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2015年4月28日火曜日

(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)

題:(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1582年2月3日~3月11日、甲州征伐、
  織田信長とその同盟者の徳川家康・北条氏政が、信濃・
 甲斐・駿河・上野に侵攻し、甲斐の武田氏を滅ぼした。
  武田信玄亡き後、長篠の合戦以降、武田勝頼は、勢力
 が衰えていた。
  勝頼の強気・勝気が災いしていた。
  また、鉄砲という新しい技術に疎(うと)かった。
  長篠で、重要家臣の多くを失ったのも大きかった。
  参謀なども欠いて、『作戦立案力』も大きく落ちてい
 た。
  勝頼一人が息巻いていたのだろう。
  今まで通りの父の信玄流に固執したのも悪かった。
  時も見て、また、機も見なければならないのに・・。
  これまで、織田は、畿内や北陸などが忙しく、勝頼の
 東方面を後回しにしていたから良かったが・・、
  家康だけとの小競り合いで良かったが・・、
  この様な時の流れの中で、武田家に居た織田勝長(信
 長の四男)が織田家に戻っていた。
  また、信長との和睦交渉も成立しなかった。
  この様な状況においての、信長・家康・氏政の侵攻だ
 った。
  今まで、周囲の武将へ援軍を送らなかった勝頼に、こ
 の時の援軍は無かった。
  また、逆に、織田方へ寝返る者も出てしまうという武
 田方だった。
  また、戦費が嵩(かさ)む中、勝頼は、税を重くし、
 賦役も課していた。
  人心も、勝頼を離れて行っていた。
  悪いことが重なっていた勝頼だった。
  そして、忠臣・木曽義昌が、勝頼に謀叛したとの知ら
 せに激怒する勝頼だった。
  その義昌へ、怒りのあまりか? 従兄弟の軍5000を出
 陣させた。
  また、自身の大切な軍までも、1万5000もの兵をも出陣
 させるという勝頼だった。
  そして、義昌の一族をすべて殺した勝頼だった(子供
 までも)。
  信長は、勝頼による義昌親族の殺害を知ると勝頼討伐
 を決意した。
  信長の動員令によって、織田軍は伊那から進軍し、信
 長の家臣の金森軍は飛騨から、家康は駿河から、氏政軍
 は相模・伊豆から進軍した。
  信長が、討伐決定した2月3日の当日に、早くも、森長
 可らの先鋒隊が、岐阜城から出陣した。
  出陣していく織田軍に寝返り、戦わずして信濃へと招
 き入れる国もあった。
  織田本隊は、2月12日に、岐阜城と長島城から出陣した。
  翌々日には岩村城へ進み、勝頼に討たれた木曽義昌勢
 が、織田一門らの支援を受けながら、武田勢と鳥居峠で
 戦い、そして、勝利した。
  この様な事で、戦いは進んで行くが・・、
  勝頼の勝の目は・・どこにもなかった。
  勝頼の最後は・・、わずかな手勢で、天目山を目の前
 にした地で、織田の大軍と奮闘し、撃退している・・武
 田軍の将たちは活躍している・・が・・勝頼に最後の時
 が来る。
  勝頼は、まだ元服していない跡継ぎの信勝に「小桜韋
 威鎧兜、大袖付(こざくらかわおどしよろいかぶとおお
 そでつき)」(国宝、武田家代々の家督の証)を着せ、
 父子で自刃したという。
1582年3月11日、教科書に、この日に、織田信長が、武田氏
 を滅ぼす・・と、歴史教科書に書かれているが、
  この時、信長はまだ美濃にいた。
  実際は、信長の長男の信忠が滅ぼした。
  この日、武田勝頼が、追い詰められ、天目山麓の田野
 (山梨県甲州市)で自刃した。
  信長は、長男・信忠を買っていた。
  常に、戦場に連れて行った。
  信忠は、本能寺の変の時に、信長とともに死んだ(二
 条新邸で)。
1582年5月8日、秀吉が、高松城水攻め。
  秀吉が、備中・高松城(城主:清水宗治)を攻めに取
 りに掛かり、
  1582年5月8日に、2万5000の軍勢が、昼夜兼行で築堤工
 事に取り掛かった。
  長さ・約2.8キロメートル、高さ・約7メートルの土手
 をわずか19日の突貫工事で完成した。
1582年5月、四国攻め、
  この月の上旬に、信長は、三男・織田信孝を総大将に
 して、丹羽長秀・蜂屋頼隆らを副将として、四国方面軍
 を編成した。
  そして、四国攻めの指示を下した。
  それまでの四国・長宗我部元親(ちょうそかべもとち
 か、土佐国の戦国大名)と信長の関係はうまく行ってい
 た。
  元親は、1575年に、土佐を統一していた。
  また、元親の子供に、信長の一字を貰うなどしていた。
  信長と元親の間の取次役は、明智光秀だった。
  ここに、秀吉の都合が出てくる。
  秀吉は、毛利攻略に、四国の三好氏の水軍の力を借り
 たいと思っていた。
  そこで、養子縁組的な話も出て秀吉と、阿波の三好氏
 とはうまく行っていた。
  元親には、信長から、「四国は切り取り自由」の朱印
 状を貰っていた。
  四国は自由に切り取って自分の国にしていいよ・・と、
  元親は、武力で四国を切り取っていた。
  この時、秀吉の都合と、元親の行動がバッティングす
 る。
  信長は、元親に、土佐及び阿波南半分を領有のみを許
 し、他の占領地は返還するように命じた。
  しかし、元親は、信長が認めた事だと言い、また、信
 長の力を借りたものではないとも言い・・、
  指図を受けるいわれもないと・・はねつけた。
  光秀が、説得したが、
  1581年頃に、交渉は決裂していたと判断できる。
  毛利なども関係し・・反織田同盟も結ばれた。
1582年5月15日、明智光秀が饗応役となった安土城に、徳川
 家康の接待が行われている。
1582年5月29日、四国攻めの織田信孝の軍が、摂津住吉(大
 阪市)に着陣した。
  また、丹羽・津田勢は大阪に、そして、蜂屋勢は和泉
 岸和田に集結し、総勢1万4000が、四国への渡海に備えて
 いた。
  6月2日が出航する予定だった。
  しかし、この日が、本能寺の変で立ち消えとなった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

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