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2015年7月5日日曜日

(増補版)146D1/3:気になった事柄を集めた年表(1712年~1713年)

題:(増補版)146D1/3:気になった事柄を集めた年表(1712年~1713年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1712年3月、経済政策:大阪銅座を廃した。
  幕府が、大阪銅座を廃し、銅吹屋仲間に貿易銅500万斤
 を長崎への回送を命じた(5月に、再命令)
1712年5月、経済政策:銅を回送。
  長崎貿易決済のため、銅を回送した。
  長崎貿易で、金銀の流出がおびただしかったため、金
 銀に替わる貿易決済手段としての銅だった。
  また、樟脳(しょうのう)や佐渡の干し鮑(あわび)
 も回送した。
  輸入量の超過状態を緩和したかった。
1712年、経済政策:大判金の通用を制限した。
1712年9月、経済政策:人事・勘定奉行の萩原重秀が罷免さ
 れた。
1712年11月、6代将軍の徳川家宣(いえのぶ)が没した(
 1662年~1712年)(将軍在任期間:1709年~1712年)
  慈悲深い将軍だったという。
  萩原重秀を、「才あるものは徳あらず。徳あるものは
 才あらず。真材誠に得がたし」と、批判を受ける萩原を
 死の直前まで盛り立て、重用し続けた。
  しかし、病没寸前の家宣は、白石からの度重なる弾劾
 に、ついに折れた。
1712年、出版:新井白石が、「読史余論(とくしよろん)」
 を著した。
  史論書。家宣に日本史を進講した際の講義案。
  文徳天皇に始まり、豊臣秀吉の天下統一までを14段階
 に分け、
  公家の衰退と武家政権の勃興・成立の必然性、
  そして、発展の過程を明らかにして、武家政治の擁護
 と江戸幕府の正統性を主張しようとした。
  歴史の発展段階の把握など、史論として評価が高く、
  近世以前の代表的史書の一つと言われる。
  師の木下順庵(きのしたじゅんあん)の「本朝通鑑(
 ほんちょうつがん)」の説を、大幅に取り入れている。
  随所に白石の独創的見解が示されている。
1712年、消防:『方角火消』を5方角5組に改編した。
  幕府が組織した火消しは、武士によって組織された武
 家火消(ぶけびけし)と、
  町人によって組織された町火消(まちびけし)に大別
 された。
  武家火消は、幕府直轄で、旗本が担当した定火消(じ
 ょうびけし)と、
  大名に課役として命じられた大名火消(だいみょうび
 けし)に分けて制度化された。
  そのため、合わせて3系統の消防組織が存在していた。
  方角火消(ほうがくびけし)は、1657年に始まり、
  明暦の大火直後に、大名12名を選び、桜田筋・山手筋・
 下谷筋の3組で編成した火消し役となった。
  そして、元禄年間に、東西南北の4組に改編され、方角
 火消と呼ばれるようになり、1712年に、5方角5組に改編
 された。
  これ以降、江戸の火消は、改編がなされながら発展し
 て行く。
  そして、大名屋敷内では、通常より高い「火の見櫓(
 ひのみやぐら)」が許されたりする。
1712年、ルソーが、スイスに生まれる(1712年~1778年)
  哲学者、政治哲学者、作曲家。
  1762年の50歳の時に「社会契約論」を書いている。
  また、この年に書いた小説形式の教育論「エミール」
 が、キリスト教に関係する「サヴォア人司祭の信仰告白」
 の部分が、宗教的な内容で断罪された。
  卑劣な事に、禁書にされてしまった。
  そして、逮捕状が出たため、
  また、キリスト教の異端審問所などで死刑になる事も
 考えられたので、スイスに亡命した。
  亡命中は、スイス内やイギリスなどを転々とした。
  キリスト教のため、卑劣な人生を送る羽目となった。
  そして、1770年になって、偽名でパリへ戻った。
  パリでは、亡命中から執筆していた自叙伝「告白」を
 完成させた。
  続いて、最後の著作である「孤独な散歩者の夢想」の
 執筆を開始したが、
  この作品の完成を見ることなく、パリ郊外で死去した。
  優秀な哲学者、政治哲学者が、キリスト教によって無
 残な人生にされてしまった。その一人だった。
  天才・ガリレオの晩年も可哀想だった。
  卑劣な宗教によって、人類の叡智の多くが埋没した。
  この、人類の大きな損失を憂える。
1713年、7代将軍。徳川家継(いえつぐ)が将軍になった
 (1709年~1716年)(将軍期間、1713年~1716年)
  家宣の4男。最も幼少で将軍になった人。
  家宣が病に倒れ、新井白石と間部詮房を呼び寄せられ、
  「次期将軍は尾張の徳川吉道にせよ。鍋松(家継の幼
 名)の処遇は吉道に任せよ」と、
  「鍋松を将軍にして、吉道を鍋松の世子として政務を
 代行せよ」の2案が遺言された。
  家宣が死去すると、白石は、
  「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣
 と、幕臣との間で争いが起こり、
  諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君
 を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こ
 ることはない」として、鍋松の擁立を推進した。
  これに対して、幕閣の間では、
  「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く、亡くなられた
 らどうするおつもりか」という反対意見も出た。
  その時、白石は、
  「その時は、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」
 と説得したという。
  また、一説に家宣が、
  「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五
 郎太か、徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か、
 吉宗に後見させよ」と遺言したという。
  こうして家宣没後の1713年に、鍋松は家継と改名し、
 将軍宣下を受け、第7代将軍に就任した。
1713年3月、奢侈(しゃし)禁止令を出す。
  将軍の家継が幼少で、権力は母親の月光院にあった。
  華麗な衣装、特に加賀紋や伊達紋は人気があって、華
 美だった。その禁令。
  女性の衣服を決定した。
  装束の布は絹、紬に限られ、縫い鹿の子、金糸、金箔、
 輸入品と新しく派手な染物、織物の着用を禁止した。
  (5月説がある)
1713年、経済政策:清の丁賦の額を一定とした
  盛生滋生人丁(せいせいじせいじんてい)を定め、丁
 賦(ていふ、人頭税、各個人に対して一律に同額を課す
 る租税)の額を一定とした。(1712年の説あり)
  官僚などの特権乱用者や、裕福で多くの丁戸を持つ者
 のごまかしや、貧困な農民の未納者などが多く、混乱し
 たため、定額として固定した。
1713年、経済政策:蔵米の蔵出日限厳守を命ず
  大阪市中の米価が騰貴のため、蔵米の蔵出日限厳守を
 命じた。
1713年、経済政策:諸国産銅の廻送
  貿易支払銅不足のため、大阪銅吹屋へ諸国産銅を廻送
 した。
1713年、政策:江戸の町地
  深川など代官支配地を、この年に、街並地として町奉
 行支配下へ組み込まれた。
  江戸川学園江戸川大学に適切に解説されている・・(
 一部を読みやすくした)
  江戸には、今日の東京都に当たるような統一的な行政
 組織はなく、
  支配は、身分別に行われた。
  そのため、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、
 武家地は大目付、目付支配と別々であった。
  故に、行政的に江戸の範囲がどこであるかは明確では
 なかった。
  中でも一般に、江戸の範囲と理解されているのは、町奉
 行の支配範囲であるが、
  これも、市街地の拡大と共に、周辺の農地が組み入れ
 られていった。
  当初は、ほぼ外郭内の古町(こちょう)300町と呼ばれ
 る範囲だった。
  しかし、1662(寛文2)年に、芝、三田、飯倉から下谷、
 浅草に至る街道筋の代官支配の町300町が編入された。
  また、1713年には、本所、深川、浅草、小石川、牛込、
 市谷、四谷、赤坂、麻布辺りの代官支配で、町屋の成立
 した259町を編入した。
  併せて、この時に、933町となった。
  町並地の年貢の徴収は、代官が行っていたから、二重
 の支配構造だった。
  また、1719年に、本所、深川の開発に当たった本所奉
 行が廃止され、町奉行の支配となった。
  1745年には、寺社門前地440箇所、境内227町が移管さ
 れた。
  その結果、町奉行支配範囲は、下高輪、白金台町、目
 黒、白金、渋谷、千駄ヶ谷、巣鴨、駒込、谷中、坂本、
 箕輪、橋場、本所、小梅、深川猿江、永代新田、平野新
 田となった。
1713年頃、出版:寺島良安の「和漢三才図絵」
  大坂の医師の寺島良安が、図説百科事典の「和漢三才
 図絵(わかんさんずいえ)」を刊行した(1712年説あり)。
  中国の王圻(おうき)の「三才図会」を範としている。
  天文、人物、禽獣、草木、器物、地理などを80余に分
 類して、図入りで解説をし、考証も加えている。
  これは、編者の師の和気仲安の言葉・・、
  「医者たる者は、宇宙百般の事を明らむ必要あり」に
 従い、著述を計画したという。
  各事項は、広く国内を旅行して実地踏査し、
  種類、製法、用途、薬効などを明記して、
  客観的、合理的な解説を施した。
  図解は分析的。
  神社仏閣は、歴史よりも縁起をとり、
  公卿や有職は、伝承のままとしたという凡例が記され
 ている。
  明解で正確さによって、発行から約200年間の明治時代
 に至るまで実用された。
..
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2015年7月3日金曜日

(増補版)145D1/3:気になった事柄を集めた年表(1710年~1711年)

題:(増補版)145D1/3:気になった事柄を集めた年表(1710年~1711年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1710年、政策:沽券絵図(こけんえず)を作成させる
  沽券絵図は、街路の形態や、街路に沿った町の形状、
 および、町名が記された町割図、
  江戸の町名主に命じて沽券絵図が作成させた(正徳沽
 券図)
  沽券絵図は、町人の居住地に関する基本的公文書。
  佃島における沽券絵図の場合、地権者の署名押印や地
 価、地割、家守名などの記載がある。
  島内の道・堀の寸法、渡船・橋の位置など詳細に記さ
 れている。
  また、彩色した海の波や生い茂る葦の葉の濃淡など絵
 画的に非常に手の込んだ表現となっている。
  また、麻布本村町沽券図は、屋敷ごとに間口・奥行・
 坪数・家屋敷の金額・地主名・家守名・辻番や火の見の
 位置、下水、道幅などが記されている。
  その他、木戸、番屋、町役人の詰める役所など、宿場
 の場合、街道に沿って立ち並ぶ旅籠(はたご)など一軒
 ごとの間取りなども記している(日本人の几帳面さが出
 ている)。
  沽券絵図は江戸の場合で、大阪は水帳絵図という。
1710年、天皇:閑院宮家(かんいんのみやけ)
  東山天皇の第八子直仁親王をもって閑院宮家をたてる。
  皇統の断絶を危惧した東山天皇が、将軍徳川家宣の舅
 でもある関白近衛基熙を通じて、実子である秀宮(直仁
 親王)に新宮家を創設させるとし、
  また、同様の危機感を抱いていた新井白石が、徳川将
 軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新
 たな宮家が必要との建言を将軍徳川家宣に出した。
1710年、浅野長広(あさのながひろ、通称:浅野大学)が、
 旗本に取り立てられた。
  浅野長広は、元禄赤穂事件で改易・切腹となった赤穂
 藩主・浅野長矩の弟で、これで、浅野家の再興がなった。
  浅野長広が、将軍徳川家宣に拝謁し、改めて安房国
 朝夷郡・平郡(現:鴨川市)に500石の所領を賜わり旗本
 に復した。
  御家再興が果たせた、優しい日本だった。
1710年、芸能:吾妻三八が、「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげ
 むさしあぶみ)(忠臣蔵物)」を大阪で上演し、120日間
 の長期興行を記録した。
  忠臣蔵物は、日本人の心情に通じ、色々と、また多く
 上演されて来たが、浅野家の再興となって、また、庶民
 は沸き立った。
  この興行以外にも、京都の夷屋座をはじめ、京阪の諸
 座が競って赤穂浪士劇を演じた。
  人形浄瑠璃においても、大阪の豊竹座や竹本座で相次
 いで上演された。
1710年、出版:貝原益軒(1630年~1714年))が、「和俗
 童子訓(わぞくどうじくん)」を刊行した。
  貝原益軒の有名な「養生訓」が書かれる3年前、益軒81
 歳の時の作。
  日本で最初の体系的な教育書だという。
  本邦最初であると言うだけでなく、幼児教育の重要性
 を強調した点で、世界的にいっても先駆的と中村学園大
 学の解説に記されている。
  尚、更に、ヨーロッパで最初に幼児教育の重要性に着
 目したのはコメニウスであると言われ、17世紀の事であ
 るが、貝原益軒は、ほぼ同じ時代に、同じ考えの本書を
 発表していると、その偉大さを解説している。
  ものを言い始める時からの教育の必要性を述べ、過保
 護を戒め、さらに幼児教育の詳細なカリキュラムを与え
 ていると、
  そして、知識人を対象としたものではなく、農工商を
 ふくむ四民を広く対象としていると、
  そして、この後に発展して来る寺子屋教育、及び、明
 治以降の小学校教育の基礎となったと解説されている。
1710年、この頃、インドのパンジャブ地方で、シーク教徒
 の活動が激化する。
1711年2月、外交:朝鮮通信使の待遇、新井白石の建議で、
 朝鮮通信使の待遇を改めた。
  幕府の財政圧迫を理由として簡素化した。
  この件が、日朝間の外交摩擦に発展した(現在と同じ
 様に難しい国だった)
  通信使接遇に巨大な費用が必要だったという。
  それ故、白石は、来日招聘そのものに反対だったとい
 う。
  この点で、老中首座の土屋正直とぶつかった。
  白石は折れて、待遇簡素化が方針となったという経緯
 があった(対馬から江戸まで宴席が続いたという)。
  また、通過の各藩の藩主も出向かずともよいとした。
  また、接待に使用する小道具も蒔絵の塗り膳や陶磁器
 の高価なものは厳禁とした。
  そして、将軍の呼称も、再び「日本国王」に変更した。
  この説明は、「大君」は朝鮮国内においては王子の
 ことを指すので、対等ではないので国王に戻した・・と。
  この頃の朝鮮通信使は、饗応に出た蒔絵の塗り膳や床
 の間の陶磁器から夜具まで、盗んで行ったという。
  この待遇レベルの件は、果てしない日朝双方の議論を
 生んだという(あの件もそうなるでしょう?)。
1711年3月、人事:三宅観瀾(みやけかんらん)と室鳩巣が、
 幕府の儒者となった。
  三宅観瀾は、江戸に出て、推薦されて水戸藩に仕え、
 また、そこの上司が、三宅の書いた楠木正成についての
 文章を徳川光圀に見せたことが切っ掛けで、彰考館編修
 となり「大日本史」に従事した(優秀さもあったが人柄
 が良かったのだろう。また、優秀な人材を取り立てる幕
 府でもあった)。
  室鳩巣は、初め金沢藩に仕え、英才の誉れ高く、白石
 の推薦で儒者となった秀才。
  身分の差なく、秀才を集める幕府だった。
  戦乱のヨーロッパと違う、また、王位をめぐって争う
 ヨーロッパと違う、知的な日本だった。
1711年、運輸政策・御定賃銭(おさだめちんせん)
  諸関に駅路・船渡・辻駕篭・廻船などの御定賃銭の高
 札を立てた。
  御定賃銭は、幕府の定めた公定賃銭のこと。
  次の宿駅までの御定賃銭が高札にて示された。
1711年、朝廷の権威の巨大化に対する警戒論
  将軍が、天皇を尊んでも、それによって幕府の支配秩
 序に危険を感じない、安定期の幕府の時代に入った。
  かえって将軍の権威の修飾になると感じられる状態に
 なった。
  中流貴族以下の公家の中には、長く武家に対する反感
 は残っていたが・・、
  勅使を迎えての幕府の式典の際など、武家の気遣いは、
 異常なほどのものがあった。
  将軍・大名・上級諸役人、いずれも、律令制の官位を
 受けていた。
  これらは、装飾的称号にすぎなかったが、
  公儀の権力の陰の朝廷の権威巨大化に対する警戒論は、
 新井白石・荻生徂徠らが指摘していた。
1711年、芸能:近松門左衛門の作の、「冥途の飛脚(めい
 どのひきゃく、浄瑠璃)」が、大阪の竹本座で初演され
 た。
  これは、実際に起きた大坂の飛脚問屋の亀屋の養子の
 忠兵衛の話。
  忠兵衛が、新町の遊女梅川を身請けするため、公金に
 手を付け、
  梅川とともに、故郷の新口村(にのくちむら)に逃げ
 るが、捕らえられるという、為替金横領事件を脚色した。
1711年、コサック軍の反乱者のコズイレフスキーと、アン
 ツィフェーロフの2人が、初めてカムチャッカから千島
 列島(クリル諸島)に遠征。
  NPO法人、神奈川県日本ユーラシア協会に、
  1710年4月?に 、日本人のサニマは、カムチャツカの
 太平洋岸、ペトロパヴロフスクの北方のカリギル湾ボブ
 ロヴォエ海岸に漂着する。
  10人の仲間とともに上陸したが、
  原住民カムチャダールに襲われて4人殺され、6人が捕
 虜になった。
  その後、カムチャダール人とロシアのコサック兵との
 戦闘が起こり、
  さらに、日本人の2名が死に、
  残るサマニら4名が、ロシア軍の捕虜となった。
  ロシア人は、サマニらを、カムチャツカ川上流のヴェ
 ルフネ-カムチャツクへ連れて行き、
  代官のピョートル・チリコフに引き渡した。
  (別の説:ピョートル・チリコフに引き渡された4名の
 日本人は、1708年に、カムチャツカに漂着した別の日本
 人で、サマニらは、4人がカムチャダール人に殺され、6
 人がコサックのダニラ・ヤコブレヴィチ・アンツィフェ
 ロフに捕らえられた・・という説もあり)。
   ヴェルフネ-カムチャツクに連行された日本人のうち
 サマニと、もう1人を残して、あとは間もなく死んだとも
 伝えられる。
  1711~13年、アンツィフェーロフとコズイレフスキー
 は、クリル列島を探検する。
  サニマは、コジレフスキーの千島探検に水先案内人、
 および、通訳として同行した。
  探検隊は、1711年8月、千島最北端の占守島に上陸。
  さらに、第2島のパラムシル島に立ち寄り、
  住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶され
 る。
   1713年、コズイレフスキーは、再び、占守島に立ち寄
 った後、パラムシル島に上陸し、
  苛烈な戦いの末、住民にサヤークを献納させ、ロシア
 の支配を認めさせた。
  このとき、コズイレフスキーは、パラムシル島に交易
 に来ていた択捉島の住人シタナイを連れ帰った。
1711年、新井白石が「正徳の治」という政治改革を行う。
  正徳年間(1711~1716)。
  新井白石(1657年3月24日生誕~1725年6月29日没、68
 歳)、無役の旗本であり政治学者であったが、
  6代将軍・徳川家宣の侍講として、幕政を実質的に主導
 した。
  白石は、かつて明の「勘合符(かんごうふ)」とそっ
 くりな信牌(しんぱい)という割符をもつ中国にのみ貿
 易を許すとした(日本が主導)。
  この信牌には、日本の年号を用い、中国に対しては俗
 称の「唐」で通し、
  清朝は、その屈辱に耐えた。
  周辺国が、中国から国として認識してもらっている様
 な状況であった中、日本は、対等な国の立場を崩さなか
 った。
  毅然と、中国の冊封体制を否定する日本だった。
1711年、捕鯨は、ノルウェー・フランス・スペインが、す
 でに古くから(9世紀)行っているが、
  この年、アメリカが、マッコウクジラ漁を始めた。
  アメリカは、19世紀に大西洋のクジラを取り尽くし、
 日本近海に現れる様になった。
  ランプの燃料の脂しか使わず、鯨のほとんどを捨てる
 という可哀想な動物愛護からほど遠い行為のアメリカだ
 った。
..
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2015年7月2日木曜日

(増補版)144D1/3:気になった事柄を集めた年表(1707年~1710年)

題:(増補版)144D1/3:気になった事柄を集めた年表(1707年~1710年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1707年7月、経済:大坂で銭相場が騰貴した。
1707年9月14日、西日本を暴風雨が襲い、米も例年の6分~
 7分の不作だった。
  この年、米価は、前年の2倍程度に騰貴した。
1707年10月、令:田地の質入を禁止した。
1707年10月28日、天災:宝永の大地震、
  東海から西日本に大地震が起きた。
1707年11月6日、令:幕府が、藩札の通用を禁止した。
1707年11月20日、幕府は、諸国大地震に付き諸色(しょし
 き、物価のこと)の高騰を防止するため、この日に、買
 い溜め(買い占めのこと)禁止の触書を出した。
1707年11月23日、天災:富士山が大噴火
  宝永山ができた。
  江戸では数センチ~10数センチの火山灰が積もった。
1707年、農業:新田開発
  大和川の旧河道に、鴻池新田・菱屋新田などができた。
1707年、農業:元禄期の北陸の農政・農業技術をまとめて、
 土屋又三郎が、農学書「耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)」
 を著した。
  土屋又三郎は、加賀国の大庄屋役の家に生まれた農政
 家で、
  事件に巻き込まれて平百姓に格下げになったが、
  この様な逆境の中で、農書や地誌などの著述に励んだ。
  「耕稼春秋」は、北陸の農業事情を細大もらさず網羅
 し、論じた、必見の書として珍重された。
  室鳩巣も激賞する江戸時代を代表する農書と言われて
 いる。
1707年、大ブリテン連合王国(イングランド・スコットラ
 ンド合同)成立した。
  ただし、1999年に、スコットランドの自治拡大政策に
 よってスコットランド議会は復活した。
  そして、2014年には、スコットランドの独立について
 の住民投票が行われた。
  色々な差別的状況があり、その中で、北海油田の利権
 については、
  油田が、スコットランドに存在していながら、
  その油田の利権は、完全にイギリス政府に握られてい
 る。
  そして、人口が、国内の13%にとどまるロンドンに、
 開発が集中し、その格差が大きいことにも一因がある。
  そしてまた、雇用の享受も、ロンドンに大きく存在し
 ている状態になっている。
1708年閏1月、宝永通宝(ほうえいつうほう)が鋳造された。
  銅銭不足の解消が目的だった。
  そして、貨幣流通を円滑化させたいとした銅貨だった。
  しかし、大銭と俗称される大型の銭のため、評判が悪
 かった。
  翌年の1709年には、通用が停止されてしまった。
  1枚が、並銭の10文相当とされ、十文銭とも言われた。
  この頃の宝永期は、貨幣の発行や流通において、混乱
 がはなはだしく、銅貨が少ない状態だった。
  そのため、両替商が、その様な状況において、不当な
 利益を得る状態となっていた。
  幕府は、その様な状況ゆえに、鋳造を命じたのだった。
  しかし、10文銭は不慣れもあって、評判が良くなく、
 翌年には通用停止になったのだった。
1708年2月28日、富士山の噴火による灰金(火山灰の除去費
 用)として、この年に、「諸国高役金令」を公布した。
  大名や旗本らに、金を差し出させることとした。
  その結果、幕府に、40万両が集まった。
1708年2月28日、政策:福祉税、
  富士山が噴火して、降灰のあった地域の救済のため、
 また、被災地復興のため、諸国に国役金(高役金)を課
 した。
1708年8月、キリスト教宣教師が屋久島に来る。
  キリスト教イエズス会の聖職者(ジョバンニ・バチス
 タ・シドッチ)が屋久島に来た。
  島の百姓に発見され、長崎へ送られた。
  そして、翌年の1709年に、江戸に送られ、新井白石か
 ら外国事情を聴取された。
  この事を、白石は、1715年に「西洋紀聞」という本に
 著した。
  地理・歴史・風俗・宗教などを記した本である。
  新井家にあったその本は、1793年に、幕府に献上され、
 知識人の間で知られるようになった、
  そして、一般的には、江戸市中へは、1807年に流布さ
 れた。。
  シドッチは、キリスト教徒が、南米などで卑劣な殺戮
 をしたことを隠し、「住民が進んでいる西洋人の支配を
 求めた」と嘘の説明をした。
  真実を、白石に知らせなかった。
  しかし、白石は明晰に、ことの流れから、当然、植民
 地の収奪が行われていると見抜いていた。
  また、シドッチは、原住民の方たちを「禽獣に等しい」
 と表現したり、
  「何も知らない原住民」と蔑んだり、
  「食人種だ」とかと、蔑視表現をした。
  キリスト教の考え方・教義に洗脳されたシドッチであ
 り、
  そのキリスト教の有色人種蔑視の、先住民の方たちへ
 の見方であるのだろうが、
  その様な卑劣なキリスト教の有色人種蔑視の態度で、
 白石と対話をしていた。
  白石は、「キリスト教の神が全人類を善人に出来る事
 が出来ない(人間側のアクションにおいてしかそうなら
 ない)」ことなどのシドッチの発言を批判している。
  また「キリスト教を知らない者までも罪人とする」と
 批判を呈している。
  当然、西洋の魔女に対する卑劣な拷問の様な事を、日
 本は、シドッチに対して行なっていない。
  シドッチには江戸に邸が与えられた。
1708年12月5日、関孝和(数学者)が没した(1642年~
 1708年)
1708年、令:物価抑制、
  幕府が、江戸市中に物価抑制を布告した。
1708年、出版:貝原益軒(かいばらえきけん、本草学者、
 儒学者)が、「大和木草(やまとほんぞう)」を著した
 (1709年刊)
  名の通り本草書である。
  明治時代に生物学や農学の教本が西洋から輸入される
 までは、日本史上最高峰の生物学書であり、農学書だっ
 た。
  薬用植物(動物、鉱物も含む)以外にも、農産物や無
 用の雑草にまでも記載されている。
  この書によって、日本の本草学(薬用植物を扱う学問)
 は博物学となった。
  この書の素晴らしい所は、当時、漢名のないものは無
 視されていたが、
  この書は、丁寧に日本独自のものにも日を当てている。
  ここに、益軒の自ら観察し、検証することを基本とし
 た貴重な学問的記述がなされていた。
1708年、司法:芝居の支配権、
  京都の傀儡子(くぐつし、旅芸人の集団)が、弾左衛
 門(だんざえもん)が興行を妨害したと、江戸町奉行に
 訴えた。
  芝居の支配権につき、弾左衛門(だんざえもん)と芝
 居者があらそい、弾左衛門が敗訴の記録が作成される。
1709年2月19日、5代将軍・綱吉が没した。
  家宣(いえのぶ)が、6代将軍となった(1662年~
 1712年)(将軍期間:1709年~1712年)
  「生類憐みの令」を撤廃した。
  また、中野犬小屋が廃止され、イノシシなどの鉄砲で
 の撃ち取りも解禁になった。
1709年6月、人事:間部詮房(まなべあきふさ)
  徳川家宣が、間部詮房を老中格側用人として登用し、
 新井白石を幕政に参画させた。
  間部は白石を励まし、能力を引き出した人だという。
 また、白石も間部について「君子の様な、生質きわめて
 美なるところあり」と評している。
1709年11月、初代・坂田藤十郎が没した。
  上方歌舞伎の基礎を築き、作者に近松門左衛門を得て
 多くの名作を残した。
1709年、東大寺大仏殿が出来上がった(現存、国宝)
1709年、新井白石が、シドッチを尋問し、後に「西洋紀聞」
  などを著した。
1709年、清朝の離宮の円明園(えんめいえん)の造営が始
 まる(イギリスの蛮行・破壊を受けた人類の遺産)。
  雍正帝(ようせいてい)が、康熙帝(こうきてい)より譲
 り受けたものを、乾隆帝(けんりゅうてい)が、この年に、
 増改修した。
  面積は3.5平方キロメートルで、江南の風光を再現した
 大小無数の池が園内の大部分を占め、清朝宮廷の豪奢の
 限りを尽くしたものであったが、卑劣な事に、1860年の
 アロー戦争の際に、イギリス軍が徹底的に破壊し、廃墟
 となった。
1709年、スエーデン王のカール12世が、ポルタワの戦いで
 ロシアに敗れ、トルコに亡命した(大北方戦争)。
  翌年、トルコが、ロシアと開戦。
1710年4月、白石が草案した武家諸法度を下す(宝永法度)。
  儒教の仁政思想に基づく法度。
1710年4月、宝永小判(ほうえいこばん)が通用開始された。
  1両としての額面を持つ小判だった。
  乾字小判(けんじこばん)とも呼ばれる。
  また、宝永小判および宝永一分判を総称して乾字金(
 けんじきん)と呼ぶ。
  乾字金発行に際して、元禄二朱判は通用停止となった。
  市中では依然として良質である慶長金の退蔵が行われ
 ていた。
  幕府は、これを引き出させようと色々したが、効果は
 薄かった。
1710年4月、萩原重秀(おぎわらしげひで)を罰す、
  1709年に綱吉が死去し、家宣の将軍就任後は、新井白
 石などの家宣の近臣たちとの関係が悪化した。
  そして、この年に、張り紙値段を勝手に引き下げよう
 として、将軍・家宣への拝謁を禁止された。
  しかし、わずか4日後には許された。
  そして、12月11日には、500石の加増を受けた(3700
 石へ)、
  1711年には、評定所での精勤ぶりを表彰され熨斗縮絹
 紬(のしちぢみけんちゅう)、越後縮(えちごちぢみ)
 などを与えられている。
  しかし、新井白石との関係は険悪で、度重なる弾劾を
 受け、家宣はついに折れて、1712年に、勘定奉行を罷免
 された。
  1713年に、没した(55歳)。
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2015年7月1日水曜日

(増補版)143D1/3:気になった事柄を集めた年表(1705年~1706年)

題:(増補版)143D1/3:気になった事柄を集めた年表(1705年~1706年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1705年、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)が生まれ
 た(1705年~1762年)
  カワウソを解剖し、その結果、陰陽五行説の人体の内
 景に疑問を抱き、1754年に、京都所司代の許可を得て死
 刑囚を解剖した。
  その観察した結果を、1759年に、解剖図録「蔵志」と
 して刊行した。
  これは、当時の医学界に大きな影響を与えた。
  この山脇東洋の影響を受けて、江戸で、杉田玄白と前
 野良沢らが、オランダ医学書の翻訳に着手した。
  山脇東洋は、日本の医学の近代化に、大きく貢献した
 人物。
1705年2月、演芸:竹田出雲(たけだいずも、浄瑠璃作者、
 座元)、
  初代・竹田出雲が、この年に、引退していた竹本義太
 夫を舞台に復帰させ、
  義太夫から竹本座の座元を譲り受け、座元に就任し、
 再建した。
  竹田出雲は近松の門人だった。
  顔見世興行では、座付作者の近松門左衛門と組んで、
 竹本義太夫を太夫としての浄瑠璃を上演した。
1705年、経済:藩札調査
  諸国通用の藩札を、この年に調査し、
  2年後の1707年に、幕府の発行する貨幣の流通に支障が
 あるとして、すべての藩札の使用を禁止した(宝永の札
 遣い停止令)。
  この禁止の解除は、1730年に行われた。
  領国の石高が、20万石以上の場合、通用期間25年、
  20万石以下であれば、通用期間15年とした。
  これには、諸藩の財政を救済する目的があった。
  この後、幕府の統制は、禁止と解除と揺れ動いて行く。
1705年、経済:銀相場の抑制を命じた
  江戸市中の銀相場の高騰につき、抑制を命じた。
1705年、幕府(綱吉)が、禁裏御料(領)の一万石を増進
 した。
  今まで、家康と秀忠からもあって、前後3回行われ、3
 万石余になった。
1705年、社会資本整備:大和川
  幕府が、鴻池と菱屋らの豪商の出資で、大阪の大和川
 を開削し、1000町歩余の新田を開いた。
1705年、政策:豪商の取り潰し
  大阪の代表的豪商の淀屋三郎右衛門(よどやさぶろう
 えもん、通称:辰五郎)が、幕府の奢侈(しゃし、度が
 過ぎた贅沢)禁止政策にふれ、闕所(けっしょ、全財産
 没収)・追放で、取り潰された。
  跡地は、堂島新地が開発されて、全国の米穀取引の中
 心となった。
  淀屋は、糸割符権、蔵米販売権、その他の特権を持っ
 ており、その店頭には米市がたった。
  豪奢な生活をし、ガラス天井をつくって金魚を放ち、
 涼を楽しんだという。
  その為、1705年のこの年に、町人の分限を越えた贅沢 
 のため、所払いの刑を受けた。
1705年、世相:おかげ参り
  伊勢へのおかげ参りが流行した。
  50日間で、参宮者が360万人に及んだ。
  伊勢神宮参詣の名目で、通行手形さえ発行してもらえ
 ば、実質的には、どの道を通って、何処へ旅をしても、
 あまり問題はなく、
  参詣を済ませた後には、京や大阪などの見物を、楽し
 むものも多かった。
  伊勢神宮参詣は、多くの庶民にとって一生に一度とも
 言える大きな夢であった。
  講もできて、無事に帰ると、帰還の祝が行われ、貧し
 くとも「講」の仕組みによって、一生に一度は、旅行の
 楽しみが味わえた。
1705年、農業:綿栽培
  この頃、摂津と河内の綿栽培は耕地の過半を占めた。
1705年、人物:徳川吉宗(とくがわよしむね)が紀州藩主
 となった。
  この年に、長兄の綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、
 三兄の頼職が後を継いだ。
  しかし、この年に、父の光貞、
  そして、頼職までが、半年のうちに病死した。
  四男に生まれた吉宗は、22歳で紀州徳川家を相続し、
 第5代藩主に就任した。
  藩主に就任する際、将軍の綱吉から偏諱を賜わり、吉
 宗と改名した。
  偏諱(へんき)とは、貴人などの二字名の中の一方の
 字を忌(い)み避けること。
1706年6月、宝字丁銀(ほうじちょうぎん)を鋳造する。
  この年から鋳造し、1710年まで鋳造され、1721年まで
 通用した。
  銀の含有量の関係から、旧銀貨との引き換えに対する
 増歩は、年々、割合の比率が大きくなった。
  1706年から1709年2月までは1.5%、5月までは2.5%、
 6月までは3.5%、1710年までは6%と順次引き上げられた。
  幕府は、市中にある品位の高い貨幣もすべて「無差別
 通用」との触書を出した。
  幕府は、富士山噴火や南海地震などの自然災害もあり、
 財政はますます困窮した。
  萩原重秀は、将軍の承諾なしで、短期間に次々と丁銀
 の吹替えを行ない、改鋳利益を得ようとした。
1706年、政策:奉公人の給金の引上げを禁ず。
1706年、物価政策:江戸市中の豆腐の値段が下がらず。
  江戸市中の豆腐が、非常な高値を続けた。
  江戸町奉行は、豆腐の製造に従事している者を問いた
 だした。
  しかし、原料の大豆が大幅に値下がりしているのに関
 わらず、豆腐の値段が下がらない、そして、その納得の
 いく説明が得られない・・となった。
  そこで、幕府は、豆腐の大幅値下げを命じた。
  多くの豆腐屋は値下げに応じたが、7軒の豆腐屋が苦塩
 や油糟(あぶらかす)の高値を理由に応じなかった。
  この7軒に対し、町奉行は営業停止にした。
  幕府は、ここの商品ごとに物価対策を行わなければな
 らなくなった。
  江戸南町奉行・大岡越前守忠相は、1723年10月に、「
 物価引き下げに関する意見書」を提出した。
  当時、談合が行われ、物価の操作が行われ、物価上昇
 の原因になっていた。
  幕府は、菜種の作付けを奨励したりした(物価を下げ
 るため)。
1706年、中国・清の第4代皇帝・康煕帝(こうきてい)は、
 中国の祭典の儀や、孔子礼拝、そして、先祖崇拝などの
 中国の儒教的儀礼(典礼)などを認める事について、
  中国のキリスト教聖職者は、布教に際して認めていた
 が、教皇が、典礼の参加を禁じたため、キリスト教の布
 教を禁止した。
  そして、典礼などを否認する否認派宣教師を追放した。
  キリスト教イエズス会は、中国の典礼を認めていて、
 キリスト教と中国宗教との妥協を受け入れていた。
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2015年6月29日月曜日

(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)

題:(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1702年、飛騨屋久兵衛が松前に渡り、尻別において唐檜(
 エゾマツ)の伐木事業を始めた。
1702年7月18日、事件:浅野家へおあずけ
  浅野長矩の弟の浅野大学(だいがく、浅野長広)が、
 広島藩主:浅野家へおあずけの身となった。
1702年、経済:江戸で地代・店賃が取り調べられた。
1702年閏8月、経済:金銀訴訟の相対済令(あいたいすまし
 れい)、享保の改革で発布された法令の一。
  前年までの金銀訴訟を相対済とした(金銀貸借や売掛
 金などの紛争の訴訟に公権力は関与しない)。
  訴訟事務の停滞を理由に、既往の金銭貸借の訴訟は受
 理せず、当事者間で解決させることとした。
1702年、経済:物価低減令
1702年、出版:新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ、
 歴史書)」が完成した。
  甲府藩主の徳川綱豊(後の、6代将軍家宣)に、1701年
 に、命じられていた。
  1600年からの80年間における、1万石以上の大名の337
 家について、その始封、襲封(しゅうほう、諸侯が領地
 をうけつぐこと)、廃除などを記したもの(由来と事績・
 業績を集録し、系図を付けた)。全13巻。
  本書は、幕藩体制の鳥瞰図(ちょうかんず)的役割を
 持つことのほか、政治の参考書であり、道徳教訓書でも
 あった。
  内容の優れた文章と、豊かな内容とによって、家宣は
 死ぬまで座右を離さなかったという。
  また、武家一般に広く読まれ、大名家で本書を備えな
 いものはなく、古今いまだその比を見ないと言われた。
  白石は、全精力を傾けて書いたため、「白髪満頭(頭
 が白髪・しらがで真っ白になった・・という意味らしい)」
 になったと告白している。
  実証主義を堅持し、学問的良心の強さがみられる。
  本書は、その後、権威ある著作として、標準的史書と
 として扱われ、よく引き合いにも出された。
1702年、イギリス:アン女王戦争が起きた(英仏植民地戦
 争、~1713年)
  スペイン継承戦争の際に、アメリカ大陸で行われてい
 た戦争。
  この戦争の結果、イギリスは、アメリカへの奴隷貿易
 の特権を得た(卑劣な権利の獲得)。
  また、ニューファンドランド、ノバスコシア、ハドソ
 ン湾沿岸地方の新たな領土を獲得し、獲得領土が拡大し
 た(カナダの東端地域で、ニューヨーク・ボストンの北
 方地域)。
  卑劣な事に、この後も、何度も戦争を繰り返す好戦国。
1702年、イギリスの利益収奪行為の「東インド会社」が、
 植民地の虐げ行為が行き過ぎと感じたのか、2社が合同さ
 れた(イギリスの行為を代行していた)。
  しかし、合同後も、この2社は、懲りずに新旧の2派を
 新たに作って対立した。
1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士が、吉良邸
 へ討ち入った(仇討ち)。
  そして、主君の仇である吉良義央を殺し、その首を泉
 岳寺にある主君・浅野長矩(ながのり)の墓前に捧(ささ)
 げた。
  雪は、前日に降り、実際は日陰に残っている程度だっ
 た。
  仇討の中心人物は、家老の大石良雄で、1701年4月21日
 の事件から、1年9ヶ月が経っていた。
  芥川龍之介に「或日の大石蔵之助」がある。
1703年3月20日(元禄16年2月4日)、赤穂浪士切腹
  赤穂浪士46士が切腹した。
  同日、吉良家当主の義周(きらよしちか、)は、幕府
 評定所に呼び出された結果、領地を没収され、家名が断
 絶した。
1703年、演芸:近松門左衛門が、「傾城三の車」を京都で
 上演した(忠臣蔵物のさきがけ)
  1701年の浅野内匠頭の殿中切傷と切腹、
  そして、翌々年の赤穂浪士討ち入りは、江戸の関心を
 集め、これに取材したおびただしい数の作品が、歌舞伎
 や人形浄瑠璃の舞台となった。
  最も早いものは、刃傷が行われたのと同年同月に、小
 栗判官的に脚色されて、江戸の山村座で上演された「東
 山栄華舞台」があり、
  次いで、浪士たちの切腹直後の曽我的に組まれた、江
 戸の中村座で演じられた「曙曽我夜討」と言われている。
  上演が確認できる最初の作品は、歌舞伎では、この時
 の、京都の早雲座二の替りの、近松門左衛門作「傾城三
 の車」である。
  その中の巻に、討入を示唆する場面がある。
1703年4月、事件:曾根崎心中
  醤油屋の手代の徳兵衛と遊女のお初が、大阪の曾根崎
 天神の森で心中した。
1703年5月、演芸:近松、大阪初演
  近松門左衛門が、「曾根崎心中」を、大阪の竹本座で
 初演した。
  この頃、上方で心中が流行した。
1703年、交通政策:借駕篭の数を制限した。
  江戸で、借駕篭の数を600挺に制限した。
  そして後に、さらに300挺にした。
1703年、出版:室鳩巣(むろきゅうそう、儒学者)
  室鳩巣が「赤穂義人録(あこうぎじんろく)」を著し
 た。
  赤穂義士の仇討の一件を、赤穂義士を褒(ほ)め称(
 たた)える立場で、漢文で記した書。
  赤穂浪士の関係書物としては、最も早く流布した。
1703年、世相:打ちこわし
  長崎の町人が、米の買い占めを行なっていた米商を打
 ちこわした。
1703年、ピョートル1世(ロシア)が、ペテルブルグ(後の
 レニングラード)建設を開始した(要塞と港湾都市)。
  そして、1713年に、遷都した。
  ピュートル1世は、西欧技術・文化の輸入を図り、富国
 強兵に努めた。
1704年2月、初代・市川団十郎(いちかわだんじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1660年~1704年)
  元禄時代を代表する名優。市川家の宗家。
  俳優の生島半六に舞台で刺殺された。屋号は成田屋。
  祖先は広州の武士で、後に下総国(千葉県成田市)に
 移住して農を営んだ。
1704年、交通政策:助郷の取締り
  宿駅問屋場に役人を置き、無用の助郷を取り締まった。
  助郷(すけごう)は、宿駅常備の人馬が不足する場合、
 その補充のために、宿駅近くの村々に課された夫役(ぶ
 やく)。
  この助郷は、1694年に制度化されたが、助郷負担の見
 返りに出る手当は微々たるものであり、
  河止めにでもなれば、何日も拘束されるなど、
  その間、農作業が出来ないなど負担が重かった。
  その為、助郷の免除願いが出されたり、出勤簿だけ書
 いて逃走したりと、
  負担回避のための行動が行われた。
  また、この制度を悪用して、
  農民から金銭を集めて代役を安く雇い、利益を貪(む
 さぼ)る者も出た。
  雇われた人足は「雲助」と呼ばれた。
  年々、助郷の人数や、召集の回数が、次第に多くなり、
 農民は、農業が出来なくなり、百姓を止める人や、離散
 者が増えた。
  助郷一揆が、発生した例もある。
1704年、政治:綱吉の将軍世子
  甲府城主が徳川綱豊を将軍世子とし、家宣と改名させ
 た。
  綱吉が、継嗣子を得られず、甥の甲府の徳川綱豊(綱
 吉の兄・綱重の子)を将軍職後継者に定めた。
1704年、天災・洪水:利根川に洪水が起きた。
1704年、芸術:尾形光琳(おがたこうりん、画家、工芸家)
 が、江戸に下り、大名や豪商らの支持を得た(1658年~
 1716年)
  光琳は、5年ほど江戸に滞在した後、1709年に、京都へ
 戻っている。
1704年、社会資本整備:大和川
  幕府が、大和川の付替え工事に着手した。
  岸和田・三田・明石・高取・丹羽・柏原藩などの助役
 により付替工事が完成した。
1704年、清で典礼問題が起こり、ローマ法王が、軍隊式に
 組織されていたイエズス会を異端とした。
  このイエズス会は、資金を得るため商業を営んでもい
 た。
  法王の勅書を守らないイエズス会司祭を破門にした。
1704年8月、イギリスが、ジブラルタルを占領した。
  スペイン継承戦争における戦闘の一つ。
  イギリスは、地中海の橋頭堡を得たいと、1703年に、
 まず、ポルトガルのリスボンを海軍の寄港地とし、
  オーストリアを同盟軍に招き入れ、
  イギリス・オランダ艦隊にオーストリア軍も乗せて派
 遣し、紆余曲折の後、スペイン南端の港湾都市ジブラル
 タルを守備するスペイン軍を降伏させ、占領した。
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2015年6月27日土曜日

(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1701年)

題:(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1701年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1700年頃、この頃、東南アジアだけで、世界経済の4分の1
 を生み出していた。
  この経済的恵みと活力が、先進諸国の欲の対象となっ
 てしまった。
1701年1月、契沖(けいちゅう、国学者)が没した(1640年
 ~1701年)
  徳川光圀から託されて万葉集の注釈をし、『万葉代匠
 記』として完成した。
1701年3月、事件:赤穂~吉良、刃傷
  赤穂藩主の浅野長矩(あさのながのり)が、江戸城中
 で吉良義央(よしなか)を傷害し、即日、切腹、領地没
 収となった。
1701年4月、赤穂城の城明け渡し、
  幕府は、脇坂安照と木下公定を赤穂城受渡使に任命し、
 長矩の弟の浅野大学を閉門とした。
1701年、経済政策:アイヌ交易
  根室のアイヌ交易の場所が開かれた。
  因みに、1754年には国後にアイヌ交易所を設置した。
  ロシア人の千島列島の南下はこれ以降である。
  松前藩は、17世紀の初頭から、道東の厚岸(あっけし)
 を中継地として、千島交易を行なっていた。
  飛騨屋久兵衛が請け負っていた。
  ロシア人は、17世紀の末になってカムチャッカを征服し
 てから後に、そこを足場にして南下を開始した。
1701年、経済政策:集荷と流通の管理
  銀座加役として大阪に銀座を設け、集荷・流通を管理
 した。
  幕府は、この年に、輸出銅を確保するために、銀座加役
 として大阪に銅座を設け、産銅の独占をはかった。
  大部分が長崎輸出銅にあてられていた別子銅山の産銅
 は、18世紀に入り次第に減った。
  その為、銅を確保する必要があった。
  日本の銅は、高品質で、この日本産の銅で、イギリスは
 大砲を作った。
  この性能の良い大砲によって、イギリスは、イスパニ
 ア(スペイン)の無敵艦隊を破ることができた。
  イスパニアも、この銅を欲しがったが、イギリスが独
 占し、流出を防いだ。
  この無敵艦隊の敗れたことによって、世界史が大きく
 変わって行った。
1701年、産業:友禅染(ゆうぜんぞめ)
  この頃、宮崎友禅斎が、光琳の画法に学んで友禅染を
 開いた。
1701年6月、イギリスの王位継承法が成立した。
  イギリスでは、17世紀の初めから、どろどろとした王位
 の継承についての争いが、約100年に渡って、国王と議会
 とで争って来た。
  それの終止符を打ちたいと言うのが「権利章典」だった
 ・・が、しかし・・、
  と言う事で、イギリスでは先に「権利章典」(1689年)
 によって王位の継承順位は定められていたが、しかし、
 アン女王に男系相続人が居なかった。
  そのため、王位がローマ・カトリック教徒で、勝手に
 大王位の継承者だと名乗るJ.F.E.スチュアートに王位が
 移る恐れが生じた。
  そこで、急遽、法律を作って補充した。
  ドイツのハノーファー家への王位継承を定めた。
1701年~1714年、スペイン継承戦争(けいしょう)が起き
 た。
  スペイン(イスパニア)の王位継承をめぐり、イギリ
 スとフランスの対抗を主軸として、戦争がなされた。
  スペイン王に世継ぎの子供が無いのが原因だった。
  フランスのルイ14世の孫のアンジュー公フィリップ(
 後のフェリペ5世)を相続者と定めた。
  フランス・スペインに対して、イギリス・オーストリ
 ア・オランダの争い、そして、ユトレヒト条約が締結さ
 れた。
  フランスの強大化が嫌だったイギリスだった。
  1700年に、スペイン王が没すると、遺言によってフラ
 ンス王の孫が、スペイン領の全土を相続した(スペイン
 のハプスブルグ家が断絶し、ブルボン家が王位についた)。
  これを、オーストリアは認めなかった。
  イギリスとオランダは、スペイン領に関心を持ってい
 た。
  また、新大陸貿易を確保したいとの観点から、フラン
 スとスペインの提携に反対した。
  また、王位継承権を主張するオーストリアとも同盟を
 結んだ。
  そして、この3国は、宣戦を布告した。
  最初こそフランス優勢であったが、劣勢となった。
  そこで、ルイ14世は講和を決意した。
  しかし、最初の講和の妥協はならず、決裂し、戦争継
 続となった。
  しかし、一時的には、フランスも持ち直したが、常に、
 守勢だった。
  イギリスの政権が替わり、戦争終結へ機運が熟し、条
 約の締結へと向かった。
  この戦いの結果、フランスとスペインは、多くの領土
 を失った(ユトレヒト条約)。
  この後も、オーストリアは、戦争を継続ししたが、翌
 年に、ラスタット条約で終結した。
  なお、この戦争と並行して、新大陸では、アン女王戦
 争が戦われていた。
1701年、プロセイン王国(ホーエンツォレルン朝)成立。
  プロイセン王国は、首都がベルリンのブランデンブル
 ク選帝候国と、東のプロイセン公国とが合同して形成さ
 れた王国。
  1701年に、プロイセン王国と名前を変えた。
  鴨長明の「方丈記」ではないが・・、
  王位が欲しいと、戦いが頻発するヨーロッパ諸国の「
 かつ消え、かつ結びて・・」の世界だった。
..
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2015年6月26日金曜日

(増補版)140D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1700年)

題:(増補版)140D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1700年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1700年、人口(18世紀はじめ):
  18世紀初めの江戸の人口は、100万人前後だった。
  因みに、大阪は35万人、京都は40万人だった。
  日本全体では、3000万人前後と推定されている。
1700年、経済政策:両替比率を定めた。
  金銀銭の三貨の比価(金1両=銀60匁=銭4貫文)を定
 めた。
  江戸を中心にしての使用通貨は、金を遣う経済圏で、
 大阪は銀遣い経済圏だった。
  また、九州は銭経済圏だったと言われている。
  この地域の差における違い、また変動もあり、交換比
 率を調整し、定める事は重要だった。
  また、幕藩体制は、石高制によってなされ、市中の経
 済は貨幣経済で、
  その貨幣経済下で、経済成長するため、石高制の伸び
 の反映がなされにくかった。そのため・・、
  幕府の収入の石高価値は減価し、幕府も藩も財政難に
 陥りやすいという傾向と問題があった。
  そこで貨幣の発行権のある幕府は、改鋳して貨幣発行
 益を得たりもした。
  この度重なる改鋳は、特に、銀貨の価値を大きく低下
 させた。
  交換比率改定の必要性はここにもあった。
  海外への大量の金流出も、この問題を引き起こした。
1700年、交通・運搬政策の育成と課税
  江戸三伝馬町助成(育成)のため、大八車・借駕篭に
 焼印し、極印賃(ごくいんちん)を課税した。
  伝馬町(てんまちょう)は、幕府・大名の命ずる交通・
 通信業務を従う伝馬役を負担している町だった。
  江戸には、江戸府内から五街道にかかる人足、伝馬の
 継立てを、幕府の命により行う三つの伝馬町があった。
  また、荷物運送も含め育成する必要もあった。
  大八車(だいはちぐるま)は、当時の画期的な運送手
 段だった(因みに、大阪では大八車は使用されなかった。
 大阪はべか車)。
  大八車による事故が多発したという。
  江戸の大工の八左衛門が発明したので大八車と言う(
 建築資材運搬として発明)。
  大八車が、飼料代不要で、馬を必要としないので急激
 に増え、伝馬町の馬持ちの荷物を奪う事になった。
  その為、大八車に課税して、その金で伝馬町を育成し
 た。
1700年、幕府が、旅人・老人幼児・婦人・病者ら以外の借
 駕篭の使用を禁止した。
  これも伝馬町の育成のためだった。
1700年、出版:鳥居清信(とりいきよのぶ、浮世絵師)
  鳥居清信画の絵本「風流四方屏風(びょうぶ)」が刊
 行した。
  歌舞伎絵の名門で、看板絵で好評を博した。
  菱川師宣(ひしかわもろのぶ)に学んだ。
1700年頃、産業:ひもの(干物)
  この頃、「ひもの作り」が始まった。
1700年、毛利氏のこの頃・・長州藩は・・、、
  関ケ原からおよそ1世紀を過ぎた頃、長州藩は、銀4万
 貫にのぼる膨大な負債に苦しんだ・・が、
  年収の10倍を超える藩債を処理するのに、ただただ『
 倹約』をする事しか知らなかった。
  改革が始まるのは、人材養成組織である「藩校・明倫
 館(めいりんかん)」を創設(1719年)まで待たねばな
 らなかった。
  因みに、水戸藩の弘道館や、岡山藩の閑谷黌(しずた
 にこう)とともに、日本三大藩校という。
  反幕資金・・、
  18世紀の初めころ、長州藩は、瀬戸内海方面を盛んに
 干拓し、
  幕末には、「長州藩の実質は100万石」と言われた。
  ほかに、殖産事業を盛んに行ない、特に、塩の収入は
 桁はずれに大きかった。
  全国600万石ぐらいのうち、長州藩は100万石を生産し
 た。
  製塩すると、すぐ三田尻港から内国貿易の船に積み込
 んだ。
  上方へ行く塩船は、脚のはやい菱垣(ひしがき)廻船
 とか樽(たる)廻船といわれる船種であった。
  北前航路へ向かう船は、その船形からドングリ船とい
 われたように頑丈でずんぐりしており積載量が大きい。
  そのかわり速力は遅かった。
  日本海岸から蝦夷地まで塩を売って行った。
  長州藩の藩庫は、このようにして、農業本位の諸藩と
 は比べ物にならぬほどに豊かになった。
  それが、反幕運動資金として流出していく(街道をゆ
 く1)
1700年、芸術:狩野派
  狩野派の絵が琉球に。また、琉球の絵師が中国に。
18世紀、キリスト教国の『スペイン』と『ポルトガル』の
 蛮行。
  ブラジルとアルゼンチンにはさまれた国・パラグアイ。
  スペインは、このパラグアイから東進して領土を奪っ
 て行った。
  ポルトガルは、ブラジルを南下しながら領土を奪って
 行った。
  この両国が、18世紀に入って、領土を奪い合って衝突
 した。
  この衝突は、『トルデシーリャス条約』を空文化した。
1700年、オランダ貿易船の入港を5隻を許す。清船は8隻、
18世紀、マレーシアへ、18世紀にオランダが侵入した。
1700年、ベルリンで気象観測が開始された。
1700年11月30日、不凍港が欲しいロシア
 ナルワの戦いでスウェーデンが、ロシアを破った。
  北方戦争(または大北方戦争)が勃発した。
  この年、スエーデン王のカール12世が、ナルワ(ナル
 ヴァ)の戦いで、ピョートル1世のロシア軍を破った。
  三十年戦争以来、ヨーロッパ東北部で強勢を誇ってい
 たスエーデン。
  これに対して、ロシアと、ポーランドと、デンマーク
 が戦いを挑んだ戦争だった。
  三十年戦争で、スエーデンは、ウエストファリア条約
 により、バルト海南岸や北部ドイツの大河川の河口域を
 手に入れ、
  また、海峡の制海権をデンマークから得たりと、にわ
 かに強国となっていた。
  それ以後、欧州列強(イギリス・フランス・オランダ)
 は、スエーデンを味方につけようとうごめていた。
  しかし、オランダとスエーデンは、長年のライバルだ
 った。
  三十年戦争でも戦った。
  やはり、領土の取り合いだった。
  ロシアは、河川が多いが、すべて、その河口は、他国
 領だった。
  海へ出ようとしても出られなかった。
  その都度、スエーデンやポーランドに邪魔された。
  そんなロシアに変化が出たのは、1698年に、ピョート
 ル1世が政権の座についてからだった。
  彼の幼少の時のロシアは、悲惨だった。
  彼は、富国のために、交易を盛んにしたい、不凍港が
 欲しいと考えた。
  そこで、オスマントルコが領有する黒海を狙った。
  思う様には行かなかった。
  応援を得たいと、1697年に、西欧諸国へ対トルコ戦の
 援助を求めた。
  しかし、その要請の旅先で、
  また、諸情勢を見たり、技術を学びたいと出掛けた彼
 が見たのは、虚弱な不安定なスペインだけで、
  トルコと戦おうとする国は一つとして無かった。
  トルコと長年の宿敵のオーストリアでさえ、スペイン
 継承戦争に備えて、トルコと和平を結んでいた(カルロ
 ヴィッツ条約)。
  そこで彼は、不凍港の矛先をバルト海へ向けたのだっ
 た。
  北方戦争は、1721年まで続いた。
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2015年6月25日木曜日

(増補版)139D1/3:気になった事柄を集めた年表(1699年~1699年)

題:(増補版)139D1/3:気になった事柄を集めた年表(1699年~1699年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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17世紀、キリスト教法王の煽り立てた『魔女旋風』
  この迷信と残虐な魔女旋風が、
  中世前期の暗黒時代において
  また、ルネッサンスの最盛期において、吹きまくった。
  しかも、この旋風の目の中に立って、これを煽り立て
 た人たちが、無知蒙昧な町や地方の一般の方々ではなく、
 歴代のキリスト教の法王だった。
  魔女は、昔からいたにもかかわらず、
  キリスト教会が権威と権力を使って、
  全世界に張り巡らしたこの上なく組織的なキリスト教会
 の魔女裁判によって、魔女狩りをした。
  この様な事は、キリスト教を信仰するキリスト教国以
 外にはなく、
  かつ、この時期、1600年頃をピークとする前後3世紀か
 ら4世紀の長い長い期間、この悪事は行われた。
  17世紀の末には、新大陸のアメリカにまでおよんで可
 哀想な方々が大勢出た。
17世紀、インドネシア:イスラム化が17世紀に完了した。
  それ以後、オランダが進出し、19世紀初めに植民地と
 された。
17世紀、タージ・マハール:
  タージ・マハールはニューデリーの南方250キロメート
 ルのアグラにあり、世界で最も美しい一つとされる。
  アグラは、17世紀初めにムガル帝国の首都となった。
17世紀、ヨーロッパの危機:
  各地に民衆の暴動が勃発した時期であり、
  また、30年戦争というキリスト教を因とする悲惨な長
 い戦争があり、
  ペストの流行で人々が死に、人口が減少した。
  また、穀物生産の不振があり、その背景として小氷河
 期ともいわれる寒冷化現象があった。
17世紀末、アメリカ先住民のインディアンの方々
  アメリカの先住民のインディアンの方々は、
  可哀想な事に、17世紀の末には、アメリカ大西洋岸か
 ら駆逐され、一掃されてしまった。
  それまでの、アメリカ・インディアンの方々の意思は、
 無視され、戦争ばかりとなっていた。
  アメリカの独立の背景には、弱者のアメリカ・インデ
 ィアンの先住民の方々が居ります。
  しかし、強力な武器を持った白人のアメリカ人によっ
 て、17世紀の末には、アメリカ大西洋岸(アメリカの東
 海岸)から駆逐され、そして一掃させられてしまいまし
 た。
  イギリス国王は、『7年戦争後のアパラチア山脈以西へ
 のイギリス人植民者の入植を禁止した宣言』を出してい
 ました。
   先住民のインディアンの方たちは、この宣言が「7年戦
 争の後には、イギリス人の入植がない」ということで、
 「自分たちの土地が守られている」と解釈しました(も
 ともと自分たちの土地なんだから・・)。
   そのため、アメリカのイギリスからの独立を目指す独
 立戦争において、インディアンの方たちはイギリス側に
 ついて戦いました(自分たちの領土が、土地が戻って来
 ると・・)。
   しかし、独立戦争後、アメリカは「アパラチア山脈か
 らミシシッピー川に至る広大な土地をイギリスから得た
 (先住民の方たちに関する話はまったく無し)」。
  この事に対する先住民のインディアンの方たちの落胆
 は大きかった。当然だった。
  インディアンの方たちの意思は、まったく無視され、
 理解されず、
  そして、インディアンの先住民の方々の権利へも、ま
 ったく配慮されない、理解も示されない、これ等・土地
 に関する取り決めでした。
  インディアンの方たちは、この事について抗議の行動
 を起こしました。
   これ等の土地をめぐって、アメリカとインディアン先
 住民の方たちとの戦争が起き、激化して行きました。
   1787年の『北西部条例』で、ミシシッピー川以東の土
 地がアメリカ人に開放されました(インディアンの方た
 ちからの収奪)。
  まったく自分勝手な条例、インディアンの方達への説
 得や相談などの意思の疎通の機会はまったくありません
 でした。
   事は必然的に紛糾しました。
  また、紛争は激増しました。
   アメリカは、卑劣にも、戦い方において残虐さが増し
 た。
   アメリカは、先住民の方々の女性や子供を容赦なく殺
 した、殺戮した。
  多数の犠牲者が出ました。
   無限定戦争でした(白人同士の戦争とは違う戦争の意
 識です。
  白人同士なら「将校は狙わない」とかという事をする
 が、
  キリスト教の考え方・教義による有色人種蔑視から来
 る無限定戦争は、女性や子供も無限定に殺戮する。
  東京大空襲や広島・長崎の原爆投下なども無限定戦争
 です。
  無差別に住民を焼き殺しました。
  当時、国際法でこの様な行為をしてはいけないという
 法規が明確に存在していました。
  この国際法違反です。
  これは裁かれなくてはいけません。
  アメリカは、この法律によって裁かれなくてはいけま
 せん。
  アメリカは無実ではありません)。
   アメリカの白人と先住の民のインディアンの方々との
 戦いも、悲惨さが、より大きいこの無限定戦争が繰り返
 されました。
   イギリス人との白人間の独立戦争では、戦争の自制観
 が見られましたが、インディアンの方たちに対する対先
 住民戦争では『無限定戦争観』による戦闘でした。
   それで、戦争にまったく関係のない方々(女性や子供
 たちなど)への悲惨な多くの犠牲者を生みました。
   (「野蛮」視した異人種に対するという態度です)。
  キリスト教の原住民蔑視の思想・考え方は、南米・中
 米・北米メキシコ及びその離島などでも、非常に多くの
 殺戮が現出し、見られましたが、
  また、アフリカの方々への有色人種の方々へ対して、
 『人間ではない』との発言が、キリスト教聖職者の発言
 として記録されて居りますが、
  アメリカのこの戦いにおいてもその状況でした。
  (異人種や先住民への蔑視)。
  戦争で決着させるキリスト教の持つ宗教観がありまし
 た。
  キリスト教の生まれた地、その錯綜する人種・民族間
 で富の奪い合いの戦争の歴史は繰り返されていました。
  この様なDNA・教義をキリスト教は持っています、「異
 教徒は殺せ」などのキリスト教の教義なのです。
  (参考):限定戦争は、その定義に基づけば敵の殲滅
 によって戦争を終わらせる戦争ではなく、
  より限定的な目標を達成することを勝利とした戦争。
  限定戦争では、その目的を制限することによって、戦
 争に投入する軍事的手段を制限し、
  かつ可能な限り少ない費用で平和を達成するよう努力
 しなければならない。
  戦略理論において、この限定戦争の原理は、目的と手
 段の適合として説明されている。
  リデル・ハートは、戦争状態にある国家の目的とは、
 可能な限り少ない人的、経済的な損失で敵の抵抗する意
 思を屈服させることであると論じている。
  つまり、敵に対する作戦を考える上では敵の意思を打
 ち砕くことと損失を最小化することが重要であり、無闇
 に敵の軍事能力を破壊するために犠牲を増やしてはなら
 ない。
  しかし、インディアンの方々や、東京大空襲や、広島・
 長崎の原爆などには、この原理が働かなかった。卑劣な
 殺戮だけがあった。
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2015年6月24日水曜日

(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)

題:(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1698年、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者、蘭学者)が生
 まれた(1698年~1769年)
  魚屋の一人息子として生まれる。
  8代将軍・徳川吉宗は、飢饉のときの救荒作物として西
 日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培
 を混用に命じた。
  昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)と下総国と上総
 国において試作した。
  この功績で、享保の大飢饉に役立ち、以降、関東地方
 や離島において、サツマイモ栽培は普及した。
  天明の大飢饉のときには、多くの人々の命を救った。
  昆陽は、幕臣となった。
  千葉県幕張には昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さ
 ま」として祀られている。
  また、千葉県九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥
 の地」の碑が建てられている。
1698年6月、備後福山藩に百姓一揆が起きた。
  備後国(びんごのくに、広島県東部)、この地は、た
 びたび百姓一揆がおこり、特に、1717年~1718年、1786
 年~1787年に起こった惣百姓一揆(そうびゃくじょうい
 っき)は有名。
  惣百姓一揆は、初期の代表訴訟型一揆と異なり、全村
 民による一揆で、
  村役人層に指導され、大規模で、政治的要求を掲げた
 一揆だった。
  しばしば全藩的規模に及んだ。
1698年12月、木下順庵(きのしたじゅんあん、儒者・朱子
 学者)が没する。
  将軍・綱吉の侍講になった(1682年)、
  新井白石・室鳩巣らの多数の門人がいる。
1698年、経済政策:永小作地
  幕府が、20年以上の小作地を永小作地とし、奉公人の
 年季制限を撤廃した。
  永小作(えいこさく)は、世襲小作ともいい、これは、
 普通小作と比較し、地主に対して小作人の権利が非常に
 強い点に特徴がある。
  耕作権は無期限で、公租公課の負担、農業用水の管理・
 利用、土地改良などの主体も小作人にあった。
1698年、鉱山:試掘(鉱山開発)
  諸国の金銀銅山の試掘を命じた。
  幕府が、各藩に鉱山開発を指示した。
1698年8月、社会資本整備:永代橋の架橋
  隅田川に永代橋が架橋された。
  現在の位置よりも100メートル上流の地点。
  5代将軍・綱吉の50歳を祝したものという。
  また、1702年の赤穂浪士の吉良邸討入では、上野介の
 首を揚げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かったという。
1698年、出版:戸田茂睡(とだもすい、国学者、歌人)が、
 歌学書「梨本集(なしのもとしゅう)」を著した。
  (1629年~1706年)
1698年、処罰:多賀朝湖(たがちょうこ、画家、芸人、英
 一蝶、はなぶさいっちょう)が、三宅島に配流された。
  色々な名前が一杯ある人。
  生類憐みの令の違反での流罪。
  家族のために画材を要求して送らせ、絵を描いている。
  今でも、その絵が新島・御蔵島に残っている。
  綱吉の死の1709年に、大赦によって許され、12年ぶり
 に江戸へ帰った。
1698年9月6日、江戸で大火(勅額火事・ちょくがくかじ)
  新橋南鍋町から出火し、強い南風のため遠く北方の千
 住まで延焼した。
  大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町屋1万8703戸、
 326町を焼いた。
1698年、内藤新宿が設置された。
  現在の新宿区新宿の発祥の地で、高遠藩内藤氏下屋敷
 の近くに新設された。
  甲州街道の道中の第一宿。
  江戸周辺の東海道の品川、日光道中の千住、中山道の
 板橋とともに四宿と呼ばれた。
  江戸浅草阿部川町の名主の喜兵衛ほか4人の出願によっ
 て、この年に置かれた新しい宿駅。
1698年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、老中
 の上に列せられた。
  徳川綱吉の小姓から出世して行った。
1698年、イギリスの卑劣な植民地搾取の会社「東インド会
 社」の儲け過ぎで、本国のイギリス社会は大騒ぎになっ
 ている、・・欲の世界(餓鬼界)である。
  そして、この年、この騒ぎをおさめようと、第2の会社
 の設立が許可された(搾取側のイギリスが、勝手に許可
 したのであって、搾取される側のインドの方々は大きな
 迷惑だった)。
  文句を言っている者たちへも許可したのである。
  安易なイギリスの解決策だった。
  たまらないのは搾取される弱者の植民地国のインドの
 方々だった。
  卑劣にもイギリスの搾取会社の2社により富の収奪の
 上の、さらに強欲な奪われ行為がなされて行く。
  これでも、イギリスは『正義だ』と言ったのだろう、
 今・現代のTPPの様に・・。
  当然、強者のイギリスの2社は、激しい強奪競争の利益
 のむしり取りを始めた。
  当然の卑劣のむしり取り競争であった。
1699年、世相:米不足
  江戸の米穀不足で、諸代官へ江戸廻米を命じた。
1699年、世相:生活苦の旗本
  生活苦の旗本と御家人に賑救金(しんきゅう、施し物
 をして貧民などを救うこと)を賦与し、救済した。
1699年、令:酒造制限令が出された。
1699年、芸術と作陶:乾山焼(けんざんやき)
  仁清の陶法を伝授された尾形乾山が、京都鳴滝(なる
 たき)で楽焼き風の陶器・乾山焼を始めた。
  兄の尾形光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し、洛中
 の人気を集めた。
1699年、イギリスに広東貿易(かんとんぼうえき)を許可。
  中国の清代における広州の海外貿易。
  1685年に、清朝の海禁(かいきん、海外渡航と貿易の
 禁止)が解かれ、海外貿易が許されていた。
  広東1港のみに限定し、独占的商人のみによって行わ
 れた貿易体制だった。
1699年、カルロヴィッツ条約が締結された。
  オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和
 条約。
  オスマン帝国は、17世紀後半に、オーストリア・ベネ
 チア・ポーランド・ロシアと戦い、大きな版図を築いて
 いたが、大トルコ戦争など種々の戦いを経て、ヨーロッ
 パにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされる状況に至
 った。
  戦争の後期には、戦線が膠着し、末期には、ゼンタの
 戦いなどの戦闘はあったが、
  ほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉となった。
  そして、この年に、オスマン・トルコは領土を割譲し、
 ヨーロッパからの退却となった。
17世紀、有色人種蔑視:見世物
  キリスト教で有色人種蔑視に洗脳されたヨーロッパで、
 アフリカの黒人の方たちやアメリカ大陸のインディオの
 方たちが、見世物として、猿やヒヒと一緒に、陳列させ
 られていた。
  非人道的諸国=キリスト教の諸国家だった。
17世紀~18世紀、奴隷貿易。
  広くは15世紀から19世紀の前半まで、
  ヨーロッパとアメリカのキリスト教諸国によってなさ
 れていた非人道的に極まった極悪行為・人身売買。
  欧米のキリスト教諸国は、安い労働力を得たいと、人
 を物同然に、金にものを言わせて買いに行った。
  現地も、その要求に応じた。
  そこには、確実に、キリスト教の考え方・教義によっ
 て洗脳された、正しい判断が阻害され、正しく判断が出
 来ない状況下で、極悪行為は行われていた。
  黒人の方々を、人と見ない見方は、キリスト教には、
 古代の古い昔からあったことが、記録にあるが、
  この奴隷貿易が行われるはるか以前の1452年に、キリ
 スト教のローマ法王が、
  『異教徒を永遠の奴隷とすることは正当である』と、
 奴隷を良しとする許可を与えていた。
  また、卑劣な事に、『非キリスト教圏の国を侵略する
 事を正当だ』ともした。
  この卑劣極まりない許可によって、最悪行為はなされ
 ていた。
  当然、日本においても行なわれた。
  アメリカの綿花栽培、ポルトガルの砂糖のプランテー
 ション経営、フランスが行なった「銃器を渡して、奴隷
 を連れて来る行為」(武器と人との卑劣な交換行為)、
  イギリスの奴隷狩り商人の跋扈(ばっこ)、イギリス
 のマンチェスター綿工業の資本家の黒人の方々の安い労
 働力を使おうという悪知恵・悪巧み、奴隷貿易の主導権
 者・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス、
  アフリカの1200万人~1500万人の方々が奴隷にされ、
 犠牲になった。
  キリスト教の洗脳により、人権がまったく考えられな
 かったため、大西洋を渡る奴隷船の中の、最悪な環境、
 過酷な状況の中に置かされた多くの黒人の方々は、亡く
 なった、
  日本人も、ザビエルなどのキリスト教宣教師と共に行
 われた南蛮貿易において、特に、日本人女性が、奴隷と
 して、多数が連れ出された(目撃されている)。
  豊臣秀吉も、秀吉の臣下も確認して、その状況を知っ
 ており、激怒し、即刻、キリスト教の禁教令を出した。
  秀吉が、キリスト教宣教師のガスパール・コエリョへ、
 人身売買を詰問したのは有名、
  そして、その結果を受けて、秀吉は、即日、奴隷の売
 買を含む南蛮貿易の禁止と、キリスト教の布教を禁じた。
..
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2015年6月22日月曜日

(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)

題:(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1697年7月、元禄地方直(げんろくじかたなおし)
  幕府が、御蔵米地方直令を出し、
  500俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方
 直の方針を打ち出した。
  勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主動で実施され
 た。
  天領から米を運搬する費用が掛かる蔵米給付の方が幕
 府にとっての財政負担は大きい・・そして、一方、
  当時の武士は、蔵米取よりも、知行取の方を格上と考
 えており、
  蔵米支給から知行取に変わることを、旗本たちは出世
 ととらえ、
  幕府も、知行取への変更を褒章の一環としていた。
1697年10月、酒運上(酒屋運上)を令した。
  酒運上(さけうんじょう)は酒造税。
  幕府は、売価の3分の1を酒運上を課すことを全国に布
 達した。
  これは、飲酒の制限の意味もあった。
  1709年に廃止された。
1697年、経済政策:新貨との交換を命ず
  幕府が、古金銀の通用期間を限り、新貨との交換を命
 じた。
  1698年限りで、運用停止すると触書を出したが、引き
 換えが進捗せず、退蔵する者が多かった。
  これは、今までの貨幣の方が、金の含有量が多く、品
 位の高い小判であることが、誰が見ても明らかだった。
  結局、割増通用(現行の小判より何割か価値が高いも
 のとして通用させる)という形で、幕末まで流通してい
 た。
  しかし、この割増も退蔵する方が得だったため、交換
 は思うように進捗しなかった。
  元禄金は、量目(質量)こそ、慶長金に等しかったが、
 金に対し密度の低い銀を、多く含むため、分厚く白っぽ
 いものとなった。
  そのため、品位が低下したことは、誰の目にも明らか
 だった。
  また、脆(もろ)く折れやすいものであったため、評
 判は悪かった。
1697年、政策:大名管理
  幕府が、諸国の有力大名に、郷帳と国絵図の提出を命
 じた(居城の絵図、国絵図、海陸の道筋など)。
  また、旗本・寺社へも国絵図の改訂と郷帳面の提出を
 命じた。
1697年、大名管理・吉宗
  徳川吉宗が14歳の時、第5代将軍の綱吉に江戸城内で拝
 謁(お目見え)し、越前国丹生郡所領3万石を与えられ、
 葛野藩主となった(立藩した)。
1697年4月、ガルダン汗自殺、
  外モンゴルが、清の支配下にはいる。
  しかし、この服毒自殺は、清朝で編纂された漢文資料
 に記されているが、史実ではないという指摘もある。
  病死の説である。
  翌年(1698年)清の版図となった。
1697年、ロシア人が、カムチャッカまで到達した。
  コサックの探検隊が、この年に、カムチャッカに、初
 めて到達した。
  日本人の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が行
 く85年前だった。
  大黒屋光太夫(1751年~1828年)は、伊勢国の廻船の
 船頭で、
  嵐のため、1782年に、江戸へ向かう廻船が漂流し、7ヶ
 月の漂流ののち、アリューシャン列島に漂着した。
 (当時は、ロシア領のアラスカ)。
  先住民のアレウト人や、毛皮収穫のための滞在してい
 たロシア人に遭遇し、彼らと共に暮らし、ロシア語を習
 得した。
  4年後の1787年に、ありあわせの材料で船を造り、ロシ
 ア人らと島を脱出する。
  カムチャッカ・オホーツク・ヤクーツクを経由して、
 イルクーツクに、1789年に、至る。
  ここで、日本に来るラクスマンらに会う。
  サンクトペテルブルグへ、1791年に、向い、ロシア帝
 国の帝都で、女帝のエカチェリーナ2世に謁見した。
  帰国を願い出て、漂流から9年半後、磯吉と小吉との3
 名は、根室に帰国した。
  帰国後、将軍・家斉の御前で、聞き取りを受け、幕府
 は、光太夫を活用して、ロシアとの交渉を計画したが、
 うまく行かなかった。
  江戸屋敷を与えられ、異国の見聞を伝えた。
  蘭学者の桂川甫周による聞き取りの「北槎聞略」が史
 料として残された。
  光太夫は、妻も江戸でもらい、帰国も許され、帰国し
 ている。
  また、故郷から光太夫らの親族も江戸に訪ねて来てい
 る。広く知識人らと交際を持った。
  北槎聞略(ほくさぶんりゃく、江戸時代の漂流記録書)
 (宮永孝訳)に、
  「ロシア人に助けられた光太夫達は、住み家もあてが
 われ食事も与えられたが、
  この年の冬はまれにみる飢饉が訪れ、魚しか口に入れ
 ないため、面倒を見てくれている郡官を困らせる。
  この年、先述にあるように世界中が大飢饉となっている
 ことを当人達は知るよしもなかった・・。
  ビタミンCの不足(壊血病)で与惣松・勘太郎・藤蔵が
 死に、オルレアンコフ長官(郡官)に諭されるのである。
 「あなた方はみな、伊勢の生まれとか称して、つね日頃、
 獣の肉を口に入れなかったが、このような飢饉の時に至
 ってまで、そんな禁忌を守っていては飢え死にするより
 外はありません。
  先ずこの牛肉を食べて一命をつなぎ、食料が十分に手
 に入ったなら、肉を食べないでもいいではありませんか」
1697年、ライスワイク条約(ファルツ承継戦争終結)
  ファルツ選帝侯領の相続をめぐり、
  フランスのルイ14世と、ドイツ・イギリス・オラン
 ダ・スペイン・サボイア(フランスの一部)との間に、
 1689年から戦争が続いていた。
  この戦争の講和がなされた。
  フランスは、イギリスに対し、ウィリアム3世の王位を
 認め、
  また、その相続者のアンに王位継承権を認めた。
  そして、ドイツは、ストラスブール以外の占領地を返
 して、ライン川の右岸から撤兵するとなった。
  勝利者はいない。
  ただただ、戦争で殺し合っただけ、
  そして、厭戦気分が出て、戦争を止めただけ。
  戦争ばかりのヨーロッパだった。
1697年、イギリス・本国の「東インド会社」が、市民の襲
 撃を受けた。
  「貨物を掠奪せんと騒ぐ」・・とある。
  あまりにも、イギリスの一部だけが、
  市民もびっくりするほど莫大な金を、
  インドの方々から巻き上げて、得ているため、
  インドの方々のために、怒ったという訳ではなく、
  そのイギリスの莫大な富を得ている一部の悪漢たちに
 対し、その独り占めしている事に対して、怒ったのであ
 った。
  市民がだまっていられないほどの搾取だった。
  分け前を寄越せの欲得の、餓鬼の騒ぎだった。
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2015年6月21日日曜日

(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)

題:(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1694年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が老中に就
 任した。
  側用人の柳沢吉保を老中に準じる。
1694年、物流:問屋仲間成立
  大阪から江戸への物資輸送を円滑にするため、荷受け
 問屋を糾合して江戸十組問屋仲間を成立(結成)する。
  十組問屋(とくみどんや)は、江戸で組織された各種
 の荷受け問屋組合のこと。
  江戸と大坂間の海上輸送の不正や、遭難による損害を
 防ぐために組織された。
1694年、大坂に24組問屋(にじゅうよくみどんや)が成立
 した。
  大阪菱垣廻船積問屋二十四組ともいう。
  江戸の十組問屋と結んで、大阪から江戸へ積み出す荷
 物を独占的に取り扱った。
1694年、物流:荷物運送を容認
  信州中馬の荷物運送を容認した。
  中馬(ちゅうま)は、信州の農民が行なった馬背を利
 用した輸送業。
  伊那地方の農民が農閑期の余業として2~3頭の手馬で
 物資を目的地まで運送したのに始まる。
  信州以外に、尾張・三河・駿河・相模・江戸にまでと
 活動範囲は広がった。
  重要な運送手段となった。
1694年7月27日、イングランド銀行が設立された。
  W・パターソンが、イギリス王のウィリアム3世の財政
 難を助けるため設立した。
  名誉革命の直後は、国家の財政は赤字ばかりだった(
 戦争ばかりしているからだ、結局、これも、対仏戦の戦
 費調達となった)
  代償に銀行券の発行権を得て、120万ポンドの資金を公
 募し、銀行としての株式会社として設立された。
1695年2月、政策:関東の幕領の検地が行われた。
  関東郡代の伊奈忠篤の支配地で、1696年2月21日付けで
 実施された検地は、総石高が40万石び、これは、天領の
 10%に及んだ。
  やり方は、支配地の代官ではなく、近隣の大名、また
 は、別の代官が実施した。
  田畑の位付けを細分化し、名請人は小農や小作百姓も
 検地帳に登録し、隠田を摘発した。
  また、開墾可能な土地は、山林や原野、荒地や湖沼地
 帯も検地し、台帳に記載した。
  そのようにして石盛(こくもり、見積生産高のこと)
 を高めるという方法で行われた。
  武蔵国世田谷の村々では、石盛が2倍や3倍になるなど、
 検地は厳しいものであったが、
  生産技術が進歩したことによる生産量の増加が、石高
 の大幅な上昇をもたらしていた。
1695年8月、諸国の鉱山の採掘を奨励した。
1695年8月、経済:貨幣の改鋳(初めての改鋳)
  5代将軍・徳川綱吉の臣下・勘定吟味役・荻原重秀の建
 策で、財政赤字解消のため、金貨・銀貨を改鋳した(元
 禄金銀・げんろくきんぎん)、
  以後も、改鋳で年平均50万両の収入をあげる。
  元字金銀(げんじきんぎん)ともいう。
  この頃、米が値下がりし、米を売って生計を立ててい
 た武士や農民の収入が減り、デフレ経済に陥っていた。
  荻原は、それまでの「慶長小判」を回収して溶かし、
 「元禄小判」に作り替えた。
  大きさは同じだが、含まれる金の割合を約3分の2にし
 た。
  慶長小判2枚を元禄小判3枚にした。
  1枚あたりの価値が下がった元禄小判は、借りやすくな
 って活発に使われ(流通の活発化)、元禄の太平の世を
 作り出した。
1695年10月17日、凶作:奥羽地方が大冷害で、奥羽と北陸
 が凶作となり、餓死者が多数出た。
  幕府は、10月17日に、凶作の救済のため、津軽藩主・
 津軽信寿(のぶひさ)に米3万俵を貸与した。
1695年11月、江戸の犬を中野犬小屋に収容し、養った。
1695年、旧金銀貨幣との混用を布令した。
1695年、出版:西川如見(にしかわじょけん、天文暦学者)
 が「華夷通商考(かいつうしょうこう)」を著した。
  中国はじめ諸外国の位置・風土・人口・産物・風俗な
 どを記した海外一般の地誌。
  著者が、オランダ人との接触を通じて得た海外事情を、
 通商の立場から書いている。
  1708年には、アメリカの記事を「職方外記」から邦訳
 して補充している。
1695年、イギリスの悪行が露見
  イギリスの卑劣な行為が、この年に、白日の下に、一
 般大衆の知るところとなった。
  イギリス王室が讃美して始められた「東インド会社」。
  この実質的にはイギリスという国そのものであるこの
 会社は、人を殺し、騙(だま)し、そして、この賄賂と、
 悪い事ばかりしている。
  インドを含めて、弱い植民地の諸国を虐げている行為
 も軽蔑するが、
  この年に、非人間的な行為でもって、稼ぎに稼いだ金
 でもって、その悪貨を賄賂に使って、自分たちに有利に
 事を運んでいた事が暴露された。
  イギリスを正しい方向へ導くべき人たちに対し、賄賂
 が贈られていて、黙らせていた。
  臆面なく、賄賂を受け取った者たちも大悪漢である。
  その収賄していた者たちが、政治家を含む者たちが牢
 屋に入れられた。
  6年間だけで107万ポンドもの大金が賄賂に使われてい
 た。
1696年、経済政策:値段書付を提出させる
  江戸で町屋敷値段書付を提出させた。
1696年、交通:大井川渡渉制度ができた。
  この年に、川越制度ができ、川庄屋が置かれた。
  川会所は、この制度に基づき、川越賃銭の決定、渡渉
 順次の割り振りなど、川越業務の管理運営を行った所。
  大井川の管理や渡渉制度に、関わる運営を現地で行う
 川庄屋が任命された。
1696年、鉱山:阿仁銅山(あにどうざん)
  佐竹藩(秋田県北秋田郡)が、阿仁銅山を開いた。
  古くは金銀を算出、後に、銅山として栄えた。
1696年、農業:農書
  近畿地方の先進的な農業事情を記す江戸前期の代表的
 農書、宮崎安貞(みやざきやすさだ、安芸広島藩士)の
 「農業全書」がなる(翌1697年に刊行)
1696年4月、農業:塵芥利用の埋立て新田の許可
  幕府が、江戸町中の塵芥を利用して埋立新田を作るこ
 とを許した。
  幕府は、1649年に「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」
 しているが、
  家綱の時の1655年に、江戸市中のごミ処理令を出した。
  これは、江戸市中のごみを、江戸城下から離れた隅田
 川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務
 付けた。
  それまでは、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ
 廃棄していた。
  しかし、江戸の人口の急激な増加に伴って、この様な
 ごみ処理は、江戸市中の衛生状態を極度に悪化させた。
  また、1681年の綱吉の時に、江戸市中のごみ捨て場と
 して、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂付近)を
 定めた。
  そして、1696年4月30日に、ゴミ船で江戸市中の塵芥(
 じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島~上総(かずさ
 )間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可した。
  そして、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立て
 を命じ、そして、土地造成を更に進めた。
1696年4月11日、人事:荻原重秀(おぎわらしげひで)が、
 勘定奉行となった。
  そして、この日、250石を加増され(2000石)となった。 
1696年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒者)
  古文辞学派の祖・荻生徂徠が、柳沢吉保に召し抱えら
 れ、将軍・綱吉の学問相手を勤めた。
  徳川吉宗の時に、吉宗に「政談」を提出している。
1696年、ブラジルでゴールド・ラッシュ
  ブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見されて、ゴ
 ールドラッシュが起きた。
  インディオの方々やアフリカの方々を奴隷として酷使
 し、大量の金をポルトガル本国へ送った。
  金は、王や貴族の宮殿の装飾などに使われ、飾った。
1696年、露土戦争(1686年~1700年)で、ロシアのピョー
 トル1世が、トルコと戦い、この年、アゾフ占領(黒海北
 部)に成功した。
  露土戦争は、ロシア・オーストリア・ベネチア・ポー
 ランドのヨーロッパのキリスト教諸国の神聖同盟軍と、
 オスマン帝国との大トルコ戦争(1683年~1699年)の一
 部をなし、
  1700年に、コンスタンティノーブル条約が締結されて
 終戦した。
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2015年6月20日土曜日

(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)

題:(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1690年、イギリスは、ムガール帝国に17万ポンドの賠償を
 した。
  イギリス(東インド会社にしている)は、ムガール帝
 国に17万ポンドの償金(損害の償い金)を支払い・・、
  さらに、「将来この様な恥ずべき行為を繰り返しませ
 ん」という約束をされられ、再び、通商が許された。
  (イギリスは、1686年に、最初のインド遠征軍を派遣
 し、ムガール帝国軍と衝突、1690年に敗退した。ムガー
 ル帝国に賠償金17万ポンドを賠償した)(注:裏付けが
 薄い項目です)
1691年9月、熊沢蕃山(くまざわばんざん、陽明学者)が
 没した(1619年~1691年)
  中江藤樹に学んだ人。
1691年9月、土佐光起(とさみつおき、画家)が没する。
  (1617年~1691年)
1691年、教育:私塾・昌平坂学問所(しょうへいざかがく
 もんじょ)が移された。
  林羅山が設立した私塾に始まり、
  幕府が、この年に、上野忍岡の林家の邸を湯島へ移し、
 孔子廟を新築し、その地を昌平坂と名付けた。
  寛政の改革(1787年~1793年)の時、幕府直轄の学問
 所となった。
  朱子学を正学として幕臣・藩士などの教育にあたった。
1691年、教育:大学頭(だいがくのかみ)
  林鳳岡(はやしぼうこう、林鵞峰の次男)が、大学頭
 に任じられた。
  昌平坂学問所の長官、以後、林家が世襲した。
1691年、経済:為替
  三井高利が、御為替御用達になった。
  御用達(ごようたし、ごようたつ):幕府・大名・旗
 本・公家などに立入あるいは出入りする特権的な御用商
 人の格式。
1691年、交通:六郷
  多摩川の六郷橋が、1688年の大洪水で流失し、後に、
 渡船場となった、
  六郷渡船場が、1691年に、有料化され、一人6文、軽
 尻(からじり、旅人を載せるのに使われた馬)10文、
 乗掛(のりかけ)15文だった、
  乗掛とは、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(
 つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶ、
1691年、鉱山開発:別子銅山(べっしどうざん、愛媛県新
 居浜市の山麓部にあった銅山、日本の貿易や近代化に寄
 与した、住友家が巨大財閥になる礎となる)
  住友友芳(すみともともよし、住友家4代)に伊予の
 別子銅山の開発を許可した。
1691年9月、社会資本整備:干拓(日本の各地に、優秀な
 人材が居た)
  岡山藩の藩主・池田剛政が、この年に、藩士の津田永
 忠へ、沖新田の干拓を命じた。
  現在の岡山平野の耕地は、約25000ヘクタールだが、そ
 の内の約20000ヘクタールの80%がは、干拓によって得ら
 れていた。
  津田永忠(1640年~1707年)は、優秀な藩士だった。
  この沖新田の干拓のほか、倉田新田、幸島新田の干拓
 を行ない、
  また、百間川の開削をし、後楽園の造営をし、閑谷学
 校の建築などをした。
  土木・建築に才のある天才を発揮した。
  また、その才能は、藩政の改革、財政の再建と、めざ
 ましい業績を遺した。
1691年、駄賃増加の立札
  箱根に駄賃増加の立札が立てられた。
1691年、生物保護:諸鳥殺の防止
  幕府が、トビ・カラスが諸鳥を殺すことを防ぐため、
 これを捕らえて新島に放った。
1691年、人物:新井白石
  新井白石は、仕えていた堀田家が、大老の正俊の死後、
 財政が緊迫し、その影響で彼の家も暮らしが成り立たな
 くなったとて、1691年に、堀田家を辞任し、
 隅田川のほとりに塾を開いた。
1691年、文学:芭蕉一門
  芭蕉一門が「猿箕(さるみの、俳書)」を刊行した。
  芭蕉の「俳諧七部集」の第5集で、蕉風俳諧の円熟期
 の代表するもの。
1691年、オランダ東インド会社の医師のケンペルが、長崎
 から江戸を往復し、「江戸参府旅行日記」を記した。
  その記述の一部・・、
  1691年2月15日
  佐賀に着く。
  運河や川が流れ、それを利用して人々は有馬湾まで行
 くことができる。
  民家は小さく粗末で、大通りには物を作る仕事場や小
 売店が立ち並んでいる。
  住民は、均整がとれていて小柄である。
  この土地の女性は美しい。
  ただ、こってりと白粉を塗っているので、楽しげで朗
 らかな顔つきで、生気を示さないなら、操り人形だと思
 っただろう。
1692年、大仏の修復が完了
  東大寺の大仏修復が完了し、開眼供養が行われた。
  公慶の勧進が、公慶の思いが、民の心をやがて動かし、
 小さな寄進が積み重なって、この年に、大仏の修復は完
 了したのだった。
  そして、公慶は、次は大仏殿の再建だと、休む間もな
 く、江戸へ向かった。
1692年、間数絵図
  江戸町で間数絵図作成を命じた(元禄間数絵図)
1692年、工業:友禅染
  京都で友禅染が始まった。
  この頃、元禄模様が流行した。
1692年、文学:井原西鶴が「世間胸算用」を刊行した。
1693年9月、井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者、人
 形浄瑠璃作者、俳諧師)が没した(1642年~1693年)。
  「長持ちに 春かくれゆく 衣がへ」
1693年、政策:人別(戸籍)
  幕府が、流言者取締りのため、住民を人別に書上げさ
 せた。
1693年、生物保護:鷹場制度の廃止
  幕府が、鷹場制度を廃止し、鷹を野に放った。
1693年、新井白石が、徳川綱豊(後に家宣)の侍講となっ
 た。
1694年、三井高利(みついたかとし、三井財閥の基礎を築い
 た)が没した(1622年~1694年)
  伊勢松坂で米の売買や大名貸、郷貸で財をなし、スタ
 ートを切った。
1694年4月年、将軍が水戸光圀をして経書(けいしょ)を講
 ぜしめる。
  経書は、中国古代の聖賢の教えを述べた書物で、儒教
 の経典。四書・五経・十三経の類いを言う。
1694年11月28日、松尾芭蕉(まつおばしょう)が没した(
 1644年~1694年)
  病没だった。世界的に知られる俳諧師。
  51歳の秋、故郷の伊賀にしばし滞在したのち、9月に大
 阪へ向かう、門人のトラブルの仲裁の為とされる。
  その為か病を発し、弟子の家で療養。
  9月10日の夜に発熱と頭痛を訴え、伏す。一時回復。
  9月20日には俳席にも現れられるまで回復したが、29日
 夜に再び伏す。
  以後容態は悪化の一途をたどった。
  「いまだ気分もすぐれず、・・・発句もしかじか得つ
 かまつらず候」の状態が続いた。
  10月5日に、御堂筋の貸座敷に移り、門人たちの看病を
 受けた。
  しかし、10月8日に、最後を悟ったのか「病中吟」と称
 し、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と
 詠んだ。
  10月12日(旧暦)、申の刻(午前4時頃)に没した。
1694年、教育:学問と武芸奨励
  幕府が、旗本と御家人に学問と武芸を奨励した。
1694年、交通:助人馬提供
  東海道と中仙道の各宿に助人馬提供の村を割り当てた
 (助郷の始まり)
  助郷(すけごう)とは、宿駅常備の人馬が不足した時、
 その補充のために宿駅の近隣の村々に課された夫役(ぶ
 やく)として馬を差し出す。
1694年、祭り:賀茂葵祭
  京都の賀茂葵祭が再興され、内裏寝殿の御簾をはじめ、
 牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるま
 で、すべて葵の葉で飾るようになって、この名がある。
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2015年6月18日木曜日

(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)

題:(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1688年~1815年、イギリスは、この126年間のうち、実に64
 年間もの間、戦争をしている。
  50%以上が戦争をしている年(卑劣な好戦国家だ))
  この期間は、イギリスとフランスとの植民地の争奪戦
 だった。迷惑するのは戦場にされる植民地。
  イギリスはこんな事ばかりしている。
  そして、イギリスは、次に、ドイツをターゲットにし
 て、ドイツ叩きの戦争をして行く。
  そして、世界のあちこちで、
  武力で以って、
  先住の方々が、既に、居住して、生活しているのに関
 わらず、
  有色の人間は、人間と映らないキリスト教の教義・考
 え方に洗脳された見方で、
  まるで、その地が、無人島の如くの振舞いで、
  その先住の方々が生活する国々を奪い取って行った。
1689年、令:町屋建築禁止、
  江戸で、武家屋敷地内に町屋を建てることが禁止され
 た。
1689年、人事:北村季吟(きたむらきぎん、歌人)
  幕府が、北村季吟父子を招聘した(歌学方の初め)
  歌学方(かがくかた):歌書の研修・詠歌に関し、和
 歌に関する学問をつかさどった。
  北村家が世襲した。
1689年、文化:松尾芭蕉が、春に、「奥の細道」の旅に出
 た。
  「奥の細道」は俳諧紀行。
  門人の曽良を伴って、江戸深川から関東・奥羽・北陸
 の諸地を巡って、美濃の大垣まで至り、さらに伊勢神宮
 の参詣をしようと、9月6日に立つまでの紀行。
  著者の芭蕉の没後、だいぶ経って、1702年に刊行され
 た。
1689年、清とロシアとのネルチンスク条約(極東の露清の
 国境画定)
  16世紀末から、ロシアは、コサック兵によってシベリ
 ア征服をして行くが、
  17世紀中頃より、アムール川流域に進出し、その地を
 征服した。・・が、
  そこの先住民より貢租を徴収していた清国の勢力と衝
 突するようになった。
  1685年と1686年に、ロシアの前進基地のアルパジン城
 塞をめぐって、大規模な攻防戦が繰り返された。
  これをきっかけに、和平の気運が高まり、国境画定へ
 と向かった。
1689年12月、イギリスで権利章典が発布された(臣民の権
 利および自由を宣言し、王位継承を定める法律)
  これは、人間として、当然に有するべき『人権』を宣
 言するものではなかった。
  そして、これをもって議会の承認なく平時に常備軍を
 徴集するなと禁止された。
  また、軍の予算や軍の制度は、議会のチェックや承認
 を得ること・・とした。
  また、武器の携帯は合法だとした。
  そして、国教会を「体制の教会」だとした。
1689年~1697年、ウィリアム王戦争(卑劣な植民地戦争)
  英仏の植民地戦争が、アメリカ新大陸で起きた。
  まったく関係のない、他人の地で、英仏は戦った。
  カナダ東部のケベック州で戦われた。
  イギリスは、ケベック攻略に失敗した。
  フランスはインディアンの方々を利用する卑劣な戦い
 方をした。
  インディアンの方々は命は奪われたが、何ら、見返り
 は無かった。
1689年、モンテスキューが生まれた(1689年~1755年)
  フランスの哲学者(フランス絶対王政を批判した)。
  「法の精神」を著した(政治理論書)、
1689年~1697年、ファルツ継承戦争
  卑劣な戦争ばかりのヨーロッパ、
  フランスのルイ14世は、領土拡張の野心が一杯だった。
  イギリスの名誉革命で、フランスに亡命した元イギリ
 ス王のジェームス2世は、フランスのルイ14世の応援を受
 けて、アイルランドに上陸した(名誉革命の復讐的だっ
 た、こんな形でしか軍を動かせない王だった)。イギリ
 スの背後を突く作戦だった。
  フランス軍は、ネーデルランド・ドイツ・アルプス地
 方を、次々と攻撃して行った。
  スペインにも入った。
  フランスは手を広げすぎていた。
  アルプス地方のサヴォイを脱落させたところで、和平
 の機運が盛り上がった。
  1697年9月に、ライスワイク条約を締結して、戦争は終
 わった。
1689年、寛容法(イギリス)
  イギリス議会は、カトリック以外の宗教を認めた。
  イングランド国教で国家統制をしているのだが、
 このイングランド国教以外の非国教徒(しかし、プロテ
 スタントに限るとした・・)にも、当然の事なのだが、
 信教の自由を認めた(だから、寛容だと言った)。
  これを、議会は採択した。カトリックと、えげつなく
 宗教対立をしているのに「寛容法」と名付けた。
  この後、ピューリタン(清教徒)の方々が迫害される
 (アメリカへ逃げる、非寛容なイギリスだった)。
  宗教的に寛容でも何でもないイギリスだった、名前だ
 けの「寛容法」だった。
  国王を統括者としていて、自由なんてない状態だった(
 国教支配体制下に置かれていた)。
  キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」「魔女は生かし
 ておいてはならない」などの卑劣な教義は、依然として
 残っている。
1690年、米の取れ高
  この頃の日本の米の取れ高は、2577万石。
1690年、教育:寺子屋の隆盛
  私塾・寺子屋の隆盛した。
  17世紀の末ごろ、いわゆる元禄時代がその高揚の発端
 となっていて、上からの庶民教化重視の時期とほぼ一致
 した。
1690年、教育:湯島の聖堂
  上野忍岡の聖堂を湯島に移した、これが、昌平坂学問
 所のおこりとなった。
1690年、建築:この頃、寺社の造営・修復が盛ん。
1690年、工業:高級織物・友禅染
  錦・絹織物の国内生産の発達は、17世紀末以降の経済
 的発展の中で進み、加速された。
  その質も、だんだん高級化し、幕府の倹約令にもかか
 わらず、羽二重・紗綾(さや、卍模様などの光沢ある絹
 織物)・繻子織(しゅす)などの高級織物の生産技術が
 発達した。
  それと並行して、友禅染などの染色技術も進歩した。
  また、歌舞伎の影響もあって、大都市の風俗を形成し
 て行った。
1690年、人物:新井白石・貿易無用論
  白石の著書の「折りたく柴の記(おりたくしばのき)」
 は、白石の自叙伝であるが、これは、1716年に、幕政中
 枢から失脚した白石が、家宣の厚い恩恵に浴しつつ、幕
 政に尽力した自分の立場を、子孫に語り残すことを目的
 に綴った。
  この中で、新井白石は、貿易無用論を説いた。
  この影響から、識者の間で貿易無用が唱えられるよう
 になった。
  新井白石は、6代将軍・家宣と個人的に結びついていた
 存在で、幕府で役職は無かったから行政官僚とは言えな
 い。
  しかし、白石は、門閥格式を破って、一介の浪人から
 旗本に登用された一人だった。
  白石と親交を持ちつつ、正徳期の政局に重きをなした
 間部詮房(まなべあきふさ)は、猿楽師の弟子から、将
 軍・家宣の引き立てを得て、幕臣に登用され、側用人に
 まで上った人だった。
  ただ、家宣が死去して、幼少の7代将軍を擁した頃は、
 詮房・白石らの抜擢者に対する譜代門閥の風当たりは強
 まった。
1690年、税:川船から運上銀を徴収した(大阪)
1690年、文化:浮世絵
  17世紀の後半、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、浮世絵
 師、1618年~1694年)が、浮世絵を民衆芸術として大成
 し、これを木版の絵本、あるいは一枚刷りとして大量に
 印刷し、廉価に販売して、民衆に大いに普及させた。
  その後、印刷技術の進歩に伴い、錦絵の出現を見て、
 また、優れた作者を生んだ。
  この年に、「東海道分間絵図(とうかいどうぶんげん
 えず、東海道の状況を把握するための絵地図)」が刊行
 した(遠近道印と共著、おちこどういん)。
1690年、康熙帝(こうきてい、清の第4代皇帝、中国歴代最
 高の名君と言われる)が、ガルダン汗征討(1696年や、
 1697年にも)、
  ガルダン・ハーン(モンゴルの部族長)が2万の兵を率
 いて清の軍と戦った。激しい射撃戦だった。
 「康熙会典(こうきかいてん、基本法の総合的法典)」
 が、この年に、成った。
1690年5月、ドイツ人のケンペル(博物学者)が来日した。
 (~1692年まで)。
  ケンペルは、日本記事を書いた。
  エンゲルベルト・ケンペルは、オランダ東インド会社
 の医師として来日していた。
  日本の歴史・政治・社会・宗教・地理・動植物などを
 「日本誌」「江戸参府紀行」などを記した。
1690年、ジョン・ロック(イギリス)が、「市民政府二論
 (政治哲学の書、抵抗権など)」「人間悟性論(近世認
 識論の発端となった書)」を刊行した。
1690年、イギリスが、インドのカルカッタに商館を置いた。
  ここを基点にして貿易を本格化させて行く。
  イギリスは、この時、軍事基地も造っており、インド
 支配を強めていく。
  フランスと抗争が起こして行く(人の家に入って来て、
 戦争するなの感じ)
1690年代、この頃、ブラジル北東部に金が発見された。
  これは、良い話ではなかった。
  先住民の方たちは、インディオの方たちは、この鉱山
 で奴隷として働かされた。
  奴隷狩りが行われ、被害者となった。
  この残虐な行為者は、キリスト教徒のスペイン人とポ
 ルトガル人だった。
  何と、キリスト教聖職者も、奴隷狩りをするという破
 廉恥な状況をした。
  それまでは、平穏な、平和な土地だった。
  平和な時を過ごす先住民のインディオの方たちの生活
 があった。
  ブラジルのサンパウロ州などの海岸部の土地には、ポ
 ルトガル人がやってくる前には、数十万人のインディオ
 の方たちが幸せに暮らして居た。
  16世紀半ばの時点で、9000人程度にまで激減してしま
 った(50万人居たとしたって98%の方々が殺戮された)。
  インディオの方たちは殺戮から逃れ、内陸へ逃げた。
  ポルトガルは、その奪い取った地域を植民地とし、植
 民地政府を作った。
  一部のインディオの方たちは反抗した。
  反抗したトゥピ族の戦いは、反乱と報告された。
  これが、ポルトガルの植民地政府に絶好の口実を与え
 た。
  ポルトガル人たちは、進んだ兵器を使ってインディオ
 の方たちを殲滅した。
  そしてまた、インディオの方たちを捕虜にした。
  このキリスト教徒とキリスト教宣教師たちに、何の権
 利があるというのか?
  このポルトガル人たちは、インディオの方たちを奴隷
 とし、キリスト教の聖書が教えている教義と同じ行為を
 した。
  本国のポルトガルは、これは出先の組織がやったこと
 と、何ら責任をとる行為を行っていない。
  1558年に、3代目の総督メン・デ・サーは、インディオ
 に戦争を仕掛けた。
  そして、多くのインディオの方たちを捕虜にして獲得
 した。
  進んだ兵器を持っているポルトガルが、奴隷が欲しく
 なったので、戦争を仕掛けたのだった。「奴隷狩り」を
 したい、奴隷が欲しいという図だった。
  歴史には、『戦争』と書かれるだろうが?
  優れた兵器のマスケット銃と、剣で武装したポルトガ
 ル軍を前に、インディオの方たちは抵抗する術(すべ)
 は無かった。武器が違い過ぎた。
  また、ポルトガルは卑怯な事をした。
  捕らえたインディオの方たちに、武器を与え、別な種
 族を襲わせた。
  捕らえ捕虜を自分の兵にして、同じ民族のインディオ
 の方たちを襲わせて捕虜にし、捕虜を増やして行った。
  奴隷狩りで得た奴隷にした人たちに戦わせて、同じイ
 ンディオの方たちを奴隷にした。
  優れた武器を与えてやらせた。
  キリスト教の有色人種蔑視の考え方・教義に洗脳され
 たポルトガル人やスペイン人は、インディオの方たちを、
 家畜の様に好きなだけ酷使してかまわない、動物のよう
 な存在だと錯覚し、マインド・コントロールされていた。
  ポルトガル人やスペイン人は、自分では働こうとはぜ
 ず、家畜のようにインディオの方たちを働かせた。
  このポルトガル人の書いた記録が残っている、
  「ポルトガル人の入植者は、まず、農場を運営するた
 めの奴隷を確保しようとした。
  5人前後の奴隷を手に入れれば、無一物でも(裕福に悠
 々とやれたと記す)。
  奴隷の一人に魚を取らせ、一人に狩りをさせ、残りに
 開墾と畑仕事をさせる事で、家族が悠々と生活する事が
 出来た」と書いた。
  17世紀に入ると、ブラジルの東海岸は、ほとんどポル
 トガルの支配下に入った。
  ここのインディオの方たちが、奴隷として作った砂糖
 が、全ヨーロッパの砂糖の大部分を占めた。
  旨い汁を吸って、味を覚えたポルトガルは、この卑劣
 な方式の奴隷農園を拡大した。
  そして、止まることを知らないポルトガルの欲は、「
 鉱山」へ手を出して行った。
  奴隷の需要は、ますます増大した。
  このブラジルの、海岸地域での、奴隷供給は出来ない
 状態になっていた(取り尽くしたのだ)。
  ポルトガルは、サンパウロなどの町の「食い詰めた者
 たち」を雇って、より奥地でインディオ狩りをやらせた。
  食い詰め者たちは、インディオ狩りのため、奥地に入
 って行った。
  食い詰め者たちに、武器を持たせた。
  名目上は傭兵だった。
  続々と、インディオを求めて奥地へ入って行った。
  そして、村という村を襲って行った。
  そして、村人そっくりを奴隷とした。
  この奴隷狩りの舞台には、キリスト教宣教師も共に行
 動した。
  抵抗する男は容赦なく殺された(抵抗する者は無慈悲
 に殺すだった)。
  てんでんばらばらの家族が続出した。
  奴隷にされたインディオの方たちは、鎖につながれ、
 舟に乗せられ川を下って行った。
  まるで、ベルトコンベアに乗った如くに、農場や鉱山
 に売られ、供給された。
  もう、物と同然の扱いだった。
  人道的な面は、どこにも無かった。
  この様な行為を、今・現在、スペインやポルトガルで
 は、正当な行為として、お祭りをしている。
  この卑劣な、反省のない行為を糾弾する。
  また、恥の上塗りのお祭り行為は止めよ。
  また、この様な卑劣な行為を、止めるのではなく、一
 緒にやったキリスト教聖職者は書く、
  「乾いたヤシの葉で出来ていた(インディオの)村全
 体を完全に破壊し、放火して・・、奴隷になる事を拒ん
 だ者を、生きたまま、その中で、焼き殺した。
  武力を使わなくとも、圧倒され服従するインディオも
 あったが、
  それは、言語道断の欺瞞手段によってなされた。
  ポルトガル人は、まず、国王の名と誠意において、同
 盟と友好をインディオに約束するのだが、
  インディオが、警戒心を解いて、武器を捨てるや否や、
 インディオを取り押さえ、縛り上げて、ポルトガル人の
 間で奴隷として分配するか、この上ない残酷さで奴隷と
 して売りとばした」。
  白人入植者は、内陸の乾燥地へと侵入を繰り返し、次
 々と大きな牧場を作って行った。
  もとはインディオの方々の土地を、そこに住んでいた
 インディオの方たちを捕らえ、奴隷にするか殺して、そ
 の地を勝手に自分たちの土地とした。
  金が発見されると、奴隷狩りは、さらに悲惨さを増し
 た。
  1690年代に、ブラジル北東部に金が発見された。
  キリスト教宣教師も、奴隷獲得に狂奔した。
  キリスト教の宣教師の実態は、大農園主や牧場主と同
 じだった。
  キリスト教は、インディオの方たちの支配権を主張し
 た。
  キリスト教聖職者も、欲の塊の農園主などと何ら変わ
 りは無かった。
  キリスト教聖職者と入植者の争いがよく起こり、キリ
 スト教聖職者たちも奴隷狩りの遠征をした。
  キリスト教聖職者たちは、捕らえたインディオの方た
 ちに、自分の奴隷だと焼き印を押した。
  そして、自分たちの村で働かせた。
  こんな事をして、天のキリスト教の神も喜んだのか?
  16世紀に描かれた絵に、スペインが、インディオの方
 々を襲撃し、虐殺している絵が記録に残っている。
  ブラジルのサンターナ大聖堂は、奴隷狩りの収益で再
 建された。
  可哀想な事に、奴隷にされたインディオの方たちは、
 その生活の変わり方が酷(ひど)かったため、死亡率が
 高かった、自殺も多かった(悲観して)。
  スペイン・ポルトガル人は、インディオの方々を消耗
 品の如くに使った。
  そして、非人道的なスペイン・ポルトガル人は、イン
 ディオの方たちを消耗し尽くすと、
  今度は、アフリカから、アフリカの方々を奴隷として
 連れて来た。
  16世紀半ばから、またまた、非人道的な事を始めた。
  この悪行為は、1850年に、奴隷売買禁止までの300年
 もの長い期間、この悪行を続けた。
  この為に、数百万人ものアフリカの方々が犠牲になっ
 た。
  日本にも来たザビエル達のキリスト教宣教師たちは、
 曲者だった(特に、イエズス会がくせ者)。
  世界のあちこちで悪い事ばかりしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年6月16日火曜日

(増補版)133D1/3:気になった事柄を集めた年表(1686年~1688年)

題:(増補版)133D1/3:気になった事柄を集めた年表(1686年~1688年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1687年2月、生類憐みの令:
  幕府(5代将軍・徳川綱吉)が、初めて、生類憐みの令
 を出した(生類保護政策)
  この2月の令を初めとして、1709年までに、この令に関
 連する生類保護政策の令は、100通を越える令が出た。
  幕府が、病人、病牛馬の遺棄を禁じ、ついで、捨馬す
 る者への処罰例をあげて、諸国に高札で捨馬禁令を徹底
 させた。
  また、犬の愛護を命じ、江戸町などで犬の登録帳を作
 成させた。
  虫鳥の飼育を禁じ、野鳥獣をも哀れむべきこととした。
  ついで、全国の鉄砲改めを命じ、鳥獣害に対し空砲で
 のおどし以外の鉄砲利用を原則として禁止した。
1687年4月、田畑永代売買禁止
  今まで全国令ではなかったのが、この年に、土地の売
 買を禁止する全国令となった。
  この田畑永代売買禁止とともに、質にとった田畑の年
 貢納入の規定も出した。
1687年、浅草・品川両溜を設置した。
  溜(ため)とは病気になった囚人などを保護する施設。
  江戸の浅草と品川のほか、京都の悲田院村(悲田院・
 ひでんいん、と言えば仏教の慈悲思想に基づいて、貧し
 い人や孤児を救うために作られた施設)
  悲田院村は、悲田院が経営困難から泉涌寺(せんにゅ
 うじ)の寺地に移転し(1645年)悲田院村と称した。
1687年、熊沢蕃山(くまざわはんざん、陽明学者)の「大
 学或問(だいがくわくもん)」が、幕府の忌事に触れ、
 下総古河城内に蟄居された。
  熊沢蕃山は、中江藤樹の門下に入って陽明学を学んだ。
  岡山藩に出仕し、重用された。
  飢饉の折には救済に尽力する。
  また、藩政確立に尽力し、零細農民を救済した。
  治山治水を行い、農業政策も充実させた。
  しかし、陽明学者の点を批判を受け、そして、その著
 の「大学或門」で彼独自の経世論を展開し、幕政を批判
 したのだった。
1687年、令:一人旅の宿泊許可、
  一人旅でも不審がなければ、宿泊を許すように命じた。
1687年、文化:この頃、元禄文化が盛ん。
  元禄文化(げんろくぶんか):特に上方(京都、大阪)
 を中心に展開した町人文化。
  貨幣経済下で、町人の経済力が高められ、経済的実力
 を背景に開花し、華美な生活と遊興娯楽の余裕が町人に
 出た。
  文芸・演劇など、歌舞伎が盛行した。
1687年、文学:石川流宣(いしかわとものぶ、浮世絵師)
 の「本朝図鑑綱目(ほんちょうずかんこうもく)」が刊
 行された。
  本朝図鑑綱目は、浮世草子(小説の一種)で、道中図
 と武鑑(大名や江戸幕府の役人などの名前や石高や俸給
 や家紋など)を記している。
1687年、ダンビア(イギリス)が台風が猛烈な旋回暴風で
 ある事を知った。
1687年、ニュートン(イギリス)が、「自然哲学の数学的
 原理(プリンキピア)を刊行した。
  ニュートンの力学体系を解説した書。
1687年、ニュートンが運動の法則、「万有引力」を発見す
 る。
1687年、オスマン・トルコが、ハンガリーをオーストリア
 に奪回され、没落し始める。
1688年11月、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、
 綱吉の側用人になる。
  誠実な人と言われている。
  書に、「信アレバ徳アル故二、上意ニモ叶ヒ、家繁昌
 スト見ヘタリ」と記載している。
  南部直政(なんぶなおまさ)も側用人となる。
1688年、演芸:名女形
  この頃、初代の芳沢あやめ(よしざわ)が、上方で名
 女形の評判をとる。
1688年、和算:関孝和(せきたかかず)
  日本独特の発展を遂げた数学の和算は、ことに元禄時
 代の関孝和(1640年頃~1708年)が現れて、かなり高度
 の域にまで到達した。
  少年の頃、吉田光由(よしだみつよし)の「塵劫記(
 じんこうき)」で自習し大成したらしい。
  吉田光由は、「ねずみ算」など遊戯的問題や実用問題
 などを加える工夫を凝らした和算書を出した。
  塵劫記は、掛け算の九九などの基礎的知識や面積の求
 め方など身近な話題で解説し、この一冊で日常生活に必
 要な算術全般がほぼ網羅できた。
1688年、交通:旅人保護政策を発令
  幕府が、旅行中の発病者や死者の埋葬など旅人の保護
 政策を発令した。
1688年、肥料も自給肥料ばかりでなく、効果の高い金肥(
 かねごえ、きんぴ)、すなわち、購入肥料(油粕や魚肥)
 が用いられるようになった。
  しかし、金を出して肥料を買っても、増収分は年貢に
 もって行かれるような原則の働く米の生産にはあまり用
 いられない。
  生産者のもとに利益が残るような商品作物に向けられ
 た。
1688年、唐人屋敷:長崎に唐人屋敷を設けた(1689年説あり)。
  中国人の長崎市内雑居を認めていたが、密貿易の禁止、
 風紀取り締まり、キリスト教伝播防止などで居住を制限
 した。
1688年、中国船来航の制限された(密輸取り締まり)。
  密貿易を阻止するための施策。
1688年、新地開発:大阪堂島に新地(しんち)が開発され
 た。
  河川改修や海辺の埋め立てなどで、新たに造成され開
 けた土地(新地)によって、大阪の町は発展した。
  また、新地が繁栄するため、茶屋、煮売屋、風呂屋、
 芝居小屋などの営業を許可したため、難波(なんば)新
 地、曾根崎(そねざき)新地などが、大阪でも有数の繁
 華街となった。
1688年、出版界の隆盛は貸本屋
  儒書・仏書・神書・医書・往来物など、庶民生活にお
 ける教養・実用・娯楽など、多方面にわたる書籍が刊行
 された。
  この傾向は、元禄へ向かって一層盛んとなり、出版点
 数も元禄初年には、寛文末年の2倍に達した。
  その内容も、好色本を初めとして、俳諧書、物語、名
 所記や、
  役者・遊女の評判記など、庶民の好みに応じた本が増
 加した。
  出版事業を隆盛ならしめた。
  この出版界の隆盛は、貸本屋に依存するところが大き
 かった。
1688年、かぶき者が処刑された。
  大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)の200余人が捕ら
 えられ11人が処刑された。
  これが「かぶき者」の最後であった。
  大小神祇組は、旗本の水野成之が組織し、家臣4人を四
 天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用心
 頭(家老)を保昌独武者と名付け、江戸市中を異装で闊
 歩し、悪行・粗暴の限りを尽くしていた。
1688年、農業:技術の改良
  元禄期の農業技術の改良は、生産力の発達に連なった。
  ただ、改良に関係ある作物は、麦や綿であって、米で
 はなかった。
  つまり、技術の改良が年貢の対象となる米の生産に向
 けられず、商品作物に向けられていたことが重要な問題。
  勿論、米の生産技術も向上している・・が、
  しかし、生産力の発達は、年貢対象外の作物に著しく
 現れている。
  木綿・アブラナ・煙草などの商品作物の栽培は、石高
 制の盲点だった。
  石高制は、米の生産を前提としているため、商品作物
 は十分に把握できていなかった。
1688年、祭り:神田祭、初めて江戸城に入る。
  江戸城内で将軍の上覧を許された。
1688年、令:酒造制限令(しゅぞうせいげんれい)が出さ
 れた。
  幕府は、米価を調整する必要から、大口需要者である
 酒造業に対して制限をした。
  幕末まで、約60回、出された。
1688年、この頃、生類憐みの令で処罰される者が多い(~
 1690年まで)。
1688年、文化:和服の起源、現在のような形の和服の起源
 は元禄期に求められる。
  帯の幅が現在の様に広くなったのも元禄前後である。
1688年、文学:井原西鶴の「一目玉鉾(ひとめたまぼこ)」
 「日本永代蔵」が刊行された。
  「一目玉鉾」は、絵入りの地誌であり、第一巻は北海
 道に、はじまり奥州街道を江戸まで。第二卷は江戸より
 東海道を進んで大井川まで。第三卷は、同じく東海道を
 金谷から大坂「天満豊崎」まで。第四は大阪より瀬戸内
 海を通って長崎・壱岐・対馬・・・
1688年、文学:契沖(けいちゅう、国学者)の「万葉代匠
 記(まんようだいしょうき)」の初稿がなった。
  万葉代匠記は、万葉集の注釈書(徳川光圀の命によっ
 て1683年に着手された)。
  詳細で密な注が加えられており、以後の万葉集研究の
 基礎となった。
1688年、イギリスで名誉革命が起きた。
  実態は名誉でも何でもない。
  酷過ぎる王のため、まったく王側の軍の行動がなかっ
 たため、無血になっただけ。
1688年、フランスが、インドのシャンデルナゴルを占領し
 た。そして、商館を建てた。
  シャンデルナゴルは、インドの東方(ベンガル地方)
 のカルカッタの近くにある。経済的豊かな地。
  このフランスとイギリスはこの地を取り合う。
  悲惨な目に合うのはインドの方々だった。
  1757年のプラッシーの戦いでは、イギリス軍がフラン
 ス・ベンガル連合軍を破る。そして、イギリスが占領。
  イギリスとフランスは、インドの方々からうまい汁を
 吸い続ける。
1688年~1707年、せっせと海外の情報を輸入する元禄期
  元禄文化は、17世紀の終わり頃から18世紀初頭にかけ
 て、元禄時代(1688~1707)に、
  主に京都・大阪の上方中心に発展した文化。
  そして、この文化は、金銀で買い取ったと言っていい。
  日本は鎖国でも何でもない。
  昭和の一時期に、「鎖国と言った知識人(和辻哲郎)」
 のために、鎖国があったように、日本人は誤解し始める
 ・・が、これは間違い。
  盛んに、海外と交易をする国・日本だった。
  日本の金、銀、銅の流出は、当時の世界一の量だった。
  日本の品質も最高に良かった。
  別子銅山を持つ住友本家が、オランダの繁栄を支えた
 言われるくらいだった。
  日本は、『情報』の輸入を重視した。
  西洋事情に関する書物の輸入、
  そして、それを嚥下咀嚼(えんげそしゃく)して、日
 本の知識として、日本版を出版する点数は急増して行っ
 た。
  その嚥下咀嚼する高い知識を、当時の日本人も持って
 いた。
  輸入の1位は絹織物、
  2位が漢籍(かんぜき)などの知識書だった。
  学問も隆盛した。
  その他の輸入品は、木綿、砂糖、茶、香辛料、陶磁器
 などだった。
  「キリシタン禁止令(日本領土獲得の尖兵だったこと
 を、幕府は知っていた)」
  「貿易を一手に幕府に集め、統制下に置いた」
  「日本人の海外渡航を禁止」でもって鎖国と断じるの
 は間違い。
  キリスト教宣教師は、本国へ、「日本より先に中国の
 領土獲得行動をする方がよい」と報告している。
  また、幕府は、言論の自由を封殺するようなことを行
 っていない。
  そして、当時の日本は、中国や朝鮮に比べて、交易と
 情報交換を享受する自由を、相当程度、手にしていた。
..
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2015年6月14日日曜日

(増補版)132D1/3:気になった事柄を集めた年表(1683年~1686年)

題:(増補版)132D1/3:気になった事柄を集めた年表(1683年~1686年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1684年4月、出版取締令
  幕府が、江戸市中に出版取締令を公布した(書籍出版
 に禁令)
1684年8月~1685年4月、松尾芭蕉が東海道、木曽路を旅し
 た。
  芭蕉が、江戸・深川に隠棲(いんせい)して4年後の、
 数え41歳の時のこの年、旅に出た。
  東海道を上って近畿、木曽、甲斐・・と、行き倒れ覚
 悟で歩いた。
  『野ざらし紀行』と名付けた。
  「野ざらし」は、捨てられ風にさらされた髑髏(どく
 ろ)の意味。
  「のざらしを 心に風の しむ身かな」。
1684年10月、暦(こよみ)
  編暦の実権を公家の土御門家から天文方に移し、862年
 以来、用いられてきた宣明暦を改めて、翌年から貞享暦
 を用いる事とし施行した。
1684年10月、幕府が、渋川春海(しぶかわしゅんかい、貞
 享歴の作成者)の議により貞亨歴(じょうきょうれき)
 を採用し、春海は幕府天文方(てんもんかた)となった。
  天文方は、若年寄に属し、天文・歴術・地誌・測量・
 洋書翻訳などをつかさどった。
  安井算哲(さんてつ)改め渋川春海と称した。
1684年11月、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が生
 まれた(1684年~1751年、将軍期間1716年~1745年)
  徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として
 生まれる。
1684年、演芸:竹本義太夫が、大阪道頓堀に人形浄瑠璃の
 竹本座を開き、
  近松門左衛門作の「世継曽我(よつぎそが、曽我兄弟
 仇討の後日譚)」を初演した。(1685年2月説あり)
1684年、車善七(くるまぜんしち、非人頭、病気の囚人の
 保護を行う浅草溜を管理した)らが弾左衛門(だんざえ
 もん、非人頭、浅草を本拠とした)の支配から抜け出そ
 うとするが敗訴。
1684年、農業:会津農書(あいずのうしょ)
  佐瀬与次右衛門(させうよじえもん、会津の名主)が
 「会津農書」を著した。
  農業技術の研究と慣行の改良が記されている。
  極めて具体的に栽培、土壌、肥料、労力、東北の寒冷
 地農業技術などが記され、また、農民としての道徳面も
 記されていて、農業経営の指導書として高い価値を持つ。
1684年、事件:若年寄の稲葉正休(いなばまさやす)が、
 江戸城内で大老・堀田正俊を刺殺し、正休は、その場で
 殺され、稲葉家は改易となった。
  暗殺理由は不明。
1684年、社会資本整備:淀川
  河村瑞賢が、淀川下流の開削に着手し、翌年に安治川
 が完成し、西回り航路の水運路になった。
1684年、令:徳川幕府が、初めて服忌令(ぶっきりょう)
 を定める。喪に服すべき期間を定めた。
1684年、貿易:長崎貿易の市法交易を止め、糸割符制を再
 興(復活)した。
  活況の長崎貿易、金銀流出が激しく、1672年に、市法
 貿易法になったが、これを廃止し、糸割符制に戻した。
1684年、環境政策:畿内に治水条例が公布された。
  幕府が、乱伐が激しいので、再度、「山川掟の令」を
 5畿内に発布した。治山治水の政策。
1684年、社会資本整備:淀川、淀川の大改修を開始した。
1684年、オーストラリアが、ベネチア・ポーランドと同盟
 して、オスマン・トルコと戦った。
1685年、文学:野ざらし紀行、芭蕉の「野ざらし紀行」が、
 この頃にできた
1685年、貿易:生糸の輸入制限強化され、国産生糸産地の
 確立に向かう。
1685年、フランスのルイ14世が、キリスト教プロテスタン
 トの信仰の自由を認めた「ナントの勅令」を廃止した。
  これによりカトリック中心の権威主義的国家へと逆戻
 りした。
  ナント勅令があったとしても、キリスト教プロテスタ
 ントは、キリスト教カトリックへ、「十分の一税」と言
 って、収入の10パーセントの金を、税金として納めな
 ければならなかった。
  プロテスタントのユグノー(フランス改革派キリスト
 教会)が、多数、国外へ逃げた。
  留まった一部は、乱(1702年のカミザールの乱)を起
 こした
1685年、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた(カト
 リック批判の音楽家)。
  バッハは、ルターが勉学に勤(いそ)しんだアイゼナ
 ハで生まれた。
  ルターは、キリスト教カトリックを批判した人。
  このルターの精神を引き継いだバッハは、その音楽に、
 ルターが糾弾したキリスト教カトリックの堕落への糾弾
 の響きがある。~1750年没、65歳。
1686年、江戸大伝馬町の木綿問屋仲間が結成された。
1686年、濃松本藩の農民・忠嘉助が、年貢増徴に反対する
 強訴を指導して処刑される(嘉助騒動)
1686年、出版:林鳳岡(はやしほうこう、儒学者、林鵞峰
 の次男)と木下順庵らが、幕府の命により「三河記(み
 かわき)」の校訂を完成させた。
  三河記は、「三河物語」「大久保彦左衛門筆記」など
 の別称で流布した一心太助が登場する本。
1686年、関東諸河川航行の船に極印を押し、役銀を徴収し
 た。
1686年、令:幕府が、諸国鉄砲改め令(鉄砲禁止令)を出
 した。(1687年説あり)
  藩の所持する鉄砲数をはるかに上回る鉄砲を、百姓が
 持っているという藩も多くあった(鉄砲の統制の法律)、
  それでも民衆層は、鉄砲を闘争に用いる事を自制し、
 例えば、百姓一揆や打ち壊しに鉄砲を持ち出すことは無
 かった。
1686年、文学:井原西鶴「好色五人女」「好色一代女」が
 刊行された。
1686年8月、貿易:対馬藩の朝鮮貿易額を1万8000両に制限
 した。
1686年12月、貿易:鹿児島藩の琉球貿易額を2000両に制限
 した。
1686年、イギリスは、インドにムガール帝国が建国される
 と、今までの様な商売が出来なくなると、また、今まで
 の様な貿易がしたいと、兵力に頼る行動を行った。
  そして、この年、インドへ遠征軍を派遣した。
  遠征軍は、12門の大砲を備えた軍艦や、17門の大砲を
 備えた軍艦など、10隻もの軍艦を送った。
  また、歩兵は600からなる規模だった。
  また、ムガール帝国以外の藩のインド人の戦艦を捕獲
 して、ムガール帝国に宣戦をさせたりした。
  また、ムガール帝国の一切の戦艦を拿捕(だほ)した
 り、チッタゴン(インドの、今・バングラデシュの都市、
 大きな海港がある)を占領したり、
  ベンガル国と武力で強制的に条約を結んだりした。
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(増補版)131D1/3:気になった事柄を集めた年表(1681年~1683年)

題:(増補版)131D1/3:気になった事柄を集めた年表(1681年~1683年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1682年、勘定吟味役を設置した。
  勘定奉行に次ぐ地位の勘定所の役人で、
  4人居て、2人は訴訟の裁判をつかさどり、
  2人は代官所の租税以下、金銀出納などの徴税に関する
 不正などを取り締まるために勘定吟味役が設置された。
  この年に、初めて置かれた。
1682年頃、農業:東海地方の農業事情を記述した農書「百
 姓伝記(ひゃくしょうでんき)」が書かれた。
  著者不明とされているが、おそらく武士だろうとされ
 ている。
  老農からの農耕技術を聞き書きしたもので、内容は、
 非常に優れていると言われている。
  恐らくこの著者本人も農耕に従事したと思われている。
  田畠地性論、肥料、万粮集(救荒作物)、坊(防)水
 集、苗代百首、田耕作集、麦耕作集、水草集など、
1682年、高札を立て替えた(忠孝札)
  諸国に、忠孝の奨励をすることの高札(忠孝札という
 7ヶ条からなる高札)を立てた。
  親子兄弟札、毒薬札、駄賃札、切支丹札、火付札から
 なり、封建倫理の教諭やキリシタン禁制など幕府民政の
 根幹を示した。
1682年、流通:伝法船(でんぽうぶね)
  酒荷中心の伝法船が活躍した。
1682年3月、西山宗因(にしやまそういん、俳人、連歌師)
 が没した(1605年~1682年)
1682年、人事:木下順庵(きのしたじゅんあん)が、幕府
 の儒者(朱子学)となった。
  門下に新井白石や室鳩巣(むろきゅうそう)らの多数
 の門人がいる。
  13歳の作である「太平頌(しょう)」は、後光明天皇
 に献じられ、賞賛されたという、それほどの逸材。
  弟子の個性に即してそれぞれの長所を伸ばそうと指導
 し、つとめたという。
1682年、人事:吉川惟足(よしかわこれたり、神道家)
  幕府が、吉川惟足を招聘し、幕府神道方となった。
  朱子学との習合を推し進め、道徳的側面を持った。
  また、神道を学問対象へと進めた。
1682年、文学:井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者)
 が、「好色一代男」を刊行した。
  武士や町人の生活の実態を客観的に描き、日本最初の
 市民文学を確立した。
  「好色一代男」は、西鶴の処女作で、浮世草子のさき
 がけ、
  一人の男が、好色で、自由気ままな人生を活写し、庶
 民男性の一つの理想的な生き方を描いた。
  人気を博した。
  娯楽的な面もあり、それまでの作から抜きん出た。
  源氏物語的に、一人の主人公・世之介の人生を7歳から
 60歳までの54年間を描いている。
1682年3月、処罰:不正代官を処罰した。
  1689年までに、25名の代官を処分した。
  新たに置かれた勘定差添役(後の勘定吟味役)の監視
 の結果だった(悪代官の一掃)。
1682年4月、世情:役料支給停止
  番頭・諸役人の役料支給を停止(役料を廃止)して、
 在職者の役料をそのまま当人の知行高に加えた。
1682年、フランスが、アメリカの領有権を主張する。
  ラ・サールが、ミシシッピ川を下る(フランス領ルイ
 ジアナの起源)。
  この年に、この地域を探検し、フランスがアメリカの
 領有権を主張した。
  フランス植民地は広大な領域を持っていた(首都:ニ
 ューオーリンズ、通貨:フランス・フラン、公用語:フ
 ランス語、設立:1699年、解消:アメリカへ売って1803
 年に終わった)。
  インディアンの方々は、我が領土を取り戻したい、ま
 た、わが民族の存立を続けたいと、この時、イギリスに
 加わり、また、フランスに加わったりして戦った・・が、
  結果的に、インディアンの方々の民族独立にはつなが
 らなかった。
  ただただ、利用された戦争に駆り出されただけだった。
1682年、中国の清が、アイグン(愛琿、現、愛輝、黒竜江
 省)に将軍をおき、城を築いた。
  この後、この地域でロシアと領土的なしのぎを削る。
1682年7月、ロシアでピョートル1世(大帝)が即位した
  初代のロシア皇帝(1672年~1725年)、
  制海権奪取や、ヨーロッパ列強に加わる戦争で、治世
 の半ばを戦争に費やした皇帝。
  戦争遂行を容易にするための行政改革をしたり、海軍
 を創設したり、貴族の国家奉仕の義務を負わせたり、権
 力集中に邁進した。
  西欧化改革を強力に推進した。
  国家の名称をロシア帝国に昇格させた。
  辺境の国家からの脱皮に努めた結果だった。
1683年1月25日、天和の大火(てんなのたいか、八百屋お七
 の火事)(1682年12月説あり)
  江戸大火:駒込大円寺より出火だとされているが・?
  下谷・浅草・本郷・神田・日本橋に延焼した。
  また、俗に言われているお七と寺の小姓の恋仲の話で
 お七の放火が大火の原因とされているが、原因ではない。
  お七の放火の火事はすぐに消されていて、ボヤに終わ
 っている。
  しかし、放火の罪でお七は刑死する。
  それが、この大火の原因説となってしまった。
  つまり、お七がこの大火の放火をした訳ではない。
1683年2月、長崎貿易での外国品の輸入を制限した。
1683年5月、天和の禁令:婦人の服飾を禁止する(1月説あ
 り)(美服禁止令=奢侈禁止令)
  贅沢を禁止して、倹約を推奨する。
  奢侈(しゃし、度が過ぎてぜいたくなこと)
1683年、経済:三井高利が、江戸に両替店を開設(創業)
 した。
  三井銀行の前身。三井財閥の中枢金融機関。
1683年7月22日、綱吉の子が亡くなる(1679年~1683年)。
  綱吉の子の将軍職継承者の徳松が没した(4歳)。
  墓所は東京都港区の増上寺。
  「七五三」の祝は、1681年11月15日に、この徳松の健
 康を願って行われた催しが、その始まりと言われている。
1683年、心中:呉服屋の御所(ごせ、奈良県西部の市)の
 長右衛門と遊女・市ノ丞が、大阪生玉で心中をした(生
 玉心中)。
  すぐに歌舞伎劇に脚色されて上演された。これが心中
 物の最初の作品となった。
1683年、社会資本整備:淀川
  幕府は、淀川水系の治水を救治するため、河村瑞賢に
 治河工事を命じた。
  翌年より治水工事をして、1687年に竣工した。
1683年、令:末期養子の禁を緩和した。
  幕府が、武家諸法度を改定し、末期養子の禁を緩和し
 た(50歳以後の末期養子も認めた)
  死にそうな大名(あるいは死んだ直後の大名)に後継
 者が居ない時は、お家は取り潰されていたが、それを緩
 和した。
1683年、文学:語孟字義(ごもうじぎ)
  伊東仁斎(いとうじんさい、儒者)が「語孟字義」を
 著した。
  仁斎は、はじめ朱子学だったが、古義学に達した。
  京都に古義堂をを開き、門弟が3000余人という。
  語孟字義は「論語古義」「孟子古義」を集約したもの
 で、徳・心・天道・天命・道・理・性・情・誠などの字
 義の説明の30ヶ条からなる。
  荻生徂徠や本居宣長に大きな影響を与えた。
1683年、社会資本整備:道路と橋を修理
  全国の道路と橋を修理した。
1683年、清が、鄭氏を滅ぼし台湾を領有した。
1683年7月、オスマン・トルコ:第二次ウィーン包囲に失敗。
  この年に行われたオスマン帝国による最後の大規模な
 ヨーロッパ進撃作戦。
  作戦失敗により、オスマン軍の包囲戦は長期化し、最
 後は、包囲網を打ち破られた。
  オスマン・トルコ軍(15万)に対し、
  同盟軍(8万)(オーストリア、ポーランド、ベネチア、
 ロシア)、(~1683年9月)
  キリスト教が絡む30年戦争に疲弊したオーストリアは、
 オスマン・トルコより、西のフランスのルイ14世が敵だ
 った。
  このフランスは、オーストリアが、オスマン・トルコ
 と戦う事で、更に、弱体化することを狙っていた。
  このことにより、フランスは、オーストリアを西から
 牽制する事によって、オスマン帝国に間接的支援を与え
 ていた。
  1664年に、オスマン帝国が、ハンガリーへ侵攻した時
 は、オスマン帝国が勝利した。
  しかし、フランスの脅威から、オーストラリアは反撃
 作戦を出来ないでいた。
  そして、和約を結んで、オーストリアは、オスマン帝
 国へ金を支払った。
  これが、ハンガリーの反発を招き、1678年の蜂起につ
 ながった。
  そして、1683年に、北西ハンガリーで反乱が起こり、
 反乱者たちは、オスマン帝国に対して支援を要請した。
  これを、オーストリア占領の好機ととらえ、オスマン
 帝国は、15万もの大軍を派遣したのだった。
  イスラム教徒からヨーロッパを防衛しようというキリ
 スト教徒との戦いとなった。
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2015年6月12日金曜日

(増補版)130D1/3:気になった事柄を集めた年表(1680年~1681年)

題:(増補版)130D1/3:気になった事柄を集めた年表(1680年~1681年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1681年1月、評定所規則を制定する。
1681年、人事:堀田正俊を大老にし、牧野成貞(まきのな
 りさだ)を側用人にした。
  牧野成貞は、徳川綱吉が館林藩主の時、家老となって
 いた。そして、綱吉が将軍になると、側用人に取り立て
 られ1万3000石を賜わって大名に列した。
  性格が、篤実(とくじつ、情が深く誠実なこと)な人
 だったという。
1681年、関東・関西が飢饉
1681年、経済政策:穀物在庫調査
  江戸市中の穀物在庫を調査した。
1681年、経済政策:米穀買い占めを禁ず。
  幕府が、江戸市中の米穀を調べ、買い置き・占売り(
 買い占め)を禁じた。
1681年、世情:一揆多し
  この頃、年貢諸役の過重を訴える一揆が多発し、多く
 の藩主の処分を勝ち取る。
  飢饉に苦しむ農民が、年貢の減免や市場価格の抑制を
 求めて起こした。
1681年、大名支配:越後高田藩・松平光長を改易
  徳川綱吉が、越後騒動を再審し、松平光長を改易した。
  この再審議は異例であった、また、異例の将軍直裁に
 て断を下した。
  光長は伊予松山藩へ配流され、藩士にも大量の処分者
 を出した。
  また、親戚であり騒動の処理に関わっていた出雲広瀬
 藩主の松平近栄(3万石から1万5000石へ)
  また、播磨姫路藩主の松平直矩(15万石から7万石へ)
 連座して処分された。
  光長は、1684年、に赦免されている。
1681年11月、大名支配:上野沼田藩主・真田信利が改易さ
 れた。
  石高を多く見積もったり(百姓から多く年貢を貰いた
 いため)、城を贅沢に豪奢な造りに改装したりして、領
 民に重税を課した。
  領民の杉木茂左衛門が、重税に反対して江戸で直訴を
 敢行し、
  この時の11月に、幕府から治世不良などを問われ、藩
 主の真田信利は改易させられた。
1681年、文学:井上通女(いのうえつうじょ、歌人)の「
 東海紀行」が記された。
  井上通女は、讃岐丸亀生まれ、丸亀藩士の娘、父に和
 漢書を学び、林鵞峰に漢詩を学ぶ、才媛、諸侯が招請し
 たいとした。
  東海紀行は、この年、作者22歳の時、讃岐丸亀藩主の
 母に召されて、父と江戸に向かった折の道中記である。
  時間的・精神的に余裕がある旅の様で、多くの和歌・
 漢詩を読んでいて、博識の中から昔人の故君を偲んだ事
 などが記されている。
  また、関所が怖かったと様子が記されていて、当時の
 情景が思い浮かぶ書となっている。
1681年、アウラングゼーブが、デカン高原制圧戦を開始。
  アウラングゼーブは、北インドのムガル帝国の第6代
 君主。
1681年、清が、海禁を解いて、海外との貿易を奨励した。
  清には、大量の銀貨が流入した。
  茶の輸出で栄えた、輸出超過であった(イギリスの輸
 入超過)。
  権力も安定し、経済も発展したが・・(イギリスの悪
 巧みへ・・麻薬輸出)
1681年、アメリカのペンシルヴァニア(イギリス植民地)
 建設に乗り出した(ウィリアム・ペン)。
  インディアンは、「土地の権利を金銭と交換する」と
 いう発想が無い中で、話は進められた。
  相手が十分に理解していない中で行われた取引は不成
 立である。契約は、成立していない。法的に正当ではな
 い。
  当然なことに、後に、インディアンの方々と軋轢(あ
 つれき)が生まれた。
  そして、「強制移住」という銃火にものを言わせて、
 力にものを言わせて、インディアンの方々を都合よく移
 動させた。
  また、「年金支給」というシステムを伴って「インデ
 ィアン移住法」という自分たちだけに都合のよい法律を
 作って、法律があるから正しいのだと、金を渡すからい
 いだろうと、だから正義なのだとと、正義でも正しくも
 ない事を行った。
  インディアンの方々、部族は、骨抜きにされて行った。
  白人たちは、インディアンの方々を奴隷としても使っ
 た。卑劣な事をした。この様な破廉恥な事もした。
  奴隷の処遇を向上させるんだとの運動をしたから良い
 のだという話がある。・・が、そんな問題ではない、奴
 隷制度それ自体が悪行為なのだ。
  キリスト教の聖書に、異民族を「奴隷にせよ」とキリ
 スト教の神が叫んでいるが、
  奴隷にしてはいけません。
  人が、他の人たちを、「人家畜」にしてはいけません。
  「奴隷にせよ」は間違っています。
..
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(増補版)129D1/3:気になった事柄を集めた年表(1677年~1680年)

題:(増補版)129D1/3:気になった事柄を集めた年表(1677年~1680年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1678年、朝鮮の釜山倭館の建物が、この年に、新築され竣
 工した。
  これは、朝鮮が対馬と断交した時に閉鎖されていたの
 が再開されたのだった(街道をゆく2)
1678年、農業:各地に特産品が登場
  この頃から、農村における商品作物の栽培が盛んとな
 り、各地に特産品が登場してくる。
  例えば、都市近郊の野菜、果樹(マクワウリやミカン)、
 東海や瀬戸内地方の木綿、東北や中部のクワ、瀬戸内の
 ナタネ、阿波の藍、東北の紅花など。
  他の名産品に西陣織、久留米絣(かすり)、有田焼、
 清水焼、九谷焼、南部塗、輪島塗、灘の酒、野田や銚子
 の醤油など。
1678年、東福門院・徳川和子が没した(1607年~1678年)
  徳川秀忠の娘(五女)、後水尾天皇の中宮、母は、秀
 忠の正室・江(崇源院)、
  1620年に入内し、1623年に皇女(後の明正天皇)が誕
 生、1624年に中宮となった。2男5女に恵まれた。
1678年、演芸:藤田藤十郎
  初代・藤田藤十郎が、大阪で好評を得た。
1678年、演芸:市川團十郎
  この頃、江戸で荒事を創始して上方の坂田と並び称せ
 られる。
1678年、総検地
  この年前後、畿内および近国の幕領の総検地を行なっ
 た。
1678年、政治:川舟極印奉行を置いた。
  勘合に川舟極印奉行を3人置いた。
  農民の商品生産が発展して来たのを受け、関東諸河川
 の、その農民の生産物の運送を担う商船も、活発に行き
 交って来た。
  川舟の登録のために打たれる極印の制度が定着化して
 行き、船年貢や役銀の税の徴収の強化をした。
  勘合:照らし合わせて真偽を確かめること、
1679年10月、農作奨励を令する。
1679年、土屋数直・久世広之が没して、代わって土井利房・
 堀田正俊が老中になった。
1679年、事件:越後騒動
  越後松平家の藩である越後高田藩で起こったお家騒動。
  藩政を執っていた主席家老と、これに敵対する一族重
 臣の争いに、将軍綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下り
 た。高田藩は改易となった。
  財政立て直しのため、藩士の禄を地方知行制から蔵米
 制に改めたのが、藩士にとって減収となったのが恨まれ
 ていたことと、他の要因がからまり問題が大きくなって
 行った(藩主の贅沢癖、諸事業の費用ねん出)。
1679年、人身保護法(イギリス、キリスト教会などの権限
 が過剰に強くなったため)
  フランスに亡命していたチャールズ1世の子が、1660年
 に帰国し、チャールズ2世として、この年に即位した(王
 政復古)際、カトリックを保護し、絶対王政を掲げ、清
 教徒派を逮捕し、弾圧した。
  議会は、1673年に、官吏と議員を国教徒に限る審査法
 律を制定した。
  そして、1679年に、人身保護法を改正し、国民を不当
 に逮捕しないことを定めた。
  キリスト教会や地方の諸侯などの権限が、過剰に強く
 なって、住民の権利が不当に侵害されるようになってい
 た。
1679年頃、アウラングセーブ(インド、1618年~1707年)
  アウラングセーブは、北インドのムガル帝国の第6代
 君主。
  この君主の治世は49年の長きに渡り、その治世は、曽
 祖父アクバル以来の繁栄が続いた。
  1679年に、ジズヤ(人頭税)を復活した。これが帝国
 崩壊へつながった。
1680年、後水尾天皇(ごみずのおてんのう、第108代天皇)
 が崩御された(1596年~1680年)、泉湧寺に葬られた。
  中宮は、徳川和子(東福門院)
  日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の
 御真筆とされる額が掲げられていて、
  後に、薩摩藩が、日光東照宮の焼き討ちを要求した時
 に、板垣退助が強硬に、後水尾天皇の御真筆をもって説
 得した。
1680年5月、4代将軍の徳川家綱の病状が悪化し、綱吉を継
 嗣とし、家綱は没した。
  堀田正盛の子の正信が殉死した。
1680年8月、徳川綱吉が5代将軍となった(1646年~1709年、
 将軍期間:1680年~1709年)。
  綱吉は、将軍に就任してほどなく、1680年8月に、通常
 の政務は月番制で処理し、大事は列座の合議制によると
 いう従来の慣例を破って、信任する老中・堀田正俊に財
 政・民政専管を命じた。
1680年8月、酒井忠清が罷免された。
  翌年、堀田正俊を大老とし、幕政の刷新に立ち向かう。
1680年、天災:風水害:諸国に風水害が起きる。
1680年、天災:大凶作となる。
1680年、芸術: 琴
  筝曲(そうきょく、筝は琴の事)は、元禄よりやや前、
 八橋検校(1614年~1685年)が、かつて九州に伝えられ
 た筑紫琴を基として、新曲を作って京都に広めたのに始
 まるという。
  これが、江戸に伝わり、宝永年間、生田流、寛政年間
 に山田流が開かれ、この2流によって今日の筝曲が成り
 立っている。
1680年、松尾芭蕉が、江戸深川の芭蕉庵に入った。
  芭蕉の経済的庇護者は、杉山杉風(さんぷう)という。
  杉風は、1647年に日本橋で生まれ、幕府御用の魚問屋
 を営み(屋号は鯉屋)、豊かな経済力だった。
  本邸は日本橋小田原町であったが、深川に多くの土地
 を持っていた。
  ここに、芭蕉は江戸市中より移り住んだ。
  最初の芭蕉の庵は、杉風所有の生簀(いけす)の番小
 屋だったという。
1680年、文治政治が本格的となった。
  家康から3代家光までを武断政治、4代家綱から7代家継
 までを文治政治(ぶんちせいじ)という。
  幕藩支配体制の安定期となり、儒教的徳治主義の政治
 に転換した。
  徳治主義(とくちしゅぎ)は、道徳により民を治める
 政治を目指した。
1680年、魔女旋風が、17世紀末にその余波を新大陸・アメ
 リカに伸ばした。
1680年、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちが、南米な
 どでインディオの方々を殺戮し、奪った黄金が、ヨーロ
 ッパに持ち込まれ、この頃、この黄金でヨーロッパは潤
 った。
  1550年から1680年くらいまでの130年間、キリスト教美
 術や宮廷美術、そして、文学の全盛期を迎えた。
  しかし、その陰に、南米の人々の、そして、世界各国
 の人々の悲惨な涙と、消えた多くの命があった。
1680年、イギリスは、この頃、インドを失ったら三等国に
 なると言われていた。
  それほど、莫大な利益をインドから得ていた。
  また、その金儲けのつる・権益を守るためにあらゆる
 ことをした。卑劣な事をしても守った。
  本国のイギリス人でさえ信じられない莫大な額の利益
 が、イギリスに流れ込んだ。
  インドは、それほど搾取されていた。
  また、金が、莫大に満ちたイギリスは、賄賂が横行す
 る社会となった。
  また、その利益を享受する人々が、限られた一部の特
 権層だけだった。
  そのため、一般市民の不満が爆発し、暴動が起きた。
  ホイッグ党は、1680年頃に作られたイギリスの政党で
 あるが、ホイッグという名前は、スコットランドの暴徒
 をさす蔑みの言葉・蔑称であった。
  インド人同士を反目させて、漁夫の利を得るイギリス。
  本国も守銭奴の社会となっていた。
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2015年6月10日水曜日

(増補版)128D1/3:気になった事柄を集めた年表(1673年~1677年)

題:(増補版)128D1/3:気になった事柄を集めた年表(1673年~1677年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1674年、交通政策:江戸伝馬町と五街道の宿駅の救済のた
 め、幕府は、約14万貫を貸与した。
1674年、交通:人馬賃銭を改定した。
1674年、経済:両替比率
  寛永通宝4貫=金1両の比価を守る事を命じた。
1674年、江戸市中の非人を改めた。
1674年、この年から延宝4年にかけて、淀川と大和川の下流
 部に大水害が起きた。
1674年、西山宗因(にしやまそういん、連歌師・俳人)が、
 「蚊柱百句(かばしらのひゃっく)」を刊行し、
  貞門(ていもん、松永貞徳を師とする俳諧の一派)が
 論難書「しぶうちわ」を出し、これを論難した。
  宗因の門下に井原西鶴が居る。
1674年、出版:関孝和が、「発微算法(はつびさんぽう、
 代数の書)」を刊行した。
  孝和は、算木を使う方法を止めて、紙に文字係数の連
 立多元高次方程式を書き表す方法を工夫し、それを使っ
 て、遺題の解答法を示したのが本書。
  未知数を消去して、一元高次方程式に導き、解答を得
 る方法を示した。
  孝和は、和算の歴史の中に居る先達の遺題の解答集を
 作って来ていた。
  この本によって、孝和は世に知られるようになった。
  孝和が、これによって和算を高等数学へと高めて行っ
 た(高等数学への第一歩)。
1674年11月4日、狩野探幽(かのうたんゆう、絵師)が没し
 た(1602年~1674年)。(10月説あり)
  狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として京都に生ま
 れた。
  雪舟に学んだ。
  1612年に、駿府で徳川家康に謁見し、幕府の御用絵師
 になる(1617年)。
  江戸城・二条城・名古屋城などの公儀の絵画制作に携
 わったほか、
  大徳寺・妙心寺などの寺院の障壁画も制作した。
  探幽の作品に、重要文化財は多数あるが、国宝は見当
 たらない。
1675年、阿部忠秋(あべただあき、老中)が没した(1602
 年~1675年)。
  知恵伊豆と言われたこの人の逸話の一つに・・、
  「石を投げて鴨を飛び立たせてみよ」と家光の言葉に、
 小姓たちは、そばに石が無かったので、魚屋の蛤をもっ
 て石の代わりにした。
  その話を聞いた忠秋は、「代金は支払ったのか」と聞
 いた。
  支払ってない事を知った忠秋は、「魚屋は、上様のお
 役に立てたことで満足であろうが、また、名誉を感じた
 だろうが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。
  町人に損失を与えては御政道の名折れである」と諭し、
 代金を魚屋の所へ持って行かせたという。
1675年3月、関東に令して鉄砲の私蔵を禁止した。
1675年、開発:小笠原諸島
  幕府が、小笠原諸島の開発を計画した。
  そして、長崎の人・嶋谷市左衛門に命じて、本島を巡
 航させた。
  因みに、小笠原諸島は、1876年(明治9年)に、国際的
 に日本領土と認められている。
1675年、前年に引き続き、諸国が飢饉となる。
1675年、福祉:飢民に救米
  大和・摂津・河内の飢民に救米を給付した。
1675年、令:永年季(譜代)を許す。
  飢饉につき、奉公人の永年季・譜代を許した。
1675年、芸術:俳諧
  この頃、西山宗因の談林派俳諧が盛ん。
1675年、レーマー(デンマーク)が、光の速度。(1676年
 説あり)
1676年、諸国堤防決潰地の巡察使
  幕府が、諸国の堤防決損地を巡視した。
1677年、大岡忠相(おおおかただすけ)が生まれた(1677
 年~1751年)(1752年に没した説がある)
  役職:江戸幕府書院番→目付→山田奉行→普請奉行→
 江戸南町奉行→寺社奉行兼奏者番
  奏者番(そうしゃばん)は、大名や旗本が年始・五節
 句などに将軍に謁見するとき、その姓名の言上、進物の
 披露、将軍からの下賜品の伝達などをつかさどった役。
1677年2月、金貨鋳造する。
1677年、郡上騒動(ぐじょうそうどう)
  美濃郡士藩と農民が、年貢増徴反対の一揆を起こした。
  美濃国(岐阜県)郡上藩に起きた、家中対立に絡む、
 農民騒動。
  藩主は幼少で、家中が2派に分かれた。
  藩財政立て直しをするための年貢増徴派の政策に、農
 民が、江戸の藩主に直訴した。
  訴えを入れようとする国家老らの反増徴派との対立が
 深刻化した。
  1679年正月に、増徴派による国家老暗殺計画を知った
 数百人の農民が集結。
  この対立は、1683年まで続き、処罰者を61名出し、喧
 嘩両成敗で終わった。
1677年、大久保忠朝(おおくぼただとも)が、老中となる
 (1632年~1712年)。
1677年、井原西鶴が、大阪生玉本覚寺で、一昼夜に俳句を
 1600句を作った。
1677年、出版:菱川師宣(ひしかわもろのぶ、最初の浮世
 絵師)(1618年~1694年)
  菱川師宣画の絵本「江戸雀(えどすずめ)」が刊行さ
 れた。
  地方から江戸へ出て来た人のための実用的な「江戸見
 物の案内書」、詳細な道順まで記してある。
  当時の風俗を知る上で貴重な資料となる、また、江戸
 の最も古い地史としても重要。
1677年、幕府領の総検地
  畿内・近国の幕領の総検地を始めた。
1677年、ロシア・トルコ戦争が起きた(露土戦争、ろとせ
 んそう)。
  16世紀後半から19世紀にかけて、ロシアとオスマン・
トルコ帝国との間で、11回、戦われた。
  最初は、1552年~1556年に、戦われ。
  2回目が、1677年~1681年に戦われた、、ロシアの南下
 策は、一時、止まっていたが、 17世紀後半になると、戦
 争が、また、始まった。
  この時、ロシアは、ポーランドと組んで戦い、ウクラ
 イナ地方からトルコ勢力を一掃した。
  11回目の最後の戦争は、1877年~1878年に戦われ、こ
 の戦いで敗れたトルコは、1878年に、サン・ステファノ
 条約を締結して講和した。
  しかし、この条約に、イギリス、オーストリアが反対
 した。火種は残り、イギリス、フランスの帝国主義的な
 利益獲得の欲にかき回されて行く、そして、第一次世界
 大戦の一因となって行く。
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2015年6月9日火曜日

(増補版)127D1/3:気になった事柄を集めた年表(1671年~1673年)

題:(増補版)127D1/3:気になった事柄を集めた年表(1671年~1673年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1672年3月、京都・大坂・堺の商人に金銀両替の制を敷いた。
  主として、金銀を取り扱う「本両替(ほんりょうがえ)」
 があった。
  資力の大きな両替商がなった。
  これに対し、銭(ぜに)両替があった。
1672年、令:長崎市法が制定された。
  長崎奉行によって制定された「貨物市法」が出来た。
1672年、繁盛する長崎貿易
  長崎貿易で相対売買を禁じられ、市法売買が命じられ
 た。
  特に、東南アジア各地からの、ジャンクと呼ばれた唐
 船の入港が急増する長崎貿易だった。
  また、朱印船の中心的な発着港としても栄えていた。
  代官の末次平蔵は、自ら朱印船貿易を営む大商人だっ
 た。
  幕府は、輸入品の価格を引き下げて、金銀の流出を防
 ぎたかった。そのため、
  この年の1672年に、市法(しほう)売買とよばれる貿
 易統制を行った。
  これは、オランダ・中国のもたらした品物を、五か所
 (長崎・京都・堺・大坂・江戸)の商人の目利き(めき
 き、鑑定人)が評価し、
  これに基づいて、長崎奉行所が、決定した価格を通知
 した上で取引を行うもの。
  利益が出たので、長崎の諸役人の給料にし、また、町
 にも配分した。
  この制度は長崎の町に多くの利益をもたらした。
1672年、物流:江戸・大坂をターミナルとする全国の年貢
 や特産物の流通が活発化した。
1672年頃、樽廻船就航
  この頃に、南海航路(大阪→江戸航路)に船足の早い
 樽廻船が就航した。
1672年、河村瑞賢が調査して、出羽~江戸間の西廻り航路
 を整備・開発した。
1672年3月2日、事件:市ヶ谷浄瑠璃仇討
  宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の旧臣(宇都宮藩を脱藩
 した)奥平源八が、一族40人とともに、江戸市ヶ谷浄瑠
 璃坂の元藩士の奥平隼人邸を襲い、父の仇敵の隼人を殺
 害した。
  原因は、前藩主の法要での口論だった。
1672年~1674年、第三次英蘭戦争。
  イギリスのチャールズ2世は、1672年から1674年にかけ
 てのフランスの始めたオランダ侵略戦争に予定通り協力
 した。
  そして、局地戦の形で第三次英蘭戦争を開始した。
  海戦が多かった。
  イギリスは、オランダ海軍との海戦で敗北した。
 そのため、イギリスのオランダへの侵攻は不可能となっ
 た。
  フランスとの連携が出来なくなった。
  イギリス議会では、オランダがフランス側に付くと経
 済的にまずいという声が高まった。
  親仏路線撤回へと動いて行く。
  そして、2年後の1674年には、オランダと和睦した。
  イギリス王のジェームズ2世は娘・メアリーを、1677
 年に、オランダ王へ嫁がせ、同盟を結んだ。
  この三度のイギリスの無謀な戦争で、オランダは大打
 撃を受けた。
  1688年のイギリスに起きた名誉革命は、このオランダ
 から王を迎える事となる、が・・しかし・・
  この懲(こ)りない両国は・・第四次の英蘭戦争
 (1780年~1784年)をする・・何が名誉なのか?
1673年2月、保科正之(ほしなまさゆき)が没した(1611年
 ~1673年)、
  熱烈なる朱子学の徒であった。
  これによる政治を行った。
1673年、隠元(いんげん、明から渡来した僧)が没する。
  (1592年~1673年)黄檗宗の開祖。
1673年、演芸:歌舞伎を開く
  初代・市川團十郎が、江戸中村座で荒事を演じ好評を
 得る。
  荒事(あらごと)は、歌舞伎で、武士や鬼神などの荒
 々しさを誇張して演じることを言う。
1673年、経済:越後屋呉服店が創業した(三越)。
  伊勢松坂の三井高利が、江戸と京都に越後屋呉服店を
 開き、後に、「現金掛値なし」の商法で繁盛した。
  また、幕府払方御納戸(おなんど)呉服御用達(ごよ
 うたし)を勤めた。両替店も兼営した。
  1691年に、大阪御金蔵銀御為替(おかねぐらぎんおか
 わせ)御用達の地位を得て、最大の御用商人となった。
1673年、阿部正能(あべまさよし、1627年~1685年))が、
 老中となる。
  1652年に、阿部忠秋の養子となっている。
1673年、令:田畑分割が制限(分地制限令の公布)
  農民の分割相続を禁止する分地制限令が発布された。
  そして、田畑の分割が制限された。
  農地の零細化による貢租(こうそ、年貢)収入の減少
 を防ぐのが目的だった。
  この令が、この年に出されるまで、幕府の方針は、小
 農民経営の増大と維持にあった。そのため分割相続も公
 認してきた。
  この令によって、従来の農民政策の転換をした。
  また、この頃以降から、小農の田畑質入れによって、
 地主~小作(質地小作)関係が広く成立して行った。
  そして、商品作物の生産が発展することによって、水
 飲み百姓の年季奉公に基礎を置く、大規模な「地主手作」
 経営が発達した。
  地主手作とは、貸付地を所有する者が、人を雇ってみ
 ずから耕作を行なう事。
1673年、文学:山鹿素行が「武家事記(ぶけじき)」を著
 (あらわ)した。
  歴史書・武家故実書で読者層を武家に想定している。
  武家に必要な語句などの詳細な解説が記されている。
  故実(こじつ):昔の儀式・法制・作法などの決まり
 や習わし。先例となる事例。
1673年、文学:北村季吟(きぎん)が、「湖月抄(こげつ
 しょう)」を著した。源氏物語注釈書、
1673年、社会資本整備:椿海干拓(つばきうみかんたく)
  下総の椿海が干拓された。
  1661年~1773年に、江戸の町人の白井次郎右衛門が、
 江戸幕府に出願した。
  しかし、代官の伊奈半十郎の検分を受けたが不許可に
 なった。
  (不許可理由は、砂地で水の供給が覚束ないだった。
  また、こちらに水を回すと、他の田が被害を受けるだ
 った、この判断は正しいと今現在でも言われている)
  白井は、幕府大工棟梁の辻内刑部左衛門と、再出願し、
 許可され、普請奉行の任命を経て工事が着手された。
  以上の話を、もう少し詳しくすると・・
  辻内棟梁は、京都二条城の工事で、幕府に功績を認め
 られる、幕府の信頼の深い人物だった。
  この人物が、干拓の話に乗り出してくれたのだった。
  辻内の人脈がモノを言った。
   幕府の中心の人たちが動いた。
  そういう動きの中で、再検分が行われた。
  この時には、幕府内では、開発しようという方針にな
 っていたようだった。
  故に、この検分も、干拓の可否ではなく、具体的に排
 水路をどの様に設けるかの、実施の可能性に対しての検
 分だった。
  幕府の偉い所は、上から目線ではなく、地元の農民の
 意見をよく聞いている所だった。
  水源の調整が、話し合われている。
  既存のすでにある農村が、用水で困らないかを打ち合
 わせている。
  当然、農家の方たちは、水さえ確保されれば反対理由
 はないと答えている。
  用水の確保さえ得られば、既存の農民の方々の反対は
 ないとみた幕府は、排水計画の具体的測量に入った。
  しかし、ここで、この排水によって、田畑が潰される
 ことを知った農村の方々は反対し始めた。
  「農家260軒、1550石の本田が失われる」と訴えた。
  幕府の調査団の団長の妻木彦左衛門頼能は、計画を変
 更した。
  これが、現在の三河堀の排水路線となっている。
  話しは丸くおさまり、椿海干拓は正式に決定された。
1673年、出版の認可制
  この年には、軍書・歌書・暦・噂事・人之善悪・好色
 本を対象に、珍しいことを新板に印刷するときには、町
 奉行の指示を受けよ・・という令が出た。
  書籍出版が、社会的にかなり影響力を持つ存在となっ
 て来た事を物語っていた。
1673年、イギリス船が通商の復活を求めた。
  インドでうまい汁を吸うからいいやと言って、日本は
 遠い国である上に、利益の効率の低い日本との交易を止
 めて、去って行ったイギリスが、この年に来て通商を求
 めたが、幕府に拒絶された。
1673年、この、イギリス船が、追い払われたこと・・、
  イギリス船のリターン号が、長崎港に現れて、そして、
 追い払われたのは、
  日本が、通商をオランダに限っていたからではなく、
 イギリス王チャールズ2世が、ポルトガル女王と結婚し、
 日本がイギリスを恐るべきカトリックの協力者と見て、
 また、敵性国とみなした事が、主な原因だった。
  キリスト教に、日本を自分の領土にしたいという意思
 があることを知っていた(イギリス人のウィリアム・ア
 ダムスなどからも聞いたりして、すべてを知っている幕
 府だった)。
  同じ頃、日本は、タイ国王の申し出に応えて、40年間、
 絶えていた関係を再開しているから、日本の外交が、外
 の世界を、一切、拒否し、接触を絶とうとしていたとい
 う証拠にはならない。
  それどころではなく、徳川幕府は、17世紀から18世紀
 にかけて、朝鮮の李王朝と琉球王朝とを手なずけ、東ア
 ジアに日本中心の外交秩序を作ろうとしていた。
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2015年6月8日月曜日

(増補版)126D1/3:気になった事柄を集めた年表(1668年~1671年)

題:(増補版)126D1/3:気になった事柄を集めた年表(1668年~1671年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1669年頃、建設:江戸小石川の後楽園(水戸候別邸の庭園、
 特別史跡・特別名勝)が完成した。
  徳川光圀が、朱舜水の意見を取り入れて、この頃、完
 成した。
  神田上水を利用した築山(つきやま)泉水庭。
  第二次世界大戦で焼失し、一部が残存している。
1669年、指示:淀川工事費を四国大名らに課した。
  幕府は、淀川の浚渫(しゅんせつ)の費用をつくるた
 め、西国・中国・四国の大名らへの課役銀を賦課した。
1669年、北海道の全域でアイヌの諸部族の統合が進んだ。
  しかし、松前藩の交易独占の動きがあり、また、交換
 レートに反対して反乱が起きた(シャクシャインの乱)、
  松前藩の交換レートが不平等が原因だった。
  幕府は、東北諸藩も応援させて治めた。
1669年、コーヒーのパーティー
  この年、パリでトルコ大使のソリマン・アガーが、新
 しい飲み物、コーヒーのデモンストレーション・パーテ
 ィーをベルサイユ宮殿で開いた。
  これが評判を呼び、コーヒーは上流社会に流行して行
 った。
1669年、オスマン帝国が、クレタ島を併合。
  クレタ島、地中海に浮かぶギリシャ南方沖の島。
  古代にもミノア文明が栄えたこの地を、1645年~1699
 年にかけて、ベネチアとオスマン帝国が戦った(クレタ
 戦争、54年間の戦い)。
  ベネチア領だったクレタ島がオスマン=トルコの手に
 落ちた。
  エーゲ海からベネチアの勢力圏を排除し、制海権を得
 た中で地中海貿易がしたかったと考えられる。
  クレタ戦争は、はっきりした史実だが、世界史小辞典
 にも解説されていない何か不明な戦争。
1670年、私塾:林雅邦の「本朝通鑑」が完成した。
  「本朝通鑑」完成のために、幕府は、95人扶持の費用
 を給した。
  支給開始は寛文4年、その支給金は、寛文10年に完成し
 たからと、給付中止をする訳ではなく、幕府は給付し続
 けた。
  そして、その給付金でもって書生教育をしなさいと言
 った。
  この頃から、林家の私塾が、だんだんと幕府の官学的
 色彩を帯びるようになった。
  朱子学が、幕府の官学、つまり、近世儒学の正統とし
 て定着して来ていた。また、ほぼ同じこの頃、それを批
 判する古学も勃興して来た。
  思想・哲学探求に熱心に取り組む幕府だった。
1670年、藩校:閑谷学校の設立
  岡山藩主の池田光政が設立した。(1668年説あり)
1670年、経済:十人両替が成立
  大阪十人両替が成立した。
  十人両替とは、江戸幕府が、大阪の本両替仲間の内か
 ら、仲間の取締りと同時に、公金の取り扱い、米の買い
 上げ、御用金の調達などの公用を務めさせるために選任
 した10人の御用両替商のこと。
  鴻池屋・天王寺屋・泉屋らの10人がそろったのは1670
 年だった。
1670年3月14日、江戸城の刃傷(にんじょう、刃物で人を傷
 つけること)、
  元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん、忠臣蔵)
  浅野長矩(浅野内匠頭)が、江戸城殿中(松之大廊下)
 で吉良義央(吉良上野介)を傷つけた。
  浅野内匠頭は、「この間の遺恨」と言って斬りかかっ
 たという。
  その遺恨は、どのような遺恨かの記録はない(忠臣蔵
 ではいろいろ言うが?)。
  浅野内匠頭は、即日、切腹となった。
  そして、浅野内匠頭は播磨国赤穂藩主であったため、
 赤穂藩はお取り潰しとなった。
  赤穂城も明け渡しとなった。
  吉良には何のお咎めもなかった。
  浅野内匠頭が斬り付けた時、吉良が抜刀しなかったの
 で喧嘩ではないとして(浅野内匠頭の一方的な違法行為
 として)「喧嘩両成敗」にならなかった。
  ここから筆頭家老・大石良雄(内蔵助)の話が始まる。
1670年3月、八丈島・・発見、
  幕府が、長崎代官の末次平蔵に命じて建造させた唐船
 造御船が、この時に、竣工した(長さ30メートル、1500
 石船だった)。
  3月25日に、長崎を出航し、4月10日に、江戸に着いた。、
  この船は、1673年1月に、志州(志摩国)安乗沖で、海
 難により沈没した。
  2隻目が幕命を受け、1673年2月に建造された。
  1674年に、この2隻目の船で、無人島調査を密命で行
 った、
  それは、紀州のみかん船が遭難し、江戸の南方・母島
 に漂着し、生還した。
  そして、「八丈島はるか南方洋上に無人島群あり」と
 驚くべき発見を、幕府に報告していたからだった。
  2隻目の船は、1675年6月22日に、苦難の末、その無人
 島を発見し、父島湊内に錨をおろした。
  翌日、調査を開始し、父島・母島に神社を建立し、日
 本領土の明示の標柱を建てた。
1670年、令:酒造を禁じた、凶作による令だった。
1670年、事件:江戸城内で、口論から切腹
  右筆の水野伊兵衛が、江戸城右筆部屋で大橋重政と口
 論し、水野が脇差を抜いたため、4日後に切腹を命じられ
 た。
1670年、社会資本整備:箱根用水
  箱根用水が完成した。
  友野与右衛門らが、箱根用水を掘削し、芦ノ湖の水を
 トンネル水路を通して引いた。
1670年、出版:「新版江戸大絵図」(寛文5枚図)が出版
 された。
1671年、日本の領土・竹島
  家綱が、この年に、巡検使を引見し、関東各地の政治・
 民情を下問した。
  巡検使は、幕命を受けて諸国を巡回し、政情・民情や
 作物の豊凶を視察した臨時の職のことで・・、
  竹島の事で、綱吉のお目見えにあづかった大谷家があ
 った。
  また、この年に、大谷九右衛門は家綱の御目見得にあ
 づかっていた。
  ・・というのは、大谷家と将軍家とのつながりの中に
 竹島の事があった。
  大谷家は、1617年に、竹島に漂着して、島に豊富な物
 資(海産物など)がある事を発見した。
  そして、その物資を日本に持って来て、商う事業を始
 めた。
  そのため、島へはよく渡っていた。
  幕府に対しても、事情をよく説明し、渡海許可を受け
 ていた。
  その様な事もあり、大谷家は、幕府へ海産物などを献
 上していた。
  例えば、公方様と老中様へのお礼に、竹島の干しあわ
 び500個入り1折り、
  側用人様、若年寄様、寺社奉行様へは、300個入り1折
 りなどを献上した・・
  この様な記録が残っている。
  そして、この1671年に、将軍様のお目見えにあづかっ
 ていたのだった。
1671年、阿部忠秋(あべただあき)が官職を退く(隠居)。
1671年、幕領諸代官に宗門人別改帖を作らせた。
1671年1月、有名な事件:伊達騒動(だてそうどう)
  伊達宗重(むねしげ、通称:安芸、涌谷伊達氏当主)
 の訴えによって、この年に、幕府の法廷に仙台伊達家の
 両派の抗争が持ち出された(江戸出府の命が幕府から出
 て、仙台より江戸に立つ)。
  仙台藩の藩主・伊達綱宗の放蕩が原因で、諌めても直
 らなかったので、幕命によって強制隠居させられた。
  そして、わずか2歳の伊達綱村が藩主となった。
  事件はこれで終わらず、先の件は序章だった。
  そして、これから起きる騒動が、一般に伊達騒動と言
 われている事件で、「寛文事件」という。
  幼い藩主を支える大叔父・伊達宗勝は、権力を自分に
 集中させ、実権を掌握した。
  そして、協力する家臣たちと前事件の処理をした。
  断絶した家も出たりした。
  また、悪い時に悪いことが起きるもので、伊達家内で
 所領のいざこざが起きた(所領紛争)。
  その境界の争いの処理案について、専横があるとか、
 ないとかの問題で、幕府に上訴する問題が起きた。
  江戸の審議が、またすんなり行かなく、同じ藩で、家
 なのに、互いに深く傷つく争いが続いた。
  幕府の裁断にも不満の思いが出た。
  証言の違いのいざこざ、処分のない家への妬み、問題
 がすっきりと解決して行かなくて、審問は続いた。
  それだけ、根が、深い問題となっていた。
  幕府も大変だっただろう。
  場所を移して審問したりした。
  メンバーも変わったりしての審問。
  その様な中で、審問控室で、原田は宗重を惨殺した。
  そして、老中の居る部屋に向かって突入した。
  驚いた柴田は、原田と斬り合いとなった。
  加勢したものも出る。
  原田は即死、酒井家家臣の3人が斬られ、柴田は翌日に
 死亡した。
  問題を起こした家は処罰され、宗勝は、後見人の責任
 を問われ、一関藩は改易となった。
  ただ、幼い藩主には責任がないと、お構いなしとなっ
 た。
  この事件を後世に伝える記録は多い。
  そしてそして、この寛文事件後に、この事件の後遺症
 の事件が、また、起きる・・が、割愛。
  1697年に、そして、1703年に、幕府の手を煩わせるこ
 とが、また起きた(綱村隠居事件)。
1671年、社会資本整備:釜無川
  甲州・釜無川の右岸に徳島堰が開削された。
1671年、流通:航路開発
  河村瑞賢が、奥州と江戸間の航路(東回り航路)を開
 発した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年6月7日日曜日

(増補版)125D1/3:気になった事柄を集めた年表(1666年~1668年)

題:(増補版)125D1/3:気になった事柄を集めた年表(1666年~1668年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1667年、鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん、大阪の両替
 商)が生まれた(1667年~1736年)
  鴻池財閥を形成した。
  11代目は、日本生命保険の初代社長に就任した。
1667年2月、幕府が、本田畑での煙草の栽培を禁止した。
  諸藩は、経済・産業政策の上から木綿・煙草・菜種な
 どの商品作物を栽培したかった。
  また、この頃、各地で米の生産量が増えて米価が低迷
 してきていたので、より高価な商品性のある作物を作り
 たかった。。
  つまり、米を生産しないで商品作物を作り、その売却
 益で年貢米を購入した方が良いというパターンが出て来
 ていて、その様な事をする行為が出始めていた。
  諸藩として、商品作物の栽培を奨励し、農家の収入を
 増加させ、納税先の藩の財政を安定させるのが良かった。
  幕府は、あくまで石高制を採用しているので、米主体
 の経済政策の基本の米の生産を多くしたいだった。
1667年、令:城米廻船取締規則が、公布された。
  幕府の廻米(かいまい)は御城米(ごじょうまい)と
 言った。
  御城米は、御城米船により、諸藩の蔵米は廻米船によ
 り、民間米は買積(かいづみ)船により輸送された。
  この御城米船の場合、幕府から公布された取締規則に
 よって、厳格な廻船雇用・運航が義務付けられていた。
1667年、社会資本整備:小貝川
  幕府代官頭の伊奈忠次が、小貝川に豊田堰を築造する。
  周辺地域の農業用水の確保、灌漑を目的とした。
  水量維持の重要な役割を持った。
  農業利水の関東三大堰と言われている。
1667年、番士の具足(ぐそく、武具)改めを命じた。
1667年7月31日、ブレダの和約。
  第二次英蘭戦争をしていたこの二国が、この条約によ
 って講和した。
  オランダは、現在のニューヨークのニューアムステル
 ダムを含む北アメリカ植民地をイギリスへ割譲した。
  しかし、この間、オランダは、ギアナなどの領土を得
 ていた(南米の北岸の領土獲得)。
1668年、令:倹約令
  幕府は、厳しい倹約令を上下各階層に発した。
  この倹約令は、社会の全体層を対象とし、諸藩政へも
 強く反映させたりして、前後に比を見ぬほど厳しく、また、
 大名や諸役人への監察強化も厳しかった。
  そのうち、旗本・町人に対する条文において、
 「長押(なげし)、杉戸、付け書院、櫛形彫り物、組み
 物、床縁、桟、塗り、唐紙張付」を禁じている。
  この厳しさは、1666年に大老職へ就任した酒井忠清へ
 批判は向けられて行った。
1668年、長崎の輸入を制限する。銀輸出禁止令。
  インドは、可哀想な事にイギリスなどに国益が、富が
 好きなように持ち出され、吸われていた。
  日本も、一時は、日本の銀が世界の流通量の半分を占
 めるくらいに持ち出されていた。
  幕府も生糸に糸割符法を適用して、無制限な流出を締
 め、止めていたが、生糸価格操作などをされたりした。
  幕府は、1655年に、糸割符を廃止した。
  しかし、自由貿易に移行して行われたのだが、銀は大
 量に流出するという状態となった。
  幕府は、禁止していた金の輸出を、1664年に、許可し
 たりしたが、この金の流出も急増し、日本の輸出の半分
 が金という状態となった。
  幕府は、この年の1668年に、銀輸出禁止令を出し、輸
 出入の品目を制限した。
  日本は、ただ、しゃぶられるだけの国ではなかった。
  政府がしっかりと令を出し、国の叡智が、国益の維持・
 確保に頭を使っていた。
  節操なく、自分さえよければ良いのだと、無制限にし
 ゃぶり続けるヨーロッパの集団と対峙していた。
  可哀想なのはインド・インドネシアなどだった、
  巨利を得たいのだのイギリス・オランダ・フランスな
 どが暗躍していた。
  この後・1715年に、日本は、海舶互市新例(正徳長崎
 新令)を再び定めて貿易量を制限している(大幅な輸入
 超過で、金銀流出が過大だったため、国内流通量も減り、
 経済・景気を圧迫したからだった)。
  イギリスは、中国との貿易の時、イギリスの銀の支払
 いが過大になったので、中国へアヘンと言う麻薬を売り
 込んだ。
  そして、銀の支払いを押さえた。
  この様な卑劣な汚いことをした。
  アヘン戦争となった。
1668年、教育:足利学校
  足利学校大成殿が造営され、日本最古の孔子廟となっ
 ている。
  中国の明代の聖廟を模したものと伝えられている。
1668年、教育:郷学閑谷学校(しずたにがっこう)
  岡山藩主・池田光政が、郷学閑谷学校を開設した。
  郷学(ごうがく)とは、教育機関の一つで、藩校に準
 じた藩士の子弟を対象としたものと、庶民を対象とした
 ものとの2種があった。
  庶民まで分け隔てなく、教育に心配りした日本の教育
 だった。
1668年、経済政策:寛永通宝
  寛永通宝が、以前より大量に鋳造され、流通させた。
  この事によって、銭貨の流通は平静円滑になった。
  経済の回転、景気の回復。
1668年、諸国の特産物・津留および枡を調査する。
  津留(つどめ)は、領主が自領内の港・関所での物資
 の移出入を禁止または制限したこと。
  港で行ったのでこの名がある。
1668年、検地:この年前後、関東幕領の総検地を行なう(
 寛文の総検地)
1668年、江戸大火のその後
  大火のための復興費用と、幕領の金銀の採掘量が減少
 した事が相まって、幕府の財政の窮乏は深刻化した。
1668年、農業:綿花栽培
  近畿・東海地方で、綿花の栽培が隆盛に向かい、灯火
 (とうか)用の油では綿実油と菜種油との競争が激化し
 た。
1668年、農業:金肥(きんぴ/かねごえ、購入肥料)
  金肥として油粕・干鰯の使用も盛んになる。
1668年、処罰:殉死したので減封
  宇都宮城主の奥平忠昌が没し、家臣の杉浦右衛門兵衛
 が禁制を破り殉死した。
  そのため、幕府は、忠昌の子の昌能を2万石減封の上、
 山形に移封し、また、杉浦の2子を斬罪に処した。
  これ以後、殉死の風習は激減した。
1668年、処罰:苛政なので改易
  政治に熱心でない島原城主の高力高長(こうりきたか
 なが)が、領民の訴えで苛政を理由に改易された。
  その後、嫡男は下総国の匝瑳郡(そうさぐん)を与え
 られ、家督を継ぎ、子孫は旗本として存続した。
1668年、第三次英蘭戦争へ続く事態が起きた。
  初め、フランスのオランダへの侵略の意図が明らかに
 なると、
  オランダの指導者ヨハン・デ・ウィットは、1668年に、
 英仏蘭の間で三国同盟(1668年)を結んだ。
  しかし、フランスのルイ14世は、オランダの妨害を根
 に持つと、絶世の美女ルイーズ・ケルアイユをイギリス
 のチャールズ2世へ与えて籠絡した。
  そして、イギリスを味方につけた。
  チャールズ2世は、フランスのルイ14世と「ドーバーの
 密約」を結んだ。
  するとこの密約がばれ、発覚し、三国同盟が破綻した。
  すると、1672年に、フランスとスウェーデンの軍事同
 盟(仏瑞同盟)が結ばれた。
  そして、その年1672年に、フランス軍はオランダに侵
 攻した。
  フランスは、オランダの国土の大部分を占領した。
  オランダ側は、堤防を決壊してオランダを水浸しにし
 た。
  この事によって、フランス軍によるアムステルダム占
 領を防ぐことはできた。
  オランダは、オーストリアとスペインと同盟を結んで
 フランスを包囲した。
  フランス軍は撤退した。
..
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