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2015年3月30日月曜日

(増補版)54B:気になった事柄を集めた年表(1416年~1431年)

 題:(増補版)54B:気になった事柄を集めた年表(1416年~1431年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1418年、世阿弥が「花伝書」を著し、能を大成した。
1419年、クリスマスツリーは、キリスト教とはまったく関
 係ない。
  ゲルマン民族の「御神木信仰」に由来している。
  何でも他宗教の事を持ってくるキリスト教が取り入れ
 ただけ。
  また、クリスマス自体が、他宗教の祭りだ(冬至の祭
 り)。
  他宗教のそのお祭りが、あまりにも盛大に行われてい
 るので、キリスト教も、その日に乗っかった。
  イエスの誕生日は全く不明なのであり、イエスの「存
 在自体」も立証できない状況。
  キリスト教での、クリスマスツリーの初めは、記録に
 残っているのは、この年に、ドイツのフライブルクでパ
 ン職人がキリスト教施設にツリーを飾ったというのが最
 初とされている。
1420年、雪舟(せっしゅう、禅僧、水墨画家)が生まれた
 (1420年~1506年)、
  現存する作品のうち6点が国宝に指定されている。
  周防に、1454年に移り、守護大名の大内氏の庇護を受
 けている。
  遣明船で1468年に明へ渡航し、政府の建物の壁画を描
 いている。評判になったという。
  また、雪舟の描いた風景の写生画が中国各地に残って
 いるという。
1428年8月~9月、正長の土一揆(しょうちょうのどいっ
 き)が起こった。
  農民が起こした初めての一揆。
  天候不順からの凶作や流行病、そして、政治の不安な
 どから社会不安が高まり、徳政を求めた。
  その一揆が、畿内一帯に波及し、各地で借金に苦しん
 でいた農民たちが、酒屋・土倉などを襲い、私徳政が行
 われた。
  京都から奈良へ波及した。
  土倉が持っていた借金の証文が破棄された(私徳政)。
  興福寺が徳政令を認めたので、公式な拘束力を持った
 ものとして施行された。
  この碑があり、その碑には、「正長元年より以前の、
 神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した」の
 意が刻まれている。
  この碑は、国指定史跡になっている。
1430年、細川勝元が生まれた(1430年~1473年)。
  3度、管領になる。
  細川勝元と山名宗全とで争い、ついに応仁の乱になる。
  細川勝元は、畠山持国の養子と実子の問題が発生点。
  持国に子が無かったので甥の政長を養子とした、後に、
 実子・義就が生まれたので政長を退け、義就をたてた。
1430年、アステカ王国:1430年頃にメキシコ盆地の覇者
 となった。
  王国の経済は、徴税によって成り立ち、都・テイチテ
 ィランの市場は、納税品と公益品とで活況を呈し、人口
 も10万人を越えた。
  アステカ族は征服を、度々、行い、捕虜を大量に生贄
 (いけにえ)とした。
  王を頂点とする成層複合社会を造り上げたが、スペイ
 ン人コルテスの滅ぼされた。
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクが捕縛された。
  イギリスとイギリスに味方するフランス軍の一部の策
 略があった。
  また、このジャンヌ・ダルクが活躍したイギリスとフ
 ランスが戦った百年戦争には「戦地を連れ歩く娼婦(従
 軍慰安婦)」が居た。
  ジャンヌ・ダルクを告発したのはキリスト教の異端審
 問所にいるキリスト教司祭(ピエール・コーション)だ
 った。
  このキリスト教司教は、非人道的方法でジャンヌ・ダ
 ルクを責めた。
  また、罠(わな)を仕掛けた卑劣な糾弾の仕方をした。
  また、ジャンヌ・ダルクを罵(ののし)りもした。
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが、火刑(焚刑)に処
 せられた。19歳の若さだった。
  キリスト教会の異端審問所が彼女に下した罪状は「悪
 魔の喚起(かんき)、様々な異端行為、様々な過(あや
 ま)ち、偶像崇拝、その他」という、多くの罪状を付け
 た。卑劣そのものだった。
  彼女は、北フランスのルーアンという所の広場で公開
 処刑された。
  処刑される時、彼女は泣いていたという。
  キリスト教の聖職者の司祭が取り囲んでいたという。
  また、観衆が大勢の見物人の中だったという。
  焼かれる前に、彼女は、「異教徒で、異端で、偶像崇
 拝者である」と書かれた帽子をかぶせられ、また、杭に
 縛(しば)られていた。
  1412年生まれの彼女のはかない一生だった。
  悪の宗教=キリスト教には救いがなかった。
  城に立て籠るフランス軍は、積極的に攻めるという姿
 勢も無く、また、取り囲むイギリス軍も、積極的に攻め
 るというわけでなく、
  兵糧攻めの状態だった。
  そこに、ジャンヌ・ダルクの援軍で、フランス軍は活
 気づき、積極的に攻めて勝ち戦となった。
  この北フランス生まれの彼女の功績は何だったのか?
  ジャンヌ・ダルクは、男装をしたのを「異端」とされ
 た。
  キリスト教の聖書に「女は男の服装をしてはならない」
 とあるからである。
  今、キリスト教は隠しているが・・、
15世紀、キリスト教に、悪魔と結託してキリスト教社会の
 破壊をもくろむ背教者という新種の魔女概念が生まれた。
  そして、キリスト教裁判所で行われる大規模な魔女裁
 判が興った。
  キリスト教は、キリスト教会内に、キリスト教裁判所
 を作り、キリスト教聖職者が異端審問をした。
  魔女裁判も行った。
  下記は、その裁判の様子を詳細に書いた記録が残って
 いる、その資料。
  (資料) : 女性の悲劇:ヨーロッパのキリスト教国の
 女性には、拷問を伴う魔女裁判という悲しい歴史がある。
  今、日本では「美魔女」など安易に魔女という言葉を
 使っているが・・、
  キリスト教による魔女裁判記録の1例・・、
  16世紀のなかばのトレドのキリスト教の異端審問で、
 エルヴィラ という人妻に対して行われた「尋問」の経過
 を、忍耐強い書記が被告の悲鳴や絶叫にいたるまで、細
 大洩らさず書きとめた長文記録。
  裁判には、拷問が、必ず行われた。
  ・・(エルヴィラの両腕を縛った綱がさらに締め付け
 られ、捻じられる。悲鳴。)
  「裁判官さま。何を申し上げたらいいか、言ってくだ
 さい。私がどんなことをしたのか私にはわからないので
 す。綱をゆるめてください、本当のことを申しますから。
 何を言えとお望みなのか、私には分かりません。おっし
 ゃってください。その通りに申します。」
 (さらに綱が締められる。「真実を言え」と迫られる。
 「どう言ったらいいか教えてください。何でも申し上げ
 ますから」と彼女は繰り返す。)
  (「おまえは豚肉を食べただろう」と誘導される。)
  「いいえ、食べた事はありません。豚肉を食べると私
 は気持ちが悪くなるのです。豚肉は好きじゃないんです。
 私は何も悪い事はしていないんです。どうぞ放して下さ
 い。何でも申しますから。何を申し上げれば宜しいので
 すか。何を言ったらいいのか分からないんです。言って
 下さい。何でも申します。放して下さい。何でも申しま
 す。・・・言って下さい、言って下さい。」
 (綱はゆるめられず、「カトリック教会にそむく事を
 しただろう」と尋ねられる。)
 「放して下さい。・・(うめき声)・・ここからおろし
 て下さい。何を言ったらいいか、言ってください。ああ
 ・・苦しい。お望み通りのことをみんな申し上げますか
 ら・・。裁判官さま、もう腕が砕けます・・。ゆるめて
 ください・・」
  (「お前がした事を詳しく言え」と迫られる。)
  「何を申し上げたらいいのか・・・。そうです、いた
 しました。なんでもいたしました。・・ああ、ゆるめて
 下さい。申し上げねばならない事が、私には思い出せな
 いんです。弱い女の身です。腕が砕けそうです。弱い女
 に、憐れみをお持ちではないのでしょうか。・・」
  (裁判官は、「本当の事を言えば憐れみを持つであろ
 う」という。)
  「裁判官さま、言って下さい。本当の事というのを教
 えて下さい・・。(泣きむせぶ)・・分からい・・何を
 言ったらいいのか・・。」
  (同じ言葉の繰り返しと拷問が続いたのち、「おまえ
 は土曜日に麻の着物を着替えただろう」と尋ねられる)
  「はい、着替えました。着替える時が来ていたからで
 す。悪意があっての事ではありません。何をお考えにな
 っているのでしょう。・・」
  (裸にして拷問台に寝かされる。四肢は四方に、綱で
 引っ張られる。口に水管が差し込まれ、水差しから水が
 注がれる。その合間合間に彼女は前と同じことを繰り返
 えす。ここで、拷問は一時「中断」。)
  それから4日後、拷問は再開された。              
    岩波新書「魔女狩り」より
..
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2015年3月29日日曜日

(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年~1416年)

 題:(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年~1416年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1392年、南北朝が一つになった。
  南朝は、亀山天皇、後宇多天皇、そして、後醍醐天皇
 へと、吉野へ移られても続いて行く、
  そして、後村上天皇、長慶天皇と続くことになる。
  だが、新田義貞、楠木正成、北畠親房(きたばたけち
 かふさ、北畠顕家の父)などの有力な武将を失って、衰
 えて行った。
  一方、北朝は、足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の
 天皇が継いでいく。
  そして、足利義満が、1392年に、北朝の勢力を背景に
 して、南朝の後亀山天皇に吉野から京都に戻ることを勧
 めた。
  そして、京都に戻った後亀山天皇は、北朝の後小松天
 皇に天皇の位を譲った。
  ここに、60年余り続いた南北朝が1つにまとまった。
1392年、三島外記入道が、主人・細川頼之(管領)に殉死
 した。この事以来、平時に病死した主君に対して殉死す
 る風習が始まった。
  世人が「前代未聞の振舞」と驚嘆した(明月記)。
1392年、李氏朝鮮が建国され、高麗が滅びた。
  李成桂が、1392年に創建し、1910年まで続いた王朝。
  首都はソウル。法典を整備し、科挙を実施して、官僚
 支配の基礎を整えた。
  朱子学を正統の学問とし、儒教中心の独自文化が興隆
 した。
  民と君臣関係を結び、室町時代の日本とは対等な外交
 を展開した。
1399年11月、応永の乱が起きた。
  大内義弘が挙兵し、敗死した。
  室町幕府に対する大守護・大内氏の叛乱。
  周防の豪族・大内義弘は、父・弘世以来の戦功によっ
 て周防・長門・石見・富前・和泉・紀伊6国の大守護隣、
  南北朝合体の交渉の功に加えて、朝鮮・明貿易による
 富強を致し、当時の守護中最大の勢力となり、自然、将
 軍・義満の忌むところとなった。
  よって義弘は、関東管領その他の諸豪族と結んで幕府
 に抗せんとし、ついに1399年、境に叛し、幕府軍と戦っ
 て敗死した。
  この乱は、明徳の乱と共に将軍義満の大守護強圧策の
 結果であって、これによって室町幕府の全盛が招来され
 た。
1400年、この頃、世阿弥「風姿花伝(花伝書)」。
1400年頃、工芸:15世紀。春日山蒔絵硯箱蓋表(東京根津
 美術館)。
1400年、中国の製紙法は15世紀にイギリスに伝わり、ヨ
 ーロッパ中に広まった。
15世紀、イギリスで、この頃、ゴルフ狂が増え、武芸修業
 がおろそかになるという事で、『ゴルフ禁止令』が出さ
 れた。
1400年、マレーシア:15世紀初めにイスラム系のマラッ
 カ王国が成立し、香料貿易で脚光を浴びた。
1400年、神聖ローマ帝国:表記の国名は15世紀から用い
 られた。
  ローマ教皇との『叙任権争議』に敗れて帝権は次第に
 衰弱し、大空位時代、金印勅書発布、30年戦争により領
 邦分裂の状態になった。
  また、15世紀のハンガリーの侵入、16~17世紀のオ
 スマン・トルコによるウィーン包囲など、東方からの圧
 力が強かった。
1401年、足利義満が明と勘合貿易を始めた。
1402年7月、アンカラ(アンゴラ)の戦いが起きた。
  ティムール朝(モンゴル帝国の継承政権の一つ)の征
 服戦争。
  トルコのアンカラ近郊において戦われた。
  戦力:ティムール朝・20万(ティムール軍には象軍も
 あったという)、オスマン帝国・12万。
  結果:ティムールの勝利、ティムールがオスマン・ト
 ルコを破った。
  モンゴル帝国の支配が弱まった中央アジアでは、ティ
 ムール朝が、1370年に、大国家を建設していた。
  この戦いで負けたオスマン帝国が、一時壊滅的な状況
 となり、滅亡の寸前まで行った。
  皇帝が捕虜になって、翌年(1403年)病死し、帝位は
 空位のままになった。
  その後、再建され、1453年には東ローマ帝国を滅ぼし
 た。
  一方、ティムールは、この戦いの余勢をかって、明の
 永楽帝の朝貢の要求に対して、逆に、遠征を決意した。
  しかし、ティムールの皇帝は、1405年に遠征中、病死
 した。
  ティムールは、その後1世紀ほど存続したが、1500年
 に征服され、1507年に滅亡した。
1404年、勘合符を使って明と盛んに貿易をした。
1405年、金春禅竹が生まれた(1405年~1468年頃)、
  猿楽の金春座を禅竹は確立し、現在まで続いている。
  禅竹は、能楽の大成者・世阿弥の女婿で、世阿弥や義
 兄の十郎元雅から芸道を授けられた。
1408年、足利義満(あしかがよしみつ、第3代将軍)が没
 した(1358年~1408年)、室場地幕府の体制を確立し
 た。
  将軍職を子の義持に、1394年に、ゆずり、太政大臣に
 なるが、翌年の1395年には出家し、その後は、京都に
 金閣を建て、北山文化を開花させた。
1410年7月15日、タンネンベルグの戦いが起きた。
  ドイツ騎士団(キリスト教系、バルト海を異教徒から
 防衛する、ローマ法王から武力によるキリスト教化を正
 当化する教勅を受けている)と、
  ポーランド王国とリトアニア大公国の連合軍の戦い。
  連合軍が勝利した。
  戦力:ドイツ27000、連合軍39000、
  損害:ドイツ8400(捕虜14000)、連合軍5000、
  領土紛争に関わった戦争。
  ドイツ騎士団は敗け、帰国できたのは27000のうち
 5000以下。
  ドイツ騎士団は、この44年後の1454年に、壊滅的敗
 北をし、その後、世俗化した。
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。
  キリスト教に関わった女性。
  負け戦を勝ち戦に導いた(100年戦争)とか、
  神の啓示があったとか・・キリスト教は色々と美化す
 るが、
  実際は、可哀想な女性、
  それも、魔女にされ、
  酷い仕打ちをキリスト教から受けて、焚刑とされた。
  キリスト教の聖職者の司教が、異端の疑いを掛け、キ
 リスト教会の異端審問所で「有罪の判決」を出されてし
 まう。
  そして、19歳の若さで、公衆の面前で焼かれる。
  勝手なもので、その後、ローマ法王は、ジャンヌは無
 実だったとした。
  そして、殉教だと言った。「キリスト教が殺した殉教
 もあり」という姿。
  そして、聖人だとした。
  魔女旋風を噴き荒らしたキリスト教の大罪である。
  何人の女性の方々が殺されたというのか。
  ヨーロッパの空は、魔女にされた女性を焼く煙でけぶ
 ったという、曇り空のごとく。
  また、人々が頼っていた助産婦(知識があって医師の
 代わりにもなっていた女性方)を、夜、薬草を煎じる姿
 から魔女だとし、殺した。
  ヨーロッパの薬草学が絶えるほどだった。
  今・現代、この西洋薬草学があれば、どれほど人類に
 貢献しているか、計り知れない知識があったと考えられ
 る(東洋の薬草学と同様に)。
  これも、卑劣な宗教=キリスト教の大罪。
  キリスト教には、この他にも数限りなく色々な大きな
 罪がある宗教、ユダヤの方々など、南米の方々・・特に、
 ユダヤの方々を追い回して、長い年月、殺し続けた話は
 許せません。
  ジャンヌが、魔女とされるところは省くが、まったく
 卑劣なキリスト教である。
1415年、ポルトガルが、アフリカ大陸の北端のセウタ(町)
 を攻略した。
  これが、これから大西洋を渡って、植民地攻略をする
 ポルトガルの端緒の攻略戦だった。
  ポルトガルは、スペインもそうだが、東方はイスラム
 の世界が広がっており、これを打ち破って領土拡張をす
 る力はなかった。
  また、ユーラシア大陸には、勢力絶大な遊牧民族が居
 た。
  イスラム教徒は、ユーラシアの民族を包容した。
  ポルトガルとしては、西の海上へ向かう他はなかった。
  こうして、ポルトガルのエンリケ航海王子が、セウタ
 を手に入れた。
  そして、この様な行為をさせたのがキリスト教ローマ
 法王のキリスト教の教義・考え方だった。
  キリスト教に『異教徒は殺せ』の教義があるが、
  ローマ法王の指示は、『異教徒・他民族の征服」の指
 示、そして、『異教徒・他民族を占有する」事を正当化
 した。
  法王(教皇)は、「教皇大勅書」で指示した。
  それによって、『異教徒の征伐(殺戮)』が正当化し
 た。
  そして、教皇は、独占を認め、「原住民の奴隷化」を
 も許した。
  キリスト教聖書にある通りである。
  まったく卑劣な事を指示したものである。
  ポルトガルは、スペインより、約1世紀、早かった。
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易を
 する。
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2015年3月28日土曜日

(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年~1378年)

 題:(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年~1378年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1363年、世阿弥が生まれた(1363年~1443年)
1368年、足利義満が第三代将軍となった。
  足利氏の全盛時代となる。
1368年、元朝滅亡。南京で明が建国された。
  この年、トゴン・テムルは、首都の大都を放棄して、
 北のモンゴル高原へと退去した。
  モンゴル人が、中国を支配した元朝の滅亡だった。
  元朝は、モンゴル人の政権だったが、つまり、中国は
 モンゴルの植民地だった。
  つまり、この事件は、モンゴルが植民地の一つを失っ
 ただけのことだった。
  モンゴル帝国は、中国の版図の何倍もの支配領域を持
 っていた。故に、この事は、モンゴル政権が、モンゴル
 高原に撤退しただけのことだった。
  中国は、いつの時代も、流民の暴走や宗教反乱で王朝
 が倒れ、そして、交代した。
  元を滅亡させた明の初代皇帝は、朱元璋(しゅげんし
 ょう、明の創始者で初代皇帝、廟号は太祖、また、洪武
 帝とよばれる、紅巾軍に参加した)、
  白蓮教徒が1351年に、各地で反乱を起こした(紅巾の
 乱)、そして、この皇帝も参加している、そして、頭角
 を現して行く、この頃に、皇帝になる野望を抱いたと言
 われている。
  参加したその軍の長が死ぬ(1355年)と、その軍を受
 け継いだ、そして、他の長の居なくなった(戦死)した
 軍を吸収し、大勢力になって行く。
  大勢力になると、各地の有力武士が集まって来た。
  紅巾軍のある一派は、大漢国を打ち立てたりした。
  反乱軍同士の覇権争いもあったりしたが、60万の大水
 軍を率いる一派も居た、朱元璋はその一派を救援したり
 した(1363年7月)、そして、大漢国を滅ぼした。
  朱元璋は、1364年に呉王を名乗った、同じく、呉王を
 名乗る一派と激突した。
  准南、江南を、1367年に統一した。
  1368年1月に即位し、元号を洪武とし、国号を大明と
 した。南京を都とし、後に、北京に都を移した。
  皇帝権力の強い中央集権制をとり、朱子学を官学とし
 た。
  また、土地と税金の台帳作成により、人民を把握して
 行った。
1368年、陽明学:明代の儒学者・王陽明が作った学派。
  王陽明は、形式化した朱子学に反対し、人間の心の働
 きの中に理があるとし(心即理)、人間本来の心の働き
 ・判断力を発揮するときは理は極められ(致良知)、知
 識と行動は一致しなければならないとする実践的思想を
 説いた。
  だが、この考え方は主流にならなかった。
  日本では中江藤樹によって普及し、心学・王学と呼ば
 れた。
14世紀後半、高麗:14世紀後半に中国で明が興ると、国内
 では親明派と親元派の対立が起き、新明派の李成桂が実
 権を握って新しい朝鮮王朝を建てた。
1369年、チムール帝国が成立した。
1370年、明軍が、モンゴルを討伐して南京に凱旋した。
1371年、合戦の使者の衣類の取得権で争いがあった。
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
1378年、三条公忠(さんじょうきんただ、公卿)、知識人
 で歌人。師と仰ぐものが多かったという、猿楽を乞食の
 所行とし、世阿弥を寵愛する足利義満を非難した。
14世紀、この頃、キリスト教の宗教絵画を多く手がけたジ
 ョットはじめ、シモーネ・マルティーニらの、14世紀の
 西洋画科の巨匠たちは、中国はじめ東洋の絵画に大きく
 影響を受けた。
  中世の長い期間、イスラム教徒の学問は、世界最高水
 準にあった。
  ルネッサンスなどと言って、ヨーロッパで、中世末に、
 古代ギリシャ精神の復活があったとされて居るが作られ
 た話である。
  ヨーロッパが、アラビア語を介しながら、少しずつ習
 得したものであって、アラビア語訳のアリストテレスが、
 ヨーロッパ中世哲学の支柱をなした。
  ルネッサンスで言われる「古代の復活」が、具体的に、
 ヨーロッパの現実となることはなく、所詮、ヨーロッパ
 人の願望に過ぎなかった。
  せいぜい、大学のある都市の宮廷クラスや、知識人ク
 ラスだけであって、一般化はなされなかった。
  民衆レベルの意識を変えるまでの影響はない。
  本来、進んでいるイスラム文化や学問を、ヨーロッパ
 が語る訳が無い。
  ヨーロッパ人は、自己の歴史に刻まれたイスラムの痕
 跡を、逆に、「我が物だ」として語るのが当然。
  また同時に、モンゴルや中国などが、ヨーロッパへ及
 ぼした東方の影響も、ヨーロッパは隠し、見ないように
 し、語ろうとしなかった。
  日本人も、その様なヨーロッパ人の見方に影響され、
 同様の認識の中に居て、同じ行為をしている。
  例えば、日本の中村教授のiPS細胞のノーベル賞の発明
 も、後々には同様に、ヨーロッパの発明だとなされる様
 なもの。
  ルネッサンス画家・ジョットは、空間構成や人物像に
 おいて、特に、古代ギリシャではなく、モンゴル帝国の
 拡大によって知らされた中国絵画に影響されている。
  また、このジョットはじめ、シモーネ・マルティーニ
 らの、14世紀の西洋画家の巨匠たちも、影響を受けてい
 る。
  その絵画の目は細く、つり上がり、東洋人の顔となっ
 ている。彫りの深い西洋人ではなく、平たく、黄色人種
 の影響を受けた血を表現し、語っている。
  まさしく、この事などを正直に語ったのが、I・V・ブ
 ツィナである。その著書「中国・イタリアとルネッサン
 ス初期」である。
  中国の宋と元の絵画からの影響を具体的に述べている。
  当然の様に、アメリカやヨーロッパは黙殺した。
  その影響度が、過大であるにもかかわらずである。
  モンゴルの影響は過大であった。
  画期的スケールでなされていた。
  しかし、語られることはほとんど無い。
  ヨーロッパの近代化の華のように語られるルネッサン
 スは、ギリシャではなく、『東方の刺激』によって花開
 いたのである。
  そして、有色人種の無視・蔑視である。こんな事は、
 年がら年中やっている。
  これらは、モンゴルの統治方針の構想からなされた伝
 番であって、ただ単に、伝わったというものではなく、
 それ以上のものだった。
..
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2015年3月26日木曜日

(増補版)51B:気になった事柄を集めた年表(1338年~1358年)

 題:(増補版)51B:気になった事柄を集めた年表(1338年~1358年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1338年8月11日、足利尊氏が征夷大将軍となった。
  光明天皇から征夷大将軍を任じられた。
  京都に幕府を開く。室町幕府が始まった。 
  この頃、商業都市が起こった。
  室町時代に入ると、京都・奈良・境・兵庫津などの主
 要な商業都市には割符屋・替銭屋と呼ばれる専門業者が
 発展するに至った。
  また、農民や商人層の社会進出があった。民衆が見え
 る時代へと変わって行った。
  こういう形での新しい勢力の興隆の時代でもあった。
  技術の向上、生産の増大、工業の起こりがあった。
  また、河川による生産地と消費地間の運送とその河港
 商業都市への発展などもあった。
  また、河川のみならず海運も盛んで、倭寇が、朝鮮や
 中国沿海部を襲うぐらいだった。
  また、諸街道の整備も進み、同時に、街道筋の発展も
 あった。
  また、畳や障子などを組み込んだ日本の家の基本形は、
 室町時代に作られている。
1338年、百年戦争が起きた(英仏の100年以上に及ぶ果て
 しなき戦い、~1453年)
1339年8月16日、後醍醐天皇が崩御した(1288年~1339
 年)、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後の
 村上天皇)へ、8月15日に譲位し、翌日の8月16日に、
 吉野の金輪王寺で朝敵の討滅と、京都の奪回を遺言して
 崩御された。
  足利尊氏は、後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営
 した。
  日本を良くして行きたいと行動した屈指の偉大な天皇
 だった。
1346年、室町幕府が、「故戦・防戦の法」を制定した。
  「戦いを無くしたい」「戦争を無くしたい」の願いか
 らできた法である。
  この思想は、日本は以前からあった。
  また、豊臣政権の「惣無事令」へとつながっていく。
  そして、刀狩へとつながり、武器のない日本へとなっ
 て行く(悲惨な銃社会ではない)。
  この「故戦・防戦の法」は、攻撃を仕掛けたものは無
 条件に処罰、戦者側は非があれば同罪、非がなければ
 無罪とした。
  「非が無くても、戦いを仕掛けたらダメ」の思想。
  無罪となる道は、「戦いは仕掛けなかった、そして、
 仕掛けられたけれど、非も無かった」しかない。
1346年、クレーシーの戦いが起きた。
  100年戦争の初期の戦争。
  イギリスのエドワード3世(1万2千人の兵)が、フラ
 ンスのフィリップ6世(3万~4万人の兵)を、フランス
 北部の街クレシーで惨敗させた。
  この100年戦争を、今・現在の英仏の国境線から考えれ
 ば、イギリスが、フランスの領土を欲しいと言って始まっ
 た戦争で、愚かにも、100年間以上も戦争をした。
  キリスト教の聖書にある「目には目を」の教義ではない
 が、果てしなく続く、愚かこの上ない戦争だった。
1347年、ペストが世界中に広がっていく。
1348年~1350年、ペストが流行するが、特に、この頃の
 流行の猛威は凄(すさ)まじかった。
  ヨーロッパの3分の1の方々が亡くなった。
  全滅した村もあった。
  死者を埋葬する間もなく、次々と死者が出て、町のい
 たるところに累々と死体が積まれた。
  この黒死病と呼ばれるペストは、14世紀に蔓延し、人
 口が激減したが、
  15世紀になってもこの状態は続き、キリスト教も絡ん
 だりした戦争が頻発し、領主と農民との間で果てしない
 闘争が繰り広げられてもいた。
  生産は停滞し、飢饉も襲った。暗黒の時代だった。
1351年、夢窓疎石(むそうそせき、禅僧)が没した(1275
 年~1351年)、世界遺産に登録されている京都の西芳寺
 (苔寺)および天竜寺のほか、瑞泉寺、恵林時など多く
 の庭園の設計でも知られる人。
1351年、紅巾の乱が起きた。
  中国の農民の反乱(初めは黄河の建設作業員が戦う)。
  元朝の末期症状。
  この乱は、「元王朝の打倒と、ユートピア社会の実現」
 を唱えた。
  元の末期になると、皇帝を、力の強い臣下が擁立した。
  故に、臣下同士の争い、殺し合い状況となった。
  その為、その臣下が変われば、皇帝も変わるという状態。
  当然、政治も混乱。統治能力は失われていた。
  挙句に、凶作・飢饉が頻発していた。
  当然、民は立ち上がった。
  「白蓮教」という宗教団体の人が、黄河の建設作業に
 従事していた人々と反乱を起こそうとした。
  しかし、企てが発覚し、白蓮教の教祖は処刑された。
  一旦は、この様に鎮圧されたが、処刑を免れた指導者
 が、その教祖の息子を擁立し、蜂起した。
  蜂起は成功し、短期ではあったが、一時は、国を号す
 るまでなった。
1352年、室町幕府が「故戦・防戦の法」を改訂した。
  防戦者側に非がなくても、所領半分を没収するとした。
  何しろ争いはするなと言う事。
1352年、この年に始まる「半済(はんぜい)」が普及した。
  これは足利尊氏によって行われ、近江・美濃・尾張に
 実施された。
  戦費を賄うために、荘園収入を領主と武士で折半した
 ことから始まったもので、次第に土地そのものを折半す
 るようになり、守護による荘園支配が強まった。
  鎌倉期の守護が、軍事警察権にとどまっていたのに対し、
  余裕の出た室町期の守護は、軍事警察権のみならず、
 荘園領主が持つ権能をも持つようになった。
  また、領国内の武士(国人といった)の統制や、支配
 を持つという様に拡大して行き、室町期の守護は、守護
 大名へとなって行く。
1353年頃、吉田兼好が没した(1283年頃~1353年頃)
1358年、足利尊氏が没した(1305年~1358年)
1358年、足利義満が生まれた(1358年~1408年)
1358年、ハンザ同盟が成立。
  イギリスは、ヨーロッパの片隅の弱小の国家だった。
  当時、ヨーロッパは、ハンザ同盟(都市同盟、12世紀
 頃より始まる、1358年に成立、15世紀の最盛期の都市数
 は200を超えた)に、100を超える都市が参加するなど、
  また、イタリアの町々を結ぶ商圏が花開き、経済によ
 る豊かさを享受した。
  この様な弱小のイギリスに陽が当たって来るのは、ア
 メリカ大陸の発見(1492年、コロンブスが達した)と、
 インドへの航路の発見(1497年、バスコ・ダ・ガマが喜
 望峰を回ってインドへ達した)だった。
  大西洋を舞台にし始めたイギリスへと大転換して行き、
 弱貧な国家だったイギリスへ「おいしい収奪した利益」
 が流入し始めて行く。
  この旨(うま)さが忘れられない国家となって行く。
..
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2015年3月25日水曜日

(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年~1338年)

 題:(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年~1338年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1335年7月23日、護良親王が足利尊氏に反目し、建議を得
 て、鎌倉に配せられ、幽閉されていたが・・、
  そして、この日に、護良親王は中先代の乱の際に殺さ
 れた。
  護良親王(1308年~1335年、後醍醐天皇の第一皇子)
 は、元弘の乱には僧兵を率いて活躍した。
  その間、復職して名を大塔宮(おおとうのみや)から
 護良(もりなが、または、もりよし)と改め、熊野・吉野
 あたりに潜行し、国々に令旨を発し、勤王の兵を募った。
  建武の中興政府が成るや征夷大将軍となり、兵部卿に
 任じられた。
  間もなく、足利尊氏に反目し、天皇が、1334年、親王
 を鎌倉に幽閉され、足利直義の監視下に置かれた。
  中先代(なかせんだい)の乱に際し、足利直義の家臣
 によって殺された(1335年7月23日)。
  その家臣は、北条時行軍の手を逃れ、鎌倉がおちる際、
 秘かに、足利直義の命を受けた家臣が、護良親王を殺し
 たという、直義の独断だったという。
1335年、足利尊氏が天皇に叛いた。
  尊氏は、反乱鎮圧のために下った鎌倉で、天皇への叛
 意を明らかにしたという・・、
  その因として、武士として活躍しているが、その割に、
 恩賞が少なかった・・という一説がある。
  しかし、この時ではなく、後に決断したとの説もある
 が、その説が正しそうである。
  尊氏は、過去に、後醍醐天皇に征夷大将軍の官職をの
 ぞんだが許されなかったことがあった。護良親王は征夷
 大将軍になっている。
1335年8月2日、尊氏は、天皇の許可を得ないまま、軍を
 率いて鎌倉へ向かった。
  天皇は、やむなく征討将軍(せいとうたいしょうぐん、
 臨時の称号)の号を与えた。
  足利尊氏は、足利直義の軍勢と合流し、相模川の戦い
 で北条時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。
1335年8月19日、足利尊氏が、鎌倉を回復した。
  足利直義の意向もあって、尊氏は、そのまま鎌倉に本
 拠を置き、独自に恩賞を与え始め、京都からの上洛の命
 令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。
1335年11月、足利尊氏は、新田義貞を君側の奸であるとし
 て、後醍醐天皇にその討伐を要請するが・・、
  天皇は、逆に、新田義貞に尊良親王(たかよししんの
 う、後醍醐天皇の皇子)をともなわせて、「尊氏討伐」
 を命じた。
  さらに、奥州からは、北畠顕家も南下を始めており、
 尊氏は、赦免を求めて隠居を宣言し、寺に引きこもり断
 髪したという。
  しかし、足利直義や、高師直(こうのもろなお、武将、
 尊氏の執事)などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏
 は、彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意した。
  「直義が死ねば、自分が生きていても無益である」と
 宣言し、出馬した。
  尊氏は、12月に、新田軍を箱根・竹之下で破った。
1335年12月、箱根・竹下の戦いが起きた。
  この戦いの後、尊氏は、京都へ進軍を始めた。
  この間、尊氏は、光厳上皇と連絡を取り、叛乱に至っ
 た意味を説明している。
1336年1月11日、足利尊氏が入洛した。
  後醍醐天皇は、比叡山へ退いた。
  しかし、ほどなくして、尊氏は、奥州から上洛した北
 畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。
1336年1月30日、この日の戦いで、尊氏は敗れた。
1336年2月11日、尊氏は、この日の、摂津豊島河原の戦い
 (大阪市箕面市・池田市)で、新田義貞・北畠顕家軍に
 大敗を喫した。
  尊氏は、京都を目指すことを放棄し、海路で鎮西(九
 州)へ向かった。
  途中、播磨国(兵庫県姫路市)の赤松則村らに助けら
 れ九州へ下った。
  九州では、肥前国(佐賀県佐賀市)守護の少弐頼尚(
 しょうによりひさ、武将)らにむかえられた・・
 ・・が、九州の諸豪族の大半は宮方に味方した。
  そして、そこで待ち受けていた菊池氏・阿蘇氏ら2万
 の大軍を、尊氏は、多々良浜(たたらはま、福岡県)の
 戦いで破った。
  一度、宮方についたが、尊氏に加勢する者も出た。
  尊氏の戦法も積極的で、不利な状況を逆転して行った。
  この戦いで、九州のほぼ全域が、尊氏側に付くことと
 なった。
  尊氏は、戦いを勝つと、再び、体勢を整え直して・・、
 京を目指して、東上を始めた。
1336年4月13日、多々良浜の戦い。
1336年、足利尊氏が、また、東上した。
  追討を命じられた新田義貞は、赤松氏の拠る白旗城(
 兵庫県赤穂郡)や、足利氏の武将が籠もる三石(みつい
 し)城(岡山県備前市)を攻めあぐねていた。
  そんなことをしているうちに、新田勢が守る福山城(
 広島県福山市)が、陸路を進撃する足利直義の攻撃を受
 けて落城してしまった。
  退却した新田義貞は、楠木正成と共に湊川(みなとが
 わ、兵庫県神戸市)で決戦を挑(いど)むが、海路を進
 んで来た足利尊氏の上陸を許して、敗退した。
  湊川の戦いで楠正成が戦死した(43歳)・・が起きた。
  比叡山に逃れていた後醍醐天皇も、入京した足利勢に
 降りた。
1336年5月25日、湊川の戦い。楠木正成戦死。
1336年8月15日、足利尊氏が光明院を擁立した。光厳上皇
 の院宣によるものだった(北朝の始まり)。
  光明天皇は、まだ幼かったため(4歳)、兄である光厳
 天皇の院政が行われた。
  囚われた後醍醐天皇は、この即位をいったんは認めた
 ものの、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇へ神器
 を剣璽渡御(けんじとぎょ)を迫られたが、天皇は奈良へ脱出さ
 れた。
1336年10月10日、後醍醐天皇が吉野へ遷幸した(南朝政
 権の樹立)。花山院に幽閉。
1336年11月1日、足利尊氏が、花山院に後醍醐天皇を訪ね
 て行く。
  南北朝の統合の話だった。
  後醍醐天皇の皇子の成良親王を、光明天皇の皇太子と
 することを条件に、神器を戴きたいという奏上だった。
  つまり、光明天皇の次に成良親王(なりながしんのう)
 を即位するという奏上だった。
1336年11月7日、建武式目17条を制定した。
  尊氏が発布したこの式目に、室町幕府の施政方針が示
 されている。
  中原是円(ぜえん)・真恵(しんえ)らの公家・僧侶・
 武家の法曹家に諮問して政治方針としてまとめたもの。
1338年7月2日、新田義貞(にったよしさだ)が没した(
 1301年~1338年)。
  越前国(福井県越前市)で交戦中に戦死した。
  東国の一御家人だった新田義貞。
  鎌倉幕府を滅ぼして中央へ進出し、その功績は多大で
 あった。
  南朝の総大将として重責を果たし、忠節を尽くして来
 た新田義貞の生涯が、やはり、戦いに場で幕を閉じた。
  義貞の首級は京都に送られ、引き回され獄門に掛けら
 れたという。義貞に恩を受けた多くの人が、嘆き悲しん
 だという。
  また、義貞の死後、義貞の息子らも戦乱に倒れたとい
 う。
..
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(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年~1335年)

 題:(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年~1335年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1333年4月29日、足利高氏(後の尊氏)が、丹波国篠村八
 幡宮(京都府亀岡市)で、反幕府の兵をあげた。
  後醍醐天皇は、隠岐を脱出されて、伯耆国(鳥取県倉
 吉市)船上山に籠城されていた。
  高氏は、この時、病中だったが、再び、鎌倉幕府の命
 を受け、名越高家とともに司令官として上洛した。
  この時、高氏は、妻子を同行させようとしたが、幕府
 は、人質として二人を鎌倉に残留させた。
  緒戦で、同行した司令官の名越高家が戦死した。
  高氏は、この事もあり、また、後醍醐天皇からの話が
 あったため、天皇方へと味方する事を決意した。
1333年5月7日、足利高氏が、京都を制圧・・
  後醍醐天皇へ味方する事を決意した高氏は、諸国へ軍
 勢催促状を発した。
  そして、これに応じた武将らを糾合して入洛し、この
 日・5月7日に、六波羅探題を滅亡させ、京都を制圧した。
 (そして後に、尊氏は、建武の中興第一の功臣となり、
 参議になった)。
  尚、この頃、赤松則村(あかまつのりむら、播磨国、
 今の兵庫県姫路市の地頭、1277年~1350年)が、
  後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨も受け、佐用荘苔
 縄城(兵庫県佐用町)で挙兵していたが、
  また、元弘の変(1331年の後醍醐天皇の幕府討伐計画)
 に際しても、本領播磨国佐用庄を中心に、反幕府軍とし
 て活躍したが・・、
  建武の中興の成立に寄与しているが・・、
  新政府に理解されず(地方だったからか?)優遇され
 ず、足利尊氏の叛と共に北軍に投じた。
  尊氏の九州への敗走するにあたっては、播磨を守って
 新田義貞らの南軍の西下を阻止し、尊氏から播磨守護に
 補任され、赤松氏繁栄の基を築いている。
  尚、この鎌倉時代末期のこの頃、「曽我物語」が成立
 している。
1333年5月中旬、新田義貞が挙兵した。
  幕府の御家人だった義貞は、京都の警護(大番役)を
 命じられ、上洛していたが、
  河内国で楠木正成の挙兵が起こり、幕府に従って「楠
 木正成討伐」に向かい、幕府側の武将だったが、
  正成の城である千早城の戦いにも幕府側として参加し
 ているが・・、
  しかし、1333年3月に、義貞は、病気を理由に無断で
 新田荘に帰ってしまった。そして、この日に、挙兵した。
  挙兵した日は、「5月5日説」や「5月8日説」がある。
1333年5月22日、鎌倉幕府が滅んだ。
  北条高時が没した(1303年~1333年)。
  関東・上野国の御家人・新田義貞軍が挙兵し、幕府軍
 を連破して鎌倉へ進撃する。
  新田郡が鎌倉へ侵攻すると、北条一族や家臣らと共に
 北条高時(31歳)は自刃し、鎌倉幕府が滅んだ。
1333年6月、後醍醐天皇によって「建武の新政(建武の中
 興)」が開始された。
1333年6月~10月、記録書・雑訴決断所・窪所・武者所を
 置いた。
1333年6月5日、高氏が、鎮守府将軍に任命され、名を尊氏
 に改めた。
  この時、護良親王は、足利尊氏らの足利氏の勢力を警
 戒し、奈良の信貴山(しぎさん)に拠り、尊氏を牽制す
 る動きに出た。
1333年6月15日、旧領回復令が発布された。
  御成敗式目で認められていた土地所有権が無効とされ、
 新たな土地所有権は、申請が必要とした・・が、
  申請者が都に殺到した。
  7月に、諸国平均安堵令が発せられ、この騒ぎの対象者
 は、北条一族のみとし、知行の安堵を諸国の国司に任せ
 た。
1333年6月23日、尊氏と護良親王の関係については、
  後醍醐天皇は、この日に、事態打開策として、護良親
 王を征夷大将軍に任命している。
1333年12月、尊氏の弟の足利直義が、後醍醐天皇の皇子・
 成良親王を奉じて、鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が建っ
 た。
1334年1月、年号を「建武」と定められた。
  そして、この月に、新税が計画され、土地調査が行わ
 れた。また、新紙幣や貨幣の発行も計画された。
1334年3月、貨幣の「乾坤通宝」の発行詔書が出された。
 しかし、この通貨の存在は確認されていない。
  尚、この頃から、新令による問題点が出始める、所領
 問題、訴訟は恩賞の問題・・など。
  記録書などを新設し調整に努めたが、権限の衝突など
 の混乱が収まらず、新政の諸問題が露呈した。
1334年5月、本家(荘園制の土地の名義上の最上位の所有
 者)や、
  領家(荘園制においての荘園開発した開発領主から寄
 進を受けた荘園領主)が廃止された。
  また、徳政令が発布された(債権債務の無効を意図し
 た事になってしまった)。
  また、雑訴決断所の訴訟手続法が定められた。
1334年8月、この頃の新政下の混乱した世相を風刺する二
 条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)が現れた。
  「コノゴロ都ニハヤル物、夜討(ヤトウ)、強盗、ニ
 セ倫旨(リンジ)、召人(メシウド)、早馬、虚騒動(
 ソラソウドウ)・・」という書き出しで始まる。
  世相・人情・風俗・下剋上の世界・成り上がり者・軽
 薄な流行ファッション・退廃と混乱の世相を描き出した
 庶民の痛烈な落書。日本落首史上の傑作という。
1335年7月、北条時行の乱が起きた。(中先代の乱)。
  鎌倉幕府の第14代執権・北条高時の遺児である北条時
 行の乱が起きた。
  鎌倉幕府再興のための挙兵だった。
  御内人(みうちびと、執権北条氏の家督に仕えた武士)
 の諏訪頼重らに擁立され、時行が鎌倉へ侵攻した。
  先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一
 時的に鎌倉を支配したことから、「中先代の乱」と呼ば
 れている。
  鎌倉支配は、20日余りしか続かなかった。
  鎌倉幕府の滅亡の後、「建武の新政」が打ち立てられ
 たが、
  そして、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長
 として、尊氏の弟の足利直義が執権として、これを補佐
 する形の「鎌倉将軍府」が置かれていた・・が、
  しかし、この政権は、武家の支持を得られていなかっ
 た。
  北条氏の残党などが各地で蜂起を繰り返す状態だった。
  1335年6月には、京都で政権転覆を企てた陰謀が発覚
 したりして、不穏の世情だった。
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2015年3月24日火曜日

(増補版)48B:気になった事柄を集めた年表(1324年~1333年)

 題:(増補版)48B:気になった事柄を集めた年表(1324年~1333年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1324年7月、後宇多天皇が崩御した(1267年~1324年)
1324年9月、正中の変が起きた。
  鎌倉幕府の討幕の動き・・
  後醍醐天皇(1318年に即位)の討幕計画が漏れ、日野
 資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)らが罰せられ、
 土岐頼兼・多治見国長は処刑された。
  漏れた原因は、土岐頼兼が、いよいよ計画が実施とな
 る頃、妻に「今生の別れ」のように話してしまったこと
 による。
  後醍醐天皇は、幕府が乱れていたため、討幕を決意さ
 れた。
  幕府の北条高塒は、田楽や闘犬に興じたりして政治を
 顧みなくなっていた。
  後醍醐天皇は、討幕の計画を練るために、朱子学の講
 習会や無礼講を開き、同志を糾合したという。
1324年11月14日、「花園院宸記」に、この日の事につい
 て、「聖主の謀叛」という表現を用いている。
  それによって「天皇の謀叛」という観念が、当時、一
 般に広がっていた事が分かる。
  「公」と「国家」と「天皇」、これは古代律令国家に
 おいては一体であった。
  少なくとも鎌倉初期にあっては、幕府は、自己の行動
 の合法性を皇室=古代国家の承認によって獲得していた。
  それが、社会に対する幕府の権威の裏付けをなした。
  ところが、南北朝・室町時代になると、その価値体系
 が崩れて行く。
1325年7月、幕府が、「元」へ、建長寺船を遣わした。
  翌年9月に帰航した。
  もうすっかり、日本に、「元アレルギー」は無くなっ
 ていた。
1326年3月16日、第15代執権・北条貞顕(1326・3・16
 ~1326・3・26)
1327年4月24日、第16代執権・北条守時(1327・4・24
 ~1333・5・18)
1328年、100年戦争が始まった。
  フランスの領土をめぐる英仏間の戦争。
  フランス国王・シャルル4世が1328年に死ぬと、男子
 の継承者が居なかったため、フランスは家系が絶えたの
 で、別の家系の従兄弟の王を即位させ王位を継承した。
  そして、この年の1328年に、戴冠式を迎えたが、
  その戴冠式に先立って、家系が絶えたフランス国王の
 血筋のイングランド王が、フランス王位の継承権を主張
 した。
  そして、その王位継承をめぐってフランスへ侵攻した。
  フランスとイギリスの間で、100年戦争(1337年~
 1368年)が始まった。
1330年頃、この頃、吉田兼好が「徒然草」を書く。
1331年8月、元弘の変(げんこうのへん)。
  後醍醐天皇の第二回目の討幕計画が失敗した。
  討幕計画が、側近の密告により未然に露見した。
  後醍醐天皇は、急遽、御所を脱出し(女装をされて脱
 出されたと言われている)、8月27日には笠置山(京都
 府相楽郡)に至り、挙兵した。
  護良親王も、吉野で兵をあげた。
  また、楠木正成も河内国で兵をあげた。
1331年9月2日、笠置山にて、後醍醐天皇側と鎌倉幕府側
 との間で戦いが始まった。
  最初、幕府側は、天皇が比叡山にいるものと思ってい
 たが居ない事に気付き、9月2日に、笠置山を包囲して、
 攻撃を始めた。幕府軍75000、天皇側3000余、
  天皇側は少数であったが、よく善戦した・・が、9月
 28日に、幕府側が山に放火するなどし、天皇側は総崩れ
 し、陥落した。
  数日して、後醍醐天皇や側近は幕府側に捕らえられた。
1331年9月20日、戦いの最中の9月20日に、幕府は、後醍
 醐天皇が京都を去っているので廃位とし、皇太子を即位
 させた(光厳天皇、後伏見天皇の第三皇子)。北朝の
 始まり。
1332年4月2日、後醍醐天皇が隠岐(島根県)に流された。
  捕らえられてから約6か月の後だった。
1332年9月28日、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇は、
 捕らえられ、隠岐に流されたが、
  笠置山を落ち延びて残った楠木正成は、護良親王を擁
 して、赤坂城(河内国、河内国府は大阪府藤井寺市、正
 成が挙兵した城)で、幕府軍と戦っていた。
  楠木正成500、幕府軍20万~30万。
  笠置山の戦いから、約1年の間、善戦したが、楠木正成
 (1294年~1336年)は、この日に、敗退した(赤坂城
 の戦い)
  楠木正成は、「楠木七城」と言う城や砦をたくさん持
 っていた。
  河内国金剛山にある千早城もその一つ。
  彼はこの城をうまく使い、また、金剛山の標高1125
 メートルの地形をうまく使い、
  また、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を味方に引き入れたり、
  また、作戦に奇策を用いたりして善戦していた。
1333年2月1日、護良親王が討幕の令旨を出す(太山寺文
 書)。
1333年4月9日、後醍醐天皇が隠岐から脱出した。
  名和長年が、船上山に天皇を迎えた。
  この頃、楠木正成らの活躍に触発されて、各地には討
 幕の機運は広まっていた。
  因みに、名和長年(なわながとし)は、鳥取県で海運
 業を営んでいた名和氏の当主で、武将。
  楠木氏も同様に、商業活動を行っていて、比較的裕福
 な武士だった。
  名和長年は、海運業であったため天皇を脱出させ得た
 のだろうし、天皇も船上山に迎えている。そして、その
 後、鎌倉幕府の倒幕運動に加わっている(船上山の戦い
 をしている)。
..
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2015年3月22日日曜日

(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年~1324年)

 題:(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年~1324年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1303年、アナーニ事件が起きた。
  ローマ法皇のボニファティウス8世とフランス王フィ
 リップ4世の対立からアナー二事件が起きた。
  フランス軍が、法王を襲撃した事件である。
  法王は死ぬ(キリスト教は、病気で死んだんだと言っ
 ている)。
  この頃、十字軍に対する批判が強くなっていた。
  また、ローマ教皇の権威と共にキリスト教の権威も揺
 らいでいた。
  権威を誇示するローマ法王との間で軋轢が生じていた。
  「すべて、教皇に服従すべきである」と宣言していた。
  時代は大きく変わっていたのに・・。
  このボニファティウス8世は、非常にぜいたくな生活を
 していると、また、教会の役職を金で売っていたと弾劾
 されている。
  また、このいざこざに、テンプル騎士団を解散させて、
 多くのお金を得る(財産没収)など、金に絡む話が多い
  (テンプル騎士団は、十字軍遠征などの略奪品で財産
 が一杯あった)。
1304年、後深草天皇が崩御した(1243年~1304年)
1305年、足利尊氏が生まれた(1305年~1358年)、貞氏
 の子。早くに源氏の再興の志があった。
  武蔵守に任ぜられて、尊氏と改名した。
  時勢を洞察して武士を糾合し、公家の中心の護良親王
 を失脚させ、1335年に、北条時行の征伐のために鎌倉に
 下り、ついに、中興政府に叛き、大挙して上洛した。
1305年、亀山天皇が崩御した(1249年~1305年)
1305年、この頃、羅針盤が発明された。
1305年、ジョット・ディ・ボンドーネというイタリア人
 画家兼建築家が居た。
  この年に、礼拝堂の内部装飾画を書いたりした。
  比較的、キリスト教の宗教画を多く描いた。
  イエスが十字架に磔になった後、降ろされて、聖母マ
 リアがその死を嘆くという状況があったとされ、その場
 面を『ピエタ』と言ったが・・、
  この画家の描いた「ピエタ図」は、他の画家と大きく
 違っていた。
  異常な違いなのであるが、聖書を読んでも分かる様に、
 イエスが磔刑になる場には、一緒に刑に処せられる強盗
 の十字架が立っており、そして、刑を執行する役目の刑
 執行人が居るという殺伐たる光景である。
  居る人と言ったら、聖書には、そのイエスの刑の執行
 を見ようと集まった群衆・見物人。これでほとんどとな
 っている。
  イエスの弟子は、馬鹿な事に、逃げて隠れてしまって、
 この場には居ない。居るのは母マリア、娼婦のマグダラ
 のマリア、他2人ぐらいの女性だけ。この状況は聖書に
 書いてある。
  しかし、ジョットのピエタ図には、仏教の涅槃図のご
 とく、多くの弟子や、人々や鳥や花などに囲まれた涅槃
 図の様になっている。
  ジョットは、明らかに、この東洋の釈迦の死の涅槃図
 をモンゴル経由で知っていた。
  シルクロードなどで、インド仏教の影響は、輸送・搬
 送される物と同時に、ヨーロッパ世界へ伝わっていた。
  キリスト教は、「一神教の壁があったから、伝わって
 いない」というが、これはまったくの嘘のプロパガンダ
 で、洗脳である。嘘とプロバガンだばかりをするキリス
 ト教というところとなっている。
1306年、我が国の商船が元に入り、貿易をした。
1308年8月10日、第9代将軍・守邦親王(1308・8・10~
 1333・5・22)
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。
  ローマ法王のクレメンス5世が、ローマを嫌ったとの話
 もある。そして、ここに、77年間、教皇庁は置かれた。
  ローマは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去
 った。
1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征(
 ~1313年)。
  イタリアが、神聖ローマ帝国に侵略された。
  ダンテは、これを「喜劇(コメディ)」と呼んだ。
  後に、ボッカチオが神聖をつけて「神聖喜劇」と呼び、
 「神曲」となった。
  ダンテが、あなたが喜劇と名付けたものが、神曲にな
 っていますと聞いたら、びっくりするだろう。
1310年、この頃、大友氏が、『元』と私貿易をした。
1310年、家畜図譜の早い例「国牛十図」ができ、馬は関東、
 牛は西国の言い方がみえる。
1311年10月3日、第11代執権・北条宗宣(1311・10・3
 ~1312・5・29)
1312年6月2日、第12代執権・北条熙時(1312・6・2~
 1312・5・29)
1315年7月12日、第13代執権・北条基時(1315・7・12
 ~1315・11・20)
1315年~1317年、西ヨーロッパの大飢饉。
  ヨーロッパが、天候異変により深刻な飢饉となる。
  餓死者多数。1315年には、150万人もの餓死者を記録
 した。また、疾病による死者も増加した。
  この飢饉は、ニュージーランドにあるカハロア火山の
 5年間も続いた火山活動によって引き起こされたとされて
 いる。
1316年7月10日、第14代執権・北条高時(1316・7・10
 ~1326・3・13)
1317年、文保の和談(ぶんぽうのわだん)。
  皇位継承のルールを幕府が仲介してまとめた。
  持明院統と大覚寺統との協議が行われた。
  この流れの中で、後醍醐天皇が討幕を決意していった。
1321年、ダンテが死んだ。
1322年、英国のマンデヴィルが地球が球形であることを
 説いた。
1324年、マルコポーロが没した(1254年~1324年)
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2015年3月20日金曜日

(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)

 題:(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1299年、オスマン帝国(オスマン・トルコ、イスラム国家)
 が建国された。
  15世紀には、東ローマ帝国を滅ぼして、その首都であ
 ったコンスタンティノーブルを征服した。
  最大領土に、1683年になったが、カナンの地(イスラ
 エル)も完全にこの帝国に殲滅されている。
  この国の出現は、西欧キリスト教国にとって「オスマン
 の衝撃」であった。
  また、西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を
 挫折させた。
  この国の歴史は、1922年のトルコ革命による滅亡まで
 の620年以上の長期間、続いた。
13世紀~15世紀、インカ帝国:1200年頃に興り、13世紀
 ~15世紀に繁栄を極めたインカ帝国は、大量の黄金を使
 った工芸品を所有していた。
  これらは、1533年に、スペインによって滅ぼされた時
 (最後の王アタワルパは莫大な身代金を積んだにもかかわ
 らず殺された)、王族がチチカカ湖に投じたという。
  この伝説は、1988年の日本とボリビアの共同調査で証
 明された。
  エクアドルからチリに及ぶ大帝国だった。
  巨大な石造建築・土木灌漑(かんがい)・織物などの
 高度な文明を有していた。
13世紀、タイ(スコータイ朝とアユタヤ朝):13世紀中頃
 に、中国の雲南地方から南下したタイ族が、スコータイ朝
 を建設したが、短命に終わる。
  タイ人による最初のタイ王朝(1257年~1350年、年代
 は諸説ある)。
  14世紀中葉に勃興したアユタヤ朝(1351年~1767年)
 が417年間続いた。
  ビルマのアラウンパヤ朝の攻撃により、1767年に滅亡。
  山田長政はこの王朝のもとで活躍。
  中国や琉球と盛んに貿易を行った。
13世紀、外国では、13世紀に既に特許(慣習法)が付与さ
 れていたと言われている。
  日本は明治4年になってから。
13世紀、マレーシア:13世紀にジャワ島にあった王朝の勢
 力下にはいって、振るわなかった。
13世紀、彫刻:明月院上杉重房像(神奈川)
13世紀、絵画:禅林寺山越来迎図(京都)
13世紀、絵画:西本願寺親鸞上人像(京都、専阿弥筆)
1300年頃、中世の頃、鎌倉街道筋が発展した。
  「いざ、鎌倉」、幕府は、有力御家人や豪族を諸国の
 守護や郷の地頭に任命し、一旦鎌倉に異変が起こると、
 これら諸国の部者たちは手勢と共に武装して駆け付けた。
  京・駿河・遠江戸~鎌倉、下総・常陸~鎌倉、武蔵東
 部・下野~鎌倉、奥州~鎌倉、武蔵西部・上州~鎌倉、
 信濃・越後~鎌倉などのルートがある。
1300年、最古のポルトラノ型海図ピサ図が作られた。
  羅針盤の発明が、航海図を画期的に変え、実用的にした。
  ポルトラノは、イタリア語で沿岸航海図?の意味からと
 言われている。
14世紀初、絵画:14世紀初。愛染明王像(東京根津美術館)
13世紀~14世紀、絵画:13~14世紀。聖衆来迎寺六道絵
 入道(滋賀)
14世紀、工芸:14世紀。大鎧・兜・大袖、櫛引八幡宮赤糸
 威(青森)
14世紀、チベット:14世紀には、ツォンカバが出て宗教改
 革を唱え、黄帽派が成立し、次第に勢力を伸ばし、ダラ
 イ・ラマの政権が樹立する。
  清朝以後は、清、英、露の勢力争いの目標になった。
  現在は、中華人民共和国西蔵自治区になっている。
14世紀、アステカ王国:アステカ族が、メキシコ中央高原
 に築いた王国(14世紀~1521年)。
  アステカ族は、伝承によると、1300年頃にメキシコ盆
 地に到達し、先住民から農耕技術や文化を学び、勇猛さと
 団結力、また、婚姻に基づく同盟関係で勢力を伸ばした。
  首都のテノチティトランを、14世紀中頃に建設し、15
 世紀にアステカ王国を建設した。
  スペイン人キリスト教徒とキリスト教聖職者たちによっ
 て、1521年に滅ぼされた。
1300年、ルネッサンス/文芸復興:14世紀、イタリアに始
 まり、17世紀まで各国に波及した。
  古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動。
  中世のキリスト教に抑え付けられた人間性や、戦争が
 多発する社会の暗黒時代から、人間本来の姿を取り戻し
 たいの「再生・復活」の動き。
  19世紀の中葉ころに、歴史家のミシュレンやブルクハ
 ルトの用いた考え方で、原意は「再生」である。
  市民階級の繁栄を背景に、古典文化を模範とし、ヒュー
 マニズム(人文主義・人間中心主義)によって、あるが
 ままに人間や自然を見ようとしたものであり、近代文化
 の形成に貢献した。
  しかし、なお多くの中世的要素が存在したので、ルネッ
 サンスを近代の始まりとする考えには疑問が呈されている。
  また、ルネッサンスが、ビザンチン文化・イスラム文化
 の影響を受けたことも知られている。
  なお、古典文化の継承をカロリング=ルネッサンス、
 12世紀ルネッサンスなどによってとらえる事もできる。
1301年、新田義貞が生まれた(1301年~1338年)
1301年8月22日、第10代執権・北条師政(1301・8・22~
 1311・9・22)
1303年、北条高時が生まれた(1303年~1333年)
1304年、元と日本の関係に、逆の現象が現れた。
  日本の武装商船が、元(中国)の江南に度重なって襲
 来するようになった。
  元は、海防を強化させた。
  また、元の商人に海外へ出る事を禁じる『禁海令』を
 発布した。
  元が、倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉鎖主義へと
 態度を変化させ、日本との通交を回避するようになった。
  また、高麗においても、二度に及ぶ日本への侵攻で、
 および、第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が
 殆ど尽き、海軍力が弱体した。
  この事が、相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる原因
 となった。
  日本への2度の侵攻の敗戦と、その後の日本武装商船の
 活動によって、中国における対日本観は大きく変化し、
 狂暴で勇猛な日本人像、および、日本脅威論が形成された。
  例えば、南宋遺臣の鄭思肖は・・、
  「倭人は狼、死をおそれない。たとえ十人が百人に遇
 っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで
 戦う。戦士しなければ、帰ってもまた倭王の手によって
 殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべか
 らず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして
 入りがたく、戦守の計を為すべし」・・と述べている。
  この様な、日本恐るべしの資料は複数ある。
  なにしろ、クビライの日本侵攻が成功しなかったとい
 う事が国内で議論されて日本征討を思い止まったという。
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2015年3月19日木曜日

(増補版)45B:気になった事柄を集めた年表(1281年~1299年)

 題:(増補版)45B:気になった事柄を集めた年表(1281年~1299年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1283年5月3日、幕府(北条時宗)が、北条兼時(かねとき、
 時宗の異母弟)を播磨国に派遣し防備を固める。
1283年、この年、元では三度目の日本侵略計画を立案する
 が、地方官から人民疲弊を理由に計画の停止が要請された。
1283年頃、吉田兼好(よしだけんこう、兼好法師、官人、
 歌人)が生まれた(1283年頃~1353年頃)、徒然草を
 書いた。
1284年4月4日、第9代執権・北条貞時(1284・4・4~
 1301・8・22)、前執権の北条時宗は若いがよくやった。
  この日に、北条時宗は没している、32歳だった。
  墓所:神奈川県鎌倉円覚寺。
  元寇の心労が重なったのだと感じる。心臓病と言われ
 ている。
  特に、2か月以上の弘安の役の戦いの大作戦が要した時
 は、時宗の名義で作戦指示が出されている。また、時宗
 の作戦を受けた御内人が戦場へ派遣されて部隊の指揮に
 あたっている。
  何度も、元朝からの国書などの威圧に屈せず、また、
 一貫して返牒案を採用せず、ひたすら防備を固めた。
  また、防備陣の配備など、一致して西国御家人に戦争
 の備えをさせた。
  また、三度目の襲来に備えての防備にも色々と国防強
 化に配慮した。今、日本の国難を救った英雄とも評され
 ている。
1284年7月、元の使いが、対馬に来る。
1284年7月18日、一条実経が没した。
1284年10月3日、幕府が北条時国を常陸に誅す。
1285年、鎌倉の円覚寺が建てられた。建築:円覚寺舎利殿
 (神奈川、唐様)
1285年、霜月の乱(霜月騒動、しもつき)。
  安達泰盛(やすもり、1231年~1285年、幕政上、重要
 な地位を占めた。娘は北条時宗に嫁し貞時を産む。外様代
 表)と平頼綱(内管領)が権勢上で対立し、この年、一族
 とともに滅ぼされる(秋田城介の乱ともいう)→平頼綱の
 勝利→のち長崎氏へ主導権移動(平禅門の変)。
  北条氏と有力御家人との間の最後の戦い。
  蒙古襲来以来の内外の諸問題の多い中で、幕政運営を
 巡っての対立が激化した。
1289年8月23日、一遍が没する(1239年~1289年)
1289年10月9日、第8代将軍・久明親王(1289・10・9~
 1308・8・4)
1290年4月25日、院旨をもって異国降伏の祈祷を命じた。
1291年9月、元が、6000人の軍で、瑠求(りゅうきゅう)
 に侵攻する計画をたて、翌年の1292年3月に、元が、瑠
 求に武力侵攻した。
  クビライの後を継いだテムルは、即位後の1297年9月
 に、再度、瑠求へ侵攻し、島民の130人を拉致した。
  この「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説がある。
1292年、高麗使が来朝する。これに返書を出さない。
1293年、鎮西探題が設置された。
  第9代執権・北条貞時の頃、北条兼時・名越時家が派遣
 されたのが創始で、それまで設置されていた鎮西談議所
 は廃止された。
1294年2月18日、フビライ(モンゴル帝国の第5代皇帝)
 が没した(1215年~1294年)、大都宮城の紫壇殿で病
 没した。
1294年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫テ
 ムルが、モンゴル高原南部の上都(じょうと)で即位した。
1295年11月、イギリスのエドワード1世(イングランド王)
 が、スコットランド遠征の戦費捻出のため招集した議会
 (模範議会、もはんぎかい)。
  キリスト教の高位聖職者や貴族、各教区からのキリスト
 教司祭、各州の騎士などから議員を集めて議した。
1297年、御家人の窮乏:原因:
  (1)生活の向上と大番役・鎌倉番役の負担。
  (2)分割相続(惣領制)による領地細分化。
  (3)貨幣経済の進展→出費の増大→所領の質入れ・
 売却→恩賞の打切りに対する不信・不満。
  (4)元寇の影響:戦費負担、幕府の恩賞対策の失敗
 (と言っても、戦いに勝利したって、与えるようなもの、
 新たに得たものはなかった)。
  永仁の徳政令:御家人の土地売買・質入れの禁止。
 売却後20年以内の土地の無償返還、御家人関係の金銭貸
 借訴訟の不受理(1298年廃止)。
  徳政令の結果:窮乏の激化→御家人の離反。
  御家人:鎌倉時代には、幕府直属の家臣を言った。
 御家人の中、源氏の祖先以来のものを塁代(るいだい)
 御家人、
  頼朝の時に御家人になったものを新加(しんか)御家
 人とも言う。
  御家人の義務は、御家人役(大番役、鎌倉番役、兵役
 など)の奉公である。
  鎌倉末期には守護に従属するものが多くなり、鎌倉幕
 府体制は崩壊に向かった。
  幕府の衰退:有力守護の出現:分割相続→有力御家人と
 北条氏の対立、得宗家(北条氏の嫡統の家督)の専権。
  霜月の乱:1285年、安達泰盛(外様代表)と平頼綱
 (内管領)の対立→平頼綱の勝利、のち長崎氏へ主導権
 移動(平禅門の変)。
  徳政令を出し、越訴・質権・売買地・利銭出挙のこと
 を定めた。鎌倉幕府への不満が高まった。
  徳政令:本来は国全体に仁政を施す事であるが、1297
 年に永仁の徳政令は、御家人の所領の喪失を防ぐために設
 定したものであった。
  御家人は、非御家人・凡した(ぼんげ)に売り渡した
 所領は、20か年を過ぎても取り戻すことができた。
1299年、元の最後の正使。
  クビライの後を継いだ第2代皇帝・テムルは、補陀禅寺
 の僧の一寧を正使として国書を託して日本へ派遣した。
  これが、元が日本へ派遣した最後の使節団となった。
  鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の命によって、使節団
 は伊豆の修禅寺に留め置かれた。
  後に、僧の一寧は高僧であったため、日本側は厚遇を
 持って迎えた。
  鎌倉の住持を務めたり、後宇多上皇の招きで京都の南
 禅寺で務めるなどしている。
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2015年3月18日水曜日

(増補版)44B:気になった事柄を集めた年表(1280年~1281年)

 題:(増補版)44B:気になった事柄を集めた年表(1280年~1281年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1281年6月16日~8月29日、蒙古の二度目の来襲があった。
 (弘安の役)74日間(前回の15日間の5倍近い戦闘期間)
  モンゴル帝国と高麗王国の連合軍、4400隻の艦隊は、
 元寇以前では世界史上最大規模の艦船数だった。
  前回の文永の役では、暴風雨を受けて敗退し、高麗の
 疲弊は酷く、その様子を、日本征討に加わった兵士たち
 は、戦闘による負傷と、帰還中の暴風雨により多くの負
 傷者・溺死者を出すなどしたために、今では田畑を耕作
 する者はわずかに老人と子供のみである・・と記録され
 ている。
  また、「民の疲弊はこの時よりはなはだしい時はなか
 った」との記録もある。
  そして、再び、日本征討軍を挙げるならば、高麗は、
 戦艦・兵糧の支給には耐えられない・・と、クビライに
 訴えている。
  しかし、またもや大軍団を編成して、再度、元と高麗
 の連合軍はやって来た。
  そして、今回の弘安の役で、また、暴風雨の神風が吹
 いた。それが、日本勝利の結果だと教科書には書かれて
 いるが、
  元側の資料の「高麗史」によれば、74日間の戦闘にお
 いて、日本軍が強く、(元側が)苦戦を強いられたこと
 が書かれている。
  そして、強い日本軍との戦いをどうするかの軍議にお
 いて撤退が決定したという。
  そして、その日本からの撤退の途上で、暴風雨に遭遇
 したという。
  暴風雨は、勝敗とは、直接の関係はないとなっている。
  また、気象学的に、過去の記録には、この6月から8月
 の戦闘が行われた時期の台風の記録がないため、台風以
 外の気象現象ではないかという見解もある。
  元軍が、日本軍との戦いに苦戦して撤退した様子は、
 元側の資料にあり、
  また、日本側の資料にも、同様の記載で確認ができる。
  元軍と戦って撤退させたという記述や、合戦し賊船一
 艘をを取ったとか、蒙古軍を追い返したとかの報告の飛
 脚による中央政権へ対しての軍事的報告や、
  「五壇法日記』や「関東評定衆伝」などにも記されて
 いる。
  日本軍の強さが分かり、またしても、暴風に会って、
 損害が甚大であったということで、第3回目の来寇は無
 かったのだと言える。
  74日間にわたる戦闘において、7月30日夜半に、台風
 が襲来したという記録への記述もある。
  元軍は、大損害を被り、約4000隻の軍船の内、残存艦
 船は200隻であったという。
  また、台風を逃れ、損害は軽微だった戦艦群もあった
 という記述もある。
  また、元史には、軍船が沈没し、壊れた船体の破片に
 掴まりながらも、岸に辿り着いた。
  江南軍の1000余人の兵を率いた管軍総管の船も壊れ、
 三昼夜漂流した末に合流している。また、将校の中には
 実際の溺死する者もいた。
  大元朝に人質に出されてい高麗国王の子息は、台風を
 受けて溺死している・・などの記述もある。
  また、停泊態勢をとっていた船もあったようだ、その
 艦隊は風浪対策をしていたのだろう。その差があったの
 だろう。
  元軍が、撤退を決議した軍議(総司令官や都元帥らの
 軍議)の記録に、
  張禧「士卒の溺死する者は半ばに及んでいる。死を免
 れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還
 できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食
 糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」。
 范文虎「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当
 たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるま
 い」・・などと、議論した末、結局、撤退することにな
 ったという。
  頑丈な船より兵卒を無理やり降ろして乗り込んだり、
 鷹島の西の浦より10万余の兵卒を見捨てて逃亡したとの
 記録もある。
  また、軍馬70頭を軍船から降ろして捨てて帰還したと
 かとか・・と。
  日本軍の士気も上がっていたようで、元軍の軍船に攻
 撃を仕掛け、追い掛け、乗り移って元兵の首を挙げ・・
 などの記述も見られる。
  日本軍は奮戦している。
  「千人塚」という元軍の死者を弔うために建てられた
 塚がある。
  また、「逃げの浦石塁」というのもある、ここから上
 陸した元軍が逃げて行ったという。
  また、置き去りにされた元軍の殲滅戦も日本軍は行っ
 ている。
  そして、逃亡して隠れていた元軍の兵士が、木を伐採
 して船を建造して逃げたともいう。
  置き去りにされた元軍の捜索もやっている。
  また、残された元の軍船を焼き払ったりもしている。
  福田兼重の父子らの日本軍による鷹島総攻撃によって
 10万余の元軍は壊滅し、日本軍は20000~30000人の元
 の兵士を捕虜にした・・という記録もある。
  この掃討戦の激しさを物語る地名も多く残っていると
 いう・・首除(くびのき)、血崎、死浦、地獄谷、供養
 の元・・など。
  高麗王の密偵が残した文に、
 「(鷹島掃討戦で死んだ)怨念の骸骨は山ほど高く、夜
 を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」・・と漢詩で詠
 んでいる。
  日本軍総司令官:鎮西(異国征伐)大将軍・北条実政、
  諸将・鎮西西方奉行、鎮西東方奉行、西方奉行一門、
 関東御使・軍奉行、肥後守護、薩摩守護、筑後御家人、
 豊後御家人、肥後御家人、薩摩御家人、伊予御家人、六
 波羅派遣軍など、60000余騎、
  元軍:140000~156989人、
  元戦艦:4400隻、
  損害:日本・不明、元軍(不帰還者)・84000~
 141290人、
  元軍捕虜:20000~30000人、
..
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2015年3月17日火曜日

(増補版)43B:気になった事柄を集めた年表(1268年~1280年)

 題:(増補版)43B:気になった事柄を集めた年表(1268年~1280年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  蒙古(モンゴル帝国)の要求は、服属しろ(ふくぞく、
 服従して下につけ)、挨拶に来い、貢物を持って来いだ
 った。
  世界中を荒らしまわっているモンゴル帝国の猛威の情
 報は、当然、鎌倉幕府の耳にも入っていただろう。
  隣国の高麗だって、何度も侵攻を受けているし・・、
  今・現代でも、グローバルスタンダードは正義なのだ、
 TPPは正義なのだ、その結果の日本の市場が欲しいと主
 張され、特に、農業市場が貰えれば美味しいよと言われ
 ている。これだけしつこくアメリカは、日本に言うのだ
 から、アメリカにとって、余程、美味しいのだろう。
  自民党が、公約してまでして守りますと言っているが
 ・・?
  元寇・・朝廷と鎌倉幕府を先頭に、日本中は大揺れだ
 った・・、こんな窮地の時に、急に、執権になった18歳
 の若者執権・北条時宗の心はどうだったのか?
.
1268年7月17日、朝廷が、異国が降伏しますようにと祈願
 する。日本はこの一点で纏まっていた。
1269年3月7日、蒙古の使い・黒的らの国使と、案内役の
 高麗の国使らが、対馬に来て、返牒する様にと要求した。
  対馬島民が拒んで、押し問答をしたため、対馬島民が
 蒙古に捕まり、蒙古に連れ去られてしまった。
1269年4月26日、頭を痛めている朝廷、この日、後嵯峨法
 皇が、御所で評定を開いた、そして、蒙古への返牒につ
 いて議した。
1269年7月下旬、蒙古の使者が、7月下旬になって、先の
 対馬島民の二人を連れ、高麗に来た。
  そして、高麗では、二人の使者に日本人の島民二人を
 伴わせ、蒙古からの国書に、高麗の国書を添えて、日本
 に向かわせた。
1269年9月17日、蒙古の使者と高麗の使者が、対馬に着き、
 ついで九州の大宰府に到着、日本に対し返答を迫った。
  朝廷では、今度は返事を送ろうという事になり、菅原
 長成が、その草案を作った。しかし、幕府は先方の牒状
 は無礼であるとの理由から、使者たちを追い返した。
  朝廷からの返書の草案は握り潰した。
  蒙古から来た奉書の例(意訳)最初に送られて来たも
 のなので無礼な感じはない:
  天の慈しみを受ける大蒙古国皇帝は、書を日本国王に
 奉ず。
  朕(フビライ・カン)が思うに、いにしえより小国の
 君主は、国境が相接していれば、通信して親睦に努める
 ものである。
  まして我が祖宗(チンギズ・カン)は、明らかな天命
 を受け、天下を領有し、遠方の異国にして我が威を畏れ、
 徳に懐く者はその数を知らぬ程である。・・中略・・
  高麗の君臣は、感謝し敬い来朝した。
  義は君臣なりと言うが、その喜びは父子の様である。
  この事は王(日本国王)の君臣も知っている事だろう。
  高麗は、朕の東藩である。
  日本は、高麗にごく近い。
  また、開国以来、時には中国と通交している。
  だが、朕の代に至って、いまだ一度も誼(よし)みを
 通じようという使者がない。
  思うに、王国(日本)は、この事をいまだよく知らな
 いのではないか。
  ゆえに、特使を遣わして国書を持参させ、朕の志を布
 告させる。
  願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び、もっ
 て互いの親睦を深めたい。
  聖人(皇帝)は四海(天下)をもって、家となすもの
 である。
  互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだ
 ろうか。
  兵を用いることは誰が好もうか。
  王は、其の点を考慮されよ。
  不宣(ふせん、手紙の終わりに添える語)。
1269年9月17日、この同じ日、高麗の使者の金有成と高柔
 らが、対馬に来て、先の対馬島民の二名を返し、国書・
 蒙古中書省牒を送った。
  蒙古中書省牒は、蒙古国の中書省から日本国王に宛て
 た牒書形式の文書という意味。
1270年1月、朝廷が、蒙古への返牒を鎌倉へ下した。
  幕府は、これを押さえ、送らなかった。
1270年1月11日、蒙古船が対馬に来る。
1270年、第7回十字軍。
1271年、蒙古の使いが国書を呈した(ていする、差し出す)。
  幕府はこれを朝廷に進上した(しんじょう、目上の人
 に送る書状の敬意を表す語)。
  天皇は、勅使を伊勢に派遣し、異国の降伏を祈願した。
1271年5月、この頃より全国的に旱魃(かんばつ)が続く。
  幕府は民心の動揺を抑(おさ)え、その救済と幕政の
 維持を計った。
1971年9月2日、幕府が、高麗からの牒状を朝廷へ奏した。
1271年9月12日、蒙古の使者・趙長粥が筑前国に来航した
 (来襲の予行演習か?)
1271年10月23日、後嵯峨法皇が、公家をして、蒙古の牒
 状を議した。
1271年12月16日、朝廷が、勅使を伊勢に遣わして異国の
 降伏を祈願した。
1271年、イタリアのマルコポーロが中央アジア・支那・
 インドに旅行した。後の東方見聞録で、日本が一躍脚光
 を浴びるようになった。
1271年、蒙古のフビライ・ハンが、首都を大都(北京)に
 おき、国号を元と改めた。
1272年2月11日、北条時輔(ときすけ)の乱。第5代執権・
 北条時頼の長男。謀反の疑いで襲撃を受けた。
  蒙古襲来の近い時に団結を強めたいとして行われた気
 配がある。北条氏惣領家系に集中したい、させたい。
1272年5月、高麗の使いが、元の牒状を携えて来る。
1273年3月、元の使い・趙長粥が大宰府に来て、京に入る
 を得ずして去る(もう、日本の決心を悟ったのだろう。
 戦うという気配を感じて去ったのだろう)。
1273年5月27日、北条政村が没する。
  青年執権・時宗を支えていた前執権の政村が没する。
  いよいよ蒙古の来襲が迫る。
1273年、一遍が時宗を開いた。
1274年2月14日、幕府が、日蓮の赦免をする。
1274年、日蓮上人が佐渡の流刑を終え、信徒の招きで、
 身延山に入山した。
1274年11月11日~26日、蒙古が来襲した。文永の役。
  蒙古軍が対馬・壱岐を侵し、ついで、肥前・筑前に上
 陸した。15日間。
  一夜、大風雨が起こり、蒙古船は沈没した。
  元および高麗の連合軍の戦力:
  兵力:元・27000~約40000人、日本・数千?
  損害:元(不帰還者)13500人、日本・数百人?
  船の数:元・約900隻、日本・約300隻、
  武器・元・火薬兵器、
  鎮西奉行の少弐景資(しょうにかげすけ)の指揮で御
 家人は奮戦する。
  暴風もあって元・高麗軍は敗退した。
  異国警固番役:幕府が元の来襲防衛のため、御家人に
 課した沿岸警備の軍役のこと。文永の役後に制度化され
 た。
  九州の御家人は、博多・今津・筥崎(はこざき)など
 受持ち場所を3ヶ月交代で警備した。
  この制度は、幕府が滅びるまで続けられ、御家人にと
 って重い負担となった。
  また、中国・四国の御家人には、長門・播磨を警固さ
 せた。
  蒙古軍は、実際は、ほとんどが沈没し、不帰還(全滅)
 だったのだろう。
1275年、夢窓疎石が生まれた(1275年~1351年)
1275年9月7日、幕府が、蒙古の使者・杜世忠(とせいちゅ
 う)らを、鎌倉の竜の口で斬った。
  朝廷は、幕府の公事を減じ民力を休養して兵備を厳に
 す。
  九州の御家人に異国警固番役を課し、博多に石塁を構
 築した。
1275年11月、幕府が、元寇によって、北条実政を鎮西に
 遣わした。
1276年10月23日、北条実時が没した。
1278年12月23日、北条時宗が、宋に書を送り、硯徳の僧
 を招聘する。
1279年7月29日、幕府が、元の使いを博多で斬った。
  蒙古のフビライは、使者の周福(しゅうふく)と欒忠
 (らんちゅう)を日本に遣わしたが、幕府は、この両名
 を斬首した。
1279年、元朝(蒙古)が、南宋を滅ぼして、中国を統一し
 た。
  元朝は、中国の政治制度を採用したものの、モンゴル
 至上主義をとり、ラマ教崇拝、モンゴル語を公用とし、
 漢民族を低い位置に置いた。政治的には不安定であった。
1280年6月5日、幕府が、北条兼時を長門国守護に任命した。
1280年12月8日、幕府が、鎮西守護・御家人らを戒め、同
 心協力して外寇に備えさせる。
1280年、インドネシア:13世紀末、マジャパ人朝が興り、
 16世紀まで続く。この頃からイスラム化が進んだ。
..
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2015年3月16日月曜日

(増補版)42B:気になった事柄を集めた年表(1247年~1268年)

 題:(増補版)42B:気になった事柄を集めた年表(1247年~1268年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1247年、モンゴル帝国が4度目の高麗への侵攻をした。
1248年12月23日、幕府が、百姓と地頭との訴訟法を制定
 した(吾妻鏡)
1249年9月、幕府が、引付衆を設置した。
  引付衆:時頼が設置。評定衆の下にある。裁判の要件
 は、最初に引付会議で評議し成案を得て、評定会議の判
 決に委ねる。裁判の能率化をはかって設置した。
  この引付衆は、評定衆が頭人として入り、北条氏一門
 がその頭人となった。引付とは、後の手引となる記録・
 文書のこと。
1250年4月、幕府による庶民への帯刀禁止令、また、政所
 への直訴を禁止した(地頭や地主の推挙を必要とした)。
1250年11月、幕府が、博打(ばくち、金品を賭けて勝負を
 争う事)の禁制の命令を出した。
  双六(すごろく)も、さいころの偶然性に頼るところ
 から、賭博(とばく、金品を賭けて勝負を争う事)とし
 て行われた(禁止)
1250年頃、宋との密貿易が盛んに行われた。幕府、密貿易
 を禁じた。
13世紀半ば、アイスランドが、13世紀半ば以降、ノルウェ
 ー、続いてデンマークの支配を受けて、長い時代を過ごす。
1251年5月15日、北条時宗が生まれた(1251年~1284年)、
 18歳の時、第8代執権となる。
1252年9月30日、沽酒(こしゅ、酒の売買)の禁、鎌倉期
 には京都では酒屋が大変多い状態だったという。
  幕府が調査すると酒壺が3万7274個あったという。
1253年8月28日、道元が没した(1200年~1253年)
1254年1月10日、鎌倉、大火。西風烈しく、人家数百戸を
 焼失。
1254年、マルコポーロが生まれた(1254年~1324年)
  イタリア人の商人であり、旅行家。叔父に商取引を学
 んでおり、叔父と共に、1271年に、陸路で中国に向かい、
 元の上都に到着した。
  フビライに厚遇されて17年間滞在し、各地を旅行した。
  1295年に、海路でベネチアに帰国した。
  帰国後、戦争に志願し捕虜となり、その監獄で旅の話
 をし、それが後に「東方見聞録」となった。
  この書は、コロンブスやフラ・マウロの世界図作成な
 ど、多くの人物やヨーロッパ地理学などへの刺激や影響
 を与えた。
1256年、第6代執権・北条長時(1256年11月22日~1264
 年8月11日)
1258年1月29日~1258年2月10日、モンゴル軍が、バクダ
 ットを占領した(バグダードの戦い、バグダッド包囲戦)。
  この当時、イスラム帝国アッバース朝は、世界で最も
 栄華を誇っていた。学問や文化的にも優れていた。
  ヨーロッパのキリスト教諸国は、医学をはじめ、種々
 の学術のことや知識など、多岐に渡り多くを学んでいた
  (この恩あるイスラムの国を、キリスト教国は未開の
 文明国と卑下していた)。
  そのバクダッドが、モンゴル軍によって徹底的に破壊
 され、市内の「知恵の館」や図書館が破壊され、収蔵さ
 れていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によっ
 て燃やされたり、川に捨てられた。
  メソポタミア文明やイスラム文明の築いた貴重な遺産
 が消失した。
  また、薬学から天文学などの学術書、歴史的に貴重な
 書も逸してしまった。モスク、宮殿、病院も略奪、破壊
 し尽された。
  市民も皆殺しにされ(市民の死者、20万人~80万人、
 200万人説もある)、バクダッドは、数年間、無人とな
 った。モンゴル軍は、灌漑運河を徹底的に破壊したため、
 人が住めなくなり、衰退してしまった。
  東西交易の中心地として繁栄を極めていた地が・・。
  世界最大の都市であり、精強な軍隊もいた(5万、全
 滅)。この頃から始まったモンゴル帝国の大規模な西征
 に攻略されてしまった。
  1257年11月にバクダッドを攻囲したモンゴル軍は、史
 上最大規模だったという(12万)。大規模なキリスト教
 徒の派遣団もモンゴル軍にいたという。また、中国人の
 銃の専門家も1000名いたという。
  2月10日に、アッバース朝が降伏すると、モンゴル軍は
  2月13日にバクダッドに流れ込み、
  それから1週間にわたって、虐殺、破壊を行った。
  チグリス川は血で赤くなったという。
  大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。
  モンゴル軍は逆らず降伏すれば破壊はしないとした(
 モンゴル軍の戦術)。
1258年、モンゴル軍が、高麗を征服した(第6次侵攻)。
  1253年から1258年にかけて、断続的に破壊・略奪が
 行われた。
  1254年の第一波には、高麗人の20万人が捕虜になり、
 殺されたものは数え切れずと言われた。
  「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を
 蔽う(おおう、遮ってかくす)」という惨状だった。
  モンゴル宛ての国書で、高宗は「今まで我が国が貴国
 に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国
 へ属するのを嫌がったためであり、崔竩が死んだ今、た
 だちに都を戻し、貴国の命を聞きます」と、全面的な従
 属を宣言した。
1259年、モンゴル軍が、南宋に侵入した(第2次)。
  第1次が1235年~1241年、第2次が1253年~1259年、
 第3次が1268年~1279年、
  1276年に南宋は完全に滅びた。
  クビライは、1251年に南宋の侵攻を計画したという。
  クビライにとって南宋攻略は難しかったという。
  今までの、騎兵主体の作戦を止め、歩兵の大兵団とし
 た。
  長期戦の構えでいた。
  また、敵将をなるべく無傷で捕らえ、大いに優遇して、
 味方に引き入れようと努めた。
  寝返ってクビライに忠誠を誓う将も現れた。
  人民の衝撃も大きく、また、クビライは、その将の人
 脈を使って調略(ちょうりゃく、はかりごとをめぐらす
 こと)した。これは効果があった。
  南宋は、急速に基盤を弱めた。
  それを見て、クビライは南宋へ大侵攻を決定し、空前
 の大軍を投入した。
  そして、略奪を禁ずるなど丁重に攻めて行った。
  その効があり敵兵の投降が多かった。
  そして、崖山の戦いで南宋軍は撃滅され、滅びた。
1260年9月3日、モンゴル軍とキリスト教徒諸侯軍の連合軍
 とが、マムルーク朝軍へ仕掛けた戦い(アイン・ジャー
 ルートの戦い)。
  マムルーク朝は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャ
 ーズなどのイスラム王朝の国。
  マムルーク朝が勝利した。モンゴル軍の西進は阻止さ
 れた。残るは東進・・日本が、まだ、ある。
  このモンゴル軍には、キリスト教の十字軍が攻めて作
 ったシリア・パレスチナの地にある十字軍国家の諸国軍
 もモンゴル軍に攻略され服属し(ふくぞく、服従して下
 につくこと)、加わっていた。
  モンゴル軍は敗れて、西進は止まった。
1260年頃、金沢文庫が、この頃、創立された(北条実時)
1262年11月28日、親鸞が没した(1173年~1262年)
1263年11月22日、最高権力者・北条時頼が没した(1227
 年~1263年)
1265年、イギリスに下院の基が出来た。
1266年3月6日、幕府が引付衆を廃止した。
1266年7月4日、北条時宗、将軍宗尊親王を廃した。
1266年7月24日、第7代将軍・惟康親王(1266・7・24~
 1289・9・14)
1266年11月25日、蒙古(モンゴル国)の使者二人が高麗
 に到着した。
  使者は、高麗に宛てた国書と共に、日本に宛てた国書
 を携(たずさ)え、高麗に日本への道案内を命じた。
  しかし、高麗の裏工作により、使者は日本に至らなか
 った。
  蒙古は、高麗の誠意のなさに激怒し、次の年の再度の
 使者派遣となる。
1267年8月、蒙古(モンゴル国)は、再び、使者を高麗へ
 派遣した。
  高麗王は、仕方なく使者を日本へ派遣した。
  使者は、前回の蒙古の国書と、高麗からの国書を携(
 たずさ)え、次の年(1268年)の正月に九州に到着した。
1267年、大都(だいと、モンゴル語でカンバリク)は、モ
 ンゴル帝国(元朝)のクビライ・カンが、1267年から
 26年を費やして、現在の北京の地に造営した、モンゴル
 人が築いた都市で、現在の北京の前身。
  中国で、国都を新しく作るのは、常に、非漢族政権で
 ある。
  国号を「大元」としたのは、「おおいなるもと」、す
 なわち「天」(てんぐり)のことであった。
  てんぐりは、古来、トルコ=モンゴル系の北方騎馬民
 族が、共通して崇(あが)めて来た神概念である。
  偶像を作らない抽象的超越神である。
  フビライ・ハーンは、「大元」という国号を名乗り、
 その天の下の「地」の中心である帝都に「大都」という
 名を与えた。
  これが、引き継がれて、後に北京となった。
  モンゴルなど北方民族が、中国に理念を与え、君臨し
 ていた。
1267年、後宇多天皇が生まれた(1267年~1324年 91代)
1268年1月16日、蒙古の使者が、大宰府(だざいふ)に来
 た。
  蒙古と高麗の国書は、大宰府の最高指揮者・武藤資能
 (すけよし)に手渡された。
1268年1月18日、蒙古国牒状が、鎌倉に到着。
  牒状(ちょうじょう):1順番へ回して用件を伝える
 書状。回し文、国から国への書状、国書)。
  蒙古の国書は、表面的には両国の通交関係の樹立の要
 求であったが、その内容は、日本の服属(ふくぞく)を
 求め、来貢(らいこう)せねば武力で討つという脅迫で
 あった。
  幕府は、この重大事件に対し、連日衆議をこらした。
  しかし、この当時は、外交権は形式的にせよ朝廷にあ
 ったので、国書は幕府より朝廷に2月7日に回された。
1268年2月7日、幕府より、蒙古と高麗の国書が、朝廷に
 奏せられた。
  朝廷では、この国書の威嚇的な文辞に無礼を憤り、返
 牒あるべからずと、2月19日に決定した。
1268年2月19日、蒙古の国書に対し、返牒あるべからずと、
 朝廷で決定し、蒙古の使者はむなしく帰った。
  この国書到来の噂(うわさ)は、日本中に広まり、全
 国的に緊張が高まって行った。
  蒙古来襲を覚悟し、朝廷は、直ちに蒙古調伏の祈祷を
 命じ、また、幕府に、西国の御家人に夷狄(いてき)の
 来襲に備えるように命じた。
1268年3月5日、北条時宗が執権となった。
  幕府は、高齢の北条政村に替わって、18歳の時宗を執
 権にした。
  政村は、連署として時宗を助ける事となった。
  第8代執権・北条時宗(1268・3・5~1284・4・4)
..
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2015年3月15日日曜日

(増補版)41B:気になった事柄を集めた年表(1232年~1247年)

 題:(増補版)41B:気になった事柄を集めた年表(1232年~1247年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1234年8月31日、後堀川天皇が崩御した(1212年~1234
 年、86代)
1235年10月、京都に疱瘡が流行した。
1236年4月8日、京都に大風雷雨あり、大雹(ひょう)が
 降る。
1237年3月、鎌倉、大雨洪水。
1239年、一遍が生まれた(1239年~1289年)、鎌倉時代
 中期に時宗を開いた。四国の道後温泉本館近くの宝厳寺
 が生誕地。
1239年2月14日、北条泰時(第3代執権)が、佐々木泰綱
 に武蔵国小机などの荒れ地の開発を命じた。
1239年2月22日、後鳥羽上皇が隠岐で崩御した(1180年~
 1239年)
1241年、藤原定家(ふじわらのさだいえ、公家・歌人、小
 倉百人一首の撰者)が没した(1162年~1241年)。
  18歳から74歳までの克明な日記「明月記」(国宝)を
 残した。ドナルド・キーン氏が積極的に評価されている。
  人となりとして、どんなに後鳥羽院が褒められても、
 自詠の歌(左近の桜の述懐の歌)が自分では気に入らな
 いからと、新古今和歌集に入選する事に固く固辞(反対)
 した。
1241年、建築:厳島神社摂社客人神社社殿(広島)
1241年、幕府が武蔵野に水田を開いた。
  多摩川から水を引いた武蔵野開拓の大事業が、この年
 から始まった。
  2年前の佐々木泰綱の開発が成功したので、次の開発の
 段階へ進んだと考えられる。
1241年、ハンザ同盟が成立した。
  外来の商人は排他し、ドイツの北西部に位置する都市
 であるハンブルグとリューベックとの間で商業的な同盟
 をしようというもの。
  後に、経済だけでなく、政治分野でも勢力をなし、ま
 た、軍事連合も機能し、バルト海の覇権を握って行こう
 という行動へ進む。
  大連合組織へと行く(バルト海や北海やドイツなどの
 商人たちとその都市の集まりとなる)。
  ヴァイキングやスラブ系の人たちが煙たかった。
  この頃の14世紀の頃、デンマーク王国は巨大化しよう
 と邁進していた。領土拡大もしたいと行動していた。
  1300年代に入るとハンザ同盟の都市を占領したりして
 いる。ハンザ同盟都市との戦いとなる。
  ハンザ同盟にノルウェー王国やスウェーデン王国も味
 方する。こんな形で展開していく。
1241年4月、ワールシュタットの戦い。
  モンゴル帝国が、ヨーロッパを遠征する。
  その時のポーランドとドイツの連合軍と激突した戦い
 である。結果は、モンゴル帝国軍の圧勝。
  ワールシュタットは、ドイツ語で「死体の山」を意味
 する。
  モンゴル軍は、5万の戦闘経験豊かなモンゴル兵と、2
 万の徴用兵、そして、中国兵とペルシャ兵だった。
  相手の連合軍は2万5000、少数のテンプル騎士団も加
 わっていた。
  死者数は、モンゴル兵はごく少数で、連合軍は大多数
 とある。
  連合軍が普通に兵を配置したのに対し、
  モンゴル軍は、前列中央に陽動作戦用の訓練を積んだ
 軽装騎兵を配置し、その両側面に、馬の上から弓で矢を
 射る騎射の兵を置き、また、槍で接近戦の出来る兵も置
 いた。
  また、後方には、騎馬攻撃をする重装の騎兵が控えて
 いた。
1242年、四条天皇が崩御した(1231年~1242年)
1242年5月2日、京都が大風雨となり、6月3日には、洪水
 となる。
1242年6月15日、北条泰時が没した(1183年~1242年)。
  頼朝は、泰時を高邁(こうまい、志などが高く、衆に
 抜きん出ていること)な人柄と褒めている。
1242年9月12日、順徳上皇が佐渡で崩御する。
1243年、後深草天皇が生まれた(1243年~1304年、89代)
1244年4月28日、第5代将軍・九条頼嗣(1244年4月28日
 ~1252年2月20日 1256年没)
1245年3月2日、幕府が、殺生を禁じた。
1245年、ローマ法皇が、公会議で神聖ローマ皇帝を廃位だ
 と決定し、対立王を選出している。
  また、ポルトガル王を廃位に追い込み、弟を王位に付
 かせている。
  この様な結果、ローマ法王(教皇派)と皇帝派とが争
 う事になった。こんなことをあちこちでやっている。
  この様ないざこざから、南イタリアの王が、フランス
 のアンジュー家によって追い出され、教皇の力が南イタ
 リアに及ぶようになった(フランス勢力を取り込んだ)。
  また、この年、モンゴル帝国の来襲の恐怖があったた
 め、ローマ法皇は、偵察の意味と、来襲の防止工作をし
 たい意味もあって、修道士をモンゴル帝国へ送っている。
  そして、モンゴル皇帝の返書を持って帰国している。
  その返書には、モンゴル皇帝は、ローマ法皇に帰順(
 きじゅん、反逆や抵抗を止めて服従すること)をするよ
 うにと書いている。
  帰国後のこの修道士はローマ法王の怒りを買った。
  この修道士の偵察は、モンゴルの戦い方を見たりして
 いる。また、戦いの跡へも行って状況を偵察している。
  モンゴル皇帝にも会って話もしたが、モンゴル皇帝か
 ら従属せよと言われ話は進展しなかった。
  モンゴル皇帝側も紳士的に対応した。
1946年3月23日、第5代執権・北条時頼(1246年3月23日
 ~1256年11月22日 1263年没)
1247年、三浦泰村(みうらやすむら、御家人)などの一族
 が滅んだ(宝治合戦)。
  頼朝以来の御家人で、一緒に戦い、大功をあげる有力
 御家人だった。
  頼朝時代は、頼朝・北条氏に匹敵するほどでもあった
 (相模国や河内国に広大な所領を持った)。
  また、北条泰時の娘を娶って、北条氏と姻戚関係をも
 持った。評定衆の一人にまでなった。
  そして、将軍とも親密になり、その権勢は、北条氏を
 しのぐようになった。
  新しく執権になった時頼は、この三浦氏を危険視した。
  時頼は、政権中枢から穏便な引退を望んだ。
  この話を、評定の場で、三浦泰村は、頑なに拒んだ。
  北条時頼の提案も、穏便な北条重時との交代の話だっ
 た。
  ここに、三浦泰村のアンチ派の安達景盛が関わって来
 る。この年に、三浦泰村は挙兵した。
  そして、大敗した。
  北条氏の独裁色が強まった。
  合戦の直前には、和睦の会議も開かれていたという、
  その時、泰村は、緊張のあまり食べていた湯漬けを吐
 き出した事があったという。
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2015年3月13日金曜日

(増補版)40B:気になった事柄を集めた年表(1225年~1232年)

 題:(増補版)40B:気になった事柄を集めた年表(1225年~1232年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  天変地異が続く世の中となっている。大飢饉も起こる。
1225年10月29日、朝廷、新制36条を下す。民の事を思う
 徳政の意味を含んだ宣旨だった。
1225年12月2日、北条時村(ときむら、武将)が没した。
  歌人としても才が深く、新勅撰和歌集などに詠歌が収
 められている。
1225年12月21日、幕府(北条泰時)が評定衆を置く。
  執権とともに政所に列し、諸般の政務を合議・採決し
 た幕府の最高機関。その数は、11人~15人くらい。
  評定衆には、北条一門のほか、大江・中原・三善・二
 階堂・三浦・千葉・結城など法律に詳しいものと豪族層
 から選ばれた。
  これは、執権独裁を防ぎ、御家人、特に、豪族層(民
 に近い層)の利益を守るためにも必要として行われた。
  独裁防止のために、この様な機関を自ら創設したとい
 う日本人の素晴らしさがここにもある。
  最高の地位にある執権の同席する前で合議し、採決す
 るという議会制である。
  ヨーロッパなどには見られない政治体制で、ヨーロッ
 パの独裁的流れと対比し、その差が際立つ。
1225年12月21日、六波羅・鎮西両探題にも設置された。
1226年1月27日、九条兼実の孫(道家)の子・頼経を将軍
 とする(第4代将軍の将軍宣下)→将軍の有名無実化(宮
 将軍・みやしょうぐん、皇族将軍、親王将軍とも称される)、
  しかし、朝廷への尊重や親和が深まった、また、幕府
 存続の正当化もあった。第4代将軍・九条頼経(1226・
 1・27~1244・4・28 1256年没)
1226年、彫刻:鞍馬寺聖観音像(京都、定慶作)
1226年7月、鎌倉に、7月だというのに霜が降った。
1226年8月26日、太政官文殿、焼失する。
  文殿(ふみどの):太政官や院庁において、公文書や
 典籍の管理が行われた場所。
  この焼失のあと、官務文庫にその役目が移されている。
1227年、北条時頼が生まれた(1227年~1263年)、第5
 代執権となる。
1227年1月、正月、道元が肥後河尻に帰国し、曹洞宗を伝
 えた(1228年説がある)。
  禅宗が、急速に武士の間に広まった。
1227年4月22日、内裏、焼失。
1227年、西夏が、チンギス・カンに滅ぼされた。
  西夏は、中国・宋の北西に位置し、古代より居た羌(
 きょう)族のタングート族の国。宋の支配下にあった。
  独自の文字である西夏文字を持っていた。
  皇帝が、1038年に、国を建て、国号を大夏にした。
  後に、中国の金に服属し、北宋が滅びると広大な領土
 となった。
  そして、モンゴルが強大になるとモンゴル族に依存す
 る政策を採用した。
  しかし、軍事行動が国を疲弊させ、飢饉などで貧困が
 続くと民衆の心が離反、そして、政治腐敗や、皇帝が民
 を顧みないことなどがあり、
  モンゴルが、1205年に、西夏侵攻を開始し、何度かの
 戦いの後、1211年に、宮廷クーデター発生したりし、毒
 殺も横行し、滅亡に至った。
  因みに、西夏文字は、長い間、解読できなかったが、
 日本人の西田龍雄氏によって解読がなされた。
1227年8月18日、チンギス・カンが没した(1167年頃~
 1227年)。
  中国・満州あたりの回鶻(かいこつ、テュルク系遊牧
 民族国家)を起源とし、この国が解体の後に、バイカル
 湖方面へ南下し、モンゴル高原の北東部に広がり、11世
 紀には君主を頂き、有力な集団に成長した遊牧の民の国
 となった。
  チンギス・カンは、この民のモンゴル部に生まれた。
  西夏遠征や、金領の一部への侵攻が、最後の遠征とな
 った。
  1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で倒れ、死去
 した。そして、モンゴル高原に葬られた。
  その後、その遺骸は故郷へと帰ったが、その葬られた
 場所は、重要機密とされた。
  「東方見聞録」によれば、その遺体を運ぶ隊列を見た
 者は、機密保持のために、そのすべての人が殺されたと
 いう。
  また、埋葬地の痕跡を消すために、1000頭の馬を走ら
 せ、あたり一帯の地面を完全に分からないようにし、
  また、この様な事で、チンギスの死が敵国に知られれ
 ば攻められる恐れがあると考え、固く公表はしないよう
 にとされた。
1227年、チンギス・カンの死後も侵略の嵐はやまず・・、
  ポーランド・ハンガリーなどの東ヨーロッパ諸国、
  そして、イランより地中海東岸トルコに至る・・広大
 な地域を手中に収めた。
  キリスト教の甘い蜜の滴る国、乳の流れる国とある理
 想の国とされた地・カナン(イスラエル)も、この東ア
 ジアの国の軍門に下った。同時に、この東アジアの国の
 文化や宗教もこの地に流入し、東アジアの血も入った。
1228年、道元が、28歳の時、曹洞宗を開いた。
1228年7月、大風雨により京都の鴨川が氾濫するなどの天
 災が続いた。
1230年6月18日、北条時氏(ときうじ、泰時の長男)が、
 没する。
1230年7月16日、諸国に霜が降り、「ほとんど冬天のごと
 し」の記録がある。
  また、天候不順による大凶作が全国を襲った。
1231年、四条天皇が生まれた(1231年~1242年、87代)
1231年春、大飢饉が起きた。餓死者が続出した。鎌倉時代
 を通じて最大規模と言われている。
  また、この頃、武家と領家との間に土地の所領問題な
 どの係争が全国的に続出した。
1231年8月、蒙古の高麗への侵入が始まった(第1次高麗
 侵入)。高麗は首都を移してまでして戦った(約40年間、
 1231年~1273年)。
  朝鮮半島を統治していた高麗王朝へ、モンゴル帝国は、
 繰り返して戦争を仕掛けた。高麗の国土は荒廃した。
  この後、80年間にわたり、高麗はモンゴル(元朝)の
 支配下に置かれた。
1231年10月11日、土御門上皇、阿波に崩ず(1195年~
 1231年)
1231年11月3日、朝廷、新制42条を下す、寛喜新制(かん
 ぎしんせい)という。
  前年から始まった寛喜の飢饉に伴う社会の危機・不安
 に対し、後堀川天皇が、朝議を重ねて制定した。
  徳政の推進や、治安の維持に配慮したもの。
1232年、親鸞が、関東を発し京都へ向かった。
1232年5月14日、北条泰時を中心にして御成敗式目(貞永
 式が51条)を制定された。北条氏の政治が固まった。
  これは、幕府の法治主義(法律に基づいて国を治める
 こと)のもと、敬神崇仏、所領、罪科、決罰など、訴訟
 裁判に関する51ヶ条を制定したもの。武家法の確立を図
 るものであった、また中で、女性を尊重している所が素
 晴らしい。
  日本は、この様に、早い時代から女性の地位をしっか
 り確認していた。ないがしろにはしていなかった。
  また、北条泰時から、1225年に命を受けた三好康連
 (やすつら)が、御成敗式目の中心人物の一人として携
 わった。
  泰時・執権在位18年→御家人の帰伏。
  連署の設置:執権を補佐し公文書に書名。
  評定衆設置:重要政務、訴訟裁判(11人)
  制定の目的・幕政と訴訟裁判の基準、習慣の成文化→
 後に武家家法の範となる。
  内容:所領・土地訴訟についての規定、守護・地頭の
 職分と義務の規定、女性地位の尊重(女地頭、女子の相
 続権)。
  対象:当初は関東御家人→のちに全国的。
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2015年3月12日木曜日

(増補版)39B:気になった事柄を集めた年表(1212年~1225年)

 題:(増補版)39B:気になった事柄を集めた年表(1212年~1225年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1212年、鴨長明が「方丈記」を記したとされる。
  書き出しの以下の文は有名、
  「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水に非ず。
 よどみに浮かぶうたかたは、且つ消え且つ結びて、久し
 くとどまりたるためしなし」。
  隠棲文学とか、無常観の文学と言われているが、卓見
 して見通しているとも言える。大きく歴史を見て、その
 中の人間を見れば、真実を言い当てているとも言えるだ
 ろう。
  この記述の中で、1177年の都の火災、1180年に都で発
 生した竜巻、そして、その直後の福原京遷都、そして、
 1181年から1182年の飢饉、1185年の都の大地震と、実
 に多くの天変地異が起きている。
  この年代は、以下にも多くの天変地異を記しているが、
 その様な事が多かった時代の様だ。
1221年5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると山田重忠(
 やまだしげただ、宮方の武将)は、水野髙康(みずのたか
 やす、尾張国の豪族)ら一族とともに、院宣に応じて朝廷
 方として起ち、参じた。
1221年5月15日、尼将軍と言われた北条政子が御家人たち
 に対し檄(げき)と飛ばしている。
  「皆、心を一つにして奉るべし、これ、最後の詞なり。
 政大将軍(頼朝)の朝敵を征服し、関東(幕府)を草創
 して以降・・中略・・その恩すでに山岳よりも高く、溟
 渤(海)よりも深し」と。
  そして、宣旨は「ただ、相手を論じて非難していること
 に過ぎない」という事を話している。
1221年6月、朝廷方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川
 で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。
  しかし、朝廷側の武将の作戦・戦い方に齟齬(そご、物
 事がうまくかみ合わない事)が生まれる。
1221年6月15日、幕府軍が京に入り、承久の乱が集結する。
1221年7月13日、後鳥羽法皇を隠岐へ配流する。
  金槐集に以下の歌がある・・
  世のなかは つねにもがもな 渚こぐ あまの小舟の
 綱手かなしも     
  歌意:この世は無常だが、やはり常の世であってほしい。
  今まで波風もない好天に恵まれて、気の向くがままに漕
 ぎ進んでいた天の小舟(後鳥羽)は、(鎌倉幕府によって)
 阿摩の渚に繋ぎ止められ、悲歎の日々を送っている。
1221年7月21日、順徳上皇を佐渡国へ配流する。
1221年8月7日、幕府、京方公卿と武士の所領を没収し、勲
 功の将士にに付与する。
1222年2月16日、日蓮が生まれる(1222年~1282年)
1222年4月26日、幕府、承久の乱以後の守護地頭の処務(
 しょむ、処理すべきこと)を定める。
1222年5月28日、幕府、六波羅に命じて代官を派遣し、諸
 国守護地頭の濫妨(らんぼう、暴力で奪い取ること)を
 糾明させる。
1222年7月、鎌倉、大地震。
1222年、蒙古、アジア全域に勢力を広める。
1223年、運慶が没した(1151年頃~1223年)
1223年、承久の変の2年後のこの年に、幕府に敵対した公
 卿方の荘園に朝廷の宣旨によって補任された「新補地頭」
 に対し、その収入の率が定められた。新補率法(しんぽり
 っぽう):早く言えば、新しく地頭になった人たちの給料
 を定めた事。
  鎌倉幕府は最初の武家政権であるが、幕府には、優秀
 な人材が居た様だ。色々な法律などを定められる事が行
 き届いている感がする。
1223年1月23日、北条政子が、承久の乱以後に新補された
 守護地頭らの処務非違(ひい、検非違使の略)の注進(
 ちゅうしん、上申すること)を命令する。尼将軍が何か
 あったらすぐ言えと言っている。
1223年2月、僧明全・道元、入宋。加藤景正、これに随行
 する。
1223年5月、幕府、土御門上皇を阿波に遠流。
1223年5月14日、後高倉法皇、崩御する。
1223年5月22日、倭寇が、金州(かつてあった中国大連の
 近くの州)を侵略した。
1223年6月15日、新補地頭の得分の率法を制定する。
1224年、親鸞が、浄土真宗を開く(1225年?)。
1224年1月、親鸞が、「教行信証」を著す(草稿本)(完
 成は、1247年とされている)。
1224年6月13日、三上皇を配流させた北条義時が急死した。
  「吾妻鏡」には衝心脚気とある、衝心脚気は、脚気に
 伴う心臓機能不全で、呼吸困難となり、苦悶して死に至
 ること多しとある。
  しかし、異説があり、近習に殺されたという事件が起
 きたのだという。
  その子の泰時が執権を継いだ(6月28日)。
1224年6月28日、北条政子が、北条泰時と時房を将軍の後
 見とした(宮将軍がいる)。幕府の実質的支配者は北条氏。
  第3代執権・北条泰時(1224・6・28~1242・6・15
  1242没)
1225年5月22日、この頃、季節外れの大雪、洪水、隕石な
 どの天変地夭が続いた。
1224年6月10日、承久の乱の幕府方の軍師であった大江広
 元(おおえのひろもと)が死去した。
  初めは、朝廷につかえる下級貴族だったが、鎌倉に下っ
 て頼朝の側近となり活躍した。
1225年7月11日、源頼朝の妻(正室)の北条(平)政子が
 死去した(1157年~1225年)。
  伊豆国の豪族の北条時政の長女。
  流人であった頼朝は時政が監視役であった(北条氏は
 平氏系であった)。政子は、その頼朝と恋仲になってし
 まう。
  義経と静御前の件で頼朝が憤慨したとき、政子は、頼朝
 をなだめて、「(私は)闇夜をさ迷い、雨をしのいで貴方
 の所にまいりました」と言ったという。
  時政も、この二人を認めたのだろう。そして、すぐ長
 女・大姫が生まれたという。時政も頼朝の重要な後援者と
 なった。
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2015年3月11日水曜日

(増補版)38B:気になった事柄を集めた年表(1214年~1221年)

 題:(増補版)38B:気になった事柄を集めた年表(1214年~1221年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1215年1月、北条時政が没した(1138年~1215年)
1215年6月、マグナ・カルタがイギリスで制定された。
  ジョン国王が、家臣たちに強制的に署名させられた。
  国王が、教会勢力を抑えたり、諸侯の勢力を抑えたり
 してきたが失敗した。
  新たな課税は貴族らの同意を必要とすることを国王に
 認めさせた。
  また、第1条は、キリスト教会は国王から自由である
 (国王は教会に干渉するな)・・とある。
  このジョン王に続くヘンリー3世の時代には、聖職者・
 貴族・州騎士・都市代表が国政を議すようになる。
1215年、栄西が没した(1141年~1215年)
1215年、フビライが生まれた(1215年~1294年)。
  モンゴル帝国創始者のチンギス・ハンの孫。
  首都を、1271年に、北京の地に移し、首都名を「大都
 」とした。
1215年、彫刻:興福寺龍燈鬼像・天燈鬼像(奈良、康弁作)
1219年1月27日、源氏が滅んだ。
  源実朝(3代将軍)が、右大臣拝賀式で、鶴岡八幡宮で
 公暁(くぎょう、2代将軍・頼家の次男)に襲われて落命
 した(1192年~1219年、27歳)。
  実朝は、政治に希望を無くし、風雅の道に生きた(虚位)。
  吹く風は 涼しくもあるか おのづから、山の蝉鳴き
 て 秋は来にけり、『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)
 』所収。
  実朝は、鶴岡八幡宮に詣でた帰途、公暁に暗殺されたが、
 北条氏の傀儡(かいらい)同然だった。
  憂鬱(ゆううつ)な貴公子は、和歌に熱中し、少年の
 ころ献上された「新古今集」に多くを学んだ。
  上の歌は、新古今の藤原清輔(きよすけ)作「おのづ
 から 涼しくもあるか 夏衣 ひもゆふぐれの 雨の名
 残り」に学んでいるだろうが、較べてみれば実に素朴な
 歌。「蝉のなくをきて」とある。ひぐらしだろう。(朝
 日新聞、平成11年8月10日)
  実朝亡き後、後鳥羽上皇は、幕府内の政争を契機とし
 て、朝廷の勢力挽回を目指して、幕府の持つ地頭の任免
 権に対し、これを左右する院の権力を承認させようとした。
  しかし、上皇の期待に反し、北条義時は、これを手ひ
 どくはねつけ、逆に、弟の北条時房を兵1000と共に上洛
 させ、武威を持って拒否すると共に、再度に渡って、上
 皇の皇子の鎌倉将軍着任を強要した(宮将軍)。
  しかし、上皇はこれに応ぜず、承久の変の遠因となった。
1219年、チンギス・カンが西征を開始した。
  この1219年から1223年の、5年の間に、飛躍的に領
 土を広げた。1225年に帰還した。
1221年、後堀川天皇(在位、1221年~1232年)
1221年5月14日、後鳥羽上皇が、倒幕の兵を集める。
  承久の変につながる公武の対立:
  (1)幕府による荘園の拡大→旧勢力の不満が激化。
  (2)幕府の内紛→朝廷側の王朝国家再現企画。
  (3)後鳥羽上皇の討幕計画・北面の武士の他に西面
    の武士の新設、大社寺との提携(熊野・比叡山)
1221年5月15日、承久の乱。 
  朝廷側・後鳥羽上皇は、5月15日に、北条義時追討の
 院宣を下した。
  ここに古代貴族政権より中世・武士政権への変動の象
 徴的事件ともいうべき「承久の乱」が起こった。
  しかしながら、総勢19万余という圧倒的に優位な鎌倉
 の幕府方(御家人の安泰)の軍勢の前には、上皇軍・1万
 (在京・近国の武士)はもはや敵ではなく、戦いはわず
 か1ヶ月をもってあっけなく、幕府軍の勝利に終わった。
  変後の処理:仲恭天皇を廃し、後堀川天皇即位、三上
 皇の配流、院側所領3000ヶ所の没収。
  政治の革新:新補地頭の設置(戦功の恩賞→新補率法・
 11町に1町の免田・段別5升の加徴米)・六波羅探題の設
 置(京都の警備、朝廷の監視、三河以西の諸国御家人の
 総括)・太田文(守護に命じ諸国の土地台帳作成)。
  この戦いを伝える「承久記」には、京に乱入し、戦勝
 の勢いに乗じた関東武士たちの略奪・放火・殺戮・暴行
 は、さながら地獄の様相を呈したと記されている。
  乱後、義時は、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡
 に、土御門上皇を土佐に配流し、倒幕派の主な公卿・武
 家は斬首の刑に処すという下剋上の様相を呈した。
  また、3000か所と言われる皇室領の荘園を没収し、御
 家人を新たに地頭に補任し、ここに幕府による全国支配
 が確立した。
  京都守護・伊賀光季を殺し、北条義時追討の宣旨・院
 宣を諸国に下した。
  新補地頭:承久の乱の結果、置かれた地頭をいう。
  北条氏は、後鳥羽上皇方の公卿・武士の所領3000か所
 を没収し、そこに御家人を地頭として新規に任命した。
  彼らは、管理地11町ごとに1町の免田と段別5升の加徴
 米の徴集が認められ、山野河海の税は領家と2分する事と
 なった。
  こうして、地頭の土地と農民に対する支配力は著しく
 強まった。
  六波羅探題:幕府は、成立当初、京都守護を設置した
 が、承久の変後、朝廷対策と京都の警護を重視し、六波
 羅探題を設けた。初代は北条泰時・時房である。
  以後、探題は北条一門から任じた。職掌も増加し、三
 河以西の国々の政務を担当したが元寇後、鎮西探題の設
 置(1293年)によって九州は管轄外となった。
  執権に次ぐ重職であった。
  氷川清話(勝海舟)には以下の様に記されている・・、
  「承久の変(朝廷が、自ら武力によって幕府の討滅を
 企てた)が起きた。承久の乱の時には、北条泰時が、単
 騎で西に馳せ向かえば、行くこと3日で10万騎が集まった
 とは、当時の兵站(へいたん)や募兵の事は、羨ましい
 ほど整っていたらしい。これは、平生、経済の事に注意
 していたからのこと。陪臣であっても9代も続き、しかも
 国は富み、民服したのは、もっともの次第だ。北条氏の
 栄えたのは、つまり倹のためで、その滅びたのは、おご
 りのためだ」・・と、
..
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2015年3月10日火曜日

(増補版)37B:気になった事柄を集めた年表(1200年~1214年)

 題:(増補版)37B:気になった事柄を集めた年表(1200年~1214年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1200年、道元が生まれた(1200年~1253年)。28歳の時、
  曹洞宗を開く。
1200年、幕府が、念仏宗を禁止した。
1200年、朱子が没した(1130年~1200年)
12世紀末~13世紀初頭、モンゴル帝国:チンギス・ハンが
 モンゴルを統一した。
13世紀、日本の家系で、13世紀と16世紀の2世紀を貫いて
 古代以来、信用しうる系図を持っているのは、皇室と宮
 廷貴族以外は、極めてまれである。
  近世以降の名家の系図は、この2世紀以前には、容易に
 辿れない。
  古代の名族に結び付く系図を持ってはいても、たいて
 いは、近世に、その家が興隆して後、作り上げたもので
 ある。
  例えば、徳川家が、清和源氏に結び付いているのも、
 1566年、家康が松平を徳川に改めた頃から、1603年、
 征夷大将軍の間にかけて作り上げて行ったものである。
  つまり、13世紀から16世紀は、容易に結びつかない
 のである。
  この2世紀の混乱の中で、古代以来の文物は滅び、あ
 るいは土着し、風俗化して、かろうじて命脈を保った。
1200年頃、彫刻:興福寺金剛力士像(奈良、定慶作)
13世紀初め、彫刻:東大寺俊乗堂重源上人像(奈良)
13世紀前半、彫刻:六波羅蜜寺空也上人像(京都、康勝作)
13世紀初め、クメール帝国(カンボジア):続いて13世紀
 の初め、クメール帝国の繁栄が絶頂に達したときに、今
 日に残る1辺約3キロの正方形をした第4次アンコール・
 トムが造営された。
13世紀前半、この50年間に、ヨーロッパで、70も の大学
 が設立された。
1201年1月、城長茂(じょうながもち、越後国の武将)・
 資盛、叛す。
1201年10月、源通親(みなもとのみちちか、公卿)死す。
1201年、彫刻:東大寺八幡殿僧形八幡像(奈良、快慶作)
1202年7月22日、頼家が、従二位に叙され、征夷大将軍に
 宣下される(将軍になる)(1202・7・22~1203・9・
 7、1204年没)
1203年8月、頼家の病気を理由に、関東28ヶ国の地頭職、
 および、総守護職を子一幡に、また、西国38ヶ国の地頭
 職を弟千幡(実朝)に譲らされた。
1203年9月2日、北条時政が、比企氏を滅ぼす。
  比企能員(よしかず)は、源頼家とはかって北条氏を
 滅ぼそうとした。
  北条時政は、能員を自宅に呼び出して謀殺した。
  頼家の将軍位を廃して、伊豆国修善寺へ追放した(比
 企能員の変)
  それを、比企能員から見れば、「頼家が、急病になっ
 たのを理由に、一幡と千幡に譲らせた時政に対して憤っ
 ていたので、病回復した頼家と時政追放を相談していた」。
  これが時政に漏れた。
  頼家に嫁した能員の娘が一幡を産んだので、北条氏は、
 比企氏の勢力増大を恐れていた。
  能員謀殺の後、一族も滅ぼされた。
  北条氏による頼家の長子一幡(いちまん)とその外祖
 父比企能員(ひきよしかず)の暗殺。
1203年9月7日、源実朝が将軍となる。
  第3代将軍・源実朝(1203・9・7~1219・1・27、
 1219年没)。
  頼家の幽閉により、その弟千幡(せんまん・実朝)が、
 将軍就任。第1代執権・北条時政(1203・9~1205・7・
 9、1215年没)
1204年7月、2代将軍・源頼家(1182年~1204年)が、
 修善寺にて暗殺された。
1204年、キリスト教の十字軍(第4回)が、コンスタンテ
 ィノーブルを占領した。多くの略奪品を奪った。
  その略奪品は、ベネチアに運び込まれた。
  香料・宝石・織物などは、莫大な利益をベネチアにも
 たらした。略奪品の商売の都と化した。
  キリスト教に偏するNHKは、このベネチアをただた
 だ讃美するだけで、この様な実態は、まったく放送しな
 い。
  そして、この十字軍のコンスタンティノーブル占領の
 影響で、コンスタンティノーブルの人々は、西のローマ・
 カトリックが、異端の地とみなしたことに驚き、敵対の
 関係となった。
  コンスタンティノーブルの目は東に向いた。
  そして、スラブ人の教化が進み、キエフ公国のキリス
 ト教化、そして、ロシアに至った。
  ロシアは、ギリシャ正教を国教とした(ロシア正教、
 1547年)。
1205年、畠山重忠(はたけやましげただ、武蔵国二俣川、
 現神奈川県の有力御家人)が殺された。
  北条氏による政敵打倒。(畠山重忠の乱)
1205年、北条義時(ほうじょうよしとき、武将、伊豆国の
 豪族、北条時政の次男)が政所別当(執権)となった。
  北条氏は、執権職として政権を得て、事実上の最高権
 力者となった。
  次第に、御家人による荘園の支配を強め、幕府の実勢
 力を拡大していった。
  このため、朝廷方が支配していた土地は、段々と幕府
 に奪われ、経済的基盤を削減されていった。
  これは、皇室を中心とする貴族階級の人々の生活を支
 えた最大の財源が皇室領の荘園群であった。
1206年、アイバクが北インドを統一した。最初のトルコ系
 イスラーム王朝(マムルーク・スルターン朝)。
1206年、蒙古で、ジンギス・カンが即位した(在位、
 1206年~1227年)
  ジンギス・カンが、全蒙古を統一して帝国の皇帝とな
 り、直ちに大規模な侵略を開始した。
  モンゴル帝国:1206年に、クリルタイという会議で
 チンギス・ハンという称号を贈られた。
  以後、世界征服に乗り出し、チンギス・ハン以後も続
 けられ、ユーラシア大陸に、空前の大帝国が建設された。
  その後、モンゴルと中国本土以外は、オゴタイ(西北
 モンゴル)、チャガタイ(中央アジア)、イル(イラン
 地方)、キプチャック(南ロシア地方)の4つの汗国に
 分けられた。
  5代皇帝フビライ・ハンの時、中国に元朝を建て、以後、
 モンゴル帝国は分裂状態となった。
1207年~1210年、建築:興福寺北円堂(奈良)
1208年頃、彫刻:興福寺北円堂無著像・世親像(奈良、運
 慶作)
1211年夏、この年の夏は、大雨が降り続き、被害が相次い
 だ。
  鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、持仏堂の本尊に祈っ
 て、一首をしたためた。
  「時により すぐれば民の なげきなり 八大龍王(
 りゅうおう) やめたまへ」
  降りすぎると人々は悲嘆にくれます。雨をつかさどる
 龍王よ、おやめください。
1212年、法然が没する(1133年~1212年)
1212年、後堀川天皇が生まれた(1212年~1234年、86代)
1212年、方丈記が書かれた(鴨長明)
1213年5月、北条氏が、和田氏を滅ぼす。
  和田合戦が起きた(和田義盛が敗れて、鎌倉由比ヶ浜
 で滅ぼされた。執権確立)。
  有力御家人の三浦氏の一族の和田氏が、共謀して北条
 泰時を打倒するために反乱を起こした。
  この戦いに勝った北条氏は、執権権力を確立した。
1214年7月、ブービーヌの戦いが起きた。
  フランス王国と連合軍(イングランド王国、ヴェルフ
 家など)の戦い。
  結果は、フランスの勝利、王権を確実なものにした。
  イングランド王は、大陸の領土を、連合軍を作って戦
 い、回復したかったが、失敗に終わった。
  キリスト教の司教が指揮官になって戦いに絡んでいた
 り、連合軍とローマ教皇が手を結んだり、
  キリスト教が戦いに大いに絡んでいた。
  フランスの勝利によって、約1世紀に渡り、大陸のフ
 ランスの優位が続いた。
  イングランド王は、大陸領土の回復失敗だけでなく、
 本国の信頼を失い、本国の諸侯の反乱に合い、それに屈
 してマグナ・カルタを認める事となる。
  マグナ・カルタは、イングランド国王の権限の制限を
 内容としている。
  しかし、ローマ教皇は、イングランド国王は神と教会
 以外の約束に縛られるものではないと、マグナ・カルタ
 の廃棄を命じた。
  戦いの火は収まらず、翌年、フランス王国は、ロンド
 ンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。
  マグナ・カルタは、イングランド王が再確認した。
  しかし、イングランド王は守らなかった。
  キリスト教会は国王から自由だ。王の決定で税金は集
 める事が出来ない・・など。
..
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2015年3月9日月曜日

(増補版)36B:気になった事柄を集めた年表(1193年~1200年)

 題:(増補版)36B:気になった事柄を集めた年表(1193年~1200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1193年、前回、この年の、北方十字軍(バルト十字軍)で
 書き終えたが、十字軍は、1096年から始まっているが、
  この十字軍には、大規模な慰安婦部隊が組織され、従
 軍していた。従軍慰安婦です。
  この頃、農村経済の崩壊などが多発し、生活困難に陥
 った農村の可哀想な女子を売春婦にしていた。
1194年、建築:石山寺多宝塔(滋賀、和様)。
  源頼朝の寄進と伝わる、日本最古の多宝塔で、国宝に
 指定されている。
1194年8月、安田義定が謀反の疑いで殺された。
1195年、土御門上皇が生まれた(1195年~1231年)
1195年2月14日、源頼朝が、東大寺再建供養に出席するた
 め、政子と頼家・大姫らの妻子を伴って、再びの上洛の
 ため、鎌倉を出発した。
1195年3月4日、源頼朝らが、入京した。
1195年3月12日、源頼朝が、東大寺再建供養に臨んだ。
  奈良・東大寺大仏殿が平安時代末期に焼失した後、運
 慶、快慶らの手で1196年に造られた四天王像は、後世の
 範となった像だった。
  戦国時代に焼失したが、南大門の金剛力士像(像高8
 メートル40)をもしのぐ13メートルの巨像で、同じポー
 ズの「大仏殿様四天王像」が各地に現存する。
1195年6月25日、源頼朝が、帰東のため出京。
1195年7月8日、源頼朝が、鎌倉帰着。
1196年11月、九条兼実が、関白を罷免され、失脚した。
  近衛基通が、関白になった。基通は反鎌倉派。
  事案に絡む荘園の取り消しの措置に関する件、頼朝の
 長女・大姫の入内も絡んでいた(大姫が頼朝と京へ行っ
 たのはそのためか?)、兼実と法皇の間もうまく行って
 いなかった、源通親の謀略とも(建久七年の政変)。
1197年7月、頼朝の長女・大姫、死す(20歳)。
  頼朝の入内運動も挫折した。
1197年10月、藤原(一条)能保(よしやす)が、死す。
  頼朝から全幅の信頼を寄せられていた。
  頼朝にとっては、存命の同母兄弟姉妹は、この能保の
 妻である坊門姫だけだった。
  能保は、頼朝の威光を背景に異例の栄進をした。
  能保は、後白河法皇に仕え、重用されてもいた。
  また、能保の妻や娘は、後鳥羽天皇の乳母を務めても
 いる。
  朝廷と幕府の太い人脈を形成し、パイプとなっていた。
  しかし、1191年には失敗し、検非違使別当職を辞任し
 ている。また、急激な昇進に公卿の反感も買っていた。
  1194年には病に倒れ、出家した。
1198年1月、源通親(みなもとのみちちか、公卿)後院別
 当となる。
  後院(ごいん)とは、天皇が在位中に、あらかじめ定
 めた譲位後の御座所。村上源氏の嫡流の生まれ。平教盛
 の娘を二人目の妻としている。1185年に頼朝から議奏公
 卿に選ばれている。1195年には、道親の養女・在子が皇
 子(後の土御門天皇)を産んだ事で一気に地歩を固めた。
1198年1月、後鳥羽天皇(第82代天皇)は、源通親の外孫
 にあたる皇子(土御門天皇Z)に譲位して、院政を始めた。
  1221年までの3代23年間に亘り上皇として院政に携わ
 った。
  上皇になると、土御門(源)通親も排し、殿上人も整
 理し、院政機構の改革も行って、積極的政策を採った。
  頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線
 をとった。
1198年1月、近衛基通(もとみち、公卿)が、関白を止め、
 摂政が宣下された。
  土御門天皇の践祚(せんそ、天子の位を受け継ぐこと)
 と共に摂政に任じられた。
1198年2月、平維盛の子・六代を斬る。
  伊勢平家の初代・平正盛から数えて六代になるので幼
 名は六代丸と言った。
  斬られた年の説は色々な説がある。
  平氏滅亡のとき12歳であったが、母や妹と共に隠れて
 いたが、北条時政に捕らえられ、千本松原で斬られると
 ころを、文覚上人(僧侶)の尽力よって助命された。
  その後、出家し、高尾の奥で修行。
  しかし、諸説あるが、頼朝の死の後、再び捕らえられ
 て処刑されたとする。
  この死をもって、平氏の完全な滅亡とする(平家物語
 など)。
1198年12月、源頼朝が、相模川の橋供養に臨み、その帰路
 に落馬する。
  橋供養とは、橋が出来上がって、渡り初めの前に橋上
 で行う供養のこと。
  武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き
 妻の供養のため、相模川に橋を架けた。
  その落成式に頼朝も参列した。
  重成の妻は、頼朝の妻・政子の妹。
  「吾妻鏡」には、この時の怪我が原因で、翌年、頼朝
 は亡くなったと記している。
1199年1月13日、源頼朝が没した、急死(1147年~1199
 年)
1199年1月20日、源頼家が、左中将となり、次いで、
1199年1月26日、源頼家が、家督を相続した。第2代鎌倉
 殿となる。時に18歳であった。
  しかし、若年ゆえか、従来からの行為を無視し、独裁
 的判断で事を行った。
  御家人たちの反発を買った。
  これが合議制への移行の遠因ともなった。
  そして、合議制成立の3年後に、頼家が重病に陥ると、
 頼家の後ろ盾であった比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏
 との対立が起こる。
  →将軍権力の弱体により諸将間の争い激化→北条時政
 が、政所別当となり執権と称す。
1199年4月、元老13人の合議制になる。
  頼家の訴訟独裁を停め、時政以下の合議制とす。
1199年6月、源頼朝の次女・乙姫が、死す。
1199年10月、諸将が、梶原景時を弾劾す。
  源頼朝の死後に、腹心であった梶原景時が、御家人66
 名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼ
 された。
  梶原景時は、自分の立場をいいことに、また、侍所別
 当として厳しく御家人の行動に目を光らせ、勤務評定や
 取り締まりに当たった。
  頼朝の専制政治にとっては、忠実な役割を担った忠臣
 であった。
  これが、頼朝死後、その鬱積した不満が爆発した。
  この爆発も、ちょっとした事からだった。
  それほど、景時は、まじめ過ぎたとも言える。
1200年1月20日、梶原景時が暗殺される。
  北条氏による政敵打倒。
  この日、景時は、一族とともに京都へ上る道中で、東
 海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで、偶然居合
 わせた吉川氏ら在地の武士たちらに発見されて、襲撃を
 受け、合戦となる。
  子ら5名が、その場で討たれが、景時らは、山へ逃げた
 ・・が討たれた。
  一族33名の首は、路上に懸けられた。
  京都では、忠臣の景時を死なせた頼家は、大失策をし
 たと評されたという。
..
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2015年3月7日土曜日

(増補版)35B:気になった事柄を集めた年表(1189年~1193年)

 題:(増補版)35B:気になった事柄を集めた年表(1189年~1193年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1190年2月、安田義定を下総守に選任(転任、降格)す。
  六条殿造営公事(おおやけごと、朝廷の政務・儀式・
 行事など)の怠慢のため降格された。
  しかし、翌年、従五位上に昇格した。
1190年3月、伊沢家景を、陸奥留守職とす。
  奥州総奉行:この年、奥州の御家人統率や幕府への訴
 訟取次の目的で設置された。
  奥州総奉行の設置時に、1189年9月22日の説があるが
 疑問(この時は、頼朝が奥州の合戦中)?
  奥州における合戦の戦後処理のために置いた臨時の職
 で、守護相当の職制と考えられるが不明。
  御家人統制は葛西清重が、訴訟関係は伊沢家景が司ど
 った。
  伊沢家景の役目を「陸奥留守職」と言った。
  陸奥・出羽には、守護が置かれなかったため設置され
 たものだが、その職掌に関しては不詳。
  室町幕府はこれを廃して、奥州探題を設置している。
  これによって、頼朝は、「奥州羽州地下管領」という
 べき権益が与えられ、律令制度下の国衙機構を動かすと
 いう行政権をになう根拠を得た。
  伊沢家景は、「鎌倉殿」の意のままに、陸奥国衙を統
 制し、国務全般を取り仕切る権限を持ったと言える。
  日本は穏便に事を運ぶ国だ、平氏を倒したからと革命
 的に鎌倉幕府の設立へ至ったのではない。朝廷と調和し
 ながら時代が経て行った。
1190年3月、西行が没した(1118年~1190年)、僧であ
 り、また、歌人でもあった。
  伊勢神宮を参拝したときに詠んだとされる「何事の 
 おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼ
 るる」がある。
1190年10月、頼朝が、上洛のため鎌倉を進発す。
  畠山重忠が、先陣にと頼朝に命じられたとか、53番が
 小野寺太郎道綱だの記録があり、また、後陣の輩は未だ
 鎌倉を出ずなどの記録がある。
  長い大軍列で上洛して行ったと考えられる。
1190年11月7日、源頼朝が、精兵を引き連れて、午後に、
 入洛す。この日、雨降るが、午後の一時、晴れ、その後、
 風烈しとある。
1190年11月9日、後白河法皇に謁す、次いで参内。
  権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこんえ
 のだいしょう)となる。
  頼朝は、朝廷から歓迎を受け、また、公卿および市民
 の頼朝への期待が高まった。
  ただ、頼朝が、征夷大将軍の宣下を望んだが、後白河
 法皇より拒否されたという。
  権大納言:定員外の大納言。右近衛大将:令外の官(
 りょうげのかん)。右近衛府の長官。
1190年12月、頼朝が、後白河法皇より任じられた両職を
 辞任した。
1190年12月14日、頼朝が、帰東のため京都を発し、29日
 に、鎌倉に帰着した。
  頼朝は、京都に居る間に職を辞任していた。
1190年頃、絵画:12世紀末~13世紀初めに神護寺が所蔵
 する三福の肖像画がある(神護寺三像・国宝)。
  平重盛像・源頼朝像・藤原光能像(藤原隆信筆)
1191年1月、公文所を政所と改める(政所に吸収されたか
 ?)(1185年説もある)。
1191年4月、佐々木定重ら延暦寺と対立。
  年貢の未納を口実にして乱入し、殺戮行為をした。
  延暦寺の衆徒は強訴した。佐々木定重は対馬へ流罪(
 死罪の説もあり)となった。
1191年5月、頼朝が、延暦寺の求めにより重定を梟首す。
1192年、栄西が帰国し、51歳の時、臨済宗を広めた。
1192年、建築:浄土寺浄土堂(兵庫)
1192年3月13日、後白河法皇が崩御した(1127年~1192年)
1192年7月12日、鎌倉幕府が開かれた。
  源頼朝は、後白河法皇の崩御によって征夷大将軍に任
 ぜられ、鎌倉に幕府を開いた。
  保元・平治の乱より幕府開設までの30余年は、戦乱の
 歴史であったが、ここに収まりに至った。
  第一代将軍・源頼朝(1192・7・12~1199・1・13)
1192年8月、政子が、源実朝を生む(1192年~1219年)
1193年5月、曽我祐成と時致兄弟が、富士裾野の巻狩(5
 月)で父の仇敵工藤祐経を討ち取った(曽我兄弟の仇討)
1193年8月、範頼が、頼朝から謀反を疑われ、鎌倉から伊
 豆に配流され、伊豆修善寺に幽され、殺された。
1193年、北方十字軍(バルト十字軍)。
  北ヨーロッパ、および、バルト海沿岸の異教徒に対し
 て行われたキリスト教徒の遠征軍。
  キリスト教の最高責任者のローマ教皇が、1193年に、
 呼びかけて始まった。
  それ以前からも行われていた。
  それで、1154年には、スウェーデンがキリスト教に
 なっている。
  また、バルト海沿岸に移住していたスラヴ人との武力
 衝突は、この十字軍以前から何世紀ものあいだ、常態的
 に戦われていた。
  北方十字軍による『武力による布教』は、不定期的に
 16世紀まで行われた。
  十字軍の暴力による布教は、春になると到来し、秋に
 なると本国へ帰っていくという季節的な行動だった。
  行動は、キリスト教の布教という宗教の布教活動とは
 程遠い、酷(むご)い殺戮と収奪の行動だった。
  愛の宗教というにはほど遠い行動だった。
  殺戮という、血と共に進軍する殺人の布教集団だった。
  布教行為ではなく、砦を築いたらうまく行ったの集団
 で、『滅ぼした』の言葉を喜ぶ集団、「征服に貪欲」の
 集団だった。
  常に十字軍はこの様な状況で、ローマ教皇は、『死の
 執行者』となっていて、話し合いもできないという、劣
 悪な行動だった。
  1240年に、ロシアのプスコフを征服の例の様な征服
 が、似合う野蛮な集団だった(赤ん坊を火の中に投げ込
 むという残虐行為など)、キリスト教は血の宗教となっ
 ていた。
..
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2015年3月6日金曜日

(増補版)34B:気になった事柄を集めた年表(1186年~1189年)

 題:(増補版)34B:気になった事柄を集めた年表(1186年~1189年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1186年3月6日、源義経の行方について静御前の尋問をした。
1186年3月27日、この頃まで、北条時政は、頼朝の代官と
 して京都に居た。
  頼朝の代官としての役目は、洛中警備。
  六波羅を拠点として、都落ちした義経の郎党の探索と
 捕縛を行った。
1186年3月、北条時政が、七か国地頭職を上奏す。
1186年3月、頼朝が、関東分国内の年貢運上を誓約、京都
 に申し送った。
  頼朝の考え方:義父・時政に入洛してもらい、洛中警
 護をし、また、近国も統括した。
  そして、朝廷への地頭設置の申し入れもした。
  国地頭には兵糧米の徴収がみとめらていたが、この時、
 西国は飢饉であった。
  百姓の方たちは苦しみ、紛争も多発していた。
  頼朝は、近国37国の国地頭の廃止に踏み込み、兵糧米
 の徴収を廃止した。
  ただし、平氏系の所領には、地頭を置くことを朝廷に
 申し入れていた。
  従来の国地頭に対し、この地頭を荘郷地頭と言った。
  後になって、地頭という名称に統一されていった。
1186年4月8日、釈迦が生まれたこの花祭りの日に、義経
 の側室・静御前(しずかごぜん)が、頼朝の命によって、
 鶴岡八幡宮で舞・うたの奉納をした。
  頼朝は、その舞を見た。
1186年4月30日、この日の日付で、天下の政道のことにつ
 いて公卿に書を送った。
  頼朝は、議奏公卿に期待していた。
  文面には、「天下の政道は群卿の議奏によって澄清(
 ちょうせい、すんできよらかなこと。濁りのないこと)
 せらるべき・・・」云々とあった。
1186年5月、源行家(河内源氏)が殺された。
  地元民が密告したことにより見つかり、北条時定の兵
 によって捕らえられ、長男・次男とともに斬首された。
1186年6月、謀反人跡といえども院宣あらば地頭を停止す
 べきことを言上す。
  平家没官領や謀反人の領地にも地頭がいた。
  そして、年貢の納付を義務付けていた。
  その様な領地について院宣があれば停止するとした。
  院宣は上皇からの命を院司が出す文書。
1186年9月、地頭の領家側所務を犯すことを禁ず。
  近国37国において、国衙(こくが、国司が政務を行っ
 た役所)の行政に介入することが禁止された。
1186年10月、地頭の非法を停止すべき院宣下され、頼朝、
 それにつき請文を捧ぐ。
  平氏の討伐と言って地頭が置かれたが、その地頭へ勲
 功を与えると称して、不法な事や乱暴が行われる事があ
 った。
1186年12月、天野遠景(あまのとおかげ、武将)が、鎮西
 九国奉行人となる。
  天野遠景の家は、平家の家人であったが、天野家の郷
 が、頼朝が幽閉されていた子供の頃の蛭ヶ小島に近かっ
 たため、源頼朝と狩りや相撲などで交流し、親交を深め
 ていた。遠景は、頼朝挙兵の当初から付き従った。
  平氏追討の大功の12人の内の一人として、頼朝から感
 状を受けている。
  九州における、鎌倉幕府の勢力確立を目的に創設され
 た九州惣追捕使に補任され、
  律令時代の鎮西統治機関の大宰府の機構に関与して、
 実権ある地位に就いた。
  ただ、鎮西での地元の協力は得られなかったようだ。
1187年2月、頼朝の奏請(そうせい、天子に奏上して裁可
 を求めること)により記録所を置いた。
  記録所とは、この年、頼朝の要請によって、訴訟処理
 を主な目的として朝廷に設置された役所。
1187年2月、源頼朝と義経の反目により、義経が、奥州の
 藤原氏に身を寄せた。
  「吾妻鏡」によると、1187年2月10日に、義経は、藤
 原秀衡を頼って奥州へ赴いたとある。また、正妻と子ら
 を伴って身を寄せたとある。
1187年8月、千葉常胤・下河辺行平が入京す。
  安房国に上陸した頼朝は、1180年8月に、房総に勢力
 を持つ千葉常胤に加勢を要請していた。
  この様にして味方となった千葉常胤らを、頼朝は、群
 盗を鎮圧してもらいたいとの院宣があったので、京都へ
 派遣している。
1187年10月、藤原秀衡、死す。子の泰衡(やすひら)が
 家督を相続した。
  秀衡は、国衡と泰衡の兄弟が仲よく協力して行くよう
 にと説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心なきよ
 うと、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。
  義経を主君として給仕し、三人の結束をもって、頼朝
 の攻撃に備えよと遺言したという。
  秀衡の正室という人は、藤原基成の娘で、この正室を
 娶らせる事によって国衡の立場を強化し、且つ、秀衡の
 後家としての強い立場も持つことになり、兄弟間の衝突
 を回避したいとされている。
  しかし、逆に言えば、父が、これほど心配するほど兄
 弟間の関係は険悪だったと言える。
1188年2月、義経が、奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏し
 ていることが発覚した。
1188年2月、頼朝が、朝廷に宣旨を下すよう奏上し、そし
 て、義経と基成の追討の宣旨が下された。
  頼朝は、「亡母の供養の五重塔を造営し、殺生はしな
 い」との理由から、年内の軍事行動やしないと表明し、
 義経追討の宣旨を下すよう朝廷に奏上していた。
1188年3月、地頭の非法につき、院が、再び、頼朝に停止
 を要求する。
1188年10月、義経と基成の追討宣旨が、また、発せられた。
1189年1月、源頼朝が、正二位となった。
  頼朝の妹の婿である一条範保が、正二位に叙せられま
 したとの知らせを持って来たとのこと。
1189年1月、義経が京都に戻るとの意思があると書いた手
 紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている
 気配があった。
1189年3月、泰衡が、義経追捕の請文を鎌倉に送る。
  請文(うけぶみ):身分の上の者の仰せに対して承諾
 した事を書いた文書。
  奥州の藤原泰衡が、義経を追捕するようにと命ぜられ
 ていたと言える。
1189年4月、源義経が死す。(衣川の戦い)
  藤原泰衡が衣川で源義経を殺した(1159年~1189年)
  衣川の館は、岩手県西磐井郡平泉町にあった館。
  ここで義経は自刃した。
1189年6月、泰衡は、義経の首を鎌倉へ送り、
  頼朝への恭順の意を示していたが、
  頼朝にとって、泰衡の奥州藤原氏の存在が、
  この背後を脅かす存在の排除が、重要であった。
  また、義経を匿(かくま)う反逆行為があった。
  頼朝は、奥州出兵の準備を進めた。
1189年7月、泰衡追討の宣旨発行をまたず出兵した。
  頼朝は、大庭景義の「泰衡は、家人(家来・けらいの
 意)であり、誅罰に勅許は不要である」の進言を受けて、
 宣旨なしで出兵したとされている。
1189年8月、7月25日に宇都宮社で戦勝祈願し、
  7月29日に白河関を通過。頼朝が、梶原景季に「能因
 法師の故事を思い出さないか」と問うと、
  景季は、「秋風に 草木の露を露を払わせて 君が越
 ゆれば 関守も無し」と詠んだという。
  戦いながら、8月22日に平泉に入る。
  既に、平泉には火が放たれ放棄された後だった。
  8月26日に、頼朝へ泰衡の赦免を求める書状が届いたが
 ・・泰衡は奥地へ逃亡、北海道への渡航も企てたが、9月
 3日が地元の郎従に殺害された。奥州藤原氏が滅んだ。
  各地から参集した軍があって、頼朝軍の総数は、28万
 4000騎になったという。
1189年9月、源頼朝が自ら奥州に発向し、藤原泰衡(やす
 ひら、1155年~1189年)の一族を滅ぼした。奥州を平定
 した。
1189年10月、頼朝が鎌倉に帰った。
..
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2015年3月5日木曜日

(増補版)33B:気になった事柄を集めた年表(1185年~1186年)

 題:(増補版)33B:気になった事柄を集めた年表(1185年~1186年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1185年9月、源頼朝が、吉田経房を中納言に推挙す。
  吉田経房(つねふさ、公卿)が、頼朝の友人の一人と
 して突然浮上する。
  特別、反平氏の活動をしたという訳でもない。
  ただ一説に、経房が兄・信方とともに2代にわたって
 伊豆の守であり、伊豆国の在庁官人であった頼朝の義父・
 北条時政と昵懇(じっこん、親しく打ち解けて付き合う
 さま)であったのではという。
  平家物語には、頼朝が、経房を「うるわしい人(心あ
 たたまり、うつくしい)」と評したと記されている。
  頼朝の許しを得て、1190年頃に、平維盛(平清盛の嫡
 孫・正室系の孫)の未亡人を妻にしたという。
1185年9月、平時忠が、能登に配流された。
  平時忠は、平清盛の継室(けいしつ、後妻)である平
 時子の同母弟。
  「平家に非ずんば、人にあらず」は、この人の言葉。
  この人は、いらない発言をする癖のある人の様だ。
  愚管抄に、1161年頃に、「ゆゆしき過言」によって二
 条天皇から解官されたとある。
  また、能登配流は、二条天皇を呪詛したとして解官さ
 れた者と共に、陰謀に関わったとされた。
1185年10月17日、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん、
 武将・僧、頼朝に臣従し、御家人として治承の乱などに
 参加する)が義経を襲った。土佐坊ら60余騎で京の義経
 の館を襲った(堀川夜討)。
  義経たちも応戦し、襲撃側が敗北したという。
  義経は、昌俊を捕らえて聞き出すと、頼朝の命である
 ことを知った。これで、対立が決定的となる。
  そして、頼朝打倒の旗を揚げる事となる。
  因みに、頼朝が、義経を誅する御家人たちを召集する
 が、名乗り出る者がいない中に、昌俊が進んで引き受け
 たという。
1185年10月18日、義経に『源頼朝追討』の宣旨が下った。
  義経は、この日に、院宣を受けたけれども、頼朝が父・
 義朝の供養の法要を24日に営み、そして、家臣を集めた
 こともあって、義経のところに集まる勢力は少なかった。
  そして、さらに、後に、法皇が、今度は義経追討の院
 宣を出したことから、義経は一層の窮地に陥った。
  源頼朝は、29日に、兵を率いて上洛せんと、京へ向か
 うと、義経は、西国で体制を立て直そうと、九州へ行く
 事と図った。
  因みに、院宣(いんぜん)は、上皇からの命令を受け
 た院司が出す文書。
1185年11月1日、この日、頼朝が軍を率いて駿河国の黄瀬
 川に達した。
  源義経らは、11月3日に、九州の緒方氏を頼って、300
 騎を率いて京都を落ちた。
  途中、摂津源氏の多田氏らの襲撃を受けている。義経
 は撃退している(河尻の戦い)。
  一行は、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)あたりから、
 船団を組んで九州へ向かおうとしたが、途中、暴風のた
 めに難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻された。
  義経らは、吉野の山や、京都周辺に潜伏したりするが、
 義経の郎党たちは次々発見され、殺害された。
1185年11月11日、『源義経・行家追討』の院宣が発せら
 れた。義経と行家を捕らえよとの院宣が、諸国に下され
 た(25日?)。
  これは、頼朝が、院や貴族が義経を逃していると疑っ
 ていて、「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」
 と恫喝したためとある。
1185年11月24日、北条時政が入京した。
  頼朝の命を受けた時政(頼朝の妻の父、義父)は、
 1000騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて
 交渉に入った。
  そして、29日に、文治の勅許を認めさせていく。
1185年11月29日、文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)。
  北条時政の奏請に基づき、朝廷より源頼朝に対し与え
 られた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した勅
 許。
  源頼朝は、「源義経と組んで頼朝追討の宣旨」を出し
 た朝廷に対し、義経らの追求を名目として、守護・地頭
 の設置を要求し、「日本国総追捕使(そうついぶし)」
 (総守護)の承認を得た。
  これによって源氏の政権の基礎が固められた。
  守護地頭設置の勅許が出て、幕府が、朝廷より日本66
 国総守護職・総地頭を命ぜられる。
  源頼朝は、御家人を任命して守護・地頭を全国に置い
 た。
  源義経追捕を名として公許された守護・地頭の設置に
 よって公的制度と化し、武家政治の性格を規定するもの
 となった。
  守護:任務は貞永式目に記されている・「諸国守護の
 任務の事。右大将頼朝殿のとき定められたのは、大番催
 促・謀反・殺害人(のち夜盗・強盗・山賊の追討が加わ
 る)のことである。しかるに近年は、守護は代官を郡や
 郷に配し、荘園に課役を加え、国司でもないのに国務の
 遂行を妨げ、地頭でもないのに土地管理に手を伸ばして
 いる。甚だけしからん。早く頼朝の時代の大番催促・謀
 反・殺害人の取締り以外は守護の管轄外とすべきである
 と後の文書が残されている。また、
  地頭:中世荘園の管理にあたった荘官。この年、頼朝
 によって諸国の公領・荘園に設置され、、御家人の在地
 の領主層が任命された。その権限は土地によって異なる
 が、年貢徴集・警察・裁判・土地管理が含まれた。しば
 しば年貢の横領をしたことは、貞永式目に記されている。
 「諸国の地頭年貢のこと。地頭が年貢の横領をするのゆ
 えであるが、領主の訴えがあれば、清算をして幕府の裁
 定を受けよ。もし横領分の清算を渋る様ならば、地頭職
 は取り上げる」とある。
  だんだん、地頭による年貢抑留(よくりゅう、おさえ
 とどめること)がみられるようになり、領主との間に紛
 争が絶えなかった。
  この解決として現れたのが地頭請(じとううけ)であ
 った。
  これは、年の豊凶に関係なく、地頭が一定額の年貢を
 請負い、その代償として荘園の管理を一任されるものだ
 った。
1185年11月29日、京都守護:京都の治安維持、朝廷と幕
 府の交渉の目的で設置された。承久の変後に六波羅探題
 となる。
1185年12月6日、議奏公卿を指名上奏し、藤原兼実を内覧
 に推挙した。また、義経派公卿の解官を要求した。
  議奏(ぎそう)とは、太政官からの建議を天皇に奏上
 すること。また、内覧(ないらん)は、太政官から天皇
 の奏上する文書を、摂政・関白または宣旨を受けた大臣
 が前もって読んで処置すること。
1186年1月、高野山荘園の兵糧米・地頭を停止す。
  高野山の僧の申し入れによって、北条時政が、「兵糧
 米と地頭の設置を止めよ」と命令した。
1186年2月、諸国荘園の兵糧米未進分を免除す。
  これまで、苦しい荘園などで、免除の申し入れがあっ
 たが、後白河法皇の裁断によって、全国の荘園において
 一律に、兵糧米の未納分は免除して、農民を安心させよ
 うと決まったという。
  源平の争いもなくなったので、その兵糧米の運ぶ必要
 も無くなったので、免除を懇願され、この決定となった。
  そして、北条時政殿に伝える様にとも言われた。
  そしてまた、全国に「免除されました」と言って歩き
 なさいとも言われた。
1186年3月、頼朝の推挙により兼実が、摂政・氏長者とな
 る。
  九条兼実(くじょうかねざね、公卿、摂政・関白藤原
 忠道の六男、反平氏・反木曽義仲系でもあった)。
  頼朝の院の力が増す事への牽制策でもあった。
  兼実は、「夢の如し、幻の如し」と驚愕したという・
 ・と、同時に、関東の頼朝と密通しているのではないか
 という嫌疑をかけられることを恐れ、そして、怯えたと
 いう。
  後白河院も、頼朝の推挙があったからと、すぐ宣下し
 た訳ではなかった。
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2015年3月3日火曜日

(増補版)32B:気になった事柄を集めた年表(1183年~1185年)

 題:(増補版)32B:気になった事柄を集めた年表(1183年~1185年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1183年10月、後白河院は宣旨を下し、源頼朝を本位に復し、
 赦免し、京への軍勢の進発を求めた。
  また、この時の宣旨によって、源頼朝が東国における
 強大な公権力の行使の権限を朝廷から認められ、東国の
 政権としての鎌倉幕府の成立の重要な指標となった。
1183年10月、水島の戦い。
  源義仲が、水島で平軍に敗ける。
  この時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。
  平氏を追討するため、1183年9月に、源義仲軍は都を
 出発して屋島方面へ進軍していった。
  四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。
1183年11月19日、法住寺合戦。
  源義仲が、後白河法皇の院御所・法住寺殿を襲撃し、
 後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉した。
1183年11月28日、源義仲が、法皇近臣40余人を解官した。
1183年12月、源頼朝が、義仲追討のため、範頼・義経に
 軍を率いて西上させた。
1184年1月15日、木曽義仲が征夷大将軍になった。
  鎌倉の頼朝軍が、墨俣を越えて美濃国に入ったという
 噂を聞き、義仲は恐れ慄いた。
  15日には、自らを、征夷大将軍に任命させた。
1184年1月20日、源(木曽)義仲が、6万余りの軍勢に対
 し、わずか2000足らずの軍勢で応戦するも、宇治での
 「勢田の橋の合戦」に敗れ、栗津に敗死した(1154年~
 1184年)。
  乳母子(めのとご)として義仲と共に育った今井兼平
 も死んだ。
1184年、1月29日、源範頼・義経の軍が、平氏追討へ向か
 う。
1184年2月、この月、源頼朝が、梶原景時・土肥実平をし
 て播磨・美作・備前・備中・備後の国務を掌握さす。
1184年2月、源頼朝が、院に朝務条々を奏上する。
  朝廷の政務の事について、頼朝が考えていることを箇
 条書きにして送り渡した。
1184年2月7日、一の谷の合戦。
  摂津国・福原および須磨で行われた。
  範頼軍が5万6000余騎、義経軍が1万騎で京都を出発し
 ている。
  2月6日に、福原で、清盛の法要を営んでいた平氏一門
 へ、後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平
 は交戦しないよう命じた。
  平氏一門は、これを信用してしまい、警戒を緩めたこ
 とが勝敗を決した・・との説がある。
  ただ、現代の研究者の意見はまちまちである。
1184年3月、源頼朝が、大内惟義を伊賀の「守護」とした。
1184年4月、源頼朝が、義仲の子・義高を殺した。
1184年6月、源頼朝が、一条忠頼を殺した。
1184年8月、源義経左衛門少尉が、後白河法皇より左衛門
 少尉、検非違使に任じられた。
  これは、鎌倉の許可なく、朝廷から任官を受けたこと
 になり、頼朝の怒りを買った。
1184年10月、源頼朝が、公文所(くもんじょ、政務一般、
 1191年政所と改称)、初代別当・大江広元(のち北条氏
 世襲)。問注所(訴訟・裁判を扱う、初代執事・三善康
 信)を設置し、いち早く行政機構の整備をはかった。
  この機構は、将軍独裁であるが、重要事項は合議制。
  武家による行政機構の整備。
1185年、後鳥羽天皇(在位、1185年~1198年)
1185年1月、源範頼の軍が、長門方面(山口県)で苦戦す
 る。
  水軍の戦力を持たず、また、兵糧が得られなかった。
  豊後国の豪族・緒方惟栄の味方などを得て、ようやく
 兵糧と兵船を調達した(虚構との見解もある)
1185年2月19日、屋島合戦。
  讃岐国屋島(現高松市)で行われた。やしまのたたかい。
1185年3月、源頼朝が、従二位になった。
1185年3月24日、壇ノ浦(山口県下関市)の海戦が起きた。
  安徳天皇が入水した(8歳)。
  戦いの状況から死を決意した二位尼が、幼い安徳天皇
 を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。
  安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼
 は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がござい
 ます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。
  続いて、建礼門院ら平氏一門の女たちも後を追って海
 に身を投じた。
  武将たちも覚悟を定め入水した。
  平氏の剛のある者は戦い、義経を道連れにせんと欲し、
  義経の船を見つけ、これに乗り移った。
  義経は「八艘飛び」で逃げ去った。
  平家が滅んだ。
  また、この時、先陣になることを望んだ梶原景時と義
 経が衝突している。
  事の起こりは、景時が、義経の前に出て「今日の先陣
 は景時が賜りたい」と言ったことが始まり。
  景時と義経が喧嘩腰となるまで行き、
  義経が、刀に手を掛ける時もあったほどという。
  また、義経の配下の弁慶たちが、景時を討ち取ろうと
 したほどでもあったともいう。
  「猪や、鹿のことは知らぬが、いくさは、ただ正面か
 ら攻めて、それで勝ってこそ、心地よい」という言葉も
 飛び交ったという。
  景時は、後に、頼朝に換言したことが、義経を死に至
 らしめたとも言われている。
1185年5月、源義経が、平宗盛らを率いて鎌倉へ向かう。
  義経が、腰越状を捧ぐ。
  源義経が頼朝に愁訴した(腰越状、こしごえじょう)。
  源義経が、平宗盛父子を俘虜として腰越まで伴って来
 たのに、頼朝の怒りが解けず、鎌倉に入る出来なかった。
  義経が鎌倉の腰越に留まっていた時、心情を綴り無実
 を訴えた(腰越状)。宛先は大江広元。
1185年6月、源頼朝が、義経の所領を奪う。
  平宗盛・重衡らは斬られる。
1185年8月、源行家が、叛す。
  源行家(みなもとのゆきいえ)は以仁王の挙兵に伴い、
 諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起
 を促した人。
  この月、8月に、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ
 浦の戦いの後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10
 月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣
 を受け、「四国地頭」に補任される。
  しかし、行家らに賛同する武士たちは少なく、頼朝が
 鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3
 日に、行家・義経一行は都を落ちた。
  翌年(1186年)5月に、源行家は斬首された。
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2015年3月2日月曜日

(増補版)31B:気になった事柄を集めた年表(1180年~1183年)

 題:(増補版)31B:気になった事柄を集めた年表(1180年~1183年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1180年8月20日、源頼朝は、住み慣れた蛭ガ小島を離れて
 相模へ向かった。
  妻の政子を伊豆山の走湯権現に託した。
  因みに、走湯権現(はしりゆごんげん)は、院政期、
 上皇はじめ公家貴族の参詣で脚光をあびていた。
  応神天皇の時代に、日金山頂上に現れた円鏡を松葉仙
 人が奉祀(ほうし、神仏・祖霊などをまつること)した
 のが始まり。
1180年8月22日、源頼朝のところに三浦義澄(よしずみ)
 以下その同族武士が到着して、兵力は、ようやく、300
 ばかりとなった。
  だが、すでにこの時、平氏側は、相模・武蔵・伊豆の
 武士3000を集めて、頼朝を石橋山に包囲していた。
  包囲軍は、大庭景親・渋谷重国ら相模の名のある武士
 たちが多くが加わり、武蔵の熊谷直実(くまがいなおざ
 ね)もいた。
1180年8月23日、石橋山の戦い。
  包囲軍は、三浦武士団の救援を恐れていたが、23日、
 風雨をついて攻撃を開始した。
  兵力に桁違いの差異があったため、勝敗は、初めから
 明らかであった。
  頼朝方は、なすことなくして完敗し、軍勢は四散した。
  北条時政らは、箱根を抜けて甲斐に落ち、甲斐源氏の
 援助を求めようとしたが、それにも失敗し、三浦義澄は
 本領に逃れた。
  源頼朝は、退路を失って、山中の洞窟に潜むところを
 囚われそうになったが、敵将・梶原景時の思惑により、
 九死に一生を得て、28日に、真名鶴(まなづる)崎から
 安房に逃れた。
  三浦一族も、本城・衣笠城を畠山重忠・河越重頼・江
 戸重長ら、相模・武蔵の武士たちに包囲され、ついに、
 老齢の義明は城を守って戦死し、子・義澄以下が、から
 くも脱出して、これまた安房に逃れた。
  上総介広常(かずさのすけひろつね)が、三浦氏と結
 んでいたので、房総の地ばかりが、わずかに再挙(さい
 きょ、再び起こす事)を期待し得る落ち先となった。
1180年9月、木曽(源)義仲が、信濃に挙兵した。
1180年9月、源頼朝が、上総から下総に進む。
1180年10月、源頼朝が、武蔵に入る。
  畠山重忠・河越忠頼・江戸重長らが来属する。
1180年10月6日、源頼朝が、鎌倉に入った。政子も鎌倉に
 来る。
1180年10月16日、源頼朝が、平維盛の率いる平氏の軍を
 迎撃のため、鎌倉を進発した。
1180年10月18日、甲斐源氏の軍が、源頼朝軍に合流した。
1180年10月20日、富士川の合戦で、平氏が敗走した。
  石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、安房国で再挙し、進
 軍しながら東国武士がこれに参集して、大軍に膨れ上が
 り、鎌倉に入った。
1180年10月21日、源義経が、参着した。
1180年10月27日、源頼朝が、常陸佐竹氏の征伐に向かう。
  かつては源氏の系列であったが、佐竹隆義の上洛中に
 源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平治の乱以後、平氏に従
 っていて、源氏であるのに、頼朝に呼応しなかった。
1180年11月5日、源頼朝が、常陸佐竹氏を壊滅した。
1180年11月17日、源頼朝が、鎌倉に帰還した。
1180年11月17日、源頼朝は、武士化した地方官人による
 行政の府である侍所(さむらいどころ)を関東鎌倉に設
 置した。
  はじめは、頼朝警護の宿直所、のち御家人統制・軍事・
 警察を扱う。初代別当・和田義盛。
1180年11月26日、福原遷都失敗。旧都(京都)に復した。
1180年12月、平氏が、近江の源氏を破った。
1180年12月29日、平清盛は絶望的な孤立の内に、清盛の
 命を受けた平重衡が、南都東大寺・興福寺を焼き打ちす
 るという暴挙に出ざるを得なかった。
1180年、尊厳王と呼ばれたフランスのフィリップ2世が、
 王位につく(~1223年)。
  日本は、古い歴史を持つ国民で、古代から日本人であ
 ったが、ヨーロッパにはこの古代がない。
  ヨーロッパ大陸に、4世紀から始まったゲルマン民族の
 侵入。
  この民族との混住が始まり、そして、結婚と混血が始
 まる。
  年を経て、その混血度合いの違いと、その混血した人々
 の新しい民族意識が出来上がって行って、ドイツ・フラ
 ンス・イタリアといったおおよその原型ができ始めた。
 この時が10世紀ぐらいの時。
  フランスが、何らかのフランスという自覚を持つのも
 12世紀を待たなければならない(フィリップ二世の尊厳
 王在位1180年~1223年)。
1181年、フランシスコが、アッシジで生まれた。裕福な織
 物商人の家だった。
1181年、この年、飢饉となった。
1181年1月、高倉上皇が崩御した
1181年1月、平宗盛が、五畿内・伊賀・伊勢・丹波の惣官
 (そうかん、軍事的な権限を持つ臨時の官)となる。
1181年2月、志田義広が源頼朝に叛す。
1181年2月、平清盛が没した(1118年~1181年)→都落
 ち・平氏没落(1183年)
1181年3月、源頼朝が、武田信義を疑い、起請文を捧げさ
 せた。
  この様な事を頼朝がした原因は、後白河法皇が、武田
 信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は、
 駿河守護を解任されたうえ、鎌倉に召喚され、起請文を
 出した。
1181年3月、墨俣川の戦い。
  源行家軍と平氏軍が墨俣川で戦い、源行家軍が大敗し
 た。
  この戦いは、平氏は富士川の戦いで敗れたが、再度、
 頼朝軍を追討するため、軍を東国へ派遣した。
  これを、源行家軍が、墨俣川に陣を敷き待ちかまえて
 いた。
1181年6月、越後の平氏側の城氏が、源義仲と戦って敗れ
 た。
  この年の2月に、平家が、城氏に源義仲追討を命じてい
 た事に応じた行動であった。
1181年7月、平氏が、北陸道の源氏を討たんとして兵を送
 る。
1181年8月、源頼朝が、後白河法皇に密使を送り、政治意
 見を具申した。
  「玉葉」の中に、頼朝が、平氏との『和平を提案』し
 たと記されている。
1182年1月、京都の飢饉が深刻となった。また、疫病のた
 め、死者、巷に満つとある。
1182年2月、平氏が、北陸道に出兵した。
1182年8月、政子が、源頼家を生んだ(1182年~1204年)
1182年10月、源義仲が、北陸へ進出した。
1183年、北条泰時が生まれた(1183年~1242年)
1183年、この年の冬、源頼朝が、上総介広常を殺す。
  これの大切なところは、房総の平氏惣領家頭首であり、
 東国最大の勢力であった。
1183年3月、源義仲が、子の義高を源頼朝のもとに送った。
1183年5月、源義仲が、越中栃波山の合戦で平氏を破った。
1183年6月、延暦寺が、源義仲に呼応した。
1183年7月、木曽(源)義仲の挙兵・越中倶利伽羅峠で平
 氏を破り、京都へ入るも人望を失う→法皇、その征討を
 令し、源範頼(のりより)・源義経ら京へ入り義仲を破
 る(義仲失脚)
1183年7月22日、源義仲が、延暦寺に入った。
1183年7月24日、法皇が、延暦寺に潜幸した。
1183年7月25日、平氏が、都落ちした。
1183年7月28日、木曽義仲・行家が、京都に入った。
  木曽義仲が法皇の御所を襲った。
1183年8月、後白川院が、平宗盛以下の平氏一門、200人
 余りの官職・官爵を剥奪した。
1183年9月、後鳥羽天皇(在位、1183年~1198年)
1183年9月、源頼朝が、院の申し入れに返書を奉る。
1183年9月、源頼朝に、東国沙汰(支配)権を認める宣旨
 が発行された。
  朝廷は、宣旨において、頼朝に対し、東国における荘
 園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、
 頼朝による東国支配権を公認した。
..
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(増補版)30B:気になった事柄を集めた年表(1178年~1180年)

 題:(増補版)30B:気になった事柄を集めた年表(1178年~1180年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1179年、この頃、京都を中心に広く経済界の混乱が起きて
 きた。
  「近日、天下上下病悩ます、これを銭病(ぜにやまい)
 と号す」
  日宋貿易によって、宋銭がおびただしく輸入され、こ
 れが原因であった。
  この頃、各地の特産物の生産と、その交換が盛んとな
 り、宋銭輸入の必然性もあったが、
  急激な宋銭の輸入と、その流通が、経済界を混乱させ
 た。
  現物と貨幣の交換率が混乱し、紛争が至る所で引き起
 こされた。
1179年5月、平清盛の跡継ぎである平重盛の健康がすぐれ
 ず、5月末に出家した。
1179年6月、故摂政・近衛基実(このえもとざね、藤原忠
 道の4男)の室・平盛子が、夫の後を追って若死にした。
  これは、後白河が基房を押して、平氏=基通の関係に
 圧迫を加えてくる絶好の機会を作った。
1179年7月、7月末に、平重盛が没した(1137年~1179年)
1179年11月11日、摂津福原の山荘で時を過ごす清盛は、
  この日、武士数千騎を率いて、京都に入った。
  そして、厳島神社への参詣途上であった平宗盛を呼び
 戻した。
  京都の町従は騒然とした。
  清盛の目指すところは、軍事的独裁政権の樹立であっ
 た。
  後白河院は、政権の放棄を誓約して、屈服した。
  これは無条件降伏であった。
  清盛は、直ちに、関白・基房を罷免して、基通を関白
 とし、さらに氏長者とした。
  また、基房の子の師家の権中納言中将の位(くらい)
 を奪った。
1179年11月16日、平清盛が、さきに院から罷免されてい
 た明雲を天台座主に還補した。
1179年11月17日、平清盛は、この日、太政大臣・藤原師
 長(もろなが)、権大納言・源資賢(すみかた)以下、
 後白河法皇近臣39人を解官した。
  続いて、基房を大宰権師に左遷し、師長を尾張に流す
 など流罪・追放の処分を発表し、
  後鳥羽法皇を鳥羽殿に幽閉した。
  ここで、平氏は、名実ともに六波羅政権と呼ぶにふさ
 わしい軍事的独裁権力を樹立した。
  これまでは、平清盛が、いかに廟議を制しようとして
 いようと、最高権力者は後白河院であった。
  院を失脚させ、反平氏的な公卿を一掃した清盛は、反
 平氏グループの知行国・所領荘園を奪って、一族に分け
 与え、知行国支配の体制を整えた。
  この月、備前に移されることとなった前関白・基房の
 配流を阻止しようとして、興福寺の大衆が蜂起した。
  平清盛は、そうした反対に耳を貸さなかった。
1180年、後鳥羽上皇が生まれた(1180年~1239年)
1180年2月、高倉天皇退位、安徳天皇即位す(在位、1180
 年~1185年)
1180年2月19日、衆徒らは、院ならびに上皇を、平氏の手
 から奪い取り、上皇の厳島神社参詣を食い止めようとし
 た。
  平清盛は、宗盛・知盛(とももり)らに鳥羽殿や上皇
 の御所を警備させ、2月19日には、上皇を厳島に向かっ
 て出発した。
  平清盛は、厳島信仰を通じて、瀬戸内海の海上権を握
 る中国・四国・九州の土豪・武士との連携を強めようと
 したと考えられる。
  これは、寺院勢力に連合の契機を与え、平氏の運命を
 左右するほどの暴挙であった。
1180年2月、平清盛が、この月、摂津・大輪田泊(おおわ
 だとまり)の改修方針を決めて、海上交通、日宋貿易へ
 の保護に乗り出し、貴族たちの宋銭の使用反対を無視す
 る態度を明らかにした。
  そして、孫にあたる2歳の皇太子を即位させ(安徳天
 皇)、独裁体制への布石を進めた。
  また、平清盛は、高倉上皇の譲位の後、最初の社参先
 を賀茂か八幡という恒例を破って、厳島としたことも南
 都・北嶺に対する一種の挑発に他ならない。
  加茂・石清水(いわしみず)の衆徒大衆は、たちまち
 憤激して蜂起した。
  この事件は、日ごろ、犬猿の仲にある延暦寺・三井寺・
 興福寺などの僧兵が連合して平氏にあたる動きを取り始
 めた。
1180年4月、源頼政は、平清盛に従って公卿の地位に登り、
 その恩顧もあったが、南都・北嶺の反六波羅的気運の高
 まりに支えられて、法皇の王子・以仁王(もちひとおう)
 の令旨を受けて、園城寺や興福寺の僧兵らと挙兵した
 (4月)。
  源頼政が、後白河の第二皇子・以仁王にすすめて、紀
 伊の新宮に居た源義盛(よしもり)らも加わって密計は
 進められ、
  義盛が、八条院蔵人として、平氏追討の令旨を、諸国
 に伝えた。
  以仁王は、その母の関係から平氏にも、摂関家にも、
 縁故がなく、それ故、親王の地位にもつきえぬ不遇をか
 こっていた。
  計画は、王が猶子(ゆうし、養子の事)となっていた
 八条女院の200か所と称さされる広大な所領に伝えられた。
1180年4月、平家独裁の強化にともない、院・公家・寺院
 など反平氏運動が起こり、この機運に乗じ、源氏は、以
 仁王を奉じて挙兵した。
  以仁王は、後白河院の第二皇子であり、王の行動の背
 後には後白河院があった。
  王が、猶子になっていた八条女院(後鳥羽院の娘)は、
 膨大な荘園を持っており、この女院の蔵人をしていたの
 が、源義朝の弟の行家で、彼が王の令旨を全国の源氏に
 伝えた。
  王の挙兵には、こうした経済的背景があった。
  源頼政は、平治の乱で平清盛方につき、清盛の推挙で
 公卿に列した只一人の源氏であるが、
  以仁王の反平氏運動に加わり、畿内の寺院勢力を背景
 に挙兵した。
  この挙兵は、失敗に終わったが、以仁王の令旨を受け
 た反平氏の活動は活発となった。
1180年5月26日、源義時の長男・義盛の行動から、密謀が
 事前に探知され、
  平氏は、以仁王の逮捕の行動を起こした。
  王は、叡山の勢力を頼んで園城寺=三井寺に入り、頼
 政の挙兵を待った。
  頼政は、予期しなかった発覚のため、畿内・近国の反
 平氏的武士を糾合する事が出来ず、
  わずがな手兵を率いて王と合流した。
  そのため、戦いは、初めから不利となり、しかも、平
 清盛の工作により、叡山・園城寺の中に、平氏に内通す
 る者も出た。
  5月26日、興福寺に向かって落ち延びようとする途中、
 宇治川にて撃たれた源頼政(1104年~1180年)は戦死
 し、以仁王もまた流れ矢に当たって倒れた。
  失敗に終わったが、この事件は、諸方面に与えた影響
 の大きさは計り知れないものがあった。
1180年6月、平氏が福原に遷都した(6月)。
  地方の情勢は次第に険悪となり、国司を襲撃する地方
 武士の動きも見え始めた。
  叡山では、明雲の説得によって、からくも堂衆の蜂起
 を押さえる事が出来たが、興福寺は公然と反旗を翻した。
  平清盛にとって、その周囲は、ことごとく敵であった。
  清盛は、寺院勢力の圧力に抗しかね、ついに、福原に
 遷都した。
  清盛にとっては、西国から運上される年貢を、一手に
 収納する事が出来、そのためだった。
  また、南都・北嶺の圧迫を逃れ、
  安徳天皇、後白河院と高倉院の両院を奉じ、摂政以下
 の公卿と共に、福原に遷都した。
  しかし、高倉院の病気や、公卿の不平や、山門の要望
 や、源頼朝の挙兵などのため、11月には、旧都に復さね
 ばならなかった。
1180年6月、源頼朝が、ひそかに兵を募る。
1180年6月、源頼朝が、伊豆に挙兵した(9月?)
  頼政の密謀で、以仁王の令旨をたずさえて東下した源
 行家(義盛)によって、伊豆の頼朝にも伝えられた。
  頼朝の挙兵は、この令旨が契機となった。
  しかし、挙兵と言っても、関東に源氏の譜代恩顧の武
 士がいかに多いとはいえ、何らの地位権力もない頼朝に、
 そのどれ程が、応ずるかは疑わしかった。
  北条の北に接して山木兼隆(やまぎかねたか)が伊豆
 の目代(もくだい、国主の代理人、代官)として、また、
 平氏一門として威勢を振っていた。
  源頼朝は、北条時政に助けれれて挙兵し、石橋山の戦
 い(8月23日)で敗北し、後に、富士川の戦い(10月20
 日)に勝利し、東国経営へ。
1180年8月6日、源頼朝は、北条時政と密議して、山木兼隆
 を奇襲する日時を、17日払暁(ふつぎょう、明け方)と
 決定し、その日、工藤介茂光(くどうのすけもちみつ)・
 土肥実平(どひさねひら)以下の武士たちを一人ずつ引
 見して協力を懇請した。
1180年8月17日、源頼朝が、山木兼高を急襲する日、予定
 の時刻までに参加を確約した佐々木定綱・経隆(さねた
 か)・盛綱・高綱兄弟の到着が遅れたため、攻撃はやむ
 を得ず延期された。
  貞綱らは、ようやく午後になって参着した。
  この4人の到着は、頼朝を喜ばせ、また、士気を鼓舞し
 た。攻撃は夜に入って開始された。
  当日は、三島明神の祭礼で、山木の館の守備は手薄で
 あったから、かねて内定してあった館内に切り込むのは
 たやすかった。
  頼朝は、運命を掛けたこの攻撃に、直接には加わらず、
 北条にとどまって、その成功を祈っていた。
  夜の白む頃になって、頼朝の軍師達が兼高の首を取っ
 て引き上げてきた。
  これは、合戦と言うより奇襲・暗殺と言うものであっ
 た。
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2015年3月1日日曜日

(増補版)29B:気になった事柄を集めた年表(1159年~1178年)

 題:(増補版)29B:気になった事柄を集めた年表(1159年~1178年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
12世紀、イスラムによるインド仏教遺跡の破壊。
1160年、源義朝(頼朝の父)が没した(1123年~1160年)
1160年、平清盛が、正三位参議となり公卿の地位に昇った。
  武士が公卿となったのは、これが初めてである。
  そして、発言権を得た。
1160年、12世紀後半。源平の争乱。
  この頃より、武士の間に切腹の風習が定着する。
1160年3月11日、源頼朝(13歳)の配流国は伊豆と決めら
 れ、この日、京都を発った。
  東海道に沿って、父・義朝が配置していた家人たちも、
 今は心変わりして、この敗戦の孤児をほとんど省みよう
 とはしなかった。
  この間、頼朝が、配所まで送るのに温かい手を差し伸
 べたのは、長田資経(すけつね)・祐範(ゆうはん)・
 比企の尼などわずかな人々である。
  配所は、蛭ガ小島(ひるがおじま)と言われている。
  この地の有数の土豪・北条氏は、平氏の一流(一派の
 意)として権勢をふるっていた。
  他にも工藤・宇佐美・伊東・狩野など、平氏に組する
 武士団が、清盛に忠誠を誓っていた。
  関東は、源氏の本拠とはいえ、すべての武士団が、源
 氏に心を寄せていた訳ではない。
  関東のめぼしい雄族は、高望王(たかもちおう)に発
 する平氏の一流であって、源氏の恩顧を受けたこともあ
 ったが、いま全盛を誇る清盛に、正面切って楯突くもの
 ではなかった。
  頼朝は、34歳までの20年をこの地で送る。
  配所の生活は、ほとんど写経、読経といった宗教的勤
 行に明け暮れていたと伝えられている。
12世紀中頃、朝鮮半島の高麗で、この頃から、王や文人が
 政治をないがしろにされ、武人が政権獲得を伺うように
 なった。
  そして、12世紀後半から、100年間は、武人が政権を
 担当する時代が続く。
1162年、藤原定家(公家、歌人、小倉百人一首の撰者)が
 生まれた(1162年~1241年)
1162年頃、チンギス・カンが生まれた(1162年頃~1227
 年)、モンゴル帝国の初代皇帝。
  モンゴル遊牧民の諸部族を一代で統一した。
  中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを
 征服した。
  当時の世界人口の半数以上を統治する大皇帝。
  現在でも、モンゴル国において、国家創建の英雄とし
 て称えられている。
  モンゴル軍の兵士は、遠征においても、家族と馬とを
 伴って移動し、一人の乗り手に対して3頭~4頭の馬がい
 るため、常に消耗していない馬を移動の手段として利用
 できる態勢になっていた。
  そのため、大陸における機動力は世界最大級となり、
 爆発的な行動力を持っていた。
  また、モンゴル軍の強い要素は、左右に大軍団を対称
 に設けていた。
  この左右対称の軍政一致構造により、恒常的征服戦争
 の続行を可能にした。
1163年、北条義時(時政の次男、第2代執権)が生まれた
 (1163年~1224年)
1164年、六条天皇が生まれた(1164年~1176年)
1164年、平清盛が、この年、壮大な蓮華王院(三十三間堂
 の寺号)を後白河院に造進した。
  清盛の父・忠盛や祖父の正盛が、造寺・造塔をもっぱ
 ら白河院・鳥羽院にして、接近し、その地位を高めたの
 にならった。
1165年、六条天皇(在位、1165年~1168年)
1165年、平清盛が、権大納言になった。
  二条天皇が崩御し、清盛は、幼少の六条天皇の摂政と
 して政治を主導し、大納言に昇進して補佐した。
1167年、平清盛が、播磨、肥前、肥後などの地を、子孫ま
 での大功田として賜った。
1167年、平清盛が、左右大臣を経ずして、内大臣から従一
 位太政大臣となった。
  この年、子の重盛・宗盛や妻の兄の平時忠も公卿の地
 位に昇った。
  「平氏にあらずんば人にあらず」(平家物語)とある。
  平氏の全盛期。
  平重盛(内大臣)以下一族の公卿16人、殿上人30余人
 に達し、知行国30余国、荘園500余ヶ所。
1167年2月、平家納経(厳島神社)、藤原時代の栄華の再
 現。
1168年、高倉天皇(在位、1168年~1180年、80代)
1168年、平清盛が、皇室や摂関家藤原氏との結合を強めよ
 うと、妻の妹・滋子を後白河天皇の後宮に入れ、
  幸い寵を得て男子を出産すると、この皇子を六条天皇
 の東宮(皇太子の称)とした。
  そして、1168年に、わずか8歳のこの皇子を皇位につ
 けた、高倉天皇(後白河天皇の第7皇子)である。
1170年頃、平安時代末期、大陸では、宋の時代。新しい
 儒学が起こった。南宋の朱子がこれを大成した。
1172年、清盛の娘・平徳子が中宮となる。
  平清盛は、高倉天皇と娘の徳子(後の建礼門院、けん
 れいもんいん)を結婚させた。
  この二人に、後に安徳天皇が生まれる。
1173年、親鸞が生まれる(1173年~1263年)、52歳の時、
 浄土真宗を開く。
1173年、平清盛が、「大和田泊(神戸港)」を修築した。
  江戸時代以前の主な社会資本整備となっている。
1173年、ピサの斜塔は、現在、第7層では4メートルも傾
 いているが、この傾斜が始まったのは、1173年の建築
 開始から、わずか12年後であった。
  あと200年で倒れてしまうと言われている。
1175年頃、平清盛が、この頃、宋との貿易を計った。
  遣唐使廃止の後の大陸貿易は、宋の勃興と共に、私貿
 易の形で展開され、宋船は九州に来航した。
  この貿易の利に着目した清盛は、父・忠盛によって開
 始された貿易を承継し、大宰府に家人や一族を配して、
 貿易の独占を計った。
  やがて、音戸の瀬戸を開き、大輪田の泊を修築して、
 宋船の出入りを便利にし、別荘を福原に置くなど、貿易
 には熱心であった。
  日宋貿易による影響は経済の方面のみでなく、文化的
 にも入宋する僧の増加で、鎌倉新仏教への影響がみられ
 る。
1176年、法然が、43歳の時、この年に、浄土宗を開いた。
1176年、六条天皇が没した(1164年~1176年)
1176年、レニャーノの戦いが起きた。
  神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟(1167年に結成
 された北イタリアのロンバルディア地方の26の都市によ
 る軍事同盟)との戦闘。
  神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世を破り、都市の自治
 を承認させた。
1177年、京都が大火になった(安元の大火)。
  皇居をはじめ京都の大半を焼き、この災禍のため、元
 号が安元から治承と改められた。
1177年、延暦寺の衆徒が、加賀の国司・藤原師高(もろた
 か)を訴えた。師高が流罪となった。
  この事件は、清盛と院との対立関係が絡んでいた。
  ここに、院と平氏と大社寺という三大勢力の分裂が深
 刻になっていく。
1177年、近衛大将(宮中の警護などを司る左近衛府と右近
 衛府の長官)の地位を平重盛と平宗盛の二人が独占した。
1177年頃、反平氏の気運。
  (1)平氏の貴族化による旧勢力(法皇、貴族、寺社)
     との対立。
  (2)武家政権としての不徹底→地方武士の離反。
1177年6月、鹿ケ谷の密議:後白河法皇の反清盛感情があ
 り、京都の鹿ケ谷(大文字山麓)で平氏打倒を密議した
 →山荘の密議の発覚→西光、藤原成親(なりちか)、藤
 原成経、平康頼、僧俊寛(しゅんかん)などが処刑や流
 罪になった。
  この日の払暁、清盛は突然、院の近臣である西光法師
 と藤原成親を逮捕した。西光は、その日のうちに、首を
 はねられ、成親は備前に流された。
1178年11月、高倉天皇の中宮(清盛の娘・平徳子)が皇
 子を産む。
  後白河院も自ら産殿にのぞみ、安産を祈祷し、清盛は
 これを喜んで院に綿・綿など膨大な祝いの品を送ったり
 した。
  こうして鹿ケ谷事件で爆発しかかった院と清盛の対立
 関係が、一時持ち直すかに見えた。しかし、一時的なも
 のであった。
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