題:(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1698年、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者、蘭学者)が生
まれた(1698年~1769年)
魚屋の一人息子として生まれる。
8代将軍・徳川吉宗は、飢饉のときの救荒作物として西
日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培
を混用に命じた。
昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)と下総国と上総
国において試作した。
この功績で、享保の大飢饉に役立ち、以降、関東地方
や離島において、サツマイモ栽培は普及した。
天明の大飢饉のときには、多くの人々の命を救った。
昆陽は、幕臣となった。
千葉県幕張には昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さ
ま」として祀られている。
また、千葉県九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥
の地」の碑が建てられている。
1698年6月、備後福山藩に百姓一揆が起きた。
備後国(びんごのくに、広島県東部)、この地は、た
びたび百姓一揆がおこり、特に、1717年~1718年、1786
年~1787年に起こった惣百姓一揆(そうびゃくじょうい
っき)は有名。
惣百姓一揆は、初期の代表訴訟型一揆と異なり、全村
民による一揆で、
村役人層に指導され、大規模で、政治的要求を掲げた
一揆だった。
しばしば全藩的規模に及んだ。
1698年12月、木下順庵(きのしたじゅんあん、儒者・朱子
学者)が没する。
将軍・綱吉の侍講になった(1682年)、
新井白石・室鳩巣らの多数の門人がいる。
1698年、経済政策:永小作地
幕府が、20年以上の小作地を永小作地とし、奉公人の
年季制限を撤廃した。
永小作(えいこさく)は、世襲小作ともいい、これは、
普通小作と比較し、地主に対して小作人の権利が非常に
強い点に特徴がある。
耕作権は無期限で、公租公課の負担、農業用水の管理・
利用、土地改良などの主体も小作人にあった。
1698年、鉱山:試掘(鉱山開発)
諸国の金銀銅山の試掘を命じた。
幕府が、各藩に鉱山開発を指示した。
1698年8月、社会資本整備:永代橋の架橋
隅田川に永代橋が架橋された。
現在の位置よりも100メートル上流の地点。
5代将軍・綱吉の50歳を祝したものという。
また、1702年の赤穂浪士の吉良邸討入では、上野介の
首を揚げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かったという。
1698年、出版:戸田茂睡(とだもすい、国学者、歌人)が、
歌学書「梨本集(なしのもとしゅう)」を著した。
(1629年~1706年)
1698年、処罰:多賀朝湖(たがちょうこ、画家、芸人、英
一蝶、はなぶさいっちょう)が、三宅島に配流された。
色々な名前が一杯ある人。
生類憐みの令の違反での流罪。
家族のために画材を要求して送らせ、絵を描いている。
今でも、その絵が新島・御蔵島に残っている。
綱吉の死の1709年に、大赦によって許され、12年ぶり
に江戸へ帰った。
1698年9月6日、江戸で大火(勅額火事・ちょくがくかじ)
新橋南鍋町から出火し、強い南風のため遠く北方の千
住まで延焼した。
大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町屋1万8703戸、
326町を焼いた。
1698年、内藤新宿が設置された。
現在の新宿区新宿の発祥の地で、高遠藩内藤氏下屋敷
の近くに新設された。
甲州街道の道中の第一宿。
江戸周辺の東海道の品川、日光道中の千住、中山道の
板橋とともに四宿と呼ばれた。
江戸浅草阿部川町の名主の喜兵衛ほか4人の出願によっ
て、この年に置かれた新しい宿駅。
1698年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、老中
の上に列せられた。
徳川綱吉の小姓から出世して行った。
1698年、イギリスの卑劣な植民地搾取の会社「東インド会
社」の儲け過ぎで、本国のイギリス社会は大騒ぎになっ
ている、・・欲の世界(餓鬼界)である。
そして、この年、この騒ぎをおさめようと、第2の会社
の設立が許可された(搾取側のイギリスが、勝手に許可
したのであって、搾取される側のインドの方々は大きな
迷惑だった)。
文句を言っている者たちへも許可したのである。
安易なイギリスの解決策だった。
たまらないのは搾取される弱者の植民地国のインドの
方々だった。
卑劣にもイギリスの搾取会社の2社により富の収奪の
上の、さらに強欲な奪われ行為がなされて行く。
これでも、イギリスは『正義だ』と言ったのだろう、
今・現代のTPPの様に・・。
当然、強者のイギリスの2社は、激しい強奪競争の利益
のむしり取りを始めた。
当然の卑劣のむしり取り競争であった。
1699年、世相:米不足
江戸の米穀不足で、諸代官へ江戸廻米を命じた。
1699年、世相:生活苦の旗本
生活苦の旗本と御家人に賑救金(しんきゅう、施し物
をして貧民などを救うこと)を賦与し、救済した。
1699年、令:酒造制限令が出された。
1699年、芸術と作陶:乾山焼(けんざんやき)
仁清の陶法を伝授された尾形乾山が、京都鳴滝(なる
たき)で楽焼き風の陶器・乾山焼を始めた。
兄の尾形光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し、洛中
の人気を集めた。
1699年、イギリスに広東貿易(かんとんぼうえき)を許可。
中国の清代における広州の海外貿易。
1685年に、清朝の海禁(かいきん、海外渡航と貿易の
禁止)が解かれ、海外貿易が許されていた。
広東1港のみに限定し、独占的商人のみによって行わ
れた貿易体制だった。
1699年、カルロヴィッツ条約が締結された。
オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和
条約。
オスマン帝国は、17世紀後半に、オーストリア・ベネ
チア・ポーランド・ロシアと戦い、大きな版図を築いて
いたが、大トルコ戦争など種々の戦いを経て、ヨーロッ
パにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされる状況に至
った。
戦争の後期には、戦線が膠着し、末期には、ゼンタの
戦いなどの戦闘はあったが、
ほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉となった。
そして、この年に、オスマン・トルコは領土を割譲し、
ヨーロッパからの退却となった。
17世紀、有色人種蔑視:見世物
キリスト教で有色人種蔑視に洗脳されたヨーロッパで、
アフリカの黒人の方たちやアメリカ大陸のインディオの
方たちが、見世物として、猿やヒヒと一緒に、陳列させ
られていた。
非人道的諸国=キリスト教の諸国家だった。
17世紀~18世紀、奴隷貿易。
広くは15世紀から19世紀の前半まで、
ヨーロッパとアメリカのキリスト教諸国によってなさ
れていた非人道的に極まった極悪行為・人身売買。
欧米のキリスト教諸国は、安い労働力を得たいと、人
を物同然に、金にものを言わせて買いに行った。
現地も、その要求に応じた。
そこには、確実に、キリスト教の考え方・教義によっ
て洗脳された、正しい判断が阻害され、正しく判断が出
来ない状況下で、極悪行為は行われていた。
黒人の方々を、人と見ない見方は、キリスト教には、
古代の古い昔からあったことが、記録にあるが、
この奴隷貿易が行われるはるか以前の1452年に、キリ
スト教のローマ法王が、
『異教徒を永遠の奴隷とすることは正当である』と、
奴隷を良しとする許可を与えていた。
また、卑劣な事に、『非キリスト教圏の国を侵略する
事を正当だ』ともした。
この卑劣極まりない許可によって、最悪行為はなされ
ていた。
当然、日本においても行なわれた。
アメリカの綿花栽培、ポルトガルの砂糖のプランテー
ション経営、フランスが行なった「銃器を渡して、奴隷
を連れて来る行為」(武器と人との卑劣な交換行為)、
イギリスの奴隷狩り商人の跋扈(ばっこ)、イギリス
のマンチェスター綿工業の資本家の黒人の方々の安い労
働力を使おうという悪知恵・悪巧み、奴隷貿易の主導権
者・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス、
アフリカの1200万人~1500万人の方々が奴隷にされ、
犠牲になった。
キリスト教の洗脳により、人権がまったく考えられな
かったため、大西洋を渡る奴隷船の中の、最悪な環境、
過酷な状況の中に置かされた多くの黒人の方々は、亡く
なった、
日本人も、ザビエルなどのキリスト教宣教師と共に行
われた南蛮貿易において、特に、日本人女性が、奴隷と
して、多数が連れ出された(目撃されている)。
豊臣秀吉も、秀吉の臣下も確認して、その状況を知っ
ており、激怒し、即刻、キリスト教の禁教令を出した。
秀吉が、キリスト教宣教師のガスパール・コエリョへ、
人身売買を詰問したのは有名、
そして、その結果を受けて、秀吉は、即日、奴隷の売
買を含む南蛮貿易の禁止と、キリスト教の布教を禁じた。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1698年、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者、蘭学者)が生
まれた(1698年~1769年)
魚屋の一人息子として生まれる。
8代将軍・徳川吉宗は、飢饉のときの救荒作物として西
日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培
を混用に命じた。
昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)と下総国と上総
国において試作した。
この功績で、享保の大飢饉に役立ち、以降、関東地方
や離島において、サツマイモ栽培は普及した。
天明の大飢饉のときには、多くの人々の命を救った。
昆陽は、幕臣となった。
千葉県幕張には昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さ
ま」として祀られている。
また、千葉県九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥
の地」の碑が建てられている。
1698年6月、備後福山藩に百姓一揆が起きた。
備後国(びんごのくに、広島県東部)、この地は、た
びたび百姓一揆がおこり、特に、1717年~1718年、1786
年~1787年に起こった惣百姓一揆(そうびゃくじょうい
っき)は有名。
惣百姓一揆は、初期の代表訴訟型一揆と異なり、全村
民による一揆で、
村役人層に指導され、大規模で、政治的要求を掲げた
一揆だった。
しばしば全藩的規模に及んだ。
1698年12月、木下順庵(きのしたじゅんあん、儒者・朱子
学者)が没する。
将軍・綱吉の侍講になった(1682年)、
新井白石・室鳩巣らの多数の門人がいる。
1698年、経済政策:永小作地
幕府が、20年以上の小作地を永小作地とし、奉公人の
年季制限を撤廃した。
永小作(えいこさく)は、世襲小作ともいい、これは、
普通小作と比較し、地主に対して小作人の権利が非常に
強い点に特徴がある。
耕作権は無期限で、公租公課の負担、農業用水の管理・
利用、土地改良などの主体も小作人にあった。
1698年、鉱山:試掘(鉱山開発)
諸国の金銀銅山の試掘を命じた。
幕府が、各藩に鉱山開発を指示した。
1698年8月、社会資本整備:永代橋の架橋
隅田川に永代橋が架橋された。
現在の位置よりも100メートル上流の地点。
5代将軍・綱吉の50歳を祝したものという。
また、1702年の赤穂浪士の吉良邸討入では、上野介の
首を揚げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かったという。
1698年、出版:戸田茂睡(とだもすい、国学者、歌人)が、
歌学書「梨本集(なしのもとしゅう)」を著した。
(1629年~1706年)
1698年、処罰:多賀朝湖(たがちょうこ、画家、芸人、英
一蝶、はなぶさいっちょう)が、三宅島に配流された。
色々な名前が一杯ある人。
生類憐みの令の違反での流罪。
家族のために画材を要求して送らせ、絵を描いている。
今でも、その絵が新島・御蔵島に残っている。
綱吉の死の1709年に、大赦によって許され、12年ぶり
に江戸へ帰った。
1698年9月6日、江戸で大火(勅額火事・ちょくがくかじ)
新橋南鍋町から出火し、強い南風のため遠く北方の千
住まで延焼した。
大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町屋1万8703戸、
326町を焼いた。
1698年、内藤新宿が設置された。
現在の新宿区新宿の発祥の地で、高遠藩内藤氏下屋敷
の近くに新設された。
甲州街道の道中の第一宿。
江戸周辺の東海道の品川、日光道中の千住、中山道の
板橋とともに四宿と呼ばれた。
江戸浅草阿部川町の名主の喜兵衛ほか4人の出願によっ
て、この年に置かれた新しい宿駅。
1698年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、老中
の上に列せられた。
徳川綱吉の小姓から出世して行った。
1698年、イギリスの卑劣な植民地搾取の会社「東インド会
社」の儲け過ぎで、本国のイギリス社会は大騒ぎになっ
ている、・・欲の世界(餓鬼界)である。
そして、この年、この騒ぎをおさめようと、第2の会社
の設立が許可された(搾取側のイギリスが、勝手に許可
したのであって、搾取される側のインドの方々は大きな
迷惑だった)。
文句を言っている者たちへも許可したのである。
安易なイギリスの解決策だった。
たまらないのは搾取される弱者の植民地国のインドの
方々だった。
卑劣にもイギリスの搾取会社の2社により富の収奪の
上の、さらに強欲な奪われ行為がなされて行く。
これでも、イギリスは『正義だ』と言ったのだろう、
今・現代のTPPの様に・・。
当然、強者のイギリスの2社は、激しい強奪競争の利益
のむしり取りを始めた。
当然の卑劣のむしり取り競争であった。
1699年、世相:米不足
江戸の米穀不足で、諸代官へ江戸廻米を命じた。
1699年、世相:生活苦の旗本
生活苦の旗本と御家人に賑救金(しんきゅう、施し物
をして貧民などを救うこと)を賦与し、救済した。
1699年、令:酒造制限令が出された。
1699年、芸術と作陶:乾山焼(けんざんやき)
仁清の陶法を伝授された尾形乾山が、京都鳴滝(なる
たき)で楽焼き風の陶器・乾山焼を始めた。
兄の尾形光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し、洛中
の人気を集めた。
1699年、イギリスに広東貿易(かんとんぼうえき)を許可。
中国の清代における広州の海外貿易。
1685年に、清朝の海禁(かいきん、海外渡航と貿易の
禁止)が解かれ、海外貿易が許されていた。
広東1港のみに限定し、独占的商人のみによって行わ
れた貿易体制だった。
1699年、カルロヴィッツ条約が締結された。
オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和
条約。
オスマン帝国は、17世紀後半に、オーストリア・ベネ
チア・ポーランド・ロシアと戦い、大きな版図を築いて
いたが、大トルコ戦争など種々の戦いを経て、ヨーロッ
パにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされる状況に至
った。
戦争の後期には、戦線が膠着し、末期には、ゼンタの
戦いなどの戦闘はあったが、
ほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉となった。
そして、この年に、オスマン・トルコは領土を割譲し、
ヨーロッパからの退却となった。
17世紀、有色人種蔑視:見世物
キリスト教で有色人種蔑視に洗脳されたヨーロッパで、
アフリカの黒人の方たちやアメリカ大陸のインディオの
方たちが、見世物として、猿やヒヒと一緒に、陳列させ
られていた。
非人道的諸国=キリスト教の諸国家だった。
17世紀~18世紀、奴隷貿易。
広くは15世紀から19世紀の前半まで、
ヨーロッパとアメリカのキリスト教諸国によってなさ
れていた非人道的に極まった極悪行為・人身売買。
欧米のキリスト教諸国は、安い労働力を得たいと、人
を物同然に、金にものを言わせて買いに行った。
現地も、その要求に応じた。
そこには、確実に、キリスト教の考え方・教義によっ
て洗脳された、正しい判断が阻害され、正しく判断が出
来ない状況下で、極悪行為は行われていた。
黒人の方々を、人と見ない見方は、キリスト教には、
古代の古い昔からあったことが、記録にあるが、
この奴隷貿易が行われるはるか以前の1452年に、キリ
スト教のローマ法王が、
『異教徒を永遠の奴隷とすることは正当である』と、
奴隷を良しとする許可を与えていた。
また、卑劣な事に、『非キリスト教圏の国を侵略する
事を正当だ』ともした。
この卑劣極まりない許可によって、最悪行為はなされ
ていた。
当然、日本においても行なわれた。
アメリカの綿花栽培、ポルトガルの砂糖のプランテー
ション経営、フランスが行なった「銃器を渡して、奴隷
を連れて来る行為」(武器と人との卑劣な交換行為)、
イギリスの奴隷狩り商人の跋扈(ばっこ)、イギリス
のマンチェスター綿工業の資本家の黒人の方々の安い労
働力を使おうという悪知恵・悪巧み、奴隷貿易の主導権
者・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス、
アフリカの1200万人~1500万人の方々が奴隷にされ、
犠牲になった。
キリスト教の洗脳により、人権がまったく考えられな
かったため、大西洋を渡る奴隷船の中の、最悪な環境、
過酷な状況の中に置かされた多くの黒人の方々は、亡く
なった、
日本人も、ザビエルなどのキリスト教宣教師と共に行
われた南蛮貿易において、特に、日本人女性が、奴隷と
して、多数が連れ出された(目撃されている)。
豊臣秀吉も、秀吉の臣下も確認して、その状況を知っ
ており、激怒し、即刻、キリスト教の禁教令を出した。
秀吉が、キリスト教宣教師のガスパール・コエリョへ、
人身売買を詰問したのは有名、
そして、その結果を受けて、秀吉は、即日、奴隷の売
買を含む南蛮貿易の禁止と、キリスト教の布教を禁じた。
..
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