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2015年3月9日月曜日

(増補版)36B:気になった事柄を集めた年表(1193年~1200年)

 題:(増補版)36B:気になった事柄を集めた年表(1193年~1200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1193年、前回、この年の、北方十字軍(バルト十字軍)で
 書き終えたが、十字軍は、1096年から始まっているが、
  この十字軍には、大規模な慰安婦部隊が組織され、従
 軍していた。従軍慰安婦です。
  この頃、農村経済の崩壊などが多発し、生活困難に陥
 った農村の可哀想な女子を売春婦にしていた。
1194年、建築:石山寺多宝塔(滋賀、和様)。
  源頼朝の寄進と伝わる、日本最古の多宝塔で、国宝に
 指定されている。
1194年8月、安田義定が謀反の疑いで殺された。
1195年、土御門上皇が生まれた(1195年~1231年)
1195年2月14日、源頼朝が、東大寺再建供養に出席するた
 め、政子と頼家・大姫らの妻子を伴って、再びの上洛の
 ため、鎌倉を出発した。
1195年3月4日、源頼朝らが、入京した。
1195年3月12日、源頼朝が、東大寺再建供養に臨んだ。
  奈良・東大寺大仏殿が平安時代末期に焼失した後、運
 慶、快慶らの手で1196年に造られた四天王像は、後世の
 範となった像だった。
  戦国時代に焼失したが、南大門の金剛力士像(像高8
 メートル40)をもしのぐ13メートルの巨像で、同じポー
 ズの「大仏殿様四天王像」が各地に現存する。
1195年6月25日、源頼朝が、帰東のため出京。
1195年7月8日、源頼朝が、鎌倉帰着。
1196年11月、九条兼実が、関白を罷免され、失脚した。
  近衛基通が、関白になった。基通は反鎌倉派。
  事案に絡む荘園の取り消しの措置に関する件、頼朝の
 長女・大姫の入内も絡んでいた(大姫が頼朝と京へ行っ
 たのはそのためか?)、兼実と法皇の間もうまく行って
 いなかった、源通親の謀略とも(建久七年の政変)。
1197年7月、頼朝の長女・大姫、死す(20歳)。
  頼朝の入内運動も挫折した。
1197年10月、藤原(一条)能保(よしやす)が、死す。
  頼朝から全幅の信頼を寄せられていた。
  頼朝にとっては、存命の同母兄弟姉妹は、この能保の
 妻である坊門姫だけだった。
  能保は、頼朝の威光を背景に異例の栄進をした。
  能保は、後白河法皇に仕え、重用されてもいた。
  また、能保の妻や娘は、後鳥羽天皇の乳母を務めても
 いる。
  朝廷と幕府の太い人脈を形成し、パイプとなっていた。
  しかし、1191年には失敗し、検非違使別当職を辞任し
 ている。また、急激な昇進に公卿の反感も買っていた。
  1194年には病に倒れ、出家した。
1198年1月、源通親(みなもとのみちちか、公卿)後院別
 当となる。
  後院(ごいん)とは、天皇が在位中に、あらかじめ定
 めた譲位後の御座所。村上源氏の嫡流の生まれ。平教盛
 の娘を二人目の妻としている。1185年に頼朝から議奏公
 卿に選ばれている。1195年には、道親の養女・在子が皇
 子(後の土御門天皇)を産んだ事で一気に地歩を固めた。
1198年1月、後鳥羽天皇(第82代天皇)は、源通親の外孫
 にあたる皇子(土御門天皇Z)に譲位して、院政を始めた。
  1221年までの3代23年間に亘り上皇として院政に携わ
 った。
  上皇になると、土御門(源)通親も排し、殿上人も整
 理し、院政機構の改革も行って、積極的政策を採った。
  頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線
 をとった。
1198年1月、近衛基通(もとみち、公卿)が、関白を止め、
 摂政が宣下された。
  土御門天皇の践祚(せんそ、天子の位を受け継ぐこと)
 と共に摂政に任じられた。
1198年2月、平維盛の子・六代を斬る。
  伊勢平家の初代・平正盛から数えて六代になるので幼
 名は六代丸と言った。
  斬られた年の説は色々な説がある。
  平氏滅亡のとき12歳であったが、母や妹と共に隠れて
 いたが、北条時政に捕らえられ、千本松原で斬られると
 ころを、文覚上人(僧侶)の尽力よって助命された。
  その後、出家し、高尾の奥で修行。
  しかし、諸説あるが、頼朝の死の後、再び捕らえられ
 て処刑されたとする。
  この死をもって、平氏の完全な滅亡とする(平家物語
 など)。
1198年12月、源頼朝が、相模川の橋供養に臨み、その帰路
 に落馬する。
  橋供養とは、橋が出来上がって、渡り初めの前に橋上
 で行う供養のこと。
  武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き
 妻の供養のため、相模川に橋を架けた。
  その落成式に頼朝も参列した。
  重成の妻は、頼朝の妻・政子の妹。
  「吾妻鏡」には、この時の怪我が原因で、翌年、頼朝
 は亡くなったと記している。
1199年1月13日、源頼朝が没した、急死(1147年~1199
 年)
1199年1月20日、源頼家が、左中将となり、次いで、
1199年1月26日、源頼家が、家督を相続した。第2代鎌倉
 殿となる。時に18歳であった。
  しかし、若年ゆえか、従来からの行為を無視し、独裁
 的判断で事を行った。
  御家人たちの反発を買った。
  これが合議制への移行の遠因ともなった。
  そして、合議制成立の3年後に、頼家が重病に陥ると、
 頼家の後ろ盾であった比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏
 との対立が起こる。
  →将軍権力の弱体により諸将間の争い激化→北条時政
 が、政所別当となり執権と称す。
1199年4月、元老13人の合議制になる。
  頼家の訴訟独裁を停め、時政以下の合議制とす。
1199年6月、源頼朝の次女・乙姫が、死す。
1199年10月、諸将が、梶原景時を弾劾す。
  源頼朝の死後に、腹心であった梶原景時が、御家人66
 名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼ
 された。
  梶原景時は、自分の立場をいいことに、また、侍所別
 当として厳しく御家人の行動に目を光らせ、勤務評定や
 取り締まりに当たった。
  頼朝の専制政治にとっては、忠実な役割を担った忠臣
 であった。
  これが、頼朝死後、その鬱積した不満が爆発した。
  この爆発も、ちょっとした事からだった。
  それほど、景時は、まじめ過ぎたとも言える。
1200年1月20日、梶原景時が暗殺される。
  北条氏による政敵打倒。
  この日、景時は、一族とともに京都へ上る道中で、東
 海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで、偶然居合
 わせた吉川氏ら在地の武士たちらに発見されて、襲撃を
 受け、合戦となる。
  子ら5名が、その場で討たれが、景時らは、山へ逃げた
 ・・が討たれた。
  一族33名の首は、路上に懸けられた。
  京都では、忠臣の景時を死なせた頼家は、大失策をし
 たと評されたという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

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