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2015年8月10日月曜日

(増補版)176D2/3*気になった事柄を集めた年表(1765年~1767年)

題:(増補版)176D2/3*気になった事柄を集めた年表(1765年~1767年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1765年12月、高利取締令:座頭等の高利貸を禁止した。
  座頭の高利貸しが盛んとなり、そして、その取り立て
 が、横暴を極めたので、幕府は、高利取締令を出した。
  座頭(ざとう、ざがしら)は、中世の商工業・芸能な
 ど諸座の長のことだが、座頭金とは、座頭が、幕府から
 許されて、高利で貸し付けた金のこと。
1765年、長崎において、幕府が、オランダ船舶載の金銀銭
 を、初めて輸入した。
  また、この頃から、幕府は、鉄銭や真鍮銭の鋳造を始
 めた。
1765年、イギリスは、インドのベンガル地域の『徴税権(
 ちょうぜいけん、税金を取り立てる権利)』を、インド
 からもぎ取った。
  イギリスは、他国の民から税金を取るという事までや
 り出した。
1765年、謝罪をしてないイギリス
  また、イギリスは、武力でインドの地を盗って行った。
  卑劣な事に、インド人とインド人を戦わせたり、
  インドの藩王とその藩王の司令官を戦わせたり、
  また、籠絡(ろうらく、だます)して狡(ずる)く立
 ち回った。
  そして、ある階級の人間に過ぎないイギリスのクライ
 ブ中佐は、1765年に、たった1年半でフランスよりも大
 きい地域をイギリスのものとした。
  広大なインドの方々の地を、多くのインドの方々を殺
 しながら、イギリスの領土とした。
  軽蔑すべき侵略行為であった。帝国主義行為であった。
  イギリスは、これまで、この様な侵略行為を、インド
 の方々へ謝罪をして来なかった。
1767年、滝沢馬琴(たきざわばきん、曲亭馬琴、戯作者)
 が生まれた(1767年~1848年)
  江戸深川の生まれで、
  父は、旗本・松平信成家の用人。
  五男として生まれるが、10歳にして滝沢家を継ぐ、
  主君に仕えたが、14歳で主家を出奔(主君のレベルの
 問題)。
  長兄の下で、師について俳諧を学び、文学趣味を涵養
 した。
  23歳の時、官医の塾に入って医を志すが、むしろ、そ
 の時の、儒学の講説を聞く方を好んだ。
  1790年の24歳の時、戯作で身をたてる事を決意し、山
 東京伝の門に入り、京伝の代作をし、黄表紙(きびょう
 し、江戸中期以降に流行した草双紙・一種の絵本)を執
 筆した。
  しかし、読本の分野において名を成さしめた。
  「椿説弓張月」
  晩年、ほとんど失明する中、創作活動を続けた。
  「南総里見八犬伝」を完成させた(28年を要した)。
   筆一本で食べて行ける人だった。
1767年、雷電為右衛門(らいでんためえもん、力士)が生
 まれた(1767年~1825年)
  信濃国出身、
  1788年に、出雲(いずも)松江藩のお抱え力士となる。
  1790年冬、いきなり関脇つけ出しとして初土俵を踏み、
 優勝する。197㎝、170kg、
  あまりの巨体、怪力の為、張り手、鉄砲(上突っ張り)、
 かんぬきの三手を禁じられた。
  連続優勝7回、44連勝の記録がある。
  1811年の45歳の時に、引退、
  幕内成績:254勝10敗21分、
  勝率9割6分2厘という大相撲史上未曾有の最強力士。
  谷風梶之助、小野川喜三郎と共に寛政大相撲の黄金期
 を築いた。
1767年7月、田沼意次(たぬまおきつぐ)が側用人となる
 (1719年~1788年)
  御側御用人(1751年に着任)から板倉勝清の後任とし
 て側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。
  父は、紀州の足軽だった。そして、徳川吉宗に従って
 江戸に入り、幕臣となった。
  意次は、15歳の時、西ノ丸つき小姓として仕えた。
1767年8月、明和事件(山県大弐が獄門、竹内式部が八丈
 島流刑)が起きた。
1767年12月、旅行者の病気の処置を定めた。
  幕府は、1733年5月にも、諸国に対し、旅中の病人・
 倒死者の扱いについて通達を発していた。
  旅行が盛行していた世の中にあって、行旅者の保安と
 在所への移送を保証しようとした。
  この3年後に若干の改正もし、農民の他出は農耕に支障
 のない事、穀留期でないこと、年貢を皆済すること、往
 来手形を所持することなどを条件とした。
  正式な手続きを得れば可能だが、それ以外は無断の他
 出だとされた。
  そして、幕府や藩は、倒死、他国者の病死などの処理
 には意を配った。
  死者の身分の確認の方法をはじめ、死骸の処置などに 
 ついて詳細に指示した。
1767年、上杉鷹山(うえすぎようざん)、米沢藩主となり
 殖産興業政策などにより、藩政改革に着手した。
  上杉神社にも祀られ、現在も尊敬され続けている、ま
 た、世界に誇るべき、また、尊敬すべき日本の偉人の一
 人。
  童門冬二著「小説・上杉鷹山」のご一読を。
  鷹山公の言葉:
  「国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我(われ)
 私(わたくし)すべき物には是なく候、(「伝国之辞」)
1767年、出版:長久保赤水(ながくぼせきすい、地理学者、
 漢学者)、水戸~長崎を3ヶ月かけて往復し、「長崎行役
 日記」を著す(1717年~1801年)
  赤水は、常陸の人で、水戸藩の侍講となった。
  「大日本史」地理史の編纂にも加わっている。
  安南(ベトナム)から帰国した近村の漂流民の身柄の
 引き取りのため、庄屋代理として藩吏と共に、長崎へ、
 1767年に赴き、
  その時の事を、「長崎行役日記」に、1805年に著した。
  また、その後、「安南漂流記」なども著した。
1767年、イギリスのインド虐めのマイソール戦争が起きた。
  18世紀後半は、イギリスが4度にも渡って、インドを虐
 (いじ)める戦争をした(小規模戦争は多数)。
  その虐めの対象になった国は、インドのマイソール藩
 王国だった。
  1767年~1769年の3年間に亘って、イギリスは、イン
 ドのマラータや、インダス川下流東岸のハイデラバード
 を扇動し、一緒になって、マイソールの一国を攻めた。
  その戦争の仕方も、講和をしたり、戦争したりを繰り
 返す、卑劣なやり方だった。
  イギリスの狙いは、イギリスの領土にしたい、植民地
 にしたいだった。
  そして、イギリスの狙い通り、多くのインドの方々を
 殺しながら、イギリスの領土とした。
  そして、イギリスの南インド支配が決定的となって行
 った。
  イギリスは、これと共に、フランス排除の戦争を始め、
 事態は複雑に進展した。卑劣な行為は続いた。
  我が国土にしたいの植民地化行為も糾弾に値するが、
 インドの方同士を争わせるという卑劣さも最悪な行為だ
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009

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