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2015年2月21日土曜日

(増補版)24A:気になった事柄を集めた年表(894年~938年)

 題:(増補版)24A:気になった事柄を集めた年表(894年~938年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
894年、この頃、竹取物語が出来た。
  日本風の文化(国風文化)が起こった。
  因みに、紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』
 の寛弘4年(1007年2月)の条において掌侍になったと
 される記事のあるが、この「藤原香子(かおりこ/たかこ
 /こうし)とする説がある。
  この説が発表されるとセンセーショナルな話題を呼ん
 だ。
897年、醍醐天皇(在位、897年~930年)
899年、菅原道真は、この年、醍醐天皇の時、右大臣にな
 った。この時、藤原時平は左大臣になった。
  学界出身の道真には異例の出世だった。
900年、メッカ:アラビア半島ヒジャーズ地方の都市。
  カーバ神殿のあるイスラムの聖地で、全世界から巡礼
 者を集めている。
  予言者・ムハンマド(マホメット、570年頃~632年)
 生誕の頃は、遠隔地通商によって栄え、クライシュ族(
 ムハンマドの出身部族)の大商人階級が支配する町であ
 った。
  メッカで伝道を始めたマホメットは、迫害を受けて、
 メディナに移住した(622年)。
  しかし後に、メッカはモハメットに降伏し、以後はメ
 ディナとともにイスラム教の2聖都として、イスラム世
 界の宗教と学問の中心となる。
  因みに、メッカの気温は、最高50℃で、平均の最低気
 温でも20℃を下回るのはほとんどない。
  年平均の最高気温記録49.8℃、年の平均気温30.7℃、
 年の平均最低気温24.6℃。
900年、ウマイヤ朝:アッパース朝の歴代カリフに保護さ
 れ、10世紀頃以降は、エジプトを支配した王朝の保護下
 に置かれることが多かった。
  20世紀に入って、メッカはサウジアラビア王国に属し、
 同王国の守護を受けている。
900年、中国の製紙法が、10世紀の初めにエジプトに伝わ
 った。
  そして、フランスに12世紀に伝わり、13世紀にイタリ
 ア、15世紀にイギリスという様にヨーロッパ中に広まっ
 た。
900年、マヤ文明:900年以降、トルテカ=マヤ文明がユ
 カタン半島北部に発展したが、都市間の抗争は絶えなか
 った。カカオ豆や塩などの公益で繁栄したが・・。
901年、菅原道真が左遷される。道真事件。
  藤原氏北家の台頭。醍醐天皇。藤原時平。
  菅原道真は、代々学者の家柄に生まれ、文章(もんじ
 ょう)博士となり、また、道真は学者で政治にも進出し、
 899年、醍醐天皇の時、右大臣にもなった。
  これをねたんだ藤原時平らは、天皇を廃してその娘婿・
 斎世(ときよ)親王を立てようと(陰謀)していると上
 奏(天皇に意見や事情を申し上げる事)した。
  その結果、道真は、大宰府の権師(大宰権師)に左遷
 される。
  九州に下る折り、庭の梅に「東風(こち)吹かば、匂
 ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠っ
 た。
  道真は、903年、配所で死んだが、時平も909年病死し、
 皇室にも不幸が多かったため、道真の怨霊を恐れ、天満
 大自在天神として北野社に祀られ、北野天神として崇め
 るようになった。
  この事件は、宇多天皇が基経の死後、道真を抜擢して
 藤原時平に対抗させ、藤原氏の勢力を抑えようとしたこ
 とにある。
902年、初めて荘園整理の令を下した(荘園整理令)。
  諸臣の山川占有を禁止した。
  (未開の山野を不法に占拠する事の禁止)
  この延喜の荘園整理令を最後に、班田は廃絶した。
903年、菅原道真が没した(845年~903年)
905年、古今和歌集を作り始めた。
  紀貫之ら、勅撰集の初め。
905年、全国に荘園が広まった。
907年、唐が滅亡した。
  また、唐と冊封関係にあった渤海や新羅など周辺諸国
 も一斉に滅亡した。
  朱全忠(節度使)によって滅ぼされた。
  朱全忠は、皇帝だと称した(後梁太祖、これより五代)
908年、藤原師輔(もろすけ、908年~960年)が生まれた。
914年、三善清行(きよゆき)が、朝廷の求めに応じて、
 醍醐天皇に意見封事12カ条を上奏(提出)した。
  政治意見書である。
  偽籍が横行していた。
  また、浮浪や逃亡になった持ち主不在の土地が、有力
 者の荘園と化し、中央への租税納付へつながってなかった。
  このため、班田収授も行われなくなった。
918年、両班(やんばん):朝鮮の高麗・李朝時代にお
 ける特権的な官僚支配身分。科挙によりなったが・・。
  本来は文班と武班、すなわち文武の官僚を意味するが、
 次第に血縁的な身分として固定化され、租税の免除など
 特権を与えられた。
  経済的には地主として権力をふるっており、官吏採用
 試験である科挙は常民にも開かれていたが、実際には財
 産と時間に余裕のある彼らにしか受験の機会はなかった。
  日常生活でも一般の常民とは異なる格式を重視した。
  1894年の改革で、制度上は特権廃止された。
918年、高麗:この年に、王建が創始した。936年に、朝鮮
 半島を統一し、1392年まで続いた朝鮮の王朝。
  開城を都とする。
  新羅末期に台頭した各地の豪族を支配下に治め、科挙
 制度を実施して中央集権的な官僚国家を目指した。
  仏教を奨励し、陶磁器や印刷などでも優れた文化を発
 展させた。
  朝鮮半島では、8世紀から9世紀にかけて、王位継承な
 どが原因で戦争が起き、地方の有力な豪族たちは新羅を
 分裂させていた。
  そして、892年には後百済が建国されたり、901年には
 後高句麗(のちに泰封と改称)が建国したりしていた。
920年、渤海使が入貢した。(渤海使の終わり)
927年、延喜格式の撰上(藤原忠平など)。
  (注)撰上は、「書物を編集して天皇に奉(たてまつ)
 ったという意味。
  また、格式というのは、律令の補助法令のこと。
  今までの律令の施行細則を取捨し、集大成したもの。
 50巻。905年に醍醐天皇の勅によって藤原時平や忠平ら
 が編集し、927年に成立した。そして、967年に施行した。
  38か国からの鹿の皮・角・肉などをはじめ、イノシシ・
 鴨・鹿・熊・カワウソ・アシカ・狸などの野獣体、各種
 魚類・鳥類、牧畜品の牛・馬皮などの貢納物を記載され
 ている。
930年、朱雀天皇(在位 930年~945年)
930年、藤原忠平(摂政・関白、在位930年~945年)
930年、アイスランド:930年に全国集会の制度を始めた。
  これは、やがてヨーロッパ各地に成立する議会の先駆
 となった。
931年、宇多天皇が崩御した(867年~931年)
931年、倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)が編纂さ
 れた。これは辞書である。
  醍醐天皇の第5皇女の勤子内親王(きんしないしんのう/
 いそこないしんのう)の求めに応じて源順(みなもとの
 したごう)が編纂(へんさん)した。
  今日の国語辞典のほか、漢和辞典や百科事典の要素が
 含まれている。
  当時の社会・風俗・制度などを知る史料として重要な
 書物とされている。
  例1:動物を羽族・毛族・牛馬・竜魚・亀貝・虫豸の
 6部に分け、350近くの日本語動物名をあげている。
  例2:「屠児」を「餌取(えとり)」と訓じる。
935年、承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)
 が始まった(~941年)。
  関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と、
 瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)
 の総称。
  平将門の乱は、親族間の争いの勝利して勢力を拡大し
 た平将門は、やがて地方の富豪層間の争いの調停などに
 介入し、これがこじれて争いが拡大し、結果的に、朝廷
 への反乱のような状態に至った。
  平将門は、2か月後に滅ぼされた。
  また、瀬戸内海で海賊の鎮圧をしていた藤原純友は、
 同じ目的で任官してきた勢力と対立し、
  結果的に、藤原純友が蜂起した形に至った。
  平将門の乱を収拾してから、この西国に軍事力を集中
 させた朝廷軍に滅ぼされた。
  武士政権に至る経過の中にある。
935年11月、新羅が滅亡した。
  朝鮮半島では、高麗と後百済との争いが続いていた。
  935年に、後百済の王が、四男に王位を継がせようと
 した。すると、後百済の第2代の王だった長男が、反乱
 を起こした。
  長男は、四男を捕らえ監禁し、王位を奪った。
  その様な中、935年6月に、四男は後百済から逃げ出し、
 高麗に亡命した。
  高麗の王は、四男を国賓として迎えた。
  また、この様な中、新羅の王が、君臣と共に高麗に帰
 順し、新羅は無くなった(滅亡した)。
  その後、936年に、高麗は、後百済を滅亡させ、朝鮮
 半島は高麗によって統一された。
936年、高麗が朝鮮半島を統一した。
938年、空也が念仏宗を始めた。
10世紀、この平安時代の前半の頃、日本の文化は成熟した。
  いわゆる国風文化である。
  10世紀から11世紀が中心とする文化の時代。詩歌・物
 語・日記・随筆・百科事典など
..
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2015年2月19日木曜日

(増補版)23A:気になった事柄を集めた年表(832年~894年)

 題:(増補版)23A:気になった事柄を集めた年表(832年~894年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
835年、空海が没した(774年~835年)
836年、藤原基経が生まれた(836年~891年)
836年、この年、慈覚大師円仁が東国巡教の祈りに清澄寺
 を訪れ、不動の像と12僧坊を造って中興したという。
  このため、この清澄寺は、慈覚大師の流れを汲む天台
 密教(台密)の寺院であった。
  そして、鎌倉時代には北条政子より宝塔や経蔵の寄進
 を受けるなど、隆盛を極めていた。
840年、淳和天皇が崩御した(786年~840年)
842年、嵯峨天皇が崩御した(786年~842年)
842年、承和の変が起きた。
  政争と藤原氏北家の台頭。藤原氏による他氏の排斥事
 件。仁明天皇。藤原良房。
842年、橘逸勢が、承和の変で本姓を剥奪され、「非人」
 の姓を与えられて、伊豆に流される。
842年、京都の内に、人を埋葬することは禁止されていた。
  人々は、京の町以外に埋葬地を求めなければならなか
 った。
  この年、左右京職が、悲田院に命じて鴨河原の人骨を
 焼かせて埋葬したという。埋葬地に困っていた民衆を助
 けた。その数が5500余だったという。
843年8月、ヴェルダン条約によりフランク王国三分割して
 相続された。
  カール1世(カール大帝)には、長男・ロタールと、
 次男・ピピンと三男・ルートヴィッヒの3人の息子がい
 たが、第2妃にカールという男子が生まれた。
  すると、領土分割の問題が起こった。
  この息子たちに領土争奪の争いが起こった。
  当時、領地は分割相続により継承されるとされていた
 (因みに、この分割相続の考え方は、ゲルマン民族から
 引き継いだ相続分割の原理)。
  第2妃の子・カールに渡せば、取り分が減るという問題
 である。
  キリスト教の聖職者たちは、ゴマをすって、3兄弟の
 方に付いた。
  3兄弟が反乱を企てた時も、キリスト教聖職者たちは、
 これを正当だとした。
  完全にキリスト教聖職者の政治への口出しであった。
  政教分離がなされてなかった。
  どろどろした卑劣な争いが続いた。
  後を継いだとされたピピンが死ぬと、余計、争いは激
 化した。
  841年にはフォントノワの戦いなどが起き、この兄弟
 の親族同士の争いで長男・ロタールは敗れた。
  王国のすべてを領有しようとしたロワールの野望は、
 崩れ去った。
  色々な事が起こったが、843年、この条約によって、
 ロタールは中部フランクとイタリア北部を、ルートヴィ
 ッヒは東フランク王国(後にルイ2世を名乗る)、カール
 は西フランク王国となった。
  これが、現在のドイツ・フランス・イタリアの原型。
  この様に、日本より、国の成り立ちの歴史は、全然、
 浅いのである。高々、1100年強の歴史しかないのである。
  因みに、日本は2600年を超えている。
845年、菅原道真が生まれた(845年~903年)
845年、山城国のニ郡で虻(あぶ)の大量発生した。
  牛や馬の被害が大きく、政府は牛の治療方法を民へ配
 り、祈祷した。
845年、ノルマン人が、東西フランクに侵入した、・・と
 歴史書に記されるが・・、
  ノルマン人とは、バイキング(海賊)のことである。
  襲われて、富を奪われる農民は貧しかった。
  ヨーロッパの土地は痩せていた。
  麦の収穫量は、種籾の2倍しか獲(と)れなかった。
  これを収穫倍率というが、現在、日本では50倍を超え
 ている。
  如何にヨーロッパが酷い状態だったかが分かる。
  この様に、能率は非常に悪かった。
  その富が奪われるのである。
  農民は、パンを食べることは出来なかった。
  オートミールの様な、流動食を口にするだけだった。
  中央に権力を持つものは、農民を守らなかった。守れ
 なかった。
  農民を守ったのは、地方で城塞を築いている地方の権
 力者だった。
  農民たちも近くの城主を頼りにした。
  城の周りに住まいを移した。
  地方の群小城主たちは自立して行った。
  反比例的に中央の権力は低下した。
  その様な領土の状態の中で、911年に、東フランク王
 国(だいたいドイツ)が、982年には、西フランク王国
 (だいたいフランス)が滅亡した。
850年、仁明天皇が崩御した(にんみょうてんのう、810年
 ~850年)
850年、文徳天皇(もんとくてんのう、在位850年~858年、
 55代)
850年、アッパース朝:9世紀半ば以降は、次第に軍人の
 勢力が台頭した。
850年、この頃(8世紀前半~9世紀前半)、インドネシア
 のジャワ島に仏教遺跡のボロブドゥールが成った。1814
 年に発見された。
850年、チベット:9世紀半ばに吐蕃が滅んだ。ラマ教の諸
 宗派と結びついた諸侯が並び立つ乱世に入った。
858年、文徳天皇が崩御した(827年~858年)
858年、清和天皇(在位858年~875年)
858年、藤原良房(804年~872年、在位858年~872年)
 が摂政になった。摂関政治。
862年、カール1世のフランク王国のドロドロとした争いの
 後、ヴェルダン条約でやっと事が治まった様に見えたが、
 周りの公国の王や貴族たちには、実は、不満が一杯あっ
 た。
  ここにまた問題が発生した。
  当然の様に戦いが発生した。
  この時は、カール1世の息子たちは団結して、この不満
 分子に対抗した。
  そして、不満分子たちは逃亡して行く。
  フランク側の追撃にその数を減らしながらも、エルフ
 の人たちとも一緒になり、講和して、この年に、東ヨー
 ロッパ平原にノヴゴロド公国の成立を宣言した。
  この後、この公国は、キエフ公国を経て、ロシア王国
 として成立していく。978年にウラジミール1世が即位し
 た。(ロシア最初の公がルーリック、ロシアの起源=伝
 承)
864年、富士山が噴火した。
866年頃、紀貫之が生まれた(866年頃~945年頃)
866年、応天門の変。応天門が放火され、政治事件に発展
 した。
  古代からの名族だった伴氏(大伴氏)は没落した。
  他氏排斥事件。藤原氏北家の台頭。清和天皇。藤原良
 房。
867年、宇多天皇が生まれた(867年~931年)
867年、京都に常平を置いた(穀物価格の調整)
870年、メルセン条約(フランク王国の領土の再画定を定
 めた条約)により、東フランク王国(だいたいドイツ)、
 西フランク王国(だいたいフランス)、イタリア王国、
 法王領の領域がおぼ確定する。
872年、藤原良房が没した(804年~872年)
872年、藤原基経が摂政となる(在位872年~887年)
876年、陽成天皇(在位876年~884年)
880年、アイスランド:9世紀後半、ノルウェーの自由農民
 がバイキングとして植民定住した。
880年、クメール帝国(カンボジア):9世紀末に第1次ア
 ンコール・トムが建設されたのが大建築の序曲。
884年、藤原基経が関白となった(888年?)
884年、光孝天皇(在位884年~887年)
885年、醍醐天皇が生まれた(885年~930年)
887年、宇多天皇(在位887年~897年)
887年、阿衡の変。藤原氏北家の台頭。宇多天皇。藤原基経。
887年、宇多天皇が即位すると、藤原基経が関白となった
 (関白の初め、888年? 在位887年~891年)
891年、藤原基経が没した(836年~891年)
893年、初めて、滝口武士を置いた。
894年、遣唐使廃止。
  遣唐使船が計画され、菅原道真が任命されたが、道真
 は、唐が衰え、また、国内が乱れ、また、航海が困難で、
 途中の賊もあり、身を滅ぼす者もあることを理由に、中
 止を建議した。
  その結果、遣唐使派遣は中止された。
  この後、日本には、豊かな日本独自の国風文化が興隆
 して来る。
  これに対し朝鮮の場合、朝鮮における中国、それはた
 だの隣国という言葉では済ませない状況があった。
  海を隔てたところにある日本と、中国との関係とは違
 っていた。
  例えば、儒教。
  日本では、単なる思想の一つとしてあるが、
  朝鮮においては、思想をも越えて、儀礼を含め、しっ
 かり社会に浸透して行った。
  族外婚制度(同姓同士の間で結婚は許されない制度)
 など日本にない制度が朝鮮社会にはある。
  日本は、中国文化を自由に取捨選択できたが、
  朝鮮は、それが許されなかった。
  これは、今・現代におても、この傾向がある。
  良いにつけ、悪いにつけ、中国と朝鮮は肉薄している
 のである、肉薄せざるを得ないのである。
..
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2015年2月18日水曜日

(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年~832年)

 題:(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年~832年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
800年、バイキング:9世紀~11世紀、250年間、西ヨーロ
 ッパ沿海部に侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿
 岸地域の海賊。ノルマン人。
  カール1世の侵略と拡大を繰り返す行為に対抗していた。
  また、キリスト教を掲げるカール1世に、宗教的対立だ
 と説く研究者もいる。
  キリスト教徒による不平等な通商・貿易面で苦しんで
 いた深刻な対立点もあった。
  また、土地が貧しく生産性は極めて低かったこと、食
 糧不足が生じたことなど。
  ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため、他の民族
 は対抗できなかった
800年、シーア派:預言者モハメッドの従弟で、娘婿でも
 ある第4代正統カリフ=アリーの血統のみに、イスラム
 共同体の最高主権者の地位を認める派。
  今日のイスラム教徒の約1割を占める。
  歴史上、多くの分派を生じたが、現在、シーア派の主
 流をなすのは、イランの国教となっている12イマーム派
 である。
  基本的な宗教儀礼そのものは、多数派のスンニ派と大
 きく違わないが、シーア派独特の祝祭や哀悼の行事があ
 る。
  思想面では、9世紀に姿を消し、現在なお「隠れてい
 る」イマームが、いつの日か救世主として再臨し、地上
 を正義と公正で満たすという「隠れメシア」思想を特徴
 とする。
  このイマームの「隠れ」の間は、イスラム法の法学者
 が、信者を指導する。
  イラン・イスラム革命の指導者・ホメイニ氏が提起し
 た「法学者の統治」もこれを指している。
800年、トルコ民族:ウイグル(744年に統一に成功して
 遊牧国家をつくった部族)の9世紀の西走は、中央アジア
 のトルコ化(トルキスタンの名称)をもたらし、
  イスラム教徒との接触を深めて、トルコ人のイスラー
 ム化をもたらした。
  トルコ人は、各地で傭兵(軍人)となり、やがて政権
 を握るものが出た。
  中国5代王朝の中の3王朝、西アジアのガズニ朝、イン
 ドの奴隷王朝(マムルークを奴隷と訳したのであるが適
 切ではない、イスラム世界では奴隷を解放することは善
 行とされ、それ故、奴隷解放が盛んに行われ、解放され
 た奴隷は忠実な家来となった)。
  エジプトのマムルーク朝はその例である。
801年、坂上田村麻呂が蝦夷の地を平定した。
801年、畿内の班田を12年に1度行うことに改めた。
9世紀初め、桓武天皇が、この頃、徳政相論を行わせた。
  徳政相論(徳政:徳のある政治、相論:互いに論じる
 事)で蝦夷征討と平安京造営が中止になった。
  今・現在の国会で議員の方たちが討議している形。
  民主主義は、西洋ヨーロッパから日本は学んだとマイ
 ンド・コントロールされているが、民主主義は昔から日
 本に根付いていた。
  また、坂本龍馬の生まれ育った高知の地には、商人の
 方たちの組織に、民主主義の形態が、既に、あったこと
 は有名。
802年、クメール帝国(カンボジア):8世紀まで、他国に
 征服されたりして、勢いがなかった。
  802年に、ジャバルマン2世が即位し、国の中心がアン
 コール地域に移って後、クメール帝国が栄える様になり、
 その繁栄が13世紀初頭まで続いた。
804年、藤原良房(よしふさ、804年~872年)が生まれた。
804年、牛の屠殺を禁止した。
804年11月3日、空海と最澄が、遣唐使として中国へ派遣さ
 れた。
  この後の遣唐使派遣は間遠になるが、
  この時の大使は、藤原葛野麻呂(かどのまろ)だった。
  この時、4200キロの行程を強行軍で行き、12月21日
 に長安に到着した。
  驚異的な速度で走破した。
  その理由は、正月元旦に開かれる元会議礼に参加する
 ためだった。
  日本国朝貢使が、この唐の元会議礼に参加する事の意
 味は極めて大きかった。
  元旦に先立つ12月24日に、藤原大使は供物を託して皇
 帝に進上し、皇帝からの懇(ねんご)ろな挨拶を伝達さ
 れた。
  大使一行は、内殿で目通りを果たした。
  日本国の朝貢使に対する唐王朝の待遇は、かなりのも
 のだった。
  こうして正月元旦、大使一行は、元会議礼に首尾よく
 参加した。
  含元殿は、高さ数十メートルの龍首原上に位置し、数
 千人の参列者が居並ぶ殿庭へは、長さ95メートルにおよ
 ぶ龍尾道が通じていた。
  元会の参列者が、玉座を仰(あお)ぎ見るに、天空の
 彼方(かなた)にあった。
  大使一行が、玉座にある皇帝の姿を確かめ得たかは、
 心もとない。
  「春秋左氏伝」という本にも、小国が大国からの侵略
 を免(まぬが)れるのは、使者を遣(つか)わせて礼物
 を献上するからであり、小国の君主が、大国に出向いて
 報告を行うからである。
  大国の方も、威儀を正し美辞によってこれをほめたた
 え、礼物の加増を行う。
  誅伐されて後、礼物を進上したとて取り返しはつかな
 い、と記述されている。
  中華秩序の中の朝貢外交のありさまである。
  この後、日本は、遣唐使の無益を説いた菅原道真の意
 見を入れて、『遣唐使派遣』を中止としている。
805年、参議・藤原緒嗣(おつぐ)の建議もあって、蝦夷
 征討が中止された。
805年、最澄が、唐から帰国し、天台宗を開いた(伝える)。
806年、桓武天皇が崩御した(737年~806年)
806年、平城天皇(へいぜいてんのう、在位806年~808年)
806年、畿内および諸道に観察使を設置し、地方行政の実態
 を調べさせた。
806年、空海(弘法大師)が唐から帰国し、真言宗を開い
 た(伝える)。
809年、嵯峨天皇(在位809年~823年、52代)
810年、平安時代は、死刑の無かった時代だった。
  嵯峨天皇(810年~823年)以来、死刑が、実際には
 廃止状態だった。
  後白河天皇の時代の保元の乱(1156年)の源為義など
 に対する処刑まで、346年間、実際上、死刑が執行され
 ることはなかった。
  仏教の影響である。
810年、仁明天皇が生まれた(にんみょうてんのう、810年
 ~850年)
810年、初めて、宮中に蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
810年、薬子(くすこ)の乱が起きた。
  政争と藤原氏北家の台頭。嵯峨天皇。藤原冬嗣。
  この乱は、藤原薬子とその兄・藤原仲成(なかなり)
 が平城上皇の病を図って失敗した反乱で、この乱をきっ
 かけに藤原式家が衰えた。
  この乱の際、天皇側が機密保持のために蔵人所を設け
 た。
  初代蔵人頭に藤原冬嗣が任命された。
  冬嗣は藤原北家である。
814年、大和田泊(神戸港)を修築した。江戸時代以前の主な
 社会資本整備に数えられる。
814年、防鴨河使、防葛野河使が任命され、京都の治水が
 行われた。
816年、空海が高野山に金剛峯寺(こんごうぷじ)を建てた。
816年頃、この頃、検非違使を置いた。
818年、この頃、鷹狩が盛んで、「私の立場の鷹狩」の禁
 令がしばしば出された。
822年、最澄が没した(767年~822年)
822年、比叡山延暦寺は、伝教大師入寂後7日目の822年6
 月11日に、伝教大師出世の本懐たる戒壇建立の勅許が下
 りた。
823年、淳和天皇(じゅんなてんのう、在位823年~833年、
 53代)
823年2月、初授戒が行われ、勅号を得て、「比叡山延暦寺」
 と名を改めた。
824年、平城天皇が崩御した(へいぜいてんのう、774年~
 824年)
826年、藤原冬嗣が没した(775年~826年)
827年、文徳天皇が生まれた(もんとくてんのう、827年~
 858年)
828年、畿内に班田を行った(以後、50年間、班田が行わ
 れず)。
829年、9世紀の初頭に使徒のヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が、この年に、ヤコブの墓の上に教
 会と修道院を建てた。
  これが聖地とされているサンティアゴ・デ・コンポス
 テラの始まり。
  そして、1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サン
 ティアゴ・デ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの
 巡礼と同等の価値があると言ってから、この地への巡礼
 が増えた。
  因みに、ヤコブは「雷の子」と言われるほど気性の激
 しい人だった。
  イスラムの勢力が大きく、危険なイスラムの地を通っ
 てイスラエルの聖地巡礼が出来なかったからである。
832年、バイト・アルヒクマ(知恵の館):アッパース朝
 7代カリフ、アル・マームーンが832年にバクダッドに設
 けた研究機関。
  古代ギリシャ文明の遺産である哲学・自然科学の大量
 の文献を組織的にアラビア語に翻訳する事業により、イ
 スラム学術の発展に寄与した。
  ササン朝時代のジュンディーシャーブールにおけるギ
 リシャ語文献のシリア語への翻訳事業を引き継づもので
 あった。
  アラビア語に翻訳されたギリシャ語文献は、さらにラ
 テン語に訳され、中世後期以後、ヨーロッパ思想の発展
 に著しく貢献した。
  この恩義あるイスラム世界を、キリスト教世界は蔑(
 さげ)んだ。
  医学などを教えてもらって、どれほどの人々の命が救
 われたというのか。
  「イスラムは文明の遅れた国だ」と嘘や間違った情報
 によるマインド・コントロールをキリスト教は盛んにした。
  キリスト教には、この嘘つき体質が今・現代でもある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年2月17日火曜日

(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年~800年)

 題:(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年~800年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
771年、カール1世(カール大帝、シャルルマーニュ)が、
 全フランクを統一した。
  このカール帝をヨーロッパ、特に、ドイツとフランス
 は、大きく評価している。自賛している。
  カール1世は、翌年の772年に、ゲルマン人を降伏させ
 ようと、服属させようと、遠征を行っているが、この様
 に、彼は遠征ばかりをする、遠征を10回以上行った帝だ
 った。
  カールは、抵抗する指導者を、死刑や追放に処したり、
 まったく、愛など感じさせない領土拡大主義だった。
  彼は、キリスト教を信奉しているようだが、「異教徒
 は殺せ」のキリスト教の教義の通り、「ザクセン族」征
 服、「バイエルン族」征服、「スラブ人」討伐、「アヴ
 ァール:アジア系遊牧民」討伐などなど、討伐行為を繰
 り返した。
  自分たちさえ、自民族さえ、良ければ良いのだの行為
 だった。
  また、カールは、キリスト教の教義の「十分の一税」
 と言って、「収入の10分の1を教会へ納めよ」というキ
 リスト教の教義の支払いを徹底させた。
  カールは、王国維持にキリスト教を利用した。
  その為、キリスト教聖職者を養成した。
  その為、宮廷に、キリスト教聖職者を招き、「カロリ
 ング・ルネサンス」と称したラテン語勉強をした。
  到底、ルネサンスなどと言えるものではなかった。
  祭政一致政治であった。
772年、下野の民衆が課役を免れるため陸奥に逃れた。
772年、渤海使が入朝した。
772年、再び墾田の私有を許可した。
  開墾制限を止めた。
  農民を苦しませない様にという旨の太政官符が発布さ
 れた。光仁天皇の時。
772年、唐代の詩人の白居易(白楽天)が生まれた(772年
 ~846年)
773年、穀物騰貴のため常平法を定めた。
773年、渤海使を放還した。
774年、空海が生まれた(774年~835年)
774年、平城天皇が生まれた(774年~824年)
774年5月、河内国が飢饉となり、救済される。
774年9月、諸国に溝池の修造をさせ、五畿内の陂池(つつ
 みいけ)を修造した。
774年、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ、公卿)が
 蝦夷を討った。陸奥国遠山村まで行った。
774年、新羅使の無礼を責め放還した。
775年、藤原冬嗣(ふゆつぐ、775年~824年)が、生ま
 れた。
775年、天長節(天皇誕生日)が始まった。光仁天皇の時。
776年1月、税の調査の為、検税使を諸国に派遣した。
  1月は東海道、これは、すべての地域が、等しく実施
 されているかが命じられ、行われた。
777年、遣唐使の副使・小野石根が出発した(帰途、難船
 し石根ら死亡)
777年、渤海使が入貢した。
779年、唐使が来朝した。
7世紀後半頃~8世紀後半頃、この頃に編まれた「万葉集」
 が出来た。日本最古の和歌集。
780年、新羅使の朝貢を受けた。
780年、百姓より徴兵し、練達の者に武を習わしむ。
781年、光仁天皇が崩御した(709年~781年)
781年、桓武天皇が即位した(在位781年~805年)
783年6月、諸寺の田畑の買収を禁止した。
784年、桓武天皇が、長岡京(京都の南西・山背国)に都を
 移した。
  政治の立て直しがその意図。ただ、反対意見が強かっ
 たため、当時、副都として存在していた難波宮(なにわ
 のみや)に移転するという事で新都造営を進めて行き、
 穏やかな方法で長岡京遷都に至った。
785年、国司の正税の私有を禁止した。
  また、私的な林野の選挙や不当悔恨も禁止した。
785年、長岡京造宮使(造宮推進者)となった藤原種継が
 暗殺され、皇太弟の早良(さわら)親王が廃位された。
  長岡に都があった期間はわずか10年。
  長岡京遷都は、六国史の「日本後記」に記されている。
785年、最澄(弘法大師)が、19歳のこの年、はじめて比
 叡山に登り、一宇の草案を結んで修業を始めた時から起
 こったと伝えられる。
785年、大伴家持が没した(718年頃~785年)
786年、嵯峨天皇が生まれた(786年~842年)
785年、淳和天皇が生まれた(786年~840年)
789年、大きな軍勢を組織し、蝦夷討伐に向かったが、軍
 は多数の損害を出し、敗れて帰った。
8世紀末以前、万葉集が、この頃までに(8世紀末以前)成
 ったと言われている。
  「万葉集」に収録する歌には、鳥類17、獣類20、魚類
 14など、115種の動物が見える。
  ちなみに、ウマの声はイ、カラスの声はコロクなどと
 表現された。
790年、「三世一身の法」や「墾田永年私財法」と土地公
 有制の原則が、8世紀後半から9世紀にかけて大きく揺ら
 いだが、人々は、山林原野の開墾に励むようになり土地
 の私有地化が進み、自墾地系荘園が生まれた。
792年、辺要(へんよう、辺境の要害。国境の要地)以外の
 軍団を廃止し、郡司(ぐんじ、国司の下で郡を治めた地
 方官)の指定による「健児(こんでい、地方の軍事力とし
 て整備された軍団)の制」が創設された。
792年、渤海使の入貢年次を定めた。
794年~1185年、平安京へ遷都した。
  桓武天皇が平安京に都を定めた。平安時代の始まり。
  和気清麻呂の建議によって長岡京より遷都された。
  遷都により山背国は山城国にあらためられた。
  平安時代であるが、この時に築かれた出雲大社は、その
 高さが16丈(48メートル)もあった。
  倒壊した記録もあるが、木造で、当時の日本の技術は、
 世界に誇るものであったことを伝えている。
  中国にもない世界最高水準の業績の一つである。
794年頃、平安時代に入ると儒学は、宮廷貴族の特定の家の
 学問、すなわち家学として固定し、世襲された。
796年、東海道が開かれた。
796年、諸国に地図を作らせた。
797年、京中の凶穢を避けるため、山城国住民の住居のそば
 に死者を葬る習慣を止めさせる。
797年11月、坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任した。
797年、勘解由使(かげゆし、国司などの官吏が交代すると
 き、新任者が無事に事務を引き継いだことを証明する解由
 状・げゆじょうの審査に当たった職)を置いた(806年、
 廃止)
797年、続日本紀が出来た(菅原道真?????など)
799年、和気清麻呂が没した(733年~799年)
800年、富士山が噴火した。
800年、カロリング朝フランク王国による西ローマ帝国の再建。
  カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ・フランス
 語、チャールズ・ザ・グレート・英語)が、この年、西ロ
 ーマ皇帝として戴冠した。ピピン3世を継いだ。
  西ローマ皇帝を号したが、東ローマ帝国は認めなかった。
  そして、ヨーロッパの誕生、とは言うが・・。
  帝国と言っても、スペインや北アフリカは、イスラムの
 治世になっていた。
  また、南イタリアやベニスは、東ローマに制圧されてい
 た。
  そして、彼は、「リベリ」と称する自由民を創設し、
 軍役の義務を負わせようとするのだが、ほとんどが、失
 敗した。
  また、地方統治のために任命した臣下の公や伯たちは、
 たちまち、土着化した。
  そして、地方の諸侯として君臨し始めた。
  当然、彼の配下の官僚的な目的の性格は、まったく失
 って行った。
  彼が目指した中央集権の統治体制どころか、ローマの
 様な一定の首都をも持てないという状況だった。
  彼は、名ばかりの大帝で、帝国の統一はガタガタだった。
  カール帝は、とても腰を据えていられる状況ではなく、
 絶えずあちこちを巡遊して、各地で皇帝の威容を、直接、
 見せつけなければならないという状態だった。
  彼の帝国は、個人的努力で維持されるという、見せか
 けの組織体だった。
  しかし、彼は、わずか、その14年後の814年に死亡した。
  その後、ローマ系人種とゲルマン系人種の混じり合いの
 度合いに応じて、ドイツ人、フランス人、イタリア人とい
 った、一種の民族分化が進み、それが少しずつ固定化して、
 分割されていった。
  ある意味、中央の強圧によってのまとまりの崩壊は、
 地方に描かれ持たれているエネルギーに拠ったという事
 である。
..
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2015年2月16日月曜日

(増補版)20A:気になった事柄を集めた年表(755年~770年)

 題:(増補版)20A:気になった事柄を集めた年表(755年~770年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
756年6月、聖武法皇が崩御した(在位701年~756年)。
  光明皇太后は、聖武法皇の遺愛の遺品を、追善供養の
 ため東大寺へ奉献し、収蔵(正倉院御物の初め)した。
  正倉院が建立された時期は不明だが、大仏奉献に近い
 時期と見られている。
  正倉院宝物中にはラクダ・クジャク・インコなどを描
 いたものや、ゾウ・サイの角製品などがあり、遠い異国
 の珍獣や鳥類についての知識を裏付けられる。
756年、イスラム帝国(サラセン帝国)が東西に分裂した。
 後ウマイヤ朝が建国され、イスラム世界の統一は崩れた。
  因みに、サラセン帝国の呼称は、ヨーロッパ人から見
 た呼称で、近年、ヨーロッパを中心とする歴史解釈姿勢
 が好ましいものと見られなくなっている。
  イスラム帝国と呼ぶことが正当である。また、サラセ
 ン人の呼称も避けるべきである。
757年、養老律令が実施された。藤原仲麻呂が主導した。
  大宝律令と大きな相違点はないが、日本の実情に合わ
 せた改正をした。
757年、孝謙天皇の信任を得て、藤原仲麻呂が台頭した。
  藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫で、藤原武智麻呂の子
 である。また、自らを唐風に恵美押勝(えみおしかつ)
 と名乗った。そして、唐風の官職である紫微中台(しび
 ちゅうだい)に就任した。
758年5月、藤原仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇、在位758
 年~763年)が立太子される。
758年6月、橘奈良麻呂が右大弁になる。
  藤原仲麻呂の専横に強い不満を持った。
  仲麻呂の排除を画策した。
  しかし、この密議は漏れる。
758年7月、橘奈良麻呂の乱。
  7月になり、奈良麻呂とその関係者は一斉に逮捕された。
  孝謙天皇は、逮捕された人々を本来は死罪に処すとこ
 ろ、死一等を減じて流罪に処すと詔した(橘奈良麻呂の
 乱)。
  この話に後日談がある、
  それは、奈良麻呂の死後に生まれた息子の娘が、嵯峨
 天皇の后となる。
  そして、その妃が、仁明天皇を生んだことから、847年
 に政敵の仲麻呂が、後になって謀反を起こして失う事とな
 った「正一位太政大臣」の位が、橘奈良麻呂に送られて
 いる。
758年、坂上田村麻呂が生まれた(758年~811年)。
  蝦夷討伐の田村麻呂だが、京都の清水寺を創建したとも
 伝えられている。
758年、吉備真備は、大宰府で唐の大乱(安禄山の乱)に
 備えるよう天皇からの勅(命令)を受け、備えを講じた。
  外国情勢にしっかりアンテナを張っている日本だった。
758年、陸奥桃生城(宮城県仙台近く)や出羽雄勝柵を築
 いた。
  律令国家の体制がしっかりした時代となった。
759年、諸国に常平倉(じょうへいそう)を置いた。目的
 は、穀物の価格変動を防ぐために、穀類貯蔵した官営の
 倉。
  豊作の安価の時に買入れ、凶作の高価の時に放出して
 価格の安定を図った。
759年、この頃、万葉集が成った。
  4500種以上が集められている。
  成立年は、759年以後と見られている。
759年、新羅征討の議が起こった。
  朝廷は、新羅の軍船がたびたび浅茅湾(あそうわん、
 長崎県対馬市)に侵入し、南対馬の北岸を荒らすために、
 朝廷は、新羅征討の議を起こした。
759年、渤海使が入朝した。
  渤海より日本へ来た渤海使は、728年から922年までの
 間に34回ある。
  因みに、日本から渤海へ行った遣渤海使は、728年から
 811年までの間に14回となっている。
  初期は軍事同盟であり、しかし、唐との融和が図られ
 る時代になると、軍事的意味合いは薄れ、文化交流と経
 済活動中心となる。
  朝貢貿易の形態だった。
  渤海に多大な利益をもたらした。
  後に、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えた。
  渤海滅亡まで続いた。
  輸入品:獣皮、輸出品:繊維製品、金、水銀。
759年、唐招提寺の地があたえられ、金堂が創建された
 (鑑真)。
760年、新羅使を放還した。
  非礼と使人が軽微(想定より低い)だったのが理由。
760年、万年通宝(まんねんつうほう、銅貨、和同開珎に
 次いでの銅銭)、太平元宝(銀貨)や開基勝宝(金貨)
 を新しく鋳造した。
  因みに、和同開珎以前の貨幣に、「無文銀線」と「富
 本銭」がある。
761年、渤海に遣使した。(~762年)
761年~762年、凶作で餓死者が多く出た。
  因みに、女性より男性の方が早く餓死するという記録
 がある。
761年、この頃、食器の美化が進み、飲食物の改良も進んだ。
761年、東大寺の薬を病人に施した。
  日本には、すでに723年に光明皇后が、仏教の慈悲の実
 践として、悲田院や施薬院で病人の救済をしたとの記録
 があるが、東大寺も病人救済を行っていた。
762年、遣唐使を任命・発遣を中止した。
  唐は乱れている最中。
762年、李白が没した(701年~762年)
763年、鑑真が没した(688年~763年)
763年、新羅使を放還した。
763年、渤海使が入朝した。
764年、藤原仲麻呂が没した(706年~764年)
764年、称徳天皇(しょうとくてんのう、在位764年~769
 年)
764年、新羅征討の議を中止した。
764年、大和・河内・山城などに池を造らせた。
  日照りが続き、飢饉が続発したため、朝廷は、二年続
 けて田租の税金の免除をなされた。
  この時、米価は4,5倍にも跳ね上がった。
  この様な事から、764年には、灌漑用の池を掘削するた
 めの造池使が大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃
 岐の諸国に派遣された。
764年、風説だが、恵美押勝は、孝謙上皇の信頼が道鏡に
 移ったため反乱を起こしたという・・。
  恵美押勝の乱の結果、淳仁天皇は淡路に流された。
765年、淳仁天皇が崩御した(733年~765年)
765年、道教が太政大臣となった。
765年、一切の墾田の私有を禁止した。
  道鏡は政権に着くと、墾田の過熱にブレーキをかける
 ため、
  私有耕地の拡大の行き過ぎを止めるため、
  政府として、一旦、墾田を禁止した。
  道鏡失脚とともに、772年、墾田私有を許可するという
 太政官符が発布された。
  これは、藤原氏や富豪の圧力によって許可したと考え
 られる。
765年、神巧開宝を新しく鋳造した。
765年、京畿内の踏歌(詞を歌いながら輪を作って練り歩く
 もの)を禁止した。
766年、道鏡が法王となった。
767年、最澄が生まれた(767年~822年)
769年、道教が、宇佐八幡宮神託(うさはちまんぐうしん
 たく)事件を起こした。
  この事件を阻止したのが和気清麻呂(わけのきよまろ)
 である。
769年、和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わした(大隅に配流)
770年、孝謙天皇が没した(718年~770年)
770年、阿倍仲麻呂が没した(698年~770年)
770年、光仁天皇(在位770年~780年)
770年、道鏡を栃木県へ追放した。和気清麻呂を召還した。
770年、新羅使が、藤原清河・阿倍仲麻呂の書をもたらした。
770年、杜甫が没した(712年~770年)
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2015年2月15日日曜日

(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年~755年)

 題:(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年~755年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
733年、山上憶良が没した(660年~733年、73歳)
733年、和気清麻呂が生まれた(733年~799年)
733年、淳仁天皇が生まれた(733年~765年)
733年、出羽柵(でわのき、いではのき、でわのさく、古
 代城柵)が秋田高清水岡に移された。
  はじめ庄内地方(山形県)付近に設置されていた。
  蝦夷政策の一環だった。
  民の出羽柵へ、全国各地からの移住なども行われたり
 した。
  尾張・上野・信濃・越後・越前・東海道・東山道・北
 陸道などの全国各地からの移住。
  総勢1300戸におよんだ。
  柵戸は公民の身分だった。
  蝦夷の教化もし、出羽国の開発・開拓を促進もした。
  城柵の兵士への供給も分担した。
  国府が、秋田へ移されたためと考えられている。
737年、桓武天皇が生まれた(737年~806年)
737年、藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去
 した。
  代わって政治を担ったのは橘諸兄(たちばなのもろえ)。
  そして、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用される
 ようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
740年、九州(西海道・さいかいどう)で藤原広嗣(ひろ
 つぐ)の乱が勃発した。
  この乱は、吉備真備、玄昉(げんぼう)の追放を求めて
 の反乱であった。
  藤原広嗣は、式家の藤原宇合の子であるが、太宰少弐
 に任じられ、九州に遠ざけられていた。
  乱は、大野東人(あずまひと)を大将軍にする征討軍
 により鎮圧された。
  聖武天皇は、乱の平城京への波及を恐れ山城国の恭仁
 京に遷都した。
  また、近江国紫香楽宮(しがらき)・難波宮(なにわ)
 など都を転々とした。
741年2月、民の牛馬の屠殺を禁じた。
  農耕に役立つ牛馬は塗擦するなの意味。
741年、国分寺、国分尼寺の建立の詔が出た。
  諸国に七重塔を建て、金光経と法華経を写経する事と
 ある。
  国分寺の建設が始まった。
743年、盧舎那仏(るしゃなぶつ、大仏)造立の詔が出た。
743年6月、墾田永久私有令(墾田永年私財法、こんでん
 えいねんしざいほう)が制定された。
  自分で新しく開墾した耕地の永年私財化を認める法令
 である。
  これによって荘園の発生の基礎となった。
  この時の政権担当者は橘諸兄で、大仏造立の詔と共に
 紫香楽(しがらき)宮で出された。
745年、東大寺盧舎那仏像(大仏)が、聖武天皇の発願で
 制作が開始された。
8世紀、この頃のローマ法王は、東ローマ帝国の皇帝から
 いかにして独立するかに腐心していた。
  また、イスラムの圧力から逃れる事に腐心し、脅威を
 感じ恐れていた。
749年、僧・行基が没した(668年~749年)
749年、孝謙天皇が即位した(在位749年~757年)
749年、陸奥国から金が献上された。
  この黄金算出を契機に年号を天平感宝に改元された。
750年、この年の遣唐使では藤原清河が大使だった。
8世紀半ば、唐朝:この頃、均田制が行き詰まり、広大な
 領土の維持は困難となり、辺境警備の節度使の反乱(安
 吏の乱)を契機に衰退した。
750年、アッパース朝:750年~1258年。
  イスラム教の開祖・ムハンマドの叔父・アッバースの
 子孫をカリフとしている。
  イラクを中心に、西アジアから北アフリカにかけて支
 配した王朝。
  首都は、一時期を除いて、バクダッド。
  アラビア・ペルシャ・ギリシャ・インド・中国などの
 諸文明の融合がなされ、学問が著しく発展した。
  近代科学にも多大な影響を与えている。
  イスラム文明は、ヨーロッパ文明の知識の源(みなも
 と)であり、母胎だった。
  キリスト教は、イスラム教の世界は遅れた国だとプロ
 パガンダ(嘘宣伝)した。
  実際は、医学でも何でもイスラム世界に学んだのに・・。
  支配領域は、時代が下がるにしたがって縮小し、アッ
 パース家のカリフに実権があったのも初めの2世紀間だ
 けだった。
  この王朝成立以前のイスラム世界の大勢は、事実上、
 アラブによる異民族統治であったため「アラブ帝国」と
 規定される。
  しかし、アッパース朝体制は、従来のアラブ至上主義
 を払拭(ふっしょく)し、国家と社会にイスラムの原理
 を確立したので、イスラム帝国と呼ばれる。
  中央集権的行政機構が発達し、経済的にも繁栄、東西
 通商や手工業も盛んであった。
  ハールーン・アッ=ラシード治世(786年~809年)が、
 アッパースの全盛期だった。
751年、カロリング朝成立。
  宮宰のピピン3世が、仕えていたメロヴィング朝を廃し
 て(倒して)成立させた。
  751年から987年まで続いた。
  因みに、ルイ3世(879年~884年)が居る。
  カロリング朝フランク王国は、キリスト教会としての
 フランク帝国とさえ言われた。
  それは、国家という観念が希薄で、キリスト教会その
 ものだった。
  アウグスチヌスの「神の国」そのものだった。
751年5月~751年9月、タラスの戦いが起きた。
  中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で、唐
 とアッバース朝との間で、中央アジアの覇権をめぐって
 戦われた。天下分け目の戦闘だった。
  唐側は、被害が甚大で、
  この戦い以降、中央アジアに、イスラム勢力の安定し
 た支配が確立した。
  そして、イスラム教が広まって行った。
  唐の中央アジア支配は、後退していった。
  中国人捕虜の中に、製紙職人が居て、製紙法が、イス
 ラム世界、そして、ヨーロッパ西方域に伝播した。
752年、奈良の大仏が開眼供養会(かいげんくようえ、魂
 入れの儀式)が行われた。国宝。
  天平文化が栄えた。
  東大寺は、当時の世界最大の木造建築物だった。
  また、大仏も、金や銅を使ったこの様な彫像は、世界
 のどこにも存在しなかった。
  当時の世界最高水準のものだった。
  大仏鋳造に使った材料:銅444屯、錫7.6屯、水銀2.2
 屯、金390キログラム、炭1194立方メートル、働いた
 人の数:延217万9973人、かかった年数:9年。
753年、日本は、以前、遣隋使において、「天子の国書」
 を送った、その書において、「日本は、天子の国だ」と
 名乗った。唐の煬帝は怒った。
  また、年号に、日本の天皇号を使って、中国の皇帝と
 対等という事を示した。
  しかし、この様な事があったが、唐側の記録において、
 だから、日本を対等の国家として扱ったという記録は存
 在しない。
  むしろ、753年の朝賀において、日本が新羅より『席
 次が下だ』とされる事件があった。
  かつて昔、卑弥呼の時代などでは、日本は冊封を受け
 ていたが、
  遣唐使の時代には、日本の天皇は、唐王朝からの冊封
 (さくほう、爵位などを授けてもらう)を受けたりして
 いない。
754年、唐の僧・鑑真(がんじん)が、懇請されて日本に
 来た。
  鑑真は、日本への渡海の際に暴風雨に会うなど、渡海
 を5回も行うという、苦難の末の来日だった。
  鑑真は薬草の造詣も深く、日本にこの知識も伝えた。
  また、砂糖をもたらしたとの記録もある。
755年11月~763年、安禄山・史思明の乱(安禄山の乱・あんろ
 くざんのらん、安史の乱・あんしのらん)
  唐の節度使(当の軍職)の安禄山と部下の史思明によっ
 て引き起こされた大規模な反乱。
  安禄山は唐王朝に仕え、宰相の李林甫に近づき、唐の
 玄宗に信任されるようになった。
  そして、その信任も厚くなり、三つの節度使を兼任する
 くらいになった。
  しかし、李林甫が死ぬと、玄宗が寵愛していた楊貴妃の
 従兄弟の楊国忠との対立が激化した。
  安禄山は、危険がその身に迫ったため、755年11月、
 ついに挙兵した。
  安禄山は、唐の国軍のかなりの割合の兵力を玄宗から
 任されていた。
  安禄山の兵力は、親衛隊8000騎、兵10万~15万。
  安禄山は、1か月後、洛陽を陥落し、756年1月に聖武
 皇帝(大燕聖武皇帝)を名乗り、燕国の建国を宣言した。
  756年6月は、安禄山の軍に追われた唐の皇帝・玄宗は、
 蜀(現在の四川省)へ敗走する。
  その様な中、楊国忠は、安禄山の挙兵を招いたとして
 殺害された。
  そしてまた、皇帝を惑わせたとして楊貴妃も同罪だと
 絞殺された。
  この様な中、玄宗は失意の中に退位し、皇太子が粛宗
 として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることになる。
  756年9月に、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めた。
  10月、ウイグルは要請に応じた。
  756年11月~12月、安禄山軍は粛宗を襲撃したりする。
  ウイグル軍と東軍は合流し、安禄山軍を撃破する。
  この頃、長安を奪った安禄山だったが、病に倒れ失明
 し、次第に狂暴化した。
  さらに、安禄山は、皇太子として立てた息子にまで廃
 嫡だと公然と口にするようになった。
  757年1月、安禄山は側近たちの反発を買って、暗殺さ
 れた。安慶緒が父の後を継いで皇帝となった。
  しかし、安禄山の盟友も、これに藩閥して離反してしま
 った。
  粛宗軍は、757年2月に、中国の現在の陝西省(せんせ
 いしょう)まで南下する。
  757年9月、唐・ウイグル帝国連合軍の15万は長安に
 迫った。この後、延々と戦いは続く(中略)・・、
  762年4月、玄宗が逝去。その直後に粛宗も逝去。しか
 し、戦乱は収まらず・・、
  唐王朝の国威は大きく傷つき、唐王朝は反乱軍の内部
 分裂をさせるために、反乱軍の有力将軍に節度使の職を
 濫発するなどした。
  しかし、これが、群雄割拠の原因を作った。
  以後、唐は、地方に割拠している節度使たちとの間で
 妥協と対立を繰り返しながら、衰退の道をたどった。
  その唐の弱体化とともに、ウイグル帝国とチベット(
 吐蕃)が台頭して行った。
  778年、ウイグル軍が唐に侵攻し、779年、吐蕃(チベ
 ット)軍は20万の大軍を持って、唐の成都(今の四川省
 の省都)を占領しようとした、が、これは撃退されたが
 786年は敦煌を占領した。まだまだ、戦いの時は続き(
 中略)、821年、ウイグル・チベット・唐の間で三国会
 盟(盟約)が締結された。まだまだ、きな臭い事態が続
 き(中略)、907年に唐が滅亡し、五代十国(唐の滅亡
 から北宋の成立までの53年間に黄河流域を中心とした華
 北の5つの王朝・五代と、華中・華南を支配した地方政
 権・十国が興亡した時代)の分裂時代になる。
..
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2015年2月13日金曜日

(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年~732年)

 題:(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年~732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
712年、古事記が作られた。
  日本最古の歴史書である。
  太安万侶(おおのやすまろ、太朝臣安萬侶・おほのあ
 そみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された。
  まずは、稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶し暗唱して
 いた事柄を元にして編纂されている。
717年~741年、イコノクムス(聖像破壊運動)。
  この年に在位するレオ3世は、コンスタンティノーブ
 ルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラムス)を始
 めた。
  首都にあった聖像のほとんどを消滅させてしまった。
  多くの教会の装飾や美術品は、オスマン=トルコ時代
 のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に破壊された。
  ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィア教会にお
 いては、イスラム教徒によってモザイクやフレスコ画す
 べてが漆喰で塗り固められてしまった。
  レオ3世は、799年に襲われて危うかったところをかろ
 うじて逃げ出し、アルプスを越え、フランク王国のカー
 ル1世のところへ逃げ込んだ。
  レオ3世のローマ教皇在位は、795年~816年である。
  816年死去。66歳?(生年不明のため)。
718年、孝謙天皇が生まれた。(718年~770年)
718年頃、大伴家持が生まれた。(718年頃~785年)
718年、養老律令が成った。
  藤原不比等(ふひと)が、養老律令の撰修(せんしゅ
 う、書物を著すこと、または、編集すること)した。
  ここで、大切な事は、日本の律令を作ろうという自覚
 的姿勢があったこと。
  この頃の朝鮮の新羅は、唐の冊封(さくほう、中国か
 ら位を授けられること)を受け、中国の属国になること
 に甘んじていた。
  それに対し、日本は、その様な行動に出ず、日本独自
 の政治体制を敷こうとしていた。
  また、この頃、我が国の国号を「日本」と明確に宣言
 している。
  この事も、素晴らしい先進的意識である。
  この様な事例において、ヨーロッパの場合、現在のイ
 ギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどの国の意識が、
 おぼろげでも登場する時期は、10世紀より以前に遡るこ
 とが出来ない。
  13世紀の説もあるくらいである。
  10世紀としても、日本は、ヨーロッパより300年も早
 く、国、国体の意識が確立していた。
  中国からの国家体制を、モデルとしながらも、日本は、
 独立自尊の意識がある国であった。
  この様な独自の道を進む国は、東アジアでも日本だけ
 だった。
  唐の滅亡後も、特に、中国からの決定的影響を受ける
 ようなことがない日本だった。
  因みに、この頃の日本の推定人口は560万人だった(
 国民総人口)。
720年、日本書紀が完成。
  日本に伝存する最古の正史(帝紀・・天皇の系譜)で
 ある。
  神代から持統天皇の時代が記述されている。
  舎人親王らの撰で完成した。全30巻。
720年、藤原不比等が没した(659年~720年、61歳)
  死後、長屋王(ながやのおおきみ、皇族)が政治の実
 権を握った。
720年、垂仁天皇が、殉死を悼み埴輪を立てた。
720年3月、隼人の反乱。
  九州南部の支持が完全に得られていなかった。
  中国との交流も活発な地域でもあった。
  朝廷は、大宰府を拠点にして体制強化もしていた。
  713年に大隅国を設置し、また、豊前国(ぶぜんのく
 に、福岡県頭部)から5000人を移住させ充実させたりし
 て来た、その中で、朝廷は、律令制、特に班田収授法を
 進めようとした。
  ここに軋轢(あつれき)が生まれた。
  この様な時、720年2月29日に大宰府から朝廷へ『大
 隅国の国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝え
 られた。
  朝廷は、3月4日に、大伴旅人(おおとものたびと)を
 征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命
 し征討が行われた。
721年、元明天皇が崩御した(661年~721年)
722年、百万町歩開墾計画。
  この計画は、良田百万町歩計画とも呼ばれ、この年、
 この計画が出された。
  この朝廷から出された計画の『壮大な夢の考え方』に、
 国を、大きな心で、豊かにしたいとの心を感じる。
  古い時代にも、日本には、この様な心があった、また、
 この計画に、日本人のスケールの大きさを感じる。
  この計画には、政情が不安定で民が定住できにくいと
 いう事情もあった。特に、陸奥の地がそうだった。
  朝廷は、税である庸調を免じようともしていた。
  また、政情不安定で、都へ逃げて来ている民を、国へ
 帰れるようにしようとしていた。
  今・現在行われている「地方創生」である。
  そして、みんなで良田を開墾しようとしている。
  収穫をあげた人への報償も用意していた(勲位六階)、
 当然、罰もあったが・・。
  1000石以上の功績者には、終身に渡って庸を免除する
 という方針もあった。
  また、辺境の地の開墾や鎮守は大変で重要であるから、
 その貯えを貢進する人には叙位するという事も決められ
 ていた。
  しかし、計画通りにはいかなかった様である。
  この頃、世情が、公地公民の制が崩れ、浮浪・逃亡が
 多くなっていたことも関係している様である。
723年5月、三世一身の法が定まった。
  墾田の奨励のための法律。
  3世代、または、本人一代まで、墾田した田の私有を認
 めた。
  新しい灌漑施設を造って墾田をした場合は3世代で、
  既設の灌漑施設を改修して灌漑・墾田した場合は、本
 人一代の私有を許すというものだった。
  この背景は、食糧増産の政策があった。
  人口が増加していた。
  この事により、墾田開発は進んでいたことは確実。
  この頃、元正天皇のもとで、天武天皇の孫である長屋
 王が政治上の実権を握っていた事も関係している。
  そしてまた、平安時代以降、この班田収授法の実施が
 なされなくなった、公地公民制が崩壊して行ったという
 事と比較して考えると、この時代の政策に輝くものが見
 い出される。
723年、この頃、僧・行基が活躍。民を助け、また、施薬
 院・悲田院を建てた。
724年、陸奥の国に、多賀城が設置された。宮城県多賀城
 市。陸奥国府や鎮守府として機能した。
724年、聖武天皇が即位した。
  聖武天皇の皇后の父は藤原不比等。
  聖武天皇の即位とともに、藤原不比等の子の藤原四子
 (藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が政
 界に進出した。
727年、中国の東北部に、渤海(ぼっかい)という国があ
 った。この年以来、日本との外交関係を持った。
  渤海使は、日本海を渡って、まず、出羽に来た。
  そして、京に入った。
729年、藤原四子は、長屋王と政権の座を争ったが、この
 年、長屋王の変で、左大臣の長屋王を謀反の疑いをかけ
 て自殺させた。
  藤原四子は参議となり、9人の参議の大勢を占め、729
 年から737年までの間、朝廷政治を握った(藤原四子政
 権)。
  四兄弟は、737年の天然痘の流行によって相次いで病
 死し、この政権の終焉を迎えた。
  この後、橘諸兄(たちばなのもろえ、葛城王)が、右
 大臣として政権を担った。
  そして、唐から戻った吉備真備や僧・玄昉(げんぼう)
 を登用した。
732年、トゥール・ポワティエ間の戦いが起きた。
  トゥールとポワティエの間で、フランク王国(5世紀
 から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系
 の王国)と、ウマイヤ朝(イスラム史上最初の世襲イス
 ラム王朝、661年~750年)の間で起こった戦い。
  フランク王国は、伝統的に均等分割相続の制度があっ
 た。
  そのため、王位継承の度に国土が分割され、王権は弱
 体化した。
  逆に、王に仕える宮宰は力を強くした。
  7世紀の後半、フランク王国は2国に分かれており、
 それぞれの宮宰どうしが争っていた。
  この争いに勝利したのがピピン2世で、実権を掌握した。
  この内紛に乗じ、イベリア半島の西ゴート王国を征服
 したウマイア朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越え
 て、フランク王国内に侵入を始めた(720年から、大規
 模な侵入を始めていた)。
  イスラム軍の侵入の報を受けたカール・マルテル(ピ
 ピン2世の子)は、トゥールへ軍を進めた。
  トゥールにはイスラム軍が来ていなかったため、南の
 ポワティエに向かった。
  ここでイスラム軍との戦いが開始された。
  この戦いに勝ったカール・マルテルは声望が上がった。
  彼は、この戦いで兵を強くする必要性を痛感した。
  そこで、領土の3分の1を占有していたキリスト教会
 の領を、騎士に貸与し、強化しようと教会領を没収した。
  ピピン3世(在位751年~768年、カール・マルテルの
 子)の代になり、メロヴィング家の王を廃し、自ら王位
 についた。カロリング朝が始まった。
  この頃、東地中海の一部が、わずかにビザンチンの手
 に残ったが、西地中海はほぼ完全にイスラムに制圧され
 ていた。
..
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2015年2月12日木曜日

(増補版)17A:気になった事柄を集めた年表(689年~717年)

 題:(増補版)17A:気になった事柄を集めた年表(689年~717年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
690年、全国的な戸籍の庚寅年籍が作成され、人民を地域
 により編成するという作業はほぼ完了した。
690年1月、皇后(持統天皇)が即位。
  689年に草壁皇子が崩御したので、その遺児で孫にあた
 る軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)が成長するまでの
 間という御心で自ら即位した。
690年7月、高市皇子(たけちのみこ、天武天皇の皇子)が、
 太政大臣になる。
690年、武后(武則天)が、唐室を尽殺し、国号を州都改め
 自ら聖神皇帝と称した。
694年12月、持統天皇が、本格的な都城である藤原京に遷都
 した。
697年2月、立太子(軽皇子)。
697年8月、皇太子(文武天皇)が即位。
  祖母の持統天皇から譲位されて天皇の位につき、即位の
 詔を宣した。
698年、阿倍仲麻呂が生まれた(698年~770年)
8世紀頃、ゲルマン民族の第二次移動と言われる海上活動を
 開始し、略奪者としての印象を残した。
8世紀頃、イスラム商人が、貿易のために、紅海またはペル
 シャ湾から、インドを経て、アジア大陸の海岸線に沿って
 発達した海上貿易のルートが海の道。
8世紀頃、中国で発明された火薬や磁針、陶磁器などが、イ
 スラム世界を経て、ヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人
 のアジアに対する強いあこがれを引き起こした。
8世紀、インドネシア:この頃に、ジャワにシャイレンドラ
 朝が興り、ボロブドール遺跡を残した。
8世紀、マレーシア:8世紀にスマトラ島にあった王朝の支配
 下に入った。
700年代(8世紀)、ベルベル人(北アフリカに広く居住す
 る先住民族、7世紀以降イスラム化した)の侵入によって、
 スペイン・ポルトガルの地・イベリア半島が征服された。
 以後、約300年支配する。
  「ベルベル」というヨーロッパ・キリスト教徒の言う意
 味は、「ギリシャ世界の外に住む文明化されていない人」
 という意味で、まったく馬鹿にしている。
701年、聖武天皇が生まれた(701年~756年)。
  即位前の名前は首皇子(おびとのみこ)。
  文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
701年1月、遣唐使が任命された。
  大通事は垂水広人(たるみのひろんど)
701年8月、大宝律令なる。
  刑部(おさかべ)親王や藤原不比等が中心になって編集。
  文武(もんむ)天皇より、律令制定を命ずる詔が発令さ
 れた。
  律令による統一的交通網の整備が行われた。
  これは、江戸時代以前の主な社会資本整備となっている。
  また、位階は30階になった。
  律は、今の刑法に相当し、令は、民法に相当する。
  全国は、畿内・七道の行政区に分けられ、畿内は、山城・
 大和・河内・和泉(いずみ)・摂津の5か国である。
  七道は、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の
 各道であった。
  約16キロメートルごとに駅家(うまや)を設ける駅制が
 しかれた。
  駅家では、一定数の駅馬が置かれ、以前には、駅馬伝馬
 の制、牧と貢馬の制があり、政府に鷹狩り用の鷹養育施設
 などがあった。
  また、「三関」が定められ、多くの兵士が配された。
 「畿内を守る役割」とともに、「畿内での動乱が、東国へ
 波及させないという役割」もあった。
  日本は、古い時代から、不幸の源の争いを拡大させない
 知恵を働かせていた。
  遺跡の発掘調査では、西に崖を作り、残りの三方を土塁
 で囲んでいる事が分かった。
  中に建物を並べて建て強力な体制で、用に供していたも
 のだと分かった。
  また、大宝律令の制定で大切な事柄は、班田収授法の本
 格的な成立である。
  班田制は、これ以前の大化の改新などにも見られ、古代
 の日本政治の政策として実施したいとして来た政策であっ
 た。
  これは、古代の日本において、理想の社会を造りたい、
 造ろうという動きであった。
  それは、出身や民族を差別しないで、土地を国有化し、
 平等分配する班田制や編戸制の採用など、専制に基づいた
 とはいえ、公平な世の中を造りたいという政策だった。
  この理念は、現代にも通用する日本人の素晴らしいとこ
 ろ、一気に封建社会を飛び越した理念は誇るべきである。
701年、李白が生まれた(701年~762年)
703年、「満濃池」が築造された。これは江戸時代以前の主
 な社会資本整備である。
706年、藤原仲麻呂が生まれた(706年~764年)
706年、斑鳩(いかるが)の法起寺(ほっきじ)の造営を開
 始した。
708年、日本最初の貨幣の和同開珎(わどうかいちん)が、
 武蔵の国から銅が献上され鋳造された。
  和同開珎は、山城や周防などに置いた鋳銭司で鋳造され
 た。
  和同開珎から、平安時代の中頃までつくられた貨幣を総
 称して皇朝十二銭と言う。
709年、光仁天皇が生まれた(709年~781年、49代天皇)
710年、僧・行基が五泊の制を定めた。江戸時代以前の主な
 社会資本整備である。
  また、行基の社会事業が諸国を行脚して行われた。
710年3月10日、平城京に都が移された。
  この時の天皇は、元明天皇(天智天皇の子)。
  条坊制によって、そのほぼ全体が整然と区画されている。
  平城京遷都は、六国史の中の続日本紀に記されている。
  しかし・・、
  唐の長安を真似たと教科書に書かれているが・・、
  唐の長安の町は、四角く区切られ、里(坊)は、外角と
 は別に、それ自体も城壁に囲まれていて、出入口として、
 里門が設けられ、里内には巷(こみち)が整然と通ってい
 た。
  正方形の里の四面に一つづつ門が開き、兵士が管理に
 あたっていた。
  里門建設の最大の目的は、治安の維持にあった。
  長安では、夜間になると坊門が閉鎖され、街路に出る
 事が禁じられた。
  これは、単に、閉じ込め機能だけでなく、君主の共同
 体(中に居る人たち)に対し、支配力浸透もあるが、富
 豪を集め守り、また、名門有力者を城郭内に移し、且つ、
 権力基盤を強める目的もあった。
  力の結集にもなった。
  科挙の採用によっても、地方氏族の中央官僚化が進展
 し、城郭内に続々と人が集中した。
  軍事制度も、天子の権力基盤を手厚く防備する体制が、
 一段と進めやすく整えられた。
  支配の安定が図られた。
  日本には、この様な坊門管理はない。
  坊城や坊門が、あったとしても、朱雀大路に面した辺り
 にしかなかった。
  故に、いくら坊門を管理しても、夜間通行の制限には効
 果はない状態だった。
  何故、日本はこの様にしたのか?
  つまり、日本は、唐の様な悪い治安でもなければ、臣
 下や民を囲い込んでおかなければならないほど、人身・
 民度の低く、乱れた状態ではなかった。
  つまり、そこまでする必要はないと知っていた。
  では何故、朱雀大路に面した所にだけ、坊城や坊門を
 設けたのかと言うと・・、
  儀容(ぎよう、礼儀にかなった姿や態度)である。
  「続日本紀」には、唐や新羅からの使いが入京した際
 に、官人が騎兵などの一団を率いて彼らを出迎えたこと
 が記されている。
  そして、外国使節は、まず平城京の羅生門をくぐり、
 宮城南面の朱雀門に続く朱雀大通りを直進した。
  朱雀大路の両側の坊城や坊門を、使節は見ながら宮城
 への大路を進んだ。
  その儀容だった。
  日本の皇帝の城に至る大路だった。
  日本の為政者には、民を軍事基盤に利用してやろうと
 いう心はなかった。
  自分のために住民を「閉じ込めよう」という考えはな
 かった。
  屯倉や三関を地域に設け、管理者を置くというスケール
 感で安全・安定を図っていた。
  基本的な人間観の違いにあった。
710年、日本は、厳密な意味で、唐から学んではいない。
  すべてを換骨奪胎(かんこつだったい、新味を加えて
 独自のものとする)して日本のものとしている。
  教科書や歴史書の多くが「唐から学んだ」と言うが、
  そこに、日本の叡智(えいち、優れた知恵)の取捨選
 択があり、日本のものに再構築されたものを造り上げて
 いたという所に気が付かねばならない。
  この日本の資質の高さを誇るべきである。
  昔から、日本には、この資質・智慧があった。
  もう1例を上げれば、
  平城京の律令制においても、基本的なところで、大き
 く日本の制度へと改革して実施している。
  日本は、太政官に権能(けんのう、法律的に実施できる
 能力、公の機関の権限)を集中している。
  唐は分散していた。
  権力中枢の大きな考え方の違いだった。
  また、唐は、皇帝崇拝と神の代償としての絶対化による
 政治形態だったが、日本の天皇は、神の祭司として祭政は
 分離されていた。
  近代政治でも祭政分離(政教分離原則)が基本となっ
 ているが・・。
  唐の様な政治形態は、もともと日本にはなじまないもの
 だった。
711年、蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出して貨幣の
 流通を図った。
  当時は、米・絹・布などが貨幣の役目をした。
711年、7世紀の前半にアッラーの教えが説かれてから、イ
 スラムの勃興は凄まじかった。
  西方の伝搬は、アフリカの地中海岸を進み、この年の
 711年に、スペインへ渡った。
  そして、一気にゲルマン人の国の一つの西ゴート王国を
 倒した。
  そして、ピレネー山脈を越えて、ガリア地方(フランス)
 に進出した。
712年、越後国と陸奥国をさいて出羽国をおいた。
712年、古事記ができた。(上)(中)(下)の三巻。
  太安万侶(おおのやすまろ)による。
712年、杜甫が生まれた(712年~770年)
712年、唐の玄宗皇帝が生まれた(712年~756年)。(開
 元の治)。
713年、風土記撰上の詔が出され、風土記の編纂が命じられ
 た。
717年、遣唐使として阿倍仲麻呂・吉備真備が唐に渡る。
  阿倍仲麻呂は、霊亀3年と養老元年(717年)に遣唐使
 となっている。
  717年の時は、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行
 し、唐の都・長安に留学する。
  唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えた。
  後に、安南節度使としてベトナムに赴き総督を務めた。
  761年~767年の6年間も、ハノイに在任した。
  大都督(従二品)官位が授けられたが、日本に帰る希望
 はかなえられなかった。
  770年1月、73で死去した。
  当時の日本政府は、彼の遺族に、絹と綿を贈った。
  彼の家族は貧しく、葬儀も十分に行えなかったという。
..
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(増補版)16A:気になった事柄を集めた年表(661年~689年)

 題:(増補版)16A:気になった事柄を集めた年表(661年~689年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
662年1月、斉明天皇と中大兄皇子は飛鳥を出て筑紫の朝倉
 の宮に移って、朝鮮半島の救援のための百済援軍の準備
 をした。
662年2月、中国・唐の武将・蘇定方が、朝鮮半島攻撃の為
 に平壌城に赴(おもむ)き包囲するが、雪により苦戦し、
 包囲を解いて帰国した。
662年3月、日本の救援軍が、現在の朝鮮半島の忠清南道に
 あった周留城に入った。
662年8月、倭国に631年から人質として来ていた朝鮮の百
 済の王子である豊璋を、急遽(きゅうきょ)、帰国させ
 るとともに(百済を復興させようとの軍の強化と、太子
 の豊璋王を王へ擁立しようとした)、そしてまた、阿倍
 比羅夫らからなる5000人の救援軍を朝鮮半島へ派遣した。
663年3月、日本軍、救援のために新羅へ出兵。
663年8月、日本と朝鮮の連合軍が、白村江(はくすきのえ)
 で戦うも(663年~666年)敗北した。
  この戦いの結果、戦いに勝利した大国の唐が、大陸に
 出現した。
  また、この時、日本も、唐の占領下に入る危険性もあ
 った、属国化の危険性があった。
  朝鮮半島の白村江で行われたこの戦いは、倭国と百済
 国の遺民の連合軍(倭軍第一派1万余人・661年5月出陣、
 第二派2万7千人・662年3月出陣、第三派1万余人)と、
 唐と新羅の連合軍(唐軍13万、新羅5万)との戦いだった。
  この頃、唐は、あちこちで諸民族を征服し、唐の勢力
 圏は広かった。強力な国だった。
  敗戦の結果、日本は朝鮮半島の権益を失った。
  敗戦による日本の属国化の危険性は、日本の為政者を
 慌てさせた。
  日本は、国防体制・政治体制の変革の必要性を感じ、
 国家体制の整備が急速になされた。
  律令国家の建設のピッチも上がった。
  国号も『日本』とした。
664年、朝廷、辺防に着手。
664年、対馬・壱岐に烽火(とぶひ)を置き、また防人を
 置き、筑紫には防人を置き、防衛施設である水域をつく
 った。
  烽火とは、のろしを上げて外敵の侵入を急報する設備
 である。
664年2月、冠位26階を制定した。氏上、民部、家部を定め
 た。
664年2月、唐より劉仁願(白村江の戦いで倭軍を破った唐
 の武将)が来た。
  百済占領の軍司令官として日本と交渉を持ち、安定を
 図った。
664年2月、唐と新羅の同盟締結。
  新羅の金仁問は、唐の勅使・劉仁願、百済扶余隆と熊
 津で同盟を結んだ。
664年5月、蘇我臣連子が死んだ。
666年12月、唐が高句麗を討伐した。唐は、644年~668
 年まで3次にわたって討伐している。
667年3月、天智天皇が近江の大津へ都を移した。
667年8月、新羅の大軍が、平壌に向かって出陣した。
668年、近江令ができた。
668年、東ローマ皇帝のコンスタンス2世が、滞在中のシチ
 リア島で暗殺された。
668年1月、中大兄皇子が即位した(天智天皇)。都を近江
 に遷都した。
668年8月、新羅の貢調使が来朝した。
668年9月、唐が新羅と共に平壌を攻略し、安藤都護府を置
 いた。
668年9月、高句麗が滅亡した。
  朝鮮半島は穏やかな時代が過ぎていた。
  北に高句麗、南に新羅と百済があった。
  中国の地に唐が国を統一するや、その状態は一変した。
  新羅は、唐と手を結んで、半島に唐の大軍を引き入れ、
 まず百済が滅ぼされ、次に高句麗が滅んだ。
  そして、この年に、唐は、高句麗の地をおさめ、直轄
 地とした。
  その後、新羅は、唐に駆逐されない様に中国式国家を
 つくった。
  そして、唐に対し、無害の存在であることを示した。
  新羅の人たちの名前まで中国式にした。
  そして、この時、668年9月、新羅は唐と結んで、高句
 麗を滅亡させた。
  唐に敵対するのは日本だけだった。
669年、天智天皇は、唐との国交正常化を図り、この年に、
 河内鯨らを遣唐使として派遣した。
669年10月、藤原鎌足が死んだ(56歳、一説は50歳)
670年2月、全国的に戸籍作成(日本)。
  天智天皇が庚午年籍(こうごねんじゃく)をつくった。
  これは、永久保存された戸籍。
670年7月、新羅が、百済の旧領の八二城を攻略した。
671年、唐と新羅が対立する(唐・新羅戦争)。
  新羅は、対唐戦争に対処するために対日外交を積極的
 に推進し、支配下に入った高句麗、百済、耽羅(たんら、
 済州島)の使者を日本に送った。
671年1月、太政官執政部の任命。
671年1月、唐人・李守真が、熊津郡督府から筑紫に来て上
 表(じょうひょう、意見を書いた文書を君主に奉ること)
 した。
671年10月、大海人皇子が出家した。
  病床にあった天智天皇は、弟の大海人皇子を呼び、天
 皇の位に(この当時はまだ「大王(おおきみ)と呼ばれ
 ていて、「天皇」という称号を使っていない)を譲るこ
 とを伝えた。
  大海人皇子はこれを辞退し、即座に髪を切り出家して
 吉野宮へ移り住んだ。
671年11月、五大官の誓盟。
  大友王子を含めた重臣たちが、織物仏の前で誓盟を交
 わた、これは、大友皇子を天皇にするという事だろうと
 言われている。
671年12月、天智天皇が崩御した。
672年、飛鳥京に遷都した。
672年6月、壬申の乱が起きた。
  近江(滋賀県)の大友皇子(おおともみこ)と、吉野
 で挙兵した大海人皇子(おおあまのみこ)の争い。
  大海人皇子が勝利した。
672年7月、近江朝が覆滅(ふくめつ、完全に滅びること)、
 大友皇子自害。
673年2月、大海人皇子が、飛鳥浄御原宮(あすかきよみは
 らのみや)で即位し、天武天皇になった。
675年、牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食用とすることを禁じ
 た。
675年2月、諸氏の部曲を廃止した。
675年2月、唐の武将・劉仁軌が、新羅を破った。
676年、新羅(しらぎ)、この年、唐を駆逐して朝鮮半島
 を統一した。
679年、ベトナムのハノイが、唐の直轄地となった。
681年、律令の編纂(へんさん)開始。
681年、諸国に命じ天下に大解除(おおはらえ)を行う。
  おおはらえは除災行事のこと。
681年2月、律令改修の詔。立太子(草壁皇子)。
681年3月、帝紀などの編述にかかる。
694年、藤原京に遷都した。
683年、唐の高宗が崩御すると、子の李顕(中宗)が即位
 するが、中宗の皇后・韋氏が、血縁者を要職に登用した
 ことを口実に、太平公主(高宗の娘)を使って中宗を廃
 位し、その弟の李旦(睿宗)を、新皇帝に擁立した。
  睿宗は、武后(武則天)の権勢の下、傀儡に甘んじる
 事を余儀なくされた。
  武則天(高宗の皇后)の専横に対して、皇族が次々と
 挙兵したが、いずれも打ち破られた。
  民衆は、武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至ら
 しめ、多くの浮戸(土地を持たない生活困窮者)や逃戸
 を招いたが、農民蜂起が起こる程の情勢ではなかったた
 め、反乱軍に同調する者は少なく大勢力には発展しなか
 った。
  高宗が没したが、皇后・武氏政権を握った。
684年10月、天武天皇は、八色の姓(やくさのかばね)を
 定め、豪族を天皇中心の身分秩序に編成した。
  八色の姓は、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰
 (すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣・
 連・稲置である。
685年1月、冠位の制を改め、60階とする。
686年9月、天武天皇が崩御する。皇后称制。
686年10月、大津皇子の異変。大津皇子が自害。
688年、鑑真が生まれた(688年~763年)
689年6月、持統天皇(天武天皇の皇后)が、この年、飛鳥
 浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行した。
  この令に基づく戸籍の庚寅年籍(こういんねんせき)
 をつくった。
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2015年2月10日火曜日

(増補版)15A:気になった事柄を集めた年表(650年~661年)

 題:(増補版)15A:気になった事柄を集めた年表(650年~661年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
651年、新羅の知万という貢調使(こうちょうし、諸国か
 ら毎年献納する品物を朝廷に納める使い)が、唐国の服
 を着て筑紫に着いたので追い返した。
  唐へ冊封して属国化している新羅が、日本への使いま
 でもが唐服を着ているのでそれを咎めてのこと。
  当時の日本の独立自尊を表している史実。
652年、班田を完了した。
652年、班田収授法が実施された。
  朝廷は、水田を整然とした区画に分ける条里制を実施
 し、
  国民一人ひとりに、一定面積の水田を口分田(くぶん
 でん)として分配し、割りあて、
  収穫を、田祖として、収穫の一部を納めることにした。
  公地公民制に基づいて、6歳になれば、良民男子は2段、
 同女子はその3分の2が与えられた。
  キリスト教の地の様な、女子は人間じゃない的な日本
 ではなかった。
652年4月、初めて戸籍を作った。
  日本の戸籍制度の起源と言われている。
  この事によっても、口分田の分配・割り当てが、日本
 国民の隅々まで、公平に、落ちなく行われた。
  公地・公民の考え、すべての国民や土地は天皇のもの
 (家族)であるという基本があった。
  平等の理念があった。
652年9月、難波宮(難波長柄豊崎宮)が落成した。
  650年から造営を始めて完成したものだった。
653年、皇太子ら政府を飛鳥に移した。
  天皇は難波宮にとどまった。
653年5月、唐に使節を送った。第2次船。
  緊迫した朝鮮半島情勢下で行われた。
  659年の第4次遣唐使は、唐による百済討伐の情報漏
 洩(ろうえい)を阻止するために、日本の使節が唐側に
 よって抑留された。
  2年後の解放されて帰国するまでの間に、日本側では、
 朝鮮半島の百済救援のために、唐との対決を決断した。
  白村江の戦いへ至る。
653年6月、飛鳥時代の学僧・旻が亡くなる。
  中国系の渡来氏族。魏の陳思王・曹植の系図の人。
  小野妹子と隋へ渡ったり、
  蘇我入鹿や藤原鎌足へ講義したりし、
  645年の大化の改新時に国博士になり、高向玄理と八
 省百官の制を立案している。
654年、高向漢人玄理が、唐で客死(かくし、旅先で、ま
 たは他国で死ぬこと)した。
654年10月、孝徳天皇が、難波宮で崩御(ほうぎょ、天皇・
 皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう)する。
655年、飛鳥板蓋宮が火災になる。
655年、唐と新羅の軍事協力が660年に成立し、色々な戦
 いがあったが、
  655年、高句麗、靺鞨、百済の連合軍が、新羅北部の
 33城を奪ったため、真徳女王を継いだ新羅の29代の王・
 武烈王は唐の高宗に救援を求め、唐は高句麗を攻撃した。
655年1月、孝徳天皇の崩御後、655年1月3日、斉明天皇が
 62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位についた。
  史上初の重祚(ちょうそ、一度退位した君主が再び即
 位する事)。
  政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。
656年、後飛鳥岡本宮、両槻宮、吉野宮をつくる。岡本宮
 炎上。
657年、新羅が日本の要請を拒否した。
657年、唐の高宗が、将軍・蘇定方に、西突厥(アフガニ
 スタン北方の国)を征服させた。
  多くの戦いの中、激戦だった。
  権謀術数が、色々、渦巻いた。
  味方のようなふりをして出迎え、城に入ると、囲みの
 中に入ってしまい捕らえられるなど。
658年1月、巨勢左大臣が死んだ。
658年4月、阿部臣比羅夫が、蝦夷を征伐した。
658年11月11日、有間皇子の変。
  有馬皇子は飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の皇子。
  天皇への謀反の計画が発覚し、処刑された。
659年、藤原不比等が生まれた(659年~720年)
669年3月、天皇が、吉野・平浦に赴かれた。
660年、百済滅亡。
  この年に、唐と新羅の同盟は成立し、平壌以南を新羅、
 以北を唐が領有する約束がかわされた。
  新羅も、高句麗・百済との抗争の中で勢力を伸ばして
 いた。
  唐・新羅両軍は連合して、百済へ侵攻した。
  百済の福信も挙兵。
  日本軍も錦江河口で、連合軍に敗れ、百済は滅ぼされ
 てしまった。
660年、山上憶良が生まれた(660年~733年)
660年、武后の執政時代がはじまる。
660年3月、阿倍比羅夫が、粛慎を討伐する。
  阿倍比羅夫は658年から3年間、遠征した。
  658年に、水軍を180隻を率いて、日本海側を、北は
 北海道まで行き、蝦夷を服属させた。
  粛慎は、中国の文献ではツングース族だが詳細は不明。
  比羅夫は、660年3月、大河のほとりで粛慎に攻めら
 れた。
  渡島の蝦夷に助けを求められる。
  比羅夫は、粛慎を幣賄弁島(へろべびのしま、北海道
 の奥尻島と言われている)まで追って彼らと戦い、破っ
 た。
  この年の5月には粛慎の37人を饗応したともいう。
660年、中大兄皇子が、遅刻(水時計のこと)を造った。
660年10月、百済の滅亡後、朝鮮半島の鬼室福信らによっ
 て、百済の復興運動が展開された。
  日本の朝廷は救援を求められた。
  このいきさつで、日本は朝鮮半島へ救援の軍を送り、
 白村江の戦いへ至る。
660年12月、天皇が難波宮へ移る。
661年、元明天皇が生まれた(661年~721年)
661年1月、斉明天皇らが西航された。熟田津(にぎたづ)
 で歌を詠まれた。
661年4月、唐が、蘇定方をして高句麗を討った。
661年7月、斉明天皇が、朝倉宮(朝倉橘広庭宮、あさくら
 のたちばなのひろにわのみや)で崩御する。
  その後、皇太子(後の天智天皇)は、長い間、皇位に
 つかず皇太子のまま称制した。
661年、ウマイヤ朝(サラセン帝国確立)~750年。
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(増補版)14A:気になった事柄を集めた年表(618年~650年)

 題:(増補版)14A:気になった事柄を集めた年表(618年~650年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
620年、聖徳太子と蘇我馬子が、「天皇記」を編纂した。
 歴史書である。
622年、聖徳太子が病に死す(48歳)、翌日、妻も亡くな
 る。
622年、、マホメットがメッカよりメディナへ移る。イス
 ラム歴元年。
624年、唐の高祖が、官制を定め、律令を分かち均田とし、
 租庸調の法を定めた。
626年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が生まれた
 (626年~671年)
626年5月、大臣・蘇我馬子が死んだ。桃原墓に葬る。
  子供の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣(おおおみ)
 になる。
626年8月、中国唐の第二代皇帝・の太宗李世民が即位した。
  (貞観の治・じょうかんのち、627年~649年)。
  この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言
 われ、後世、政治的な理想時代とされた。
628年、唐、中国大陸を統一する。
628年4月、推古天皇が崩御した時、継嗣を定めていなか
 った。蘇我蝦夷は、群臣にはかって、その意見が、田村
 皇子と山背大兄王子に分かれていることを知り、田村皇
 子を立てて天皇にした。これが舒明天皇。
630年、初めての遣唐使。
  894年に菅原道真の建議によって停止されていた遣隋
 使以来、初めての第一次遣唐使が、630年の犬上御田鍬
 (いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。国交
 の再開。
632年、マホメットが亡くなった(571年~632年)
637年、唐の太宗が律令を制定した。
640年10月、唐より、学問僧・請安、留学生・高向漢人玄
 理らが帰朝した。
641年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の父・舒明
 天皇が崩御する。
642年、蘇我入鹿(そがのいるか)が勢力をふるった。
642年1月、中大兄皇子の母の皇極天皇(こうぎょくてんの
 う)として天皇となる。
642年、ササン朝ペルシャが滅亡した。
645年6月12日、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や
 中臣鎌足らが、蘇我入鹿(そがのいるか)を、飛鳥板蓋
 宮(あすかいたぶきのみや)にて暗殺し、
  翌日、入鹿の息子の蘇我蝦夷(えみし)が、自らの邸
 宅に火を放ち自殺した。蘇我氏が滅ぶ。蘇我体制に終止
 符を打たれた。[乙巳(いつし)の変]。
  大化の改新が始まった。
  唐にならった官僚的な中央集権国家体制樹立を目指し
 た。
  大化の改新に際し、皇極天皇は、孝徳天皇に譲位(軽
 皇子即位)し、
  都を難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)
 に移し、高向玄理や僧・請安を国博士に就任させ、
  中臣鎌足を内臣(うちつおみ)の官職に就けた。
  そして、初めての年号を定め、大化とした。
645年8月、東国へ、国司を派遣した。
645年9月、古人皇子の変。
  古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は亡くな
 る。舒明天皇の第一皇子。中大兄皇子の異母兄。
645年12月、都を難波(難波)に移した。
  天皇中心の中央集権国家への第一歩。
  初めて左右大臣、内大臣、国博士を置いた。
  仏教興隆の詔。
645年、「武蔵の国」という分国が出来た。
  当時は、ほとんどが原野と森林の国だった。
  国府は、多摩郡の府中に置かれた。
  府中に、国府の社として「大國魂神社(おおくにたま
 じんじゃ)」が出来たが、大社ながら7世紀の新設のため、
 一の宮とは言われなかった。
  それ以上の社として、氷川大社があった。
  聖武天皇(701年~756年)の時、氷川大社は、武蔵の
 国の一宮の列せられ、武蔵の国の地の神々の筆頭となっ
 た。
  これにより、源頼朝が関東で幕府を起こした時も、社
 領300貫を寄進し、敬意を現わしている。
  これが先例になって、戦国期、小田原北条氏が関東を
 制した時も、礼を厚くし、
  また、徳川家康が江戸に入部した時も、朱印300石を
 寄進した。
  武蔵と言えば、氷川明神だったのである。
  徳川家は、江戸城内の鎮守神としても氷川明神を勧請
 している。
  明治になって、東京の遷都された時、明治天皇は、氷
 川大社に勅使を送り、一代のうちに三度参拝された。
645年1月、大化の改新の詔(みことのり)が出された。
  「大きな古墳造りを禁止」した。
646年1月、日本書紀によれば、この年の正月の改新の詔に
 おいて「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあ
 り、これが、班田収授法の所見である。
646年3月、中大兄皇子が、自らの入部と屯倉を天皇に献じ
 た。
646年8月、諸々の部の廃止を宣告した。税制も改正した。
 品部を廃止し、旧職を廃し、百官を設け、冠位を叙する
 方針を詔した。
646年9月、高向玄理を新羅に遣わし、任那の調を止めさせ
 た。
647年、七色十三階冠(ななしきじゅうさんかいかん)が
 制定された。冠位十二階に合わせて冠位十三階を制定。
647年1月、新羅が、官職にある金春秋(キム・チュンチュ)
 を日本に派遣した。
  そして、以前、日本から新羅に派遣されていた高向漢
 人玄理と中臣連押熊を送ってよこし、孔雀、オウムそれ
 ぞれ一羽を献上した。
  その際に、金春秋は人質とされた。
647年、善徳女王。新羅初の女王。
  百済と高句麗は同盟していた。
  新羅は孤立した状態だった。
  643年9月に、新羅は、唐に使者を送って高句麗・百済
 を討つ援軍を求めたが、
  唐からは、援軍を派遣するには、善徳女王を廃して、
 唐の王室から深奥を立てる事を迫られた。
  こうした唐の姿勢に対し、新羅国内では親唐派と反唐
 派の対立が生じ、
  女王自らが任命した上大等の毗曇らが、647年正月に
 女王の廃位を求めて内乱を起こした。
  女王は、正月8日に陣中に没した。
  その後直ちに、金庾信らが、真徳女王を立て、正月17
 日になって乱を鎮圧した。毗曇ら20余名は誅殺された。
648年、磐舟柵(いわふねさく)が、現在の新潟県村上市
 岩船の辺りに置かれた。
  蝦夷に備える柵で、越と信濃の民を選んで、はじめて
 柵戸を置いた。
648年4月、旧冠制が廃止されるが、古冠を使用する。
649年2月、冠位19階を制定した。8省100官を置いた。
  背景には、官職の増加がある。
  この頃から、冠位を持つ地方豪族も増えた。
  また、この頃から、冠位がより官僚的になった。
  昇進とか、選考といった原型が形成されたと考えられ
 ている。
  より律令位階制度に近づいた。
  お役所が形作られて行く。
649年3月17日、阿部左大臣が薨去(こうきょ、貴人の死去
 すること)。
649年3月25日、左大臣の薨去後、8日目に、右大臣蘇我倉
 山田麻呂が謀反の疑いをかけれれて自殺する。
649年4月20日、左右大臣が任命された。巨勢徳陀古左大臣
 と大伴長徳右大臣。
650年、詔によって、山口大口費(やまぐちのおおぐちあ
 たい)が千仏像を造った。
  山口大口費は、法隆寺金堂の広目天像の光背に名を残
 しており、当時、著名な仏師であった。
7世紀、玄奘三蔵は、インドからの帰途、シルクロードの
 ルートを通り、
  4世紀頃、ロプノールが干上がって、楼蘭は衰退するが、
 その楼蘭の廃墟に立ち寄ったと「大唐聖域記」に記され
 ている。
  シルクロードは、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立
 していたとされる。
..
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2015年2月9日月曜日

(増補版)13A:気になった事柄を集めた年表(591年~618年)

 題:(増補版)13A:気になった事柄を集めた年表(591年~618年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
592年、佛教興隆の詔(みことのり)が出る、
592年11月、蘇我馬子が、東漢直駒を使い、崇峻天皇を殺
 す。
592年12月、推古天皇(敏達天皇の皇太后)が豊浦(とゆ
 ら)で即位した。
  小墾田(おわりだ)宮に遷都した。
  この頃、朝廷において、蘇我馬子が権勢をふるう。
593年、四天王寺が造立された。
593年、聖徳太子の宮殿は、斑鳩(いかるが)宮。
593年5月15日、、推古天皇が甥厩戸皇子(聖徳太子)を
 皇太子とし、摂政とした(~622年)。
594年2月、三宝興隆の詔。
595年5月、高句麗の恵慈が来朝する。
595年7月、筑紫駐屯の将軍らが大和に帰る。
595年7月、百済の僧・慧聡(えそう)が来朝して仏教を広
 めた。
  596年に法興寺(現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、
 高句麗から渡来した恵慈と住し、ともに三宝の棟梁と称
 された。厩戸皇子の仏教の師となった。
596年11月、法興寺が完成する。
597年4月、百済王子・阿佐が来朝する。聖徳太子の肖像を
 描いたと言われる。日本で一番古い肖像画とされている
 (お札の絵の聖徳太子)。原画は3人が立っているが、右
 が山背大兄王、左側が殖栗王。
598年8月、新羅が孔雀一匹を朝貢する。
598年、中国の官僚登用試験である科挙(高等官資格試験
 制度)が始まった。1905年までの約1300年間も続いた。
599年9月、百済が、駱駝一匹、驢(ろば)一匹・羊二頭・
 白雉一羽を貢した。
600年、新羅・任那の使者が貢調(こうちょう、貢物を奉
 ること)する。
600年、初めての遣隋使を派遣した。618年までの18年間
 に5回以上派遣している。
600年、テオティワカン文化:メキシコシティ北東約50キ
 ロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した。
 7世紀には北方から「蛮族」の侵入を被り、急激に衰退に
 向かった。
600年、インドネシア:強力な王朝が出現するのは、7世紀
 にスマトラにシュリービジャヤ朝が出現して以後である。
600年頃、チベット:チベットは7世紀の頃、吐蕃(とばん
 )という国から歴史に登場する。7世紀の初め、ソンツ
 ェン=ガムポ王が出てチベットを統一し、唐を脅かした。
  中国・ネパールから二人の公主(こうしゅ、天子の娘。
 皇女)が嫁したのを機に仏教が入り、その後、ラマ教に
 発展し、インド文字を摸してチベット文字が作られた。
600年、境部臣(馬子の従弟ともいう)が征新羅大将軍(
 新羅征伐の責任者)に任ぜられた。しかし、実際は赴任
 していない模様。
601年、聖徳太子が斑鳩に宮を造る。
602年2月、来目皇子は、任那を滅ぼした新羅に対する新羅
 征討計画の際、征新羅大将軍として軍二万五千を授けら
 れた。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、
 6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせ
 ぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去した。
602年、百済の僧侶・観勒が渡来し、天文、暦本、陰陽道を
 伝えた。観勒は書生を選んで教えた。聖徳太子によって、
 604年歴本が採用された。
603年2月、来目皇子が筑紫で死ぬ。当麻皇子を将軍とした。
 皇子の妻の死によって討伐を中止した。
603年10月、推古天皇(女帝)が豊浦宮(とゆらのみや)
 で即位し、新宮として小墾田宮を造営し移った。
603年12月、秦河勝に仏像を授ける。
603年12月、冠位十二階を制定した。冠位十二階は、徳・
 仁・礼(らい)・智・信・義をそれぞれ大小に分けたも
 ので、等級は冠の色と飾りとで示された。
604年1月、冠位を諸臣に授与した。
604年4月、聖徳太子が17条憲法を制定した。
604年9月、聖徳太子が朝礼を改めた。
606年4月、飛鳥大仏。
  明日香村の安居院(あんごいん)にある金銅製丈六の
 釈迦如来像は、606年に元興寺(がんごうじ)金堂の本尊
 として鞍作止利(くらつくりのとり)が制作した。
  因みに、丈六(じょうろく)とは仏像の背丈の一基準。
  仏は、身長が1丈6尺(約4.85メートル)あると言わ
 れることから仏像も丈六を基準とし、その5倍、10倍、
 または2分の1などに造像された。
606年、日本書紀に、606年、聖徳太子が勝鬘経を講説した。
  また、岡本宮で法華経を講じた。
607年、法隆寺が建立された。
  用明天皇が、自らの病気平癒の為に発願した法隆寺建
 立を、用明天皇が亡くなったため、遺志を継いで推古天
 皇と聖徳太子が、607年に法隆寺を完成する。
  飛鳥文化が栄えた。
607年、この年、大和・山背・河内に池溝を掘り、国ごと
 に屯倉を置いた。
607年2月、日本書紀に、壬生部を定めるとある。
  壬生部とは皇子の養育料を出す部とされている。
607年7月、遣隋使。
  小野妹子が、大唐国に国書を持って派遣したと、日本
 書紀に記載されている。第二回である。
  倭王から隋皇帝・煬帝に宛てた国書に、「日出ずる処
 の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)な
 きや」の書き出しの国書を中国・隋へ渡した。
  日本の対等な姿があった。
  煬帝は立腹したという。
  しかし、立腹したところは「日出処」「日没処」では
 なく、倭王が「天子」を名乗ったところだという。
608年、この年、新羅人が、多く帰化する。
608年4月、小野妹子が、隋使の裴世清とともに筑紫に着く。
608年9月、小野妹子をふたたび隋に派遣する。
  第三回遣隋使。この時、留学生や学問僧らが同行した。
610年、この頃、高麗の僧・雲徴によって日本に製紙術が
 伝わった。その後、和紙になった。
610年3月、高麗の僧・曇徴(どんちょう)が来朝し、儒学、
 絵画工芸、紙墨彩色から農具までも伝え、中国製石臼も
 造ったという。
610年10月、新羅・任那の使者が入京した。
610年、マホメットのイスラム教が成立した。
611年5月、推古天皇が兎田野(宇陀郡大宇陀町)に薬猟(
 くすりがり)をした。
  山野に薬草や、鹿の若角を求めた記録が日本書紀にあ
 る。当時、宇陀などの山野は薬草の宝庫だった。
611年8月、新羅が朝貢する。
612年、隋が、未曾有の大軍を引き連れて高句麗遠征を起
 こした。
614年、中臣(藤原)鎌足が生まれた(614年~669年)
614年、再び、遣使が朝貢した。
614年7月、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が、最終と
 なる遣隋使として、隋に渡った。
  翌年9月に、百済使を伴って帰国した。
618年5月、隋が、高句麗の征討の失敗が一因となって、こ
 の年、滅びた。
  そして、唐が興った(~907年)、
  隋の高官であった李淵が興した。
  李淵は、617年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(
 長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭
 り上げて、その孫・恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中
 央を掌握した。
  翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に、江南にいた煬
 帝が殺害され、李淵は、恭帝から禅譲を受けて即位(高
 祖)、唐を建国した。
  唐は、律令制を整備し、均田制を基礎に租庸調税制・
 府兵制を定め、官吏採用のための科挙を実施した。
  文化、芸術が、首都・長安を中心に開花し、儒教、道
 教、仏教のほか、西方から伝えられた景教、マニ教、ま
 た、回教も行われ、国際的性格を示した。
  因みに、景教の事を、今・現在、キリスト教は、「景
 教はキリスト教だ」と言うが、キリスト教は、派閥争い
 が酷く、公会議などで意見が合わないと直ぐ殺戮したり、
 放逐したりした。
  この景教もこの様な処分になった宗教であった。
  「キリスト教ではない」という処分を受けた宗教であっ
 た。景教は放逐され中国へ流れてきた。
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2015年2月8日日曜日

(増補版)12A:気になった事柄を集めた年表(500年~591年)

 題:(増補版)12A:気になった事柄を集めた年表(500年~591年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
500年(6世紀)、百済から五経(ごきょう)博士が渡来し
 て、日本に儒教を本格的に伝えた。
500年(6世紀)、6世紀には、易・医・暦の博士も渡来し
 た。
500年、テオティワカン文化:テオティワカンは、メキシ
 コ市の北東50キロにある紀元前1世紀~紀元7世紀の大遺
 跡。最盛期は6世紀で、人口は10万人に達した。
500年、トルコ民族:アルタイ語族。アルタイ山麓から各
 地へ拡散した。6世紀頃より、突厥(とっけつ)、次い
 で、ウイグルの大勢力を形成した。
512年、大伴金村は、百済の求めに応じて、任那の一部を
 割譲した。朝廷は、百済による「任那の四県」の領有を
 容認する(継体天皇の時代)。
513年、百済が、己汾 ・帯沙の領有を日本に承認させた。
6世紀前半、この頃に、大連・大伴金村が、外交政策の失敗
 をとがめられて失脚した。
522年2月、司馬達等(しばだっと、孫に仏師の鞍作止利
 がいる)が、飛鳥坂田原の草堂に仏像を安置し、礼拝し
 た。
  仏教が、公に伝わる以前から仏教を信仰していたとさ
 れる。この年に日本に渡来し、本尊を安置して帰依礼拝
 したという。
527年、磐井の乱(いわいのらん)。
  磐井の乱は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出
 兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を、
  筑紫君磐井がはばみ、
  翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧
 された反乱、または王権間の戦争。
  この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利
 権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導
 権争いがあったと見られている。
  天皇は継体天皇だった。
  磐井の墓は岩戸山古墳と推定される。
  『日本書紀』によると、527年6月、朝鮮の倭国勢の後
 退を防ぐため、近江臣・毛野の率いる6万人の軍隊が、
 新羅討伐のために朝鮮・任那に向かって派遣された。こ
 の計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者
 だった磐井(筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の
 妨害を要請した。
527年、東ローマ皇帝・ユスチニアヌス大皇(在位527年
 ~565年)。大帝と呼ばれるが、帝国版図も広げたが、
 結果的に失敗の帝王。
529年、ユスティニアヌス1世が編纂させたローマ法の法
 典であるユスティ二アヌス法典(東ローマ帝国)が公布
 され、施行された。
  この頃の法律は、新しい法律ができると、自動的に古
 い法律が無効になることになっていた。
  その為、何が何だか分からない「ごちゃごちゃの状態」
 になっていた。
  ジュリアス・シーザーは、すっかり忘れ去られていた
 法律を持ち出して活用したりして、政敵を罠にかけたり
 していた。シーザーは、この名人だった。
532年、金官国(南加羅、日本領・任那の前身)が、新羅
 に滅ぼされた(安閑天皇の時代)
538年、蘇我稲目、向原(むくはら)の家を仏殿とする。
 (物部氏と対立する豪族の蘇我氏。天皇の外戚として権
 力を持っていた。渡来人の集団を支配して進んだ知識や
 技術を持っていた。この事もあって仏教を信仰していた。
 蘇我稲目~馬子~蝦夷~入鹿の直系4代は独占体制だっ
 た)
538年、仏教が朝鮮から公的に伝来する。
 百済の聖明王が欽明天皇に、仏教及び経論を献じた。
 (552年説もある)。この頃、豪族の争いが盛ん、氏姓
 制度が乱れた。
543年、黒死病(ペスト)が」流行する。「ユスティニア
 ヌスのペスト」と言われ、ユスティニアス帝の活動の終
 わりの印ともなった。
  これ以後、帝国の領土は縮小する時代に入った。
6世紀頃、カンボジア国家の起源とみなされている国、北
 方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興
 した。クメール帝国(カンボジア):メコン川の中流域
 に、クメール族の国が建てられたのは、6世紀の中葉と言
 われる。
552年、正史「日本書紀」による仏教伝来。
554年、推古天皇が生まれた(554年~628年)
555年、朝廷は、大臣稲目、穂積臣磐弓を遣わして、吉備
 の五地域に屯倉(みやけ)を設けさせる。
  屯倉は、ヤマト王権の支配制度の一つで、全国に設置
 したのは直轄地だという事を表してもいる。
  後の地方の行政組織の先駆けとなっている。
  屯倉の周りの低湿地を開発して田地として、倭屯倉を
 造ったりした。5世紀頃よりと考えられている。
562年1月、任那(みまな)日本府の衰退と滅亡。任那(伽
 耶)の宮家(日本府)が、新羅の真興王(新羅の第24代
 王)に滅ぼされた。
  朝鮮半島の新羅は、加羅諸国を支配下に押さえた。朝
 鮮半島の南東部は、すべて新羅の領域となった。
570年3月、蘇我稲目(?~570年)が死ぬ。物部氏ら、向
 原の仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に流す。
574年、聖徳太子が生まれた(574年~622年)。父・用
 明天皇。
577年、推古天皇が23歳で敏達天皇(30代)の后になった。
577年11月、百済が、経論・僧尼などを寄越した。
579年10月、新羅が、仏像を献じた。
581年、北周の宰相・楊堅が中国を統一した。
 律令制、均田制、科挙などを実施した。この次の帝は、
 大規模な運河を開掘したり、高句麗遠征を行ったりした
 が、国は疲弊し、民衆が反乱を起こして滅んだ。
583年、火葦北国造の子の日羅が、百済から来朝する。
  葦北国造(肥)、あしきたのくにのみやつこ、葦北(
 葦分)国造とは、葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、
 葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本
 紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(き
 びつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこの
 みこと)を国造に定めたことに始まるとされる。
  国造本紀には、葦分と名が記され、また記紀では火葦
 北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られ
 ている。
  三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿
 禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万
 葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。
  三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけ
 ひありしと)は、大伴金村によって朝鮮に使わされた国造
 で、その子・日羅は、日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、
 百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として
 知られる。
  葦北郡津奈木町にある将軍神社は、日羅(将軍)を祀
 っており、逸話も多い。
  宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさ
 から葦北国造の息子と考えられている。
584年、高句麗の還俗僧・恵便が、司馬達等の娘の善信ら
 を尼にし、蘇我馬子は、飛鳥豊浦の石川の家に仏殿を営
 み、善信尼らを置いた。
585年2月、蘇我馬子が、仏塔を大野丘の北に建てた。
585年3月、物部守屋・中臣勝海らが、仏殿・仏塔を焼き、
 善信尼らを監禁した。
585年8月、敏達天皇が、訳語田幸玉宮(おさだのさきたま
 のみや)で崩御した。
  崩御の後、皇位が橘豊日皇子(たぎばなのとよひのみ
 こ)と穴穂部皇子(あなほべのみこ)の両異母兄弟で争
 われた。
  そして、仏教に関心を寄せていた橘豊日皇子が、同母
 妹の炊屋姫および大臣・蘇我馬子の支持によって、9月
 に即位した。用明天皇(31代)となった。
587年4月、崇仏の可否を群臣に諮(はか)った。
587年4月、用明天皇が崩御。
587年7月、大臣・蘇我馬子等が、大連・物部連守屋を滅ぼ
 した。
587年8月、崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位した。
588年、百済が、仏舎利・僧・寺工・画工などを献じた。
588年、善信尼らが、百済に派遣されて仏法を学んだ。
588年、法隆寺の建立が始まった。
589年1月、隋の文帝が、50万の軍でもって江南の陳朝を
 征服して、南北朝(中国)を統一した。
590年、善信尼らが、百済から帰った。
591年4月、敏達天皇のもがりの儀礼が6年間続き、この年、
 母の石姫(いわひめ)が葬られている磯長(しなが、大
 阪府)の陵墓に合葬された。
591年11月、紀男麻呂(きの・おまろ)宿祢・巨勢猿臣ら
 が、2万余の軍を率いて筑紫に出兵し布陣した(新羅討伐
 軍)。遠征軍は渡海することなく595年に帰還した。
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2015年2月6日金曜日

(増補版)11A:気になった事柄を集めた年表(300年~500年)

 題:(増補版)11A:気になった事柄を集めた年表(300年~500年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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300年、4世紀~5世紀、巨大古墳に馬具を埋めたものが多
 く、馬・イノシシ・犬・シカ・サル・鶏・水鳥類などの
 動物埴輪や、鷹狩をする人の埴輪が残される。
300年(4世紀)、西アフリカに20万人の軍隊を、常時、配
 備していたガーナ王国が誕生した。
300年、新羅(しらぎ):古代朝鮮のこの頃、慶州地方を
 本拠とする斯蘆国が辰韓を統一してできた。
  高句麗・百済との抗争の中で勢力を伸ばし、660年に
 唐と連合して百済を、668年には高句麗を滅亡させ、676
 年に唐勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した。
  これ以後を統一新羅時代と言うが、滅亡した高句麗の
 遺民らが建てた渤海と対立し、唐の冊封を受け、日本と
 も国交を持った。
  律令制に基づく唐制も取り入れ、中央集権的な国家体
 制を目指し、仏教中心の文化が花開いた。
  9世紀末には一地方政権となり、935年に高麗王朝に降
 伏し、滅亡した。
300年頃、リベリア~インドまでのポイティンガー図(絵
 図的な地図)が作られた。
313年、高句麗が、楽浪・帯方の二郡を滅亡させ、その地
 を併合した。
313年、コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出して、
 キリスト教を公認した。
323年、仁徳天皇が、社会資本整備事業になる『茨田堤』
 を築いた。
  これは、江戸時代以前の主な社会資本整備事業である。
324年、キリスト教がローマ帝国の国教となった。
325年、キリスト教の最高の会議の「ニカイア公会議」が
 開かれた。相変わらず揉(も)めにもめた。
  「イエスは人か?または、神か?」と。
  色々な話で揉めたが、「ニカイア信条」をまとめた。
  その信条の中に、「(イエスは)聖書に従い三日目に
 よみがえり・・」と書いた。
  イエスが刑死した時は、まだ、キリスト教の聖書はこ
 れだと決まっていないのにである。
  たとえ、聖書があったとしても、その聖書にイエスが
 従ったとは?そして、聖書に従って復活行為をしたとは?
  キリスト教の神が無視されている。
326年、コンスタンティヌス帝によって、サン・ピエトロ
 聖堂が建てられた。
330年、コンスタンチノーブルへ遷都。
  コンスタンティヌス帝が、ローマを見捨てて、コンス
 タンティノーブルに遷都する。
  度々の火事に見舞われた。
  ローマは、すっかり寂(さび)れていった。
4世紀半ば、この頃、大和朝廷が統一された。
351年、キリスト教のアウグスチヌスが生まれた。
  彼の時代は、ゲルマン人の侵入の時代だった。
  人々は狼狽した。
  そのような時代であったため、キリスト教会が、理想
 的な神の国の様に民には見えた。
  地上的な王国との中間に介在して、地上の国家に神の
 国をなし得る限り実現させていく導きとなることを祈っ
 た。
  アウグスチヌスは、崩壊していくローマ帝国を、信仰
 によって超越したいとした。
  しかし、彼の願いもむなしく、キリスト教の聖として
 の彼も、時代の流れに抗する事は出来なかった。
367年、百済が、初めて日本に使節を送った。
367年、倭国が、百済の求めに応じて朝鮮半島に出兵した。
  百済と通交し、任那を領有した。(日本府を成立させ
 たか?)
367年、百済王が、倭王に石上神宮七支刀を送った。石上
 神宮は物部氏の氏神である。
374年、好太王が生まれた(374年~412年)
375年、ゲルマン民族大移動。
  フン族の攻撃に押されて逃げ延びようとしたゲルマン
 人の一派である西ゴート族が南下、
  ドナウ川を越えし、ローマ帝国領を脅かしたことが移
 動の始まりとされている。
  多数の移動は、侵略的であったり、平和的に行われる
 こともあったが、原因として他民族の圧迫や気候変動、
 それらに伴う経済構造の変化がある。
  4世紀~5世紀にかけて、ヨーロッパと北アフリカで起
 きた。
  ゲルマン人の侵入によって、キリスト教も大きく影響
 を受けた。
  ゲルマン民族の土俗信仰が、たっぷり染み込んだ。
  キリスト教は、この事例だけでなく、他宗教の真似を
 したり、取り入れたりと、変質の激しい宗教である。
378年、アドリアノープルの戦いでローマ帝国軍は敗退し、
 ウァレンス帝が戦死する事態に追い込まれる。
  以後、ゲルマン系諸民族が、他の勢力と共に各地の領
 土を切り取って、国家を形成していく。
391年、高句麗の好太王が即位した(391年~412年)
391年、日本軍が朝鮮半島に出兵し、高句麗などと戦った。
  百済や新羅を従えた(好太王碑)。
  この石碑は、現在、中国の鴨緑江流域に置かれている。
392年、テオドシウス帝が、キリスト教をローマ帝国の国
 教とした。
  統治のために利用したいとした。
  崩壊寸前の国を救いたいと思った。
  また、キリスト教とユダヤ教の対立があった。
  しかし、、国教とした年から、わずか3年後の395年に
 は、ローマ帝国は、東西に分裂してしまった。
  そしてまた、このイタリアの地は、ゲルマン民族の大
 移動にさらされた。
  東ローマ帝国は、しっかり守り、無事だったが、
  西ローマ帝国は、その81年後の476年に滅亡してしま
 った。
  ゲルマン民族やケルト民族が、原住民として住んでい
 たガリア地方は、辺境の地で、無文字の社会だった。
  移動して来た民と民族は混在した。
  ゲルマン人は無文字社会であったが、ラテン語を公用
 語とした(キリスト教もラテン語を重要視している)。
  ゲルマン人は、あちこちに移動し、混血した。
  ローマ人とも混住した。
  ローマ人に軽蔑されながら、ローマ人を支配した。
  ローマのキリスト教司教たちは、長い髪のゲルマン人
 の群れの間に座り、ゲルマン語を耳にするのを我慢する
 のが嫌(いや)だった。
  軽蔑感をあらわにした資料が、現在に残っている。
  しかし、ローマ人も、ゲルマン人のもとで平和を求め
 た。
  ゲルマン人は善政を敷いた。
  そして、ローマ文化を吸収した。
  ローマの貨幣を用い、地中海貿易を行った。
395年、ローマ帝国が東西に分裂した。
  奴隷制農業から小作制への社会基盤の変化は、軍人皇
 帝時代の混乱をもたらした。
  後期帝政も大帝国を維持できず、395年に東西に分裂
 した。
395年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国):ローマ帝国の
 分裂により成立した国。
  ビザンチウム(コンスタンチノーブル)を首都とした
 のでこの名がある。
  395年に始まり、1453年にオスマン・トルコにより滅
 んだ。
  イスラム勢力と常に緊張関係にあり、領土は次第に縮
 小した。
  後には、首都周辺のみとなったが、海軍力によって東
 地中海の商圏は維持した。
  ローマ帝国の伝統を保ち、皇帝教皇主義、ギリシャ正
 教、ビザンチン芸術など独自の形成に貢献した。
  帝政末期には、多数の学者・文人が西ヨーロッパに亡
 命し、ルネッサンス期の古典学の発達に寄与した。
397年、キリスト教聖書が現在の形の様に整(ととの)え
 られ、決定された。
  これまでの約400年間は、キリスト教は聖典の無い年
 月を過ごした。
  イエスは、アラム語を話した。そのイエスのアラム語
 が翻訳されている訳ではない。
  また、各語への翻訳による齟齬が発生している。
  旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻。
  仏教経典から見るとささやかな経典となっている。
400年、ポリネシア人がイースター島に400年~500年頃に
 渡って来た事がほぼ認められている。
400年代(5世紀)、中国を代表する仏教遺跡で、世界遺産
 に登録されている雲岡(うんこう)石窟は、北魏が、5世
 紀に造営した仏教寺院で、東西1キロにわたって多数の石
 窟がある。
5世紀、楼蘭は、タクラマカン砂漠の東端に位置し、東西
 交通の要衝として栄えたオアシス国家。
  5世紀に忽然と姿を消した。
  紀元前176年に歴史上にその名を現した。
5世紀、この頃の日本の事が、中国の歴史書「宋書倭国伝」
 に記されている。
5世紀、渡来人が漢字や技術などを伝えた。
404年、倭軍が、帯方の地域で高句麗の好太王の軍と戦っ
 た。
412年、好太王が没した(374年~412年)
413年、この年以後、しばしば中国に遣使する。倭の五王。
421年、倭王讃が、江南の宋朝に朝貢する。
427年、高句麗が、都城を平壌に移す。
430年、宋に朝貢した。
5世紀前半から半ば、この頃、仁徳天皇陵(486メートル)
 が築造され、古墳文化が栄えたが、
  エジプトのピラミッドの最大のクフ王のピラミッド(
 231メートル)より大きく、
  また、中国の秦の始皇帝の墳墓(350メートル)より
 も大きい。
  日本人のスケール感が大きいことを表す1例である。
  半導体産業で、日本の技術が、世界を席巻していた頃、
  韓国の学者が、「日本人は小型のもの、微小なもの、
 繊細なものを開発するのが得意だ」と言ったが、
  この言葉は、決して、日本人をほめる趣旨で発言され
たものではなかった。
  日本人の特性として「縮(ちぢ)み志向」であるとい
 う意味で言われたものだった。
  かなり、このマインドコントロールは、日本及び日本
 人に定着し、洗脳されている。
  日本人は、昔から優秀なのであり、
  韓国学者が、言う様な「縮み志向」の資質の国民でも
 ない。
  あの古代に、制振技術を組み込んだ五重塔は、今・現
 代でも、脚光を浴びている
  あの時代に、この様な高層建築を、それも、全国のあ
 ちこちに、普通の、ふだんの技術の様に、駆使して、使
 い切って、塔を建てている。
  この様な事例は、日本には、いろいろ、あまたある。
  五重塔の芯柱が、制振の挙動をするように、取り付け
 た、斬新な技術は、今・現代においても驚嘆に値する。
  何百年も、さかのぼった時代であった事を、さらに誇
 るべぎである。
  技術だけでなく、日本の文化も、奥深く、誇るべきで
 ある。
 因みに、この技術の考え方は、何と、1993年に建てられ
た、横浜みとみらい21の中核を担っている超高層ビルに、
今・現在、使われています。
 このビルは、70階建て、高さ296.33メートルで、建設
当時日本一高いビル、今、第2位のビルです。
  能楽、茶の湯、生け花、水墨山水画、回遊式庭園、枯
 山水、書院造りなどなど、例をあげるいとまもない。
  仏像群の奥深さも、現代美術のロダンをしのぐ、世界
 で、これらに比肩できる彫刻群は、ギリシャ古典世界以
 外には存在しない。
  勿論、中国にも、朝鮮にも、アメリカにも、イギリス
 にもない。これ等の国に、これだけの世界は作れていな
 い。
451年、アッチラの率いるフン族は、ライン川を渡り、ガ
 リアに侵入し、オルレアンを包囲した。
  西ローマの将軍アエチウスは、ゲルマン諸族の軍と共
 にこれを討ち、今の北フランスのシャロン付近のカタラ
 ウヌムの野で大決戦をした。
452年、フン族がイタリア侵入と共に、色々な民族がヨー
 ロッパへ侵入した。
  匈奴と呼ばれるフン族は、インドや中国へも侵入した。
475年、高句麗が、漢江流域の漢山城の王都をおく百済を
 陥れた。百済は、都を熊津に移した。
476年、西ローマ帝国が滅亡した。
478年、倭王武(わおうぶ、雄略天皇)が、宋の順帝(南
 朝)に遣いを送り、上表文を呈した。
  倭王武は、順帝から安東将軍の叙爵を受けた。
480年(5世紀後半)、キリスト教の「アタナシオス信条」
 ができた。
486年、フランク王国が建設された。
500年、この頃、達磨という、インドの仏教徒が、中国で
 禅宗を広めた。
  修行で9年間も座禅を組み、悟りを開いたという。
..
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(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年~300年)

 題:(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年~300年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元0年、世界人口が2億5000万人になった。
紀元7年、イエスが11歳と言われているこの時、イスラエル
 の民が、ローマによって滅ぼされる。流浪の民となる。
紀元28年、後漢の明帝が生まれた(28年~75年)。
  この頃、中国に仏教が伝わった。
  明帝は、インドから来た僧のために洛陽の西郊に白馬
 寺を建てた。
  これが中国仏教の始まりとされる。
30年頃、イエス、処刑される。
37年、高句麗の王が、使いを後漢朝に送る。前年に、高句
 麗が、東沃を伐つ。
45年、インドにクシャナ朝が興った。
50年頃~100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書(新
 約聖書と言われている)が書かれた。
1世紀頃、ヒッパロス(エジプト)がインド洋において、季
 節風を組織的に利用した。
54年、ネロがローマ皇帝となった。
57年、倭の奴国(なこく)の国王が後漢王朝に使いを送り、
 光武帝より金印を受けた(漢委奴国王印)。
64年、皇帝ネロがキリスト教徒を迫害した。
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。
  ペテロはイエスの第一の弟子、ネロの迫害による。
  このペトロの墓の上に、サン・ピエトロ寺院が建てら
 れた。
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。
67年、仏教が中国に伝わった(一説では紀元前2年)
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃
 え続けた。
  その日が放火ではないかという噂が市民の中に広がっ
 た。ネロ帝はキリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。
  神殿は焼け落ちた。
  城壁を徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくな
 るほど市街を壊した。
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。
  ユダヤ国家は滅んだ。
  ユダヤ民族は離散の憂き目にあった。以後、1948年の
 ユダヤ国家建設されるまで1875年の月日が流れた。
79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が爆発し、翌25日にポン
 ペイが埋没した。
100年、インドネシア:1~2世紀に青銅器文明が栄えた。
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物語
 が生まれ、殉教文学として流布された。
100年代~200年代(2~3世紀)、日本列島を含めた東
 アジア一帯に民族大移動が起きた。
  それは、気候の寒冷化が関係していた。
  この頃、中国では、寒さから飢饉や疫病が流行し、紀
 元184年に「黄巾の乱」と言う農民の大反乱が起き、
  後漢が、220年に倒れ、三国時代に入った。
  朝鮮半島でも、韓民族の軍勢が、漢の出先機関を攻め
 ると言った戦乱が続く。
  邪馬台国の女王・卑弥呼が、中国の歴史書に登場する
 のは、ちょうど3世紀のこの時期。
  「魏志倭人伝」によると、日本では小国が乱立して
 「倭国の大乱」が起こり、邪馬台国が30余りの国を統合
 したことになっている。
  邪馬台国の位置について次の説がある。
  「全国的に飢饉が見舞った江戸時代の小氷河期に、近
 畿地方も大きな打撃を受けたが、九州だけは影響が少な
 かった。
  そこから類推して、3世紀の同じ様な小氷河期にも、
 30もの国をまとめて、経済活動が活発に行える大国が、
 寒さのきつい近畿地方の存在できたとは思えない。
  邪馬台国は、九州にあったと考えられる。
103年、セルジューク朝トルコ:103年~1157年。
  西アジアで、イスラム化したセルジューク・トルコ族
 は、トグリル・ベグの時、1055年、バクダッドを占領し、
 シーア派のブワイフ朝を倒し、スンニ派カリフの保護者
 としてスルタンの称号を与えられた。
  ここに、トルコ人が、イスラム世界の担い手として登
 場した。
  アルブ・アルスランの時、東ローマ帝国と戦い、皇帝
 を捕虜にし、次いで、エルサレムを支配したので、これ
 が十字軍の一因となった。
  この業績は、宰相ニザーム・アル・ムルクに帰せられ
 るが、彼は、また、各地にニザーミア学院を設立し、こ
 の学校(マドラッサ)が、イラン・イスラム学芸の隆盛
 をもたらした。
  イスラム哲学の大成功者ガッザーリ(ヨーロッパ名は
 アルガゼル)が迎えられて、バクダッドの学院で教え、
 また、オマル・ハイヤー村の逸材を育んだ。
105年、紙が中国で発明された。
107年、倭の王・師升の後漢との外交。
166年、ローマ皇帝(マルクス=アウレリウス)の使いが
 中国に至った。
184年、中国に黄巾の乱が起きた。農民の大反乱。
  この頃、中国では寒さから飢饉や疫病が流行した。
188年、後漢の桓帝・霊帝の間(147年~188年)、倭国が
 大いに乱れ、ついに卑弥呼を立てて王とする。
189年、この頃か?卑弥呼が邪馬台国の女王となったとの説。
190年、この頃の2世紀後半、「桓霊(かんれい)の間」と
 いう倭国に大乱が起こった。
3世紀頃、この頃の日本は、邪馬台国を中心とした30ほど
 の小国の連合体が生まれていた。
  支配者層:大人(たいしん)、被支配者層:下戸(げ
 こ)と呼ばれていた。
200年、シルクロード。
  中国の敦煌からタリム盆地地方を横切り、パミール高
 原を越えて、シリア・エジプトに達するこの道は、絹の
 道(シルクロード)と言われる。
  中国からは、主に、絹布(シルク)・青銅器・漆器な
 どを西方へ運び、
  ローマ方面からは、ガラス器などが中国へ運ばれた。
  3世紀から、5世紀には、イランの発達した工芸品が、
 この道を経由して中国に入り、
  さらに、8世紀には日本の正倉院まで至っている。
200年、マヤ文明:マヤ文明の栄えたユカタン半島とペテ
 ン低地は、熱帯性の気候でトウモロコシの焼畑農耕に依
 存していた。
  黒曜石を用いて石灰岩を切り出し、壮大なピラミッド
 などの建築物を構築し、古典期(3世紀~9世紀)には、
 ペテン地方を中心に多くの都市が興隆した。
  建築・碑石・翡翠細工・土器などに優れた芸術作品を
 残し、象形文字・暦法・天文学においても新大陸随一の
 発達を遂げた。
200年代初頭頃(3世紀初頭頃)、この頃、キリスト教の
 「使徒信条」の原形が、出来たと言われている。
  出来たこの時期が、まだ、キリスト教の神が「三位一
 体神」ではないので、「全能の父なる神」となっている。
  この全能の父なる神が、後に出来た三位一体神の位格
 の神という神の一部を形成する神になってしまう。
  キリスト教は多神教である。
  この「全能の父なる神」の一神教から変わる。
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あら
 ゆる階層にキリスト教は浸透して行く。
  宮廷から貧民窟まで、大都市から僻地へと広まり、帝
 国末期の殺伐な人心と荒廃した経済事情の中で拡大した。
  ヨーロッパの基本を決めているのは「キリスト教」と
 「古代ギリシャ精神」であると言い、
  そして、使用文字はアルファベットであると鼻高々と
 言うが、
  「キリスト教」も「アルファベット」も西アジアが生
 み出したものである。
  さらに、ヨーロッパ人は、古代ギリシャの子孫でも何
 でもない。
  ヨーロッパの基本要素に起源のあるものはほとんどな
 い。
  そうであるにもかかわらず、キリスト教の有色人種蔑
 視の教義に洗脳され、世界や異教徒を睥睨(へいげい)
 して来た。
208年、赤壁の戦いが起きた。
220年、中国の後漢が倒れ、三国時代(魏・蜀・呉)~280
 年。魏の都は洛陽。
226年、ササン朝ペルシャが興った。ササン朝ペルシャ(
 226年~651年)。ササン朝は、ローマ帝国・東ローマ
 帝国と争ったが、またその文化を東方に伝えた。
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。
  全長62mの古墳時代最初期と見られている墳墓である。
239年、邪馬台国の女王・卑弥呼が帯方郡(たいほうぐん)
 に難升米(なしめ)という遣いを送った。
  そして後、魏の都の洛陽に至る。
  魏志倭人伝には、卑弥呼は「鬼道(シャーマニズムの
 こと)に事え能く衆を惑わす」とある。
  帯方郡は今のソウル付近にあった。
  魏の明帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」
 の称号を与え、金印紫綬を授けた。
  また、銅鏡も授かった。
239年、この頃、古墳が造られ始めた。
  また、大和朝廷が日本を統一した。
243年、卑弥呼が中国の王に物を贈った。
245年、中国の斎王が倭国使に物を賜った。
247年、倭女王の卑弥呼が狗奴国王(くな)の卑弥弓呼と
 争った。
250年、邪馬台国の卑弥呼が死んだ? この頃より「古墳
 文化」が起こった。
250年~300年、キリスト教への迫害。
266年、倭女王の台与(とよ)(壱与?)が西晋(せいし
 ん)に遣いを送った。
266年、(別資料に)卑弥呼の宗女・壱与が、中国に使者
 を派遣した。
266年、(また、別資料に)倭国の女王、晋に朝貢する。
280年、晋が中国を統一した。
3世紀後半~4世紀初め、(読売新聞、2015・1・30)に、
  邪馬台国の有力候補地である奈良県桜井市の纏向(ま
 きむく)遺跡で、
  3世紀後半から4世紀初めの、占いに使われたとみられ
 るイノシシの骨「卜骨(ぼつこつ」が出土した。
  国家的な祭祀(さいし)になっていたと考えられてい
 る。
  骨は、イノシシの右肩甲骨(長さ16.7センチ、最大幅
 6.7センチ)で、深さ約1メートルから出土した。
  3世紀後半は、大和国の女王で祭祀をつかさどったと
 される卑弥呼の後継者・台与(とよ)時代。
300年代(4世紀)、キリスト教の「ニカイア信条」がで
 きた。
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2015年2月5日木曜日

(増補版)9A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200年~紀元0年)

 題:(増補版)9A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200年~紀元0年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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紀元前200年代(紀元前3世紀)、この頃の縄文時代の終わ
 りから、歴史時代が始まる紀元700年頃までの1000年間
 に、人口が500万人も増えた。
  この人口爆発は、自然増だけでは説明がつかない。
  この頃の農耕民の人口増加率は、平均0.1パーセント
 程度。
  最高でも、0.2パーセントくらい。
  これ等から、1年あたりの渡来人の数は千数百人と考
 えれれる。
  四角い輪郭に、彫りの深い顔の、小柄な土着の縄文人
 に対して、
  渡来した大陸系の人たちは、細面で鼻が低く、背が高
 かった。
  日本人は、この二種類の人たちが混血してできている。
  現代人の頭骨を再調査して、統計処理してみると、
  全体からみると、近畿人の骨の方が、むしろ異質な形
 態で、渡来人の影響が濃厚である。
  平均的な日本人は、北陸人で、古いタイプの縄文人の
 形質を残している。
  アイヌの対極に、近畿人が位置している。
  何故、大陸の人たちは、日本を目指したのか?
  弥生時代の、紀元前3世紀~紀元後3世紀頃は、中国で
 は動乱の秦・漢・三国時代にあたる。
  秦の始皇帝の時代に、徐福という人物が、少年少女
 3000人を連れ、不老不死の薬を求めて東海の島を目指
 したという伝説が「史記」にあるが、
  日本にも、紀伊・熊野や丹後などに、徐福伝説が残っ
 ている。
  この時代の中国は、黄河流域や、河口に、人口が集中
 して、周辺の異民族から絶えず脅かされていた。
  戦乱や大飢饉が起こればボートピープルが大量に出た。
  彼等にとって、日本列島は、稲作に適した低湿地が手
 つかずに広がるフロンティアだった。
紀元前200年、(朝日新聞、平成7年7月26日)によれば、
  佛陀(ブッダ)の生誕地として知られるネパールのル
 ンビニの仏教遺跡から、
  約2200年前の仏教建築らしいレンガ遺構層が発見さ
 れた。
  また、その中から大きな平石が出土した。
  日本とネパールの合同発掘調査団は、「この石こそ
 佛陀誕生の地点を特定するためアショーカ王が置かせ
 た目印の石。仏教史上、画期的な発見だ」という。
  断定には、慎重な立場の研究者もいるが、仏陀の時代
 にせまる発掘として古代へのロマンが広がった。
  平石は、横70センチメートル、縦40センチメートル、
 厚さ10センチメートルの砂礫岩。
  文字などを刻んだ跡はない。
  マヤ堂の中心部を南北21メートル、東西26メートルに
 わたって垂直に掘り下げたところ、
  地下約2メートルの所から出土した。
  石を保護する様に、マウリア王朝独特の大型レンガの
 レンガ基壇が配置されていた。
  基壇には、15の箱形の穴があり、そこからは佛陀時代
 から流通していたとされる銀貨「パンチマーク・コイン」
 や青銅貨が数枚、さらに、マウリア王朝独特の「北方黒
 色研磨土器」が10数個見つかった。
  仏教に帰依したアショーカ王の行動を伝える経典「ア
 ショーカ王伝」には、ルンビニを訪れた王は、王師から、
 「この場所が佛陀が誕生された地点です」と聞き、その
 場所にひれ伏したとある。
  マヤ堂のすぐそばに立つアショーカ王柱には、王の
 訪問を記念して「ここの王柱と石さく(もしくは石板)
 を建てた」という古いブラフミ文字で刻まれている。
  佛陀の入滅は、紀元前383年、紀元前485年など諸説
 ある。
  アショーカ王は、インド最初の統一王国のマウリア王
 朝で熱心に仏教を広め、紀元前249年にルンビニを訪れ
 たとされる。
  王柱には、「王は即位20年を経た年に、自らここに来
 て崇拝した。ここで佛陀が生誕されたからだ。そこで、
 石さくを造り、石柱を建立した」などと刻まれている。
  王柱のすぐ東側にあるマヤ堂は、時代ごとに改築され、
 最終的には19世紀に改築された。
  因みに、仏教遺跡が書物や言い伝え通りに遺跡が出る
 事にキリスト教研究者が驚いている。キリスト教の遺跡
 発掘は空振りになる事例の連続だと言う。
紀元前195年、劉邦(りゅうほう)が没した(紀元前247年
 ~紀元前195年)
紀元前190年、マグネシアの戦いが起きた。
紀元前189年、武帝が生まれた(紀元前189年~紀元前
 159年)
紀元前176年、楼蘭(ろうらん)は、タクラマカン砂漠の
 東端に位置し、東西交通の要衝として栄えたオアシス国
 家。
  紀元前176年に歴史上にその名をあらわし、5世紀に忽
 然と姿を消した。
  「楼蘭の美女」と言うミイラが平成4年9月に日本に来
 たが、このミイラは1980年に発見された約4000年前の
 女性のミイラ。
紀元前159年、武帝が没した(紀元前189年~紀元前159年)
紀元前150年頃、正距円錐図法などを考案したプトレマイ
 オスの世界図が作られた。
紀元前146年、カルタゴ滅亡。ポエニ戦争で、カルタゴが、
 ローマに敗れ、滅亡した。
紀元前111年、ユグルタ戦争が起きた。
紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮に楽浪郡など4郡を設置
 した。楽浪郡はピョンヤン(平壌)の付近にあった。
紀元前107年、倭国王・師升(すいしょう)が後漢書東夷伝
 に登場する。
紀元前2世紀頃~紀元前3世紀頃、水稲耕作、鉄などの金属
 器が中国や朝鮮から伝えられた。
  特に、5世紀から6世紀頃に伝来した漢字・仏教・儒教
 は、その後の日本人の精神に大きな影響を与えている。
紀元前2世紀、韓嬰(中国)が初めて雪の六弁(六方晶形)
 なることを指摘した。
紀元前2世紀、この頃より地図がより正確さを増してきた。
  アレクサンドリアの天文学者プトレマイオスが、正距
 円錐図法で経緯方向の距離を正しく表すことに成功した。
紀元前2世紀、オリエントに起源をもつと思われる羊皮紙が
 すでに用いられていた。
紀元前2世紀、ベトナム:この頃に漢帝国の領土に入れられ、
 その後、長年、中国の支配下にあった。
紀元前100年、倭国は、100余りの国に分かれていた。
紀元前100年頃、銅鐸に、シカ・イノシシ・水鳥類・カメ
 類・トンボなどを描かれている。
紀元前100年頃、旧約聖書が完成した。
  紀元前1100年頃から書き始めたものの完成、旧約聖書
 39巻が書き終えた。それまでは、口伝承であった。
紀元前100年頃、シーザーが生まれた(紀元前100年頃~
 紀元44年)
紀元前65年、紙が中国で発明された。
  中国の古い歴史の本に、西暦105年に、倫と言う人が
 ぼろ布をドロに溶かして作ったという記録がある。
  しかし、最近の研究では、それより170年も前(紀元前
 65年)から作られていたという事が分かった。
紀元前63年に、ローマの将軍・ポンペイウスによってエル
 サレムは占領された。ローマの傀儡(かいらい)政権の
 下の政治となる。
紀元前1世紀半ば、匈奴:東匈奴は、紀元前1世紀半ばに、
 さらに南北匈奴に分裂し衰微した。
紀元前58年、シーザーがガリアを征服した。
紀元前57年、後漢書東夷伝によると、北部九州の奴の国の
 王が、紀元前57年に使者を派遣し、金印を授けられたと
 ある。
  奴国王が、後漢(都は洛陽)の光武帝より授けられた
 金印には漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の文字
 が刻まれている。
  奴国は、福岡市付近にあった一小国と推定されている。
  須玖遺跡が、奴国の遺跡と考えられている。
  金印の上部の突起の形は蛇を表現している。
紀元前54年、匈奴:一大騎馬民族国家を打ち立て、秦や漢
 を脅かしたが、やがて東西に分裂し(紀元前54年)、西
 匈奴は、間もなく滅んだ。
紀元前53年、ガレーの戦いが起きた。
紀元前53年、パルティア戦争が起きた。
紀元前50年、古代ローマの征服事業がライン川に達する。
 軍を率いるカエサルは「ガリア戦記」を記した。
紀元前1世紀、日本の事が書かれている中国最古の史書「
 漢書地理志」(著者:班固・はんこ)には、紀元前1世
 紀のことが記されている。
紀元前1世紀、ローマ法:古代ローマ人の最大の文化遺産
 となっている。
  ローマ法には本来、ローマ市民の市民法と、外国人の
 ための万民法があったが、紀元前1世紀はじめに同盟市
 の自由人に、また3世紀には帝国内の全自由人に、市民
 権を拡大付与したので、市民法は万民法と一体化した。
  ヘレニズム世界の自然法思想。
紀元前1世紀、テオティワカン文化:
  テオティワカンは、メキシコ市の北東50キロにある紀
 元前1世紀~紀元7世紀の大遺跡。
  広さ18平方キロメートル。
  公共建築物と住居が整然と並び、最盛期(6世紀)の
 人口は10万人に達した。
  壁や石彫には宗教色が濃く、建築様式、高原品は、信
 仰の伝播と交易を通じて広範な地域に広まっている。
  経済的基礎はトウモロコシの集約的栽培と交易。
紀元前44年、ケザール(シーザー)が没した(紀元前100
 年頃~紀元前44年)
紀元前27年、ローマ帝国:共和政末期の粉乱の後、紀元前
 27年アウグスツスの帝政とともに成立した。
  すでに、地中海全域に広がった大領主を有効に支配す
 るための独裁体制であった。
  以後、五賢帝時代までの2世紀間、「ローマの平和」
 の下で帝国の細胞である多数の都市の市民は平和を享受
 した。
紀元前10年頃、紀元前以前に黒海北岸に建国されたスキタ
 イ人の文化は、金属文化を中心としていた。
紀元前4年、イエスが、この年に、生まれたとされている。
  紀元前7年の説もある。
  また、以前は、紀元0年とされていた。この様に、イエ
 ス誕生は確証は無い。
  イエス自体が、存在証明のできない状態となっている。
  12月25日の生誕日も、古代の他の宗教の祭日を借りた
 だけ。
..
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2015年2月4日水曜日

(増補版)8A:気になった事柄を集めた年表(紀元前500年~紀元前200年)

 題:(増補版)8A:気になった事柄を集めた年表(紀元前500年~紀元前200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前500年、この時期、縄文人の中で何とか食っていけ
 たのは、サケ・マスの豊富な東北地方の一部の縄文人だ
 った。
紀元前6世紀、この頃、小アジアのリディア王国の最初の王
 クロイソスが金貨と銀貨を鋳造した。
  それまでは、エレクトロン(金と銀の自然合金)貨幣
 で、このクロイソスの貨幣は、鋳造貨幣の最初と言われる。
紀元前6世紀、幾何学者・ピタゴラスは大地が球形と考えた。
  その根拠は、彼の宗教的信念。
  大地が、神の創造物である以上、幾何学的に完全な形
 =球体でなくてはならないと考えた。
   古代の人たちは、世界は平らな大地だと考えていた。
紀元前6世紀、ポリス:中産市民による重装歩兵制が確立し、
 ペルシャ戦争後、民主制が発展した。
  しかし、奴隷制社会であり、民会に出席する成年男子
 以外の女性や在留外人には権利が無かった。
  ポリス間の戦いによって衰えた。
紀元前6世紀、カースト制度:インドの階級制度。
  紀元前6世紀頃、時の支配者バラモンは王と結び、当時
 すでに階層化しつつあったバラモン(祭り、知識層)、
 クシャトリヤ(王族)、バイシャ(庶民)、シュードラ
 (隷民)の4バルナを軸とする身分体制の確立を図った。
  この体制の本質は、バルナによる職業の世襲と同一バ
 ルナ同士の婚姻にあった。
  その後、次々に部族や職業や祖先を同じくする様々な
 集団が、この体制下に入り、
  また、新たに浄・不浄の観念が身分関係に持ち込まれ
 るに及んで、複雑で閉鎖的なカースト体制へと変貌して
 いき、現在、カーストの数は3000を越える。
  カースト制度は、一定の時期、経済活動と社会の安定に
 貢献したが、閉鎖性が根強く、今日、インドの発展にと
 って大きな壁となっている。
紀元前485年、釈迦(ブッダ)の入滅は、紀元前383年や
 紀元前485年など諸説がある。
  「ブッダ」というのは、「目覚めた人」と言う意味で、
  仏教を起こしたゴータマ=シッダールダが、悟りを開
 いてから付けられた尊称である。
  紀元前463年(一説に紀元前560年)頃、現在のネパ
 ール地方のカピラ町に釈迦族の王子として生まれた。
  生後間もなく母を亡くし、叔母に育てられた。
  16歳で妃を迎え、一子をもうけた。
  しかし、恵まれた生活の中でも、次第に人生の苦悩を
 深く感じるようになって、29歳の時、妻子を残して秘か
 に出家した。
  6年間に及ぶ苦行の後、菩提樹のもとで、想して悟りを
 開き、仏陀となった。
  以後、80歳で没するまで、教化の旅を続けた。
  ブッダは、現実の世が苦しみである事、苦しみを離れ
 たところに安らぎがあること、安らぎの世界に達するに
 は、欲望を制御し、正しい実践を行わなければならない
 ことを説いた。
  更にまた、我欲を去り、すべての生き物への愛に生き
 るべきことを説いた。
紀元前480年頃、ヘロドトスが生まれた(紀元前480年頃~
 紀元前420年頃)
紀元前479年、孔子が没した(紀元前551年~紀元前479年)
紀元前479年~紀元前500年、ペルシャ戦争が起きた。
紀元前469年、ソクラテス(紀元前469年~紀元前399年)。
  古代ギリシャの最大の都市国家ポリスであるアテネで
 生まれた。
  父は彫刻師、母は助産婦であったと言われている。
紀元前431年~紀元前404年、ペロポネソス戦争が起きた。
  この戦争で、それまで繁栄を誇っていたアテネも衰亡
 へ向かった。
  アテネの人心は動揺し、政治は腐敗し、ポリスとして
 の秩序も危機にさらされることになった。
  ソクラテスが、哲学者として、祖国アテネを救おうと
 したのは、こうした時であった。
  ソクラテスによれば、善を行う能力(徳)を身に付け
 るためには、「何が良き生き方であるか」の根本知を正
 しく知らなければならないとした。
  ソクラテスは、アテネ市民に向かって、金銭や名誉を
 求めるよりも、知を愛し、市民として正しく生きるよう
 訴えた。
  しかし、当時すでに、退廃と堕落の程を深めていた市
 民は、ソクラテスの真意を理解できず、かえって市民を
 惑わすものとして、ソクラテスを告訴した。
  死刑の判決を受けたソクラテスは、国外逃亡を勧める
 弟子たちの計らいを拒否し、弟子たちの見守る中で毒盃
 をあおぎ、この世を去った。70歳であった。
紀元前429年頃、ピタゴラスが没した(紀元前572年頃~
 紀元前429年頃)
紀元前427年、プラトンが生まれた(紀元前427年~紀元前
 347年)
紀元前420年頃、ヘロドトスが没した(紀元前480年頃~
 紀元前420年頃)
紀元前403年~紀元前221年、春秋戦国時代:戦国時代に
 は韓、魏、趙、秦など7強国が並び立ち、これを戦国の
 7雄と呼ぶ。
  春秋戦国時代は、古代統一帝国形成の準備期間として
 重要であり、鉄製農具の使用、牛耕、水利灌漑などの生
 産技術の飛躍的な発展があり、
  農業、商業が栄え社会が激変した。
  この混乱の時代を秩序付けるよりどころとして、諸子
 百家が、様々な思想を提供した。
  秦は、法家思想を採用して、国力を強め、最初の古代
 統一帝国を建設した。
  諸子百家:春秋時代末期から戦国時代にかけて現れた
 思想家群。
  儒家、道家、法家、墨家、陰陽家、縦横家、農家、名
 家など。
  儒家は、家族愛を社会に広げる「仁」を説き、
  道家は、宇宙の根本原理「道」に基づく無為自然を説
 いた。
  法家は、法による君主政治を、
  墨家は、儒家の仁を否定して、兼愛(平等な愛)、非
 攻(戦争否定)などを主張した。
  漢代には、儒家思想が採用され、
  以後、儒教は、中国の国家思想となった。
  道家思想は、民衆に浸透し、後に、道教が成立した。
紀元前5世紀、ヒポクラテス(ギリシャ)が気象と疾病の
 関係を論じた。
紀元前5世紀、この頃、インドに興った仏教も、シルクロ
 ードを通り、紀元前1世紀に中国、6世紀には日本に伝え
 られた。
紀元前5世紀頃、騎馬民族:騎馬民族は、紀元前5世紀頃に
 文明帝国をほとんど撃滅し、以後、長年(いわゆる中世
 の間)ユーラシアの政治・軍事的指導権を掌握していた。
紀元前400~500年頃、旧約聖書の編集が始まる。
紀元前399年、ソクラテスが没した(紀元前469年頃~紀
 元前399年)
紀元前395年、コリント戦争が起きた。
紀元前384年~322年、アリストテレス。62歳。
紀元前350年頃、アリストテレスが地球の球体を説明した。
紀元前4世紀半ば、ポリス:この頃、ポリスがマケドニアに
 併合され、歴史的な役割は終わった。
紀元前347年、プラトンが没した(紀元前427年~紀元前
 347年)
紀元前343年、サムニウム戦争が起きた。
紀元前335年~紀元前35年頃、この300年間ぐらいを「ヘ
 レニズム時代」という。
  古典ギリシャ時代が終わり、ローマ時代が開始される
 までの頃である。
  この時代は、知的発見が相次ぎ、数学や天文学が特に
 発展した。
紀元前335年、アリストテレスの学校「リュケイオン」が
 創設された。
  この頃より、約100年間、偉大な知的発見の時代が続
 いた。
  16世紀の時代が来るまで、人類は、この知的レベルを
 超える事が出来なかった。
  キリスト教が形成されていった時代というのが、この
 知的レベルが低い時代に形成されている。
紀元前334年~紀元前324年、アレキサンダー大王(アレキ
 サンドロス3世)の東方遠征(ペルシャやインドなど)。
紀元前330年に、ペルシャが、マケドニア・ギリシャのア
 レクサンドロス大王に滅ぼされた。
紀元前330年、ヘレニズム:19世紀のドイツの歴史家ドロ
 イゼンの造語。
  アレキサンドロスのアケメネス・ペルシャ征服(紀元
 前330年)により出現した。
  オリエント文化と融合したギリシャ文化。
  公用語としてのコイネの普及、世界市民理念の成立、
 自然科学の発達を特色とする。
紀元前330年頃、ユーグリッドが生まれた(紀元前330年
 頃~紀元前275年頃)
紀元前323年、アレキサンダー大王の死。
紀元前317年、マウリヤ王朝:この頃、チャンドラグプタ
 によってマガタ王国の地に建てられたインド最初の古代
 統一帝国。
  アレクサンドロス軍の北西インド侵入が刺激となった
 と考えられている。
  第三代アショーカ王の時、ほぼ全インドに及ぶ最大領
 域を実現した。
  アショーカ王は、仏教を帝国統治の理念とし、各地に
 摩崖や石柱の詔勅碑を建て、王子マヒンダにスリランカ
 島布教を命じるなど辺境、外国にも仏教を伝え、これに
 よって仏教は世界宗教になった。
  仏教宣教師が、キリスト教の地のパレスチナへも行っ
 ている記録がある。
  王国は、王の死後急速に衰退した。
紀元前4世紀末、匈奴:紀元前4世紀末~1世紀中頃に活躍
 した。中国の秦漢時代に当たる頃に盛んになった北方遊
 牧騎馬民族。
紀元前300年、弥生時代、米作りが中心の生活。石包丁で
 稲の穂を摘み取る。~紀元300年まで。
紀元前4世紀、アリストテレス(ギリシャ)が、「気象学」
 を著わす。世界最初の気象専門書。
紀元前300年、ユーグリッド(ギリシャ)、光の直進、反
 射の法則。
紀元前4世紀、騎馬民族、紀元前4世紀に、中国の北方でも、
 騎馬民族が活動するようになる。
  モンゴルからハンガリーにまたがる、東西に長い草原
 地帯が、彼らの活動の根拠地で、
  彼等は、常に、南方の文明国家へ侵入した。
紀元前275年~紀元前196年頃、経緯線を用いた最初の地
 図。エジプトの学者エラトスネスの世界図が作られた。
紀元前275年頃、ユーグリッドが没した(紀元前330年頃
 ~紀元前275年頃)
紀元前273年~紀元前233年、インド、アショーカ王。
紀元前272年、ローマのイタリア半島統一。
紀元前264年~紀元前146年、ポエニ戦争が起きた。
紀元前259年、秦の始皇帝が生まれた(紀元前259年~紀
 元前210年)
紀元前250年頃が中国の始皇帝陵の兵馬俑坑(へいばよう
 こう)。
紀元前250年、この頃、アルキメデス(ギリシャ)がアル
 キメデスの原理を発見した。
紀元前249年、インドのアショーカ王は、インド最初の統
 一王国の舞うリア王朝で熱心に仏教を広め、紀元前249
 年に、ルンビニを訪れたとされる。
紀元前247年、劉邦(りゅうほう)が生まれた(紀元前247
 年~紀元前195年)
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一した。
  秦漢帝国:中国最初の統一王朝秦(紀元前221年~紀
 元前206年)とその後に続く漢を合わせて秦漢帝国とい
 う。
  秦漢ともに皇帝による中央集権国家であり、官僚によ
 って治める郡県制をとった。
  秦の都は陽。前漢は長安。五巻は洛陽を都としたので、
 それぞれ西漢、東漢とも呼ばれる。
紀元前218年、第二ポエニ戦争。
紀元前215年、マケドニア戦争が起きた。
紀元前210年、秦の始皇帝が没した(紀元前259年~紀元前
 210年)
紀元前202年~喜元年、中国の前漢時代。
紀元前202年、ザマの戦い(ハンニバル敗れる)が起きた。
紀元前200年~300年頃(紀元前3世紀頃)、この頃に、ロ
 ウソクが誕生した。
紀元前200年、クムランで発見された「死海文書」に、こ
 の頃の写本が含まれている。
..
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(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年~紀元前500年)

 題:(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年~紀元前500年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前1200年、周(西周)が興る(中国)。
紀元前1200年、エーゲ文明:この頃、ミケーネ文明も新し
 く南下したギリシャ人に滅ぼされた。
  エーゲ文明とはこれら青銅文明の総称である。
紀元前1200年頃、トロイ戦争が起きる。
紀元前1200年、ギリシャにポリスが起こる。
紀元前1100年、この頃から、キリスト教の旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。~紀元前100
 年頃まで。
紀元前1200年、この頃、モーゼが、ユダヤ人を脱出させた
 とキリスト教は言うが、
  歴史研究者は、モーゼの実在を否定している。
  まったくの架空の人物なのである。
  まったくのキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)であ
 る。作られた歴史話しである。
  ユダヤ人は、飢餓と背中合わせの地の砂漠の地・パレ
 スチナに住んでいたが、飢餓になると豊かな実りの地、
 ナイル川の恵みの地・エジプトに流入していた。
  このユダヤ人が居住していたあたりは、民族が流動的
 に移動する地域でもあった。
  そもそも、先祖が、メソポタミアのチグリス・ユーフ
 ラテスの川のほとりのウルという町から、流浪の旅に出
 たのであるから。
  エジプトへのユダヤ人の流入とともに、出る事も自由
 の地(出入り自由の地)であった。
  物流も自由、出入りする商人も自由の地であった。
紀元前11世紀頃、中国の殷王朝が西方の周に滅ぼされた。
紀元前1000年、この頃、インドにカースト制度が興る。
紀元前1000年頃、古代ユダヤ:ダビデ王の時にヘブライ王
 国が膨張し、最も発展した。
  ダビデ王、及び、その息子ともに、女性関係にだらし
 なく、王朝は乱れ、民は泣いた。
  ダビデが生ませた子供と、子供同士の戦いも起き、息
 子の代に、この王朝は滅んだ。
  ダビデは、キリスト教聖書の救世主の系図に居る王様。
  イエスも、この系図に居るという(だから、イエスは
 救世主だとキリスト教は主張している)、
  そして、血がつながっているとされている(だが、イ
 エスと血がつながっていないイエスの父・ヨセフが、こ
 の系図に居るとキリスト教は説いている。まったく変だ)。
紀元前1000年、メソポタミア文明:この頃以降に栄えたア
 ッシリア帝国が紀元前7世紀末に滅亡して、メソポタミア
 文明は一段落する。
紀元前960年、この頃、ヘブライ王ソロモン。
紀元前932年、古代ユダヤ:この頃、ソロモンの死後、国
 力が衰え、北方のイスラエルと南方のユダに分裂した。
紀元前10世紀、キリスト教旧約聖書:神の選民(選民)と
 した。イスラエル民族(ヘブライ人)の宗教書。予言・
 律法が記されている。
紀元前880年、この頃、フェニキア人がギリシャ文字を伝
 える。
紀元前800年、日本で、稲作が始まった。
  稲作の初期の遺跡と目される佐賀県菜畑遺跡について、
 土中の花粉を電子顕微鏡などで調べた結果、2800年前の
 稲の花粉が検出された。
  一緒に、アワや小豆、ひょうたん、メロン、ゴボウ、
 シソなど、そして、畑作の稲も出て来た。
  その後の時代の地層から、稲のほかにタガラシやミゾ
 ハコベなど、水田の雑草の種が見つかった。
  つまり、稲は最初、「おかぼ」として畑の作物と一緒
 に栽培されていた。
紀元前800年、東日本中心の縄文文化と反対に、この頃か
 ら、弥生時代の遺跡が、九州や瀬戸内、太平洋に多くな
 る。
  稲は最初、「陸稲(おかぼ)」として畑の作物と一緒
 に栽培されていたが、次第に、低湿地に水田が切り開か
 れて行ったというストーリーが読み取れる。
  縄文人が、寒さでバタバタ倒れていた頃、人口の空白
 地帯だった西日本に、畑作や稲作の先端技術を持った人
 たちが入植し、やがて、弥生文化が全国に伝播した。
  日本列島の森林破壊は、焼畑が導入された縄文の終わ
 り頃から始まった。
  縄文時代の終わりに人口は、総計7万人~8万人にも激
 減した。
  その後、持ち直したが、弥生時代になると、東日本29
 万人に対し、西日本30万人となる。
  縄文人にとって、どうしようもなかった低湿地を、弥
 生人は開墾した。
  この新しい渡来人は、新しい伝染病を持ち込んだ可能
 性が強い。
  「発掘された人骨の中で、結核の跡が残っている最古
 のケースは、古墳時代である。
  結核菌が、日本列島に侵入したのは、この頃らしい。
  これまで結核の経験のなかった集団に、結核菌が侵入
 すれば、抵抗力が無いので、ぱっと広まる。
  渡来人は、百万人の規模が、大陸からやって来たと考
 えられる。
紀元前9世紀、バビロニア:この頃に、アッシリアに滅ぼ
 された。
紀元前800年、この頃、ギリシャ人が地中海へ進出した。
紀元前9世紀頃、騎馬民族:騎馬戦術は、この頃に、ウクラ
 イナで始まった。
  最初の強い騎馬民族は、紀元前7世紀ごろ、ウクライナ
 で栄えたスキタイであった。
  騎馬戦術は、その後、東方へ伝わる。
紀元前776年、第一回オリンピア競技会が開かれた。
紀元前771年~紀元前221年、中国の春秋戦国期の時代。
  春秋戦国時代:中国では宗族(血縁集団)中心の封建
 制をとった周の支配が、次第に崩れ、異民族の侵入、諸
 侯が乱立状態に入った。
  春秋時代には、強力な覇者が、5人出たと言われ、春秋
 の5覇者と呼ばれている。
紀元前753年、ローマの建国(伝説)。
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。
  数万のイスラエル人が捕えられて、メソポタミアとメ
 ディアに連れ去られた。
紀元前720年、この頃、アッシリアがオリエントを統一した。
紀元前8世紀、アフリカに、紀元前8世紀以降、西部アフリ
 カのガーナ、マリ、ソンガイに大国があった。
紀元前700年頃、粘土板に描かれたバビロニアの世界図が作
 られた。
  これは、現存する最古の世界地図である。
  範囲は、バビロンを中心とするメソポタミア地方だけ
 のものだった。
  バビロンを中心とした世界は、大洋で取り巻かれ、そ
 の外側にも陸地がある。
  また、天は巨大なドーム状で柱によって支えられてい
 た。
紀元前8世紀、ベーダ:紀元前8世紀を中心として成立する
 ブラーフマナは祭式万能の時代を、それに続くウパニシ
 ャッドは新思想を開花させ、ともにその後のインド世界
 に大きな影響を及ぼした。
紀元前8世紀、ギリシャ古典文化:紀元前8世紀~紀元前4世
 紀のギリシャ文化。
   奴隷制社会に成立し、また、異邦人をバルバロイと
 して蔑視する独善性もあったが、人間存在を全面的に肯
 定する世界観。
  また、自然や人間についての囚われない観察と合理的
 思考に基づく文化は、人類史への重要な貢献となった。
  先行の諸文明に新たな体系化・理論化を加えた点に創
 造性が認められる。
紀元前8世紀、ポリス:古代ギリシャの都市国家。
  紀元前8世紀頃から、有産者の集住により成立した。
  軍事拠点・聖域であるアクロポリス、公共の広場アゴ
 ラ、周辺の農業生産地帯からなる。
  人口は、特に大きなアテネで20万人~30万人、一般に
 は数千人~数万人である。
  ポリスは、同一信仰、同族意識で結束し、自由・自治・
 自給自足を理想とする共同体であった。
紀元前7世紀、古代ペルシャ帝国:イランでは、紀元前7世
 紀からメディア王国が栄えた。
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。
  第1回バビロン捕囚である。
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。
  第2回バビロン捕囚である。
  この時、ソロモンの財宝のすべてが奪われた。
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。
紀元前572年頃、ピタゴラスが生まれた(紀元前572年頃~
 紀元前492年頃)
紀元前560年頃~紀元前478年、釈迦(仏教)。
紀元前551年、孔子(儒教)が生まれた(紀元前551年頃~
 紀元前479年)
紀元前550年、古代ペルシャ帝国:紀元前550年にアケメネ
 スの孫がメディアを滅ぼした。
  次のダリウス1世の頃、最盛期に入り、領土は、東は
 インダス川、西はエーゲ海沿岸とエジプトに及び、メソ
 ポタミアとエジプトの文明を吸収し、壮大な独特の文明
 を形成した。
  首都は、ペルセポリスで、「すべての道はペルセポリ
 スに通じる」と言われたが、アレクサンドロス大王に滅
 ぼされた。
  ササン朝は、ローマ帝国・東ローマ帝国と争ったが、
 また、その文化を東方に伝えた。
紀元前540年頃、ギリシャ最初の世界地図アナクシマンド
 ロスの世界図が作られた。
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。
紀元前525年、ペルシャがオリエントを統一した。
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム神
 殿の第2神殿を建てた。
紀元前509年、ローマ共和政治が始まった。
紀元前500年~紀元前200年(紀元前6世紀~3世紀)、黒
 海付近の草原にいたスキタイ人が、野馬を飼い馴らし、
  これに乗って走りまわる方法を発明した。
  その騎乗の習慣が中央アジアの遊牧民に広がった。
  武器を持てば、非常に強力な戦力となった。
紀元前500年、2500年前の縄文時代晩期は、ちょうど太陽
 の活動が弱まった頃で、日本列島はぐっと冷え込んで雨
 が多くなっていた。
  この気候変動が、縄文文化を崩壊させたと考えられる。
  天文学の研究でも、縄文晩期に太陽の黒点が減って、
 地球は寒冷期に向かったと言われている。
  冷害で、主食のドングリなど木の実の不作が続いた。
  さらに、寒冷化で、海水が氷に閉じ込めれれて海が後
 退し、雪や雨が多くなると、川から流れ出た土砂が海岸
 を埋めて、ハマグリなどの貝も採れなくなってしまった
 のである。
  この時期、縄文人の中で何とか食って行けたのは、サ
 ケ・マスの豊富な東北地方の一部だった。
..
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2015年2月2日月曜日

(増補版)6A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1万年~紀元前1200年)

 題:(増補版)6A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1万年~紀元前1200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前8000年、マンモスの絶滅は未確定であるが、有力な
 仮説として氷河期末期の気候変動に伴う植生の変化を原
 因とする説がある。
  約1万年前に氷河期が終わり、高緯度地域の気温が10℃
 程度上昇した。
  この温暖化に伴って湿潤化し、1年の半分は大量の雪が
 降り積もる植物の生育に適さない大地へと変貌した。
  マンモスの食料となる草木は激減した。
紀元前7500年、この頃、縄文人は多くの貝塚を残す。
  縄文遺跡出土は、彼らが多種の貝類のほか、イノシシ・
 シカをはじめとする獣類や魚類・鳥類・爬虫類など数百
 種の動物を、食用その他に利用していたことを示す。
  縄文中期の土器には、ベビ類の呪力を意識したとみら
 れるデザインのものがある。
  縄文後期に、イノシシの飼育が行われとみる説が有力
 である。
紀元前6000年、およぞ8000年前から人類は、農耕の生活
 を始めた。
  世界の各地で、異なった作物を栽培するようになった
 と考えられている。
  その作物から、世界の農耕文化の原形は、根栽(こん
 さい)、サバナ、地中海、新大陸の4つの系統に大別さ
 れるとする説がある。
紀元前6000年、最古級の人為的埋葬の可能性の発見が、沖
 縄の遺跡であった。
  沖縄は、アルカリ土壌であるので骨が残っていた。
紀元前5500年、メソポタミア文明:チグリス川とユーフラ
 テス川の周辺に栄えた古代文明。
  この頃から、両河川流域に、徐々に、灌漑組織が発達
 し、集落が形成された。
紀元前5500年、縄文時代早期の丸木舟が発掘された。
  千葉県市川市の雷下(かみなりした)遺跡で。
紀元前5000年~紀元前4000年、黄河文明:中国大陸の黄
 河中流域で農耕(畑作)が始まったと推定されている。
紀元前5000年、人類の人口は、増加し、この頃は、1億人
 になっている。
紀元前4600年、エジプトに、ピラミッドが出来た。
紀元前4500年、縄文中期の、北海道と沖縄を除く日本列島
 の人口は、26万人で、その96パーセントが東日本に集中
 していた。
  人口密度は、東日本が、1.7人/平方キロメートルで、
 中でも関東は、3人/平方キロメートルと最密集地帯だっ
 た。
  一方、当時の西日本は、総人口が、1万人以下で、人口
 密度も、実に、関東地方の50分の1の0.06人/平方キロメ
 ートルという超過疎地帯だった。
  生活は、狩猟・採集生活である。
  縄文中期には、平均気温が、現在より2度近く高かった。
  イノシシ・シカ・川魚・貝類は、東日本、西日本とも
 獲れる。
  緯度の低い西日本の方が温かく、住み易そうに思える
 のに何故なのか?
  この人口の差は、東日本と西日本の森の違いであった。
  縄文時代の東日本は、ブナやナラなどの落葉樹林が広
 がっていた。
  落葉樹林は、秋から春に景色が開け、森に深く入り込
 め、狩りやキノコ狩りも出来る。
  だから、東日本の縄文遺跡は、大地一帯に展開していた。
  これに対し、西日本の縄文文化は、「川筋や海岸べり」
 の森が切れたあたりに発達した。
  西日本は、シイやカシ、クスノキなど照葉樹林のおお
 われていた。
  木は、高く生い茂り、冬も葉を落とさず、地面は、じ
 めじめして奥まで入れない。
  だから、縄文遺跡は、川筋や森の海岸沿いの点在した
 だけであった。
  ところが、3000年~4000年前の縄文後期から、縄文
 遺跡は、全国的に減り、関東地方でも遺跡がばったりと
 出土しなくなる。
紀元前4000年、黄河文明:この頃のヤンシャオ文化で彩陶
 が注目される。
紀元前4000年頃、エジプト・メソポタミアにオリエント文
 明が起こった。
紀元前4000年、この頃、オリエント青銅文化が起きる(ス
 メル文化の初め)。
紀元前3500年、メソポタミア文明:生産の発達に伴い、こ
 の頃以降に、多数の都市が誕生する。
紀元前3000年、この頃、黄河流域に新石器文明が起きた。
紀元前3000年、エジプト第一王朝の時代。
  エジプト文明:ナイル川流域に発達し、メソポタミア
 文明に次いで興った古代文明である。
  都市文明への進行過程では、メソポタミアよりやや遅
 れていたが、ナイル川の特殊地理事情のため、帝国の出
 現は、メソポタミアより早かった。
  この頃に、既に、古王国が成立。
  「神の子」と称する国王が神権政治を行い、その権力
 が大きいために、スケールの大きな構造物が多く建設さ
 れた。
  キリスト教のイエスより、3000年も早く、「神の子」
 と称する人間は、出現していた。
紀元前3000年、インドに青銅文化が起きた。
紀元前3000年、メソポタミア文明:シュメール人がこの頃
 から都市国家の時代へ入る。
  その後、戦争を経て、領土国家へ拡大し、バビロニア
 など種々の帝国が建設された。
紀元前2750年、この頃、アッド人がスメール人を征服した。
紀元前2600年、ピラミッド:エジプト国王の墳墓であり、
 巨大な石造建築である。
  初期のピラミッドは、比較的小さかったが、この頃か
 らのクフ、カフラー、メンカウラーの三王のピラミッド
 が、にわかに巨大になった。
  底辺の正方形の各辺は、正しく東西南北に向いている。
  最大のクフ王のピラミッドの高さは、152メートル。
  平均2トン半の石材が、230万個も使用された。
紀元前2500年、地図(バビロニア所領図)が出来た。
紀元前2500年、黄河文明:続いて、この頃の竜山(ろんさ
 ん)文化では、技術水準の高い黒陶が生産されていた。
  その延長上に都市文明が開花する。
紀元前2500年、紙に似たものがエジプトで使われた。
紀元前2500年、インダス文明:インダス川流域を中心に、
 紀元前2500年頃より、紀元前1800年頃まで展開した都
 市文明。
  モエンジョ=ダーロ、ハラッパーが、代表的な都市で
 ある他に、ロータルなど地方都市も発見されている。
  都市は、すべて計画都市であり、整備された上下水道、
 焼成煉瓦を豊富に用いた建築物などが特徴である。
  文字は、インダス文字が使用されていた。
  洪水・塩害など、文明を取り巻く環境の変化により滅
 亡した。
紀元前2500年、エーゲ文明:オリエントの影響を受けて、
 この頃から、東地中海のエーゲ海周辺に、ミノア文明が
 栄えた。
  河川流域の農耕によって誕生した文明とは異なり、オ
 リエントのとの交易によって勃興した文明である。
  特に、クレタ島に栄えた『クレタ文明』が注目される。
  クレタ島に迷宮の名で知られる宮殿がある。
  その壁画から、当時の島民の社会生活を知ることがで
 きる。
  オリエント:本来の意味は「太陽の昇るところ」「東
 方」。
  古代ローマ人が、メソポタミアとエジプト周辺を指し
 て名付けた。「文明の発祥地」である。
紀元前2000年、4000年~3000年前の縄文後期から遺跡は
 全国的に減り、関東地方でも遺跡がバッタリと出土しな
 くなる。
紀元前2000年、古バビロニア王国、クレタに青銅文化が起
 こる。
紀元前2000年、バビロニア:この頃に、シュメール人が建
 設したメソポタミアに、セム系のアムル人が侵入し、バ
 ビロニアという強大な国を作った。
  その首都が、バビロンで、メソポタミアの河川の中流
 域にある。
紀元前2000年、中国奥地(ゴビからタクラマカンの奥地)
 の楼蘭(ろうらん)に小さな王国があったが、現在は砂
 漠と化している。
  ここには、ロプノールという湖があったが、千数百年
 前に干上がっていたと思われる。
紀元前2000年、ベーダ:インド古代の聖典。
  紀元前2000年期の中頃を中心に、イラン高原から西北
 インドに侵入したインド・アーリア人は、その後、紀元
 前6世紀ごろまでにかけて、膨大な宗教文献群を作り上
 げた。
  リグ・ベーダ、サーマ・ベーダ、ヤジュル・ベーダ、
 及び、アタルバ・ベーダに4大別されるサンヒターを軸
 に、プラーフマナ、アーラニヤカ、そして、ウパニシャ
 ッドの各文献群を成立させる。
  紀元前8世紀を中心として成立するプラーフマナは、祭
 式万能の時代を、それに続くウパニシャッドは、新思想
 を開花させ、ともに、その後のインド世界に大きな影響
 を及ぼした。
紀元前2000年、アーリア人:インド・ヨーロッパ語族に属
 し、インド・イラン・ヨーロッパ人などの祖先である。
  元来、中央アジアの西方から南ロシアにまたがって居
 住したが、紀元前2000年頃から膨張し、アフガニスタン、
 インド(インダス川流域)、また、バルカン、小アジア
 (ヒッタイト王国)に定住した。
紀元前1800年、バビロニア:この頃、ハンムラビ王の時代
 に、バビロニア全域の統一に成功。
  有名なハンムラビ法典が作られたが、これは、集大成
 された最古の成文法として注目される。
  バビロニアは、約1000年間、メソポタミア文明の中心
 となった。
紀元前1700年、黄河文明:黄河流域の肥沃な黄土地帯に誕
 生した。
  東アジア最古の大文明である。
  都市文明が開花するのは、紀元前1700年以後の殷(い
 ん)文明においてであるが、この地域の農耕文化は早く
 から発達した。
紀元前1700年、殷(いん):紀元前1700年頃から黄河中
 流域で栄えた、中国最古の都市文明。
  殷王朝と言えば、領土の範囲が制限されるが、殷文明
 はより範囲が広い。
  亀甲や獣骨に刻まれた漢字(甲骨文字)、神秘的で迫
 力のある青銅器で有名である。
紀元前1600年、エーゲ文明:バルカン半島を軟化したギリ
 シャ人の一派ミケーネ人が、紀元前1600年ごろ、先行す
 る文明を継承し、やがて、クレタ文明に代わるミケーネ
 文明をギリシャと多くの島に築いた。
紀元前1600年、アーリア人:紀元前1600年頃のイラン高
 原、メソポタミア、エーゲ海、さらに、ヨーロッパなど
 に進出した。
  アーリア人が、多くの地域を制圧できたのは、馬を利
 用し、また、馬の牽引する二輪車(戦車)から矢を射た
 ためである。
紀元前1600年、西ヨーロッパが鉄器時代に入る。
紀元前1580年、エジプト新王国が興る。
紀元前1500年、古代ユダヤ:セム系ユダヤ人(ヘブライ人)
 は、シリアの近くで遊牧生活を送っていたが、紀元前1500
 年以後、ユダヤ人の一部分がエジプトへ移住した。
紀元前1500年~紀元前1000年、縄文時代後期~晩期に、
 環状盛り土遺構が注目されている。
  埼玉県加須市の長竹遺跡が発掘調査が進み、住居や墓
 が密集した集落跡だった。
  関東地方を中心に確認例が続いた。
  環状は、高さ1.8m、幅20mの盛り土が、直径150mの
 C型の一方が開いたドーナツ状に築かれている。
紀元前1370年~紀元前1350年、ツタンカーメンの墓が造
 られた。
紀元前1350年頃、エジプトのツタンカーメンの黄金のマス
 ク。
紀元前1300年頃、パピルスに描かれたエジプト金山図が作
 られた。
紀元前1280年頃、エジプトのルクソール大神殿のラムセス
 2世時代。
紀元前1250年頃、モーゼが居たとされている。
  歴史家は、その存在を否定しているが、そして、この
 頃、このモーゼによるエジプト脱出があったとされてい
 る。
紀元前1200年、周(西周)が興る(中国)。
..
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2015年1月31日土曜日

(増補版)5A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200万年~紀元前1万年)

 題:(増補版)5A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200万年~紀元前1万年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前160万年、人類の先祖は、草原の生活で洗練された
 歩きをした。
  160万年前のホモエレクトス。
   画期的な進化・・言葉が話せる脳の進化である。
  まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来、複
 雑な音が出せるようになったからだった。
  脳の拡大は、足や手が発達した後に与えられた。
  木から降りて、猿と違って、二本の足で歩った。
  アファール猿人から400万年が経っていた。
  人類は、またたく間に、地球の隅々に広がって行った。
紀元前150万年、この年から現代までを、新生代第四紀と言
 う。古い順に、洪積世、沖積世。
紀元前150万年~紀元前350万年、新生代、第四紀、洪積世。
紀元前100万年~紀元前200万年、絶滅した猿人の祖先の
 ロブストス猿人やボイセイ猿人が生息した。
紀元前100万年、現代人の祖先のホモ・エレクトス(原人)
 が生息した。
紀元前70万年、ジャワ原人:まっすぐ立って歩く。身長:
 約150センチメートル、脳の大きさ:約900立方センチ。
 ~紀元前50万年まで。
紀元前70万年、ペキン原人:石器や火を使っていた。家族
 で生活をしていた。身長:約150センチメートル、脳の
 大きさ:約1000立方センチ。~紀元前20万年まで。
紀元前50万年、アフリカに50万年前のアトラントロプスに
 至る化石人類が存在する。
紀元前20万年、現生人類が生まれた。
紀元前10万年、現代人が生まれた。生命の発生を1月1日と
 すると人類の誕生は12月31日午後11時47分である。そ
 の時から、脳の大きさは変わってないと言われている。
 新しい進化を人類はしている。
紀元前10万年、ネアンデルタール人が生きた。
  石を叩いたり、削ったりして、尖らせて石槍や石斧を
 作った。
  火も使って、肉を焼いて食べた。
  身長:約170センチメートル、脳の大きさ:約1400立
 方センチ。~紀元前3万5000年まで。
紀元前9万年、9万年前、阿蘇山が大爆発した。20Km
 のカルデラが出来た。溶岩流が山口県まで達した。
紀元前5万7000年~5万年、古生代、カンブリア紀、
  オパビニア(分類不明)、カンブリア紀後期、体長:
 約8センチメートル、5つの目を持ち、象の鼻の様なパイ
 プで獲物を捕らえて食べる。
  ハルキゲニア(分類不明)、カンブリア紀後期、体長:
 約5~25ミリメートル、7対のトゲと7対の歩脚を持ち、
 前後上下が分からない最も奇妙な動物。
  ウィワクシア(分類不明)、カンブリア紀後期、体長:
 約5センチメートル、2列に並んだトゲと硬いウロコで敵
 から身を守っていた。
  アノマロカリス(分類不明)、カンブリア紀後期、体
 長:約60センチメートル、エイのように海中を泳ぎ、エ
 ビのような腕を持つカンブリア紀最大最強の捕食動物。
  アユシュアイア(有爪類?)、カンブリア紀後期、体
 長:約4センチメートル、脚のトゲを使って海綿を傷つけ、
 体の末端にある口でその組織を食べる。
紀元前5万年、オーストラリアに住む先住民族のアボリジニ
 の方々がアジアから海を渡って、オーストラリアに住み
 着いた。
  1998年現在の人口は、約28万人。
  ほとんどが、シドニーなど都市化の進んだ南部に住み、
 都市部のライフスタイルで生活している。
  しかし、中には、中央砂漠や北部海岸にある保護区な
 どで、昔ながらの狩猟採集生活を送る人も居る。
  昔の様な槍やブーメランで獲物を仕留めるわけではない。
  四輪駆動車に乗って、銃でカンガルーなどを獲っている。
  イギリスから白人たちがオーストラリアに来て、あた
 かも動物の狩りをするように殺された先住民・アボリジ
 ニの方々。
  民族絶滅の道を歩んでいる。
紀元前3万5000年、クロマニヨン人:現代人を含む新人類
 で最初に現れた人類。
  精密な道具を作ったり、言葉を話したり、絵を描くこ
 とも出来た。
  身長:約175センチメートル、脳の大きさ:約1450立
 方センチ。~紀元前1万年まで。
紀元前2万年、この頃の人類最古の縫い針がある。
紀元前2万年、フランスの遺跡に、集団で馬を崖下に落とし、
 狩りをしていた。
  集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ていた。
紀元前1万7000年~紀元前1万4000年、沖縄県南城市のサ
 キタリ洞遺跡で、旧石器時代の、国内で例のない貝殻で
 作った道具類と人骨片が出土した。
  本土から独立した「貝器文化」の存在が浮かんだ。
  また、DNA分析で、現代の沖縄住民の方々に多い「南
 方系タイプ」と、
  ロシア沿海州の先住民に多い「北方系タイプ」が混在
 していたと判明した。
  沖縄人の方々が、従来、考えられてきたより複雑な出
 自を持つと示唆された。
紀元前1万1600年頃、鳥に歯がなくなった。
紀元前1万5000年、ハルーラ(シリア)で、人類定着の遺
 跡がある。
  これまでは移動の生活であった。
  かまどの跡もある。
  定住の証拠の一つ。
  気候の温暖化が定住に必要であった。
  この頃、雨が多くなった。
  温暖にもなった。
  豊かな食料に恵まれた。
  人口も増大した。
  草原に、森に、豊かな獲物に恵まれた。
  定住の家もあった。
  村も作っていた。
  豊かな実りがあった。
紀元前1万2000年、およそ、地質学上の沖積世(完新世)
 が始まる。
紀元前1万1000年、その時、北米で異変が起きた。
  当時、氷河は後退を続けていた。
  溶け出した水は湖を作った。
  北米大陸の中央に大きな湖が出来た。
  ある日、堰き止めていた氷河が崩れ、湖の水は流れ出
 し、洪水となり、大西洋に流れ出した。
  冷たい水で蓋をされた海によって、気候変動が起きた。
  その証拠が、グリーンランドの氷の中にある。
  1万年前の氷には情報が詰まっている。
  1万1000年前の気温が急に下がり始めている。
  それは、1000年も続いた低温であった。
  豊かな森や草原の実りは無くなった。
  狩猟・採集の生活では支えきれない人口に、当時はな
 っていた。
  危機に直面した人類は、必死に食料を探しただろう。
  人口が増えていたので、事態は緊急であった。
  その時に、人類が集めた種子も見つかっている。
  村の周囲の種子が、食べられるのかを探していたので
 あろう。
  野生の麦も見つかっている。
  シリアの地層の中から、小麦やイネ科の種子が見つか
 っている。
  多くは野生のものであった。
  野生の中には、栽培していたとする花粉も見つかって
 いる。
  寒冷化が食料の危機をもたらし、人類は、やむにやま
 れず農耕を始めたと考えられる。
  シリアの人たちは麦と出会い、栽培して食料としだした。
  食料を作り出した人類。
  最初は小麦を選んだ。
  小麦は、理想的な性質を持っていた。
  それをテストしているフランスの研究所では、10年間
 栽培し実験した。
  野生種は変化が早く起きた。
  殻が剥がれやすくなり、実も2倍と大きくなった。
  石器で出来た鎌も見つかった。
  ヨルダンで発見された鎌は、動物の骨に石の刃を埋め
 込んであり、金属のものと性能は変わらない。
紀元前1万年~紀元前400年頃、日本の縄文時代。偉大なる
 日本、この様に日本の歴史は遡(さかのぼ)る。
紀元前1万年、人類は、シベリアに出て、広がって行った。
  氷河期であった。
  極寒の大地を北へ北へと行った。
  当時のシベリアには、トナカイなどの獲物が居た。
  槍に使われた鋭く尖った石器がある。
  2万年前の最古の縫い針がある。
  極寒の地で生きる知恵を持っていた。
  氷河によって、アジアとアメリカは地続きであった。
  人類は、北米へ発展した。
  気温が、少しづつ上昇していた、氷河が、少しづつ溶
 け出していた。
  草原が、森に代わって行った。
  暖かくなった北米は、獲物に恵まれていた。
  石器は、首筋や肋骨の間などにあった。
  当時の人類が、集団で攻撃した証拠である。
  豊富な獲物を獲り尽くして行った。
  北極圏の獲物をうまく獲った。
  北米のマンモス、バイソン、ナマケモノは、敵を知ら
 なかった。
  人類は、南米大陸にも獲物を追って行った。
  南米パタゴニア草原に、獲物の壁画がある。
  狩猟・採集の生活だと、土地が一人当たり10平方キロ
 メートル必要である。
  当時の人口は500万人だった。
  この方々には、後の時代になって、スペインのキリス
 ト教徒とキリスト教聖職者たちに、絶滅される運命が待
 っている。
紀元前1万年、ヨルダンのペイダ遺跡も同じような農耕の状
 況が見られる。
  1万年前の石臼も見られる。
  パンの製造に欠かせない臼である。
  この後、人類の人口は増加し、5000年前は1億人にな
 っている。
  農業はバイオと同じ知恵が必要。
  パンを焼く。豆を植える。
  輪作の障害防止のため、家畜の糞も利用した。
  ビッグサイエンスであった。
  複雑な社会も生まれて行った。
  エブラ宮殿(シリア)古代都市、20万人の人口。
  市場もあり、周辺の人たちも集まった。
  最古の図書館で、15000枚の陶器の記録が発見された。
  大半が経済のもの。
  小麦で支払った給料。
  金の装飾品。
  文化の芽生えが感じられる。
  農業の発見は、新しい人類の発展をもたらした。
  チグリスユーフラテス、インド、中国でも、農業が発
 展した。
  シリア中部に、1万年前の水車がある。
  巨大な灌漑用の水車。
  灌漑技術の進歩で収穫も増えて行った。
紀元前10000年、キリスト教聖書に系図がある。
  その系図に、人類最初の人が書いてある。
  その人類の初めの人から計算すると1万年となる。
  キリスト教は、人類は1万年前に誕生したとしている。
..
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