題:(増補版)29B:気になった事柄を集めた年表(1159年~1178年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
12世紀、イスラムによるインド仏教遺跡の破壊。
1160年、源義朝(頼朝の父)が没した(1123年~1160年)
1160年、平清盛が、正三位参議となり公卿の地位に昇った。
武士が公卿となったのは、これが初めてである。
そして、発言権を得た。
1160年、12世紀後半。源平の争乱。
この頃より、武士の間に切腹の風習が定着する。
1160年3月11日、源頼朝(13歳)の配流国は伊豆と決めら
れ、この日、京都を発った。
東海道に沿って、父・義朝が配置していた家人たちも、
今は心変わりして、この敗戦の孤児をほとんど省みよう
とはしなかった。
この間、頼朝が、配所まで送るのに温かい手を差し伸
べたのは、長田資経(すけつね)・祐範(ゆうはん)・
比企の尼などわずかな人々である。
配所は、蛭ガ小島(ひるがおじま)と言われている。
この地の有数の土豪・北条氏は、平氏の一流(一派の
意)として権勢をふるっていた。
他にも工藤・宇佐美・伊東・狩野など、平氏に組する
武士団が、清盛に忠誠を誓っていた。
関東は、源氏の本拠とはいえ、すべての武士団が、源
氏に心を寄せていた訳ではない。
関東のめぼしい雄族は、高望王(たかもちおう)に発
する平氏の一流であって、源氏の恩顧を受けたこともあ
ったが、いま全盛を誇る清盛に、正面切って楯突くもの
ではなかった。
頼朝は、34歳までの20年をこの地で送る。
配所の生活は、ほとんど写経、読経といった宗教的勤
行に明け暮れていたと伝えられている。
12世紀中頃、朝鮮半島の高麗で、この頃から、王や文人が
政治をないがしろにされ、武人が政権獲得を伺うように
なった。
そして、12世紀後半から、100年間は、武人が政権を
担当する時代が続く。
1162年、藤原定家(公家、歌人、小倉百人一首の撰者)が
生まれた(1162年~1241年)
1162年頃、チンギス・カンが生まれた(1162年頃~1227
年)、モンゴル帝国の初代皇帝。
モンゴル遊牧民の諸部族を一代で統一した。
中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを
征服した。
当時の世界人口の半数以上を統治する大皇帝。
現在でも、モンゴル国において、国家創建の英雄とし
て称えられている。
モンゴル軍の兵士は、遠征においても、家族と馬とを
伴って移動し、一人の乗り手に対して3頭~4頭の馬がい
るため、常に消耗していない馬を移動の手段として利用
できる態勢になっていた。
そのため、大陸における機動力は世界最大級となり、
爆発的な行動力を持っていた。
また、モンゴル軍の強い要素は、左右に大軍団を対称
に設けていた。
この左右対称の軍政一致構造により、恒常的征服戦争
の続行を可能にした。
1163年、北条義時(時政の次男、第2代執権)が生まれた
(1163年~1224年)
1164年、六条天皇が生まれた(1164年~1176年)
1164年、平清盛が、この年、壮大な蓮華王院(三十三間堂
の寺号)を後白河院に造進した。
清盛の父・忠盛や祖父の正盛が、造寺・造塔をもっぱ
ら白河院・鳥羽院にして、接近し、その地位を高めたの
にならった。
1165年、六条天皇(在位、1165年~1168年)
1165年、平清盛が、権大納言になった。
二条天皇が崩御し、清盛は、幼少の六条天皇の摂政と
して政治を主導し、大納言に昇進して補佐した。
1167年、平清盛が、播磨、肥前、肥後などの地を、子孫ま
での大功田として賜った。
1167年、平清盛が、左右大臣を経ずして、内大臣から従一
位太政大臣となった。
この年、子の重盛・宗盛や妻の兄の平時忠も公卿の地
位に昇った。
「平氏にあらずんば人にあらず」(平家物語)とある。
平氏の全盛期。
平重盛(内大臣)以下一族の公卿16人、殿上人30余人
に達し、知行国30余国、荘園500余ヶ所。
1167年2月、平家納経(厳島神社)、藤原時代の栄華の再
現。
1168年、高倉天皇(在位、1168年~1180年、80代)
1168年、平清盛が、皇室や摂関家藤原氏との結合を強めよ
うと、妻の妹・滋子を後白河天皇の後宮に入れ、
幸い寵を得て男子を出産すると、この皇子を六条天皇
の東宮(皇太子の称)とした。
そして、1168年に、わずか8歳のこの皇子を皇位につ
けた、高倉天皇(後白河天皇の第7皇子)である。
1170年頃、平安時代末期、大陸では、宋の時代。新しい
儒学が起こった。南宋の朱子がこれを大成した。
1172年、清盛の娘・平徳子が中宮となる。
平清盛は、高倉天皇と娘の徳子(後の建礼門院、けん
れいもんいん)を結婚させた。
この二人に、後に安徳天皇が生まれる。
1173年、親鸞が生まれる(1173年~1263年)、52歳の時、
浄土真宗を開く。
1173年、平清盛が、「大和田泊(神戸港)」を修築した。
江戸時代以前の主な社会資本整備となっている。
1173年、ピサの斜塔は、現在、第7層では4メートルも傾
いているが、この傾斜が始まったのは、1173年の建築
開始から、わずか12年後であった。
あと200年で倒れてしまうと言われている。
1175年頃、平清盛が、この頃、宋との貿易を計った。
遣唐使廃止の後の大陸貿易は、宋の勃興と共に、私貿
易の形で展開され、宋船は九州に来航した。
この貿易の利に着目した清盛は、父・忠盛によって開
始された貿易を承継し、大宰府に家人や一族を配して、
貿易の独占を計った。
やがて、音戸の瀬戸を開き、大輪田の泊を修築して、
宋船の出入りを便利にし、別荘を福原に置くなど、貿易
には熱心であった。
日宋貿易による影響は経済の方面のみでなく、文化的
にも入宋する僧の増加で、鎌倉新仏教への影響がみられ
る。
1176年、法然が、43歳の時、この年に、浄土宗を開いた。
1176年、六条天皇が没した(1164年~1176年)
1176年、レニャーノの戦いが起きた。
神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟(1167年に結成
された北イタリアのロンバルディア地方の26の都市によ
る軍事同盟)との戦闘。
神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世を破り、都市の自治
を承認させた。
1177年、京都が大火になった(安元の大火)。
皇居をはじめ京都の大半を焼き、この災禍のため、元
号が安元から治承と改められた。
1177年、延暦寺の衆徒が、加賀の国司・藤原師高(もろた
か)を訴えた。師高が流罪となった。
この事件は、清盛と院との対立関係が絡んでいた。
ここに、院と平氏と大社寺という三大勢力の分裂が深
刻になっていく。
1177年、近衛大将(宮中の警護などを司る左近衛府と右近
衛府の長官)の地位を平重盛と平宗盛の二人が独占した。
1177年頃、反平氏の気運。
(1)平氏の貴族化による旧勢力(法皇、貴族、寺社)
との対立。
(2)武家政権としての不徹底→地方武士の離反。
1177年6月、鹿ケ谷の密議:後白河法皇の反清盛感情があ
り、京都の鹿ケ谷(大文字山麓)で平氏打倒を密議した
→山荘の密議の発覚→西光、藤原成親(なりちか)、藤
原成経、平康頼、僧俊寛(しゅんかん)などが処刑や流
罪になった。
この日の払暁、清盛は突然、院の近臣である西光法師
と藤原成親を逮捕した。西光は、その日のうちに、首を
はねられ、成親は備前に流された。
1178年11月、高倉天皇の中宮(清盛の娘・平徳子)が皇
子を産む。
後白河院も自ら産殿にのぞみ、安産を祈祷し、清盛は
これを喜んで院に綿・綿など膨大な祝いの品を送ったり
した。
こうして鹿ケ谷事件で爆発しかかった院と清盛の対立
関係が、一時持ち直すかに見えた。しかし、一時的なも
のであった。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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12世紀、イスラムによるインド仏教遺跡の破壊。
1160年、源義朝(頼朝の父)が没した(1123年~1160年)
1160年、平清盛が、正三位参議となり公卿の地位に昇った。
武士が公卿となったのは、これが初めてである。
そして、発言権を得た。
1160年、12世紀後半。源平の争乱。
この頃より、武士の間に切腹の風習が定着する。
1160年3月11日、源頼朝(13歳)の配流国は伊豆と決めら
れ、この日、京都を発った。
東海道に沿って、父・義朝が配置していた家人たちも、
今は心変わりして、この敗戦の孤児をほとんど省みよう
とはしなかった。
この間、頼朝が、配所まで送るのに温かい手を差し伸
べたのは、長田資経(すけつね)・祐範(ゆうはん)・
比企の尼などわずかな人々である。
配所は、蛭ガ小島(ひるがおじま)と言われている。
この地の有数の土豪・北条氏は、平氏の一流(一派の
意)として権勢をふるっていた。
他にも工藤・宇佐美・伊東・狩野など、平氏に組する
武士団が、清盛に忠誠を誓っていた。
関東は、源氏の本拠とはいえ、すべての武士団が、源
氏に心を寄せていた訳ではない。
関東のめぼしい雄族は、高望王(たかもちおう)に発
する平氏の一流であって、源氏の恩顧を受けたこともあ
ったが、いま全盛を誇る清盛に、正面切って楯突くもの
ではなかった。
頼朝は、34歳までの20年をこの地で送る。
配所の生活は、ほとんど写経、読経といった宗教的勤
行に明け暮れていたと伝えられている。
12世紀中頃、朝鮮半島の高麗で、この頃から、王や文人が
政治をないがしろにされ、武人が政権獲得を伺うように
なった。
そして、12世紀後半から、100年間は、武人が政権を
担当する時代が続く。
1162年、藤原定家(公家、歌人、小倉百人一首の撰者)が
生まれた(1162年~1241年)
1162年頃、チンギス・カンが生まれた(1162年頃~1227
年)、モンゴル帝国の初代皇帝。
モンゴル遊牧民の諸部族を一代で統一した。
中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを
征服した。
当時の世界人口の半数以上を統治する大皇帝。
現在でも、モンゴル国において、国家創建の英雄とし
て称えられている。
モンゴル軍の兵士は、遠征においても、家族と馬とを
伴って移動し、一人の乗り手に対して3頭~4頭の馬がい
るため、常に消耗していない馬を移動の手段として利用
できる態勢になっていた。
そのため、大陸における機動力は世界最大級となり、
爆発的な行動力を持っていた。
また、モンゴル軍の強い要素は、左右に大軍団を対称
に設けていた。
この左右対称の軍政一致構造により、恒常的征服戦争
の続行を可能にした。
1163年、北条義時(時政の次男、第2代執権)が生まれた
(1163年~1224年)
1164年、六条天皇が生まれた(1164年~1176年)
1164年、平清盛が、この年、壮大な蓮華王院(三十三間堂
の寺号)を後白河院に造進した。
清盛の父・忠盛や祖父の正盛が、造寺・造塔をもっぱ
ら白河院・鳥羽院にして、接近し、その地位を高めたの
にならった。
1165年、六条天皇(在位、1165年~1168年)
1165年、平清盛が、権大納言になった。
二条天皇が崩御し、清盛は、幼少の六条天皇の摂政と
して政治を主導し、大納言に昇進して補佐した。
1167年、平清盛が、播磨、肥前、肥後などの地を、子孫ま
での大功田として賜った。
1167年、平清盛が、左右大臣を経ずして、内大臣から従一
位太政大臣となった。
この年、子の重盛・宗盛や妻の兄の平時忠も公卿の地
位に昇った。
「平氏にあらずんば人にあらず」(平家物語)とある。
平氏の全盛期。
平重盛(内大臣)以下一族の公卿16人、殿上人30余人
に達し、知行国30余国、荘園500余ヶ所。
1167年2月、平家納経(厳島神社)、藤原時代の栄華の再
現。
1168年、高倉天皇(在位、1168年~1180年、80代)
1168年、平清盛が、皇室や摂関家藤原氏との結合を強めよ
うと、妻の妹・滋子を後白河天皇の後宮に入れ、
幸い寵を得て男子を出産すると、この皇子を六条天皇
の東宮(皇太子の称)とした。
そして、1168年に、わずか8歳のこの皇子を皇位につ
けた、高倉天皇(後白河天皇の第7皇子)である。
1170年頃、平安時代末期、大陸では、宋の時代。新しい
儒学が起こった。南宋の朱子がこれを大成した。
1172年、清盛の娘・平徳子が中宮となる。
平清盛は、高倉天皇と娘の徳子(後の建礼門院、けん
れいもんいん)を結婚させた。
この二人に、後に安徳天皇が生まれる。
1173年、親鸞が生まれる(1173年~1263年)、52歳の時、
浄土真宗を開く。
1173年、平清盛が、「大和田泊(神戸港)」を修築した。
江戸時代以前の主な社会資本整備となっている。
1173年、ピサの斜塔は、現在、第7層では4メートルも傾
いているが、この傾斜が始まったのは、1173年の建築
開始から、わずか12年後であった。
あと200年で倒れてしまうと言われている。
1175年頃、平清盛が、この頃、宋との貿易を計った。
遣唐使廃止の後の大陸貿易は、宋の勃興と共に、私貿
易の形で展開され、宋船は九州に来航した。
この貿易の利に着目した清盛は、父・忠盛によって開
始された貿易を承継し、大宰府に家人や一族を配して、
貿易の独占を計った。
やがて、音戸の瀬戸を開き、大輪田の泊を修築して、
宋船の出入りを便利にし、別荘を福原に置くなど、貿易
には熱心であった。
日宋貿易による影響は経済の方面のみでなく、文化的
にも入宋する僧の増加で、鎌倉新仏教への影響がみられ
る。
1176年、法然が、43歳の時、この年に、浄土宗を開いた。
1176年、六条天皇が没した(1164年~1176年)
1176年、レニャーノの戦いが起きた。
神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟(1167年に結成
された北イタリアのロンバルディア地方の26の都市によ
る軍事同盟)との戦闘。
神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世を破り、都市の自治
を承認させた。
1177年、京都が大火になった(安元の大火)。
皇居をはじめ京都の大半を焼き、この災禍のため、元
号が安元から治承と改められた。
1177年、延暦寺の衆徒が、加賀の国司・藤原師高(もろた
か)を訴えた。師高が流罪となった。
この事件は、清盛と院との対立関係が絡んでいた。
ここに、院と平氏と大社寺という三大勢力の分裂が深
刻になっていく。
1177年、近衛大将(宮中の警護などを司る左近衛府と右近
衛府の長官)の地位を平重盛と平宗盛の二人が独占した。
1177年頃、反平氏の気運。
(1)平氏の貴族化による旧勢力(法皇、貴族、寺社)
との対立。
(2)武家政権としての不徹底→地方武士の離反。
1177年6月、鹿ケ谷の密議:後白河法皇の反清盛感情があ
り、京都の鹿ケ谷(大文字山麓)で平氏打倒を密議した
→山荘の密議の発覚→西光、藤原成親(なりちか)、藤
原成経、平康頼、僧俊寛(しゅんかん)などが処刑や流
罪になった。
この日の払暁、清盛は突然、院の近臣である西光法師
と藤原成親を逮捕した。西光は、その日のうちに、首を
はねられ、成親は備前に流された。
1178年11月、高倉天皇の中宮(清盛の娘・平徳子)が皇
子を産む。
後白河院も自ら産殿にのぞみ、安産を祈祷し、清盛は
これを喜んで院に綿・綿など膨大な祝いの品を送ったり
した。
こうして鹿ケ谷事件で爆発しかかった院と清盛の対立
関係が、一時持ち直すかに見えた。しかし、一時的なも
のであった。
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