題:(増補版)48B:気になった事柄を集めた年表(1324年~1333年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1324年7月、後宇多天皇が崩御した(1267年~1324年)
1324年9月、正中の変が起きた。
鎌倉幕府の討幕の動き・・
後醍醐天皇(1318年に即位)の討幕計画が漏れ、日野
資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)らが罰せられ、
土岐頼兼・多治見国長は処刑された。
漏れた原因は、土岐頼兼が、いよいよ計画が実施とな
る頃、妻に「今生の別れ」のように話してしまったこと
による。
後醍醐天皇は、幕府が乱れていたため、討幕を決意さ
れた。
幕府の北条高塒は、田楽や闘犬に興じたりして政治を
顧みなくなっていた。
後醍醐天皇は、討幕の計画を練るために、朱子学の講
習会や無礼講を開き、同志を糾合したという。
1324年11月14日、「花園院宸記」に、この日の事につい
て、「聖主の謀叛」という表現を用いている。
それによって「天皇の謀叛」という観念が、当時、一
般に広がっていた事が分かる。
「公」と「国家」と「天皇」、これは古代律令国家に
おいては一体であった。
少なくとも鎌倉初期にあっては、幕府は、自己の行動
の合法性を皇室=古代国家の承認によって獲得していた。
それが、社会に対する幕府の権威の裏付けをなした。
ところが、南北朝・室町時代になると、その価値体系
が崩れて行く。
1325年7月、幕府が、「元」へ、建長寺船を遣わした。
翌年9月に帰航した。
もうすっかり、日本に、「元アレルギー」は無くなっ
ていた。
1326年3月16日、第15代執権・北条貞顕(1326・3・16
~1326・3・26)
1327年4月24日、第16代執権・北条守時(1327・4・24
~1333・5・18)
1328年、100年戦争が始まった。
フランスの領土をめぐる英仏間の戦争。
フランス国王・シャルル4世が1328年に死ぬと、男子
の継承者が居なかったため、フランスは家系が絶えたの
で、別の家系の従兄弟の王を即位させ王位を継承した。
そして、この年の1328年に、戴冠式を迎えたが、
その戴冠式に先立って、家系が絶えたフランス国王の
血筋のイングランド王が、フランス王位の継承権を主張
した。
そして、その王位継承をめぐってフランスへ侵攻した。
フランスとイギリスの間で、100年戦争(1337年~
1368年)が始まった。
1330年頃、この頃、吉田兼好が「徒然草」を書く。
1331年8月、元弘の変(げんこうのへん)。
後醍醐天皇の第二回目の討幕計画が失敗した。
討幕計画が、側近の密告により未然に露見した。
後醍醐天皇は、急遽、御所を脱出し(女装をされて脱
出されたと言われている)、8月27日には笠置山(京都
府相楽郡)に至り、挙兵した。
護良親王も、吉野で兵をあげた。
また、楠木正成も河内国で兵をあげた。
1331年9月2日、笠置山にて、後醍醐天皇側と鎌倉幕府側
との間で戦いが始まった。
最初、幕府側は、天皇が比叡山にいるものと思ってい
たが居ない事に気付き、9月2日に、笠置山を包囲して、
攻撃を始めた。幕府軍75000、天皇側3000余、
天皇側は少数であったが、よく善戦した・・が、9月
28日に、幕府側が山に放火するなどし、天皇側は総崩れ
し、陥落した。
数日して、後醍醐天皇や側近は幕府側に捕らえられた。
1331年9月20日、戦いの最中の9月20日に、幕府は、後醍
醐天皇が京都を去っているので廃位とし、皇太子を即位
させた(光厳天皇、後伏見天皇の第三皇子)。北朝の
始まり。
1332年4月2日、後醍醐天皇が隠岐(島根県)に流された。
捕らえられてから約6か月の後だった。
1332年9月28日、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇は、
捕らえられ、隠岐に流されたが、
笠置山を落ち延びて残った楠木正成は、護良親王を擁
して、赤坂城(河内国、河内国府は大阪府藤井寺市、正
成が挙兵した城)で、幕府軍と戦っていた。
楠木正成500、幕府軍20万~30万。
笠置山の戦いから、約1年の間、善戦したが、楠木正成
(1294年~1336年)は、この日に、敗退した(赤坂城
の戦い)
楠木正成は、「楠木七城」と言う城や砦をたくさん持
っていた。
河内国金剛山にある千早城もその一つ。
彼はこの城をうまく使い、また、金剛山の標高1125
メートルの地形をうまく使い、
また、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を味方に引き入れたり、
また、作戦に奇策を用いたりして善戦していた。
1333年2月1日、護良親王が討幕の令旨を出す(太山寺文
書)。
1333年4月9日、後醍醐天皇が隠岐から脱出した。
名和長年が、船上山に天皇を迎えた。
この頃、楠木正成らの活躍に触発されて、各地には討
幕の機運は広まっていた。
因みに、名和長年(なわながとし)は、鳥取県で海運
業を営んでいた名和氏の当主で、武将。
楠木氏も同様に、商業活動を行っていて、比較的裕福
な武士だった。
名和長年は、海運業であったため天皇を脱出させ得た
のだろうし、天皇も船上山に迎えている。そして、その
後、鎌倉幕府の倒幕運動に加わっている(船上山の戦い
をしている)。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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1324年7月、後宇多天皇が崩御した(1267年~1324年)
1324年9月、正中の変が起きた。
鎌倉幕府の討幕の動き・・
後醍醐天皇(1318年に即位)の討幕計画が漏れ、日野
資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)らが罰せられ、
土岐頼兼・多治見国長は処刑された。
漏れた原因は、土岐頼兼が、いよいよ計画が実施とな
る頃、妻に「今生の別れ」のように話してしまったこと
による。
後醍醐天皇は、幕府が乱れていたため、討幕を決意さ
れた。
幕府の北条高塒は、田楽や闘犬に興じたりして政治を
顧みなくなっていた。
後醍醐天皇は、討幕の計画を練るために、朱子学の講
習会や無礼講を開き、同志を糾合したという。
1324年11月14日、「花園院宸記」に、この日の事につい
て、「聖主の謀叛」という表現を用いている。
それによって「天皇の謀叛」という観念が、当時、一
般に広がっていた事が分かる。
「公」と「国家」と「天皇」、これは古代律令国家に
おいては一体であった。
少なくとも鎌倉初期にあっては、幕府は、自己の行動
の合法性を皇室=古代国家の承認によって獲得していた。
それが、社会に対する幕府の権威の裏付けをなした。
ところが、南北朝・室町時代になると、その価値体系
が崩れて行く。
1325年7月、幕府が、「元」へ、建長寺船を遣わした。
翌年9月に帰航した。
もうすっかり、日本に、「元アレルギー」は無くなっ
ていた。
1326年3月16日、第15代執権・北条貞顕(1326・3・16
~1326・3・26)
1327年4月24日、第16代執権・北条守時(1327・4・24
~1333・5・18)
1328年、100年戦争が始まった。
フランスの領土をめぐる英仏間の戦争。
フランス国王・シャルル4世が1328年に死ぬと、男子
の継承者が居なかったため、フランスは家系が絶えたの
で、別の家系の従兄弟の王を即位させ王位を継承した。
そして、この年の1328年に、戴冠式を迎えたが、
その戴冠式に先立って、家系が絶えたフランス国王の
血筋のイングランド王が、フランス王位の継承権を主張
した。
そして、その王位継承をめぐってフランスへ侵攻した。
フランスとイギリスの間で、100年戦争(1337年~
1368年)が始まった。
1330年頃、この頃、吉田兼好が「徒然草」を書く。
1331年8月、元弘の変(げんこうのへん)。
後醍醐天皇の第二回目の討幕計画が失敗した。
討幕計画が、側近の密告により未然に露見した。
後醍醐天皇は、急遽、御所を脱出し(女装をされて脱
出されたと言われている)、8月27日には笠置山(京都
府相楽郡)に至り、挙兵した。
護良親王も、吉野で兵をあげた。
また、楠木正成も河内国で兵をあげた。
1331年9月2日、笠置山にて、後醍醐天皇側と鎌倉幕府側
との間で戦いが始まった。
最初、幕府側は、天皇が比叡山にいるものと思ってい
たが居ない事に気付き、9月2日に、笠置山を包囲して、
攻撃を始めた。幕府軍75000、天皇側3000余、
天皇側は少数であったが、よく善戦した・・が、9月
28日に、幕府側が山に放火するなどし、天皇側は総崩れ
し、陥落した。
数日して、後醍醐天皇や側近は幕府側に捕らえられた。
1331年9月20日、戦いの最中の9月20日に、幕府は、後醍
醐天皇が京都を去っているので廃位とし、皇太子を即位
させた(光厳天皇、後伏見天皇の第三皇子)。北朝の
始まり。
1332年4月2日、後醍醐天皇が隠岐(島根県)に流された。
捕らえられてから約6か月の後だった。
1332年9月28日、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇は、
捕らえられ、隠岐に流されたが、
笠置山を落ち延びて残った楠木正成は、護良親王を擁
して、赤坂城(河内国、河内国府は大阪府藤井寺市、正
成が挙兵した城)で、幕府軍と戦っていた。
楠木正成500、幕府軍20万~30万。
笠置山の戦いから、約1年の間、善戦したが、楠木正成
(1294年~1336年)は、この日に、敗退した(赤坂城
の戦い)
楠木正成は、「楠木七城」と言う城や砦をたくさん持
っていた。
河内国金剛山にある千早城もその一つ。
彼はこの城をうまく使い、また、金剛山の標高1125
メートルの地形をうまく使い、
また、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を味方に引き入れたり、
また、作戦に奇策を用いたりして善戦していた。
1333年2月1日、護良親王が討幕の令旨を出す(太山寺文
書)。
1333年4月9日、後醍醐天皇が隠岐から脱出した。
名和長年が、船上山に天皇を迎えた。
この頃、楠木正成らの活躍に触発されて、各地には討
幕の機運は広まっていた。
因みに、名和長年(なわながとし)は、鳥取県で海運
業を営んでいた名和氏の当主で、武将。
楠木氏も同様に、商業活動を行っていて、比較的裕福
な武士だった。
名和長年は、海運業であったため天皇を脱出させ得た
のだろうし、天皇も船上山に迎えている。そして、その
後、鎌倉幕府の倒幕運動に加わっている(船上山の戦い
をしている)。
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