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2013年7月19日金曜日

その行為を、特別視し、信仰対象とした。

 題:その行為を、特別視し、信仰対象とした。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスが、実際に、実在したかは確定できないのが現状な
のだが、イエスが在世の頃、
 ユダヤ民族は、様々な重圧を受けていた。
 武力でユダヤ民族の権力を奪った「ローマ帝国」。
 そして、民は、ローマ帝国に『富み』を吸い上げられた。
 また、その「ローマ帝国に媚(こ)びる、ユダヤ人の裏切り
傀儡(かいらい)政権」。
 その様な政府だから、民へ重圧をかけた。
 そして、『ローマ帝国のお先棒かつぎ』の手先のユダヤ人の
徴税人(民から金を取り上げた。取り上げれば取り上げるほど、
自分の身入りが良いというシステム・規則だった)。
 そしてまだ居る。民へ弱い者いじめをする者が。
 山の頂(いただき)に神殿を作る、一握りの宗教的な特権集
団、エルサレム神殿の聖職者たち。
 宗教を誇示しながら、民へ「神殿税」を掛け、「旨(うま)
い汁」を吸っていた。
 この様な、様々な重圧を受けていた民。
 心理的重圧も、現代からは想像を絶するものだったと思われ
る。
 それ故、イエスの癒(いや)しの行為は人気だった。
 医学の発達した現代、イエスの行為の必要性は『広い』こと
が分かっている。
 身体的機能麻痺について、想像以上に多くの麻痺が「心因性」
の原因と、起因するということが分かっている。
 イエスは、心療的治療師と言える。
 イエスの治療を欲していた民も多かったのだろうと、それも
絶大に多かったのだろうと想像できる。
 イエスの奇跡物語はここから生まれた。
 現代医学からは、当然のこととして証明できること。
 今では、普通のこと。古代だから、珍重されたのだろう。
 奇蹟的にも、神がかり的にも見えたのだろう。
 そして、「この奇跡感」や、「神がかり感」から、キリスト
教は生まれてきた。
 その行為を、特別視し、信仰対象とした。
(追記)
 この時、「イエスに触(ふ)れたがる群衆」や、「さわりた
がる群衆」が、多かった・・というのは、完全に、病気治癒の
ため、病気が治りたいがためである。
 その目的で、イエスのところに集まった、押し寄せた。
 聖書学者は指摘する。「何故、これ等の群衆は、皆、癒(い
や)されたという記述がないのか?」と。
 結局、この状況から宗教性が付加され、宗教性をもって、癒
されるという「御利益(ごりやく)を求める」御利益宗教へと
移行していく。
 群集は熱狂する。それだけ、民は抑圧されていた。
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URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp

結局、偽善に堕している。

題:結局、偽善に堕している。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 ある有名な人の言葉に、
 「私は、キリスト教徒を信じることができない。なぜなら彼
らは、怒ることができないほどに不誠実だからである」・・
がある。
 (やはり、怒るときには怒るのが誠実と言っている)。
 イエスは、気が短かったようで、キリスト教の聖書のあちこ
ちで怒っている。
 また、弟子たちを本気で叱っている。
 弟子も、イエスに反抗して、イエスを叱っている。
 弟子には師という見方が薄く、よく言えば、平等意識が強い。
 弟子が反抗した時、イエスは、時には、シモン(ペトロ)を
 「サタン(悪魔)」と怒鳴ったりしている。
 イエスにこの様なところが見られるが、
 キリスト教会には、「怒る」ことについて「はしたない」「
恥ずべきこと」という不文律がある様で、
 怒りを押し殺している。
 それは、怒りに「愛の精神に反するという見方をしている」
からで、そこに無理が生じている。
 イエスのように、あまり感情むき出しも駄目だが、あまりの
無理さに『ひきつる顔で押し殺す』とかの不自然さが生じる。
 結局、その様な姿勢は「偽善的態度」と言え、
 怒るときには怒るが良い。
 本当に考慮すべきは、怒り方なのである。
 心をここへ持って行かなくてはならない。
 心なく「柔和な顔つき」をしているが、ひきつっている顔は、
 結局、偽善に堕している。
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2013年7月18日木曜日

もうすぐ私もベリー摘みに行くよ。

 題: もうすぐ私もベリー摘みに行くよ
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書は、神の言葉だという。
 そして、世に、「本当に神の言葉なら書き採(と)る事も出
来ないし、記述する事も出来ないし、ましてや、翻訳などもで
きない」という言葉がある。
 翻訳によって『翻訳者』という人の意思が入ってしまう」し、
 また、『筆記者』の意思も入ってしまうし、
 「どうも、この言葉が正しい」らしい。
 キリスト教は、その神の言葉を記したという聖書を、信仰の
根本において、信じている。
 その聖書に、福音書という記述書が、複数あるが、
 これ等は『ギリシャ語』で書かれている。
 マルコが書いた、マタイが書いた、ルカが書いた、そして、
ヨハネが書いたとも言うから、
 その人たちの人間が書いたと言っているから、
 その人間の頭の中にあるものが、筆記されているのだろう。
 イエスは、「アラム語」を話した。
 そして、前記のマタイなどの福音書を書くにあたって、
 「G資料」などという資料を見ながら書いたと言われているが
(今は「行くへ不明」になっている資料)、
 また、これらの資料も別の言語である。
 聖書になるまでに数々の「言語の橋を渡り、意思の川を渡り」、
 翻訳や、その資料からの人間の恣意的(しいてき)な意思の
選択が入った資料部分の選択作業がある。
 (参考)しい‐てき【恣意的】 [形動]気ままで自分勝手な
さま。論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。「―
な判断」「規則を―に運用する」
 そして、その様に、人間の意思の橋を渡って出来た『キリス
ト教聖書原典』を、ここからさらに、翻訳して、各国の人が読
める形へ「かたちを変える」という作業もある。
 神の言葉や意思は、どこかへ飛んで行く・胡散霧消している
とも、少なくとも、神の意志とは変わっているものが、『聖書』
としてある、存在している。
 関係することを、日本経済新聞から、その点について見てみ
よう。
 今、『世界で失われる言葉』があるという。
 そこに「翻訳できない言葉の叡智(えいち)がある」という。
 本『亡びゆく言語を話す最後の人々』(K・ディヴィッド・
ハリソン著、原書房)
 (参考:日本経済新聞 2013・6・16)の『書評』を見た。
 書評の筆者は、文化人類学者の今福龍太氏である。
 [書評]・(抜粋):著者は、地球上で失われつつある言語が
集中する「言語のホットスポット」に赴き、
 「最後の話者たち」の言葉と語りを記録する作業を続けてき
た行動派の言語学者である。
 一つの言語の死とは、僻地(へきち)に住む話者の言語の消
滅という局地的な『余所事(よそごと)』ではない。
 たとえば、生物種の消滅と言語の消滅の間にある相関関係は
とても示唆的だ。
 未知の生物種が記録されぬままに消えているように、
 言語もまた知られぬままに消えようとしている。
 そして、そうした科学的に特定されていない生物種とその生
息地についての甚大な知識を有しているのが、まさに、
 危機に瀕(ひん)した言語の話者たちなのである。
 ならば彼らの言葉の消滅とは、
 自然界について人類が持っていた豊かな智慧(ちえ)が失わ
れていくことを意味する。
 ボリビアのカラワヤ族の持つ薬草に関する驚くべき知識。
 アラスカのユピク族が99種類の海水の形状を言い分ける繊細
な表現。
 シベリアのトファ族がトナカイの群れを識別するときの魔法
のような呼び名。
 他言語には翻訳できない言語的な叡智(えいち)、繊細なコ
トバの陰翳(いんえい)あるリズムが本書から聴こえてくる。
 そのとき、それらの言葉も私たちのかけがえのない一部なの
だ、と私たちは確信する。
 言語は私有するものではなく、分かち合うものなのだ。
 こうした理解は、「最後の話者であること」を引き受け、
 それを他者と分かち合う人々がいるという現実を知ることで
深められる。
 言語学者と協力して言葉の現状を記録してゆくためには、
 他者と共有できる言語の習得もまた、
 智慧の媒介として決定的に重要だった。
 「最後の話者」であるためには、現代の多言語的な現実にむ
かって参入してゆく勇気も必要だったのだ。
 トファ語の最後の話者である老女は言った。
 「もうすぐ私もベリー摘みに行くよ、そのときはこの言葉も
一緒に連れていくさ」。
 たとえトファ語の話者が消えても、
 「死」という観念を「ベリー摘み」という具体の言葉で言い
 表す人々の持つ智慧を、私達はもう忘れることはできなくな
る。(感想):美しい言葉で綴った、つづられた書評だ。内容
の豊さも嬉しい。
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2013年7月17日水曜日

キリスト教は、新たな罪つくりの宗教。

 題:キリスト教は、新たな罪つくりの宗教。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教を作ったパウロは、規則(律法)は「いらない」、
無用だと言う。
 しかし、一方でキリスト教は、律法の顔を立てる事も言う。
 完全に律法と縁を切っていない。
 あらゆる所で『矛盾噴出』のキリスト教なので何も驚くこと
ではないのだが・・、
 キリスト教は、律法について、くどくどと、もったいぶって、
難しそうに言う。その1例、「安息日は、人のために定められた
」・・・と。
 何も改めて言われなくても。そうです、何しろ人間が基本な
のです。
 そして、更に、キリスト教は言う「人が、安息日のためにあ
るのではない」。当り前、安息日は、人でも何でも無い。
 そして更に、「人の子は安息日の主である」と。当り前。
人が主だ。同じ言葉を繰り返す、何の示唆も与えない浅い話だ。
 この当り前の話を、キリスト教は、ごちゃごちゃと、「尾ひ
れ、はひれ」を付けて話す。
 規則(律法)を守る人=「義人」、そうでない人=「罪人」
と、キリスト教は発想して、その発想の視点で他人を批判・
非難している。
 そして、その様な事を廃棄する権威を、イエスが持っている
としている。
 自分で勝手に自分の好みの規則を作って、好き放題をしてい
る。
 そうではないでしょー。
 これはキリスト教が、いつもやっている「我田引水」の自分
勝手なの解釈方法・解決方法でしょう。
 規則を守るのは当り前の事です。義人でも何でもありません。
普通の人が守るルールなのです。特別視は無用です。
 また逆に、守らない人を義人に対して、守らない人を「罪人
」と言っていますが、違反の行為が発生した時に、罪が発生し、
裁判で罪が確定するのだ。「無罪」もあり得る。ここが大切。
 キリスト教は「二項対立」の狭い思考範囲に押しとどまって
いる宗教。
 アメリカの大統領も言った「イエスか?、ノーか?」と、
 思考範囲を自分の勝手な範囲に押しとどめて、相手に迫った。
第三の選択肢は無かった。
 そして、その狭い思考範囲の判断でさえ、イエス個人にそれ
らの総べての権力を与えてしまって、おおやけの判断や行為を
侵害するキリスト教的思考。これでは世の中が乱れます。
 キリスト教の考えを進めて行くと、世の中は乱れて来るので
す。過去がこの事例でいっぱいです。
 現代の1事例の、この様なキリスト教の洗脳から、ある大統
領が「イエスの夢を見た」と、だから決断したと、「戦争を始
めた事例」が、現代にもある。まったく、他の人の、皆(みん
な)の意見を聞こうとしなかった。聞く耳持たずの状況だった。
 夢でイエスが戦争を赦した・・と、
 イエスが戦争を許したと話を『転化』した。
 ある意味、自分の頭で考え、その重大な責任を伴って決断す
るという姿勢は・・『皆無』だった。
 自分は無責任の領域に居た。・・逃げた。
 ここにも、キリスト教に洗脳されて、この様な思考になって
しまった大統領がいた。
 イエスは自分に権威がある・・と、自分にだけ決定権がある
ように言うのは間違い。
 この大統領も、このイエスの指示を受け、イエスと対話した
だけで、「戦争の決断」をした。
 この様な、『浅はかな行為を生み出す』危険なキリスト教の
洗脳書=聖書。この様な事までしでかしている。
 これは、キリスト教の「キリスト教の他に救い無し」の洗脳
から来ている。
 キリスト教から、排他的な面が生み出され、この様な悲惨な
戦争に至った。
 これは『陰に陽に』主張される『キリスト教唯一絶対主義』
の『傲慢なキリスト教教義』が罪なのだ。
 キリスト教の罪は、何ら解決的示唆も与えてないのに、本当
は、『もやもやのまま』なのに、「一挙に問題が解決したよう
な錯覚を与えて」、そして、「戦争に決断させる」という思考
パターン。
 キリスト教は、マジックのように「罪を許し」たり、「行為
をさせたり」の「無責任・罪赦し・罪作り」の『新たな罪を製
造する宗教』。  
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2013年7月16日火曜日

イエスの弟子への「権威落とし行為」。

 題:イエスの弟子への「権威落とし行為」。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスと弟子たちは、一緒の行動をしているが、その行動は、
イエスがイニシアティブをとり、弟子たちが従うという、ブッ
ダの様な行動パターンをイメージすると大間違いとなる。
 その様な状況とかけ離れた状態となっている。
 故に、旅に行った時に、気が合っていれば、楽しく、また、
嬉しいものですが、イエスたちの行動は、まったく、この逆。
 駆け引きと修羅の世界です。
 まず、弟子たちが、『イエスと対等の意識』にある事。
 キリスト教聖書には、「(弟子の)ペトロが、イエスを叱っ
た」という記述がある。その時、イエスは怒って、ペトロを「
サタン(悪魔)」と怒鳴りつけたという。
 この様な記述は、ここだけではない。
 例えば、「イエスは、静かな所には神が居る」と思うのか、
イエスは静かな方へ行く。
 すると、弟子たちのリーダー格の「シモン(ペトロ)」が、
イエスを呼びに行って、「みんなが探してますよ」とイエスに
言い、弟子たちが、イエスの後に、常について、尊敬するイエ
スの一挙手一投足の行為を見守り・学ぼうという姿は『まった
く見られない』。常に従うという状況では、まったくない。
 あたかも「イエスさん、こっちこっち、みんなが探してます
よ」という感じである。
 また、だから、イエスは、弟子たちに自分の気持ちを説明し
なければならない状況に追い込まれる。
 イエスは言う「私は宣教の目的のために出て来たんだから」
と、わざわざ、誰でも知っている、当り前の大目的を言わざる
を得ない状況になっている。宣教目的の人たちにとって『低レ
ベルの状況』となっている。
 そして、イエスは言う「だから、近くの他の町や村に行こう
」と。イエスには完全にイニシアティブは無い。
 「行くよ」ではない。
 この時、弟子のシモンは、本当は、「一つの場所」に留まり
たかった。
 聖書に、このシモンの批判の気持ちが、間接的に書かれてい
る。「シモンのイエスに対する批判が込められている」と聖書
研究者の言葉もある。
 また、キリスト教聖書には、「イエスは宣教した」「宣教し
た」と書かれているが、肝心のイエスの宣教の言葉は、まった
くと言っていいほど書かれてない。
 少なくとも、「書くに価しない」とか、「特別書く必要はな
い」という状態なのだろう。
 『肝心な宣教』などしていないのではないか?得意な疑似「
心療内科モドキ」の行為だけなのではないか。宣教思想・哲学
の宗教的宣教の面は見られない状態。悪霊追い出しだけではな
いのか?
 ここは、「後の一番弟子のシモン・ペトロの権威を、イエス
が否定している」ところだと書く聖書研究者もいる。  
.
(追記)・・そして、次の話・・・
 イエスは、「心を病んだ方たち」を病人と見る事が出来なか
った。
 やはり、古代に生きる人だった。
 古代人は、自分の認識を越える事ごとを,「『悪霊』のなせる
災(わざわい)い」と見た。
 知識が認識レベルを越えると、すぐ、「その様に見るのは、
現代と違うので、やむを得ない所でもある」が。
 イエスも、この例外では無かった。
 イエスは、この「心を病んだ方たち」の治療行為をした。
 現代の精神的な医師の治療行為の様な事をしたのだろう。
 科学的にも、ある程度のステータスのある人が、行為を行な
っただけでも、「ある程度の精神的治療効果はある」と認めら
れている。イエスの行為は、それに相当する行為だったのだろ
う。その点、イエスは、宗教的な特別な行為をしていた訳では
ない。
 会えて、キリスト教が、宗教的なことだとするなら、未開地
の「アニミズム」と同じ類いである。
 未開地のシャーマンが、気を病んだ方に種々の事を行ない、
癒(いや)し、治(なお)す行為と同じだ。
 キリスト教は、その様な宗教とも言える。
 キリスト教は、この類いの宗教であるが、この「悪霊」に、
人格を持たせ、いじくり回す。シャーマン世界の宗教とまった
く同じ。
 キリスト教は言う、「イエスは、悪霊にものを言う事を赦(
ゆる)さなかった」とか。
 「悪霊は、イエスを知っていたから、静かにしていた」とか
・・と。
 そして、キリスト教は、悪霊を信徒の『脅し』に使い、悪霊
にイエスを「神の聖者」と呼ばせ、悪霊を畏(おそ)れる信徒
に、イエスへの帰依を強いたり、思わせたりする。
 キリスト教は悪霊の人格を設定し、信徒にその対応を迫(せ
ま)る宗教。信徒は、その面でも「心を刷(す)り減らす」。
 ○○すると、悪霊が××するから・云々(うんぬん)の宗教。
 この様な宗教で人類が救済される訳がない。また、皆様が幸
せになれる訳がない。
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イエスの疑似「心療内科モドキ」

 題: イエスの疑似「心療内科モドキ」
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスは、ユダヤ教徒だった。そして、意識は、ユダヤ教徒
の意識だった。ただ、イエスは、その律法を無批判に受け入れ
ていたのではなく、「正さねばならない」と考えていた。
 故に、イエスには、次の言葉がある、「(ユダヤ教の律法を)
捨てなくて良い。だが、正さねばならない。私は、そのために
来た」・・と。
 そして、(「マルコによる福音書』2・1~12)に、「(イエ
スが)『子よ、あなたの罪は赦(ゆる)される』と言った、そ
こに(ユダヤ教の)律法学者が数人座っていて、・・心の中で
考えた。
 『この人は、何故こういうことを口にするのか。神を冒瀆し
ている。神・お一人の他に、一体誰が、罪を赦す事が出来るの
だろうか』」・・と。
 ここで分かる事は、ユダヤ教の律法学者は、「イエスもユダ
ヤ教徒だ」と見ているという事、そして、当然であるが、その
前提で、イエスの行為に、「あれやこれや」と言っている。
 そして、ユダヤ教律法学者は、ユダヤ教を一神教と見ている。
 現代のイスラエルのエルサレム大学の教授は「一神教になっ
た歴史は浅い」と言っているが、イエス在世の頃は、「一神教
観念が定着していたことが分かる」。
 因(ちな)みに、イエスの神観念に関し、色々な言葉が残さ
れているが、「天の父(神)の一神教的観念」と、「神々の存
在を信じる多神教的観念」がある。
 また、この文で、一神教概念の律法学者は、神一人が占有す
る『罪を赦(ゆる)す行為を、イエスは侵害している』と見た。
 イエスは、元々「ユダヤ教の律法」を捨てはしないが、律法
規定とおり拘束はされたくないという立場なので、その点はお
構い無しの考えで、ここは立場の違い、考え方の違いである。
 そして、イエスは、律法学者が、いつも言っているの事なの
で、彼らが「何を考えているかが分かっている」。
 ここを聖書は、もったいぶって「イエスが霊の力があるから
分かったのだ」と、イエスを美化する。
 そして、イエスは、律法学者たちに言う。
 「(神で無く)人の子が、罪を許せる事を知らせよう」と。
 そして、「中風の人に『起き上って、家に帰りなさい』と言
う。そしたら、その人は、起き上って、家に帰った。
 それを見ていた皆は驚いた。そして、神を賞賛した・・と言
う記述である。
 これは、現代科学でも認められている。ある程度のステータ
スのある人が、この様な『暗示』を掛けて起きる事とされてい
る。
 何も、聖書が言う様な「イエスの神通力ではない」。
 故に、ある程度の誰でもが出来る事なのである。古代の人々
は驚いたのだろうが、その様な事。
 だから、人々は『神を賞賛した』と言うのは『オーバー』な
書き方・聖書的な記述となっている。神と言っても「ユダヤ教
の神」なのだろうが。
 イエスは「ユダヤ教の会堂」で講演を良くし、また、ユダヤ
教側も、イエスの講演を『ユダヤ教の宣教』と見ていたから、
会堂使用も許した。
 中風になったのは、宗教と、まったく関係が無い事で、こぞ
って、宗教と関連して宣伝し、考えている。
 確かに、現代では普通にに行なわれている療法を、古代にお
いて、イエスは、一種の疑似「心療内科モドキ」で行為し、い
くばくかの効果を見たら、人々は驚くだろう。
 しかし、現代では一般的な事、何ら驚くには当たらない事な
のである。
 今・現代においても、キリスト教聖書は、この古代の物語を
化石のように記述し、「奇跡をしているイエス」のように感じ
させている。そして、神の讃美に帰結させている。神のなせる
「ワザ」の様に見せている
 キリスト教は、律法学者を口汚く罵(ののし)るが、ただ宗
教観が違うだけで、その様に嫌ってはいけない、愛すべき人た
ちなのである。
 あまりにも、キリスト教は偏狭(へんきょう)に、自分たち
だけを讃美し、相手を異常に敵対して、虐(しいた)げる。
 キリスト教の宗教的な狭さの一つとなっており、また、敵対
側の殺戮へと、最終的につながって行く。
 そして、根本原因は、イエスの「病気は罪のせい」という遅
れた観念である。
 この様な遅れた観念の書・聖書を、いくら読んでも幸せにな
れない。そして、彼は神でも何でもない、ただ、普通の一般的
な古代人だった。この様な古代の認識を、いくら読んで進歩は
できない。
 (参考)ちゅう‐ふう【中風】 《「ちゅうぶう」とも。悪風
に中(あた)る意》脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随と
なる状態。中気。ちゅうぶ。
 (参考)心療内科:心身医学(しんしんいがく、英語:psyc
hosomatic medicine)は、患者の身体面だけではなく心理・社
会面を含めて、人間を統合的に診ていこうとする全人的医療を
目指す医学の一分野である。心身医学を実践している診療科が
心療内科(しんりょうないか)である。
 (参考) へんきょう【偏狭】 [共通する意味] ★心が狭いさ
ま。[英] narrow-mindedness
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2013年7月12日金曜日

ある会堂での、『イエスの行動』について。

 題:ある会堂での、『イエスの行動』について。
...(真を求めて 皆様と幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書の(「マルコによる福音書」1・21~28)
に、
 イエスが、ユダヤ教の会堂で、人々の前で話をする場面が書
かれている。
 この会堂の中の聴衆に、『心を病んだ方』がいた。
 この人が、イエスに叫んだ、『ナザレのイエス、構(かま)
わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか? 正体は分かってい
る。神の聖者だ』・・と。
 これは、可哀想な事に、心を病んでしまった方の叫びだ。
 それを聞いたイエスは、怒って答えた。『黙れ』・・と。
 そして、『この人から出て行け』と怒りの形相(ぎょうそう)
で命じた。
 人を集めて講演をしようという講師が、聴衆の状態の状況判
断もせずに、短絡的にその聴衆の言葉に怒って、『出てけ』と
いう話は聞いた事がない。
 怒られた、その聴衆は、可哀想に「痙攣(けいれん)」が
起きたという。
 イエスに怒られ興奮し、発作が起きたのだろう。
 その聴衆は、会場から出て行ったとの事であるが、イエスの
対処の仕方は、まったく間違っている。まずい。
 しかし、キリスト教は、これを美化して、あらゆる美しい言
い方で、キリスト教徒を洗脳する。
 ただ、これだけの事なのであるが、美しく、あらゆる事を言
って洗脳する。
 イエスの行為は、「権威ある者」の行動だという。
 弱い者いじめだけの話ではないか。TPO的にも「まったく、
まずい」。
 そして、「権威ある者の教え」だという。
 そして、その『教えと行為』に、人々は、非常に驚いたと聖
書は書く。
 イエスが、どんな事をしても、権威があるとか、聴衆が驚い
たと言って美化してしまえば、
 キリスト教徒は、その様に『美しく洗脳』される。
 聴衆は、実際は、イエスの教えに驚いたのではなく、心を病
んだ方が居て、その様な事態が起きた事をオドロキ、そして、
心を病んだ方が『可哀想』と思ったのだろうが・・、
 聖書には、その様な事は、一切、書かれていない、省(はぶ)
かれている。何しろ、美しい話に変え、転化している。
 そして、さらに言う、
 人々は、「今までに無い、新しい教えだ」と言ったという。
 何処が「新しい教え」なのか?
 ただ怒こって、心を病むという『弱者』を会場から追い出した
だけではないか。あまりにも、自分勝手な言い回しだ。
 「ただ、イエスが短気に怒っただけの内容なのに」・・権威
があるとは?
 確かに、この様に人を集めた講演で、講師が怒って聴衆を罵
倒し、怒鳴りつける事は無いこと。その点は、珍しいと言うべ
き事で、新しいと言うべきことではない。
 何しろ話は、どうひっくり返しても『低次元』『低レベル』。
 本当は、逆に、恥ずかしくて隠さなければならない事件。
 ここまで言い方を変えて、美化して、聖書の読者に錯覚を起
こさせるとは・・呆(あき)れる、疑問?「聖書」の名が恥じ
る。
 「聴衆の方たちの、『心を病んだ方』への思い遣りが、一つ
も書かれていないところが、逆に心を痛む。
 心を病んだ方を、終始一貫『悪漢』にしている。
 可哀想に、その方は大声を上げながら会場を出て行ったとい
う。こんな話を、感受性の強い子供たちには読ませたくない。
 聖書は、心を偏頗(へんぱ)にする。素直な心の子供たちが
育たない。
 そして、聖書は書く『イエスが評判になった』・と。
 これだって、町では、本当は、『怒鳴りつけたのよ、大きな
声で』という人々の言葉なのだろう。そして、「まあ、可哀想」。
「もっと穏やかに言ってあげればいいのにね」という町の言葉
だったのだろう。
 福音書は、『左のものを、強引に、右へ持っていく』という
偏頗な心になってしまう書物。この様な事を聞く、子供たちの
「心が痛む」ことを恐れる。
 その様な洗脳書が、キリスト教の聖書。

キリスト教、現在の『世に規範になり得ない宗教』。

 題: キリスト教、現在の『世の規範になり得ない宗教』。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 モーゼの十戒に「姦淫するな」と書かれているが、モーゼが
この様に書くほど、この時代、男女の関係が乱れていた。
 1例として、この時、日常茶飯、乱交が行なわれていた。
 書かざるを得ない最低の民の状況だった。
 今、この様な最低の時の規範を、今現在の時点で、その記述
のキリスト教聖書を規範とするのは「間違いである」という事
がこのこと1つで分かる。
 現時点におけるキリスト教の根は、この様な経緯の中にある。
 イスラエルの民がエジプトから脱出し、カナンの地に来た時、
その地の宗教と混淆・習合した。
 その宗教は、取り除かれるのではなく吸収され混淆(こんこ
う)したのである。
 キリスト教が無謬であるわけがない。
 イスラエルの民の信仰は、カナンの地場の宗教の血が混じっ
たのである。
 混じった血はバール信仰である。
 この信仰は、繁殖の女神であるアシュタルテと対をなす神で
ある。
 そして、豊饒(ほうじょう)の観念と生殖とを同一視して、
春のよみがえりや豊作を祈って、酒を飲み、踊り狂い、神の前
で男女乱交する。
 ヤハウェを神とするエルサレム神殿にも神殿娼婦が居て、神
殿の巫女が同時に娼婦になった。
 オルギア・乱交状態である。
 エジプトからカナンの地に着いたイスラエルの民は、カナン
の地のこの淫風(いんぷう)に染まった。
 この様な宗教で、皆様が幸せになるわけがない。人類が幸せ
になるわけがない。
 (参考)こん‐こう【混交/混淆/渾淆】 [名](スル) 1 異
なるものが入りまじること。ごちゃごちゃになること。「玉石
が―する「和漢―文」 2 ⇒コンタミネーション
 (参考)ほうじょう【豊穣】 [共通する意味] ★農作物がよく
実り収穫が多いこと。[英] a good harvest[使い方]〔豊作〕▽
米が豊作だ▽豊作貧乏〔満作〕▽豊年満作〔豊熟〕スル▽豊熟
の季節〔豊穣〕(名・形動)▽五...
 (参考)いん‐ぷう【淫風】 みだらな風習・風潮。

2013年7月11日木曜日

キリスト教は、イエスと違う神概念の、イエスと違う宗教。

 題:キリスト教は、イエスと違う神概念の、イエスと違う宗教だ。
...(信を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、宗教として存立する一番大切な「信仰対象の
神」について、呆(あき)れるほど「滅茶苦茶」だ。
 信徒の方は知ってか知らずか、深くは考えていないようだが、
 また、聖職者の牧師・神父・司祭などの方々は、説明もしな
いのだろう、ホッカムリなのだろう。だんまり決め込みだ。
 例えば1例、(「マルコによる福音書」12・18~27)を見る
と、多神教的な発言を、イエスはしている。
 イエスが、発言しているとしても、キリスト教の聖書のイエ
スの発言だと言われている言葉のそのほとんどが、
 「イエスの言った事ではない」という研究結果である。
 ほとんどが「イエスではない」なので、イエス以外の誰かが
言った事なのだろうが、イエスが言ったというその言葉は・・。
 今、「マルコ」を例にしていますが、この福音書も含め、キ
リスト教聖書は、その福音書が書かれた後に、
 名前の分からない、不特定の人たちが、好きな様に、書き加
えたり、削除したりと、勝手な事をしているから、
 誰とも判らない人が書いた聖書の『その記述』を読むと・・、
 イエスは、「原罪のある人は、復活して神になる」と言って
いる。
 キリスト教の神の大量製造となる。
 引用すると「イエスは言われた。『あなたたちは、聖書も神
の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
死者の中から復活する時には、めとることも嫁(とつ)ぐこと
もなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについて
は、モーゼの書の『柴』の箇所で、神がモーゼにどう言われた
か、読んだ事がないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、
ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神では
なく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違い
をしている。」と書かれている。
 つまり、イエスは、「復活を信じて居た」。
 イエスのこの言葉は、復活を信じない「サドカイ派」から問
われて、答えたものなのだ。
 イエスは、普通の人も復活する(出来る)と言っている。
 また、復活するした人は、肉をもって復活するのでなく、
 天使のようになって、人々の神になるのだ。
 死んだ者の神ではない・・と。
 イエスは、人々が死んで、復活して、人々の神になると説い
ている。
 イエスが、「人々が、神になって行く」と考えているという
事は、当然、「人々が復活して、神々になって行く」と考えて
いた。
 イエスは、神々の生じる思想を説いている。
 因(ちな)みに、(「出エジプト記」3章)では、「先祖の
神々」が出て来る。
 イスラエルのエルサレム大学の教授は、『ユダヤ教が一神教
になったのは歴史が浅い』と言っている。
 イエスも「多神教」の観念の中に居た人。先祖の神々を信じ
ていた人。
 キリスト教は、『イエスの神概念と違う神』を神として信仰
対象としている。
 イエスと別の宗教である。

2013年7月9日火曜日

キリスト教は、無反省です・・。

 題: キリスト教は、無反省です・・。
 ...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
 .
  キリスト教の聖書に、『福音書』というものがありますが、
福音書は複数あります。
  その複数の福音書の「最初の福音書」を書いた人は、『マル
コ』という名前の人です。
  このマルコが書いた福音書は、正統と言われるキリスト教に
『批判的な福音書』を書きました。
  そのため、「マルコによる福音書」は、キリスト教から卑劣
な『いじめ』に遭(あ)いました。
 マルコが、最初に福音書を書いているのに、
  聖書の中で、第二番目に置かれています。
  そして、正統派への「ゴマスリ福音書」の「マタイによる福
 音書」が第一番目に置かれています。
  そして、さらに、マタイと同じ姿勢の、弟分の「ルカによる
 福音書」が第三番目に置かれ、
  「マルコによる福音書」は、サンドイッチにされて、マルコ
の批判色が分からないように仕組まれ、薄められています。
  最初にキリスト教の聖書を手にした人が、「正統派に批判的
なアンチ正統派」の「マルコによる福音書」を読んで、
  そのアンチ色を強く心に刻まれることを、嫌った・忌んだキ
リスト教の仕組んだ聖書の福音書配列なのです。
  そして、マルコという人は、まったく、正直な人と言えます。
  マルコは、『イエスの復活の話』を認めていません。
 まず、キリスト教正統派は、ここが嫌だったのです。
  しかし、マルコが主張したかったのは、「生前のイエスの言
葉や行動』なのでした。
  正統派は、パウロです。
 パウロは、昨日まで『ガチガチのユダヤ教徒』で、敵対宗教
集団だったキリスト教徒を殺してまでして敵対していました。
 その『パウロ』が、
  当然、ユダヤ教の正典(=キリスト教の旧約聖書)にまたガ
 チガチに頭が凝り固まっているパウロでしたが、
  その旧約のあちこちに書いてある「生け贄(いけにえ)の血
 による贖(あがな)いの思想」と、セットになった「復活」を
 (イエスの十字架上の死による生け贄の血の贖い)と(イエス
 の復活があったこと)として「宗教企画」をしました。
 それ故、パウロのキリスト 教(パウロ=キリスト教)」と言
えます。マルコは、このパウロキリスト教に、反対でした。
  マルコは、パウロが「無用なのだ」と文にまで書いて捨てた
「生前のイエスの言葉や行動」にこそ、キリスト教の根幹があ
ると思いました。
  もしマルコが、「イエスの復活に肯定的」であったならば、
  刑死後、復活してガラリヤに戻ったイエスが、
  イエスの弟子達もガラリヤに戻り、
  そこで復活したイエスに出会ったという事が事実であって、
  復活したというイエスも事実であるという事が、
  もしも、マルコの主眼であるならば、
  『絶対、書き落とすわけはなく』、
  その『肝心・かなめさ』を
  『逆に、強調する』わけですが・・。
  この様な行為をしてないマルコ。
 ここに、明らかに、マルコの想いが現われています。
  イエスは、『復活などしていないのだ』・・と。
  今、何と、英国・キリスト教聖職者でさえ、「イエスの復活」
を信じてない人・聖職者たちが過半数を超えています。
 マルコの考えを深く探(さぐ)りますと、
  マルコは、「復活を、来世の問題として論じる事を空(むな)
 しい思弁(しべん)」として退けています。
  (「マルコによる福音書12・18~27)「復活についての問
 答」。マルコは、まったく「この様な展開」を拒否しています。
  「関心なし」です(詳細は略)。
  マルコという人は、福音書という文学の形式で初めて「生前
 のイエスのイメージ」を書いた人です。
  イエスの弟子たちは、復活という観念を真理と思い込み、福
音と捉え、忠実的に思い捉え、実体的に捉えています。
  この事に対し、マルコは、「生前のイエスをないがしろにす
るのか」と、「生前のイエスを想起せよ」と訴え、
  このイエスの弟子たちこそを、再生しなければならないと想
 いました。
  また、福音書には、「イエスの復活」を教えられたマグダラ
 のマリアや、イエスの弟・ヤコブの母マリア(イエスの母)ら
 の女性たちが、
 「復活」が起きたことに驚き、正気を失って、
  「もう、誰にも何も言うまい」と思ったという事が、事細か
 に書かれています。
  女性たちが、イエスの墓へ行った時、
  どこの誰だか、まったく分からない、不明の第三者の人が居
て(この者について何も説明が無い)、
 重大な役をする人物が、突然、登場して、
 重大な立ち回り・演技をする。この者を「仮 に、X氏(エッ
クス氏)」とする。
  何故か?X氏は、『イエスが復活した事を知っている』。
 そして、女性たちに、色々と、誰に頼まれたのか?、一部
始終を見ていたのか、分からないが、女性たちに、詳細に
くどくどと説明する。
 頼んだのはイエスとしか考えられないが・・・。
  安易なストーリー展開だ。何とでも言える。
 そして、不思議なストーリーの設定・書き方の仕方をするも
のだ。
  この様な場面に立ち会ったこの不明の人物・X氏こそ凄い。
  『イエスの復活の場面に、立ち会った人物なのだ』。
  しかし、この後は、うんともすんとも、これ以上の出番の無
 い人物・X氏なのだが・・・。
  イエスは、復活する時、X氏に「これから復活する」と、そ
 の人物・X氏に教え、
  そして、その人物・X氏に、その後のイエスの予定まで教え、
  イエスは、「これから『ガラリヤ』ヘ行くつもりです』と言
 い、
  誰か私を訪ねて来たら、申し訳がございませんが、ここに居
 て、『ガラリヤに行った』と伝えて下さいと、X氏に『依頼し
 て』お願いして、『ガラリヤへ行った』。
  イエスの墓の入り口に置いた石は、
  この人物・X氏が、イエスの墓の中に入る時に、退(ど)け
 たのか?(この人・X氏だけでは退けられない重い石の様なの
 だが、だから、また別の第三者・X氏以外の人が居たのか?)、
  復活する予定のイエスは「肉体を持って行きたかった」らし
 いが、何しろ、肉体と共に、イエスは、ガラリヤへ行った。
  墓の石を動かさなくても、イエスは外に出られるのか?、肉
体を持って行くから、墓の入口の石は退けなければ出られなか
ったのか?は、まったく不明。
  しかし、大人1人で簡単に動く石ではないようなのだが、イエ
 スは、その人物・X氏に頼んで「一緒に、エイこりゃと動かし
 たのかもしれない」。
  マリアたちの女性が、石が退けてあるのに驚いたというので、
 多分、そう簡単に動かせる石では無かったのであろう。
  つまり、イエスが、その人物にお願いして、頼んで、手伝っ
 てもらったのだろう(なぜなら、何の関係もない人物・X氏が
 ここにずーと居て、いつ誰が来るか分からない墓に、居続ける
 訳がない。また余計な仕事の重い石を動かすわけがない)。
  小生が、ここまで書いているのは『怒って居るからです』。
  このキリスト教聖書に、煽られ、何人の方々が『無念の死』
 をしたかです。あまりにも多く、あまりにも悲惨なのです。
  そして、過去のことではなく、現代でも起きているのです。
  この様な、悲惨な事例に対しても、キリスト教は何もせず、
  逆に推進する側に居て、
  そして、キリスト教は、今でも、何も変えていないのです。
  無反省なのです。
 そして、『巧妙なる伝道行為』という「ずるい方法の伝道行
為」ばかりをしています。
 (参考)し‐べん【思弁/思辨】 [名](スル)《(ギリシャ)the
 ōriaの訳語》経験に頼らず、純粋な論理的思考だけで、物事を
 認識しようとすること。「―的な小説」

キリスト教は、『愛の宗教』か・・?

 題:キリスト教は、『愛の宗教』か・・?
 これは、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)です。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教が「愛」の宗教の欠片(かけら)もない事は、次
のキリスト教聖書の言葉で分かります。
 「われヤハウェ、汝の神は嫉(そね)む神なれば、われを憎
む者にむかいては、父の罪を子にむくいて3、4代に及ぼし、わ
れを愛しわが戒(いまし)めを守る者には、恩恵をほどこして
千代にいたるなり」(「出エジプト記」20章)。
 これは、嫌になるくらい自分だけに固執(こしつ)するキリ
スト教の神の性格を示す1例です。
 信じてくれない者には、信じない者だけでなく、3代も、4代
も祟(たた)るぞと、執念(しゅうねん)深い呪(のろ)いの
言葉を吐(は)く。
 そのくせ、信じてくれるなら千代に渡って恩恵を上げます・
・・とくる。
 こんなキリスト教の神が「愛の神」である訳がない。
 こんな宗教を信じて人類が幸せになれるはずがない。
 ここまでキリスト教の神が、脅しで「戒めを守れ」と言って
も、パウロというキリスト教の骨格を作った人は、キリスト教
に律法は無用だと、『律法無用論』で律法を捨てた。
 そして、アブラハムは、ベルシバの井戸をめぐって、新来の
べリリシテの隊長と誓約を交わした。
 ここでも出てくる「取り決め書」・約束事・律法である。
 カナンの土地には次々に新しい民族が入って来た。
 狭い土地に雑多な民族が雑居した。
 規律や律法は必要なのだ。
 この様な狭い地の規律を保つために、他民族との契約や自民
族の規律を守る規範が必要だった。
 それがモーゼの十戒である。
 「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」「貪(むさぼ)るな」
「姦淫するな」「隣人の妻を奪うな」「家畜を奪うな」「召使
を奪うな」「父母を敬え」「偶像を作るな」「みだりにヤハウ
ェの名を口にするな」「7日目には休め」である。
 品位の低い民への最低の規範を示したもの。
 いま、世界中で規範にする様なレベルのものではない。
 当時のイスラエル人の倫理レベル・道徳レベルが低く、他民
族との関係、及び、自民族の乱れが酷かったのでできた規範。
 倫理レベルは呆(あき)れるほど最低のものなのである。
 キリスト教とはその様な宗教。
 (参考)き‐はん【規範/軌範】 1 行動や判断の基準となる
模範。手本。「社会生活の―」 2 《(ドイツ)Norm》哲学で、
判断・評価・行為などの基準となるべき原則。
 (参考)むさ‐ぼ・る【貪る】 [動ラ五(四)]《「むさ」
は「むさと」と同語源、「ぼる」は「欲(ほ)る」の意》 1 飽
きることなくほしがる。また、際限なくある行為を続ける。「
暴利を―・る」「惰眠を―・る」 2 がつがつ食べる。...

2013年7月8日月曜日

(続)キリスト教の話・・2題。

 題: (続)キリスト教の話・・2題。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教を実質的に作った、
 キリスト教宗教企画者のパウロが、
 何故、「復活」を重視したかと言えば、
 パウロは、ユダヤ教の「ファリサイ派」に属していた。
 その属していたユダヤ教のファリサイ派が、
 「復活を信じ、重視していた」
 ・・・というだけの話。
 因(ちな)みに、ユダヤ教の「サドカイ派」は、
 復活を信じていなかった。
 死人の中から復活するという事は、古代に流行(はや)る
「古代的世界像に基づく、ある1つの観念」だった。
 当時でさえ、
 古代人に「何ら普遍性の無い観念」だと捉(とら)えられ
ている観念に過ぎなかった「復活観念」。
 キリスト教は、
 たまたま、宗教企画したパウロが、
 「復活観念を重視するユダヤ教の派閥に属し、
 キリスト教にその観念を導入しただけのこと」。
 故に、キリスト教は、
 古代人さえ普遍的ではないと捉えている「復活」を重要視し、
 たまたまの経緯(いきさつ)から、
 「復活」を、キリスト教の重要教義・『根幹教義』にした
だけのこと。お好みの領域の話。
 故に、イギリスのアンケート調査で、
 この復活の観念を、
 キリスト教聖職者さえも信じている人は少ない(半数以下)
 という実態となっている。
 このキリスト教の『根幹教義』を信じないで、
 よくキリスト教聖職者をしていると呆(あき)れる。日本も
この程度?
 そして、キリスト教にある「ある話」。
 イエスが復活できる事を、
 キリスト教の神は知っていたから、
 神はイエスを選び、殺したんだ・・と、キリスト教は言う。
 イエスを贖(あがな)いの血の生け贄(いけにえ)のターゲ
ットに選んだ・・という理由の話が、キリスト教にある。
 咄嗟(とっさ)に、くだらないこと・・と思う。
 そして、さらに言う、
 「故に、この様な信仰が生まれたのだと、。
 何か変だ? 何か変に感じませんか?
 この様な「子供だまし」の様な論理を。
 この様な論理や教義で信仰を展開して行く、いつもの、キリ
スト教なのだが。
 神に捧げる生け贄は、命を捧げて、捧げた命でもって、神の
怒りを治めようと、古代からある、この様な信仰に基づく所作
である。
 そうでは無いのでしょうか?
 イエスが復活するのを知っていたから、神に捧げる生け贄に
したとは?
 結局、神への捧げる命は復活していいのだと、スマしていて
良いのか?
 神聖な神への捧げもの、その神聖な「捧げる行為」が、神へ
捧げたことには、ならないのではないのか?
 くだらない「論理の隘路(あいろ)」で、何の益もない論理
を弄(もてあそぶ)ぶ、キリスト教の教義。
 キリスト教とはこの様な宗教で、終始、この様に論理が無駄
な展開をしている。徒労(とろう)に終わる宗教。心も病んで
行く。

力を合わせれば、はるかに素晴らしい世界を築くことができるはずだ。

 題: 力を合わせれば、はるかに素晴らしい世界を築くことができるはずだ
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 1972年に、ヨルゲン・ランダース教授は、未来を予測した
「成長の限界」を、委嘱された国際調査研究機関のローマ・ク
ラブで発表すると、世界に激震が走った。
 それまで、呑気(のんき)に構(かま)え、成長策の一辺倒
の世界が、「持続可能性」を考えざるを得ない、きっかけとな
った。
 この時から40年の昨年(2012年)、ダンダース教授は、最新
のコンピューターモデルを使って、再び、ローマ・クラブへの
報告書として『2052』を発表した。
 様々な統計資料、経済学者や生物学者、投資家ら40人の専門
家による検証をもとに分析し、2052年までの世界を予測した。
 それによると、世界人口は、2040年代初めに約81億人でピー
クを迎え、その後は減少。
 世界経済は、成長を続け、GDPの世界合計は、現在の2.2倍と
なる。
 ただ、成長にはかなりの地域差があり、中国が最も成長する。
 一方で、先進国住民の可処分所得は、あまり増えない。
 また、現在の貧困国の大半は、貧しいままだ。
 心配される石油などの資源枯渇や食糧問題、気候問題は、
 壊滅的レベルには達しない。
 ただし、人類は現在、世界の森林と海が吸収できる量の2倍に
あたる温室効果ガスを、毎年、放出している。
 今世紀前半に、集中的対策を進めない限り、世紀の後半、凍
土が溶けて放出された温室効果ガスのメタンが、更に、気温を
上げるといった、温暖化の自己増幅が始まるという。
 そして、干ばつや洪水、昆虫の大発生など、歯止めがきかな
い気候変動に人類は多いに苦しむ。
 ランダース教授は、短期志向になりがちな資本主義と民主主
義では、問題解決の対応が手遅れになると警鐘を鳴らしている。
           (以上、参考・読売新聞2013・7・1)
 ヨルゲン・ランダース教授は言う、「投資の流れを変えるこ
と。
 現在、世界のGDPの約25%がインフラ整備や資源開発といっ
た投資に使われています。
 40年後の未来へ向けて、その内の2%を資源枯渇、環境汚染、
生態系破壊、気候変動を避けるための予防的な投資に変えてい
けば、ほとんどの問題は解決することができます。
 別の言葉で言えば、現在の労働人口と資本の2%を気候に優し
い生産とサービスに移行するということです」。
 「ローマ・クラブ」は、スイスに本部を置く、世界的な民間
シンクタンク。
 最後に、ヨルゲン・ランダース教授の言葉:「どうか、私の
予測が当たらないよう、力を貸してほしい。力を合わせれば、
はるかに素晴らしい世界を築くことができるはずだ」。

2013年7月7日日曜日

キリスト教の本(もと)について・・・。

 題:キリスト教の本(もと)について・・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書の原本は、『無い』という状態です。
 腐食しやすいパピルスであったので腐ってしまい、無いとい
う状態になってしまったのです。
 あるのは写本ばかりです。
 それも、キリスト教が当分ほったらかし状態であったので、
紀元400年~500年の物です。
 その間は空白なのです。
 この長い空白期間は、捨て去っていたと言える期間です。
 連綿と続いて来たという訳ではありません。
 途切れています。
 この放置状態だった期間に、本(もと)が無くなってしまっ
たのです。
 だから、では、その写本が信頼が置けるかというとそうでは
ないのです。
 まったく、写本の統一性は無いのです。
 どれが本物か?、どの部分が本物か?なのです。
 同一の文の写本ではないのです。
 現代までの、今まで、『どの言葉が真の言葉なのだろうかと
いう』、悩み、さ迷う、歴史だったと言えます。
 例えば、ほんのわずかなことでもまったく違う意味となりま
す。
 この問題もあります。ピリオドの位置とか・・・。
 その位置が分からないと真意が不明となってしまう問題とか
・・・。
 この類いの不明が『非常に多い』状態なのです。
 聖書の翻訳には「釈義」という『類推』・『謎解き』的行為
を要する状況です。クイズ的状況です。
 『えいっ、やっ』と解釈するという、翻訳者の『意思』が入
って来てしまいます。
 結局、翻訳者の宗教観からの解釈が入ってしまう宗教なので
す。『神』ではないのです。
 本物へ、神へ、辿(たど)れない宗教の状態なのです。
 結局、写本の領域でふらふらしている宗教と言えます。
 宗教の根本(聖書)がこの状態で、実体がない状態です。
 世界宗教になり得ない宗教です。
 (参考)しゃく‐ぎ【釈義】 文章・語句や教えなどの意義を
解釈し、説明すること。また、その内容。
 (参考)実体:本質、本体

2013年7月5日金曜日

矛盾の数々が、キリスト教に・・・。

 題: 矛盾の数々が、キリスト教に・・。
   どうしようもない『矛盾』が存在するキリスト教
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、「数々の矛盾の中にある宗教」と言える。
 それは、その成り立ちからその宿命を背負っている。
 キリスト教の発生地は、その環境の厳しさから、飢餓に晒(
さら)される地だった。
 そのため、民族が生存するための「マニュアル・忘備録」的
なものの必要性が存在した。
 その時々の、民族生存のための、時に応じての記述があった。
 その「マニュアル・忘備録」的なものが宗教性を帯びたので
ある。
 それ故に、当然、その書=聖書記述者が、大勢、存在すると
いう事になった。
 その経緯の中の記述者の多くの頭は、当然、様々な事を考え、
そして、記すために、『統一的見解』がある訳ではなく、
 また当然、矛盾の『論理』、『矛盾点』も多く生起した。
 民族の生存のための忘備録的な立場に留まっていれば、それ
はそれで機能した。
 しかし、そこに神が介在し、神と絡んで信仰の対象となって
行った時、宗教という名に変わった時、
 その数々の、幾通りに存在する論点は、『矛盾』としての問
題面をあらわにした。
 それは宗教としての存在の根幹を揺るがし、死命を制した。
 それ故、キリスト教の歴史は、それらの矛盾点を、何とか「
この様に考えて」とかと・・『つじつまを合わせ』という歴史
が展開し、連綿と続いて来た。
 宗教という形になって、当然、発生した信徒は、その矛盾に
よる、心の中の葛藤(かっとう)を、常に、受け、そして、処
理していなければならないという状況に置かれた。
 処理ができないことで、自分の立ち位置が、すぐに霞(かす)
んでしまうという宗教の形となった。
 その様なところを何も考えず、「ぼけーっ」としていれば別
だが・・・。
 矛盾処理が、心ででき得ない信徒には、心を悲しい状況にす
るという状況が生まれた。
 その様な、信徒を悩ますキリスト教の宗教論理の多くある矛
盾の1つが「律法」である。
 キリスト教の宗教企画をしたパウロ、キリスト教の骨格を作
ったパウロは、『律法を捨てた』。
 パウロは「律法不要論者」である。パウロは、律法は不要だ、
無用だ・・害があるのだの論理だ。
 パウロが、この論理に至ったのは、大きな宗教的思考から至
ったのではなく、大いに当時の社会情勢に左右され、律法無用
の立場に立っただけであった。
 故に、基本的にパウロが作った骨格の上にある現在のキリス
ト教は、このパウロの観念・論理の上に宗教教義を置いている。
 「パウロ・キリスト教」と言っていい立場である。
 故に、「律法は無用」としている。
 それに対し、イエスは、パウロの様な「律法完全否定ではな
い」。
 律法の『必要性を主張している』。
 ただ、無条件ではない。
 「正すべき面がある」の立場である。
 キリスト教学者が、「律法とは法律と同義である」と言って
いるが、
 現代社会では、『法律』は社会が成立する上で大切なもの・
根幹として存在している。
 そして、新しい法律ができたり、法律を修正したり(イエス
の言う正す行為)が行なわれている。
 故に、「パウロの論理」と「イエスの論理」は、
 現代社会の状況や、現代社会が採用している面からみれば、
パウロは間違っていて、イエスが正しいと言える。
 その間違ったパウロ論理の大根幹の上に、現在のキリスト教
は存在している。
 イエスの言葉に「私が来たのは正すために来たのだ」がある
が、
 また、イエスに「律法の解釈の仕方」を、この様に解釈しな
さいと主張している面もあり、「律法重視」の立場である。
 しかし、こと半(なか)ばで刑死したため、今、キリスト教
は、この面でも、イエスの不本意な状態の中で存在している。
 キリスト教の解説においても、
 一般論的な論点として、『律法を厳しく守ることが神の祝福
を受けるための条件』・・という考えが、明記されている。
 パウロは、当時の、「細かい律法はうんざりだ」的な、宗教
規定の忌避の当時の世の風潮に同調しただけなのだ。
 そこで、短絡的に「律法全面否定」で、すべての律法を捨て
たのである。
 「律法の律法主義的な理念的理解は正しくない」・・と、分
かった様な分からないことを言って、パウロ路線がさも正しい
様にキリスト教は言うが、
 そして、イエス路線は否定されているが、
 そしてまた、律法で馬鹿馬鹿しい律法も多く存在するが、
 その事例だけで、すべてを捨てる行為は正しくない。
 「他人の女性が台所に入ったら、その台所の鍋の料理は捨て
ろ」とか、「歯向かうかう息子は殺しても良い」とか、馬鹿馬
鹿しい律法も多いが・・。
 しかし、路線としては、イエスの路線の、「律法を正しなが
ら、律法の中の生活が大切」というイエスの考えは正解である。
 そして、この様な間違いをしている現在のパウロ路線のキリ
スト教は、教義の中でも、このたぐいの矛盾を平気でしている。
 それは、キリスト教は言う「キリスト教というものの中で、
祝福された状態の中に生き続ける。その為に、神は、民と契約
し、その生き方の指針として指針(取り決め・律法)を与えて
くれた」というのである。
 この神の指針こそ「律法なのである」。
 つまり、「律法否定」は、「神との契約において存在した契
約の、約束事の否定になる」。
 つまり、その契約の約束事が律法と言えるからだ。
 そして、キリスト教は言う
 「無条件で与えられた祝福のうちに、民が感謝を持って留(
とど)まるようにと発した指針なのです」と。
 つまり、パウロ路線の「律法否定論」は、キリスト教の大根
幹の「神との契約」の否定につながっていく。
 今、キリスト教は、「パウロ路線」で、「律法否定論」・「
律法無用論」であり、
 キリスト教の大根幹教義の「神との契約」との「大バッティ
ング」の中に、キリスト教は存在している。
 (「詩篇」19・8~11)では、
 「主の律法は、完全で、魂を生き返らせ、
  主の定めは真実で、無知な人に智慧を与える。・・」・・
とある。
 この矛盾する2論。
 正解は、法律=律法の必要論であるが、
 少なくとも、そのニ論のどちらかが間違っていると言え、い
ずれにしてもキリスト教の間違いの存在は確かなのである。
 キリスト教は、この問題・矛盾をどうしようもなく、ふらふ
らと、「ああ」と言えば「こう」と言い、「こう」と言えば「
ああ」と言うことで放置している。
 この様な宗教が、キリスト教なのであるが、可哀想な人々の
心を惑(まど)わせ、また、戦争などの悪さばかりをしている
キリスト教が存在している。
(参考)死命(しめい)を制・する 相手の運命を左右するような
急所を押さえる。
(参考)こっかく【骨格】 [共通する意味] ★物事を形作る基本
的な構造。[英] a framework[使い方]〔骨格〕▽計画の骨格がで
きあがる〔骨組み〕
(参考)どう‐ぎ【同義】意味が同じであること。同じ意義。
(参考)き‐ひ【忌避】 [名](スル) 1 きらって避けること。
「徴兵を―する」 2 訴訟事件に関して、裁判官や裁判所書記官
に不公正なことをされるおそれのある場合に、当事者の申し立
てにより、その者を事件の職務執行から排...
(参考)は‐むか・う【歯向(か)う/刃向(か)う】 [動ワ
五(ハ四)] 1 歯をむき出して向かっていく。また、刃物を持
って向かっていく。「野犬が―・ってくる」 2 反抗する。抵
抗する。「権力に真っ向から―・う」
        (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp

2013年7月2日火曜日

大学教授の言葉と、神のとりなし。

 題:大学教授の言葉と、神のとりなし。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
(副題ー1):大いなる無理を強いる宗教=キリスト教
 法政大学教授・高尾利数氏の言葉:
 「近代以降の歴史的・批判的研究を、きちんと踏まえたなら
ば、
 伝統的・正統的なキリスト教という宗教を、
 イエスが、作ろうとしたとは考えられないし、
 そもそも、イエスの十字架上の血が、
 あらゆる時代の、あらゆる人々の、罪を贖(あがな)うため
のものであったとか、
 そのイエスが、3日目に死人のうちから復活したという様な
ことが、歴史的事実として生起したなどということを、
 認める事は出来ない。
 そういうことを、「実体的・史実的事実だ」などと言うのは、
 端的に「迷信に過ぎない」と言えよう。
 近代プロテスタンティズムに発する長い探求を、
 まともに受け止めれば、
 そういう事は、当然の事である。
 そう言う認識は、あまりにも『当り前』の話であって、
 史実的事実としては、そういう事などあり得ないという事を、
 牧師であろうと、正直かつ明確に、承認すべきであると思う。
 それは、あまりにも「大いなる無理」なのであり、
 その事を、素直に認めることは、自らの精神衛生のためにも
健全なことで、
 まさに、つまらないこだわりから解放されるようになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 (副題ー2):何が「神のとりなし」だ。
.
 彼・Aは、正直ものだった。
 何も不法を働かず、正直な生活をし、公正な民だった彼・A
を、
 キリスト教の神は、他の民・B(彼・A以外の民、この民もま
た、公正なる民たちだった)が、
 この他の民・Bたちが、背(そむ)いたからと、
 その善良なる彼・Aの一人をターゲットに、
 キリスト教の神は、手を掛け、イジメ抜き、殺す。
 これでは、学校で起きている『虐(いじ)め・イジメ』では
ないか。
 何の罪もない、善良な人、一人だけをターゲットにイジメ抜
く、そして、最後には命を奪う。
 この様な、『話の設定』が陰湿だ。
 キリスト教は、この様な話に満ち満ちている。
 本当に、必死にキリスト教の聖書を読むと、洗脳され、意地
悪な・陰湿な性格になってしまう。
 それにしても、この様な、キリスト教の神の、なんと、卑劣
なことか。
 また、この様な宗教設定の、何と貧困な想定だろうか?
 この『陰湿ないじめの設定』に憤(いきどおり)りが涌(わ)
く。
 殺された彼・Aは、「その口に偽(いつわ)りがなかった」
という。
 また、彼・Aは、「毛を切る者の前に、ものを言わない羊の
様に、彼は口を開けなかった」というではないか。
 この様な彼を捉え、そして、殺すとは? 卑劣な宗教設定だ。
 この様な話に、毎日、接していると、洗脳され、この不合理
に、まったく気付かない・鈍感な人間となり、
 逆に、ありがたさを感じる様な、曲がった・ひねくれた倫理
観となる。
 そして、『その神の義がある』からと、コントロールが利か
なくなった心で判断し、戦争をし、平気で人を殺す様な人とな
る。
 何が「神のとりなし」なのだ。この様な嘘で人々を錯覚させ
る。
 ただの、キリスト教の神を語った「戦争指令」「殺人指令」
なだけではないか。
 まやかし・いんちきの戦争指令で、こうやって洗脳して、人
を殺しに行くだけではないか。
 キリスト教に何と戦争の歴史が多いことか。
 教義を変えよ!
 現代社会でも、このトリックに引っ掛かった指導者がいた。
 そして、戦争をした。
 (参考)とり‐なし【取(り)成し/執(り)成し】 1 対立
する二者の間に入って、うまく折り合いをつけること。仲裁。
また、仲介。
 (参考)まやかし ごまかすこと。また、そのもの。いかさま。
いんちき。

今、キリスト教は『パウロ・キリスト教』を信仰している。

  題:今、キリスト教徒は『パウロ・キリスト教』を信仰している
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 古代社会に於いては、
 ユダヤ教徒だけではなく、
 多くの民族が、
 動物を犠牲として神々に捧げ、
 その血によって「罪が贖(あがな)われる」という観念が、
 広まっていた。
 古代人の誰の頭にも、その観念は頭の中にあった。
 キリスト教には、
 この古代人の巷(ちまた)の観念「動物の血を人の代わりの
血として、神々に捧(ささ)げれば、神々の怒りは治(おさ)
まり、人々への災いが降りかかる、災難から逃れられるという
観念・信仰」があった。
 キリスト教は、この古代人の持っていた観念を、
 化石の様に持ち続け、
 「現代社会ででも持っているという宗教」だ。
 そしてまた酷(ひど)いことに、
 キリスト教は、
 この古代人の迷信の「動物の血で厄災(やくさい)を免
 (まぬ)がれる事が出来る」とした事を、
 「イエスの血でもって厄災から逃れる」とした。
 あたかも、イエスは、
 「動物の代わりに使われてしまった」如(ごと)くのにした
宗教となった。
 パウロが、酷(ひど)い男なのだ。
 この様に企画し、設定したのは、パウロだった。
 だから、パウロは、「イエスの言葉や行動は必要ないのだ」
と言う。
 マルコは、怒ったのである。
 マルコは、「イエスの言葉や行動に立ち返らなければならな
いのだ」と言った。
 そして、「マルコによる福音書」を書いた。
 路線争いである。
 最初の福音書記述者・マルコは、マタイの次にされてしまっ
た。(キリスト教聖書を見て下さい。キリスト教聖書は「恥
(はじ)さらしな、恥(は)ずかしい事をしております)。
 パウロは、イエスを、『血の生け贄(いけにえ)の宗教設定』
に使ってしまえば、『イエスの言葉や行動は不用』。『必要無
いのだ』という考え。
 「コリントの信徒への手紙1」にも書いている、パウロは、
イエスの言葉や行動は不要だと。
 しかし、今、キリスト教徒たちは、このパウロによる、パウ
ロが宗教企画したキリスト教を信仰している。
 『パウロ・キリスト教』を信仰している。
 (参考)やく‐さい【厄災】 わざわい。災難。災厄。

2013年7月1日月曜日

キリスト教は、変遷に変遷をして行く宗教。

 題:キリスト教は、変遷に変遷をして行く宗教。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、変遷に変遷を重ねて行く宗教です。
 そうせざるを得ない宿命を持っています。
 その様な質なのです。
 イスラエルの人々は、昔から「ヤハウェの神」を信仰していた
のではありません。
 「ヤハウェ・ヤハウェ」と言うわりに、色々な神々が『信仰の
変遷』の中に居ました。今は、三位一体神。
 イスラエルの民も、結構、ふらふらと色々な信仰をしていたの
です。当然、今とは違う神々を信仰していました。
 「考える葦」。やはり人間のすることと言ってしまえば言えま
すが、イスラエルの民は、信仰の変遷の中にあった民族です。
 そこには、当然、「信仰の絶対性」は無いとしか言えません。
 しかし、その時どき、その時どきで、信仰の絶対性を信じ、他
の人々(異教徒)を、『その教義から殺戮する』という歴史の繰
り返しがキリスト教には数多くあります。
 たまたま、今の信仰になったのです。
 また、今までの経過から、この後どうなるか?とも、言えてし
まいます。
 キリスト教に、たまたま、なったのです。
 ユダヤ教を信じてた、そして、キリスト教に変遷し流れて来た。
 ユダヤ教に破門されたある派は、原始キリスト教にならざるを
得なかったのです。
 自ら望んでなったのではなかったのです。
 ユダヤ教のままでいたかったのです。
 信仰の絶対性はこの時点でも『なかった』のです。
 あらゆる場面で、時とともに、その事情で、都合で、流れて来
たのです。
 また1例を言いますと、彼等が遠く「ウル」に住んでいた時も、
 チグリス・ユーフラテスの豊かな地に居た時も、彼等は、やは
り、「その地の神」を敬(うやま)い、信じ、生活とともに、そ
この信仰がありました。
 そして、カナンの地を目指した時、苦難の後にカナンの地に来
て、彼らには以前の神は捨てていて、以前の神は、すでに無くな
っていました。
 カナンの地にては、彼等は「カナンの地にあった神」を敬いま
した。
 そして、そこの新しい神を信仰して、生活しました。
 カナンの地の神は多神教でした。彼らは、神の数は何ら、何も
関係なく、多神教を信仰しました。。
 今、キリスト教は「一神教、一神教」と言いますが、一神教で
はありませんでした。今は、無理に3つを1つにしていますが・・
・。でも、実質、多神教ですが・・・。
 そして、その時、カナンのその神々の1つの神が、存在した考
え・天地創造の至高の神でした。
 この民族の信仰は、まったくこれと言った絶対性はないもの、
 流れと変遷の中で信仰を持ち、そして神を作り、信仰をつくっ
て来ました。
 そしてまた、バビロンの地にても、バビロンの宗教を受けとり
ました。行く先々で・・・。
 そしてまたまた、彼等・イスラエルの民は、「アブラハムの神」
「イサクの神」「ヤコブの神」と個人個人に神が分かれるという
状態にもなりました。
 イスラエルの宗教とはこの様なもの、どんどん変わるものなの
です。
 キリスト教も変わりました。イエスの信じた神と違う神を信仰
しています。
 この様な宗教の状態であるにもかかわらず、「絶対性」を主張
し、
 それ故の「正統性』を主張し、
 「人の命を奪う正義まである」と主張し、
 多くの人々を「正義を振りかざして」殺戮してきたキリスト教
の歴史。その教義を大変革して行かなくてはいけません。
 その教義が存在するため、知らず知らず洗脳され、人類の不幸
が発生しています。不幸にも近年にもその事例がありました。

2013年6月28日金曜日

「隠れキリシタン」と言われる人たちがいた・・

題: 「隠れキリシタン」と言われる人たちがいた・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 「隠れキリシタン」と言われる人たちがいました(過去形)。
 今はいません。
 その、過去に居た「隠れキリシタン」は、江戸時代に、禁止
されればされるほど、独特の宗教の形に変えてまでして宗教を
持ち続けました。
 しかし、その変え方が、本質を損なうものでした。そして、
変えた先が本物と化しました。
 元のキリスト教がだんだん霞(かすみ)とともに、それこそ
「隠れてしまったキリスト教」となって行きました。
 悲しいかな、孤立した状態の中では、宗教は本質を維持でき
ず、変質に変質を重ねて行った。
 長い年月、あらぬ方向へたどり着いた。聖書は、キリスト教
の宗教から離れてしまっていた。
 もうキリスト教と呼べない宗教の形へと変化して行った。
 聖書というものには、新旧の聖書に記紀神話や仏教説話・民
話の考え方などが入ってもいた。
 混合型佛教キリスト教である。キリスト教とは違う独特の宗
教が形成された。
 例えば、キリスト教の宗教教義の中で大切な根本教義である
『贖罪』の教義はまったく無くなっていた。
 根本教義が跡形もない状態なら宗教を形成していないし、信
仰は成立していない、もはやキリスト教とは呼べない。
 イエスの受難は、イエスが今生で犯した罪によって磔刑にあ
ったというものだった。ゴルゴダの丘の隣に居た強盗と同じ種
類と見なされた。
 宗教としてキリスト教と離れて維持されていたこのキリシタ
ンの宗教(名ばかりのキリシタンも、もはやキリシタンなどと
言えない)も、「非キリスト教の隠れキリシタン(元キリシタ
ン・かつてキリシタン)」ではあったが、禁止されれば、心理
学的にも説明できる事であるが、その心理作用によって宗教は
形として守られた。
 しかし、信教の自由が認められる状況となった明治の時代に
なると、そのキリシタンの宗教は消えて行った。名実ともに消え
去った。
 これも心理学的に説明できる事柄である。
(追記):
 「隠れキリシタン」の方達は、以下の経緯の中で、やむを得
ず誕生した。
 日本に来たキリスト教宣教師の方たちは、
 日本は最初は受け入れていた。
 信長・秀吉・家康は忌憚なく謁見したりした。
 活動も許し、教会も建てることなどを許可した。
 しかし、その後において、
 キリシタン大名へ「死の商人」的行為があったり、
 日本への攻撃の恐れがあり、秀吉はフィリピンへ使いを出し
 たり、また、違う事件で日本占領の意思を確認したり、
 日本人(女性)を奴隷として売買する行為があったり、
 だんだんとキリスト教に対する見方が変わっていった経緯が
 ある。

2013年6月27日木曜日

キリスト教・・ニ題。

 題: キリスト教・・ニ題。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスが神になる前・生前、彼は「天の父」を信奉していた。
 つまり、彼の信仰する宗教は、「天にまします『天の父』」
の一神教であった。
 生前、イエスは、ユダヤ教を信奉していた、「ユダヤ教だ」と
認識する下(もと)に居た。
 母・マリアも、供犠の鳩を持って、ユダヤ教のエルサレム神
殿のお参りをしている。
 イエスの家族すべてが、「信仰している宗教はユダヤ教だ」
と認識していたことが分かる。
 イエスの死後、彼らの拠点をユダヤ教のエルサレム神殿にし
てもいる。  
 そして、イエスの直弟子達も「我々はユダヤ教だ」と認識し
ていた。
 イエスの家族らと共に・一緒に、ユダヤ教のエルサレム神殿
を拠点にしていた。
 そして、明らかに、死にあたって、イエスは、当然、「自分
はユダヤ教徒だという認識のもとに、死途に就いた」。
 故に死の時、イエスは、ユダヤ教徒だと認識し、ユダヤ教徒
としての認識の下(もと)に死途(死にゆく道)に就(つ)い
た。
 そして、死後、数百年という長い年月が経過した後、「彼は、
キリスト教の神とされた」。
 キリスト教の公会議という「人の集まる会議」で、すったも
んだの挙句、何度かの会議の後に、やっとイエスは、キリスト
教の神とされた。この会議で、『異端だ』と決め付けられ、無
残にも放逐された者(派)もいた。
 この、人が集まり、人が決めたことは、
 「イエスを神とし、イエスが信奉していた神と違う神を神と
したこと」・・であった。
 こんな宗教に、キリスト教の年月の中で、何千万という方々
が「殺され、死途に就いた事を思うと、なんと愚かなことか」と
思う。
 死ななければならなかった方々の「無念さ」に心が痛む・・。
 愚かな教義ゆえに、
 「簡単に、自分たち以外の民を、殺戮する」。
 「その愚かな教義を削除せよ」。
 「心底からその認識から脱却せよ」。
 「毛ほどの気配も払拭せよ、払拭して行け」。
 そして次の話、
 法政大学教授・高尾利数氏の言葉:
 「キリスト教という宗教が、真の『内容的普遍性』を持つ宗
教だとは思えない。
 キリスト教は、典型的で強大な『信じ込みの宗教』である」。
 (以上の言葉から思うことは)・・・
 キリスト教は、自然・自然と、理が通っているから、頭の中
に整理されて、人生に役立つ素材が蓄積されて行くという宗教
・メカニズム・機構ではない・・と、氏は言われている。
 キリスト教という宗教は、
 『信じ込み』を必要する宗教だと言われている。
 その信じ込み作用も「強大」に、「強力」にしなければなら
ない宗教だと言われている。
 そこに、心のストレスが働くことは必然である。
 無理が心に掛かり、心の負担を強いている。
 キリスト教徒に「心に関する可哀想な方々」が出ているが、
この様な面に原因がある。
 また、教義の前提である「性悪説的に物事を考える」という
問題もある。
 科学的にも、性悪説的な思考・論理展開は、病気になるとい
うことが立証されている。