題:(増補版)131D1/3:気になった事柄を集めた年表(1681年~1683年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1682年、勘定吟味役を設置した。
勘定奉行に次ぐ地位の勘定所の役人で、
4人居て、2人は訴訟の裁判をつかさどり、
2人は代官所の租税以下、金銀出納などの徴税に関する
不正などを取り締まるために勘定吟味役が設置された。
この年に、初めて置かれた。
1682年頃、農業:東海地方の農業事情を記述した農書「百
姓伝記(ひゃくしょうでんき)」が書かれた。
著者不明とされているが、おそらく武士だろうとされ
ている。
老農からの農耕技術を聞き書きしたもので、内容は、
非常に優れていると言われている。
恐らくこの著者本人も農耕に従事したと思われている。
田畠地性論、肥料、万粮集(救荒作物)、坊(防)水
集、苗代百首、田耕作集、麦耕作集、水草集など、
1682年、高札を立て替えた(忠孝札)
諸国に、忠孝の奨励をすることの高札(忠孝札という
7ヶ条からなる高札)を立てた。
親子兄弟札、毒薬札、駄賃札、切支丹札、火付札から
なり、封建倫理の教諭やキリシタン禁制など幕府民政の
根幹を示した。
1682年、流通:伝法船(でんぽうぶね)
酒荷中心の伝法船が活躍した。
1682年3月、西山宗因(にしやまそういん、俳人、連歌師)
が没した(1605年~1682年)
1682年、人事:木下順庵(きのしたじゅんあん)が、幕府
の儒者(朱子学)となった。
門下に新井白石や室鳩巣(むろきゅうそう)らの多数
の門人がいる。
13歳の作である「太平頌(しょう)」は、後光明天皇
に献じられ、賞賛されたという、それほどの逸材。
弟子の個性に即してそれぞれの長所を伸ばそうと指導
し、つとめたという。
1682年、人事:吉川惟足(よしかわこれたり、神道家)
幕府が、吉川惟足を招聘し、幕府神道方となった。
朱子学との習合を推し進め、道徳的側面を持った。
また、神道を学問対象へと進めた。
1682年、文学:井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者)
が、「好色一代男」を刊行した。
武士や町人の生活の実態を客観的に描き、日本最初の
市民文学を確立した。
「好色一代男」は、西鶴の処女作で、浮世草子のさき
がけ、
一人の男が、好色で、自由気ままな人生を活写し、庶
民男性の一つの理想的な生き方を描いた。
人気を博した。
娯楽的な面もあり、それまでの作から抜きん出た。
源氏物語的に、一人の主人公・世之介の人生を7歳から
60歳までの54年間を描いている。
1682年3月、処罰:不正代官を処罰した。
1689年までに、25名の代官を処分した。
新たに置かれた勘定差添役(後の勘定吟味役)の監視
の結果だった(悪代官の一掃)。
1682年4月、世情:役料支給停止
番頭・諸役人の役料支給を停止(役料を廃止)して、
在職者の役料をそのまま当人の知行高に加えた。
1682年、フランスが、アメリカの領有権を主張する。
ラ・サールが、ミシシッピ川を下る(フランス領ルイ
ジアナの起源)。
この年に、この地域を探検し、フランスがアメリカの
領有権を主張した。
フランス植民地は広大な領域を持っていた(首都:ニ
ューオーリンズ、通貨:フランス・フラン、公用語:フ
ランス語、設立:1699年、解消:アメリカへ売って1803
年に終わった)。
インディアンの方々は、我が領土を取り戻したい、ま
た、わが民族の存立を続けたいと、この時、イギリスに
加わり、また、フランスに加わったりして戦った・・が、
結果的に、インディアンの方々の民族独立にはつなが
らなかった。
ただただ、利用された戦争に駆り出されただけだった。
1682年、中国の清が、アイグン(愛琿、現、愛輝、黒竜江
省)に将軍をおき、城を築いた。
この後、この地域でロシアと領土的なしのぎを削る。
1682年7月、ロシアでピョートル1世(大帝)が即位した
初代のロシア皇帝(1672年~1725年)、
制海権奪取や、ヨーロッパ列強に加わる戦争で、治世
の半ばを戦争に費やした皇帝。
戦争遂行を容易にするための行政改革をしたり、海軍
を創設したり、貴族の国家奉仕の義務を負わせたり、権
力集中に邁進した。
西欧化改革を強力に推進した。
国家の名称をロシア帝国に昇格させた。
辺境の国家からの脱皮に努めた結果だった。
1683年1月25日、天和の大火(てんなのたいか、八百屋お七
の火事)(1682年12月説あり)
江戸大火:駒込大円寺より出火だとされているが・?
下谷・浅草・本郷・神田・日本橋に延焼した。
また、俗に言われているお七と寺の小姓の恋仲の話で
お七の放火が大火の原因とされているが、原因ではない。
お七の放火の火事はすぐに消されていて、ボヤに終わ
っている。
しかし、放火の罪でお七は刑死する。
それが、この大火の原因説となってしまった。
つまり、お七がこの大火の放火をした訳ではない。
1683年2月、長崎貿易での外国品の輸入を制限した。
1683年5月、天和の禁令:婦人の服飾を禁止する(1月説あ
り)(美服禁止令=奢侈禁止令)
贅沢を禁止して、倹約を推奨する。
奢侈(しゃし、度が過ぎてぜいたくなこと)
1683年、経済:三井高利が、江戸に両替店を開設(創業)
した。
三井銀行の前身。三井財閥の中枢金融機関。
1683年7月22日、綱吉の子が亡くなる(1679年~1683年)。
綱吉の子の将軍職継承者の徳松が没した(4歳)。
墓所は東京都港区の増上寺。
「七五三」の祝は、1681年11月15日に、この徳松の健
康を願って行われた催しが、その始まりと言われている。
1683年、心中:呉服屋の御所(ごせ、奈良県西部の市)の
長右衛門と遊女・市ノ丞が、大阪生玉で心中をした(生
玉心中)。
すぐに歌舞伎劇に脚色されて上演された。これが心中
物の最初の作品となった。
1683年、社会資本整備:淀川
幕府は、淀川水系の治水を救治するため、河村瑞賢に
治河工事を命じた。
翌年より治水工事をして、1687年に竣工した。
1683年、令:末期養子の禁を緩和した。
幕府が、武家諸法度を改定し、末期養子の禁を緩和し
た(50歳以後の末期養子も認めた)
死にそうな大名(あるいは死んだ直後の大名)に後継
者が居ない時は、お家は取り潰されていたが、それを緩
和した。
1683年、文学:語孟字義(ごもうじぎ)
伊東仁斎(いとうじんさい、儒者)が「語孟字義」を
著した。
仁斎は、はじめ朱子学だったが、古義学に達した。
京都に古義堂をを開き、門弟が3000余人という。
語孟字義は「論語古義」「孟子古義」を集約したもの
で、徳・心・天道・天命・道・理・性・情・誠などの字
義の説明の30ヶ条からなる。
荻生徂徠や本居宣長に大きな影響を与えた。
1683年、社会資本整備:道路と橋を修理
全国の道路と橋を修理した。
1683年、清が、鄭氏を滅ぼし台湾を領有した。
1683年7月、オスマン・トルコ:第二次ウィーン包囲に失敗。
この年に行われたオスマン帝国による最後の大規模な
ヨーロッパ進撃作戦。
作戦失敗により、オスマン軍の包囲戦は長期化し、最
後は、包囲網を打ち破られた。
オスマン・トルコ軍(15万)に対し、
同盟軍(8万)(オーストリア、ポーランド、ベネチア、
ロシア)、(~1683年9月)
キリスト教が絡む30年戦争に疲弊したオーストリアは、
オスマン・トルコより、西のフランスのルイ14世が敵だ
った。
このフランスは、オーストリアが、オスマン・トルコ
と戦う事で、更に、弱体化することを狙っていた。
このことにより、フランスは、オーストリアを西から
牽制する事によって、オスマン帝国に間接的支援を与え
ていた。
1664年に、オスマン帝国が、ハンガリーへ侵攻した時
は、オスマン帝国が勝利した。
しかし、フランスの脅威から、オーストラリアは反撃
作戦を出来ないでいた。
そして、和約を結んで、オーストリアは、オスマン帝
国へ金を支払った。
これが、ハンガリーの反発を招き、1678年の蜂起につ
ながった。
そして、1683年に、北西ハンガリーで反乱が起こり、
反乱者たちは、オスマン帝国に対して支援を要請した。
これを、オーストリア占領の好機ととらえ、オスマン
帝国は、15万もの大軍を派遣したのだった。
イスラム教徒からヨーロッパを防衛しようというキリ
スト教徒との戦いとなった。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1682年、勘定吟味役を設置した。
勘定奉行に次ぐ地位の勘定所の役人で、
4人居て、2人は訴訟の裁判をつかさどり、
2人は代官所の租税以下、金銀出納などの徴税に関する
不正などを取り締まるために勘定吟味役が設置された。
この年に、初めて置かれた。
1682年頃、農業:東海地方の農業事情を記述した農書「百
姓伝記(ひゃくしょうでんき)」が書かれた。
著者不明とされているが、おそらく武士だろうとされ
ている。
老農からの農耕技術を聞き書きしたもので、内容は、
非常に優れていると言われている。
恐らくこの著者本人も農耕に従事したと思われている。
田畠地性論、肥料、万粮集(救荒作物)、坊(防)水
集、苗代百首、田耕作集、麦耕作集、水草集など、
1682年、高札を立て替えた(忠孝札)
諸国に、忠孝の奨励をすることの高札(忠孝札という
7ヶ条からなる高札)を立てた。
親子兄弟札、毒薬札、駄賃札、切支丹札、火付札から
なり、封建倫理の教諭やキリシタン禁制など幕府民政の
根幹を示した。
1682年、流通:伝法船(でんぽうぶね)
酒荷中心の伝法船が活躍した。
1682年3月、西山宗因(にしやまそういん、俳人、連歌師)
が没した(1605年~1682年)
1682年、人事:木下順庵(きのしたじゅんあん)が、幕府
の儒者(朱子学)となった。
門下に新井白石や室鳩巣(むろきゅうそう)らの多数
の門人がいる。
13歳の作である「太平頌(しょう)」は、後光明天皇
に献じられ、賞賛されたという、それほどの逸材。
弟子の個性に即してそれぞれの長所を伸ばそうと指導
し、つとめたという。
1682年、人事:吉川惟足(よしかわこれたり、神道家)
幕府が、吉川惟足を招聘し、幕府神道方となった。
朱子学との習合を推し進め、道徳的側面を持った。
また、神道を学問対象へと進めた。
1682年、文学:井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者)
が、「好色一代男」を刊行した。
武士や町人の生活の実態を客観的に描き、日本最初の
市民文学を確立した。
「好色一代男」は、西鶴の処女作で、浮世草子のさき
がけ、
一人の男が、好色で、自由気ままな人生を活写し、庶
民男性の一つの理想的な生き方を描いた。
人気を博した。
娯楽的な面もあり、それまでの作から抜きん出た。
源氏物語的に、一人の主人公・世之介の人生を7歳から
60歳までの54年間を描いている。
1682年3月、処罰:不正代官を処罰した。
1689年までに、25名の代官を処分した。
新たに置かれた勘定差添役(後の勘定吟味役)の監視
の結果だった(悪代官の一掃)。
1682年4月、世情:役料支給停止
番頭・諸役人の役料支給を停止(役料を廃止)して、
在職者の役料をそのまま当人の知行高に加えた。
1682年、フランスが、アメリカの領有権を主張する。
ラ・サールが、ミシシッピ川を下る(フランス領ルイ
ジアナの起源)。
この年に、この地域を探検し、フランスがアメリカの
領有権を主張した。
フランス植民地は広大な領域を持っていた(首都:ニ
ューオーリンズ、通貨:フランス・フラン、公用語:フ
ランス語、設立:1699年、解消:アメリカへ売って1803
年に終わった)。
インディアンの方々は、我が領土を取り戻したい、ま
た、わが民族の存立を続けたいと、この時、イギリスに
加わり、また、フランスに加わったりして戦った・・が、
結果的に、インディアンの方々の民族独立にはつなが
らなかった。
ただただ、利用された戦争に駆り出されただけだった。
1682年、中国の清が、アイグン(愛琿、現、愛輝、黒竜江
省)に将軍をおき、城を築いた。
この後、この地域でロシアと領土的なしのぎを削る。
1682年7月、ロシアでピョートル1世(大帝)が即位した
初代のロシア皇帝(1672年~1725年)、
制海権奪取や、ヨーロッパ列強に加わる戦争で、治世
の半ばを戦争に費やした皇帝。
戦争遂行を容易にするための行政改革をしたり、海軍
を創設したり、貴族の国家奉仕の義務を負わせたり、権
力集中に邁進した。
西欧化改革を強力に推進した。
国家の名称をロシア帝国に昇格させた。
辺境の国家からの脱皮に努めた結果だった。
1683年1月25日、天和の大火(てんなのたいか、八百屋お七
の火事)(1682年12月説あり)
江戸大火:駒込大円寺より出火だとされているが・?
下谷・浅草・本郷・神田・日本橋に延焼した。
また、俗に言われているお七と寺の小姓の恋仲の話で
お七の放火が大火の原因とされているが、原因ではない。
お七の放火の火事はすぐに消されていて、ボヤに終わ
っている。
しかし、放火の罪でお七は刑死する。
それが、この大火の原因説となってしまった。
つまり、お七がこの大火の放火をした訳ではない。
1683年2月、長崎貿易での外国品の輸入を制限した。
1683年5月、天和の禁令:婦人の服飾を禁止する(1月説あ
り)(美服禁止令=奢侈禁止令)
贅沢を禁止して、倹約を推奨する。
奢侈(しゃし、度が過ぎてぜいたくなこと)
1683年、経済:三井高利が、江戸に両替店を開設(創業)
した。
三井銀行の前身。三井財閥の中枢金融機関。
1683年7月22日、綱吉の子が亡くなる(1679年~1683年)。
綱吉の子の将軍職継承者の徳松が没した(4歳)。
墓所は東京都港区の増上寺。
「七五三」の祝は、1681年11月15日に、この徳松の健
康を願って行われた催しが、その始まりと言われている。
1683年、心中:呉服屋の御所(ごせ、奈良県西部の市)の
長右衛門と遊女・市ノ丞が、大阪生玉で心中をした(生
玉心中)。
すぐに歌舞伎劇に脚色されて上演された。これが心中
物の最初の作品となった。
1683年、社会資本整備:淀川
幕府は、淀川水系の治水を救治するため、河村瑞賢に
治河工事を命じた。
翌年より治水工事をして、1687年に竣工した。
1683年、令:末期養子の禁を緩和した。
幕府が、武家諸法度を改定し、末期養子の禁を緩和し
た(50歳以後の末期養子も認めた)
死にそうな大名(あるいは死んだ直後の大名)に後継
者が居ない時は、お家は取り潰されていたが、それを緩
和した。
1683年、文学:語孟字義(ごもうじぎ)
伊東仁斎(いとうじんさい、儒者)が「語孟字義」を
著した。
仁斎は、はじめ朱子学だったが、古義学に達した。
京都に古義堂をを開き、門弟が3000余人という。
語孟字義は「論語古義」「孟子古義」を集約したもの
で、徳・心・天道・天命・道・理・性・情・誠などの字
義の説明の30ヶ条からなる。
荻生徂徠や本居宣長に大きな影響を与えた。
1683年、社会資本整備:道路と橋を修理
全国の道路と橋を修理した。
1683年、清が、鄭氏を滅ぼし台湾を領有した。
1683年7月、オスマン・トルコ:第二次ウィーン包囲に失敗。
この年に行われたオスマン帝国による最後の大規模な
ヨーロッパ進撃作戦。
作戦失敗により、オスマン軍の包囲戦は長期化し、最
後は、包囲網を打ち破られた。
オスマン・トルコ軍(15万)に対し、
同盟軍(8万)(オーストリア、ポーランド、ベネチア、
ロシア)、(~1683年9月)
キリスト教が絡む30年戦争に疲弊したオーストリアは、
オスマン・トルコより、西のフランスのルイ14世が敵だ
った。
このフランスは、オーストリアが、オスマン・トルコ
と戦う事で、更に、弱体化することを狙っていた。
このことにより、フランスは、オーストリアを西から
牽制する事によって、オスマン帝国に間接的支援を与え
ていた。
1664年に、オスマン帝国が、ハンガリーへ侵攻した時
は、オスマン帝国が勝利した。
しかし、フランスの脅威から、オーストラリアは反撃
作戦を出来ないでいた。
そして、和約を結んで、オーストリアは、オスマン帝
国へ金を支払った。
これが、ハンガリーの反発を招き、1678年の蜂起につ
ながった。
そして、1683年に、北西ハンガリーで反乱が起こり、
反乱者たちは、オスマン帝国に対して支援を要請した。
これを、オーストリア占領の好機ととらえ、オスマン
帝国は、15万もの大軍を派遣したのだった。
イスラム教徒からヨーロッパを防衛しようというキリ
スト教徒との戦いとなった。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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