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2015年2月4日水曜日

(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年~紀元前500年)

 題:(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年~紀元前500年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前1200年、周(西周)が興る(中国)。
紀元前1200年、エーゲ文明:この頃、ミケーネ文明も新し
 く南下したギリシャ人に滅ぼされた。
  エーゲ文明とはこれら青銅文明の総称である。
紀元前1200年頃、トロイ戦争が起きる。
紀元前1200年、ギリシャにポリスが起こる。
紀元前1100年、この頃から、キリスト教の旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。~紀元前100
 年頃まで。
紀元前1200年、この頃、モーゼが、ユダヤ人を脱出させた
 とキリスト教は言うが、
  歴史研究者は、モーゼの実在を否定している。
  まったくの架空の人物なのである。
  まったくのキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)であ
 る。作られた歴史話しである。
  ユダヤ人は、飢餓と背中合わせの地の砂漠の地・パレ
 スチナに住んでいたが、飢餓になると豊かな実りの地、
 ナイル川の恵みの地・エジプトに流入していた。
  このユダヤ人が居住していたあたりは、民族が流動的
 に移動する地域でもあった。
  そもそも、先祖が、メソポタミアのチグリス・ユーフ
 ラテスの川のほとりのウルという町から、流浪の旅に出
 たのであるから。
  エジプトへのユダヤ人の流入とともに、出る事も自由
 の地(出入り自由の地)であった。
  物流も自由、出入りする商人も自由の地であった。
紀元前11世紀頃、中国の殷王朝が西方の周に滅ぼされた。
紀元前1000年、この頃、インドにカースト制度が興る。
紀元前1000年頃、古代ユダヤ:ダビデ王の時にヘブライ王
 国が膨張し、最も発展した。
  ダビデ王、及び、その息子ともに、女性関係にだらし
 なく、王朝は乱れ、民は泣いた。
  ダビデが生ませた子供と、子供同士の戦いも起き、息
 子の代に、この王朝は滅んだ。
  ダビデは、キリスト教聖書の救世主の系図に居る王様。
  イエスも、この系図に居るという(だから、イエスは
 救世主だとキリスト教は主張している)、
  そして、血がつながっているとされている(だが、イ
 エスと血がつながっていないイエスの父・ヨセフが、こ
 の系図に居るとキリスト教は説いている。まったく変だ)。
紀元前1000年、メソポタミア文明:この頃以降に栄えたア
 ッシリア帝国が紀元前7世紀末に滅亡して、メソポタミア
 文明は一段落する。
紀元前960年、この頃、ヘブライ王ソロモン。
紀元前932年、古代ユダヤ:この頃、ソロモンの死後、国
 力が衰え、北方のイスラエルと南方のユダに分裂した。
紀元前10世紀、キリスト教旧約聖書:神の選民(選民)と
 した。イスラエル民族(ヘブライ人)の宗教書。予言・
 律法が記されている。
紀元前880年、この頃、フェニキア人がギリシャ文字を伝
 える。
紀元前800年、日本で、稲作が始まった。
  稲作の初期の遺跡と目される佐賀県菜畑遺跡について、
 土中の花粉を電子顕微鏡などで調べた結果、2800年前の
 稲の花粉が検出された。
  一緒に、アワや小豆、ひょうたん、メロン、ゴボウ、
 シソなど、そして、畑作の稲も出て来た。
  その後の時代の地層から、稲のほかにタガラシやミゾ
 ハコベなど、水田の雑草の種が見つかった。
  つまり、稲は最初、「おかぼ」として畑の作物と一緒
 に栽培されていた。
紀元前800年、東日本中心の縄文文化と反対に、この頃か
 ら、弥生時代の遺跡が、九州や瀬戸内、太平洋に多くな
 る。
  稲は最初、「陸稲(おかぼ)」として畑の作物と一緒
 に栽培されていたが、次第に、低湿地に水田が切り開か
 れて行ったというストーリーが読み取れる。
  縄文人が、寒さでバタバタ倒れていた頃、人口の空白
 地帯だった西日本に、畑作や稲作の先端技術を持った人
 たちが入植し、やがて、弥生文化が全国に伝播した。
  日本列島の森林破壊は、焼畑が導入された縄文の終わ
 り頃から始まった。
  縄文時代の終わりに人口は、総計7万人~8万人にも激
 減した。
  その後、持ち直したが、弥生時代になると、東日本29
 万人に対し、西日本30万人となる。
  縄文人にとって、どうしようもなかった低湿地を、弥
 生人は開墾した。
  この新しい渡来人は、新しい伝染病を持ち込んだ可能
 性が強い。
  「発掘された人骨の中で、結核の跡が残っている最古
 のケースは、古墳時代である。
  結核菌が、日本列島に侵入したのは、この頃らしい。
  これまで結核の経験のなかった集団に、結核菌が侵入
 すれば、抵抗力が無いので、ぱっと広まる。
  渡来人は、百万人の規模が、大陸からやって来たと考
 えられる。
紀元前9世紀、バビロニア:この頃に、アッシリアに滅ぼ
 された。
紀元前800年、この頃、ギリシャ人が地中海へ進出した。
紀元前9世紀頃、騎馬民族:騎馬戦術は、この頃に、ウクラ
 イナで始まった。
  最初の強い騎馬民族は、紀元前7世紀ごろ、ウクライナ
 で栄えたスキタイであった。
  騎馬戦術は、その後、東方へ伝わる。
紀元前776年、第一回オリンピア競技会が開かれた。
紀元前771年~紀元前221年、中国の春秋戦国期の時代。
  春秋戦国時代:中国では宗族(血縁集団)中心の封建
 制をとった周の支配が、次第に崩れ、異民族の侵入、諸
 侯が乱立状態に入った。
  春秋時代には、強力な覇者が、5人出たと言われ、春秋
 の5覇者と呼ばれている。
紀元前753年、ローマの建国(伝説)。
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。
  数万のイスラエル人が捕えられて、メソポタミアとメ
 ディアに連れ去られた。
紀元前720年、この頃、アッシリアがオリエントを統一した。
紀元前8世紀、アフリカに、紀元前8世紀以降、西部アフリ
 カのガーナ、マリ、ソンガイに大国があった。
紀元前700年頃、粘土板に描かれたバビロニアの世界図が作
 られた。
  これは、現存する最古の世界地図である。
  範囲は、バビロンを中心とするメソポタミア地方だけ
 のものだった。
  バビロンを中心とした世界は、大洋で取り巻かれ、そ
 の外側にも陸地がある。
  また、天は巨大なドーム状で柱によって支えられてい
 た。
紀元前8世紀、ベーダ:紀元前8世紀を中心として成立する
 ブラーフマナは祭式万能の時代を、それに続くウパニシ
 ャッドは新思想を開花させ、ともにその後のインド世界
 に大きな影響を及ぼした。
紀元前8世紀、ギリシャ古典文化:紀元前8世紀~紀元前4世
 紀のギリシャ文化。
   奴隷制社会に成立し、また、異邦人をバルバロイと
 して蔑視する独善性もあったが、人間存在を全面的に肯
 定する世界観。
  また、自然や人間についての囚われない観察と合理的
 思考に基づく文化は、人類史への重要な貢献となった。
  先行の諸文明に新たな体系化・理論化を加えた点に創
 造性が認められる。
紀元前8世紀、ポリス:古代ギリシャの都市国家。
  紀元前8世紀頃から、有産者の集住により成立した。
  軍事拠点・聖域であるアクロポリス、公共の広場アゴ
 ラ、周辺の農業生産地帯からなる。
  人口は、特に大きなアテネで20万人~30万人、一般に
 は数千人~数万人である。
  ポリスは、同一信仰、同族意識で結束し、自由・自治・
 自給自足を理想とする共同体であった。
紀元前7世紀、古代ペルシャ帝国:イランでは、紀元前7世
 紀からメディア王国が栄えた。
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。
  第1回バビロン捕囚である。
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。
  第2回バビロン捕囚である。
  この時、ソロモンの財宝のすべてが奪われた。
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。
紀元前572年頃、ピタゴラスが生まれた(紀元前572年頃~
 紀元前492年頃)
紀元前560年頃~紀元前478年、釈迦(仏教)。
紀元前551年、孔子(儒教)が生まれた(紀元前551年頃~
 紀元前479年)
紀元前550年、古代ペルシャ帝国:紀元前550年にアケメネ
 スの孫がメディアを滅ぼした。
  次のダリウス1世の頃、最盛期に入り、領土は、東は
 インダス川、西はエーゲ海沿岸とエジプトに及び、メソ
 ポタミアとエジプトの文明を吸収し、壮大な独特の文明
 を形成した。
  首都は、ペルセポリスで、「すべての道はペルセポリ
 スに通じる」と言われたが、アレクサンドロス大王に滅
 ぼされた。
  ササン朝は、ローマ帝国・東ローマ帝国と争ったが、
 また、その文化を東方に伝えた。
紀元前540年頃、ギリシャ最初の世界地図アナクシマンド
 ロスの世界図が作られた。
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。
紀元前525年、ペルシャがオリエントを統一した。
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム神
 殿の第2神殿を建てた。
紀元前509年、ローマ共和政治が始まった。
紀元前500年~紀元前200年(紀元前6世紀~3世紀)、黒
 海付近の草原にいたスキタイ人が、野馬を飼い馴らし、
  これに乗って走りまわる方法を発明した。
  その騎乗の習慣が中央アジアの遊牧民に広がった。
  武器を持てば、非常に強力な戦力となった。
紀元前500年、2500年前の縄文時代晩期は、ちょうど太陽
 の活動が弱まった頃で、日本列島はぐっと冷え込んで雨
 が多くなっていた。
  この気候変動が、縄文文化を崩壊させたと考えられる。
  天文学の研究でも、縄文晩期に太陽の黒点が減って、
 地球は寒冷期に向かったと言われている。
  冷害で、主食のドングリなど木の実の不作が続いた。
  さらに、寒冷化で、海水が氷に閉じ込めれれて海が後
 退し、雪や雨が多くなると、川から流れ出た土砂が海岸
 を埋めて、ハマグリなどの貝も採れなくなってしまった
 のである。
  この時期、縄文人の中で何とか食って行けたのは、サ
 ケ・マスの豊富な東北地方の一部だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

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