をした。
  この演説に対して・・ウォールストリート・ジャーナ
 ルは「アメリカは平和を欲する」と批判した。
  また、国務長官のハルでさえ・・、
  「隔離」や「伝染病」というものに例えたレトリック
 は無用な反対をもたらした・・と批判した。
  『挑発的なこのルーズベルトの演説』は、「ただ、ロ
 シアの勝利に終わるだけだ」・・と批判された。
  また、アメリカ国民の方々も非難して・・、
  「ルーズベルトは、アメリカ国民を、世界大戦の道に
 連れて行こうとしている」・・と声明を出した。
  また、「アメリカを参戦させないための請願」に2500
 万人の署名を集める運動も・・開始された。
  アメリカ大統領のルーズベルト政権には・・側近たち
 には・・、
  ソ連の息のかかった者たちが・・多く居た。
  このことも関係して、ルーズベルトの政策は、社会主
 義的になって行った。
  そして、議会の権限を無視して、行政府を大きくした。
  また、当然の様に・・大統領権限をドンドン大きくし
 て行った。
  アメリカは・・独裁者的になって行った。
  これは、アメリカ合衆国憲法の違反行為でもあった。
  『アメリカの国体を破壊している』・・と、前任の大
 統領だったフーバー元大統領は言った。
  ルーズベルトは、その権限拡大で、外国政府の干渉を
 受けないのはもちろんのこと、自国のアメリカ政府にも
 『干渉されないという状態』を作った。
.
1945年4月28日、イタリア、ムッソリーニ銃殺
.
1945年4月30日、ドイツ、ヒトラー自殺
  独総統ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺、
  遺言によりカール・デーニッツが大統領、ヨーゼフ・
 ゲッベルスが首相に就任。
.
1945年6月23日、沖縄守備軍の牛島満司令官が、摩文仁司令
 部で自決した。
  沖縄戦の組織的抵抗が終結。
  後に、この日が沖縄県の慰霊の日と定められた。
.
1945年7月15日、ポツダム会談(~8月2日)
.
1945年7月16日、アメリカが、原爆実験に成功した。
  アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場で
 史上初の原子爆弾の爆発実験に成功した(トリニティ実
 験)
.
1945年7月17日、ポツダム会談開始。
  アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相ウィンスト
 ン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリンらが参加。
.
1945年7月21日、アメリカ大統領トルーマンが、原子爆弾の
 使用を承認した。
.
1945年7月26日、ポツダム宣言発表。
  連合国が日本の降伏を要求した。
.
1945年8月2日、ポツダム会談終了。
.
1945年8月6日、アメリカが、広島市へ原子爆弾を投下した
  (午前8時15分)
.
1945年8月7日、日本海軍が初の国産ジェット機「橘花」の
 試験飛行を実施した。
.
1945年8月9日、未明に、ソ連軍が満州へ侵攻した。
  対日参戦開始。
.
1945年8月9日、午前、ポツダム宣言の受諾の可否について
 最高戦争指導会議が開かれた。
  日本は、ポツダム宣言を受諾に関し・・ソ連に仲介を
 依頼していた。
  ソ連は、日本を欺いて、ルーズベルトからそそのかさ
 れた対日参戦を決定しており、仲介をする訳はなかった。
  しかし、日本は、そのソ連の返事を待っていた。
  故に、ポツダム宣言を日本が黙殺していた訳ではなか
 った。
  結果的には、後に、日本は、国体護持の約束を得られ
 『有条件』でのポツダム宣言受諾へとなって行った。
  第二次世界大戦の起きた責任・・、
  ケナン、モーゲンソー、リップマン、キッシンジャー、
 ウォルツ、ポール・ケネディ等は、著作や論文で・・、
  『第一次世界大戦の後、アメリカがあの様な無責任な
 外交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなか
 っただろうと」と、そろって指摘している。
  アメリカの傲慢で独善的な外交を糾弾している。
  アメリカは戦争に勝つと相手の国をディモナイズ(悪
 魔化)する。
  ディモナイズされた国の、悪魔化された国の婦女子で
 あるから、非武装の婦女子であろうと、何百万人も無差
 別虐殺しているのに、『まったくの責任を感じないで、
 ケロッと』している。
  ディモナイズ(悪魔化)して、ディヒューマナイズ(
 非人間化)している。
  日本だけでなく・・ベトナムの方々もどれだけ卑劣に
 殺戮されたか? 虐殺されたか? その他の国々の方々
 までも・・??
  アメリカの戦いには、「神の召命による戦い」という
 観念がある。
  考える以前の状態で、『正しい戦いだ』と決めている。
  キリスト教によるマインド・コントロールの戦いであ
 る。
  神の召命の戦いは、「卑劣で悲惨な戦いの形」となる。
  戦いの正義は、思考以前から決していて、自分たちだ
 けの正義の元で行なう戦いで・・そこには、何をしても
 良いという思考へ導かれていた。
  市民への殺戮も「抵抗感なく行われた」。
  また、キリスト教の神による戦いなので『徹底的に相
 手を殺戮し、徹底的に叩き潰した』。
  キリスト教の洗脳は、罪作りな考え方・教義であった。
  アメリカは、今・現在でも、この思考の元にある。
  故に、相手に、後々まで、「恨みが残るような、卑劣
 な殺戮の戦い」が現出する。
  そこには、キリスト教が言う「シャロームの完全破壊」
 があった。
  常に、いつも、そこに・・アメリカは、「自分たちだ
 けが、正義の戦争をしている」と叫びたてる異常さがあ
 った。
  アメリカは、自分たちだけに「(キリスト教の)神の
 義がある」とした。
  だから、虫けらの様に・・「相手を誅しても良い・・、
 敵を誅しても良い」というキリスト教の考え方・教義に、
 マインド・コントロールされた。
  そして、正しいから勝ったと、相手をすべて否定した。
  傲慢な考え方・行為をして行く。
  「戦争に敗けたから不道徳だ」なんて言える訳はない。
  しかし、臆面もなくアメリカは、その論法を取った。
  そして、相手を不正義のどん底に突き落とした。
.
1945年8月9日、アメリカが、長崎市へ原子爆弾を投下した。
  午前11時02分、
.
1945年8月10日、午前0時03分、ポツダム宣言の受諾の可否
 について御前会議が開催された。
.
1945年8月10日、未明、御前会議で「国体の護持」を条件に
 日本のポツダム宣言の受諾が決定され、連合国側へ打電
 した。
.
1945年8月11日、ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻。
  樺太の戦い。
.
1945年8月12日、満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒
 龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開拓団が
 避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃され、集
 団自決に追い込まれた・・麻山事件が発生。
.
1945年8月14日、日本、ポツダム宣言を受諾(御前会議)
.
1945年8月14日、午後9時、ラジオで「15日正午より重大発
 表あり」という旨の放送。
.
1945年8月14日、午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国側に
 通知。
.
1945年8月14日、午後11時20分、天皇陛下が玉音放送を録音。
.
1945年8月14日、葛根廟事件。
.
1945年8月14日、マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国
 軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied
 Powers、SCAP)に就任。
  日本のポツダム宣言受諾の通告を受け、連合国軍の最
 高司令官が任命され就任した(終戦の成立の一つの事実)
  ソ連の終戦していないという論理は、『屁理屈』とな
 っている。
  完全に、ソ連は、日本領土収奪の強盗行為を日本に対
 して行っていた。
  北方領土などに対して行っていた。
.
1945年8月14日、大本営が攻勢作戦の停止を発令(危険行為
 などに対する自衛反撃は継続)
.
1945年8月15日、陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件)
.
1945年8月15日、日本標準時正午に、昭和天皇陛下の肉声で
 読み上げられた終戦詔書が、ラジオで放送される(玉音
 放送)
  日本国民にとって敗戦の日となる(終戦の日)
.
1945年8月16日、スターリンが、ソ連軍の北海道占領を米・
 トルーマン大統領に要求。
  トルーマンは18日に拒否回答。
.
1945年8月17日、インドネシアのスカルノとハッタが、イン
 ドネシア共和国のオランダからの独立を宣言した。
  (インドネシア独立宣言)
.
1945年8月18日、ソ連軍が千島列島で攻撃開始(強盗行為)
.
1945年8月19日、昭和天皇陛下が、東久邇宮首相に燈火管制
 解除等を指示された。
.
1945年8月23日、日本陸海軍の復員開始。
.
1945年8月23日、ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリン
 が日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令(不法なシベリ
 ア抑留)
.
1945年8月26日、終戦連絡事務局設置。
.
1945年8月27日、敦化事件。
  占領軍の暴行に抗議して婦女子集団自決。
.
1945年8月28日、連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行
 場に到着。
  26日の計画であったが暴風雨のため2日遅れ。
.
1945年8月30日、マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に
 到着。
  アメリカ太平洋軍総指令部 (GHQ/USAPA) を横浜税関に
 設置。
.
1945年8月30日、ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を
 停止。
.
1945年8月31日、アメリカ軍主力が横浜・館山に上陸。
.
1945年9月2日、降伏文書調印
  連合国が東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅
 津美治郎らが降伏文書調印(対日戦勝記念日)
.
1945年9月2日、GHQが、陸海軍解体・軍需工業停止など
 を命令。
.
1945年9月2日、アメリカのダグラス・マッカーサー元帥が
 北緯38度線を境とした米ソによる南北朝鮮の分割統治を
 発表(連合軍軍政期 (朝鮮史)
.
1945年9月3日、ソ連軍が日本の北方領土を不法占領。
.
1945年9月3日、英人記者バーチェットが広島の惨状を取材
 し「No More Hiroshima(二度と原爆は落すな・・広島の
 悲劇はもうたくさんだ)」と打電。
.
1945年9月8日、ソ連が朝鮮北部を、アメリカが南部を占領
 し分割統治が開始される。
.
1945年9月8日、GHQ、マッカーサー元帥が東京に進駐。
.
1945年9月11日、東條英機ら戦犯容疑者39人に逮捕令(東條
 は自殺未遂)
.
1945年9月15日、GHQ、総司令部を東京・日比谷の第一生
 命館に移転。
.
1945年9月17日、瑞穂村開拓団集団自決。
.
1945年9月25日、外国人記者2名が昭和天皇陛下に拝謁し、
 インタビューを行う。
.
1945年9月27日、昭和天皇陛下が、マッカーサー元帥を訪問
.
1945年9月28日、フランスが、サイゴンを占領した。
.
1945年9月29日、新聞各紙が昭和天皇陛下のマッカーサー元
 帥訪問時の写真、および、天皇陛下のインタビュー記事
 を掲載したため、情報局が新聞紙法により頒布禁止とす
 るが、GHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」を
 発令し、頒布禁止を無効化。
.
1945年10月2日、連合国軍最高司令官総司令部を設置。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年3月7日火曜日

(増補版)504E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)504E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月10日、象牙海岸(コートジボワール)がフランス
 の保護国となる。
  英語圏のIvory Coast・・Ivory(象牙) Coast(海岸)
 の意味であるが、
  1985年に、フランコフォニー国際機関が、フランス語
 の国名"Côte d'Ivoire"を意訳しないよう求める決議を行
 い、
  翌・1986年から政府が意訳による外名の使用取りやめ
 とフランス語国名の採用を各国に要請している。
  日本では、コートジボワール政府から外名変更を要請
 された1986年以降、外務省大臣官房総務課が内規として
 定める『国名表』で「象牙海岸」に加え「コートジボワ
 ール」も選択表記と言う形で公文書への使用が可とされ
 た。
  これを受けて外務省編集の(財)世界の動き社『世界
 の国一覧表』が「象牙海岸」から「コートジボワール」
 に表記を変更し、日本郵便の宛先表記やNHKを始めとす
 るマスメディア各社、民間の書籍でも「コートジボワー
 ル」が使用されるようになっている。
  歴史的には、15世紀に、ポルトガル、イギリス、オラ
 ンダなどヨーロッパの貿易船が、奴隷と象牙の売買に来
 航した。
  黄金海岸、胡椒海岸(穀物海岸)、奴隷海岸などとと
 もに、この地には象牙の海岸(Côte d'Ivoire)という名
 が付けられた。
  17世紀半ばに、フランスが西アフリカ経営に乗り出し
 た。
1889年2月17日、セザール・フランク交響曲の初演(パリ音
 楽院)
  交響曲ニ短調(作品48)は、フランスの作曲家セザー
 ル・フランクが作曲した交響曲で、
  フランスにおけるこのジャンルを代表曲と言われ、
  19世紀後半における最も重要な交響曲のひとつとして
 高く評価される。
  https://www.youtube.com/watch?v=HKVIMy1y7Iw
1889年5月6日、第4回パリ万国博覧会が開催された(~1889
 年10月31日)
  1889年3月31日、パリのシャン・ド・マルスの広場に立
   つ鉄塔「エッフェル塔」の落成式が行なわれた。
    第4回パリ万国博覧会にあわせて建設され、フラ
   ンス人技師エッフェルが設計した。
    基部を含める高さは、312.3メートルで、世界一高
   い建造物だった。
    展望台は3つで、高さは57.6m、115.7m、276.1
   mにある。
    第2展望台までは、階段でも昇ることが可能で、
  1889年 5月15日、エッフェル塔が一般に公開された。
   (開場5月6日説あり)
  1889年 5月26日、エッフェル塔のエレベーターが運行
   開始した。
1889年6月3日、カナダ太平洋鉄道が、太平洋~大西洋間で
 全通した。
  およそ14,000マイル(約22,500キロメートル)におよ
 ぶ路線網が、カナダ中、そして、アメリカ合衆国内に開
 通している。
  岩盤を通してトンネルを建設するために爆発物を扱う
 など、危険な建設作業も多かった。
  しかし、建設作業で亡くなった人の遺族には、一切の
 補償がないばかりか、死亡通知すら送らないこともあっ
 た。
  中国人と契約を結んだ業者(その業者を許可したカナ
 ダ政府)は、自身の責任としての責任を果たさなかった。
  中国への帰還を約束していたにもかかわらず、建設作
 業を無事に終えて、生き延びた人々の中に、中国に帰る
 のに必要な金さえ持っていない者も多いという、劣悪な
 作業環境だった(奴隷と同じような状態)。
  多くの者たちは、人里をかけ離れた土地で、お金も使
 う所のない所で、この劣悪な賃金の中に置かれた。
  そして、しばしば、貧困のうちに、年月を過ごさなけ
 ればならなかった。
  中国の方たちは、とてもよく働き、鉄道の西側区間を
 建設するのに重要な役割を果たした。
  わずか12歳の少年すら、給仕として働いていた。
  2006年、カナダ政府は、中国系カナダ人の方たちに対
 して、カナダ太平洋鉄道の建設中、および、建設後の中
 国人に対する人種差別などの扱いについて、多々あった
 不都合・卑劣な行為を『公式に謝罪した』。
  また、1885年3月~5月には、インディアンの方々が、
 ノースウェストの抵抗行動を起こした(北西部サスカチ
 ュワン河流域を舞台にした叛乱)
  (カナダでは卑劣にも反乱という言葉を使っている・・)
  土地所有権上の問題で・・、
  また、インディアンの方々にとって大切な食料のバッ
 ファロー絶滅行為に対しての抗議行動だった。
  バッファローを必要もないのに、不要に殺戮して、イ
 ンディアンの方々を餓死に至らしめようという卑劣な行
 為で、
  インディアンの方々の生存を脅かす大問題を、常識で
 してはいけないと・・分かる様な卑劣な行為を・・カナ
 ダは起こしていた。
  インディアンの方々の窮状を訴える請願(願い出る行
 為)も、カナダ政府は無視した。
  逆に・・カナダ政府は・・F・Dミドルトン将軍の7000
 人の軍隊を派遣し・・武力によって鎮圧(5月15日に降伏)
 した。
  『欲の塊』の白人政府は・・この後に、東部カナダを
 イギリス系とフランス系両勢力の、政治闘争の場と化せ
 しめた。
1889年7月14日、第二インターナショナルが、パリで結成さ
 れた(~1914年)
  各国の社会主義政党・労働組織などが参加し、ドイツ
 社会民主党が中心であった。
  第1次世界大戦の際、愛国主義が階級闘争理論を圧倒し
 たため分解した。
1889年10月6日、パリで、ムーラン・ルージュが開業した。
  フランスのパリ市内、モンマルトルにあるキャバレー。
  フランス語で「赤い風車」という意味で、実際に屋根
 の上に赤い風車がある。
  歌やダンス、フレンチカンカン、大道芸を組み合わせ
 たショーで有名。
  また、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子
 たちをモデルに数々のポスターを描いた。
  第一次世界大戦や第二次世界大戦下でも営業を続け、
  第二次世界大戦中、パリがドイツ軍の占領された時に
 も営業し、多くのドイツ軍将兵でにぎわった。
  ここで活躍した著名なミュージシャンは、エルビス・
 プレスリー、フランク・シナトラなど・・多数いる。
  現在もパリを代表する観光スポット。
  1日に2回のショーがあり、19時(ディナー付)と、
  21時(19時の回のディナーが終わったころに入場し、19
 時からいる人と一緒にショーを楽しむ。ドリンク付)、
  23時(ドリンク付)が開演時間。
  約840名を収容できる。
1889年11月20日、グスタフ・マーラー交響曲第1番(初稿が
 )初演された(ハンガリー国立歌劇場)
  交響曲第1番ニ長調は、グスタフ・マーラー(オースト
 リアに生まれる)が作曲した最初の交響曲。
  1889年11月20日に、マーラー自身の指揮、ブダペスト・
 フィルハーモニー交響楽団によって初演。
  しかし、成功しなかった。
  「ブダペスト稿」とも呼ばれるこの稿は、現在は失わ
 れている。
  当初、マーラーはこの曲を交響曲でなく、「交響詩」
 と呼んでいた。
  全体は2部構成、5楽章からなり、第1楽章と第2楽章を
 第1部として「若人、美徳、結実、苦悩のことなどの日
 から」、第3楽章以下を第2部として「人間喜劇」という
 標題が付けられていた。
  https://www.youtube.com/watch?v=4R0g5gez1oE
.
  (今日の言葉)
.
  題:一極支配をしたいと、歴史上、何度もなされたが・・一度も、一極支配は実現しなかった・・
    世界制覇をしたいという、強者の・・人間の欲は・・歴史上・・実現したためしはなかった・・
.
紀元前5億4000万年~紀元前4億5000万年、全ゲノム重複
  この頃に、全ゲノム重複が起きた。
  「2R仮説」「大野仮説」と呼ばれるゲノミクス、およ
 び、分子進化上の説であり・・、
  脊椎動物では、進化の初期段階で、全ゲノムの重複が
 1回以上起こり、その結果、その後の脊椎動物ゲノムは、
 始原ゲノムの多倍数体となっていると考える説(全ゲノ
 ム重複)
  人類は、進化の過程で、この様な全ゲノム重複を起こ
 した。
  何らかの原因で、魚類以上の脊椎動物で、染色体が倍
 加したという説・・、
  すべてが・・一斉に、卵精子が倍数化した。
  半世紀前に・・日本人によって説明された説で、日本
 人には、比較的自然に受け入れた・・が・・、
  外国で認められたのは、2000年頃という最近になって
 から・・、
  多くの魚類のゲノム解析が進んで、多くの遺伝子が重
 複していることが発見された。
  日本で、自然に受け入れられた理由は、キンギョ(マブ
 ナ=ギンブナ)には,2倍体、3倍体、4倍体が存在する。
  魚類に、そのような倍数体が普通に存在することは、
 日本では、よく知られていた。
  染色体が、倍になり、倍数化が起こると、一セットの
 遺伝子は使用されない。
  その使用されない遺伝子に、突然変異が蓄積して行き、
 やがて、新しい遺伝子として機能し始め、多様な遺伝子
 を獲得したという考え方・・、
  この説は、1990年代になって、改めて、研究者の興味
 を引き、
  最近になって・・重複の時期、および、回数について、
 示唆を与える研究結果が見られはじめている。
  木村資生氏などの、世界が認める日本の遺伝学者の多
 くは,大野の仮説を支持した。  
  国立遺伝学研究所のホームページにも・・、
  素晴らしい報告が記されていた・・以下に記すと・・、
  さまざまな生物の全ゲノム解読は、全遺伝子の解明を
 通じて、広く生命科学に寄与するとともに、
  生物進化の研究に多くの知見をもたらしてきました。
  多くの動物は、父方と母方からの同一のゲノムをもつ
 「二倍体」ですが、アフリカツメガエルは、異種交配と
 全ゲノム重複により一つの生物の中に異なる2種類のゲ
 ノムをもった「異質四倍体」とされていました。
  そのため、非常に有用なモデル生物であるにもかかわ
 らず、全ゲノム解読が非常に困難と諦められ、主要モデ
 ル生物の中で唯一行われていませんでした。
  しかし、日本とアメリカを中心とする国際コンソーシ
 アムは、アフリカツメガエルの全ゲノム解読に挑み、見
 事その全貌を明らかにしました。
  得られた情報は、今後、生物学から医学に至るさまざ
 まな研究分野に大きく貢献すると期待できます。
  加えて、アフリカツメガエルのゲノムの中にある2種類
 のゲノム(サブゲノム)が、別々の染色体のセットに分
 かれて存在するという重要な発見をしました。
  それにより、このカエルは、約1800万年前に、2つの種
 が異種交配と全ゲノム重複を起こして誕生した異質四倍
 体であること、その後、2つのサブゲノムが一つの生物の
 中で異なる進化を辿ったことが明確に示されました。
  今日の地球上には、実に多様な種類の脊椎動物が生息
 し繁栄していますが、その最大の要因と考えられるのが
 約5億年前の古生代カンブリア紀に起きたとされる「2回
 の全ゲノム重複」です。
  その謎を解くための重要な鍵、いわゆるロゼッタスト
 ーンとしてアフリカツメガエルのサブゲノムの進化の仕
 組みが役立つことになります。
  これは、生命科学における画期的な成果です。
  国立遺伝学研究所 先端ゲノミクス推進センター・生命
 情報研究センター比較ゲノム解析研究室の藤山秋佐夫・
 豊田敦グループは、本国際プロジェクトにおいて、
  当初から共同研究を推進し、BAC、fosmidライブラリの
 構築と両端および全長配列決定、ゲノムブラウザ構築、
 および、提供による国内における情報共有、FISH用BAC、
 fosmidクローンの調製、RNA-seq解析など多岐にわたる
 過程で本プロジェクトに貢献しました。
  また、本プロジェクトは、主に科研費新学術研究「ゲ
 ノム支援」(国立遺伝学研究所、東京大学、国立成育医
 療研究センター)、科研費・基盤(A、B、C)による支援
 のもとで進められました。
  ・・以上・・
 「キリスト教の神の創造説は完全にこの説でも破綻した」
.
16世紀、ハプスブルグ王朝は、この頃、スペイン、オース
 トリア、オランダ、フランス(一部)、イタリア(一部)
 を支配していた。
  この頃のヨーロッパの4分の1を支配下に置いていた。
  これに対し、オランダが反乱を起こし、反抗した。
  この反乱を、イギリス、フランス、トルコ、ドイツが
 助けた。
  ハプスブルグ王朝のヨーロッパの『一極覇権の確立』
 はうまく行かなかった。
  この例の様に・・世界史上で、一極支配が確立したこ
 とはない。
.
1643年、フランスの「太陽王」と言われたルイ十四世が、
 絶対君主の座についた(在位1643年~1715年)
  この時のフランスの国力は、イギリスの4倍あった。
  ルイ十四世は、ヨーロッパの覇権獲得を目指したが、
 イギリス、ドイツ諸侯国、スエーデン、オランダなどが
 連合して、このフランスに対抗した。
  フランスによる『一極支配は、確立しなかった』。
.
1871年、プロシア(後のドイツ)のビスマルクが、宰相の
 地位に就いた(任期:1871年~1890年)
  鉄血宰相と言われたビスマルクは、ドイツを世界一の
 陸軍国にした。
  また、ドイツ工業力も、世界第二位に躍進させた。
  ビスマルクは、腰の低い、タフで、巧妙な外交政策を
 行ない「リアリスト外交の天才」と言われた。
  ビスマルクは、ドイツの国力を飛躍的に向上させなが
 ら、周囲の諸大国が、「対ドイツ包囲網」を作る事を阻
 止した。
  抜群なバランス感覚で、タフと、謙虚さで、また、周
 辺諸国のブライドや嫉妬、そして、猜疑心に気配りを行
 なう「外交の達人」だった。
  ビスマルクは、「勢力圏を一方的に拡張しようとする
 外交政策は、短期的に成功しているように見えても、
  長期的には真の国益にならない」・・ということを、
 熟知していた。
  今・現在のアメリカの強権の一極支配的行動も・・結
 局・・敵を作る行動となっていて・・長期的に、アメリ
 カの為にもなっていない・・
  アメリカは、これを知るべきである・・
  そして、その道を・・今・現在・・中国も・・その道
 を進んでいる・・
.
1888年、ウィルヘルム二世が、この年、前王が亡くなると、
 ドイツ国王の座についた。
  前の国王・ウィルヘルム一世は、ビスマルクを重用し
 たが、若いこの王は、ビスマルクの良さを理解できなく
 て、ビスマルクの地位を剥奪(はくだつ)した。
  ウィルヘルム二世は、周囲の媚びへつらいに乗って、
 「歴史に残る英傑王になる」ことを目指した。
  ウィルヘルム二世の外交は、「大国ドイツの覇権外交」
 となった。
  この結果、ドイツの周辺国のロシア、フランス、イギ
 リスは敵国の様に挑発外交を進めた。
  そして、この行動が、第一次世界大戦へつながって行
 く。
  若い王の浅薄な夢・一極支配は・・結局・・戦争とな
 った
.
1991年、ソ連が崩壊し消滅した。
  「アメリカだけの一極」の世界となった。
  それは、相手の消滅による一極の出現であった。
  ソ連の消滅を・・世界はびっくりした。
  アメリカ政府は、「世界を一極化して、アメリカだけ
 が世界覇権を握る」という『一極覇権戦略』を実行して
 行こうとした。
  日本は、アメリカによる一極支配の時代だと「対米依
 存を続けていれば安泰だ」となった。
  安易なバンドワゴンを追従した。
  国際政治学者たちは、見抜いていた。
  「アメリカの一極支配など、短期間で終わる」と・・、
  「21世紀の国際構造は、必ず、多極化して行く」と・・、
  そして、実際、その通りに、アメリカの国際政治指導
 力は、次第に弱体化して行った。
  しかし、アメリカ首脳部は、『一極化したい』と、ブ
 ッシュ大統領(父)が、「NATOを東に拡張しない」
 と、
  ロシア政府に「何度も約束していたにもかかわらず」、
 その約束を破って・・NATOを東方に拡張し、
  「ロシア包囲網」を形成して行った。
  (ブッシュという大統領の親子は、キリスト教の体質
 が染みついていた大統領で・・この様な裏切り行為をよ
 くしていた)
  当然、米ロ関係は悪化した。
  また、クリントン政権(ルービン財務長官とサマーズ
 財務長官)は、アメリカとイスラエルの金融業者に、ロ
 シアで一攫千金の荒稼ぎをさせた。
  さらに、クリントン政権のペリー国防長官らは、「中
 国の大軍拡と人権弾圧政策を容認する」政策をとった。
  (今、その反動を受けている)
  そして、日本の『自主防衛政策を阻止する』という政
 策をとった。
  クリントン政権は、1996年に、「北朝鮮が濃縮ウラニ
 ウム生産のための活動を始めた」という重大情報を得て
 いたが・・、
  『同盟国の日本には秘密にした』・・日本に隠した。
.
2017年3月、中国のマンション建設(過激な供給過剰状態)
  中国国内には、34億人分のマンションが建設済みだと
 いう。
  当然、中国の人口(14億人)を上回っているこのマン
 ションの建設の実態に於いて、空き室ばかりのマンショ
 ンが、街中にスラリと並んでいる。
  中国は、この様な「架空の需要」を作り出している。
  この様な事は、共産圏国家ゆえに、国策として、国と
 して「箱モノづくり」をしている。
  これらのマンションは、何もしなければ朽ちて行く・・
  そして、無価値なものとなり・・借金だけが残る・・、
  この様な状況で、経済の回転がうまくいくのか?・・
  うまく行くはずがない・・、
  早晩、破綻する時が来るのは必定・・、
  すでに・・「ウォール・ストリート・ジャーナル」は、
 2014年4月16日の記事で・・
  この中国の異常を伝えていた・・、
  「中国の住宅供給過剰・・小規模都市で深刻化」との
 表題で・・すでに、中国の住宅受給の危うさ、異常さを
 伝えていた。
  不動産の異常さについては、かつて、日本でもあった。
  1990年9月の日本の地価は、ピークに達した。
  数字上では、東京都の地価が、米国全土の地価と同等
 になった・・帳簿上の話である・・、
  また、中国の国内総生産(GDP)は、このマンショ
 ン建設の例の様に「架空の需要」によって生産が行われ
 ている。
  それ故、中国のGDPも作られた数字となっている。
  その様な・・架空の話で・・中国経済が回転している・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月4日土曜日

(増補版)503E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)503E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月8日、アメリカでモンタナが41番目に州となった。
  陸地面積では全米第4位
  2010年国勢調査の人口は約99万人で、少ない方から第
 7位。
  人口密度では小さい方から第3位である
   白人        87.8%、
   インディアン 6.3%、
   ヒスパニック 2.9%、
   アジア系     0.6%、
   黒人         0.4%、
   混血         2.5%、
  英語95.4%、スペイン語1.4%、
  数千年前から様々なインディアン部族が住んでいた地。
  1860年代後半に、アメリカ陸軍が、一連の基地を設立
 した。
  インディアンの方々が、土地の支配を守ろうとした。
  そのことで、幾つかの戦闘が起きた。
  現在のハーディンの町近くで、リトルビッグホーンの
 戦いが行われた。
  1862年~1876年の金産出量は、1億4,400万ドルに達し
 た。
  当時の銀はさらに重要だった。
  最大の鉱山はビュート市にあるもので、重要な銀鉱脈
 と巨大な銅鉱脈であった。
  1940年以降、イエローストーン国立公園やグレイシャ
 ー国立公園が観光地となって、観光業は州内第3位の産業
 となった。
1889年11月11日、アメリカで、ワシントンが42番目に州と
 なった。
  人口(2010年)約672万人(全米第13位)
  面積:全米18位
  英語82.5%、スペイン語7.8%、中国語1.2%、
   白人        72.5%、
   ヒスパニック11.2%、
   アジア系     7.2%、
   黒人         3.6%、
   インディアン 1.5%、
   混血         4.7%、
  1770年代に流行した天然痘のために、インディアン方々
 の人口が急減した。
1889年11月14日、婦人記者のネリー・ブライが、80日間世
 界一周に出発した。
  (翌年1月25日に72日間余で帰着)
1889年11月23日、最初のジュークボックスが登場(サンフ
 ランシスコ)
  パシフィック・フォノグラム社の総支配人ルイス・グ
 ラスが、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ
 のパレ・ロワイヤル・サルーンに、ジュークボックスを
 初めて設置した記録が残る。
  このときの装置は、電動のエジソン蓄音機(蝋管式)
 に聴音管を4つ付けたもので、それぞれに硬貨投入口があ
 り、独立して動作するようになっていた。
1889年、トーマス・エジソンが映画撮影機を発明した。
  エジソン・ゼネラルエレクトリック社を設立し、動画
 撮影機キネトグラフを発明した。
1889年、ロンドンでウリッジ・フリー・フェリー(Woolwich
 Free Ferry) が開業した。
  蒸気船によるテムズ川の渡し船。
  現在は、1963年に、建造されたディーゼル船3隻によっ
 て運行されている。
1889年、アスピリンが発明された。
  日本薬局方で、アスピリンと正式名称で呼ばれるこの
 薬は、消炎・解熱・鎮痛作用や抗血小板作用の薬効を持
 つ。
  この薬は、サリチル酸を無水酢酸によりアセチル化し
 て得られる。
  アセチルサリチル酸は、代表的な消炎鎮痛剤のひとつ
 であり、非ステロイド性抗炎症薬の代名詞とも言うべき
 医薬品である。
  ドイツのバイエル社が名付けた商標名のアスピリンで
 よく知られた。
  発明者は?・・と言うと・・
  アスピリンは、すでに、紀元前にその源がある。
  紀元前400年ごろ、ヒポクラテスは、ヤナギの樹皮を熱
 や痛みを軽減するために用いている。
  ヤナギの葉を、分娩時の痛みを和らげるために使用し
 ていたという記録がある。
  ヤナギの鎮痛作用は、ギリシャ時代からよく知られて
 いた。
  また、古代ローマの「薬物誌」には・・、
  ヤナギは、腹痛、痛風、リウマチなどに対する鎮痛作
 用があると記され・・
  また、そのほかに、出血を止める作用、ウオノメやタ
 コをなおす作用があると記されている。
  中世では、薬草売りの女性たちが、ヤナギの樹液を煮
 て、その苦い煎じ湯を痛みを訴える人々に分け与えてい
 た。
  また、中世の庶民が頼(たよ)った助産婦も、この様
 な薬草を多く用い、世の女性方を救っていた。
  しかし、教勢を拡大したいキリスト教は、あらゆる権
 威を得ようとした・・欲しがった。
  この庶民に頼られていた助産婦や薬草売りの女性方た
 ちの持っている権威は、このキリスト教が排除したい、
 気になる存在だった。
  キリスト教は、夜、薬を煎じるこの女性の方たちを「
 魔女」に仕立てた。
  そして、世を繰ってこの女性の方たちを、「魔女」と
 して町の広場で焚刑・火アプリにした。
  魔女の惨劇は、長い長い時代、中世ヨーロッパを暗黒
 の空に染めた。
  「魔女裁判」と共に、キリスト教裁判所は「異端審問」
 も盛んに行ない、全滅する村も出るという酷さだった。
  ヨーロッパには、東洋の『漢方薬』と同じように立派
 な薬草学があった。
  しかし、このキリスト教の蛮行によって、ヨーロッパ
 の薬草学は滅びた。
  キリスト教は、その頃、始まっていた大学医学とくっ
 ついて、このジャンルの権威を得た。
  医療が、「十字架をマークとしている」のはこのため。
  そのマークの陰では、「可哀想な・・焚刑で焼かれた、
 大勢の女性の方たちが居られる」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカを越える中国・・そして、台湾・・そして、沖縄・・そして・・
    (過去にはドイツが・・好きに・・  )
.
1923年、ドイツがハイパーインフレになった。
  貴方の月給が、翌月に倍になったら『うれしいですか?』
  その様にしなければ、世の中が収まらなかった『ハイ
 パーインフレ社会』が、この年に、起きた(1922年~
 1923年のドイツの事例)。
  ハイパーインフレーションとは、急激に進行するイン
 フレーションのことで・・、略して「ハイパーインフレ」
 とも言う、
  ハイパーインフレ・・過度のインフレで、物価が短期
 間に数倍~数十倍に跳ね上がった・・
  ・・が、しかし・・この時のドイツは・・さらに・・
 すさまじかった。
  ドイツのインフレは、最終的に物価が・・何と!『384
 億倍』にまで達した・・想像できない領域に入っていた
 ・・???
  このハイパーインフレによって、お金の価値は、当然、
 『紙くず同然』となった。
  同然というより・・『紙くず』となった。
  ドイツの方たちは・・紙幣を道端に捨てた!
  背景は・・、国土が戦場となったフランスは、第一次
 世界大戦後も、ドイツの強国化を恐れた。
  そのため・・フランスは、ドイツに課された賠償金不
 払いを厳しく追及した・・要求した。
  そして、ドイツの支払い不履行を理由に、1923年、石
 炭などの資源のあるルール地方の『占領を強行した』。
  これに対しドイツは、ルール占領には不服従運動で抵
 抗した。
  (第一次世界大戦で打ちのめされたドイツは、反抗す
 る手立てが無かった、反抗したくてもできなかった・・
 その様なドイツだった)
  その様な状況によって・・ドイツの生産は低下し、激
 しいインフレーションが進んだ。
  買い物に行くのに・・「お金をリヤカーで運ぶ人々」
 が居るくらいになった。
  お金の価値のあまりにもひどい下落に・・「街中に捨
 てられる市民の怒りの紙幣の山」が・・、
  何と!! ある保育園での「札束の山で遊ぶ子供たち」
 が写る写真がある。
  「刻一刻とマルクの価値が下がるため、食料品店に殺
 到する市民の長い列」・・社会は、シッチャカメッチャ
 カとなっていた。
  昨日まで、ハム・サンドイッチが、1万4000マルクだっ
 た同じ喫茶店で、今日はそのサンドイッチが2万4000マル
 クとなった
  お金(銀行券)は、1枚ほぼ1グラムなので、紙幣4000
 枚持ってレストランに行くとすると、約4kgの紙幣を運ぶ
 ことが必要だった。
  買い物の不便から100兆マルクが発行される事態となっ
 た。
  紙幣は、額面ではなく『重さ』で取引された。
  紙幣の印刷が間に合わず、片面しか印刷しなかった。
  喫茶店でコーヒーを飲むのに、トランク一杯分の紙幣
 が必要であった・・が・・、飲んでいる間に・・インフ
 レが進行した・・価格が・・トランク二杯分になった。
  昼と夜で・・レストランのメニューの値段が1桁違った。
  月給は、もらう頃には価値がなくなるので週給、日給
 へと変わって行った。
  薪を買いに行く代わりに・・札束を薪代わりにした。
  このインフレを鎮めたのは、11月15日に発行されたレ
 ンテンマルクの出現であった。
  新しい発券銀行としてレンテン銀行が設けられ、レン
 テンマルクとライヒスマルクの交換レートは・・、
  1レンテンマルク=1,000,000,000,000(1兆)ライヒ
 スマルクと決定された。
  このレンテンマルクの発行により・・ドイツのインフ
 レは沈静化した。
  このインフレの収束は、『レンテンマルクの奇跡』と
 呼ばれている。
  この原因を深く探ると・・、
  第一次世界大戦という戦争は、罪作りな大戦争だった。
  この戦争の後になっても・・人々を苦しめた。
  ドイツ経済は・・戦時体制と・・長らく続いたドイツ
 封鎖によって疲弊していた。
  そして、悲劇的な事に・・さらに、連合国のベルサイ
 ユ条約によって、『1320億金マルクの賠償金支払い』が
 課されていた。
  これは、ドイツの支払い能力を大きく上回っていた。
  そして、さらに苛酷な事に・・『外貨で支払う』こと
 が要求されていた。
  やむなく、賠償金の支払いは滞った。
  支払わないならばと・・1923年1月11日、フランスは、
 ドイツ屈指の工業地帯であり地下資源が豊富なルール地
 方を占領した(フランスは・・フランスで、フランスの
 地だ・・と言っていた)
  実力を行使されたドイツ・・その占領に対し、ドイツ
 政府は受動的な抵抗運動を呼びかけた。
  ストライキに参加した労働者の賃金は、ドイツ政府が
 保証した。
  既に、第一次世界大戦中よりドイツではインフレーシ
 ョンが進行していたが、抵抗運動に伴う財政破綻によっ
 て『致命的な状況』へと導かれた。
  ルール工業地帯の供給能力を失ったために、空前のハ
 イパーインフレが発生した。
  1923年6月までに、マネーサプライは、大戦前の2000倍
 に増加し、
  一般物価水準は25000倍を超えた。
  マルクは、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落す
 るというインフレーションとなった(マネーの価値の超
 下落)。
  パン1個が1兆マルクとなるほどで、100兆マルク紙幣も
 発行されるほどだった。
  この時期のマルクは「パピエルマルク(紙屑のマルク)」
 と呼ばれた。
  アドルフ・ヒトラーらが、ミュンヘン一揆を起こした
 のもハイパーインフレの危機が収束するかしないかとい
 う時期であった(1923年11月8日)
  また、左派による地方政府掌握が発生するなど、混乱
 はドイツ中に広がって行った。
.
  そして・・第二次世界大戦が起きる・・
  そして・・その戦争に勝利したアメリカは・・?
.
1945年、第二次世界大戦を勝利したアメリカは、自国のグ
 ランド・ストラテジー(国策)を大きく変えた。
  アメリカは・・、
  「ユーラシア大陸の三つの重要地域(西ヨーロッパ、
 中東、東アジア)を、アメリカが支配する」・・と。
  これらのユーラシア大陸の最重要地域を支配する事に
 よって、アメリカは、『世界を支配する事が出来る』・・
 と・・、
  このアメリカのグランド・ストラテジーに、ソ連陣営
 が対抗した。
  『アメリカの一極覇権は実現させない』・・とした。
  米ソ間の冷戦という二極の対立の時代となった・・対
 立構造となった。
.
1947年2月28日、二・二八事件(台湾)勃発
  1947年2月 28日、台湾で起った大陸人(外省人)によ
 る支配・・
  そして、その強圧取締りに対する、台湾人(本省人)
 及び日本人の抗議行動の事件が起きた(日本人がまだ残
 っていた)
  同年・1947年2月27日夜、台北市で、大陸人官憲の闇た
 ばこ摘発隊が、台湾人老婆を殴打した。
  この事に対し、今までの鬱積が溜まっていた本省人(
 台湾人)が・・抗議に集った。
  その民衆に対して、大陸人官憲は発砲し、1名を死亡
 させた。
  翌28日、憤激して省行政長官兼警備総司令・陳儀の公
 舎に向った台北市民のデモ隊が・・
  何と! さらにひどい事に・・機銃掃射を浴びせられ
 た・・
  当然、その様な劣悪な武器によって・・死傷者は多数
 となった。
  国民へ向けて機関銃を討つという考えられない行為を
 した。
  この時、台湾は、国民党支配下にあった。
  その様な台湾にあって、外省人と本省人(台湾人)との
 衝突によって生じた大規模な流血事件だった。
  中国国民党政権の在台中国人を「外省人」と言ったが、
 この外省人が、本省人(台湾人、この時はまだ日本国籍
 を有していた人々)と、日本人に対して弾圧を行なった。
  後になって・・民主化が進む李登輝(リー・トンホイ)
 体制の下で、この事件の真相究明のための『再審査が行
 われた』。
  また、その後の1992年2月には、膨大な調査報告書が
 作成されて、李総統自らが遺族を弔った。
  さらに、詳細に検証すると・・、
  当時・1947年2月27日、台北市内の夜市で、複数の警官
 が、ヤミたばこ密売の女性を、横暴に摘発しようとして、
 市民との間に混乱が生じ、警官の横暴発砲が原因で1人
 の市民が死亡した。
  これに抗議するデモが、翌28日、台北、基隆を始め全
 国に拡大した。
  本省人は、多くの地域で、一時、実権を掌握し、回復
 した。
  しかし、国民党政府は、大陸から援軍を派遣し、武力
 によって、これを『徹底的に鎮圧した』。
  この約2年前・・1945年10月、台湾に進駐した陳儀ら
 『国民党政権台湾接収委員』(アメリカの指示)は、日
 本植民地当局から施政権を引き継いでいた。
  そして、この当時、この様な経緯で行政長官となった
 陳儀らは、この事件の抗議に立ち上がった市民を徹底的
 に弾圧した。
  そのため、2万人以上(2万9000人という証言あり)と
 される死者が発生した。
  外省人、特に、国民党指導層への台湾民衆の心理的反
 発は決定的となった。
  当時、台湾へ、大陸から蒋介石が率いる中国国民党政
 府の官僚や軍人が進駐し、行政を引き継いだという形を
 とった・・が・・日本統治時代とは・・「雲泥の差」が
 あった。
  台湾の方々は、彼らの腐敗の凄まじさに驚いた、
  そして、失望した。
  中国大陸から来た軍人・官僚は、当時の国共内戦の影
 響で、人格的にも、能力的にも劣悪で、卑劣な行為をす
 る輩たちだった。
  質が悪く・・強姦・強盗・殺人を犯す者も多かった。
  しかし、犯人が罰せられないということが頻繁(ひん
 ぱん)にあり、日常茶飯事となっていた。
  (戦後、日本に来たアメリカ兵も酷い強姦魔だった・・)
  罰せられたとしても、犯人の省籍をマスコミ等で報じ
 ることを、「厳しく禁じられた」。
  (上記ののアメリカも、あまりの酷さに、新聞報道を
 強引に抑え込まれた、日本は報道する自由を奪われた)
  また、台湾の資材が、中国人官僚らによって接収・横
 領された。
  そして、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、
 物資不足に陥(おちい)った。
  そのため、台湾の物価は高騰した。
  台湾はインフレとなり、その中で、「企業の倒産」が
 相次いだ。
  そして、「失業も深刻化」していた。
  日本時代は、不正など勿論なく、そして、まったく東
 京と同じ生活水準の「良質な社会」だった。
  その落差を知っている台湾の方々は、それ故、不満は
 高まっていた。
  この時、台湾の方々に思い起こさせ、心を助けたのが、
 日本時代のことなどだった。
  台湾人の本省人の方々は、国民政府に占拠されている
 諸施設に向かって、大規模な抗議行動を展開した。
  その行動の時に、日本語や台湾語で話しかけた。
  そして、答えられない者を外省人と確認すると・・反
 抗手段をとった。
  そして、日本時代の教育を受けていた台湾人の本省人
 の方々は、「君が代」を国歌として全ての台湾人が歌え
 たため、本省人の方たちは、全台湾人共通の合言葉とし
 て「君が代」を歌った。
  「君が代」を歌って、行進した。
  歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。
  ラジオ放送局を占拠した。
  そして、軍艦マーチと共に、日本語で全台湾へ呼び掛
 け、放送した。
  「台湾人よ立ち上がれ!」・・と・・ここに独立の萌
 芽があった・・。
  今・現在でも・・台湾の方々は・・自分たちが・・自
 らの進む道を・・自ら決するという選択肢は、『当然、
 保持している』。
.
  そして、最近の・・2017年の・・新聞報道・・
.
2017年2月25日、中国の、『台湾侵攻』想定の演習実施の可
 能性があると、防衛省が発表した。
  この日の読売新聞によると・・、
  防衛省の防衛研究所は、24日・・、
  中国の軍事情勢などに関する報告書「中国安全保障レ
 ポート2017」を発表した。
  2016年5月に、台湾で、独立志向の強い蔡英文(ツァイ
 インウェン)政権が誕生したことを受け、
  中国が、『台湾侵攻』を想定した軍事演習や、大規模
 なサイバー攻撃を実施する可能性があると分析している。
  報告書は、蔡氏の総統就任後、中国が国際民間航空機
 関(ICAO)総会など国際会議への台湾代表の出席を
 妨害したほか、
  台湾の最大野党・国民党への接触を強めているとして、
 「今後も様々な圧力の行使や、切り崩しを図っていく」
 との見方を示した。
  また、東・南シナ海への進出を強める中国に対し、海
 上交通の要衝に位置する台湾の戦略的重要性が増してい
 ると指摘。
  「台湾が、防衛力を強化することは地域の安全に資す
 る」とした。
.
  そして、今後の将来予測・・は・・、
.
2020年代、アメリカを越える中国・・
  CIA(中央情報局:アメリカ合衆国の大統領直属の
 情報機関)と、
  ペンタゴン(アメリカ国防総省)と、
  アメリカ国務省は・・予測する・・、
  「今後、20年間の『中国』の経済成長率と軍事予算成
 長率は・・、
  アメリカの経済成長率と軍事予算成長率を、はるかに
 越えるだろう」・・と。
  そして、2020年代になると・・、
  東アジア地域における、米中の経済力と軍事力バラン
 スは逆転し、
  「アメリカは、いずれ、東アジアからの撤退を余儀な
 くされる」・・と・・、
  この予測通りだと、日本の「アメリカ追従政策の破綻
 (はたん)」が起きる事態となる。
  伊藤貫氏と日下公人氏の対談の本を参考にして記すと
 ・・、
  ニクソン大統領とフォード大統領の両政権で国務長官
 を務めたキッシンジャーは言う・・、
  「戦争に敗けて・・敵に占領された国には、二つの対
 応策しかない」・・と、
  その一つは、「占領軍に対して、長期間の徹底的な『
 ゲリラ戦』を実行する」、
  そして、その二つ目は・・、
  「眼先の利益と、安全を確保するため、占領軍に協力
 し、服従するコラボレーショニストになる」・・と・・
  「日本は、二つ目だ」とは明言していないが、そのニ
 ュアンスを込めた発言となっている。
  せっせと服従し、恭順の意を示していれば、そのうち、
 占領政策を緩めてくれるかもしれない。
  一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」
 で、国家がレジティマシー(正統性)を失うという意味。
  かつて戦争相手であった・・戦勝した敵の押し付けて
 来た憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈など、
  敗北した国は・・「道徳的に劣悪な国」であり、
  戦勝国は・・「道徳的に優越した正義の国」であると
 いう歴史解釈を押し付けられて・・使う。
  敗戦国家の国民は、「なんだ、自分の国は、占領軍の
 言いなりになっているだけの追従の似非(えせ:似て非
 なる・・正しいものに為り得ぬ)国家か・・?」・・と
 思うようになる。
  外見は「立派な独立国」で、「経済大国」のように見
 えたが・・???
  本音は、まったく違って、ただ・・ただ・・この国は、
 戦勝国に服従している・・「属国にすぎない」・・と。
  周りの国まで、口には出さないけれど・・その国を蔑
 (さげす)む。
  国家のクレディビリティ(信憑性、信頼性、確実性)
 や、正統性を・・半端にしか見ない。
  その点での尊敬など受けない。
  国家の「ディ・モラライゼーション、de-moralization、
 士気喪失」の弊害が起きる。
  国民が士気を失う。
  「モラール(士気、気概、競争心)」を失う。
  (参考)士気:しき、戦いに対する軍隊の意気込み。
     転じて、一般に、人が団結して物事を行う時の
     意気込み。
  「戦勝国の顔ばかりうかがう国」と、劣等意識を植え
 付けられる。
  国への忠誠心も阻害される。
  国のためより、自分のための・・国民になる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年3月2日木曜日

(増補版)502E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)502E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月8日、パンチカードの特許
  アメリカで、ハーマン・ホレリスが、タビュレーティン
 グマシンの特許を取得した。
  因みに、タビュレーティングマシンは、日本で一般に
 「パンチカードシステム」と呼ぶもので、会計などの作
 表を補助する機械群。
  1890年、アメリカの国勢調査のデータ処理で、初めて
 使用された。
1889年3月4日、アメリカでベンジャミン・ハリソンが第23
 代大統領に就任した。
1889年3月23日、アメリカの大統領になりたてのハリソン大
 統領が、オクラホマ未割当地への白人入植を認可した(4
 月22日説あり)
  白人たちが未開地へ殺到する。
  ランドラッシュ (Land Rus)は、この時、アメリカ合
 衆国政府が入植を解禁したオクラホマへ、白人たちが、
 未開の土地を求めて殺到した現象。
  白人による北アメリカ大陸入植が本格化した。
  先住民である、そして、本来の土地の所有者であるイン
 ディアンの方たちは、そのアメリカ合衆国の白人たちに、
 武力で打倒され、強制的に移住させられ、土地は奪われた。
  チェロキー族など各地のインディアンの方々が、「涙
 の踏み分け道」と呼ばれる苛酷な旅程を経て、移住させ
 られた。
  多くの体の弱い幼児や、ご老人が亡くなった・・死んだ。
  それまでは・・アメリカ合衆国政府は、インディアンの
 方々との『約束を破ることになるため・・入植を許可しな
 かった』。
  ・・が、しかし、1886年の戦いを最後に、インディア
 ンとの戦いが終息すると・・アメリカは手のひらを返し
 た。
  インディアンの方たちとの『約束を無視して』・・ア
 メリカ合衆国政府は、オクラホマ入植を認めた。
  この日、正午を告げる号砲が鳴ると、競争するがごと
 くに、一斉にオクラホマへと乗り込んで行った。
  (大群衆の競馬だと思えばよい、その様な感じで、イン
 ディアンの方々の土地は奪われて行った)
  そして、アメリカ合衆国の白人たちは、土地を安値で
 手に入れた。
  (参考)1889年4月22日、米オクラホマで白人入植解禁
    (ランドラッシュ)
1889年4月、最初の食器洗い機がシカゴで販売された。
1889年5月30日、フランスで、エルミニー・カドルがブラジ
 ャーの原型を発明した。
1889年5月31日、アメリカのペンシルベニア州ジョーンズタ
 ウンで大洪水となる(死者2209名)
1889年6月6日、アメリカのシアトルで大火(25街区壊滅)
  木工細工職人が、接着剤をあたため、溶かしていたとこ
 ろへ誤って引火した。
  このとき、ビルを再建する際には、石材かレンガを使
 うこと、
  また、周辺が海抜ゼロメートル地帯で、昔から満潮に
 なると、度々、浸水の被害にあっていたことから、
  土地に勾配をつけて、高い位置に入り口を作ることなど
 が定められた。
1889年7月8日、ウォールストリート・ジャーナルが創刊し
 た。
  世界最大の発行部数を誇る経済新聞で、世界や全米各
 地の経済活動、金融に関するニュース記事を掲載してい
 る。
  現在は、アメリカ版、アジア版、ヨーロッパ版がそれ
 ぞれ発行され、長年にわたりアメリカ合衆国内での発行
 部数第1位を占めており、
  近年では、USAトゥデイ(211万部)に次ぐ第2位(
 208万部)であった。
1889年7月15日、第2インターナショナルがパリで結成され
 た。
  開かれた社会主義者・労働者の国際大会で創立した各
 国社会主義政党の連合組織。
  マルクス主義を支配的潮流とするドイツ社会民主党が
 中心で、欧米・アジア諸国社会主義政党の連合機関だっ
 た。
  第一次世界大戦で、各国の党がインターナショナリズ
 ムを放棄して、自国の戦争を支持するに至り、戦争に協
 力したため解体された。
  第1インターナショナルが、1872年に活動を停止してか
 ら、国際労働運動・社会主義運動の国際連帯の再建をめ
 ざす運動が続いていた。
  その間の世界的な工業化の進展により、労働者の数も
 増加し、資本主義の矛盾が高まった。
  そのことで、労働組合運動も活発となった。
  各国で、社会主義政党の結成も続いた。
  それらの動きを受けて、マルクスの死(1883年)後の
 社会主義運動を理論的に指導していたエンゲルスの肝い
 りで、
  1889年、ヨーロッパ・アメリカの19カ国の労働者代表
 によって第2インターナショナルが結成された。
   第2インターナショナルは、各国の社会主義政党の連帯
 組織という性格が強く、その中心は、ドイツ社会民主党
 であった。
  労働組合も参加したが、政党との関係に否定的な労働
 組合主義をとる組合は、別に労働組合インターナショナ
 ルを結成した。
  第1インターナショナルで、マルクス派と対立したアナ
 ーキズム勢力は排除された。
   第2インターナショナルは、帝国主義段階での資本主義
 の矛盾を、国家の枠を越えた社会主義政党と労働者階級
 の連帯によって克服し、
  労働者の解放を実現する社会主義社会を目指した。
  しかし、第1インターナショナルの段階と異なり、各国
 が、かかえる植民地支配の利害が対立するなか、植民地の
 解放については、各国の意見が対立するという問題を抱え
 るようになった。
  帝国主義間の戦争の危機が高まると、バルカン戦争な
 どでは、第2インターナショナルは、明確な戦争反対の立
 場をとり、
  第一次世界大戦の勃発に対しても、当初は、反対したが、
 戦争が長期化する中、インターナショナル各国支部の中に
 祖国防衛のためには戦争もやむなしというナショナリズム
 と戦争容認の声が強まり、統一的な国際組織として維持が
 できなくなり、
  1919年を最後に開催されて、なくなった。
  再度、書くが・・、1914年に、第一次世界大戦が勃発し、
 国家間の対立が鮮明になると、各国の社会主義政党もそれ
 ぞれ自国の戦争を肯定する側に回ったり(自国がかわいい)、
 戦争支持か反対かによって党が分裂し、
  第2インターナショナルは、1914年の開戦とともに機能
 不全に陥り、崩壊した
1889年10月、第1回 パン=アメリカ会議 (汎アメリカ会議)
  南北アメリカ大陸の独立国家のすべて、または、一部
 の代表間で開かれる、さまざまな会議。
  1826年~1889年に、国防や司法の共通問題を協議する
 ため米州諸国間で開催された一連の首脳会議が発端とな
 った。
  アメリカ合衆国を中心に、西半球における協力や交流
 を促進したり、この地域の問題の解決を図るために開か
 れた米州諸国の会議。
  1889年、アメリカのJ・ブレーン国務長官が、中南米諸
 国との通商拡大や、紛争の平和的処理法の協議のために
 ワシントンで、18カ国の代表が集まり、最初の会議を開
 催した。
  通商協定・仲裁裁判などで協定を結んだ。
  以後、数年おきに開催。
  その理念となったのは、アメリカ合衆国の指導のもと
 に、南北アメリカ諸国が政治的・経済的に緊密な関係を
 結ぼうというパン=アメリカ主義(汎アメリカ主義)。
  アメリカ合衆国にとっては、自国の工業化が進展した
 ことに伴い、原料・食糧の供給地として中南米地域を重
 視するようになっていた。
  (アメリカの国益となる経済圏の形成)
  南米大陸には、イギリスが、強い経済的関係を有して
 いた。
1889年11月2日、アメリカでノースダコタが39番目に、サウ
 スダコタが40番目に州となった。
  この日に、それまでのダコタ準州が南北に分割され、
 サウスダコタ州とともに、同時に州に昇格した。
  ・・が、ノースダコタ州が39番目、サウスダコタ州が
 40番目と認識された。
  ノースダコタ州の北側はカナダ国境であり、東側はミ
 ネソタ州との州境にレッド川が流れている。
  西側はモンタナ州に、南側はサウスダコタ州に接して
 いる。
  人口は70万人に満たず、全米50州の中で少ない方から
 3番目であり、面積は第19位なので、人口密度も4番目に
 小さい。
.
  (今日の言葉)
.
  題:誠実に歩む・・日本・・
.
紀元前447年、パルテノン神殿の建設が開始された。
  (~紀元前438年)
  建設に9年を要した。
  パルテノン神殿は、火薬庫に使われた。
  その時、砲弾が、命中して爆発して建物は吹き飛んだ。
.
紀元前427年、プラトンが生まれた。
  (参考)プラトン(紀元前427年~紀元前347年)は、
    古代ギリシアの哲学者。
     ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師
     に当たる。
      プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流。
  そして、今・現在、アメリカの中間層は・・居なくな
 った。
  上層部の超富裕層の僅かな層が・・豊かさを独占し、中
 間層がその下の層に下落したからである。
  格差が広がるアメリカ社会となっている。
  そして、この2400年前のプラトンは言った・・
  「貧しすぎると、人間は賤(いや)しくなる。豊か過
 ぎると、人間はだらしなくなる」・・と・・、
  アメリカは格差が広がり・・プラトンが言う様に・・
 だらしない超富裕層が増えたのか? 
  欲だけが突っ張る層が・・?
.
17世紀後半、竹島の日本の領有権が、明確に確立した。
  「竹島」について(読売新聞、2017年2月22日)に記載
 されていた。
  島根県の第12回「竹島の日」記念式典が今日、松江市
 で開かれる。
  1905年に、日本が、竹島を島根県に正式編入した日だ。
  2005年に、県条例で竹島の日と定められた。
  ・・日本は、17世紀後半には、竹島の領有権を確立し
 た。
  第二次世界大戦後も、日本の領土として扱われて来た。
  しかし、1952年、韓国が、李承晩ラインを一方的に設定
 し、力による現状変更を行って以来・・不法占拠を続けて
 いる。
.
1932年3月1日、満州国が、建国宣言した。
  満州国が建国された。
  満州国の国づくりに協力した日本は、日本から日本の
 資本を持って行って、満州国へ資本投下し、国造りをし
 た。
  そして、また、同時に、日本の優秀な人的資源も満州国
 に入り、支援した。
  資金・資本とともに、『日本の優秀な頭脳』が満州国の
 国造りに援助し、参画した。
  そして、日本の敗戦とともに、その方たちは、日本に引
 き揚げて来たが・・、
  今度は、戦後の日本経済と、日本国家再興に寄与した。
  日本再建の中枢に・・多くのこの方々が居た。
  その方たちの根底には、しっかりした、また、大局的
 な国家論があった。
  世界から「奇跡の復興」と言われた日本の戦後復興を
 実現する大きな一翼を担った。
  しかし、今・現在、その様な人材は居るのか・・?
.
1941年12月10日、マレー沖海戦が起きた。
  日本海軍の陸上攻撃機と、イギリス海軍の東洋艦隊の
 間で行われた戦闘。
  今(2017年)、読売新聞で連載を書かれている松永真
 理氏の御祖父は、この時の海軍中将であった。
  (参考)松永 真理(1954年11月13日~)は、雑誌編集
    者、著作家。
  御祖父の海軍中将・松永貞市氏は、マレー沖海戦で、航
 空隊指揮官を務められていた。
  イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「
 レパルス」を沈め、当時の日本は沸いた。
  動いている軍艦を飛行機で撃沈したのは初めてだった。
  出来ないと言われていたことを・・やった・・
  イギリスのチャーチル首相に「これ以上の衝撃は無か
 った」と言わしめた。
  それまでの世界の海軍は、艦艇同士の砲撃船で相手を
 撃沈しようとした。
  艦艇や主砲はどんどん巨大化し、「大艦巨砲主義」と
 言われる戦闘システムであった。
  航空機では無理だとされていた。
.
1944年(昭和19年)1月20日、オーストラリアの捕虜虐殺
  平成19年1月20日(土曜日)天候:雨 
  オーストラリア軍の不法行為について
  「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
  日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくな
 った時の話を覚えているかね? 
  あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ・・
  (日本兵)捕虜を、機上から山中に突き落とし、ジャッ
 プは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
 (リンドバーグ日記八月六日)
  ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によ
 って、日本軍捕虜は、「死の行進」が課せられた。
  ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、
 一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。
  同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名が、トロキナ
 の仮収容所に移送されることとなったが、
  栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、
 気温三五~三八度の中を一〇マイル行進させられた。
  (ろくな食事も与えられなかった)
  翌日、到着の一二五〇人も同様であった。
  豪州軍の警備兵は、行軍の速度をゆるめることを許さず、
 水もほとんど与えられなかった。
  死亡者が続出した。
  体験者の回想によれば・・、
  川を見つけた日本兵が、水を求めて駆け寄ると、川の両
 側に並んだ豪州軍将校たちが、水を飲ませまいと、足で
 水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。
  一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人と、オーシャ
 ンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
  くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移
 動させられた時には、マラリヤに多数が感染したが、豪
 州軍は予防薬を支給しなかった。
  捕虜のほとんど全員が感染、
  約七〇〇名が死亡したとみられる。
   以上「日本の反論」米田健三著 p一六五およびp一七一
 ~一七二よりの引用ですが、米田氏は、リンドバーグ日記
 および「軍事史学 第三五巻第二号」喜多義人論文より
 引用されています)
.
1944年4月14日、特別攻撃隊、
  日本が行った特別攻撃、
  第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、自爆
 攻撃が、現場で行われることはあった。
  1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう
 陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊の一式戦
 闘機「隼」(操縦:石川清雄曹長)が、
  アメリカ海軍の潜水艦が発射した魚雷3本を発見、機銃
 掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し戦死するも爆破に成
 功した。
  また、1944年8月20日、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃
 機による八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊の二
 式複座戦闘機「屠龍」(操縦:野辺重夫軍曹、後方射手:
 高木伝蔵伍長)が、第794爆撃飛行隊の「ガートルードC」
 号に対し体当たり攻撃を敢行し、「ガートルードC」号は
 空中爆発し、墜落した、
  また、その破片の直撃を受けた僚機の「カラミティ・
 スー」号も墜落した。
  「屠龍」は墜落し、野辺・高木共に戦死するも、1機で
 2機のB-29を撃墜した。
  特攻は、日本人以外の方々には理解されにくい行動だ
 った。
  若い方々が、国のためだとはいえ、あまりにもその一
 途な行動は理解されにくかった。
  しかし、今、戦後、時を経て・・国際的に、その行動
 が理解され、また、逆に、多くの方々に、尊敬され始め
 ている。
  終戦の調印が、日本とアメリカとの間で行われた、ア
 メリカ戦艦ミズーリー号にも、日本の特攻隊は突っ込ん
 ていた。
  ミズーリー号には、国を思いその任務を果たした若い
 日本軍人を顕彰(けんしょう、功績などを一般に知らせ、
 表彰すること)している。
  また、イギリスへ若い時に留学し、そして、今は、帰
 国して大学の教授になって居られる方は言われる、
  留学草々、下宿先のイギリス婦人が、日本からの留学生
 と知ると、
  「あなたの国(日本)には、立派な若人が居られました
 ね」と、
  早々に特攻隊の方々を褒め称えたという、
  その後も、勉強に立ち往生して、ちょっと気を抜いてい
 ると、特攻隊員の居る国なのにと、叱咤激励されたという。
  昔、以前は誤解されていた、また、プロパガンダされ、
 悪いイメージが作り上げられていた。
  ただただ、表面的にしか見られず、狂信的だと思い込
 まれていた見方は、今は、なくなりつつあり、変わって来
 ている。
  その若人たちが、特攻隊へと行くにあたって、ただた
 だ、単純に、狂信的に、任務に赴(おもむ)いたのでは
 ないという、深い理解が分かって来て戴いている、深い
 ところが理解されて来ている。
  特攻隊の若人の方々、一人一人の方々に、それぞれの
 苦悩があり、家族を想い、愛する人を想い、それぞれの
 心があり、郷土を想い、国を想い、その心があり、そして、
 行動があった。
  家族・郷土を守るため、国を守るために赴くという、
 命を賭して赴こうという心に至る道程が、一人一人の方々
 に苦悩を持ちながらあって、決断して赴いて行って戴い
 た、
  そこを、世界の方々は、理解して来て戴いている。
  極限になって行動された日本の特攻の若人の方々が、
 世界に理解されて来ている。
.
1944年10月20日、神風特別攻撃隊
  神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、し
 んぷうとくべつこうげきたい)は、第二次世界大戦末期
 に行われた大日本帝国海軍の航空機による特別攻撃隊。
  大日本帝国陸軍航空機による陸軍特別攻撃隊は含まれ
 ない。
  1944年10月20日に、最初の編成があり、1945年8月15日
 の終戦まで続けられた。
  『アンパンマン』の作者のやなせたかし氏の弟さんが、
 この神風特攻隊で戦死されていた。
  「いいね!ニュース」に次の記述があった。
  http://iinee-news.com/post-307/
  あなたは『アンパンマンの歌詞』の本当の意味を知っ
 てますか?・・と、題して書かれていた・・、
  大人から子供まで誰もが知っているアンパンマン。
  その主題歌『アンパンマンのマーチ』は、「愛と勇気
 だけが友達さ」などの歌詞から、なんだか寂しい歌のよ
 うに解釈されがちです。
  しかし、この歌の背景を知ると、実は、この曲が、子
 ども番組の主題歌と言うには、非常にもったいない程深
 い曲だという事がわかります。
  このアンパンマン、元々、大人向けの読み物で、アン
 パンマン自身も普通の人間だったのです。
  空腹の人たちの元へパン粉を届けるという点は現在と
 比較的共通していますが、
  アンパンマンを語る上で、最も知っておく必要がある
 のが、
  やなせたかしさんの弟の存在です。
  実は、やなせたかしさんの弟は海軍に志願し、特攻隊
 として戦場でその生涯を閉じました。
  更に、やなせたかしさん自身も、戦中・戦後の食糧危
 機に直面し、非常に辛い思いをしたそうです。
  その事を踏まえて、もう一度この歌の歌詞を読んでみ
 てください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  『アンパンマンのマーチ』
  作詞 やなせたかし 作曲 三木たかし
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえ胸の傷が痛んでも
  何の為に生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのは嫌だ!
  今を生きることで 熱いこころ燃える
  だから君は行くんだ微笑んで。
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえ胸の傷が痛んでも。
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
  何が君の幸せ 何をして喜ぶ
  解らないまま終わる そんなのは嫌だ!
  忘れないで夢を 零さないで涙
  だから君は飛ぶんだ何処までも
  そうだ!恐れないでみんなの為に
  愛と勇気だけが友達さ
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
  時は早く過ぎる 光る星は消える
  だから君は行くんだ微笑んで
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえどんな敵が相手でも
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  特攻隊として飛び立った彼は、自分が二度と母国の地
 を踏むことは無いと知り
  胸の痛みを感じつつも、生きている喜びを感じる。
  涙をこぼすことなく、恐れることなく彼は飛んだ。
  みんなの夢を守るために。
  戦いに行くのは自分一人だけでいい。
  愛と勇気だけを連れて行くから。
  幸せとは何か 
  何のために生きるのか
  その答えを知らずに生きるのは嫌だ。
  時は過ぎ
  彼は微笑みながら、特攻隊としての任務をこなした。
  まるで光る星が消え行くように。
  彼は微笑みながら飛んだ。
  みんなの夢を守るため。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  あなたはこの歌の意味を知っていましたか?
  この歌にはこんなにも、深い意味が込められていたの
 ですね。
  きっとあなたの心に響いたはずです!
.
1945年1月2日、アメリカ軍の艦載機500機が台湾と沖縄を
 空襲した。
.
1945年3月17日、硫黄島が玉砕した。
.
1945年3月18日、アメリカ軍がベルリンを空襲した。
.
1945年3月26日、硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦してい
 た栗林中将配下の部隊が全滅した(硫黄島の戦い終結)。
.
1945年12月、上野の地下道で暮らす子供たちに行われた聞
 き取り調査。
.
  そして・・40年の時が流れ・・、
.
1985年、この年、日本が、半導体生産で、アメリカを抜い
 て世界一となった。
  この日本の台頭する前、世界の半導体市場は、もともと、
 アメリカのテキサス・インスツルメンツ、モトローラ、
 インテルなど専業メーカーの独壇場だった。
  そして、1970年代後半から、日立、NECのほか富士
 通、三菱電機、東芝などの日本勢が台頭した。
  1985年になって、日本の半導体生産は、アメリカを抜い
 て世界一になり・・日本が悪者になり・・貿易摩擦が起き
 た。
  (自分が一位の時は、何の配慮もなれていなかった)
  今(2017年)、日本の半導体は見る影もないが・・
  当時、『産業の米』と言われ、半導体は花形産業だった。
.
1980年代中頃、巨大な『双子の赤字』を抱えるアメリカ
  アメリカの赤字は双子となった・・、
  そのアメリカから、日本は、この年代の中頃から、ア
 メリカの猛烈な攻撃を受け始めた。
  この時のレーガン政権は、「双子の赤字」(巨額な財
 政赤字と経常赤字〉を抱える様になっていた。
  原因は、レーガンが『大減税』をして、しかも、財政
 支出を『どんどん増やし』、無責任なマクロ経済政策を
 していたからだった。
  (レーガンの無責任なポピュリズム政策が原因・・自分
 が悪い)
  そして、日本の貿易黒字が悪いのだと取り上げた・・攻
 撃した。
  貿易摩擦を発生させた。
  正々堂々と戦わずに・・『陰険な方策を取る』・・、
  アメリカの日本締め上げ策は『円を急激に切り上げて、
 日本の輸出産業を締め上げ』、
  また、大蔵省と日銀に、『猛烈な圧力』をかけて、金融
 を超緩和させる」のだった。
  ジャイアンの「のび太君いじめ」のごとくだった・・
.
1986年12月、日本が「バブル」となった(~1991年2月)
  (参考)バブル景気は、景気動向指数(CI)上は、
    1986年(昭和61年)12月~1991年(平成3年)2月
    までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上
    昇と好景気、および、それに付随して起こった社
    会現象。
     情勢自体は、バブル経済と同一であり、平成景
    気や平成バブル景気とも呼ばれる。
  日本に「バブル・エコノミーが出現」し、「資産市場
 は急騰」し、そして、「急落」した。
  そして、「大量の不良債権が発生」し、「金融危機」
 となった。
  可哀想に・・「中小企業が、大量に倒産」した。
  これは、『日本のかじ取りが悪くてなったのではなく』、
  アメリカから、「日本は、貿易黒字をアメリカ相手に、
 せっせと稼いでいる」・・と、言われ、
  アメリカが「双子の赤字」を抱えるのは、日本が悪い
 からだ・・と、レーガン大統領に一方的に言われ・・、
  「円を急激に切り上げるという策を取らされ」、
  また、「日本の輸出を締め上げられ」・・、
  そして、「金融を超緩和させられた」・・その様な結
 果から起きた事だった。
  『まったく外的要因(アメリカ)からの発生』だった。
  日本の国内需要を『無理やり』人為的に膨張させられ
 た。
  日米の貿易差額を縮小できるから・・という政策だっ
 た。
  実際、これは間違いだった。
  アメリカの「税制」と「財政」を適正・健全化させる
 というアメリカ自分の足りないことに目をつむって、他に
 のみ原因を求めるという状況、アメリカの態度だった。
  この様に、アメリカは、「通商政策」に、そして、「
 金融政策」に、「外交政策」に、「国防政策」等に・・
 一方的にアメリカの圧力によって決めさせることをした。
  明治が、不平等条約で悩まされていたが・・相変わらず、
 日本は、アメリカの内政干渉を受けていた・・圧力を受け
 ていた。
  日本は『大きなダメージを受けた』。
  この後遺症から脱却するため「失われた二十年」とか、
 「失われた三十年」とかの・・四苦八苦をする羽目とな
 った。
  そして、この時、結果的に、ひどい事になるのだが・・、
  日本は、バブルに浮かれて、アメリカ資産を買いあさ
 った。
  例えば、1989年(平成元年)に、三菱地所が、約2200
 億円で買収したニューヨークのロックフェラーセンター。
  当時の日本企業による国外不動産の買い漁(あさ)り
 の象徴となった。
  しかし、バブル後に熾烈(しれつ)な状況となり、結
 局、日本の買い漁った資産は、アメリカに安く買い戻さ
 れて、日本は大きな損失を出し、アメリカに『大金を貢(
 みつ)ぐ』こととなった。
  アメリカは頭が良い・・
.
2013年10月13日、やなせたかし氏が逝去された。
  享年94歳。
  アニメ『アンパンマン』の生みの親。
  本名:本名:柳瀬 嵩(1919年〈大正8年〉2月6日~
 2013年〈平成25年〉10月13日)
  2013年8月に、体調を崩して入院し、
  2013年10月13日、午前3時8分、心不全のため、東京都
 文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去された。
  死去の知らせは、一般には、翌々日の15日に公表された、
  出身地の新聞である高知新聞は号外をWebで公開した。
  テレビのニュースでは、2013年の6月に、「アンパンマ
 ン」のアニメ製作のスタッフらに、「来年までに俺は死
 ぬんだよね。朝起きるたびに少しずつ体が衰弱していく
 のが分かるんだよね」「まだ死にたくねぇよ。(ようや
 くアニメが)面白いところへ来たのに、俺はなんで死な
 なくちゃいけないんだよ」と発言するやなせ氏の姿が繰
 り返し放送された。
  同日、NHKも、夜のニュースで、アンパンマンのアニメ
 を暫らく流すなどして逝去を惜しんだ。
  やなせたかし氏には、1991年に、勲四等瑞宝章が贈られ、
 その功を讃えられている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月27日月曜日

(増補版)501E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年12月)

題:(増補版)501E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月29日、地租条例施行規則公布。
1889年11月30日、地租条例改正公布。
  地租改正条例公布される
  地租改正の際に行われた測量結果は地券に記され、こ
 の内容は地券台帳にまとめられた。
  地券は、土地所有を公証し、かつ、納税義務者を表示
 するものとされた。
  また、土地売買の法的手段であるとされたことから、
 土地の流通、および、土地金融はすべて地券により行わ
 れることとなった。
  1885年の登記法成立後は、登記簿が土地所有を公証す
 るものとされた。
  また、地券台帳自体も、1884年に、創設された土地台
 帳制度に引き継がれ、
  1889年に、事実上廃止されて、以後、地租の収税は、
 この土地台帳によって行われた。
1889年11月、東京~大阪間に自動電信が開始された(10月
 説あり)
  東京~大阪間で、ホイートストンモールス自動電信機
 の使用が開始された。
  (別史料)1899年、長距離通話始まる(東京~大阪間)
1889年11月、大日本帝国水難救済会が創立された。
  現在の公益社団法人日本水難救済会(にほんすいなん
 きゅうさいかい)で、公益社団法人である。
  海や海浜での遭難者や船舶等を救助するボランティア
 の団体の全国法人。
1889年12月1日、第十八国立銀行が移転。
  東濱町より築町の俵物役所跡のルネサンス様式で洋風
 煉瓦造2階建のモダンな新社屋に移転し、営業を開始し
 た。
  1890年に、国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川
 に支店を開設した。
1889年12月10日、閣議で、条約改正交渉の延期を決定した。
1889年12月11日、北海道炭鉱鉄道会社が開業した。
1889年12月13日、総理大臣の臨時代理である三条実美は、
 アメリカ・ドイツ・ロシアの駐在公使に、調印済新条約(
 調印した航海条約)の実施延期を請求するよう訓令した。
  1889年、大隈重信外相が、アメリカ・ドイツ・ロシア
 との間に新条約を調印したが、
  大審院に限り「外国人裁判官の任用を認めていた」の
 で、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切
 りに、国民協会を率いる保守派の品川弥二郎や鳥尾小弥
 太、民権派の星亨を中心として、再び、国内に反対運動
 が起きた。
  大隈は、玄洋社の活動家に、爆弾を投げつけられて負
 傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、
  また、その後も、青木周蔵外相の交渉が、1891年に訪
 日したロシア皇太子(ニコライ2世)が、大津で警護の警
 察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折す
 るなど、条約改正は難航して行く。
1889年12月14日、条約改正交渉の失敗を受けて、大隈重信
 が、辞表を提出した。
1889年12月17日、京都府画学校を市へ移管し、京都市画学
 校となる(現:京都市立芸術大学)
  1880年に創設された京都府の画学校(美術学部)が起
   源で、
  1880年6月、太政大臣・三条実美により、「日本最初京
   都画学校」と命名された。
  1880年7月、京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式
   が行われた。
  背景は、東京遷都によってパトロンが喪失し、また、
 文明開化による伝統文化の冷遇があったことから、円山
 派・四条派といった京都画壇の諸派が危機に陥った。
  この美術を立て直すために、市民の間から、美術家養
 成機関としての近代的な「学校」を作ろうという声が高
 まり、創立された。
  また、同様に、文明開化で低迷していた京都の主力産
 業である伝統工芸の近代化を支援し、
  それに密接な関係がある美術界を盛んにする目的もあ
 った。
  画学校は、修業年限3年で、文人画や大和絵、狩野派な
 ど日本の美術の諸派を学んだ。
  また、殖産興業のために工芸品の意匠・デザインに関
 する教育も行った。
  そして、西洋画を導入したことは、当時としては画期
 的だった。
  西洋画は、当初、日本では、芸術文化の類というより
 は、建築などの図面を描く工業技術として、京都府画学
 校創立に先立つ、1876年、工部美術学校などで導入され
 ていた。
  工部美術学校が、アーネスト・フェノロサらによって
 西洋美術学習・研究の発展を妨害され、後発の東京美術
 学校もフェノロサや岡倉天心の意向により、ながらく西
 洋画科が置かれない事情があった。
  京都画壇の中心地で、また、京都の陶磁器、漆工芸、
 染織などの地場産業に多くの人材を供給し、活発化させ
 た。
  明治以来、多くの日本画家、洋画家、版画家、陶芸家、
 染織家、デザイナー、音楽家、現代美術作家を養成して
 きた。
  京都市の財政難から国立大学への移管もあったが、京
 都市民の熱望から窮状を救おうと、古くからの町衆や旧
 家などから存続のための多数の寄付を受け、音楽短大と
 統合し、現在に至る市立大学としてある。
1889年12月19日、板垣退助が、旧自由党員と協議して糾合
 し、大阪で愛国公党の結成を決定した。
  板垣退助は総理。
  大同協和会は、同日、独自の自由党再興を決定した。
1889年12月20日、大同倶楽部が、愛国公党不参加を決定し
 た。
1889年12月21日、九州鉄道の博多駅~千歳川駅間が開通し
 た(12月11日説あり)
  初代の博多駅は、九州で最初の鉄道である九州鉄道(
 初代)が、1889年12月11日に、博多~千歳川仮停車場(
 久留米駅の北側、筑後川の北岸)間に開通時に開業した。
1889年12月24日、大隈重信外相が、辞任した。
1889年12月24日、第一次・山県有朋内閣が成立した。
  そして、三条実美と大隈重信の免官が発令した。
  三条暫定内閣が総辞職して終了し、山県有朋が首相に
 任命され、第1次山県内閣が成立した。
  同日、内閣官制も公布され内閣制度も整う。
  山県内閣(氷川清話)
.
  (今日の言葉)
.
  題:マッカーサーは、日本の戦争は『自衛の戦争だった』と言った・・、
.
紀元前11世紀後半、中国の周は、紀元前11世紀後半に成立
 した。
  そして、紀元前771年に滅亡した。
  今、金文(きんぶん、青銅器に彫られたもの)や、竹
 簡などの史料が発掘されて、その古代王朝の実像が、少
 しづつ明らかになって来た。
  2代の成王の時、周王朝の拡大は始まった。
  周王は、諸侯を統合する手段として、各地で諸侯らを
 参加させ、池水で「合同型儀礼」を行なった。
  これは、殷の狩猟・漁撈(ぎょろう)儀礼を引き継い
 だもので、宝貝などの賜与品が主君とのつながりを深め
 るために配られた。
  6代共王のあたりから、周王朝の軍事的な支配領域拡大
 が頭打ちとなり、儀礼も「冊命儀礼」(王が臣下に職務
 を任命)に変化する。
  10代の王は暴君として追放され、紀元前771年、12代幽
 王の時代に周は滅亡する。
  周の王族が洛陽に東遷して東周となり、500年生き延び
 るが、もはやリーダーとしての力は残っていなかった。
  そこで、諸侯の中の有力者(春秋5覇)が台頭した。
  乱世を嘆いた孔子は、礼制の再編を試みる。
  儒家は、西周の祀を復活させたと主張したが、実際は、
 当時の東周の礼制を元に、儒家が文献に散見される関連
 の記述をたよりに、西周時代の祀を修復、もしくは創造
 したものだった。
  (参考)祀:し、神や先祖を祀(まつ)る。祀り。
.
1900年頃、大掃除の始まり。
  この年に制定された「汚物掃除法」(明治33年法律31
 号)は、家屋の大掃除を国民に義務付けた。
  同法は、1954年(昭和29年)7月1日まで施行され、
  その後、1971年(昭和46年)年9月24日までは、「清掃
 法」(昭和29年法律72号)が施行された。
  同法16条は、「建物の占有者は、建物内を全般にわた
 って清潔にするため、毎年一回以上、市町村長が定める
 計画に従い、大掃除を実施しなければならない」と規定
 していた。
  同法は、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(昭
 和45年12月25日法律137号)の施行に伴い廃止され、
  現行法には、大掃除に関する規定はない。
  専門者は、自宅の大掃除をしなくなったことが、日本
 人の住宅に対する意識を変え、
  DIYの盛んな米国などと比べて、住宅の維持管理や
 リフォーム、さらには、既存住宅流通に対する消極的な
 傾向の一因にもなっていると言われている。
.
1939年6月、日本のユダヤ人保護にならって、駐ベルリン
 満州国公使館書記官・王替夫が、ユダヤ人の方々を含む
 難民にビザ発給した。
  杉浦千畝の倍以上のユダヤ人の方々へビザの発給をし
 ていた。
  なお、杉原千畝より早くからやっている。
  (1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)
  杉原千畝は、1940年。
.
1941年8月、アメリカが、第2次石油禁輸をして、対日輸出
 を全面停止とした。
  日露戦争以後・・、日本は、種々、痛めつけられてい
 た。
  そして、「日本からアメリカへの輸出も完全に止めら
 れた」。
  日本からの輸出は全面的に排除された。
  日本経済は、どん底となった。
  また、満州は、日露戦争でロシアから移譲されたもの
 で、侵略で得たものではないのに、
  そして、ヨーロッパ列強の様な、ただただ利を貪(む
 さぼ)る行為と違い、
  日本は、自らの日本の資本を持ち込んで、その資本を
 投下し、満州の国造りをした。
  また、満州族の方々の地なので「満州国の建国」の手
 助けをした。
  この満州について、アメリカは、国際連盟という名前
 を使って、注文を付けた。
  そして、アメリカの、自国のハルを国際連盟の調査団
 だとして行動を始めた。
  日本が投資して利益が上がるようになった努力も無駄
 になった。
  イギリスやアメリカは、ただ植民地経営で、収奪する
 だけだったが、日本は満州の方たちの為にもなる社会資
 本充実もした。
  また、満州において、日本の行なった正当な投資鉱山
 や鉄道などの経済活動にも、アメリカは注文を付けた。
  日本を潰したいアメリカは、日本が、資本投下して作
 った満州鉄道に並行して、アメリカは、鉄道を作るとい
 う行為をした。
  そして、中国を繰って「満州で日本人が土地を買えな
 い」という法律を作った、また、「借りることさえもで
 きなくされた」。
  さらに、「日本人が、鉱山開発をしては駄目」という
 法律も作った、
  日本は、大きな投資を鉱山にしていた。
.
1945年10月22日、GHQマッカーサーによって、日本へ「
 教育4大指令」が出された(~1945年12月31日)
  「日本教育制度に対する管理政策」「教職追放令」「
 神道指令」「修身、日本歴史及び地理に関する件」であ
 った。
  GHQは、日本の教育の変革を大きな課題としていた。
  「日本教育制度に対する管理政策」で、「自由」や「
 人権」などの「民主教育」を教師・学生に指導する一方
 で、「軍国主義」「封建主義」などの国威発揚につなが
 る過去の教育内容を禁止した。
  「教職追放令」では、全国約45万人の教師のうち、11
 万5778人が自ら辞職し、また、約5200人が教職を追放さ
 せられた。
  「神道指令」において、「神道的なもの」を取り除こ
 うとした。
  「修身、日本歴史及び地理に関する件」では、明治以
 来の日本人が使ってきた過去の修身・地理・歴史教育の
 教科書、および、教師用参考書の再使用を「封建的制度」
 としたレッテルを貼って一切禁止した。
  この為、日本の地理や歴史が、子供たちに教えられな
 くなった。
  教育改革以降は、戦前の「国史」ではなく「日本史」
 と呼ばせて、GHQは検閲をした。
  「国のあゆみ」や「公民教科書」などが使わさせられ
 た。
  また、真実であっても、GHQにとって「不都合な真
 実」は、異なるものに書き換えられるか、墨で「黒塗り」
 させられた。
  例えば、それまで偉人として、戦前まで教えて来た「
 楠木正成」「吉田松陰」「東郷平八郎」の3人は、「豊田
 佐吉」「ガリレオ」「野口英世」に書き換えさせられた。
.
1946年5月3日、極東国際軍事裁判所開廷
  東京裁判(~1948年11月12日)
  東京裁判で、日本は、「侵略戦争をした」と追及され
 たが、『アメリカなどは、侵略戦争と立証する事は出来
 なかった』。
  裁判でも確かめられたように、日本は侵略戦争をした
 のではない。
  そして、さらに、マッカーサーが、日本占領を終え、
 アメリカに帰国し、
  1951年(昭和26年)5月、アメリカ上院の軍事外交合同
 委員会で証言したように・・「日本の戦いは、自衛のた
 めの戦いであった」。
  ドイツの場合は、戦争の始まる前から、侵略の意図を
 持って、
  開戦の3年も前の1936年に、ヒトラーを中心にナチス指
 導者たちによる、明確な共同謀議の記録もある。
  日本には、当然、その様なものはない。
  そして、ナチスのその記録には、最初にチェコスロバ
 キアを侵略し、次にポーランド、そしてフランス、最後
 にソ連を植民地にする・・という侵略計画が記載されて
 いる。
  日本には、勿論、その様なものもなく、共同謀議の記
 録もない。
  アメリカなどの連合国側は、ドイツの様な「一貫した
 侵略の意図と侵略計画がある」としたが、立証する事は
 出来なかった。
  その様な意図や計画が無いのであるから当然である。
  しかし、マッカーサーは、戦後の占領政策の中で、必
 死に、日本人へ、「あの日本の戦争は、侵略戦争だった」
 と言い続けた。
  日本は侵略したのだとマインド・コントロールし、洗
 脳した。
  しかし、マッカーサー自身は、日本の占領統治を終わ
 って、アメリカに帰国し、アメリカ議会で証言に立ち、
 「(日本の戦争は侵略戦争ではなく)、日本は自衛のた
 めに戦った」と証言した。
  東京裁判の時は、侵略戦争だと追及したが・・、
  追求された日本の被告たちは・・、
  「その様な上等なものは、まったくありません」と、
 きっぱり否定した。
  また、日本は、法律を犯した殺戮は一切、一つもして
 いない。
  アメリカは、国際法違反の「一般市民の殺戮」をあち
 こちでやっている。・・が、少しも問われることもない。
  犯罪行為をした容疑者のままでいる・・、
  日本は、無実の罪だが、服役し終わっている状態だ・・、
  日本は、アメリカのルーズベルトの策にはまって行っ
 た。
  侵略の意図はない。
  戦争は、常に、収めたいという中にあった。
  日本は、最初から、アメリカとの戦争は勝つことはで
 きないという分析結果を持ち・・そして、その様に認識
 していた。
  日本から好んで戦争を仕掛ける事はしない。
  そうせざるを得ない悲惨な窮地に、アメリカのルーズ
 ベルトは、日本を追い込んで行った。
  「させられた戦争」を、「せざるを得なかった」。
  逆に、アメリカのルーズベルトには、1941年夏(昭和
 16年)に、日本を「戦争に徴発しよう」とした未遂事件
 がある。
  アメリカ巡洋艦を、日本の領海内に侵入させ、、日本
 の軍艦と衝突させようとした。
  一触即発の国どおし、こんな時に、こんな事が起きれ
 ば、戦争に至ることは必定(ひつじょう、そうなると決
 まっていること)だった。
  ルーズベルトという人間は、この様な事をしようとす
 る人間だった。
  そして、インドのパール判事が弁論したが・・、
  「こんな最後通牒の様な文書を出されたら、モナコで
 さえ武器を持って立つ」・・と・・、
  「日本政府が戦争したのは当然だ」と言った。
  それほど、アメリカは、強圧的な、上からの態度の内
 容の「ハル・ノート」だった。
  ことは、ルーズベルトの思惑通りに運ばされた。
  交通事故ではないが、一方が、完全に100パーセント悪
 いという事はない。
  しかし、アメリカは、うまく立ち回り、アメリカの責
 任、自分の責任はとろうとしない。
  アン・フェアなアメリカとなっている。
  日本は、種々、いじめられ、痛めつけられ耐えたが、
  その中でも・・大きく痛かった事項は、「日本からア
 メリカへの輸出を、すべて止められた」ことだった。
  日本からの輸出は、「全面的に排除」された。
  日本経済は、どん底となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive