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2012年3月2日金曜日

皆様、再開しました。宜しくお願いします。

何かの事情で、アクセスできなかったと思いますが、再開できました。
これからも宜しくお願い致します。

2012年1月5日木曜日

あのころはよかったなー・・・

☆題: 《あのころはよかったなー・・・》: 

 青物町商店街の狭い路地。
 40メートル先のどんづまりに商店街の守護神、お稲荷さん
がある。
 カブ・ニンジン・バナナ・そして尾頭付きの金目鯛が三方
に載せられお供えされている。
 小さなキツネの焼き物が飾られている社殿。
 1坪ほどで小さいのに「正一位半田稲荷大明神」とたいそう
な神社。

 10月10日。ここで秋の例祭があった。
 12人が、社殿の向かいにある自治会館に集まり、お神酒を
交わした。
 ほとんどが70代。
 にぎやかな語り「葛飾の半田稲荷から江戸時代に分かれたの
だろう」
「昔は初午(はつうま)の前に、みんなでお参りにいったもの
だ」。
 昭和期の例祭には露店も出た。
 子供達もたくさん、駆け回っていた。
 映画館も商店街のはずれにあった。
 「人通りが多かった。小さい子は父親に肩車をしてもらわ
なければ歩けなかったもんだよ」。

 昭和46年に商店街にアーケードが完成した。
 今はさびが目立つが。
 工事をした人が言う「昔はもうかって、芸者を上げて一晩に
百万使ったこともあった」。
 花街は、青物町の隣の宮小路。
 いま、地方都市の高齢化と過疎の波が青物町商店街をも襲う。
               (参考:朝日2010・11・9)

2012年1月4日水曜日

国家や正義の名の下での・・戦争による大量死が・・無くなる時代は、いつ、来るのだろうか・・・

☆題 : 《 国家や正義の名の下での
     ・・戦争による大量死が
     ・・無くなる時代は、何時、来るのだろうか・・・》:
 
 書評:東京大学名誉教授・本間長世氏、「戦死とアメリカ
     ドルー・ギルピン・ファウスト著」(抜き書き)。

 米国の南北戦争は、
 建国後1世紀足らずで国家が分裂し、
 4年間にわたる戦争の末、
 北軍が南軍に対して勝利をおさめ、
 連邦の統一が回復され、
 反乱軍が鎮圧された内戦として記憶されている。

 この戦争の記憶は、
 アメリカ人の間で生々しく受け継がれてきている。

 南北戦争の戦死者の総数は、62万人。

 訳者(黒沢眞里子氏)も注目している様に、
 本書の章立ては、
 「死ぬこと」、
 「殺すこと」、
 「埋葬すること」など 動名詞を使い、
 動的な切り口で叙述を進める事で、
 主題の重苦しさが救われている。

 北部人も、南部人も、
 同じキリスト教の神に祈ったが、
 神自身の目的をうかがい知ることはできないと述べた。

 20世紀は戦争の世紀だった。

 今世紀において、
 破壊兵器はますます精度を高め、
 無差別テロの恐怖は各地に広がっている。

 歴史の教訓は生かされていない。

 国家や正義の名の下での大量死が、
 なくなる時代は何時来るのだろうか。 
               (日経2010・12・19)

(小生:「(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても良
い」の教義では、必然的に戦争は多くなる)

2012年1月3日火曜日

戦争開戦前に、徹底的に現状分析がなされたが・・・幻の報告書

題 : 戦争開戦前に、徹底的に現状分析がなされたが
                    ・・・幻の報告書
☆《 戦争開戦前に
 ・・現状を詳細に分析した報告書が存在した
 ・・しかし、現状認識を封印し、戦争は始められた
 ・・その結果は悲惨そのものだった・・・ 》:

 70年前の日米開戦前に、
 日本の国力を正確に予測しながら、
 葬り去られた幻の報告書が存在した。

 1939年9月、
 関東軍参謀部で、満州国の建設主任から急きょ帰国した陸軍
中佐の秋丸次朗は、
 「戦争経済研究班」を取り仕切って、
 その報告書を作成した。
 同班は「秋丸機関」と通称され知られた。
 秋丸は、英米との戦争に耐えられるかどうかの分析を命じら
れ、
 東大教授の有沢広巳、
 後に一橋大学学長になる中山伊知郎らの学者を集め、
 徹底的に調べた。
 20~30人の研究チームだった。
 調査対象は、人口・資源・海運・産業など広い分野に及んだ。
 資料収集に苦労を重ねた。
 経済封鎖の日本。
 軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
 英米との力の差は・・。
 分析が進んで行った。

 調査開始から1年半後の1941年半ば、
 12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、
 陸軍首脳らに対する報告会が催された。

 秋丸は意を決して言った。
 「日本の経済力を1とすると、
 英米は合わせて20。
 日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、
 それ以降は経済力は下降線をたどり、
 逆に、英米は上昇し始める。
 彼らとの戦力格差は大きく、
 持久戦には耐えがたい」。
 これが秋丸機関の結論だった。

 列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
 じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
 「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告書の
分析に敬意を示し、
 そして続けた
 「その結論は国策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。

 会議から帰って秋丸は、報告書を焼却した。
 有沢は直ちに活動から手を引くように命じられた。
 秋丸機関は、ほどなく解散し、
 現状認識を封印した戦争が始まった。
 結果は、悲惨そのものであった。

 報告書の一部が秋丸の死後、
 遺品の中から発見された。
 詳細を極めた報告書であった。
               (参考:日経2011・1・3)

2012年1月2日月曜日

野田さ~ん! 40年国債って、40年後の子供たちからおカネを借りて・・・

題 : 野田さ〜ん!、40年国債って、40年後の子供たちから
    おカネを借りて・・・

☆《野田さ〜ん!・・・》: 
「 野田さ〜ん!、40年国債って、40年後の子供たちからお金
を借りて、今の子供たちにお金を配るという事ですか???
・・・この国債、金融機関に賛成意見が多いという話があった
ので・・との声が聞こえて来たのですが???・・金融機関に
は0に近い超低金利の日銀からお金が流れていますが・・その
お金? 」
 
☆《これから日本に出て来る人からおカネを借りる・・・》:
 野田さんの政治というのは、「未来の人たちからお金を借り
て、お金を配って評判をとる・・言いかえれば、お金で評判を
買う的な政治」なのですか???・・違いますよね?
・・40年国債は無節操でしょう?・・恥ずかしいことをしてい
るなと思うべきでしょう・・今、居ない人=これから日本に出
て来る人から勝手におカネを借りちゃうんですよ・・帳簿上
そうしちゃうのでしょ・・・ 」

☆《デフレから脱却したいからといって・・・》: 
 デフレ脱却したいといったって・・40年もの先の人達まで巻
き込むのはおかしいでしょ・・また、財布を潤したいといった
って、「自分だけ良ければよい」の姿が見えますよ・・何か
変?・・40年先に急浮上する国債・・??・・「40年先の人た
ち、逃げられない借金に」「えーっ、俺たちが払うの〜」って、
言うだろう・・なら、野田さん、やるのなら100年にする?
・・もう、ここまで行ったら、貰ったも同然です・・冗談は、
止めにしましょう・・利子は払ってるんだからなんて大きな
顔はしないで下さい・・借りまくりの姿です・・」
 
☆《ニチギン!・・・》: 
 日銀、お主も悪よのう。・・結託してるでしょう?・・・
「40年もの先に浮上する霞みの国債」は、「繰り上げて償還す
るように・・そして、止めなさい」との意見で振舞って下さ
い・・「こんな先の未来の人たちにまで世話になるのかい・・
これはないおカネです・・」と、言って下さい。 

☆《無利子に近い金利で日銀がお金を貸してくれたら
・・外国がほとんど買ってくれない日本の国債・・しかし・・・》: 
 外国がほとんど買ってくれない日本の国債。
 小泉さんが日本の国債の格付けが下がって目をむいたが・・・。
 中国が半年や1年という超短期で買ってくれる時も(危なくて
長期は・・との意か?・・)。
 それでも国内・日本人が買ってくれたから良かった。
 ゆうちょ銀行などが必死に買っている。
 しかし、日経新聞(2011・1・3)に「国債の国内消化危うく」
との記事があった。以下その記事:
・・日本の公的な債務残高がGDPの2倍に達しても、国内では
「日本はギリシャにはならない」と財政危機論に否定的な声が
ある。
 家計の金融資産が国債残高を上回っており、『 当面は 』
国債を国内消化できる事情があるためだ。
・・だが、エコノミストの間では、金利の上昇で国債の利払い
費が増え、財政運営難に陥る悲観シナリオがある。
 少子高齢化で家計の金融資産増加は鈍っている。
 国債残高の上昇ペースのが速い。
 みずほ総合研究所「いずれかの時点で長期金利が急上昇する
リスクは否定できない」と指摘する。
・・今後、海外投資家に頼るようになれば低金利では買い手が
つかず、金利が急上昇する懸念も出てくる。
・・(読後のひとりごと:もしあなたが低金利で日銀がお金を
貸してくれたら・・低金利とはいえ、それ以上の金利が戴ける
日本の国債を買いますか? 利ざやはありますよ・・とのヘン
な声が聞こえる。うらやましい)

☆《政治が逃げている・・歴史に残る今、何故なさぬのか・・》: 
 政治が逃げている
・・本来、与野党の枠を超え、論じるべき課題から政治は逃げ
続けている。
・・30年も前から・・「少子高齢化で、立ちゆかなくなる」と、
指摘されていた。
 政治経済学者の故村上泰亮氏が「新中間大衆の時代」で27年
前に、「最近の日本社会は例外的な楽園(状態)である。
 町を歩く若い世代の日本人ほど無防備な表情をしている若者は
ほかにいない。
 古い世代の日本人も、ようやくたどりついた豊さにすがり
つこうとしている」。
 村上氏はすでにこの時「現在の日本の豊さは、つかの間の幻影
に終わる可能性も大きい」と書いている。
 (政治家よ、今、この時、2011年、処方箋を実行にうつしな
さい。実行にうつさない限り、悲惨な淵へ・・今は実行ある
のみ・・)。       (参考:日経2011・1・3)

2011年12月31日土曜日

木銃で下から敵を撃滅せよ・・弾も出ない木の銃で子供に何をさせようとしたのだろうか・・・

題 : 木銃で下から敵を撃滅せよ・・弾もでない木の銃で
      子供に何をさせようとしたのだろうか・・・》:

 私の履歴書:
        商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
・・1944年7月にはサイパン島守備隊が玉砕し、
 本土への空襲激化は時間の問題となったため、
 主要13都市で学童疎開が開始された。
 毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、
 昼の給食用の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなど
を受け取り、
 地域ごとに走って帰宅することになった。
 10時以前だともらえないので、
 毎日10時になってすぐに警報が鳴らないかと、
 不届きなことを願う日々だった。
 家に帰っても遊び道具はボール一つなく、
 もっぱら道路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、
 高射砲弾の破片集めに興じた。

 父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だったろう。
 近くの東横線都立高校駅まで見送り、
 せみ時雨の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振った
のが別れになった。

 1945年2月になると縁故疎開先もなく、
 まだ東京にいる全学童に強制集団疎開命令が出た。

 5年生以上約100人は、
 数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
 当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
 私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、
 女子は近くのお寺にお世話になることになった。
 朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、
 荒削りの木銃での厳しい軍事教練。
 何でも米軍は九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に落下傘部
隊を降下させるので、
 その時はこの木銃で下から敵を撃滅せよとの命令だった。

 弾も出ない木の銃で子供に何をさせようとしたのだろうか。
 毎日午前中は自習だった。
 本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
 いつも腹をすかせていた。

 主食は大豆が8割で、
 残りの2割が米、麦と雑穀。
 炊くと大豆は膨らむので、
 見た目には大豆だけのようだった。
 下痢をする者が多かったが、
 申告しても薬はない。
 決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているから、
 食べ盛りの私たちは誰もがギリギリまで我慢した。
                    (日経2011・1・4)

2011年12月30日金曜日

(キリスト教の)神の義によれば、人を誅してもよい・・・について

題 : (キリスト教の)神の義によれば、人を誅してもよい
                       ・・・について

 こんにちは
 キリスト教は「(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても
良い」との教義があります。
 どこにこの教義はあるのでしょうか。
 勉強したいです。
 よろしくお願いいたします。

 ビオラさんへ 
 はじめまして、ご質問を戴きました事に関しまして下記に書かせ
ていただきます。

 (キリスト教の聖書の1例)
  ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を
勧告しなさい。
 もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、
 その全住民を強制労働に服させ、
 あなたに仕えさせねばならない。
 しかし、
 もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
 あなたの神、主は、その町をあなたの手に渡されるから、
 あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
 ただし、
 女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品
として奪い取ることができる。
 あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に
用いることができる。
 このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、
次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
 あなたの神、主が 嗣業として与えられる諸国民の民に属する
町々の息のある者は、
 一人も生かしておいてはならない。
 ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、
あなたの神、主が命じられたように
 必ず滅ぼし尽くさねばならない。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 ☆自分の利のために他人を殺せと教えるキリスト教の神の教義。
  そして、
  この殺戮の悲惨な時点においても 
 「奪い取れ、奴隷にせよ」 と
 色々と指図するキリスト教の神の教義。
  この類の記述は 聖書の中に 種々多い状況。
  また、
  聖書において下記の示唆もある。
  ラテン語:talio:タリオ:被害者が受けたのと同じ害を加害者
側に加える制裁。 local limit : local一定の空間を占める、
limit限界点 : 現代のキリスト教徒の困惑となる一例。
 モーゼの時代には戦争をして相手を殺し、場合によっては奴隷に
せねばイスラエル人(選民思想の民族)が殺される時代であった。
 この状況から生まれた教義が、「 当時の状況と当地の状況 」と
全く変わっている現代の「 他の地域や多くの時を経た今 」に
おいてでも 同じ教義・同じ考え方で 存在している。
 TPOというものの見方がありますが、TPO的にも全くアウト。
 このキリスト教の教義から多くの悲惨な戦争が起きています。

 ☆与謝野晶子
     嗚呼、弟よ、君を泣く。   君、死に給うこと無かれ。 
     末に生まれし君なれば。  親の情けはまさりしも。
     親は刃を握らせて。     人を殺せと教えしや。
     人を殺して死ねよとて。   二十四までを育てしや。

     堺の街のあきびとの。    旧家を誇る主にて。
     親の名を継ぐ君なれば。  君、死に給うこと無かれ。
     旅順の城は滅ぶとも。    滅びずとても何事ぞ。
     君は知らじな、商人の。   家の掟に無かりけり。

      (後略)

☆『 相手のかたにも正義があるのに 』 との女性の小さな声が
耳に印象的に残った。 そうですね。その通りと思います。私は答
えた。
 神という衣を着せて「正義なのだから」と、「こちらは間違って
いないのです」と。 争いは、どの様な場合もそのようになって居
ります。
 宗教で、その形を是と教義すれば争いの多い状況になるのは必然
です。 
 このキリスト教の教義は変えなければならないのです。
 これから未来を受け継ぐ若い方たちのために、人類の未来のため
にも。
 NHKは、昨年、義によって争う大河ドラマを日本中に放送し、洗脳
した。 『 正義だ、やってしまえ 』 的ドラマを。 
 この大切なことが分かって戴いているのか? 
 影響力の強い放送媒体だけに心が痛む。 
 実に、この様な事例が多い放送局です。

☆非が全くないという事ではないのに、すべて相手が悪いと相手側へ
すべて問題を転嫁し、
 なお且つ、
 良否判断の理性が全く入る事の出来ない宗教教義に規定する。
 キリスト教教義
 「(キリスト教の)神の義があるのだ、やってしまえ」をつくる。
 紛争の地が展開され、その歴史が連綿と続く。
 民は泣く。 キリスト者はその罪を知っているか? 
 自分の勝手な・独り善がりな「正義」に真っ向から対立するからと、
 そして、独り善がりな・勝手な宗教教義で「邪悪」だと「 決め
つける 」。
          「 そんな宗教 」は否。

2011年12月10日土曜日

麻生元首相の発言 「 やられたらやり返す 」 について

題 : 麻生元首相の発言「やられたらやり返す」について

 麻生さんと聞くと、
 大平さん以来の 久方振りのキリスト教の首相。

 ソマリア沖の海賊問題の時のご発言に 
 「やられたらやり返さなければならないのではないか」 と目を
大きくして発言されたのが 印象的でした。

 小生は 「アッ! 目には目を・・・かっ」 と思いました。
 キリスト教的な発想だなと思いました。

 東京のテレビなどでは、「思考熟成度が低い」と言われていました。
 また、強硬姿勢の思考形態が 「北朝鮮のキム・ジョンイルと同じ」
との批判の声もありました。

 また、「強硬サイドにしか梶が取れない思考」 「選択肢も固定し
狭い思考」 「頑固な固執思考経路しか持っていない」・・・など 
浅薄さを露呈した 1事例となってしまいました。

 「リスク指数」というのがあれば、 レッドゾーンのアウトですね。

 何しろ、 キリスト教は
 「(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても良い」 との
教義があります。
 また、それに輪を掛けて 「王権神授説」という教義があります。

 そこで、 国の長の戦争行為を是としています。
 思考形態は狭くなります。 
 全て正しいのは自分だ、 正義だ、 やってしまえになります。
ーー
☆ (若い方達へ)
 キリスト教は贈り物とか、讃美歌とか、外見上は優しく見えますが、
若い方達は特にご注意ください。
 虐殺や戦争の事例が実に多い宗教です。
 それは『(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても良い』という
教義から来ております。
 他人を絶対にあやめてはいけません。間違った宗教に幸せな未来は
ありません。

 キリスト教の罪悪の一例である、ヨーロッパの30%もの方々が
亡くなった戦争事例がどの様なものかをお調べ下さい。 
 そしてまた、この%の異常さをお感じ下さい。 
 どの宗教も同じという話は無くなると思います。
 やはり、教え・教義からくる悲惨な結末なのです。
ーー
☆( キリスト教の教義の根幹をなす エゴ(自我)から争いへ )
 個人のエゴ・・人間が生きていくうえで、エゴは必要悪なのである。
 自己のエゴをそのまま是認してしまえば、堕落が始まる。
 教養と問えば、 剥き出しのエゴに多少とも磨きをかけ得る品性の
ことと言える。
 我々は、
 おのれのエゴの醜さを恥じ入り、
 それを少しでも控え目にさせることによって、
 辛うじて
 人の道を踏み外さずに
 生きていくことができるのであろう。・・・

 時に、
 エゴは、
 存在感を高めたり、
 自己の目的達成のために、
 しばしば宗教を利用する。・・・

 強烈なエゴを持った人物が、
 そして、
 強欲な人間が
 狡猾にも宗教を利用し始めると、
 その被害は甚大なものになる。・・・

 (ナチスの例)・・・
 特定の民族や集団は、
 長期間にわたって抑圧を受けると、
 その屈辱感が心的外傷となって、
 幾世代にもわたって
 集団の心理的DNAの内部に留まることになる。・・・

 それが、
 特定の条件下におかれると、
 眠っていた集団的記憶が蘇り、
 爆発的な力を発揮する。・・・
 その典型的な例がナチス・ドイツである。・・・

 ナチスは、
 あえてキリスト教と
 ドイツ民族の優越性を唱え、
 約600万人の異教徒ユダヤ人に対して
 ホロコースト(『完全に焼き尽くす」という意味)をやってのけた
 (キリスト教法王は
 ナチスに反対しないどころか、
 なびいていた)・・

 デマゴーグの最重要任務・・
 きわめて巧みに
 過去の歴史の古い敵を、
 現在の紛争の相手にすり替えてしまう・・・

 エゴが
 人前に現れる時、
 たいていは「正義」という名の
 美しい仮面をかぶっている・・・

 「正義」の名の元に
 制裁(争い)が起き、
 一種の「魔女狩り」が始まれば、
 とめどないものになる可能性は
 十分にある・・・

 「正義」とは
 誤謬(間違えること)であると
 断言してもよいのではないか・・・

 争いは「正義」の主張から起きることがほとんどではなかろうか・
....(参考文献:「なぜ宗教は平和を妨げるのか」 講談社α新書より )

☆キリスト教の「人間は生まれながらにして原罪がある」という教義と、
 「天に召されることを喜びとし、目的とする」という信条から、
 現実の人生に於ける生きる意味も目的も見失い、
 現実活動や社会建設の意欲を失い、また、
 そのような活動に励むものを見ても喜びを感じなくなったとの声も
聞く。
 この様な方の救済もせねばならない。

☆ダグラス・アダムズを追悼して
  「庭が美しいことさえ分かれば十分じゃないのか? 
     花の下に妖精がいるなんて信じなくても」 
        〔『銀河ヒッチハイク・ガイド』第16章より〕

2011年12月9日金曜日

近代の最先端科学は、『 キリスト教の間違い 』 を証明した。

題 : 近代の最先端科学は、『 キリスト教の間違い 』を証明した

☆地上に神は存在しないというキリスト教の教えは、
 近代思想の基礎を築いた。
 近代の思想家たちは、
ヒエラルキー・統治・闘争の必要性を唱えるキリスト教の教えを
 受け継ぎ、それを科学的に証明した。
  しかし、21世紀が近付くにしたがって、そうした思想には欠点が
 あるばかりか、科学的根拠も薄いことが分かってきている。
       (キリスト教暗黒の裏面史212頁 徳間文庫)
 (注)ヒエラルキー:ピラミッド型階層性・序列 

☆キリスト教のヒエラルキーは、
  神を頂点として、組織の構成要素すべてに優劣をつけて分類する
 という考え方である。
  しかし、近代哲学者の思想は、現実は、たわいもない偶然の出来事
 から成り立っているのであって、大きな意識によって意図的に
 生み出されたものではない、という考え方である。
 (当然、キリスト教の創造神の創造ではない)
  多くの者は、今ではこう考えるようになっていた。
  神の意志に目を向け、それを理解しようとしても、真理は見つ
 からない、と。
  機械的な宇宙の小さな要素を分析してこそ審理は見つかるのだ、と。
  宇宙が、神の干渉を受けずに動いていることが科学的に証明されて
 いる(同 214頁)

☆キリスト教は、自然界に神聖なものはないと考えている(神の居る
 天のみが神聖である、と)。
  キリスト教のイデオロギーから生まれ、近代思想家によって証明
 されたさまざまな思想は、20世紀末を迎えた今では、科学的根拠に
 欠けることが分かってきている。
  キリスト教の教義に関わった古典物理学には宇宙観を語れるほどの
 知識がなかったことが明らかになった。  (同 223頁)
  1例として、ニュートンは、十分な情報を与えられれば、出来事の
 結果を正確に予測できると思っていた。
  だが、量子力学によって、人間に分かるのは結果の「確率」に
 すぎないことが明らかになった。
  矛盾のない物理学を打ち立てようとしてきた科学者たちは、現実の
 すべての物事について論理的に説明するのは不可能だと、自らの発見に
 よって認めざるを得なくなった。
  波動関数の研究をしていた科学者たちは 物質界が「心的」でもあり、
 また「物的」でもあることを発見した。
  キリスト教の天地分離説を裏付けるものとして、古典科学者たちは
 精神と物質が分離していることを証明してきたが、それは科学的な真
 実ではなかった。        (同 224~5頁)
 (キリスト教の間違いを確認する結果となった)

☆『量子力学の理論が正しいとすれば・・文字通りの物質界などという
 ものは存在しない。
  この結論は、それが存在しないかもしれないというような、あや
 ふやなものではなく、その存在をきっぱりと否定するものである。
                   (同 224~5頁)

☆近年の科学者たちの功績によって、(ニュートンなどの)古典論が
 科学的根拠の薄いものだったことが分かってきたのである。
  近代の科学的方法、すなわち、構成要素を細かく分析して、キリ
 スト教的なヒエラルキーに当てはめるという方法も、今では考え
 なおされている。
  近年の科学によって分かってきたことがある。
  それは、要素を分析するだけではなく、要素の全体的なつながりも
 あわせて考えれば、真理により近づけるかもしれない、ということだ。 
                   (同 226~7頁)
 
 ( 仏教は全くすごい。仏教の教義が、最先端の近代科学で正しい
 ことが証明されて来ている。仏教の教義の一つを例に、『一切衆生、
 悉有佛性:(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)・・・
 この世のあらゆる生きとし生けるものは、ことごとく皆、佛性(佛の
 性質、佛と成り得る資質)が備わっている。そうした生きとし生ける
 ものでもって宇宙は構成され、すべて(万物)が繋がり、時は流れて
 いる。そのつながりの中で育んで行く』・・・この定義されている
 仏教の考え方・教義が上記の近代科学の考え方と全く一致している。
 そして、キリスト教の教義・考え方は間違っている事が分かってきた
 と言われている)

☆今まで私たちは、キリスト教の恐ろしい歴史を見過ごしてきた。
  キリスト教の教えをさまざまな角度から検証する事もなかった・・
  気づくだろう。神は恐れと絶対服従を求める存在だ、と。
  教え込むことは、人間の精神を繰ることにほかならない、と。
  性差別主義・民族主義・全体主義の根底には、
 唯一至高神への信仰がある。   (同 238~9頁)

☆多様性や自由、人間の尊厳を重んじる世界へと突き進んで行け。
  そうすれば、人類が自由に人道的に生きていくという理想を揚げ、
 夢に向かって羽ばたくことができる。   (同 238~9頁)
 (方向性は多神教にある事が確認され、それが正しい方向性だと
 分かってきた) 
 (また最近、次の確認をした。来日された前パリ・ソルボンヌ大学
 総長が上記考えと同じ発言をされていた。
  多様性の中に人類の未来があり、各多様性さの中に神聖さがあり、
 オリジナリティがある・・・など)

2011年12月8日木曜日

武士は食わねど高楊枝

題 : 武士は食わねど高楊枝

☆「 武士は食わねど高楊枝 」 
            おお、君たちは良く言うた・・・
 
 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏 : 十界

 君たちは、餓鬼界を 脱っしていたのか・・・

 文明の発達が相手より 少し遅かったという、
 ほんの少しの理由が・・・・
 嗚呼・・・

 反抗する手立てを 持たない人たちの
 南米という地において、
 降って湧いた様な ことに、
 とまどいと驚きの人たちに 対し、

 自分たちの欲を 達成しようと、
 欲情を 露骨に 現わし、
 他人の富、
 痩せた土地を耕したりして、極貧の中をやっと貯めた富、
 その富を 横取りする、

 さまよう 餓鬼界から、
 収奪の心をおこし、
 殺戮の限りを 実行してしまう、
 奪い取りの 地獄界へ 落ちていく、

 言語を 絶する、
 表現手段もない 極悪の極の 行為を、
 長い間、反省なく、
 何十年も、
 その 地獄界を、
 ばっこし、
 彷徨し 続け、
 全てを 殺して、
 やっと 自分を、取り戻す 者たち・・・キリスト教聖職者ら。

☆是非、岩波文庫の
  「南米の愚行・インディアスの破壊についての簡潔な報告」
                 ラス・カサス著     
                     をお読みください。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
☆後日談、
   ・・・本当につらくなる後日談を この本を読んだ後
                         見つけた。
 収奪した金などは、
         そのすべてを王たちへ出さず、
 私のものとして 持ち去り・・・・
          私腹を肥やして、優雅な生活をしたとの事。

2011年12月7日水曜日

「 風の生まれる地 」 の できごと

題:「 風の生まれる地 」の できごと

☆「 キリスト教の蛮行 」 
 「風の生まれる地」 と言われる
 南米最南端の地に居る 小民族は、
 かつて6000人いたと 言われているが、・・・

 この地球最南端の 僻地の 原住民・
 この様な 小民族にまでも、
 『 インカ文明の人々を絶滅させた
   キリスト教徒 と 
   彼らと行動を共にした キリスト教聖職者達 』 が
 やって来ていた事を、
 テレビで 確認した。

 インカなどの南米はおろか、
 中米、
 北米・メキシコ 
 および 周辺離島など、
 あらゆる場所で、
 やりたい放題の 殺戮を しまくった
 キリスト教徒の 極悪な虐殺・
 殺戮行為が、
 今・現在、この民族に

 「 絶滅 」という
 復活の不可能な
 状況に置いている。

 生き残った方たちだけでは、
 民族を維持し、
 かつ、
 かつての様に復活する事が
 できないという状況で
 推移してきて、
 絶滅寸前に
 なってしまった という事。

 民族最後の方が、
 「 母から
 私たちは
 日本から来たと
 教えられていました 」
 という言葉が・・・・・。
    (平成22年1月3日、テレビ朝日、
              番組名:地球の目撃者・風の大地へ)

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 
☆ キリスト教の犯した罪・蛮行について、
 もっとお知りになりたい方は、

 「南米の愚行・インディアスの破壊についての簡潔な報告」
          岩波文庫  ラス・カサス著  を。

 殺戮の限りを尽くした キリスト教徒と 
行動を共にしたキリスト教聖職者が
 「このままでは天に召されない」 と
 老齢になって やっと
 本国に報告した書 です。
 時はもう 50年を経ていました。
 殺戮をしまくった 後でした。
 南米・北米・中米そして離島の各地は
 絶滅の状況、
 その驚嘆の 殺戮人数などが
 記されています。

 報告を受けた
 本国の王 および その関係者などは
 絶句、
 すべてを 聞けずに、
 まず報告に マトメなさいが
 本書。

2011年12月6日火曜日

悲惨な戦争を無くせないのでしょうか。切なる希望について。

2009年8月13日(木)13:00  毎日新聞
 ◆被爆者が生きている間に、核兵器が廃絶される日を見せてあげたい。井田薫(仮称)

「原爆投下の良かった面を考えよう」

 早稲田大4年、井田薫(仮称)さん(22)は6年前、留学先の
米ミシガン州の高校で、アメリカ史の教師が出した課題に耳を疑った。
 幼少期を長崎市で過ごし、毎年8月9日には静かに祈る人たちの
姿を見てきた。
 「広島と長崎の悲劇は世界に共有されていると思っていたのに」。
 頭の中が真っ白になった。
 他の生徒たちが「戦争を終わらせた」「祖国の防衛になった」など
と答えるのを聞きながら、「違う」と思った。
 だが、その一言が言えない。
 沈黙するしかなかった。
 帰国して大学に進み、祖父の妹(80)宅に下宿した。
 そこで、亡き祖母が長崎で被爆したことを知った。
 自分が被爆3世だということも。
 ある夜、祖父の妹が涙を流しながら被爆した時のことを語って
くれた。
 焼けただれて助けを求める人たち、空襲警報のたびに防空壕(ごう)で
震えた記憶……。
 「同じ苦しみを味わわせたくない」。その言葉が胸に響いた。
 2年前、再び米国に留学した。
 「今度は自分の思いを伝えよう」。
 小さな決意を秘めて向かった留学先の大学で、原爆を扱った映画の
上映会を開いた。
 学生から「原爆の苦しみを教えてくれてありがとう」という言葉が
返ってきた。
 「伝えれば伝わる」と思えた。
 今は、ジャーナリストを志し、中東向けのニュース配信会社「パン
オリエントニュース」(東京都港区)で「修業中」だ。
 いつか、自分の記事で世界に発信したい。
 「良い戦争なんてない」と。

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(悲惨な戦争を無くせないでしょうか。切なる希望について。)
拝 啓
 下記は、番組を提供された企業様とその番組に出演された女優様へ
送信したメールです。
 是非、御一読 賜りたくお願い申し上げます。
 尚、下記において、番組提供の企業(○○と標記)と出演された女優
(☆☆と標記)、及び放送した放送局(□□と標記)は匿名とさせて
戴いて居ります。
                              敬 具
     《 記 》 
 ○○株式会社様
 拝 啓
 下記は、貴社提供のテレビ番組(□□チャンネル、地球街道「長崎
街道、憧れの教会」)について、☆☆様へ送信したメールです。
 御多忙とは存じますが、是非、御一読 賜りたく お願い申し上げ
ます。               敬 具
        記
 ☆☆ 様
 拝 啓
 御活躍のご様子、何時も拝見させて戴いて居ります。
 本日(10月18日)午後10時30分からの□□チャンネル「地球
街道(長崎街道、憧れの教会)」を拝見させて戴きました。
 この番組は、今回の様に、「キリスト教徒によるキリスト教を美しく
見せる番組」を度々放送しております。
 これに比較して、仏教関係は皆無の状況です(公共放送として公平性
の無い偏した現況です)。
 また、キリスト教は『(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても
良い』との教義から「人をあやめる行為」を残念ながら行って来て居り
ます(この悲惨な事例は、いにしえから長い歴史と共に数知れずあり
ます)。
 近年では、ブッシュさんがイラクで(多くのアメリカの青年が亡く
なっております。また、本戦争に関係のないイラクの多くの方々も
亡くなられております)。
 そして、次期米国大統領候補の方々は、いずれの方もイラクの悲惨な
この戦争の中止を意思表明して居ります。
 ブッシュさんの支持母体のキリスト教徒の希望により行われた(上記の
教義の論理から行われた)この戦争は「悲惨な結果」をもたらしただけ
でした。
 ブッシュさんのお父さんも、中近東の湾岸戦争で、今回と同様に、
支持母体のキリスト教徒の希望により同じ行為をして居ります。
 キリスト教は、いにしえの古代の十字軍もそうですが、上記の教義に
より、可哀想な多くの方々を残念ながら作ってまいりました。
 この教義は間違っておりますという声を、是非、上げて戴きたく
お願い申し上げます。
 また、キリスト教に偏する番組作りをしている本番組へ、公共放送
として公平性のある番組作りになる様、お力をお貸し戴ければと
お願い申し上げます。               敬 具
ーーー(以上を送信させて戴きました。以下は御参考として付記させて
戴きました)ーーー
(参考)テレビに於ける公開討論において、米国大統領候補のいずれの
方も、直ぐ撤退するか、否かの意見の違いだけで、両候補とも撤退の
意見となっております。
 ☆ 己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。
 ☆ 以和為貴・・・(和をもって貴しとなす)。
 ☆ 一切衆生、悉有佛性 :
  (いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)・・・この世のあらゆる
生きとし生けるものは、ことごとく皆、佛性(佛の性質・佛と成り得る
資質)が備わっています。
 そうした生きとし生けるものでもって宇宙は構成され、すべて(万物)が
繋がり、時は流れています。
 そのつながりの中で育んで行きましょう。
 [ 参考比較 ] キリスト教の人間生来の 原罪 : 原罪(げんざい)
とは、エデンの園において人類の始祖であるアダムとイヴが最初に犯したと
される罪、およびその罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまった
ため、以来人間は神の救い・助けなしには克服し得ない罪への傾きを
持つことになったという、キリスト教の多くの教派において共有される
思想。
 (ここを原点として、信じなければ救いを拒否し、切り捨てるという
キリスト教がある)
☆ 真実の声 :
 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
 己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。   
             ・・・ 仏典『ダンマパダ』より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
(若い方達へ)

 キリスト教は贈り物とか、讃美歌とか、外見上は優しく見えますが、
若い方達は特にご注意ください。
虐殺や戦争の事例が実に多い宗教です。
 それは『(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても良い』という
教義から来ております。
他人を絶対にあやめてはいけません。
 間違った宗教に幸せな未来はありません。

 キリスト教の罪悪の一例である、ヨーロッパの30%もの方々が亡く
なった戦争事例がどの様なものかをお調べ下さい。
 そしてまた、この%の異常さをお感じ下さい。
 どの宗教も同じという話は無くなると思います。
 やはり、教え・教義からくる悲惨な結末なのです。

2011年12月5日月曜日

エルサレム: 歴史に旅する人たちの交差点でもあった・・・

題: エルサレム:歴史に旅する人たちの交差点でもあった...
          (仏教とイエス・キリストの共通性)

☆エルサレムは交通の要衝。
  東西南北、歴史に旅する人たちの交差点でもあった。

  インド仏蹟のストゥーパ(塔)からは
    ギリシア人の奉仕の証が見られ、
      インドとギリシアの当時の交渉の確証の一つにも
                      なっている。

  仏教は
    「一切衆生の 誰もが、
        仏になる仏性というものを持っている」と
                      教えている。
  また、
   ユダヤ教各派の中でも、
      仏教の教えに理解を示すグループに
            イエス・キリストは、属していた。

   イエス・キリストの言葉に
             上記と同系思想の、

    「誰もが 神の子として 平等だ」 と、
         上記の仏教の教えと
                同系の教えを語っている。

   イエス・キリストに 
      仏教の教えと相通じる面が見られる
                      1つである。

   だが、  弟子達は、イエス・キリストの死後、
       「イエスが唯一の神の子」 と
                     してしまった。

   この事からも 次の事が分かる。
   キリスト教の中央集権的なヒエラルキー(神を頂点とす
  る序列)が、強調され、
   イエス・キリストの意志の一つである「平等性」の心が
   配慮されない
        欠落の状態に置かれてしまった。

2011年12月4日日曜日

イエス・キリストに「 三位一体神 」の考えは 無かった

題 : イエス・キリストに 「 三位一体神 」の
      考えは無かった

  イエスに、キリスト教の根本教義の一つである「三位一体神」の
考えは、無かった。

☆ヨハネによる福音書の10・34〜36に、下記の様に書かれている。
 10・34
 イエスは彼らに答えられた、
 「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と
 書いてあるではないか。
  10・35
 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、
 (そして、聖典は無視できない)
 10・36
 それならば、父によって聖化されて世に遣わされてきたわたしが、
 「わたしは神の子である」と言ったからとて、
  どうして神を冒涜したと責められるのか。

・ これは、イエスが、神は一神ではなく神々(多神)の存在である。
 それは、貴方たちの聖典・律法に神々(多神)と書かれているでは
 ないか、
だから、
  わたし(イエス)は、神々・多神である神を冒涜していることには
ならない。
  つまり、
  『父なる神』から遣わされて来て「わたし(イエス)は『神の子』
である」と言っても
  神々・多神の存在の中において、
 神々・多神の冒涜にはならない(貴方達も私も、聖典・律法は無視
 することはできない)・・・と主張しているのである。

  イエスには、「三位一体神」などという考えはなかった。
  あくまで一つ一つの神々、つまり多神と考えていた。
  神々・多神の中に、『父なる神』や自分自身も『神の子』としても考え
 ていた。
  貴方達の聖典にも書くかれていて、私も信じるその聖典に書れて
 いる神々・多神の存在を守らなければならない。
  その教義・論理を根拠として、「わたし(イエス)は、神々・多神の
冒涜をしていないと主張しているのである。
 貴方達の神を否定し、また排除して「神の子」と言っているのではな
 く、多神・神々の中の「神の子」と言っているのです、と言っている。

☆テルアビブ大学 ゼエブ・ヘルツオグ考古学教授の 言葉:
  「 (キリスト教の)『唯一の神』という一神教の概念についても、
  生まれたのは 今から2000年余りさかのぼるに過ぎない 」
              (1999年10月3日、朝日新聞夕刊)
  キリスト教(ユダヤ教)が生まれた最初から
 「 一神教である 」としてきた世界の常識が
  間違いであったことが証明されている。

☆ 多様性や自由、人間の尊厳を重んじる世界へと突き進んで行け。
  そうすれば、
人類が自由に
人道的に生きていくという理想を揚げ、 
 夢に向かって
羽ばたくことができる。  
    (キリスト教暗黒の裏面史 238〜9頁 徳間文庫より)
 ・方向性は多神教にある事が確認され、
           それが正しい方向性だと分かってきた。    
 また、最近、次の確認をした。
 来日された前パリ・ソルボンヌ大学総長が
上記考えと同じ発言をされていた。
  『多様性の中に人類の未来があり、各多様性さの中に神聖さがあ 
 り、オリジナリティがある』・・・など。
 小生の日記、
 「近代の最先端科学は『 キリスト教の間違い 』を証明したを、
  ご覧ください。

2011年12月3日土曜日

戴いたコメントにお答えします・・・二宮政吉さんの『同じ気持ちです』について

題 : 戴いたコメントにお答えします
     ・・・二宮政吉さんの『同じ気持ちです』 について

 差出人: 二宮政吉さん
 日付 : 2011年05月19日 17:50
 件名 : Re:同じ気持です

 メールありがとうございます。
 ご指摘のことは、部分的には同意します。
 ヨーロッパ北欧のキリスト教とは、土着宗教の影響が色濃く
あります。
 キリスト教の布教活動により、土着宗教(迷信宗教)を信じ
ていた民族がキリスト教に改宗させられていったからです。
 ハロウィンについては、ケルト民族の土着宗教と、カソリック
中世暗黒時代における布教活動が重なったところから発生した
文化でしょう。
 現代では、ニューエイジの影響が強いようです。
 中世の暗黒時代における布教とは、このケルト地方のアングロ
サクソン人の改宗から始まりました。
 当時、ヨーロッパは南方からのイスラム教勢力の侵略に脅か
されつつあり、教会を守るために、北方への布教を強いるように
なったのです。
 その流れの中で、迷信深い北方民族のキリスト教への改宗は
必須でした。
 迷信深い土着宗教にキリスト教が妥協せざるを得ない時代で
した。
 その中に、ハロウィンの起源もありそうです。
 日本のキリスト教も、明治初期は、武士道(思想精神ですが)と
深く結びついたものでした。
 迷信宗教は、キリスト教にとって、コンピュータのバグのような
ものです。
 歴史の反省とともに、除去することが必要です。
 現代では、ハロウィン(カルト的祭典)を記念日とするキリスト
教派は、カソリック含め、ありません。
 また、中世の暗黒時代、宗教裁判があり、多くの人が、残虐な
死を遂げていることも事実であります。
 力の理論と「あなたの敵を愛せよ」というキリストの愛の教え、
いつの時代にも教会が悩む課題です。
 プロテスタントの歴史は、その罪を背負ってきたカソリックの
歴史(中世暗黒時代)の反省から出発しています。
 では、そのプロテスタントの時代になって、力の理論は消えて
なくなったのだろうか?
 ブッシュの戦争主義を支えていたのが、プロテスタントである
福音派と呼ばれるキリスト教原理主義の団体と批判されてきま
した。
 ここにも力の理論は存在しています。
 では、そのような力の理論を、私達は賛成しているんでしょ
うか?
 力の理論は、キリスト教の教えではないのです。
 全く正反対であります。
 ただ、聖書を読んでいると、新約聖書の他に、旧約聖書という
ものがあり、そこに侵略的文献があります。
 ですが旧約聖書は、直接はユダヤ教の教えであります。
 しかし、その旧約の中に、イエスキリストの預言が含まれて
いるので聖書の一部として採用しているのです。
 「目には目を、歯には、歯を」とは、旧約聖書に書かれている
ものです。
 新約聖書には、書かれていません。
 むしろ、新約では、「右の頬をぶたれたら、左の頬も出しな
さい」と書かれているのです。
 カソリックの暗黒時代の反省に立ったプロテスタントと同じ
ように、旧約聖書の暗黒の反省に立った新約聖書と言えます。
 ブッシュ政権を支えていたキリスト教原理主義者たちは、旧
約聖書を利用して、悪を征伐する、力の理論を採用したのです。
 ですが、それは間違いであり歴史が証明するでしょう。
 もし彼らのなしてきたことが認められるのではあれば、多くの
キリスト者の殉教は、なんの意味もない犬死です。

 ただ、政治世界では、9・11事件を解決するには戦争する
しか選択肢はなかったように思えます。
 世界の表舞台(政治、経済)がキリスト教主流世界であるため、
多くの人が、キリスト教と戦争を結びつけ考えるのもやむ負えま
せん。
 麻生前首相がクリスチャンだと言っても、本当に信じているのか
私には分りません。
 名目クリスチャンは、腐るほどいます。
 名目クリスチャンが天国に行けるのではありません。
 イエスキリストの、いのちを受けた者のみが天国に行けるの
です。
 それから、キリスト(聖書)を利用した、カルト宗教も多くあり
ます。
 エホバの証人(ものみの塔)などは代表的な宗派です。
 多くの歴史的過ちと、聖書理解の誤解が今のキリスト教に対する
偏見となっています。
 今の時代、幸せ病が蔓延しており、神様の目から物事を見る
ことのできるクリスチャンや教会は少ないと思われます。
 その様な幸せ病の牧師や信者が聖書を読んでも、「論語読みの
論語知らず」となりましょう。
 ただ言えることは、人とは、良心があり、何が間違いで、何が
正しいのか、自分の力で判別する能力を持っています。
 多くの素晴らし信仰者たちが今まで輩出され、それを受け継ぐ
キリスト者達がいることも事実だからです。
 参考になったかどうか分りませんが、後日に譲ります。

私の返事:
 二宮政吉さんへ コメントありがとうございます。
 同じ気持ちですと言って戴き ありがとうございます。
 ハロウィンとキリスト教とのかかわりなどの記述、キリスト教が
布教に際し、ヨーロッパの多神の宗教と、よく言えば融合、悪く
言えば妥協が、大分、起きたところです。
 魔女と関わるところなどキリスト教も無関係とは言えないところ
です。
 キリスト教系の学校でも喜々として行っているところでもあり
ます。
 また、ハロウィンがキリスト教と無関係とするのなら、日本での
行事化についても 明確に反対姿勢・行動を示して欲しいところ
です。
 ブッシュ政権に関することは同感です。この行為は間違いです。
 貴方様のおっしゃる「何が間違いで、何が正しいのか、自分の
力で判別する能力を持っています」とのお言葉には大賛成です。

 私は、神の言葉を戒・律・掟というかたちで伝えるというキリ
スト教の『他律戒』の在り方は良くない(間違い)と思います。
 あなた様のこの記述の様に「何が間違いで、何が正しいのか、
自分の力で判別する」が正しいと思います。

 自分で判断し 自分で何が正しいかを決める…です。
 『自律戒』です。

 キリスト教はこうではありません。
 「神の言葉を与える」・・です。
 キリスト教徒に判別力があると信じて、そして、キリスト教徒に
判断させるという、キリスト教は教義設定にしていません。
 キリスト教徒の判断能力に関し、無能力者のごとくに扱って
います。
 全て神の言葉を信じ、そして従う・・・です。
 また、それを 『 よし 』 としています。
 また、イエスキリストが旧約聖書と全く逆である点(あなたも
おっしゃっておりますが)を整合させていないという問題点を、
回避し、キリスト教は御都合主義的に振舞っていると言われても
仕方ないところもあります。
 正反対の教義が共存しているのです。
 都合のよい時には右と言い、都合が悪くなると左と言う。
 これが問題を大きくしています。ブッシュさんの例のように。

 [ 添付 ]
 ☆ 己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。
 ☆ 以和為貴・・・(和をもって貴しとなす)。
 ☆ 一切衆生、悉有佛性 :
  (いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)・・・この世の
 あらゆる生きとし生けるものは、ことごとく皆、佛性(佛の性質・
 佛と成り得る資質)が備わっています。
  そうした生きとし生けるものでもって宇宙は構成され、すべて
 (万物)が繋がり、時は流れています。
  そのつながりの中で育んで行きましょう。
 [参考比較] キリスト教の人間生来の 原罪 : 原罪(げん
 ざい)とは、エデンの園において人類の始祖であるアダムとイヴが
 最初に犯したとされる罪、およびその罪が人間の本性を損ね、ある
 いは変えてしまったため、以来人間は神の救い・助けなしには克服
 し得ない罪への傾きを持つことになったという、キリスト教の多く
 の教派において共有される思想。
 (ここを原点として、信じなければ救いを拒否し、切り捨てる
 というキリスト教がある)

☆ 真実の声 :
 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。 
 己が身にひきくらべて、
  殺してはならぬ。
  殺さしめてはならぬ。    
             ・・・ 仏典『ダンマパダ』より

2011年11月26日土曜日

げに仏陀は 百劫(ひゃくごう)にも 会うこと難し 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 13」

題 : 「げに仏陀は 百劫(ひゃくごう)にも 会うこと難し」
                五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 13」

ナレーション: 悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
     を導き続けた仏陀。
      病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、死に
     どう臨むのか、仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
      仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
      その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、それ
     ぞれストゥーパに納められました。
      大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられています。

        その遺功によって、
        この豊かな大地は、
        最上の供養物をもって飾られているのである。
        この様に、
        この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
        よく崇敬され、
        種々に、
        いとも良く崇敬されている。
        最上の人々によって、
        この様に供養されている、
        合掌して、
        彼を礼拝せよ。
        「 げにブッダは 
             百劫(ひゃくごう)にも
                     会うこと難し 」
                              (完)

(参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)とは、法華経
     如来寿量品で、釈迦の成道の久遠をたとえた語である。
      正しくは五百億塵点劫である。
      法華経の如来寿量品第16に、「今の釈迦牟尼仏は、
     釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座し
     て阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
      しかし、われは実に成仏してより已来(このかた)、無量
     無辺百千万億那由他劫なり」とあり、
      続けて「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千
     世界を、仮に人ありて抹(す)りて微塵となし、東方五百千万
     億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの
     如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるまで)、東に行くとし
     たら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、不(いな)や」
     と弥勒菩薩に質問している。
      これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
      「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種を、仮に人ありて
     磨(す)りて墨となし、東方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を
     下さん。大きさ微塵の如し」
      この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称される。
      これに対し、寿量品(本門)の「五百千万億那由他阿僧祇」
     を、五百(億)塵点劫と称して、化城喩品(迹門)の三千塵点
     劫よりもはるかに長遠であるかが示されるようになった。
      法華経における釈迦成道は「われは実に成仏してより
     已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」と
     説いており、経文の記述に素直に従うならば、この五百
     塵点劫はあくまでもたとえ話として出されただけであって、
     釈迦が成道した時ではない。
      また化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話として持ち出され
     た話に過ぎない。
      しかし日蓮は、『釈迦御所領御書』などで、「過去五百塵点
     劫より、このかた、この娑婆世界は釈迦菩薩の御進退の国土
     なり」などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味を持たせ
     たことから、釈迦が本当に覚った時と解釈されるようになった。
      なお一般的に、釈迦はインドで生まれ菩提樹下で成道した
     とされる。
      これを伽耶始成、また始成正覚というが、法華経においては、
     釈迦はそのようなインド応誕の仏ではなく、本当は遠い過去に
     成道していた、と打ち明ける。
      これを久遠実成をという。
                      (Wikipediaより)

     字幕:NHK 第一集 ブッダ最後の旅 インド
     語り:高橋美鈴
     朗読:長谷川勝彦
     資料提供:『ブッダ最後の旅」中村元訳
           増上寺
           文芸春秋
           中本徳豊
     ディレクター:正岡裕之
     制作総括:  山本辰也
           菊池正浩

2011年11月25日金曜日

破壊さるべきものであるのに、それが破壊しないようにという事が、どうしてあり得ようか 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 12」

題 : 破壊さるべきものであるのに、
         それが破壊しないようにという事が、
             どうしてありえようか 
                  五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 12」

映 像:  涅槃堂への道を歩く五木さんに涅槃堂の鐘の音が響く。
ナレーション: 敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃
     堂を見守り続けております。
     (涅槃堂に入っていく、五木さん、そして、涅槃像の前で座り、
     祈る、五木さん)
ナレーション: 仏陀が入滅したときの姿を顕す大涅槃像。
      死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が集まっ
     たと言います。 
      大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩んできた
     弟子・アーナンダの像が刻まれています。
      今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・アーナ
     ンダ。
      仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。

        止めよう、アーナンダよ。
        悲しむな
        嘆くな
        私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
        すべての愛する者
        好む者からも
        別れ
        離れ
        異なるに至るという事。
        およそ、
        生じ
        存在し
        つくられ
        破壊さるべきものであるのに
        それが破壊しないようにという事が
        どうしてありえようか 」。

ナレーション: 仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
      励まし続けました。
映 像:  涅槃堂から出て行く五木さん。出口のところで手を合わせ、
      静かにあたまをさげる。
ナレーション: 五木さんの仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
      (大きく鐘の音が響く)
五木さん:(五木さんにとって、理想的な死と言うものがあるのでしょ
     うか・・の、問いに、五木さんは) 
      それは、僕・個人の事は、旅の途上で消える様に、死んで
     行ければ幸せだと思いますね。
      あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校し、中
     学校は3回変わり、ほとんど自分の家というものを持たずに、
     転々と過ごして来ましたから、ずーっと自分の人生は旅だと
     考えて来ましたのでね。
      生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、世を
     去るというのは本当に理想な終わり方ではないかと思います。
      その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80を重ね
     て、大変な旅だったでしょうけども、旅の途中で、しかも豪華な
     都や宮殿の中でなく、美人の中でもなく、そういう寂しい寒村の
     林の中で亡くなった、
      そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れと、尊敬
     というか、そういうものを感じます。
      人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じます。
ナレーション: 仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
     修行僧たちに説きました。
      そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、訊ねます。
      修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙っていました。
      そこでアーナンダは、この様言いました。

        尊い方よ。
        不思議であります。
        珍しい事であります。
        私は、この修行僧の集いを
        このように喜んで信じています。
        仏陀に関し
        あるいは、法に関し
        あるいは、集いに関し
        あるいは、道に関し
        あるいは、実践に関し
        一人の修行僧にも
        疑う疑惑が起こっていません。

ナレーション: 満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。

五木さん:  さー、修行僧たちよ。
        お前たちに告げよう
        もろもろの事象は
        過ぎ去るものである
        怠ることなく修行を完成なさい 」

      ・・・と。
      こう、言った訳ですね。
      仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言いますか、
     宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後に一言で、
     もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、変化しないもの
     はない。
      こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、怠る
     ことなく、その真理というものを学びなさいと、こういう風に、
     あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る様に、語りつつ、
     仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
      仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人と同時に、
     そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝道の人であ
     った。
      死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理というもの
     を語り続けようとした。
      ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間としての
     魂のやわらかさ、そういうものを感じないではいられません。
      体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界や商人
     たちとも語り合う、それでいて、差別された人々とか偏見を持
     たれた人々に対して、まったく率直に、そういう人々の立場に
     立って、ものを考え、法を説くという、こういう事を考えますと、
     仏陀の持っている現代性といいますか、こういうものの大きさを
     改めて感じたことでした。仏陀のイメージが随分変わりました。
                            (つづく)

2011年11月24日木曜日

供養の食べ物を食べて・・ニルヴァーナの境地に入られた 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 11」

題 : 供養の食べ物を食べて・・・ニルヴァーナの境地に入られた 
             五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 11」

五木さん: 気持ち良さそうだねー。
映 像:  水浴びをしている水牛を見ている、五木さん。
字 幕:  カクッター川
ナレーション: パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカクッター川
     のほとりにさしかかった時、仏陀は、ついに耐え切れなくなり
     ます。
      ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲んで来
     るように頼みます。
五木さん: 仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があります。
      非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんですけどね。
      それは その、もしも自分に何かあったならば、そのことで
     自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任が、問われる様
     なことになりはしないか、彼はけっして悪くないんだと、彼が
     その事で自戒の念に悩まされ、自分に悪徳がないのではない
     のかと、こういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせて
     くれと、当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
     と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大変こう、
     大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
      そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に心を配る
     という、そういう遊女だ、あるいはアウト・カーストの人だという
     人々にも、全く平等に、自分の思いを伝え、接することを、日常
     の事としていた、仏陀の偉大さというものを、今の、近代を超え
     て来た私達、人権なんていう事をですね、改めて学んでいる
     私達以前に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよ
     うな気がして、感動しないわ訳にはいきません。
ナレーション: 仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本並
     んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしました。
      そして、こう続けました。

        アーナンダよ、
        鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
        この様に言って、取り除かねばならない
        『 友よ、
        修行完成者は、
        最後の供養の食べ物を食べて
        お亡くなりになったのだから
        お前には利益(りやく)があり
        大いに功徳がある。
        友・チュンダよ、
        この事を尊師から
        目の当たりに聞き、承った 』。

ナレーション: 仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事が
     きっ掛けでした。
      自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに劣らない
     ほどの功徳があると、仏陀は言います。

        この二つの供養の食べ物は、
        正に等しい実り、
        正に等しい果報があり、
        他の供養の食べ物よりも、
        はるかに優れた、
        大いなる功徳がある。
        その二つとは何であるか?
        修行完成者は、
        供養の食べ物を食べて、
        無常の完全な悟りを達成したのと、
        及び、供養の食べ物を食べて、
        煩悩の残りのない、
        二ルヴァーナの境地に入られたのとである。

ナレーション: クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともままなら
     ず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、病み、疲れた
     身体を横たえました。
      大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹に変化
     が現れたとしています。

        さて、
        その時、
        沙羅双樹は、
        時ならぬのに花が咲き、
        満開となった。
        それらの花は、
        修行完成者に供養するために、
        修行完成者の身体に、
        降りかかり、
        ふりそそぎ、
        ちりそそいだ。
        また、
        天のマンダーラヮ花は、
        虚空から降って来て、
        修行完成者に供養するために、
        修行完成者の身体に、
        降りかかり、
        降りそそぎ、
        ちりそそいだ。
        天の楽器は、
        修行完成者に供養するために、
        虚空に奏でられた。
        天の合唱は、
        修行完成者に供養するために、
        虚空に起こった。

ナレーション: 仏陀、入滅の地、クシナガラ。
      今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えません。
      町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てられて
     おります。                    (つづく)

(参 考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用語で、涅槃
     (Nirvana) のこと。
(参 考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになること。法力によって
     恩恵を与えること。自らを益するのを功徳(くどく)、他を益する
     のを利益という。

2011年11月23日水曜日

転悪成善(悪を転じて善と成す)・・初めて他者への憎悪や責める心から解放される 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 10」

題 : 転悪成善(悪を転じて善と成す)・・
           初めて他者への憎悪や責める心から解放される 
              五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 10」

ナレーション: 霊鷲山を出てから、半年になろうとしていました。
      仏陀は、熱心な信者が居るパーバ村へ向かっていました。
五木さん: ナマステー。
ナレーション: 当時、この一帯にはマンゴー園が広がっていました。
      持ち主は、パーバ村の鍛冶屋の子・チュンダ。
      以前、仏陀が、パーバ村を訪れた時に帰依した敬虔な信者
     です。
      チュンダは、仏陀を歓迎するために、貧しいながらもできるだ
     けの準備をととのえ、首を長くして待っていました。
五木さん: 燃料に使う、牛糞ですか?
      あれなんか、積み重ねているところなんかも、何千年も同じ
     様に、燃料に使っているわけなんですね。
案内の方: 牛糞に、藁を混ぜて・・・。
五木さん: あっ、そのままでなくてね。
      あ、そうか、そのままでは燃えないのだ。やっぱり。
      あーそれじゃー、一応加工している訳なんだね。
      えー、だけど、昔の村らしい村ですねー。
      ナマステー。
      (加治屋さんのところに来て)
      あー、ふいごですね、昔のねー。
      あのー、なんか、鍛冶屋さんと言うにはあまりに素朴なー。
      でも、こんな風にして、農機具とか色々を作るのでしょうねー。
      (あるインドの方へ)ナマステジー。
      あのー、仏陀が最後の旅の中で、この村で病気をしたと、聞
     いたのですが?
インドの人: この村で言い伝えられてきた話によると、仏陀は、仙人
     に姿を変えて南から 来たそうです。
      日が暮れ始めていたので、仏陀は、この村に泊まることに
     しました。
      村の誰かが、夕飯を用意したそうです。
      いろんな言い伝えがありますが、豚肉料理を出したという説
     と、ククルムタと呼ばれるキノコ料理を出したという話がありま
     す。
五木さん:(手を合わせて)ナマステジー。(お礼を言って立ち去る、五
     木さん)
     (鍛冶屋さんの映像、鞴・フイゴを手でこいで風を送っている)
ナレーション: 仏陀は、チュンダが用意してくれた食事を、快く受け入
     れました。
      しかし、口に入れて直ぐ、それが、食べてはいけないものだ
     と分かりました。
      ここで、仏陀は、チュンダにこう告げます。
        チュンダよ、
        残ったキノコ料理は、それを穴に埋めなさい。
        神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、
        また、神々・人間を含む生き物の間でも、
        世の中で修行完成者(=仏陀)のほかでは、
        それを食して完全に消化し得る人は見出せません
        ・・・と。
        「かしこまりました」と鍛冶工の子・チュンダは、尊師に
       答えて、残ったキノコ料理を穴に埋めて、尊師に近づい
       た・・・。
       近づいて尊師に敬礼し、一方に座した。
       チュンダが、一方に座した時に、尊師は、彼を教え・諭し・
      励まし・喜ばせて、出て行かれた。
ナレーション: その時、仏陀は、激しい腹痛に見舞われていました。
      仏典には、こう記されています。

        さて、尊師が、
        鍛冶工・チュンダの料理を食べられた時
        激しい病が起こり
        赤い血がほとばしり出る
        死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
        尊師は、
        実に、正しく思い
        良く気を落ち着けて
        悩まされる事無く
        その苦痛を堪え忍んでいた。
        さて、尊師は、
        若き人・アーナンダに告げられた
        『さー、アーナンダよ、
        我々は、クシナーラーに赴こう』・・・と。

ナレーション: 80歳の老いた身に、血が出るほどの激しい下痢。
      立っていることさえままならない身体を、引きずるようにして、
     仏陀は、自ら終焉の地と思い定めた、クシナガラを目指しまし
     た。
      パーバ村からクシナガラまでは、およそ20キロの道のりです。 
                            (つづく)
(参 考): クシナーラー = クシナガラ
(解 説):チュンダは、釈尊への尊崇の念で食事の供養をしようとして
     珍味のキノコ料理をさし上げたが、結果、釈尊の死を早めるに
     至った。
       釈尊は、チュンダが後悔して嘆くであろうし、また、まわりの
     者たちがチュンダを責めるようになるであろうと、チュンダに
     同悲され、「私の生涯で二つのすぐれた供養があった。
      その供養は、ひとしく大いなる果報があり、大いなるすぐれた
     功徳がある。
      一つは、スジャータの供養の食物で、それによって私は無上
     の悟りを達成した。
      そして、この度のチュンダの供養である。
      この供養は、煩悩の全くない涅槃の境地に入る縁となった。
      チュンダは善き行いを積んだ」と仰せになった。
      最初のスジャータの供養とは、釈尊がさとりを開かれる前、
     極限にいたるほどの苦行をされていたが、極端な苦行は悟
     りへの益なきことを知り、それまでの苦行を捨て、村娘のス
     ジャータから乳粥の供養を受けられた。
      それによって体力を回復し、菩提樹の下に座り、「悟りを開
     くまではこの座を決してはなれない」という決意でもって坐禅
     瞑想に入られた。
      そして、この上ない悟りを開かれたと伝えられている。
      スジャータの供養は、悟りに至る尊い縁になったのである。
      そして、このスジャータの供養の功徳とひとしく、このたびの
     チュンダの供養は、大いなる涅槃に至る尊い縁となると、釈尊
     は、チュンダの食物の供養を讃えておられる。
      チュンダがさし上げた特別のキノコはどうやら食用に適さな
     かったようある。
      しかし、チュンダは自分のせいで釈尊を死に至らしめたとい
     う後悔をするだろうし、また周りの僧俗がチュンダを責めるで
     あろうと釈尊は思われ、チュンダの嘆きに寄り添って、「チュン
     ダは大いなるすぐれた功徳を積んだ。
      チュンダの供養で、私は煩悩の残りなき大いなる涅槃に入
     ることになった。
      「チュンダは善いことをした」と、チュンダの供養をほめ、起こ
     るであろうチュンダの嘆きと周りからの責めをあらかじめ取り
     除かれたのである。
      ここに釈尊の慈悲の深さ、同悲のお姿が伺われる。
     仏教で言われる慈悲の行いとは、具体的にどういうものなの
     かがよく示されている。
      しかも釈尊のチュンダへの言葉は、無理にチュンダを慰めて
     いるというものではなく、ご自分の死を「大いなる涅槃に入る縁」
     と見られてのものである。
      ご自分の死んでいくことに対して、不幸ともいわず、嘆きもせ
     ず、静かに受け止められるばかりではなく、煩悩が全く消滅す
     る大涅槃に入る尊い縁として見ておられるのである。
      そういう背景があってチュンダの供養を讃えておられるので
     あって無理にチュンダを慰めているのではなかろう。
      このことによって教えられることは、自分にふりかかるどのよ
     うな〈災厄〉をも、転悪成善(悪を転じて善と成す)で、善き縁で
     あると受け止める智慧があって、初めて他者への憎悪や責め
     る心から解放されるのであろう。
      もし、自分は内心で嘆いているけど、人を悲しませてはいけ
     ないという愛情であれば、それはそれで尊いとしてもなお暗い
     ものがある。
      このように釈尊は、ご自分の死を大涅槃の悟りに至る機縁と
     見られたが、この釈尊の死の意味は、浄土の教えを信じる者
     における死の意味と重なるものであろう。
      自らの死を大涅槃界である浄土に生まれる縁といただいて
     いる念仏の信心と、釈尊における死への智見とは、内面的に
     連なるものがある。
      真実の信心は、死をも浄土へ生まれる縁であるとの智見を
     生むのである。
                    (寺報「草菴仏教」より)

2011年11月22日火曜日

諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 9」

題 : 諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい 
                  五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 9」

五木さん: ある時、アーナンダに向かって、仏陀は衝撃的な言葉を
     述べます。
      それは、「自分は、もう、3ヶ月後には、この世に居ないだろ
     う」という、そういう予言です。
      アーナンダは、さぞかし、もう、驚愕し絶望したに違いありま
     せん。
      しかし、余命は、もういくばくもない、自分は3ヵ月後に、この
     世を去る。
      自分の言っていることは、決して間違いない。
      こういう風に、仏陀は、断定します。
      おそらく、仏陀の80年の生涯の中で、自分の人生の終わり
     というものを、すっきりと予感した。
      そういう瞬間だっただろうと思いますね。
      ・・・で、仏陀は、アーナンダに、「自分はこの世を去る、去る
     前に、自分が、色々、言っておきたいことがある。
      だから、「修行僧達を沢山集めなさい」 こういう風に、アーナ
     ンダに命じます。
      そして、アーナンダが、集めた大勢の修行僧を前に、仏陀は、
     この様に言われたという風に、経典には書かれています。

        そこで尊師は、
        修行僧達に告げられた
        さあー、修行僧達よ
        私は、いま、お前達に告げよう
        諸々の事象は過ぎ去るものである。
        怠ることなく修行を完成なさい。
        久しからずして
        修行完成者は亡くなることだろう
        これから3ヶ月過ぎた後に
        修行完成者は亡くなるだろう・・と、

        尊師・幸いな人、
        師はこの様に説かれた。
        この様に説いたあとで
        さらに、
        次のように言われた
        我が齢は熟した。
        我が余命はいくばくもない。
        汝らを捨てて、私は行くであろう。
        私は自己に帰依することを成し遂げた。
        汝ら修行僧たちは、
        怠ることなく よく気をつけて
        よく戒めをたもて。
        その思いをよく定め統一して
        おのが心をしっかりと守れかし
        この教説と戒律とに務め励む人は
        生まれを繰り返す輪廻を捨てて
        苦しみも終滅するであろう・・と、

      物事は、移り変わるものだという様な事を、いくら口で言って
     も、どんなものでも流転するという様なことを、自分の身をもっ
     て、みんなに語ろうとしているんではないでしょうか。
      例えば、仏陀という人が、尊敬され、そして、その教えが、広
     がれば広がるほど、その人を、偶像化して、永遠に戴いて崇
     拝していこうという気分というのは、強まってきますよね。
      どっかで自分は、もう、如何に仏陀といえども、自分も涅槃に
     入るんだという事を言って、それで、その時、突然、自分が居
     なくなって、周りが大混乱するよりも、あと3ヶ月というこの日々
     を、周りの修行僧やアーナンダ達が、しっかり心に刻んで、あと
     1日、あと1日という風に、大事にして生きるようにという、生き
     るもの・残されたものへの配慮だという風に、思いますけどね。
     ・・・・・。
      あのー、僕自身はね、余命ということを考えないんですよ。
      むしろ、天命という考え方、で、自分が何時まで生きるとか、
      何時死ぬとか、そういうことはね、ほとんど考えたことは無い
     んです。
      あのー、出来れば長く元気で生きられれば良いと思います
     けれども、人間の天寿というものは、あらかじめ決まっている
     んじゃないかなーという事を考える事がありましてね。
      その天寿を全うしたい、ですから、世の中というのは、すごく
     不合理なもので、30歳の天寿の人も居れば、10代で亡くな
     る人も居る、90歳、100歳まで生きる人も居る。
      ですから、僕は自分の人生と言うのは、ある時期から、「い
     つでも」と言うのは、おかしいのですけれども、「もういいよ」と
     いう、声なき声が、聞こえてきた時が、自分の寿命の尽きる
     時だと思っていますし、寿命が尽きると言うことがですね、何
     か終わるとか、無くなるとか、そういう風に考えていないので
     すね。
      ですから、何か新しい出発と感じもしますし、とりあえず、与
     えられた、今日一日、明日の一日、仏陀の言葉の様にですね、
     元気を出して、苦しみに耐えてという風に思ってますね。
      ですから、寝る時は、もう、明日は目が覚めないかもしれな
     いという風に思いますし、起きた時に、「あー、今日一日あった
     な」と思いますし、あまり、そういう風に先の事を考えたことが
     無いですね。
ナレーション: 自らの死を予言した仏陀。
      別れを惜しむ人々が、数多く後を追ってきました、しかし、仏
     陀は、彼らに戻るように説き、形見として自分の托鉢の鉢を
     渡しました。
インドの仏教歌: 
        金のお皿でご飯を
        食べて貰いましょう
        仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
        差し上げましょう
        金の台の上に
        席を用意しましょう
        仏陀にお願いして
        座って貰いましょう
        ここで仏陀に
        静かに休んで貰いましょう
        私は、みんなに仏陀が
        来ていることを知らせます
     
映 像 : 長い汽笛を鳴らして走り、そして去っていく列車