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2015年6月24日水曜日

(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)

題:(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1698年、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者、蘭学者)が生
 まれた(1698年~1769年)
  魚屋の一人息子として生まれる。
  8代将軍・徳川吉宗は、飢饉のときの救荒作物として西
 日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培
 を混用に命じた。
  昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)と下総国と上総
 国において試作した。
  この功績で、享保の大飢饉に役立ち、以降、関東地方
 や離島において、サツマイモ栽培は普及した。
  天明の大飢饉のときには、多くの人々の命を救った。
  昆陽は、幕臣となった。
  千葉県幕張には昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さ
 ま」として祀られている。
  また、千葉県九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥
 の地」の碑が建てられている。
1698年6月、備後福山藩に百姓一揆が起きた。
  備後国(びんごのくに、広島県東部)、この地は、た
 びたび百姓一揆がおこり、特に、1717年~1718年、1786
 年~1787年に起こった惣百姓一揆(そうびゃくじょうい
 っき)は有名。
  惣百姓一揆は、初期の代表訴訟型一揆と異なり、全村
 民による一揆で、
  村役人層に指導され、大規模で、政治的要求を掲げた
 一揆だった。
  しばしば全藩的規模に及んだ。
1698年12月、木下順庵(きのしたじゅんあん、儒者・朱子
 学者)が没する。
  将軍・綱吉の侍講になった(1682年)、
  新井白石・室鳩巣らの多数の門人がいる。
1698年、経済政策:永小作地
  幕府が、20年以上の小作地を永小作地とし、奉公人の
 年季制限を撤廃した。
  永小作(えいこさく)は、世襲小作ともいい、これは、
 普通小作と比較し、地主に対して小作人の権利が非常に
 強い点に特徴がある。
  耕作権は無期限で、公租公課の負担、農業用水の管理・
 利用、土地改良などの主体も小作人にあった。
1698年、鉱山:試掘(鉱山開発)
  諸国の金銀銅山の試掘を命じた。
  幕府が、各藩に鉱山開発を指示した。
1698年8月、社会資本整備:永代橋の架橋
  隅田川に永代橋が架橋された。
  現在の位置よりも100メートル上流の地点。
  5代将軍・綱吉の50歳を祝したものという。
  また、1702年の赤穂浪士の吉良邸討入では、上野介の
 首を揚げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かったという。
1698年、出版:戸田茂睡(とだもすい、国学者、歌人)が、
 歌学書「梨本集(なしのもとしゅう)」を著した。
  (1629年~1706年)
1698年、処罰:多賀朝湖(たがちょうこ、画家、芸人、英
 一蝶、はなぶさいっちょう)が、三宅島に配流された。
  色々な名前が一杯ある人。
  生類憐みの令の違反での流罪。
  家族のために画材を要求して送らせ、絵を描いている。
  今でも、その絵が新島・御蔵島に残っている。
  綱吉の死の1709年に、大赦によって許され、12年ぶり
 に江戸へ帰った。
1698年9月6日、江戸で大火(勅額火事・ちょくがくかじ)
  新橋南鍋町から出火し、強い南風のため遠く北方の千
 住まで延焼した。
  大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町屋1万8703戸、
 326町を焼いた。
1698年、内藤新宿が設置された。
  現在の新宿区新宿の発祥の地で、高遠藩内藤氏下屋敷
 の近くに新設された。
  甲州街道の道中の第一宿。
  江戸周辺の東海道の品川、日光道中の千住、中山道の
 板橋とともに四宿と呼ばれた。
  江戸浅草阿部川町の名主の喜兵衛ほか4人の出願によっ
 て、この年に置かれた新しい宿駅。
1698年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、老中
 の上に列せられた。
  徳川綱吉の小姓から出世して行った。
1698年、イギリスの卑劣な植民地搾取の会社「東インド会
 社」の儲け過ぎで、本国のイギリス社会は大騒ぎになっ
 ている、・・欲の世界(餓鬼界)である。
  そして、この年、この騒ぎをおさめようと、第2の会社
 の設立が許可された(搾取側のイギリスが、勝手に許可
 したのであって、搾取される側のインドの方々は大きな
 迷惑だった)。
  文句を言っている者たちへも許可したのである。
  安易なイギリスの解決策だった。
  たまらないのは搾取される弱者の植民地国のインドの
 方々だった。
  卑劣にもイギリスの搾取会社の2社により富の収奪の
 上の、さらに強欲な奪われ行為がなされて行く。
  これでも、イギリスは『正義だ』と言ったのだろう、
 今・現代のTPPの様に・・。
  当然、強者のイギリスの2社は、激しい強奪競争の利益
 のむしり取りを始めた。
  当然の卑劣のむしり取り競争であった。
1699年、世相:米不足
  江戸の米穀不足で、諸代官へ江戸廻米を命じた。
1699年、世相:生活苦の旗本
  生活苦の旗本と御家人に賑救金(しんきゅう、施し物
 をして貧民などを救うこと)を賦与し、救済した。
1699年、令:酒造制限令が出された。
1699年、芸術と作陶:乾山焼(けんざんやき)
  仁清の陶法を伝授された尾形乾山が、京都鳴滝(なる
 たき)で楽焼き風の陶器・乾山焼を始めた。
  兄の尾形光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し、洛中
 の人気を集めた。
1699年、イギリスに広東貿易(かんとんぼうえき)を許可。
  中国の清代における広州の海外貿易。
  1685年に、清朝の海禁(かいきん、海外渡航と貿易の
 禁止)が解かれ、海外貿易が許されていた。
  広東1港のみに限定し、独占的商人のみによって行わ
 れた貿易体制だった。
1699年、カルロヴィッツ条約が締結された。
  オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和
 条約。
  オスマン帝国は、17世紀後半に、オーストリア・ベネ
 チア・ポーランド・ロシアと戦い、大きな版図を築いて
 いたが、大トルコ戦争など種々の戦いを経て、ヨーロッ
 パにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされる状況に至
 った。
  戦争の後期には、戦線が膠着し、末期には、ゼンタの
 戦いなどの戦闘はあったが、
  ほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉となった。
  そして、この年に、オスマン・トルコは領土を割譲し、
 ヨーロッパからの退却となった。
17世紀、有色人種蔑視:見世物
  キリスト教で有色人種蔑視に洗脳されたヨーロッパで、
 アフリカの黒人の方たちやアメリカ大陸のインディオの
 方たちが、見世物として、猿やヒヒと一緒に、陳列させ
 られていた。
  非人道的諸国=キリスト教の諸国家だった。
17世紀~18世紀、奴隷貿易。
  広くは15世紀から19世紀の前半まで、
  ヨーロッパとアメリカのキリスト教諸国によってなさ
 れていた非人道的に極まった極悪行為・人身売買。
  欧米のキリスト教諸国は、安い労働力を得たいと、人
 を物同然に、金にものを言わせて買いに行った。
  現地も、その要求に応じた。
  そこには、確実に、キリスト教の考え方・教義によっ
 て洗脳された、正しい判断が阻害され、正しく判断が出
 来ない状況下で、極悪行為は行われていた。
  黒人の方々を、人と見ない見方は、キリスト教には、
 古代の古い昔からあったことが、記録にあるが、
  この奴隷貿易が行われるはるか以前の1452年に、キリ
 スト教のローマ法王が、
  『異教徒を永遠の奴隷とすることは正当である』と、
 奴隷を良しとする許可を与えていた。
  また、卑劣な事に、『非キリスト教圏の国を侵略する
 事を正当だ』ともした。
  この卑劣極まりない許可によって、最悪行為はなされ
 ていた。
  当然、日本においても行なわれた。
  アメリカの綿花栽培、ポルトガルの砂糖のプランテー
 ション経営、フランスが行なった「銃器を渡して、奴隷
 を連れて来る行為」(武器と人との卑劣な交換行為)、
  イギリスの奴隷狩り商人の跋扈(ばっこ)、イギリス
 のマンチェスター綿工業の資本家の黒人の方々の安い労
 働力を使おうという悪知恵・悪巧み、奴隷貿易の主導権
 者・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス、
  アフリカの1200万人~1500万人の方々が奴隷にされ、
 犠牲になった。
  キリスト教の洗脳により、人権がまったく考えられな
 かったため、大西洋を渡る奴隷船の中の、最悪な環境、
 過酷な状況の中に置かされた多くの黒人の方々は、亡く
 なった、
  日本人も、ザビエルなどのキリスト教宣教師と共に行
 われた南蛮貿易において、特に、日本人女性が、奴隷と
 して、多数が連れ出された(目撃されている)。
  豊臣秀吉も、秀吉の臣下も確認して、その状況を知っ
 ており、激怒し、即刻、キリスト教の禁教令を出した。
  秀吉が、キリスト教宣教師のガスパール・コエリョへ、
 人身売買を詰問したのは有名、
  そして、その結果を受けて、秀吉は、即日、奴隷の売
 買を含む南蛮貿易の禁止と、キリスト教の布教を禁じた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/

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