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2015年2月6日金曜日

(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年~300年)

 題:(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年~300年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元0年、世界人口が2億5000万人になった。
紀元7年、イエスが11歳と言われているこの時、イスラエル
 の民が、ローマによって滅ぼされる。流浪の民となる。
紀元28年、後漢の明帝が生まれた(28年~75年)。
  この頃、中国に仏教が伝わった。
  明帝は、インドから来た僧のために洛陽の西郊に白馬
 寺を建てた。
  これが中国仏教の始まりとされる。
30年頃、イエス、処刑される。
37年、高句麗の王が、使いを後漢朝に送る。前年に、高句
 麗が、東沃を伐つ。
45年、インドにクシャナ朝が興った。
50年頃~100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書(新
 約聖書と言われている)が書かれた。
1世紀頃、ヒッパロス(エジプト)がインド洋において、季
 節風を組織的に利用した。
54年、ネロがローマ皇帝となった。
57年、倭の奴国(なこく)の国王が後漢王朝に使いを送り、
 光武帝より金印を受けた(漢委奴国王印)。
64年、皇帝ネロがキリスト教徒を迫害した。
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。
  ペテロはイエスの第一の弟子、ネロの迫害による。
  このペトロの墓の上に、サン・ピエトロ寺院が建てら
 れた。
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。
67年、仏教が中国に伝わった(一説では紀元前2年)
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃
 え続けた。
  その日が放火ではないかという噂が市民の中に広がっ
 た。ネロ帝はキリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。
  神殿は焼け落ちた。
  城壁を徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくな
 るほど市街を壊した。
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。
  ユダヤ国家は滅んだ。
  ユダヤ民族は離散の憂き目にあった。以後、1948年の
 ユダヤ国家建設されるまで1875年の月日が流れた。
79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が爆発し、翌25日にポン
 ペイが埋没した。
100年、インドネシア:1~2世紀に青銅器文明が栄えた。
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物語
 が生まれ、殉教文学として流布された。
100年代~200年代(2~3世紀)、日本列島を含めた東
 アジア一帯に民族大移動が起きた。
  それは、気候の寒冷化が関係していた。
  この頃、中国では、寒さから飢饉や疫病が流行し、紀
 元184年に「黄巾の乱」と言う農民の大反乱が起き、
  後漢が、220年に倒れ、三国時代に入った。
  朝鮮半島でも、韓民族の軍勢が、漢の出先機関を攻め
 ると言った戦乱が続く。
  邪馬台国の女王・卑弥呼が、中国の歴史書に登場する
 のは、ちょうど3世紀のこの時期。
  「魏志倭人伝」によると、日本では小国が乱立して
 「倭国の大乱」が起こり、邪馬台国が30余りの国を統合
 したことになっている。
  邪馬台国の位置について次の説がある。
  「全国的に飢饉が見舞った江戸時代の小氷河期に、近
 畿地方も大きな打撃を受けたが、九州だけは影響が少な
 かった。
  そこから類推して、3世紀の同じ様な小氷河期にも、
 30もの国をまとめて、経済活動が活発に行える大国が、
 寒さのきつい近畿地方の存在できたとは思えない。
  邪馬台国は、九州にあったと考えられる。
103年、セルジューク朝トルコ:103年~1157年。
  西アジアで、イスラム化したセルジューク・トルコ族
 は、トグリル・ベグの時、1055年、バクダッドを占領し、
 シーア派のブワイフ朝を倒し、スンニ派カリフの保護者
 としてスルタンの称号を与えられた。
  ここに、トルコ人が、イスラム世界の担い手として登
 場した。
  アルブ・アルスランの時、東ローマ帝国と戦い、皇帝
 を捕虜にし、次いで、エルサレムを支配したので、これ
 が十字軍の一因となった。
  この業績は、宰相ニザーム・アル・ムルクに帰せられ
 るが、彼は、また、各地にニザーミア学院を設立し、こ
 の学校(マドラッサ)が、イラン・イスラム学芸の隆盛
 をもたらした。
  イスラム哲学の大成功者ガッザーリ(ヨーロッパ名は
 アルガゼル)が迎えられて、バクダッドの学院で教え、
 また、オマル・ハイヤー村の逸材を育んだ。
105年、紙が中国で発明された。
107年、倭の王・師升の後漢との外交。
166年、ローマ皇帝(マルクス=アウレリウス)の使いが
 中国に至った。
184年、中国に黄巾の乱が起きた。農民の大反乱。
  この頃、中国では寒さから飢饉や疫病が流行した。
188年、後漢の桓帝・霊帝の間(147年~188年)、倭国が
 大いに乱れ、ついに卑弥呼を立てて王とする。
189年、この頃か?卑弥呼が邪馬台国の女王となったとの説。
190年、この頃の2世紀後半、「桓霊(かんれい)の間」と
 いう倭国に大乱が起こった。
3世紀頃、この頃の日本は、邪馬台国を中心とした30ほど
 の小国の連合体が生まれていた。
  支配者層:大人(たいしん)、被支配者層:下戸(げ
 こ)と呼ばれていた。
200年、シルクロード。
  中国の敦煌からタリム盆地地方を横切り、パミール高
 原を越えて、シリア・エジプトに達するこの道は、絹の
 道(シルクロード)と言われる。
  中国からは、主に、絹布(シルク)・青銅器・漆器な
 どを西方へ運び、
  ローマ方面からは、ガラス器などが中国へ運ばれた。
  3世紀から、5世紀には、イランの発達した工芸品が、
 この道を経由して中国に入り、
  さらに、8世紀には日本の正倉院まで至っている。
200年、マヤ文明:マヤ文明の栄えたユカタン半島とペテ
 ン低地は、熱帯性の気候でトウモロコシの焼畑農耕に依
 存していた。
  黒曜石を用いて石灰岩を切り出し、壮大なピラミッド
 などの建築物を構築し、古典期(3世紀~9世紀)には、
 ペテン地方を中心に多くの都市が興隆した。
  建築・碑石・翡翠細工・土器などに優れた芸術作品を
 残し、象形文字・暦法・天文学においても新大陸随一の
 発達を遂げた。
200年代初頭頃(3世紀初頭頃)、この頃、キリスト教の
 「使徒信条」の原形が、出来たと言われている。
  出来たこの時期が、まだ、キリスト教の神が「三位一
 体神」ではないので、「全能の父なる神」となっている。
  この全能の父なる神が、後に出来た三位一体神の位格
 の神という神の一部を形成する神になってしまう。
  キリスト教は多神教である。
  この「全能の父なる神」の一神教から変わる。
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あら
 ゆる階層にキリスト教は浸透して行く。
  宮廷から貧民窟まで、大都市から僻地へと広まり、帝
 国末期の殺伐な人心と荒廃した経済事情の中で拡大した。
  ヨーロッパの基本を決めているのは「キリスト教」と
 「古代ギリシャ精神」であると言い、
  そして、使用文字はアルファベットであると鼻高々と
 言うが、
  「キリスト教」も「アルファベット」も西アジアが生
 み出したものである。
  さらに、ヨーロッパ人は、古代ギリシャの子孫でも何
 でもない。
  ヨーロッパの基本要素に起源のあるものはほとんどな
 い。
  そうであるにもかかわらず、キリスト教の有色人種蔑
 視の教義に洗脳され、世界や異教徒を睥睨(へいげい)
 して来た。
208年、赤壁の戦いが起きた。
220年、中国の後漢が倒れ、三国時代(魏・蜀・呉)~280
 年。魏の都は洛陽。
226年、ササン朝ペルシャが興った。ササン朝ペルシャ(
 226年~651年)。ササン朝は、ローマ帝国・東ローマ
 帝国と争ったが、またその文化を東方に伝えた。
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。
  全長62mの古墳時代最初期と見られている墳墓である。
239年、邪馬台国の女王・卑弥呼が帯方郡(たいほうぐん)
 に難升米(なしめ)という遣いを送った。
  そして後、魏の都の洛陽に至る。
  魏志倭人伝には、卑弥呼は「鬼道(シャーマニズムの
 こと)に事え能く衆を惑わす」とある。
  帯方郡は今のソウル付近にあった。
  魏の明帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」
 の称号を与え、金印紫綬を授けた。
  また、銅鏡も授かった。
239年、この頃、古墳が造られ始めた。
  また、大和朝廷が日本を統一した。
243年、卑弥呼が中国の王に物を贈った。
245年、中国の斎王が倭国使に物を賜った。
247年、倭女王の卑弥呼が狗奴国王(くな)の卑弥弓呼と
 争った。
250年、邪馬台国の卑弥呼が死んだ? この頃より「古墳
 文化」が起こった。
250年~300年、キリスト教への迫害。
266年、倭女王の台与(とよ)(壱与?)が西晋(せいし
 ん)に遣いを送った。
266年、(別資料に)卑弥呼の宗女・壱与が、中国に使者
 を派遣した。
266年、(また、別資料に)倭国の女王、晋に朝貢する。
280年、晋が中国を統一した。
3世紀後半~4世紀初め、(読売新聞、2015・1・30)に、
  邪馬台国の有力候補地である奈良県桜井市の纏向(ま
 きむく)遺跡で、
  3世紀後半から4世紀初めの、占いに使われたとみられ
 るイノシシの骨「卜骨(ぼつこつ」が出土した。
  国家的な祭祀(さいし)になっていたと考えられてい
 る。
  骨は、イノシシの右肩甲骨(長さ16.7センチ、最大幅
 6.7センチ)で、深さ約1メートルから出土した。
  3世紀後半は、大和国の女王で祭祀をつかさどったと
 される卑弥呼の後継者・台与(とよ)時代。
300年代(4世紀)、キリスト教の「ニカイア信条」がで
 きた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

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