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2016年4月16日土曜日

(増補版)333E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年1月)

題:(増補版)333E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年(明治5年~明治6年)出来事:
・経済および景気が順調。
   製糸業が盛況、生糸の大当たりと洋銀の相場下落に
 よる。
・東京・本所柳原(現=江東区江東橋1丁目)で「新燧社」
 が設立され、マッチの製造が始まる。
・ベルツ来日、ドイツ人の医師ベルツ博士がて来日して東
 京医学学校(東大医学部の前身)の教授として着任した。
  生理学、病理学、産婦人科学、精神医学などを講義し、
 みずらかも診療にあたった。
  また、温泉の効用を調べ転地療養に活用し、近代温泉
 医学の祖といわれた。  秘湯・名湯「草津温泉」
・東京~塩釜間の水準測量を開始。1877年に終了した。
・ 「大阪日報」(のちの大阪毎日新聞) が創刊された。
・「郵便報知」に記載された記事によると・・
  条例のため、新聞記事も○○論など、伏字がふえた。
 それに便乗し「○○亭」という寄席ができた。
1876年、流行:
・貸し自転車が登場した。
  東京下谷広小路の水茶屋で、1巡=1銭5厘で三輪自転車
 を貸し出した。
・ラムネ(飲み物)が流行した。
  ラムネは、炭酸水にレモン香料と砂糖で風味をつけた
 日本独特の清涼飲料で、ガラス玉の入った特殊な瓶に詰
 め、ガラス玉がガス圧により持ち上げられて密栓をする
 ようになっている。
・東京で藤八拳、玉突が流行。
  藤八拳は、二人が相対し、両手を開いて耳のあたりに
 上げるのを狐、ひざの上に置くのを庄屋、左手を前に突
 き出すのを鉄砲(または狩人)と定め、狐は庄屋に、庄
 屋は鉄砲に、鉄砲は狐にそれぞれ勝つ。狐拳 (きつねけ
 ん) 。
  玉突は、ビリヤードのこと。
1876年、データ:
・この年の兵役免役者率=全国平均82%、兵役を免除される
 率が82%だった。
  政府にとって、常備兵の人員を確保する事は重要な事
 なのであるが、
  兵役不適格者・徴集不能者は、徴兵検査をやってみな
 ければ分からない事で、検査会場で初めて明らかになる
 事だった。
  1875年は、77.3%の徴収不能者(検査落ち)となった。
  因みに、常備兵の人員徴集率は、1875年(88.0%)、
 1876年(48.2%)、1877年(59.1%)、1878年(77.7%)、
 1879年(79.7%)で、
  徴集候補者中の約5割弱(1876年)から8割弱(1879年)
 の人員確保となった。
  上記の様に、計画人員を満たす事は出来ていなかった。
1876年、本:
・ 「写真新文」 創刊。
  東京で初の写真雑誌の創刊だった。
・ 修史局の編纂による 「明治史要」
  修史局(しゅうじきょく)は、官立の国史編纂所。
  明治史要(めいじしよう)は、1867年10月14日の大政
 奉還から、1882年12月30日までの史実の綱文(こうぶん)
 と典拠史料名を、編年体で日を追って記した史書
・ライマン 「日本蝦夷地質要略之図」
  B.S.ライマンは、日本地質学の偉大な恩人と言わ
 れている。
  門弟たちと言語に絶する艱難辛苦を重ね、3年に及ぶ北
 海度の全島調査をした。
  この調査は、地質調査だったが、地形測量の地図作成
 という難行(道なき道を進む苛烈なもの)だった。
  石狩炭田の発見もしている。
  そして、この年、1876年5月10日に、この本を刊行し、
 日本地質学史に金字塔を打ち立てたと讃えられている。
  この5月10日は「地質の日」に制定し、ライマンの業績
 を偲ぶ日となっている。
1876年、衣:
・士族の廃刀令を発布した。
1876年、食:
・内務省が、甜菜種子を輸入し、東北・北陸諸県に配った。
  甜菜は「てんさい」のこと。
  別名:サトウダイコンで、根から作った砂糖を甜菜糖(
 てんさいとう)という。
  今でも北海道では製糖原料用の甜菜を作っているが、
 その種子の7割がヨーロッパ産で、国内産は3割となって
 いる。
・工部省が、品川にガラス製造所を設け、食器その他の製
 造をはじめた。
  この工部省品川硝子製造所(登録有形文化財)は、今、
 明治村にある。
  1873年(明治6年)、イギリス人技術者を雇い入れて、
 品川興業社硝子製造所が開設された。
  1876年(明治9年)、工部省は、この製造所を買い上げ
 て官営とし、その後この建物等が建てられた。
  壁体は、レンガ造イギリス積、屋根は瓦を葺き。
  開口部はアーチ式のものが主体。
  工部省は、日本に近代工業を根付かせ、その発展を図
 るために1870年(明治3年)設置され、目的は極めて広く、
 鉄道、土木、燈台、造船、電信、製鉄などの実技面から、
 工学技術教育に至るまで網羅された。
  早急な育成のため、設備、技術者など必要なもの一切
 を導入する方針がとられ、各地に多業種の工場が建設さ
 れ、多数のお雇い外人が来日し、指導に当たった。
  この硝子製造所でも、イギリスのガラス工ウォルトン、
 スピートなどが指導に当たり、フリントガラスの製造設
 備をもって、食器など日用ガラス器の製作をした。
・札幌ビール製造所創立
  政府の開拓使が、北海道札幌市に札幌麦酒醸造所を設
 立し、「冷製札幌ビール」を製造した。
  この商品に由来して、現:サッポロビールがある。
・熱海で湯治客に牛乳を売り出した。
1876年、住:
・東京府にガス局が新設された。
  日本で、ガス事業の立ち上げに関わってくる人物は、
 高島嘉右衛門、フランス人のアンリ・プレグラン、渋沢
 栄一の3人。
  イギリスから遅れること60年、1872年(明治5年)に、
 横浜に工場を作り、ガス灯を立て、照明として始まった。
  高島嘉右衛門は学校を作ったり、鉄道建設に力を尽く
 したりしている実業家。
  また、新橋や横浜の駅舎を作ったり、横浜の町に洋風
 建物を作ったりした。
  この時に協力したのが清水建設の創業者の清水喜助。
  アンリ・プレグランは日本に来る前、上海でガス事業
 を興す事もしていた。
  その実績から日本に招かれ、横浜と東京にガス事業を
 興した。
  ガス灯を灯す時も、日本に資材がないので、プレグラ
 ンはイギリスやフランスへ資材の買い付けに行ったりし
 て苦労した。
  この時に、高島が東京府に話を持ち掛け、共にやる事
 になり、東京の資材も一緒に買って来た。
  この時に東京府に江戸時代から江戸の町民が積み立て
 ていた七分積金という資金が残っており、その資金が使
 われたという。
  この様ないきさつから、東京に1874年(明治7年)に、
 ガス事業を興して始まった。
  1876年(明治9年)に七分積金を出した東京会議所がな
 くなり、この事業が東京府に引き渡され、東京府ガス局
 という公営事業となった。
  ガス事業は、その後発展し、民間会社でもやって行け
 る状況となり、1885年(明治18年)に、民間会社に払い
 下げられた。
・和製の手押し水汲ポンプ販売の新聞広告が出る。
1876年、その他:
・野口英世が生まれた。
・日曜日を休み、土曜日午後を休暇とする
・大阪で火葬場を新設開場する
・京都~大阪間鉄道開通
  明治期のアジアは、日本やタイ王国などの一部を除い
 て欧米列強諸国による植民地化が進んでいた。
  明治政府は、植民地化の回避のために富国強兵策を推
 し進め、近代国家の建設を掲げた。
  西洋を範とした近代化を目に見える形とするため、
  大隈重信・伊藤博文らは、鉄道の建設を主眼とした。
  ( 明治政府による、鉄道建設の決定は、1870年(明
 治3年)だった)
  これまで日本は、海上交通(海運)が栄えていたもの
 の、貨物・人員の輸送量が増えて、陸上交通においても
 効率化を図る必要があった。
  初め、東京~京都・大阪・神戸の間の、日本を支える
 三府を結ぶ路線と、
  日本海側の貿易都市である敦賀へ、米原から分岐して
 至る路線を敷設しようとした。
  しかし、この頃、版籍奉還から廃藩置県に至る政治に
 伴い、政府は、約2400万両(現在の価値でおよそ5600億
 円)もの各藩負債を肩代わりしていた。
  そのため、建設予算が下りなかった。
  民間からの資本を入れてでも、建設をおこなうべきと
 いう声もあった。
  そこで、モデル的に鉄道を見せる必要もあって、首都
 である東京と横浜間の29kmの敷設が、1869年(明治2年)
 に決定し、
  品川駅~横浜駅(現・桜木町駅)までの仮開業を1872
 年6月12日にした。
  そして、追って10月15日に新橋駅(後の汐留駅)~横
 浜駅(現・桜木町駅)が正式開業した。
  開業式は、9月12日に、新橋と横浜の両駅で行われた。
  すでに、仮営業中のこの鉄道を利用されていた明治天
 皇陛下は、式にあたって「我国ノ富盛ヲ期シ百官万民ノ
 為メニ之ヲ祝ス」と、富国への鉄道への大きな期待を述
 べられた。
  当時、人々は、この鉄道を「陸蒸気(おかじょうき)」
 と呼んだ。
  当時の運賃は、かなり高かったが、新橋~横浜間で、
 下等が当時の汽船、中等が人力車運賃を少し上回る金額
 だった。
  しかし、新橋~横浜間の片道所要時間が53分と、
 それまでの、徒歩で約10時間、人力車で6~7時間、汽船
 で3-4時間に比べ、画期的な速さであった。
  このことから乗車率は非常に高かった。
  また、この時間の短縮だけでなく、翌年から貨物の輸
 送もされて物流を大きく改善し、良さが見直された。
  しかし、財政資金難から次の鉄道建設ができなかった。
  東京~京都間を結ぶ幹線鉄道の建設は、統一国家の象
 徴として、早い時期から、当初から構想されていた。
  その経路検討に於いて、水陸交通に恵まれた東海道よ
 りも、開発の遅れている中仙道をという意見があった。
  また、外敵に対する防衛上の理由から、軍の意向もあ
 って、中山道ルートが先行した。
  しかし、中部山岳地帯への敷設は、予想以上のが難工
 事が予測できたため、東海道ルートに変更された。
  1874年(明治7年)5月11日、日本で2番目の鉄道として、
 大阪駅~神戸駅間が開業した。
  開業当初の途中駅は、西ノ宮駅と三ノ宮駅だけだった。
  当時の三ノ宮駅は、居留地が近かったため設けられた。
  この翌月に、住吉と神埼(現尼崎)が開業した。
  神戸~旧三ノ宮間は、当初から複線(日本初の複線)
 であり、他の区間は単線で、すべて地上に敷設された。
  天井川の石屋川、住吉川、芦屋川は、川底トンネルを
 掘った。
  石屋川の川底トンネルは、日本で最初の鉄道トンネル
 である。
  この時の神戸駅舎は、英国風レンガ造り平屋建て。
  この建設には、イギリスで募集した外債の一部をあて
 たが足りず、政府資金で補った。
  そして、大阪から京都への線路延伸に3年を要した。
  資金部族の中、1874年(明治7年)6月1日に、神崎駅
 (現在の尼崎駅)、住吉駅が開業した。
・東京府立病院内に、産婆教授所設立事業が開始された。
・国道・県道・里道の制が施行された。
  太政官布告第60号により、道路は、国道・県道・里道
 の3種類に分けられ、
  江戸時代以来の主要な街道は、国道に指定されて番号
 が付けられた。
・秀英舎・三井物産・三井銀行などが設立された。
・[独]オットーが内燃機関を発明した。
1876年1月9日(12月13日)日本陸戦隊が、朝鮮軍民と釜山
 で衝突した。
1876年1月12日、医術開業試験法(いじゅつかいぎょうしけ
 んほう)が制定された。
  医師の開業試験で、1916年まで行われた。
  医術開業試験は、西洋医学の知識を問う問題が出題さ
 れた。
  それまでは、医師といえば、医師は漢方医が主流であ
 った。
  しかし、この医術開業試験の導入により、新規に開業
 する医師は、西洋医学の知識が必須となった。
  これは、近代日本での医師の西洋化において画期的な
 ことだった。
1876年1月13日、この日に記録されたマイナス9.2度が東京
 の最低気温。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

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